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2006-04-30 1960年の皇太子ニート問題 このエントリーを含むブックマーク

こんなものを借りてしまったのは、「週刊新潮」が昭和35年9月5日号で侍従長とこんなやりとりをしてたからで

どうも国民に知られる限りでは、テニスと馬とレセプションで、ほかのことが出たと思ったら乳母車を押している、じゃあ能がないんじゃないか、という批判の声が出てくるんですが。

(答) なにか仕事といっても、それがむずかしいんです。昔なら、陸軍、海軍といったものがあって、そういうところで一つの仕事を持つことができるんですが、今は、そういうものはないし、政治もいけない、なにもいけない、ですからねエ。(以下延々と)


「週刊新潮」が報じたスキャンダル戦後史

作者: 新潮社

出版社/メーカー: 新潮社

発売日: 2006/02/16

結婚して子供もできたというのにブラブラしてんなんよ皇太子という空気があったということに驚き。

日赤病院勤務案

「最近、皇太子の就職が某方面にかなり強く流れているが、具体的にいうと、日赤病院に常駐させて、普通のサラリーマンのように九時に出て五時に帰る、ということにしてはどうかということらしい。これには宮内庁の若手の役人なんかも賛成しているが、幹部連が首をひねっている」とは、某宮廷記者の言葉だ。

この説の有力な推進者の一人といわれる小泉信三氏は、「皇太子殿下の今後について、なにか一定の仕事なり職業なりをお持ちになったほうがいい、という意見があるが、私も前からそう考えている。それならどんな仕事が皇太子にふさわしいか、ということになると問題はあろうが、ともかく、なんらかの意味で国のため、民衆のためになるような仕事がいい。たとえば病人とか、恵まれない人びとの福祉のために働かれるなどは非常に結構なことだと思う」

とハッキリいい切っているから、必ずしも実現不可能のことではないが、反面「ご結婚当初、皇太子は何か約束されたと思うが、それすらも実行されない現状だから、就職などとても見込みがない」(学習院大女子学生)という声も出てきた。

この約束とはなんだ、「里帰り」か、「一生お守りします」とか言ったのか。で、学友とかは

(略)しかし殿下の周囲の人たちは殿下がやられる以上、堂々としたもので、一流でなくてはならないと考えている。だから金の集まり具合を一ばん心配していた。金が集まらないほうがいい、といったのは私たち友人だった。

もし一流のものなら、殿下や美智子さんが参加しようがない。むしろ、初めはどんな小さなものでも、一般の人たちがゼロから出発するようにやればいいと考えたし、そうでなくてはならないと思った。

しかしこのことも、今はどうなっているか知らないが、ウヤムヤの状態になっていることは確かだ。私たちも面倒くさくなって次第に遠ざかっていったが、どっちにしろこの問題は、今後再燃すると思う」

大宅壮一はマネキン説

日本民族は天皇を必要としているから、天皇という職業があり、皇太子にしても職業です。(略)

天皇が生物なんかやるのは、あれはアルバイトで、まあ一種の日曜画家的なものだからそれはいいけれども、仮にどこかの会社に入るとしたら、必ずその会社のマネキン化します。

だからそういうことになると困るんで、結局、天皇や皇太子は、国家や民族のマネキンということでいいんじゃないかと思うんです。現在、とにかく日本民族はマネキンを必要としているんだから、時代が改まって必要としなくなるまでは、民族のマネキンという職業がとにかく成り立ちうるということです」

昭和57年の正田家の苦労話。戦後天皇は明確な発言を控える、すると宮内庁の幹部がどうはからうかということになり、当然官僚は前例のないことはやりたがらない、そのため両陛下と正田夫妻が親同士として親しく懇談したこともないし、美智子の「里帰り」も23年間で五回だけ、しかも日帰り。

英三郎氏は、慎重に言葉を選び、グチめいた言葉は決して口にしない。宮内庁についても、

「長官をはじめ、いい方が側近におられるし、安心しているんですよ。美智子がヤセてるヤセてると、世間でよくいわれるんですが、日本人は人の体のことを気にし過ぎるのね」そういいながら、英三郎氏は、こんな打明け話をする。「この23年間で、いちばん心配したのは、浩宮様が生れたあと、美智子の具合が悪い時がありましたよね。あの時は、私も葉山に行き、リラックスさせるために一緒に絵をかいたりしました。(略)」

昭和38年、美智子妃が異常妊娠で、葉山において長期療養され、巷間、ノイローゼではないかと噂された時期の話である

『バットマン・リターンズ・菊の紋章』もヨロシクね。

ああ、なんかすごい下世話だわ。ついでに昭和51年8月19日号のロッキード事件怪文書。田中はシロなので世間を納得させるには中曾根幹事長逮捕しかないがそれじゃ三木首相は困るでしょ指揮権発動しますかと仄めかされて煩悶する三木。

「実は総理閣下はどうお考えになられておられるかと存じましてお伺いする次第ですが、中曽根逮捕という事態になる可能性が出てまいりました。いかがいたしましょうか?」

「ウーン(と、力なくうめいて)、すぐいきますか? 法務省に問い合せた時にはそういう報告はなかったはずだがなあ」(略)

「いや、と申しますのは、田中(角栄)は逮捕になりましたが、外為法違反の容疑はシロになる可能性が強くなりました。やっぱり、直接、ロッキード社から金を受け取っていないというところが、外為法違反での起訴はむずかしいということでございます。結局、彼がシロになりますと、ロッキード事件といって、あれだけ騒いだのに何だったんだという世論の反撃もありますし、中曽根逮捕へいかないと、世論は納得しないのではないか、と存じまして……」

「ウーン、彼(田中角栄)は請託収賄ではないのですか?」

「ハイ、収賄は成立しません。職務権限ということもございまして、丸紅から”よろしく”といわれて献金を受けましても、それだけで、収賄ときめつけるわけにはいかないということです。ですから、田中は、釈放となる事態もありえます」

「そうですか。あれだけ騒いでそうなりますか。私の聞いてる情報とずいぶん違いますねえ」

「むろん、外為法で起訴しようと思えばできますが、結局、裁判では無罪ということになります。その場合でも、裁判に七、八年はかかりますから、その間は政冶活動ができません」

「収賄じゃないのかねえ」

「ハイ、現在の状態では無理なようです。ただ、受け取った額が大きいということで、逮捕になったのですが、普通ですと、外為法は形式犯……」

「エッ、何ですか?」

「外為法違反は形式犯でございますので、逮捕しなくともいいものなのでございますが・・・」

「ハア……」

「純法律的には、逮捕に踏み切れないものでございます」

「そうですか、あれだけマスコミが書いて……、そうなんてすかねえ」

「外為法違反と中しますのは、外国人から許可なく金を受け取った場合に適用される法律なのですが、日本人からもらった、という点が犯罪の成立をむずかしくしているのです」(略)

「緊急を要するのでございます。もし、中曽根逮捕は避けたいという総理閣下のお考えでございましたら、すでに時効が来ていて起訴はできないという結論に達するかと存じますが・・・」

「政治的に処理するというわけですか。しかし、法律を曲げてまでそうするというのはねえ・・・どういうものか・・」(略)

「総理閣下もお苦しい立場とは存じますが、田中釈放、中曽根逮捕という事態になりますと……」

「アーアー……、そりやあ、政局に直撃しますからねえ。少し考える時間を与えて欲しいねえ。私にそんなこと聞いても……むずかしいねえ……」

さらにさらに下世話に。毎日記者にたらしこまれて外務省情報を流してしまった女性事務次官の手記。腐れ男女の不倫光景がヒドイの当然としても、女の方は被害者気取りで「乙女チック」全開なところがヒドイというか笑える。

強引に迫る西山記者。「個性的だよ」w

あとは「君が好きだ」を何度も何度も繰り返した。「ぼくはほんとに君が好きだなあ。蓮見さんは個性的だよ」落ち着いて考えれば、これほど歯の浮くようなお世辞はない。ただ、その時の私は、この「個性的だよ」という言葉に酔った。

酔わされて旅館に連れ込まれて。「丁寧語」と「かまわないよ」が笑いのツボ。

突如、その日、私自身が生理であったことを思い出した。とたんに私の気持はさらに動揺し、生理に見舞われている私の体に対する心配やら恥ずかしさやら、頭の混乱は極度に達した。部屋の中で、もうとっくにその気になっている彼に無我夢中で私はいった。

「私、今日、生理なんです。どうかそれだけはお許し下さい」

自分でも不思議なくらいバカ丁寧な言葉を使った。ところが、西山記者はどっかりと落ち着いていた。

「生理だってかまわないよ」

すべては終った。「愛の余韻」などとても昧わっているヒマはない。私は急がなければならない。夫のことが気になって仕方がなかったのだ。

後日横浜に行こうと誘われてお食事ならと乙女チック。

バカな私は、その時、あまり行ったおぼえのない横浜を頭に浮かべて、「今日は中華街でお食事でもするのかな」なんて、ほんのちょっぴり胸をときめかしたりした。

当然男は渋谷のホテルに連れ込んで合体して機密書類を流してくれと哀願。

書類を持ち出し始めてから、西山記者の私に対する態度は、かなり変っていった。もう『ホテル山王』で会っても、決して甘い言葉なんかささやかない。私をごくごく事務的に抱いて、あとは私が持っていった書類に目を通し、おたがいほとんど言葉を交わさずに別れる。間違いなく私は彼にひっかかっている。

事が露見してからも西山に三通しか見せてない事にしてと言われて嘘をついて

しかし、それよりも、私にウソをつかせた西山記者が絶対に許せない気持ちだった。

私がワァッと泣いて「刑事さん、ウソをついていてごめんなさい」といった時の気持ちが、西山記者と毎日新聞にわかっていただけるだろうか。

と書いちゃうわけだが、最初に三通だけと言ったのは自分だって罪を軽くしたかったせいだし、刑事に落とされたら、今度は西山が悪い。自分の腐れ加減をちっとも見ようとしないこの女のズルさと記者男の傲慢さがあまりにヒドイ。いやあ大人って腐ってるなあ。ひろがねチックな愛だなあ。

ああ、ホント、下世話だわ。時間の無駄だわ。

2006-04-29 「みんなの意見」は案外正しい このエントリーを含むブックマーク

この本の主張に同意したい気持ちは多いにあるし、それなりに正しいとも思うが、問題の種類を混同している気がしてスッキリしない。確かに油ガマ親父が「ふぁいなるあんさあ」と迫ってくる番組で出される問題や、「この線の長さは」という問いなら、

100人が100メートルを走った平均記録を計算したとしよう。平均記録が、いちばん速い人の記録よりも速いことは絶対になくて、確実につまらない記録になるはずだ。だが、100人が質問に答えたり、問題を解決したりするときには、平均的な回答がいちばん頭がいい人の回答と同じくらい、あるいはそれ以上に優れていることが多い。

この考えに従って「じゃあ、オーディエンスで」と答えて間違いないのだろうけれど、郵政民営化問題etcで「オーディエンス」が有効かというとそれは疑問だ。十分なデータを与えれば大衆でも正しい答えが出せると言われるかもしれないが、それが十分なデータであるかどうか判断できないから大衆なわけで。情報カスケードというか付和雷同というか。でも高給取ってるエリートの判断が無謬というわけでもないのだし、専門外では単なる大衆なのだし、均質的な専門家集団より多様な素人集団の判断の方が正しいこともあるだろうし、だったら「みんなの意見」でいいじゃないと言えなくもないが。


「みんなの意見」は案外正しい

作者: ジェームズ・スロウィッキー,小高尚子

出版社/メーカー: 角川書店

発売日: 2006/01/31

例えばどんな車が売れるかという問い。その答えをだすのは「みんな」なんだから正解にきまってるじゃない。そりゃ過程の多様性は一部エリートの判断による答えでは成立しないものだけど。ベータよりVHSが売れるという答えは正解だろうけれど、VHSを選んだことが正解かどうかはわからない。

20世紀初頭のアメリカでは何百という企業がクルマをつくろうとしていた。蒸気や電力を使ったクルマが売られていたのは前述のとおりだが、外観がどうあるべきか、どんな動力が使われるべきかといったルールがまったくない時代だったので、当時のクルマには今日からすると想像を絶するようなバラエティがあった。トマス・エジソンは、バッテリーを使ったクルマを設計したし、ある時点ではアメリカの路上を走るクルマの三分の一が電力を使っていた。(略)20世紀初頭には、何百というメーカーが蒸気をつかったクルマをつくっていたが、その中でもいちばん成功していたスタンレー・スチーマー車のスピードは伝説となっている。1905年、時速203キロを記録したうえに、乗り心地も技群だった。ガソリンを使ったエンジンの勝利は既定の結論ではなかったのである。だが、20世紀最初の10年がすぎようとする頃には、ライバルが続々と戦列から脱落していった。

(略)

[ガソリン車が生き残った一番の理由は]ほかの動力を使うメーカーに先んじて大量生産技術に巨額の投資を行い、マスマーケットに到達した事実である。

(略)

もはや誰も蒸気や電力を使った自動車を話題にもせず、とんでもない形やサイズのクルマがつくられることもなかった。世の中の人みんなが、クルマがどんな形か知っていたからだ。クルマとは、T型フォードの形をしているものなのだ。

下手な鉄砲も数打ちゃ当たるという多様性。とんでもない成功には非常識なアイディアとそれに乗る非常識な資金提供者とそれを買っちゃう非常識な奴。

このアプローチの成功の鍵を握るのは、絶対成功しそうにもないような大胆なアイディアを後押し、積極的に投資するシステムの存在だ。また、このシステム以上に重要なのが多様性だ。これは社会的多様性ではなく、認知的多様性のことである。同じ基本コンセプトを少しずつ変えただけのアイディアよりも、発想が根本から違う多様なアイディアがたくさん出てくるように、起業家の発想には多様性が必要だ。それに加えて資金を持っている人の多様性も必要だ。分権化された経済のメリットの一つには、意思決定をする権力が(ある程度までは)システムの中で分散している点にある。だから、権力者がみんな似たような考えだと、せっかくのメリットも活かされない。考え方が似ていれば似ているほど、資金提供者に評価されるアイディアも同じようなものになってしまい、一部の権力者たち以外の人の目に触れる新商品の種類やコンセプトが限られてしまう。逆に、資金提供者にも認知的多様性があれば、ものすごく過激で、ありえなさそうなアイディアに賭ける人が出てくる蓋然性は高くなる。資金調達先の多様性が、アプローチの多様性につながるのだ。

とはいえ、資金調達先がどんなに多様でも、大半の試みは失敗に終わる。

均質性は多様性に負ける(でも大衆が均質化している場合もある)。

だが、集団のレベルで考えれば、知性だけでは不充分だ。問題を多角的に検証する視点の多様性が得られないからである。知性というのは、スキルが入った道具箱のようなものだと考えると、「ベスト」と考えられるスキルはそれほど多くなく、したがって優秀な人ほど似通ってしまう。これは通常であればよいことだが、集団全体としては本来知りうる情報が手に入らないことになる。それはどよく物事を知らなくても、違うスキルを持った人が数人加わることで、集団全体のパフォーマンスは向上する。

なんとも奇矯な結論だと思われるかもしれないが、それが真実なのだ。似た者同士の集団だと、それぞれが持ち込む新しい情報がどんどん減ってしまい、お互いから学べることが少なくなる。組織に新しいメンバーを人れることは、その人に経験も能力も欠けていても、より優れた集団を生み出す力になる。

均質な集団は多様な集団よりもはるかにまとまっている。集団のまとまりが強くなるとメンバーの集団への依存度が増し、外部の意見から隔絶されてしまう。その結果、集団の意見は正しいに違いないと思い込むようになる。自分たちが間違えることは絶対にないという幻想、その集団の意見に対して考えられるあらゆる反論を何とか理屈をつけて退けようと躍起になる姿勢、異なる意見は役に立たないという信念がこうした集団には共通して見られる。

MMT(コロンビア号飛行管理班)にもっとも欠けていたのは視点の多様性だ。元飛行管制官で、現在NBCの特派員であるジェームズ・オーバーグは、同じNASAでもアポロチームのほうが実際にはMMTよりも多様だったと発言した。これは俄かには信じがたい。考えてもみてほしい。1960年代後半のエンジニアは画一的な集団で、全員がおそろいの髪型で、おそろいの半そでの白いシャツを着ていたではないか!

オーバーグは、アポロチームのエンジニアの多くはNASAに就職する前にいろいろな業界で働いた経験を持っていたことを指摘した。現在のNASAのエンジニアは普通大学院からすぐNASAに就職する。したがって、NASA内部に多様な意見が存在する可能性ははるかに少ない。これが問題になるのは、小さな集団にとっては意見の多様性だけが人と人が顔を合わせて議論することのメリットを保証するものだからだ。

これを読むと高給取りのエリート供がファッキンなんじゃあ、一般大衆でやれるんじゃあと、言いたくなるだろうし、「負け組」確定の当方としても同意したいけれど、微妙だ。

たとえば著者は朝傘を持って出るか判断するのは簡単だ、外を見て「みんなの意見」に従えばいいというのだが、それは他のみんなが真剣に判断していたらばの話であって、他のみんなも「みんなの意見」に従っていたら情報カスケードである。つまり正確な「みんなの意見」を知るにはその「みんなの意見」が汚染されていないか知ってなきゃならないわけでそれには専門性が必要なんじゃなかろうか。

イノベーションの主役は、何ということはないネジである。

1860年代、ウィリアム・セラーズという男がいた。当時の工作機械業界は、1990年代のハイテク業界のような勢いのある業界だった。その中でセラーズはもっとも有名で、広く尊敬を集めている機械工だった。彼は自分がデザインした規格化されたネジをアメリカ中に広めるキャンペーンを始めた。

この頃のアメリカでは、ネジは機械工の手づくりだった。大量生産はできなかったが、だからこそ機械工が自分の職を守ることにつながっていた。毎回毎回特別にネジを誂えるということは、顧客の囲い込みを意味するからだ。旋盤の修理をしてもらうためには、必ずそれをつくった機械工のところに行かなければならない。だが、どこでも同じネジが使われるようになると、顧客がその機械工に修理を依頼する必然性はなくなり、もっと価格に敏感になる。

セラーズは、機械工が何を恐れているかわかっていた。それでも、部品を規格化し、大量生産の道を歩むのは避けられないと考えていた。彼のネジは、ほかのどんなネジよりも簡単に、安く、早く生産できるようにデザインされていた。彼はこれが機械工たちにとっては死活問題であることも、工作機械業界が人と人との緊密な結びつきの上に成立している業界であることもわかっていたので、コネや影響力を駆使して人々に働きかける必要性を感じていた。

そこで、彼はアメリカ海軍など影響力の大きい顧客をターゲットに据え、五年かけて規格化されたネジを使うのが世の趨勢だという雰囲気をつくりだした。(略)10年も経たないうちに、セラーズのネジは全米規格の地位に上り詰めようとしていた。このネジがなければ、工業製品の大量生産に必要な組み立てラインは実現できなかったかもしれない。かりに実現できたとしても、ものすごく苦労したことは確かだ。セラーズが、近代的な大量生産に必要な基礎工事を行ったと言っても過言ではない。

この話は、情報カスケードがよい方向に働いた例だ。セラーズがデザインしたネジは、当時もっとも有力なライバルだったイギリス製のネジよりもあらゆる点で優れていた。優れたネジが全米規格になることで、アメリカ経済は飛躍的な進歩を遂げた。だが、機械工たちが単純にセラーズに従っただけで、どのネジがいちばん優れているか自ら考えることなしに漫然と選んだだけだとしたら、最終的に正しい結論に違したのはまったくの偶然の賜物だ。セラーズのネジが優れたデザインだったのは、本当に運がよかったとしか言いようがない。

集合的な意思決定は合意形成とはちがう

集合的な意思決定は合意形成といっしょくたに考えられることが多いが、集団の知恵を活用するうえで合意は本来的には必要ない。(略)

[最終決定までに]15のミーティングを経るという事実が示すのは、意思決定プロセスの″民主化”を目指した企業も、「民主化=終わりのない議論」だととらえていて、「民主化=意思決定権を広く分散化させること」だとは考えていなかったということである。1960年代後半から1970年代前半にかけて、アメリカ企業をじわじわと冒した官僚的な硬化症の象徴でもある。

芸術的な分野で「みんなの意見」は正しいと言えるか。

本当に優秀な芸術家は芸術的革新と同時に大衆性も意識していて、ゴッホが人気あるのってやっぱりバッチコーイとかましていたからで、あのぐねぐねは芸術的革新でもあったけれど、同時にバッチコーイでもあったはずで、絶対ゴッホは今回のコレは行ったでしょう、バッチコーイって思ってたはずで、一歩間違えば同時代に「みんなの意見」とバッチコーイしていたかもしれない。

頭の固い専門家からすれば斬新さを「なんとなく面白い」で受容してしまう大衆は何もわかっていない奴等でしかないのだろうけれど、斬新さがわかる専門家にある意味近い。当然専門的な文脈の中で斬新さを見出している専門家と、「なんとなく面白い」だけの大衆とでは大きな差がある。でも頭が固いくせに「わかっているつもり」の専門家よりはマシだし、「みんなの意見」は正しいと言える。まあでもそれも芸術家が「みんなの意見」という正解を目指したからであって、(以下繰り返し)。

