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2006-06-28 エルヴィス・イン・エルサレム・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


エルヴィス・イン・エルサレム―ポスト・シオニズムとイスラエルのアメリカ化

作者: トムセゲフ,Tom Segev,脇浜義明

出版社/メーカー: 柘植書房新社

発売日: 2004/03

イスラエル軍のアメリカ化

アメリカからイスラエルに武器が流れ出したのは、1960年代半ばであった。(略)それ以前は、イスラエル国防軍は戦闘機など重要な軍装備品をフランスから得ていた。(略)

独立戦争時代、主としてソ連の影響下で活躍したイシューブの先鋭部隊パルマハや、イスラエル国防軍の前身で、イギリス軍の伝統を導入したハガナの時代が終わり、新時代に入ったことを明瞭に示すものであった。アメリカの科学者と慈善事業団体はイスラエルの核武装化も援助した。

べへいれん(」゜ロ゜)」

アメリカ社会のベトナム反戦運動は、イスラエル社会では、1967年に征服した領土の占領反対運動として開花した。アメリカの公民権運動は、イスラエルでは、イスラム圈出身のユダヤ人スファラディー[オリエント系ユダヤ人]ヘの差別反対運動となった。スファラディーの中には、アメリカの黒人運動を真似て、「ブラック・パンサー」を組織した若者もいた。1970年代に「ピース・ナウ」という平和団体を組織したのは、アメリカ生まれのイスラエル人やアメリカ留学の経験がある若者たちであった。イスラエルの若者たちは、アメリカの反戦運動を真似て、パレスチナとの和平運動を作った。

アメリカで成人したネタニヤフの首相就任は

アメリカヘ移住したイスラエル人に対する態度の根本的変化をも象徴するものであった。かつてラビンはアメリカヘ逃げたイスラエル人を「意気地なしのクズ」と罵ったものだ。年月を経た今、身内に海外移住者、たいていはアメリカヘの移住者がいないような家族はほとんどない。1980年代のテレビ局は、アメリカヘ海外電話をかけるコマーシャルを流すようになっていた。これは、数年前だったら、考えられないことだった。海外移住者を抱える家族は、それを恥じるべきという雰囲気があった

湾岸戦争はイスラエル人にとってまったく個人的な体験だった。

人々は目張りで封じた部屋の中に閉じこもった。それは隣人との隔離を意味した。部屋の中で防毒マスクをつけた。それは家族との隔離を意味した。そういう状態で、アメリカ化の一つであるCNNニュースをじっと見つめていた。イラクのミサイルが今、この瞬間にここへ着弾するのではないだろうかと緊張しながら。(略)

疎開は社会問題となった。もっと勇気をもって愛国者らしく行動せよと非難の声をあげたイスラエル人がいたのだ。しかし、この湾岸戦争でイラクのスカッド・ミサイルを逃れ疎開したテルアビブのエリート市民の行動が前例となって、後にレバノンとの国境付近の町キルヤト・シュモナがヒズボラの砲撃の的となったとき、人々の脱出が正当化されたのである。以前は、キルヤト・シュモナの住民は、防空壕に入ってパレスチナ人のロケット砲攻撃にじっと耐えたものだった。政治家もメディアも住民の苦労に同情を表明し、その勇気を誉めたものだった。しかし、1990年代になると、シーア派イスラム教徒の民兵組織ヒズボラの攻撃に対し、町の住民の多くは荷物をたたんで南へ逃げた。しかも、誰もヒズボラを非難しようとしなかった。

建国時、「宗教的強制」は非宗教化を意味した

イシューブのシオニスト準政府が西の壁を買収したのも、それを宗教的聖地から民族的シンボルヘ転化するためだった。エホバの神殿を見下ろすスコパス山にヘブライ大学を建設したのも、新生ユダヤ人共和国では、宗教的慣行よりも世俗的知識の研究・学習の方が重要だということを示すためだった。また、宗教人に世俗的民族主義意識を植えつける試みも行った。(略)

現在のイスラエルでは、「宗教的強制」というと、超正統派が世俗的一般国民に宗教戒律を強制することを意味するが、建国当時はまるで逆の構図で、世俗国家が超正統派信者に信仰や宗教的良心に相反する生活を強制することを意味する言葉だった。信者たちは、我が子が非宗教学校へ行かされるのではないか、女たちが徴兵に取られるのではないか、ユダヤ人と非ユダヤ人の結婚が認められるようになるのではないかと日夜心配した。

イスラエルは国民皆兵制であるが、建国時の合意で超正統派の宗教学校生徒は暗黙に徴兵を免除された。1980、90年代に信者数が増加し兵役免除者は毎年数千人になり一般国民から抗議の声があがり、兵役免除は成文化された。

建国後すぐに、国家の世俗化をめぐって紛争がはじまった。1950年代、60年代には、世俗派対宗教派の対立が、内戦にまで発展するのではないかと思われる場面が何度もあった。(略)

マパイ(労働党)のデボラハ・ネツルは世俗的教育を擁護して、「教育こそがわれわれの宗教で、われわれはそれを信ずる」と言った。両派の対立が激しくて、新生イスラエル国の憲法草案を作ることすらできない状態だった。国は超正統派の宗教学校に手出しできなかったが、新しく流入してくる移民の子弟の教育には力を入れた。

ホロコースト

イスラエル初期の時代、ホロコーストは一種のタブーであった。ホロコースト生存者は何があったかを子どもに話そうとはしなかったし、子どもの方もあえて聞こうとはしなかった。いわば、大いなる沈黙の時期であった。人々はホロコースト生存者を恐れた。彼らを通常の生活---家庭、職場、バスの中、映画館の行列、海岸でのレクリエーションなどの日常生活へ、どのように溶け込ましたらいいのか分からなかった。彼らは別世界からの来客であった。しかも、死ぬまで別世界の亡霊に呪縛されていた。社会はそういう彼らを変えようとした。「彼らに祖国愛、労働の尊さ、人倫の崇高さを教え込まなければならない」とある政治家は言った。「彼らに基本的なヒューマニズム観念を与えるべきだ」と別な政治家が言った。要するに、ホロコースト生存者を「再教育」しなければならないというのである。

生存者vsイスラエル

多くの人たちはユダヤ人の惨めな弱さを恥じていた。中には、シオニスト運動が彼らを救えなかったことを恥じた人もいた。もっと何かできたはずだと自分を責める人もいた。また、戦争が起きる前にパレスチナヘ移住して来なかったから、そんな目に遭ったのだとヨーロッパ・ユダヤ人を責める人もいた。人々は、どうして生き残れたのだと生存者に何度も質問した。その「どうして」は、「方法」のことでなく、「なぜ」を暗に意味していた。何かよくないことをしたかのような、当てこすりを含んだ質問だった。

(略)

ホロコースト生存者の方も、そこかしこでイスラエル人を非難した。あなた方は私たちを助けるために全力を尽くしたわけじゃない。いや、私たちを励ますこともしなかった、と。超正統派宗教コミュニティは、ヨーロッパ・ユダヤ人の「見殺し」こそ、シオニズムが邪悪な運動であることの証拠だと主張した。こういう軋轢があったから、人々はホロコーストのことを語るのを避けるようになったのだった。アドルフ・アイヒマンの裁判がイスラエルで行われるまでは、なるべくホロコーストに触れないようにする傾向が支配的だった。

アイヒマンに癒されて、内面化(・_・;)

アイヒマン裁判の効果は予期しないところに現れた。それはイスラエル人全体に対する集団セラピーとなった。イスラエル人はホロコースト生存者の存在を恥ずかしいと思い、彼らに対して優越感を抱いていたのだが、裁判を通してホロコーストのことを知るにつれ、それから脱却していった。犠牲者の悲劇を自分の悲劇と感じるようになり、彼らの歴史と生活の一部を、自分の歴史と生活の一部として内面化していった。(略)

イスラエル人が自分とホロコースト犠牲者とを結びつける認識は、時とともに強くなっていった。1967年、六日間戦争前夜、イスラエル人たちは、アラブによるイスラエル人「エクスターミネイト」(駆除)の危機が差し迫っているという言い方をしていた。

ホロコーストが出会いの場( ̄0 ̄)

アメリカ・ユダヤ人の場合、もっと前からホロコーストが中核的なユダヤ人アイデンティティとして確立していた。彼らは平等な権利を有するアメリカ国民として、脱宗教化、世俗化していたので、ホロコーストはユダヤ人アイデンティティとして重要な役割を担っている。かくして、ホロコーストはイスラエル・ユダヤ人とアメリカ・ユダヤ人の出会いの場となったのである。文字どおり出会いの場であった。一年おきにアウシュヴィッツで開催される生者の行進では、両国の何千人ものユダヤ人ティーンエイジャーが出会うのだ。(略)

1990年代になると、ホロコースト授業は個々の人物、例えばヤーヌーシュ・コルチェックやアンネ・フランクなどに焦点を当てて行なうことという指針書が、教育省によって全教師に配られた。単なる数字、何百万人の犠牲者といった数字だけでは、強い感情を喚起しないと教育省の「ホロコーストに関する教師用指針」に解説されている。このように民族全体に代わって個人の悲劇を強調すること自体、新シオニスト・イスラエルがアメリカから輸入した個人主義の影響であろう。

アラブが話し合いに応じなかったというのが公式真実だったが

1949年シリアのフスニ・ザァイム大統領がベン・グリオンに話し合いを申し入れた、というより、ほとんど嘆願に近い形で求めていたことが、公文書開示で明らかになった。ザァイムは平和協定を求め、協定を締結すれば、パレスチナ難民30万人から35万人を、自国定往者としてシリアが受け入れると提案した。ベン・グリオンはザァイムとの会見を拒否した。彼の日記によれば、見返りとしてシリアは「ガリラヤ湖の半分」の領有を求めたとある。ザァイムはその後しばらくして暗殺された。

たとえアラブ諸国と合意できても、パレスチナ難民は災いとなると忠告されて

ベン・グリオンは、難民問題は自然に解決すると高を括っていた。近隣アラブ諸国に吸収されたり、自らの運命に慣れて諦めていったり、老齢や病気で死んで数が減っていくだろうと軽く考えていた。ペン・グリオンは自民族の故国復帰願望に一生を捧げたくせに、故国復帰願望がパレスチナ人にとっても民族アイデンティティとなり、故国を奪ったイスラエルに対する憎しみを培養することになるのを理解しなかった。

2006-06-27 エルヴィス・イン・エルサレム このエントリーを含むブックマーク


エルヴィス・イン・エルサレム―ポスト・シオニズムとイスラエルのアメリカ化

作者: トムセゲフ,Tom Segev,脇浜義明

出版社/メーカー: 柘植書房新社

発売日: 2004/03

イスラエルの神話

そもそも、イスラエル初期には歴史学なんてなかったからだ。あったのは神話とイデオロギー、そしてそれを叩き込む教化。1980年代初期に解禁された政府関係文書閲覧を許可されたニュー・ヒストリアンたちは、読みながら何度も仰天して頭を抱え込んでしまった。これは学校で教えていることとまったく違うではないか! 彼らはそのことを声に出して言った。すると、たちまち猛然と非難された。お前らはなぜ神話を破壊するのだ、誰がそんな権利をお前らに与えた? たしかに神話を必要とする人々はいるだろう---それはそれでいたし方がないことだ。しかし、神話を研究してはいかん、それは売国奴のすることだという非難なのである。愛国者と称する人たちが非難するのである---この人たちは愛国者と非愛国者をいつも容易に区別できるようだ。

反英闘争

イスラエルの集団的記憶は反英闘争を強調しがちで、イギリスはパレスチナへのユダヤ人移民や土地買収を制限した、イギリスは親アラブ・反ユダヤ的だった、それゆえわれわれは抵抗のために闘ったと言う。ユダヤ人による対英テロは「解放闘争」として美化されて語り継がれている。

しかし、広い歴史的視野で見ると、まるで異なった物語となる。

候補地はアルゼンチン。ヘブライ語は不要。

ヘルツルは、「イスラエルの地」がユダヤ人にとって古代から伝えられる譲歩できない歴史的郷土であることを認識していたが、イスラエル国を絶対にそこに作るべきだとは考えてなかったようだ。シオニズム思想を売り込み、ユダヤ人の心を捉える手段として、「イスラエルの地」への望郷の念を使ったと思われる。彼個人としては、南米アルゼンチンを具体的候補地と考えていた。(略)

