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2005-03-31 数量化革命・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日よりのつづき。

古典古代から中世初期の音読

一方、読むというのも骨の折れる作業だった。単語と単語はほとんど、あるいはまったく区切られていなかった。書き手がスペースをあける場合も、すべての単語の後にあけるわけではなかった。彼らは読みやすさなどはおかまいなしに、自分に都合のよいところであけていた。言うまでもなく、文章と文章も、段落と段落も区切られていなかった。句読法に類するものは、ないも同然の状況だった。

書くという行為は、ぺージの上で語ることにほかならなかった。それゆえ、古典古代と中世初期の知識人たちが通常は音読したり、文章を読み上げながら書いていたことは、驚くに当たらない。だからこそ聖アウグスティヌスは、恩師の聖アンブロシウスが黙読していた様子を説明する必要があると思ったのだろう。

まさに漢文の世界。レレレのレ点。

西ヨーロッパの知識人は、古代ローマの書記法や読み書きにかかわる一般的なルールを変更したり、改良した。彼らをこうした行動に駆りたてたのは、地方意識の高まりと、彼らが総じてラテン語の高度な知識を欠いていたという事実だった。文化の中心に位置するローマの人々はラテン語に通じていたので、単語を区切って書く必要など感じていなかっただろう。ましてや、ラテン語を正確に発音するために単語を区切って書く必要があるなど、思いもよらなかったにちがいない。けれども、キリスト教世界の中心から遠く離れた霧深い辺境に住むサクソン人やケルト人の聖職者たちは、ラテン語に習熟していなかった。

黙読がもたらしたもの

十五世紀になると、諸々の大学は--ソルボンヌは自然の流れによって、オックスフォードとアンジューはそれぞれ一四一二年と一四三一年に定めた規則によって--狭いうえに大食堂に劣らず騒々しかった図書室を拡張し、静謐な場所とする方針を確立した。つまり、静寂と、書物の内容を理解することが結びつけられたのである。かくして黙読が主流となり、人々はより速く、より多く読めるようになり、そしておそらくは、より多くを学べるようになった。読書はいまや、より個人的な--それゆえ、異端の説を生み出す危険をはらんだ--行為となった。

十世紀過ぎのリスクヘッジ

十世紀以降は、商人が扱う商品の量も金額も増す一方で、扱う品目も多様になった。商人は資本と技術を共同で投下し、失敗に備えて防御策を講じるために、共同で事業を営むようになった。防御策とはリスクを分散することにほかならず、想定される一つの大きな災厄をさまざまな要素に分解し、それ一つだけなら不運として対処できる小さな災厄の集合体に変えておくということだ。彼らはやがて、共同経営につきものの事態に直面して困惑した。すなわち、共同経営者のある者は早く亡くなり、ある者は長く生きるということだ。だが、共同事業の借方勘定と貸方勘定は生身の経営者にではなく、事業そのものに属しており、永遠に生き続けるように思われた。

最後に当時の商人がいかに辛抱強くかつ正確に長期に亘る商取引を把握していたかについて書かれた文章をわかりやすく年表化してみました。

[フィレンツェのダティーニさんの場合]

1394/11/15 マヨルカ島に羊毛を発注

1395/05 派遣された代理人が29袋の羊毛を買い付け

  ピサで39個の梱に詰め替え。

  21梱はフィレンツェの顧客に、

1396/01/14 残りの18梱がプラートにある倉庫へ

1396/07 羊毛から36ヤードの毛織物が6反仕上がる

  アペニン山脈をこえてヴェニツィア

  そこから海路マヨルカ

  マヨルカ市場不景気のため、バレンシアへ

  売れ残りがバルバリアへ

  さらに売れ残った一部がマヨルカへ返送

1398  ようやく完売

2005-03-30 数量化革命 このエントリーを含むブックマーク

数量化革命

数量化革命

十六世紀戦争のハイテク化。

十六世紀の軍事教本には、平方と平方根の表が載っているのが通例だった。将校たちはこれらの表を手引きとして、ルネサンス期西ヨーロッパの新たな戦闘隊形に、数百人から時には数千人の兵士を編成した。戦闘隊形は正方形その他の四角形、三角形や大鋏形など、実に多彩だった。いまや将校は有能たらんとすれば、「代数と数字の大海原を骨折って進む」か、数学者を雇って助力を求めなければならなかった。(略)

新しいタイプの戦争は歩兵を単なる数量に変えていた。彼らは古代ギリシアの重装歩兵隊や古代ローマの歩兵隊の兵士たち以上に、自動装置のごとく画一的に行動することをしこまれた。

西ヨーロッパ人は周辺的な存在だった

系統発生的な古代からの伝統を欠いているという点で、西ヨーロッパ文明は偉大な諸文明の中で異色の存在だった。西ヨーロッパ以外の文明杜会では、伝統的な文化の枠組みは彼らの過去に深く根づいていた。(略)

彼らにとって最も重要な聖地が西ヨーロッパの圏外にあったこと、さらにサラーフ・アッディーン・ユースフ(サラディン)が十字軍を撃退した後は、キリスト教世界の圏外に追いやられたことを指摘すれば十分だろう。「敬うべきモデル」は、外来の要素を数多く含んでいた。このことと少なくとも同じくらい厄介だったのは、このモデルが本質的に相容れない要素を内包していることだった。このモデルのギリシア的要素とヘブライ的要素は(極度に単純化することを許してもらえるなら)それぞれ合理主義的、神秘主義的であり、全体の調和を乱していた。それゆえ、西ヨーロッパ社会は彼らのライバルたちとは異なり、説明する者、調整する者、再統合する者を絶えず必要としていたのである。

分類。はじめての目次。

古代の文献類はまったく整理されていない状態で、西ヨーロッバにもたらされた。それらは分類されておらず、また分類するてがかりもなく、浜に打ち上げられた鯨のように扱いにくい代物だった。スコラ学者は本文を章に分けて、章ごとにタイトルをほどこすことを考案した。彼らはさらに、欄外見出しや相互参照システム、引用文献の一覧表示まで考え出した。(略)

スコラ学者が考案した諸々のシステムの中で、おそらく最も革新的で有用だったのは、書物の内容を小分けにして示す目次というシステムだろう。ギリシア人とローマ人の著作は、それを初めて読む者が迷うことなく、総論から見出し、小見出し、特定の事項へと順次たどり着き、そこから総論に戻れるような形では著わされていなかった。スコラ学者はそうしたプロセスを可能にする目次というシステムを開発した。

価格はあらゆるものを数量化し、時間にさえも値がつくことに

さらに、時間にも--負債にかかる利子は借用期間に応じて算出されるので--価格がつけられることがわかってくると、時間は神の独占的な財産であるがゆえに、こうした事態は人々の精神と道徳観に緊張をもたらした。時間に価格がつけられるなら、つまり時間の価値も数字で表現できるというなら、熱や速度や愛情といった分割できない諸々の不可量物も、数字で評価できるのだろうか?

計算貨幣

一部の金貨はかなりの期間にわたって、市当局が保証する価値を市場で維持した。こうして、新しい抽象的な価値の尺度が西ヨーロッパに出現した。(略)[だが安定した金貨でさえ変動する]このように、状況がきわめて流動的でありながら請求と支払いは行なわざるを得ないという事態に陥ったときに、西ヨーロッパ社会は抽象の世界に向かって、さらに大きな一歩を踏み出した。すなわち、彼らは計算上でのみ存在する「計算貨幣」という便利な貨幣の概念を発展させたのである。

卑しい地球が中心なわけないじゃない

「敬うべきモデル」が提示した宇宙像は、スコラ学者の中でも比較的自由な発想をする人々には、あまりに限定的で品位にも欠けるように思われた。地球はしょせん、人間の王たちがおのれの権益を守らんとする場所に過ぎないのに、どうして神が宇宙の中心に地球を据えたりするだろうか?さらに、安定した状態の方が運動している状態より高貴であるなら(このことは、「敬うべきモデル」では自明の真理とされていた)、なぜ、諸々の天体が回転して、卑しい存在とされている地球だけが静止しているのだろうか?

空間が均質で計測できるならば、人間の知性が及ぶ空間は拡張する。

コペルニクスの理論が暗に示した宇宙の本質をはばかることなく主張した最初の人物--少なくとも最初の著名な人物--は、ジョルダーノ・ブルーノである。彼はドミニコ会士として人生をスタートしたが、最期はローマで火刑に処せられた。ブルーノは宇宙には中心も周縁も、上も下もないと主張した。このことが、アリストテレス主義者、カトリック教徒、カルヴァン主義者をはじめ、無限という概念を生理的に忌避するすべての人々を憤慨させた。彼が提示した宇宙は均質で、無限で、無数の世界が存在する---なんと、けしからぬ宇宙像ではないか。

最後までいくと長くなりそうなので、明日に続ける。

2005-03-29 三島由紀夫と橋川文三&ルネサンス文化史 このエントリーを含むブックマーク

三島由紀夫と橋川文三

三島由紀夫と橋川文三

64年三島自選短編集の橋川による解説より。

戦争は三島や橋川にとって異教的秘宴であり

それは永遠につづく休日の印象であり、悠久な夏の季節を思わせる日々であった。神々は部族の神神としてそれぞれに地上に降リて闘い、人間の深淵、あの内面的苦悩は、この精妙な政治的シャーマニズムの下では、単純に存在しえなかった。第一次大戦の体験者マックス・ウェーバーの言葉でいえば、そのような陶酔を担保したものこそ、実在する「死の共同体」にほかならない。夭折は自明であった。「すべては許されていた。」(略)

そしてまた、たとえば少年が頭を銀色の焼夷弾に引き裂かれ、肉片となって初夏の庭先を血に染めることも、むしろ自明の美であった。全体が巨大な人為の死に制度化され、一切の神秘はむしろ計算されたものであった。

橋川に師事していた著者が目撃した、吉本隆明チョットいい話。

葬儀当日、裏方の手伝いをしたわたしは、後に回収された弔辞の他の人のものが、巻紙に墨痕も鮮やかに揮毫されていたのに対し、吉本のそれは、普通の原稿用紙にボールペンで乱雑に書かれ、しかも推敲に推敲を重ねた跡が、生々しかったのを見つけた。

