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2006-05-31 近代日本の音楽文化とタカラヅカ このエントリーを含むブックマーク

国民音楽をつくる・東京音楽学校初代校長・伊澤修二

たとえば、三味線は全国に広く普及していた楽器であるが、庶民的で、しばしば遊郭を連想させたため、上流階級からは野卑な音楽と軽蔑された。逆に、上流階級が支持する雅楽や能楽は、一般庶民には難しすぎて共感できるものではなかった。(略)

つまり、標準語が存在しなかったように、北海道から沖縄までの日本という国家のスケールに見合う音楽文化が存在しなかったといってよい。だからこそ文化統合として「国民音楽」を生み出さねばならなかった。

在来の音楽が国民音楽として不適当であるという認識は、当時の知識人に広く共有されていたらしく、知識人の側から俗楽を批判する主張は当時の雑誌や新聞に頻繁に掲載されている。伊澤もその例外ではない。しかしながら、渡米経験があり欧米文化を熟知していた伊澤は---熟知していたからこそ---短絡的な西洋音楽の礼賛には走らなかった。日本人になじみのない西洋音楽を国民音楽として採用することは、英語を国語にするような暴論だとすらいっている。

とはいえ、伊澤は西洋音楽に用いられているさまざまな技術には着目したはずである。たとえば、メロディを固定できて印刷物として広く配布できる五線譜、数学的に計算された平均律とそれに基づいた西洋音階、工業生産品として規格化されているオルガンやピアノは、ラジオやレコードのようなマスメディアがなかった時代にあっては、正確に音楽を全国に伝えるテクノロジーであった。もちろん、それまでの日本の伝承方法が必ずしも不正確で劣っているというわけではない。手間や時間はかかるものの、口頭伝承のほうがより精細に音楽を伝える例は珍しくない。(略)

そこで、伊澤は「東西二洋ノ音楽ヲ折衷」、つまり西洋の文明的な技術を用いて日本人のための新曲をつくり、それを新しい日本の国民音楽とする方針を打ち出した。


近代日本の音楽文化とタカラヅカ

作者: 津金澤聰廣,近藤久美

出版社/メーカー: 世界思想社

発売日: 2006/05

和洋折衷の傍流化

ところが皮肉なことに、国民音楽を演奏するエキスパートとして養成されていたはずの演奏家は、いつしかべートーヴェンやショパンを演奏することに価値を見出すようになっていた。それに伴って西洋音楽を鑑賞する愛好家が、とりわけ西洋文化に近い立場にあるエリートや知識人の中に増えてきた。レコードが普及しはじめたことも大きい。つまり、当初は新たに国民音楽のための演奏技術を磨く手段であったり参照モデルにすぎなかった西洋音楽が、それ自体がひとつの音楽ジャンルとして独立し、あるときから芸術音楽の世界において重要なウエイトを占めるようになったのである。本格的な西洋芸術音楽を尊ぶ「直輸入派」の価値観からみれば、北村季晴が作曲した『露営の夢』や『ドンブラコ』のような和洋折衷作品は、「本格的な洋楽」を摂取する途上にある児戯であるかのように軽視され、音楽史の傍流とみなされた。

軍楽隊

軍楽隊は、再生音楽の無い当時にあって、唯一の洋楽供給団体であった。しかし、様々な行事で演奏する軍楽隊の存在意義は、音楽的なものだけに留まらない。揃いの洋服を着込み、金色に光る喇叭を巧みに操って勇壮な音楽を奏でる様子は、まさに「ハイカラ」を絵に描いたような姿であり、当時の西洋崇拝的、軍国主義的な感覚を非常に満足させるものであった。軍楽隊は、明治という新しい時代の「シンボル」的存在として強く意識されていったのである。

軍楽隊から少年音楽隊へ

[蓄音機の登場により]隆盛を極めた民間音楽隊が終息へ向かうのが明治40年代である。(略)日露戦争が終了して社会を覆っていた軍事色が薄らぎ、模擬軍楽隊としての役割が必要とされなくなったのである。(略)

大正時代は「大正デモクラシー」という言葉に象徴されるように、帝国主義的な明治時代とは対照的に民主主義的な考え方が台頭し、女性や子供に視線が向けられるようになった時代である。当時の新しい商業施設であった百貨店が子供をターゲットとした事業を展開する中で、百貨店の少年音楽隊は生まれた。(略)

大阪三越の少年音楽隊は東京と同様、ハイソックスにタータンチェックのキルトというスコットランドの民族衣装を着用し、人気をさらった。彼らに期待されたのは明治時代の音楽隊のような「勇壮さ」ではなく、少年の「愛らしさ」であった。それを少女に置き換えたのが少女歌劇といえるだろう。

「花柳芸術の謀反人」小林一三だったが

それまで支配的であった旧来の松竹における劇場経営方式に対抗して、まず演劇での特権階級独占からの脱却を主張し、実践した。その第一は、従来の特権的な「連中の廃止」であり、第二は、料金の引き下げと冷暖房設置、第三には、劇場内への入口や観客席の椅子の質を平等にすることなどである。さらに、第四に、劇場内での食事やお土産品に至るまで、すべて市価なみの値段にするなど、いずれも従来の因襲を改革して、大衆本位、家庭本位という新しい理想を興行界に実現しようと試みた

1930年初頭には宝塚はコアなファンのものに

しかしこの頃の宝塚の観客は、少女歌劇創立時に小林一三が送り手の対象にすると唱えた漠然とした「大衆」ではすでになくなっていた。(略)同時代の『歌劇』以外の演劇雑誌では、この頃はレビュー団ごとにそれぞれ決まった観客層ができ、それによってレビュー団ごとにひとつの型ができているのだといわれていた(略)白井レビューを支持した人々は単なる「観客」ではなく、宝塚独特の雰囲気をこよなく愛好し、観劇スタイルにも一定の傾向をもったコアな「ファン」になっていたのである。

男声加入反対

此頃よく男声加入が叫ばれますのは、どうしてでしょう、(略)それに叫ばれる方が大抵男子の方ばかりですから変ですのね。失礼ですが私一人の考えとして男子の方が男声加入を叫ばれるのは、全国的になったこの歌劇団が女性ばかりで出来ているための嫉妬のあまり言われるのではなかろうかと思います、いえ皆が皆とは言ひませんわ、でも読んでいると大抵の人は男性共通の気ままな気性とでも言いましょうか、この様な人気を女性のみで取らしておくのはシャクだというので無理押しに加入させようとしていられる様に思います。(上村由子)

男声加入大反對、なんていつまでもぐずぐず云ってるんでしょう! 男の人ってヒツコイんですね。(略)私はオーケストラも出来る事なら生徒さんにやってもらひたい位です男の方を使わないで、皆さん如何?(瀧澪子)

「男性加入の必要なし」

1932年4月号の『歌劇』に小林一三が「男性加入の必要なし」という文を発表したのである。この小林の文章は、歌舞伎の例をひきながら「アブノーマルな方が却って芸術的である」などとかなり苦しい言い訳をしたものであった。もともと小林は男性加入による国民劇を理想としており、この宣言はファンの意向におもねる形でひねりだしたものであろうから仕方がない。それでも、経営のトップである小林の明確な宣言により、少女歌劇は本格芸術の迫力や力強さを目指すよりも、その独特の甘い雰囲気を保つことこそを重視するべきだというのが共通見解に設定されたのは事実である。つまり、「未完成」だったはずの少女だけの歌劇が、「少女のみによる」歌劇であることそれ自体に意義を認められることになったのである。こうした方向性を支持した甘さを好む陶酔型のファンのなかには、何度も繰り返すように男性も沢山いた。女性ファンが増えたとはいえ、当時の観客層はまだ男女半々といったところだった。

さらにこの時代には「男装の麗人」という言葉が流行しはじめた。

この言葉に高貴で美しい連想が許されるのは後世になってからであり、女学生心中や、令嬢が男装して道行きする事件が新聞紙上をにぎわしていたこの時代には、同性愛やエロティシズムのイメージのほうが強かった(略)とくに1935年、松竹少女歌劇の女優と男装の令嬢の心中未遂がニュースになると、マスコミは「レヴュウファンの狂喜沙汰−男読むべからず聞いた口が塞がらぬ−」(略)「あまりにも病的なファン気質」(略)などといったスキャンダラスな特集をこぞって取り上げた。