彼の世界観からすれば、「イスラエルの地」は戦争までして手に入れる価値はないとはっきり言ってよかったはずだ。アルゼンチンの方がもっと容易にことが運んだだろう。それに彼はキリスト教世界がシオニズム思想に反感をもっていることも知っていて、エルサレムをユダヤ人国家の領土の中に入れるべきでないと考えたほどだ。さらに、ヘブライ語を国語とすることにもあまり乗り気ではなかった。(略)イスラエルではそれぞれ自分が生まれたところの言葉を喋ればよかった。スイスがそのモデルだった。彼の頭の中にあったイスラエル像は、あちこちから来たユダヤ人移民の国であった。

(略)

パレスチナに入植した建国の父たちは、ヘルツルが説いたシオニズムとは大きく異なった地方版シオニズムを育んだ。両者の最大の相違は、ヘルツルがシオニズムを世界のユダヤ人問題解決の手段としたのに対し、イスラエル・シオニズムは、ある時点から、国家樹立を独立した自己目的としたことだ。

ヘルツルを攻撃したのはユダヤ人だった

イスラエルが誕生するまで、ほとんどのユダヤ人はシオニストでなかった。(略)

最初の敵はユダヤ教の超正統派だった。(略)政治の力でユダヤ人をエグザイル(異郷生活)から抜け出させようとすることは、「歴史の終わりを人為的に促進する」ことになるというのが神学上のシオニズム批判議論であった。換言すると、神と神が使わすメシアによる真の救済に代えて、シオニズムは人工的替え玉を用意しているという批判である。(略)その攻撃の激しさは、当時としては、キリスト教に改宗したユダヤ人に向けられた非難に匹敵する激しさだった。(略)

ユダヤ人はできるだけ目立たないようにして、受身の姿勢で、静かにメシアの到来を待てと説いたのである。これは単なる宗教的教えを超えて、どこへ行っても差別、迫害、追放される運命を背負った弱小宗教共同体を守るための、是非もない対策でもあった。そういう考えを抱いていたラビたちの目には、シオニズムは居住国への反乱であり、民族的扇動だと映ったのである。シオニズム支持者も反対者も含めた全ユダヤ人を危機に追い込むものと恐れたのである。

せっかく居住国にとけこんでうまくやっていこうとしてるのにユダヤ人単一民族説なんてマジ勘弁、だいたいユダヤ人の国ができたら、そっちへ行けよと今の国から追い出されてしまうじゃないですかというノリだった。

イスラエル移住者のほとんどが不承不承やって来たという事実は変わらない。移住して来たものの、過去の異郷生活と断絶することができなかった人は多くいた。1905年から10年の間に起きた移民の波、第ニアリヤーでやって来たユダヤ人のうち、九割までが結局イスラエルを出てしまった。(略)

まだ誰もポスト・シオニズムなんて口にしていないずっと昔、20年代、30年代、50年代、60年代に、多くのイスラエル人が国を出たのである。どこかの教授が書いたポスト・シオニズムの本を読んで国を出たのではない。イスラエルが住み難いから出たのである。しかし、こうして国を出た人たちの中には、新しい居住国でも継続して、自分がイスラエル人でシオニストだと思い続ける人たちもいた。

我らはイギリスがインドで行ったことを中東で行う。

シオニズム運動はヨーロッパからインスピレーションを得て、ヨーロッパで生まれた、まさにヨーロッパの歴史の一部である。それがもつ浪漫主義的民族主義、リベラリズム、社会主義等すべてヨーロッパの産物である。シオニズム運動の創始者たちは運動に文化的使命をもたせた。テオドール・ヘルツルは、「イスラエルの地」のユダヤ人国家がアジアに対する防波堤として、ヨーロッパを益すると書き、「われわれは野蛮に対する文化的前衛として機能する」と。(略)

ヨーロッパでユダヤ人が大量虐殺される前には、シオニズム運動はアラブ世界のユダヤ人にほとんど関心をもっていなかった。

オリエント系ユダヤ人

ホロコーストのため、やむなくアラブ世界のユダヤ人も「イスラエルの地」へ入れざるをえなかった。このことはヨーロッパ的自画像や文化的自負にとって打撃であった。指導者はオリエント系ユダヤ人をイスラエル人にすることに乗り気ではなかったが、当てにしていたヨーロッパ・ユダヤ人がホロコーストのため大減少してしまったので、やむをえない措置だった。「イスラエルは労働者と兵士が必要だ」と最初の政府閣僚の一人が言った。(略)

イスラエルか、それとも他の国へかという選択をできた者は皆無といってよい。全部が、シオニストがパレスチナで紛争を起こしたため、自国に住めなくなったのだ。ユダヤ教徒であるため、周囲からお前もシオニストだろうと見られるようになったからだ。シオニズムの歴史上、これはシオニズムがユダヤ人問題を解決するどころか、ユダヤ人コミュニティを根絶する元凶として作用した事例として記録されてよい。

アメリカ・ユダヤ人の反発に対応してディアスポラ

建国初期、ベン・グリオンは、自らをアメリカでエグザイル生活をしているのでなく、アメリカ人であると思うユダヤ人はシオニストではないという見解をとっていた。ゴルダ・メイヤー首相も「荷物をまとめてイスラエルヘ移住して来た者だけがシオニストだ」と言った。(略)この排他的発想がアメリカで反発を招いたのである。イスラエルはアメリカ在住ユダヤ人の援助が絶対必要だったから、妥協せざるをえなかった。(略)

長期にわたる論争の結果、全エグザイル・ユダヤ人をイスラエルに移住させるという従来の目標と主張を、しぶしぶながら破棄した。代わって、「エグザイル・ユダヤ人の団結」を目標として決定した。やがて、「エグザイル」という用語の使用も辞め、もっとニュートラルな「ディアスポラ」を使いはしめた。

微妙な分量だが明日につづく。

2006-06-26 シンス・イエスタデイ・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


シンス・イエスタデイ―1930年代・アメリカ (筑摩叢書)

作者: フレデリック・ルイスアレン,藤久ミネ

出版社/メーカー: 筑摩書房

発売日: 1990/11

刈上げニューウェイブw

1920年代の女性ファッションが短いスカートや、衣服の重さと煩わしさを大幅に減らすことや、ずん胴でぺちゃんこの胸や、ダッチ・ボブ型の断髪か少年のような刈上げなどを好んだとすれば、それは確かに女性たちが成熟した女性美という拘束と重荷にうんざりして、未熟さがもつ自由と楽しさを望んでいたことを暗示している。(略)

もしショーウインドのマネキン人形や百貨店の広告に描かれた着飾った女たちが、冷たく、無表情で、厭世的な表情をしていたとすれば、それもまた1920年代の女性の理想をあらわすものだ。まだ少女だが、肉体が成熟する前に、体験的にはすでに大人になっていて、もはや動揺したり、何かに熱中したりする可能性はとっくになくなっているような娘なのである。

そして1930年代はボディコンw

平べったい体型も、やはり廃れていた。1933年4月号の『ヴォーグ』誌は、「この春の流行は”曲線”!」と書きたてた。この年には豊満な曲線美も露わなメイ・ウエストが、『私は悪女じゃない』で映画館を満員にした。(略)フォームフィット・ブラジャーも、胸のふくらみが二つくっきりと目立つ若い女性の写真をのせて新製品を図解し、「若々しい、はっきりとした胸の線をつくります!」と謳って気を惹こうとした。1920年代には扁平な胸の小娘だった女性たちも、成熟を目指し、豊かな胸を誇るようになっていた。(略)

1930年代初期の新タイプは、けだるい感じの顔ではなく、機敏な風貌で、小生意気に鼻を上向かせ、快活で知的な表情をしていた。

インサイダー情報、新株発行、持株会社

上院の銀行通貨委員会は、追及の手をゆるめない法律顧問フェルディナンド・ペコラに助けられて、1933年のあいだずっと断続的に、ワシントンの委員会室で前代未聞の特別ショーを聞いていた。それは、アメリカ金融界に対する時期おくれの検屍審問のようなものだった。(略)

ウォール街の相場師は、会社内部の人間と共謀して、市場の株価を操作していた。小さな投機業者や一般の投資家を犠牲にして(略)巨大な利益を得ていたかがわかる。彼らは、投機マニヤを助成していた。そしてこれこそが、アメリカの経済システムを苦しめたのであった。(略)有力な銀行家は、高圧的な売り方で軽率な人びとに株や証券を投げ売りし、彼らはその利益のために奉仕しているのだといいながら(略)株主を犠牲にして、自身の銀行の証券を何百万となく売買していたのである。また、新株の発行は、内部の者に豊かな実りをもたらすように仕組まれていた。こうしたうま味を味わう機会が、政治的勢力をもつ紳士方にどうのように提供されていたか、がわかったのである。金融力の現代的機関ともいうべき持株会社が、いかに設立の発起人に濫用されていたか。(略)その構造が非常に複雑になったために、無節操な人間によっていかに簡単に横領されたことか。そしてたいへん不安定であるために、いかに多くが不況時代につぶれてしまったことか。

軍需産業と中立法

1935年には、1917年のアメリカ人の決断を慨嘆すべき悲劇と表現したウォルター・ミルの『戦争への道』が知識人に影響を与え、ベストセラーになった。さまざまな本や雑誌の記事が、戦争を誘発する際に軍需品メーカーが果した役割をあばき、センセーショナルな関心を集めていた。同じころ、上院のナイ委員会が、1915年以来、アメリカの武器製造業者が得た途方もない利益を明らかにし、軍需品商人が海外で得た大量の取引を摘発した。

(略)

こうしたきわめて孤立主義的な心理状態のなかで、1935年、人びとは中立法の議会通過を歓迎した。この法律は、いつ、いかなる場所で戦争が起きようとも、アメリカ国民は交戦国のいずれにも武器を売ってはならないということを定めたものである。中立法はこのとき直ちに、イタリア・エチオピア紛争に適用された。

ちなみにこの本が出版されたのは1939年

まもなく、日本が中国に進攻したさいにも、政府はあれやこれやと方針をぐらつかせた。初めは在留アメリカ人すべてに引揚げをよびかけ、残る者はそれぞれ自分の責任で残るようにと通達した。が、やがて中国在留アメリカ人を擁護するよう提唱するようになり、結局のところ、中立法はまったく適用されないことになった。彼らは法の抜け穴を使って、こうした政策をとることができたのだ。1937年、中立法はまた改訂承認されて、軍需品輸送の禁止命令は、宣戦布告がおこなわれた場合か、大統領が戦争状態にあることを″認めた”場合にのみ有効であることが規定されている。日本軍は全力を挙げて中国を激しく攻撃していたが、日本も、そして中国も、宣戦布告をしていない---だから大統領は、戦争状態であると”認める”ことができなかったのである。

2006-06-25 シンス・イエスタデイ このエントリーを含むブックマーク


シンス・イエスタデイ―1930年代・アメリカ (筑摩叢書)

作者: フレデリック・ルイスアレン,藤久ミネ

出版社/メーカー: 筑摩書房

発売日: 1990/11

1929年。

そして、10月24日木曜日がきた……。木曜日のこの朝、怒濤のように、信じられないほどの売り株が殺到した。そのなかのどれほどの株がカラ売りだったかは、統計記録の合計がないのでわからないが、明らかに量はそう多くない。(略)売り株の大部分は確実に強制された売りであった。市場は信用貸しによって、蜂の巣のように穴だらけになっており、相場の下落のために利ザヤを失った株相場師が自動的に売りつくしたことで、あのみごとに組立てられた株式組織は、いまや株価構造を崩壊させるための組織と化していた。

”景気はそこの街角まで来ている”