2006-04-27 俗語が語るニューヨーク・その3 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


俗語が語るニューヨーク―アメリカの都市社会と大衆言語

作者: アーヴィング・ルイスアレン,Irving Lewis Allen,長田光展

出版社/メーカー: ディーエイチシー

発売日: 1997/02

不健康なスポーツマン

1850年頃には、「the sporting life」、それを短くした「sporting」ないし「sport」といえば、男の目から見るかぎり、酒場での仲間づき合い、賭博上での賭事、娼婦相手の遊びを意味した。(略)1830年以来、「sporting gentleman」といえば賭博師を意味していた。1850年代後半には「sporting house」とは賭博師や酒飲みたちが出入りする施設のこと、1870年代にはもっぱら売春宿を意味するようになる。「sporting lady」はいうまでもなく売春婦、特に売春宿で働く売春婦のことであり、「sportsman」ないし単に「sport」といえば、熱心な賭博師、酒飲み、売春宿の顧客を意味した。

ぽよよーん&池乃めだかウォーク

"bum's rush"をされた時に強いられる歩き方が、「spanish walk」で、辞書編集者のロバート・L・チャップマンによれば、「南米北東部沿岸部のカリブ海域で、海賊たちが捕虜を連行する際、首をつかんで無理やり歩かせるために、捕虜たちの足がほとんど甲板につかず、爪先だって歩くかたちになる、その歩き方」が「スパニッシュ・ウォーク」である。あるいはこの表現は、辞書編集者ローレンス・アーダンによれば、「(男の)フラメンコ・ダンサーが、ちょうどスペイン人歩きを強制された人のように、……音楽に合わせて踵を激しく床に叩きつける前に爪先だけで歩く、そのときのイメージを喚起する」ところから出ているのかもしれない。この強制追い出しは、「French walk」とも呼ばれたが、おそらくその理由は、追い出される男がしばしばうつぶせにされ、手足を「カエル」のように広げた格好で運び出されたためだろう。「カエル」(frog)は、フランス人一般に対する古い蔑称であった。いずれにしろ、酒場のスイング・ドアから空を飛ぶように投げ出される男の視覚的イメージは、都会のポピュラー・カルチャーではおなじみのイメージの一つである。

売春街地区担当になった悪徳警官がこれからは賄賂でテンダーロインが食えるようになるぜと言ったのがはじまり

ニューヨークの紅灯地区に対する呼び名は「The Tenderloin」である。(略)この言葉が活字として最初に使われたのは、知られているかぎりでは1885年である。最初この言葉は、ニューヨーク第29警察管区内の不法営業に、警察官が手心を加えることで手にする賄賂に言及していた。ある警察官は、それを「このサーヴィスのおいしい部分」と呼んでいた。(略)

「ザ・テンダーロイン」のこの俗語的表現は、一つには「腰肉」(loin)がもつ性的な意味もあって、すぐさま、紅灯地区での営みを意味する言葉に拡大された。性を食物のメタファーで表現するのは、性に関する俗語では普通のことであり、その種のメタファーが、性的活動を専門とする地域名にまで広げられたとしても不思議はない。その上で、私はもう一点つけ加えたい。「やさしい好意」(tender favor)といえば、19世紀初頭には売春行為を意味していた。その「テンダー」に腰肉の「ロイン」が加われば、おいしい性的なイメージは完璧である。

Pioughed

Pioughed

バットホールを聴く三千里マルコ

「hurdy-gurdy man」と呼ばれる大道音楽家は、かつては、マンハッタンの下町であればどこにでも見られたもので、町の四方八方からは「サンタ・ルチア」や「フニクリ・フニクラ」の調べが盛んに聞こえてきた。「ハーディガーディ」とは、中世の頃に使われていたリュートに似た手まわしの弦楽器のことだが、ハーディガーディ・マンが必ずしもハーディガーディを演奏していたわけではない。むしろ彼らはバレル・オルガンやハンド・オルガンのほうをより多く演奏していたのだが、これらの楽器も手まわし楽器であったため混乱が起こったのだ。手まわしオルガンのうち、小ぶりなものは「モンキー・オルガン」と呼ばれ、棒の上に据えられ、運ぶ時にはオルガン弾きが背負って歩いた。より大型のオルガンやストリート・ピアノは車の上に乗せられた。ハーディガーディ・マンは猿を使うこともあったが、猿は小さなカップを持ちまわってコインを集めるように訓練され、普通はズワーヴ兵(アルジェリア人によって編成されたフランスの軽騎兵)の服を着せられ、名前は常にJocko(「猿」を意味する)であった。(略)彼らの多くは、自分の物といえるものは何一つ持ち合わせてはおらず、オルガンから猿、猿がかぶるトルコ帽にいたるまで、すべては元締めから借り受けていたものである。

豚だらけの街

19世紀もほとんど中頃にいたるまで、ニューヨークのほとんどの町並みは、通りを逍遥する豚たちによって清掃されていた。もっともこれを清掃と言えるならのことである。この豚たちは「street hog」と呼ばれ、町の貧しい人たちが犬や山羊と一緒に飼っていたものである。当時の人々は、一日が終わると、家庭から出た生ごみ---果物類、野菜類、肉切れなど---を通りに投げ捨てるのが習慣であり、この生ごみを、この豚たちが犬や山羊と一緒に繰り出しては始末していた。1817年には、ニューヨークの町並みにはおよそ二万頭の豚が自由に歩きまわっていたと言われる。たまりかねた住民たちは豚の功罪について論じたが、結局その結論は、生ごみが法律に反して投げ捨てられている以上、豚たちは公共の利益に役立っているというものだった。しかしその豚も、子供たちにとっては楽しみの大いなる源泉だった。子供たちはそれを追いかけ、カウボーイよろしく投げ縄でとらえては楽しんでいた。

こんなとこでいいか。残りは俗語辞典風に。

gold-digger

芽の出なかったコーラス・ガールのうちで、性的関係を許したり、あるいは許すという約束のもとに、贈り物や家賃や扶助料をもらって「かこわれている」女性

劣悪な棟割長屋

社会改良家たちやジャーナリストたちは、そうした最悪の棟割長屋を、「犬小屋」(kennel)、「獣の穴」(lair)、「ウサギの飼育場」(warren)、「カラスの繁殖場」(rookery)、「ハチの巣」(hive)などと呼んで、貧しい住人たちの動物レベルの生活を暗示した。

butter-and-egg man ナイトクラブで豪遊する田舎成金

fanner 公衆電話を見ると返却レバーをガチャンと「fan」してみないと気のすまない人のこと。

2006-04-26 俗語が語るニューヨーク・その2 このエントリーを含むブックマーク


俗語が語るニューヨーク―アメリカの都市社会と大衆言語

作者: アーヴィング・ルイスアレン,Irving Lewis Allen,長田光展

出版社/メーカー: ディーエイチシー

発売日: 1997/02

なんとなく音楽ネタ風。

1910年代になると、中産階級に属する女性たちまでがこの新たな社会的自由を実験しはじめ、そのため中産階級のなかにも不安が立ちこめはじめる。ソフィスティケイトされた女性たちが夫に付き添われ、あるいは婚約者に付き添われて、1890年代以来男たちが様々なかたちで楽しんできたナイトライフを彼女たち自身で冒険しはじめたのだ。ダンス熱は、中産階級のニューヨーカーたちの間にも浸透していた。しかし、例のごとく、女たちはダンスをしたがるのに、男たちはしたがらない。そこで、かなりの良家の女性たちまでがときおりダンシング・エスコートを雇うのだが、そのなかには怪しげな過去をもつ危険すれすれの男たちもいた。当時の証人たちの言葉によれば、彼らはいずれもハンサムそのもの、髪の毛はてかてかしていて、ある証人によれば、生きた人間というよりはむしろ写真みたいな男たちだった。(略)しばしば彼らは「tango pirate」と呼ばれたり、「social gangster」とも呼ばれたが、それは彼らが、午後のカフェで出会った金持ちの女性たちに罠を仕掛け、貞操のみか、お金まで巻き上げては彼女たちを食い物にしていたからだ。(略)

1915年頃、「lounge lizard」という呼び名が登場してくる。「ラウンジにたむろするトカゲ」という意味である。(略)

ベンジャミン・ド・キャサリスによれば、「他のすべての大都市と同様、ニューヨークには三種類のトカゲたちがいた。ホテルなどに巣くうラウンジ・リザード、街角に巣くうコーナー・リザード、そして、公園のベンチに巣くうベンチ・リザードである。」トカゲ業も複雑であったらしい。

[金をけちって女の家のパーラーで口説く輩は軽蔑され"parlor snake""parlor lizard"と呼ばれた]

オリンピア食堂、ちずばがちずぼげ

1868年、ジャーナリストのジューニアス・ヘンリ・ブラウンは、ウォール街の騒がしい安食堂で、給仕たちがコックたちと連絡を取りあう様子を報告している。「給仕たちには並々ならぬ聴力が、コックにいたってはもはや奇跡的ともいうべき聴力が備わっているのにちがいない。どうして人に、こんな言葉が理解できよう。〈ハム・エッグズ・フォー・ツー・オイスター・シチュー・カフィ・アンド・アパイ・フォー・スリー・ポーク・ビーンズ・エイル・シガーズ・フォー・フォー・ビーフ・ステイク・アニアンズ・ポーター・シガーズ・フォー・ファイブ・マトン・チョップ・ミンス・パイ・ブラック・ティー・フォー・ワン〉---これがすべて、安食堂の給仕特有の音程と調べをともないながら、まるで、一語のように語られるのだ。」(略)

(slaughter in the pan)といえば、ビーフステーキのことであり、「スミレの花束をもった女嫌い」(red mike wit a bunch o’violets)は、コーン・ビーフのキャベツ添え、(略)「egg in the dark」といえば、両面を焼いた卵焼きのことで、同じものをバワリーでは「両面破壊」(two shipwrecked)と言い、(略)コーヒーを注文するときにもけっしてコーヒーという言葉は使わず、ただの「draw one」であり、ブラック・コーヒーを注文するときには、(draw one in the dark)である。こうした仲間ことばのいくつかには、当時の一般的な人種偏見の響きもこめられていた。ブラック・コーヒーは、またの名を「one nigger」、ロースト・ポークに茹でたジャガイモを添えた料理は、「馬の背に二人乗ったユダヤ人の葬式」(sheeny funeral with two on horseback)であった。

1930年代までには、意昧不明のこうした仲間ことばは、「安食堂のギリシア語」(hash‐house Greek)と呼ばれるようになっていた。

Coney Island Baby

Coney Island Baby

コニーアイランド

俗悪の罪、商業的操作、頭のいい資本主義者が発明した「大衆のアヘン」、理性の放棄、過剰な大衆社会、あるいは民主主義への展望などである。

ほぼ前世紀の中頃から今世紀の中頃にかけて、このリゾート地区とアミューズメント・パークは、ニューヨークの中心部とその盛衰を共にしてきた。コニーは、中産階級のための海水浴場とホテル・リゾートとして始まり、いつのまにか、ニューヨークの労働者大衆や移民のための遊園地となった。1890年代の牧師たちは、ここで行われる賭博、飲酒、売春などの放埓な遊興生活に言及して、この海浜リゾート地を「海辺のソドム」と呼んでいた。(略)

1930年代までには、この海水浴場も下水汚物とごみで汚染されるようになり、海辺で見つかる様々なものについて寒々としたユーモアが生まれてくる。(略)(Coney-lsland whitefish)(略)海水浴場にぷかぷかと浮かぶ使用済みコンドーム(略)勇敢な戸外の逢引場所、コニーアイランドなる「あおかんホテル」(Underwood Hotel)の遊歩道の下に捨てられたホワイトフィッシュ(略)

暗闇の愛のトンネル、他人の体にぎゅうぎゅう押しつけられる巨大な回転桶、女性のスカートを頭の上まで突然吹き上げるびっくり通風孔(略)、方向感覚を麻痺させる鏡の間など、すべては、節度ある上品さが要求される都市の日常的状況に対する公認の戯画化である。現実ではありえない公共の場でのロマンチックな男女の出会い、ときおり地下鉄内で起こる間欠的な闇、群衆、押し合いへし合い、大量輸送機関内での揉み合いやフロタージュ幻想*1、男の目を楽しませ、悔しがらせる街角の風のいたずら、自由落下していくエレベーター幻想、エスカレーターの楽しみ、くるくるまわる回転ドアの静けさ、これらのすべてが、コニーアイランドの楽しみのなかには要約されていた。

イン・スルー・ジ・アウト・ドア

イン・スルー・ジ・アウト・ドア

ホット・ドッグとか言う前にCODA収録曲を何故ボツにしたかと小一時間

1900年頃からホット・ドッグは"Coney Island red hot""Coney[Island]chicken ""New york tube steak"などの名前で呼ばれるようになる。(略)

「ホットドッグ」という俗語名は、19世紀中頃の都会に流布していたユーモアから生まれた(略)ソーセージは犬、猫、馬、さらには、ねずみの肉でできているのではないかというものである。コーエンは、1843年にニューヨークで有名になった犬肉スキャンダルが、この呼び名の起源になっているのではないかと指摘している。(略)

「ホット・ドッグ!」は、喜びを表現するアメリカ人固有の間投詞となったが、これはおそらくgoddamnの婉曲法である(hot damnこいつはすげえや)を経由した後、それをさらに婉曲化して、「ホット・ドッグ」となったのだろう。(略)

「ホット・ドッグ」は、そこに「犬を食べる」といういとわしい意味合いがあったため、不評のままコニーアイランドの浜辺だけに長い間とどまっていた。1913年、コニーアイランドの商工会議所は、メンバーである販売業者たちにこの呼び名の使用を禁止する決議を通過させる。しかし、時の大統領フランクリン・ルーズベルト、および折から訪問中の英国王と王妃がこの純粋にアメリカ風料理を試食するに及んで、こうした心配も1939年までには完全に払拭され、「ホット・ドッグ」は、尊敬すべき言葉として、由緒正しい言葉の仲間入りをしたのである。

スキッド・ロウ

スキッド・ロウ

全然、聴きたくねえけど、話の流れで。

「どや街」skid row

1880年代の樵用語では、「skid way」あるいは「skid road」といえば、若木を組み、脂を塗った本道のことで、その上に木材をのせ、滑らせ(skid)ては海に運び、製材所まで浮かべていった。

1915年頃になると、「スキッド・ロード」の意味が広がり、樵たちが娯楽を求めたり、仕事がなくなった時に出かける町の安酒場、食堂、ねぐらなどのある地域をも指すようになる。街のスキッド・ロードに出るということは、彼らが放蕩に近づき、少なくともそれに手を出し、ことによれば「破滅(堕落)する」(go on the skids)危険さえあることを意味していた。1930年代までにこの言葉は東部へ渡り、ホームレスや失業者たちが集まる都市の零落した地域をも示すようになる。「スキッド・ロウ」のかたちが支配的になるのは、1940年頃である。

明日で終わるのか。なんか飽きたぞ。

*1:服を着たまま体を他人の体や物にこすりつけて、性的快感を得ること

2006-04-25 俗語が語るニューヨーク このエントリーを含むブックマーク


俗語が語るニューヨーク―アメリカの都市社会と大衆言語

作者: アーヴィング・ルイスアレン,Irving Lewis Allen,長田光展

出版社/メーカー: ディーエイチシー

発売日: 1997/02

ストリート

アメリカの都市文学や大衆言語では、「通り」はすでにもう長いこと、社会を破壊するものの象徴だった。(略)

下層階級にとっては、よりよい場所に移り住むということは、より高いステータスを求めて社会的に移動をするということである。「あとに残された者たちには〈通り〉があるだけである。それは、そこに住む者たちを堕落させ、その可能性を破壊し、よりよいステータスに移行するのを妨害する凝集されたあらゆる環境の力の象徴、比喩的意昧での悪意に満ちた〈通り〉である。」

(略)

通り、歩道、縁石と連想される戸外世界で、合法的なものはほとんどない。大衆表現のなかでは、形容詞としての「ストリート」は、中産階級的な正規の制度からはずれて存在し、営まれている様々な活動、制度、人々を意味している。例えば、「浮浪児」(street arab)、「放浪クリスチャン」(street Christian)ないしは「街頭伝道」(street ministry)(略)

オン・ザ・ストリート

1900年までには、the street(s)やon the streetsという表現は、麻薬その他の悪徳にふけることのできる牢獄外の世界を意味する犯罪者用語であった。「street time」といえば、刑期中一時獄外に出る仮釈放期間のことである。「歩道にいる」(on the sidewalkあるいはon the pavement)という表現も、また、何らかの犯罪関与を匂わせる表現である。麻薬常用者たちの言葉では、「街を歩きまわる」(pound the pavement)とは、麻薬を求めて執拗に歩きまわること、「the street」は麻薬常習者仲間たちの社会、「on the street」は麻薬を探し求めることである。「street money」といえば、麻薬取引や売春で得た金のことである。

street-smart street-wise

都会のジャングルと呼ばれる弱肉強食的な社会環境のなかで、人が生き残りはい上がっていくために必要な、タフで、狡猾で、シニカルな心的態度やその種の特殊な知恵をもっていることを意味している。(略)ウィリアム・サファイアの記述によると、すでに彼は1950年代に「ストリート・スマーツ」という言葉を聞いているが、当時、この言葉は、厚かましい、非知的な態度で現実世界の混乱を切り抜けていく政治家の手腕を意味していた。その後、「ストリート・スマーツ」は一般俗語の仲間入りをして、政治的、経済的な問題、特にワシントン・ジャングルやニューヨークのウォール・ストリート・ジャングルを扱う際の、高度に実用的な手腕を意味するようになった。

stoop

オランダ語のstoep(=step)から出ている米語のstoopは、歩道のレベルから一段高くなったニューヨークの連続住宅や棟割長屋のメイン・フロアーヘとつながる短い階段と踊り場を意味していた。この建築様式は、オランダからの植民者たちによって持ちこまれたものだが、もともと本国オランダでは、一階への浸水を防ぐために作られていたものである。ニューヨーク市民も次第にこれに慣れ、その外観が気に入るようになった。

(略)

夏の棟割長屋のむせるような暑さから逃れる場所として、また、通りの光景を眺める一段高い席として、そこに座っては近隣の者たちと交わる社交の場として使われてきた。

棟割長屋の条件

プライバシーの欠如は、ごみごみとした下層階級の都市生活にはつきものだった。(略)『他の半分の人々の生活』(1890)のなかで、ジェイコブ・リースは、正真正銘の棟割長屋には三つの条件が必要であると言う。玄関のドアに鍵がかかっていないこと、正面の玄関入口にはそれぞれのフラットを呼び出すベルがないこと、そして、廊下は「昼夜をとわず、誰かれとなく出入りできる公道」であること、である。しばしば廊下は、手狭なフラットの延長として使われ、ストゥープよりももう一歩屋内に近い存在にすぎなかった。ドアもしばしば開け放されたままで、家族の生活はむき出しのままだった。敷居もドアも、ここでは社会的な障壁にはなりえなかった。

(略)

居住者同士の生活が密接にからみ合う棟割長屋生活の象徴といえば、一家の洗濯物をありったけ干す、例の洗濯ひもである。(略)裏庭いっぱいに洗濯物がはためく光景は、無数の絵画や映画のシーンでもおなじみである。(略)下着から何から、隣人の目に白日のもとにさらされる家族の洗濯物。(略)大衆言語では、この洗濯物は、通りの人々、世間一般の人々の詮索の目にさらされるべく「吊るされた」、個人生活の詳細のメタファーとなった。事実、「洗濯ひも」(clothesline)という俗語表現には、かつてはゴシップとか噂話の意味があった。二十世紀に入ってからも、個人的な問題や家族内の問題は「洗濯ひも」と呼ばれてきた。家族内のいざこざや個人的な問題、すなわち「リンネルの汚れ」は、「洗濯ひも」に吊るされて衆人環視の目にさらされるようになる頃には、人も戸惑うほどに「汚れた洗濯物」(dirty wash)、「汚れたリンネル」(soiled linen)になっているのが普通である。

ジャングル

イーフー・チュアンは、工業都市の台頭以来、「イメージが逆転して、荒野が秩序(生態学的秩序)と自由を意味するようになる一方で、都市中心部は、無秩序、社会の除け者たちによって支配されるジャングル、と見なされるにいたったのだ」と述べている。ジャングルがこうした意味の言葉として特に知られるようになるのは、1906年、シカゴの屠殺場を舞台としたアプトン・シンクレアの小説『ジャングル』が出版されて以来のことである。シンクレアがこの小説を書いた頃は、社会的ダーウィン主義の時代精神と適者生存理論の安易な正当化が、自由放任の資本主義経済の背景のなかで支配的な時代であった。産業労働者たちは生存ぎりぎりの安賃金で働き、野蛮な生存の戦いが展開されるジャングルの動物たちと同じように、生き残るために職を求めて互いに争いあっていた。

アイルランド人の歩道

19世紀中頃の貧しいエスニック・グループは、街路、特に路地とは密接な連想をともなっていた。かつて都市のストリートは、アイルランド人への侮蔑をこめて「アイルランド人の歩道」という俗語で呼ばれていた。おそらく、嫌われ者のアイルランド人には歩道よりは街路、もっと正確に言えば車道のほうがふさわしいということであり、あるいは、愚かな彼らには車道と歩道の区別もつかない、ということなのだろう。こうした中傷は、けんかのときの飛び道具として使う岩や煉瓦のかけらを言う「アイルランドの紙玉」(Irish confetti)という表現に受け継がれる。これは、1832年頃からニューヨークの街路に敷かれはじめた敷石、「ベルギー煉瓦」を指す一般的な表現である。19世紀の中頃、ファイブ・ポインツやバワリーではアイルランド人ギャングたちによる暴動がよく起こり、ときにはそれが数日間も続くことがあった。その際、彼らはこの煉瓦を舗道から引き剥がしては、武器として使ったからだ。

縁石の正義

curbstone justiceといえば、ミランダ警告規則ができる以前、旧式な非公式の懲罰として、貧民街の子供たちなどを警官がリズミカルに殴りつけることを言った。

アメリカ証券取引所の出自

ニューヨーク証券取引所が初めて組織されて屋内に入った時、なかに入れなかった仲買人たちの多くは通りにとり残され、あるいは失業した。通りで商売を続けた仲買人たちは、1848年までには「カーブストーン・ブローカー」(場外取引仲買人)と呼ばれ、1856年までには「ストリート・ブローカー」と呼ばれるようになる。(略)

その組織は1911年に<ニューヨーク場外市場協会>と命名され、ついに1953年〈アメリカ証券取引所〉となって、縁石から始まった出自の汚名を払拭することになる

gutter music

「ガタースナイプ」の呼び名は、通りの物乞いや、帽子をまわしてお金を集める街頭音楽家にも言われるようになる。排水溝の連想を伴う音楽用語はほかにもある。「マッド・ガター(mud gutterつまり「縁石」)・バンドが、あるダンス・ホールの前で調子はずれの音楽を演奏していた」と、1892年、ニューヨークのある社会評論家が書いている。1900年頃の音楽用語では、「ガター・ミュージック」とは、排水溝を行進していく葬式やパレード用の街頭音楽を言った。ジャズ・ミュージシャンたちは、その後、評判の悪かった初期のラグタイムやジャズを「ガター・ミュージック」と呼ぶようになる

ザ・ビッグ・アップル

この名前は、1930年代、40年代のジャズ・ミュージシャンたちが「ニューヨークでの出演契約をものする」という意味の用語から出たとする説が、最も有力である。ハーレムの高級クラブで演奏したり、52丁目のクラブで演奏するのは、彼らにとっては最高の栄誉であり出世であった。この栄誉を、彼らは「ザ・ビッグ・アップル」と呼んだ。しかし、この表現はそれ以前にも別の分野で使われていた。はるか以前の1909年に、アメリカを支配する大都市という意味で、ニューヨークに対する批判的なメタファーとして活字化された。「ニューヨークは、ミシシッピー川流域に根を張り、その大技を両大洋間に広げるあの巨大な樹アメリカの一つの果実にすぎなかった。……にもかかわらず、この大きなリンゴは、国家の樹液を不当に吸い上げている。」

延々こんな調子なので、今日はここまで。明日につづく。

2006-04-22 ダウン・ビート・アンソロジー・その3 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


JAZZ LEGENDS―ダウン・ビート・アンソロジー

作者: フランク・アルカイヤー,田村亜紀,広瀬真之

出版社/メーカー: シンコーミュージック

発売日: 2006/03/01

  • 1980.09

ジェームス・ブラウン

Anything Left in Papa's Bag?

