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2007-05-22

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ここで聴けるが→(音と奇妙な煙)

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適当に始めてみたらなんとなくできた。ダラダラしてるけど、いいじゃない、夏も近いことだし、ダラダラ聴けばいいじゃない。

「原爆を作りましょう」と叫んでいるのは「no title」の久我美子、いつもとちがって野性味あふれる少女を演じております。原爆で家族を失い狂った彼女はボロ屋の二階で原爆製造中。

[Playlist]

Universal Jones / Electric Brazil


Sensorama /


Sun Ra / Tapestry From An Asteroid


Tony Del Monaco /La tua stagione

と、たいして書くこともないので唐突に

どうしてこんな映画観ちゃったんだろうシリーズ どうしてこんな映画観ちゃったんだろうシリーズを含むブックマーク

オータム・イン・ニューヨーク [DVD]

オータム・イン・ニューヨーク [DVD]

ヒドイ映画。監督の目的が別にあるために、マヌケな二人の恋がさらにギャグ状態に。

オータム・イン・ニューヨーク(2000) - goo 映画

中年プレイボーイ(リチャード・ギア)と難病余命一年のウィノナ・ライダーの恋。

ギアの手口がスゴイw。かつての恋人の娘であるウィノナと知り合った翌日にさっそく電話。口実はウィノナにパーティ用の帽子制作依頼。制作のヒントを訊かれ、女性のヒップラインをイメージしてと答える下品さ。で、彼女が帽子を持ってくると、パーティに行くはずの女性が病気、そこで、意味ありげに、何かを言いかけてやめるというクサイ芝居。すると顔をゆるませてウィノナが、いやん言って言ってとせまる。それでもクサク躊躇してみせて、最後に君が代わりに行ってくれるかい、と言われたウィノナは「喜んでー」状態、でもドレスがないわ、ここにあるよ。

なにか日本人には耐え切れない手口。さらに納得いかないのがパーティに行くウィノナは例の帽子をつけてないのですよ。おかしくね。

パーティで盛り上がって、さっそく一夜を供にして、翌日、いつものパターンでこれきりだからとギアがプレイボーイかますと、いきなりウィノナも余命一年だから、いい想い出になるわと返して、今度はギアがおたついて、つきあう二人。

普通日本人感覚だとあとは愛と死をみつめちゃうものなのだが、いきなりギアが浮気。ウィノナ激怒。ここらへんから監督の目的が始動して話はミョーなことに。

ウィノナに振られてしょんぼり帰ってきたギアを待っていたのは、遊びでできてそのままとんずらかまして顔も見たことのなかった娘(しかもその遊び相手はウィノナ母の友人という因縁)。娘は子供が産まれるのとギアに告げる。自分も親になるのだなあと思ったら、一度父親に会ってみたくなった、そう言いつつ、娘はギアに「正直スマナンダ」と謝って欲しいと暗にほのめかすが、ギアはなんとも言えない。

そう、これが、監督の目的なのだ。望まれぬ子として産まれ、一度も祝福されず、一度も会うことなく育った娘は、父の謝罪を求めている。この目的のために映画は悲劇的に壊滅状態に。話の流れをそぐギアの浮気も娘の登場のためなのだなあ。

さて、どうにかギアはウィノナにあやまって、再度ラブラブになったとこで、ウィノナ倒れる。余命一年どころか、いまにも死ぬと医者。ウィノナはずっと手術はしないと伏線はってるのに、なぜか急に手術しなくちゃ、名医を見つけなきゃとハッスルしだすギア。

なぜか。それは再度、娘を出すため。

あちこち駆けずり回るも名医が見つからず、途方にくれたギアは娘のところに(よくわからぬが娘は人探しのプロという設定)。ギアがあの若さで死んでしまうなんてと悲憤慷慨しながらフト見ると幼い頃の娘の写真。そして冷たくギアを見る娘。そこで、ハッ、と自分の身勝手さに気付くギア。ほったらかしの娘のところにきてウィノナが可哀そうとか言っちゃって、娘だって可哀そうだよ、唐突にいままでとんずらで「正直スマナンダ」と娘に謝罪するギア。

さあ、謝罪をゲットした監督、あとはチャッチャッと行きますよーとばかり、スゲエ名医みつかった、ウィノナ倒れる、颯爽と名医登場、手術、ダメだった、号泣スローモーション。

それでも話の流れからしたら亡きウィノナを偲んで独り佇むギアがラストに来るはずだが、監督ときたら厚かましくも、すっかり改心したギアと娘と孫のスリーショットで終了。なんだかなあ。

no title

途中から観て、既視感。ポートマン目当てで前に観たのだろうか。売れないピアニストが才色兼備の恋人から結婚を迫られて踏み切れず、一時帰郷して隣のナタリー・ポートマン13歳に萌えーー。ポートマンにロクデナシよと片付けられるダメ友人の一人の部屋はピンナップだらけ。主人公がキモイから剥せよと言うと、友人は「スーパーモデルは明日への希望なんだ活力なんだ」と熱弁をふるう、その希望のなさが、ドンヅマリ感が人事じゃなくて、深く考えるとブルーなのでスルー。音楽をつくることだけが明日への希望なのですと熱弁をふるえば、以下省略。

2007-05-17 宇宙猿人ゴリ対手塚治虫 このエントリーを含むブックマーク

読者が求めるのは著者しか知らない手塚の姿であって、取材に基づく史実などではないわけで、そこらへんのバランスがなんとも歯痒い、などとエラソーな感想を頭から書くのは、弟・鷺巣政安の7ページ程のあとがきが実にバランスの取れた簡明な文章で、兄のネタを元に弟が書いていたらもっと面白くなった気がしてならないから。定年退職者がはりきって書いちゃった焦点のあってない文章というと貶し過ぎで、著者の意欲というか意図は手塚だけでなく漫画史にもあったのだろうけど、なんとも。


手塚治虫とボク

作者: うしおそうじ

出版社/メーカー: 草思社

発売日: 2007/03/21

そういうわけで先に鷺巣政安の文章から。

福井英一との確執のワケ

手塚さんを芦田巌さんに紹介したのは、兄ではあるまい。(略)今井義章さんの紹介で、芦田漫画を訪ねたのではないかと思う。

 ところで、『イガグリ君』の福井英一さんも、どちらかといえば漫画よりもアニメの世界の人だ。うちの兄も漫画家よりはアニメの人。だから、福井さんも兄同様、いかに漫画でブレイクしたとはいえ、どこか漫画で喰っていることにうしろめたさがあったのではなかろうか。また、漫画を描きながらアニメの制作に野望を抱いていた手塚さんは、福井さんがアニメーター出身であったことを当然、知っていたはずである。二人の確執の背後にはこうしたこともあったのだと思う。

エイケン・プロデューサー鷺巣政安

 手塚さんの『鉄腕アトム』は、セルの枚数を一枚、二枚、三枚と省いて作ったパートアニメーションであった。しかし、その「一枚、二枚、三枚」のアトムには不思議な迫力があった。テレビ版の『アトム』はなるほど正道ではないし、基本から外れてはいたが、そこにはなにか突出したものがあったのである。

鷺巣詩郎の貯金箱でスペクトルマン。

ピープロはなんとも浮き沈みが激しかった。当初は五十人もの社員を雇い、セルアニメも特撮も手がけと、そうとうの勢いだったのだが、『0戦はやと』も『マグマ大使』も終わり、フジテレビから仕事がこなくなると、たちまち給与の支払いにも困るようになってしまう。

(略)[解雇宣告すれば組合を作られ、あげく火事で全てを失う](略)