1929年から30年にかけての冬のあいだに、株式市場は急速に独力で回復しはじめた。やがて、かつてのビジネス・ゲームがまた続行することになった。少なくとも資金の半分は無傷だった共同資金操作グループが、ふたたび株を動かそうとしていた。大小の投機業者たちは彼らがひっかかったのは、景気循環の下降現象にすぎず、″底″はすでに終わって、繁栄という名の楽隊車がまた動きはじめていると考えて、損害の埋め合わせにとりかかっていた。株価ははね上り、出来高は1929年と同じくらい大量になって、いわば小型強気市場とでもいうべき状態が進行していた。(略)

小型強気市場の絶頂期でさえも、街には無料食料の配給を待つ人の列ができていた。(略)四月に、景気指標はふたたび下降に転じ、株式市場も同様に下降した。五月、六月と、市場は情容赦なく暴落した。が、フーヴァーはその顔に凄味のある微笑をはりつけたまま、「われわれは最悪の時期を通過した。努力を続けていくならば、回復は速やかにやってくる」と言明して、秋までに実業界は正常にもどるであろうと予告した---まさに、その秋にこそ、長い、過酷な、胸も潰れるようなアメリカ経済界の下降がもう一度始まったのである。

不況の実感

1932年まで、中西部の代表的小都市”ミドルタウン”の実業家にとって「不況とは、主として、新聞を読んで知る程度のこと」だった---にもかかわらず、1930年には都市の三流以下の工場労働者はいずれも失業の憂き目に会っていた。国全体としては、ほとんどの管理職はまだ無傷のままだったし、配当金も実質上、1929年同様の高額だった。経済界を吹き荒れる嵐の長期継続を予測した者はほとんどいない。高額所得者の多くは、新聞記事としては読んでいても、失業問題の目に見える兆候を感じとってはいなかった。

1931年春、ヨーロッパ経済は麻痺状態に

ふり返ってみると、皮肉なことに、経済麻痺をこれほどまでに深刻化させたのは、ドイツの一部とオーストリアとをある限られた経済目的のために---関税同盟をつくるために---結合しようと試みたこと〔独墺関税同盟案〕と、そうした企図にたいするフランスの猛反対であった。ドイツとオーストリアが結合され、強化されそうになると、何事にもフランスの激しい非難が浴びせられる。フランスはそのころ、中央ヨーロッパが破産の危機に瀕しているということをほとんど認識していなかった。

フーヴァー・モラトリアム

そのころアメリカ人はヨーロッパ財政がいかに危機的逼迫をつげているかということに、ほとんど気がついていなかったが、1931年の5月6日、駐独アメリカ大使はホワイトハウスでフーヴァー大統領と夕食を共にしていた。ヨーロッパの経済崩壊が、アメリカに重大な影響を及ぼす結果になることをおそれていた大統領は、この会談の日から胸中ひそかに国際モラトリアム案を練っていた---このモラトリアム案とは、ドイツに課せられた賠償とヨーロッパの連合国がアメリカに支払うべき戦債とを含めて、各国政府の負債金支払を一年間延期するという考えである。

テクノクラシーが突如ブームで、ふかしの山さんもビックリ。

この熱狂に誰よりも面喰らったのは、テクノクラシー思想の当の生みの親ハワード・スコットだった。彼は風変りで傲慢ででたらめなところのある若者で、本人は技術者としてかなりの経歴をもっていると自称していたが、実際のところは、ささやかなペンキと床塗ワックスの販売業を営んでいた。彼は数年のあいだ、グリニッチ・ビレッジのミーティング・プレイスやヴァンス・プレイスその他のもぐり酒場やレストランで、みんなをひきとめては長話をし、奇妙な経済理論を説明してきかせていた。が、これに耳を傾ける聴き手はいなかった。しかし不況が、一般的な経済の正論を敗退させてしまうと、異論もさほど馬鹿げたものではないようにみえてきた。(略)そのうちに『リビング・エイジ』誌がテクノクラシーについての記事を掲載し、そしてやがて、突如として---1932年12月に---新聞紙上にも、雑誌にも、説教にも、ラジオ俳優のギャグのなかにも、街角で交わされる会話にまでこのテクノクラシー理論がとり入れられ、いたるところに知れわたった。(略)

スコットの理論は、ヴェブレンとソディの著作から一部分を発展させたもので、かなり難解な観念を基礎としていた。スコットは次のように論じている。われわれの経済システムにとっては、逡巡したり速度を落したりすることは必要でない。尨大な科学技術的進歩と機械力がもつ大きな可能性は未曾有の繁栄に根拠を与える(以下略)

[ニューディール政策が登場するころには終息]

大規模な銀行恐慌が起ったら、暴動か革命になる恐れがあるんじゃないと言われてエドワード・S・ロビンソン教授は

「あえて予言をすると……銀行が閉鎖されたとき、人びとは救われたと感じるんじゃないですか。国民の休日のような感じになるでしょうね。みんなが興奮し、興味をもつでしょう。旅行を中止する者はいないし、ホテルも休業せず、誰もが、それが一時の楽しみだとまでは言わないにしても、大いにおもしろがるんじゃないですか」

銀行休業は間接的には、新たな操業短縮と一時解雇という新しい災難をもたらし、すでに打撃を受けていた人びとの苦しみをいっそう強めたが、ロビンソソ教授は本質的には正しかったのである。アメリカ人の大多数は、秘密をおおいかくしていた蓋が吹きとばされたような、一種の救いを感じていた。いまや一切が公表されたのだ。彼らは、厄介事は一時的なものだと感じていた。金がないことは、いまや恥ではなくなった---誰もが、金を持っていないように見えた。全員が救命ボートにのっているのだ。そして彼らは、お互いの苦難に対して、親身に応対し合った。食料品店ではツケがきくようになった(他に何ができただろうか)。たいていのホテルは、小切手をありがたく頂戴した。商店はかけ売りを快く引受けた。

(略)

アメリカの預金の10%以上は、3月15日以降もいぜんとして封鎖状態におかれていて、国家の経済機構は部分的にだが、機能を停止していた。しかし全体としてみると、銀行再開は非常な成功だった。信用は急速に回復した。国民は、自分たちを信用して、自分たちに行動また行動という考えを植えつけた大統領に魅了され、説得されていたからである。ニューディールは、こうして輝かしいスタートを切った。

明日につづく。

2006-06-23 ホッブズ その思想体系 このエントリーを含むブックマーク


ホッブズ―その思想体系

作者: J.W.N.ワトキンス,J.W.N. Watkins,田中浩,高野清弘

出版社/メーカー: 未来社

発売日: 1999/06

前ノリティリポートやがなby松本人志

しかしながら、刑罰という問題において、為政者は、「過ぎ去った悪の大きさをみないで、来るべき善の大きさを顧慮」しなければならないとしたら、無実の者を「処罰する」ことも、ときには正しいということになりはしないか。たとえば、とくに重大な犯罪を犯した犯人が発見されないばあい、あるだれかに罪を着せて、厳格な「刑罰」を課し、それを広く人びとに知らせることは、他の人びとが同じような犯罪を犯すことを防止するという見地からすれば、正当なことになりはしないだろうか。

この疑問に対するホッブズの解答は、刑罰という問題は、実際にそれが生じたさいには功利主義的精神にもとづいて〔効果を顧慮して〕答えてしかるべきではあるが、しかし、これはそもそも法の違反について有罪である人間との関連においてしか生じないというものである。「なぜなら、処罰はただ法の違反に対してだけなされるのであり、それゆえ、無実の者に対する処罰はありえないからである」。

死刑執行の権利はどこから。ナント、建前上はタイマン勝負だと。

ホッブズによれば、主権者はどこからもそのような権利を受けとりはしなかった。自然状態において、主権者は、他の人びとと同様に住人を殺す権利を有していた。そして、かれは、他の人びととは異なり、〔コモンウェルス設立ののちにも〕他の人びととは異なり、この権利をそのまま保持しつづけるというわけである。

(略)

したがって主権者と主権者が死刑を宣告した臣民とのあいだの関係は、自然状態における二人の敵対者間の関係に逆戻りする。ただ、〔コモンウェルスが設立された〕いまとなっては、一方がはるかに他方より強力になっている点だけが異なるのである。

2006-06-22 スキャンダルと公共圏 このエントリーを含むブックマーク


スキャンダルと公共圏 (YAMAKAWA LECTURES)

作者: ジョンブルーア,近藤和彦,John Brewer

出版社/メーカー: 山川出版社

発売日: 2006/05

理想主義的な不寛容さのわけ

ラインハルト・コゼレクは公と私の政治的区別は、17世紀の宗教戦争の余波のなかで生じたと論じます。ヨーロッパを引き裂いたこの極めて分裂的な抗争は、新しい国家論を生み出しました。この国家論は、国家から道徳性を取り除き、臣民に外面の服従を要求する国家理性のイデオロギーです。その一方、この新しい理念は臣民に私的空間〔の保持〕を許容しており、その空間のなかで臣民は、自らの信条を奉じ、良心を追求することができたのです。文芸共和国は、まさにこの私的領域から生まれたのです。文芸共和国は、部分性や偏りを超越するために、当初、国家や政治の問題にはふれないようにしていました。しかし最終的に、とくに啓蒙期には、それが批判精神において政治組織や政治家にまさると主張するようになりました。

自らの清廉さを強調するこの主張が、コゼレクの目にはこの種の批判のもっとも危険な面と映りました。なぜなら、この主張が、政治的妥協を退けることを正当化し、当事者の判断を狂わせて、権力願望へと自らをいたらしめたからです。そして、自らの道徳観に対する抑制はまったく認めない、理想主義的な不寛容さを生み出したからです。

公衆はばらばらの断片にくだけ、文化自体が、活発な議論というよりも余暇の娯楽に変わった

19世紀になるにおよんで、批判的に討論する実体としての公衆の結束を裏打ちしていた組織は力をそがれました。公衆は、「自らの理性を公的にではなく用いる少数の専門家と、公然とそして無批判に受け入れる消費者大衆」に分けられたのです。(略)そして政治は、エリートのあいだのかけひきごと、公衆を巧みに操る技法へと転化しました。(略)

したがってコゼレクにとっての暗愚で、説教的で、全体主義的な政治が誕生したときとは、ハーバマスにとっての、理性的言説の市民的政治が短いあいだながらもつくられた時期だったのです。実際ハーバマスは、効果的で批判的な公共圈の形成は、特有の歴史的時期の所産であると論じたいのです。それはおおよそ18世紀の啓蒙期です。

自由と私生活

ハーバマスが強調するように、公共圈において論じられた主要な論題の一つは自由と主観性だったからです。その意味するところは一人の人間として自己を認識することでした。この種の議論はしばしば文学的なかたちをとり、たいていは印刷物を介して表現されました。この点をハーバマスは強調します。この純然たる人間性の感覚は公的につくりあげられたもので、親密圈の表象と公的に合成されたその価値によって支えられていたのです。つまり公共圈は、私生活についての前代未聞の討論と、無類の私生活の暴露を生み出したのです。

文芸共和国ML

もちろん、私的にみせかけて書かれた手紙には、〔本当の〕私信よりも大きな目的がありました。文通が知識を伸ばすもっとも重要な方法の一つであったことはいうまでもありません。文通は文芸共和国における大変重要な装置であって、これによってロンドン王立協会は知識と影響力を拡大したのです。急進主義者は、1790年代に政治変革のための全国運動を組織しようとしたときにも、通信協会を立ち上げました。これら手紙の執筆者の回路は、書簡が印刷されずに終わった場合であってさえ、公的なものでした。書簡は、二つの意味で公と考えられました。まず、手紙は共通の目的に専心する者の集団が読むために書かれていたからです。そしてその目的は公的なものであって、文化あるいは政治にかかわっていたからです。

文芸共和国は文通によって結合していました。

私信ですけど、あまりに素晴らしい意見なのでw

公衆の前に私信を寄せた者は、非常に私的にみえるこれらの手紙に特別な意味を与えます。(略)

手紙は二人の文通者のあいだで「友人間の私的範囲において」送られたとき、「私的な書簡、通信のなかからちらっとあらわれてきた」ときに賞賛されました。そして本来公の目にさらすために書かれたのではないと証明することが重要だったからこそ、手紙にはそれらがどうやって印刷されるようになったかの説明がしばしば与えられるのです。「紳士は、私的友人からこの手紙を受け取られた。しかしその議論にたいそう感銘を受けられたので、全文を出版することを決意された」。

