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2005-02-28

[]「Spinhumcel」 「Spinhumcel」を含むブックマーク

ココにて公開中。

0:00-2:00 なんなく最近の中では一番元気なカンジ。これを作り出した時、ちょっとハイだったからだろうか。言い訳すると二箇所ばかり次はこーゆー音というイメージがありながら、なにせACID2.0だしMIDIじゃないので残念というか、じゃあ一旦ファイルにしてREASONでやれよという話なのだが面倒くさいのでパス。いや仮にMIDIでやれても音は探せなかったかも。まあそういうわけで繰り返し聴くたび仮想の音が鳴ってるわけだが。

2:00-2:55 つけたしたようにつけたしているが、これも練習というか、それなりに頑張ってはみたのです。結局2分で止めておけば、一週間は早く公開できた。

総括:前半はいいんじゃなかろうか。いいんじゃないの。そう思いたい。

2005-02-27 「放送」以前のラジオをめぐる多様な欲望 このエントリーを含むブックマーク

メディア文化の権力作用 (せりかクリティク)

メディア文化の権力作用 (せりかクリティク)

この中の、山口誠『「放送」以前のラジオをめぐる多様な欲望』だけ読みました。

大正14年、毎月一円の料金を取られるラジオは、放送開始たった一年で、東京・大阪・名古屋放送局の聴取契約合計が25万件となった(当時大阪朝日が百万部)。人気雑誌の『キング』は50銭で実売数30万部。

大衆には人気のラジオを「騒音」とする文学者。井伏鱒二の『ラヂオしぐれ』では

このごろ物々しい抑揚をつけて報道されるニュースをきいてゐると、世情騒然とした感じが強調され不安な気持ちにされてしまふ。ところが同じニュースを新聞で読みなほしてみると、ときによつては落ちついたゆとりのあるニュースであつたことに気がつくこともある。

このような反発・違和感は

活字文化に主体化してきた知識人が、新しく出現した音声メディアの軽薄さや感情へ訴えかける手法を批判し、活字時代の音景を懐かしむことで、自ら習得した思考の権威を担保してくれた旧来の公共性を守ろうとする言説としても読み取れるのだ。

放送開始前に若い皇族がラジオ無線に熱中する様子を新聞が伝えている。ハムだよ。一般国民と皇族が直接会話していた可能性がある。

皇族も下々も同じものを聴いていると「電波の平等性」を強調する記事もある。

「一般民衆」が修養し立身出世して「皇室」の極みに近づくような社会的上昇を前提とした平等イデオロギーではなく、むしろ「皇室」の側が「一般民衆」の声をとらえ、喜びや憂いを「同じうする」ことで達成されるような平等性を想定している。つまりここでいう平等牲の軸足は、「皇室」の側ではなく「民衆」の側に置かれているのだ。

こうしてラジオを聴かない人(文学者etc)も聴く人が「日々実践していくコミュニケーションの様式と集合的なリアリティ」に巻き込まれていく。

さて初期の鉱石ラジオはスピーカーがないわけで当然個的視聴形態だった。これがスピーカーをつけることで家族や集会所での聴取に変化していく。

[ここらへん、言われてみればなるほどであるが、ちょっと驚き。時代が下がって勉強部屋での深夜放送・DJブームという形態に戻るわけだから]

呼び鈴が必要な「集団電話のようなラジオ像」という、既にラジオを枯れたメディアとしか見れない現在からすると、理解不能なラジオ像もあった。

[ここ面白いと思うのだが、うまく言えません。]

堀江社長のような勢いで色々な空想が語られた。ベルリンのアインシュタインの講義を全世界何処でも聴ける、てなものから、テレビ電話、遠隔治療、電力を無線で送受信、交通機関の遠隔操作etc。

逓信省は「一都市一局」という送信側の規制だけでなく、受像機の方も「型式証明」を受けていないものは違法としていた。

許可申請の書類は機能の説明、受信電波の波長、構造図、配線図、それに無線受信機を電気試験所無線局に持参しなければならない。性能はもちろんだが外観がよくないと、「作りなおしてこい」と却下された。

実にアホらしいことをやっているが、じゃあ今の車検制度はどうだと言われりゃ御同様である。素人が自作してもよいのだが、

使用部品や回路はもちろん、配線の方法やべースの寸法に至るまで厳しく規制されていたため、「部品以外でアマチュアが工夫できるのは、部品の配置と木の板くらいだった」という。こうして逓信省は、放送局の開設以前から、受信機の標準化を図っていたのである。

ラジオの方の目論見はあっさり崩れたのだが、なんと恐ろしいことに「有線電話」の方はおっさんには馴染み深い「黒電話」として1980年代まで命脈を保ったのだ。上のアホらしい顛末を笑うなら、あの「黒電話」は、ナニっ!ってカンジ。

弱小メーカー連合によるラジオが売れる一方で、売れない放送協会認定ラジオは電力余りに悩む電力会社の強力な組織力を利用して販売促進を図ろうとし、当然弱小連合は文句を言い、なんだかんだで計器測定が廃止され、「音がちゃんと聴こえればいい」と認定制度は形骸化され、今に至る。

逓信省や放送協会が提示したラジオ像でさえも、それらは放送局外部の主体によって常に挑戦され、そして時にボイコットされたり、大きく「改正」させられたり、骨抜きにされたりするのだ。そしてラジオメーカーが自社製品という形で市場に供給する〈耳の輪郭〉も、それが売れるか売れないかという形で判定され、常に同時代の人々の欲望を体現する必要に迫られる。

余談ですが世間では山口誠というとレッサーパンダ帽のようですが、こちらの山口氏はこんな風な好青年。「英語講座の誕生―メディアと教養が出会う近代日本 (講談社選書メチエ)」という著書があるので、いずれは読んでみようと思ってます。

  • どうでもいい話

ふと宮崎哲弥のムク犬っぽいとこが、ある意味稲垣メンバーに似てるなと思って検索してみたらあった。すごいな大手小町。別の人が同じスレッドでキャベツ畑人形に似てるって書いてた。

2005-02-25 ジョン・ロックの市民的世界

どうも哲学系の人の書く思想史はあまりボクには面白くなくて、これもなんだか学生のまとめノートのようになってしまいました。何やってんだろ、オレ。

ロックの私的所有が成立するための4条件

1.自己労働制限

自分でつくったものは自分の物にしてよし。他人には権利なし。

2.自己消費制限

自分で消費可能な分の物、および消費可能な収穫をもたらす広さの土地なら所有してよし

3.腐敗禁止制限

無駄に腐らせちゃうような量を所有するのは人類共同の富の浪費になるからダメ

4.潤沢制限

他人も潤沢に暮らせる資源がなくなるくらい所有しちゃダメ

さてそこで貨幣である。ロックは「条件2」は「条件3」ほど重要じゃないので、貨幣で腐らずに蓄積できるなら自己消費以上に所有してよい、同様にそれを子孫が相続してもよいとした。こうして所有の不平等が拡大する。これは条件4に抵触しないのか。巨大な富は他人を圧迫しないのか。それについては、社会全体の生産量が増えているのであれば貧しい者も以前よりは豊かになっているので問題はない。では自己の労働を貨幣と交換する賃金労働についてはどうか。貨幣と交換に、労働者から雇用者へ所有権を移してもよいとした。しかし、他人に雇われようという人間が出てくるというのは、条件4が成立していないからではないのか。労働して物をつくるための土地などが存在していないからではないのか。

[さてここから十代シャバダバ的稚拙な考え]

効率のよいシステムがあるなら、自分で作るより、人に雇われたほうが確実だという人がいてもおかしくないし、そういう人の方が多いだろう。だが新たなシステムを始めようとする人間にとっては、既在システムは不公平に思える。一対一なら勝てるのに、既に富を蓄積している既存システムには負けてしまうのだ。ひとりでやるだけなら、負けたと思わずに、片隅で黙々とやってればいいじゃないと言えるが、新たに人を巻き込んでシステムを構築していこうとするわけだから、そうもいかないのである。ナニカンガエテンダオレ。

貧民救済はべつに目新しいことではなく、中世にはその慣習が確立していた。中世においては、財産は近代のように個人の純粋に私的で排他的な所有とは考えられず、多かれ少なかれ社会(または村落共同体)に有用な目的のために使用されねばならないと考えられていた。したがって、貧民への援助は財産所有者の社会的義務でもあったのである。1601年の救貧法には、絶対主義支配の枠内でではあるが、このような伝統的観念がある程度盛り込まれたといえよう。

内乱勃発以後、救貧法は浮浪者の取締り・労働強制に利用されていく。要するに甘やかさないことが貧乏人のためだと。平等主義の弊害とか、自己責任だとか、そんな昨今の論調も、まあ大して斬新なもんじゃねえや。


トー二ーによれば、一六六〇年の王政復古の頃から貧民に対する考え方が変化したという。彼はこうのべている。「困窮は個人の欠陥から生ずるものではなく、経済的な原因から生ずるものだという意見、したがってその犠牲者は社会によって養われる法的な権利をもつのだという意見に対しては、当時成長してきた個人主義は、冷やかな懐疑の気持をむけた。」「最大の悪徳は怠惰であること、貧乏人は環境の犠牲ではなくて、自分たちの『怠惰な、不規則な、悪い暮し方』のために自分で落ち込んだのだということ、最も誠のこもった慈愛とは、貧乏人を救ってやって彼らを無気力にすることではなくて、むしろ彼らの品性を改造して救いが要らなくなるようにすることだということ---このような教理のために、かつては罪であった〔貧民に対する]苛酷さが[いまや〕義務となった。」