 それでも当時の兄には意欲と気力があった。住まいは焼けなかったので、そこにスタジオを継ぎ足し、次の計画を練った。そしてアイディアマンだった兄は『宇宙猿人ゴリ』の企画をひねり出す。だが、文字どおりの一文無しで、テレビ局まで行く交通費すらなかった。そこで、まだ小さかった息子、詩郎の貯金箱を叩き割り、それをバス代にしてフジテレビに企画書を持ち込んだ。幸か不幸かこの企画が通り、『宇宙猿人ゴリ』を製作することができ、つづいて『怪傑ライオン丸』をヒットさせ、ピープロは再び浮上するのである。

余談ですが、追放された失意の天才科学者ゴリって、うしおそうじ本人を投影してるのだろうか。「この悔しさは、忘れはしない」w

結局、手塚さんも兄も経営者ではなかったのである。(略)本書のなかで、兄が手塚さんにアニメプロの経営で説教するくだりがあるが、あれは兄自身のことに他ならない。

というわけでようやく本編に。

突然の手塚訪問。

 手塚のリズミカルな話しぶりを聞きながら、ひとつ気がついたことがあった。彼の声量と艶のある発声はあたかもオペラのバリトン歌手を連想させるのだ。彼がその気になって演劇をめざせば、きっとひとかどの俳優かオペラ歌手になったであろうと思った。後に知ったことだが、宝塚歌劇の春日野八千代や関西落語の大物師匠から勧められたそうである。

 ボクは、彼の話術の才にも感心した。そして「そうだ、手塚治虫は、関西生まれの関西人なのだ」とあらためて認識した。

 それにしても、彼のこの快活な話しぶりは彼の天性か演技か、計りかねていた。初対面のボクにまったく無防備で接するはずがないと見るのが普通だし、決して下衆の勘ぐりとは言えまい。しかし、演技にしては彼はどこまでも自然体であった。いずれにしても、彼のこの天真さは天性と育ちのよさからくるものだろう。

どこでも仕事ができたわけ

いつどこでも描けるということが大きかった。

(略)道具材料にうるさい者がいるが、手塚はいっさい頓着しなかった。(略)全国どこにいても文房具屋に駆け込めば間に合う(略)

 そのかわり印刷効果はきびしくチェックした。それは手塚が大阪の赤本時代に、費用のかかる写真製版を嫌い描版屋に任せる赤本屋の主人に、さんざん口惜しい思いをしたからだ。(略)

「描き版」で仕上げる場合は、別人格の職人が原画をなぞって描くので、どうしても絵のタッチが変わってしまう。

二人で自主カンヅメ合宿

先ほど見たとき、そのコマには、簡単なお供え餅のような鉛筆描きがしてあるだけだった。

 ボクが声をかけたとき、彼はスミ入れのペンを停止させずに返答した。しかも、彼は原稿に一瞥もくれず、そのお供え餅をアトムのクローズアップに仕上げてしまう。その速さとリズム感のもとは彼の貧乏ゆすりのせいかなと思ったほど、ひっきりなしにあぐらの片足をゆすっている。(略)

 彼はよく貧乏ゆすりをしながら、大声で笑った。その笑いが半端じゃないのだ。鼻のつけ根に皺を寄せ大笑する。いや、あれはもっとスケールの大きい哄笑というべきか。

手塚、弟子入り志願

 ボクは、手塚を先導して芦田漫画製作所へ案内した。(略)

 挨拶が終わると、緊張気味の手塚は「実は……」と切り出した。自分は本気でアニメプロダクションを興して漫画映画を本業としてスタートするつもりであること、ついてはいまや同族会社システムのアニメプロで成功しているのは芦田漫画しかないので、本日いろいろと経営のコツをご教授いただきたいこと、併せて自分は本格的なアニメーションの動きの勉強がまだ完全ではないので、もし可能であれば、門下生としてこちらまで通うので、手をとって教えてもらえないかということ等々、約三十分間、礼をつくして縷々と述べつづけた。

 ボクは傍らで聞いていて、手塚の真摯な態度にあらためて胸を打たれた。

 それに対して芦田の対応はかなりいい加減であった。(略)

[アニメはそんなに甘くないという説教が延々](略)

「勘ちがいして、プロダクションを興そうなんて甘いよ、なあ……」と、芦田はボクに振ってきたのでボクは狼狽した。

(略)

 「私の考えが甘かったので、これで失礼いたします」

 そうきっぱりと言った語気には、それでも自分はやるという覚悟の決意が込められていた。

 表へ出ると三軒茶屋通り商店街には夕方の買物客が往来して、雑踏がはじまっていた。ボクは手塚の厳しい表情を見て、彼はかならずやるだろうと思い、無言で手を差し出すと、彼も無言で手を固く握り締めてきた。そして二人は無言で別れた。

何故手塚はアニメを(うしお流解釈)

[児童漫画は]まず相手は小学生が中心の読者層であること。そのため、なまじインテリジェンスは邪魔になる。そしてもっと困るのは、読者は真贋の見分けに疎く、ズバリ感情に訴える直截的表現に人気が集まってしまうことだ。手塚治虫の人気が上がるほどに手塚のエピゴーネンが横行するが、亜流だろうが真似だろうがかまわない。それもこれも十把ひとからげの人気投票でランクづけして良しとする出版社の売らんかなの論理からだ。大人漫画界では通用しないものが、子供漫画では同日に扱われて当たり前なのだ。手塚はその悩みに翻弄された。

 その悩みから脱出する手段としても、アニメーションプロダクションの新天地は画期的である。(略)

大勢の人間がプロダクション・システムで一糸乱れずに生産活動するという難事業である。もう個々の漫画家では真似できない。

さて、問題の制作費。

手塚vs宮崎、どっちがディズニー - 本と奇妙な煙

上記本では「手塚が55万、さすがに無理なので裏で155万、最終的に300万」となっていて、通説とは違ってちゃんと制作費を貰っていたと書かれている。

一方うしおは、相場500万なのに手塚が350万だと言ったから、と書いている。うしおの数字が正確なら、結局、通説通りということになる。

無論『0戦はやと』も契約時から350万。経費節約のため

プロペラは三枚セルのエアブラシの回転で、長い引きセルと背景の移動用遠景雲のセットで何十秒でも撮れたし、三層にセットして、爆音の効果音を入れるといかにも編隊飛行のシーンとして観る者を飽きさせない。また対空砲火も背景画を三枚で描き、撮影時にコマ撮りに変化をつけた。(略)

 また急降下爆撃シーンなど、大サイズの海面に真俯瞰の敵空母を描いておき、アニメスタンドカメラのレンズ前に割箸を四本支柱に取りつけ、その四本支柱の底にキャビネ版ぐらいのガラスを設置してそのガラス枠の上に空母めがける0戦を載せ、そのままカメラをトラックアップさせる。つまり、アニメで描くとたいへんな手数がかかるところを、カメラワークで処理すると動画枚数はナシ、しかもリアルに仕上がるのである。

3000万支度金付で『ビッグX』の依頼、しかし社員に無理と言われ断念。TBSは藤岡豊を立てて「東京ムービー」を創立。

手塚からアトムを依頼される

 「いやあ、うしおさんだからざっくばらんに話しますが、目下、うちの連中は、アトムを作るのは嫌だと言い出したのです。飽きて、もううんざりだと言い、『ジャングル大帝』をカラーで製作したいと言う。体のいいサボタージュ気分が職場に蔓延してボクは困ってるんです。そりやあ彼らの気持ちもわかるし……」

 と語り出した。

 「ちょ、ちょっと待ってください。手塚さんはいま彼らの気持ちもわかるし……とおっしゃいましたが、その言葉はちょっとおかしくないですか。ボクは他所ながら聞いてますが、虫プロの社員は会社に対して十時と三時にコーヒーブレイクをもうけ、就業時間中は有線でムーディなBGMを流せと要求して、会社はその要求を呑んだというもっぱらの噂ですよ。それは本当ですか?」

 「ええ、その噂は一部本当です」

(略)

