ギャングスター・ラップの歴史 スクーリー・Dからケンドリック・ラマーまで

序文 イグジビット 2018年4月

(略)俺がギャングスター・ラップに共感をもったのは、俺の魂に語りかけてきたからだ。辛い目に遭ったり、目撃したこと、興味を持ったことに関して、俺が引き寄せられていたこの音楽にはまるで答えがあるかのようだった。

 いま振り返ってみれば、子どもの俺には何もかもがマジで酷い状況だったから、ギャングスター・ラップは俺の人生のサウンドトラックだったんだ。(略)[信心深い両親]はラップ・ミュージックが大嫌いだったから(略)俺は極秘に聴いていたんだ。この音楽は俺の攻撃性や怒りのはけ口で、友達と一緒に新しい音楽を発見するようになっていった。俺にとってドープなことだったんだ。

 アイス・キューブがN.W.Aと決別したときに、俺は本気で彼に夢中だった。彼のリリックや表現方法に惹きつけられた。度胆を抜かれたよ。1990年に彼のファーストアルバム『AmeriKKKa's Most Wanted』が出たとき、インターネットもなければMTVにもアクセスできなかったから、一部始終はおろか、なんでアイス・キューブがN.W.Aと分かれたか知らなかった。彼はソロ・レコードを出したんだと思ってた。でも実際にそのレコードを聴いてみると、それがニガネットだったんだよ。探していた情報がそこで手に入ったんだ。あのアルバムはクレイジーだと思ったよ。クッソ素晴らしいと思ったね。音作りが超ドープで、擦り切れるまで聴きまくった。俺の大好きな制作チーム、ザ・ボム・スクワッドが関わっていた。彼らはパブリック・エナミーと共に難関を突破してきたんだ。もう、「すげぇ」って感じだったね。キューブの表現、声の抑揚。そのすべてに畏敬の念を抱いていたよ。

 キューブはストーリーテラーだった。アルバムでの彼はキマってた。ほかの人たちもストーリーを語ったけど、キューブとは大違いだった。そのストーリーを思い描くことができるんだ。彼が言っていることを思い浮かべるのに、ビデオなんて観る必要はなかった。彼は聴き手の心に浮かぶような絵を描いていたんだ。共感できる内容だったし、サウス・セントラルに興味はあるけど、共感をもてない人たちも、ギリギリまで近づくことができたんだ。

(略)

 子どもの頃にギャングスターラップを聴いていたときは、自分がアーティストになりたいなんて思いもしなかった。いやむしろ、実を言うと、あの頃の俺は建築家になりたかったんだ。建築製図、コンピューターを使った製図をやっていた。俺はそれが得意だったのさ。橋やボートとかを作りたかったんだ。とは言っても、俺は刑務所に行ったから叶わなかったけどな。

 それからカリフォルニアに行って(俺は17か18だった)、ジェームス・ブロードウェイに会ったとき、彼の周りには(略)マッド・キャップ、キング・ティー、ザ・アルカホリックスといったグループがいた。(略)どんなに長くなっても、俺はただラップした。構造はなかった。小節はなかった。ただラップしていたんだ。

(略)

ギャングスター・ラップ以前

 レーガン大統領は学校のカリキュラムを骨抜きにし、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアにはまだ祝日がなかった(略)

クリップスとブラッズのギャングがサウス・セントラルを支配していた。CDプレーヤーの販売が始まり、ディスコは廃れかけ、ギャングスター・ラップが生まれようとしていた。スヌープ・ドッグは11歳、アイス・キューブは13歳で、彼らはそれぞれロングビーチとサウス・セントラルに住んでいた。17歳のドクター・ドレーは、グランドマスター・フラッシュの"The Adventures of Grandmaster Flash on the Wheels of Steel"を聴いた後に、最初のターンテーブルのセットを手に入れた。24歳のアイス・Tは、犯罪に明けくれる暮らしから、ラジオトロンの名でも知られるLA唯一のラップ・クラブ、ラジオ・クラブにラッパーとして出演するようになっていた

 この時点では、ラップのレコードのほとんどが、自慢屋で気立ての良いライムに溢れたパーティソングだった。1979年に、このジャンルで最初の大ヒットとなったシュガーヒル・ギャングの"Rapper's Delight"で、ラップは初めて商業的に大きな一歩を踏み出した。(略)

ラッパーのワンダーマイク、マスター・ジー、ビッグ・バンク・ハンクは、ファッションの好みや女性と近づきたいという欲望、友達の家で標準以下の食品を食べることの居心地の悪さについて、シンプルで陽気なリリックをデリヴァリーした。ラップが流行っていて、それ自体が画期的だったときでさえ、シュガーヒル・ギャングや、カーティス・ブロウやファンキー・フォー・プラス・ワンのような同時期の人たちは、時に機知に富んだ辛らつな言葉をライムしていたが、それらはせいぜい会話形式で単純なものに過ぎなかった。

(略)

 1982年になると、先駆的なブロンクスのヒップホップDJ、グランドマスター・フラッシュと彼のラップ・クルー、ザ・フューリアス・ファイヴも共にやってきた。グループの革新的な曲"The Message"と共に、ラッパーのメリー・メルは、多くのラップ・コミュニティの仲間が故郷と呼んだ荒廃した地元を描写した。「そこらじゅうに壊れたガラス(略)人は階段で小便してる、気にしちゃいないのさ」

 "The Message"は、アメリカの多くの黒人が経験していた現実を深く伝えた暗く憂鬱な曲であり、そのときのラッパーのほとんどがリリースしていた陽気な音楽とは、まったく対照的だった。

 多くのラップ・ファンにとって、レコードで冒涜的な言葉を聴いたのは、これが初めてだった。"The Message"の混沌とした結末で(略)ある警察官(または警察官になりすました誰か)が「クソ車ん中に入りやがれ」とうっかり口走ったとき(略)未来のギャングスター・ラッパー、若かりし頃のジェイヨ・フェロニーは圧倒された。それらのリリックは、今日のラッパーが使う言葉に比べれば非常におとなしいが、1982年には衝撃的だった。

(略)

ジェイヨ・フェロニーやラップを買うオーディエンスの心に、新しく強烈なやり方で響いた。アメリカの黒人の激しい怒り、カオス、どうすることもできない感情が、初めてラップ・ソングの中で披露されたのだ。

スクーリー・D

 その後1984年に、ギャングスター・ラップの祖先、スクーリー・Dが状況を覆してしまった。(略)この先駆的なフィラデルフィアのラッパーは、"Gangster Boogie"というレコードを作り、脅すように恐怖を植えつける人物を演じ、メリー・メルが説明した劣悪な環境のゲットーに住む人たちに対する犯罪を聴き手の記憶にとどめた。スクーリー・Dはその曲をレコードにプレスして、当時全米で最も影響力のあるラップラジオ番組のひとつだった、フィラデルフィアのパワー99で放送されていた「Street Beat」という番組のラジオDJ、レディ・Bのところにもち込んだ。

 レディ・Bはスクーリー・Dに率直に言った。彼と契約したり、彼のレコードを流通したがるレコード会社はいない、と。その理由とは?彼はクサと銃についてラップしていたからだ。とはいえ、スクーリー・Dは自身の音楽が不快だとは思っていなかった。

 「俺はアーティスト然としていただけだ(略)俺は土曜日の夜にラジオでコメディの伝説、リチャード・プライヤー(略)を聴いて育ったんだ。土曜日の深夜に、DJが彼のアルバム『That Nigger's Crazy』をかけていた。俺たちは特になんとも思わなかった。アートだったのさ。俺たちにとっちゃ、それはアートだったんだ。あんたたち部外者にとっちゃ、『こういう声は止めなければならない』って感じだった。でも仲間たちは聴いてたのさ。(略)

今なら言ってやるよ、『お前らがどう思おうと知ったこっちゃねぇ』ってな。(略)俺は仲間たちのためにレコードを作っていたんだ、俺の生活を向上させるためにな。(略)俺は自分のやり方で、俺のストーリーを語りたかった。だからこそ俺は、自分のアートを絶対に変えたくなかったのさ」