明日につづく。

2006-05-29 18世紀パリ市民の私生活 このエントリーを含むブックマーク

カタイ本を読む気がおこらないので、当時のオモロ訴訟事件を紹介という本で下世話に。


18世紀パリ市民の私生活―名高くも面白おかしい訴訟事件

作者: アルフレッドフランクラン,Alfred‐Louis‐Auguste Franklin,北沢真木

出版社/メーカー: 東京書籍

発売日: 2001/06

子供の認知を迫られた男のマヌケコメント。

ド・メルイユ嬢が、デザートのときになって気分が悪くなったのである。優しく駆け寄った女友達が、とっさの機転でド・メルイユ嬢の胴着の紐をゆるめたため、優美な胸元があられもなくさらされる結果となった。食事の席が乱されたとはいえ、その目を奪うばかりの艶姿に、それがしの視線が釘付けにならなかったと言えば嘘になる。

職業差別問題。騒乱罪。

控訴人らを含む数名の木炭人足が気晴らしに寄りあった席で、目先の変わった仮装行列をしようという話が持ち上がった。案を練るうち古靴屋に扮することに衆議一決。思いついたのは、元古靴屋組合の組合員で現在は木炭人足をしている男である。古靴屋の一人はこの行列の来訪をおおいに歓迎したが、これに不興を覚えたもう一人の靴屋が、憤激のあまり、行列を見物していた行きずりの男と殴り合いの喧嘩騒ぎを起こし、これが控訴人らの収監を誘発した。

(略)

控訴人らの行動は、すべて公衆の面前で展開されていたのであり、これが騒乱罪と呼ばれる類のものでないのは明白である。落ちあったのは誰もが出入りする酒場だ。河岸洽いの街路で、控訴人らは祝砲を受け、冷やかし混じりの賛辞を受けた。彼らの行進が秩序正しいものであったことは、すべての見物人が目撃し、証言している。不穏な意図を危惧させ得るような武器は一切携帯していなかった(略)

オレらの仮装が駄目なら演劇はどうなのよと

それにしても、「古革の金銀細工師」と自称し、みずからの権威をかくまで誇っている彼らが、我が国の劇場で古靴屋を演じるのは禁止されるべきだという旨の要望書を、いまだに提出していないのは驚きである。古靴屋をあれほどおおっぴらに取り上げた劇団に対してさえ、いかにそれがやんごとなき劇団であるとはいえ、なぜ、訴訟一つ起こしていないのだろう? あの舞台では、靴屋がふんぞりかえって踏み台に腰かけ、太い糸を引っぱりながら大酒を飲むさまが、バレエ仕立てで演じられていたではないか?

自分で自分を侮辱していることが、彼らにはわからないのだろうか?

靴職人らは、「手甲に誉れあれ!」という群衆の喝采を、組合全体に関わる問題とみなそうとしているものと思われる。

人身攻撃とは本来個人的なものであるが、本件の場合、これが集団攻撃にすり替えられた。すなわち、受けた喝采を攻撃と曲解した一組合員の讒言を、組合の幹部の一人が悪用し、組合全体に対する攻撃であるかのようにみなすことで、組合の利益を図ろうとしているのである。

それにしても、なぜそんなことをしなければならないのか? 「手甲に誉れあれ!」という言葉が、彼らの職業を辱しめるものだと解釈しようとしているのだろうか?彼らはそこまで無分別ではないはずだ。この言葉にこめられているのは、彼らの職業に対する侮蔑でも悪意でもなく、「今日は古靴屋さん」という程度の、ごく日常的な挨拶以外のなにものでもない。この言い回しが気に入らないのなら、いったいどう呼んでほしいというのか? 自分で自分を侮辱していることが、彼らにはわからないのだろうか? 古靴屋が古靴屋と呼ばれるのを嫌うことこそ恥ずべきことであり、それはかえって彼らの社会的身分に辱めを与えることになるのがわからないのだろうか?

[両者の公訴は取り下げられ、訴訟費用は折半に]

ハムパイは菓子か肉加工品かというモンティ・パイソンのような世界

他の職業集団の権益を侵害してはならない、という法律があるのを知らぬ者はない。この法律の裏をかくうまい手口を思いついたのが、人一倍想像力の豊かなある菓子職人、すなわち、本件の被告ノエルである。この男、ごく当たり前の調理法で火を通したハムを薄いパイ生地に包んで焼き、 これを〈ハムのパイ皮包み焼き〉の名で売り出すことにした。(略)

これはれっきとした菓子だぞ、なんたって菓子職人の俺さまが作ったんだからな。豚肉加工業者どもにつべこべ言われる筋合いはない、文句があるなら来やがれってんだ」

豚肉加工業者らはやって来た。それも、警視と執達吏を伴って。一行は、ノエルがパイに使ったハムの残部を差し押えると、箱に入れ、蝋で封印した。

「今後は、肉とパイ生地とを同時に加熱調理しないかぎり、〈ハムのパイ皮包み焼き〉を製造することはまかりならぬ」(略)

判決を不服としたパティシエらは、控訴に踏み切った。控訴理由は、以下の如く、きわめて明快である。

「パティシエにハムを売る権利がないという点については、われわれー同なんの異存もない(略)しかしながら、われわれには、〈ハムのパイ皮包み焼き〉という菓子を製造する権利はあり、これは組合の定款にもとるものではない」

要するに、ハムの販売はしないが、〈ハムのパイ皮包み焼き〉菓子の製造はすると主張しているのである。

(略)

すなわち、それは、「こね粉の衣を用いてハムをパイの形に仕上げたもの」であり、これはとりもなおさず、「こね粉の衣をまとわせてハムをパイの姿に変身させたもの」を意味するというのである。

[だが裁判官らは、この製品の製造を、「隠蔽工作をほどこした」詐欺行為と結論付けた]

むきだしにしようと、衣をかぶせて変装させようと、詐欺行為は詐欺行為だというわけである。

この判決にパティシエらは真っ向から反発し、長大な「弁駁書」を提出した。(略)

普通の肉とハムを一緒に刻んだら味が落ちる、むしろ、ペースト状にした普通の肉をパイ皮に塗り、その上に薄切りにしたハムを乗せ、これを何層にも重ねたほうが風味のよいパイができると主張している。

(略)

いや、ハムは製造の段階ですでにさまざまな材料が混ぜ込んであり調味もほどこされているのだから、それ以上別の材料を混ぜ込む余地はないのではないか、という者もいれば、別途調理しておいたハムをパイ皮で「補助的に」覆ったほうがずっと風味のよい製品ができると、言い張る者もいる。そんなにあれこれ手を加えたら、健康に害のある食べ物を消費者に提供することになるのではないか、と危惧する者もあった。

弁駁書には、かくの如き異論反論がとりとめもなく綴られているのみで、結論らしきものはなんら示されていなかった。このため、これに目を通した人々は一様に、パティシエがこの窮状から脱するすべを見失っていることを悟ったのである。(略)

[結局、パティシエ側が敗訴]

金持ちのメクラが使用人を妻にしたけれどこれが悪妻で訴訟にという話はまあそんなものなので放置で、金持ちの子供がメクラだったらどうしていたのかという興味で

私は5歳のおりに失明いたしました。両親は、パリのポワソニエ街で、下着用品を手広く商っておりました。幼い頃から私を可愛がり、大切に庇護してくれておりましただけに、失明という災難が私にふりかかったときの両親の驚愕は一方ならぬものでありましたが、14歳のとき、私を〈カンズ=ヴァン盲人修道会〉に入れるための手続きをとってくれました。それまでパリ市庁に委託してあった私名義の定期金を同修道院に提供することにより、私はこの修道会における終身会員の資格を認定されたのであります。また、家族は私に複数の楽器の演奏法を学ばせ、暗記力を育み、商売の仕方を懇切丁寧に指導してくれました。おかげで私は触っただけで布地の種類が識別できるだけでなく、値段までわかるようになりましたし、布地をたたむこともオーヌ尺で計ることも製品の裁断や縫製も、まるで指先に目がついているように、できるようになったのであります。

28歳になったとき、家の者は私を結婚させようと考え、当時住み込みで働いていたブェルセ嬢に目をつけました。二親もなければ当面の財産もなく、将来相続する見込みの財産もない娘でしたが、商才があり、なかなか働き者のように見えましたので、嫁にしてもよいだろうと判断したのです。