自分でさらす

18世紀ロンドン出版界の商業化した環境において、書籍商は上流階級の私信を宣伝しました。そして決して公にさらされることが目的でなかった私的な書簡を、公衆読者の眼前に並べることについて、良心の呵責をまったく感じませんでした。私に対する侵入。そうであったとすればの話ですが、侵入は貴族のもっとも親密な書簡でさえ、公的重要問題であるという理由によって正当化されたのです。この状況は興味深い反応を生みました。(略)

それは私的文通が刊行物の一分野になる過程でした。プライヴァシーを公にさらすなら、信用ならない他人に任せるよりも、自分でするほうがましだということに気づく過程です。

18世紀商業文化の特色

三つ目の特色は、この文化が社会的表現を強調するとみなされた点です。文化的な場は自己表現の場であり、そこでは、聴衆や観衆が自らの富、地位、社会的そして性的魅力をひけらかしていました。観劇する、競売に参加する、画家のアトリエを訪問する、コンサートを聴くなど、文化の場に人が存在したことのうわべの理由は、しばしば、より強力な社会的義務なるものに根ざした理由にもとると考えられました。観衆は、理由もなく娯楽に興じたのではなかったということです。文化を社会的行動の一部とみなす解釈です。そして、一人ひとりの観点からは、文化に近づくこと、文化の闘技場に参加して自らをみせつけることは、社会的地位を保つもしくは獲得する、そして社会的差異を確立するうえでの大変重要な手段でした。

諸般の事情でいい加減にやってしまったので、暇な時にもう一度ちゃんと読もうかなんてその気もないのに言ったりしてトンズラ。

2006-06-16 ジャズ・ジャイアンツ このエントリーを含むブックマーク


スイング・ジャーナル・アーカイブス

ジャズ・ジャイアンツ 栄光の軌跡

swing journal 2006年5月 臨時増刊号

出版社: スイングジャーナル社 (2006)

当時の誌面をそのまま使っているので当時の空気感が伝わってきます。写真もテンコモリ。字体文体イラストがある意味斬新、広告とかはなかなかに笑撃的。「グヤトーンの電気ギターに、グヤトーンのアンプを!!」「ショルダーアンプ・ユニペット(6石トランジスタ、肩にかけ海でも山でも)」。原信夫暑中見舞い広告。

66年コルトレーン日本公演の感想。泣き笑い。

白木秀雄

(略)しかし、コルトレーンの場合、確かにすばらしいと感じながら、わからないという気持も同居しております。こういう一派はあっていいし、これから主流となるジャズなのでしょうが、既成の音楽観念ではついていけません。すばらしいと感じながら、わからないのが非常に残念に思います。(略)

中山信一郎

(略)一言にしていえば,コルトレーンのジャズは宗教的な儀式である。全体を通して,彼が示した,絶対的な,敬虔な音楽とその演奏スタイルは,ダイヤローグのまったく成立しない,多分,彼の心酔者だけが理解できる芸術ではないのか。何者かへの祈りの音楽ではなかったか。(略)

このコルトレーン音楽は,現代芸術が必然的に通過しなければならない過程である。だから,観念的には正しいにちがいない。このコルトレーンの閉鎖的なジャズは,60年代の世界が空虚であるように,まったく空しい。まさに60年代のあらゆるトップ芸術(むろんぼくは批判したい)がそうである意味において,ぼくは,この音楽を否定する。ぼくにとって,コルトレーンは<裸の王様>であった。

高柳昌行

(略)コルトレーンの音楽に接し私は久し振りに大なる感動を覚え叱咤激励されたが,生演奏における初めての体験である。(略)

ところで多くの人々は「コルトレーンの音楽」を聴いたのだろうか!当世流行の行為だの,確認だの,手段とかの愚にもつかない自問自答をくり返している者に聴く力はない。コルトレーンの大きな名前とその凄絶な音響に圧倒され手も足も「耳」もないダルマになり下っている者や,言葉の遊びにふけるアブノーマルなオカマのような精神の腐ったやからに音楽を語る資格はない。まして,ひからびたままで己れの小さな殼に閉じこもったジャズメンは何を得たのだろうか? いたずらに生くる者らの悲しき魂。

稲垣次郎

(略)ある人は「デタラメと言われても仕方の無い音楽を,やっている」ということを書いたのを見たが,私は反対だ。コルトレーンが今までのパーカーより脱皮して常に前進して,やっと求めるものが見つかったというような気がするし,今の彼らにビートだとかフレーズにこだわる必要は無いと思う。(略)

[と言っておきながら]

全体を通じて私には難しく,エルビンマッコイの時が忘れられなかったことだ。

今のプレイよりデビス,モンクの時のようなプレイを聞いたら,私はきっと死んでいたかも知れない。

筒井康隆の実弟、筒井之隆も読者投稿

(略)その感動はセックス・アピールにも似た純粋に肉体的なもので,芸術的なものではなかった。確かに聴衆を陶酔させる力はあるのだが(略)

彼ははたして我々に聞かせようとしているのだろうか? 満足のいくまで,忘我の境地になるまで吹きならすのは勝手だがそれまで我々に待てというのだろうか・彼の音楽がやっかいなのはそれを避けることが出来ない程我々の意識を繩縛し,ふぬけにしてしまう力を持っていることである。

だから彼の音楽は一種の音の強要である。可能性の追求という目的はそれ自体崇高なものだが,単なる運指法の限界をためすことに終ってほしくないし,また彼のジャズが不安と混乱で始まるのは自由だが,何とかそれを芸術的に昇華してほしいと思う。単なる不安と混乱の再現なら,現実だけでもうたくさんである。(略)

岩浪洋三

コルトレーンを最前列近くで聴いていたが,クライマックスに達すると,彼はよだれをたれ流して吹いていた。それは性行為のクライマックスを想像させるような演奏でもある。(略)

コルトレーンの演奏はジャズにおける即興演奏を究極まで追求した結果をみせてくれるようであり,聴き手もたしかに感動する。しかしコルトレーン自身はどうかしらないが,私は聴き終ってかすかな疲労感を覚え,少々ブルーなムードに襲われる。コルトレーンの演奏にはどう考えても間違っているところはない。ただ1つ言えることは,最近のコルトレーンは何か無理をしているのではないかという気がするのである。(略)

野口久光

(略)ジャズは芸術としてはまだ歴史も浅く若いが,目の前でジャズの視野に誇らしいひろがりをみせてくれるコルトレーンのスリリングな演奏に,昂奮と感動をおぼえないではいられなかった。(略)

1960年の最新NYジャズ情報座談会でのモンク評

高浜 ピアノはあの通りの素晴らしさでしよう。全く独特なんだ。そのピアノだけであとのモンクというのはつまりピアノ弾いていない時のモンクというのはまるでヨダレたらしている感じ(笑)

瀬川 全くそうですネ。悪いけどノータリン見たい。ウスノロかナ(笑)

久保田 こりゃひどい(笑)

瀬川 とにかく大奇人なんでしようがね,これは秋吉さんもいっていましたよ。ピアノだけのかんじ。これは勿論ものすごい。あとは駄目(笑)

そんなモンクが63年来日。

第一印象はまず写真よりもずっといい男だったということである。実に上品でいい顔をしていた。(略)

側近の話によると,モンクがコンサートで消えるなんてのは嘘だそうである。彼はコンサートの場合は遅刻したことさえないという。今まで来たモダン・ジャズメンで定刻通り幕のあいたのは,このモンクだけではないか。モンクの伝説はここで一つ破られたのである。

ステージで踊りまくるモンク。名古屋や京都ではツイスト風にくるくる廻った。

モンクは名古屋にいるときもっとも調子を出していたようである。はなはだ上機嫌となり,協調性に富み,モンクは楽屋でも踊りっぱなしだったという。(略)それが最高潮に達すると,突如一種の興奮状態に入り,モンクは何もわからなくなってしまったのである。そばにいた奥さんはものすごい勢でなだめにかかったが,モンクは興奮状態におち入ったままで我に返らない。ネリーは盛んにlt’s Sundy, you know ?とくり返し,ここは名古屋よ,と一生懸命説明するのだが,モンクはあらぬ方を向いたきり一向醒そうもない。

うーん、水谷良重が

白木秀雄君の家でパーティがあった。奥さんの水谷良重ちゃんは只今「ドドンパ・ダンス」に御熱中。さっそくブレーキー先生にこのニュー・ステップを教えこむ。勿論たちまちブレーキー先生マスターしてしまう。そして踊るわ,踊るわ,もう御自分の踊りに自身熱狂した感じ。

62年三度目の来日にして初めて唄ったシナトラ。しかもそれはチャリティー・ショーにて。では本当の目的は。

シナトラは日本人なら大丈夫と思ったのか,いつものカツラを付けずに,ほとんど自毛のような感じでステージに上がっていたのを覚えている。その後,大人の週刊誌で吉原でのご乱行を知った。当時の日本は他の東南アジアの国々と同じようなステイタスだったから,来日するアーティストは専らそっちのほうの楽しみでツアーを行っていたのである。

時間が経つとシリアスより「ゆるい」インタビューの方が面白かったりするのが、なんとも複雑。日本人と結婚して「僕の奥さんは、僕のことモーガンって呼ぶんだぜ」とノロケまくるリー・モーガン。ウェイン・ショーターも帰国後日系三世アイリーン宮西との結婚を報告。

先月号でこのリー・モーガンの奥さんの写真までスクープした本誌を見て,モーガン君,「ヒェー,一体どこでこの写真手に入れたんだい? おどろいたネー」とよろこんだり感心したり。(略)彼の新作「ヤマ」は大変に評判がいい。たしかに独得の雰囲気があっていい曲だ。そこで聴いて見た。「ヤマってどういう意味なんだネ」「ヤマって君しらないのかい?そりゃマウンテンて事さ」これには一本やられた感じ。彼笑いながらつけたした。「僕の奥さん,山本というんだ。それで僕がワイフの事,ヤマ,ヤマって呼ぶんだよ。ヤマってつまり,奥さんの名前さ」

  • 1970年マイルス御宅訪問。リヴィングにはコルトレーンの写真が一枚だけ飾られていた。
  • 1963年、空港に現われた白いテンガロンの精悍な顔付きのソニー・ロリンズを力道山の対戦相手と勘違いする者も。脱げばモヒカン。ひょっとしてサイボーグ005のモデル?
  • マイルスのボクシング・トレーナーはラリー・ブラックモア(キャメオ)の父親。

2006-06-15 森達也の夜の映画学校 このエントリーを含むブックマーク

正直森達也に関心はなくて、ないなら借りるなという話だけど、ちょうど黒木和雄の『日本の悪霊』を観たとこだったので、ツイ。結論ありきのマイケル・ムーア手法を堕落だと批判している森が、自分のフィールド外で斎藤貴男チックな発言しちゃうのも堕落じゃねえのかと。たしかにマイケル・ムーア手法はアレだとは思うが、ここ(id:kingfish:20041108)に書いたように、映画が評価されても、GMが戻ってこないんじゃ意味ないと考えてしまう、ドキュメントで世間を動かせないなら意味ないよ考えてしまうのなら、ああいうやり方になるのは首尾一貫していると言える。ともかく『ロジャー&ミー』はイイヨと。


森達也の夜の映画学校

作者: 森達也,代島治彦

出版社/メーカー: 現代書館

発売日: 2006/04

黒木和雄との対談。

フィクションはほんとうにないものをまったくでっち上げますけど、ドキュメンタリーはあるものをどうでっち上げるかというね、決定的な違いですね、それは。永遠の違いです。

そう語る黒木に対して、一旦撮影してしまえば、映像素材としては同等で、編集していく過程はフィクションもドキュメンタリーも一緒じゃないのかという森に対し、「いや、まったくちがう」ときっぱり否定する黒木。

でも劇映画も、撮影した瞬間はあるものになってますよね? つまり黒木さんが原田さんに対して演出をしないっていうのは、予測できない原田さんの台詞回しや動きを記録したほうが面白いとの判断ですよね。それは言い換えれば、原田芳雄という個性が、状況に対してどう反応するかを記録したドキュメンタリーでもあるわけです。

とねばる森だが、シナリオのあるなしが大前提と黒木。

シナリオがなくても撮るという是枝裕和さんや諏訪敦彦さんみたいな方が出てきてらっしゃいますけど、それはもうよくわかることで、それはそれでよくわかりますけれども、それはちょっと違うんじゃないかと、危惧しています。

黒木の『海壁』PR映画でありながら後半生態系破壊の文明批判になってるじゃないですかという森に対し

黒木 僕は東京電力の偉業を賛美するために作ったとしか思っておりませんが。森さんにしては過大評価に過ぎる。ちゃんとご覧になってないと思いますね。

森 はい、すみません。……念を押しますが、批評性を込めた作品じゃなかったんですか?

