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2007-11-29 敗北の文化 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


敗北の文化―敗戦トラウマ・回復・再生 (叢書ウニベルシタス)

作者: ヴォルフガングシヴェルブシュ,Wolfgang Schivelbusch,福本義憲,高本教之,白木和美

出版社/メーカー: 法政大学出版局

発売日: 2007/08

  • フランス篇

失った領土を植民地に投影

 このようにフランスの植民地政策は、国民を敗北から――心理的・空間的に――遠ざけ、その代償を提供し、国家の再生を促し、新たな国家的使命を生み出した。(略)

フランスの植民地主義を推奨し支援しながら、その〈報復〉衝動を英国に向けさせるというビスマルクの計算は完全に正しいように思われた。(略)1890年代には、ドイツに対する〈報復〉が衰退する一方で、〈報復〉は英国との植民地争いにおいていわば突然のルネサンスを体験した。エジプトにおけるフランスの再三の敗走は次のような言い回しを生み、不安を引き起こした。すなわち、「我らが植民地セダン」「エジプトよ、英国との間の我らのアルザス・ロレーヌ」

(略)

 〈報復〉のレトリックの植民地政策への転用が示すのは、失敗している間はアルザス・ロレーヌの「代替物」にもならなかった植民地が、いかに迅速にまたいかに徹底的に国民の自負を担う新たな支柱へと変わっていったかである。植民地主義はさらに、モーリス・バレスのような過激なナショナリスト、ネオ報復主義者たちが希望を託す拠り所ともなった。「私はモロッコを愛している。というのも、そこには(……)我々のために三万から四万の良き兵士がいるからだ」

  • ドイツ篇

 1918年秋の「総動員」は、後の歴史家によって見込みのない幻想と見なされた。「もともと国民戦争だったものをいまさら国民戦争に転化させるわけにはいかなかった」というゴーロ・マンの議論は確かに正鵠を射ている。

(略)

 「総動員」(略)が放棄されたのとほぼ同じ頃、何人かの高級将校や官僚たちの間では、国の崩壊を英雄的滅亡として演出する案が浮上していた。1918年11月初旬頃に軍最高司令部で案出された「王の死」計画は、ヴィルヘルム二世が英雄的最期を遂げて、国の屈辱を清算し、君主制の名誉を救うだけではなく、新たなテルモピレー神話を作り出すことを想定していた。この計画によれば、「適切な地点を選んで、小規模の特別攻撃を遂行する。これによって皇帝は前線で英雄的な死を遂げ、重臣たちが殉死する」

(略)

 〈王の死〉をめぐる空想よりもよく知られていて、かつ歴史的に重要なのは、ドイツ海軍の「最後の出航」あるいは「死への航海」という作戦である。これは、実現の見込みのない個人的な想念ではなくて、海軍最高司令部によって実際に準備された作戦計画だった。艦隊は、スカゲラク海戦を除いて一度も戦闘に参加していなかったので、1918年11月の時点において、ドイツに無傷で残されていた唯一の戦争手段であったからだ。

(略)

皇帝は軍の先頭に立って英雄的な死を遂げるどころか、〈夜と霧〉に紛れてベルギー=オランダ国境を越えて逃亡した。(略)

わずかの将校を除いて、最後の一人まで戦う決意をしたはずの軍隊は抵抗せずに武装解除された。ベルリンを革命から守るべく集合した何千という志願兵たちは、そのまま送り返された。

 暴徒と化した兵士や市民が、真昼間に通りの真中で将校の肩章をもぎ取る光景が、敗北の原風景として後に想起されることになった。(略)この光景は、ヴィルヘルム帝政期の軍人・官僚階級の破綻と無力を象徴していた。

浄化する嵐

右派グループのリーダーのひとり、エドガー・ユングによれば、崩壊が起こったのは裏切りによってではなくて、「大衆の脱走」によってだった。そして、この脱走は正当なことだった。なぜなら、ヴィルヘルム体制は最後の一滴まで血を流して防衛する価値がなかったからだった。注目すべきは、20年代の急進的ナショナリストが、革命的左派とまったく同じように、1918年の崩壊を浄化する嵐と見なしていたことである。ヴィルヘルム体制は、急進的ナショナリストにとっても、消滅を悲しむべき黄金時代ではなく、極端な物質主義、最悪の趣味、うわべだけの華美、空疎なレトリック、つまり、デカダンスそのものに向かう恐るべき邪道だったからである。彼らは世界大戦を国民的な再生として歓迎した。そして、かつての金ぴかを払い落とし、国民を浄化する煉獄の炎として、敗北を受け入れたのだった。