座頭ランジェリー

いかに盲目とはいえ、私は役立たずではありませんでした。(略)反物をたたんだり広げたり、製品を裁断したり縫製したりするうえで、どの程度私が役に立つたかといぶかる向きもおありかと思いますが、私の器用さはつとに知れ渡っており、パリ中の人々が仕事ぶりを見に店に訪れ、感嘆の声をあげたほどでした。一般にこのような類の好奇心が枯渇することはありませんから、来客はあとをたたず、私どもの商売にも少なからず役立ちました。

妻は目が見えるけれど財産がなく、私は見えないけれど財産があり、彼女を経営者として一本立ちさせた。つまるところ、私どもは「破れ鍋に閉じ蓋」だったわけであります。

新参店子が部屋で薪割り、騒音、鉈で天井は傷だらけ、さらには室内でフェンシング、退去勧告に逆ギレ居座りで裁判とかいろいろ。

2006-05-28

[]TakurokuLoop TakurokuLoopを含むブックマーク

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槍投なタイトルからもわかるように定番ShureSM57を購入して初の宅録に挑戦したデモというかなんというか。いやあ思っていたよりはキレイに録とれるんだなあ(当社比)。マイクコードを入れても一万弱なんだからサッサと買えばよかった。

ステンレス・ボウル、茶碗、コイン、電車、スプーン、そして愛猫。ウチのはあまり鳴かないので、エサをあげると見せかけて、おあずけ状態にして鳴かせてみました。それにしても室内で電車の音がとれてしまう住環境って、ドウヨ。いなたいギターはアイパッチのアコーディオン奏者スティーヴ・ジョーダンのCDから。

ちょっと考えてしまうのはギターをループさせて生活音をちりばめるとそれなりに風情が出ちゃうというか、苦労してちまちまプログラムしたものより、30分で手軽に作ったものの方が一般性がありそうというのはどないなものだろう。それで気持ちよければいいじゃないと、言っていいのか。ちょっと整理。

1.例えばブリッジ入れたりそれなりに抜き差しして展開つけるというのは能力やセンスが要る事なんだろうけど、横着な人間からすると、アイディアとしては一分もあれば充分な気がして、なんだかんだでヤリクリして六分の曲を作ることに意味はあるのか、というのは一分の曲しか作る能力のない人間の疑問。

2.だらーっと流しておく音楽なら風情があれば構造がバカみたいに単純だろうが風情があればいいわけで、「うわあ、こんな単純なつくりでいいのか」という制作者側の疑問なんか関係ないわけで、いや作ってる方だってまあ言うたらこのギターのループがだらーっと気持ちいいわけでただそれだけなので別にそれでいいんですけど、なんとなく合点がいかないわけで、わけで。

しかし生活音で創作欲が湧いてくると当然自然音も録りたくなってきますなあ。

2006-05-24

[]「DemoApr04」公開 「DemoApr04」公開を含むブックマーク

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新しいReasonネタでベンドしまくってお手軽に一丁上りと思って油断したら、パッタリ続きを作る気力が失せたというか、ドラムがどうにもならなくて放棄。そうこうしている間にこういう音に興味がなくなって完全に放棄。その放棄デモをアップする気力もわかなくてさらに放置。

何かつくりたいという気持ちはあるのだが、制作方式がきまらないので、どうにもならない。この間ビタミン剤のプラ瓶をシャカシャカやってたらグルーヴィーだったので宅録突入かなあと思っているのだが、マイクとか買わなくちゃいけなくて、いっそのこと近所のスタジオに行くか。スタジオで薬瓶を振る怪しい男。

そんなわけで不遇感一直線でありまして、誰も聴いてないわけだ、ああいうゴミみたいなのに金を払うヤツラがいて、オレのはそのゴミ以下なわけで、なんだよちっとも面白くないフォーマット拡小再生産のくせしてデカイ面してやがるよあんなものはゴミですよ全然脳味噌活性化しねえよ。

2006-05-23 「坂の上の雲」と日本人・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


「坂の上の雲」と日本人

作者: 関川夏央

出版社/メーカー: 文藝春秋

発売日: 2006/03/31

近代日本最初の海外派兵は

小規模ではありますけれども明治7年の台湾出兵です。台湾南部に漂着した琉球漁民54名が台湾の高山族に殺害された事件の報復として企図された行動でした。

しかし事件は明治4年11月のことです。それがなぜ明治7年5月の出兵となったのか。

この年2月、佐賀の乱が起きました。(略)佐賀の乱の処理を行ない、江藤新平を刑死させたのは大久保利通ですが、彼が台湾出兵に踏み切ったのはそのガス技きのためでした。(略)

この台湾出兵は、若く未熟な日本政府に多くの教訓を与えました。ひとつは対外交渉のありかたです。幕末以来の受動的なものではなく、能動的な交渉の過程で「世界」を実感したわけです。そうすることによって国民国家の条件である南方国境の確定を行ない得ました。日本には台湾に対する領土的野心はなかったのです。問題は琉球の帰属でした。清国は、琉球島民への賠償を日本政府に対して行なうことで、琉球が日本領であることを正式に認定したことになります。大久保外交の大きな成果でした。

もうひとつは軍についての教訓です。外征軍には自前の船が必要だし、自前の輸送船を守るには自前の海軍が必要だという当たり前の、しかし重要な発見がありました。さらに士族軍の統制のなさと意外な弱さもこの戦役で露呈しました。国民軍の完成は、国境の画定、教育制度の整備とともに国民国家たるに不可欠の条件であることが痛感されました。近代軍での一個連隊分くらいの規模の小さな外征にすぎぬ台湾出兵こそ日本軍の出発点でした。

「坂の上の雲」による乃木希典&伊地知幸介参謀長無能説への福田恆存「乃木将軍と放順攻略戦」からの反論

福田恆存は、放順要塞の守備のありようと要塞そのものの堅固さは、攻撃側には最初まったく不明だった(略)構造は偵察のしようがない、強襲と「肉弾」によって実態を知る以外に方法はなかっただろう、と書いています。つまり第一回総攻撃自体が大規模な流血の代償を払った威力偵察になってしまった、そうならざるを得なかったということです。誰がやってもそうなったはずのことを、乃木・伊地知の「無能」に帰するのは酷だ、戦後に完成した精密な図面をにらみながら当時の作戦批評を行なうのは「後知恵」にすぎず、アンフェアでもあるだろうというのです。

(略)

[旅順を訪れた]三十歳の福田恆存は、東鶏冠山北堡塁のベトンの強靭な防御力と、半身を隠す余地さえない爾霊山北斜面と西斜面の急峻さに衝撃を受けます。白玉山の陳列館では、ロシア軍将校の豪華な毛皮の外套と対照的な、日本軍の肋骨服の「貧寒」さに驚きます。これは誰が指揮しても難攻であったのだという思いと、明治日本の貧しさが若い福田恆存の胸を痛く刺しました。

そもそも旅順要塞は難攻不落だからパスという大勢だったのが

ところが開戦後、事情はかわります。旅順港内にロシア太平洋艦隊を封鎖し、のちにこれをあぶり出して撃破するという米西戦争におけるサンティアゴ・デ・クーバ方式が、二月の閉塞作戦、八月の黄海海戦がつづけて失敗に終ったとき、海軍は陸軍に対し、攻囲だけでは不十分、要塞そのものの攻略と陸上からの砲撃による太平洋艦隊撃破をもとめました。(略)

第三軍は、旅順要塞の包囲封じ込めと、北上する第二軍の後方安全確保という当初の使命のうえに、旅順攻略後一刻も早く北部の戦線に参加するという責務が生じたのです。(略)すなわち、旅順攻略戦が「少しく無理押し」となることは第一回総攻撃前から予想されていたわけです。

東北正面に対する総攻撃による打撃があったから二〇三高地が取れたとする福田恆存

先ほどの福島少将の発言といい、この返電といい、満州軍司令部の方がむしろ東北正面主攻にこだわっていたといわざるを得ませんし、「大本営も総司令部も皆迷っていたのである。少くとも確たる自信は無かったのだ」という福田恆存の見立ての妥当性が増します。大本営や総司令部に自信があるなら、「東北正面を捨てて、全力を挙げて二〇三高地を攻撃すべし」と命令を下せばよかったのです。