黒木 完全なチンドン屋映画です。

緒方明との対談。1978年、長谷川和彦は自主映画を見まくって、その中で面白かった黒沢清と石井聰亙に助監督にならないかと声をかけた

そうしたら、黒沢清はなりますって返事して『太陽を盗んだ男』のスタッフにつくわけですね。でも、石井聰亙は「俺はあんたとライバルですから、なりません」と言って、自分のプロダクション「ダイナマイトプロ」を作る。長谷川さんが「緒方明を貸してくれ」って言ったときに「貸せません」って師匠は言ったらしいです。「あいつは俺の助監督です」って断った。師匠は生意気ですよね。一方、黒沢さんはプロの仕事だったら何でもやるっていう姿勢で。しかも、黒沢さんがすごかったのは『太陽を盗んだ男』の現場の仕事は弁当運びなんですよ。助監督じゃなくて。もう製作進行の一番下の弁当運びなんだけど、毎晩台本書いていたっていう人なんです。(略)長谷川和彦さんが現場でわけわかんなくなってたから「黒沢、台本書け」と。それで、その時に書いた2人が黒沢清と相米慎二なんですよ。

映画祭に招待され喝采を浴びて、一週間後に弁当運び

僕も『A』でベルリン国際映画祭に招待されたことがあるんだけど、1999年。そのころ、ほとんど仕事がなくて、全然収入がなくて。

[NHKbs-hi地方祭り番組のADの口が]

そこで僕がやった仕事が、ロケ車のケーブルさばきと、ゲストやチーフプロデューサーヘの弁当運びなんです。ギャラはまあまあいいんです。お金のない時代でほんとうに助かった。でもベルリン国際映画祭で観客のスタンディングオベーションを受けて帰国した一週間後に弁当運びやって、NHKのプロデューサーから「弁当、遅いぞバカやろう」とか怒鳴られて「すいません」とか言いながらぺこぺこして、でもいま思い返しても、屈辱とかそんな気分は全然なかったな。そのうち笑い話になるだろうなと思っていた。その意味では、これはこれでいいやと思っていた。

『高校大パニック』日活から共同監督でリメイクの話が来て、仕切れると思い受けた石井聰亙だったがスタジオシステムの厚い壁に挫折

思い上がってたんでね。何でもできるって。自分が撮れば最高だって思ってたんで。結局スタジオシステムがまだありましたもんね。(略)こちらが何もできる状況ではなくて。それでも自分が入ることで少しでもよくなるだろうと思って、がんばったんだけど……。でも、なかなかいい経験でしたね。(略)いじめられました、サンドバッグみたいに。(略)そのときの悔しさが自分には非常にバネになってますが。こんな古いやり方をしているから日本映画はだめなんだって思ってましたから。ただスタジオシステムで培ってきたものがありますから、セットで撮るということとか、大人数のスタッフをどうやって監督にうまく結びつけるかとか、そういうことは自主映画では経験できないことなので、きっちり盗んで自分のものにしてこようっていう気持ちはありましたね。

  • 余談・ネット記事から:小説のような動機だなあ。

井原容疑者は約4年前に転居したが、以前住んでいた自宅の様子が気になって侵入したことがきっかけで、盗みを始めたという。「他人の家の中がどうなっているか興味がわき、自分が持っていないものを盗んで帰るようになった」などと供述しているという。

2006-06-14 少女たちの魔女狩り このエントリーを含むブックマーク

「2005-11-20 セイレムの魔女裁判 」と同じ題材。


少女たちの魔女狩り―マサチューセッツの冤罪事件

作者: マリオン・L・スターキー,市場泰男

出版社/メーカー: 平凡社

発売日: 1994/09

土地所有権喪失の危機と悶々十代娘

セーラム村では1691年から92年にかけての冬に、まだ結婚も婚約もしていないティーンエージャーの娘がたくさんいた。ピューリタンは何につけてもまじめだったから、全く当然にも結婚を非常に重大なことと考えており、ひどく若いうちに結婚するのは賛成しなかった。だから16、17、時には20歳になっても夫も婚約者もいない娘が何人もおり、この子たちには抑圧された生命力、あらゆる方向への欲求と衝動がみなぎっていた。村の生活にはそれらのはけ口は何もなかったのだ。

この年の冬の生活は特別気をめいらせるものだった。マサチューセッツ湾植民地には災難があとからあとからつづいてやってきた。天然痘の流行。フィリップ王戦争の開始時を思いおこさせる恐ろしいインディアンの襲撃。さらに、ニューイングランドが特許状の下に享受してきた独立に近い状態を永久に失ったことがますます確実になってきていた。神はかつて彼らを選んだのだが、今彼らは選ぶに値しない存在になっており、明らかに神は彼らから顔をそむけてしまったのだ。信心深い人たちは、自分たちの心情の中に---そして隣人たちの行為の中に---神のこの心変わりの原因があると信じ、それをさがし求めつつあった。最後の審判の日がさし迫っていると本気で信じている人がたくさんいた。あらゆる徴候が、それはこの世紀の終りにくることをさし示していた。悔い改めよ、神の国は近づいている、と彼らは叫んだ。(略)

その土地所有権の危機がやってきたのは、1684年に特許状が効力を失ったときからだった。(略)

セーラム村のティーンエージャーたちが、こういうむずかしい政治的な事柄をどの程度まで理解していたかはよくわからない。しかし彼らにしても、もしも特許状がほんとに無効になったら自分の国に何がおこるかとだれもかれもが心配しているのを、感じないではいられなかったことは確かだ。もっと年上の人たちは、何世代にもわたるつらい労働によって切り開かれ耕された畑を見回しながら、せっかく神の恵みと自分たちの苦労によって自由土地保有者になったのに、ひょっとすると一種の奴隷状態にまたおとされるかもしれないことを知っていた。

地獄落ちの運命に憐れみは無用

[母とともに『ヨハネ黙示録』を熱読していたアン・パトナム12歳]

もう一つ彼女の研究の対象になったものは、もちろん、マサチューセッツの初期のベストセラーの中で最も象徴的な本、ウィッグルズワースの『最後の審判の日』だった。この本からアンは、強烈で断固たるカルヴィニズムの正義感を吸収した。彼女にはっきりわかったことは、神自身が地獄落ちの運命に定めた人々には何の憐れみもありえないこと、地獄落ちに定められた人にとっては地獄はじつは慈悲、最も尊い神の慈悲にほかならないことだった。こういう考え方をこれほど文字どおりに信じるよう育てられた少女が、何かの加減で地方の審判の日に証言するよう求められたとしたら、彼女の神より多くの憐れみを示すようなことは、まず考えられなかっただろう。

憐れみはピューリタンの徳ではなかった。

仕事に精を出し、信心の深さを、それの報奨として与えられた財産によって測る習慣になっていたピューリタンー般にとっては、貧乏人はほとんどがまんできないものだった。神の応報には目こぽしは全くないから、たとえば歯が痛む人は、きっと自分が歯を使って罪を犯しているところを神にみつかったのにちがいないとさとることができる。神がセアラ・グッドに貧困を課したのは正当な理由があるのにちがいない。そして神の意思を疑ぐるのは信心深い人のすることではない。

女性のティーン・エージャーたちの天敵は、

彼女らより年上の既婚婦人と未亡人だった。そういう人たちの多くはがっしりした田舎婦人で、重い荷物をもち上げたり、泥の中に大い足をふみこんだり、牝牛の出産や豚の屠殺を手伝ったりするのはお手のものだった。尻は大きく、手はがさがさで、生きるぎりぎりのところで暮らしているため、時には言葉も荒っぽかった。後世のとりすました、口のうまいピューリタンというカリカチュアは、まだ思いつかれていなかった。セーラム村の田舎婦人には、ヴィクトリア朝風の要素〔尊大、お上品ぶり、因習墨守、偏狭など]は何もなかった。(略)

「もうおしめをしている年ごろじゃないだろうに」。「このふしだら娘も男ができたら落ちつくだろうさ」。そんな評言は、当の若い娘たちにとってがまんできないプライバシーの侵害だった。

名士とはいえ頑固で独善的なマーサ・コーリーは魔女騒動に懐疑的であったため当初から怪しいと噂されていた。そこへ少女たちの告発。それでも事を穏便にすませようと尋ねた二人に対し。

チーヴァーとパトナムはこの女性を眺めているうちに、だんだん嫌悪感が高まっていった。それまでは、彼女の側にも言い分があるだろうと思い、悪い噂に対する疑念がなくはなかったのだが、彼女の侮蔑、彼女のたちの悪い予知に出会って、それもすべて消えつつあった。今の彼女の正義漢ぶりは彼らには鼻持ちならなかった。その上なんと、まだ十分ではないとでもいうのか、マーサはまぎれもなく瀆神的な言葉を吐いたのだ。

「私は魔女がいるなんて信じませんよ」。(略)

[あの三人と私を一緒にしないでとマーサ]

「そうね、もしあの人たちが魔女なら」と彼女は相変わらず、見る人をいらいらさせる微笑を浮かべながらいった。「あの人たちを魔女にしたからといって、私は悪魔を責める気にはなりませんね。なぜって、あの人たちは横のものを縦にもしない怠け者で、よいことをしようなんて、これっぽっちも考えなかったのですからね」。でもそういう人が私と何の関係があるのか、信仰告白者で、福音を伝える女性であるこの私と? そう彼女は高飛車にいい放った。

「ふん、うわべだけの信仰告白ではあなたは教われませんよ!」

訪問した二人はかんかんに怒って彼女のもとを去った。それは彼らが前もって恐れていた事態よりはるかに悪かった。彼らはもう彼女に何の同情も感じなかった。教会の幹からこのくさった枝を切りとるべきだ。それは早ければ早いほどよい。あきれたことだ、彼女はセアラ・グッドより悪い。オズバーンより悪い。あとの二人は、悔い改めはしなかったけれども、魔女が存在することを否定したりはしなかった。セーラム村のどこをさがしても、これほど正真正銘の無神論を言ってのける人は一人もいない。

3月19日に、マーサの逮捕状が宣誓の上で出された。

境界線の消滅

魔女騒動に巻きこまれて、尋問されると、私は悪魔をつれこむのに一役買い主したというような自白をする単純な人々がいたのだ。(略)

この時期にあっては、自分の隣人、自分の妻、自分の母、あるいはその点でいえば自分の分別さえも、あえて信用する人は、勇敢な人---さもなければ何も考えない鈍い人---だったのだ。悪魔はマサチューセッツで、事実と幻想を区切る境界線を消してしまっていた。もはや両者を区別することはできなかった。両者がちがうものだという意識すら、忘れられつつあった。

この時期には、虫にかまれただけでも命に関わるかもしれなかった。悪魔がその虫の中にいるかもしれず、それが残したマークは、使い魔が吸いつく場所だった悪魔のマークと同一視される可能性があったからである。今では魔女だけでなく男の魔法使も存在したから、若い娘たちは夢のうちにインクブスに犯されて悪魔の子を生むことになりはしないかと、びくびくしながら暮らしていた。