教育のせいにする

フランスの教育改革の対象が、政治的には成熟しているが、読み書きのできない市民だったのに対して、ドイツでは、教養はあるが――知識を詰め込まれてはいるが――政治的には未成熟だった臣下たちが問題なのであって、これが大戦で最後まで頑張れなかった主要原因と見なされたのだ。ドイツの教育制度が辿った誤った道とは、教育の場が国家市民の育成ではなく、「騒々しい理性の工場」「脳味噌の絶え間ない捏ね繰り回し」となってしまったことであった。すでに1902年に、教育改革者のルードヴィヒ・グルリットが嘆いたように、「不安の教育の産物であって、青白い、怯えた、抑圧された青年たちが〔生み出され〕、自信を喪失し、おどおどとして、師の意思のままに生きている」。ここでもまた、ドイツとフランスの関係は環状をなして展開していた。まずフランスが、プロイセン・ドイツの学校教師の方法を、生き残りのために重要な、模倣すべきものとして賛嘆したのに対して、40年後のドイツでは、「小独裁者」と呼ばれるまでに硬直していた教師を、フランスの共和制的な「教員」をモデルとして鋳直すことが必要だと見なされたのである。

アメリカに対抗できるのはウチだけ

 だが、連合軍の勝利がアメリカの尻馬に乗って得られたものだすれば、ドイツは「ヨーロッパ」に敗れたわけではなかった。

(略)

1918年以後にとって重要だったのは、アメリカが唯一の勝者であり、ドイツが――アメリカとの関連において――本来の敗者だった。たしかに敗北は痛恨ではあったけれど、ドイツは唯一、アメリカに対抗しうる強国であり、将来のヨーロッパとアメリカの対決において、唯一の本格的な対抗馬であり、大西洋を繋ぐ対話のヨーロッパ代表者であるというイメージを抱くことができたのである。

(略)

 道徳的なリーダーシップに加えて、ドイツには、軍事的および金融的な優位性と独立性があった。アメリカに借金をして戦った協商側とは違って、ドイツは自力で戦争を遂行した。自らインフレに苦しみながらもドイツは、アメリカがかつての同盟国に冷ややかに請求書を突きつけるのを満足気に見ていた。

フランスのごまかしかた

アメリカの肩入れなしには勝つことができなかった。フランスがこの当惑を解消し、アメリカとの関係を定義したイメージは、自分自身の魅力のゆえに愛される恋人という立場だった。合衆国が1917年に参戦したのは、自国の利益のためではなく、人間の権利、フランス革命、「文明」のフランスを賛美したからだった。アメリカは、マリアンヌをドイツの陵辱者から救い出す若き英雄であった。アメリカの愛人としてのフランスは、アメリカの助けを自らの自立性に対する干渉とみなす必要はなかった。それは、1776年のアメリカ独立戦争にフランスが支援したことのお返しと理解されたからである。

2007-11-28 敗戦トラウマ処理法 このエントリーを含むブックマーク

敗戦国として分析されているのはアメリカ南部、フランス、ドイツなのだが、まるでジャパンの話のようじゃあーりませんか。


敗北の文化―敗戦トラウマ・回復・再生 (叢書ウニベルシタス)

作者: ヴォルフガングシヴェルブシュ,Wolfgang Schivelbusch,福本義憲,高本教之,白木和美

出版社/メーカー: 法政大学出版局

発売日: 2007/08

沈鬱から陶酔へ

ナショナリズムの時代にあっては、戦勝国の人々は歓喜の陶酔に陥り、敗戦国の側では極度の沈鬱状態が出現するのは明らかである。ただ、驚くべきなのは、敗戦の沈鬱がしばしば短期間しか続かず、奇妙な陶酔感に逆転することである。この原因はふつう軍事的破局に続いて起こる国内の革命状態である。旧体制の廃絶と敗戦の責任を負う殯罪の山羊への転落は、一種独特の勝利として体験される。抵抗が民衆的であればあるほど、また、新政権の指導者がカリスマ的であればあるほど、この体験は説得力をもつ。このとき、かつての敵はもはや敵ではなく、ほどんど同盟者であって、その支援によって旧体制の権力者と暴君は追放されたのである。人類博愛の精神に満たされて、大衆は自信をもって将来を見つめる。

