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2006-07-31 音を投げる―作曲思想の射程 近藤譲 このエントリーを含むブックマーク


音を投げる―作曲思想の射程

作者: 近藤譲

出版社/メーカー: 春秋社

発売日: 2006/06/01

現代音楽家二人に前衛ジャズから現代音楽を聴くようになった女性が「ジャズはお好き?」と問いかけた。二人の答えは「いいえ、別に」。その理由は。

彼[ジェイムズ・ディロン]によれば、ジャズ(殊に、前衛的なジャズ)と呼ばれている種類の音楽に於いて、最も本質的な要素は、演奏している奏者同士の間で行なわれる音楽的なコミュニケーションである。ジャズは、基本的には即興演奏であるわけだが、ジャズの奏者達は、その即興演奏の場に於いて、音響を媒体としたコミュニケーションを行なう。そして、ジャズの聴衆が体験しているのは、こうした奏者間で交わされる生き生きとしたコミュニケーションそのものにほかならない。ところが、彼が実践しようとしている種類の現代音楽は、奏者間のコミュニケーション自体が音楽聴取の主要な対象となるようなものではなく、その意味で、ジャズと彼自身の音楽は、本質的に異なった性質のものだ、というのである。

彼にとって、音楽作品とは、完結性のある客体的な存在をもつひとつの音響構成体である、と言ってよいだろう。そして、そのような音響構成体を作ること、すなわち、音響を構成することが、「作曲」なのである。ジャズの即興演奏に於いても、確かに、演奏者は演奏のその場で音響を構成してゆく。だが、そのような音響構成体は、言わば、それらの奏者間の音響を媒介としたコミュニケーションの過程として生じてくるものであって、ひとつの客体として仕上げられたものではない。したがって、ジャズは、---彼の見方から言えば---決して「音楽作品」を産み出さないのである。

即興演奏の無名性

そして、1960年代後期には、そうした筆記性の飽和への反動として、非筆記的な即興演奏へと向う動きが、突然、急進的な前衛音楽家達の間に広がり始める。そうした即興演奏とは、まさに、前述したディロンのジャズの説明と同じく、演奏する奏者同士の間で行なわれる音響を媒介とした口述的コミュニケーションを主眼とした音楽である。演奏の現場で直に、演奏に参加している全員によって作られるその音楽には、書き記された「テクスト」といったものは存在せず、したがって、「テクスト」の作者としての「作曲者」というものもない。強いて言えば、そこでの演奏者全員がそのまま同時にその音楽の作曲者であって、その音楽は、つまり、「個人」の名をもっていないのである---音楽は、「無名性」を獲得するのだ。

これは、西洋近代の芸術音楽に保たれ続けてきた筆記的伝統の否定であり、それはまた同時に、長い間筆記の優位によって抑え込まれてきた口述的な音楽の復権を意味していた。

金目鯛の彫刻w

こうした、筆記性の衰退という事態を目の当たりにして、今日、作曲家達は、再び、「作曲とは何か」という問題を問い直しつつある。

多くの作曲家達は、もう一度、「書くこと」の可能性を探り始めた。筆記性を否定した口述的音楽の洗礼を受けた後で、作曲家達は、西洋近代の音楽伝統の根幹であり続けてきた「筆記性」を、距離をとって見ることができるような位置に至った、と言えるだろう。それは、伝統を単に受け容れて引き継ぐことでもなく、単に拒絶することでもない。「書くこと」の新たな形での復権が成されるとき、そこに、単なる否定ではない、「近代」の超克が達成できるのではなかろうか。そういう期待をもって活動している作曲家は、「ジャズは好きですか?」という問いに、多分、漠然と「いいえ」とだけ答えてしまうことになるのだ。

2006-07-30 壁を破る言葉 岡本太郎 このエントリーを含むブックマーク

なかなかに恥ずかしいタイトル、知人が持ってたらチョットひくタイトル、ある意味「あい唾蜜お」ノリ、相のり、青ノリな世界といえなくもなく。基本トーンは「人の評価なんか気にせず、ありのまま、自由にやればいいじゃない」という岡本節爆発の中から、深そうなカンジのを。

アイダ臭を薄めるために、あいだにネットで捕獲した中三ベース少年の名言を無断でちりばめてみました、バカにしてるわけじゃなく、感心したから捕獲したわけで、もし見つけても怒らないでね。

さらに[]内は引用者補足&たわごと&合いの手。


壁を破る言葉

作者: 岡本太郎

出版社/メーカー: イースト・プレス

発売日: 2005/04/01

若さというのは、

その人の青春に対する決意で決まる。

感じ方は人それぞれだけど

正しい感じ方はそんなに多くないんじゃないかなぁと思います。

正しいっていう漢字

もっと増やしたほうが良いんじゃないかなぁと思います。

音感がいいとか悪いとか、そんなことはどうでもいい。

大体、画才があるやつにロクな絵描きはいないんだから。

センスなんかに頼るから駄目なんだ。

[ああ、もう二ヶ月曲つくってない]

絵が描けなくたって、いいじゃないか。

音楽を作らなくたって、死ぬわけじゃない。

ぼくだってパリにいって三年間、絵が描けなかった。

そのつらさは、骨身にしみている。

だけど、そこで自分をごまかして、

適当なことをやってしまったら、おしまいだ。

[どーもー、ネットアイドル、鬼畜性交でーす。パプー。]

「私も描けたらいいな」と思ったら、描いてみるんだ、

いや描いてみなければならない。

裁判官も女の子も家に帰ったら人間なのかー。

っていってるのを女子にみられた。

色々ちくしょう。念力で先生に恥かかせてやりたあ!!!

誰のために創るんだろう。

考えたことあるか。

自分のために?

そんなの甘っちょろいよ。

植木づくりでもやるんならそれでいいんだ。

金のために? だったら創るより

早いやりかたがいくらでもあるだろう。

オナニーっていうのは凄いシステムですよね。

自分との戦いに勝つ。 自分を欺く。

一人で性欲処理。

同じことをくりかえすくらいなら、死んでしまえ

[芸術愛好家は自分で創りだそうという発想がないというフリがあって]

たとえ自分が創りださなくても、

これこそはと思うものは自分の責任で、

徹底的に支持すべきなのに。

ジャコとビルエバンス一緒に演奏したらどうなるのかなぁ。

ひとが「あらいいわねえ」なんて言うのは、

「どうでもいいわね」と言ってるのと同じなんだよ

あのね、女子のスカートの下って無敵なんだ。

近付けないの。

だから、落ちた消しゴムは優しく拾ってあげてね。

認めさせたい、と激しく思う

と同時に認めさせたくない、させない

という意志が強烈に働く。

エレキベースでラファロみたいな演奏が出来るのか。

写真というのは、

偶然を偶然でとらえて

必然化することだ。

[パチスロ番組の司会時の萩原流行は

とっても\(゚▽゚=))/おすぎ]

孤独であって、充実している、

そういうのが人間だ。

[はデなTシャツ欲しい!]

人間は精神が拡がるときと、

とじこもるときが必ずある。

強烈にとじこもりがちな人ほど

逆にひろがるときがくる。

ふhhっふhhhっふ

とうとう核心に近づいた。女子がわかってきた。たぶん

わかるたびに諦めムードが漂う

もっともっと悪条件のなかで

闘ってみることだね。

[追記]

太郎発言だけだといかにもかなあと思って色々まぜたら、当たり前だが、だいぶ、カンジが、意味が、変ってしまいました。太郎だけの方がよかったのか、チョト悩ましいので、再度、太郎に訊いてみた。

いつも言っていることだけれども

芸術はきれいであってはいけない。

うまくあってはいけない。

心地よくあってはいけない。

それが根本原則だ。

2006-07-28 小説の読み書き 佐藤正午 このエントリーを含むブックマーク

佐藤正午が文豪名作を添削というもの。小冊子連載で短い文章ゆえ引用してる間に・・・。


小説の読み書き (岩波新書)

作者: 佐藤正午

出版社/メーカー: 岩波書店

発売日: 2006/06/20

『雪国』の島村の設定が「無為徒食で、酒を飲まず、小太りで、妻子持ち」というのはどうよと言ってみたり、太宰の『人間失格』なら長井秀和っぽく

無頼派の作家は例外なく結婚している。まちがいない。

して、そのわけは。

無頼派には真っ先に、家庭を顧みない男というイメージがある。家庭を顧みないために、何が必要かといえば、顧みないための家庭が必要だろう。まず結婚して家庭を持つ。そしてその家庭を顧みない。ないがしろにする。外泊して遊び歩く。ひとりの男は無頼派であるためにはひとりの夫でなければならない。そこが無頼派を押さえるためのポイントである。

これだけだとふざけてるようだけど、ちゃんと『人間失格』を推理します。

[ネタバレ注意]

なぜなら小説家は「あとがき」で、大庭葉蔵のことを「この手記を書き綴った狂人」と呼んでいるからである。この正常人としての小説家の立場、というか視線がぐらっと裏返る。小説家の視線は、世間が大庭葉蔵を見る視線だが、これが裏返ると、大庭葉蔵の視線が、世間が大庭葉蔵を見る視線をその背後にまわってとらえる。でもそのとき、大庭葉蔵がもといた場所には誰がいるのだろう。世間の目はそこに何を見ていることになるのだろう。わからない。自分が読み終えたものが何なのか、わからない。その場にしゃがみこんで、両手で耳をふさいで叫びたいような気味の悪い読後感がやってくる。この小説の中で、人間失格だと指さされているのは誰なのか、いったい誰が誰に向ってその言葉を投げつけているのか、もう区別がつかなくなる。

武者小路実篤『友情』の場合

でも小説家は文意を通すために、そのためだけに、小説は書かない。一行、一場面を書くときに必ず、過去の体験や観察や単なる物思いやの記憶と手間暇かけて付き合い、その周りをうろついて(略)ただ文意を通すためなら無駄かもしれない表現を掘り出してくる。なぜそんなことをするかといえば、それをしなければ小説を書き続けるのがただの苦痛になるからだ。それを掘り出してくること自体が、慰め、道草、発見、そういったものになり、小説を書き続け、書き進め、書きあげる自分への励ましになるからだ。つまり引用ABCの、文意を通すためだけなら省略できる部分、それらがさきほど言った小説家の生きがいに相当する。

で、極端にいえば、この『友情』という小説には、いま説明した小説を書く楽しみ、書いている自分への励まし、にあたる部分がない。無駄は無駄として切り捨てられている。もっと極端にいえば、小説家がつまらなそうに書いている、つまらないのを我慢して書いている、ような気配が濃厚にある。これも誤解される心配はないと思うが、僕はこの小説がつまらないと言っているのではない。つまらない小説が大正、昭和、平成を通じて長く親しまれ読み継がれるはずはないだろう。僕が言いたいのはこの小説家が、小説を書く楽しみを拒否して、いわば禁欲的に小説を書いているような気がする、そういうことだ。

井伏鱒二『山椒魚』。「山椒魚は悲しんだ」という出だし。読者は「なぜ悲しんだ」と思う、当然次の文章の終わりは「外に出ることができなかったからである」となるべきなのに実際は「できなかったのである」となっている。そして後半の文章

山椒魚は閉じたまぶたを開こうとしなかった。なんとなれば、彼にはまぶたを開いたり閉じたりする自由とその可能とが与えられていただけであったからなのだ。

これを以下のように分析する。

山椒魚は閉じた目蓋を開こうとしなかった、という文は引用Aの書き出しの一行ほど唐突ではない。何行か前に「彼は目を閉じてみた」とすでに書いてあるので、目を閉じた状態が続いているわけである。読んでいてもさほど強く、なぜ?という疑問は生じない。でも閉じた目蓋を開こうとしないのにはそれなりの理由もあるだろう。そう思って次の文を読んでみるが、そこに理由は書かれていない。山椒魚には目蓋を開いたり閉じたりする自由とその可能とが与えられている。要するに目蓋を開いてもいいし、開けるし、閉じてもいいし、閉じられるわけだ。じゃあ彼はなぜ閉じた目蓋を開こうとしないのか? ぜんぜん理由になっていない。ところがこの引用Bの二つの文は「なんとなれば(なぜなら)」という接続詞でつながれている。またあとのほうの文の文末は「からなのだ」と結ばれている。つまり引用Aとちょうど逆さまになっている。表現上は理由説明に熱心のように見えて、内容がその熱心さをこばんでいる。これもひとことで言って変だ。

わざとこういう風にねじ曲げた小説を書くのだという井伏の意志表明に少年太宰は「坐っておられなかったくらいに興奮した」のだと。

ポケットに手をつっこんだまま応対し、ルームナンバーも間違える、やる気のないホテルマンだった頃の著者に「今夜、縫ってもらいなさい、そのポケット、二つとも」と言い放った開高健は恋愛小説を書かなかった。

三時間めになると閉じているのは肛門だけになってしまった。肛門はきまじめに小皺を集めて固く閉じているが、それすら沼に蔽われ、没してしまって、もう吸うまでもない。

三時間とはセックスにかける時間のことをさしているので、僕はいま現実のあなたや僕の性生活というか個人記録の話をしているのではなくて恋愛小説の主人公のあるべき姿の話をしているのだが、いったいどこの誰が恋人の肛門の皺を見たがるだろう?