投石されたのは乃木だけではない

旅順戦さなか、乃木の留守宅、赤坂新坂の家が投石されました。乃木司令部への怨嗟の声が東京市中に聞かれました。乃木では駄目だというのです。

しかしこんなこともありました。

開戦直後からその年の八月まで、ウラジオ艦隊の三隻の装甲巡洋艦「リューリック」「ロシア」「グロモボイ」は日本沿岸でしきりに通商破壊を行ない、一度は東京湾内までうかがったのです。日本人は深刻な恐怖を味わい、「制海権」という言葉の意味を実感しました。(略)このとき、上村彦之丞と藤井較一の留守宅がやはり投石を受けたのです。翌年五月二十七日の日本海海戦での艦隊運用と攻撃を見るまでもなく、上村・藤井が無能であるはずもない。世論とは往々にして身勝手、無責任に高揚するものです。大衆化へ急速に進んだ日本社会ではとくにそうでした。

バルト海からはるばる喜望峰をまわって日本に向かったバルチック艦隊費用

バルチック艦隊の大航海のテーマは、実は戦闘よりも石炭でした。帆船なら逆に自由でしたのに、汽船は巨艦を建造できるかわりにかさばる石炭というハンディを背負っていました。ロジェストウェンスキーが「石炭オブセッション」と思われるほど始終大量に石炭ばかり積ませているように見えるのはそのせいです。

ロシア軍三十万人が満州の野で戦闘する経費は一ヵ月に六百万ポンドから七百万ポンドだそうです。これは「タイムズ」が載せたフランスの経済学者レヴィーの計算です。一ポンドは当時のレートで十円ですから月に六千五百万円、現在の価値では荒っぽくいって六千億円ほどでしょうか。それに較べてバルチック艦隊の派遣費用は法外です。三億二千万円は現在の三兆円と考えてよいでしょう。

なぜ軍は官僚化したか

軍官僚化は、実は一部将校たちの「儒者化」の結果ではないかと、朝鮮研究の古田博司さんが鋭い見解を展開しています。

将校「儒者化」のもともとの発端は、全国巡幸を重ねるうち、地方の民心、とくに子供たちの陶冶がなされていないと痛感した明治天皇が、儒学による児童教育を命じたことに江戸期の生き残りである儒官派が便乗したことだというのです。彼らが、やはり革命後の権力から排除された旧佐暮方と合体して近代教育の場になだれこんだ結果、明治二十年代前半に「人格の陶冶」と「西洋への憧れ」が重層する独特の日本型教養主義の原型が成立しました。

その一部は軍学校の教官となり、爾後日本軍自体の儒者化につとめます。そうして軍刀を抜き放ち、「天勾践をむなしうするなかれ、ときに范蠡なきにしもあらず」などと漢学めいた知識とともに「憂国の至情」をひけらかす将校を、昭和時代に至って生み出したというのです。それは儒者と士族のハイブリッドのような、一種の怪物でした。

吐き気と頭痛にみまわれ投槍に終了。

2006-05-22 「坂の上の雲」と日本人 このエントリーを含むブックマーク


「坂の上の雲」と日本人

作者: 関川夏央

出版社/メーカー: 文藝春秋

発売日: 2006/03/31

学生運動は軽い国家へのとまどい

子規は軽快な人でした。(略)新聞「日本」に入ってから日清戦争が起こりますと彼はしきりに従軍したがり(略)そこにはまったく悲壮感はありません。国難という意識もありません。むしろ無邪気です。国家というものがまだずいぶん軽かったということでしょう。

明治末から「重たく」なりはじめた国家は、昭和戦前に至って耐えがたいほどの重さとなります。官僚組織と化した軍が、司馬遼太郎の言葉を借りれば「日本を占領」したからです。(略)

昭和二十年代の後半からは日本人は比較的楽に食べられるようになりました。そして自由がありました。国家はほとんど調整役の役割を果たすばかりで、ひさびさに軽くなりました。昭和戦後における一時期の明るさの記憶はそこから発しています。司馬遼太郎は戦後という時代が好きでした。彼は戦後民主主義者でした。(略)

しかし1960年代から学生の政治活動が盛んになり、やがてそれは暴力をともないはじめました。司馬遼太郎が『坂の上の雲』に着手した1968年に著しく高揚し、だいたい1972年『坂の上の雲』を擱筆した年まで、激しい波はつづきます。学生たちは自分たちの行動を、「左翼イデオロギー」の直接的表現だといいつのりましたが、司馬遼太郎は、戦後の「軽い国家」へのとまどいのあらわれと見ました。

国家とは重いものだという「イデオロギー」に呪縛された彼らは、逆に現実の国家の軽さに不安を感じている、というのです。

なぜ子規か

このような時代思潮のただなかにあった司馬遼太郎は、国家が軽く、かつ人がそのことに対していっこうに不安を感じずにいられた時代について、またそういう時代をおおらかに生きて死んだ子規のような人について、小説を書きたいという欲望を強く感じたのでしょう。

日清戦争時、完全な共通作戦用語はなかった

陸軍の場合、ご承知のように洋式軍制はフランス風からはじまりました。それが明治十八年でしたか、メッケルを招聘して完全に、ドイツ式に転換します。したがって、ごく初期の仕官学校教育は完全にフランス式で、「マルシェー(進め)」「アレテー(止まれ)」と号令していたのですね。(略)

海軍の場合は文化背景がもう少し複雑で、近代海軍を創設したときの手本はオランダでした。勝海舟、榎本武揚などがそうですね。その後は各国に学び、やがて基本を英国海軍にもとめるようになりました。秋山真之らの場合は新興アメリカ海軍でした。それぞれの将校が自分が学んだ海軍の方法に影響を受け、それぞれが異なった文化背景のもとに考えを展開していると、共通認識が育ちにくいのはあたり前でしょう。

これを日本語の概念で統一しなければならない。

ハワイ王家と姻戚になっていたら

ハワイ、ミッドウェー、サモア、グアム、マニラ、これらを地図上で眺めますと太平洋における艦隊行動には絶対欠かせぬ補給点であることがおわかりになるでしょう。秋山真之在米時代の前半、駐米公使としてワシントンにいた星亨は、「十年遅かった」とハワイのアメリカ併合に地団太を踏みました。先方から打診があったようにハワイ王家と皇室が姻戚となっていれば、太平洋をアメリカの勝手にさせることはなかったという意味です。

西太平洋ではすでにフィリピンを手の内に入れました。このときアメリカ陸軍(といっても義勇兵中心のかなり殺伐たる軍隊)は、米西戦争中は援助した独立派を戦後徹底して弾圧・殺戮しました。西太平洋で、アメリカより遅れて二流から一流への道を歩む日本海軍と衝突するのは、ある意味で歴史的必然でした。

秋山真之が米西戦争で学んだ事

秋山真之が柴五郎とともに1898年6月から7月にかけて観戦したサンティアゴ・デ・クーバ封鎖作戦は、その後日露戦争における旅順封鎖作戦の参考となります。(略)

ひとつは艦砲射撃はあたらないということです。湾内にスペイン艦隊がいるわけですから山越えの射撃となり、効果微弱です。つぎに沈船による湾口閉塞はむずかしいということです。広瀬武夫らが旅順口で実行することになる自沈作戦ですが、自沈場所の選定、船体の角度を想定どおり沈ませるのがたいへんで、うまくいきませんでした。

結局、サンティアゴでは陸上から砲兵を進めて攻撃することがもっとも効果的でした。マラリアの巣である湿地を陸兵が進出しますと、セルベラの艦隊はたまらず湾からの脱出をはかり、アメリカ艦隊に個別撃破されました。(略)

封鎖を戦争終了までつづけられればよいが、そのための艦船と人手がとれないときは陸上からの砲撃にしくはない、というわけです。

健全なナショナリズム

アメリカ滞在時代の秋山真之がその心中に育てたものはナショナリズムです。海外に出て視野を広げ、その結果ナショナリズムを育てる、これが明治三十年代の青年の特徴です。例外は漱石でしょう。といって漱石が反日的になったわけではありません。二十世紀というあたらしい時代のおそろしさを予感したということでしょうか。工業の発展の結果、太陽も黄色くにじんで見える汚れた空気の中を歩くロンドン人たちはみな孤独です。