 ラジオでは絶対にかけてもらえない、レコード契約を結べないかもしれないという、ハッとするような現実を直視して、スクーリー・Dは自分のレコードをプレス制作するために資金を貯め始めた。彼はファンク・オー・マートやサウンド・オブ・マーケットのようなフィリーの有力な家族経営のレコード屋のバイヤーと繋がった。(略)

 1985年にリリースされた"P.S.K. What Does It Mean?"は、ギャングスター・ラップ・ソングとみなされた初めての曲(略)

その雷のような自主制作ビートで音楽界中に衝撃を与えた。ほかの多くのラッパーたちとは異なり、スクーリー・Dは音楽を自分で制作、作曲した。彼はジャズやファンクを聴いて育ち、非常に長いギターソロやカ強いホーン・セクションのある曲を高く評価していた。オハイオ・プレイヤーズやジェームス・ブラウン、シカゴ、ビートルズの曲が彼のお気に入りだった。

(略)

 「この曲の目的は単にラップだけじゃなかった(略)音楽が目的でもあったんだ。俺が音楽を書いて、その音楽が俺をリプレゼントするんだから、あの曲を書くのには相当な時間を費やしたよ」

 「8街区分の大きさの教会の会堂に響き渡るようなサウンドだった」とクエストラヴは"P.S.K. What Does It Mean?"について述べた。「あれほどのエコーをさ。それぞれのフレーズの終わりのトップの部分にドラムをオフビートで入れ続けるやり方には、さらにうっとりしたよ」

 「彼らが使ったドラムは画期的だったよ」と(略)テック・ナインは言った。「あんな曲を聴いたのは初めてだったんだ」

 "P.S.K. What Does It Mean?"の影響は何年も響き渡った。それはラップの歴史上、最もサンプリングされ、参考にされた曲のひとつとなった。音質的には薄っぺらなこの曲は、ゴールドやプラチナを取ることもなければ、それを着服したアーティストに頻繁に引き合いに出されることもないが、何世代ものアーティストたちに影響を与えた、ジャンルを変えた芸術作品なのだ。

(略)

スクーリー・Dが属していたギャング、パーク・サイド・キラーズの頭文字、P.S.K.(略)スクーリー・Dは、曲の中でギャングであることについてラップしたことはなかったが、ギャングのメンバーであることをリプレゼントして誇示しているという評判がラップ界に広まり、この曲にいっそうの神秘や好奇心、脅威をもたらした。

 「俺は『じゃあ、これはちょっとしたギャングのアンセムみたいなもんだな』と思ったね」とアイス・T

(略)

N.W.A『Straight Outta Compton』

 「80年代に育った子どもたちには、父親的存在がいたことがなかったんだ」とケンドック・ラマーは言った。「俺の地元のホームボーイのうち、人生で親父がいたのは俺だけだった。彼は完璧じゃなかった。まだストリートにいたけど、俺が頭をぶつけしたときは、いつもそこにいてすぐに俺を引き戻してくれた。ほかのキッズたちにはそれがなかったから、ストリートに出て行って見つける父親代わりは、ブロックにいるビッグホーミーたちだったのさ」

 こうした"父親のいない"子どもたちは多くの場合、スポーツやギャング、犯罪を通してストリートに頼るか、または新たに出現してくれたヒップホップ・カルチャー、ラップ・ミュージックのおかげで家族を見つけた。

(略)

ギャングスター・ラップは音楽業界で勢いを増していたが、過半数の作品をリリースしていたのも、ロサンゼルス、シカゴ、ヒューストンなどの大都市圏で、アルバムやコンサートのチケットを最も多く売り上げていたのもエンパイア・ステートのアーティストだったため、ラップは依然ニューヨークが中心のムーブメントのままだった。アイスTはこの傾向に逆らい、彼の2枚目のゴールドアルバム『Power』を1988年にリリースした。

 同じ年に、カリフォルニア州オークランドのラッパー、トゥー・ショートはプラチナアルバム『Life Is... Too Short』で、ストリートのピンプと売春の世界を露骨な性的表現で考察し、カリフォルニア州コンプトンのラッパー、キング・ティーはBボーイの感覚とギャングスターの精神を『Act a Fool』で融合

(略)

[しかし音楽史の転換点となったのは]

N.W.A『Straight Outta Compton』

(略)

 ちょうどワールド・クラス・レッキン・クルーが創作上の意見の相違をぶつけていたときに、80年代半ばに9万人未満が住んでいたコンプトンのちっぽけな音楽シーンでドクター・ドレーとイージー・Eは友達になった。グループのリーダー、アロンゾ・ウィリアムズは(略)エレクトロダンス・シーンに忠実であり続けたかった。ウィリアムズはまた、一連の軽犯罪からドクター・ドレーを保釈するのに嫌気がさしていたため、次にドクター・ドレーが獄中から誰かに出してもらう必要が生じたとき、彼はイージー・Eに電話をかけた。常にビジネスマンであったイージー・Eは(略)ドレーに何曲か制作する助けになってもらうことで、彼の気前の良さに報いてほしいと思っていた。

 ウィリアムズが仕事関係において、そして個人的にもドクター・ドレーを追い払ったのと時を同じくして、ストリートでラップの人気が急上昇した。N.W.Aのメンバーと周囲のアクトが共作をし始めると、イージー・Eは(略)音楽業界の熟練マネージャー兼プロモーターのジェリー・ヘラーに会ってほしいと、ウィリアムズにせがみためた。イージー・Eは、自分に欠けていた音楽ビジネスの知識を提供してくれたヘラーと会わせるために、ウィリアムズに750ドル支払った。

映画『スカーフェイス

 『スカーフェイス』は、ほかのどの映画よりもラップに影響を与えてきたかもしれない。アル・パチーノ主演の1983年の同作は、下級のドラッグの売人から親玉の地位へ出世するキューバからの移民トニー・モンタナの軌跡をたどる。モンタナの権力の座への就任、倫理感、世知にたけた印象的な台詞はラッパーたちの心に訴え、彼らは主人公の希望、夢、野心、苦闘に自分を重ね合わせることができた。ザ・ゲトー・ボーイズやスカーフェイスなどのアルバムは、『スカーフェイス』のテーマ曲や映画音楽をふんだんに使い、いくつものモンタナのキャッチフレーズ(「これがご挨拶だ[(略)この台詞と共にモンタナが敵に向かってロケットランチャーを撃ち込む]」や「俺にあるのはタマと約束だけだ。絶対に破りやしないぜ」)を、曲やコーラスに取り入れて有名にした。

ドクター・ドレー『The Chronic』

デス・ロウ・レコーズを相手取って申し立てていた訴訟での合意の一端として、イージー・Eはドクター・ドレーの来たるべきレコード販売から支払いを受けることになっており、その事実はドクター・ドレーの離脱によるイージー・Eの痛手をほんの少し和らげた。「俺はドレーと独占的なプロデューサー、独占的なアーティストとして契約を交わしたんだ(略)だからドレーがインタースコープと契約を交わそうとしたとき、俺は次の6年間その中に含まれていたんだ」

 イージー・Eのビジネス感覚が再び発揮され、彼はドクター・ドレーのデビューアルバム『The Chronic』の売上の一部として、たっぷり報酬を受け取った。1992年12月15日にリリースされた『The Chronic』は、1年で300万枚以上も売り上げ、芸術上の画期的な事件、かつ商業面では圧倒的な破壊力となった。それはまた、ラップ全体の、特にギャングスター・ラップのサウンドと方向性を変えてしまった。