セールス、観客動員の低下、ディスコ台頭、レコード会社にディスコ路線を強要され、お蔵入りテイクをパクられ、強気で愚痴る。

「とにかく」、彼は声を振り絞るようにしながら回想した。「例えば俺があの妙なサウンドを使ってレコーディングした曲----“イッツ・ア・マンズ・ワールド”とか---はことごとく不評を買った。『ライヴ・アット・ジ・アポロ』、あれを作るのに俺は自腹を切らなきゃならなかった。『プリズナー・オブ・ラヴ』じゃ俺にはバラードは歌えないって言われた。いつも言われたよ、『何でこれまでずっと歌ってきたのと同じような歌ばっかり演るんだ?』って。俺は言ってやったよ、『そりゃライヴで演ったら絶対同じものにはならないからさ』ってな」

アメリカ人たちが彼の曲を聴くのを止めてしまった後、ブラウンは数え切れない程来ていた海外ツアーの仕事を引き受けるようになった。(略)70年代、ブラウンの帝国は突如として崩壊した。彼はエゴをぺしゃんこにされただけでなく、ポケットも空っぽになった。プライヴェート・ジェットや目の玉の飛び出るほど高額の買い物、ニューヨークのクィーンズに建てられたお濠に囲まれた大邸宅も諦めなければなくなった。所有していた三つのラジオ局のうち二つも、彼の破産の煽りで人手に渡った。ジェームス・ブラウン、永遠のゴッドファーザー・オブ・ソウルは痛烈に地面に叩きつけられたのである。(略)

先頃公開された映画『ザ・ブルース・ブラザーズ』(略)の現場で彼はもうずっと長い間アメリカでは受けることの叶わなかった大いなる尊敬をもって遇されたのである。ジェームスによれば、「あれは敬意なんてものよりも深いものだった。あれは愛だよ」。

JBの男汁だよおお

過去2枚のアルバムでは他人の指示に従って動いてたけど、いまの若い連中はジェームス・ブラウンが一番得意なことをやることを求めてくれる。そこが俺の誇りさ。彼らはもう一度聴きたいんだ、何故って」、彼は熱を込めて言う。「そいつは紛れもない本物だからさ。あいつらは本物が欲しいんだ---そのまま、何も薄めないまんまでな。

  • 1990.01

対談:ハービー・ハンコック、クインシー・ジョーンズ

クインシーとレイ・チャールズのビバップな青春

まだシアトルにいた当時の話だけどね。僕が14歳でレイ・チャールズが16の頃、僕らの夜の過ごし方は大抵こんな具合だった---まず7時から10時まではシアトルの超高級テニスクラブでプレイするんだよ、そこら中バラの花が飾られた部屋の中で、白いタキシードにタイを締めて、晩餐会のBGMを演奏するんだ、心を殺してね。(略)

10時から午前1時頃まで、僕らはいわゆるブラック・クラブでプレイしていた。(略)僕らはストリッパーやコメディアンのために伴奏を提供し、エディ・“クリーンヘッド”ヴィンソンやロイ・ミルトンなんかの曲をプレイしてたよ、全部R&Bだったね。そこではヴォーカル入りのグループでやってた。で、午前1時半から2時頃にはみんなそれぞれ自分たちのギグを片付けてエルクス・クラブに向かうんだ、ハードコア・ビバップを朝までプレイするためにね。それは完全なる趣味さ、金なんかビタ一文だってもらえるわけじゃない。でも僕らが毎晩必ず一番最後に足を向けるのはそこだったんだ---セシル・ヤング、ジェラルド・ブラッシャー、レイ・チャールズなんてメンツでね。他にもよそからシアトルに仕事で来合わせてたミュージシャン、例えばジミー・クリーヴランドやジェローム・リチャードソンもやって来たし、エリック・ドルフィーまで顔を出したこともあったよ。みんなとにかくビバップがやりたくて堪らなかったんだ。

  • 1992.12

ソニー・ロリンズの状況

[印税収入はあるけど]俺の収入の殆どはライヴ・パフォーマンスからのアガリだよ。もし腕を折ったりしてプレイ出来なくなっちまったら、もうそこで一巻の終わりだね。ジャズ・ミュージシャンってのはみんなそれくらいギリギリでやってるんだよ」

幸いなことにロリンズはコンサートでは彼にふさわしい額のギャラをもらっており、そのおかげで彼は〈ギリギリ〉の断崖絶壁ではなくもう少し緩やかな丘の上あたりの場所に居続けることが出来ているのである。(略)伝え聞くところでは先頃行なわれたシカゴ・ジャズ・フェスティヴァルでは1回50分のセットで2万ドル以上のギャラが支払われたとのことだ。(略)

約1年半に1枚ほどのペースで出し続けているアルバムがそれほど莫大な金を落としてくれるわけではないとは言え、彼の存在が市場から忘れられることがないのはレコーディング活動のおかげである。ひいてはそれが彼に対する認知度を上げ、好奇心をかき立て、ライヴのブッキングの話につながり、遂には現実に金を生み出すのである。(略)

「有名であり統けるためにはレコードを出し続けなきやダメなのさ、まだまだ現役でやってるってことをアピールするためにね。アルバムってのはもはやパブリシティの道具だよ、色んな意味でね」

  • 1973.05.24

おなじみ目隠しテストに90歳のユービー・ブレイクが挑戦

五問目はデューク・エリントン「イン・ア・センチメンタル・ムード」---ピアノ・ソロ:エリントン

「とても良い演奏だ。演ってるのが誰かは判らないけど、曲は知ってるな・・・デューク・エリントンが書いた曲だろ、でも曲名は知らないな。

アルペジオが多少不明瞭なところがあるね;これはペダルを使ってるな。ほら、ペダルは3つでひと揃いだろ?そりゃあ持ってれば使わない手はないさな。あんなものわざわざ買わずに節約すればいいと思うがね。プレイしていてアルペジオのパートが来た時に、ペダルを踏みっぱなしにしていればコードを鳴らしたままに出来る。それが音を濁らせてしまう原因なんだ。それはそれで悪いことじゃないが、そのせいでアルペジオがハッキリ聴き取れなくなってしまってる。あの手のペダルの使い方をちゃんと判ってないとこういうことになるんだよ。まあ、星4つだな。どうやら腕は確かなようだから」

1940年代初頭、金銭を巡る2つの争いが破滅的な結果を伴って当事者に跳ね返ってきた。

1941年にASCAPが楽曲の放送使用料引き揚げを目論んで彼らの管理するアメリカのポピュラー・ソングのほば全カタログを実質的に放送使用停止状態にしたのに対抗し、ラジオ局側が何百万ドルという資金を注ぎ込んで設立したBMIは、間もなくそれまで軽視されてきたカントリー&ウェスタンやリズム&ブルースのような音楽の中に新たな鉱脈を探り当てる。 ASCAPはその年の暮れには根負けした。けれど『アメリカン・ヒット・パレード』もASCAPも、もはや以前の力を取り戻すことは出来なかった。1942年8月、ジェームズ・ペトリロがアメリカ全土のミュージシャンに呼びかけてレコード業界に対するストライキを起こして以降、ビッグ・バンドもすっかり時代の遺物となってしまった。無論当初は間違いなくその呼びかけは至極妥当なものと思われたのである。だがASCAPの大失敗と同様、彼らの見込み違いは辛抱のない聴衆が、ミュージシャンの不在によって空いたトラックを埋めるために出てきた新しいシンガーたちにさっさと乗り換えてしまったことだった。 1944年にストライキは終わったが、時既に遅し、ビッグ・バンドは金のガチョウのご機嫌を損ね、歌手たちは彼らの元を去って独立したキャリアを築いていたのである。40年代半ば、ベビーブームの到来と共にビッグ・バンドは衰退し、ジャズはモダンヘと向かっていった。

2006-04-21 ダウン・ビート・アンソロジー・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


JAZZ LEGENDS―ダウン・ビート・アンソロジー

作者: フランク・アルカイヤー,田村亜紀,広瀬真之

出版社/メーカー: シンコーミュージック

発売日: 2006/03/01

  • 1958.10.30

モンク夫婦漫才。頑なに質問をはぐらかす夫に妻がキレる。

僕のことをクレイジー呼ばわりしてやる気を失わせようとしてる人たちがいたのは知ってる。でも他人にイカれてると思われる方が僕にとっては都合良く働くこともあるんだよ。誰だって自分が一番好きなことをやるべきさ、自分が満足できるようなやり方でね」

これからモダン・ジャズはどこへ向かって行こうとしていると思うかと問われると、彼は(傍らで明らかにじりじりしている妻を尻目に)こう答えた。

「どこへ行こうとしてるかなんて分からないよ。地獄に向かっているのかも知れないし人間の手で物事をある方向へ持っていこうとしたって無理な話さ。すべてはただ“起こる”だけなんだから」

ここに至って、夫の寡黙さに軽くキレ気味になったモンク夫人が口を挟んだ。「自分が感じてることをちゃんと言葉にしなきゃダメじゃないの。あなたはこれからジャズが向かおうとしている方向性に対して満足してるわけ? 正しい方向へ向かってると思ってるの?」

  • 1960.09.01

ビル・エヴァンスの簡素な3LDKにはドラマーの妻グウィネス・モチアンの抽象画とビル自身のへたくそなデザイン画がかかっていた

「僕は何もかも自分だけが悪いと思っていたんだ、間違っているのは僕だと思い込んでいたんでね。何人もの人から、自分の信条のために攻撃を仕掛けられたし特定のピアニストみたいに弾くことが当然だと強硬に主張するミュージシャンたちからも攻め立てられた。そんなことが続いて、僕は間もなく小さな子供みたいに自信を失ったよ。自分のやってきたことは全部間違いだったと思い始めていたんだ。でも今は軍隊に入る以前の自分に戻ったんだ。今は誰に何と言われようと気にならないね。自分がやるべきだと思うことをやるだけさ」

  • 1966.05.18

ローランド・カークが若手に喝

みんな何かと自由自由って言うけど、僕に言わせればブルースは今でも最もフリー・フォームが許されている音楽のひとつなんだよ。転調の仕方さえ知ってれば、どこにでも行きたいところに行けるんだからね。まあ全員とは言わないが、あの連中の大半はメロディなんてひとつもプレイ出来やしないんだ。彼らとひとしきり”フリーダム”ってやつを演った後で、僕が『なあ、そろそろ何かちゃんと曲を演奏しないか』って言っても、彼らはまともにリズムをキープすることさえ出来ないんだからね。

囚われの身になったことがなければ、自由とは何かってことを本当に理解することは不可能だ。自由のない状況下から様々な変化をひとつひとつ経験することなしに、自由であるとはどういうことかを知ることなんてどうやって出来る?

昔33回転のレコードを78回転で聴いてたよ。そうやって自分の耳を違うレベルに持っていくんだ。

  • 1969.04.03

チック・コリア。

参加してみると、マイルスとウェインがプレイしてるのは凄くハーモニー志向の強いものだったから(略)僕は何をしたらいいのか途方に暮れちゃってね。しかもハービーの影がちらついてたし(略)

[マイルスに好きにやれとアドバイスされ躊躇せずにプレイしたら]

マイルスとウェインが僕の提示したものの中でプレイし始めたんだよ。

(略)

クラブでプレイする時の問題は生ピアノだと音がソフトすぎて全然聴き取れないんだよ。それじゃ何も新しいことなんか出来ないし、ストレスが溜まるばかりなんだ。色んな楽器に囲まれてプレイしてるわけだから、とにかくすべてが会場の音響次第なんだよ。ところがフェンダーのエレピを使えば、ヴォリュームを大きくすることによって自分のプレイしたいものをぐっと前に出して聴いてもらうことが出来る。僕は基本的にはエレクトロニックなフィーリングは好きじゃないけど、これによって問題が解決したお陰で、僕はようやく自分がバンドの一員になれたって実感を持てたんだよ。

MIX-UP

僕は自分のレコード・コレクションから切り貼りのコラージュを作ったことがある。最初のうちは自分の一番好きなものの寄せ集めに過ぎなかった。でもその後、ひとつのものから別のものへと移って行く過程が面白くなってきてね。セシル・テイラーのひとつのパッセージが、あっという間にアート・テイタムのストライド奏法につながっていくんだけど、移って最初の数秒間は何が変わったのか分からないんだよ

清貧のススメ

僕は自分に金がなくて幸いだと思ってるよ。だってもし金持ちだったら多分何もかもから手を引いていただろうからね。少なくともこういう暮らし向きだから、僕は否が応でも何とかして外の世界と関わろうとすることになる。きっと僕には必要なことなんだろう。

ホテル暮らししてる時にはよくスケッチをしてるんだ。紙と絵の具かクレヨンを買って、スケッチしたものを壁に掛けたりする。でなければ色付きの紙を買ってきて、ドアにコラージュを施してみたりね。それはそのまま部屋に置いて出ることにしてる。いい気分だよ---自分が通った後に何かを残していくっていうのはね。

  • 1970.02.09

ジャズだって金をかけて宣伝すればロックのように売れるはずだし、クラシックのよう芸術扱いされてもいいはずと憤る、リー・モーガン

「マイルス・デイヴィスやデューク・エリントンみたいなスーパースターでさえ、レナード・バーンスタインや二ューヨーク・フィルみたいな露出は得られないんだよ。きっと僕らがやってるこの音楽は大衆向きじゃないんだろう。でも向こうは偉大な指揮者として崇められ、ペントハウスに住んで、金持ちで、リンカーン・センターでニューヨーク・フィルを指揮してる。一方コルトレーンはスラッグスなんかでプレイしなきゃならない。そこが大きな違いなんだよ。

ほら、レナード・バーンスタインだって少数派のオーディエンスのために演奏してるわけだろう、だって世の中みんながみんなシンフォニー・オーケストラを好きになるわけじゃないからね。だけど交響楽団には政府の助成金が出てる。でも本当に政府に援助されるべきなのはジャズなんだよ。ジャズは唯一、純粋にアメリカから生まれた音楽なんだ。

  • 1972.05.11

リズムが僕の強み

(ディジー・ガレスピー)

実は僕の本分はリズムなんだ。それはどのドラマーもみんな知ってるよ。僕は色んなドラマーを教えてきた、マックスからアート・ブレイキーから、あらゆる連中をね。で、彼らはみんな僕が昔教えた通りに今やってるわけだ。例えばあの6/8拍子---僕は6/8のリズムをチャノ・ポゾからコピーしてドラムに採り入れ、チャーリー・パーシップに教えた。それをチャーリー・パーシップがみんなに広めたのさ。今じゃみんないつでも、6/8でいこうって言えば僕のリックをプレイしてるよ(略)

昨日の夜あるラジオから、僕自身でさえもうすっかり忘れていた僕の昔の曲<スウィング・ロウ・スウィート・キャデラック〉が聴こえてきて、そのレコードを聴きながらうちのコンガ奏者にこう言ったんだよ、『ほら聴いてみろ、こいつは世界一だよ、この男は本物のコンガ・ドラムの音を出してる!』---そう言った後で気が付いたんだ、そのレコードのコンガ奏者が自分だってことにね!

  • 1978.02.09

バディ・リッチのドラム講座

「クローズドとオープンの両方のロールをマスターするのが鍵」

もしシングル・ストロークが出来るなら、それを凄い速さでやれれば、それは自然とクローズド・ロールに近い音になる。スピードを緩くして、ちょっとテンポを落とせば自動的にオープン・ロールになる。ロールひとつ入れればまたシングル・ストロークに戻ってもいい。シングル・ストロークってやつはとても柔軟で、それを使ってリズムのアイディアをひねり出したり、リズム・パターンを構成する素になってくれる。そこから徐々に続けて左手でのトリプレット、右手のトリブレット、行ったり来たりしてまたロールに突入するとかね。ロールが出来ないドラマーの大半は、両手を使ったテクニックなんて何ひとつこなせやしない。サンドペーパーを引き裂くような音でロール出来るくらいまで、徹底して手首をコントロールする力を身につけなきゃね

(略)

最近はどこの先生たちも、ひとつ決まり切った演奏の仕方があるって教えてるらしい---右手から始める、あるいは左手にお決まりのパターンを叩き込むところから始める。でもそんなやり方は間違ってるよ。自分が両手を置いた、そのポジションから叩き始めればいいんだ、自分の感じるまま自然な動線でね。左か右かじゃないし、右か左かでもない、その場で思いつくままにプレイしていけばいいんだ。自分のテクニックをコントロールする力と、頭の中に描いたものを具現化する能力があればね。それが本来の考え方なんだよ

[昔は]僕はいつも2枚のシンバルを一度に鳴らすように心掛けてプレイしてたんだ。ハイハットのトップだけで演奏したことは一度もない。いつも両方のシンバルの音が聴こえなきゃ気が済まなかったんだよ。その結果としてアンダーハンドでプレイするようになった、そうすれば両方の端を同時に叩けるからね。ただトップ・シンバルを♪ティー・ティー・バッ、ティー・ティー・バッ♪と鳴らすだけの代わりに、こうすれば♪ツゥ・ツゥ・ツゥ、ツゥ・ツゥ・ツゥ♪って音を出せるんだ。トップハットをほんのちょっと上げてね。そういう音を出す唯一の方法は、両方のシンバルを同時に叩くことなんだ

体調不良で面白いかどうかわけがわからなくなってきたので、明日につづく。

2006-04-20 激論:バップはジャズを駄目にしたか このエントリーを含むブックマーク

凶器になりそうな『ダウン・ビート』集大成から勝手なタイトルで。1940年代にもうジャズは死んでいたのでありました。いつの時代もヤングは生意気なのだ。


JAZZ LEGENDS―ダウン・ビート・アンソロジー

作者: フランク・アルカイヤー,田村亜紀,広瀬真之

出版社/メーカー: シンコーミュージック

発売日: 2006/03/01

| 本 | Amazon.co.jp

  • 1947.09.24

バップの創始者

テディ・ヒルが語り始めた。彼はセロニアス・モンクを見ながら言う。「なあ、いいかい、ここにいるのはビ・バップの創始者として認められるに誰よりふさわしい男だよ。本人はそれを認めないだろうが、自分に与えられるべき栄誉が他人に行ってしまってることに対しては内心割に合わないものを感じてるはずだ。だが今出て行って単なる二番煎じ扱いされるよりは、セロニアスは新しいものを作り出す方を選んだんだ。僕が思うに、あいつはきっといつかバップみたいに先進的な音楽を生み出したいと考えてるに違いないよ。

  • 1948.04.07

バップが先に自滅しない限り、業界はバップによって滅ぼされるだろう

(ルイ・アームストロング)

きっとまた世の中は俺たちのところに戻って来るよ、だってあいつらは自分で曲を作れないんだからさ。連中に出来ることと言えば、地のデザインが分からないくらいにごてごて飾りをつけちまうことくらいなんだから(略)