ロックはアメリカ植民に関しても、原住民が使いこなせてない土地をヨーロッパ人が有効活用して富を増やせば、原住民にも恩恵が及ぶし、そもそも土地は広大なんだから、がんがんやってよしと言っております。

[さてここで再度稚拙な考察]

ネット文化は友達関係が基本になるのか ネット文化は友達関係が基本になるのかを含むブックマーク

  • さてネットは広大だからいくらでも書くことができる。

書けりゃいいじゃないか、自分だけ満足していればよい。そういう人もいるだろうが、それなりに人に読んでもらいたい。そうなってくると、書ける場所は(ある意味)無限だが、読んでくれる人間(の活字消費量はある意味)有限である。読者は限られた資源だ。すると巨大な読者を獲得している奴は他人を圧迫しているのか。いやそもそも何故巨大な読者が存在するのか。マスカルチャーの言い訳として、大量消費を前提にして成立しているからというのがあった。つまりそれなりに大量に売れなければ利益が出ないというわけである。傍から見てる方としても、がっつり行かないと成立しないから宣伝でもなんでもがっつりやって、大量に売ろうとするのも無理はないと同情しないわけでもなかったのだが。ネットに至っても何故に相変わらず大量読者を獲得している奴がいるのか。

  • 何故どいつもこいつも同じものを読む。

それは面白いからだと言われるでしょうが、よくよく考えてください、それは確かに面白い人もいますが、なんだかそんなに面白いだろうかという輩が多く読まれてたりもするのである。で、ブログ読者獲得法などを読んでいると、あちこちコメントつけろと書かれていたりして。わわわ、恥ずかしくないのかな。不毛ですね。宣伝のためにコメントつけていて悲しくならないのだろうか。ああいうものは、面白いと思えるからこそつけるものではないのか。と、ここで思い至ったのが、中身が基準になるのが古いというか、まずは友達付合いが基本というか、その上での内容なのでせうかということ。

  • 新たなるカルチャーとサブカルの垣根なのか。

友達付き合いによる集客力によってまずランキングされて、そのうえで中身で判断されていくというのがこれからのサブカルなのか。まず最初に友達いないような奴は駄目というのが、じつにミクシ的。拙者友達いませんから、切腹。

2005-02-24 「話の特集」と仲間たち このエントリーを含むブックマーク

「話の特集」と仲間たち

「話の特集」と仲間たち

さして「話の特集」に興味はないし無知なので、表紙に使われている創刊号横尾忠則によるジョン・ケージもタモリ?ってかんじなのだが。つい借りて、つい一気に読んでしまった。

結局実現しなかったが創刊のきっかけとなった『エル・エル』という雑誌の企画時、レイアウトはハイライトのデザインを手がけたような人がいいと言ったら本人の和田誠を紹介された。

会ってみると、なるほど生意気な若者だった。痩せていて目ばかりがギョロギョロしていた。でも、全身に迸るような才気があり、これまでに会ったことのない異色な感じであった。

特集は「八丈島」(ナンダソレ)。写真は和田の勤めるデザイン会社・ライトパブリシティの新人カメラマン・篠山紀信だ。そんな経緯もありつつ、無給のかわりにデザインは全権委任という条件で和田が参加。

和田誠はレイアウトの作業を会社のデスクで堂々とやっていた。金を貰っているわけじゃない、これはアルバイトではないという確信があったから出来たのかも知れない。ある日、和田誠のデスクにライトパブリシティの信田富夫社長がやってきて、「和田さん、面白そうだねえ。雑誌が出来たら僕にも見せて下さい」などと言っている。

id:kingfish:20050222)とかにもあるように実は江戸時代には挿絵が中心でもあったのだが、そんな伝統と1965年の和田には深い断絶がある。

「『話の特集』ではイラストレーションという正確な表記にしたいんだ」

「挿絵じゃどうしていけないの」と私。

「挿絵という言葉には、文章に絵が従属しているニュアンスがあるでしょう。僕は、文字も絵も対等だと思う」

  • 和田の家で牛乳を勝手に飲む矢崎を非難めいた眼差しで見る和田の押しかけアシスタント。その暗い青年こそ矢吹申彦。

昔はのんびりしてたなあ。深沢七郎の幼児性愛、いや厨房だから、ただの男色か。それより矢崎は深沢で開眼なのか。[注:ギター弾きのヘンなおじさんが深沢]

戦後間もなくギター弾きの渡り鳥のような青年がやってきて、おんぼろアパートに入居した。玉川温泉という銭湯があって、中学生だった私は友達と毎日のように通った。家に風呂があるのに、広い脱衣所でのんびり遊べるので、子供たちにも人気があった。そこヘギター弾きもやってくるようになった。しかもギター持参でやってくる。私たち少年を集めて、弾き語りを披露するのだった。ヘンなおじさんの名は桃原青二。日劇ミュージックホールのギター弾きだとやがてわかった。大のプレスリーファンで、ほとんどエルビスの曲ばかり楽しそうに演奏していた。おじさんはちょっと変態で、子供たちのチンチンに興味があるらしい。

やがて食事をするようにもなり「そういう関係がずっと続き、私は大学に通うようになった」って、ヤバクネ。大学で山岳部に入ったのがキッカケで「世田谷ボディビル」をつくると深沢や三島由紀夫がマッチョボディ眺めに日参。

水上勉の『男色』という小説の原稿取りの話題に続いて平野の原稿に麦茶をこぼした話が続いて、

平野威馬雄は少しも慌てず、吸い取り紙のような柔らかい塵紙をソッと載せた。原稿は無事だった。謝る私に、平野威馬雄は、

「ズボンにかからなくてよかった」

と優しく言ってくれた。

な、なんでしょう、レ、レミ、大丈夫かしら。

パンツ一枚の裸の大将を見て「ウチも脱いじゃおうかな」とふざけるスミ子の真夏の対談。

山下画伯は一点を凝視したまま、何も答えない。坂本スミ子の胸の辺りを見つめているのである。しばらくしてから、

山下「その下は裸かな」

坂本「そうです」

山下「脱いだらカッコウ悪いかな」

坂本「カッコウいいですよ」

山下「チチ、大きいな」

坂本「はい」

山下「やっぱり脱がないのかな」

坂本「脱ぎません」

山下「他の男の人がいるからかな」

  • P105に「喧々諤々とやった挙げ句」とあったので、呉先生に報告せねばと思っていたら、P150では「侃々諤々、喧々囂々の意見が行き交った」とやっていて、しかもどっちも御丁寧にふりがながふってある。
  • 矢崎に腕相撲で負けた腹いせに「文化大革命抗議」を突如思い立つ三島。三日後に川端康成、石川淳、安部公房らを巻き込んで帝国ホテルで記者会見。

そもそも父親の会社を引き継いで出版して、手形詐欺にあって倒産させて、ようやく復刊した時の編集後記の文句も時代とはいえあまりにもお気楽な反権力ポーズで、ぼんぼんのお遊びとしかいえないのだが。

中央公論からの買収話を断ると、税金対策でオーナーになっていた邱永漢が激怒。でも邱の方が正論。

「矢崎クンにはビジネスというものがわかっていない。ボクは慈善事業をやっているわけじゃないんですよ。それに、今を除いてはキミの雑誌はもう高く評価されることは絶対にないと思うよ。創刊の頃の鮮度は落ちているし、明らかにマンネリになっている。仲良しクラブのサロンのような雑誌はそういつまでも続かない。嶋中さんに売って、キミも身を引いた方が、この際はずっと得だと思う。物事には潮時というのがあるんですよ。これはキミとボクにとっての、いわば千載一遇のビジネスチャンスなんです」

嶋中鵬ニに詫びがてら挨拶に行き、『海』の創刊を知らされて何故か安堵する。

邱から独立した記念パーティーでの野坂昭如と五木寛之の対談。雑誌は無責任でいい、うたかたである方が残る、という互いの話の流れを受けて五木が

じゃあ何故今の文学が迫力がないかというと、今から五十年先、百年先のことを考えている眼がありすぎるんじゃないかという気がするのです。ある編集者が、いま雑誌を作っていく上で、かつての『新青年』のように、後から1970年代にはああいう雑誌があったと言われるような雑誌を作りたいと言っていたけれども、ぼくは反対なんだ。今週なら今週に消えちまってもいいという雑誌を作ればいい。そういう眼がなければ後から読んで面白い雑誌は作れないと思う。

オマケ:植草甚一からの創刊号感想ハガキを以下にてアップ

http://kingfish.exblog.jp/2112854

2005-02-23 近代読者の成立・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日の続き。

全国の文学フェミ女号泣。だんすぃーに囲まれつつ請求カードを出せば却下訂正命令、おなごですよと晒されて汗ぐっしょりの一葉。

私設図書館が繁昌したのは、ほとんど唯一の公共図書館ともいうべき東京図書館が施設・蔵書ともに貧弱をきわめていたことがその一因であろう。(略)閲覧室の定員は公称二百人であったが、じっさいには百五六十人を容れる余地しかなかった。明治二十四年の六月ごろから文学修業のために東京図書館に通いはじめた樋口一葉も、八月八日の日記に「図書館は例へいと狭き所へをし入らるゝなれば」と記している。またこれにつづけて「いつ来りてみるにも、男子はいと、多かれど、女子の閲覧する人、大方、一人もあらざるこそあやしけれ。……多くの男子の中に交りて、書名をかき、号をしらべなどしてもて行にこれは、違ひぬ、今一度書直しこなどいわるれば、おもて暑く成て、身もふるへつべし。まして、面みられさゝやかれなどせば心も消る様に成てしとゝ汗にをしひたされて文取しらぶる心もなく成ぬべし」とも記している。