明治のナショナリズムは健全でした。健全な段階にありました。司馬遼太郎が『坂の上の雲』で、国防と国運のために人が努力を惜しまず、努力は必ずや報われると信じたオプティミズムに彩られた時代、またそういう時代を生き日本の運命と自己の運命をぴたりと重ね合わせ得た青年像、いわば「ある愛国者」をえがき出そうとしたのは、外国のナショナリズムは高く評価するのに、日本のそれは、明治のも昭和戦前のも十把ひとからげに唾棄することが「正義の世論」のごとくであった1960年代後半以来の時代相そのものに、強い疑念を抱いたためだと思われます。

『ひとびとの跫音』

子規死後の人々の輪、普通の人々の普通の物語を書いた小説、小説ともいいにくい小説が『ひとびとの跫音』です。とても不思議な感触の小説で、同時に傑作です。よく司馬遼太郎の作品は高みから俯瞰しているだけだという批判がありましたが、この小説はそのような批判を退けます。俯瞰していない、地べたからの眺めであるということではありません。やっぱり俯瞰しているのです。しかし部屋の天井くらいの高さからです。そうして見られている人々は無名の人ばかりで、司馬遼太郎自身もそのひとりであるわけです。

この小説では、そのような無名の群像の働きによって、ある時代精神を静かにえがきます。小説ともエッセーとも実録ともつかぬ方法は、『坂の上の雲』の市井の人版ともいえます。(略)文学の態度と方法において司馬遼太郎とは対照的な立場の藤沢周平が、『ひとびとの跫音』に感銘を受けたと告白するのも、よくわかる気がします。

注目すべきは、この物語の真の主人公が正岡子規だということです。むろん子規は一度も出てきません。とうに彼は死んでいます。なのに小説全体に子規の気配があります。その気配のもとで「ひとびと」は日常を営み、静かに死んでゆくのです。

前作(id:kingfish:20060327)同様、これも編集部若手にレクチャーしたものを土台にしているせいか、正直同時進行連載の有吉佐和子や向田邦子ネタの方が関川夏央空間を堪能できる、とテンション下がる事を書いて、明日につづく。

2006-05-18 権力の日本人 橋本治 このエントリーを含むブックマーク

話は難しくないのだが「保元の乱」で遠い目になっている人間には錯綜する朝廷相関図だけでもメンドーなのに、更に藤原氏や平氏や源氏が絡んで複雑ゆえ途中放棄して適当に。


権力の日本人 双調平家物語 I (双調平家物語ノート (1))

作者: 橋本治

出版社/メーカー: 講談社

発売日: 2006/03/30

清盛は悪人だったのか。

「保元の乱から武者の世は始まった」という言われ方をすると、うっかりこう考えてしまう---「王朝貴族の下で力を蓄えて来た武士は、保元の乱を契機として、政治の主導権を握るようになった」などと。もちろん、そんなことはない。保元の乱では確かになにかが変わったのだが、それは、「武士が政治の主導権を取る」というような単純なものではない。(略)

つまり、保元の乱が登場してしまう最大の意味は、「それ以前の王朝社会は厄介な管理社会だった」ということを、あぶり出してしまうことなのである。

更に言えば、1185年の壇ノ浦での平氏の滅亡から、鎌倉幕府の成立まで、七年の時間がかかっている。だから昔の私は、「なんだって鎌倉幕府の成立は、平家滅亡のすぐ後じゃないんだろう?」と悩んでいた。

我々はうっかり、栄華の極限を達成した平清盛に関して、「清盛はなにかをしたからそれが可能になった」と思っているが、しかし実際のところ、そんな保証はどこにもないのである。(略)「武者の世」だから、「武者が自分で栄達をもぎ取る」なんてことが可能だと思われるかもしれないが、その「武者の世」はまだ王朝型管理社会の枠組の中にあって、この時代は、そんなことを可能にはしないのである。(略)別の言い方をすれば、「武者」であるような人間には、「策謀を企図しうる余地」がないのである。

では「武者の世」の中心人物は誰なのか

保元の乱から鎌倉幕府の成立までの「武者の世」の中心軸となるのは、後白河法皇である。鎌倉幕府の成立が平家滅亡の七年後で、義経の死の三年後になるのは、頼朝の征夷大将軍就任を許さなかった後白河法皇が、存命だったからである。法皇が死んで、やっと頼朝は征夷大将軍になれる。つまり、鎌倉幕府の成立時期は頼朝の意志と関係がないのである。後白河法皇は、頼朝を自分のコントロール出来る範囲に置いておきたいと思い、それをはずれた「鎌倉の将軍」であることを認めなかった。だから、後白河法皇の死によって、鎌倉時代は始まり、平安時代は終わる。

保元の乱がややこしいのは「戦闘の意味を理解しない者達を当事者とする戦い」だったから。

保元の乱には、京で警備専門の古い武者と、地方で実戦を積んでいた新しい武者がいた。負けを覚悟で上皇側に召集されたサラリーマン為義

まず第一に、為義は戦闘に参加したくないのである。警備一筋で六十を過ぎて、息子達も一人前になっている中で、「なんで今更そんなことをしなくちゃいけないのか」という意図がもろ見えである。「今合戦をやらせたら、義朝が一番強い」ということが、為義には見えている。「そんな息子相手に、なんで戦わなければならないのか」である。そして、義朝が朝廷方に付いている以上、これと対しても勝ち目はない。だから、「私は行きたくないし、上皇にも勝ち目はないから、やめたらどうですか?」と、戦闘回避をいたって遠回しに言っていることになる。

「兵力を有していながら、戦闘の意味を理解していない」---このわけの分からない問題は、どうやって解くのか?

一番簡単な答は、「兵力を有する者が、戦闘というものを、自分とは関係ない他人事と考えていた」である。「軍隊の出動」を必要とする暴動や反乱が起こるのは、部の外であり遠い地方なのだから、部の中枢を離れない政府の上層部には関係がない。「関係がない」と思えるからこそ、正規の軍隊は存在しない。それは、誰かに「行ってこい、平らげてこい」と言うだけですんでしまうようなもので、誰かを行かせたら、もう行政府の方では関係ない。(略)

清和源氏のりーダーである為義の哀れさには、「一向に昇進出来ない下級官僚の悲劇」と、「位置付けを曖昧にしたまま存在させられている武者の悲劇」という、二つの側面があるのである。

この二つの側面を一つにしてしまうとどうなるか? 「いくら能力主義を言われても、そもそも。”能力”に関する規定が曖昧だから、なにをやっても空回りしてしまう現代日本の原型」というものになる。源為義は、そういう社会にいたのである。

案の定敗れ、崇徳上皇を守って脱出する為義だが

崇徳上皇は[逃げるのは]疲れて「いやだ」と言う。(略)更に、「お前が一緒にいると追手に狙われるからいやだ」と、とんでもないことを仰せになる。『保元物語』はなんにも言わないが、私なんかは、「俺はなんのためにここにいるんだ! 俺の任務はなんなんだ!」と、為義に言わせてやりたい。「護衛」を命じられて、それを果している人間に、「護衛」の任務を命じた側は、「お前がいることが、護衛に反する危険行為だ」と言うのである。

死刑復活

「罪」を問われる立場になった王朝貴族にとって、「出家して出頭する」は、罪を免れるための常套手段だから、これをした為義は、紛う方なき「王朝貴族の一人」で、それが「官僚」であることから離れられない「都の武者」なのである。別に為義は、臆病者ではない。

出家した父にすがられて、義朝はこれを受け入れる。自分は勝者の側で戦功もあるのだから、実の父を助けることくらい出来るはず―そうは思うのだがしかし、保元の乱の戦後処理を一手に引き受ける信西は、これを許さない。「戦闘の意味」を知っていた信西は、自分の知ることを、もっと有効に活用しようとするからである。つまり、「戦争はこわいんだぞ」ということを強調するために、敗れた側の武者達を片っ端から処刑してしまうのである。かくして、藤原薬子の乱から346年ぶりに、平安の都に死刑は復活するのである。

見捨てられた安徳天皇

源氏に追われて平家は西に逃げる---その時に安徳天皇を連れて行く。平氏にとって、安徳天皇は栄華をシンボライズするものではあるけれど、安徳天皇を平氏に連れ去られて、あきれたことに、都では大パニックにならない。安徳天皇は平気で見捨てられ、後白河法皇は、安徳天皇の異母弟である後鳥羽天皇をさっさと即位させてしまう。「安徳天皇の奪取」が考えられもしないでいるのは、実のところ、とんでもない大変化だったのである。(略)後白河法皇は、既に「自力で権力者として存在する」という方法をマスターしていたから、「后」とか「后から生まれた皇子」とかいうものに、全然頓着しなかったのである。