あいつらはいつも「ジャズは死んだ」って言ってるけど、きっとまた必ずみんなジャズに戻って来ることになるのさ。

  • 1949.09.09

バップのルーツはジャズじゃない

(チャーリー・パーカー)

バップ・バンドにとってビートは常に音楽と共にあって、依存したり、支えたりしてるものなんだよ。時には音楽を後押ししたり助けたりもする。助けるって言うのが重要なポイントなんだ。ジャズと違って連続したビートはないし、規則正しいダン、ダンなんていう刻みもない。だからバップはジャズに比べてもっとずっと柔軟性に富んでるんだ」

(略)

[ビッグバンドだと編曲に凝りすぎてバップが台無しなるから距離を置いてるが、「火の鳥」に触発され交響楽的スケールのビッグ・バンドを構想]

「ストリングスは使い方によって荒々しい音を引き出すことも可能だし、実に様々な音色が出せるんだよ」

  • 1949.10.07

バードは間違ってるよ、バップはビートがなくちゃ

(ディジー・ガレスピー)

バップはジャズの一部だ。そしてジャズ・ミュージックは踊るためにあるんだよ。今プレイされてるバップのフォーマットの問題点は、誰もそれに合わせて踊れないってことなんだ。あの4ビートがみんなには聴こえないんだよ。みんなが踊れるようにならなきゃ、バップがより幅広いオーディエンスに支持されるようになることはあり得ない。

  • 1950.10.06

質の悪いバップがジャズをダメにしている

(レニー・トリスターノ)

質の悪いバップを大衆に与えてしまったら、彼らは本物よりもそっちの方を聴くようになってしまうだろう。ジョージ・シアリングが耳馴染みのいいメロディの間に彼のバップをサンドイッチの具みたいに挟み込むことでジャズを助けたと言えるかい?(略)

チャーリー・パーカーがどんな目に遭ったか考えてごらんよ。彼はメロディを前面に押し出したレコードを何枚か作った。それが売れたものだから、彼は一般大衆の大いなる期待に応えなければいけなくなった。そこで彼らはチャーリーをバードランドに引っ張り出し、同じものをストリングスと一緒に演る羽目になった。でもそこでの彼のパフォーマンスは満足のいくものじゃなかった。

  • 1951.06.01

本物のジャズは芸術だ

(チャーリー・ミンガス)

未来のラヴェルやドビュッシー、あるいはストラヴィンスキーになり得るかも知れない才能豊かな若者たちを、音楽が何段階も進化したことを証明するチャンスも与えることなしにそのまま埋もれさせていいのだろうか?こうした歴史上の偉大な作曲家たちと並び称されるにふさわしい才能を持った作曲家たちが、彼らの内なる自分や真の感情を表現することなく、事もあろうにご婦人方がメイベルのガードルを穿く時のB.G.M.などばかり書かされ続けながら墓場に送られようとしているのだ。

  • 1954.10.06

マンボ!ティト・プエンティと踊りまくる

人はリズムに合わせて踊るものだろう。マンボ人気に火が点いたのは、パワフルなリズムが格好のダンス・ミュージックになったからじゃないかな。更なる成功の要因は、ジャズの持つ要素とマンボとのコンビネーションだね。例えばバップはそれ自体ハーモ二ー的にはクレイジーなサウンドを持ってるけど、リズムに関して言えばとても踊りやすいとは言えないだろう。だからバップ・バンドはコンガ・ドラムを入れて、自分たちの音楽にマンボのフレイヴァーを加えてるんだ。

同じように僕のバンドでもジャズ的な要素を取り入れているよ。アレンジでもディジー・ガレスピーやスタン・ケントン的なアプローチでモダン・サウンドを利用してるしね。でもラテン・リズムの真髄は決して失ってはいないんだ

  • 1955.11.02

マイルスのズバリ言うわよ

ブルーベックよりディジーが弾くピアノの方が聴きたいに決ってるだろう。何故ってディジーの方がピアノの触り方を知ってるし、弾き過ぎることもないからね。大抵のピアニストはピアノには88鍵あるって事実に囚われてしまって、どうしても弾き過ぎになるんだ。

レニー・トリスターノにはまた別の問題がある。彼個人はとても素晴らしいと思う。絶えず新しいことをやろうとしていてね。でもグループで演る時にはそれがかえって災いして、ベーシストはレニーが一体何をやろうとしているのか予想もつかないわけだ。

チャーリー・ミンガスやテオ・マセロが少人数のグループ向けに書いてるような曲については、そうだな、つまらない現代芸術みたいだったり、何だか気が滅入るようなのもあるね。ミンガスはもっと良い曲が書けるはずだ。彼がライオネル・ハンプトンのために書いた”ミンガス・フィンガーズ”は俺が今まで聴いたビッグ・バンドのレコードでも最高の部類に入るものだったけど、彼は恐らく今後あれと同じようなナンバーを書くことはもうないだろう。その理由のひとつは、彼の最近の曲は誤った楽器編成で書かれてるってことだ。例えば不協和音を取り除くためには、低音域のホーン・セクションを入れればもっとずっと音のバランスが良くなるんだよ。

(略)

ミンガスがシナトラに曲を書いたらどうなるか想像出来るかい?まあ、ミンガスもそのうち落ち着くと思うよ。彼が良い曲を書けるのは間違いないからね。

  • 1955.11.30

ミンガス、怒りの反論書簡

一体バードの門下生である僕らの間はどうなってしまったんだろう?それとも、もしかしたらマイルスは僕がそこに自分を含めることすら厚かましいと思っているのかも知れないが。(略)

マイルス、憶えてないかい、「ミンガス・フィンガーズ」が書かれたのは1945年だったってことを? 僕がまだほんの青二才の22歳の若者で、エリントンの伝統に則って必死で作曲に励んでた頃だったってことを? マイルス、僕の体重が185ポンド(約83kg)だったのはもう10年も前のことだよ。あの頃着てた服はくたびれてしまってもう僕には着られない。今はもう一人前の大人の男になったんだ。体重も215(約98kg)ある。そして僕には僕の考え方がある。僕は君のようには考えられないし、僕は人々に足でリズムを取らせるためとか、背中をゾクゾクさせるためだけに音楽を演ってるわけじゃない。自分が楽しく陽気な気持ちになっている時には、僕はそういう曲を書くし、そういう風にプレイする。憤りを感じればそれを曲にもプレイにもぶつける

(略)

マイルス、僕を覚えているかい? チャールズだよ。そう、ミンガスさ! 君は11年前にラッキー・トンプソンの推薦で僕のカリフォルニアでのレコーディング・セッションで3番トランペットを吹いたよね。だから、ねえ、穏やかに頼むよ。君の踏み台になってきた人間たちに対しては寛容になってくれてもいいじゃないか

まだまだ1990年代まで続くんですけど、今日はここまで。

最後に『ダウン・ビート』の面白い成り立ち。

アルバート・J・リップシュルツはフルタイムのミュージシャンでもなければプロのジャーナリストでもなかった。バンドのリーダーになる気もなければ権力にも関心がなく、ましてや世界中で起きている出来事を私見を交えて論じたいという思いもなかった。アル・リップシュルツの関心はたったひとつ、保険の外交だった。彼は第一次世界大戦中にシカゴでサックス奏者をしていたのだが、やがて意欲を失い他のチャンスを探した。程なくして音楽業界での彼のコネを活用できるイイ話が見つかる。1921年、彼はシカゴの職業ミュージシャンたちを保険の顧客として開拓し始める。彼が特に熱心だったのは、ミュージシャンのための月払いの年金収入を確約する貯蓄型終身保険の勧誘だった。(略)

1930年代初期、保険の仕事を軌道に乗せるのに躍起になっていたリップシュルツは、自分自身も儲かり、客も儲かるビジネスチャンスの手がかりを見出す。それはAFMの支部の枠を越えたミュージシャンのための新聞発行で、彼は確かな需要があると踏んだのだった。(略)彼は新雑誌を『ダウン・ビート』と名付け、1934年7月、記念すべき第1号が全8ページ、1部10セントで発行された。(略)

目的はあくまで福利厚生であり、音楽論を戦わせる場ではなかったのである。(略)レコード・レヴューも音楽分析も、批評すら掲載されてはいなかった。

さてそこへ同業の大物から「オレのシマを荒らすのはいいがどっちか一つにしろ」と恫喝の電話があり、リップシュルツは速攻『ダウン・ビート』を編集のグレン・バーズに1500ドルで譲渡。

40年代後半、ジャズはその求心力を失いつつあるように見えた。ビッグ・バンド時代は衰退の一途を辿り、スウィングのスターたちも“過去の人”扱いされるようになり、伝統とモダニズムとがジャズの定義を決める特権争いを演じていた。〈ジャズ〉という言葉そのものすら骨董品的な遺物のように考えている人もいた。そこで1949年7月、『ダウン・ビート』は〈ジャズ〉という呼び名に代わる名称を募るコンテストを行なうと発表した。(略)そして11月、審査員たちにより、ジャズの代わりとなるべき言葉が決定された“crewcut(クルーカット)”である。次点には〈jarb〉<freestyle>"bix-e-bop""blip""schmoosic"など

明日に続く。

2006-04-19 私の昭和史の終わり史 このエントリーを含むブックマーク

新刊にみえてジツは86年の連載エッセイ。でもあえて新作だと思うと新しい世界が見えてくる。というか最初新刊だと思って読んでびっくりした。なにせ赤瀬川原平なのだからして、これは前衛を超えトマソンを超え老人力を超えた新しい世界。これからは週刊誌は昔のエッセイをリアルタイム時評のように新連載するのが新しい。でも、なんかそういう企画あったような気もする。それより20年前を知らないヤングにはなんのことやら、いやそのほうが衝撃か。


私の昭和の終わり史

作者: 赤瀬川原平

出版社/メーカー: 河出書房新社

発売日: 2006/02/11

原ジャイアンツ8連勝、そんな時代に

とうとうジャイアンツの原が六番に移動したがもう遅い。すでにジャイアンツの勢いというのは消えているのだから、いまごろこの移動は情けない気もする。ガンとして原四番を動かさない監督の「信念の強さ」が、もうすでにジャイアンツの勢いを消していたのだ。

すごい、「とうとう」である。たいへんなことになっている。なにしろこの監督というのが王監督である。WBCで世界一になったと思ったら不動の原四番。王監督は不変です。じりじりさせちゃうのです。福留じゃなくて吉村二軍監督が起死回生のホームラン。代打、オレ。

日本には時間切れ引き分けというものがある。広島は今年、その細かいカスの金利みたいな引き分けを捨てずに積み重ねて優勝したのだ。最多勝利は巨人であるにもかかわらず、最多引き分けで優勝というのは。

八戦目で西武が優勝したんだけど、しかしこのシリーズは最後まで広島ペースだったと思う。敗けはしたけど最後の試合まで広島の流儀が影響を与えつづけた。つまりパッと燃えずにズブズブズブズブと背中を丸めてくすぶりつづける。

燃える闘魂、ではなくて、燃えない闘魂、というか。

その粘着性はやはりなかなかのものである。好きではないが。

どうも落合が一度目のFA目前らしい。

しかしマジメに考えて、落合の代りに西本、中畑、篠塚、原の四選手がロッテに行って野球をしている場面を想像すると、何だかガリバー旅行記みたいな異物感があらわれてくる。

トレードというのは順列組合せみたいなものだから、落合選手と王監督のトレードということも考えられるのだった。

落合は全力で走るという感じではないので、ゆっくり歩く監督が似合うかもしれない。九回裏にジャイアンツの落合監督がゆっくり出てきて、右手でピュッと投げるマネしながら、「サンチェだよサンチェ、わかるだろ」などとふてくされて審判に告げる。これもなかなか新しい風景である。

やっぱりこれからは冷戦。

どうもアメリカとソ連は変なことをしている。アメリカがザハロフというソ連人をスパイ容疑で逮捕したあと釈放したら、ソ連でもダニロフというアメリカ人を逮捕したあと釈放していた。どうしてこんなに似たようなことをするのだろうか。しかも名前まで似たもの同士。

ソ連の原子力潜水艦が火事になったらしい。(略)

ソ連のゴルパチョフ書記長がアメリカのレーガン大統領に直通電話をかけたそうだ。

プロレス寂れたね。BI砲。中曾根も出てこいやあ(高田というよりは有田口調で)と言ったら、北の家族が出てきた。

金日成主席が暗殺などされるわけがない、と北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)側の人が言っていたが、本当にそうだったので驚いた。あれはどの報道だからケガぐらいしているのではないか、と思っていたのだ。

なぜあのようなことになったのか、朝鮮問題に詳しい人でもわからないらしい。私なんてまるでわからない。

この疑感度は三浦和義や落合博満に匹敵するかもしれない。

しかし北朝鮮というのもわからない国で、かつて金日成の後継者は息子の金正日だと聞いたときは何だか気持わるくなった。

共産主義って何だろうか。

この人事は国家というより、ほとんど会社感覚である。有限会社。

これからは銀塩AF

AFが各社いよいよ出はじめましたね。

一眼レフの話です。オリンパスのストロボーグというのが出て、京セラも230・AFというのが出た。(略)

二つ出たAF新機種が小型ストロボ内蔵ということは、以後あらわれる新機種もこの路線をいくのだろう。

現在AF一眼レフは、ミノルタ、キャノン、ニコン、オリンパス、京セラ、と出たわけである。まだ出してない一眼レフメーカーはペンタックス、リコー、チノン、コニカとあって、それが全部出すとは限らないが、しかしカメラ製品の華はどうしてもAF一眼レフに向かっているのだ。

春にはキャノンがもう一度腰を据えたAF一眼レフを出すという噂があるし、ニコンにも同様の疑惑がある。そしてやはりペンタックスが黙っていないだろうと思う。

キャノンのは凄いらしいですね。前回はレンズ部モーターの出っ張りで、これはボディ部モーターにすっきり収めたミノルタにドーンと抜かれてしまった。

で後発メーカーはみんなこのミノルタ方式のボディ部モーターで、私もこれが一番合理的だと思っていた。ところがキャノンにはレンズ部モーターの意地がある。その意地を突っ張りつづけて二十年、いやそんなにはならず二、三年というところだけど、レンズ部モーターのまま出っ張りをなくして出てきた。

さあそうなると凄いもので、何しろモーターがピントリングそのものだから、ピッ、とピントが合ってしまう。

ホリエモンが講談社を襲撃

たけし軍団が講談社を襲撃したらしいが、いつかはこうなると思っていた。何しろ「軍団」だから。名前というものはバカにできないものである。

フライデーは地上げ屋である。

芸能人が街を歩いている何でもない写真をスキャンダルのスクープ写真に底上げしてしまう手口が、地上げ屋にそっくりなのだ。一人の芸能人を何度も何度もつけ回して誌上に載せつづけていくうち、そのこと自体が次第にスキャンダルとなり、駅の売店でどんどん売れてしまう。駅裏の何でもない空地をあれこれといじくり回すうちにとんでもない高値にするのと同じこと。

土地転がしと写真転がしは、ほとんど同じ経済原理で利潤を生み出す。

芸術の世界も地上げ屋の温床である。芸術の世界というより芸術の業界といった方が正しい。たとえば現代の抽象美術の価値などは具体的に表示できないものだから、地上げ屋の力がモロに発揮される。画廊とか展覧会とかあちこち転がしながら、あの人が買った、この人が買ったというハクをつけることで価格が高騰していくさまは、銀座や新宿周辺の地上げ屋の手口とそっくり似ている。

小沢でも勝てず、自民党が圧勝

売上税である。

ぜんぜんわからない。

しかしこれでは日本国民として面目が立たないからもう少し考えるけど。

大型間接税という言葉もあった。これには導入もついていた。いや言葉の問題だけど、これは単なる選挙用語だと思っていたら、やはりその通りで、選挙後に服を脱いで売上税となったのである。(略)

とにかく三百四議席だから、最後にはしっかり両手でつかまえて押さえつけられて、手篭めにされてしまうわけです。

うーん、これは赤瀬川の文章全部を読まないと面白さがでないというか、引用部分だけだと赤瀬川の文章の面白さが伝わらないし、結局あまり面白くないようである。困ったものだ。俺の時間を返して欲しい。

ともかく、まず国鉄がJRになったり、鉄人衣笠が連続出場記録に挑戦したりしてたのである。

JRに乗った。

どうってことなかった。

(略)

掛布がサードゴロをさばいているのを見ると、あ、あの掛布が、と思う。

    *

オグリビーがバットをピクピクさせながらヒットか何か打つと、あ、あのオグリビーが、なんて思う。

2006-04-18 物語世界における絵画的領域 このエントリーを含むブックマーク

彼女たちが雛で行う「ごっこ遊び」は、現実世界の生身の男女の模倣戯では決してなく、むしろ虚構の物語空間に自己を埋没させ、あたかも虚構空間に自らが生きているかのような実感をもたらすものなのである。

ペラッとめくった時に興味を引く箇所があったから借りるわけですが、飛ばし読みの場合たいていけっきょくソコを引用するだけになって、それなら一分で済んだのに毎度思う、とかいい加減なことを書いている槍投げな日々。


物語世界における絵画的領域―平安文学の表現方法

作者: 川名淳子

出版社/メーカー: ブリュッケ

発売日: 2005/12

垣間見る

当時の物語絵の定番の構図であった垣間見の場面を想起してみると(略)先ず透垣などの物陰に佇む男に視点を据えてみれば、彼と共に胸の高まりを感じつつ女を一心に眺め入る気分になり、また女の側に同化密着すれば、見られていることを知らないゆえにくつろいだ状態にあることが感受される。そして絵の全体を眺め渡すと、そこには垣間見る者の興奮と、見られる側の日常的平穏さが共存する独特な雰囲気があり、鑑賞者はやがて展開する恋の予感を覚えつつ双方を秘密裡に覗き見るスリルを昧わうのである。

「吹抜屋台」の構図

斜め上方から家屋の中を見通すように描く俯瞰描写において障害となる屋根や天井、壁を大胆にも取り除いた「吹抜屋台」の構図は(略)日本絵画の独特な表現法である(略)清水好子氏は前掲論文で「この構図が流行し出したのは、室内と室外を同時に描くため、つまり、室外にあって女を訪れる男だけでなしに、部屋の奥深くにある女の姿を描くため、つまり物語絵を描くために発達したのではないか」と述べている。

モテるのはいいけど、女ってギスギスしてんだよなあと思う光源氏は美少女を手元で育ててギスギスしない男と女の関係に持ち込もうと画策。

「雛遊び」

「源氏の君」と称する人形を作り、衣裳を着せ、またその姿を絵に描く。「光源氏」は若紫にとって美しい貴公子を代表する仮想的人間であり、それが絵に描かれ、また雛という形でミニチュア化されることによって、彼女の遊びのイメージを膨らませる玩具となる。「光源氏」は若紫の手の内にあり、いつでも彼女と身近に向き合う存在となっていくのである。

(略)

この時藤壷、葵の上、六条御息所といった年上の女性たちとの関係が逼塞状態にあった源氏にとって、若紫との無邪気な関わりが、この上もない安らぎをもたらしていたのである。(略)

この時期の両者は近い将来男君女君の関係になることを予想させつつも、現状においては源氏は娘を養育する父親のような立場で若紫に接している。紫の上の少女期に繰り返し描かれる雛遊びの模様は、単なる幼児性の表出ばかりではないだろう。親子のような紐帯を強めてゆくことが結婚への道程となるこの二人の特殊性に、「雛」という遊具が持つ独自性、及びその独自性を背景に展開する〈雛遊び〉というものがいかに結合されていくのかが読み解かれてゆくべきだと思われる。

(現代人の感覚で考えてよいのだろうかとも思うけど)

絵の鑑賞者は自らの人生や恋愛の体験による知識や当面の感情を盛り込み、物語と自己との関係性を強めてゆく。しかし、未だ恋愛体験のない少女にとって、描かれた素材を恣意的に組み合わせ、物語絵が放つメッセージを感受し、その後の展開をも想定しつつ物語と絵を咀嚼することは、そう容易になし得ることではない。少女には未だそういった思考を形成するだけの体験の蓄積がないからである。そのような幼い物語絵の鑑賞者にとって、絵と自己との間に雛を介在させ、物語の情況をロールプレイすることは、描かれた絵画が提示する内容を理解するために、視覚的にも心理的にも効果的であると思われる。男君を待つ、見送る、対座する、共に過ごす、装う、そういった行為の各々の意味を雛を動かしつつ、一連のあるストーリーの中でそれらを位置づけることによって、自らもその展開に参与している感覚を味わうのである。

そう考えるならば、彼女たちが雛で行う「ごっこ遊び」は、現実世界の生身の男女の模倣戯では決してなく、むしろ虚構の物語空間に自己を埋没させ、あたかも虚構空間に自らが生きているかのような実感をもたらすものなのである。物語絵の世界に働きかける雛遊びは、そこに描かれた理想的な男女像を立体的に可視化してゆく遊戯であったと言えよう。従って雛遊びにうち興ずる少女たちの思考や感情の発露は、現実の男女に対する見聞が前提にあって、それが雛遊びに向けられてゆくという性質のものではなく、雛や物語絵が織り成す特別な時空を先ず彼女たちが充分満喫することにこそ重点があり、そこで醸成された恋愛への憧れや関心が、やがて現実世界における対異性への対応に向けられてゆくというものなのである。

雛遊びを若紫と共にする源氏が、雛と共に物語絵を豊富に与え、自らも絵を描いたその行為の真意は、雛と絵の相乗効果によって現出された破綻のない幸福な男女の姿が、実際の彼らの関係へと移行し、若紫が源氏と共にする将来に明るい期待を抱いてゆくよう導くことにあったと考えられる。若紫が異性との関係において無垢である分、源氏はより周到にその「教育」を施さなければならないはずであり、またやがては問題となる異常な結婚形態も、両者の心理的側面においては何の障害もなく、その始発からごく自然な形で結ばれていったことを若紫に納得させなければならなかった。