でも彼はまだ見ている。女の肛門を見ているし、モツ料理屋の煮込んだ胃袋を見ているし、湖の魚の影を見ているし、かつて見たものをすべてもう一度見ている。四十歳のときに書かれたこの小説でも、二十代後半に書かれた短編でも、主人公の視力のよさに変わりはない。つまり小説家の、見ることへの執着は変わらない。

「眼もなく、耳もなく、ただ太って」いくだけのミミズの平和

言うまでもないが[58歳で書かれた]この小説でも、どの小説でも「私」は女の体を隅から隅まで見て、肛門の小皺も見逃さない。

わかったのはこれだけである。

開高健は見ること、見たものに執着して小説を書き続けた。決して「私」に見えないふりはさせなかった。見ないでいること、見えないふりをしていられること、「呑みこんではだし、呑みこんではだし」で食べて眠ることしかしない時間のことを、『夏の闇』では自嘲ぎみに「ミミズの平和」と呼んだ。たぶんこの「眼もなく、耳もなく、ただ太って」いくだけのミミズの平和が、僕の考えでは、開高健の小説の中の(もしあるとすれば)恋愛にあたる部分である。

最後に定かではないが井上章一も取り上げていた志賀直哉の爆笑文。

彼はしかし、女のふっくらとした重味のある乳房を柔かく握って見て、いいようのない快感を感じた。それは何か値うちのあるものに触れている感じだった。軽く揺すると、気持のいい重さが掌に感ぜられる。それを何といい現わしていいか分からなかった。

「豊年だ! 豊年だ!」といった。

2006-07-27 談志絶唱 昭和の歌謡曲 立川談志 このエントリーを含むブックマーク

なにせ「”歌謡グループ”だ何だとくると、家元はマヒナスターズまででもうダメ」という次元なので殆ど知らない歌の話ばかり、それでも家元の語り口ですいすい読めます。昨今のネットで調べてるような輩と違って全部自分の記憶だからと家元。こんな調子。

”何で戦後はカムバックしなかったんですか、唄わなかったんですか”に、小野巡さん、好々爺のあの顔で、”あたしは軍事歌謡が多かったもんですから、戦後はもう精根つきた””もう私の時代[イメージ]ではない”と答えたが、戦前、姓は大山、名は巌〜……の『祖国の護り』を唄って一発目でヒットさせ、以後順調に『涯なき泥濘』『西湖の月』『音信はないか』『開かぬパラシュート』『円タク行進曲』、皆全部唄える。

淡谷さんがなぜコロムビアをやめてビクターに行ったのか。二葉あき子の『夜のプラットホーム』などは確か淡谷さんのための曲だったはず……。一度テレビで唄っているのを聴いたが、見事なものであった。淡谷節であった。二葉さんには悪いが、一段も二段も姐さまであった。『君待てども』や『フランチェスカの鐘』などもこのケースではなかろうか。

つまり淡谷さんが他社に移るので、コロムビア時代、淡谷さんのために作った歌をそのまま二葉さんに唄わせた。淡谷さんに対抗して、第二の淡谷のり子として二葉あき子を育てたのか。そんな気配を感じるのだ。

というわけで、本題とは別のエピソードを。


談志絶唱 昭和の歌謡曲

作者: 立川談志

出版社/メーカー: 大和書房

発売日: 2006/03

売れる前のキラー・カーンと

「師匠、明日、マディソンスクエアで、アンドレ・ザ・ジャイアントとメインでやるんです」

そういう優しい男なのだ。だが、それはのちの話で、二人で大陸を走ったときはまだそこまではいかず、メヒコからジョージアに入り、安いファイトマネーだった。そう二百ドルくらいか。ジョージアで合宿をしていて近所に試合に出掛けていく。試合が終わりキラー・カンの運転する車で帰る。試合場から合宿まで。そう、東京・浜松間ぐらいかなぁ。お互いビールが入って、ほろ酔いである。(略)

その車中で一緒に唄ったのが、三橋さんの『赤い夕陽の故郷』だった。

彼がメヒコに渡る前に、彼に頼まれて、世田谷区は鳥山にあった三橋邸を共に訪れている。電話がかかってきた。「あのォ、小沢です」「何だい、久しぶりじゃねえか、元気か」「ハイ。明日メキシコに行くんです。当分あっちで修業です」「で、何だ」「三橋さんに……」

で、予約もなにもなしの飛び入りの三橋邸だ……。

三波春夫ちょっといい話

「三波春夫」はあまり好きではなかった。つまり浪曲師としてあまり認めてなかった、ということなのだ。(略)

三波さんと会った。テレビだ。”どしたの”と、例の破門問題のときだった。

「師匠に破門されたって?」

「そう」

「いいじゃないの……」

この言葉、”いいじゃないの”といったこのときの三波さんの言葉、”ズシン”ときた。正直嬉しかった。この人は独立独歩の人だったはずだ。師匠なしの芸人だったはずだ。で、この会話か。それにしても本心を感じた。”それでいいんだよ”と……。現在でもこの言葉が想い出とともに重く残ってる。

この人ともっと話しておきたかったというのは、こういう会話があったからだ……。

ギンギラギンはこちとら大っ嫌いだから付き合いはなかったが、声よし、歌よし、あのサービス精神の三波春夫と、”あれ、これ”喋りたかった。が、もう遅い。

ここでもちらりとガンにふれ

「都知事の歌」なんてできないかネ。

  俺は都庁の親分で

  勝手気儘にほざいてる

  責任とらずに済むだろうな

  男石原慎太郎……

ダメかァー。

  落語家は修業厳しい人生よ 家元目指してガンになり……、馬鹿々々しいや。

で、敬愛する三橋の老残に己の老いを重ねて語る

己の芸の、または肉体の下降線を、下り坂を、歌い手は、それらを感じないのかしら。ガン患者が、”これはガンではない”と思い続けるのと同じように。

カツラを着けた後年の三橋さん、声も落ち、病気のためか音程も狂うのだ。”俺ネ、声が出るんだよ。オクターブも下げるどころか、上げるんだ”といってたけれど、唄う姿は惨めであった。

三橋さんに対して”惨めであった”とは、”亡き人に対してあまりにも残酷ではないか”とも思う。”ならば書くな”という反論も当たり前の如く生まれるだろう。

けど、書いているということは談志の中に”治る”、いえ何とかもっと”ごまかせる”という思いがあるからだ。それは仮に当人の誤認であっても、ナニ、往年の三橋美智也ではなかろうが、人生を経てきた三橋美智也、声は枯れても三橋美智也は立派に存在したはずで、その方法はあっただろうに……。いえ、”あるのに”という勝手な怒りである。

(略)

[老いを]もっともっと己の中に、己の人生のプログラムに何で取り入れなかったのか。そのことの恐ろしさ、怖さを感じなかったのか。感じたらそのことを己の芸の中に放り込めたのに……。はたまた感じてはいるが、怖くて、それに関わりたくない、と逃げ回っていたのか。

とはいえ、ピリオドを打つときがくる、当たり前の如く。それはくる。もうすぐくる、くるよォ……いや、きてる。ここ数年、それを感じ、「生」に怯えている。生きているのが辛いのだ。むしろ死は怖くない。それを迎えるために生きていることが恐いのだ。キャアーッ。

それでもまだ己の落語人生はどうやら現役で在ると思っているのは、歌手たちと同じことなのか。立川談志の場合は、”歳を取ってもいい”、また、”歳を取らないと昧が出ない”という錯覚によって、客が許してくれてはいるが。いや違う。”何か”を求めている。その”何か”は判っているし、演じている。けど老ける。そして死ぬのだ……。

最後に、そんな家元の子供時代を振り返ってサヨウナラ

数多いヒット曲のなかから、家元は『雨の屋台』『ダンディ気質』『玄海ブルース』を挙げる。ガキの頃、レコード集めてきて聴いていた。その年代では、歌を共有できるガキ友達はいなかったので、独りで聴いていた。特に雨の日は、戸外で遊べないから何もできない。で、自分で集めたレコードのベストテンを作って順にかける。最後はバタやんの『玄海ブルース』にするか、「パティ・ペイジ」の『涙のワルツ』にするかで、いつもあっちかけたりこっちかけたりして、楽しんでましたっけ。そう、和洋一緒のベストテン。そういう子供でありました。

2006-07-26 株式会社に社会的責任はあるか このエントリーを含むブックマーク

パラッと。


株式会社に社会的責任はあるか

作者: 奥村宏

出版社/メーカー: 岩波書店

発売日: 2006/06/20

持株会社のきっかけ

もともと株式会社は個人によって出資され、株主になっているのはすべて個人であるという前提に立っていた。(略)

1889年、ニュージャージー州の会社法は、会社が他の会社の株式を取得し、かつ所有することを認めることにした。これによって持株会社の設立が可能になったのだが、そうすれば多くの会社がニュージャージー州に本社を移すので、それによって州の税収を増やすことができるということを狙って、州議会でそのような法律を作ったのである。デラウェア州など他の州もそれに対抗して同様の法律を作るようになった。(略)

[ちょうど反独占運動によってトラスティ方式*1による企業合同が禁止になったところだったので、大企業は持株会社方式に殺到]

こうして19世紀末から20世紀はじめにかけて、アメリカでは第一次合併運動が起こり、産業の独占化が連んだ。会社が会社の株式を所有するということが株式会社の原理にかかわる大問題であるにもかかわらず、そのような原理的な問題をなんら考慮することなく、ただ州の税収を増やすために州法を改正した結果がこのようなことをもたらしたのである。これによって株主はすべて個人であるという株式会社の原則が崩れていった。

資本金ゼロ可

資本金、あるいは自己資本を担保とすることで株式会社の有限責任を認めるという前提からすれば、日本の株式会社、そして銀行の多くはいずれも株式会社の原理に反したものであるということになる。そしてそれは銀行をつぶさないという国家の保護のもとではじめて可能とされているものである。(略)

これまで日本の商法では株式会社の最低資本金は1000万円とされていたが、2005年の会社法改正で、資本金は1円でもよいということになった。資本金1円の株式会社ということは資本金ゼロの株式会社というのと同じで、それは全く資本金の裏付けのない会社である。J・S・ミルがもしこれを聞いたら驚くに違いない。

企業それ自体論

株式会社が大きくなるとともに、株主の数が増え、継続的な投資株主と投機的な株主とに分かれていく。そして一時的、投機的な株主は企業自身の利益に無関心で経営者と対立するようになる。このような一時的投機的株主から「企業それ自体」の利益を守らなければならないという。

このラテナウの「株式会社論」の主張を大隅健一郎氏は次のように要約している。

「彼(ラテナウ)は経済的現実の洞察を通じ、株式会社企業が家族的・組合的企業から近代的大企業への発展において、一方において内部的に投資株主と投機株主との分化による構造変革をとげるとともに、他方において外部的に国民経済的な全体に所属する因子として強く公共化せられた事実を確認し、会社理事者はかかる企業に体現する公共的利益の受託者たるものとして、その自由な活動と決定力を必要とし、その限りにおいて小株主とくに投機株主の私経済的利益が制約せられることはむしろ当然であるとするのである。従ってそれは、固有権の理論や株主平等の原則による小株主の利益の擁護を中心として構成された従来の株式会社法理論に対し、企業に体現する公共的利益の保護を中心とする新たな株式会社観として著しい対照をなすものといえる」。