第一章から。

絵画、建築、そして彫刻が花開き、文学作品もますます洗練度を増し、稀に見る高さの教育理念が表明される一方、都市の経済はすべて壊滅状態で諸産業は衰弱してほぽ封建的性格と言ってもよい農業に回帰しており、都市の自治も揺れ動きコムーネの〈自由〉も霧散し、教会も腐敗の度合いをさらに深めていた。オスマン・トルコの攻勢やコンスタンティノポリスの陥落は、新たな〈蛮族〉の侵入の不吉な前兆として映る一方で、ピウスニ世のごとき教皇が召集した十字軍は無関心と徒労のうちにむなしく幕を閉じることになろう。一四五九年、マントヴァにてピウスニ世がヨーロッパ全土から集まったキリスト教君主たちに情熱的な言葉を向けた際、凍てついた会議に熱狂の気配も見えず、(略)「神がそれを欲し給う」と叫ぶ騎士などはもはやいず、教皇の長ったらしい演説に黙して耳を傾けるだけのうんざり顔の外交官の世であった。(略)

そして実際、初期イタリア・ルネサンスの偉大な作品や人物を映し出す社会はおおかた、陽気というより悲劇的で、平和的であるより多難かつ残忍で、澄明かつ調和的であるよりも不可解・不安定な世界である。レオナルド・ダ・ヴィンチは、破局の幻視にほとんどいつもつき纏われ、その素描や手稿の中に死の世界を湧出させている。

一応二冊とも全部読んだんだけど。て、手抜きじゃないから。明日はちゃんとやります。

2005-03-28 ルネサンス哲学&貨幣空間 このエントリーを含むブックマーク

新世界の種族は人間なのか

学問の世界が印刷された言葉の射程とともに拡張するのと同時に、経験の世界もますます広く大胆になっていく探検航海によって拡大した。哲学者の書斎に及んだその波及効果は予想外に大きなものだった。新しい土地や民族の発見は、プラトンとアリストテレスがその中で生き考えた空間を破り、彼らが自然哲学と道徳哲学の枠組として当然のように受けいれていた狭い境界を破壊した。とりわけ緊急を要する問題は、新世界の人々がヨーロッパ人と同じだけ人間的なのか、それとも何か新奇で下等な種族なのかというものだった。この問いは、十六世紀スペインにおいては大問題であり、アメリカ合衆国の建国者たちがその憲法を起草した後の人間の平等と奴隷制に関する哲学的議論にも、依然として反響していた。

ネットはネットで取り締まれ。思想弾圧も印刷技術で対抗。

逆説的なことに、この新しく効率の悪い検閲制度に技術的基盤を与えたのは印刷機だった。書物が印刷されるのを妨げたり、出版された書物の流通を制限したりするための権力以外に、多数の人間の意見を操作しようと望む検閲者は、独自の禁書リストを流布させ統御する必要があったからである。一旦印刷してしまえば固定化し流通させやすくなるために、検閲者は、印刷された目録あるいは反=目録を求めた。

スコラ学の最大の勝利

スコラ学の最大の勝利は、もちろんアリストテレス主義の伝統のキリスト教化だった。最も偉大なスコラ学者アクイナスは偉大な論理学者ではなかったが、彼がつくりあげた哲学的神学は、異教徒のアリストテレスをキリスト教会に奉仕させた。これは、異教的過去の叡知を回復すると同時に浄化する必要を強く感じていた文化にとって、はかりしれない価値のある贈りものだった。

貨幣空間

貨幣空間

第一章だけ。

皇帝から海岸地帯を与えられたファウストは、海を埋め立て、運河を掘り、堤防を築いて、新しい居住地を建設する。彼の仕事は人民の生活を”豊か”にしたはずだ。しかし広大な新しい土地を支配する領主である彼にも〈所有〉し切れないものがあった。菩提樹の木立ち、その傍らの茶色の板小屋、朽ち果てた礼拝堂、そしてそこで昔ながらの慎ましい生活を続けるバウチスとフィレモンという老夫婦の狭い土地だ。ファウストは、老夫婦の生活が自らの築き上げた新世界秩序に属していないことに苛立ちを覚え、礼拝堂からの鐘の音に胸をかきむしられるような苦しみを覚える。”全て"を同一化する貨幣の論理は、自らの領域内に同化されない、”異質なもの"が残留することを許さないのだ。(略)

彼が近代的な生産の力によって所有権を拡大すればするほど、ますます彼から遠ざかっていくものがある。ゲーテが『ファウスト』を書き終えた十三年後にマルクスが『経哲草稿』で定式化したように、近代的な生産は生産者を自らが獲得しようとしているものから〈疎外〉してしまうのだ。

2005-03-27 奇妙な経済学を語る人々 このエントリーを含むブックマーク

デフレ脱却こそが最大の構造改革ですからあ。

外資産価値が自国通貨で保全されないことは面白くないのか。衰退したっていいじゃないか為替差益があるんだもの、蜜男。

自国通貨建てで海外に投資することがいつも利益を生むとは限らない。大英帝国が発展するとき、海外投資は当然、金に裏打ちされたポンド建てでなされた。ところが、衰退するとともに投資はドル建てでなされるようになった。これを面白くなく思ったイギリス人も多かっただろうが、これこそがイギリス人の富を保全したのである。イギリスの衰退とともに、ポンドが下落し、ドルは上昇した。このことが、イギリスのドル建ての海外資産の価値をポンド建てで高めた。イギリス人は莫大な為替差益を手にしたのである。衰退する大英帝国のイギリス人は、外貨建て海外資産によってこそ高いリターンを得たのである。

ごろつきから金を借りた民間企業を政府が救うことが、ごろつきにチャンスを与える

一橋大学の清水啓典教授は、今日、最も利口な商売は、外国向け銀行を設立し、法外な金利で怪しげな発展途上国の企業に貸出を行い、その回収が危うくなれば、国際金融システムの危機だと騒ぐことである。そうすれば、必ずIMFは、それを防止しようとして、その国の政府に民間負債の肩代わりを強要し、その国民への課税によって返済を保証してくれるからである。IMFは、事実上、外国銀行のための国際的債権回収機関として機能していると言わざるを得ないという

明治以来の工業化がもたらした人口移動。

人口下位ランク県に暮らす無学な小生は、新潟を雪深い角栄王国と捉えていたのですが。新潟の歴史本とか借りてみようかな。

明治の初期に一番人口の多かった県は米どころの新潟県である。米の収穫量で人口が決まることをこれほど明らかに示す事例はないだろう。しかし、1910年には、新潟県は第五位に低下してしまう。1880年に、全都道府県の人口の上位三県(新潟、兵庫、愛知)のシェアは11.3%、ところが1910年には上位三県(東京、大阪、兵庫)のシェアは22.3%。

シャウプによる税の中央集中システムの完成

現行憲法をアメリカの押しつけだという日本人はいるが、現在の地方財政・税制を押しつけだという日本人を私は知らない。

2005-03-26 悪魔の歴史・その3 このエントリーを含むブックマーク

悪魔の歴史12~20世紀―西欧文明に見る闇の力学

前日より続いてます。今日は一挙に最後まで。

マックス・ウェーバーの論文の主題が、宗教を巡る社会学である点を忘れるなと著者。

十六世紀の中葉以降、神の厳しい目に晒され、災厄だらけと見なされた世界に於いて、大いなる不安の時代が幕を開ける。プロテスタント同様にカトリックも、足元に地獄の裂け目が口を開けつつあるという感覚、あるいは、デーモンが各人の存在を絶えず狙っているという感覚に襲われたはずである。このようにして個人に罪悪感を刻み込むメカニズムが作動し出すと、人々は創造主が人間をまだ見放してはいない証拠を、躍起になって探そうとする。キリスト教徒としての勇敢な闘い、外部世界への宣教活動、他の諸民族への伝道、魔女に代表される内部の敵を殲滅しようとする姿勢、これらは皆、上記の精神世界に由来する行動である。

ファウストはユマニストだから地獄堕ち

こうして、ヨーロッパの知識人文化は、十六世紀初頭のユマニストたちの理想に、大々的な攻撃を仕掛けていく。古典古代から継承した知識と美に対し、ファウストが示した飽くなき探求心こそが、彼らユマニストたちの求めたものでもあった。ところが今後は、一切を知り、一切を行い、一切を味わい尽くすことは、神に対する反逆と見なされるようになったのである。この点ではルター派も、イエズス会士を含む当時〔十六世紀末から十七世紀前半]のカトリック側の学者たちも、意見を同じくしている。結局、神に反するこの罪には劫罰しか残っていない、と見なされたのである。

昔からゲーム脳ってことだよ。ヴァーチャルだよ。リセットだよ。説教のための恐怖描写なのだが、読者は説教より悪夢の方にうっとり。

悲劇譚は、読者の想像界の内に、刑罰を伴う道徳やら危機一髪の結末やらを刻印し、現実の「法」を援用し強化する方向へと向かうのである。読者の関心は、罪人の模範的な最期などに向けられてはいない。そんなものは、公開処刑などの折りに目にできるし、また道徳のマニュアルの内にも詳細に書かれているからだ。読者が本質的にこだわるのは、夢の翼に乗って旅をし、禁じられた事柄を目にして恐怖に震えること、しかもその後、良心の呵責を感じることなく、改めて現実の世界に戻って行くことなのである。つまり、ある意味で、禁断の果実を味わいつつも、その結果は被らないことなのだ!こうして悲劇的文学の内部に於ける夢想上の探検を通して、ヨーロッパ文化の内に新しい一面が開かれていく。

恐怖には礼儀作法で。羞恥心を高めて、下着をつけろ。

彼らは1620年から1630年にかけての時期に、礼儀作法の書を通して、自らの情念や衝動を抑制し始めたのである。つまり、罪に対する恐怖心のライバルとして、優雅に振る舞い、洗練された話し方を身に付けたいとする欲求が、換言すれば、社交上の礼儀正しさという概念が出現したのだ。いつまでも悪魔の影に怯えているよりも、この方がまだ心地よく自らを律せられるというものである。(略)

全体として見れば、悲劇的なるものは緩やかながらも廃れていくのである。バロックのフランスは、やがてルイ十四世治下の古典主義の絢燭たる開花を前にその姿を消さざるを得ないだろう。これら二つの支配的文化に挟まれた過渡期にあって、悪魔の攻撃や汚染された空気に弱い開かれた身体という概念は、哲学的合理主義や科学的発見の影響の下で、徐々に遠景へと退いていく。このプロセスがその歩を速めるためには、確かに十八世紀を待たねばなるまい。だが、既に変化の兆しは見られるのである。この変化はやがて、羞恥心という敷居を高くしていき、身体の自然に基づく機能を隠蔽し、下着を付けるという風習へと繋がっていく。最後の下着については、それが閉じられた身体概念を形成する上で、象徴的な役割を果たしたことを忘れがちであるから、よく注意せねばならない。