従業員たちの要求をなんでも受け入れてやる、その考え方は行きすぎではないですか。なにも、ボクは職場は神聖だからなどと言うつもりはありませんが、虫プロは営利を追求する法人事業でしょ。かつてのようにアマチュアとして『ある街角の物語』を作っていたころの、いわば道楽感覚で経営してはダメなのですよ」

(略)

[噂では]彼らはトレース台の下に東映動画の仕事を隠しておき、管理職の姿が見えなくなると、机の上の『鉄腕アトム』をどけて、それを取り出し、アルバイトに精を出しているというのだ。

2007-05-14 アメリカの政教分離・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


アメリカの政教分離―植民地時代から今日まで

作者: エドウィン・S.ガウスタッド,Edwin S. Gaustad,大西直樹

出版社/メーカー: みすず書房

発売日: 2007/04

宗派はいろいろあるけど、とりあえず公定宗教はキリスト教にしようじゃないかとパトリック・ヘンリーが法案提出、マディソンらの反対で通過せず

宗教の公定制は優に15世紀にわたって実験されてきた。その挙げ句の結果とはなにか。「ほぼすべての地域で、司教のあいだには驕りと傲慢が、平信徒のあいだでは、無知と卑屈が、そして両者のあいだに迷信、頑迷、そして迫害がはびこった」のだ。もし、ヘンリーの法案が通過することでもあれば、それは「すべての国と宗教から迫害された人びとにとっての避難所であった」アメリカが「寛容な方針」から乖離することになる。(略)

 さらに、マディソンは、すべての他の宗教を除外したキリスト教の公定化は、「キリスト教のある特定の宗派を公定し他のすべての教派を除外する」ことにいつでもなりうる、と読者に訴えた。

1791年に諸州によって批准された修正第一条は以下の文言ではじまる。「連邦議会は、宗教の公定化、あるいは宗教活動の自由な実践を禁ずる、いかなる法律も制定してはならない」。

 これらの重要な文言が、その後200年以上にわたって最高裁やその他の法廷を支配することになるため、この意味合いを理解しておくことは肝要である。

宗教ポータビリティ制で勢力図激変みたいなw

政府による認可も支援も受けない宗教。急激に拡大しつつあった国家で、これが実際にどう機能することになるのか、だれもがまったく確信をもてないでいた。長いあいだ公的支援になれてきた教派、たとえばニューイングランドの会衆派教会、あるいはその他の監督教会派は、信教の自由という波風高い海に漕ぎだすにあたって、少なからぬ懸念と恐れをいだいていた。バプティスト派やそのころ結成されたばかりのメソジスト派など、他の教派は、おなじ荒波の大海が彼らを元気づけ、挑戦しがいのあるものとみていた。そして、信教の自由をチャンスと捉えた宗教団体は劇的な繁栄を迎えた。たとえば、1850年までに、メソジストとバプティストの教会数は、会衆派と監督教会派を加えた総数の七倍に達していた。アメリカの宗教の姿が急激に変化していたのである。

 この、教会の「新たな姿」をあらわすキーワードはボランタリズムである。政府の果たしえない、あるいは果たしたくないニーズをみたすために、19世紀初期には一連のボランティア組織が発足した。アメリカ聖書協会は開拓地帯やその他の場で、安価な聖書を広く行きわたらせた。

公定教会の土地の行方

(ヴァジニアの「教区教会領畑地」)は聖公会の主教と彼らの教会を援助するために、公定教会にあたえられていたものだった。公定制度が廃止された後これらの教区教会領畑地を監督教会の独占的な土地として残すべきか、それとも公共の土地としてあつかうべきか、という問題がもちあがったのである。(略)

 立法府は、このあとほぼ20年間以上にわたって、この件自体と、この件によってますます憤りを深めた大衆とたたかいつづけた。そして1802年、これらすべての教区教会領畑地は、州の全市民の利益のために売りつくすべしという命令をくだした。当然ながら監督教会は反発し、正義は立法府ではなく法廷によってもたらされる可能性があるという決定をした。1815年、最高裁判所ははじめてこの件(「テレット対テイラー」)について審査し、判断をくだした。それも修正第一条ではなく、「永遠の正義の原則」にもとづき、「アメリカ革命は、個人の市民的権利を破壊しなかったが、それ以上に団体の市民的権利を破壊することもなかった」とのべたのだった。

 合衆国連邦憲法は古き形式と新たなものとを明確に区別する、と思っていた人びとには、この判決は敗北であった。しかし、文化的あるいは法的な面でさらに遅れをとっていたべつの深刻な訴訟では、勝利が待っていたのだ。

ニューイングランド(ロードアイランドを除く)では、19世紀になってかなりたっても、会衆派教会が公定教会の地位を保っていた。それを問題視する声があがった。修正第一条承認後の1791年に、どうしてこのような事態がありえたのだろうか。ところが、この修正条項は「議会は……いかなる法律も、これをつくることはしない」と言っていることを思い起こさねばならない。たしかに、州が宗教の公定制度についてなにをしようがしまいが、修正条項はなにもいわなかったのである。だから、たとえばコネティカットでは会衆派教会はその当時でも税金で支援され、選挙日や民兵軍事訓練日などのほかに州の恒例事業のときには特権にあずかっていた。(略)

 ついに1818年、きわどい住民投票の結果、ジェファソンの政党がフェデラリスト党をしのいで多数派となり、それとともに教会と国家の最後の絆は断ち切られることとなった。喜んだジェファソンはジョン・アダムズにむけて、「この祭司の古巣はついに破壊され、プロテスタントによる教皇政治もアメリカの歴史と性格をこれ以上辱めることはない」と書いた。

モルモン教の複数婚

モルモン教徒は私有財産を蔑み、一種の共同生活をいとなみ、他の隣人からは離れて暮らしていた。さらに、あきらかにもっとも衝撃的だったのは、モルモン教の信仰は一夫多妻制を認めていたことである。教会設立当初の20年間、モルモン教徒はオハイオからミズーリ、さらにイリノイヘと迫いやられ、その地でジョン・スミスは1844年に暗殺された。1847年、モルモン教徒は最後の脱出を試み、ユタのソルトレーク渓谷に向かった。その地で、最初から彼らを苦しめた悪意と迫害から逃れることを願ったのである。

 ところが1850年、連邦政府によってユタ準州がつくられたことで、合衆国がモルモン教徒を忘れようとはしていないことが明らかになった。

(略)

「人は自分の宗教上の信条のゆえに、[法律に違反するような]自分の行為を許すことができるのだろうか」。[最高裁判事]ウェイトの答えはノーである。「これを許してしまえば、国の法律よりも告白された宗教的信条が上位に置かれることになる。その結果、市民一人ひとりが自分にとっての法律となることを許してしまう」と断じた。

(略)

モルモン教会がこの制度を明確なかたちで廃止するまで、ユタは合衆国への参入を許されなかった。しかも、それが許されたのは1896年のことであった。

ここまでで三分の一、残り20世紀に入ってからの話とか、学校と宗教とか、あるのですが、メンドーになったのでこれで終了。

2007-05-13 アメリカ独立は宗教的自由の熱情 このエントリーを含むブックマーク

アメリカ革命は政治的自由もあったが、宗教的自由への熱情がメインだった。国教会にデカイ面されたくない、好きな宗教やらせろ。印紙税のなにがムカツクかというと、税が自分達の宗派とは無関係の国教会に流れ込むこと。


アメリカの政教分離―植民地時代から今日まで

作者: エドウィン・S.ガウスタッド,Edwin S. Gaustad,大西直樹

出版社/メーカー: みすず書房

発売日: 2007/04

政教分離について(訳者あとがきより)

日本語での政教分離という言葉と、その英語表記Separation of Church and Stateという言葉の意味するところのギャップはきわめて大きい。日本語がもっている意味合い、そして大多数の日本人がこの言葉で思い描いているのは、政治と宗教が混交してはならないという理解である。つまり、それを逆に英語で表記すると、Separation of Religion and Politicsとでもなるだろう。ところが、アメリカにおけるこの英語のもともとの意味は、連邦国家と教会との分離であり、政治と宗教の混交が直接問題とされているのではない。