 『The Chronic』より前のギャングスター・ラップ(略)は、攻撃性、騒々しさ、怒りの組み合わせが典型的だった。

 『The Chronic』は、ファンクにインスピレーションを受けた音作りでラップのサウンドを変えた。EPMD、イージー・E、N.W.A、アイス・キューブ、MCブリードなども(略)ファンク音楽を使ったが、彼らは力強い拍手の音や、攻撃的なシンセサイザー、ヘヴィーで泥臭いベースを音のパレットの基盤として使用した。一方ドクター・ドレーは(略)耳障りな感じを抑え、平均的消費者がより聴きやすいものに入れ替えた。ゴツゴツしたそのほかのギャングスター・ラップとは異なり、『The Chronic』の重要な何曲かはスムーズで、ほとんど誘いかけているかのようだった。

 同様に、ドクター・ドレーのしわがれ声、N.W.Aの作品の多くで彼が自信たっぷりに見せつけた威嚇的なデリヴァリーを、たくましさと力強さはそのままに、それほど攻撃的ではないデリヴァリーに交換した。『The Chronic』の15曲の半分以上に参加したスヌープ・ドギー・ドッグは、"Deep Cover"で見せた不安が消えた、絹のようなスタイルでラップした。

(略)

ゲットーにおけるストリートの脅威から脱線して(略)夏のバーベキューの幸せな気分にさせる雰囲気と交換した(略)

 新しいサウンドは(略)非常に魅惑的で、すぐさま音の境界線として認識された。

(略)

[チャック・D談]

「ドレーは"'G' Thang"でジャンル全体の速度を落とした。彼はヒップホップをクラックの時代からクサの時代へともっていったんだ」

 強力なクサを意味する『The Chronic』のタイトルから、ドクター・ドレーによるリスナーへの「ジョイントを吹かせ、でもムセんなよ」という要請まで、マリファナへの言及はこのアルバムの重要な部分であった。

(略)

 ドクター・ドレーは"Let Me Ride"でもうひとつ重要な立場を取った。

(略)

ニューヨークで顕著だった、政治に関心のある社会意識の高い 「コンシャス」 ラップに対抗した。

 

 メダリオンドレッドロックも黒い拳もなし/ギャングスタの睨みがあれば十分/ギャングスタ・ラップと一緒にな/そのギャングスタ・シットが大金を稼ぐのさ

 

 その時代のコンシャスラッパーは、アフリカのイメージを特徴としたメダリオンを付けていた。先祖のルーツへの賛同としてドレッドロックを誇示した者もいれば、1968年のオリンピックで黒人スポーツ選手のトミー・スミスとジョン・カルロスが行ったブラックパワーの称賛に敬意を表して、ビデオや写真で拳を掲げた者もいた。 "Let Me Ride" でドクター・ドレーは、 社会的、政治的課題を推進するのではなく、ギャングスタリズムを支持していることをリスナーに知らしめた。(略)

ドクター・ドレーの主眼は、クサや女性、競争相手を打ち負かすことだった。 

ブラッズとクリップス

1988年には映画『カラーズ 天使の消えた街』が、70年代から80年代にかけてロサンゼルスの黒人の都市生活を支配していた地元のふたつのギャング集団、ブラッズとクリップスの出現を紹介した。最初に出現したクリップスは、青いバンダナをつけていた初期メンバーを称える意味も込めて、青を身につけて70年代に名を上げた。数年後に生まれたブラッズは、メンバーがクリップスから身を守る手段として結成された。ブラッズが選んだ象徴的な色は赤だった。

(略)

公の場では、いまだにギャング自身とアーティストのあいだには隔たりがあった。アイス・T、キング・ティー、N.W.Aのメンバー(略)はクリップスの地元の出身だったが、ギャングの特徴となる青の服やバンダナを身につけている者は誰もいなかった。(略)アルバムカバーやビデオ、宣伝用写真で黒を身につけていた。

 実際に、ロサンゼルスのストリートラッパーたちの第一波は、80年代から90年代初期にかけて、外見的には特定のギャングとの関わりを音楽にもち込まないようにしており、大部分はイメージ的に中立の立場に留まった。それは身の安全とビジネスの両方に根ざした意識的な決断だった。

 「もし青を着たら、クリップスだけを惹きつけることになる」と(略)MCエイトは言った。「それじゃブラッズはお前の音楽を買いやしない。年がら年中赤を着てりゃ、クリップスはお前の音楽を買いやしない。(略)黒を着るのは中立的だから、お前がいるところには、ブラッズもクリップスもいられるし、ハスラーズもいられて、彼らにとってお前はどちら側にもついていないことになる」

 「N.W.Aに関しては、イージー・Eがクリップだったことは誰もが知っていた(略)MCレンがクリップだったこともみんなが知っていた。人はドクター・ドレーの出身地を知っていたし、アイス・キューブが出身地に住んでたことを知っていた。黒を着ることで俺たちは中立でいられたんだ。だから俺たちは全域がブラッドの地元でショウをやらきゃいけないときは、マジで大勢のヤツの癇に障らないようにしていたのさ。(略)

俺は絶対にレコードで『俺はクリップだ』って言ったり、ビデオに出て青いバンダナをつけたりはしない。青い帽子とかは被ったかもしれないが、中立的でいようとした。ツアーに行くときはしょっちゅう、黒のTシャツに黒のジーンズ、黒の靴、黒のレイダースの帽子になる。黒、黒、黒。グレー、グレー、グレーだ。中立的でいようとするもんなんだ、どこに行くことになるか分からないからな。(略)」

アバヴ・ザ・ロウ

(略)ルースレス・レコーズの最盛期にイージー・Eは(略)アバヴ・ザ・ロウとの契約を交わした。(略)

作品の多くに政治的な暗示を加え、正真正銘のギャングスターになるより、ハスラー、プレイヤー、ピンプになることに重点を置いた。(略)

多くの同輩たちに比べて、より慎重で安定したデリヴァリーを選んだ。

(略)

「 彼らはまるで聴き手に話しかけているかのようなレベルまで、すっかり速度を落としたんだ」とヤックマウスは言った。「車の中で聴いていると、まるで会話をしているかのようだった。音楽に体を揺らしながら、『このバカ野郎、俺に話しかけてんのか?』ってくらいにな。そんな風に感じたし、胸をグサッと突いたんだよ。理解できたし、コイツが何を言ってるか理解するのに1000回聴かなくちゃいけないってほど巧妙ってわけじゃない。単刀直入だったんだ」

 しかしアバヴ・ザ・ロウが最も絶大な影響を与えたのは、音質面だった。

(略)

 アバヴ・ザ・ロウが1990年に現れたとき、プロデューサーのコールド187umは、クインシー・ジョーンズアイザック・ヘイズのように、その時点ではラップにとって型破りだった音楽ネタからサンプルを取り入れた。翌年コールド187umは、次の数年間のギャングスターラップを形作ることになるサウンドを開発した。(略)

[91年EP『Vocally Pimpin'』]

9曲入りのこのプロジェクトでは(略)"One Nation Under a Groove"から拝借したシングル"4 the Funk of It"が中心となった。(略)

 コールド187umは(略)セカンド・アルバム『Black Mafia Life』で、ファンクの貯蔵庫をより深く掘り下げた。

(略)

ラップでは、革新的なものを創り出したり、インスピレーションを与えた人よりも、商業的に人気を上げるものを作った人の方が崇拝されるため、ドクター・ドレーとスヌープ・ドッグの人気は、アバヴ・ザ・ロウのもたらした革新性の影を薄くしてしまったかもしれない。

 「彼らがGファンクの創始者だ」とヤックマウスはアバヴ・ザ・ロウについて言った。「(略)アバヴ・ザ・ロウが出てきてスピードを落としたんだ。グルーヴィーだったね。ベイエリア出身の俺たちにしてみれば、大勢のピンプに大勢のピンプに大勢のハスラーがいるから、スピードを落とした、モブとかグルーヴィーなヤツが好きで、だからアバヴ・ザ・ロウが好きだったのさ。ファンキーだったね」