ナチス式

1937年のナチス・ドイツの株式法では、株主総会の権限を法律および定款において明示的に定められた事項のみに制限し、会社の指揮および業務執行の権限はもっぱら取締役の手に委ねた。こうして取締役はもはや株主総会の下位に立つ単なる業務執行および会社代表機関ではなく、自己の独立の権限と責任において会社を指揮する指導者となり、株主総会は主として会社の法律的および経済的基礎に関してのみ決議をなしうるということになった。これはナチスの政治原理である指導者原理の株式会社への導入として行われたのであるが、それは「企業それ自体」の思想を受け継いだものである。

報恩会

[恐慌のさなか]財閥家族は栄耀栄華を極めていた。そこへさらに財閥系銀行や商社による「円売り、ドル買い」が行われたところから、財閥批判の声が右翼や軍の青年将校から起こり、これが[1932年三井財閥大番頭]団琢磨暗殺へとつながっていったのである。

団琢磨が暗殺されたあと、三井合名の常務理事になった池田成彬は、社会事業への献金、三井一族の第一線からの引退、傘下会社の株式公開、対満州開発協力という「財閥転向」策を打ち出した。そして社会事業への献金として、三井家が3000万円を出資して三井報恩会を1933年に設立した。これは日本の寄付史上、最高額であったが、これを含めて1933年から36年までの間に三井財閥が行った寄付は合計6000万円に達した。今日の金額にすると数百億円だが、これに対し三菱財閥も同じ期間に約1500万円を寄付した。

このように企業批判に対しては社会事業への寄付によって対抗するというやり方は戦前から今日まで一貫している。ただ、名前が寄付から社会貢献活動、あるいはフィランソロピーメセナと変わっているだけである。

*1:トラストに参加する企業がその株式を受託者団(トラスティ)に預託し、それと引き換えに企業資産の評価額に相当するトラスト証券を受け取る方式

2006-07-25 戦後戦記 中内ダイエー このエントリーを含むブックマーク

戦後史を強調しようという狙いなのかと勘ぐりたくなるくらいヒドイ表紙に見合った手抜き感は否めないが、素材が素材なのでそれなりに。とりあえず堤清二インタビュー目的で借りてみた。


戦後戦記 中内ダイエーと高度経済成長の時代

作者: 佐野眞一

出版社: 平凡社 発売日: 2006/06/13

『カリスマ』の残り物で書き散らかしたような月刊誌連載部分。『カリスマ』ではダイエーを私物化しようとした晩年の中内を批判していた佐野だが、銀行に身ぐるみ剥がれた中内にすっかり同情的に。以下断片。

「ぼくはナカウチという、日本人には珍しい苗字だったから助かったんだ」(略)中内によると、マニラ郊外の収容所では、ロクな取り調べも行われず、日本兵が次々と絞首台に送られたという。「スズキ、タナカ、サトウなど、日本人に多い名字の兵隊から順番に殺されていった」

震災時の救援活動

中内は阪神・淡路大震災に遡る半世紀前、補給路を断たれたフィリピンの戦場に放り出され、国家から完全に見捨てられた「棄民」だった。(略)

「阪神・淡路大震災に対する国の救援活動には絶望した。何でこんな国に高い税金を払いつづけていたんやろうかと思うと、あらためてむかっ腹がたった」

皆殺しのブルース

ダイエーが全国制覇を目指している頃、中内功*1は幹部会の席で、いきなり黒板に「イ」と大書し、それを○印で囲って、その下に「みな殺し作戦」と書いたことがあった。イトーヨーカ堂殲滅作戦の号令だった。

食管制度廃止の仕掛け人は中内かとライフコーポ清水に問うと

「いや、それは違うね。当時の食糧事情から食管法を変えたのは、農林水産大臣の加藤六月と僕だった。当時、僕は日本チェーンストア協会の常務理事だったからね。あれは直接僕がやった」

さらに清水

「棺を蓋って、いま、中内さんの光と影をどう見るか。ただ、これだけは絶対に言える。日本の小売業をここまで近代化したのは、間違いなくあの人の一大功績です。あの人がいなければ、日本の流通業はもっと遅れたし、下手をすると、アメリカ、ヨーロッパの外資に乗っ取られていたかもしれない。だから、あの人は日本の流通近代化のための犠牲者だったともいえる。中内さんの犠牲があって外資の直撃、奪取を免れたんだから、やはり手厚く葬り、報いるべきでしょう。あの人がいなければ、日本の流通業なんて外国勢にとっくに蹂躙されていたよ」

セブン&アイ鈴木敏文は

−結局、産業再生機構は、丸紅をダイエー再建の支援企業として選びました。この理由は何だったと思いますか。

「機構が自分たちがやりたいようにやれる相手と判断したからでしょう。率直に私はいまでもそう思っています」(略)

「われわれは機構に対しては『最初から閉鎖店舗数を固定するようなやり方では再生は難しい』というような提案をしてきましたからね。やはりそこら辺が敬遠された」

新エピソード

〈リンガエン湾を死守する突撃命令が出たとき、全員に恩賜の落雁が配られた。それには神経を麻痺させるヒロポンが入っていたと思う〉

〈手榴弾による自殺は昼下がりが多かった。歩くこともできず、生きる気力もなくなれば、それしか仕方がなかった。私も何度もそんな思いにとらわれたが、辛うじて思いとどまった〉(略)

〈木下恭輔(現・アコム会長)に「サラ金をやらんか」と勧められたことがある。「一緒に東京に行こう。官庁の役人や丸の内のサラリーマンにカネ貸したら儲かるで」と言われた〉

  • 堤清二+佐野眞一

五番館という百貨店をめぐる「札幌戦争」。オーナーは東京住まいのボンボン。

 中内さんは労働組合に手を回して、たまたまご当主が札幌に行ったときに、「年にー、二回しか来なくて、それでも責任のある経営者と言えるか」と吊るし上げさせたわけ。部屋に閉じ込めて三時間も五時間も帰さない。ご当主は育ちがいいから参ってしまった。それで、ダイエーと提携するよ、とサインしてしまった。(略)

[そこで堤が逆襲]

僕は、労働組合にも圧力をかけたわけ。「俺はもともと組合の出身と言ってもいい男だから言うが、組合ともあろうものが、相手の資本の手先になるとは、組合道に反する。(略)[地区労が納得して、逆転]

エコノミー

中内さんは飛行機も新幹線もエコノミーでした。なんでビジネスクラスやグリーン車にのらないんですか、と尋ねた人にこう言ったそうです。それに乗ると早く着くんかい(笑)

堤37歳、父他界

 (略)そのとき僕にあったのは解放感だけ(笑)。

今日は、何でも正直に言います(笑)。そのときは「これでもう、俺は取り潰されない」という感じでした。それで、葬式のときにある人に言われました。「あなたね、ちょっとニコニコしすぎている」と。

靖国コワイ

佐野 戦争については、卑怯未練だったから生き残ったということと、靖国神社は、恐くて、恐くて、近づけなかった、と言っていました。

ムフフン晋三は単細胞

 [消費税導入時]流通業者だけれども、これには賛成しよう、と。それで、「俺は賛成」と言って業界から吊るし上げられました。「でも、そう思うんだ」と言ったら、そのとき自民党の総務会長だった安倍晋太郎さんに頼られましてね。僕は晋太郎さんとは、わりあい仲がよかった。息子は単細胞ですけれどね。晋太郎さんは、いい人だったと思います。

西武火事騒動

そのときは、まだ死人が出ているって知らないから・・。それに、火事が出たという知らせを受けたタイミングが悪かった。あのときは、静岡県出身で当時フジテレビ社長の水野成夫さんと静岡県知事の斎藤寿夫さんと私と三人で、箱根−熱海自動車専用道路売却の話をしていた。これは、やっとの思いで親父からオーケーを取って、それで「箱根山戦争」を終えさせるという話。だから、「火が出てます」って電話がかかってきても、「じゃあ、すぐ帰る」とは言えない。で、何食わぬ顔をして、お昼ご飯もすませ、それから駆けつけたわけですよ。そろそろ鎮火するころでした。(略)

そのときは、東京じゅうの人を敵に回したような感じだったな、叩かれて。袋叩きというのはああいうことだろうな。まだ、親父が生きていましたからね。

東大細胞仲間・網野善彦

彼はいい男でした。そのころから学者という雰囲気が漂っていた。周りの目も「あいつはすごい学者になるから、あんまりビラ配りなんかはさせるな」という感じでしたよ。

網野善彦ちょっといい話

[同級生が東大で出世している中]

「網野さん、ずばり聞きますが、当時、周囲を見ていて焦りはなかったですか。失礼ですが、言ってみればしがない高校の先生だったわけじゃないですか」と。そうしたらね、「佐野君。俺、焦ったよ。ものすごく焦ったよ。でも、やせ我慢じゃなくて、自分にとってそこは、ものすごく鍛えられる場になった」と言うんです。(略)

[高校生からの遠慮ない質問]

「先生。織田信長は天下を取ったといいますね。じゃあ、なぜ天皇を殺さなかったんですか」と。困っちゃうというわけです。でも、こういう質問は東大にいたら絶対に受けない質問ですよ。(略)

それで、「高校生に言われたことばかりを考えて、荘園制度とか、非農業民のことを調べた。それで、いまでは多少は、その質問に答えられるかもしれない」と。

堤を「東大に入ったらな、青年共産同盟に入るんだよ。そうなっているんだ」と勧誘した氏家。後に読売で務台パージを受けて、ソニーでも行こうかと迷っていたので、ソニーに行ったらもう読売に戻れないぞと堤

「機が熟するまで俺のところで待て」というようなことを言った。「熟するまでって、いつだ」と言うから、「務台さんがいつ死ぬかっていうことだよ」と。ところが、務台さんはけっこう長生きしましてね。氏家は五、六年、西武にいたと思います。(略)それで、二人して、「おい、まだかね」って(笑)。

ナベツネ

僕はわりあい渡邉さんを評価しています。いまでも毎朝、目に触れるだけの新聞の社説は、完全に読んでノートをとっている人です。それは、新聞社の経営者で彼だけだろうと思います。

義明について

気の毒、の一言です。無理だったね、最初から。だけど、僕が代わるというわけにもいかない。

(略)

僕も、自分の生き方を曲げるわけにはいかなかった。「勘弁してください」と言うしかない。(略)

いまだに、事態がどのように進んでいるかわかっていないみたいですよ。(略)

彼は、執行猶予がとけたら俺はまた復帰する、できる、と思っていますよ。でも、それはできないでしょうね。だから、世間を知らないっていえば世間を知らない。僕は悪い男ではないと思うんですよ。でも、無理だったんだなという感じです。

引き時

僕も経営者を辞めなきゃと思ったのは、80年代のなかごろ。それまでは「これをやれば当たるぞ」と思ってやれば、それだけの結果が得られたけれど、だんだん当たらなくなってきた。1982年ごろには「おいしい生活」と言えば当たったのに、似たようなことをやっても当たらない。「あれっ、これはちょっとおかしい」と思うようになった。つまり、消費社会到来の予兆だったのですね。だから、イメージ・キャンペーンをしても当たらない。当たるとしたら安売りだけれども、それも一回だけ。イメージ・キャンペーンによって消費者がその店にロイヤリティーをもって通い詰める、ということに結びつかない。