(略)

ひとつひとつの邦は植民地時代からの個別の宗教的背景を色濃くもっていた。(略)これらの明確な宗教的基盤のちがいを超えて連邦を形成するには、どのひとつの邦の宗教であれ、連邦全体の宗教となるのをゆるすわけにはいかなかった。逆にいえば、もし、ひとつの宗教が他の宗教を押しのけて、連邦全体の公定宗教、つまりアメリカ合衆国の国教となるならば、連邦成立は達成されなかったことだろう。

イギリス国教会の中心地・ヴァジニア

 イギリス植民地ヴァジニアがイギリス国教会の中心地となるのは、自然の成りゆきであった。それが17世紀の世界の動きだったからだ。教会と国家とは社会の安全、安定、道徳的秩序を保持するためのパートナーだった。教会と国家というふたつの制度がおたがいに独立して機能し、分離すべきであるという概念は新奇であり、また馬鹿げていたのだ。(略)

イギリス国教会こそがこの植民地の公定宗教であるべきで、他の宗教がゆるされることなどありえなかった。ヴァジニアの定住者は毎日、朝晩二回の礼拝に出席し、それを「たびたび、意図的に欠席する者は」法によって罰せられた。

教会と国家の一体化

一国にひとつの教会、というヨーロッパの理念は目標としてかかげられつづけたが、アメリカ革命以前にその目標が完全に実現されたことはまったくなかった。革命後は、その夢はたちまちに霧散し、アメリカのどの州においてもけっして実現されることはなかった。

(略)

聖公会と同様、ピューリタンも、他の宗教への門戸を閉ざすために全力をつくしていた。彼らも、アメリカにヨーロッパ型の教会と国家の連合をつくりだすことを願っていたのだ。

 1630年代、ピューリタンはイギリスからの移民流入の増大にともなって急速に勢力を強めた。しかし、この初期の時期であっても、完全な宗教的調和の保持は至離のわざだった。1635年、仲間のひとり、ロジャー・ウィリアムズが教会と国家の連合はまったくのまちがいであると強烈に訴えた。つまり、ヨーロッパにおける血なまぐさい戦争をみれば、それだけで、愛と恵みの神が求めていたものから、教会と国家の連合がいかにかけ離れているかがわかる、と主張したのである。

(略)

彼らはウィリアムズを追放し、ウィリアムズは新しいコロニー、ロードアイランドを設立しようと、一月の雪のなかを徒歩で進んだ。その地でこそ、すべての市民が良心の自由を保障されることになっていた。

復興運動による混乱

1741年から42年にかけて、復興運動の支持者と反対者との緊張がピークに運した。「この時期、迷信にもとづく狂乱がきわめて高まり、生まれながらの精神の安定か強固な理性と反省、確固たる自立ができていない人はだれもが打ちのめされた」と、ある批評家はのべている。

 復興運動を好ましく思っている者は、これこそ多くを回心に導き、さらに多くの人を道徳的につくりかえるほんとうの神のみわざであるとした。(略)

 それに反して、復興運動に反対を唱える人びとは、行動の突拍子のなさや、信仰の特異性をいちいち指摘して、あまりにも情動が激しく、厳しい分裂をもたらすと批判した。(略)

宗教にたいして一団となって先端をきっていたかにみえていたニューイングランドは、いまやみずからの恥知らずの分裂を思い知るはめになった。こうした分裂は、クエーカーやバプティスト、つづいてメソジストや聖公会が、会衆派教会内部の分裂に乗じて拡大し、その緊張をますます強めたため、さらに深刻なものになった。民衆のレベルでは、多くの人びとが公認の正統から離れ、魔術や占星術をおこない、さらにけっして衰退することのないさまざまな迷信を信じつづけていた。たしかに、会衆派は権力の殿堂や、ハーヴァード大学、イェール大学などの教育の中心地では支配的勢力を保っていたが、独占宗教の鉄の絆は断ち切られたのである。(略)

 統一をもたらそうとするニューイングランドは、鋼鉄のように頑として国家と教会の分離に決意をもって臨むロードアイランドの存在を無視できなかった。さらに南には、イギリスにまだ残っていたカトリックの避難所としてメリランド植民地が設立されていた。

主教への憎しみ

17世紀イギリスでは、主教は絶大な政治的・精神的権力をふるっていた。主教は国家の役人であり、迫害と圧制の機関であるあの強力な貴族院の一員であった。その悪しき臭いが18世紀になっても彼らに強くまつわりついていた。こうした、全権を握る権威から逃れるだけのために多くのアメリカ人がイギリスを後にしたのである。宗教的官吏がおなじような権力をアメリカで振るうと思うだけで、植民地の住民の怒りは燃えあがり、イギリスとの絆を断つ準備をつくりあげていったのである。

アメリカ革命の熱情

 1770年代になって革命への熱狂が高まるにつれ、ロンドンの福音伝道協会から派遣されていた聖公会の宣教師は、彼らのイギリスヘの忠誠心と独立への抵抗のために、人びとの憤慨を深めることになった。(略)

バートンはさらに他の宣教師たちが「馬から引きずり降ろされたり、石や汚物を投げつけられたり、水に沈められたり、生きるために逃れ、住居や家族からも離れ、逮捕され投獄されている」とも報告している。このようにアメリカ革命とは熱情が頂点に達したときだったが、その熱情の大部分は、動機からみても表現の仕方からみても宗教的なものであった。

(略)

1776年、ヴァジニアや他の地の住民はそれぞれの邦でイギリス国教会の公定制度廃止の動きに出た。つまりそれは、国家と教会のあいだにあるすべての絆を断ち切り、信仰においても行動においても信教の統一への強制をやめ、ことに、少数者の宗数的利益のための全住民からの徴税廃止を意味していた。

明日に続く

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2007-05-10 子供ができて身勝手になる親

こっちの本とと比べるとだいぶユルメなのだけど、春日武彦が産婦人科から転向した理由が書かれていたので借りてみた。


何をやっても癒されない

作者: 春日武彦

出版社/メーカー: 角川書店

発売日: 2003/05/19

公式理由

障害児を産んだ子どもの母親を精神的にフォローしているうちに、むしろそういったことのほうに関心や適性があることに自ら気づき、そこで転身を決意したといった意味のことを語ることにしていた。

 そのこと自体は嘘ではないが、実は産婦人科医に見切りをつけた最大の理由は別なところにあったのである。

身勝手な親

どれほど沢山の親たちが無分別に子どもを産んでいることか。子どもがいないと親に何か問題があるのではと世間に疑われかねないからとか、(略)

離婚をさせられないための保険として子どもを作っておくのだとか、いずれにせよ子どもを道具かせいぜいバービー人形程度としてしか捉えていない親の多さに呆れてしまったのである。

 こんな親たちの安易な発想や無分別な衝動に加担することに、わたしはつくづく嫌になった。しかも分娩に立ち会った医師として「おめでとうございます」と言わねばならない。どこがめでたいのか皆目わからない場合であろうとも。自己欺瞞も限界に達し、もともと関心のあった精神科へ鞍替えをしたのであった。

子供の誕生で愚かになる親

大人になれない人たちが蔓延していると同時に、子どもを産むことによって、親たちには愚かさを指向するスイッチがオンになってしまう傾向があるようにも思われるのである。それはどのようなことか。子どもが誕生することで、親には「子どもを授けられ、未来へと希望をつないだ家族」というハッピーな物語が与えられることになる。その物語が、覚悟や決意といった能動的かつ責任感に満ちた心構えを立ち上がらせず、あの『悪趣味百科』で揶揄されかねないような「親のファンタジーの延長としての物語」しか招来させないところに、問題の根本があるのではないだろうか。(略)