 アバヴ・ザ・ロウがGファンクを創った後、それをドクター・ドレーが世に広め、スヌープ・ドッグ命名した。

マスター・Pとノーリミット・レコーズ

1995年2月、当時プライオリティ・レコーズの営業担当だったデイヴ・ウェイナーは、ミュージック・ピープルズ・ワンストップを訪れるために、 カリフォルニア州オークランドへ出張に出掛けた。当時、ワンストップ[訳注:1ヶ所でなんでも買えるサービス]として知られていたミュージック・ピープルズは、レコード会社からアルバムとシングルをレコード、CD、カセットで買い付け(略)各地のインデペンデントのレコード屋に売っていた。

 1991年にプライオリティ・レコーズの郵便仕分け室の仕事から始めて、 販売部で地道に働いていたウェイナーは、プライオリティのプロジェクト、具体的に言うとN.W.Aやアイス・キューブなどの主力商品をミュージック・ピープルズに売るための出張に出掛けていた。

(略)

ミュージック・ピープルズの駐車場で(略)ある新進アーティストが彼に近づいてきた。その人物はパーシー・ロバート・ミラー、 別名マスター・Pだった。 ウェイナーは(略)マスターPのことも(略)駆け出しのノーリミット・レコーズのこともよく知っていた。

 マスター・Pは彼のプロジェクト『99 Ways to Die』 のコピーをウェイナーに渡し、翌週のビルボードチャートでどこにチャートインするかを伝えた。Pの自信とビジネスの知識に関心したウェイナーは、『99 Ways to Die』 のコピーと一緒にそのラッパー/ビジネスマンの情報を持ち帰った。

 翌週、マスター・P の 『99 Ways to Die』はPの予測よりひとつ低い順位でデビューした。「彼がなんの援助もなくそれを成し遂げた事実にぶっ飛んだね」(略)

ウェイナーにあるアイディアが浮かんだ。 そのアイディアはひとたび実行されると、 音楽業界に大改革をもたらし、 プライオリティ・レコーズはラップ業界の大物、 N.W.Aやアイス・キューブで稼いだよりもさらに大金をもたらした。

 ウェイナーのアイディアは、ノーリミット・レコーズを手始めに、CEMA (キャピタル・レコーズ、EMIレコーズ、マンハッタン・レコーズ、エンジェル・レコーズ)と独自の配給契約を結ぶことによって、ほかのレコード会社の作品をプライオリティ・レコーズから配給させるというものだった。 そのときプライオリティ・レコーズは、ラップ・ミュージックで全米唯一の自己所有のインデペンデント配給業者だった。 プライオリティ・レコーズを始める前は、オーナーのブライアン・ターナーとマーク・セラミはふたりともコンピレーションのレーベル、 K-テルで働いていた。 K-テルにいるあいだ、ターナーはA&Rとして働き、アルバムの音楽の部分をまとめていた。 一方のセラミは販売を担当した。

 業界では、レコード会社からアルバム、シングル、またはEPを受け取った配給業者がそれを大量生産して、小売店に発送するというのが慣例だった。小売店は音楽を受け取ると、配給業者に支払いをし、次に配給業者がレーベルに支払いをしていた。

 この仕事を通して、セラミは全国のあらゆる音楽ビジネスの顧客と強固な関係を築いてきたのだが、プライオリティ・レコーズのプロジェクトをチェーン店のレコード屋やワンストップ、ほかのビジネスに直接売りたかった。結果的にセラミがその手はずを整えたことで、プライオリティ・レコーズは作品を製造して小売店に発送し、小売店はその引き換えとしてプライオリティ・レコーズに商品代金を支払ったのだった。レーベルがあらゆるレコード屋の棚スペースの大部分を牛耳っていたことから考えると、これは大きな資産であり、それはつまり、アルバムの在庫を置いておく不動産には限りがあったということでもあった。

 ビジネスの過程を中抜きすることに加え、プライオリティ・レコーズにはまた、もうひとつの明白な利点があった:その売り掛け金は、製造者/配給業者であるCEMAによって保障されていたのだ。これは、もしプライオリティ・レコーズが1作のアルバムを小売店に10万枚売れば、CEMAが小売店にもつ圧倒的な影響力により、その10万枚のアルバム全額の支払いを受け取ることができるということだった。見返りとして、CEMAは小額の配給手数料を受け取った。この関係がなかったら、プライオリティ・レコーズはおそらく、支払いを受け取るために小売店を追い回し、支払い期限からだいぶ送れて受け取るも、商品製造の割増金を支払わねばならないという、ほかの小規模レーベルのような運命に苦しんでいたことだろう。

 それゆえに、プライオリティ・レコーズは事実上、独自の全国配給業者であり、インデペンデント・レコードレーベルでもあったのだ。ほかのどのレコード会社とも異なり、プライオリティは配給ニーズに柔軟に応えることができたため、アーティストやレーベルと配給契約だけを結ぶことができるように手はずが整えられていた。

 ウェイナーが、マスター・Pのノー・リミットと手を組んで配給を任うアイディアをプライオリティ・レコーズに提案できたのは、このお膳立てがあったためだった。ターナーもセラミもラップシーンの実情を正確に把握している熱心なラップファンではなかったため、プライオリティはすでにそういう業界内部の仕組みに最適な取り決めを実施できるよう作られていた。

「プライオリティ・レコーズは、決してヒップホップ・レーベルになるように設計されていなかった」とウェイナーは言った。「彼らはコンピレーションを扱っていて、それがカリフォルニア・レーズンズに繋がって、さらにそれがN.W.Aを世に出すための資金繰りに繋がったんだ」

(略)

 セラミはウェイナーの構想を理解し、マスター・Pとノーリミット・レコーズと画期的な契約を結ぶことに同意した。マスター・Pは25万ドルを手に入れ、彼の作品の原盤権と音楽出版権を100%保持した。プライオリティ・レコーズは、独占的な製造/配給権を手に入れ、ノーリミットの商品を店に置くことを保障する引き換えに、配給手数料を取った。「そうしたチャンスの対価として、所有権の分け前を取ることなく全国的な配給契約を提供していたレコード会社は存在しなかった」と、プライオリティ・レコーズがマスター・Pのノー・リミット・レコーズと契約したときに、プライオリティが流通していたレーベルに新設された重役に就いたウェイナーは言った。「彼は前払い金を手に入れ、俺たちは出版も原盤も所有せず配給手数料だけを取るっていうのは、今までに類を見ない契約だった。単純だろ」

(略)

 今や全国に手が届くプライオリティ・レコーズと投資金が増えたおかげで、ノー・リミットは新たなファンを獲得し、雑誌やテレビ、ラジオでの露出も増え始めた。

(略)

マスター・Pはすでに西海岸と南部にファン層を抱えていた。ひとたびノー・リミット・レコーズの音楽に人気が出始めると、この地理的な恩恵は、彼がスターの座へ駆け上がる助けとなった。

(略)

 のちにノー・リミット・レコーズの慣行となったように、マスター・Pはレコード屋を彼のレーベルの作品で溢れさせた。

(略)

プライオリティ・レコーズのユニークな位置づけが、その持続的成功にとって極めて重要である理由のひとつだった。

 「(小売店の)顧客はラップ・ミュージックをどう扱っていいかよく知らなかったんだ、特にチェーン店はね」とウェイナーは言った。「だから自社の営業社員をそこに派遣して、ウエストサイド・コネクションとはなんなのか説明し、ノーリミットとはなんなのか説明し、なぜシルク・ザ・ショッカーを20万枚発送する必要があるのか説明することが、とても重要だった。俺たちが取り組んでいることを理解していない大手レーベルの営業担当を通していたら、あんな風にはならなかっただろう。ヒップホップの売り方を知っている営業マン、それがパズルの重要な一部だったんだ」

(略)

マスター・Pとノーリミットの面々が使う南部のスラングやアティテュード、大抵はけばけばしいアルバムカバー、そしてアル・イートンやK・ルーなどのサンフランシスコ・ベイエリアのプロデューサーが奏でるキーボード、ファンク、 Gファンクの組み合わせは、 ギャングスター・ラップに新たなひとひねりを加えた。(略)明らかに西海岸っぽいサウンドに南部の感覚を混ぜ合わせていた。 ゲットーで育つこと、ハッスルする[訳注:あらゆる手段を使って必死に金を稼ぐこと]こと、いかなる手段を取ろうともゲットーから抜け出そうとすることについて、暴力的で淫らな言葉に満ちた、しわがれ声のライムの(略)組み合わせには中毒性があることが証明された。