他を許さぬ統一の夢が、逆に細分化をうむ

ヨーロッパが一切の相違点を否定する方向へと舵を切ったのも、まさしくこの頃である。それは、唯一の厳格な神の視線の下で、権威的な融和を図ることを目的としていた。例えば、カール五世ならびにハプスブルク家の後継者たちは、普遍的な帝国という観念に取り憑かれている。またフランスは、フランソワ一世からルイ十四世に至るまで絶対王政の道を歩んでいる。(略)

この他にも、統一を企てる、ある種不可能な夢の追求が随所で為されている。こうして十六世紀の後半から十七世紀の前半にわたって、鉄と火と血の時代が続くのである。つまり西洋は、細分化に耐えられぬがゆえに、また、それぞれの陣営が己の法を他者へ押し付けようとしたがゆえに、却って細分化を免れなかったのである。

悪魔を信じないとヘタに言うと無神論者にされるわけで

イングランドでは一六四六年に、ある作家が深刻な様子でこう書き残している。もし人々が悪魔は存在しないと考えるようになったら、即座に、神も存在しないと思うようになってしまう、と。あるいは一六三五年のこと、やはりイングランドのある懐疑主義者は、こう挑発している。悪魔がいるなら現物を見せてくれ、そうしたら自分も神が存在すると信じるだろう、と。このように、神と悪魔の概念は密接に絡み合っていた。キース・トーマスはこの点に関し、「内在的な悪魔は、内在的な神という観念を支える主要な補完物である」と喝破している。

サタン神話に取って代わったフロイトの無意識[ここらへん(id:kingfish:20041205)で引用した「思想史のなかの臨床心理学」とも関係あり]

西洋を揺り動かした、深い文化的変動の言わば共鳴箱として、彼はまさしく、加速しつつあった近代という転換点に位置しているのである。この変化を密かに駆り立てていたのは、共同体よりも個人を上位に置こうとする動機であろう。そのため、これまでは教会や国家および社会関係を紡ぎ出すその他諸々のシステムが、強い圧力や規範を押し付けていた領域に、力学的な緊張関係が持ち込まれることになった。(略)個人は、自らの自我がかけがえのないものであることを夢見、その夢想の上に立って自分の運命をより良く操作しようとした。(略)

人文科学が、伝統的なサタン神話の廃墟の上に築かれたという意味である。人文科学は、フロイトが無意識と呼んだ深淵へ降りていくことで、サタン神話に取って代わったのだ。

2005-03-25 悪魔の歴史・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日から続いてます。

さすがに、一週間はまずいだろうということで、2&3章。

単なる秘密集会にすぎなかった1420年のサバト。ヘビメタ集会と変わらねえ。

自分たちは父と子と聖霊が一体であるなど信じない、今まで執り行ってきた秘蹟の儀式なんぞ無に等しい、聖母マリアには複数の子供がいた、聖人が天国にいて力を貸してくれるなんざ嘘八百だ、修道院なんぞは売春宿にすぎない、神父に告解しても全く意味がない、聖水なんぞは悪い冗談でしかない(略)

十字架なんぞは死刑台そのものだ、そんなものには一切敬意を払うべきではない、レクイエムでミサをあげても、死者には何の御利益もありゃしない

裸体解禁の流れがトリエント公会議で禁止されたことにより

狭苦しい禁忌を比較的合法な手段で侵犯する可能性が残っていたこと、等々の要因が重なって、女性の身体を新たな視線で見つめる傾向が生じてくる。(略)聖書を題材にしたクラナッハの描与に於けるように、罪の意識は極めて希薄になっていくのである。これに伴って、裸と連動した罪悪感は横滑りを起こし、全く新しい対象へと注がれるようになる。こうして、魔女の裸体が誕生するのである。

それまで、芸術作品の中では、上品なタッチではあったものの、罪人は裸の状態に描かれていた。逆に魔女は男女を問わず服を着ているのが普通で、ティンクトールの写本画に描かれたサバトに於いてさえ、裸の魔女は登場しない。つまり、性は隠楡的な方法でのみ喚起されていたにすぎない。例えば、肛門や腹部に顔が付いているといった表現法がそれで、(略)

十四世紀には、「罪としての女」、換言すれば身体の各部位が、ある罪と対応しているような女の存在がクローズアップされるに至る。例えば腹部に張り付いた頭部ないし口は、女性の貪婪な性的欲求を暗示していた。

プロテスタントの魔女狩り

一方宗教改革派は、デンマークに於けるように、堅固な政治的基盤を一旦築き上げるや、さっそく領域内の人々に対する倫理的な締め付けを率先して強めるようになる。その際彼らは、デーモンと結んだセクトを壊減せしめるために、元々カトリック起源の魔女現象という概念を、何の躊躇いもなく利用している。こうして一五六二年、ドイツの南西部で、最初の大規模な魔女狩りが行われることになる。(略)

十九世紀ドイツのプロテスタント系の歴史学者たちは、宗教改革が、人々を魔女迫害から解放する上で大いに貢献したと声高に主張していたが、これは事実とは全く異なる。否、正反対と言うべきで、一五六〇年から一六〇〇年までの期間をとると、魔女狩りに関しては、プロテスタント、カトリックのいずれの陣営も、同じくらい熱心だったのである。

魔女裁判というわかりやすい舞台を通して、民衆に新しい規範を習得させる。

厳密に言えば、魔女裁判とは悪魔学を肉付けする場であった。魔女裁判が、悪魔学の真実性を証明していたのである。魔女裁判は、複雑な神学的理論を、観察可能な現実へと加工していったのだ。魔女裁判を通して、神と同じく根元的に不可知なるデーモンは、男女のいずれであれ、被告という肉体に具象化していったのである。その過程で、天空に於ける「善」と「悪」の闘いが、人間の心の内へと呼び込まれ、各人が個人的に罪悪感を引き受けねばならないという、新たな恐るべき一幕が開くのである。

はにゃー。

男性の方は、その流体や暴力が常にほとばしり出るがゆえに、世界を汚染して止まない存在と見なされていたのに対し、女性の方は、いつも開かれた状態の子宮に汚染を呼び込むことを通して、共同体内そのものに汚染を招き入れてしまう存在と見なされていたのである。

2005-03-24 悪魔の歴史 このエントリーを含むブックマーク

ここしばらく淡々とやっていたら、久々にキマシタ。出たのは一年前だけど。7章あるから、悪魔週間にしてやろうか。世俗権力確立のために悪魔がつくられたという、デビルマンだよ茄子味噌定食。まずは第1章。

溶解の危機にあったヨーロッパを統合する

ローマ帝国の時代以来、国家や地域が不安定化し溶解する危険は常にあったが、それに何とか持ち堪えてきた。しかし、激変を経験しつつあったヨーロッパという実験室にあって、この溶解現象は突然加速することになる。ヨーロッパは当時、政治的かつ社会的に見てバラバラであり、言語や文化の面でも、まさしくバベルの塔そのもの、という状態にあった。そこでヨーロッパは、このように分断された地域全体に徐々に浸透できるような、同質性を帯びたある種の「象徴的言語」を拵え、それを通して自らの独自性を確立しようとしていたのである。きわめて独創的なモデルを元にして、悪魔と地獄とを発明したという事実を、大して重要ではない宗教上の現象と見なすわけにはいかない。この発明は、教皇庁と強大な諸王国とが共有していた、統合を指向するある概念の出現と繋がっている。(略)それはともかく、絢燗たるサタンのイメージを練り上げた思考システムの誕生は、西洋の活力が飛躍的に増大したことと密接に繋がっている。

民衆の間では、人間に騙される、奇形にすぎない悪魔といった滑稽なイメージが強かったが、やがて人間を押し潰す王者となってゆく

デーモン像自体が知識人独自の好みに染め上げられすぎていたために、一般庶民を心底戦慄させるには至っていないとも言える。その上、十三世紀のゴチック芸術も、悪魔には凡庸な地位しか与えていない。(略)

従って、デーモンは多少は醜い顔つきをしながらも、極めて人間に近い相貌を保っており、(略)民衆の嘲笑の対象となった独特の相貌を備えており、(略)

つまり、悪魔は自分が占めるべき位置を計りかねていた、否、むしろ、悪魔を想像界に描いた人間たちの方こそが、多くの人々の気に入るどこか異様だが滑稽な悪魔の形象と、グレゴリウス一世以来重ねられてきた神学的思索に由来する、より恐怖心を煽る悪魔像という二者の間で逡巡してきたと言うべきだろう。だが十四世紀を境に、悪魔は否定的かつ不吉な特徴を次々としかも本格的に背負い込むことになる。

リアルな地獄が容赦なき正義を浮かび上がらせる

十四世紀以降になると、地獄に於ける責め苦が事細かに描写されるようになるが、それは、神が欲する容赦なき最終的な正義のあり方がいかなるものであるかを、人々に知らしめる一助となったのである。(略)

つまり、神の名において、今まで以上に厳しい裁きを下す国家、罪の重さに応じて種々の刑罰を使い分ける国王、という見解が徐々にその輪郭を明らかにしてくるのだ。

錯綜とした茂みのごとき超自然の退場

「死を超越した連続性」に軸足を置く民衆的な死生観は背景に退いていったのである。また、原則として「善」と「悪」が完全に分離していない、錯綜とした茂みのごとき超自然、という見解も退場を余儀なくされたのだ。さらに、こうした古い魔術的な世界観の後退は、強大な悪魔のイメージの伝播に寄与したというよりも、むしろキリスト教そのものの覇権の確立をもたらしたと言える。

世界制覇へと繋がる文化の誕生

ここではむしろ、他者の征服を指向する一つの文化の誕生を見て取るべきではなかろうか。なぜなら、個人に罪悪感を植え付けるというメカニズムは、元来は道徳的かつ宗教的な操作であったわけだが、ここで生まれつつある文化は、このメカニズムを、他者に対する優越感と外に向かって拡張していきたいという欲求の内に、すなわちより広い一般的な領域の内に組み込んでいったからである。ヨーロッパは、それまでの重苦しい魔術的世界観を捨て、恐るべきルシファーよりもさらに強大な神を中心とした、根本に於いて階層的な社会秩序のモデルを構築する過程を経て、将来の世界制覇へと繋がる様々な道具を編み出していったのである。