摂関家は、その優位性の基盤だった「后を出す家=天皇の生母を出す家」というあり方を放棄したような結果になり、新しく「后を出す家」になった閑院流は、「后を出しても別にどうってことない」という事態に直面し、王朝という時代を終わらせてしまう用意を整える---ということになると、日本の王朝時代の全盛期というのは、「女」によって成り立っていたというわけで、だからこそ、「男」が誕生する院政の時代になると、崩壊の危機を迎えてしまうのである。

2006-05-17 アメリカ文化史入門 このエントリーを含むブックマーク


アメリカ文化史入門―植民地時代から現代まで

作者: 亀井俊介

出版社/メーカー: 昭和堂

発売日: 2006/04

植民地時代に蔵書数第二位を誇ったウィリアム・バードの秘密の日記

1709年10月6日「6時起床,朝の祈り,朝食にミルク。それからウィリアムズバーグに出かける,万事良好。議会に赴き,掃除のため部屋に若い娘をよぶ。そこで,彼女にキスをしたり,彼女を触ったりした。神よ,お赦しください。(中略)。今日は健康だったが邪心を抱いてしまった。神よ,お赦しください」

1709年11月2日「(前略)。パレット博士を妻といっしょに訪問する。チズウェル夫人と義姉のカスティス,そのほかご婦人方も来ていた(夜)11時ごろまで話したあと,一同寝室にひきあげる。私はチズウェル夫人と---で戯れ,ベッドでキスをするが彼女は怒り出す。妻も穏やかではなくなり,みながいなくなると泣き喚めき始めた。祈るべきだったのに祈りを捧げるのを忘れた。ひとの女房に欲情した罪の許しを乞うべきだったのに。」

1710年2月26日「(前略)。牡馬が牝馬に3回またがるのを見物(中略)妻は馬の性交などという不潔な場面を見物しに出かけた我々におかんむり。

エロ階級格差の危機

むしろポルノグラフィはヴィクトリア時代のイギリスで大いに発達していた。ヴィクトリア朝の性道徳の特質は、必ずしも禁欲にあるのではなく、むしろ本音と建前の使い分け、その二重性と偽善性にあるのだろう。(略)

ポルノグラフィといえども,文字で書かれている以上,読書をすることができる者にのみ許される娯楽である。ポルノグラフィがミドル・クラスの中で流布したのは当然のことといえよう。(略)

だが19世紀後半になると,労働者階級の識字率が飛躍的に増してくる。(略)そこで,文化の階級化と,階級の純血性の保持が進められることになる。アッパー・ミドル・クラスが密かに培ってきた性文化がより広い層に漏洩するのを恐れる一方,労働者階級の「低俗な」文化にアッパー・ミドル・クラスが侵食されるのを防ごうとして,躍起になる人びとが現れたのである。

悪徳撲滅委員会

その時流に乗り,一躍猥褻文書追放運動の先頭に立ったのが,アンソニー・コムストックである。

猥褻文書や自由恋愛,産児制限や人工妊娠中絶,さらには賭け事までを取り締まり,青少年を悪魔の手から守ることを神から与えられた自分の使命と信じていたコムストックは,ニューヨークのYMCAから支援を受けて,悪徳撲滅委員会なるものを結成した。(略)40年ほどのあいだに,彼は3600人もの人びとを逮捕に追いつめたという。(略)

この時代に猥褻物扱いを受けたのは,必ずしもヌード画や性交をほのめかす文章ばかりではなく,産児制限法を説いた医学書や,人工妊娠中絶に関する情報を載せた書物も取締りの対象になった。

コムストック法

コムストックの名を歴史に残すことになったのは,何といっても1873年のいわゆる「コムストック法」の成立である。正式には「反道徳的な使用目的を持つ猥褻文学と文書の取引と流通の禁止法」といって,猥褻な物件をそれと知りながら郵便によって流通させることを禁止する法律だった。とはいえ,何をもって猥褻とするかはこの法で決して定義されることはなかった。(略)[コムストックは]罰則をより強化し,また取り締まりの範囲も広げた。猥褻な書物,図画のほか,避妊や堕胎のために使われる用具や論文,またその種のものの広告や情報を郵便禁制品に指定(略)

全米の猥褻物件を取り締まるのに,すべての州議会に働きかけて法規制を強化するのは困難なことなので,連邦の郵便法に狙いを定め,流通回路を断ったのは賢明だった。この法の制定以降,郵政省は実質上の検閲機関となり、コムストックは郵政省の特別執行官に任命された。

なぜコムストック法は違憲ではなかったか

合衆国憲法の修正第1条では,表現の自由と出版の自由が認められているのだから,コムストック法は違憲ではないかと思われるかもしれない。だが1877年の連邦最高裁判決では,ある種の出版物の郵便を禁止することは出版の自由の侵害にはならないとされた。郵便以外の方法で配布することもできる,という含みである。

アメリア・ブルマーがハーレムパンツから生み出した活動的スタイルが日本ではエロネタかあ。

フェミニストたちが好んで着たので(略)町でブルマー服を着て歩けば卵をぶつけられたりした。フェミニストにとっては、ブルマー服は解放のシンボルであったが、男性の多くの人にとっては、男性の権利や地位を脅かすものの象徴に見えたのである。

避妊情報本

1830年代に書かれたロバート・デール・オーエンの『道徳的な哲学』やチャールズ・ノールトンの『哲学の果実』といった避妊情報を扱った本は,2万から3万部売れ,中流以上の家庭によく読まれた。胎児が動くまで中絶は罪ではないと考える人が多かったが,19世紀後半になると,男性産科医の要請によって,中絶に対する法的規制がきびしくなった。また1873年[コムストック法]ができると,避妊情報が猥褻物に含まれていたので、公に避妊情報を伝えることは非合法となった。

ここ最近の蛇ローテ。

ジョー・パスのギターはどうでもよくてと書くと怒られそうだが、実際ホーンのほんわり感がたまらなくてリピート、ああほんとうにたまらない。痛む内蔵がなごみます。

2006-05-15 江戸の英吉利熱 このエントリーを含むブックマーク


江戸の英吉利熱 (講談社選書メチエ)

作者: スクリーチ・タイモン,村山和裕

出版社/メーカー: 講談社

発売日: 2006/01/11

西欧には流行がなかった

しかし、布類の輸出は日本では思ったほど順調に進まなかったが、それには理由があった。まずは、流行(ファッション)の問題である。流行という概念そのものがヨーロッパではまだまだ一般的ではなかったし、昨年は売れたものが今年は売れないという現象にイギリス人は思いきり面喰ったのである。

そのうえ、日本人特有の色彩の好みがあった。コックスによれば、日本人が着るのは黒、赤、それに「悲しげな青(sad blue)」であり、初期に輸入した鮮やかな色彩は人気がないとしている。

偽日本王子

1703年、ロンドンでは10歳代の若い日本の王子の到来という事件が起きる。台湾でイエズス会に誘拐されて逃れてきたというのである。もちろんこれはでっち上げだが、しばらくはスキャンダルを巻き起こして当時の有名人となっている。が、その人物はジョージ・サルマナザールという中近東出身者であることが後に暴かれる。彼は1763年まで生きている。

武器の絵まで禁止

戦国期が終結して平和が訪れ、徳川幕府がその地位を確立するようになると、鎧などの贈り物交換は度を越して問題視されるようになる。外国人が関わるものは特にそうであった。江戸時代の終わりまで、刀や鎧は大名や武士のあいだでは交換がつづいたが、ヨーロッパ人はこの習慣から排除されはじめる。ヨーロッパ人が武具を購入、輸出することは違法となるのである。

1621年にコックスも、「今となっては鎧、刀、鎌、長刀、火薬や銃弾を輸出するのは違法となった」と記している。(略)

輸出禁止令の対象が、鉄砲から「日本のいかなる武具」にまで拡大される。(略)

そのうえなんと武器の絵までもが輸出禁止になっている。ル・メールも「町や城、人、特に武器類を持った人が描かれた漆器や屏風などの輸出は死刑に値する罪とされた」とつづけている。