では、最後にダイエーを追われた中内が2000年に残した「野火」より

40年間、楽しいことは一度もなかったし、これからも、そう感じることはないだろう。私の戦争はまだ終わっていない。野火が、心の中で燃え続け、心を焦がす。

さらに徴兵寸前17歳頃の中内の俳句。

今は悔いず

冬枯の丘

驅け下る

*1:本来は"つくり"が「力」ではなく「刀」

2006-07-24 殺されてゆくペットたち このエントリーを含むブックマーク

繊細な犬猫愛好家&食事中の方には向かない描写あり。

あとがきには特定の施設・人物を描いたものではないとある。仮称の選択において、「ドリーム・ボックス」というネーミング、実在のものにどれくらい近いのか、そこらへんのモヤモヤ感が全体に漂うと言えば言えるわねえ、なんだそれ。


ドリームボックス―殺されてゆくペットたち

作者: 小林照幸

出版社: 毎日新聞社 発売日: 2006/06/01

黄色のボタンを史朗は押す。自動通路の奥の壁、通称「プッシュ」が徐々に迫り出してくる。

犬たちは、壁に押されながら、前進するしか術はない。(略)

犬たちは叫ぶ。プードルは前進を拒み、プッシュに抗う格好で、プッシュに頭をつけて、足をバタバタさせているが、その大きな力には及ぶわけがない。敵わないながらも、そうするしか術もない。(略)

ドリームボックスとプッシュの隙間に、鉄製の蓋が降ろされてゆく。この作業だけはいつも速やかにはいかない。蓋を降ろすとき、犬が必死に頭部や前足を出し、”最後の抵抗”を試みるからである。プッシュの天井には小さな穴がいくつも空いている。鉄パイプを上から差し込めるようになっているのだ。武田と大松が二人で、鉄パイプを差し込み、犬の頭、前足を奥の鉄箱に入れようと叩いたりする。犬の身体が傷つくという気遣いなどは、もはやない。力ずくで叩く。(略)

「ドリームボックスヘ炭酸ガスを注入します!」(略)

犬や猫たちの悲鳴が一瞬だが、大きく響いた。反射的に咳き込むのだ。炭酸ガスこと二酸化炭素は、密閉された空間では呼吸困難を引き起こし、意識不明に陥らせる。一分もすると、悲鳴はかすかに聞こえるぐらいになった。(略)

仰向けに口を開いて息絶えた犬たちの姿が、史朗の目に映った。丸窓の水蒸気が消えたのは、呼吸が完全停止した証拠だ。

バット撲殺期

稲川は、センター開設時(35年前)の頃の思い出話をよくした。

「あの頃、保健所職員イコール野犬狩りが仕事、と見られていた時代だったよな。センターができるまでは、県内各地の保健所で殺処分していたんだよなあ」

(略)

「ドリームボックス」などなく、殺処分を課せられた動物愛護センターでは、犬も猫も大きさを問わず、一頭ずつバットで力任せに殴り殺され、焼却炉に放りこまれていた。

「犬だけで一日百頭、バットで叩き殺した日もあったな。スイングは水平もあれば、上から振り下ろしたり。犬の頭を目がけてさ。獣医や俺たちセンター職員が交代でやったよ。汗をかくから、冬場でもTシャツ姿でね」

センター開設当初は木製バットであったが、1970年代前半に金属バットが登場すると、金属バットに切り替えられた。稲田にとっては、木製バットの方が即死させやすかったらしい。

野良犬時代

「あの頃といまでは、殺処分する犬の質がまるで違う。昔はさ、犬って言えば、いかにも野良犬っていうかんじで、よだれ垂らして、毛は汚い、臭いものがほとんどだった。いまはそんな犬はセンターには入らない。みんな元ペット。雑種もいるけど、多くは血統書付き、ペットショップで結構な値段で売ってたものだよ」(略)

「ペットの犬がセンターに収容されるようになったのは、ドッグフードが犬の餌として定着してからだと思うよ。約25年近く前だな。冷や飯におかずの残りをのせて、味噌汁をぶっかけたワンコ飯の時代は、こんなことはなかったよ。ワンコ飯の時代は飼う側にも家族の一員の意識があったんだ。でも、いろんなドッグフードができて、コンビニやスーパーに置かれるようになってからは、オモチャ感覚になった感じがするね」

毒殺期

ある時、佐々山が赤犬の頭めがけて思い切りスイングをしたところ、犬が咄嵯に動いたため、空振りしてしまった。再びスイングしようとした瞬間、佐々山に飛びかかり、左上腕に食らいついた。

佐々山は右指で犬の眼を強く突き、犬の口を開かせ、バットを持ち直して殴り殺した。稲田が駆け寄ったとき、佐々山の左上腕の一部は食いちぎられており、直ぐに救急車で運ばれ、手術を受け、一週間の入院となった。

こんな一件があってから、職員の安全が懸念されて、殺処分の方法は撲殺から毒殺に変えられたという。無色、無臭の形容が冠せられる粉末状の劇薬である「硝酸ストリキニーネ」を焼却処分する前夜、餌に混ぜておく。(略)

当時は「捕獲・保護」というより、「野犬狩り」の様相を呈していた。硝酸ストリキニーネ入りの毒餌を野外に置いたことすらあったのだ。しかし、犬よりもカラスやタカが食べて死んだり、子供が拾い食いする危険も懸念されて、野外における掃討作戦は間もなく中止となった。殺処分の効率も考えれば、バットや毒入りの餌よりもドリームボックスの方が楽なのだ。

骨肥料

米袋大のビニール袋は白い遺骨で膨らんでいる。細かい棒状のもの、頭骨とおぼしき断片が、閉じられていないビニール袋の口から見える。その傍らにある一斗缶には、焼け残った首輪のバックルがまとめられていた。(略)

骨は動物愛護センターの敷地内に埋められるが、掘り起こして埋めるにも飽和状態で、家庭菜園が趣味の佐々山が、ある分だけ持ち帰り、自分の畑で使ったり、知人らに分けていた。

佐々山が初めて肥料として使ったときは、作物の生長の良さに、近隣の農家が驚いたらしい。「どこのメーカーか?」と聞かれ、正直に答えたところ、当然、ひどく気味悪がられた。だが、そこは動物愛護センターの所長だった。どういう理由で骨になったかを話し、肥料で使ってあげるのが功徳なのだ、と先方を納得させてしまった。いまでは多くの近隣農家がこの肥料を使用している。

この肥料を使うと、茎や葉などの生長が早いため、実が小さくなる。従って、葉を適度に切り落とす剪定の必要がある、と佐々山は「使用上の注意」も付け加える。

飼い主には怒られ

厄介なのは、収録日と放送日には数日間、時間のズレがあり、”あれはウチの犬だ!”と、問い合わせた時には既に殺処分された後というケースが多い。そういう時、必ずと言っていいほど、電話口で喧嘩となる。なぜ殺してしまったのか、あまりに非道で残酷、可哀想ではないか、どれだけ史朗たちが「徘徊犬の捕獲は狂犬病予防法に基づくもので……」と説明しても、飼い主の怒りは収まらない。

犬がいなくなったと心配していたら、あんたたちが勝手に連れて行ったのか! と怒られることもある。怒る相手に話を聞くと、放し飼いにしているのがほとんどだ。

本人の言い分は、散歩に連れて行く時間がなくつながずに飼っており、それを貴様らが勝手に連れて行った、と言い逃れる。「勝手に連れて行かれた!」と思っている者が、犬が殺処分されたと知れば、「愛護センターは俺の犬を勝手に殺した!」となじる。

学習見学の問い合わせはあるのだが

学校側がGOを出しても、父兄の反対が常に大きな圧力となる。”あまりにも悲惨。子供たちのトラウマにもなる””こんな臭い環境では学習にならない”---PTAの代表が見学して回ると、必ずこう言うのだった。この目前の”悲惨な光景”の原因はどこにあるのか、と考える前に、施設がなじられる。

愛護団体に怒られ

動物愛護団体は全国に独自のネットワークがあり、電子メールやインターネットを駆使し、会員同士で、全国各地の殺処分場の様子もやり取りしている。所長や職員の個人名を挙げ、ああ言った、こう言ったの非難も激しい。老朽化の激しい施設ほど、抑留室が狭くて抑留犬が多く、それだけ、犬に不快な思いをさせ、劣悪な環境に置いている、と激しく攻撃されている。

動物愛護センターと看板を掲げながらも、やっていることは逆ではないか。糾弾の言葉に容赦はない。

(●)´`・)←す縫うぴー

念のため書いておくと、仏心を出してはやっていけない獣医がついほだされて一匹の保護犬を、という心温まるストーリーが主軸だから、だいじょうぶだあ。

= = にゃあ

猫ボランティアのブログを見てると、里親を増やそうとメディアで宣伝すると来るのは捨て猫相談ばかり、「じゃあ保健所に連れて行くしかないんですね」と捨て台詞をはかれてヘコむ毎日のようであります。

2006-07-22 植民地&ニート

ペラッとめくって禿シクつまみぐいでスマンソン。


植民地主義とは何か

作者: ユルゲンオースタハメル,J¨urgen Osterhammel,石井良

出版社/メーカー: 論創社

発売日: 2005/11

植民は計画的にネ

特異なケースは日本帝国である。日本は、植民地でも非公式支配の場合にも、計画的に〈工業〉によって植民地経済をおこした唯一の帝国であった。朝鮮および満州では石炭産業や鉄鋼業が、台湾では製糖業が、上海や北シナでは木綿加工業が、それぞれ起業されている。これらの産業は、原料にとぼしい日本列島の経済を補完し、かつ計画されていた日本支配下でのアジア広域圏が、分業的な自給自足経済をいとなむよう助成するのが目的だった。日本の植民地支配は、近代史のなかでも、きわめて弾圧的な植民地体制といってよく、支配下にあった諸民族が、圧政者に対して感謝をしめす理由は少しもないとはいえ、その物的、構造的な遺産は、後に朝鮮、台湾、中国の一部で産業が発展する重要な基盤となった。

政治を非政治化

ヨーロッパ人の有能な総督たちが成功した秘密のひとつは、1883年から1906年までエジプトの最高権力者だったクローマーが述べたように、「政治を非政治化し、人間にかかわるすべての事柄を、規律ただしい管理の問題に還元する傾向」のためであった。事実、クローマーは、高度帝国主義的なイギリス植民地思想を最もまとまった形で述べた著作『近代エジプト』(1908年)のなかで、くりかえしエジプトの行政府を、帝国主義的な意志によってのみ動きつづける「機械」と呼んでいる。だからこそ、植民地国家は、とりわけ西欧の政治形態を取りいれようとする他意のない順法的な試みにさえ、苛立ちをかくさず抵抗したのである。効率のよい平穏な行政を乱すことは許さないというわけだ。

希望について/ニート 希望について/ニートを含むブックマーク


希望について

作者: 立岩真也

出版社/メーカー: 青土社

発売日: 2006/06

うーん、オレにも仕事をくれというより、何故(あんなもの&あんなやつら)が金になって、(これ&コッチ)が金にならないのか、ということの方が問題なんじゃねえのか。

「おれたちは働いてそれで給料をもらっているのに、あいつらは働かないで暮らしている。ずるい。」という反応があるかもしれない。もちろんそれに対する正しい返答は、「なら、私が働くから、仕事を代わってくれ。」である。働いていて、働かないで暮らしている人の方が得をしている、これでは損だと思ったらその人は失業して、別の人に働くのを交替すればよいのである。

この方法をとらないとすると、今の労働者の数で一人あたりの労働時間も同じままではどうにもならないことは明らかである。だから、労働時間の分割、再分配を行なえばよいということになる。

働こうが働くまいが基本の所得を保障する「ベーシックインカム」というアイディアもあります。日本では若い人からそういうことって言い出しにくいかもしれません。でも仕事を分けてくれ、それがいやなら金を、というのはもっともな要求です。金を分けろ、それがいやなら仕事を、でもよいのです。そして、所得と就労、両方いっしょでもよいし、その方がよいはずです。とにかく問題を人の心の問題と見ないことです。気持ちを入れ替え、訓練すればなんとかなるなんて話を信じないことです。繰り返しますが、そんなはずないんです。