思想家たちが西洋の想像界に知的「植民地化」を施す時代

知識層と支配層とが暗黙裡に結び付くことによって、魔術的な世界観に覆われていた頃よりも、より積極的な力学が作用しうるようになる。と言うのも、魔術的な世界にあっては、個人個人は慎重に慎重を期して歩を進めざるを得なかった。ところが、権力層と知識層のニ者が暗黙裡に結託した領域にあっては、人間界の内に、突然超越的な力学が引き入れられる。と言うのも、地上の権力者は、聖職者に支えられることを通して、至上権の源たる「神の摂理」という、心強い味方を手中にするからである。

[神聖なる王に従う臣下という体系]

一方、サタンの王国とは、こうした体系全体を、まさしく裏返しにした存在に他ならない。

悪魔のプロパガンダ

サタンに超人間的なイメージを付与する戦略は、何よりも先ずはプロパガンダを目的としていたことになる。知識層がこうしたイメージを練り上げ、芸術家や著作家あるいは聖職者などが、それを普及させるという仕組みだ。例えば聖職者なら、説教の中に於いて、あるいは信者と直接接することを通して、悪魔のイメージを植え付けていくことができる。(略)

そこで、悪魔学は一方で、当時ますます至上権を強めつつあった君主を登場させ、その君主に罰される罪人の運命をやたらと強調している。しかも、この同じ君主は、罪を悔いた罪人には慈悲深くあることも心得ている。これと照らし合わせて見るならば、地獄こそは、人を罰する至上権を神から付託された究極の場所である。さて、悪魔学は他方で、比喩に富んではいるがリアルに感じられる右の考え方をさらに押し進め、個人個人の身体こそは、善と悪とが対峙し合っている特権的な空間である、という見解へと人々を誘うのである。

デーモンと合体する恐怖を植えつける

以前は、サタンは人間に似ていることしばしぱであった。しかし今後サタンは、化け物や野獣に急接近していくため、その気色の悪い相手が、どんな存在の内部にも侵入できると想像するだけで、人々は大変な不安感に襲われ、極力その嫌悪の対象を、自分たちの周辺から遠ざけようと努めたはずである。この不安感を醸成する要素には二つある。その第一は、デーモンが本質的に非人間的な存在だと強調し、そのデーモンが罪に汚れた身体を侵犯し、それをデーモン自身の似姿に変えうると執物に説く傾向であろう。第二の要素が本当の意味で定着するのは、大規模な魔女狩りが本格化する時期を待たねばならない。完全に悪魔に牛耳られた身体というテーマがこれに該当する。

内なる獣への恐怖

[人間と動物との明快な境界線が十二世紀頃に消滅し]

動物を見る人々の視線に変化が生じたが、この変化は同時に、自らの内部に巣くう獣への恐怖を人間に抱かせるに至った、と言うのも、この内部の獣は人間の合理性と霊性とを消し飛ばしてしまい、まさしく獣の如き淫欲と食欲と攻撃欲のみを残すだけだからである、と。(略)

高まりつつあった自己内部の獣に対する恐怖感を、キリスト教内部に統合しうる用語で掬い取ったのであり、さらには、この恐怖に対する治癒法として、信仰と献身とを前面に打ち出していったのである。なるほど、いかなる信者も、聖人、とりわけ聖アントワーヌのような強い魂を有するのは不可能だ。しかしそれでも、各人は、自己内部に巣くっている獣的な性質を押さえ込まねばならないとされていた。

悪魔軍団の登場

悪魔は、醜く歪んだ人間ではなくなり、罪人の腹部に潜む汚らわしい獣へと変じたが、その一方で、狂信的追従者[魔女のこと]から成る巨大な軍隊に君臨する、恐るべき地獄の君主の座にも収まったのだ。

ぬおお、盛り上がるなあ。この引用はリアルタイムで進行している。明日を待て。俺だけ先にチョット読んじゃおうかな。

2005-03-23 西欧中世都市の世界 このエントリーを含むブックマーク

西欧中世都市の世界―ベルギー都市ウイの栄光と衰退 (叢書ベリタス)

返却期限に迫られて激しく読破。第五章くらいから俄然面白くなる。これならもうちょっと時間をかけて丁寧に読めばよかったと後悔。一昨日の「中世の春」なんかに手間取るんじゃなかった。

階級化だ、ニートの暴動が心配だ、と皆さん大騒ぎですが、貧乏な小生は一三世紀の「勝ち組」の行く末を高みの見物。

毛織物商人や両替商の兄弟団も非常に閉鎖的な都市貴族を構成していたと考えられる。婚姻関係の網の目が結合を強めるこの世界で、これらの職業グループは利害、渇望、似通った心情をもつ人々がとぎれることなく連なっている、非常に閉鎖的な一種のクラブであり、そこに所属することが、団体意識を発展させ強めることになったことは疑いもない。だが、この団体意識は、避けがたい老化のしるしであるカーストの精神へと、やがて変質していくこととなる。

瑣末な規制でがんじがらめ。経済縮小は保守化を促進。

毛織物職人の一日の労働は、「職工の鐘」によって規則正しく行なわれ、家内労働は常に監視下におかれていた。他方、ストライキすなわちあらゆる「労働争議」は徹底的に鎮圧された。首謀者は、追放すなわち遠くロカマドールのノートル・ダム教会やサン・ジャック・ド・コンポステラヘの贖罪の巡礼を命じられた。一方で、製品の品質は、しるしすなわち都市のレッテルをつけることで保証された。このようにして、消費者の保護は常に確保されていた。毛織物と同様に、ナイフや錫鍋もこのような義務の下におかれた。中世都市の雰囲気は「自由企業」のそれとは程遠いものである。さらに、一四世紀を通して経済的局面が後退し取り引き量が縮小するにつれて、あらゆる種類の規則や条例が数を増し複雑になって、個人主義と排他主義の傾向をはっきりと強めた。同時代人の目からすれば、古い慣行をますます良心的に遵守することのみが、姿を現わした衰退に対する頼みの綱であるかの様にみられた。あらゆる新規なものや進歩には戸を閉ざし、詳細な規定の網の中にすべての新しい主導力を縛りつけたのであるから、このような精神状況は結局のところ衰退を促進することにならざるを得なかった。

皇帝のいない八月、自己責任で防衛。防衛費は消費税で。司教から権力を奪うため富裕層は庶民暴動を利用。

皇帝権力の無気力さから自分の力だけに頼らざるを得なくなった司教は、近隣の封建領主の領土的野心と戦う場合、自分の「国」の資力、特に諸都市をあてにする以外になかった。市壁は補完され拡大したが、都市の財政は専らブルジョア、もっと言えば、都市市場に打撃を与える、「防備費」という名称だけがその計画を語っている消費税に依存した。この状況の中で自分たちが介入する比重が大きくなるのを認識したウイの人々は、税徴収権と税支出の統制を要求した。多くの争いが彼らを司教と対立させ、おそらくは時折ブルジョアの間に争いを生じさせた。(略)

いずれにせよ、はっきりしているのは、ブルジョアが目的を達成するために、ある時期「革命的コミューン」に頼らねばならなかったこと、司教権力を失墜させるために都市同盟に着手する必要を感じたということである。

さらに民衆の暴動について詳しく

事態は悪化し続けた。一二九八年の民衆の祭りは異常な歓喜の中で展開した。王や貴族の格好をし、きらめく剣をもち、または毛皮で身を包み、ウイの民衆は、雰囲気にまかせての歌詞を歌いながら(それはみんなの者を楽しませたわけではなかっただろうが)、街路を走りまわった。馬にひかれた大きな車の上で、機械でまわる串で牛が丸ごと焼かれた。どぎつい、そのまま勝利の行進となるこのような示威行動は、有力者の間に深いねたみと、言葉にはならない不快さを起こさせた。(略)

戦いは、敵に食料を補給する商人を傭兵が略奪するという常套的経済封鎖、兵隊が駐留している巣窟の破壊、ウイの都市貴族と民衆が相対する戦争というおきまりの形で遂行された。勝利は最終的には、サン・ランベール教会参事会、リエージュ市民、ひいてはウイの都市貴族のものとなった。(略)

このようにして、例をみないほど早熟であったウイの民衆支配は終わりを告げた。二年以上にわたって、「民衆」は都市行政のすべてのポストを掌握し、真に革命的な制度を敷いたが、聖職者である年代記作者たちはその動きについては完全に口をつぐんでいる。

2005-03-22 アヤックスの戦争 このエントリーを含むブックマーク

拙者サッカー知りませんから、猛烈な勢いでスキップ読破。マラドーナを演じるベニチオ・デル・トロも思わず膝打つ、マラドーナを欲しがらなかったスパルタの会長はハンス・ソネフェルト。

憎き英国蹴球

ファシストがフットボールと折り合うまでには時間を要した。ヒトラー、ムッソリー二とのその取り巻きたちはフットボールと共に育つには早く生まれすぎた。フットボールがイングランドで発明されたことが癪で、ムッソリー二政府は当初、あらたにイタリアで生まれたヴォルタというボール・ゲームの方に国民の関心を向けようとしていた。多くのファシストはフットボール自体を嫌悪していた。

ナチスのスポーツ外交

ナチはスポーツを「人種的」優位を示すために利用しようとしたとよく指摘されるが、たいていの場合にはただ親愛の情を示すために利用した。ほぼ三〇年代を通じて、ナチスはひたすら諸外国が自分たちのことをどう考えているかを気にしていた。戦争を起こすだけの力を持っていないあいだは、そんな意図はないのだと外国に思わせておきたかった。ヒトラーには再軍備の時間が必要だったのだ。

ドイツのフットボール外交は大いに助けになったはずである。おそらく三〇年代を通じて、何百万人ものヨーロッパの人々が親衛隊よりもドイツのフットボール・チームについて思いをめぐらせていただろう。

「六千万人のドイツ人がパリでプレイする!」とぶちあげるもスイスに敗退

六月四日、一九三八年のワールドカップがフランスでキックオフされた。ナチスはこのイベントをオーストリア併合の記念式典とする狙いだった。ゼップ・ヘルベルガーはすべての試合で六人のドイツ人と五人のオーストリア人、またはその逆の組み合わせで試合に臨むよう命じられた。当時の最強ニチームを合体させればまちがなくワールドカップを獲得でき、ヒトラーの侵略も正当化されるのではないか?