こうしてヨーロッパ人も武具を日本に持ち込むのを止める。つまり、正式な商品として日本に持ち込まれることはなくなるのである。オランダ東インド会社高官は、特権として出島で剣をつけることを許されるが、これも式典などの特別な場合に限られた。日本に持ち込まれた剣は船から降ろされる際にその数が数えられ、同数が持ち帰られなければならなかった。一つたりとも日本で売却や贈与が認められなかったのである。

ヴィーナスはエロティカで、春画はポルノ

こうしてセーリスは日本にエロティカを輸出するきっかけを作ったのだ。しかも売れた[完売]。地理的にも非常に遠く、まったく違った文化でのはじめてのマーケティングが成功した(略)

セーリスのヴィーナスや、日本に輸入された絵は淫らに表現されていたかもしれないが、厳密にいえば神々や女神たちを表現したエロティカであってポルノグラフィーとは言えないから許される、という理屈なのだ。そうなると、枕絵は許されるわけにはいかない。これを知ってか、あるいは秘かな楽しみだったのか、ポルノファンのセーリスも日本での枕絵購入をまったく記録していない。

だが、彼がプリマスに到著した時、トランクの中には大量の枕絵がしまい込まれていた。(略)

まず、「キャプテン・セーリスが淫猥な書物や絵を本国に持ち帰り、これを見せて回っているという非難や噂」があり、これに会社側は気づいている。会社の役員は「これは会社に重大なスキャンダルをもたらし、会社の真面目な気風にそぐわない。よって許すわけにはいかない」と憤慨している。(略)

セーリスはこれらの品物を会社側に渡し、職を失うことを免れる。(略)

[春画は公に焼却処分]

歓楽都市・大坂

出島では西洋人の行動は制限されているし、江戸滞在中は公務に追われる。京では都細工の注文や名所めぐりなどで忙しい。だが大坂だけは違う、ちょっと特別である。大坂は、観劇をしたり気ままに酒を飲んだり、公務の緊張から解き放たれて愉快に楽しむことができる街なのだ。

スウェーデン医師ツンベルグは大坂をパリに例えた

その町は日本国中で最も愉快な場所である。ヨーロッパにパリがあるように、日本に大坂があるといった風だ。大坂は絶えることのない歓楽の空間である。

2006-05-13 「長いお別れ」翻訳検証 このエントリーを含むブックマーク

県立の方は前から置いていたのだが、とうとう私立図書館にも洋書が。あまり読書欲がわかないし、来春予定の村上春樹翻訳『ロング・グッドバイ』に備えて、清水俊二訳を検証してみることに。当然英語は読めないので翻訳対照で読破。


長いお別れ (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 7-1))

作者: レイモンド・チャンドラー,清水俊二

出版社/メーカー: 早川書房

発売日: 1976/04


The Long Goodbye (Vintage Crime/Black Lizard)

作者: Raymond Chandler

出版社/メーカー: Vintage Crime/Black Lizard

発売日: 1988/08/12

翻訳のページ数は手元にあるハヤカワ文庫のもの。

[脱落]p14:泥酔のレノックスとマーロウが乗り込んだタクシー運転手がサンフランシスコを評した文「〜あんなに人情のない街はないからね」の後の

「The hell with them minority groups.」が訳されていない。

[誤訳]p15:私たちは、うまいハンバーガーを食わせるドライヴ・インへ行った。

We went to a drive-in where they made hamburgers that didn't taste like something the dog wouldn't eat.

素人にはマズイが「犬のエサにはなる」程度の味のように思えるのだが。

英辞郎によれば「taste like shit〈話・卑〉ひどい味だ、げろまずだ、くそまずい」だから、その逆は「うまい」って発想なのか。

[省略?]p23:私のオフィス

my down-at-heels brain emporium.

英辞郎では「down-at-heel【形】 かかとのすり減った、みすぼらしい」

[脱落]p23:三月の雨の夕方、再度訪ねてきたテリー・レノックスの描写から

「〜しかつめらしく、おちついていた。」と「かきのように白いレインコート〜」の間の以下英文が省略。

He looked like a guy who had learned to roll with a punch.

[微妙]p39:シルヴィアが酔いつぶれているのを見つけるのか

Sylvia dead drunk,paralyzed,spifflicated,iced to the eyebrows

シルヴィアが死んでいること知っていて逃亡幇助するのはマズイので泥酔していた前提で二人が会話している箇所だが、原文の方はマーロウが言外で「死んでいたんだろう」と語ろうとしている。「秘すれば花」の日本人感覚からすると翻訳のあっさり感の方がハードボイルドかもしれない。

[省略]p47:レノックスを送って帰ってきたマーロウを待ち構えていた二人組み刑事の描写「おさだまりの面倒くさそうなものごし」の後に

as if the world was waiting hushed and silent for them to tell it what to do.

[誤訳]p48:警察学校の犯人えらび出し訓練で養成された眼つきだった。

They get them at the passing-out parade at the police school.

珍訳じゃないだろうか。英辞郎では「passing-out parade 卒業パレード」

[誤訳?]大学出だと思ってなめんなよとインテリ刑事がマーロウを殴りつけた場面。

p53:「なかなかみごとだった。だが、この男はそのくらいのことじゃまいらないぜ」

という相方刑事のセリフ、これだとタフなマーロウに暴力は効かないというニュアンスになるけど、原文は

"Smart work,Billy boy.You gave the man exactly what he wanted.Clam juice."

挑発にのって殴った軽率なエリート刑事を「黙秘する口実を与えただけじゃないか」と叩き上げ刑事がたしなめているのじゃなかろうか。

[省略]p54:「グリーンは立ち上がって、憐れむように私を見た。デイトンは動かなかった。」の後の原文

He was a one-shot tough guy.He had to have time out to pat his back.

自分の過ちに気付き、さらに「奴のボールペンをへし折ってやる」というマーロウの剣幕にしょげかえってるエリート刑事をからかった描写が脱落

[脱落]p77:「〜勝手にしゃべるか」と「しゃべる気はない〜」の間の原文脱落

"I was talking to the birds,"I said."Just to hear the breeze blow.

[ニュアンス]p95:金をうんともうけてる。金をもうけるにはいろんな奴を買収しなければならない。買収するには金がいる。だから、もうけなければならねえってわけだ。

I got to make lots of dough to juice the guys I got to juice in order to make lots of dough to juice the guys I got to juice.

ハルキならもう少し面白く訳せそうな気が。

他にも脱落はあったけど、まあそれらはありなカンジだったのでこちらも省略してみました。

でもまだ80ページ。いつになったら終わるのか。

2006-05-09 『至上の愛』の真実 このエントリーを含むブックマーク

パスしかけたがRVGやらクリード・テイラー話で借りる。主に時代状況について引用。


ジョン・コルトレーン『至上の愛』の真実

作者: アシュリーカーン,川嶋文丸

出版社/メーカー: 音楽之友社

発売日: 2006/02/01

1950年代初期反トラスト規制により映画スタジオとメジャー放送網から切り離されたパラマント劇場チェーンとアメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー(ABC)が合併したABCパラマウントはレコード業界にも進出。

1959年、ABCは大きな賭けにでた。レイ・チャールズに破格の前渡金と常識はずれの契約条件を提示したのだ。対等のパートナーとしての契約であり、すべてのレコーディングに関してアーティスト側に原盤権を認めるという内容だった。(略)賭けは成功した。チャールズは立て続けにベストセラー・シングルやアルバムを放ち、ABCの投資を何倍にもして返し、他の有望なプロジェクトに投下する資金を確保させた。

ニッチな企画アルバムで地道に実績をつくっていたクリード・テイラー

わたしはよく、パラマウントのビルから通りを渡ったところにあるレコード店に行き、レコードになっていない音楽ジャンルについて考えていた。たとえば東洋音楽だ。その店には東洋音楽のレコードがなかった。そこでわたしは『オリエンタル・ガーデン』というハイ・ファイのレコードを作った。とてもよく売れたよ。

『ケニー・ドーハム&ザ・ジャズ・プロフェッツ』は

「当時としてはよく売れたよ。一万枚ほどかな」と、テイラーは誇らしげに語る。

ランバート・ヘンドリックス&ロスも大ヒット。ついに1959年ABCはジャズ専門レーベルを設立。レイ・チャールズの『ジニアス+ソウル=ジャズ』は数ヶ月で15万枚売れた。