追記

『ニートを生み出す社会構造は 』とかチャンとネット上にあるのね。ココ→→●

2006-07-20 グレン・グールド発言集 このエントリーを含むブックマーク


グレン・グールド発言集

作者: グレン・グールド,ジョン・P.L.ロバーツ,宮澤淳一

出版社/メーカー: みすず書房

発売日: 2008/08/13

若人へのアドバイス

「お互いの演奏を聴くのをやめなさい。とにかく何よりもまず、特定の楽譜あるいは一揃いの楽譜を決めて、自分がこうしたいと考えているものを達成しようと努力したらいい。それが実現し、この種の音楽の弾き方はこれだとはっきりわかったあとであれば、個人の楽しみや驚きのためならかまわない。仲間や、先輩格の人などの演奏に耳を傾ければいい。けれども自分なりの考えがまとまらないうちは決して聴いてはいけないし、信奉するべき解釈上の伝統とおぼしきものに基づいて考えをまとめてもいけない」と。自分の考えがまとまりきらないうちに、あるいはまとめる代わりに仲間の演奏を聴くのは、ピアノ演奏の伝統として受け継がれていくものの多くを取り込んで考えを固めてしまうことのようです。

(略)

確かに、ある段階では、誰もがアイドルを持つものです。(略)そういう段階を経由して、やがて自分の中から追い出します。はやりの言葉を使うなら、役割モデルですが、これはある段階では必要なのです。ところが成熟した演奏家は違います。必ず信奉すべき統一見解があって、それは、ひとつの作品の真理がどこにあるかを知るためにさまざまな録音を学んだりあらゆる演奏を聴いたりしなくてはならないとか、中道を行く伝統的な演奏に近づくほどましになるといった考え方は、まったく滑稽だと思いますね。

私が信じられないのは、わざわざこう言う人がいることです。「この曲を弾いてみようと思います。なぜならXとYとZが弾いているからです。ただし私なりの独自性を少々主張するために、ほとんどXの弾き方を踏襲しつつ、Yの弾き方の10%を加味し、もしかしたらZのテンポを採用するかもしれません。そうすればこの三人の誰とも微妙に異なって思えるでしょうから、前にもそうやって弾いた人がいたよ、などと言われずに済みます。」

(略)

許されるのは音楽史を形作る根本的な感覚から生まれる限定要素だけです。そこからは何らかのヒントを得られるわけで(略)ベートーヴェンが作品ニを書いていたときは、三曲のピアノ三重奏曲を仕上げた直後だった、だから彼は室内楽のつもりで書いていたのだ、といったヒントです。

1965年のマーシャル・マクルーハンとの対談

マクルーハン 聴衆としての人々は、いよいよ作曲家に変貌しますね。(略)人々は、製品の製造者兼設計者となるのです。(略)

ジェイムズ・ジョイスはこう語っています。「私の消費者たちは、私の制作者ではないのか?」と。聴衆からのこの種の迅速なフィードバックによって、芸術家は、人々の潜在力をいっそう意識するようになります。その潜在力を自分の芸術的効果の一部を成すものと見なすのです。すると、芸術家本人は、古いロマン主義的な流儀にあったような、自分の姿を聴衆に押しつけたり、聴衆に投影させたりする代わりに、聴衆という集団的イメージすなわち仮面を自分のものにしようとする。

(略)

グールド(略)参加における重なり合いが厚かましくも創造的構造の一部分になるという事実は、専門化の必要性や権威が衰えることを示唆していると考えるべきではありません。むしろ起こるのは、完全に新しい参加領域の発達、そして、特定の芸術作品の製作にますます多くの人の手が求められることです。これは、未来の音楽の参加にあっては、創造的な人物が解釈者として直接表現したり、聴取者としての自分自身の楽しみのためにそれを行なうのだという意味ではありません。むしろ、未来の音楽における参加の領域が、参加者が担う責任を膨大な数に膨れ上がらせることを意味するのです。二番目に起こるのは、この非常な複雑さゆえに、一個の芸術作品の完成に実に多くの人の手が合わさるがゆえに、歴史的プロセス内部でのアイデンティティの本質を規定する専門化した情報概念の存在感がたいへん弱くなります。

うわっ、40年前にニュース・サイトの本質をついてる発言

マクルーハン ふむ、電信によるニュース・サーヴィスと奇妙な類似がありますね。このサーヴィスではどんな物語が届くかどうかは問題ではない。このサーヴィスの目的はその日を満たすモザイクを供給することであって、特定の物語の筋を供給することではないのです。サーヴィスはその日のあなたを満たす。発信地と日付が「これが本日のあなたの環境です」と言うのです。

ブログ&写メ

マクルーハン 郊外では、各家庭が映画制作を始め、来客や友人をその家庭の生活を写した拡大的なドキュメンタリーに組み込んでしまう状況がすでに起こっており、郊外の生活の恐ろしくかつ不愉快な特徴となっています。多くの人は、他人の家にむやみに入ることはためらうものですが、自分の家族の生活の様子や家族旅行を映画にしてしまうと、そうでもなくなるのです。本来は自分で何かを作ることで得られる喜びがあったのに、こういう参加は、そういう喜びを、他人が何かを作っている様子を自分にマッチさせたり、評価したりする喜びにすり替えてしまうのです。

ペダル踏弥に会ったかい

私が好むピアノの響きは、一部の人たちによれば、あまりピアノにふさわしくない響きです。今でも覚えていますが、学校に通い始めて間もない頃、ほかの生徒がペダルをたくさん踏んで弾いているのを聴くのが大嫌いでした。下品なやり方だと思ったのです。(略)

作品が特別に、絶対的にペダルの使用を求めていることがない限り、私はペダルをまったく踏みません。骨抜きにされたハープシコードを少々思わせるような響きになったときがいちばん幸せです。

どういうわけか、私はペダルの濫用が大嫌いなのです。例外は、響きにわずかに光沢をもたせてビートをはっきりさせるといった強調をするときです。そのときだけです。実は私にはペダルを踏みならす悪い癖がありますが、これはこの強調のためです。しかし、彩りを加えるとか、楽譜に何かを施す意味では、ペダルを嫌います。実は、私がほかのピアニストを評価するときに、ペダルの使い方をある程度見ます。私が絶讃しているピアニストは、みなペダルの使い方が非常に控え目だからです。ただし、おかしなことに、シュナーベルだけは例外です。彼はペダルの常習犯でしたから。何らかの技術的な欠点を補うためだったのではないかと思いますが、彼はほとんど誰よりも上手にペダルを踏みました。

オルガンから学んだ演奏法

実は最初、私はオルガニストとしてデビューしたのです。(略)バッハをピアノで弾くときの方法を私にもたらしたのは、オルガンで演奏すること、特にオルガンで演奏するときの指の触感にほかならないと思います。(略)

何が言いたいかというと、オルガンでは、フレージングに関してあるひとつのメソッドを、もしくは極端に対照的な二つのメソッドを真剣に検討したとしても、響きのさまざまな平らなプラトー状態に効果を与える音栓操作にでも訴えない限り、何をしても、たとえゆっくりと階調をつけていったとしても、ロマンティックな固まりのような音以外、生み出すことは不可能だということです。つまり、声部を明確にし、音を区切る効果を達成するには、音を叩いたあと指を上げておき、次の音を叩くまでその音が鳴り出さないようにしておくしかないのです。私がオルガンで学んだ演奏法とは当然これでした。そして私はこれをそのままピアノに移し替えたのです。

長時間の練習よりテープに録音してチェック。

テープを作ってもらって、翌朝聴き直しました。すると曲の韻律的な形態がわからなかった。拍を数えることすらできませんでした。奇妙でした。演奏中、内なる耳ではリズムを感じていたと思っていましたから。私は自分のテープ・レコーダーで同じ楽章を何回か録音し、聴き直しました。この欠点を克服できるかどうか見極めるためです。ついにわかりました。非常にゆっくりとしたテンポの作品の場合、私は次の和音に移行する前に長く待ちすぎる傾向があるのです。和音を叩くべきときに、筋肉に力が入っている。そのときにはすでに遅れているのです。それから、この意外な新事実のおかけで、ほかの曲でもこれをたくさんやっていたことがわかりました。重大な発見でした。内なる耳に聞こえるものが出てくるものと同じとは限らないことを私は学びました。

演奏会が嫌いで、録音が好きなら、演奏会を録音すればいいじゃないかという問いに対し

たとえスヴャトスラフ・リヒテルのような大演奏家の演奏会を録音しても、結局それはレコードには成り得ないのではないかという疑問です。つまり、スタジオ・プロダクトにはならないのです。作れるのは、演奏の複写にすぎません。(略)

まさに一種の後光です。たいへん神聖な後光。それがこの記録の一ページを縁取る。そのおかげで人々は、腰を下ろしてこう言えるのです。「これは1964年11月16日のリヒテルだよ」と。しかしこれで録音ができたとは言えない。なぜなら録音は記録という定義からすれば、ある種の完全主義を志向するからです。この完全主義は、単に演奏がそっくり収まればいいというものではありません。なぜなら、ある夕べのリヒテルからその演奏を入手できるかもしれませんが、録音が目指すのは響きの完全主義でもあり(略)

こうしたものは、[……」演奏会をただ録音しても得られようがない。私の感覚としては、つまり個人的には、録音は未来で、演奏会の舞台は過去だったのです。

2006-07-18 翻訳教室-村上春樹 このエントリーを含むブックマーク

翻訳教室に村上春樹が登場したとこだけを。


翻訳教室

作者: 柴田元幸

出版社/メーカー: 新書館

発売日: 2006/02

「ニホン語、話せますか?」(id:kingfish:20040522)での指摘に答える春樹。

村上 そうか、「きみ」ですね。「きみ」って訳したんです。僕もずいぶん迷ったんだけど、それについてもいろいろ批判がありました。訳しすぎだというんです。あれは実体のない「you」だから訳すべきではないと。僕の作品を翻訳してくれているジェイ・ルービンも同じ意見で、アメリカ人にはやはりそういう意見の人が多いようですね。でも、僕はそうは思わない。アメリカ人は「you」は実体のない「you」だと言っているけど、実体は本当はあるんですよ。あるけれど彼らが気づいてないだけじゃないかと、僕は思うんです。架空の「you」は彼らの頭の中には存在しない。でも存在しているんです。日本人である僕らが見るとそれが存在しているのがわかる。でも彼らにしてみれば、もうDNAに刷り込まれているからわからない。だから僕らが日本語に訳すときは、ちょうど中間ぐらいの感覚で訳さなければいけないんだけど、中間というのは難しい。だから僕としては、二回「you」を使う部分があれば、一回はなし、一回はありでいこうと決めている。でもそのへんの理解のしようは、アメリカ人にはわからないだろうな、たしかに。だから、これは僕は何度も言っていることだけど、翻訳というのはネイティブに訊けばわかるというものではないんです。

『アメリカン・サイコ』のブレット・イーストン・エリス人物評

「あの人はおもしろいですよ」「危ない人です」「どうしてあの人の書く小説が壊れているかというと本人が壊れているからですよ」

村上 あんまり人のことを壊れてるなんて言うのも問題があるんだけど、たとえばエリスは、小説でブランドネームをいっぱい出してきますよね。それから洋服の描写とか食べ物の描写がやたら詳しいし、繰り返しがしつこい。そういうのって普通、悪文なんですよね。だからそれを悪文ととるか、たとえばジェームズ・ジョイスみたいな意識的な解体ととるかというのはものすごく難しいところなんです。エリスの場合は悪文のほうに近いんじゃないか……(笑)。(略)

意識的な解体じゃないですよね。あの人の神経そのものが、ブランド名の羅列とか繰り返しとかに行ってしまう人なんでしょう。でも、ジョイスだってひょっとしてそうだったかもしれない。それは僕にはよくわからない。ただ僕は、エリスは身体を張って書いてる人だなと思ったわけ。(略)

僕はエリスって好きなんだけど、みんなだいたい悪く言うんですよ。でもエリスが好きなのは、あの人の文章を読んでいて、ひどい文章だけど何か本当のものがあるという風に感じるわけ。で、本人に会ってみると、そういう風にしか書けないというところで書いているというのがわかった。だから僕があの人を壊れてると言うのはそういう意味なんです。神経系が、文章の神経系と同じ神経系なんですよ。軽薄、浅薄なわけ。 shallowなの、作品も本人も。これはいい意味で言ってるんですけどね。