団欒から個人的読書へ(あれでもやってたな)。

山川均の父親が家中のものに『八犬伝』を読んで聞かせるといった団欒図は、明治初期にはきわめてありふれた家庭風景のひとつであった。そこでは書物は個人的に読まれるものとしてより、家族共同の教養の糧、娯楽の対象として考えられていたのである。山川均のばあいは郷里を離れて京都の同志社に入学したときに、この共同的な読書環境の拘束から解き放たれ、広大な活字の世界のただ中にたった一人で入り込んで行くことになる。それは彼に限らず、立身出世を夢みる明治青年に共通した運命にちがいなかった。かれらは維新の変革によって自信を失った親達とはべつに、新しい生き方、価値観を自分自身で模索しなければならない。かれらの人生の方向を決定したものは、両親から授けられる教訓ではなく、一冊の書物なのである。

とれんでーどらまだ、じぇじぇだ、ぶりおだ。結局大して変わってないのだ。

夫の無教養に愛想を尽かした寿美子は、いったんはかつての愛人の許に走ろうとするが、物語の結末では彼女の聡明な決断が結婚生活の破局を回避させる。「愛人と結婚する、それは人生の輝しい幸福の第一だ。しかし、それが出来なかつたとしても、そのために人生その物迄壊してしまふことは、あまりに勿体ないことだ。恋愛以外にも、生活はあり、生活のあるところ、何処にでも欣びはあるのだ」。この寿美子の独白にはかつて「文芸作品の内容的価値」を「生活第一、芸術第二」ということばで締め括った菊池寛じしんの肉声が裏打ちされているが、愛情か生活かという二者択一は生活の優先という形で解決されるのである。ここにいう生活はまさに「ブルジョワ生活」そのものだ。あるいはそのステロ版としての「文化生活」といいかえてもいい。その舞台装置は帝劇であり、三越であり、帝国ホテルであり、銀座の酒落たカフェである。姑の束縛から自由で、快適な別居生活を営むに充分な経済的余裕である。それは愛情という価値をすべてに優先させた『真珠夫人』の世界とはあまりにも異った風景でなければならなかった。

菊池寛式・通俗小説新領域開発

通俗作家としての菊池寛の役割は、いわばこの「主婦之友」レヴェルから「婦人公論」レヴェルまでを含む通俗小説の新領域を開発することにあった。大正女性が置かれていた閉じた現実と、彼女らがひそかに希求していた開かれた理想との断絶に、架橋することにあった。彼はどのような方法でその作業を遂行したのか。青野季吉のことばをかりるならば彼が提供した「自由の世界の描写」は、本物ではなく「脚光の上の焔」にすぎなかったが、まさにそれが幻想そのものであったが故に、新中間層の女性読者に代償的な満足を約束することが可能だったのである。しかも、彼女らが現実生活と社会的欲求との落差をヨリ痛切に意識し、新中間層特有の不安と自意識を深めて行くにしたがって、彼の成功はゆるぎないものになる。いわば『真珠夫人』を発表した大正九年には、菊池寛は「可能性における読者」に向って語りかけていたわけであるが、大正末年には現実に厖大な新中間層の女性読者を獲得するのである。

メディアハイプ

円本が投げかけた問題の核心は、高畠や青野の指摘した出版の資本主義化もさることながら、その結果として顕在化した厖大な享受者層そのものの中にあった。すでに講談社の「キング」は大正十四年一月の創刊号で七十万部を越える発行部数を記録し、新潮社の「世界文学全集」は五十八万の予約読者を獲得する。改造社の広告が「民衆」というシンボルを執拗に繰り返した事実が端的に示しているように、出版機構の自由に操作しうる《大衆》が登場したのである。それは円本によって、また講談社文化によって「啓蒙」されようとしている《大衆》である。

昭和11年の高倉テル「日本国民文学の確立」では、女工サブカル

『金色夜叉』が芸術小説、『不如帰』が通俗小説というようなこれまでの評価は、作品の内容から来たものではなく、それぞれの読者層の差から来ているというのだ。『金色夜叉』の読者が「江戸末期の文学からずつと系統を引いた、主として都市の伝統的な読者」であったのにたいして、『不如帰』の読者は「当時の社会情勢から新しく進出してきた、新興の読者層」である。しかも『不如帰』の読者として高倉が重視するのは、日清戦争後に飛躍的な発展を遂げた紡績工場で働く農村出身の女工たちである。『不如帰』に描かれた封建的な家族制度、浪子の命を奪った結核は、かれら自身の悲劇の反映であったかぎりで、そこに共感の絆が結ばれる。一方、『金色夜叉』の読者層は「資本主義的支配層」を構成する旧士族出身者であり、江戸文学からの正しい伝統を持つ読者である。

どんどん干からびていく駆動静香を見ていると、林家パー子も昔はアリだったのかと思えてくる今日この頃。

2005-02-22 近代読者の成立 このエントリーを含むブックマーク

インテリの皆さんには今更なんでしょうが、図書館でペラッとめくっていたら面白そうだったので。とりあえず江戸・明治のメディアの変遷。

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

近代読者の成立 (岩波現代文庫―文芸)

商業主義化していた江戸後期戯作出版機構は天保の改革により大きく変質した。

検閲によって既成組織が破壊され新規参入

検閲の網の目をくぐりぬけて市中に流れた出版物は、その稀少価値ゆえに途方もない高値を呼んだ。(略)

皮肉なことに、検閲令の苛酷な施行がボロもうけの機会をつくったのであって、絶版の危険を冒してまでも際物出版をもくろむ二三流の版元は少なくなかった。そして間もなく、新規開業の版元を含めてこれらの版元は、本格的な出版に乗り出し始める。鶴喜や泉市等の一流版元の不振と仲間行事の解散とが、進出の余地を与えたわけである。

生き残った新規版元の条件。

1.新進作家発掘 2.既成版元との共同出版 3.板木の購入再版(いわゆるコピー商品)

コピー商品の氾濫。いつの時代もパクリがのさばる。

「偽刻重板」の横行は作者、書肆の双方に責任があった。すなわち書肆の側では地本行事の解散によって株板(版権)が消減したのに乗じて、ほしいままに類作、偽版を出版したのであり、当り作の焼き直しは読者をつかむには容易かつ確実な企画でもあった。作者の側でも、書肆の企画に盲従して、先輩の当り作を踏み台に自作の当りを図ることを恥とはしなかったし、また翻案に新機軸を出すだけの才分に欠けていたことも事実であった。

漠然と保守化していく

戯作者たちは国芳の調刺画に喝采を送った民衆の動きとは無縁であった。ここでかれらは民衆の動向を敏感に察知して作品にもり込むサービス精神すら失って、民衆の背後から徒に教訓と勧懲を眩くという惨めな地点に自らを追い込んだわけである。もちろん天保の改革が取締りに峻厳の度を加え、出版の条令が業者の予想をつねに一歩先回っていたことを考慮しなければならないが、寛政改革の際に、春町や喜三二が黄表紙の世界にひそめたうがちの精神は見るべくもない。

[明治15年頃]ニューメディアと戯作者、消費の加速化

活版印刷術の普及と新聞雑誌ジャーナリズムの登場とは、木版印刷技術の上にたつ書物問屋、地本問屋の組織を解体させ、絵草紙屋貸本屋の配給回路を断ち切った。(略)

戯作者たちに復活の舞台を提供したのが小新聞の雑報であったように、合巻の版元に「草紙の再興」の機運をもたらしたのも、新聞ジャーナリズムの力にほかならなかった。自主的な出版企画を失った合巻の版元が新聞ジャーナリズムの下請化することによって贖った一時の繁栄はあまりにも短く、結果的にはその出版機構の最終的な解体をはやめることになる。(略)

『鳥追阿松』の成功から絵入りの事件パンフレットに変質した明治の合巻は、ニュースヘの好奇心に魅かれ、新聞広告によってかきあつめられた一回的、浮動的な読者をその対象とする。ニュースの鮮度を追いかけて矢継早に続編が刊行され、その出版期間も数ヶ月に短縮されるのである。

[絵より文字]出版期間短縮により装本ことに挿絵の質が低下したため。

木版式合巻が見る本としての魅力を失ったことは、読むことを主にした活版式合巻の登場を容易にした。毎朝配達される新聞から一定量の活字を消化する習慣を身につけた読者は、挿絵を娯しむより活字の読み易さに魅きつけられる。読者の読解力がたかまるにしたがって、分冊の形式は読みごたえのある分量を一冊にまとめた単行本の形式にとってかわられる。

コストの違いが活版を木版より優位にする。

活版印刷は現在のDTPのように新規参入を可能にした。

明治十二、三年頃から十五、六年頃にかけて、小規模な「街の活版所」の開業広告が新聞の広告面にひんぱんに現われていることに注意したい。活版式合巻や後述する戯作小説の翻刻本は、この「街の活版所」の貧弱な手引印刷機をくぐって市場におくり出されたのである。その仕事の出来映えは良心的とはいいにくいにせよ、とにかく活版印刷の普及は出版と印刷の分業を可能にした。このことは新たに出版をもくろむ業者にとって有利な条件の一つにちがいなかった(地本双紙問屋は、筆耕、字彫師、絵彫師、摺師からなるイキの合った職人の一チームをつねに抱えていなければならなかった)。