検閲

源氏は自ら物語を「選りととのえ」、物語にまつわる絵画類もそれを描く絵師を選定し、絵画化する場面も入念に指定した。「戯れた」少年少女が登場する物語を阻止し、姫君と紫の上との継子関係にも配慮して「継母の腹ぎたなき昔物語」も排除した。このような例から推し測れば、別離、零落、夜離れ、レイプなど我が娘に体験させたくない物語の内容は当然切り捨てられたはずである。

女性はこういう恨み節をよく書いているが、男は男で別なプレッシャーを受けているわけで

性急に結論を導けば、大人たちが物語絵や雛遊びを通して姫君に期待し、イメージづけてゆくものは、美しい姫君が身分の高い貴公子に求愛され結婚する、というような男女の理想的な結びつきとその幸福な行く末ということに尽きるであろう。しかしながら、現実世界の人間関係に無垢であることが、幼少の姫君たちの特質であるとし、一方、もはや生身の人間の人生が平坦ではないことを体験的に知っている者が〈大人〉だとしたら、姫君教育という名のもとに、システマティックな体制を構築し、ひたすら翳りのない理想的な将来像を刷り込んでゆこうとする大人たちの行為そのものには、相当の屈折が存在すると言わねばならない。自らそうではないと思うことを、そうであって欲しいと強く願い、遊びの世界に特別な意味を付与し、期間を限定し、かつ意図的に働きかけてゆく。

他にも少しあるけど引用が長くなったのでこれで。

2006-04-17 生物多様性という名の革命・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


生物多様性という名の革命

作者: デヴィッド・タカーチ,岸由二,狩野秀之,新妻昭夫,牧野俊一,山下恵子

出版社/メーカー: 日経BP社

発売日: 2006/03/16

生命多様性は知的資源。金になるよ。

ブッシュマスター(南米産の毒ヘビ)の毒の作用機序の発見が、アナロジーを通じて高血圧治療薬カポーテンの開発へとつながり、製薬会社に年間十三億ドルもの純益をもたらしている。また、米科学財団の調査団は、いまでは西部のある温泉地帯だけに生息して絶滅に瀕しているデザートパブフィッシュは、熱への耐性を研究するための素材となるので保護すべきだ、と述べている。

観光がビジネスになる。コスタリカでは1993年までに観光業がバナナやコーヒー栽培を抜いて最大の税収入源に。

コスタリカはまた、ウェストヴァージニア州ほどの面積の小さな国でありながら、その印象的な地形が、生息場所の壮観な多様性をもたらしている。この芥子粒のような生態景観のなかに、おそらく地球上の種の5%が生息しているのである。生物学者やジャーナリストたちはコスタリカを生物多様性の”約束の地”だと絶賛し、この土地を大切にしている人々を高く評価する。部分的にはこの賞賛のおかげで、ここでは生態学的な奇跡がしばしばおきている。いまから数十年前、生物学者たちがコスタリカを生態学者のユートピアとして絶賛しはじめ、そして現金が流れこみはじめた。生物学者が口をあけさえすれば、自然保全関係の財団がお金をほうり込んでくれるようになった。そしてエコ・ツーリストたちが、それに続いた。止まる気配のない循環がはじまった---カネが生態学の夢を実現させ、そして生態的な楽園がさらなるカネを誘いだす。

(略)

しかし、楽園にも厄介な問題がある。じつはコスタリカの大半の土地は、生態学的には悲惨な状態にある。公的な保護区が国のおよそ四分の一をしめているが、そのかなりの部分は自然度が低く、また保護区以外の土地の多くは、生物多様性という見地からは荒涼とした荒れ地なのである。1990年代のはじめには、コスタリカの森林伐採率は世界でも最高だった。

私企業が自然を収奪してるという批判には

INBioは一民間団体であり、コスタリカの遺産をきわめて安価な値段で、しかも密室でかわされた契約書にもとづいて売り払っていて、地域共同体や土地固有の知識の持ち主たちにほとんど利益をもたらしていない。

私はガメスおよびINBioの生物多様性探査責任者であるアナ・シッテンフェルドにインタビューしたときにも、これらの批判について話をむけてみた。二人の答えはいずれも、INBioは民間団体ではあるが、政府の特別委員会によって創設され、その決定によって現在のかたちになったのだというものだった。しかも、公共の利益のために働くという命令を受けた民間団体であり、その命令を実行しているのだと。ガメスは多数の民間組織、たとえば漁業会社、コーヒー栽培者、エコツーリズムの団体、木材伐採業者が、コスタリカの生物多様性を営利化していることを指摘する。「木材会社が木材という生物多様性の産物を森から得ているならば、どうして残りの森林を破壊できるでしょう」。

自然のために売られるもの

自然の審美的な豊かさの全体性を保存するために、その化学物質の抽出物や遺伝子の断片を売っている。(略)

彼らは生物多様性を愛している。生物多様性は彼らの生命を維持する血液なのである。しかし、この愛を持続するには、その愛情の対象を売り払わねばならず、そして堕落する。このようなまったく矛盾したことを、並行して進めることができるのだろうか? 野生の豊かさを保全する唯一の道がそれを八つ裂きにし、もっとも高値をつけた国際的な入礼者に競売することだなんて、私たちの世界は本当にそんなものなのだろうか?(略)

生物多様性に捧げられたこの研究所では(略)自然が変容させられている。罠で捕らえ、押しつぶし、自然の破片をどろどろの化学物質に変え、それからバーコードをつけ、ジップロックのビニール袋に注入し、国際的企業に発送することによって、INBioは自然の大きな固まりを汚れのないままに保存し、生態学的なプロセスと進化的なプロセスが衰退せずに持続することを保証しようとしている。

自然に触れるとスピリチュアルな体験するけど

その日の午後は激しい雨でした。夕方の六時半ごろ、私はずっと遠くにヌーがいる気配を聞き取り、彼らがこちらに向かっていることを知りました。ヌーの群れはその夜にやってきました。草原はたっぷりと水を含んでいました。その写真を撮られたとき、私は朝食をつくっていたんです。朝食を済ませたあと、草原に腰を下ろしました。まわりにはヌーの大群、地面は湿り気を帯びています。そのとき私は、自分のまわりに何か大きなものがあり、力を働かせているという感じを抱いたのです。……大地のなかに、雨のおかげで精気を吹き込まれた生命の脈動を感じ、あらゆるヌーたちの存在や、草が成長していくのを感じ取ることができたのです。それが、私にとってのスピリチュアルな体験です。数値化することはできませんが、非常にリアルな体験なんです。

ディープ・エコロジーと一緒にしないでと

このような生命を中心に置くスピリチュアルな考え方は、ディープ・エコロジー運動と強い類似を示す。(略)ディープ・エコロジストたちは、みすがらの信仰を実践し、聖なる存在と見なすものを守るために、思い切った行動に出ることがある。環境保護団体「アース・ファースト!」による樹本の占拠や妨害工作といった過激な戦術は、ディープ・エコロジー哲学の影響を受けている。

おそらく、そうした戦術はみっともないと考えているからか、「エコロジー」という言葉がすでにイデオロギー的な運動と結びついているからか、あるいは、自分たちが規定もできなければ先導もできないスピリチュアルな運動に協力したくないためか、私がインタビューした生物学者の大部分は、ディープ・エコロジーにかかわることを強く拒絶している。

2006-04-16 生物多様性という名の革命 このエントリーを含むブックマーク

女性解放運動って言うと偏見持たれるから性多様性革命って言い換えてみた風情。女性の抑圧ばかり強調しすぎて誤解を招いていた部分もあったので、もっと包括的な見地からと言うので、話を聞いてたら、結局お前らはセクハラ糾弾かっ、みたいな。

自然保護運動への偏見から逃れビジネスとして成立させるための企画書の題目が「生物多様性」なのでせうか。このもやもや感を爆発させるとジュラシック・パークの顛末じゃないとフト思ったと、いい加減な事を書いているように、いい加減に飛ばし読み。


生物多様性という名の革命

作者: デヴィッド・タカーチ,岸由二,狩野秀之,新妻昭夫,牧野俊一,山下恵子

出版社/メーカー: 日経BP社

発売日: 2006/03/16

絶滅種を保護するより、そういった種が生まれてくるプロセスを保護しようという話。

政治的に利用される絶滅種

一部の集団は、絶滅危惧種法が非難をほとんど受けることのない唯一の環境法であることを利用して、彼らが他の理由で反対している開発を阻止するために絶滅危惧種を探している。ありあまるほどの経済的理由と生態学的理由がテネシー州のテリコ・ダムの建設中止を支持していたとはいえ、法的な影響力を持っていたのはごく少数の、とりたてて魅力のない魚だけであった。

もし、地球全体で毎年絶滅していく種数についての生物学者たちの推定値が正確ならば、それを一種ずつ救おうというのは愚かな努力としかいえないだろう。(略)マルコム・ハンターは絶滅危惧種法を、「われわれの良心をいやす」だけの「感傷的な役者」と呼ぶ。エーリックは、ある種が絶滅危惧種のリストに載る時点には、その種はすでにその生態系での役割を十分にはたしてはいないだろうと指摘する---じっさいのところ、すでにいないも同然だというのである。

プロセスが大事

生物学者たちがほんとうに望んでいるのは、生息場所の保存であり、生態系の保存であり、進化のページェントが繰り広げられつづけることのできるような、まだあまり荒らされていない土地の保存である。(略)

絶滅危惧種は、変化しうる進化的な単位ではなく、静的な型と見られやすい。(略)変化しない種ではなくダイナミックなプロセスを保全するという転換によって、「生物学的な共同体がその進化ドラマを演じきる」ための潜在的な可能性が保持される。(略)

「プロセスの保存はその産物がなければできないとはいえ、人間が保存すべきは、たんなる形態学上の〈形〉(種)ではなく、〈形成されていく〉(種分化)プロセスなのだ」(略)

生物学者たちは進化プロセスに大きな価値をおく。生物多様性を保全することによって、遺伝学、個体群、種、群集、生態系のすべてのレベルでの変異が保全される。その変異が進化プロセスの継続を可能にし、また自然が変化し、反響し、進化する能力を賦与する。

生態系は正確に定義できないし掴みが弱い

生態系に焦点をしぼることの問題点は、定義の困難さだけではない。ハンターは、生態系には「大衆にかわいいと思わせるような、大きな褐色の目がない」という。(略)ウッドラフは、「カリスマ性をそなえた大型脊椎動物あるいは少数の高等植物に焦点をあてたほうが、ずっと影響力を発揮できる」と考えている。

<自然>という用語を避ける理由

デヴィッド・ウッドラフ「(略)〈自然〉という言葉は、この国では1950年代から1960年代にかけて、かなりの汚名を科学共同体から着せられました。たとえば、科学者が人前で『私はナチュラリストです』とか、『科学の教授』ではなく『自然史の教授になりたい』ということは、自殺に等しいことでした。科学が、生物学という科学が、高度に還元主義的になって以来、〈自然〉という言葉はそれを実践する人々にとって、それを指導する人々にとって、呪われた言葉となりました。そして彼らは、それを避けて通るようになったのです。だから、自然史ではなく、行動生態学をやったわけですよ。それだって自然史なのですがね。(略)この言葉を使うときには、話している相手がどういう人なのか、とても気を使わなければなりません。そうでなければ、すぐさま軽薄な学者と書かれてしまうでしょう。木に抱きつく人とか、”主義者”とか、あるいは鳥やネコしか見えない人というわけです。そんなふうに見なされてしまったなら、どうにも身動きできないし、手足をもがれてしまったようなものでしょう。そのようなわけで私は、〈自然〉だとか〈自然史〉(という用語)の使用を避けてきました」。「結局のところは、〈自然〉か、あるいは〈生物多様性〉ですね。〈生物学的な〉多様性よりはましです。プロセスが含まれていますから」。

布教活動

〈生物多様性〉は、精力的な宣伝活動がなければ流行り言葉にはならなかった。うまく説明できればよいのだが、この宣伝は意図的なものであり、提案者とその支待者たちは、生物多様性の名の下に他人を改宗させる〈責任〉があり、そうするのが生物学者たることの一部だと感じている。

(略)

環境保護熱が60年代終わりに高まったとき、ほとんどの科学者は傍観者をきめこみ、ひとにぎりの仲間が大声で叫べば保全のメッセージは十分伝わると信じていた。しかしレオ・マルクスがこれを書いた後、環境主義への大衆の関心はいっときは高まったものの、やがて尻すぼみになるのを生物学者たちは目撃した。生物学者は、この潮流を逆転させようと、生物多様性の後ろにしっかり隊列を組んだ。

ためらう理由。時間とられるし、地位も危うくなるし、なんか政治的なことって苦手だし、専門外のところで発言したりするといい気になってると上司同僚に思われたりするしetc。それよりもあのナチュラリストの類と一緒にされるのがイヤ。

多くの科学者がいちばん悩むのは、何かを唱道すると科学者が大切にしてきた客観的観察者としての信用が傷つくか、ということだ。この客観性がわれわれを非科学者から区別してきた。

ローゼンは問題を正しく言い当てている。科学者が何か価値判断を下すときに利用する権威の源泉は、自分の職業は科学者だという意識なのである。(略)

ローゼン同様、科学が価値中立でないことをすんなり認める科学者は他にもいる。ところがそう表明する一方で、彼らはかならず境界作業もする。科学の持つこの見かけの弱点にもかかわらず、自分たちの制度の神聖さを維持しようとするのだ。アイスナーはこう宣言する。「科学が価値から中立だったためしはありません。それはたわごともいいところです。科学は科学的です。つまりですね、国家から援助を受けるということ、つまり、ある意味で、私たちがどんな種類の金を使うに値するかを国家が判断したということですよ。だが、その金を使うために黙していなければならないわけではありません。絶対に。(略)

当方は科学的に正確に発言しただけで、そのデータが大衆煽動に利用されてもそれは当方とは無関係という言い逃れ。

「科学を信頼するために必要なことは、バイアスがないということです。いいですか、価値とバイアスとは同じものではありません。まったく違うものです。言葉を換えて説明すれば、エド・ウィルソンやトム・ラヴジョイやピーター・レイヴンが熱帯雨林で生物多様性が失われていると語るとき、人々は彼らが事実に基づく真実を言っているはずだと期待します。それこそ科学が社会に対して負っている責任なんです。科学的方法によって解明できる範囲で、物事をありのままに述べ、記述すること。それに続けて”私たちが森林を破壊しているのは大変なことです”と、誰かが言い出すか、それは別問題です。これは価値判断ですから。でも、正確であることとバイアスがないことは同じ次元です。バイアスとは無縁です」

微妙な分量だが、明日につづく。

2006-04-15 宮崎駿の世界vs押井守 このエントリーを含むブックマーク


宮崎駿の世界―クリエイターズファイル (バンブームック)

出版社/メーカー: 竹書房

発売日: 2004/12

[鈴木敏夫対談]

『リトル・ネモ』でハリウッドに行きテーマもストーリーも決ってないのにイメージボードを描けと言われて激怒した宮崎駿だったけど、結局そういうのありかなと思ったみたいと鈴木。

じゃあ、それまで宮さんがどういう風にやっていたかというと、高畑勲とのコンビが長かったですからね。まず、全体の方向性を高畑さんが言うんです。その当時は二人の考えも一致していて、殆ど意見が分かれることもなかった。だから、高畑さんが「こうだ」と言ったら、宮さんもそれに賛同するし、逆に高畑さんも宮さんの意見を採用していたんですよ。それで高畑さんが色々喋ることを、宮さんがどんどん絵にしていく。そういう方法で、実は色々な映画やTV作品ができていった。

[テーマを決めるとかを]やめちゃったのは、正確には覚えてないですけれども『紅の豚』からなんですよね。それまではちゃんとシナリオがあるんですよ。やっぱり、その辺りからちょっと傾向か違うでしょ。

文芸作品トトロ

宮崎駿はすごいですよ。もうサービスの塊です。(略)

これはよく話すんですけれども、『となりのトトロ』は、第一案だと最初からトトロが出てきて大活躍ですよ。その幻のトトロは皆にも見せたいぐらいです。冒頭から最後までずっと出っ放し。

普通の映画はトトロが中盤で出て来るものだと言われ悩んだ宮崎、『火垂るの墓』と二本立てだからサービスを減らして文芸作品でいいかという結論になり、ストーリー激変、猫バスもコマ乗りも削除の勢いに。鈴木が説得。

彼の中で、唯一商業性というものから解放されて作ったのは、やっぱり『トトロ』だったんですよね。だからそれが、なぜか一番支持されているから、世の中というのは皮肉だな

[押井守対談]

関係ないけど押井の全共闘調会話ってあれですかなんでもプロレスで語っちゃうようなノリなんだろうか。

デジタル化を拒む理由

[動画をモニターで再現できるシステム]が入ったのが確か『魔女の宅急便』の頃じゃなかったかな。アニメーターは大喜びで使ったんだよね。特に原画マンが。高畑さんは大喜びしてたね。宮さんは、「あれは悪魔の発明だ」と言って最後まで使わなかった。実際問題から言うと、解らなくもない。クイックアクションレコーダーっていうのは、線画だからさ。実際、(色)を塗った時に見える動きと、線で見える動きは別ものなんですよ。これを見分けるには、手でパラパラやった時の方が解る。(略)

背景があって、エフェクトがあって、初めて映像なんだよね。セルだけ動かしてチェックしても[正確じゃない]

宮崎駿が逆らえない女

アニメーターだけだったら、多分、宮さんが、ある時期までは全部圧殺したかも知れない。でも、デジタルに転向したのは、あの人が保田道世さんというおばさんに逆らえない人間だったからなんだよ。保田さんって、ジブリの色指定で、動画とか外注とか、制作にも睨みをきかせていて、いわばジブリの影の実力者でもある。(略)

で、彼女がデジタルペイントに変えるって宣言したんだよね。その方がいいんだっていう。で、デジタルペイントを使い始めるっていうことは、自動的に撮影までコンピュータでやらざるを得ないということになるんですね。あとは一気に、スタジオ全部がデジタル化しちゃう。宮さんのポリシーはその時代に崩壊したんだよね(笑)。

ジブリはスターリニズムだ、頭の中まで全部支配しようとしているとアジる押井。

いつか誰か書かないといけないと思ってるんだけどね。「ジブリ興亡史」を(笑)。(略)

凄まじい内部闘争があった筈なんですよ。間違いなく。高畑さんが今ジブリでものを作れない状況も、そこから当然出てきたわけですね。

先日鈴木氏は国営放送で「排除したらまた別の人間が生贄になるだけだから排除はしない」と語っていました。

僕はこのI・Gというスタジオでどういう現場を作ろうかっていう時に、ジブリであってはならないんだっていうさ。僕は現場でも公言してるし。「ここはジブリじゃないんだ。作品を誇るべきであって、スタジオを誇るべきではないんだ」って。どんな人間だろうが、どんな仕事の仕方だろうが、要求したことに応えてくれるのであれば、それでOKだと。(略)

ジブリで宮さんに口答えする人間がいるとは、僕は思えない。恐らく、口答えした人間はとっくの昔にはじき飛ばされてるか、頭に来て辞めてるか。僕が一番嫌だったのは、教育っていう名の注入もそうなんだけど、そういう組織につきもののスケープゴートってあるわけじゃないですか。誰かを血祭りにあげて、そのことで結束をはかるっていう。

抑圧したくない

僕からすれば左右の問題じゃなくて悪党であるか、否かだけでやってきたんですよ。悪党だけにはなりたくないって。抑圧する側にまわりたくない。それと、自分の職業である”監督”とかね、バランスをどうとるのかっていうこととか、内実はどうかとか。僕は僕なりに苦闘してきた。(略)

今は逆にさ、要はオタク世代というかオタク的な感性の最大の特徴は、そういうこと自身もすべて面白がるっていうことなんだよね。あらゆることを面白がりすぎるんだよね。あらゆるものが茶化す対象なんだ。(略)

これは感性からいったら、もしかしたら一歩前進しているかも知れないんですよ。(略)

[しかし]僕はやっぱり承服できないと思ってるわけ。あらゆるものを面白がるだけではやっぱり足りないんだってさ。だから、面白がれない限界は来る筈だって、どっかで。

宮崎と庵野秀明は似てる。劇場エヴァを観て庵野はバカじゃなかった、頭がよかった、ああいうことを延々やれる真面目なところも宮崎と似てる、と押井

そこら辺でもあの二人、とってもよく似ているよね。どんなにおどけて見せようが、斜めに崩して見せようが、どこかしら妙に真面目なところがあるね。二人とも収容所の所長になれるタイプであって(笑)。(略)

『エヴァ』を観て考え直した。こいつは収容所の所長になれるタイプだって。そうでないイメージで売ってるけど実は違う。

「実感の世界」三者三様

これは僕の想像でさ。間違ってない気がするんだけど、宮さんとあいつの最大の違いは何かっていったら、宮さんは自分が「実感の世界」に生きているっていう自信があるんだよね。僕に言わせれば根拠の無い自信なんだけどさ。いつもその話で揉めるんだけどね。庵野はね、「実感の世界」に生きてないっていう自覚があると思うんだよね。そこは僕に似ているんだよ。でも、そうでありたくないっていう思いがあの男にはあるんだよね。僕はそれでかまわないっていう思いがどこかにある。「実感の世界」に生きようが生きまいが関係ないんだっていうさ。そこが違うんじやないかな。

