書評・中野 翠『会いたかった人』(徳間書店)
中野翠ってもっと若いんだと思ってた、と言う人がよくいる。ひとまずごもっともな感想ではある。
雑誌編集者的世界観からすれば「女性コラムニスト」とひとくくりにされがちなもの書きたちの中で、仕事だけで判断すれば中野翠は三十代の書き手だと思われても不思議のないところが確かにある。「自分」の感覚や印象や価値観、もっとはっきり言えば“好き嫌い”から出発してものを書く。それは「社会」だの「世界」だの「地球」だの、手に合わない大きな舞台をいきなり設定してものを言い続けるあまり「自分」が何者かもわからなくなりがちだったそれまでのもの書きたちの性癖からすればまるで外道。なるほど、その意味では八〇年代に大量発生した若手コラムニストたちなどと共通する匂いはある。
だが、その後あっという間に淘汰されていった若手コラムニストのひと山いくらたちと中野翠との決定的な違いがある。「自分」の“好き嫌い”に忠実であることは同じでも、彼女はその“好き嫌い”を甘やかしたままでなく、そこにどこまで同時代的な普遍性を与えてゆけるかを懸命に考え、ものを書く身の表芸にまで練り上げて勝負しようとする、敢えて面倒な言い方をすればそういう微妙な責任感とその上に立った方法的意志を明確に持った書き手だったことだ。“年の功”である。
『サンサーラ』という、これまでの彼女からすればかなり筋違いのはずのお座敷で妙な連載を始めたのを見た時、ははあ、いよいよその“年の功”の部分が疼き出したのかな、と思った。実際に会うことができなかったけれども会ってみたかった人たちについて気ままに書きつづってゆく。連載中はよく見えなかったのだが、しかしこうして一冊にまとまってみると、これは基本的に中野翠という人の読書記録であり、そのような手続きをくぐりながらの「自分」についての省察録であることがわかる。単なる奇人変人伝ではない。
とりあげられたのは都合二九人。ジョージ・オーウェルから始まり、ココ・シャネル、樋口一葉、古今亭志ん生、エルザ・スキャパレリ、今和次郎、ダイアン・アーバス、福地桜痴、福田恆存、三田平凡寺、内田魯庵、徳川夢声……そして最後に自分の父方の曽祖母だったという中野みわがあしらわれる。人選に特に一貫性はないけれども、それでもやはり、中野翠という「自分」がなぜこういう人たちを「他人じゃないっ!」と思ってしまったのかは、読み進むうち、紙の向う側からある気分としてしんしんと伝わってくる。
「ひじょうにずうずうしいのだが、私には「会えば、わかる」「一目見ればわかる」という乱暴な自信がある(時どき失敗するが、いっこうにめげないのだ)。」
“顔面至上主義”という、同じく磐石の方法的意志を備えた書き手であるナンシー関画伯の連載コラムのタイトルがあったけれども、そのデンでいくとこれは“一瞥至上主義”。そこまで印象や直観に「自分」の根拠を置く意志から眺め直した「歴史」の風景だ。それは「会って見たかった。思った通りの人かどうか確かめてみたかった」という、いずれ身を灼くような遠近法を獲得する。歴史に限らず、人と社会にまつわる今の文科系の学問に最も欠乏している滋養。これをただのノスタルジーとだけ読むのはあまりに貧しい。
どこから読んでもいいが、さすがに他人でない分、最後の中野みわの一編が図抜けていい。安政六年生まれの下総関宿藩士の娘で、佐幕派で上野の戦争にも参加した父親の有為転変に伴って数奇な生をたどった女性。「話の面白い、好奇心の強い人で、家事は苦手で、つくろいものなどはおじいさんの方が器用にやっていた」。好き勝手な「自分」と思ってきたわが身の中に旧幕臣系の教養の系譜が脈々と流れているのかも知れない「歴史」を発見し、立ち止まるあたりが今回一番のヤマ。よくできた芝居の幕切れの味だ。
岡崎京子の「受難」
「そう言えば、岡崎京子どうしちゃったんだろうね」
今どきの東京の女子高生にしてはおとなしめな制服の着こなしをしたふたりが、とある書店のマンガ売場でこんな会話を交わしていた。
九州などではどんな状況なのか知らないけれども、東京の主な大型書店では「がんばれ、岡崎京子」の貼り紙がされ、一角でささやかなブックフェアが行われたりしている。特ににぎわっているわけでもなさそうだけれども、それら書店の仕入れ担当などにもう確実にいるはずの三十代のマンガ読みたちの心意気がちらりと見えて感慨深い。*1
もうひと月以上前のこと、岡崎京子が交通事故で瀕死の重傷というニュースは、この国の若い世代に静かに衝撃を伝えた。メディアとしてはストレートな報道が少々出ただけで、その後は全くと言っていいほど記事にされていないけれども、彼女がこの先マンガを描けなくなることは、たとえば大江健三郎がくたばっちまうことなどよりも、この国の文化総体のこれから先にとっておそらくよほど大きな意味がある。もっとも、そんな“文化の総体”などもう誰も見通せなくなってしまって久しいけれども、しかし、ある意味でそれほどの力をすでに宿していた表現が未だに十全に言葉で語られないままだということは、前提としてはマンガに対する批評の怠慢があるにしても、より本質的なところでは、たとえどれだけ市場を獲得し、どれだけ切実な共感を組織し得たとしてもマンガというのはやはりその程度の領分しか認められていないということの雄弁な証明になってもいる。いかにものわかりよくなったように見えても、世間の「たかがマンガ」の壁はかくも高く、厚い。
岡崎京子は、僕にとっては逆縁である。