没収された財産を返還してもらえなかったフィリップ・イングリッシュの恨み。そしてナサニエル・ホーソーン誕生。

治安判事ジョン・ホーソーンを彼は死ぬ日まで憎んだ。死の床ではじめて彼は、魔女騒動のころホーソーンが加えた侮辱を許したが、それも心からではなかった。「もしも私のからだがよくなるものだったら、金輪際あいつを許すもんか!」 幸いなことに彼は、後に自分の血筋が憎悪の的であるホーソーンの血筋に合流して、ホーソーンの姓を名乗るようなことになろうとは、夢にも気づかないで死んだ。彼の唯一の嫡出の息子は、彼よりも前に死んでいた。しかし五人の娘が残り、その一人は、父が怒って禁止することがなかったので、詳しい事情を知らずに治安判事ホーソーンの息子の一人と結婚した。こうして綴りにWを加えた一家系が成立し、やがてそこに、はるかなる妖術の青白い開花、魅せられたナサニエル・ホーソーンが誕生した。そしてこんどはナサニエルがセーラム町とセーラム村のたどった道を歩むだろう。そして幽霊たちがいつも彼につき添い、目には全く見えないものの、彼の目尻のむこうにはいつもひそんでいるだろう。だが彼はそういう幽霊を紙の上にピンで止めて、一種の文学的な信じやすさをもって点検するだろう。なぜなら彼とコットン・メーザーにはかなり似たところがあるからである。芸術家に、魔女は存在しないと説教したところでまるでききめはない。芸術家の呼吸そのものが、妖術的、魔法的なのだから。

2006-06-12 古代から中世へ このエントリーを含むブックマーク

あまり面白くなさそうなタイトルですが、免税の言い訳で貧者保護を始めた教会が「貧者」の意味を拡大・変容させて、エリートも神の前では貧者としてへりくだるシステムを完成させ君臨していったという話。ウンコ砲が不発で(id:kingfish:20060215)傷心のあまりボクだけじゃないものと「CUT」でサイード経歴詐称ネタをふる、いたいけな山形浩生センセイが好きそうなビンボー詐欺話満載w。


古代から中世へ (YAMAKAWA LECTURES)

作者: ピーターブラウン,後藤篤子,Peter Brown

出版社/メーカー: 山川出版社

発売日: 2006/05

自分たちの都市への愛から、経済的に貧者を規定して支援することで地域社会への彼らの愛を示す

[古典期には]富裕者は「自分の都市を愛する者」であるがゆえに称賛されるのであり、決して「貧者を愛する者」であるがゆえに称賛されるのではありませんでした。富裕者は、都市的建造物の栄光と市民生活の快適さを増大させるべく、都市に対して気前よく贈与することで、「自分の都市への愛」を示しました。(略)

そのような社会モデルにあっては「貧者」、その多くが困窮して都市に流入してきた移民であり、都市共同体の周縁部に生きる非市民であるところの「貧者」が配慮される余地は、ほとんどありませんでした。(略)

[皇帝のパンで飢えをしのいだのはたしかに貧者だったが]

彼らは「貧者」であるがゆえに、このパンをもらえたのではありません。彼らはテッセラ、すなわち、現代のパスポートのように彼らが「市民」であることを証明する引換券を提示できたからこそ、パンをもらえたのです。ローマ市やほかの都市で、多くの富裕市民も同じテッセラを受け取り、ちっとも貧しくないのに、彼らより貧しい市民たちが受け取るのとまったく同量の穀物を得ていました。

「貧者への愛」が主要な公的美徳となりえたのは、この強固な「市民」共同体意識が弱まっていき、帝政後期にいたってついに、「富者」と「貧者」という純粋に経済的な社会区分を強調する、そういう社会モデルに取って替わられてからのことでした。その社会モデルは富裕層に対し、都市や同胞市民に対して気前よく贈与することによってではなく、「貧者を愛する者」となることによって、つまり、もはや市民身分によってではなく、厳密に経済的困窮度によって規定される一部住民に対して支援を与えることで、地域社会への彼らの愛を示すよう促すものでした。

教会は税免除の言い訳で貧者に施し

後期ローマ帝国は、それまでにはみられなかった決意をもって、全帝国規模で課せられる、徴税と強制的な公共奉仕義務のシステムをつくりだしたのです。その結果、社会は税の差別的負担が万事を決定するようなかたちで構造化されました。(略)

キリスト教聖職者は彼らに与えられる諸特権に値するほどのことを何かしているのかという点を、公共の利益のために正確に説明する必要を増大させました。(略)聖職者の答えはもちろん、教会は貧者の世話をするためにその富を用いている、というものでした。(略)

したがって私たちは、「貧者への愛」を説く四世紀キリスト教の説教の切迫感や輝きに目を眩まされてはなりません。平信徒たちの期待が教会に無言の圧力をかけていたことを、私たちは看過しがちです。

貧者を極貧に染め上げる手口

キリスト教のレトリックには、「まず最下層について極めて劇的で他と区別させるようなイメージを創出し、つぎにそのイメージを下層階級全体に押しつけることによって、貧民〔のイメージ〕を貧窮化させるという概念的効果があった」のです。(略)

その結果として私たちは、多数者の貧窮と少数者による抑圧的な富の蓄積の対照ばかりがあまりにめだつ世界像を呈示されて、後期ローマ社会を構成していた、もっと微妙で中間的な諸階層がみえなくなってしまっています。

ナント、皆さん、当時の訴訟簡略短縮化の手段は教会に丸投げだったのだ。ローマ法より「司教がシロといったらシロ」神の威厳で正当化。

コンスタンティヌス帝は司教裁判を支持することで、キリスト教司教に対する自らの敬意を示すと同時に、キリスト教会を帝国官僚機構に比べて社会の下層階級により多く接触する中間的機構として、訴訟を抑制せんとする自らの企てに引き入れたのです。彼は司教裁判における迅速かつ安上がりな裁定か、数々の長引く訴訟によって州総督の法廷が身動きとれなくなるような事態を防いでくれるであろうと期待したのでした。

司教裁判は貧困層に対してのみ開かれていた法廷では、決してありません。司教裁判がもっとも上首尾に役立ったのは、帝国の法廷における訴訟の長期化で破産するわけにはいかない、比較的裕福な階層に対してであったように思われます。非キリスト教徒は司教裁判を受ける資格を得ようと、進んで改宗しました。

古代西アジア地域における「貧者」とは偉大なる存在の正義を受けるためにへりくだる「請願者」であった

古代西アジア地域では、「貧者」は経済的な一範疇ではなく、司法的な一範疇だったのです。「貧者」とは原告や請願者であり、乞食ではありませんでした。(略)

古代西アジア地域においては、「貧者」に「正義」を与えることが、地上の王の力であれ神の力であれ、王者にふさわしい力を知らしめる一つのしるしでした。(略)

そのような正義を得るためには、請願者は「貧者」の立場、すなわち、王以外には保護者がいない人間という立場をとらねばなりませんでした。これは、彼なり彼女なりが経済的に極貧であったことを意味するものではありません。むしろ「貧者」とは、どのような身分に属していようと、偉大なる存在からの応答を、へりくだりつつもひたすら待っている人間のことでした。

帝政後期ローマ人も『旧約聖書』を通して「貧者」を古代西アジア的に捉えた

この結果、「貧者」という言葉は、より「市民型」に近い社会モデルではこの言葉についてまわる「恥」のニュアンスを、ある程度失いました。つねに上からの正義と保護を求める必要に迫られて、かつては自らを「市民」と考えていた多くの人びとが、「貧者」という言葉も同じくらい有用であることに気づきました。この言葉は彼らに、世話を受ける資格を与えてくれるのです。それはもはや、人が乞食であることを意味しません。この言葉が意味するのはたんに、人が司教の広汎な「貧者へのケア」に与るべく、自らを教会の保護のもとにおいたということでした。

「貧者」の代弁者を自称

いまや司教、聖職者、聖人たちが、各自の地域社会の代弁者として、世俗のエリート層と上首尾のうちに競い合っていました。彼らはしばしば、自らが代弁する人びとのことを「貧者」という総称で語り、「詩篇」の祈りと同じように、上方の偉大なる存在からの慈悲を求めているという、宗教的言説を用いました。(略)

四〜五世紀の過程でこの[パイデイアの「伝授を受けた仲間」による]権力の「共生」モデルが、キリスト教世界で育まれてきた、もっとあからさまに「垂直的」な社会像の前に屈したことは、もうほとんど強調する必要はないでしょう。(略)

私たちはいまや、地方社会の指導者ですら、コンスタンティノープルという帝国の中心に着いたとたん、その教養や地域社会で占める地位にもかかわらず、自分が「乞食のように」感じるはずの、そういう社会をみているのです。

明日に続く。つもりだったのだが、メンドーになったので追加で終了。

目覚めれば口中に天国の甘美さ

五、六世紀にはまだ、それ以前と同じく、死後の世界は地上に近いところにあると思われていました。「この世」と「あの世」のあいだの障壁は、しばしば取り除かれました。天使とダイモーンは、人間と同じ物理的空間を共有していました。(略)

聖人の修道地や聖人の墓では、「この世」と「あの世」を分け隔てる壁に、いわば貴い裂け目を見出すことができました。この裂け目から光が芳しい香りとともに射し込み、この香りによってありとあらゆる癒しが実現しました。聖人たちがいま暮らしている天国から吹いてくる癒しの微風にふれて、木々は奇蹟のように花を咲かせ、食糧は何倍にも増え、障害や麻痺で動かないはずの肉体が蘇るのです。眠っているあいだにじかに天国に入り込み、翌朝まだ口中に天国の甘美さの感覚を残して目覚めることは、例えばペルペトゥアのような殉教者の特権でした。

2006-06-09 啓蒙の都市周遊・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。

「都市は大修道院とどこが違うのか」エラスムス書簡(1518.08.14)


啓蒙の都市周遊

作者: エンゲルハルト・ヴァイグル,三島憲一,宮田敦子

出版社/メーカー: 岩波書店

発売日: 1997/09/29

「聖なる都市」チューリヒ

ルターから離れた、こうした「改革派教会」の違う点はどこにあるのだろうか? この派は、カルヴァンを先取りして、聖なる都市(Civetas Christiana=キリストの都市)を創造するという理想を目標としたのである。外面的にはこれらの都市は、礼拝の厳格さ、偶像敵視の厳しさで識別される。したがって教会にはもはや装飾や肖像はー切なく、音楽は教会から排除され、パイプオルガンは引きずり出された。個々の市民への道徳的締めつけも「聖なる都市」というこの構想に含まれており、その結果市民の生活様式は修道院に近くなった。道徳を公的に監視するための公的機関が作られ、教会と市民が共同で運営した。聖書によって正当性を授与され、力を得た市当局はいまや教区、聖職者、修道院、学校、貧民扶助、結婚生活の監視を請け負った。(略)

17世紀の間にチューリヒはますますイデオロギー的に外界と没交渉になった。このことはまず、他の都市からは一人も学校の教師も教授も採用されなくなった点に示される。(略)

しかし18世紀初頭になると、もっぱら神学的内容を志向することは、発展しつつある商業都市のさまざまな要求としだいに衝突するようになった。チューリヒはちょうど、ヨーロッパの中で最も資本力のある、最も早くに工業化された国々のひとつに発展しだすところであった。

したがってますます多くの商人が子供たちを外国で学ばせるようになった。(略)とはいえ、チューリヒの精神生活は18世紀もずっと遅くまで聖職者階級によって形成されていた。市民の五人に一人は聖職者であった。

想像力は有害である

どんな虚構も読者に対する欺瞞である。ゴットハルト・ハイデガーによれば読者はこう問わねばならない。「おや、まあ!私が読んでいるのはなんなのだろう? 私はなにに驚き、笑い、悲しみ、ため息をついているのか?他人の夢と空想にじゃないか! この世で一度も起こらなかったこと、私を馬鹿にすべく考え出されたことにじゃないか!」(略)

「自然を的確にとらえなかった作家は嘘つきと見なされるべきである。自然と異なるコピーを作る画家も彫刻家もいかさま師である」。(略)依然として、空想は人間を誤謬へと導く危険な欺きの道具であると見なしているカルヴァン派の真理厳格主義にとっては、正確な自然模倣という厳格な鎖につながれた文学だけが許されたのである。

崇高vs美

偉大な心は人を魅惑し、狼狽と驚愕の入り混じった非常な感嘆を惹き起こす。それに対して機知は類似性の並置によって人を楽しませ、理性は人を納得させる」。(略)崇高性は、入り混じった感情、つまり驚愕と魅了(恍惚)という相反する心の動きで「偉大な心」を動かす。これとは対照的に、美しいものは(略)「機知」と関係づけられる。(略)