古いメディアの解体が埋もれていたソフトを解放する。

江戸式合巻が壊滅に瀕していた明治十五年から十六年にかけて、皮肉にも出版界は江戸戯作復活の機運を迎えようとしていた。それは活版による翻刻、予約出版の流行である。木版式合巻の退場を促した活版印刷の進出が、一方では馬琴の読本や春水の人情本を貸本屋のストックから解放し、大量生産による廉価版の普及を可能にしたのである。

供給過剰の危機にダンピングで成功した兎屋は明治の角川商法か。本をたんなる商品にして近世的な販売機構を解体させた。

兎屋の特売広告は一月か二月に一度の間隔で諸新聞の広告面を数段、ときには全面にわたって占領した。その広告は数百冊の書名をつらねて、定価と割引価とを併記し、反物、書籍、劇場の切符などの景品を添え、特売の期間を限って顧客の購買欲をそそる仕掛になっていた。しかもその特売広告をぬけめなく支店の開店祝、新著の出版、新企画の発表などと結びつけて宣伝効果をたかめたのである。

新聞の急速な発展・本を持って外にでよう

明治七年創刊の読売新聞をはじめとして、続々発刊された小新聞は、貸本屋にかわる新しい民衆的文学回路を開いた。読売の創刊号はわずか百二、三十枚の発行にすぎなかったが、明治九年にははやくも一万五千の発行部数に達した。浮世画の点景人物としてお馴染みの貸本屋の姿に加えて、開化の風景画には鈴を鳴らして記事を呼ぴあるく新聞売子の姿が欠かせないものになった。上野・浅草の盛り場には茶店を兼ねた新聞縦覧所が開業して人気をあつめ、人力車は傍訓新聞を備えつけて車上の客に読ませた。新聞は戸外でものを読む習慣を普及させたのである。維新以来戯作の新版が激減したために、一時は民衆に「読みもの」を供給する回路を独占していた貸本屋は、程なく小新聞の「つづき物」にその読者を奪われることになる。

えー、まだまだ続くのですが、とりあえず。

2005-02-18 堀江社長のメディア批判・その2 このエントリーを含むブックマーク

2005-02-12(id:kingfish:20050212)より続いてしまった。

腹が立ったので下落一方のライブドア株を買ってやろうか

(´ー`)y─┛~~…と思っていたら、サンデー毎日に江川紹子のコメントが載っていて

企業買収や株取引など、単なる”お騒がせ”に問題が矮小化されているのではないか。今回の件は、既存メディアすべてに突きつけられている問題です。

おおっ。

『新聞とかテレビを、我々は殺していく』と堀江社長が語っているインタビューが彼女のHPで公開されているというので読んでみた。

江川紹子ジャーナル/「新聞・テレビを殺します」 〜ライブドアのメディア戦略

読んでもらえればわかるように、「新しいアイディアがあるわけじゃないのだな」「大衆の意思を反映したランキングだけで成立するだろうか」「ありのまま出すといっても、客観報道だって主観が入る」というツッコミは江川でなくても入れられるわけだが、堀江が言わんとするところはそうじゃない、と山田五郎気分で好意的に考えるとどうなるか。

以下ブツ切りで堀江発言を引用してみる。

――経済、金融関係のニュースを発信していく、と。

 インターネット時代の金融会社を大きくしていくためにはどうしたらいいのかっていう流れの中で、メディアを持たなきゃいけないっていう話になったわけですよ。発想はブルームバーグさんと全く一緒。(略)

――では、政治や社会、文化のニュースも扱う?

 まあ、おまけなんですけどね。別にそこで儲けようとは思っていない。トントンでやれればいいな、と。

――今までのメディアとの違いが見えてくるのは、もう少し先になりそうか。

 う〜ん、まあ。それ(=違い)がメインなんじゃなくて、我々がメディアを作ることがメインなんです。やりたいのは、そこ。

――今までにないものを作るからこそ意味があるのでは?

 ベルに意味なんてなくてもいいんですよ(笑)。意味なんてどうでもいいんですよ。我々の目的は、意味あることじゃないんですよ。新しいものを作ること、意味のあることが重要なんじゃない、我々にとっては。

――今までにない内容の報道をやりたいというのもない?

 ないですね(笑)。いいんですよ、別に。内容が(今までのメディアと)違うかどうかは。それが目的じゃない。内容も、もしかして違ったモノになるかもしれない。ですがそれはどっちでもいい。

――今のメディアではあまり報道されていないことも、インターネットを通じて伝えてういこうというのだと思っていたが。

 それは副産物的にそうなるかもしれないですけど、それはどうでもいい。僕にとってはどうでもいい。

――ある程度の方向性がないと、何でも載せますというわけにはいかない。

 いいんじゃないですか。自分で判断して下さい、と。それで、世の中の意向はアクセルランキングという形で出てくるんですから、その通りに順番並べればいいだけでしょ。

――例えば、イラクのこととか、新聞ではもうあまり載らない。でも……

 いいんですよ、(そういうことは)みんな興味ないんですから。興味ないことをわざわざ大きく扱おうとすること自体が思い上がりだと思うんです。

――でも、提供されなければ興味もわかないのでは?

 そうじゃないと思う。興味がないことを無理矢理教えてもらってどうするんですか? 何の価値があるんですか、そこに。気づかせたら、何かいいことあるんですか、ユーザーの人たちに。気づかせることによって、新聞をとっている人に、何かメリットあります?

――知らないより、知っていた方がいいこともある。

 そうですかね。知らないのと知ることで、何か差異がありますか?

――情報を提供しなければ、興味を持つきっかけもない。

 いいんじゃないですか、別に興味を持たなくても。興味持たないと、いけないんですか?

彼は大衆の意思をダイレクトに反映すれば既存メディアを超えるものができるなどとは考えていない。既存メディアを変えるつもりはない、ただその無意味さを明らかにしたいだけなのだ。人気だけで機械的に取捨選択していっても今のメディアと大差ないものができるはずだ。所詮既存メディアで語られている話はその程度のものだし、自分で情報を集められない大衆にはそれで充分だ。タテをヨコにしてるだけのくせに「報道の使命」だのを振りかざしている愚かさを露にしてやる。記者クラブってなんだよ、官庁発表をそのままネットに公開して後は話題になるとこだけチョイスしたって大して変わらねえんじゃねえの。反戦デモに参加しないヤツめ!自己責任だ死んでよし!とか、どいつもこいつも右も左も逝ってよし。日常だけ生きてろよ。そんな意志が感じられるのですがー。もっとうまく書きたかったのだが、うむー。書き直すかも。

2005-02-17 楽器と身体・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日より続いてます。ほんとはフェミ話が中心なのですが、そこらへんはスルーでトリビア的に展開。

ムネに、アシに、ときめくオヤジ。

一人の女性がチェロを弾いている。その際、彼女は二つの好ましくない状態を回避することができない。一つは、高音部(駒の近く)を奏する時に、上体が前方へ傾きすぎて、胸が圧迫されることである。二つめは足の位置で、これは本来彼女が呼び覚ましてはならないようなイメージを多くの人びとに呼び覚ましてしまう。ワカルヒトニハコレデジュウブンダロウ〔原文ラテン語〕。

乗馬も横乗りかよ!

女性の足が与えるとされたエロティックな効果は、十八世紀から十九世紀にかけての時代、まさに強迫観念的な不安の中で排斥された。二十世紀初頭でさえ、足を開かなければならないような体操は、少女たちには固く禁じられていた。乗馬で女性用の横乗り鞍が廃止されたのは、ようやく第一次世界大戦後のことであった(競技の時も含めて!)。

フェ、フェミ、キタキタキタキタキタ━━━━━━(゜∀゜≡(゜∀゜≡゜∀゜)≡゜∀゜)━━━━━━!!!!!。まあそれが目的の本だからしょうがないけど。

女性は男性のまなざしによる支配に従順に従ってきたので、女性はそのまなざしの求めに応じて身体や振舞いを磨きあげるよう要求されてきた。それに対して男性のほうは、女性が見ることの自由を奪われるに任せてきたのをいいことに、女性たちのために、男性美や性的な魅力に磨きをかけようなどとは考えもしないできたのである。

独&墺の道路事情。高速道路は無料じゃねえ。

まったくもって…ひどい道だった。こんな道を通ると首の骨を折ったり馬車が砕けたりしかねない。舗装はがたがただし、さんざん車が通っても放置してある石の車道はすっかり傷んでいる。管理が悪くて危ない橋、街道筋のあちこちに、一瞬にして馬車を転覆させるような穴があいている。こういった状態を経験して、旅行者が不平を鳴らすのには、じゅうぶん理由がある。彼らはその父祖の代から長年にわたって、これらの道を整備するため、新しい橋を架けるため、橋のたもとの土地を固めるため、窪みを埋めたりならしたりするためという名目で、関税やさまざまな代金、それに、道路料、橋料、護衛料と称する種々の料金を支払ってこなければならなかったのだから。それでいて、何の恩恵も受けていないのだ。

19世紀の神童はラッパーの如くスキャンダラス

近年、とりわけ音楽の分野において、神童と呼ばれる子どもたちが、雨後の筍のように一夜のうちに数限りなく出てきた。十三歳を超えていると、すでにセンセーションを巻きおこすには年を取りすぎている。それでもなお、いくらか人びとの注目を集めたいと考えるなら、何か人並みはずれたことをやってみせなければならない。神童になる機会を逃した以上、下手なヴァイオリンをキイキイ弾くよりも、かつて人を殺したことがある、あるいは殺しの嫌疑をかけられて、監獄にいるあいだにヴァイオリンを弾きはじめたとでもいって、売りださなければセンセーションにはならない[どうやらバガニー二のことをいっている]。あるいは、弦が一本きりしかない、もっといいのはそもそも弦が一本もないヴァイオリンを演奏したとか、ヴァイオリンの駒を弓で弾いて音楽を奏でたという伝説でも作りださなければならない。

ナポレオン制圧下のドイツ。ロシア遠征失敗を機に「ドイツ国民」を旗印とする熱狂が沸き起こる。その義勇軍の中に男装して参加した女性の弟への手紙。

愛する弟よ!