忘れえぬ人

作者: 山口瞳

出版社/メーカー: 河出書房新社

発売日: 2006/05/11

'63紅白涙合戦(婦人画報掲載)

1963年の出来事にコメントをつける企画なのだが、コメントより出来事の方に驚いて

美智子妃をパパラッチ

昨年葉山海岸を水着で憩う美智子妃の盗みどり写真が女性週刊誌のグラビアを飾ったこともある。この写真はたいへん問題になり、日本雑誌協会に対して、宮内庁から強硬な申し入れがあった。

しかし、その種の雑誌は、手入れをうけた全裸ストリップなみに、ほとぼりがさめるのを狙って、またぞろ同じことをくりかえしている。

堤清二店長号泣

八月二十二日、西武百貨店が火事を出した。[お詫びセールに客が殺到、45分で閉店。](略)

まず、出火の翌日、実地検証が行なわれ、七人目の死者が発見された。二十二日から一睡もせずに陣頭指揮に当った堤店長は、途端にがっくり首をうなだれた。しかし、未曾有の火事騒ぎに、涙など流している余裕はなかったのである。

彼が本心から声をあげて泣いたのは、その夜、店で行なわれた通夜の席であった。彼は死者に対する哀悼と痛恨に、男の涙を流した。

二十四日のお詫びセールには五万人の客がつめかけた。シームレス・ストッキング三十円、下着五十円。その「奉仕ぶり」をテレビが聴視者に知らせた。

店内は大混乱におちいった。

67年朝日夕刊掲載。お題は「ミレイユ・ダルクとツイッギーについて何か書け」。

67年のプチカリスマ定義

私は、現代の英雄とか現代の人気者とかいうのは、女性週刊誌や男性週刊誌の人気者なのであって、それは、つまり十六、七歳から、せいぜい二十二歳まで、それも東京を中心にしていえば、関東近県の中小都市における人気者なのだと考えている。それは「マスコミに弱い頭」であり「マスコミによわい年齢」である。私だってそうだった。

ミレイユ・ダルクを酷評

[まずブスだと酷評。]

無軌道をよそおっているけれど、なにやらモノホシゲな女である。

野暮なことを言うようだが、すべては生活の「根」がないことに発している。片方に、まっとうな暮しがないから、目つきがさもしくなるのである。根なし草だから、女のあわれがない。

誤解されるといけないのでつけ加えるが、私は、女は体を売って暮したとしても、それはまっとうな暮しであると考えている。この映画のように商人をごまかしたり、金持に媚を売って暮している若い女を見るとヘドが出る。

原宿族とか新宿フーテン族とかを支えているものは、こういう映画の設定であり、こういう女の美化によるものだと思われる。

ツイッギーとは何か。あれは、アメリカと去年の日本の少女の間で「爆発的に」流行した着せかえ人形である。たまたま、だれかがそういう奇形児を発見したのである。

2006-07-15 人権の政治学 このエントリーを含むブックマーク

飛ばし読み。


人権の政治学

作者: マイケルイグナティエフ,エイミーガットマン,Michael Ignatieff,Amy Gutmann,添谷育志,金田耕一

出版社/メーカー: 風行社

発売日: 2006/06

人権は切り札にならず、逆に妥協を欠くことに

ある要求を権利とよぶことは、その要求には交渉の余地がないといっているのと同じなのである。したがって、政治的な要求が権利の要求に転換される場合は、問題になっている論点が妥協の余地のないものになりかねない現実的な危険がある。権利要求の言葉を使うことによって、妥協が促進されるわけではないのである。

もし権利が切り札でないとしたら、そしてもし権利が交渉の余地のない対決の精神をうみだすとしたら、権利の効用とはいったいなんなのだろうか。せいぜいのところ権利は、対立する当事者が共に熟議するための手助けとなる共通の枠組み、共通の参照点をつくりだすだけである。とはいえ、共通言語はかならずしも意見の一致を促進するわけではない。たとえばアメリカの中絶をめぐる論争においては、賛成・反対の両陣営が、人間の生命を非人間的に扱うことは禁止されるべきであり、人命には特別な法的および道徳的な保護を受ける権利があるということに同意している。ところが、これは共通の基盤というには程遠いものである。それというのも、ふたつの陣営は、人間の生命が始まるのはいつなのかという点に関して、そして母親の要求とまだ生まれてない子供の要求のどちらが聞き入れられるべきかという点に関して、意見が一致していないからである。

この事例が示しているのは、人権の機能とは、論争の当事者が共通の基盤をみつけるための手助けとなるように、共有された道徳的価値観のいっそう高次の領域を明らかにすることである、と考えるのは幻想だということである。

論争終結のためには

それとは別の政治的な要因、たとえば、揉め事はもううんざりだという気分が双方で共有されること、相手に対する敬意が芽生えてくること、おたがい同士を認め合うことなどが不可欠である---意見を一致させようというのなら、道徳的普遍に対する共通のコミットメントに加えて、これらのすべてが出揃っていなければならないのである。

人権幻想

私が批判したいさらに大いなる幻想は、人権は政治を超越している、いい換えれば、人権とは政治上の論争に決着をつける働きをする道徳的切り札だ、という考えである。(略)

人権は政治以外のなにものでもない。そして政治とは、具体的な状況と道徳的な目的との間で折り合いをつけなければならないものであり、また、手段と目的の間だけではなく複数の目的自体の間での苦渋に満ちた妥協を引き受ける覚悟をもっていなければならないものなのである。

人権を宗教化するな

人権がひとつの「世俗宗教」と考えられているとすれば、それは誤解だということである。人権は宗教的な信条ではないし、形而上学でもない。宗教的信条や形而上学にしてしまうと、ある意味で人権を偶像化することになる。つまりヒューマニズム自体を崇拝するヒューマニズムという奇妙な代物になってしまうのである。

(略)

たしかに、人権という考え方をつぎのような主張に結びつけたいという誘惑にかられることがある。すなわち、人間には生まれながらにして尊厳が内在している、人間には本性的かつ本質的にそれ自体としての値打ちがある、人間は聖なる存在である、といった主張である。こうした主張の問題点は、それが誰にとっても明白というわけではないため議論の的になるということである。

(略)

私がここで主張したいのは、この種の基礎づけ主義的議論をいっさいなしですませるべきだということである。そしてまた、人権が現に人間にとって役立っているということを根拠にして人権の支持論を構築するほうが、それよりもはるかによいということである。

なぜ、人権をこのような「最小限主義の方法で」正当化する必要があるのだろうか。

1945年以来、人権言語は権力と権威の源泉となった。しかし、なんであれ権力に対する異議申し立てがおこるのは避けられない。いまでは人権の教義は非常に大きな力をもっているが、しかしまた人権の普遍性を主張する際にうかつにも帝国主義的な態度をとってきたために、深刻な知的攻撃にさらされるはめになったのだ。こうした異議申し立ての中で提起されているのは、人権はそれが獲得してきた権威に値するものなのかどうか、人権の普遍性の主張は正当なものであるのかどうか、人権とは狡猾なやり方で実践された西洋の道徳上の新しい帝国主義にすぎないのではないか、といった重要な問題である。

相対主義からの批判には、権利の言説が個人主義的であると認めることが最良。

西洋の人権活勤家たちは、これまで文化相対主義者の異議申し立てに対してあまりにも弱腰だった。相対主義は、いつの時代にあっても暴政を正当化するための口実となる。人権の言説の核である道徳的個人主義についていいわけしなければならない理由はない。まさにこの道徳的個人主義こそが、搾取や抑圧を受けている従属集団にとって、人権を魅力的なものにしているのだ。

人権に対する--アジア、イスラム、西洋のポストモダニズムから生じる--文化的異議申し立てに敢然と立ちむかう最良の方法は、そのような異議が真実であると率直に認めること、つまり権利の言説が個人主義的であるのは真実だと認めることである。しかし、まさしく権利の言説が個人主義的であることが、権利の言説は暴政に対する効果的な治療法であることのあかしであり、きわめて多様な文化に属する人びとにとって魅力あることのあかしなのだ。

仮想批判例一部

イグナティエフ君、君は、人びとがそう望めば我々の文化から離脱できる、それさえ認められれば、我々の文化全体をどうこうしようなどとは思わないと主張する。君の提示する人権アジェンダは、君自身が「どんなものであれともかく生活」とよぶものに基盤をあたえることに限定されており、文化的に多元的な世界での多種多様な社会的善をイメージしているのだ、と。我国で我々男性を侮蔑した女性を殺すのはやめなければならないが、それ以外は何事もなく我々の文化は存続するだろう、と暗にほのめかしている。しかし君は、まさに君が反対している当のものが、我々の文化を規定しているということを全然理解していない。

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2006-07-12 ポーと雑誌文学 このエントリーを含むブックマーク

「単著jaないですよ。ポレを単著させたらマグマ」なので記述が重複します。

無断使用の英国文学が氾濫、無名アメリカ文学者が陽の目を見る機会は殆どなく、「国民文学」の気運が高まれば仲間褒めで真っ当な批評は成立せず、あげくパクリも横行、大衆化に対応したいが、質は下げたくなく、雑誌で大衆を教化できればと考えたポー。いつの時代もそうなのねー、めげるわー。


ポーと雑誌文学―マガジニストのアメリカ

作者: 野口啓子,山口ヨシ子

出版社/メーカー: 彩流社

発売日: 2001/03

後進国のA文学宣言

周知のように、アメリカは1812戦争で勝利して以来、表面上は経済的独立を果したものの、実際には依然としてイギリスの後進国であった。文学においても、国際著作権法がなかったこともあり、イギリスの人気作家や詩人の作品がそのまま大量に印刷され読まれていた。雑誌も例外ではなく、主要なイギリス雑誌が、ときには本国よりも安い値段で、販売されていたのである。文学批評においても、イギリスによる評価がそのまま受容されていた。イギリスのアメリカ文学に対する評価は厳しく、アメリカ人にとって屈辱的ですらあった。

しかしながら、産業化の急速な進展により、経済面での実質的独立を果たしつつあったアメリカは、文学においてもアメリカ独自のものを強く求めるようになった。(略)30年代、40年代は、「国民文学」への期待がもっとも高まった時期でもあった。その結果、アメリカ的な題材が賞揚され、アメリカ的なテーマが盛り込まれた小説が、ほとんど無批判に、もてはやされたのである。

自国の文学に対するこのような態度の変化は、ボーにとって、「過度の卑屈」から「過度の傲慢」への反動的な変化にすぎないと思われた。若い頃よりヨーロッパ文学に慣れ親しみ、その影響を受けていた彼にとって、アメリカ的な題材の賞揚は、もうーつのリージョナリズムにすぎなかった。

ゴッシク小説と推理小説

人間の理性では説明がつかない超自然的な現象を扱うゴシック小説と、あらゆる出来事を合理的に解明してみせる推理小説とは、一見正反対の世界を指し示しているようにみえながら、謎という一つのモチーフによって結ばれたコインの裏表にすぎないのである。すなわち、謎が人間の理解を超えれば、ゴシック小説となり、謎に対して人間の理性が勝利すれば、推理小説へ傾く。

彼にとってこの世界は、すでに何かを喪失しているのであり、その復元は、死後の天上界においてしかなされ得ないということだ。ポーの主人公たちが死に魅せられるのもそのためである。ポーにとってもっとも重要なのは、過去を未来において取り戻すことである。その結果、現在というこの世界は、過去と未来の狭間で限りなく不確かなものとなる。ポーのゴシック小説は、いわば、現実世界が過去の亡霊や未来の破滅=死によって浸食される不気昧さや恐怖を描いているといえよう。そしてほとんどの主人公が、日常世界にぽっかりと口をあけた奈落へ呑み込まれてしまう。

ポーが凶暴な犯行をオランウータンに帰したのは、もう一つの重要な目的のためである。すなわち、動機なき殺人の創造である。読者がもっとも期待を抱く動機の解明を、彼があっさり捨て去ったのはなぜだろうか。動機の解明とは、つまるところ、殺人行為に意味と整合性を与え、行為の異常性を理解可能なレベルに引きさげて手なづけることである。それは、ポーにとって、陳腐な因果応報の法則にすぎず、物語から教訓を引きだすことにつながる。(略)

ポーの関心は、行為の意味を理解することではなく、意味づけ不能な闇の力を示すことにある。デュパンの分析も、それゆえ、犯行の意味内容よりも、犯行のプロセスに重点がおかれる。

パクッた奴にドーン!