(略)

業界のベテランは彼の勢いに気づき始めた。

「まずストリートを動かすんだ」と(略)MCエイトは言った。「ストリートにお前をリスペクトさせろ。『ああ、俺はドープを売ってたぜ』ってな。だから彼はその方面のヤツらからあんなにリスペクトを得たのさ。 『俺はお前らと一緒に辺から出発したんだ』っていう姿勢でやってきたからな。でも彼はあれだけのカネを手に入れてレコードを売り始めたときに、『単にドープを売ったり、プロジェクトでヤバいハッスルをすることだけがすべてじゃない。観客を動かすことが大事なんだ』って感じで音楽野郎に変わったんだ。だから事態が移行したのさ、スマートだったよ」

 音楽帝国の基盤作りに取り組みながら、マスター・Pはまたほかの分野にも移行していた。1996年の後半に、彼は自分で資金を調達して長編映画デビュー作『I'm bout it』を撮影し始めた。マスター・Pは映画を配給するために、プライオリティ・レコーズに話をもちかけた。

 「彼が映画のコンセプトと一緒に『I'm bout it』の話をもってきたとき、俺たちは誰ひとりとしてどう判断していいか分からなかったんだ」とウェイナーは言った。

 ウェイナーはマスター・Pに、プライオリティはレコード会社だと伝えた。「いや、あんたたちは映画会社になろうとしてるんだよ」とマスター・Pに言われたことをウェイナーは思い起こした。マスター・Pはプライオリティレコーズの営業社員に、彼らからアルバムを買ったタワーレコード、ウェアハウス、ミュージックプラスの同じ担当者たちに働きかけるよう要請した。レコード屋で映画を仕入れる人たちは、アルバムを仕入れる人たちと同じではないと言われても、Pは諦めなかった。

 「彼は全然引き下がらなかった」とウェイナーは言った。「彼は『うーん、それじゃあ、あんたの音楽バイヤーに売ってくれよ』と言ったんだ。いや、それビデオだし。映画だろ。俺たちの音楽バイヤーには売れないよって。でも彼は『やらなきゃだめだ。彼らは俺が誰だか知っている。マスター・Pの価値を知っているんだ』と言ってね。それで俺たちはお互いに顔を見合わせて言ったんだ、『一理あるね。やってみようか』」

 マスター・Pの断固とした主張の結果、プライオリティ・レコーズの営業社員は彼の映画『I'm bout it』を異例な経路(略)を通して売り込んだ。その結果は並外れだった。ウェイナーによると、『I'm bout it』は50万枚以上売り上げたという。(略)

映画『グリンチ』(略)が年末までに140万本売れたということは、マスター・Pの『I'm bout it』は、その何分の一かのコストで、主要ハリウッド俳優たちが作った映画のおよそ3分の1を売り上げたことになる。

(略)

「ハリウッドを迂回して自分の映画を発売し、製作費を回収し、いくらか金を稼ぎ、次の映画を撮ることができるってことをインデペンデント映画制作者に見せたことが、この作品の功績だと思うよ」とウェイナーは言った。「それは、それまで俺たちが通過した経路では前例のないことだったんだ」

 ほかのラッパーたちはすぐにマスター・Pのビジネス手腕の重要性を理解した。「俺たちのことをあまり熱心に追ってないか、マジで何も知らない人たちに対しては、異なる手段で働きかけなくちゃならないんだ」と(略)マック・10は言った。「『I'm bout it』はマスター・Pにたくさんの扉を開いたのさ。誰かがそれを観て、出演者のひとりに大作映画の役を与えるかもしれないし、俺たちのレコードを買っていなかった人たちに、もっとレコードが売れるかもしれないんだ」

 

映画を見るたびにぼくは少年に戻って行く 武市好古

ストリップティーズとW・アレンのティー

 ティーズ(tease)ということばがある。これは、いじめる、悩ます、からかう、ひやかす、なぶる、などの意味が一般的には知られているが、ぼくはこのことばから、どういうわけかすぐ「じらす」という日本語を想像してしまうのだ。

(略)

ぼくにとってのティーズは、ストリップティーズのティーズなのである。(略)

お客をじらしながら裸になってゆく踊りがストリップティーズなのであって、なるほどいまのようにじらし抜きでズバリ御開帳ではストリップとしかいいようがないのだろう。

(略)

 実は、ティーズこそエンタテインメントのコアとなる技術であり、思想でもあるとぼくはつねづね考えているのである。ティーズこそ芸であり、ティーズ抜きのエンタテインメントなんて、チーズのはいっていないチーズバーガーのようなものなのである。一流の芸人や芸の世界のつくり手の仕事には、かならずティーズがはいっている。ヒチコックの映画はその典型で、ぼくにいわしてもらうとヒチコックはシネマティーズの名人なのだ。ビリー・ワイルダーもかなりのティーザーだ。そしてぼくの大好きなウディ・アレンは、ミスター・ティーズマンとでも名付けたいほどの、ティーズの天才である。

(略)

ウディ・アレンティーズは、ヒチコックやワイルダーのようなシネマツルギーに内包された技術としてのティーズとちがって、ことば遊びの中にとじ込められた思想としてのティーズなので、翻訳のプロセスで洗いおとされてしまうこともあってちょっと判りにくいのである。

 英語、いや米語、それもユダヤ的発想のアメリカン・イングリッシュが判れば、ウディ・アレンは最高におもしろいのだ。この意味では彼の著作は、映画よりも判り易いかも知れない。

(略)

誤訳字幕

(略)

 六八年公開の「ダイヤモンド・ジャック」というジョージ・ハミルトンが宝石泥棒になる映画で傑作誤訳があった。

 ザ・ザ・ガボール扮する有閑マダムが、別れた亭主からの長距離電話を受けて話しているうちに「ところであなたはどうして自分の過去の罪をむかえしてばかりいるの」という。(略)斜体の部分が誤訳で、ここは原語では、Reverse charge といっているので、これはコレクトコールつまり受信人払いのことなのだ。どうして私に料金を払わせてばかりいるの、と金持ちの女がケチなことを言っているのがおもしろいのに(さらにこのとき彼女のダイヤモンドが盗まれるのだ)字幕の訳では、つじつまも合わないしおもしろくもなんともない。

(略)

 「スーパーマンⅡ」の冒頭の部分で、新聞記者クラーク・ケント(実はスーパーマン)が編集長に休日をどう過ごしたと問われ「本を読んでいました」と答えるシーンがあるが、カッコの字幕に対して原語では「ディケンズを読んでいました」といっているのだ。ただ本を読んでいたのと、ディケンズを読んでいたのではまるで人物のおもしろさがちがってくる。宇宙の孤児スーパーマンディケンズの、おそらく「ディヴィッド・コパフィールド」か「オリバー・ツイスト」(ともに孤児が主人公の小説)を読んでいたと想像するだけで、この映画がぐんと楽しくなるのだ。事実、このスーパーマンの人間を愛しすぎる優しさが、ドラマの重要なポイントになっているのだから、ディケンズを省略したのはセンスのない訳といわなければならないだろう。アラさがしが本意ではないので提案をひとつ。どうでしょう、字幕翻訳者をもっと自由に選んでみては。たとえば、スーパーマン小野耕世さんに頼むとか、ハードボイルドものは小鷹信光さん、コメディなら片岡義男さん、だが。文芸ものは村上春樹青山南さん。この顔ぶれならポスターに名前を出しても効果があると思うのだが。

スポンタニティということ

(略)

[「駅STATION」]

 高倉健の主人公は、そのまわりの人物がよく描けているからその人たちの存在感という栄養分を充分に吸収して、魅力的な人物たり得ている。(略)