今日はあなたにまったく新しいことをお知らせしましょう。でも、その前に怒らないって約束してください。実は私は四週間前から兵士なの!驚かないで。だからといって、咎めだてもしないで。あなたは知っているでしょう、すでに戦争が始まったときからこの決断が私の心を支配していたことを。もう二人の女友だちから手紙をもらったけれど、二人とも私のことを卑怯だっていって非難するの。この名誉あふれる戦争に参加するという決心を、私が誰にも言わずにすべてひとりで決めてしまったからなんですって。(略)

「レンツ」と名乗ったその女性兵士の最後の姿を戦友が日記に残していた。ざっくりした描写がなんとなく、スターシップ・トゥルーパーズっぽくなくない。

幸いなことに施術が無事終了した時、私は自分の腕の骨が大丈夫かどうかを試してみたくて、太鼓を叩いてみた。しかしあまりうまくできなかった。この時、兵士レンツが私の手から太鼓をとり、実に巧みに連打した。「君は何でもできるんだな」と、ひとりが彼に向かって言った。「君は誰よりもうまく、服を仕立て、料理し、洗濯し、歌い、銃を撃つ。そのうえ太鼓叩きでもあったんだ!」「ポツダムの兵士の子どもは何でもできなきゃならないんだ」、とレンツは言い、楽しげに太鼓を叩き続け、歌った。「さあ来い、さあ来い、与太者どもよ。隊長殿のところに行かなきゃならねえ。」(略)

この時私ははじめて、大勢の人びとがひしめきあっているところに撃ちこまれた大量の榴弾のもつ恐ろしい効果を知った。それは空から降ってきて爆発し、あちこちに飛び散った。悲痛の叫びと鬨の声が入り混じり、互いが互いの叫びをかき消しあっていた。しかし、私の勇敢なレンツは少しずつ前進を続け、嵐のように太鼓を連打した。散り散りになった人びとは電光石火のごとくふたたびひとつにまとまった。もはや勇敢な突撃あるのみであった。われわれは、彼らの発射する弾丸がわれわれの頭上を飛び越えていくほど間近まで、敵の砲兵中隊に接近した。その時、敵の第二陣の銃がわれわれの列に撃ちこまれ、銃弾が雨あられのごとく降りそそいだ。われわれの勇敢な太鼓叩きが、私のそばに崩れ落ちた。彼は身体を引きつらせながら私のコートの端をしっかりとつかみ、悲痛な声で叫んだ。「少尉殿、私は女なんです!」(略)

彼の身体を締めつけていた軍服の胸元が開かれた。雪のように白い胸が激しく波打ち、この人物が処女にして英雄の心臓をもつことを明かしていた。彼女の口からは一言の嘆きも聞かれなかった・・・。

2005-02-16 十八世紀、素人音楽は太陽だった このエントリーを含むブックマーク

音楽における女性差別てなフェミ本。それはそれで面白いのだが、とりあえず後回しにして、これを借りた目的である十八世紀音楽におけるプロアマ問題から。まあ別に素人万歳というつもりもないが、既製音楽ばっかり聴いてんな!という毎度毎度な恨み節ではある。

音楽がサブカルだった時代。建築、絵画、彫刻、文学は芸術として認知されていたが、音楽家は1760年から1830年頃まで他の芸術と同等になるため闘わねばならなかった。モーツァルトは実用音楽提供者とみなされていた。

素人が支え、素人が主役だった十八世紀の音楽。

十八世紀、あるいは少なくとも十九世紀初めのウィーン会議まで、ディレッタントは、文字通り芸術の愛好家という意味で中立的に捉えられていたばかりでなく、市民階級がみずからの音楽生活を築きあげ、制度化するにあたって、かけがえのない存在であった。愛好家、あるいは「芸術の友」とも呼ばれていた人びとは、一七五〇年以降、器楽レッスン、楽譜、楽器の需要を生みだし、公開演奏会の聴衆となり、音楽生活を組織し、推進していくという重要な機能を担うようになったのである。十八世紀から十九世紀への世紀転換期には、小都市でも愛好家によるコンサートが定期的に開かれるようになり、さまざまな職業についている市民階級の人びとが、プロの音楽家と肩を並べて演奏した。また、多くの音楽協会によって開かれた半公開の発表会においても、主役は愛好家であり、職業演奏家はいわば特別ゲストとして出演したにすぎなかった。

カール・フリードリヒ・クラーマーは「芸術をより完璧にしていくには熱意が必要であるが、音楽を生業とすれば熱意を維持するのは難しい」から愛好家がプロより上であるとした。

他方、新しい器楽音楽の要求に応えるべく、ギルドにおける古い職業教育構造から徐々に転換を図りつつあったプロの音楽家にとって、ギャラのいらない「安あがりの」ディレッタントは、歓迎されざる競争相手だと考える人びともいた。

プロの苦しい生活、素人への恨み節。

たとえばピアニストならば、お抱えで雇われずともそこそこの生活は送れるだろう。それでも、彼を経済的に支えている何人もの雇い主の意に従ったり、朝から晩までレッスンに明け暮れる生活に耐えうるだけの自制心は必要なのである。しかしもっとも悲惨な状態に置かれているのはヴァイオリニストである。彼らはなにごとも無償で行うことが求められる。なにしろ、上手下手は別として、いつでも喜んで演奏を引き受けようと待ちかまえているディレッタントが十人は控えているのだから。プライヴェートアカデミーで演奏して報酬が得られることはめったにない。(略)このような困窮状態のために、多くの音楽家は、文化の香りなどみじんも感じられず、倫理的にもすさんだ、放埓な生活に陥っているのである。

そしてプロが勝ち、素人はコケにされていく。

数十年におよぶ愛好家と職業音楽家との競争は、後者が勝利を収めるかたちで決着がついたというだけではなかった。「ディレッタント」や「ディレッタント的」といった概念が否定的なニュアンスを帯びるようになり、今日にいたるまでそのような意味で使われる結果になったのだ。クラーマーによって高く評価された「芸術に対する熱意」に代わって登場してきたのが、商業化と利益の追求であった。そして、音楽生活のその後の展開は、クラーマーが正しかったことを遅ればせながら証明することになったのである。十八世紀後半ほど、市民階級のディレッタントたちが多様で生き生きとした音楽実践を繰り広げた時代は、もはや二度とやってこなかった。

金がいらぬとは当然言わぬが、恥ずかしさを意識しないですむシステムに繰り込まれてしまうのは問題ではなかろうか

この場合、オペラ歌手のように公衆の面前に身をさらすことをためらう気持ちが市民階級の女性にあった以外に、とりわけ報酬の問題が重要であった。報酬を受けとるか受けとらないかということは、ディレッタントと職業音楽家を分けるうえで決定的な基準であった。一八〇○年頃のコンサート報告では、子どもの演奏家が舞台に上がった時でも、おそらく親の金儲けのためと勘ぐられることを避けるために、ディレッタントであるという断り書きがされている。この時代の偉大な女性ピアニストたちは、ごくわずかな例外を除くと、みな無報酬で演奏した

1783年の『音楽マガジン』より。18世紀の中村とうよう節。

金もうけのためにだけ催されるようなコンサートを、他のものと同列に論じるわけにはいかない。このようなコンサートを開くのは、たいてい旅回りの音楽家である。これらの演奏家は、さしずめ、誰もが欲しがりそうな商品ばかりを並べて売る商人のように考えられなくてはならない。彼らが何を演奏するかを決定するのは、流行や聴衆の好みである。したがって、コンサートのレベルもおのずと推測されようというものだ。かつてのように、本当にすぐれた技量をもつ演奏家だけが各地をまわってコンサートを行っていた頃には、そういったコンサートが、他の土地のさまざまな趣味や演奏法を聞き知る絶好の機会を音楽愛好家に提供してくれたものだった。しかし今では半可通や子どもが、自分の未熟な技術をひとかどの人物にまで聴かせる場として、これらのコンサートを利用するようになってきている。そしていうなれば世界のいたるところで、未熟な芸を売り歩いているのである。