八〇年代という未曾有のサブカルチュア膨脹期を同時代として生きた体験の切実さをどうとらえるか、が問われ始めた時期がある。多くは当事者体験に開き直り、文化や歴史の連続性から切断された「自分」を手前勝手に夢見てうわついた能書きを並べていた。
だが、いかに華やかに遊び、自由を謳歌し、「好きなこと」に全体重を乗せた生を実現していたように見えたとしても、そこにある普遍性を持った、敢えて大げさに言えば民族の原体験としての質をどこまで与えてゆけるのかについて考えると、やはりこの八〇年代ってのはロクなもんじゃない、はっきり言ってスカだった、と顔あげて宣言するしかなかった。そうやって喧嘩腰で論陣を張り始めた時、最もその八〇年代の恩恵をこうむっていたはずの活字まわりの稼業人たちがほとんどその意味を理解せず、黙殺さえしてゆく中で、筋違いながら敢然と異を唱えてきたのは彼女だった。それもその作品で。
そんであたしは高校卒業するまで
6回家出して6回ともつれもどされた
その間にYMOは散開しディズニーランドは千葉にできて
ローリーアンダーソンがやってきて
松田聖子がケッコンした
ビックリハウスが休刊して「アキラ」が始まった
何となく「どんどん終わってくな」という感じがした
浪人して美大に入って東京で一人ぐらし始めた年に
チェルノブイリとスペースシャトルの事故が起こった
しかしその頃ぶっとい眉したあたしには
「どうしたらうまくたてロールが出来るか?」
とかの方が大問題ではあったのだった
そしてそれから
みんな、口をそろえて
「80年代は何も無かった」ってゆう
何も起こらなかった時代
でもあたしには……
『東京ガールズブラボー』
あっぱれな武者振りだった。身体張って擁護する論理も度胸もなくなっちまったような手合いばかりが活字の世間で横行していた中で、この岡崎京子の気っ風のよさは眼に立った。もちろん、彼女自身はそんな活字の世間のたてひきなどまるで考えてもなかったはずだし、何よりそういう世間を毛嫌いしてきたはずだ。断末魔の『朝日ジャーナル』の隠れた人気連載だったイラストエッセイ「週刊オカザキジャーナル」の単行本化を頑なに拒み続けているというエピソードも、そういう彼女の「立場」を明確に語っている。
だが、この『東京ガールズブラボー』(上下二巻 宝島社)はそのひとつの答えだったのだと思っている。すでに詳細な注釈がつけられないことには背景が理解できない風俗の表層を滑ってゆくようなディテールが瀕出しているけれども、これはそれこそ文学史研究あたりでやるような精細な脚注つきで改めて刊行するべきテキストだと思う。そう、それは五十年先のまだ見ぬ読者、未来の知己に向けてこそ必要なことだ。
岡崎京子の描いてきた世界のモティーフは、しかしデビュー当初からあまり動いていない。家族という幻想がみるみる崩れてゆく中でどれだけ新しい切実な関係を求めてゆけるのか。それは「友だち」であり「恋人」であり、でも、それぞれが「自分」であることは決して譲らないところであり、そのあたりに敢えてとどまろうとする彼女の心意気が八〇年代のあの夏の夕暮れのような熱っぽい空気を吸って育った世代を中心に共感を呼んだ。
“おはなし”の解体だけを真実としてきたかのような八〇年代の中で、しかし確かに「青春」はあった、ということを敢えて“おはなし”に盛りつけて示そうとした数少ない試みだったのかも知れない。実際、一般に思われているであろう印象とは逆に、岡崎京子というのはかなり古典的な“おはなし”の文法を身につけている描き手だと思う。
だが、そんな「青春」もいつか終わる。終わった後の現実にどう耐えてゆくかもまた表現の問題になってくる。事実、三十代に入ってから彼女の描く世界は急速にある“暗さ”を伴ってゆく。
事故に会うわずか前、あるラジオの対談番組で彼女はこんなことを言っていた。
わたしたちの世代はとにかく「個性」だ、「自分」だ、と自己主張することが当たり前でそればかりやってきたように思うけれども、今の若い子たちを見ていると「個性」はそこまでゴリゴリ主張するようなものでもなくなっていて、その代わりに何だか知らないけどまわりからは単なる生きものに近い仲の良さが男の子にも女の子にもあるように思う、そして、これからはもう女の子がヘタに元気になるようなマンガは描かないようにしようと思う……
およそそんな内容だった。対談の相手が浅田彰で例によってロクな返答はしていなかったけれども、この時の彼女の言葉は妙に耳の底に残っている。
確かに、最近の『リバーズエッジ』(宝島社)などはそんな心境に対応しているような作品になっている。街育ちの若い連中のさびしさと切なさとを、しかしそれまでと違う危うさを伴いながら描こうとしていた。結果、ホラー仕立てになる。たとえば、これは大友克洋に描かせたらもっと精緻な恐怖があっただろう。と同時に、もっと突き放して読むことのできる良くも悪くも整った商品になっていただろう。だが、官能の部分にいきなり食い込んでくるようなこの描写は、彼女の描線だからこそ可能だったとも思う。日常には「悪意」が充満しているというあきらめから出発するこの態度には、解体されてゆく現実に最前線で耐えねばならない“街の子”であることの誇りもまた含まれていた。
とすれば、地方都市のリアリティの中で岡崎京子がどのように読まれていたのか。たとえば、くらもちふさこが最近描き始めているような現実と彼女の世界がどのように拮抗していたのか。その部分を手作業で掘り起こしてゆくような仕事もまた求められている。同時代の描き手としては“死んだ”かも知れない彼女が、しかしこれまで確かに描いてきた軌跡に対する生き残った読み手の責任のとり方がこれから先、問われてくるのだと思う。