[高倉健が]デビューした時、三白眼のおもしろいやつが出てきたな、と思ったことがある。たしか、沖縄の空手使いの役だったはずだが、これはよくなるぞという予感がピーンときたのを今でもよく覚えている。(略)

石原裕次郎だって、あの太陽族映画でデビューした時、兄貴の七光りだけじゃないものが、スポンティニアス(自然発生的)に伝わってきた。スポンティニアスな魅力がなければ、俳優なんてデクのぼう同然である。うまい、へた、はそのあとである。とりあえず、そんなにうまくなくともスポンタニティさえ持っていれば俳優稼業は立派につづけられるのだ。

(略)

 スポンタニティこそが俳優の存在理由である、とぼくはつねづね書いているが、ごく最近、それについて蘆原英了さんが書かれた文章を見つけ、それがとてもわかり易いので、ちょっと引用してみたい。

 「モーリス・シェヴァリエは、一つの唄を三ヵ月ぐらい準備し振付師によって振りまでつけてもらう。これはイヴ・モンタンも同じことである。両人とも器用でないので、振付師や演出者の手をかりて、アンコールのお辞儀まで稽古する。しかしそれを舞台で見ると、まるで彼等が今そこで自由にやっているように見える。振付師や演出者の手を借りた芸とは、とても見えない。これをフランスではスポンタネテ(偶然性とか自然に内面から湧きでる性質)といって、非常に重要視する。そしてスポンタネテのないものは、ダメだというのである。

 越路吹雪が何度もピアフの同じ舞台を見たために、たいせつなことを発見したことはいいことだった。毎日毎日新たに見える芸が、実は毎日毎日同じ芸だったというわけである。ついでにおまけをつけ加えておけば、越路吹雪もじゅうぶんにスポンタネテを持っている。」

 この文章は、昭和四六年日生劇場で行われた越路吹雪ロングリサイタルのプログラムに掲載されていたものだ。さすがは見識ある評論家だった蘆原さんの文章である。スポンタニティが、フランス語のスポンタネテであり、しかもエンターテイナーの必要条件であると、ハッキリ書いておられるのに感心した。

 実は、スポンタニティをエンタテインメント論で意識的にとりあげたのは、このぼくが最初ではないかといささか己惚れていたので、偶然にこの蘆原さんの文章を発見したときは正直なところショックだった。

 大体、スポンタニティということばをぼくがはじめて見たのは、植草甚一さんの文章だったと思う。昭和三六年頃だったのではないか。映画雑誌のはずだが誌名も、また何について書いた文章だったかも憶えていない。ただ、スポンタニティというカナ文字がやけに印象的に使われていたことだけが頭に残っているのだ。

 「駅」の中でスポンティニアスな演技をしていたのは、電車の中にほんのちょっと出てくる武田鉄矢ひとりである。あとの俳優たちはみんななんだか計算した芝居をして、それがちょっと気になっているのだが……。

ウディ・アレンの素顔をのぞく

 オーストラリアで手に入れたシネマ・ペイパーズという雑誌のバックナンバーに、ウディ・アレン関係の記事があったので紹介してみよう。

 これは、ウディのマネージャーであり、プロデューサーでもあるチャールズ・H・ジョフェにインタビューした記事である。

Qまずふたりがビジネス仲間になったきっかけは?

A私がマイク・ニコルズとエレイン・メイのマネジャーをやっていた頃ですから、およそ二十年ほど前ですが、シャイで小柄なウディにはじめて会いました。当時彼はジョークやコントの作家でしたから、何か書いてもらおうとして会ったわけです。それ以来、ずっと仕事をともにしているのです。

Qその時、現在の彼が想像できたでしょうか?

A才能のひらめきはたしかにありました。それでもその頃の彼は、一所懸命に自分の道を探しているという感じでした。

Q監督しているときの彼は画面の中の彼と同じでしょうか?

Aいいえ、まるで別人です。マジメな顔つきで笑顔ひとつみせてくれません。

Qセットを出たときは?

Aいずれにせよ彼はシャイを絵に書いたような人ですから、知らない人の中ではまるで居心地が悪いのです。友人となら自然にふるまえるのですが。

Q「アニー・ホール」がアカデミー賞をとった時の彼は?

A彼は映画はコンテストではないと考えています。それに大体「スタ・ウォーズ」と「アニー・ホール」はどう考えても比較のできる作品ではないし……。

Qウディ・アレンは観客を頭において作品をつくっているのでしょうか?

Aいいえ、彼は自分のつくりたいものをつくっているだけで、それが観客の気に入ってくれればうれしい、という考えです。もし、俗受けを狙うのなら、セクシーな女優を五人ばかり使ってたっぷりヌードを見せるようなものをつくるでしょうが。

(略)

Qいままでの作品で一番興行成績の悪かったのは?

A「インテリア」と「バナナ」です。それでも赤字になってはいませんし、「インテリア」はある程度それを予想してつくったようなところもあったので。

(略)

シゴニー・ウィーバー

 ウディ・アレンのことを最近ウッディ・アレンと表記するようになったが(略)とんでもない間違いである。WoodがウッドだからYがついてもウッディだろうとお考えなら短絡すぎます。これはむしろウーディなのだが、ウディでいいのだ。(略)

ある雑誌にウディと書いた原稿を渡したのに全部ウッディに直されていた

(略)

スタンリー・カブリック→キューブリックのときもおもしろくなかったが、これはその後の調査によってクブリックが正しいと確信を得たのでぼくはそのように書くようにしている。そういえば植草甚一さんがクブリックと書いていたような気がする。

(略)

 シガニー・ウィーバーは本人がいっているように、シゴニーが正しいのだから、やはりガをゴにすべきである。

 

ワード・オブ・マウス ジャコ・パストリアス 魂の言葉

生い立ち、音楽的バックグラウンド

父親はギリシャ系で(略)ドラマーで歌手なんだ。フランク・シナトラとかトニー・ベネット風のジャズ・シンガーだ。もちろん現在も現役としてやっている。

(略)

僕が7歳になった時、両親は離婚してしまい(略)母と一緒にフロリダに移住することになった。(略)アメリカとキューバが国交を断絶する前だったから、フロリダではキューバの音楽がとても盛んだったんだよ。トリニダッドのカリプソとかスティール・ドラムのバンドなんかもよく聴かれていたね。ラジオでもこの種の音楽がしょっちゅう放送されていた。フロリダではこのほかに、R&Bなんかのブラック・ミュージックも盛んで、僕は11歳か12歳になる頃には、ジェームス・ブラウンとかオーティス・レディングウイルソン・ピケットのファンになっていたよ。一方、父がドラマーだったので、子供の頃からドラムをよく叩いていてね。当然のようにリズムには特に感受性が強かった。だからフロリダで聴いたカリブ諸島の民族的なリズムは、僕のリズム感に大きな影響を与えたんだ。

(略)

ベースは15歳になった春(略)

ジャズを自分で聴き出したのはこの頃からで、母親のベッドの下のほこりにまみれた(略)マックス・ローチの(略)チャーリー・パーカーの曲ばかりを演奏したアルバムだった。もちろん最初、僕はチャーリー・パーカーのことなんて皆目知らなかった。家にあったレコード・プレイヤーがまたひどいもので、ベースの音なんてはっきりとは聴きとれないような安物だった。でも僕は、トランペットとテナー・サックスが吹くメロディを聴きとって、その曲のラインを記憶すると、そのラインがどのコードになっているかをピアノで探り出し、それに番号をつけたりして、ベースで弾き始めたんだよ。自慢じゃないけど僕は記憶力がとても良くてね。その上ベースを弾くにはいい具合に手も大きかったから、上達は早かったと思う。一度弾いたスケールは記憶できたし、いくつものラインをいく通りにも弾いたりして、どんどん覚えていったんだ。こうしてベースを手にしてから間もなく、パーカーの6曲を弾けるようになった。

 実際のところは、ベースを始めて1週間目で僕はもうR&Bのバンドに入って仕事をしたんだ。もともと学校で勉強をするのはあんまり好きではなかったしさ。でも、学校ではいつも成績は優秀だったよ(笑)。高校生の身分で、朝方の4時頃までナイト・クラブで演奏し、2~3時間の睡眠をとって、午前7時頃には学校に出かけるなんてことをよくやってたよ。

影響を受けたベース・プレイヤー

▼では、影響を受けたベーシストと言えば誰?