「紙男」と呼ばれたオーストリアの名選手は35歳という年齢を理由にドイツ代表を辞退

ワールドカップの数ヶ月後、一九三九年一月、「紙男」は元娼婦だったユダヤ人の血をひく恋人カミーラ・カステノーリャと共にベッドで死んでいるところを発見された。「一酸化炭素中毒」というのが警察の報告だった。(略)

だがしかし、それを信じる者はほとんどいなかった。全盛期の国民的ヒーローはそんな死に方はしないものである。(略)

ナチヘ抗議の自殺をしたか、あるいはナチに殺されたというのだ。葬儀には一万五千人が集まり、戦争のあいだも毎年墓を訪れる者は尽きなかった。

第二次大戦下に花開き、はじめてオランダの大衆娯楽となる

ヨーロッパの多くでそうだったが、オランダでも、フットボールは一風変わった趣味だと思われていた。今で言うところの卓球のようなものだ。一九二八年のアムステルダム・オリンピックでも、フットボールの試合には一、二千人の観客しか集まらなかった。三〇年代にフットボールがオランダの中心的存在となるにあたって、大きな役割を果たしたのがハン・ホランダーなるラジオ解説者である。

(略)居間のラジオのまわりに集まって息をつめる一家全体にとっての娯楽となった。

占領下ののどかな日々

オランダの歴史家は正しくも、オランダにおける四〇年-四五年の時期を「戦争」ではなく、「占領」と呼んでいる。もちろん、占領の年月はいくらか惨めなものである。みな言うことやることに用心深くなり、夜間外出禁止に甘んじなければならなかった。当初は豊富だった食料もやがて乏しくなった。新聞とラジオは嘘をついた。王家はロンドンに亡命していた。(略)

だがわたしたちが戦争につきものだと思っている死、恐怖、大いなる道徳的選択はほとんどどこにもなかった。歴史家クリス・ファン・デル・ヘイデンは書いている。「ほとんどのオランダ人にとって、占領は通りに掲げられた掲示、新聞の告知、ラジオから聞こえてくるお話と音にかぎられたものだった」

ユダヤ人より試合が大事

オランダ人はたかだかジェノサイドくらいでそれを諦める気はなかった。どのみち、アムステルダムの外では、何が起こっているのか気づいていた者さえわずかだった。田舎に隠れ家を探しに行ったユダヤ人は、まずユダヤ人とはなんなのかを、それからユダヤ人が迫害されていることを説明しなければならなかったというほどである。

北の皆さん、死ぬ気でやれば勝てるとウダイさんも

ゲッベルスは敗北に激怒した。フットボールの不確実性をどうしても納得できなかったのである。「結果にわずかでも予測不能の要素がある場合はスポーツ交流禁止」と、ヒトラーの誕生日にスイスに2-1で負けたあと記している。ドイツはつねに勝たなければならなかった。

アヤックス戦にはホロコーストの歌。し、しんじ君。

昨今では、フェイエノールトの合唱にあえて騒ぎ立てるのはほぼユダヤ人だけとなっている。オランダのエスタブリッシュメントはほとんど気にしていない。ロッテルダム市庁はフェイエノールトのファンがガス室の歌をうたうのも放置している。彼らがもっとも派手なロッテルダムの外交使節であるにもかかわらず。オランダのマスコミも注目するのをやめた。オランダの新聞業界を何十年も支配してきた元レジスタンス闘士とその仲間たちは、もはや死ぬか引退してしまった。反ユダヤ主義のタブーははるかに弱まった。

2005-03-21 中世の春 このエントリーを含むブックマーク

やっぱり面白くなさそうなのは読んじゃいかんと、しみじみ思いつつ、くやしいので歴史の勉強気分で引用。

支配だの国家だのは堕罪後の悪に染まった人間の無秩序に対して神が定立したものであるという説からの転換。

したがって、この世の強制力をもった政治支配とはけっして本来の「自然」な人間関係の間に存在するものではありえない。あくまでも人間の犯した愚かな堕罪に由来する「慣習」的制度にすぎず、その人間の堕罪的状況に対して下される「処罰にしてその矯正策」にほかならないのである。このように、このアウグスティヌスの教説においては、私たちが普通「政治」と呼ぶ現象は端的に「奴隷制」と等価なものであり、人間相互の自発的な意志に基づく社会的共同生活の展開という意味はいささかもなかった。(略)

だが十三世紀という中世盛期の現実世界ではもはやアウグスティヌス説は少なくともそのままの形では説得力をもちえなくなっていたことは確かである。トマス・アクィナス登場の意味はまさにここにあって、彼の思想的営為は歴史の現実にそぐわなくなったアウグスティヌスの教説に代わって新しいアリストテレスの政治教説を西欧中世杜会に受肉化させたのであった。(略)

いずれにせよ、政治権力・国家は単に堕罪後の人間の悪を矯正するための必要な強制的装置にすぎないのではなく、人間の社会的共同生活がそのなかにおいてこそ完全かつ十全におこなわれうる自然的なシステムであるとするこのアリストテレス=トマス説が中世の思想世界に与えたインパクトの大きさは、計り知れないものがある。

ことに十二世紀に入ると、イングランドやフランスでは世俗権力は復活したローマ法の研究を通して社会の公共性(共通善・公共の福祉)を君主の統治機構に編入すべく財務と司法の二大官僚組織を作り上げて君主制「国家」として自立しつつあった。その国家の官僚制にはまたこの二大官庁間の業務の統合と調整を図るだけでなく、ローマ教皇庁や諸外園との交渉を引き受ける中央官庁つまり書記官庁(尚書部)が存在した。この書記官庁の長は司教など高位聖職者がなることが通例であり、その下に読み書き能力に優れ、文書作りに長けた教養ある書記がスタッフとして活動していたのである。

2005-03-19 アメリカは発明された このエントリーを含むブックマーク

神の静的世界を破壊する新大陸

受容されていた宇宙のイメージは静態的で有限、完全で変更不可能というものであリ、その世界の中で人間は囚人として居住していた。しかし、なんと一人の人間が大洋を渡った。彼は世界の向う側まで行き、また戻ってきた。(略)

何世紀も受け入れられてきた諸理念を拒絶し、宇宙の構造やその現実の性質を構想し、人間と創造主との間の異なる種類の関係を考案し、そして宇宙における人間の居場所について新しい理念を発展させることが必要であった。(略)

アメリカの発明物語のより深い意味でもある。というのは、この物語は宇宙の囚人からの、つまり古来の隷従と無能力からの、人間解放の最初のエピソードだからである。それは自分自身を理解する古風な方法からの人間の解放であり、その果実は生まれるべくしてすでに収穫された。アメリカが自由と未来の生家として歴史的段階に登場するのも偶然の一致ではない。アメリカ人こそ、西洋文化の新しいアダムなのである。

黄金の希望は危険な夢へ

コロンブスのした約束は偽りの餌だったことが分かった。熟した果物のように手に入るはずだった黄金の希望は、苦汗と略奪を必要とする鉱山の投機的な未来にまで低下した。穏やかな気候と芳しい微風は、多くのキリスト教徒の生命を奪う悪疫をはらんでいた。悪魔のようなハリケーンが多くの船を難破させた。新植民地の生活を包んでいたはずの和合の夢は、憎悪・失政・不和に道を譲り、一方この空想的楽園の紳士的で無垢の先住民--キりスト教徒の友人と思われていた--はその野蛮さを発揮するようになった。(略)

この事業には深刻な不信が垂れ込めていった。多くの人々にとって、最終的にはスペインを破滅に導いてしまうような、気違いじみた危険な夢のように見えた。この邪悪は払拭しなければならなかった。そこでコロンブスは、彼特有の頑固さと信念に鼓舞されて、つらい仕事のために自らを奮い立たせた。

中傷にもかかわらず、スペイン国王は自らの政治的・宗教的威信が深く関わってしまった事柄から退却することは、不可能でないにしても、いまや困難になってしまっていた。(略)

国王の政策には一つの重要な変化が生じた。当初の有頂天の期待が消減してしまうと、公的独占体制--天がスペインに遣わしたもうたとされる宝物を独占しようという考えから樹立されたもの--は現実には資産どころか重荷となってしまった。探険・開発・植民はこうして最高入札者に開放されるようになった。

大陸だって「三」という数字の神秘に沿うはず。

世界の三分割はやがて聖アウグスティヌスに見られるように神秘的な概念となった。聖アウグスティヌスにとっては神の国の住人はヨーロッパやアジアやアフリカにしか見出だせない。海上にあるかもしれない他の球は、彼によれば、アダムの子孫が住んでいない以上、排除されなければならなかった。

教父たちによるこの神秘的な地理的概念はのちのキリスト教著作家たちに継承されていき、多彩な寓意的解釈により新たな支持を与えられていった。三位一体の神の地理的象徴をこの三分割の中に見た。その起源がノアの息子たちの間に地球を分配したことにある、と信じていた。生まれたばかりのイエスのもとへ表敬訪問した三人の賢者こそ世界の三つの部分を代表していた、と信じていた。そして、この分割の中に福音のいくつかの言葉と三という数字の神秘的な完全さの例証を見た。

2005-03-17 中世哲学への招待 このエントリーを含むブックマーク

著者は東京港野鳥公園グリーンボランティア代表という肩書も持っていて、このようなことを書いてる。

[「自由な意志」を意味するラテン語から派生した]ボランティアは、自由意志で活動する人のことを言うし、このことばには他人から求められて動く意味はない。「自分を生かす」ことを意味の中心にもっている。

ところが、日本人はこれを、「自我を捨てて」社会に奉仕する意味で受け取りやすい。しかし、これでは誤解になる。ボランティアは、「自分がそれをしたい」という思いと、社会の利益が一致しているものを言うからである。言い換えれば、社会への自由な参加意欲がボランティアなのである。「ボランティア」がこういう意味を含むことには、実は西欧の市民社会の長い歴史が背景にあって、そのため、単なる単語の置き換えではとうてい意味が伝わらなくなっているのである。(略)

というのも、アメリカはボランティアが盛んだといっても、そのほとんどはキリスト教会がらみであって、そこを離れたポランティアはやはり少ないのである。アメリカと日本の違いは主に、社会の評価、受け入れ体制の違いにあって、アメリカでは、少数のボランティアでも、同じ数のプロとあまり変わらない存在感がもてるのである。したがって、少数のボランティアの活動でも、その社会的影響力は大きなものがある。それは小さな企業でも大きな経済的影響を与えることと同じである。[これに対して、日本では金に結びつかない趣味程度なものとしてとらえられているため甘えが生じているという文章が続く]