1891年の著作権法の成立まで、アメリカでは、イギリスの人気作家の小説や詩が、そのままコピーされて、販売されていた。いわゆる海賊版の横行である。いわば、アメリカの出版業界がこぞって剽窃=盗みを犯していたのである。その結果、国内の作家たちは、ただ同然のイギリス作家の作品と競うことになり、彼らの作品は安い値で買いたたかれることになった。文筆業で食べていくことは、当時のアメリカにおいては、ほんの一部の人気作家を除けば、不可能に近かったのである。(略)

海外から押し寄せる複製品に苦しめられる一方で、「モルグ街」や「黄金虫」などの人気は、ポー自身の作品の複製も促すことになった。それらの作品は、彼の承諾なしに他雑誌に掲載され、彼に正当なる富をもたらす代わりに、資本家を肥やすことになった。(略)

したがって、「盗まれた手紙」におけるD大臣の「盗み」に対するデュパンの復讐は、アメリカの出版業界にも向けられているといえよう。

著者が保証金を出す

アメリカ人の作家の作品を出版する際には、大抵の場合、保証金を要求され、利益があった場合にのみ、純利益の10%が支払われたという。たとえばポーの場合、『アル・アーラーフ、タマレイン、および小詩集』を出版しようとしたが、百ドル用意することを要求され、ポーにはそれができなくて断念せざるを得なかった。ポーが批評家、雑誌編集者としてかなりの名声を得るようになった1839年になってようやく『グロテスクとアラベスクの物語』のニ巻本が750部出版されたという。この場合でも利益はすべて出版社のものになり、ポーは版権と数冊だけを手にした。

女は家庭の王様か

当時の大多数の女性たちは急進的なフェミニストからはほど遠く、妻や母として家庭を守ることに専念していた。家庭こそは、「社会的に無力な女たちが、自己確立の手段として作った理想像」であり(略)

本来、聖書が置かれたはずの客間のテーブルに、これらエチケット本やギフトブックが置かれるようになったことは、建国以来、社会を支配した厳格なピューリタニズムが衰退し、それに代わって、家庭を中心とした文化が台頭してきたことを象徴するものであろう。(略)

母性礼賛は、母性の神格化を生み、女性たちを長年にわたって縛り、時には重荷となってのしかかることにもなる。しかし、別の見方をすれば、女性たちは「自尊心の基盤、家庭におけるカリスマ的権威、自分なりのものの見方、自己愛」を獲得することにもなったのである。

こうして家庭内の権威的存在となった女性たちは、産業化と貨幣経済への対応で外界にしか目が向かない夫に代わり、道徳、教育などを支配するようになった。

ダイム・ノベル(10セント本)で大衆化が加速

スティーブンスの成功に気をよくしたビードル兄弟は、同様の作品を出版することを考えるが、その販売に際して、画期的な新商法を試みた。彼らはまず、実際に本が店頭に並ぶ二ヵ月ほど前から、新聞広告、サンドイッチマン、看板を使って「セス・ジョーンズって誰?」というコピーを流した。しばらくしてコピーを差し替えるが、そこにはアライグマ皮の帽子、鹿革のシャツに脚絆という典型的なフロンティアのいでたちに、マスケット銃を持った男の絵が描かれ、「俺だ、セス・ジョーンズは」と言葉が添えられていた。こうして人びとのなかに十分関心が高まった頃、エドワード・エリス著『セス・ジョーンズ、フロンティアの捕虜たち』の販売が開始された。当初の6万部はすぐに売り切れ、最終的には50万部という驚異的な売り上げを達成したのである

うーん、暑さのせいか、面白くない。

2006-07-11 ドイツ現代史の正しい見方 このエントリーを含むブックマーク

なぜナチスがというのが本題なのだが、それ以外のとこをつまみ食い。


ドイツ現代史の正しい見方

作者: セバスチャンハフナー,Sebastian Haffner,瀬野文教

出版社/メーカー: 草思社

発売日: 2006/04

ナポレオンからビスマルクまでの50年間一度も戦争をしなかった成金ぬるま湯国家プロイセン

18世紀の古典的プロイセンは、進取の気性に富んだ、戦闘的で、精神の自由を謳歌する啓蒙主義の国だった。これに対して王政復古時代のプロイセンは、反動的で平和的でしとやかな、まさにロマン主義の国だった。(略)

ナポレオンの時代にも、プロイセンは時の流れに忠実だった。それなりのやり方でフランスの近代思想をとり入れ、それを国内の政治改革で実践しようと試みたからである。しかし改革はさしたる実を結ばず、結局は旧体制の列強連合に加わって、みんなでナポレオンを倒したのだった。このことによって改革派の気勢は挫かれはしたものの、しかし旧体制側に身を寄せたことで、プロイセンは迫りくる国家の瓦解や滅亡を免れたのである。メッテルニヒ時代のプロイセンは、暗黙の処世訓として次のような言葉を胸に刻み続けた。「とにかく助かることが先決だ」

こうしてプロイセンは、何よりも平和を愛する、それどころか臆病で、しとやかで控えめな、しかし国内的にはきわめて保守反動的な国家になった。対外的には、1813年のライプツィヒの戦いで救いの手を差し伸べてくれたロシアとオーストリアにおずおずと親しげに擦り寄り、というよりしがみついて、この両大国と同盟を結んだのだった。

18世紀の古典的プロイセンは、どこまでも前に突き進む、勇猛果敢ないわば海賊国家だった。ロマン主義プロイセンは、ナポレオン戦争を命からがらくぐり抜けた後、小市民的なぬるま湯生活にやれやれとばかりにどっかとつかり、戦争はもうこりごりとほっと息をつく、いわば堕落した成金国家だった。

ビスマルクは反ナショナリズム

[プロイセンは]民衆蜂起の弾圧者としては恐れられたが、ドイツ・ナショナリズム運動の牽引車としておおいに衆望を集めていたのである。

しかしこのようにドイツ国民運動の指導役と見なされながら、当のプロイセンは半世紀ものあいだ、まったくそのことを自覚しようとはしなかった。「国民運動だって? それは民主主義を実現すること、つまり革命じゃないか。くわばらくわばら」。これがプロイセンの態度だった。

だがそれからビスマルクが現われ、彼の指導のもとでプロイセンはそれまでの守りの姿勢を転じて、みずから打って出たのである。若い頃のビスマルクは、ドイツ・ナショナリズム運動の支持者などではまったくなかった。その反対で、1848年、49年の市民革命のときなどは、頑迷固陋このうえないプロイセン一国至上主義者であり、ナショナリズムに陶酔する民衆をいつも馬鹿呼ばわりするほどだった。

[やがてオーストリアに対抗する手段としてナショナリズム運動を利用していく]

観念の帝国の実現でプロイセンは無意味に

ドイツが統一されドイツ帝国が生まれることでプロイセンが不要になってしまうことを、ビスマルクは考えていなかった。独立した領邦国家の連合体である旧ドイツ連邦の中では、オーストリアが主導するにせよ、プロイセンがヘゲモニーを握るにせよ、ともかく指導的地位を担う国が存在した。しかし統一された国民国家(すなわちドイツ帝目)の中では、いくら最大の領邦国家といえどもそれはもはや帝国全体の一部を構成する一州でしかなく、したがって主導権を握ることはできないのである。

ビスマルクは憲法にさまざまな小細工をして、プロイセンの主導権獲得を画策したがむだであった。その意味でヘーゲルの言ったことは的を射ている。「観念の帝国が革命で現実となったら、それまでの現実はもはや居所がなくなるのである」

プロイセン首相がつねにドイツ帝国宰相を兼ねるはずが、ビスマルク後には、バイエルン人が帝国宰相となり自動的にプロイセン首相にもなってしまう。

若き皇帝ヴィルヘルムニ世に対してビスマルクはあるときこんなことを言った。「ドイツ帝国は可もなし不可もなしです。プロイセンを強くすることだけを心がけてください。それ以外はどうでもけっこうですから」

しかしこんなことを言ったところで、すでに後の祭りだった。若き皇帝にはビスマルクが何を言っているのかさっぱりわからなかった。何しろヴィルヘルムニ世はすでに押しも押されもせぬドイツの皇帝であり、プロイセン王の肩書きなどはほんのおまけにすぎなかったからである。

抹殺されたセダンの戦いの記憶。

「フランスをぶちのめして凱歌をあげろ」

かつてあれほどまでに人々の政治意識・歴史観を支配したセダンの勝利の記憶、これを戦後のドイツ人たちはほぼ完璧なまでに記憶から抹殺してしまったのである。(略)

セダン戦勝記念日はほぼ半世紀のあいだ、ドイツの国民的祝日だった。(略)そのときの気分を今日的な感覚でいうと、まるでのドイツのナショナルチームが、サッカーのワールドカップで毎年連続して優勝するような気分とでもいおうか、とにかくそんな気分であった。毎年この日になると、人々は頭の中で、この偉大な戦争の勝利の場面をくりかえし何度も思い描いた。(略)

誇り高きフランスの皇帝も、もはや全軍の先頭に立って名誉の死を遂げることも許されず、今はただプロイセン王に和を請うのみの敗残の姿。(略)どっかと腰を下ろした巨人ビスマルク、隣りにかしこまるナポレオン三世。

こうした戦勝の場面を、人々は毎年この日が来るたびに、記憶を新たにしながら、何度も昧わったのである。これこそが本当のお祭りだった。あの頃の愛国心に満ちた自己陶酔の興奮を、今日想像できる人はほとんどいないだろう。(略)

だからドイツ人が長いあいだ、自分たちを選ばれた民族だと思い込んだのは、セダンの勝利がそうさせたといっても誇張ではない。(略)

セダンの戦いの中でつくられた国民の宗教とでもいうべきドイツ帝国建設神話の中で、フランスは永遠の敗者、これからもずっと負け続けねばならない悪者、ドイツの不倶戴天の敵として、確固不動の地位を獲得してしまったのである。当時つくられ、その後何十年も歌い継がれた歌の冒頭の一節は「フランスをぶちのめして凱歌をあげろ」というものだった。

1930年のドイツは病んではいたが、非常に力強い国だった。

ドイツ国民の意識の中に潜在的に眠る力への自信、ヒトラーはこうした潜在意識にうまく語りかけた。ヒトラーに走り寄った大衆の胸のうちにあったのは、絶望感だけではなかった。彼らの胸には、野性味をおびた現状打破の意思、腕まくりをして一丁ぶちかましてやろうという強烈な意気込みも生きていたのである。(略)

彼が示したのはそれまでにない何か新しいもの、旧来の右翼政党とは違った、何か右翼と左翼を漠然と統合した、新しい「国民共同体」のようなものだった。また大衆がヒトラーを選んだのは、ブリューニングやヒンデンブルクに対する抵抗、とりわけ、好機到来と見てふたたび勢力を盛り返そうと図る、貴族将校やエリート官吏たちに対する庶民の反抗でもあった。

ヒトラーを選んだ人々はもはや、帝国や階級社会に後戻りしたくなかったのであり、ヒトラーもそれを望んでいなかった。もちろんヒトラーが民主主義者などではなかったのはいうまでもない。しかし彼は大衆の人気に足場を築くポピュリストだった。

1932年、新首相パーペン男爵

パーペンのような金持ちの貴族からすれば、ヒトラーなどは立身出世にあこがれる小物でしかなかった。

「まあヒトラーのごときは自分の下で、宣伝相かせいぜい副首相くらいの地位を与えて、持ち前の煽動家としての才能をおおいに発揮してもらって、今の貴族的政権に大衆の支持を呼び込んでもらえばそれでいい」くらいにパーペンはたかをくくっていたのである。