『キャシャーン』観てないけど、会って話して、紀里谷はいい奴だったよ。

映画に関しては真摯な男だなって、それはよく解った。メッセージとか情熱とかは本物だっていうことは解った。ただ、どうすれば映画になるのかっていうことは多分これからだと思う。(略)

多分、映画になってないんだろうなとは思ったし。フッテージを見た限りでは、映画に必要なある種のスケール感を掴み損ねてるのは間違いない。ただ浮わついた気分では、ああいう映画は絶対にできないから。あれはお金をかけたわけでもなくてさ。基本的に情熱で作ってる作品だから。それは正当に評価していい作品だと思ってますよ。ただね。やっぱり色々ね(笑)。

全然関係ない話だけれども、映画がどういう風にして映画になるか、どうやったら映画として感じてもらえるか。それはね、独特の方法論が実はあるんだって、ずっと思ってるんだよね。多分そういうことに感づくか感づかないかで監督の意味は変わると思っているんですよ。プロモ系のディレクターが映画で成功しない原因はそこにあると思っているから。(略)作っている画が違うんだ。世界の縮図が見えるだけで世界が見えてこない。多分それは映像っていうものに対する捕らえ方が根本的に違うんだろうっていう気がしてしようがないね。

糸井重里は、そういうのイヤなんだけど、ある種体育会系にしてかないと立ち行かぬと言ってたな。

僕は、あの人が若い子を血祭りにあげてるところを見たことあるけどさ、あれが未だに許せないよね。あの人に言わせれば教育なんであってさ。でも誰に対しての教育なんだって。どこに対しての教育なのか。その状況を見ている人間に対する教育なのか。

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2006-04-12 第一次大戦とイギリス文学 このエントリーを含むブックマーク


第一次大戦とイギリス文学―ヒロイズムの喪失 (SEKAISHISO SEMINAR)

作者: 清水一嘉,鈴木俊次

出版社/メーカー: 世界思想社

発売日: 2006/03

  • 第2章 戦争の観念史(加藤洋介)

若者がふぬけで帝国の危機

新聞や雑誌などのさまざまな文字メディアのなかで、文学は独自の機能を果たした。文学は階級の違いを超えて幅広い読者層を獲得するようになっていたから、中流階級の倫理を労働者階級に広めるのに効果的であった。軍隊の指揮官たちはパブリック・スクール出身のエリートたちであり、規律や名誉や義務のようなパブリック・スクールの教育倫理は彼らを通して軍人の美徳として軍隊の規範にとり込まれた。(略)

文学をとり込んだエドワード朝の軍事化政策の成功は、具体的な数字にあらわれた。サミュエル・ハインズの『エドワード朝の精神的転回』で広く知られているように、1899年に南アフリカで起こったボーア戦争では、入隊を志願したイギリスの若者の六割が身体検査に不合格し、入隊できなかった。大英帝国の衰退と疲弊の象徴として理解されたこの数字は、国内の軍事化の世論を高めるのに十分な危機意識を形成した。(略)

エドワード朝とは、端的に言えば、ボーア戦争の苦戦とその教訓に始まり、やがて起こることになる第一次大戦に備えた時代だったのである。

きれいな戦争

それにしてもエドワード朝の人々が軍事力をこれほど重視したのはなぜか。この問題に答えるためには、エドワード朝の進化思想のパラダイムを理解する必要がある。進化思想にもとづくその文明観において、戦争は国家レヴェルでの生存闘争を意味した。文明化とは戦争という過酷な生存闘争を生き延びて、よりすぐれた国家に発展することを意味したのである。

エドワード朝の進歩主義は逆説を抱えた。軍事化が文明の進歩に貢献すると言っても、戦争が起これば野蛮状態への回帰は避けられない。そこで、自然界の法則である生存闘争と文明の進歩が論理的に矛盾しないことを示さなくてはならなかった。戦争の野蛮性を否定すること、戦争を文明的な行為として明示することが必要だったのである。

そのために軍隊の近代性が強調されたのは言うまでもない。近代兵器で装備された軍隊は未開の戦闘集団と区別され、前者が後者を征服するのは文明化の過程として正当化された。

平和ボケで、タイムマシーンにお願い

エドワード朝の知識人たちが危惧したのは、平和な生活のなかでイギリス人が堕落し、帝国を維持できなくなることであった。満ち足りた生活と緊張の欠如は人間を堕落させ、知性と肉体を退化させると信じられた。H・G・ウェルズの『タイムマシン』(1895)に描かれた未来人の姿は、この時代の人間観をよくあらわしている。

戦争報道はフィクション

この章の冒頭で、戦争の報道は主に文字メディアに頼っていたと述べたが、要するにそれは多かれ少なかれフィクションだったのであり、その一部をスポーツの言語が構成したのである。その結果、グレン・ウィルキンソンが言うように、戦争は「観て興奮できる楽しみや無害な娯楽の一つ」になった。もちろん、戦場の塹壕のなかで死と向き合っていた兵士たちにとって、戦争は娯楽ではありえなかった。スポーツの言語は、報道された戦争と戦場の現実の間に大きなズレを生んだ。兵士たちが故郷の家族たちと戦争の理解を共有できなかった背景には、このような事情があったのである。

  • 第1章 第一次大戦とブルームズベリー・グループ

(鈴木俊次)

ラッセルに招かれケンブリッジを訪れD・H・ロレンスはケインズらの同性愛をラッセルへの手紙で酷評。国を滅ぼすと。

ケンブリッジはぼくを打ちのめし、心の奥底までどす黒くしたのは事実です。あの腐敗、沼の淀みの悪臭には耐えられません。ぼくは憂欝なマラリア患者になってしまう。人がどうしてあんなに病むことができるのでしょうか。彼らはまず死ななければなりません。

(略)

それはほとんどぼくには我慢できないものだ。道徳的非難からではない。ぽく自身プラトンを間違っているとは思わないし、オスカー・ワイルドについてもそうだ。ケインズに会うまでは、ケンブリッジで彼に会うまでは、それが何を意味するのか知らなかった。

悪の原理があるのです。きっぱりとそれを認めようではありませんか。ぼくはそれをケンブリッジでケインズのなかにはっきりと見ました。それはぼくの気分を悪くさせるものでした。悪の蔓延という認識で気分が悪くなります。それはまるでいつの間にか悪化する病のようです。

ロレンスは大戦下の英国の暗澹たる現状を、英国の知性を代表すべきケインズをはじめとする若きブルームズベリーのメンバーたちの「腐敗」した関係に重ねることで、英国の未来への幻滅と、戦争を引き起こす人間性の「暗部」への認識をいっそう深めたのである。

じゃあロレンスがありとする「同性愛」とは

  • 第3章 第一次大戦とD・H・ロレンス―男同士の絆と帰還兵の問題を中心に(鈴木俊次)

ロレンスの小説における格闘場面801

二人の男は絡み合い、もつれ合いながら、少しずつ相手の肉体に深く食い込んでいく。………バーキンはジェラルドの大きな体のなかに自分の全身を浸透させようとしているようだった。

(略)

こうして二人は敏捷に、有頂天になって、一心不乱にもみ合った。二つの白い肉体はほの暗い光のなかで、奇妙な蛸のように四肢をもつれ輝かせながら、ますますー体になろうとして激しく絡み合っていった。

異性愛を完全にするための同性愛

「君との関係があればぼくは他に誰もいなくても、他にどんな完全な親密な関係がなくても生きていける。しかしそれを完全なものにし、本当に幸せなものにするには、男との永遠の結びつきが欲しかった。別種の愛がね。」

1913年書簡での同性愛見解

ぼくはどうして偉大な人物とされるほとんどすべての人々が、それを認めているか否かに関わらず、同性愛に向かう傾向にあるのか、そしてその結果女性の身体よりも男性の身体をいっそう愛するようになるのか---確かギリシア人がそうだったと思うのですが---、その理由を知りたいのです。

1919年『アメリカ古典文学研究』にて

クーパーは民主主義の向こうに何を見たのだろうか。チンガチグックとナッティバンポーの不滅の友情のなかに、彼は新しい社会の核を夢見たのだ。つまり、彼は新しい人間関係を夢見た。二人の男の剥き出しの人間関係、性の深みよりさらに深い関係……それぞれが己の奥底に到達し、全き愛を超えた言葉不要の結合。これが新しい社会の新しい核、新しい時代への鍵である。

ここでロレンスが唱えているアメリカインディアンと白人開拓者という男同士の「愛を超えた」ホモソーシャルな深い結びつきによる社会変革という構想は第1章で述べたように、大戦開始後のイギリス社会の変革についてラッセルと議論し合ったときにすでに芽生えていたものである。

これって吉本隆明が毎度言ってるフーコーの同性愛理念だよなあ。別にこの本じゃなくてもどの本でも同じ事喋ってるのでどれでもいいんだけど。とりあえず新刊で。


家族のゆくえ (学芸)

作者: 吉本隆明

出版社/メーカー: 光文社

発売日: 2006/02/23

暗にアキラetcを指して

いまいわれている同性愛者は「性同一性障害」と名づければ、それと紙一重で、ほとんど真性の同性愛者ではないとおもっている。

アキラとは格が違うんですよと

フーコーはそういう次元ではなく、「同性愛だ」といわせようとおもっている質問者のほうがバカだとしか見えないような答え方をしている。「同性愛者は、個人として社会的な問題(たとえば政治、社会)にどう関与していくべきかという問題だ」と答えている。あるいは「『家族』という中間頂をもたない。それが同性愛者の課題だ」と述べている。日本人だったら、少数派と多数派の問題だなどとはぐらかすところをけっしてはぐらかさない。そして、個人と社会が直接つながるかたちがありうるかどうか、それが同性愛者の問題だという意味のことを答えている。

次元がまったくちがうのだ。

話の流れで引用されてた文章に爆笑。いやあ、いい味でてるなあ。

歌人の岡野弘彦はこんなことを書いている。

《あれはいつ頃からのことだったろう。はっきりと時を限って言えるものではないが、折口と同じ家に暮らしているうちに、もし先生がそれを求めるのならば、受け容れてあげてもよいという思いに、自然になってくるのであった》(『折口信夫の記』)

そんなことより吉本さんがオムツですよ。うーむ。

ボクの父もとうとう体を起こせなくなって、オムツに排便しろと言われて拒否してたら、ベテラン看護婦に「今は体力がないんだからしょうがないでしょう」と説得されて、でもそこは譲れない点で、だけど、結局、そうするしかなくて、あとはズルズルと死んでいくだけだった。うがあ。

ま、吉本さんは起きてる時はちゃんとトイレに行ける状態だから、まだ、だいじょうぶだあ。

就眠中の尿もれについてである。(略)

目覚めぎわの「思考」切り替え、急に別のことを考えたときに急に尿意をもよおし、起き出さないと尿もれをきたす。もちろん直ぐ対応してトイレに行ければ洩れないで済む。しかし目覚めた直ぐは身体の運動意欲が鈍いので、紙おむつに洩らしてしまう。

2006-04-11 晶子とシャネル語録 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。

ココ・シャネルが著作権問題にズバリ言うわよ。

いったん見出されてしまえば、創造なんて無名のなかに消えてゆくものよ。

特に男前な部分だけ斜体にしてみたわよ。


晶子とシャネル

作者: 山田登世子

出版社/メーカー: 勁草書房

発売日: 2006/01

フェミニストについて

そんな数の少ない人たちのことを聞いてもらっても困るわよ。こちらは服を売るのが商売なんだから。

ドレスは、女らしく、エレガントに、男性に気に入られるために着るものよ。だのにブルー・ストッキングは男性に嫌われるありとあらゆることをやった。で、成功したわよ。嫌われたから。

コピーを肯定したシャネル

クチュリエの役目なんてたいしたものではなくて、時代にただよっているものを素早くキャッチするアートだとしたら、いつか他人も同じようなことをするでしょうね。わたしが、パリの街に漂って散らばっているものにインスピレーションを受けたのと同じことよ。別の人間がわたしの真似をして同じようなことをしたとしても当たり前だと思わない?

そうですとも、いったん見出されてしまえば、創造なんて無名のなかに消えてゆくものよ。

……こう思っているからこそ、ずっとわたしは他のクチュリエたちから孤立している。あの人たちにとってコピーされるという大問題は、わたしには最初から無い問題なのだから。

シャネルに言わせれば、誰からも模倣されないような服は魅力のない服なのである。模倣され、コピーされ、街行く皆が同じようになってしまう装い、それこそシャネルのめざした「マスのモード」だった。

偽者主義。

模倣されて広くコピーが出回るということは、その商品に魅力があることの証しである。偽者が現われてこそ、本物は本物としての実を示す。(略)

シャネルのコンセプトは「偽物主義」と呼びうるだろう。シャネルはあらゆる意味で偽物を愛した偽者主義者であった。

なかでも最も名高いのは、宝石の偽物、すなわちイミテーション・ジュエリーである。(略)シャネルに言わせれば、アクセサリーで問われるべきは美しさであって、金の問題ではないはずである。(略)

「わたしがイミテーション・ジュエリーをつくったのは、宝石を廃絶するためよ」

「大切なのはカラットじゃないわ、幻惑よ」

「できるだけ早く死ぬほうがありがたい」

モードをストリートに広げるということ、それはある服装を「流行」にのせるということである。誰もが競ってそのスタイルをし、遂には皆が同じスタイルになってしまうまで流行らせること。そのとき、流行は終わり、また次の流行が始まる。こうしてたえざる現在性を提供しつつ、それを商品化するのがモードという仕事であってみれば、確かにそれは「不滅」の芸術からもっとも遠い。「できるだけ早く死ぬほうがありがたい」のである。

シャネルがコピーを容認したということは、こうして成立するファッション・ビジネスの論理をしっかりと把握していたということだ。

大衆の夢のオーラにつつまれた権威

貴金属でもないそのアクセサリーをシャネルは貴金属と同じくらい高い価格で売りつけた。いかなる理由で? ほかでもない、シャネルがデザインしたという無形の価値によって。いってみればシャネルは自分の名をダイヤモンドのように高価なものにしたてあげたのである。シャネルは、時代にときめく自分の「名」を売った。自分の名が大衆の夢のオーラにつつまれていることをよく承知して。

モードはできるだけ多数に売れなければならない。しかしそれは安物であってはならない---一言で言ってシャネルは「ブランド」というもののパラドクスを見事に解決させた。偽物が大量に出まわるほど、「本物」のオーラがましてその価値がせりあがる。

シャネル以前、商品に夢のオーラをあたえていたのは、たとえばルイ・ヴィトンがそうであるように、皇室御用達のお墨付きであった。皇室という顧客の権威がヴィトンのトランクに無形の信用を授けていたのである。起源にあるのはいわば王の権威だった。これに比ベシャネルの新しさは他の誰からも権威を借りることなく自分自身をスターにしたことにある。いまや権威のオーラは皇室でも貴族の血統でもなく、日々消費されてゆくメディアによってつくられることを彼女は見抜いていた。力があるのはもはや一部の特権階級ではなくマスだということを。

あなたを真似てショートカットが流行しましたねと言われ

ショートカットが流行ったのじゃないわ、私が流行ったのよ。

2006-04-10 晶子とシャネル・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。

いったん見出されてしまえば、創造なんて無名のなかに消えてゆくものよ。

特に男前な部分だけ斜体にしてみたわよ。


その夜、男一人女二人に何が

いはず聴かずただうなづきて別れけりその日は六日二人と一人

(略)数詞は歌に物語性をあたえてドラマのような効果をあげる。「二人と一人」とはいったいどんな関係なのか。その日は六日と言う。その日にいったい何があったのか(略)

明治33年の11月5日、晶子は登美子とともに鉄幹と栗田山の宿で一夜を過ごした。翌六日、京都駅で鉄幹は一人東京に向かう。残るニ人は晶子と登美子である。けれどもそれを知らない読者にとっても「その日は六日」という表現は小説的なストーリー・テリングと同じ効果をあげている。実際、ただならぬ別離のシーンが浮かんでくるではないか。

読者はいたく好奇心をそそられる。それもそのはず、そそるように鉄幹が編集の腕をふるっているからだ(略)

佐藤春夫は『晶子曼荼羅』で次のように述べている。「これ等の歌稿はたとえば愛人たちの見交わす眼のやうに当人たちには意味深長に、いつも韻文の艶書にも相当するものであったから、局外者には真意はわからないだけに、何となくさまざまな想像をたくましくさせるものが多い」。

さてそのスキャンダラスな一夜は果たして事実だったのか。

晶子は本当に恋をしてそれを歌にしたのか。もしかしてそれは虚構ではなかったのか。(略)

「すぐれた演技者」による「演技豊かな贈答の復活」。まさにそれが、「女たちのメディア」である『明星』の際立った特色であった(略)

虚の衣をまとって恋をすること。(略)

恋をしているから恋をうたう、のではなく、むしろ恋をうたうからこそ恋をするのだ。

登世子60歳、ロマンチックが止まりません。熱いね。

ひとり家を出て東京の鉄幹のもとに走った時、その出帆を決意する懊悩の時に、歌のもつ力の大いさをひしと思い知ったことだろう。演技の衣をまとって交わしあった相聞はいつしか裸身におよび、魂を焼く衣となって彼女をつつんだ。もはや二度と脱げない皮膚の衣装のように。言葉の装いの力は魂を覆うのである。虚構は真実の犯人なのだ。晶子はこの虚構の物すさまじい力を誰より切に感じた歌人ではなかっただろうか。不覚なる少女をとらえ火の鎌は迫る……。

鉄幹と袂を分かった子規のアララギ派と明星を折口信夫が分析。恋歌には様式美(ポーズ)が必要だからアララギのリアリズムより、稚拙だとしても明星のラブリーな遊戯性の方がいいんじゃない。以下折口の文。

今の女の人には却てぽうずがなさすぎ、現実的な歌、現実的な歌と追求して、とうとう男の歌に負けてしまふことになったので、まう少し女の人には、現実力を発散する想像があってもいいでせう。……まだしも男はいいのです。自分が始めたのですから。現実主義と討ち死にしたって一向さし支へはないのですが、女の方の歌は現実にかまけて、女性文学の特性をなくしてしまひ、本領を棄てたように見えるのは、事実でせう。アララギはいろいろ長所もあり短所もありますが、アララギ第一のしくじりは女の歌を殺してしまった---女歌の伝統を放逐してしまったように見えることです。

「拒絶の下にイエスをほのめかす」のがコケットリーだそうです。それがお前のやり方か、メンドクセー、切れてないですよ。

コケットリーの達人鉄幹を絶賛する折口。以下斜体が折口の鉄幹評。

とまれ、虚実のあわいを揺れる遊戯の快楽を晶子に教えたのは、いうまでもなく『明星』のプロデューサーであり師である鉄幹である。誰にもまして鉄幹こそコケットリーの達人にほかならない。実はそれを指摘しているのもまた折口信夫である。女のコケットリーの相手をつとめる男あればこそ成り立つ相聞であってみれば、折口が鉄幹にかたむくのは当然のことかもしれない。(略)

おもしろきゑそらごとをも書きまぜつつ。そことさだめぬ旅心より

かう言ふ調子があつたればこそ、かう言ふ生活も掘り出されて来たのである。これを見て心をどりを唆られぬものがあつたら、まづさう言ふ点で歌を楽しむ資格がないと言へる。相当に長い年月、かう言ふ歌といふより調子を却けて、禁欲主義のやうな顔をすることがよいとせられて来た。熊野旅行に随伴した若い歌人たちも、一人として、今思へばこれほど清いうはきを歌ひあげることが出来なかった。

与謝野鉄幹の「うはき」。コケットリーが女の領分であるとすれば、その女を「おびく」男の媚態を言い得て妙である。「ゑそらごと」を書きまぜること、それが大事なのだ。さらには「心を定めぬ」ことが。折口のみているとおり、鉄幹ほどに「愛の遊戯形式」にたけた男はいない。(略)

あの『明星』誌面の余白の、ささやくような小活字、それこそ人をおびくものでなくて何であろう。しかも彼はそこに誰と相手を定めがたい恋歌を何首も詠むのである。鉄幹にかかっては「うらぶれ」さえもが憂いの魅惑をたたえ、ダンディな風姿に変わってしまう。うわきな蝶が花に「紅き」を教え、教えられた花が「そらごと」で蝶をおびきよせる---花と蝶のこの戯れが、愛の遊戯を織りなしてゆく。

文語の中の王と后

恋の相手を「君」と呼ぶこと(略)相聞の勝利とはすなわちこの文語のそれでもある。『晶子歌話』で、晶子は文語こそ自己のスタイルなのだと語っている。(略)

恋する鉄幹は、いつどんな時であろうと「君」と呼ばれる相手なのであり、自分もまたその「君」とむかいあう「我」なのだ。くたびれた着物を着た七児の母も、生活苦を知りつつ無聊に沈むその夫も、短歌の世界では「獅子王とほまれをひとしくする君」であり、「自らを后とおもふ我」と化す。

いや長いね。こうして鉄幹晶子に山川登美子が絡む愛の三角関係プロレスは大人気、数々の恋愛伝説を残したのだった。


山田登世子が佐伯順子にポイズン。やばっ、奴が来る、順子を貶していいのは僕だけ。ねこねこ猫あつし、シュレディンガー、シュレディンガー。喫煙拳、喫煙拳。三年目の削除くらい大目にみろよ、開き直るその態度がネットで話題なの。猫あつし&キー坊、一八をたのむで。赤門マラソン心臓破りアカポス坂を猫あつしが登ってきたあああ。