子どもを産んだことによって自分たちは祝福され特別扱いされ多少のことは大目に見てもらえる資格を手にしたのだという妄想が発生するパターンが、あまねく現代には広がっているのではないのだろうか。

 その妄想と現実との摺り合わせが上手くいかないとき、一部の親は過剰に子どもへのめり込み、さもなければ虐待に近い極端な行動を取りがちとなる。

「心のぶつかりあい」で人は殺さない

 心というものは噛みかけのガムみたいにねばねばしたもので、自分のガムと相手のガムとがくっつくと、いとも簡単に混ざり合ってしまい分離が難しくなり、むりに引き離そうと焦っているうちにますます混交してしまう――そんなイメージをわたしは持っている。つまり自他の区別なんてものは、世間で思っているほど明確なものとは考えていない。

 だから一時期「お受験殺人事件」と称されていた春祭ちゃん殺人事件の犯人が「心と心のぶつかりあい」と語ったことが、非常に奇異に感じられたのである。心がぶつかりあう程にがっちりしていたら、それだけ自我が確立していることであろう。自他の区別がきちんと出来れば、安易に他人を恨んだり、つまらぬ嫉妬などはしない筈である。

躁顔

 鬱病の患者を治療しているうちに、ときたま、回復を通り越して躁病になってしまうことがある。治療を開始したときには、世界の終わりを迎えたような絶望的な顔をしてうなだれていたのに、躁状態となると表情がまるで違う。明るいとかハッピーというよりも、尊大さとイライラと得意気な気分とがブレンドされたような奇妙な顔つきに変貌してしまう。昔、竹中直人が「笑いながら怒っているオヤジ」というのをレパートリーとしていたが、あれに近い印象がある。

「今日の俺CM」

http://pecsmo.up.seesaa.net/image/Dog2edit.jpg

alEnkenShalomMIX/PeculiarSmoke

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指折り九九 指折り九九を含むブックマーク


数学と論理をめぐる不思議な冒険

作者: ジョセフ・メイザー,松浦俊輔

出版社/メーカー: 日経BP社

発売日: 2006/04/20

これをチラ見したら、五の段までしか言えない人のための指折り九九という、役には立たないが面白い話が。

立てた指を「l」、折った指を「n」で表記。

6×8を計算、両方の数から5を引いた数の指を立てる。

"lnnnn"と"lllnn"

立てた指の数を足して10をかける

l+lll=4 4*10=40

折った指の数を掛ける

nnnn*nn(4*2)=8

答えは二つの合計

40+8=48


めんどくさいだけじゃないか、あっさり九九で48の方が早いと言われるでしょうが、九の段が一目瞭然でチョット素敵。

lllln lllln 81

lllln lllnn 72

lllln llnnn 63

lllln lnnnn 54

これが成立するのは以下の式による

ab=(a-5+b-5)*10+(10-a)*(10-b)

他のやり方

6と8、それぞれを10から引いた数が4と2。

十の位は6から対角線にある2を引いた4に、一の位は余数同士をかけた4*2=8

6--4

8--2

-----

4 8

2007-05-07 アーロン2:輪郭、分離、色彩 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


コンピュータ画家アーロンの誕生―芸術創造のプログラミング

作者: パメラマコーダック,Pamela McCorduck,下野隆生

出版社/メーカー: 紀伊國屋書店

発売日: 1998/10

「子供たちのお絵描きにおける輪郭化の段階は、彼らがその絵に表象的な意味を与え始める時期とちょうど重なるんだ。これが単なる偶然ではないとすると、私の推測では、子供たちがいたずらがきに輪郭を付けるのと同じように、棒線画に輪郭を付けてやることで〈妥当な表象〉を生み出すこともおそらく可能だということになる。

(略)

 動物には一本の背骨、前部と後部にそれぞれ一対の足、そして尾と首と頭がそれぞれ一つずつある、といった単純な考え方からコーエンはスタートした。そして、そのような棒線画をプログラムに構築させ、その周りに線を描かせてみた。こうしてでき上がったドローイングは、単に動物らしく見えたばかりではなく、アフリカのブッシュマンが描く動物画に驚くほど似たものだった。そして、動物の体のふくらみを表現するため、背骨を簡単な四辺のポリゴンに置き換えてみたとき、そのドローイングは北ヨーロッパの洞窟に見られる旧石器時代の芸術の様式に似たものへと変貌した。

「動物」とわかる絵を描くことの問題

 アーロンにおける抽象から形象化への変化は、きわめて困難な技術的変化だった。そして、ハロルド・コーエンにとっては、それはまた大変困難な概念上の変化でもあった。彼が直面する二つの大きな問題についてはすでに述べた。つまり、それはまず、もしアーロンのドローイングの土台となっていた喚起の力がより明示的な何かに変えられてしまったなら、ドローイングの質や価値は損なわれるのではないか、という問題である。そして、明確に認識できる像により喚起される意味がこの世界についての知識を暗示しているのなら、はたしてどのような知識がどれだけあれば十分なのか、という問題である。

「喚起というものは、事象に意味を付与しようとする鑑賞者の性癖の上に成り立っている。新たに生み出されたドローイングは、そういった性癖の行使を減ずるどころか、明らかにそれをより高い位置へと持ち上げた。(略)意味の付与は、その要素――この場合、明らかな何かの形象になるのだけれど――が表わすと思われるものによって生み出されるドラマティックな関係に対してなされるんだ。形象的なドローイングには、鑑賞者が操作できる情報がきわめて大量に含まれているらしい。

それにはどれだけの知識が必要か

この問いに対する答えは、「驚くほどわずか」であった。(略)

表象が実体化する知識に比べれば、表象に含まれている知識はずっと少ないんだよ。適切な表象の戦略が与えられさえすれば、知識のかたまりは、それがどんなに小さく、特定の目的に対して不適切であっても、独自の表象を生成する。

「意味の豊かさ」は

伝達されるものの中にあるのではなく、芸術作品が持つ「意味」の感覚を生成する能力の中にあるのだということだ。つまり、ひとたび鑑賞者があるイメージの中に誰か別の人間の意図的な行為を見出したなら――あるいは、見出したと感じたなら――そこから意味を生み出すのは鑑賞者なのである(略)

 コーエンは語る。「自分が目にしたものを説明しようと意味を構築するとき、われわれは何かについて知っていることすべてを利用している。知っていることが多ければ多いほど、その意味は複雑なものとなる。

(略)

イメージの質というものは、鑑賞者に対してどれくらいの数のレベルで喚起を起こすかで示される。優れた芸術作品とそうでないものとの違いとなっているのは、おそらくこういうことだ。つまり、優れた作品はきわめて豊かな意味の集合を生み出すことができる。一方そうでない作品は、単にわれわれが知っていることを思い起こさせるにすぎない」

彩色

われわれは通常、色彩を三つの要素で語る。つまり、それが光のスペクトルのどこに位置するかをあらわす「色相」、スペクトルの一個所にすべて集中しているのかあるいはいくつかの色相の混合なのかをあらわす「彩度」、その色の明るさを黒から白への尺度の中で示す「明度」である。このうちもっとも重要な要素は、色相でも彩度でもなく、なんといっても明度だ。

(略)

 色相のコントロールは将来の課題として残し、アーロンの作業を明度のコントロールだけに限定しておくことができると分かってから作業は順調に進み、一年目の終わりにはアーロンはかなり上手な色の使い手になっていた。

全体の色の構図はどうするか

アーロンは私が行なっているような方法では色を扱うことができない。というのも、そもそもアーロンは視覚を持たないからだ。私だってもし視覚がなければ色を効果的に使うことなど絶対にできない。逆に私は、アーロンが持っているような、紙に印ひとつ付けることなく複雑なイメージを「想像して」組み立てる能力など持っていない。私の仕事はプログラムに私が色の構図をどうやって組み立てているかを教えることではなく、プログラムが扱える手段を用いて、色に関して私が持っている知識を表現することである。そしておそらく、その手段は私自身には扱えないはずのものだ。