[日本のボランティアの和気藹々ぶりにアメリカ人が驚いたため]

わたしはその意味を知りたくなって、個人的にサンフランシスコを訪ねた。そこで知ったことは簡単に言えば、つぎのことである。アメリカ人にとって、ボランティアとは純粋に個人的な意志に基づくものであって、仲間意識とは別だ、ということである。もちろん、ボランティアが自分たちのやりたいことを実施するために組織をつくって取り組むことは、NPOがアメリカで盛んなように、少なくない。ところがこのように共同体をつくる活動は、ヨーロッパの民主主義を支えてきた市民意識(政治への参画意識)から生まれていることであり、仲間意識とは違うのである。そしてヨーロッパの市民意識は、むしろ共同で自分たちの「権利を守る意識」と言うべきなのである。しかも守ろうとしている権利は個人の権利であって、仲間としての権利ではない。それがボランティア意識なのである。だから、企画された事業に参加するボランティアは、個人個人であって、仲間意識があってのことではないのである。

「もう死んでるだろうな」とかシラッと書いたりする奴等をニンマリさせるために引用してるわけではない、と念のために書いておく。

2005-03-15 ルネサンスの知と魔術 このエントリーを含むブックマーク

ルネサンスの知と魔術

ルネサンスの知と魔術

発掘された知識。写本屋は知のセンター。

修道院で再発見されたりギリシアからもたらされたりした古写本は、たいていが君主などの要人や富豪に贈呈されたが、古典への需要が増大するにつれて一点一古写本では間に合わなくなり、古写本を筆写して新たな手写本を作り出す作業が求められるようになった。筆写する者にはプロの写字生もいれば経済的に恵まれない学生のアルバイトもいた。そしてこうした一連の工程(古写本→筆写→手写本)を管理統括する職業が当然出現し、当時の風潮を背景に一躍成長産業へとのしあがっていった。その代表格が一五世紀のフィレンツェで生彩を放ったヴェスパジアーノ・ダ・ビスティッチである。彼の開いた書店は良心的出版杜として良質の本(芸術品としての本)を世に送り出すところであり、また書籍情報、すなわち時代の知のセンターでもあった。顧客は当代の学者はもとより、学芸愛好家、書籍愛好家たる有力君主たちであった。ヴェスパジアーノは彼ら(たとえばウルビーノ公)の書籍蒐集にも力を貸して、いまで言う書籍コーディネイターとしても活躍した。

この時代は修道院において古典の再発見が次々となされ、いわば眠っていた知識が修道院の外に出た〈ポスト修道院〉期にあたるわけだが、当時の出版を業とする者はおよそ三つのタイプに分けることができよう。

1.営利を目的とした書籍商。さまざまな手写本を生産した。

2.特別な注文のための私的な写本の出版。

3.大学とつながっていて、大学のカリキュラムなどに合わせて写本の仕事を請け負う出版者

印刷の普及によるイタリア文化の国際化(=通俗化)

年代的に言うとこうした兆しは一四八○年代からはじまっており、前出のヴェスパジアーノの商売にもそろそろ翳りがみえはじめてくる。にもかかわらず彼は次のような気概を示して印刷本をけなす。印刷本は「手写本の醜悪な模倣品にすぎない。紙は悪質で毳立っており、文字は滲みで汚れている」と。事実、初期の印刷本は仕上がりが劣悪であり、誤植の数の多さも目立っていて、要するに手写本支持派側からすれば、書物の芸術的装飾性に欠けている点が批判の的となっていた。

ラテン語世界の崩壊と知の細分化

ラテン語を基調とした統一世界の瓦解する音が静かに兆しつつあったのである。それはルターなどによる宗教改革によって、カトリック的統一性が崩壊した事態とも重なり合っている。(略)

以前は討論するために遠方からわざわざ集い、聴衆も限られており、内容普及にも時間を要したからである。科学書も挿絵の鮮明な複製が可能となり、解剖書、動植物図鑑、地図、機械図などに精度が増した。こうして印刷文化によってある種の知は、それまで埋もれていたのが陽の目を見、ある種の知は華々しくも登場したのである。

一六世紀以後ヨーロッパは事実上、すでにカトリック(普遍的)世界ではなくなった。普遍性を支える知識はいつのまにか潰え去り、細分化された個別的な知が芽吹きはじめた。そしてそれには印刷文化の隆盛が蔭ながら一役買っており、想像以上に大きなインパクトを与えたと言えよう。

ラテン語で支配せよ。

ヴァッラ『ラテン語の優雅さについて』

われわれは古代ローマをなくし、版図を失い、支配権をも喪失したが、それはわれわれの咎ではなく時代のせいなのです。それに対しわれわれは、ラテン語というこの最も輝かしい威信を胸に再度世界の地域をくまなく支配しているのです。

イタリアも、ガリアも、ヒスパニアも、ゲルマニアも、パンノニアも、ダルマティアも、イリュリクムも、そして他の国も残らずわが版図なのです。ローマの威信あるところ、ローマの言葉が支配するのです。

2005-03-14 財政=軍事国家の衝撃 このエントリーを含むブックマーク

時間がなければここだけ読むのもよかろうという、素敵な序論の一部

本書の話題の中心は戦争にあるとはいえ、扱うのは戦闘ではなく会計簿であり、血糊のついた武器ではなくインクのしみのついた指である。政府機構、兵站、とりわけ資金調達に、本書は焦点をあてる。かりにそこにヒーローがいるとすれば、それは執務室の事務官たちである、そして本書が選んだ視点は、グローバルでもなければ辺境のそれでもない。それはまさしく中核のなかの中心、ホワイトホールとウェストミンスタからのそれである。

行政機構とは、定例の手続きがなくては機能しない。劇作家や歴史家の専売特許-変化、断絶、暴力的行為-を、行政機構は忌み嫌う。行政機構の専売特許は平凡な繰り返しである。毎日が同じでなくてはならない。そのうえ行政機構というものは、人間の共同作業というエントロピーの高い場面に、秩序と規則性を押しつけようとして、軋櫟をひきおこすのがつねである。秩序と手続き重視の態度と、公的な作業の現実との緊張。これこそがドラマをうみ、行政機構じしんは懸命に避けたがる衝突をひきおこす。権力と支配を求めて繰り広げられる葛藤は、戦闘という名の鮮やかな血色の絵の具で、複数の大陸という大きなカンヴァスのうえに描かれるばかりとはかぎらない。だが、その葛藤がどれほど抑制され、やんわりとしたものに見えても、その結果は広範な影響をもつ。国費を徴収し、資金を調達し、物資を徴発するのに必要な手続きを、政府役人たちがどれほど適切に定められるかが、勝利と惨敗の分かれ目になる場合もあるからだ。

  • 14〜15世紀ヨーロッパでも屈指の軍事力を誇ったイングランドは、「軍事革命」が起こった16〜17世紀に一旦後退する。戦略の変化に伴い各国常備軍を設けるようになったが、他が平均10万程度だったのに対し英国はその一割程度だった。貴族はどんどん非武装化され、17世紀半ばには貴族の八割が軍事未経験者だった。
  • 国家の危機が軍備拡張の理由になった大陸とは違い、島国型国防条件のおかげで海軍力が最強の軍事資産であり、極度の軍事化を避ける手段でもあった。積極的交戦国だったならば相応の負債による収入確保のために売官がはびこり寄生的役人層が増大したであろう。
  • 17世紀、ヨーロッパの戦争に参戦しようとする国王を下院の財布の固さが阻んだ。

1700年前後の熾烈な政界内対立により

官職保有者が頻繁に入れ替わったために、行政府はたいへん風通しがよかった。当時の官職保有者は、政府と民間の仕事を行ったり来たりした。この人たちは自分を純粋に国王の僕とは考えておらず、ましてや特定の政府部局の職員だとは考えもしなかった。むしろ有力な貴族か政治家の子分だと考えていたのである。行政府が後の時代ほど閉ざされていなかったから、役人たちは外部からの助言に耳を貸したし(受け入れることはそれほど多くなかったが)、政府の情報も公的な権力のチャンネルの外へ流れることが多かった。

情報もオープン

そうはいっても立案家が出してくる提案は事情に通じていたし、政府のやり方のあら探しも上手であった。それは省庁の資料や政府文書を見ることができたためである。(略)

政府部外者がこれらの資料を入手できたのは、現役役人が退職あるいは解任されたとき、自分が扱っていた文書を持ち出す習慣を利用したからである。

オランダとは対称的に収支の公開が安定した国家財政につながるとした英国

むろん、財政運営が公開されているという状況があれば、財政が成功するというわけではない。オランダでは、公的な国家収支報告がなかったのに、イングランドより低利で(18世紀前半では2.5-3%)資金の借入れができた。実のところ、オランダの財政は無知というヴェールに守られていたと指摘する研究者もいるほどである。オランダの税収の70パーセントが国家債務の利払いに充てられていることを知ったら、投資家は怖じ気づいて資金を出す気にはならなかっただろう。政府財政を公式に公開することは、公開された情報が信用を生み出す場合にかぎって有益になるものである。

しかし当時の人たちは、イングランドの財政システムがうまくいっているのは、それが透明だからだと信じて疑わなかった。国費収支報告と国家情報を示せば、国家に対して信頼感がはぐくまれ、それによって投資家は前向きになり、納税者は順うことになるのだ、と説かれたものである。

アメリカ独立戦争はそれまでの戦争とはちがい、兄弟同士の戦争であり国内を深く分断した。従軍を拒否する将校、アメリカ人捕虜救出の資金集めに奔走し、植民地風に青と黄褐色の服を着るもの。

七年戦争での連勝により強大化したため孤立。

3000マイルにおよぶ補給線を抱えた戦争。

こうしてアメリカ独立戦争はブリテン軍事力の限界を白日の下にさらした。

外交的な孤立に加えて、フランス(とスペイン)が先の敗戦の雪辱を果たそうと決意していたために、ブリテンは危機的な状況に立たされた。ヨーロッパ大陸の国々は、一国たりとも援護してくれなかった。1780年になると、ブリテンはフランス、スペイン、オランダと交戦状態にあり、自国の海運を妨害したブリテンに憤激していた国々が中立の立場をとったので、中立国からも包囲される有様となった。ブリテンの敵国の勢力を逸らしてくれるヨーロッパ大陸の戦争もなく、フランスとスペインは七年戦争中の敗戦の報復に全力投球することができた。