明日はフェミ話だ。わーい。

2005-02-14 神々の闘争 このエントリーを含むブックマーク

神々の闘争 折口信夫論

神々の闘争 折口信夫論

大日本帝国がジェノサイドを敢行し、同化政策後、最も忠実で勇敢な部隊となった「蕃族」。生きるとは戦争だけであり、しかし部族内は絶対平等という首狩り族。

まさにアナーキーなユートピアとでも名づけるほかない「蕃族」の世界。「絶対戦争」と「絶対平等」を生存条件とした荒々しい野生の世界。しかしここで「戦争」と呼ばれている行為は、「蕃族」のなかでは自ら勇者となるための神聖な試練であり、それを逃れようとするものなど一人としていないのだ。そしてまた、そこに起こる「戦争」は徹底的に遂行される。「捕虜」という概念をもたない「蕃族」は、敵のすべてを老人、女、子供も合めて皆殺しにする。「蕃族」においては、「勇敢」と「残酷」はまったく同じ一つの概念であり、そこにためらいは存在しない。「戦争」のためにその生のあり方すべてが規定され、また彼らにとって、そのような「戦争の法」に従うことこそが、まさに「幸福」の実現である社会。

「蕃族」は、国家的な権力の形成にあらがう絶対的に平等で、強固に宗教的な統一をもった共同体を維持している。共同体の記憶は「移動」と「戦争」である。そこで「戦争」は文字通り殺し合いであると同時に「魂」をやりとりする神秘的な交流であり、すべてにおいて霊的な様相を呈する。(略)

つまりこの世界とは次元の異なる絶対的な外から、祖先の「霊魂」を自らの体内に取り込み、その「力」を得ることで神的な狂戦士が生まれるのである。おそらくこのような記述が、折口における、すべての権力の根源にあり、天皇即位における最高権力の受肉でもある「外来魂」を身体に賦与するというタマフリ儀礼の、民族的な裏づけとなっていったように思われる。

大東亜共栄圏」構想にはイスラムとの連帯・イスラム型天皇制というものがあったという話。

「明治維新」は「天皇」によって「民族」の覚醒が促されれば充分であったが、「昭和維新」では理念上同じこの「天皇」によって「民族」が解体され、もう一つ上の次元で新たな「共同体」として再結合されなければならない。

北一輝と大川周明

「世界ノ各地ニ予言サレツツアル「キリスト」ノ再現トハ実ニ「マホメット」ノ形ヲモッテスル日本民族ノ経典卜剣ナリ」(三四六)


排日運動の吹き荒れる上海で、北一輝がこの『改造法案大綱』の結論部分を執筆していたそのすぐ側には、大川周明がいた。書きあげられた『改造法案大綱』は大川の手に託されることになる。二人のあいだには一体何が話されたのであろうか。来たるべき「国家改造」と、それを軸にした「アジア共同体」の建設。そこに、大川が主体的に関わろうとしたイスラーム共同体のイメージがあったことはほとんど疑いのないように恩われる。


石原莞爾

石原にとってこのアジア共同体の盟主は「天皇」である。だが、「日本」はその中軸となる必要はない。「天皇が聯盟の盟主と仰がるるに至っても、日本国は盟主でない」(「昭和維新論」)。そして、この主張は大きな批判を浴びた。

折口信夫の夢想「純粋言語」

さまざまな文法構造を植物の「種子」のようにあらかじめそのなかに組み込み、無限に多様な「意味」を同時に、また重層的・多面的に包含する根源的な言語。(略)

折口の夢想のうえに胚胎された「純粋言語」。それはまた、「力」としての言葉であった。この「純粋言語」の包合するすべての「意味」が一斉に展開され、解き放たれた時、そこには、この時空を破壊し未知の新たな世界を現出させかねない、激烈な「力」が発生する。そしてミコトモチのもつミコトとは、折口の夢見ていた「純粋言語」が解放する、このような無限定・無方向な「力」に、一つの強力な方向づけを与えたものなのである。イスラームの預言者ムハンマドが、彼に従う、際限なくひろがる宝石の知覚をもった野蛮で勇猛なる砂漠の遊牧民たちに施したように……。その方向性とは、一言でいえば、至上なる「神の命令」である。

2005-02-13 サロンの思想史・その2 このエントリーを含むブックマーク

前前日よりの続きです。

既にお気付きかもしれませんが、肝心のサロンの風景についてはすっ飛ばしてます。スミマセン。

サロンそれは身分の違いを忘れて自由な会話や交際ができた空間。調子にのったヴォルテールが大貴族の息子に決闘を申し込んで従僕にボコボコにされて、サロンと現実の社会の乖離を思い知らされたりするのだけど。多分ネットでもしでかして、逮捕されるタイプ。

デカルトを受け入れたのは専門家ではなく面白い新思想を求めていた素人やマージナルな反体制の人々だった。

一七世紀前半でこれらリベルタン以外にデカルトを評価したのは、かつては『省察』(一六四一年)をめぐって彼と論戦を戦わせた大アルノーをはじめとするジャンセニストたちで、あの反デカルトの急先鋒のように見られているパスカルも、デカルトの「空想的な」自然学は攻撃するものの、霊魂と身体を截然と区別することによって死後の霊魂の不滅を証明しようとした彼の形而上学は高く評価していた。

「動物はただの機械ですから」と犬を打ち生体解剖するデカルト派。

当時日の出の勢いのデカルト派にたいしてガッサンディ派を含む他のすべての学派が論争を挑んだ、有名な「動物の霊魂論争」というホットなテーマであった。

周知のようにデカルトは人間にしか霊魂の存在を認めず、人間だけが思考と意志と情念をもつのであって、動物は理性をもたないことはもちろん、「意志」をもって行動したり、「悲しみや喜び、愛や楽しみ、ひどい苦しみ」などさまざまな情念を抱くように見えても、それは見かけだけで、実は「時計」のようなただの機械にすぎないと主張した。

繁栄時の啓蒙インディーズ・地下で写本を回せ

すくなくとも一七四〇年代までは、有能な宰相フルーリ枢機卿の手腕もあって、経済的には上昇の一途をたどり、人口は増え、戦争はすべて国境の外で戦われて旗色もよく、フランスがヨーロッパ一の大国として栄えた時期であった。そして豊かな繁栄の時期には、社会にそれほどつよい不満や改革への欲求が生まれるはずもなく、思想の解放、社会の改革を目途とする啓蒙思想は、まだこの時期には、大半が地下の日陰に細々と育つ存在でしかなかったといえる。世紀前半というこの時期が、地下写本という情報伝達手段の最盛期であったということこそ、まさに当時の思想状況を象徴する事実であった。

ねえ、ハスミン、こっちむいて

軽率なヴォルテールは一七五二年にベルリンのフリードリヒ大王のもとへ逃れるまでに、逮捕、投獄、国外追放、国外逃亡と、幾度となく危ない橋を渡っている。その一方で王立科学アカデミーの終身書記、アカデミー・フランセーズ会員として学界、文学界の大御所的存在で、またそのときどきの権力者とも近く、というふうに、百年にも及ぶ長い生涯のあいだ一貫して表舞台を歩いたフォントネルは、慎重に本心を心の奥深くにしまいこみ、生涯、地下作品の中でしかそれを吐露することはなかった。

公用語のラテン語で書いたガッサンディは全欧に名声を広げたが、男性社交人でさえラテン語読解に不自由する時代になると、一般読書界では読まれなくなり、フランス語で書いていたデカルトが広く読まれるようになる。

一八世紀はいわば「アンガジュマン」の時代であって、フィロゾフたちはなによりもまず自己の思想によって人びとを動かし、そのことをつうじて現実を変革しようと考えた。そのためには少しでもおおくの読者がその作品に接し、それを咀嚼する機会をあたえなければならない。彼らが作品の読みやすさに腐心し、彼らの思想を乗せて運ぶ魅力的な乗り物として対話を考え、小説を構想し、戯曲を組み立て、事典を編み、その他あらゆる手段を利用してその思想を広めようとしたのはこのためであって、彼らには、深い思索の成果ともいうべき深遠な成熟した作品などを完成させるべき余裕も、その意図もなかったものと考えられる。

[そんな彼らも一方で、孤独な思索による抽象的で読者への配慮を欠いたそっけない作品も残しているのだが]

女性に自由を与えた方が男性も得ですという、ランベール夫人のフェミニズム

なぜなら才能を伸ばす道を閉ざされて、浮薄な迷いに彷徨い、「自分自身でなくなることが、すべての逸脱の源なのだから」。夫人は高らかに宣言している。「私は女性を代表して男性にたずねます。あなた方は私たちにどうしろとおっしゃるのですか。あなた方は愛すべき精神と正しい心をもった尊敬すべき人と結ばれたいと、みな願っておいでです。さあ、それなら女性たちにその理性を完全にできるような努力を許しておやりなさい」。

ルソーの 「7歳にして男女席を同じうせず」

彼の小説『新エロイーズ』(一七六一年)によれば、フランスにおけるサロンや社交生活のように「たえず男女が入り交じった慎みのない形」が見られるのは、「フランス人とその真似をしている国々の住民」だけなのだ。これにたいして「世界中のどの住民のもとでも恒常的に見られる慣習」はというと、それは「男は男同士、女は女同士で暮らし」、「せいぜい食事をいっしょにするくらいで、そのほかに男女がともにすることはなにひとつない」といった生活様式なのであって、それこそがルソーによれば「もっとも自然な」男女のあり方であり、そしてこのような彼らの生活に、ときとしてつよい喜びでもってアクセントをつけるのは、全員がともに感情を分かち合う祝祭や収穫の集いなのだ。