(略)ジェームス・ジェマーソンジェームス・ブラウンとプレイしていたバーナード・オーダム、アレサ・フランクリンとやっていたジェリー・ジェモットかな。でも、僕が一番インスピレーションを駆り立てられるのは、いつもフランク・シナトラなどのシンガーだった。歌い手というのは、パーソナルな表現に秀でているからね。僕がベースをプレイすると、ほとんどの人が、これは僕だと言い当てることができる。なぜなら僕は、そういうパーソナルなものを自分のベース・トーンに織り込もうとしているからだ。

自由と現実が訪れる街、フロリダ

少年時代のジャコの友人(略)ボブ・ボビング[回想](略)

「(略)ふたりともソウル・バンドでベースを弾いていて、宗教はカトリックで、ハイスクールで建築製図を学んでいた。共通する部分が多かったんだ。また僕たちはホンダのオートバイを持っていたんだよ。赤、白、黒の3種類があったホンダのニューマシンは、ごく普通の少年にとって抗しがたい魅力を放っていてね。今日に至るまで、僕は初めて新しく買った白の"ホンダCB-160"に乗って走り回ったときに勝る経験をしたことはないよ。ジャコもホンダに魅せられ、新聞配達で貯めたお金で黒の"ホンダ・ブラック90"を買ったんだ。ティーンエイジャーにとっては、オートバイに乗ればどこにでも行けるという自由を新しく発見したようなものだったんだ。当時、フォート・ローダーデイル周辺は、白い砂浜と南国的な気候で、美しい冒険の世界という雰囲気を持っていた。まるでこの世の楽園のような場所だったんだ。大きな転換期にあったアメリカという国から完全に隔離されていたよ。変化の時代だった60年代。(略)社会的、政治的な問題は、南フロリダで育っているふたりの少年の頭からは抜け落ちていた(笑)。そんなことよりも、頭のなかは週末のダンスとバンドのリハーサルのことで占められていたよ。ジャコもとても前向きだった。彼は元気に満ちあふれ、楽しく音楽に打ち込んでおり、人生をエンジョイしていた。彼にとってまるでエデンの園のような時代だったと思うよ。僕が当時録音した、ジャコの初期のレコーディングを聴くと、メロディに関する彼ならではのアイディアが無数に散りばめられていて、ファンにはお馴染みの特徴的なプレイの萌芽を随所に発見できる。すでに才能が開花した演奏からは、後年の彼のベスト・プレイにも匹敵するファンク・ラインやソロも聴き取ることができるよ」。

(略)

▼(略)フロリダの良さはどんなところにあると感じている?

 フロリダには本物のリズムがある。それは海のせいだ。カリブの海には何か特別なものがある。そこから来た音楽がみんな本物のリズムを持ってるのは、そのためなんだよ。うまく説明できないけど、僕にはそれがわかるんだ。その場にいると、それが感じとれるんだ。カリブ海の水はほかの海の水とは違っていて、少し冷たい。フロリダでは波もそんなに立たない――ハリケーンがこなければの話だけどね。ハリケーンの時はまたほかのどこよりもすさまじく荒れ狂う。フロリダの音楽もそれと同じで、リズムは洗練されてなくても、ノリがスムーズで、それが知らないうちに聴いてる者を引きずり込んでいく。いつのまにか心が奪われてしまうんだ。

(略)

フロリダは音楽的に偏見がないところが素晴らしい。

(略)

どんな音楽スタイルをプレイしようと、誰も気にしなかったからね。純粋にライヴを楽しむのがフロリダの流儀だ。

(略)

ナイト・クラブでは、どんなスタイルの音楽でもやった。時には楽器も持ちかえたりした。テンプテーションズではキーボードをプレイしたし、フォー・シーズンズの場合はギターを弾いたよ。僕はいろんなことをやることによって楽譜を読むことも練習したんだ。最初にやったステージは、メルバ・ムーアとだったんだが、その時は一応楽譜は読めてたけど、ステージ全体を通してとなるとまだ不十分で、緊張のしっぱなしだった。ピーター・グレイヴスという僕にとっては最高のミュージシャンがいるんだけど、彼は僕のデビュー・アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』にも参加していて、僕の知る限りでは、最高のベース・トロンボーン奏者だと思う。その彼が、僕を作曲家として雇ったことがあったんだ。というのは、彼は僕のことを曲を書くやつとしか思っていなかったんだ。僕は曲を書いていたけど、曲を書くほどうまく楽譜は読めなかったわけ。まあスローだったんだな(笑)。それを知った彼は僕のためにつきっきりになって教えてくれた。そのおかげで彼とのステージで一緒にやった曲はひとつひとつの音まで暗記しちゃったよ。だからコードから何からすべて記憶でやっちゃったくらいだ。そういうことがあって、1年以内に僕自身がビックリするぐらい楽譜には強くなった。そのうちフロリダでの僕の評判は最高になっていたんだ。

(略)

僕は自分の好きな音楽に関しては、一度聴くと忘れなくて、すぐ歌ったりすることができたんだ。特に、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』なんかだと、メンバーのひとりひとりがやっていることがすべて頭の中に入ってしまった。

(略)

[18歳で結婚したから]僕はやれることはなんでもやったさ。(略)音楽を正式に勉強したわけじゃないけど、写譜の仕事をやっているうちに、譜面が読めるようになっていったね。

(略)

▼楽譜は読めたの?

 うん。自分で覚えたよ。あれは簡単さ。譜面をまったく読めない時にショーやギグを頼まれ、金をもらうためには必死で覚える以外に道はないからね。そういう状況に自分を追い込めば一晩で読めるようになるよ。耳に全神経を集中して覚え、あとは試行錯誤だ。僕はそうやって覚えたんだ。

カリブ海の船旅をする、観光クルーズ船の専属バンドに雇われていたこともあるそうだね。

 それはけっこう楽しい経験だった。音楽的にという意味ではないよ。(略)カリブ海のいろんなところに行ったことさ。メキシコに2日間、それからジャマイカバハマ諸島、ハイチといった具合にね。出航して1週間後の土曜日の正午に帰ってくる。そしてまた数時間後に出航、というサイクルのくり返しだった。船が港に着いた時は、よく街に出て通りをぶらついたよ。ウェイラーズのメンバーと親しくなったこともあった。それを辞めたあとは、フロリダでカントリーやソウルのバンドで働いた。アメリカ本土に入ってきて流行り始めたばかりのレゲエなんかもやったよ。残念だったのは、フロリダには誰もそれらを語り、心を許しあえる仲間がいなかったってことだ。ミュージシャンの友人はいたけど、全国的な水準にはほど遠い人たちばかりだった。そういったことを話し合える友達すらあまりいなかった。ニューヨークなんかにあるような、志を同じくした若いミュージシャンのグループもなかった。彼らのやることと言えば、喋ったり、食べたりするだけで、僕にとってはちっともおもしろくなかった。

ロン・カーターフランク・シナトラ

僕がジャズのベース奏者で真剣に耳を傾けたのはロン・カーターひとりだった。(略)

あの頃のマイルス・グループの音楽は、いつ聴いてもいい気持ちになった。そして僕は『ソーサラー』のロンのベース・プレイを聴いて、彼がウォーキングベースで生み出すフィーリングや、マイルス・バンドの音楽が持っている独特のフィーリングの中で、ロンがどういう風にベースを弾いているかといったことを参考にした。僕はベースを弾くけれど、作曲することも大切だと思っているから、レコードを聴く時はベースのラインを聴くだけといったような聴き方はしない。音楽として聴き、作品として聴くんだ。しかも好きなのしか聴かないから楽しみで聴く場合が多いけど、聴けばその作品がどうなっているかが同時にわかるんだ。

(略)

▼ジャズで一番大きな影響を受けたのは、やはりチャーリー・パーカー

 一番とは言わないけれど、大きな影響を受けたのは事実だ。彼は本当に素晴らしいラインをプレイするからね。チャーリー・パーカーのプレイの仕方が僕は大好きなんだ。(略)

フランク・シナトラは最高だね。(略)彼の声域は、僕がプレイする音域とほとんど同じなんだ。バリトン・テナーの音域に近いと思う。僕はその音域でプレイするように心がけている。その音域では、僕は本当に歌えるし、ひとつひとつの音のクオリティに集中することができるんだ。それが難しいところなんだけどね。だから、どんなに速弾きをしている時でも、流れていくひとつひとつの音を考え、そこから最大のものを引き出すように心がけている。

(略)

▼あなたの音楽をフュージョン・ミュージックというファンも多いけど、それに対してはどう?