中世帝国再現のためではなく、経済のための戦争へ

軍事戦略や戦争政策を判断するさいの基準は、経済を後押しするか否か、国の繁栄につながるか否かであった。もとより戦争を戦う目的は、大国たらんとするところにあったが、それは特定の性格を帯びた大国であった。望まれた大国とは、とうの昔に失われた中世の帝国をヨーロッパ大陸に再建するのではなく、いわんやヨーロッパに覇を唄えることですらなかった。望まれたのは、経済が繁栄する国、商業にもとづく豊かな国家であった。このようなとらえ方は、当時のブリテンの国王が抱いていた戦争や外交政策の指向とは、必ずしも一致しない。君主の戦争・外交観はあくまでも宮廷と王朝のそれ、ドイツの小君主たちがおしなべて憧れたフランス式のそれであった。ところがブリテンの人たちがお手本にしようとしたのは、オランダであった。小さくても豊かな国は大国になれる、そう教えてくれたのは、一七世紀に陸と海で活躍したオランダ人たちだったからである。

「パブリック」という言葉が持つ、開かれた情報への欲求

だが同時に「パブリックな知識」という言葉は、隠されていない、広く世間に知られた、誰にでも見える情報を意味すると解されたのだった。(略)

事業家が商業情報に対等にアクセスできたわけでもなかった。そうではなく、「パブリックな知識」「パブリックな情報」という言葉がさかんに使われた事実が、それまでは茫漠としてつかみどころがなく私的な情報と目されてきた知識を、白日の下に引きずり出したい、という欲求を反映していると考えるべきである。(略)

したがって逆説的ではあるが、ある知識を「パブリック」にせよという要求が、きわめて偏った特殊利害集団から出ることもむろん珍しくなかった。こうした利害集団は、万人のための不偏を口先だけで装い、私的な利益を引き出すために「パブリックな」知識を求めると訴えたものである。これが一八世紀イングランドの情報の政治学であった。

2005-03-11 理性の使用―ひとはいかにして市民となるのか

理性の使用―ひとはいかにして市民となるのか

理性の使用―ひとはいかにして市民となるのか

世論の曖昧さをカバーするもの。いつの時代も玉ねぎリーダーが。

「世論」とは実のところ二重の意味で矛盾撞着をふくむ言葉である。というのも「意見」という語のもとにあるギリシァ語の「ドクサ」はまず個人が保持するものであり、したがって「公共の」という語でもって修飾されるべきものではない。それはまた他方で「エピステメー」と対比されるかぎりにおいて、正しい認識を意味するどころか、むしろ「臆見」とでも呼ぶべきものでもあった。ところが十八世紀の半ばにいたって「公的な意見」という表現が採用されることで、なにか社会がしたがうべき正しい方向を示すものが確実に存在するかのように見なされてしまうのである。(略)

いいかえれば仮りに世論というものが存在するにしても、それがどこに存在しているのかは暖味なままなのだ。そうした暖味さと不確実さを被う役割を果たすのが文人と呼ばれる人びとであり、彼らがサロンその他で行う議論であった。「あらゆる支配のうちで文人たちのそれが、目には見えないもののもっとも拡がりをもっている。権力者は命令するが文人たちは統治する。なぜなら彼らは長期的には世論をつくり、それは遅かれ早かれあらゆる種類の専制を征服しあるいは覆すからである」と書くのはデュクロである。

あたしゃRPGなんて認めない、ゲームNOだとDJガラ。

[D・J・ガラは黙読の退屈と会話の愉しみとを対照させ]

「書物には驚きもなければ興奮もない。そこでは怒りでさえが計画されている。書物はいつも人工的に作られるものであり、人物よりもはるかに偽善的である。」(略)

文学サマー’68

貴族と文学者とは別個の階級に属していたのである、ところが一八世紀の終わり頃には事情が変わってくるとトクヴィルは述べる。文学者が政治の世界で一定の地位を認められるようになるのではないが、逆に貴族が文学者のほうに移動してしまうのだ。「文学はこうして平等が隠れ家を求める中立の場所のようになっていた。そこでは文学者と領主とが出会い(略)しかもある種の想像上の民主政が現実の世界の外で支配するのが見られた。」この貴族と文学者の「出会い」にはこれまでの主題であったサロンの存在が少なくとも暗示されているように思われる。そしてこの空間を支配していたのがほかならぬ平等であり想像上の民主政であったという指摘がわれわれにはきわめて興味深い。

サロンだって荒れるわけで、それを収められるのは参会者よりも上位に存在する女主人の巧みな導きであり、全員が平等である革命期の政治結社では対立は解消されず悪化するのみであった。

ガラが次のように書いている。会話は読書とはことなり同じ場所に集まった複数の人間による口頭によるコミュニケイションであり、そこでは場合によって相手の攻撃的な言辞やまた自身の声の高ぶりから参加者のあいだで興奮状態が生じることもないわけではない。

印刷がネットだった18世紀。みんな、つながれ。全ての者に情報を。

文字の発明が「場所と時間を結びつけ、うつろいやすい思考を固定し持続的に存在するのを保証する」ことで人間精神の進歩に寄与したことが語られるとともに、さらに永いあいだ青銅板に刻まれた文字しか考えられてはいなかったが、「名もない個人」が紙のうえにも印刷するという「新しい技術」を考案するやいなや「古代の宝物が挨のなかから取り出されてあらゆる人間の手にわたり、あらゆる場所へ浸透してゆく」ことでルネサンスが到来したのだと論じられていた。(略)

大きな領土に広く散らばった人民はこの手段によってかつての都市国家の人民と同様に自由になることができる。散在する人間たちが集合した人間たちと同じように検討し、討議し、判断できるのである。

富豪刑事 富豪刑事を含むブックマーク

予告編と岩下みどり(参考リンク)のOP&EDで済む気がしないでもないが、戦隊シリーズに近いフォーマットの固まり具合で、続ける気になれば、いくらでもやれそう。「スクール・ウォーズ」を観ていない人間なので

(老けたな岩崎良美(゜Д゜;))、一番笑ったのは別ネタの方。高級クラブに潜入して、ひろみつの手帖を調べているところを見つかったフカキョンが、

あまりに素敵な黒革の手帖だったので、思わず

2005-03-09 言語と文学 このエントリーを含むブックマーク

頭の悪いボクは、一番最後の訳者・山邑久仁子さんの解説を読んで、ふーん、と頷いております。

ジャン・ポーラン『タルブの花』について書かれたブランショの『文学はいかにして可能か』

紋切り型は、ひとの注意を引かないことを目的としており、それを用いた文章を言葉過剰に見せるどころか、むしろその陳腐さによって、文章を透明に、不可視にする効果をもっているのである。

絶えず言葉から逃れ、自らが再発明する言葉にだけ臨もうとする者は、絶えず言葉に心を占められることになり、結果として、あらゆる作家たちのなかで最も切実に言葉至上主義の批判を避けようとした人々が、当の批判を最も浴びることになってしまうのである。言語から逃れよ、そうすれば言語に追いかけられる。言語を追い求めよ、そうすれば言語は逃れ去る、とポーラン氏は語る。(略)

結局問題になっているのは、文学を可能にしている本質的な錯覚に終止符を打つことだからである。作家は、芸術との虚しい手探りの戦いを通じてでなければ、芸術を生み出すことはできないのであり、彼が公共の通俗的な語法から引き離したと信じている作品は、彼が思い描いた無垢な語法に不純さと堕落さの重荷を背負わせ、通俗化させることで存在しているのだということを、作家に示すことが問題なのだ。この発見には、ランボーの沈黙を万人の上にのしかからせるほどのものがある。(略)

紋切り型の表現や慣用に対して敵意を抱く作家は、自らを沈黙に追いやるか、または錯覚を抱き続けることによって沈黙から逃れるしかないということであった。

『文学はいかにして可能か』はドイツ占領軍の検閲の下での暗号で書かれた政治的テクストであるという内田樹の1988年の論文が載ってます。

ホントはもう少し色々引用するところをチェックしたのだけど、いいか、ってカンジで。元気ねえし。ま、言い訳だけど。

2005-03-04 『仁義なき戦い』をつくった男たち このエントリーを含むブックマーク

カメラマンの吉田貞次は満州映画協会にいた。八月十六日に甘粕正彦は別れの演説をし、二十日に服毒自殺する。

全員を集めて演説をしました。全員といっても日本人だけですけどね。「わたしは、今度のことで自殺します。わたしは武土の子だから本来なら腹を切って死ぬべきなんだが、こういう事態を招いてそれもできないから別の方法で死にます。ここで皆さんにこういうのは、わたしも人間で死ぬのは怖い。死ねないといかんから、みんなの前でこうやって宣言して死ぬしかないところに自分を追い詰めるんです」

そんな意味の演説ですよ。あのときの状況でいうと、もうそれはしかたがないという気持ちで聞きました。僕らもいずれはそうなるかもわからん。だから、みんな黙って聞いていました。

ソ連軍と市街戦をするつもりが、既に関東軍は姿なく、満映は中国人主導で再始動。南からの国民軍の侵攻で北部に疎開することになる。先の列車に乗った内田吐夢らは53年まで中国に残ることになり、鉄橋破壊により行き損ねた吉田らはそのまま日本へ帰国。

内田帰国第一作「血槍富士」に参加した吉田。片岡千恵蔵の中間が主人のお骨を抱えて歩き出す長いラストショット。

その間をナレーションもなくてどうするのかなと思っていたんですけどね、できあがってみるとそのシーンでは「海ゆかば」が流れて。すぐにピンときました、「これは甘粕さんだな」って。(略)

[寂しがり屋の甘粕がしばしば人を集め語らい、最後には『海ゆかば』を歌ってお開きにしていたエピソード]

内田さんもそれを経験されたんでしょう。日本に帰ってきた第一作の『血槍富士』で、それが頭にあったんですね。いわゆる反戦、反封建主義、それをどこかで出したかった。だから、封建制のバカバカしさをあの中間に託して表現した。それでナレーションをなくして、「海ゆかば」の音楽で終わってしまう。その当時の客に果たしてそれが伝わったかどうかわかりませんけれどね、内田さんの思いとしてはそういうことだったんです。

[中間の忠義を謳ったわけではないのか]

まったく逆です。いわゆる封建主義の矛盾ていうんですか、そのバカバカしさを「海ゆかば」で出したかったということです。

満映引揚者失業対策で東急の五島慶太に頼み込んでつくったのが東横映画(東映の前身)。やくざな空気の残る現場から赤狩りで東宝を追われた俳優ら右左の混成軍、マキノ光雄曰く「うちは日本映画党だ」。