「奔放なイメージとは違い禁欲的な道徳観を持っていた」という佐伯に対し、著者はこう反論する。

恋する晶子にとって妻子ある鉄幹との不倫は全く問題にならない。そんな道徳はファッキンなのだ。ただ恋する二人の貞節は守らなければならない。複数とつきあうのはふしだらなのだ。

晶子は、男にだけに容認されてきたさまざまな形態の「一夫多妻」を徹底的に排斥して「欧米風である一夫一婦主義の純潔な恋愛」を志向している。この意昧でこそ与謝野晶子は性愛の「近代主義者」なのである。繰り返すが、晶子は蓄妾と回春という性のダブル・スタンダードの痛烈な批判者である。

(略)天地に一人の「君」と鉄幹を恋し、みずからもまた彼の愛の唯一の対象でありたいと願い続けた晶子は何度夢を裏切られて苦しんだことか。(略)[鉄幹の浮気批判]

あまた戀ふは何ばかりなる身のほどにふさへることとするや男よ  『常夏』

何人もの女を好きだなんて、いったい自分を何様だと思っているの。この現代にいまさら業平でもあるまいし、身のほどをわきまえものを言ったら? いいかげんになさいな…いかにも皮肉な詠みぶりからは、男の放縦を難詰する女の姿勢が伝わってくる。とても「従順な妻」の口ぶりではない。

晶子は熱烈な「相愛」主義者である。「一夫一婦」制という言葉では晶子のこの真意がこぼれ落ちてしまうほどに。結婚するしないを問わず、恋する相手に貞節であること、相手以外に性的関心をよせないこと。オンリー・ユー。それが晶子の言う「貞操」なのである。ということをさらに敷衍すれば、晶子にとっては「処女」と呼ばれる婚前の貞操より、むしろ恋人や夫婦のあいだの貞操の方がはるかに重大な関心事だったということでもある。この意味で、彼女の貞操論は『青鞜』を舞台に起こった「処女論争」と一線を画している。晶子にとってそれはあくまで「貞操論争」なのである。

晶子はまたこうも述べている。愛情がないにもかかわらず「夫婦」として同居している男女について、「貞操道徳」はなぜこれを非難しないのか、と。いかにも恋愛至上主義者に似つかわしい言葉ではないだろうか。はたして晶子はここで恋愛と結婚を実にラディカルに問い糾す。

平塚らいてうとのやりとり色々あるんですけど、疲れたので省略。明日はいよいよココ・シャネル。ココったら、ズバリ、言ってるわよ、かなり。

2006-04-09 晶子とシャネル このエントリーを含むブックマーク

題名でスルーしようとしているそこの、だんすぃー、これは要チェキですよ、ぎゅーん、。晶子の裏には、体制に風穴あけて雑誌創刊したけどマイナー文化、苦闘する鉄幹がいて、これがなかなか面白い。

いったん見出されてしまえば、創造なんて無名のなかに消えてゆくものよ。

特に男前な部分だけ斜体にしてみたわよ。


詩歌革命。和歌を大衆化して短歌に。

師弟という「門」組織のタテ型人間関係を打破しようとする意思。詩歌の革命を志した鉄幹は、歌を門の「外」に解き放った。やがて、そこから晶子や登美子が生まれ、塚本や白秋たち、数々の新しい歌びとたちが生まれでてくる外の領野に。新詩社は、「お歌所」という閉ざされた権威の場に背を向け、言語表現の場を野に求めたのである。佐佐本幸綱『作歌の現場』は、こうしてできた「同人」という新しい組織を「短歌大衆化のために考案されたシステムだった」と指摘している。「自由に参加でき、自由に才能を発揮できる場、そんな場を理想的な原型として考案された組織」が「結社」であって、「東京新詩社」の場合を見れば、それが明らかである、と。

だが大衆化してみれば短歌はただのマイナー文化だった

短歌の大衆化は、歌の作り手の大衆化ではあっても短歌の消費市場の拡大を意味しはしないからだ。いや、拡大どころではない。宮廷の「雅び」の具であって商品ではなかった和歌は、宮廷の権威から解放されてもほとんど商品にはならなかった。むろん、売れた短歌がなかったわけではない。与謝野晶子の歌が当代きってのベストセラーになったのは周知のとおり。

しかしそれは話を狭く短歌の世界に限定してのことであって、近代の「文学のマーケット」の主力商品は詩歌ではなく「小説」なのである。

鉄幹、魂のさけび。高級紙を煙草二箱という廉価にして挑めど、『明星』は明治41年に1200部、44年には900部しか売れず。

「僕は詩が好きで詩を作る。詩は僕の道楽である。誤って虚名を喧伝されてはいるが、道楽で作る詩に何の野心があろう。………だから歌壇に対する僕の態度はもっとも自由でもっとも公平であると信じる」

「それに今の出版物は白紙を売って不当の高値を貪る。僕はその弊を矯めて出来るだけ内容を豊富にし、広く国民の購買力に考えてヒーロー二個の廉価をもって読者の手に致そうとした。僕が『明星』を発行した微衷は如此くである」

地におちて大学に入らず聖書読まず世ゆゑ戀ゆゑうらぶれし男

この鉄幹クンの歌にキューンときた全国の乙女の返歌が殺到。やがてその乙女同士が花の名のハンドルネームでお互いに歌を交換。

以後、『明星』詠草欄はこうした乙女たちの交情の場と化してゆく観があるが、それがいやがうえにも印象的なのは、彼女たちがたがいを花の名で呼びあうからだ。

(略)

同じ八号に載った晶子の文にも、登美子を指して「リリーの君」とある。鉄幹が好んだ白い花が娘たちの雅号となって、詠草欄はさながら乱れ咲く花園の観を呈してゆく。

(略)

これらの歌が稚拙なのは、情感の表出より、相手の花の名を詠みこむことに目的がおかれているからである。ただ相手の名を呼ぶ、その親密性じたいが快楽なのだ。あたかも愛の電話で大事なのが話の内容ではなく、呼び交わす声であるのと同じように。こういう乙女たちのたわいない親密性が長きにわたって誌面に独特な情緒をかもしだし、それが『明星』の主旋律ともなってゆく。この意味で『明星』は女性語ブームの波頭を切る女性メディアでもあった。

鉄幹は悩む。男としては質の高い短歌雑誌をつくって「名」を残したい、しかし、「恋の子」である乙女達の稚拙な世界にも何かがあるし。

花咲く乙女たちの浮薄な戯れが『明星』の紙面に華やぎを添える---おそらくこれは鉄幹の企図せぬものであったにちがいない。女性の参加は新詩社を彼の予期せぬものに変容させていったのだ。

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子戀の子あゝもだえの子

後に歌集『紫』の冒頭歌となって名高いこの歌は、「名の子」の論理と「恋の子」の論理の対立をわたしたちに教えてくれる。鉄幹の言葉を使うなら、つまるところ結社とは「名の子」たちによって成立する党派にほかならない。対するに乙女たちは「群れる」ことにしか興味がない。彼女たちは群れて戯れつつ、今のときめきを共有しようとする。これに対し達成価値に賭ける「名の子」は未来のために現在を耐え忍ぶ。だが「恋の子」にとっては現在がすべてである。「春みじかきに何の不滅のいのちぞと」とうたいあげた晶子はまことに恋の子そのものである。新詩社はいつの間にか恋の子たちの集団と化していったのだ。

(略)なぜなら、「しろうと集団」である新詩社の同人誌は、「ひらかれたメディア」であり、参加型メディアだからである。参加型メディアでは参加者が内容をつくりだす。花咲く乙女たちは嬉々としてこのメディアにうち興じたのである。

トレンドセッター鉄幹

いずれにしろ大切なのは、それが仲間うちの合言葉、いわば「星の子のターム」として神という語が使われているということだ。そういう語彙はほかに幾つもあり、「春」「罪」、あるいは「星の子」「春の子」「恋の子」という言い方もそうである。(略)

選者としてすべての投稿に目を通している鉄幹は当然ながら同人の短歌の傾向に最もよく精通している。どの語、どの語法、そしてどの歌人が最もときめいているかも……。(略)

「幻影、神などを歌ふのが同人の中に流行している」と指摘したあと10首あまり例をあげ、次いで年を詠みこむ歌にふれて、「十七の春などと年を短歌に叙するのは、去年の秋からの流行である」と述べている。(略)

同人内部で語法のはやりすたりがあり、最新流行があったのである。「恋の子」たちがいかにたがいの歌に敏感であったかがわかる。なかには流行の語法だけをならべたような歌も少なくない。同じ号に載る増田稚子の一首。「花にそむき人にそむきて今宵またあひ見て泣きぬまぼろしの神」。「花にそむき」はあきらかに晶子の歌の踏襲であろう。「人」も「まぼろし」も「神」もすべての新詩社流行語を詠みこんでいて、おかしいほどだ。さすがに『戀衣』にこの歌は再録されていない。とまれ、こうして、それとわかる目配せのように語を共有することそれじたいが同人の悦びであったさまがよく伝わってくる。

誌面には限りがあり活字の大きさの違いが問題になる。白秋らが脱退したのも上田敏が破格の扱いをうけ四号活字だったのに自分達は五号二段組みで片付けられたのが一因。乙女達だって文句をつけてくる。だが鉄幹は小活字でプライベートメッセージを伝える手法を生みだす。マンガ余白に書かれた手書き文字みたいなもの。

いつもの活字より小さく、片隅にひっそりとおかれたそれらの歌は、そのおかれ方によって、「私的」な何かを直感させる。たとえば先に引いた鉄幹の歌、「戀と名といづれおもきをまよひ初めぬわが年ここに二十八の秋」はこの小活字の歌で、女流たちの華やかな競詠の末尾の余白に一首だけおかれたものだ。いったい誰への相聞なのだろうか。晶子だろうか登美子だろうか。もしかしたらそのどちらでもなく、鉄幹ひとりの独語なのかもしれない……。とにかくそれは、密やかな囁きのように読者の心を惹く。秘密めかした親密性のシャルム。小ささがメッセージなのである。

と、ここまでで未だ50ページ。面白いので引用が長くなっております。さて鉄幹はこのあと新手法でスキャンダラスに読者をひきつけていく。まさにモテ男逆ターザン山本、買い物中の猪木夫妻をタイガー・ジェット・シンが襲撃、そんな世界に突入していくのである。ええっ、うそーん。

明日につづく。

2006-04-07 槍投げで三冊/藤原帰一/映画 このエントリーを含むブックマーク

モテ教授の薄い映画談義をカルブタ女がうっとり拝聴現場を目撃しちゃった映画珍宝がDT汁大噴火で前が見えなくて読めません。貶しているわけじゃなくて、ただコチラとしては職業柄の面白い視点を期待するわけで、ネタふりからオチまで完全予定調和、展開が見えてしまって読書欲がわかないとかエラソーな口調でスマソ。これならまだサービス精神旺盛なゴリラーマン樹の方が。そんなわけで唯一ふーんと思った箇所を。


映画のなかのアメリカ (朝日選書)

作者: 藤原帰一

出版社/メーカー: 朝日新聞社

発売日: 2006/03

帰国子女の『ロスト・イン・トランスレーション』へ複雑な心境

登場する日本人が、またいかにもという人ばかりだ。何よりも、言葉がまったく通じない。日本では英語が上手といわれているであろう通訳の話す英語は、とても英語を言葉としてわかっているとは思えない。(略)英語が話せる人になると、今度は不気味に流暢で下品なアメリカ英語で盛り上がる。もう全部が全部、共感なんてあり得ない変な人たちである。

だが、日本が「変な国」としてここまで徹底して、しかも正確に描き出されたことはなかった。(略)

特に日本への反発も共感もないアメリカ人の目に映った日本の姿、その心象風景をこれほど的確につかまえた作品ははじめてだろう。そして、登場する日本人と心が通うという場面は、映画の始めから終わりまで、ただの一回もない。

この映画は、もう最初から大嫌いだった。それは日本が変に描かれているからではない。むしろ、ごくふつうのアメリカ人から見た日本の姿があまりに的確に映し出されているために、何か皮膚感覚のようなもので私はこの映画を拒絶していた。帰国子女であるためか、私のなかにも「アメリカ」の目を通して「日本」を見るところがあり、その痛いところをこの映画が突いていたからかもしれない。


日本映画はアメリカでどう観られてきたか (平凡社新書)

作者: 北野圭介

出版社/メーカー: 平凡社

発売日: 2005/08

が下記の本の内容紹介してる部分。


小津安二郎―映画の詩学

作者: デヴィッドボードウェル,David Bordwell,杉山昭夫

出版社/メーカー: 青土社

発売日: 1992/12

たとえば、1923年の関東大震災の後、一気にハリウッド映画が流入して日本に市場を固め、日本映画に次ぐ人気となったこと、また、松竹をはじめとした「アメリカ映画を模倣する」製作体制の改革が急速に推進されたことを詳細なデータを挙げながら説明します。つまり、映画の消費と製作はすでにアメリカ化されていたことを強調します。

また、映画技法的に当時の日本映画をみれば、「1920年代と30年代を通じ、ごくまれな例外を除くと」、日本映画は「ハリウッドの古典的なドラマツルギーと文体にしっかりと基礎を置くものとなっていた」と、また作品例を詳細に挙げながらの主張もします。当時一種のブームだった「日本の伝統」に関しても、ボードウェルは自らの見解を述べています。大正時代には「国内のみならず海外においてもまた消費されることを見越して、パッケージ化された」状況があったのだと分析するのです。


十八世紀における他者のイメージ―アジアの側から、そしてヨーロッパの側から

作者: 中川久定,ヨヘンシュローバハ,Jochen Schlobach

出版社/メーカー: 河合文化教育研究所

発売日: 2006/03/01

イエナチツァ・ヴァカレスク

あるルーマニア人の見た東洋

(ミハエラ・ムドゥレ)

サイードは、彼の古典的ともなった著作から単に極東を排除しているだけでなく、中央ヨーロッパや東ヨーロッパがオリエントをどのように眺めたかという点についても排除している。ここでも彼は、自らの出生地である中東に特権的位置を与えている。また、サイードのオリエントは大西洋-ヨーロッパ的な、従属を強いる言説上の実践の押しつけに対して受動的でもある。しかしながら、アフマド・アイジャズが既に明らかにしたところでは、オリエントは全く受動的ではなかった。オリエントは、軍事的、政治的行動を通して極めて具体的に抵抗しただけでなく、言説においても、そして学問的にも抵抗したのであった。これらの声が沈黙させられたのは、中心部分に特権を与えたことによるものであり、サイードは疑問を抱くこともなく、この立場を引き受けた。オリエントのために語るふりをしながらも、サイードは実際には周縁の立場を装った中心のために語っていたのである。

録画したタモさんメロメロ「恵麻」ショッキングを三回リピートしちゃった、俺に、喝。

2006-04-06 ビバ、AT限定フィールド このエントリーを含むブックマーク

鉄の棺に乗る権利を取得してはや三年。助手席に人を乗せたことがありません、轢くよね、いとうあさこです。

インドア一直線な人間には不要だった気がしてなりません。そもそもそんなものを取る気は全くさらさらサラサーテ、大体あれじゃない、若い時に取らなかったら「ここまで取らずに来たんだから今更」と益々頑なに取りたくなくなるというか、そもそも貧乏一直線で鋼鉄棺購入の可能性がないわけで、国家や警察に搾り取られてまで必要なものには思えないし、自転車サイコー、ビバ、人体エネルギーえころじー、俺のパワーでどこまでも。

ところが、核家族の最後の一人になってみるとどうにも精神が集中できなくて、うーん、一ヶ月この調子ならいっそのこと今しかできないバカなことをやったらどうよ、それに遺品のプログレ3000ccもあるし、やっぱり田舎暮らしには必要なのかもと、永年の堅い決意を破って突発的に鉄棺学校に入学したのであった。受付の女性は年齢を見て「免許取り消しの過去があるなら正直にゲロするように」と言ったですよ。確かに回りを観ればヤングばかり。さすがに教官は運転を見れば初心者だとわかるので「どうして今までとらなかったの」と聞いてくる、くだくだ説明するのもメンドーなので「ずっと東京にいたもので」と言うと、せっくるネタを振られたDTのように皆ミナ遠い目になって、ナルホドーと納得したふり。へいかんとりいまん、とーきょーにいたつて、のるひとはのつてます。ぼくはびんぼーいんどあはだつたのでひつようなかつたのです。

そうだ問題はマニュアルかオートマ。迷わずAT限定フィールドを選択。もう歳だし、ともかく取得が最大の目的だ。でも入学後、2chを覗いたら、男でATはヘタレ、彼氏がATだったらひくよね、そんな衝撃発言が。そのときのボクはきっとウクレレを抱いた「いとうあさこ」のようだったはずさ。いいじゃない気にしないさ、ATコースはオンナノコばかりでサイコーって2chに書いてあったもの、どうしても欲しくなったら、がまん円払って限定解除しちゃうもん。そんなわけで三週間毎日片道20分自転車で通って、AT選択のおかげで、さしたる苦労もなく仮免まで到達して、なんとなく学校というのもこれはこれでこのばかばかしさというのもそれなりに新鮮な気がして資格取得にはまる人の気持ちがちょっとわからないでもなかった。

  • 不満

30万かかるシステムをどうしても維持したいならそれでもいいけれど、もう少し有効なシステムを作れないものか。安全マインドとかやってる時間があったら車を運転する技術をもっと教えて欲しいものだ。だって初心者が最初にぶつかる困難って結局、車庫入れじゃない。たぶん縦列駐車は一生やらない、できない。まあ学校側にすれば不安な奴はさらに金を払えということなのだろうけれど。

  • 疑問

合格率90%という試験。どうみても嘘くさい。もし本当に90点が合格ラインならありえない。言葉遊びのような引っ掛け問題ありで、たとえ知識が完全でもかなりデンジャラス。俺真面目だからちゃんと勉強しちゃったけど、周りの様子を見ていて、あの調子で九割合格は絶対ありえない。多分、下一割で足切りか、もっと低い合格ラインがあると思われ、だって日本語も覚束ない外人さんが受けに来てたよ。つまり真面目な人間は真面目に勉強してしまうし、そうじゃない人間には学校がこんな調子では受からないとハッパをかけるただの口実。でもやっぱり気が小さい人間はついつい勉強しちゃうよね、引くよね、いとうあさこです(余談だが、いとうあさこ、押しが弱そうで多分バラエティ的には未来はないだろうし、自虐ネタもかなり痛々しい年齢に突入、ネタ自体もさほど斬新ではなくブレイクはないだろうとは思うが、どうにかしてあげたくなる人柄芸風にハラハラする今日この頃、でも人の心配してる時じゃないよね)。

  • 惨事

まあともかく晴れて免許を取得してショッピングセンターの端の誰も止めてないところに駐車して買物をしてやや傾斜のついたマンションの駐車場に入れようとして途中で止まっちゃったので軽い気分でアクセルを踏んだら恐ろしいことに。もう横でブレーキ踏んでくれる教官はいなかつた。割と簡単に取れたのでチョット車をなめてたよ。しみじみ竹中直人の気持ちがよくわかつた。そう大変なのは免許を取ってからなのだった。

女性自身・2003年11月4日(火)発売

免許とりたて「若葉」マーク 

“車庫入れ”悲劇

竹中直人(47)

ああベンツが新築の塀が…

つづく。

きっと誰か轢くよね。

いとうあさこでした。

2006-04-05 カフェイン大全 このエントリーを含むブックマーク

トリビアな本なので、結局どのネタを選ぶかという話になって、禿しく飛ばし読み。

濃いコーヒー6杯でカフェイン1グラム。体重90キロの成人の摂取致死量は10〜15グラム。


カフェイン大全―コーヒー・茶・チョコレートの歴史からダイエット・ドーピング・依存症の現状まで

作者: ベネット・アランワインバーグ,ボニー・K.ビーラー,Bennett Alan Weinberg,Bonnie K. Bealer,別宮貞徳,亀田幸子,岩淵行雄,真崎美恵子,西谷清,高田学

出版社/メーカー: 八坂書房

発売日: 2006/02

カフェイン抽出のきっかけはゲーテ

ベラドンナのエキスを使って猫の瞳孔を自在に広げられる科学者がいるという話を聞いたゲーテは興奮し、その有能な学生を招待して実験を見せてもらいたいものだと言った。

ルンゲは、このときのために借りた山高帽と燕尾服を身につけ、ペットの猫を小脇に抱えて約束の場所に向かう。イェーナの商店街を歩いていると、仲間の学生たちは、何ごとかと目を見張った。(彼は、有毒な化学物質を研究していたために「毒」とあだ名されていた。)これから誰に会おうとしているのかを話すと、学生たちのからかいは畏敬に変わった、とルンゲは述懐している。

仲間が驚いたのも無理はない。全ヨーロッパでその名を知られた最初の文豪ゲーテは、1819年には、大陸でもっとも有名で人気の高い人物となって久しかった。(略)

彼は、依頼されたとおりベラドンナのエキスを猫の目に落とす実験を行なった。その劇的な反応に感動した老詩人は、ルンゲが帰ろうとすると机に手を伸ばし、珍しいアラビア・モカのコーヒ大豆が入った小箱を取り上げ、この豆の分析をやってみるようにすすめた。(略)