美しいものの働きは、「楽しませること」であり、原像と肖像の知的な比較から生まれる純粋な楽しみである。(略)

宗数的に色づけられた内容を述べる崇高なものに対して、美しいものは道徳的指導の手段として、あるいは暇つぶしの遊びとして軽視されている。同時に読者層の区別も暗示されている。つまり、崇高なものは、偉大な心情の持主たちからなる小さなサークルを必要とする。つまりエリート的であるが、一方美しいものはむしろ大きなサークルを想定しており、どちらかと言えば民主的である。

カントの天体観測

この短い報告は、この彗星の観測が第一級の社会的出来事であったことを非常にはっきりと示している。クヌッツェンをケーニヒスベルクの上層階級の人々が専門家として招待しているほどである。クヌッツェンは数個の望遠鏡を持っていて、それを他人にも貸していたらしい。(略)

カントは、1740年に入学してから、クヌッツェンの哲学や数学の講義はひとつも聞き逃がさなかった以上、あの冬クヌッツェンが時々自分の天文学の実習や観察に参加させた受講者の輸の中に彼もいた確率は高い。このような記録を総合してみると、カントは---これまでのカント研究が推測してきたように---本当に一度も自分の頭上の星空を望遠鏡の助けを借りて見たことがなかった、というのも新たに疑問の対象になってくる。

「私は世界を作ってみせよう!」カントのデビュー作

ケーニヒスベルク上空への大彗星出現の10年後に、カントは最初の主要著作を完結させた。(略)この最初の主要著作で登場する思想家カントは、世界の発見者という大胆な身振りをしている。宇宙の構造と成立についての彼の構想は、同時代人の理論的空想を爆砕するものであった。これまで人々は「無限で測り知れないこと」という表現を安易に使ってきたが、それがハッと息を呑ませるような具体性を持ったのである。(略)

30歳の男のこの最初の偉大な著作を貫いているのは、根拠のあることを自分は書いているという自信である。(略)著作の背後に見て取れる自意識は、権威も伝統も認めず、猛烈な自己集中によって神をも恐れぬ発言へと敢然と突き進むようなそれである。「私に質料を与えよ。それを使って私は世界を作ってみせよう!」。「私は全宇宙の物質が一般的に均等分散していると仮定し、その均等分散から完全なカオスを作り出してみせる」。ここでカントは、手の中で新しい世界を作るプロメテウスとして登場する。敬虔主義的なケーニヒスベルクに、これによって前代未聞の音が響き渡ったのである。

改革の失敗

オーストリア帝国を近代的な行政管理機構を備えた中央集権国家に改造しようという試みは、まずは周辺部分で---ということはハンガリーとオーストリア支配下のニーダーランデで激しい抵抗を惹き起こした。行政を画一化したために、それぞれの長い伝統を持った個々の地域は、単なる行政単位へと貶められてしまった。ハンガリーで伝来の身分制を解消し、行政語としてドイツ語を導入したのは、より効率的な行政をめざしてのことであった。近代化のプロセスは、立法や法曹制度にも及んだが、そこでも目的は均一化であった。(略)抵抗が強まると、この啓蒙絶対主義の側からの答えは警察システム、検閲システムの整備であった。1785年にはフリーメーソンが厳しい統制下に置かれ、警察の監視に曝されるようになった。理由として挙げられたのは、「身分の違う人間同士の会合はどんなものであれ、成り行きにまかせておくわけにはいかないのであり、信頼できる人間の指導と監督の下に置かねばならない」というものであった。身分の壁を越えるのは、反抗的行動とされるようになってしまった。カフェー、サロン、公園といった世論形成の議論がなされる場(公共圈の場)がちょうどできはじめていたところだったのに、そうしたところにはスパイがうようよする事態になった。平等は、旧来の自由権(旧身分制社会の諸権利)の剥奪というかたちでのみ実現した。都市の議会、地方ごとの議会などは自治権を剥奪され、絶対的支配者の前ですべての臣民が相互に平等な存在に貶められてしまった。

2006-06-08 啓蒙の都市周遊 このエントリーを含むブックマーク


啓蒙の都市周遊

作者: エンゲルハルト・ヴァイグル,三島憲一,宮田敦子

出版社/メーカー: 岩波書店

発売日: 1997/09/29

無数の国家に分断されていた近代ドイツでは

書籍出版・販売業は、廃れないためには、資本主義以前の経済形態、つまり交換貿易、あるいはバーター貿易という形態を取らねばならなかった。実際に書籍商は、フランクフルトの書籍市で---後には主にライプツィヒの書籍市で---自分のところで印刷した書籍を分量や全紙数に応じて、他の書籍商のそれと交換したのである。印刷された紙は---製本しないまま樽に詰められ---初めのうちは内容にかかわらず、同じく印刷された紙と、まるで農鉱業の産物のように交換された。したがって書籍商たる者は、「およそ書籍市でなんらかの意味のあることをするためには、出版業と販売業を兼務し、生産と販売を直接に結びつけて」いなければならなかった。「その際、書籍流通のためには事業資本は必要でなかった。物々交換時代の書籍出版販売業はいみじくも次のように言い表されている。「本に関わる仕事はいわば、ひとつの大きな出版協同組合であり、同時にその販売支店網であった……。書籍市は協同組合員の集合であり、そこで各自が自分の製品を前に並べ、引き渡し、全製品の中から自分として販売したいものを選び出し、持っていった」」。

出版業者は著者に住まいを提供して援助し作品を確保した。

情報センターとしての役割。

例えばカンターの書店には郵便馬車の着く日には新しい本が並べられ、お金のない学生たち---その中にはヨハン・ゴットフリート・ヘルダーもいた---も中身を見ることができた。カンターは自分の書店を、本に取りつかれたすべての人のために鷹揚にも「無料の公開の食卓」とし、ここで「学生たちは半日、いや、丸一日」まだ仮綴じの書物をむさぼり読むことができたのである。それは「〔同居している〕ハーマンにとってこれは、なんの制限もなく読みふけることができる、ということであり、自分の蔵書と並ぶ、第二の手文庫として自分の財産と同じことであった。この時期、カンターがハーマンにとって教養の源泉としても産婆役としてもどれほど重要であったかは、言い表しようがない

ネットワークとして

書籍商兼出版業者は、身分制と職能区分で固められた周囲の社会の中で、新たな相互交流のための自由な空間を生み出していた。それは、物を書く新しい専門家集団を作るための未来の島であった。彼らが保有する大量の在庫品は、公共図書館がないのを補ってくれた。また、彼らは国内外のあちこちに離ればなれに暮らしている作家たちのネットワーク化に役立っていた。そしてこうしたネットワークは、相互に訪問したり招いたりすることでいっそう深められたのである。

30年戦争後の大学の危機。哲学より礼儀作法。

1648年以後、貴族が新しい役割を得て、いま述べたように高級官僚の道に踏み出した結果として、貴族にも大学教育が必要になり、それとともに貴族は、人文的な教養の伝統に対して持っていた旧来の抵抗感を解消せざるをえなくなった。しかし(略)せいぜいのところ法学部が貴族に役立つ手だてを提供していただけだった。(略)

30年戦争以後は貴族の学校もしくは騎士のアカデミーが次々と設立されるようになり、それらは貴族専用の職業訓練に貢献し、その教育過程はギムナジウムや大学といったスコラ的な教育施設とははっきりと一線を画していた。貴族にとって学問の教育価値は、軍事および行政によって領邦国家に仕えるのに役立つかどうかによっていた。(略)

さらに騎士のアカデミーではどこでも生徒の「品行」に最大の価値が置かれていた。つまり、会話、上品な物腰、それにモードの授業が行なわれた。そうした学校は領邦君主の宮廷の近くにあったために、生徒たちは礼儀作法の知識を実践で仕上げるチャンスが得られ、彼らが「典雅な人物」という理想に近づくのに役立った。

大学にとってこれらの施設は大変な競争相手となった。また国の行政機関への採用が再封建化されはじめ、市民階級の知識層が宮廷に入りにくくなったことによって、競争は大学にとっていっそう厳しいものとなった。

18世紀の週刊誌。スキャンダルによる道徳

週刊誌という新しいジャンルの登場とともに啓蒙は大学や学校といった領域から出て、学問的訓練を受けていない「一般市民」が啓蒙の受け手となる。(略)

町の読者公衆のために書かれたこうした道徳週刊誌は、実在の人物や出来事について報道することをめざし、それによって読者に一方ではのぞき見的な好奇心を煽ったが、他方では、いつ自分の番が来て個人的に俎上にのせられるかわからないという不安をかきたてもした。こうした不安をもてあそぶことは新しい道徳哲学のためであった。啓蒙における諷刺が正常に機能する前提は、柔軟な解釈によって虚構性と特定の地域的現実の間を行ったり来たりできることである。

身分制社会打破する週刊誌『パトリオート』。愛国心ではありません。私利私欲の対極にあるもの。

『パトリオート』が祖国という語を使っているからといって、それを19世紀に支配的なテーマとなったナショナリズムのあの形態と取り違えてはならない。行動の枠としての祖国という言葉は、18世紀においては少し違うことを意味していた。「船に乗っている者は、自分たちが最も得をするためにその船の維持を求めるべく相互に結ばれているであろう。同じように、いやそれ以上に町の壁に囲まれて結ばれている人々の責任は、祖国が得をするように心を砕かねばならない……」。つまり祖国ということで考えられているのは、そのつどの最も狭い周辺区域のこと、ここの例では、都市の城壁に囲まれたハンブルクという都市共同体のことなのである。ここで私利私欲の正反対として理解されているパトリオティズムはこう考えると、宗教改革の時代に再興された帝国自由都市の基本的価値と、そのままつながっていることになる。(略)市民にはもはや犠牲を要求することはない。『パトリオート』誌で何度も強調されているように、公共の利益があってこそ現在および将来にわたって自分の利益が守られるのである以上、そうした意味での公共の利益に尽くすことが要求されるのである。「自己保存」と「祖国の安寧」は、分かちがたくひとつのものであると見られている。

頭痛のため中断。明日につづく。

2006-06-06 奇妙な情熱にかられて

春日武彦の話のオチ(論旨?)とかにはあまり興味はないのだが紹介する小説はやたら面白そうだったりする。青少年の読書欲向上には論理でガチガチの文芸評論家より有効なんじゃないだろうか。


人魚とビスケット (創元推理文庫)

作者: J.M.スコット,J.M. Scott,清水ふみ

出版社/メーカー: 東京創元社

発売日: 2001/02

少し前の文学界で『人魚とビスケット』を紹介していて、実際にあった新聞広告を元に書かれた長編なのだが

人魚へ。とうとう帰り着いた。連絡を待つ。ビスケットより。

人魚へ。あなたを探し出すために、あの十四週間とナンバー4の物語を出版することにした。ビスケットより。

ビスケットへ。九年たった今も、三人の盟約は断じて生きている。ブルドッグより。

[さらにやりとりは続いたが]広告は十一週間で呆気なく終りを告げてしまう。好奇心に飢えたデイリー・テレグラフの読者たちは、雲を掴む気分のまま尻切れとんぼの状態にさせられてしまった。長篇小説の出だしとしては、まことに読者の心を掴んで離さないスタートである。

うーん、確かに小説を読まない者でも読みたくなる。


奇妙な情熱にかられて―ミニチュア・境界線・贋物・蒐集 (集英社新書)

作者: 春日武彦

出版社/メーカー: 集英社

発売日: 2005/12

「健康なミニチュア、不健康なミニチュア」という題目で、洋酒のミニボトルは不健康というネタふりがあって

逸脱した情熱だとか子供じみたロマンティシズム、さもなければ奇矯な明晰さといった過剰な要素が欠落しているのだから。すなわちミニチュア瓶とは「本物」が凝縮されたものではなくて、たんなる規格品として作り出されているだけだからである。(略)

自虐的かつ屈折したユーモアの発露であるといった但し書きがない限り、黙々と洋酒のミニチュア瓶をコレクションすることには、その対象が俗っぽさに加えて虚構と実用性(!)との中間的な性格を帯びているといった点において、淫らな写真を蒐集する行為に相似しているかのように感じられてしまうからである。あえて言い切ってしまうならば、ミニチュア瓶はどこか「いかがわしい」のである。


伝言ゲーム (モダン・ノヴェラ) | モーリス・リーチ, Maurice Leitch, 斉藤 健一

『伝言ゲーム』(Chinese Whispers)が紹介される。

アイルランドの暗い森にある精神病院の看護士ケニーが語り手であり、彼はミニチュア瓶を蒐集している。

ケニーにとって、患者グループのメンバーたちは、彼が集めているミニチュア瓶と同じような「珍奇なコレクション」であった。(略)

しかし平穏な日々はいつまでも続かない。ある日、ケニーのグループは新入りの患者を迎えることになった。(略)

[精神異常の殺人犯ガヴィンが]病状が軽快したからとケニーの治療グループヘと回されてくることになったのである。「伝言ゲーム」の大好きな患者たちが集うグループヘ。

[やがてガヴィンは患者たちを掌握していく]

患者たちから見放されていくケニーは、ガヴィンを憎む。無理もない、いつの間にかグループはガヴィンに乗っ取られたも同然であったのだから。「珍奇なコレクション」を奪われ、ケニーの繊細な精神は日増しに安定を失っていった。追い打ちをかけるように、奇怪な事件までが生ずるに至った。ある晩、トレーラーハウスで眠っていると、地震でも起きたような振動が襲ってきた。ケニーの大切でささやかな宝物が、激しい揺れによって床に落下した。写真や雑誌や食器が落ち、あの洋酒のミニチュア瓶コレクションも棚から床へぶち撒かれた。割れた瓶からはアルコールの強い香りが漂ってくる。いったい何が起きているのか?