分離を生む色彩

 色彩に関して私が知っていることの一つは次のようなことである。人があるイメージに対して抱く感情的な反応は、大きな形態の色の関係に依存するところが大きいのかもしれないが、そのイメージの「見分けやすさ」はそれらの形態を分離している「縁」で何が起こっているかに依存している。こうした分離は、形態と形態の色相の差よりも、明度の差によって決定される。実際、明度をコントロールするだけでこの分離は実現される。モノクロ写真がその例である。だがもし感情的なインパクトを与えるために色彩を使うのなら、人間の画家であれコンピュータ・プログラムであれ、そのとき必要となる作業は、色相、彩度、明度の三者を同時にバランスを取りながら適切な分離を生み出すことだ。人間の芸術家はこの作業があまり得意ではない。ああでもないこうでもないとあれこれ調整を繰り返すのはこのためである。一方、アーロンにはこれはたやすい作業だ。そしてアーロンは現在、私の色彩家としての能力に再考を迫るほど刺激的な色の構図を生み出している。

2007-05-06 自律的に描画する「アーロン」 このエントリーを含むブックマーク

表紙に使われている絵を自律的に描く(100回描けば100枚の違う絵ができる)「アーロン」をプログラミングした画家ハロルド・コーエンについて書かれた本。


コンピュータ画家アーロンの誕生―芸術創造のプログラミング

作者: パメラマコーダック,Pamela McCorduck,下野隆生

出版社/メーカー: 紀伊國屋書店

発売日: 1998/10


google:image:aaron Cohen Haroldで画像検索すればどんなものかわかりますが、一応線画を一枚貼付。

http://art.runme.org/1047021569-20994-0/aaronfigures.gif

ルールで描いてみる

コーエンは「意味と表象」という基本的な関心から離れ、ルールによって事物がいかに配置されるかという問題に取りつかれるようになった。(略)

 転回点となったのは、白い地の上に描くのではなく、背景に色を撒き散らすことを初めて試みたときだ。絵は急速に地図のような形状を有するものに変っていった。

 「そのときの戦略は、まず絵の具を撒き散らし、その後は簡単なルールに従うというものだった。絵の具の付いた部分の周囲を回るのはこんなときで、単に方向を変えて別のところへ向かうのはこんなとき、といったことを定めたルールだ」

画家と鑑賞者

「私は解釈という問題とそれに伴う明らかなパラドクスに大きな関心を払ってきた。というのは、芸術家には観賞者が絵画の中に何を見るのかを知る術がない(略)

にもかかわらず、それでもなおそこには明らかに、絵画によってもたらされる共有/聖体拝領の行為が存在する

「絵画の中のマテリアルで特別なのは、それが単に観賞者にとって新しい情報、つまりその人の精神の領域から欠落した情報を含んでいるだけではなく、その組込みに関する情報、いわば、その配線説明書を含んでいることだ

機械により芸術思考過程が明確に

「しかし、いまでは一般に『コンピュータ・アート』という名で知られている、うんざりするような幾何学的な図形を描こうと考えたわけではなかった……私が最初にコンピュータに魅了されたのは、その正確さのせいではなく、驚くべき作業能力のせいでもなく、またその驚嘆すべき多芸さのせいでもない。それは、ある場合にはこうせよ、別の場合にはああせよ、といったきわめて単純な意志決定の機能から、人間の論理展開に奇妙なほど類似した複雑な機能を構築していくその能力にあった。そして、それはいまなお私を魅了している。私にとって機械それ自体は重要なものではない。しかし、機械を使用することで、芸術活動の過程とそれに付随する事柄を明確化する、正確で厳密な定式化が可能になる」

自己定義

「私は、すべての芸術――作品としての芸術ではなく、行為としての芸術――は、自己定義への没頭ということで、ある程度まで特徴づけられると考えている。ここでいう自己定義とは、芸術家は、芸術がいったい何であるかを定義するためにそれを生み出しているということだ。この限りにおいては、コンピュータを使用することは、それ以外の芸術的行動様式と本質的に異なるわけではない」

変換ソフトとはちがうのだよ

いわゆる「コンピュータ・アート」は単なるイメージの作成にすぎない、と彼は述べる。安物のカメラと一巻のフィルムで誰もがやっていることを、ただコンピュータとプリンターに置き換えて行っているだけだ、というのである。「プログラマーはまずスヌーピーの絵を注意深く数値化する。次はポリゴンの回転だ。そして、多項式関数へとたどり着けば、毎年恒例のカルコンプ社主催、コンピュータ・アート・コンテストに応募する準備はできたというわけだ」

(略)

コンピュータは単にイメージを変換するのに用いられているにすぎない。上からオリジナルを放り込むと、下からその変換されたイメージが出てくる。その過程においては、それを操作する人間の選択や量的なコントロールはあるが、いったいどうなったかを機械が読み返すことはいかなる時点にも行なわれない。

マークがイメージとして機能するには

[アメリカ・インディアンの絵文字に触れ]

「その存在は、人がイメージだと認めるようなマークを作り出すために、いったい何を必要としたのだろう。ここでイメージというのは、単なるマークではなく、何らかの意図を伝達するマークのシステムのことだ」。別の言い方をすれば、次のようになる。最低限どのような条件があれば、マークの集合はイメージとして機能するのだろう。

第一歩:閉じた輪郭

 このことを心に留めながら、コーエンは、閉じた形態と開いた形態とを区別するだけの能力を機械に付与するコンピュータ・プログラムを書いた。このプログラムは、最初は閉じた形を作り、その後、閉じた形をグループにまとめて、閉じてはいるが内側が分割されているような、もっと複雑なオブジェクトを作るようになった。さらにその後、「クロス」「ジグザグ」「スクリブル(なぐり書き)」といった閉じていないマークを生み出した。

 「まず最初は閉じた形だった。私はいつだって、閉じていることこそが基本的な認知のモードだと確信している。というのは、まあいまだから言えることで、当時それが分かっていたとは思わないが、この世界にある物体を認識するわれわれの能力は、きわめて精緻な知覚構造に依存していて、そこではわれわれの目は、単なる明るさの測定装置ではなく、エッジ(縁)の検出装置として機能しているからだ。われわれは長い時間をかけて、見るという体験のすべてを物体の輪郭線に置き換えてきたんだと思う。それはまるで、認知のプロセスのある部分が、かたまりとしての形態それ自体ではなく、その形態の〈速記法〉、つまり、閉じた輪郭線によって部分的に機能しているようなものだ」

 「だから、アーロンがはじめて生を享けた1973年、最初に行なったのもそのことだった」

表象ではなく喚起

 最初の段階では、アーロンはもっぱら人間の認知の内的側面だけを扱った。このことは、世界を「表象する」のではなく、世界を「喚起する」ということを意味していた。そして、それは1980年あたりまで続くことになる。この最初の段階で、アーロンは図と地、内側と外側を区別することができた。また、閉包、相似、分割、繰返しといった概念や、向こう側にあることを意味する「上」のような空間的な配置に関する概念についても理解し、それを活用した。

 このような認知的プリミティヴの相互作用がドローイングを生み出した。

(略)

 最初期のアーロンでは、世界中のあらゆる「岩絵」にならい、閉じた形態が重なることは許されていなかった。プログラムがある形状を描き始める。すでにその場所に別の形状があるのを発見する――つまり、線の行く手がさえぎられている――と、重なるのを避けてその線の行き先を変更する。(略)

 重なりを避ける手続きによって得られたのは、変更される以前の閉包ルールが生み出していたものよりも、ずっと豊かで予測しにくい形態の集合だった。(略)アーロンは紙の上にランダムに点を打ち、まず形状を描く。そしてそこから先を続ける。そのとき拠りどころにしているのは、すでにどこに線が引かれているかを知っているということだけだ。