明るい未来への進歩を確信する近代派と礼節かつ質素な時代を愛惜する古代派。

そして一七三〇年代以後は奢侈をめぐる論争がそこに加わっていき、奢侈が商工業を盛んにし、それによってひいては貧者をも含めた国民全体を裨益するという弁護論を展開するヴォルテールらの奢侈擁護派にたいして、反対派は奢侈を攻撃するとともに、一国を支える根幹として農業を尊び、質実剛健の生活をよしとするのである。

サロンのまとめ

そもそもサロンの役割は、女性を男性より一段劣った存在とみなす不平等な社会の圧倒的な圧力の只中にあって、大海のなかに浮かぶ離れ島のように、そこにおいてのみ男女の自由で平等な交際と会話を許容する特権的な架空の空間を創造することにあった。したがって、男女が自由に論じ合える場が数限りなく提供されている現代においては、サロンの主要な役割はすでに終わったというべきだろう。

2005-02-12 堀江社長のメディア批判 このエントリーを含むブックマーク

このあいだインサイトで山田五郎が「堀江社長って本当は物凄く繊細なんだけど、わざと逆に見せようとしてますよね」てなことを言って回りは誰も付いてきてくれなくて、孤軍奮闘の悲しい五郎。がんばれ、五郎。ただ僕は単純だし貧乏なのでアノ雰囲気が嫌いで、それに乗っかってる軽薄な連中も嫌いで、一連の野球騒動の時はある意味ナベツネ派だったのです。(それについては、ここにて。http://d.hatena.ne.jp/kingfish/searchdiary?word=%2a%5b%a5%d7%a5%ed%cc%ee%b5%e5%b9%e7%ca%bb%5d[プロ野球合併]まとめ])

そんなわけで、ニッポン放送買収についても無関心だったのだけど、さっき福留TBSを観てて、持ち合い株制度批判、メディア批判なのだなとようやく理解したのです(スミマセン、頭が悪くて)。「持ち合い株」についてはぐぐる検索トップにある「日本的経営・グローバル化の中で生き残れるか」ロナルド・ドーア講演てな文章を読んでも、

ところが、日本のような企業制度においては、社長の市場価格なんていうような概念はあり得ないわけです。それは戦争中の新官僚のおかげなんです。一橋大学の野口先生が言う、四十年体制の一環として株式市場を閉めて、取締役への面々を許可制にし、官庁が管理したんです。昭和初年の日本の株式会社は、むしろアメリカのような株式会社でした。取締役会を見れば、明らかに株主の代表に過ぎないような、全然会社の事業に知識のないような取締役が多く、ボーナスをたくさん取って、配当をなるべく高くするような会社が多かったんです。ところが、そういうような取締役は許さずに、技術家であるとか、生え抜きで事業をよく知っている人でなければ取締役にできないような制度が戦時中にでき上がって、その後ずっと続きました。(略)

株主にサービスしない企業は株価が下がる。株価が下がれば敵対的買収が安上がりなんです。全部、市場で株を買うんだから、株価が安ければ敵対的買収が可能になります。株式市場の規則は、アメリカ、イギリスとさほど変わらないんです。敵対的買収を可能にする特殊な規則が、日本で二十年ほど前にでき上がっています。

 ところが、事実起こらないのはどういうわけか。一つは、文化的な要因もあるかもしれません。つまり、企業というのは忠誠の対象となるもので、金で買えないというような文化的価値観があるという要素が多少入るかもしれません。しかし、より重要なのは、やっぱり持ち合い制です。持ち合い制がもともとでき上がったのは、昭和四十年代の資本自由化に近づくころ、アメリカの会社に買収されないように防衛線としてつくったものです。

 その防衛線を崩そうという動きが、現在の日本にあります。

一方的に悪いこととは言えない。日本独特の美風であるのかもしれない。独禁法だのなんだの全部アメリカが日本を乗っ取る陰謀のためで、堀江なんてその先棒を担いでいるだけだという批判もある。だとしても、今回堀江は球団合併の時はファック・ナベツネと叫んでいたメディアに、今度はお前らがナベツネだと言ってるわけだ。どうすんだよという話です。当然福留は買収成功失敗で話を収めようとしてるし、平田オリザは「球団合併の時は明らかな悪役があって、大衆の支持があったわけですが、今回はどうでしょう」とか言って誤魔化してやがる。

えー、どうにも書き方がヘタクソなので本題に辿り着かないのだが、何に興奮してぐだぐだ書いているかというとですね、例えば僕のような一般人だけでなく本をだしているような学者がメディア批判を口にするときにリアルなものがあるかというと実際ないわけだ。そりゃソエジー化して真実を口にしてるから狙われてると信じている人もいるだろうが、これ一冊書いて変わると思ってるかというと、ドウデショウ?(ソリャ、チイサナコトカラ、コツコツトという気持ちはありますがね)。それが堀江の場合、メディアはクソだろとメディアのど真ん中でリアルに主張しているわけだ。球団合併の時にしたって、メディアはナベツネをコケにできて、それで大衆が喜んで視聴率が稼げればいいわけで、後は堀江をホソキだのと同類のバラエティタレントとして珍重して一件落着していた。堀江がナベツネに向けた批判が自分達にも適用されるものだなんて考えもしていなかった。自分達が当事者じゃないときは大衆の代表・正義の代表のようにナベツネを批判していたのに、いざ当事者になると途端に話をそらすのである。自分達はだけは聖域だと思っている。その愚かさが露になっている。クソだろと言われてる方は、気付かない振りをしてマネーゲームに矮小化しようとしてて、堀江の方は素知らぬ顔をして淡々と自分のビジネスを語る。さらりとメディアの経営体質が批判されて、その下でメディア自体がリアルに批判されている。球団合併騒動は壮大な「釣り」だ。まんまとメディアが喰いついたところで、「今度は貴方達の番ですね」とニンマリする堀江。山田五郎的に解釈するなら、堀江社長って金儲けが生きがいのように見せているけど、本当は命懸けでメディア批判してますよね、となる。

でも、やっぱりアノ顔はなんとなく苦手だ。

[追記]

小生がホリエモン・ネタを保持していたことに気付いたので、紹介。

とっても大好き、ホリエモン

2005-02-11 サロンの思想史 このエントリーを含むブックマーク

サロンの思想史―デカルトから啓蒙思想へ

サロンの思想史―デカルトから啓蒙思想へ

デカルト哲学の隆盛や新科学ブームにより17世紀後半には一掃されたルネサンス思想

これらルネサンス哲学者の世界では、霊魂が宇宙に偏在して万物を形成し、宇宙全体が生きている。すべてのものが照応しあい、あるいは共感をもって引き合い、あるいは反感によって斥け合う。ある種の植物や鉱物が嵐を呼び、ある種の動物が予言をし、彫像が汗をかき、また亡霊が出現する。魔女狩りの狂熱が最高潮に達したのもこの時期であった。そこではすべてが可能であり、自然と超自然の境目も明らかでなく、自然そのものが魔術的であり、超自然的だったのである。とくにこれらのイタリア・ルネサンスの魅力的な思想に共通するのは、世界の動きのすべてをつかさどる「星辰」の絶大な影響力と、宇宙の万物を形成するという宇宙霊魂の思想であった。彼らによれば、高貴な「星辰」の運行は地上のすべての出来事を支配し、大宇宙に対応する「小宇宙」である個々人の運命をつかさどり、人間がこの「宿命」から逃れることはありえない。

だが1740年代にニュートン的宇宙がデカルトを打破する

デカルトの自然学は、せいぜい大まかな漠然とした数量による説明に終始しているのにたいし、ニュートンの場合は、はじめに不可思議な「万有引力」という遠隔作用の存在さえ容認すれば、あとは天体の運動から地上の物体の落下にいたるまで、宇宙の一切の運動が、同一の、しかも厳密に数式で表現し得る法則にもとづいて説明されているからだ。

ところが面白いことに厳密になったら逆に神の力が

だがまたニュートンの物理学は、自然界への神の介入をデカルトの自然学よりもはるかにつよく大きく感じさせるものであった。その好例が万有引力であって、それは、ニュートンによれば「まったく力学的でない原理」であり、「その原因は神の御胸のうちにある」のだという。

(略)

これらすべては、はかり知れない神の意志によるのであって、このように宇宙のすべては神の自由な意志をあらわし、神の存在を示すのだ・・・こうしてニュートンの哲学はヴォルテールその他の理神論者の、何よりも力強い味方となった。それだけではない。ニュートンの学説が普及するにつれて、デカルトの宇宙から排除された目的因、デカルトに厳しく否定された宇宙の目的論的解釈がふたたび息を吹き返し、大は自然の比類のない秩序から、小は小さい昆虫の不思議までも動員して「無限の英知」の意図を説明しようとするキリスト教護教論が、きびすを接して出現することになる。

タブラ・ラサ(空白の石板)論の流行。

18世紀中頃、ロックの影響を受けたコンディヤックはロックが手をつけなかった精神的諸機能まで後天的に獲得されるとした。ルソーの暗い留保は掻き消された。

このような考えを極端にまで押し進めたエルヴェシウスなどは、生まれ落ちたときの人間の精神は、まったくの白紙であって、教育の力と、人間を取り巻く社会という環境の作用によって、これを思いのままに捏ね上げることができるとまで考えたのである。