岡田茂・元東映社長によれば、四畳半の世界だった松竹はテレビが出て凋落した。東映は不良路線でいったから生き残った。

橋蔵君(大川橋蔵)にね、やくざもんやらしたってお客がくるわけないでしょ。本質が、根っから善良性のスターに。だから、あなたはテレビに移ってくれんか、と。これが要するに『銭形平次』ですよ。これに移ってくれんかと。善良性の時代劇はテレビでやったら受ける、お茶の間でね。これから善良性のものはテレビでやるから、全部移すからということでね、みんなを説得して。あんたテレビにいきたくないなら辞めてくれということまでいったな。なかにはどうしても嫌だというのもおってね。ずいぷん、人を入れ替えざるをえなかったね、スターも監督もね。でも、案の定テレビの時代劇は当たりましたよ。『水戸黄門』なんかいまだにやってるでしょ。だからね、うちがね、先鞭切ったんだ。やらざるをえなかったからやったんですよ。

最後にトリビア

『広島死闘篇』北大路が追い詰められるラストはノーライト撮影。十倍増感ができる現像所が日本にないので、16ミリフィルムを使った。十倍増感で粒子が荒れカラーバランスがバラバラになってあの映像ができた。

満映でニュース映画をつくっていた吉田は深作の手持ちカメラに全く抵抗はなかった。

ヤクザ言葉&トリビア

  • 喧嘩上手のメリメリ骨の鳴るような男
  • 叩けば火の出るような女

刺青賞める時は、「いい傷ですね!」

「いいイレズミですね」ではいけない。イレズミは昔の刑罰。ホリモノは遊び。

2005-03-02 ニュートン主義とスコットランド啓蒙 このエントリーを含むブックマーク

ガリヴァー旅行記・ラピュータ島の数学と天文学にしか関心のない異様な支配者は、スウィフトが同時代のイングランドの科学者集団を風刺したもの。

スウィフトたちニュートン主義批判者の歴史はフランス革命を経て、啓蒙の科学が世界を生命のない機械に変えたと抗議するロマン主義者たちで頂点に達する。科学がもたらす恐怖を描き、後の通俗的な科学批判の直接の原形を提示した、ゴシック怪奇小説の主人公、フランケンシュタインの先祖は、ロンドンに住み、科学者集団を指揮して知的世界の王者として君臨するニュートンなのだった。(略)

スウィフトのカリカチュアが浮き世離れした痴人の集団で、現実には何の役も立たない妄想に耽っていることを嘲笑されているのに対し、フランケンシュタインはすでに「生命の秘密」を手にし、怪物を創造して自ら破滅する。自然を支配する力を科学が手に入れつつあるという認識こそが、一九世紀に書かれたこの小説の恐怖を作り出している。スウィフトはニュートンたちの「プロジェクト」の非現実性を笑い飛ばしているが、シェリーはその成功に脅威を見て取っていた。

周辺に追いやられた魔術に変わり科学が

「科学」と「魔術」の覇権闘争が終わり、日常意識と科学の対立の時代が始まることで、ますます難解に、非日常的なものになっていく科学意識と、「生活世界」に拠り所を求める科学批判の時代がはじまる。だがその前に、この膨れあがっていく日常意識が、理性の健全な行使という点で科学と結びつくと見えたときには、「理性の時代」が幕を開けたと思われた瞬間があった。

それは従来世界が脱魔術化され、合理化された時代の出来事だと考えられてきた。(略)

「理性」が倒さなければならなかった相手とは、魔術師だったのだ。啓蒙が勝利をおさめるためには、「迷信に打ち勝つ知性が、呪術から解放された自然を支配しなけれぱならない」。そして「神話は啓蒙へと移行し、自然は単なる客体となる」。

司祭や儀礼などの特権的知識を極力キリスト教から排除しようとしたトーランド。

教義の解釈権を制度から奪い、同時にそれを個人の霊感ではなく「理性」に委ねることで予言者的行動を封じ込め、既成宗教と在野の新宗教を問わず、聖職者全体の権力を解体しようとしたトーランドの戦略は、魔術と啓蒙の関係から言えば、「理解不能なもの」に非存在の烙印を押し、世界を暗い混沌から自明な白昼へ転換しようとする試みだった。

機械って、素敵やん(by18世紀の啓蒙思想家)

ロマン主義の時代が機械のイミジャリーに対する拒絶と嫌悪に満ちていたとすれば、一八世紀には機械は驚きと賞賛の対象だった。これは論敵から機械的な体系と悪罵を投げつけられたベンサムや大陸啓蒙の思想家ばかりでなく、「本来の個人主義者」であるはずの、アダム・スミスまでが共有していた感情だった。(略)

現代人がロマン主義者たちと分かち持っている、「歯車」で組み立てられた無機的な機械としての社会への嫌悪の念が、一八世紀の啓蒙思想家たちの間では、まったく逆の感受性をもって受け止められている。このヴィジョンヘの価値評価の軸は、ロマン主義以前は正反対の方向を向いていたのだった。見事な機械としての政治体は、あくまで褒め称えられる存在であって、憎悪されてはいなかった。一八世紀は有機的なものと無機的なものとの対立を知らなかった。あるいは、ボイルの原子論について科学史家たちが明らかにしたように、「有機性」とはルネサンスの暗い想像力によってつくられた怪物で、啓蒙はすでにそれを遠く後にしてきたのだ。規則と秩序を愛する啓蒙期の知識人にとって、整然と計画的に作動する機械は、美的感情をかきたてるのだった。

属国の顛末。併合され観念の世界で政治的言説を組み立て、やがて同化していく。しみじみ。

かつて合邦によって政治的独立性を失い、いわばその代償行為のように、観念の世界で政治的言説を組み立てていったスコットランド知識人が生み出した哲学的政治学は、彼らがスコットランド人としての観念上での政治的独立性をも喪失し、帝国の運営に当たる為政者の立場に同化して、彼らの視野そのものを変化させたことによって消失したのだと考えることができる。(略)

じじつ大英帝国の運営には、小さな人口に不釣り合いなほど多くのスコットランド人が関わっていた。彼らは武勇の誉れ高い大英帝国の軍人として、情熱的で献身的宣教師として、そして有能な植民地行政官として、この体制を支えていくことになる。

他にも引用しようと思ったところはあったのだけど、なんだかんだでこれだけに。最後はトリビア的に。

250年続いた限定20名の閉鎖的討論サークルでは、ふざけたものから重要なものまで色々議論されました。ハゲネタは永遠だ。

「歴史は髪が薄い男性を冷遇してきたか」

「現在の帝国と植民地の政治は、帝国の解体に向かう傾向を持っているのか」

「ミュージカルの人気はブリテン国民が知的に衰退している証なのか」

2005-03-01 際限のない詩魂 このエントリーを含むブックマーク

「詩の森文庫」の記念すべき「001」番なのに現代詩手帖の特集ではあまり触れられてません。なぜだ。時間もないのでざっくり引用。

いつの時代もスモールサークル

日本の一系列の文学者には、はじめ軽薄な文学青年として文学者のなれ合いの小世界をわたりあるき、とうとうその世界から生活社会にとびでることによってしか、一人前になれない型がある。啄木はその系列を徹底させたほとんど唯一の文学者といってよいとおもう。(略)

打ち明けて語りて

何か損をせしごとく思ひて

友とわかれぬ

当時37歳の吉本

むかし、十七歳の戦闘的な少年であったとき、わたしは、「起きるな」という啄木の詩が好きであった。いまも好きである。

起きるな、起きるな、日の暮れるまで。

そなたの一生に涼しい静かな夕ぐれの来るまで。

  

何処かで艶いた女の笑ひ声。


萩原朔太郎が同性愛的感情を抱いていた白秋へのクレイジーな手紙

「きのふ、も少しで絶息するところでした。実に苦しい日でした。おととひ大酒をしたのでれいの病気が(神経系統の)出たのです。私のこの病気は『赤い花』の作家ガルシンがまされたものと全く同じ奴です。肉行のあとで笑つたうす白い女の唇や酔中に発した自分の醜悪な行為や言語などが言ひがたい恐しい記憶ではつきりと視えたり聴こえたりするのです。その度に神経が裂けるやうな恐ろしい苦痛をする。きのふは柱に何度も頭を叩きつけたので今朝まだいたい。狂気になるのかとさへ思ひました。

[強調部分は誤植ではなく、いわゆる「ママ」]

さらにモロにホモな手紙

曽てあなたの芸術が私にどれだけの涙を流させたか、その涙は今あなたの美しい肉身にそゝがれる。真に随喜の法雨だ。身心一所になる鶯の妙ていだ。私の感慨は狂気に近い。かんべんして下さい。あなたをにくしんと呼ぶ。(略)

一所に銭湯に這入つた日からあなたの気分がぜんぜん私の気分を支配して行くのを感じた。何ともいえない法悦のよろこびが私の血管に泌みわたつて行くのを覚えた。

こんな国語の授業なら楽しかろう

三十づらをしながら、母に寄食している生活上の無能者であり、不和な結婚者として家庭失格者であり、たれも仕事とも文学ともみとめてくれない詩人であるというようなさまざまな根がからみあったろうが、朔太郎の性的な感覚の特質が、思想的な意味をもとめて流れはじめたとき、たたかわずして挫折した生活者のかげが、朔太郎のこころを占めるにいたった。「強い腕に抱かれる」のような女性願望のつよい作品で、朔太郎がうたったのは、強くたくましい腕をもった女に抱かれて、弱々しくいつも何かを怖れている心を保護してもらいたい欲求であり、また、この願望がうらがえされたかたちであらわれたのは、家のまん中にでんと坐って、一生おまえにとりついて離れてやらないというようにかまえている最初の妻にたいする憎悪であった。

とっても素敵なライナーノーツ

鮎川信夫が近代以後の詩にはじめてもたらしたもの

鮎川信夫という名は、戦乱にえぐられた都市の廃墟の場所や、流れのとどこおった運河の水や、飢えた猫のように歩きまわる人々が何べんも渡った木や鉄の橋などが、みんな言葉として倫理の別名だった戦後の時代に、それらをすべて詩の暗喩にしてしまう方法を、近代以後のわたしたちの詩に、はじめてもたらした最大の詩人であった。わたしたちはみな、かれの詩の言葉に誘われて廃墟のうえを彷徨し、文明の現在の偉大な混沌にまでたどりつくことができたのである。

『鮎川信夫全集』推薦文・1989