ゲーテのプレゼントに興奮したルンゲぱ、猫を置いたまま帰りそうになる。

「手下をお忘れですよ」と、かつて猫が錬金術師に仕える魔術的動物とされていたことをほのめかしながら、ゲーテはおどけて言った。

ルンゲは実験室に戻り、その後二、三ヵ月で純粋なカフェインの抽出に成功する。

2種類の「初めてのコーヒー」

はっきりしているのは、アラブの商人が栽培用にアフリカからコーヒーを持ち帰り、コーヒーの実から二種類の異なったカフェイン飲料をこしらえたことである。ひとつめは「キシル」という、乾燥させた果肉を浸して作る茶のような飲み物で、専門家によるとその味は、われわれの知るコーヒーとは似ても似つかず、むしろ香りのいい茶、スパイス入りの茶の感じだという。果肉を銀皮ごと煎って作るキシルは、イェメンでは美味な飲み物とされ、通に好まれていたらしい。もうひとつは、コーヒーの豆を砕いたりすりつぶしたりして作る濃い飲み物、「ブンヤ」で、その名は、エチオピアや初期のアラビアでコーヒ大豆を意味した「ブン」という語から派生している。おそらくは漉さずに、沈殿物と一緒に飲むもので、「泥水」という方があたっていそうに思われるが、この飲み方が何百年ものあいだ踏襲された。初期の「ブンヤ」は、生豆を煮て作っていた。その後、レヴァント地方の洗練された方法が伝わり、石の盆で豆を煎ってから水煮するようになる。煮汁を漉し、新しい水を加えてまた煮るという作業を何度か繰り返し、大きな粘土の壷にたまった滓を、コーヒーを小さなカップに注ぐとき一緒に入れる。煎った豆をすり鉢とすりこ木で粉状にし、沸騰した湯に混ぜるという方法もあった。できあがった飲み物は、何百年もの間、粉ごと全部飲んでいたのである。

1669年オスマン帝国よりの使者スレイマン

最高級地の宮殿風の建物に住んでパリの社交界を仰天させた。空気を人工的に調節し、東方の都市でも使っているというバラの香りを漂わせているとか、屋内にペルシア風の噴水がたくさんあるとか、たいそうな噂が広まった。貴族の夫人たちは驚異と好奇心のおもむくままに、またおそらくはこの階級特有の倦怠にも促されて招待に応じ、スレイマンの門をくぐった。薄暗い照明の、椅子のない部屋に案内されてみると、壁面はつやつやのタイル、床には暗い色調の精巧きわまる絨毯というありさま。クッションに寄りかかってくつろぐように勧められると、若いヌビア人の奴隷がダマスク織りのナプキンと小さな磁器の茶碗を運んでくる。こうしてご婦人方はいち早く魔術的な苦い飲み物を試みたわけで、それがまもなくフランス中に「カフェ」として知れ渡るのである。

(略)

トルコ・コーヒーは、何度も煮出したものをコーヒーかすごと飲むという「死ぬほど強烈なもの」で、かつてないほどの濃さだったのである。必然的に婦人たちは、カフェインの刺激ではずみのついた言葉をぺらぺらしゃべり、くすくす笑い、噂話を始めた。

(略)

おかげでその内情や戦略を知ることができた。すなわち、太陽王はただ旧敵オーストリアのレオポルト1世に不安を与えるためにトルコを使ったにすぎず、たとえば次のウィーン包囲にスルタンに援軍を送ってくれるだろうというような目算は立てられないとの結論に達したのである。

ビールスープ。酔いどれ文明さようなら、覚醒革命。

シヴェルブシュは、17世紀の典型的イギリス人家庭では毎日子どもを含めてひとりあたり約3リットルのビールを消費しており、ビールづくりは主婦の日常の仕事の一部だった述べている。消費がそれほど多い理由のひとつは、朝食が一般にビールスープだったということにある。一杯ためしてみたいと思われるなら、18世紀末ドイツの田舎に残されたレシピを見ていただきたい。

ビールを鍋に注ぎ、熱くなるまで火にかける。そのあと、別の鍋に卵を数個割り入れ、そこにバターを一片加えて、少量の冷たいビールを注ぎ、よくかき混ぜる。これに、先程のビールを注ぎ入れ、塩を少々加え、それからねっとりするまでよく攪拌する。最後に、ゼンメルか白パン、あるいは別の種類の良質のパンを切り、スープをその上に盛りつけて出来上がり。好みによっては、砂糖を加えて甘味にしてもよい。

くる日もくる日もこんな料理で一日が始まり、しばしば飲み比ベコンテストがあって、途中で競技者がひとりまたひとりと人事不省に陥り、ついに「饗宴」におけるソクラテスのように最後に残った者が酔った頭で勝利を意識しつつ立ち上がり家路に向かうというこの時代。まず紛れもないアルコール障害の症状が蔓延していた。

17世紀のティモシー・リアリー

1655年に、オックスフォードの学生とフェローのグループが地元の薬剤師アーサー・ティリヤードをたきつけて---ちなみにアンソニー・ウッドは彼を薬剤師で「ガチガチの王党派」だと言っている---オール・ソウルズ・カレッジのためにコーヒーを用意し公に販売させた。科学者と学生の非公式な協会だったこのオックスフォード・コーヒー・クラブこそ王立協会の始まりで、急速に世界的な科学者の協会に成長し、今日なおその地位を保っている。その学者仲間は、LSDの実験を行なったハーヴァード大学の教授ティモシー・リアリーと一脈通ずるところがあって、国じゅうで誰も見たことのない新種の強力な薬物を面白半分で試していた。現存する記録によれば、当時のコーヒーは何度も沸かしなおして沈殿物の多くなったもので、その味わいを楽しんだのではなく、もっぱらその薬理効果を期待して飲んだことが確認される。

コールリッジ、1802年12月の日記にあるコーヒーのレシピ。

卵半個分の白身。卵を泡立てたのち、1カップのぬるま湯---どんなコーヒーでも、湿らせるのに十分な量の水。次に挽いたコーヒーを入れる(山盛り一杯のコーヒーに沸騰したお湯6カップを注ぐ)。そのコーヒーと泡立てた白身とをぬるま湯でかきまぜる。できたものをコーヒー沸かし器に入れ沸騰した湯を6対1の割合で加える。強火にかけ二、三度沸騰させる。その後、茶こしを通して磁器あるいは銀のコーヒーポットに入れる。沸騰したあと静かに注ぐ。二度目は熱湯ではなく上澄みを使う。

こうした手引きに示されているように、少なくとも19世紀の初めまで、何度も煮出したトルコ風のコーヒーが好まれた。こういう体に震えがくるぐらい強い淹れ方がイギリスで依然として流行していた。卵は、ウォラーの中国のお茶のレシピに見られるとおり、イギリスのコーヒーと茶にたびたび侵入してきていたようである。ロマン派の詩人の生活には茶も入ってきた。コールリッジは、少なくとも数種類の茶を使っていたようで、その値段が高くなったことをくだくだと詩にしている。正餐には「脂肪の少ない羊肉とおいしい茶」をよしとした。

水代わりのコーヒー

20世紀になる前に飲まれていた大方の飲料が文明の進んだ国でもどれくらい危険だったか、今日把握することは難しい。きれいな水が不足していたために、アルコール飲料でさえまず第一に渇きを癒すものと考えられていた。イギリスでは1805年以降、水供給会社への投資を増やしたにもかかわらず、水から感染する病気の発生は、以後数年にわたって何回かスキャンダルをを引き起こした。1820年代にはロンドン市民が飲み水を見つけるのがむずかしくなり、そのために新しい職業が生まれた。水運搬人である。ロンドンの病院は患者にアルコール飲料しか提供しなかったが、それは用心のなせる業だった。1840年代に、ロンドンの貧困地区にどう見ても人間が飲むには適しない水が供給されたのは、公然の秘密だった。1850年代には、自家用の水道は依然としてわずかで、市に公共用のポンプはないも同然だった。そのころは上流家庭でさえ主水源からの供給は間欠的で、木造管が鋼管に換えられて初めて水不足が緩和された。

他の飲み物の出所も決してよくはなかった。ミルクは新鮮なときでも危険で、品質はお粗末、混ぜ物までされていた。製造者の名がないまま都市に届く供給品は特にそうだった。加えてそういう粗悪なミルクはきわめて高価で、1850年頃には値段がビールの倍もした。イギリスでソーダ水が販売されたのはやっと1790年のこと。通行人の渇きを癒すパリ風のレモネード売りはまだ街を歩いてはいなかった。ロンドンの住民が、原料の水を深い井戸からポンプで汲み上げているアルコール飲料か、水が煮沸されているコーヒー、茶、チョコレートといった非アルコール飲料に頼ったのは賢明だった。

2006-04-04 視覚のアメリカン・ルネサンス このエントリーを含むブックマーク

あまりにも禿しく飛ばし読み。


視覚のアメリカン・ルネサンス

作者: 武藤脩二,入子文子

出版社/メーカー: 世界思想社

発売日: 2006/02

  • リチャード三世の身体とアメリカン・ルネサンス(常山菜穂子)

シェイクスピア作品の中でも、「不具者」の成り上がり物語が19世紀前半のアメリカで受けたのか

みずからの意志とは関係なく「奇形」を与えられ、自己決定を可能にする健全なる身体を持たない「不具者」は自分自身の所有者となり得ない。舞台上のリチャードはセルフ・メイド・マンの理想像を逆さに映し出し、その存在は、健全な身体を前提に成り立つ個人主義、ひいてはそうした個人を一単位として、その上に成り立つ近代国家アメリカを再規定する。

セルフ・メイド・マンなる一つの規範を掲げ、かかる個人を最小単位として形成されるアメリカという国家像が標榜された果てに、その規範からはずれる存在が生じ、抑圧される状態となった。個人主義が唱えられる反面、平等という美名のもと同質化が進行し、一元性が横行していく。舞台上のリチャードやフリーク・ショーの出演者の身体は、このような民主主義社会の矛盾を露呈する存在であり、観客に不安を与える脅威でもあった。

  • ポーと新たなサブライムの意匠(伊藤詔子)

〈アメリカン・サブライム〉

ポーの風景が編みだされ始める1820年代、アメリカ独自の絵画様式が確立し、18世紀のサブライムの美学をアメリカ化した、〈アメリカン・サブライム〉と〈ピクチャレスク〉の名画が生みだされ(略)国土拡張のナショナリズムを支える強力な修辞となっていった。

(略)

〈アメリカン・サブライム〉はそれを担った白人中産階級の人々にとって、〈歴史の欠如した空漠たる大平原〉やロッキー山脈やナイアガラ等の壮大で驚異的規模の自然の圧倒的畏怖の印象、それを目前にしたときの自我の矮小さの感覚とともに自己の無化作用、やがて大地全体を総体的なサブライムな場と感じ、自然の教えに聞き入る中で起こる超絶体験や恍惚感などを特質とする。

ポーによる解体

ポーは新しい視覚をアメリカ的風景の中でなく旧世界に移植することでも〈アメリカン・サブライム〉の技法を同時代作家とは異質なものとしていったといえよう。

しかしここで注意したいのはデュパンの遊歩したパリには、当時フランクリンが発明し、フィラデルフィアにしか普及していなかった避雷針が犯人侵入経路の重要な所にでてきて、犯人は避雷針から窓に飛び移り、まさに稲妻のように室内に入り込む。鐘楼に上る悪魔はアメリカにポテト飢饉で大量に移民してきたアイルランド人の、アイルランド音楽のステップを踏む面影があることが議論されている。またホップ・フロッグが奇想する、人間をオランウータンに変じる羽とタールは、当時アメリカ各地で見られたリンチの常套手段であった。つまりポー作品の旧世界のロケーションには、アメリカ固有の人種的怨嗟が織り込まれ、アメリカ的問題に浸潤された新世界のトポスが担われて、作品の恐怖の要素は徹底してアメリカの社会状況がもたらすものへと質的変化を遂げていることである。

このように風景構築家としてのボーは、時代を席巻していくウィルダネスや西部を素材にするサブライムな文学を、その凡庸さと時に帝国主義的な政治性から批評し、自らの作品の風景では、都市へと移動することで壮大な自然風景は消去され、〈アメリカン・サブライム〉を解体していくことになる。

  • マーク・トウェインの旅行記と絵画(里内克巳)

「クエーカー・シティ」号が周遊旅行を行なった頃の世界情勢を鑑みるならば、「観光旅行」の記録と銘打ったものの、『赤毛布外遊記』がある種の政治的性格を帯びてしまうのも当然と言える。この時期はオスマン・トルコ帝国が凋落の一途をたどる一方で、ヨーロッパの帝国主義がロシアの出方を睨みながら本格的に動き出す頃にあたる。イギリスと協力してロシアの進出を抑えたクリミア戦争以後、フランスはトルコに対する協調的な姿勢を表向きは保ちつつ、中東への進出を着々と目論んでいく。その大きな「成果」であるレセップスによるスエズ運河開通は、1869年のことであるが、同年に出版された旅行記『赤毛布外遊記』もこうした歴史の趨勢にある程度歩調を合わせているところがある。

ここで注意を向けておきたいのは、批評家エドワード・サイードの代表的な著作『オリエンタリズム』のなかで、19世紀に聖地を訪れた「西洋」の文学者としてトウェインの名前が四回挙げられている、ということである。そして名指しされないものの彼が念頭に置いているトウェインの作品は、『赤毛布外遊記』であることは明らかである。(略)

作品前半部に現われた異文化をあくまで現実的に理解しようとする姿勢は、かなりの程度後半部にも引き継がれていることは、前節で指摘したとおりである。そしてこの姿勢こそ、『オリエンタリズム』のなかでサイードが批判してやまないヨーロッパの旅行記作者たちとトウェインとの間に一線を画するものであり、サイードによる『赤毛布外遊記』の位置づけに若干の疑念を生じさせる点でもある。というのも、トウェインは作家たちの提示するヴィジョンをー歩離れた地点から皮肉に眺めようとしているのに、そのような側面にサイードはまったく触れようとしないのだから。

2006-04-03 封印作品の謎・2 このエントリーを含むブックマーク

安易な第二弾ではありません。「差別・言葉狩り」ネタだった前作に代わって、今度は「著作権問題」を扱っています。そこらへん目の付け所が時流を捉えてるなあ(半分は前作に収録できなかったネタだけど)。最終的に「金じゃなくて、ささいな感情のもつれが封印の原因」と結論付けるのはどうなのだろう。大きな金が絡んでくるから、些細な感情が拡大されるわけで。


封印作品の謎 2

作者: 安藤健二

出版社: 太田出版 発売日: 2006/02/16

  • キャンディ・キャンディの場合

『キャンディ』裁判の場合、原作者は「これは著作権問題なのではなく、単なる契約不履行の詐欺」だと主張し、講談社も原作者側についている(まあ講談社が漫画家の方の言い分を認めたら、他の原作付き漫画にまで話が及ぶわけで、そりゃそうなるだろうけど)。

[講談社社員]「通常の常識からしたら、いがらしさんがメチャクチャなことをしているわけですよ。単行本にもアニメのクレジットにも『原作・水木杏子』と書いてあって著作権料も6対4で分けて、それまで20年間ずっと来ていたわけです。それを、後になって『原作者じゃない』というのは無理がある」

講談社が「原作が原著作物である」という判断をしたのはなぜですか?

「はじめは私も漠然と、「共同著作物」かなとは思っていましたが、社の顧問弁護士と相談したら『原作者は原著作者にあたる』ということになりまして、社内の方針としてそうなりました。『キャンディ』の場合、漫画化される以前には原作は世に出ていなかったわけですが、制作の順序としては原作を見ながら漫画が描かれるということで、そうした手順の問題だと思っています。ただ、原著作物であったにせよ、共同著作物であったにせよ、双方の同意が得られなければ出版や商品化はできないわけであって、そこは大きな問題ではないと思います」

竹熊健太郎が語る、原作者の弱い立場

漫画原作者の難しい立場はここにある。原作者としての名誉や収入とは別に、作家性そのものを時に否定されかねないのだ。竹熊はこう打ち明ける。「梶原一騎にしても、小池一夫にしても、なんで有名な原作者が一様にコワモテになっていくのかわからなかったんですよ。でも、自分でやってよくわかりました。ある意味、そこまでやっていかないと原作の個性ってなくなってしまう。漫画家にしても編集者にしても、たたき台にくらいにしか思ってませんから。それなのになぜ原作が必要とされるのかというと、無から作品を立ち上げるのは大変だから、何かよりどころになるストーリーの骨格というか設定が欲しいわけですよ。それから後は、それこそ『原作なんかいらない』なんてことになりかねない」

原作付きの場合はアメコミ方式にしてくれと竹熊

アメコミだと、漫画やキャラクターの著作権は会社が持っています。

(略)

僕はアメコミと同じように、原作付き漫画の場合は、作品の企画を立てて内容に口を出す以上、出版社も著作権を持つべきだと思っています。本来、編集者はプロデューサー的な役割を持っているのに、出来上がった作品には著作権を持たない。それだと、出版社が出版権をきちんと管理できているうちはトラブルは避けられるんだけど、作品が出版社から独立したら何の歯止めにもならなくなっちゃう。『キャンディ』の問題はそこが大きかったんだと思います

気持ちはよくわかるのだけれど、これだとさらに原作者の立場は弱くなるのじゃないだろうか。現状なら原作者はキャンディPt2なんて作らせないと断固主張できるが、会社主導でキャンディPt2を作れるとなれば結局押し切られてしまうのじゃないだろうか。しかも絵は同じ人間を使うだろうが、原作者は微妙。融通のきく新人を使うのでは。

  • サンダーマスクの場合

●第19話「サンダーマスク発狂」

特撮ファンの間で語り草になっている回だ。プラモデルを作る少年やマニキュアを塗る少女たちが写り、「こんな楽しいひと時にも危険が……」と不吉なナレーションで始まる。サイケデリックなBGMが流れる中、シンナーに酔う若者達を補導した婦警。その正体は、変身したデカンダだった。そこで呼び出されるのが、シンナーマンだ。人間の頭蓋骨に穴を開けて、ストローで脳みそをちゅうちゅう吸う姿は、確かに衝撃的だ。

かなり爆笑できますが、これが封印の原因ではありません。特撮マニアが自虐的に語ったせいで珍作扱いされていますが、実は普通の特撮であって放送できない内容ではない。フィルムが紛失したせいでもなかった。

---『サンダーマスク』の映像はなぜ幻になっているんでしょう?

「これは大変おかしなことがありましてね。結局、企画制作という形では、ひろみプロがやったんですよ。でも、日本テレビで放送が終わった後、代理店の東洋エージェンシーが『すべての権利は自分のところにある』と言ってきて、否も応もなくフィルムを持っていってしまったんです。(ため息をつくような声で)力関係ですね……。私どもは本当に小さな会社でしたから……。東洋エージェンシーの言い分は『制作費を払ったのだから、海外売りを含めた全権利がある』ということでした。こちらにはそういう契約をした覚えはなかったんですけどね」

(略)

70年代は、現在にくらべて権利関係の処理がいい加減だったんでしょうか。

「本当にいい加減でしたね。安藤さんはまだお若いようですからわからないかもしれないですけど、一時期、ひどかった時代がありましたね。もう本当に、おかしなことがまかり通る世界で、私はとにかく伏魔殿だと思っていました

そんな極道エージェンシーはアノ会社だった

『ガンダム』がここまでヒットする以前、創通エージェンシーは中堅の広告代理店にすぎなかった。その歴史は意外に古く、創業は62年までさかのぼる。当時は、読売ジャイアンツの元選手が社長となって設立された「巨報堂」という小さな会社だった。文字どおり「巨人軍」の「広報」をしていたが、65年に東洋エージェンシーと改名。ジャイアンツの専属代理店として球団グッズの商品化を事業の柱とするようになった。この60年代から70年代の初めにかけて行なわれた負の歴史が、最近になって白日の下にさらされている。彼らは王・長嶋両選手の「直筆サインボール」を約二十万個、偽造して販売していたのだった。

ひろみプロダクション設立の経緯

[虫プロが機能停止状態のため、手塚プロでアニメもやっていたが]

手塚作品以外も企画しようとすると、どうしても手塚プロの名前でやるわけにはいかない。それで作ったのがひろみプロだったんです。手塚先生のマネージャーもしている自分が前面に立つわけにはいかないので、経理をやっていた斎藤ひろみさんに社長になってもらいました。(略)

---『サンダーマスク』を制作することになった経緯は?

「(略)”手塚版のウルトラマン”を作れないかということで、日活時代の仲間や円谷プロの人たちに声をかけたんです。当初はサンダーマスクのデザインも、ウルトラマンのデザイナーの成田亨さんに頼んだんです。ただ、彼はサンダーマスクのデザイン画を描いてくれたんですが、ギャラが合わなかったため途中で降りて『突撃!ヒューマン!!』という別の特撮番組の方に行ってしまいました。それで、私が米軍のグリーンベレーをモデルにデザインし直したんです」(略)

『サンダーマスク』の権利はどうなっているんでしょうか?

「映像に関しては、放送権とか意匠権などをひろみさんがだまし取られるような形で、束洋エージェンシーが持って行ったのは確かです。『フィルムをうちで保管する』とか言われてね。ただ、サンダーマスクのデザインは私、怪獣のデザインは成田マキホと、みんなこちらでやってますし、ちゃんとラフ画という証拠も残っています。こちらには無断で使えないはずですよ。ただ、それっきり創通から何の連絡もないです。もう関わりたくないんでしょ! 創通もガンダムで儲かってるのに、余計なトラブルを持ち込みたくないんですよ」

結論、ひろみプロと創通の間で著作権がクリアになっていなかった。

しかも、ピープロ裁判*1のこともあり、創通があの時権利を買ったと主張しても、衛星放送権は当然買ってない(買えない)わけで、色々と面倒なことになる。

*1:金に困ったピープロが「地上波放映権しか売ってない」と、契約当時存在しなかった衛星放送権を持ち出して、ゴネ勝ちしてしまった