こうした風潮のなかで、人間というものが永遠に固定して変わらないものではなく、多少とも後天的に形づくられるものだと、少なからぬ人たちが考えはじめたとしても、それはけっして不思議なことではない。人間のもつ「完成可能性」という語はルソーの造語だといわれているが、この幸運な新語は、たちまちフィロゾフたちに利用され、まさに時代の象徴的空言葉となった。そして創案者ルソー自身は、外的な環境の変化に刺激されて、人間の知的、精神的能力を発達させるというこの潜在的な能力が、社会における人間の堕落に寄与した不吉な一面をけっして見逃さなかったけれども、やがては、まるで人知と社会の無限の進歩を保障するような、この語の楽天的な、明るい響きのみが強調されることになる。

引用長過ぎ。しかもこれでまだ一章だけ。先は長いぞ。

2005-02-09

[]「Coladejure」公開。 「Coladejure」公開。を含むブックマーク

http://nextmusic.weez.mu/index.php?command=profmusic&profid=20050210141614

[時間軸制作感想]

0:00-1:00 出だしは快調

1:00-1:40 ホーンとかフルートはESXについてきたネタCDを使用。この感じをちゃんとまとめられると、もっと音楽らしくなると思われるが、そういう能力がないのである。

1:40-2:10 いきあたりばったりで展開をはかるが行き詰る。いつものことだ。

2:10-3:00 材料が足りなくなったので再度ESXをグネグネいじってネタ作り。またいつものようにグダグダしつつ盛り上がりに欠けて終了。やっぱり盛り上がりがないってのが問題なのだろうか。

2005-02-08 中世びとの万華鏡・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日より続いております。

禁欲の流行

十一世紀の終わりから十二世紀初頭にかけて修道院制度そのものが内側から変化し、多くの新しい修道会が創立され、禁欲的生活を実践するためにより完璧な形態が創設された。世俗世界に禁欲の実践が大流行したのはこれに並行している。

王の統帥権は不安定で戦場での勝利により強化するしかなかった

たしかに、中世の国王とその家族は生涯の大半を宮廷の外で過ごし、移動に起因する疲労と不安と常に闘っていた。(略)中世の政治における秩序は、危機を回避する努力によってつくりだされていたのである。平和は、戦争と戦争の間のつかの間の息つきの期間である。封建的統治とは、命がけで無政府状態と妥協しようとした実態につけられた理性的すぎる名前であると考えれば、もっともよく理解できるのではないであろうか

王の聖なる威光

十三世紀までには、王が触れて病気を治すということは永続的な奇跡になっており、王権のもつ「魔法にかけられた」雰囲気を醸し出してそれを強化していた。治療を求めて来た人が何千人にもなったことを考えると、この西洋の二大王国が名声を得たのは、その政治的、軍事的優位性のみならず、王たちがもつ治療能力によってもいたのではないかと思わざるを得ない。

修道女を孕ませた男の睾丸を他の修道女が切り取って妊娠修道女の口につっこんだ話

彼女たちの立ち居振る舞いにはいわゆる女性的とも宗教的とも感じさせるものがほとんど存在しない。しかし、よくあることではあるが、間違っているのは現代においてわれわれが使っている「女性的」という語の意味のほうであり、言葉そのものではないのである。というのは、十二世紀においては、女性性(femininity)は冷酷な残忍さを含意しており、また宗教性(religiousity)は野蛮さを含意していたからである。

生殖は忌まわしい

創造された世界は霊的世界よりはるかに劣るものであるとグノーシス主義者たちは信じていた。そこには、霊的世界は不完全にしか反映されていないと彼らは考えていたからである。物質は悪である。したがって、物質的存在をつくり出すことは悪をつくリ出すことと同じであり、生殖行動は忌むべきものになった。その結果、女性の母的機能・役割を完全に廃止しようとしたり、結婚を悪魔の仕業であると見なすグノーシス主義の分派が数多く現われるようになった。

一方で、「明るい衣をまとった女性姿の」キリストを夢で見た女性崇拝のグノーシスの一派もあったりして。当然指導者にも女性が多い。

こうして、一四世紀を迎えるころまでには、一年のうちのおよそ二二〇日は性行為をすることが公に禁止されるようになっていた。そして、ほかにも、さらにもっと自主的に禁欲をするよう促す圧力がたくさん存在していたのである。また、性行為をすれば夫婦は不浄となり、秘蹟を受ける価値がなくなるとも考えられた。

そしてラスト

中世のヨーロッパに生きるためには、日常経験する出来事が、過去とも未来ともつながる取り返しのきかないことであり、信条や判断が、互いに補完的な概念が広く網の目のように広がった世界と切っても切れない関係にあるということを認めなければならなかった。厳密にいえば、中世びとは誰も真実を発見しようなどとは考えなかった。そうではなく、その輪郭がおぼろげながら見えたとき、絡みあったたくさんの真実の陰の部分に光をあてようとだけはしたのだ。この点において、学のある者も学のない者も同じ立場にあった。どちらも、一片一片の形がヒントとなるジグソーパズルを完成させようとしている人間のような観点から、経験したことをとらえていた。そして、どちらも、パズルの埋め残した部分から手持ちの一片がどう使えるかを決めたのであった。学のある人間のパズルは学のない人間のパズルより種類が豊富で、知的にもまた直観的にも整然としていた。学のない人間のパズルは、もっと単純で主観的なものであった。だが、彼らが見た真実の形はただ一つであったのである

2005-02-07 中世びとの万華鏡 このエントリーを含むブックマーク

1/24でも少し引用した

13世紀後半に書かれた「天と地が接する場所を求めて旅に出た三人の修道士」の話から始まる。それは歴史的名所巡り(時間旅行)と霊的名所巡り(幻視)と現実の旅が融合されたドラゴンやユニコーンが存在する世界。

この修道士たちの旅の背景を構成しているさまざまな姿をもつ現実は、あたかも現実の境界がたゆまなく変化する「魔法にかけられた世界」にたとえることができる。あるときには、時間と空間の現実の範囲がはっきり認識される場合もある。また、ある場合には、無視されたり、ある意味では超越してしまうこともある。しかし、このように目に映った現実の範囲が拡大したり縮小したりすることは、中世においてはあまりに日常的かつ機械的に認識されていたことであるために、とくに中世の作家たちの目にとまることもなく注意を喚起することもなかった。むしろ、このような現象はすべての中世文化に当てはまる暗黙の行動様式であり、世界を認識する行為そのもの以上に基本的なことであったため、はっきりと意識されることがほとんどなかったのである。もちろん、中世に生きた男も女もこのように柔軟な心像をもっていたからといって空想と現実を区別できなかったということにはならない。ましてや、目に見えるものと見えないものとの違いに当惑したり、惑わされたりしていたということでもない。むしろ、この点に関して、われわれ現代人の理解を妨げているのは、われわれの精神がもつ感性、すなわち実体をもって目に見えるものは実在のものであると思い込んでしまう感性なのである。

ここに1/24に引用した実体のないものほど神に近いという部分が来る (id:kingfish:20050124)。

霊的なものへの対処

たとえ中世びとが霊的な存在を信じていたといっても、それらが人間にとって有益な存在であるとは考えていなかったからである。しかし、そこにはオカルト的、宗教的な対抗手段があったので絶望を感ずることもなく、目に見える世界と見えない世界との間の調和がそれなりにできていたというわけなのである。教会も、ある特定のオカルト的知識は糾弾したものの、事実上、この調和を保つことに積極的に協力していた。

占星術

イタリアでは、占星術が急速に重要な知的職業となった。ボローニャ、ミラノ、パドゥアの大学すべてに占星術の講座が開設され、その研究者たちによって大量の研究書が書かれた。しかし、イタリアでもっとも著名な占星術師だったチェッコ・ダスコリが異端審問によって一三二七年に火刑に処せられたことが発端となって狂乱が発生し、占星術の知識を身につけることに対する偏見が生まれた。

夢(ヴィジョン)を現実と信じる幻視的想像力で中世人は現代人以上のものを見ていた。超自然的光景を恐れはしたが、それをなにかの示唆として受け止める感性があった。現代ではヴィジョンを見るものは現実と乖離しているが、中世ではヴィジョンが現実を規定した。

中世という過去の時代を理解しようとすれば、ある知見と折り合いをつけざるを得なくなる。ところが、その知見とは現代の教育がほとんど信用できないとして切り捨ててきたものなのである。中世時代におけるヴィジョンに対する想像力は、合理的精神に拠って立つ歴史家にとっては、長らく厄介で困惑の種でしかなかった。しかしそれは、中世時代には異常などではなく、ごくありふれたことだった。

超常現象を求めていたのではなく、ただ時刻を知ろうとして星をみていた修道士たちが空に巨大な船を見る。幻ではないリアルな船を。やがてそれは消えたので、雲であったのだろうという結論にいたるが、それでも「すばらしく驚くべき」雲であったと受け止める。つまり何かを見るといきなりオカルトの彼方に行ってしまう現代人よりある意味ずっと冷静であったわけだ。

聖職者の明蜥さや権威を越えたところには、常にヴィジョンの神秘が横たわっていた。聖職者は平信徒と同様、啓示の前には黙して立ちつくすばかりだった。聖職者は地上の現実を支配することはできたが、ヴィジョンはこの現実は永遠の真理の単なる反映でしかないということを思い出させるものだった。何かの弾みに、人間には永遠の真理の輸郭が示される。そのとき、突然の恩寵によって知覚するものと知覚されるものとが一つになり、この世界のヴィジョンはもう一つの世界のヴィジョンに結ばれる。

引用が長いね。明日もまだまだ続く。