「むろん政治的にはやつの水路は断っておかなくてはならない。つまりナチスの勢力はつぶしておく必要がある、だがそれは民主主義を廃止してしまえば簡単にできることだ。

2006-07-09 中世後期のドイツ文化 このエントリーを含むブックマーク

途中放棄、しかも少量、他の本と合せ技にしようかとも思ったが。ま、今週はバタバタしてたし。


中世後期のドイツ文化―1250年から1500年まで

作者: ハンス‐フリードリヒローゼンフェルト,ヘルムートローゼンフェルト,Hans‐Friedrich Rosenfeld,Hellmut Rosenfeld,鎌野多美子

出版社/メーカー: 三修社

発売日: 1999/10

金貸しより質屋稼業でユダヤ人追放

利息を取って金を貸すことも高すぎる利率も、それ自身では広く世間の怒りを招くことではなかった。事実ユダヤ人の金貸しが急速に築いた富は嫉妬や強欲を呼び起こしはしたものの、中世末期の反ユダヤ主義を促進することはなかった。貸付や利息が問題ではなく、質屋制度の業務そのものに問題があったのである。(略)

略奪や盗みによって得られたものさえ、中世の盗品故買者法によって合法的に担保に入れられた。給料の低い使用人や労働者、それどころか子供でさえあらゆる盗品を質屋に運び、質屋は客の苦境を利用し、その品物をはるか半値以下で担保に取り、金を貸し付けた。職人は自分の物(たとえば必要不可欠な道具など)が盗まれたことを完全に証明できなければ、一定額を質屋に支払って、その品物を取り戻さねばならなかった。(略)

質屋はこのように、担保物件の価値の半値あるいはそれ以下しか貸さなかったので、担保期限が切れたあと高利益で転売できる様々な品物の所有者になった。質屋はこうして安価な品物を売る萬屋や古道具屋になり、ツンフト誓約によって専門労働に縛られた手工業者や、商品を質屋ほど安値で提供できないため売れ行きが激減した小商人たちの、腹立ちや憎悪を買ったのである。手工業者や小商人の苦情の結果は、1516六年、レーゲンスブルクで起こった長引く難しい訴訟であった。この訴訟でユダヤ人に有利な判決が下されたとき、人々は力ずくでユダヤ人を追放し始めた。

ハンセン病

あらゆる種類の放浪者たちに対して世界は開かれており、かれらの多くは祝祭日や余暇の娯楽の担い手として人気があった。その代わりかれらは危機的情況のもとでは冷遇され、法の保護を受けられなかった。これにくらべ絶望的だったのはハンセン病患者の状況だった。ハンセン病患者は財産や相続権を失い、共同体や入植地から追放され、いわば生きながら死んだも同然だった。(略)はじめのうちかれらは野中のみすぼらしい小屋「フェルトジィーヒェ」に住まわされたが、13世紀以降は都市郊外に(ハンセン病患者用の)特別病院が建設された。男女は分けられて、異性間の交際は禁じられ、しばしば会話すら許されなかった。病人は同伴者なしでは外出できず、灰色の衣服をまとい、人とすれ違う前には角笛や鳴子で警告しなければならなかった。(略)この隔離に反対する暴動も時には起こった。

うーん、いつの時代もアホです

14世紀にはこの集団ダンスから紳士淑女が腕を抱きしめあうカップルダンスが生まれた。(略)とくに農村や小市民においては、ダンスは生きている歓びや性愛を表現する陽気な舞踏会になった。(略)大民衆説教師ガイラー・フォン・カイザースベルクはダンスに断固反対し、「当世ではダンスという名目で、場所柄をわきまえぬ前代未聞の卑猥行為がおこなわれている。(略)

そのうえ無骨者が現れ、ダンスする振りをして女性や生娘をやたらと振り回し、高く放り投げ、彼女らを前後左右から、また女性の恥部まで覗き見し、不潔に汚らしく踊っている。それにもかかわらずかれらは人気があり、宮廷に出入りするまでになっている。かれらが生娘や女性たちを高くあげてやると、娘たちは喜び、恋が芽生えている。いったい男どもは、娘たちを回しながら彼女らのどこを見ているのか。とんでもない、恥さらしな猥褻な行為だ。とんでもない」と嘆いた。

2006-07-06 1000キロを突っ走れ!! このエントリーを含むブックマーク

茅ヶ崎の伯母が亡くなり葬式には出たくない、通夜だけに出るには車しかない(夜行バスという手もあるけど)というわけで、AT限定フィールド三年、未だ車庫入れに不安を覚える男が、爆走日帰り1000キロを敢行。

昼前に出発、通夜は六時からだけど、四時過ぎには着くんじゃねえのという甘い目論見。名神、東名、大丈夫だろうかと不安だったが、所々でトラックだまりが出来てる程度で割りと快調。。追い越し車線ふさぐんじゃねえよ

ゴラァ(▼Д▼メ)

と爆走してきたのですが、ぴったり後ろをついてくる奴がいて、煽っているのかと道を空けてやっても同じように左車線に入ってくるし、なんなのかしらと考えるに、左車線に連なるトラック列を激しく追い越していくと急に車線変更してきたり、右車線をふさいでるトラックを左に寄らせたり、それなりに神経を使うのが、ぴったり二番手についてると割と気楽だから?まさかスリップストリームじゃねえだろ(帰宅後ネットで調べたら「自動車燃費を解析する」でぐぐれるサイトによればマジらしい。追い越しせずトラックの後ろを80キロで淡々と走るのがベストだそうで。)、どうにか厚木にたどりつき、ごみごみした下道でヘロヘロになりながら五時間半かかって到着。もう少し早く着くかと思っていたのだが、休憩時間の見込みが甘かった。BGMはもち自家製PeculiarSmokeDJ-MIX手焼きCD。途中まではオレってサイコーと、かなり盛り上がった(呆)が、疲労もあって段々嫌気が。

で、肝心の通夜。

僕より一回り上の従兄が喪主、脱サラして部下があるわけでもなく、仕事関係者がどうこうということもなくというかともかくそこらへんのところでナーバスになっているようで、親族席の近くで弔問に来た知り合いだかにいかにも上司風な感じでビジネストークを展開して、いかにも俺はそれなりにやってるぞとアピールするわけです。「父さん、部下が手伝いに来るわけでもなく、花輪その他からビジネスの規模はもうばればれなわけで、そんなことで誤魔化すより、喪主が中心になって伯母さんの話をするべきだと思われ」。もう一方では叔父だの二回り上の従兄だのが、俺はそれなりの人物だぜトークを展開。あんた達は死んだ伯母さんの話をしないのか。邦衛口調で「伯母さんがまだ死んでる途中でしょうがぁぁ」と絶叫したくなったが我慢。社会のボーフラみたいな身分で親二人亡くした人間としては、従兄のそれなりの人間にみせたい気持というのはよくわかるのだが、こっちは伯母さんの想い出話をしようと思ってとりあえず激走500キロで到着してきてるわけで、どーなのよって話。それなりじゃない人に限ってそれなりトークを展開し、そして必ず別れに握手をしてくる。三人ともそうだった。なんなんだろね。匿名ブログは悪口を心置きなくかけるなあ。

明るい話題。もう一人の従姉は伯母さんから連なる美人なのだが、その娘も美人でびっくり。クマダヨウコを木村優子方面に修正したかなりの美人。これが結婚式なら色めき立つ男性陣ですよ。もっさりむくんでいて全然ピンとこなかったクマダヨウコだけれど、美人一歩手前なんだと認識。でも、美人の親戚って困るよね。

帰りはただただ死んだ。厚木ICに辿り着くまでに死んだ。いきなり連続して立ちはだかるトラックだまりで消耗。この先どうなるのか。すぐ足柄SAで休憩してまだ50キロしか走ってないことを知り死んだ。あとは「頼むから着いてくれ」と直訴しながら死んだ。インターを降りて閑散とした早朝下道二車線の間に立ちすくんでいるのか佇んでいるのか白猫が。六時間かかって午前四時に到着。まじ死んだ。

2006-07-03 建築の可能性、山本理顕的想像力 このエントリーを含むブックマーク


建築の可能性、山本理顕的想像力

作者: 山本理顕

出版社/メーカー: 王国社

発売日: 2006/04

建築に興味のない人間が何故こんなものを借りたかといえば、パラッとめくったら「家族というのは寂しいものだと思った」というフレーズが目に入ったからで、「細胞都市」というこの文章だけが1993年と書かれた時期も古く、他の収録文章と異質な感じ。1945年生まれの著者は当時48歳。離婚でしょうか、子供が独立したんでしょうか、内容というよりトーンがなんだか感傷的です。

何が言いたくて引用するかと言うと、小説として書かれる文章が全く読む気が起こらないのに、小説として書かれてない文章がなぜ読めるのかということ。僕がこの文章を読んでしまうのは内容に意味があるからではなく(ある意味同意できない内容であったりするわけで)、ただ文章自体が、その文章に引き込む空気を持っているからで、それはなんなのだろうと思って抜粋して引用するわけです。

『細胞都市』

その建築なのかオブジェなのか現象なのかそれとも出来事なのか良く分からない巨大なものは、1劼曚匹眄茲諒で一面に輝いていた。その巨大な輝きは、私の想い浮かべていたものよりも遥かに大きく、数倍も明るかった。私は車を止め、三脚をセットして何枚か写真をとった。あたりは真っ暗闇だった。車を少し動かしてまた写真をとった。

私は時間をかけて少しずつその巨大な輝きに近付いていった。

これは一体何だ。今までに見たことのないものが目の前にある。そんな気がした。少なくとも、今までの私の記憶にはないものだった。もちろん、誰の記憶にもないものをつくれるなどとは思ってもいない。そんなことは良く分かっているつもりだ。建築というのは記憶で構成されている。個人的な記憶ではなくて、私たちが共有している記憶である。その記憶から自由になれるはずがない。そんなことは十分に分かっていても、それでも、その記憶という限界をひょっとしたら超えたんじゃないかと思ったのである。

私は錯綜する光のチューブの真っ只中で、風の音を聴いていた。

家族というのは寂しいものだと思った。

家族というあまりに小さな関係が、それでもその中に関係というようなものができ上がってしまっていることが、そしてその関係が内側だけで閉じてしまっていることが、その関係が外に対して何の手がかりも持っていないということが、そういうことが寂しいのだと思う。要するに、今私たちが持っている家族という単位は、社会的な単位としてはあまりに小さ過ぎるようなのである。一つの単位としての役割を既に果たせないほどに小さいのだと思う。それでも、この小さな単位にあらゆる負担がかかるように、今の社会のシステムはできているように思う。今の社会のシステムというのは、家族という最小単位が自明であるという前提ででき上がっている。そして、この最小単位にあらゆる負担がかかるように、つまり、社会の側のシステムを補強するように、さらに言えばもしシステムに不備があったとしたら、この不備をこの最小単位のところで調整するようにできているのである。

闇夜の中でたった一人で光り輝いている建築など、今の都市の中では考えられない。ところが錯覚するのだ。闇夜の中でただ一人輝いているという錯覚である。建築は見られるものだという錯覚である。建築など実は誰も見やしない。単に一つの環境として受け入れられているに過ぎないのである。

建物に先だって都市のイメージを全ての個人地権者たちが共有できるはずがないではないか。もしできるとしたら、それがどのようなものであるにしろ、どこかで強権を発動する以外に方法はないはずなのである。直観的にその構図が読み取られてしまうのだ。どんなに豊かな都市についてのイメージを構築したとしても、そのイメージが個々の建物に優先するという構図自体が一種の権力構造なのである。

そして近代の都市計画というのは、正にその権力構造の典型なのである。

私たちの日常の建築体験は環境としての建築である。誰もいちいち建築なんて見やしないのだ。一つの環境として、ほとんど無意識に受け入れてしまっているのである。

すでにでき上がっている隣の建物はそれを批判的に受け入れようと、肯定的に受け入れようと、そこにあるということは受け入れざるを得ない。それは自分の係わった建物であっても、全く同じことが言える。

この建物も周辺にとってはただの環境でしかないという自覚が必要なのだと思う。あるいはこの建物ですら、結局は一つの環境になるという覚悟が必要なのである。