では、健康なミニチュアとは。著者が小学生のとき同級生が質素な自宅の模型をつくった。

ただし台座にレイアウトされていたのが家だけではなかったところが、この話のポイントである。

模型の家の脇には、これまた縮減された一本の電柱が寄り添うようにして立っていたのである。(略)電線を支える碍子はマッチの頭を切り取り、それを白く塗って表現していた。

電柱は一本だけだったので空中に張られた架線は省略していたけれど、彼は電柱から家へと電線が引き込まれる部分だけは、細いエナメル線を使って作り上げていた。誰もが感心したのは、模型の家の出来ばえもさることながら、その家と電柱とが電線でつながっている部分のリアリティーなのであった。ああ、こんな具合にして電気は電柱から家へと引き込まれて電球が灯ったりテレビが映ったり扇風機が回ったりするのだなあと、そんな当たり前のことが模型の形で見せられることによって、まぎれもなく「かけがいのない」営みであるように実感された。(略)

それはおそらく、多木浩二の言葉を借りるならば「縮減は漠然と経験している等身大の世界では知覚しにくかったことを、非常に明確なかたちで、構造として感じとらせる」といったことに該当するのだろう。K君の作り上げた家の模型(そして電柱)は、まさに健康なミニチュアとでも称すべきものであり、わたしのみならず多くの級友たちの心に小さな驚異を刻みつけたのであった。

ヴァルザーの小さな世界 (筑摩叢書)

ヴァルザーの小さな世界 (筑摩叢書)

上記の本に所収の『列車の中のアヴァンチュール』は原稿用紙三枚の小品。

ある駅で停車すると、美しくにこやかな婦人が「ぼく」のコンパートメントに入ってくる。すると二人は微笑を交わしあい、たちまち接吻と抱擁そして愛撫が始まる。「ぼくたち二人は、まるで天国に住む人間同士のようにひしと抱き合っていた。さきほどまでの別人同士とは打ってかわって、今ではただ一つの想いに耽っている人間同士のように、頬と頬を寄せあい、身体と身体をぴったりつけあって、抱き合っていた」。

で、そのあとどうなったか?「しかし今、汽車は停まった。このきわまりなく魅力的な婦人は降りて行き、ぼくは旅をつづけなければならなかった」。

これでおしまいなのである。(略)

ヴァルザーは晩年の27年間を精神療養所で暮らしている。統合失調症であったという。そうした事実が「狂気の作品」といった形では結実せずに、むしろ無防備さとか愛や平穏さへの希求といったベクトルで現れたところに独特の価値が生じているように思われる。

ではなぜヴァルザーは、そんな解読不能の極小文字で作品を書きつづけねばならなかったのか。スイスの現代作家ユルク・アマンが『ローベルト・ヴァルザーの狂気、あるいは不意の沈黙』という題の小説仕立ての伝記を書いていて(1978)、その中にこんな箇所がある。

「ヴァルザーさん、その紙きれの上に何を書いているのですか。いったい読めるのですか」。彼は私を不審そうに見つめました、「読むですって? どうして読む必要がありましょう。いったん書いたんだから、中身は自分には分っています」。どうしてそんなに小さく書くのかとたずねると、彼は答えました、「大きな文字は、誰かを当てにした大袈裟な文字は、書きたくありませんからね」。

上記所収の『涅槃と神々の黄昏と砲丸投げ』

さてひたすら純粋で不器用で孤独な巨漢であるトビーは、この七年間、記録に伸び悩んでいた。世界記録に1フィートばかり足らないところで低迷していたのである。そして彼は、おそらく気が狂いつつあった。

トビーが現実から遊離しはじめた徴候のひとつは、誰にも見られず自分一人だけで投擲したときに限って、途方もない世界記録が出てしまうことであった。あるいは禅の精神統一についておかしな考えにのめり込んだことであった。きちんと記録をする者が傍らにいると、なぜか彼の投擲は遠くへ飛ばない。凡庸な飛距離しか得られない。トビーの競技人生は、現実と相容れなくなりつつあった。そんな彼の様子が、妙に掴み所のない文体で綴られていく。

どうでもいい話 どうでもいい話を含むブックマーク

さて本のタイトルに合せて最近の物欲。御洒落とは全く無縁の人間なのだけれどショッピングセンターに売っている安い男服は基本鼠色めいていてさすがに我慢ならない。ゆにくろもなんだかあの創始者フェイスなもわっとした色だし、十代向けのはなんだかブラザーなカンジだし、無理無理、買うもんないです。どうにか納得できそうな安い服というと東南アジア民芸店で売ってるモノなのだが、これもなかなかバランスが難しい。ヘタをすると中央線ノリになってしまいます。いたって普通の格好をしたいだけなのだが、男性差別といっていい状況であります。しかし何か着ないわけにはいかないのでモウ限界。

そーゆーわけでミシン買って手作りシャツとか、プリントゴッコかTシャツ君でオリジナルTシャツとか、色々妄想に走って、おい、チョット待て、俺の筋肉、実は昔橋本治のセーター本を読んで二枚セーターを編んだことがあって、やっぱりそういうことをするのは時間がかかるわけです。そこで図書館でこれを借りてみた。

実は染めるのも一度やったことがあったのだけれどイマイチあれで、それに結局絞りということになるのだけどどうも絞り柄ってあまり好きじゃないと思っていたら、絞りといってもチョット違う絞り柄があるのですねと早速近所にダイロンを買いに行った次第。文章ムチャクチャでスマンソン。

2006-06-01 近代日本の音楽文化とタカラヅカ・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


近代日本の音楽文化とタカラヅカ

作者: 津金澤聰廣,近藤久美

出版社/メーカー: 世界思想社

発売日: 2006/05

パリに学ぶ白井鐵造

衣装は大てい背景と同じ調子の色を使ってゐるが、背景にすい込まれることもなく、場面毎に色を代えて行くレビュウには、色の変りがはっきりして効果あり。(略)白い花を持った白いスカートの大きい衣装の女達が退場すると、背景の後ろの黒幕のみが開く。と、その後ろにも、前の花と同じ調子の背景、同じ女達がゐる。もっと踊子を多さん出して、幕が開いたとき踊ってゐる方面白し。

この記述を見る限り、エログロの世界は微塵も感じられない。宝塚少女歌劇の舞台に、円熟した男女が演じるエログロのパリ・レビューをそのまま移すには無理がある。ノートには、宝塚に移せるアイディアのみを記したのであろう。この時点で白井を通して、パリ・ミュージック・ホールの見せ物的、色物寄席的なレビューは、宝塚向けに美化、醇化されていたのである。この当時の演出家は、脚本も書き、踊りの振付に作詞も担当していたので、公演の印象だけでなく、物語のあらすじ、舞台のスケッチ、ダンスの足の運びに至るまで事細かに記録している。

《すみれの花咲く頃》

私が一番興味があり、知りたい曲、それは今も歌い継がれ宝塚を象徴する歌となっている《すみれの花咲く頃》である。ノートを繰っていくと《Les lilas》と書かれたページがあった。

春!春!人は皆お前を森の中に待てゐる。そして恋人達は二人連れで幸福な時を過すために、又お前を待ってゐる。(略)白きリラの花再び咲くとき、人も再び心を悩ます、人の心酔はし、奴れいにするのはそれは春だ、リラの白き花再び咲くとき、人はあらゆる誓言の声をきくだろう。

と、二ぺージにわたって訳されている。

この訳詞から悩ましい恋の思い出が歌われていることは理解できるが、「リラの白き花再び咲くとき」の歌詞が繰り返され、所々「彼女を自分の腕に抱くために」「熱烈な接吻を」などの官能的な仏語歌詞も見られる。宝塚では「春、すみれ咲き春を告げる(略)すみれの花咲く頃、初めて君を知りぬ」という淡く悩ましい初恋の歌詞に置き換えられた。

藤田嗣治

[コンセルマイヨール]で上演された『En Plein Jeunesse(若さいっぱい)』というレビューは、藤田が登場する場面もあって、世界中の芸術家が集まるモンパルナスの愉快な生活をうかがえる面白いものであったようだ。白井がパリから持ち帰った原曲の楽譜の表紙には、「コンセルマイヨールで大成功のレビュー」と印刷され、おかっぱ頭にロイド眼鏡、チョビ髭の藤田嗣治の似顔絵が描かれている。

ノートに戻って、<foujita...>のフレーズは「女達は皆変妙なフジタのために(略)彼女達は彼のおカッパ頭を讃嘆する、彼のニツの小さ耳輪、(略)彼の筆法を知ることは可笑しい モンパルナス、モンパルノ」と訳が付いた。(略)

宝塚の舞台では、「フジタを気取り集まるところ あモンパルナス、あモンパルノ」と歌われ、橘薫がフジタに扮して客席を湧かせた。丁度藤田画伯が帰国していた時期で話題性があり、一層客の興味を引いた。

あと北陸にもタカラヅカがあったというローカルネタがあったんですがあまりにもローカルか。どうしよう。明日追加するかも。

七人の恋人

七人の恋人

特に「ごっつ」というか松本人志ワールドに思えた箇所。

『ほとんど×三宅マン』より

三宅マンとか言って何もできないじゃんとテツロウに突っ込まれ、いや三宅マンじゃないから

三宅 「ほとんど三宅マンだからね!正しくは!ほとんど三宅なわけだから!『ほとんど』があるのとないのとでは全然違いますからね」

テツロウ 「・・・はい」

三宅 「ほとんどって言うのは、ウチらの業界じゃ95パーぐらいを指すわけ、要するに5%だけヒーロー的な要素が混じった三宅弘城なわけ!100%を期待されても困るわけ、わかるよねえ!」

テツロウ 「・・・分かんないよ」

三宅 「逆に言うと、全てのヒーローに三宅的な要素は混じってるからね」

テツロウ 「本当かよ」

三宅 「例えばスパイダーマンているじゃん、あれ、うちらの業界じゃ『いささか三宅マン』て呼んでるから」

テツロウ 「いささかって・・・スパイダーマンのどこがいささか三宅なの?」

三宅 「ん〜〜ネガティブな所かなー」

テツロウ 「バットマンは?」

三宅 「ふとした瞬間に見せる表情がそこはかとなく三宅マン」

テツロウ 「タケちゃんマンは?」

三宅 「あれはたけしさんですよ」

テツロウ 「基準が分かんねえよ!」

『むねさん』が「とかげのおっさん」的後味。