ABC営業部で働いていたグレシャン・モンカー三世

ある日、キャノンボールとナット(アダレイ)が[契約しに]会社にやってきた。(略)彼らはデスクに向かって座っているわたしを見つけ、黒人がオフィスで仕事をしているのを見て驚いていた。キャノンボールはとても感動した面持ちで「やあ兄弟、会えて嬉しいよ」と言っていた。

ジョシュア・レッドマンの分析

そのころのマイルスのグループは、とても意識的な演奏をしているように聴こえる。ビートを細分化する方法、ひとつのリズム感覚をもうひとつのリズム感覚に重ねるやり方がはっきり分かるんだ。いっぽうコルトレーンのグループは、リズム感覚を重ねるやり方が自由で混沌としている。とても流動的だし自然発生的なので、表面には浮かび上がってこないんだ。

ルディ・ヴァン・ゲルダーのスケジュール

その手帳によると、1964年の終りには、仕事がひっきりなしに入っていたことが分かる。

「1964年12月7日の週はとても忙しかった」とヴァン・ゲルダーは語る。「月曜日から金曜日まで、毎日二つのセッションをレコーディングしていた」。たしかにそのとおりで、彼のスケジュール帳を覗くと、月曜日の午前中はクリード・テイラーがスタジオをおさえており、火曜日と木曜日はヴォックス・レーベルのクラシック・アルバムのマスクリングが予定され、金曜日の夜にはブルーノートのレコーディングで、のちに『フューシャ・スウィング・ソング』として発売されるサム・リヴァースのセッションが入っていた。

その週のうちほぼ半分はインパルスによっておさえられており、月曜日と火曜日の午後は、マッコイ・タイナーのセッションが入っていた。これは『プレイズ・デューク・エリントン』として発売されることになる(略)続く水曜日と木曜日の夜は、ボブ・シールとコルトレーンのために予約されていた。ヴァン・ゲルダーの手帳には、暗号のような走り書きで、”BT””Trane”と記入されている。

タイナーは述懐する。「あのレコーディング・セッションでは、いつもと違ったことがあった---ルディが灯りを落としたんだ。ライトは点いてはいたけど暗かった。彼はたぶん雰囲気を出そうとしたんだろう。でも彼がそんなことをやったのは初めてだった」

「ああ、スタジオの灯りを暗くしたのはわたしだ」とヴァン・ゲルダーは認め、次のように付け加える。「雰囲気を少し変えるために、セッションでは、しばしばやってたんだ。いまでもときどきやってるよ」。彼がそれを始めたのはハッケンサックのスタジオで録音しているときだった。1954年、マイルス・デイヴィスの<ブルー・ヘイズ>のレコーディングのとき、深夜の雰囲気を出すためにやったことが彼の記憶に残っている。(略)

[『ラッシュ・ライフ』では]スタジオの灯りを全部消した---ミキシング・ルームもスタジオのなかも含めて、文字どおり全部だ。真っ暗な中から聴こえてくるのはジョー・ヘンダーソンの演奏だけだった。わたしはそれが〈ラッシュ・ライフ〉という曲に相応しいと思った。それがわたしなりの雰囲気作りのやり方なんだ。

技術的質問に対してヴァン・ゲルダーの口が堅いのは

どんな音を録るときでも、これさえあればオーケーというようなマイクはない。たまたまセットした装備によって、それがわたしの技術のすべてだと受け取られたくないんだ。

当時の会社販促状況

意気盛んなABCは、年頭にあたってビルボード誌にレーベルの躍進を伝える見開き二ページの広告を打った。ボーリングをイメージしたデザインの広告で、「最高のアルバム群がみなさんのレーンの向こうに並んでいます」というキャッチコピーが書かれていた。広告に掲載されたLPのなかでも、特に目立つ位置に置かれていたのは、『レイ・チャールズ・ライヴ』、インプレッションズの『ピープル・ゲット・レディ』、フランク・フォンテインの『アイム・カウンティング・オン・ユー』、『シンディグ』(ABCテレビのショウ番組『シンディグ』の音楽を収録したアルバム)、そして---初めてジャケットが一般公開された『至上の愛』だった。

何はさておき、急速な拡大の波に乗ってチャンスに賭けろ式の考え方が社内を押し包んでおり、『至上の愛』もその気運に後押しされることになる。ビートルズの大ブレイクやそれに続く”ブリティッシュ・インヴェイジョン”ヘの対抗のためもあり、レーベルの責任者に任命されて間もないラリー・ニュートンは、一月の第一週、ティーン向け音楽専門の傍系レーベル、アプト・レコードを再開した。

衝撃的ではなかった

「当時のニューヨークでは、『至上の愛』は、単なるひとつのアルバムにすぎなかった。なるほど、次はどんなものになるんだろう、という雰囲気だった」と語るのは、サックス奏者のデイヴ・リーブマンだ。「一般には発売されてから少し後になって大きく広まったけど、ミュージシャンのあいだではそれほど話題にはならなかったと思う。『アセンション』で巻き起こしたほどの大反響ではなかったよ。『アセンション』は本当に衝撃的だった」

黒人には闘争音楽だったが

アーチー・シェップによれば、アルバムが発売されたタイミングは黒人の抵抗運動が激しさを増した時期と重なっていた。「『至上の愛』が発売されたとき、人々はもうキャノンボールの〈マーシー・マーシー〉は歌っていなかった。人々はアラバマ州セルマで行進していた。マルコムXが寺院で説教していた」黒人たちのアメリカにとって、執拗に迫る情動的なサウンドの波に乗って神に訴えかけるこのアルバムは、あまりにも時代にマッチしていた。マルコムXは二月二十一日に暗殺された。黒人大衆の逮捕と暴動が続いたあと、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは二万五千人を率いて、セルマから州都まで五十マイルに及ぶ”アラバマの行進”を行なった。「それがこの音楽から聴こえるものなんだ」とアミリ・バラカはコルトレーンについて語る。「敵対する勢力に対する闘争が聴こえる。だが同時に、いまあるもの、これからなるであろうものを超自然的に抱擁しているのが、彼の音楽のなかに聴こえるはずだ」

白人はスピリチュアルにラリっていた

サックス奏者デイヴィッド・マレイ(略)によると、コルトレーンは「ヒッピーを中心とするあらゆる”フラワー・チルドレン”の心に触れた。彼らはほかのジャズ・アルバムを何も知らないだろう。でも『至上の愛』だけは知っていた」。マッギンと同様、マレイもコルトレーンのメッセージの口当たりのよさに注目する。「(略)彼はあらゆる宗数的なものを純粋にスピリチュアルな感性のなかに取り込んでいた。彼がヒッピーたちに受け入れられたのはそこだったんだ。素晴らしい時代だったよ」

ヒッピーのメッカとなる一年前、サンフランシスコのヘイト・アシュベリーで流れていた音楽

あれは、春の夜、ヘイト・ストリートを歩いているとよく聴こえてきたレコードだった。街を歩いていると、誰かが(ボブ・ディラン)の『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』をかけている。誰かが(マイルス・デイヴィスの)『スケッチ・オブ・スペイン』をかけている。そんな街じゅうで流れていたレコードのひとつが『至上の愛』だった。みんな家の窓から聴こえてきた。

カルロス・サンタナ

傑作だったのは、わたしをジョン・コルトレーンに向かわせてくれたのがポン引きだったってことさ。(略)そいつは素晴らしいレコードをたくさん持っていた---ハウリン・ウルフにマディ・ウォーターズにオラトゥンジ---だけどなぜか『至上の愛』ばかりかけていた。そして別の部屋に行って電話をかけ、女に連絡していた。わたしはまだハイスクールに通っていたけど、そこでマリファナを喫いながら『至上の愛』を聴いていた。音楽の二面性に気がついたのはそのころのことだ---暴力的でありながら同時に平和的でもあるということにね。

『アセンション』以降の急速な客離れ

1966年に頻繁にマンハッタンを訪れ、コルトレーンを追いかけていたデイヴィッド・S・ウェアは、目に見えるかたちであれ、見えないかたちであれ、ビートの消失が、コルトレーンのライヴに空席が目立つようになった理由だとする。「安定したしたビートをキープするかぎり、どんなにアヴァンギャルドになってもかわない。だけどコルトレーンはそれを崩してしまい、多くのファンが離れていった。彼は別の世界に入り込み、多角的なリズムを用いて混乱したサウンドを創り出してしまった。