「生み出すのにその人は何をしているか」

「しばらくすると、もうこれ以上新たな認知的プリミティヴを発見できないことに気づいた。始めたときと同じだけの認知的プリミティヴしかなかったし、それ以上明らかにすることはできなかった」。(略)

 さらに彼は、これら少数の普遍的な存在であるプリミティヴは、一つのより根源的なものに源を発するものであり、われわれは〈見たもの〉を〈知っているもの〉の方向へと歪曲しているのではないかと疑い始めた。この推測こそが、彼のそれ以降の仕事を特徴づけることになる。

 「もちろん、われわれが認知と呼んでいるのはまさにそのことだ。われわれがイメージをいまのような方法で生み出しているのは、単にそれが精神の働く方法であるからにすぎない。私はいつも、プログラムのふるまいという側面にいちばん大きな関心があった。つまり、これを生み出すのにその人は何をしているかということにであり、これは何をしているのかということにではない」

変換じゃない、認知プロセスが問題なんだ

 ここでコーエンは、いわゆる「コンピュータ・グラフィクス」の一群に対し、決然と、そして永遠に別れを告げることになった。これらコンピュータ・グラフィクスは、写真という表象のパラダイムと伝統的な遠近法的変換を拡張するものにすぎない。「十五世紀のはじめ以来ずっと西洋美術が採ってきた戦略は、現実世界を平面上にまるっきり機械的に変換することの上に成り立っている。しかし、これでは<われわれは何をするか>という根源的な疑問を避けてしまっている。この幾何学的な変換が何をするかではなく、世界に直面したわれわれが何をするか、という疑問をだ。われわれが行なっているのは変換なんかじゃない。遠近法的な変換は目の網膜までのことで、それより先で行なわれるプロセスはまったく知ったことじゃないのさ。見るということは単なる光学的なプロセスではない。それは認知的なプロセスでもある」

ポール・ヴァレリー

 かつて詩人のポール・ヴァレリーは、彼にきわめて大きな影響を与えた三人の芸術家、レオナルド、ポー、マラルメに関する研究の序文で次のように述べている。「本当のところ、私を深く魅了する作品というのは、それを生み出した生きて考えるシステムを私に思い描かせるような作品である。そんなシステムなど、疑いもなく幻想だ。ただし、純粋に受け身である読み手の姿勢の中には見出すことのできないエネルギーを発達させる幻想なのだ」

明日につづく。

2007-05-05 雑誌のカタチ/山崎浩一


雑誌のカタチ―編集者とデザイナーがつくった夢

作者: 山崎浩一

出版社/メーカー: 工作舎

発売日: 2006/10

ぴあ、「自立的な受け手」

 「『ぴあ』を見て映画やコンサートに行くヤツ」というのが、後に(今も?)侮蔑的なイメージになったりもした。が、元来『ぴあ』は、映画・演劇・音楽に関する「二次情報」を必要としない、むしろマニアに近いファンに向けて作られた「一次情報源の束」だったのだ。つまり配給元や興行主の宣伝文句、評論家の提灯記事や小難しい批評を押しつけがましく感じていた「自立的な受け手」たち。彼らが必要としているのは「いつ、どこで、だれが、何をする」といった文化的イベントのスケジュールだ。それを読み込み、使いこなし、行動し、作品を評価するのは、自分たち受け手の領分に属する――と、そこまで「自覚的」かどうかはともかく、少なくとも『ぴあ』のカタチが、70年代前半=ポスト60年代の時代相を象徴的に反映するものだったことは確かだ。

二代目編集長林和男談

情報としては平等・等価なものとして扱う。そして、そこにだれかの主観を紛れ込ませない。「面白い」という情報を与えられた人が「面白くない」と感じたら、その情報は間違いだったことになる。そして、その選択肢はすべて網羅されていなければならない。そのためには少しでも選択しやすい機能や工夫が凝らされていなければならない……。《もの言わぬ饒舌誌》という矢内によるキャッチフレーズは、それらをひっくるめたものです。

週刊文春/金子勝昭談

「デザイン」どころか「レイアウト」という言葉も、あまり使った憶えがないですね。活版のたとえばタイトル部分なんて、担当者が前号のページをビリッと破いて「これと同じでお願い」と原稿に添えるだけ、という調子でしたから。

(略)

デザインというのはトータルな視点があってこそ成立すると思うんですが、そんなものはなくて、おまけに週刊ですから。すべて個々の担当者まかせでした。たまたま担当者が凝り性ならそのページはちょっと凝ったものになり、そうでなければいい加減なものになる。しかも編集長がまたコロコロ代わるから、その個性や体質によっても変わってくるんです。

「無意識の意図」によるデザイン

 創刊後数年間の『週刊文春』をまとめて眺めてみると、そんな崖っぷちギリギリの「デザイン」の生成と試行錯誤の過程が、まるで炙り出しのように見えてくる。締め切り間際に最低限の基本だけは踏まえて大急ぎで構成されたページ、やや余裕のある時間を大胆かつ実験的な構成に費やしたページ、先発誌やライバル誌を巧妙または露骨に模倣したページ……。それらが互いに積み重なり合って、やがて、いつの間にか現在へと連綿とつらなる「『週刊文春』のカタチ」へとデザインされていく。大勢の「無意識の意図」によって生命を吹き込まれた雑誌という生き物が、自身で「生きのびるためのデザイン」を志向し始めるプロセスが、変色したザラ紙に刻印されている気がする。おかしな言い方だが、当時の活字書体やヴィジュアル素材の選択肢の乏しさが、かえって不思議な秩序と統一感を醸し出していて、今見ると「美しい」とさえ感じられるのだ。

書き文字

金子 (略)週刊誌の「伝統」的デザインに書き文字タイトルがありますが、あれは活字から写植への過渡的文化という以前に、専門の書き文字屋さんが傍に張り付いてくれている方が仕事が早かったからですよ。

 書き文字について若干補足しておく。写植初期のオペレーターには女性が多く、深夜労働を強いるわけにいかなかった結果、写植時代に入っても週刊誌界には「活字・書き文字文化」が根強く残ったと言われる。活字よりインパクトの強い「週刊誌的」な扇情的タイトル書体を求めると、書き文字という選択肢しかなかった。「早い」とは、つまりそういう意味である。

広告はジャマ者:金子談

表紙が和田さんのイラストになって文字が消えていった頃は、営業サイドから反発や不安も出ました。でも、当時の製作スケジュールだと表紙に時事的な目玉記事を打つのはキツい、という事情もありました。表紙は別進行だから間に合わないケースも出てくる。営業部や広告部との対立といえば、広告のことでもよく揉めました。なにしろ編集者たちは「雑誌は記事で売れるんだ」という矜持が今より強い時代でしたから、広告なんてジャマ者くらいにしか考えてない。「この記事は広告的・営業的にマズイ」なんていう発想は持ちようがない。たとえば広告媒体的に見れば、グラビアは全部カラーにしちゃった方が「有利」なのでしょうが、なかなかそうならないのは、やっぱりどこかかに「週刊誌ジャーナリズムの伝統」へのイメージ的こだわりがあるのかもしれませんね。

『ワンダーランド』(宝島前身)津野海太郎談

「スミ一色なのになぜかカラフル」

今の大判雑誌みたいに贅沢に洗練された空間じゃなくて、とにかく空間貧乏性的に文字もヴィジュアルも詰め込めるだけ詰め込んでね。(略)