 フロリダ時代から僕は、今とまったく同じことをやっていた。ジャズとR&Bのコンビネーションをね。僕はレコード会社が騒いでいるバカげたフュージョン・ミュージックなんか好きじゃないよ。僕はジャズとR&Bが好きなんだ。というか、ジャズこそR&Bとも言えるんだ。チャーリー・パーカージェームス・ブラウンとか、僕はそんな人達を聴いて育ってきた。僕の音楽をフュージョン・ミュージックなんて呼ばれるのはイヤだ。まあ、誰が僕のことを何と言おうと関係ないよ。僕はただのミュージシャンであり、ベーシックなベース・プレイヤーなんだ。(略)

リトル・ビーヴァー

 1974年、ジャコは、憧れていたファンクの人気スター、ウィリー"リトル・ビーヴァー"ヘイルのアルバム『パーティ・ダウン』のなかの「アイ・キャン・ディグ・イット・ベイビー」に1曲だけ参加した。(略)

[リトル・ビーヴァー回想]

「俺はミュージシャンにいつも指示を出していた。(略)だけど、ジャコの場合は違った。あいつには何も言う必要はなかったよ。言わなきゃいけなかったのは、"もうちょっと、ゆっくりやれよ"くらいのものだった(笑)。あいつはベースをギターのようなフレーズで弾いていた。だから俺としては、そのプレイを邪魔しないように気をつけていたんだ。本当にファンキーだったよ。聴いたこともない曲でも、あいつにかかっては何の問題もなかった。すごかったのはイントロのプレイだ。ハーモニクスで演奏するんだぜ。それがあいつさ。本当にクレイジーだったよ(笑)。とにかく、白人のガキがこれだけファンキーに弾けるのには驚いたね。きっと、これまでいい音楽を聴いてきたんだろう(笑)」。

パーティー・ダウン

パーティー・ダウン

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カルロス・ガルシア

[ボブ・ボビングのバンドが出演したクラブの対バンの]

カルロス・ガルシアというベース奏者は信じられないほどユニークだった(略)ジャコに話すと、ジャコは早速、翌日にはカルロスを観にクラブにやって来た。それは有意義な、歴史的とも言える夜だった(略)

 最初にジャコが注目したのは、アコースティック360のベース・アンプ。そのアンプは奇妙な形をしていたが、明らかにそれまで聴いてきた中で最高の音を出していた。その上、カルロスの独特のスタイルは大いに目を奪った。ときどき左手でミュートをかけて、新しい次元のパーカッシヴな響きを作り出すというものだ。(略)

「ジャコはカルロスを観て、"あのミュート・スタイルは、絶対に掘り下げてみる価値がある"と言っていたよ。そして演奏が終わると、僕たちはステージにいるカルロスのところに行った。カルロスが、スピーカーはキャビネットのなかで裏側に向いていると話すと、ジャコがひどく興奮していたのを覚えているよ」と、ボブは当時をふり返る。

 その翌日、ジャコとボブは楽器店に行き、アコースティック360を2台注文したという。(略)

ジャコ奏法の確立へ向けて

▼わずか1年の練習で、どうやってこれほどまでに豊かなベースの知識を身につけられるのかな?

 耳をオープンにしておく。それだけさ。僕の音楽知識の大半は、演奏体験を積む中で培われたものだ。

▼プレイを始めた頃は、ピックを使っていたの?

 いや親指が先だ。一ヵ月ぐらい親指だけでプレイして、その後にほかの指も使い始めた。

▼どうやって右手のテクニックを身につけていったのかな?

 右手の練習は一度もやったことがない。自然に弾けるようになったんだ。最初の2本の指(人差指と中指)で弦をはじき、ほかの2本の指はミュートに使った。飛びまわる時は親指もミュートに使ったね。一番難しかったのは、プレイしていないストリングスを鳴らさないことだった。「ドナ・リー」なんかを聴いてもらうと、ノイズを出さないようにプレイしていることに気がつくと思うよ。

▼具体的にベースで行なった練習は?

 何年間もありとあらゆるスケールの練習はした。でも大半は3和音(トライアド)に関することだ。これは今までのベース・プレイヤーが練習してこなかったことだよ。だから僕がまるで新しい何かをプレイしているように聴こえるわけだ。ひょっとしたら、実際にそうなのかもしれない。でも僕はそれが当たり前のことだと思っていたんだ。だって、ピアノ・プレイヤーがウォーミング・アップをする時、あるいはソロなんかをとる時、そんな3和音を駆使してプレイしているじゃないか。でも、それをベースでやるのは至難の業なんだ。3和音を演奏するということがね。3和音を速弾きするのは物理的にものすごく難しいよ。だから3和音スケールをうまく使わないといけない。ドミナント・トライアド、またはメジャー7のトライアドは練習しないとね。全音階スケールであればどれでもいいから、そのスケールの各コード・ナンバーから離れたところでアルペジオをやってみるといい。おそらくこれはベース演奏で最も難しいことのひとつだ

(略)

僕は本当にそれを"オン・ザ・ジョブ・トレーニング"だけで身につけたんだ。振り返ってみると、6年前にウェイン・コクランのバンドを辞めるまで、僕はずっとそれをやり続けてきたけど、そのあとはまったく練習してこなかった。いや、弾き始めた頃、ベースの音がどこにあるかを確かめたことが唯一の練習と言えるかもしれない。音がどこにあるかを覚え、いろんなキーで演奏すること、それだけさ。あとは、ひたすら外で仕事をこなした。ほんと、音がどこにあるかを確かめることは数日もあれば充分だったよ。数学的に考えるだけでいいんだからね。みんなあまりにも音楽的に考えすぎるんだよ。数学の基礎さえ身につけていれば、そこからどんな風にでも応用可能なんだ。

 練習に関して言えば、1972年にウェイン・コクランのもとを去ったあと、1年くらいだったと思うけど、かなり真剣に練習した。1日数時間、どんなに忙しい時でも1時間から4時間は練習に費やした。その時間はものすごく集中してやった。

(略)

いったん僕が集中するとまわりの存在がすべて消えてしまう。それぐらい集中すると、モーター・スキルのようなもので手が勝手に動き出す。(略)

モーター・スキルが得られたあとは、メロディを考え始めてもいい。その時点では、どこにでも自分の思いのままに動くことができるはずだから。(略)

ビ・バップの譜面

[アレックス・ダーキ回想]

「僕のアパートメントには、古いビ・バップ曲の譜面があってね。チャーリー・パーカーの「ドナ・リー」や「コンファメーション」、「デクステリティ」など、とにかく素晴らしい曲がたくさん載っていた譜面集なんだけど、それを部屋に置きっぱなしにしていたんだ。するとジャコは、それに載っている曲を初見で次から次に弾き始めた。とにかく、暇さえあれば弾いていたよ。彼はビ・バップの曲が好きだったんだね。メロディラインが好きだったんだと思う。そこで弾いた曲たちは、彼にとって大いにプラスになったはずだよ。掲載していた曲はほとんど全部、一緒にメロディを演奏した。最終的には譜面なしでも演奏できるまでになったよ」。