まだ素材の版権もうるさくなかった時代だった。第四号の「an・an、non・noの京都なんてどこにあるのだろう」というぼくの記事では、文中に誌名が出てくるたびに本文活字サイズに縮小した誌名ロゴをいちいち切り貼りして使った。本文までがコラージュだから、切り貼りした本文のラインが各段でズレてないか、台紙を水平視線で見上げてチェックするのも全員の仕事。あれは当時、自在に剥がせるペーパーセメントやリムーバーやラバークリーナーがなかったら不可能な作業だった。ローテクながら「最新のテクノロジー」に支えられてたんだね。平野も「肉体労働のデザイナー」だから、とにかくバラ打ちされた写植を一字ずつ徹底的に詰め貼りする。文字の組み合わせによって字間のバランスを見極めながら、詰められるだけ詰める。それによって文字に独特の緊張感が生まれる。あれはもう書道に近いですよ。あのタイポグラフィは、おそらく原弘(戦時下の宣伝誌『FRONT』や戦後の『太陽』のデザイナー)→杉浦康平→平野甲賀という「系譜」なんだろうな。スミ一色なのになぜかカラフルなんだ。

きっちりディレクションされた統一感よりも雑誌・新聞的なモザイク感やアクチュアリティを優先したい、という平野の狙いだったんだろうけど。アーティスティックな完成度より現在進行のダイナミズム。ツルツルよりザラザラな手触り。ただし、あくまでもアングラでも同人誌でもないポップな商品としての魅力を保って、そこはしっかりコントロールしながら、それでも「世の中そんなにキレイにゃいかねえよ」というシニシズムも保って。そのへんはまあ、「平凡出版=マガジンハウス的気分」のようなものに対するぼくらの反発の表現でもあったわけだけれどさ。

学年誌:六位一体のパラレルワールド

 学年で輪切りにされた「六位一体のパラレルワールド」を形成する学年誌にとって、ドラえもんは一編のマンガ作品のキャラクターを超えた「学年誌統合の象徴」だった。「全学年一斉」の決断は、まさに学年誌というメディアの特性と構造を知り抜いた慧眼と言えるかもしれない。

編集者談

学年誌の編集部は、同じ年齢の読者とは12ヶ月しかつきあえないのです。その一方で、六つの編集部がトータルに全読者とつきあえる、という見方もできる。それもまた学年誌の不思議さであり、学年誌編集者という仕事の特殊さです。

少年マガジン:内田勝談

確かに大伴昌司さんのデザインは、まったくの独学です。彼が描く下絵も、緻密なときもあればラフに描きなぐるだけのときもある。画家さんたちにも職人的プライドがありますから、自分たちの解釈で描いてしまう。すると大伴さんは烈火のごとく怒るわけです。「もうこの仕事やめさせてくれ」とまで言って。画家にしてみれば、下絵の遠近法的パースを修整して、絵としてより正確で自然なものに仕上げているわけです。でも、大伴さんが要求するのは「リアルな図解」よりも「インパクトのある映像」なんです。(略)

ただ、さすがに、小松崎茂さんは早い段階から大伴さんのよき理解者で、「この人は天才だね」と言ってました。

当時の東京国際空港(羽田)や深夜放送のスタジオをフォトルポルタージュ風に「大図解」したときも、大伴さんはカメラマンを怒らせました。彼らがプロとして効果・構図を考えて撮影したカットも、大伴さんのストーリーやイメージの断片的素材として、大胆にズタズタにトリミングしてレイアウトされてしまう。「『アサヒグラフ』じゃないんだ」って調子で。当時は、まだそんなデザインは常識的に考えられないものでした。でも、完成したグラビアを見れば、それ以外考えられないほど斬新で効果的なデザインなんです。前衛的で遊び心に溢れてて。

オレガノペコロス オレガノペコロスを含むブックマーク

朝帰りした出川哲郎が目にしたのは妻の手による呪いのウサギ。七匹そろうとオソロシイことが起こるのだとか。今六匹目。

f:id:kingfish:20070502235734j:image

2007-05-01 悶える沼正三、ヤクザなウディ・アレン このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


平凡パンチの三島由紀夫

作者: 椎根和

出版社/メーカー: 新潮社

発売日: 2007/03

三島と関係ない、平凡パンチこぼれ話。

厚生省で大麻

 この記事*1が掲載された後に、平凡パンチ編集者のTが、厚生省に大麻について取材にいった。役人は親切に説明してくれた上に、「ちょうど、いいヤツがあるから、やってみるかい?」と、なにげなく大麻入りタバコをすすめてくれた、と編集会議で報告した時には、なぜか全員大笑いをした。大麻は習慣性が低いことは、厚生省の役人は当時から知っていたわけだ。

橋本治がイラストをあきらめた理由

そのポスターは、すぐ目にとまったが、稚拙なタッチが気に入らなかった。編集会議で、今年の駒場祭には面白いものはない、と報告した。パンチはすでに、風俗的週刊誌でありながら横尾忠則の初期の傑作といわれた「浅丘ルリ子裸体姿之図」を掲載していた。後に横尾作品を回顧する時には、必らず言及されるようになった名イラストである。横尾の密度の濃さからみると、橋本のイラストは、パンチで取りあげるレベルではないと判断した。この時から十年後、ぽくは橋本治に会った。橋本は、「実は、あのポスターを描いた時、最初にパンチが取材に来てくれたら、イラストレーターになろうと思っていた。朝日新聞だったら、イラストをあきらめて、作家になろうと考えていた」と、当時の心境を語ってくれた。橋本の駒場祭ポスターを最初にとりあげたのは朝日新聞だった。

残飯まみれで悶える沼正三

ある午後、ぼくが編集部で電話をとると、「パンチには、出前の残りがありますか」といきなりヘンな事をいう人がいた。

(略)

「三島が絶讃している『家畜人ヤプー』を知ってますか」といいはじめた。「まだ読んでないが、その小説の名前は知ってる」と、ぼくは答えた。「ワタシは、そのヤプーを書いた沼正三です」と、ヘンな人は、自己紹介した。所属している有名出版社の名と職名もいったので、ぼくは信用した。「じゃあ、今、残飯がありますから、すぐ編集部に来て下さい」 三時間後に、編集部に沼正三と名乗る、異常にやせた中年の男が来た。

 ぼくはその間に、知りあいの女優に、SMの写真を撮るから、すぐ編集部に来てくれ、と手配をととのえていた。有名女優はすぐやってきた。スタジオで撮影がはじまった。女優はミニスカート姿で、ハイヒールの細いカカトで、ストッキングを頭にかぶった沼正三の顔を思いきり、踏みつけた。沼と名乗った男は、歓喜の悲鳴をあげた。その写真は、極SM写真として、パンチに掲載した。

  • ウディ・アレンとギャング


ウディ・アレン映画の中の人生

作者: リチャード・シッケル,都筑はじめ

出版社/メーカー: エスクアイア マガジン ジャパン

発売日: 2007/03/27

僕はずっとギャングには興味を持っていた。みんなは映画の僕のイメージから、僕とギャングが結びつかないと思っている。みんなは僕が実際の僕以上にインテリだと思っているんだ。なぜなら眼鏡をかけているし、体格も貧弱だからね。

 でも事実を言えば、僕はブルックリンの下町で生まれ育った。僕には教育もない。一年生の時に大学から放り出されてしまったからね。父親はいつもタクシーの運転手だの、ビリヤード場でハスラーなんかをやっていた。ビリヤード場も経営していた。一時アルバート・アナスタシアの下で働いていたこともある。サラトガ競馬場でノミ屋をやっていたんだ。そうしたことにいつも興味を持っていたし、その感覚も分かるよ。

 僕自身はギャングじゃない。でもかなりの部分、そうした世界の住人だ。僕はロシアの小説を読むより、むしろ下着を着てビールを飲みながらテレビで野球の試合を見るような人間なんだ。まあ、つき合っている女性に合わせるためにこうしたものも読んだりしたけど、本当のことを言うと僕の心はいつも野球場にあった。だからギャングには愛着を感じるよ。僕はマーティン・スコセッシの映画はどれも好きだ。彼はいつもギャングの映画を作るから、必ず見に行って楽しむんだ。彼の映画が公開される時は、いつもとても楽しみにしているよ。

*1:1967年ヒッピー大集会「ヒューマン・ビーイン」の紹介