夢から醒めて

 「勝利者は我々を専制主義から解放してくれた。それには感謝しているが、そろそろ去ってくれていい」。これが〈夢の国〉状態の支配的な見解であろう。戦勝国がこの役割では満足せず、国民を無実の犠牲者としてではなく、戦争の責任者、賠償義務のある主体として扱うとき、この雰囲気は一転する。暫定的に和解していた敵愾心が、戦争勃発時と変らぬ姿で、あるいはまたもや欺かれたという感情によって強化されて現れてくるのだ。というのも、〈夢の国〉状態では破局の現実的状況についての記憶が薄れ、〈紳士協定〉の枠内で敵の騎士道精神を信頼して自発的に停戦したのだという自己暗示的な確信が生じるからである。アメリカのウィルソン大統領を誠実な仲介者とみなした1918年のドイツにおける〈ウィルソン神話〉はその顕著な例である。

オマエに負けたわけじゃない

 同盟戦争での敗戦国にとって、〈報復〉という選択肢がない場合、それとは別の心理的補償の可能性が開かれている。敗戦国は、勝利した連合軍側の最強国と同等の国であると考えるのである。敗戦国はそれによってふたつのことを達成する。連合軍の他の国を漁夫の利を得た者として矮小化し、本来の戦勝国の食卓に招かれた会食者という扱いしかしないのである。もうひとつには、力の序列において主戦勝国に次ぐ地位、少なくとも他国よりは上位の地位を確保するのである。

敗北は再生のチャンス

 最初の衝撃が過ぎ去り、敗戦が国家の破滅ではないことが判明すると、こんどは解放、救済として解釈されるようになる。そのときになって、敗戦はその未来指向的な、ほとんど使命的ともいえる側面を見せ始める。〈夢の国〉状態にある敗者は、以前の罪深い生活を回想する回心者のように、敗北によって解放されたかつての世界をこき下ろすのである。セダン後のフランスにおいては、「全身麻痺」「20年の嗜眠」「帝国が我々を引きずり込んだ中国的惰眠状態」といった言葉が語られ、退廃と思考停止から国民を覚醒させるためには、クルップの大砲を必要としたとも言われた。アメリカ南部の戦前の状況を表すのに、ウィリアム・ジルモア・シムズは〈泡と滓〉という比喩を用いた。それを拭い去るのに戦争と敗北が必要だったというのだ。(略)

 戦争が残した遺産のうち、もっとも重要なものは、このすべてを浄化し、再生させる力というイメージである。

敗者は道徳的権威を目指す

1871年以後のフランスは帝政とはきっぱり縁を切り、人間性と文明を防衛する稜堡を自認するようになる。文明化した全世界を危険に晒す「科学的野蛮国」ドイツに対抗する稜堡である。ヴィルヘルム帝政の過ちを糾弾したドイツは三重の任務を買ってでた。ロシア・ボルシェヴィズムの奔流に対抗する保塁、アメリカの商業主義に対する稜堡、植民地世界にとっての解放者の三つである。つまりは、資本主義と共産主義の間を進む第三の道の先導者である。

 この三つの文化が追い求めたものは、道徳的権威だった。これこそ、勝者も含めて世界が必要としていたものであり、しかも敗者のみが手にすることができる権威なのだ。なぜなら、敗者のみが受難を経験し、地上のあらゆる力関係の彼岸におかれていたからである。しかし(略)現実の世界は、どんなに情熱的な敗者道徳家であっても認めざるをえないように、勝者によって規定されていた

勝者から学ぶ

 よく知られているように、1917年のアメリカの参戦によって、世界大戦は世界十字軍となった。これほど知られていない事実は、国際政治にこの転回点をもたらしたふたりの男がアメリカ南部出身であり、8歳もしくは10歳のときに南部連合国の崩壊を体験したことである。ウッドロウ・ウィルソンは、国際政治に道徳を持ち込んだ人物として知られるが、南北戦争後のアメリカで大統領に選出された最初の南部人だった。ウォールター・H・ペイジは(略)第一次大戦にアメリカを参戦させる駆動力となった

(略)

アメリカにとって、1917年の(リベラル・民主的)協商国側にたっての参戦は悪(ドイツ軍国主義)に対抗する正義の参戦であり、それは北部連邦と人類に対して大罪を犯した南部に対するリンカーンによる十字軍の再演だった。中欧の軍事君主国を廃絶するというウィルソンの要求は、奴隷制の廃絶を要求する〈廃絶主義〉の繰り返しにほかならない。

南北戦争後

[降伏後]南部人は四年間にわたってあれほど激しく戦ってきた独立と奴隷制度を、ほとんど文句もいわずさっさと放棄した。その代わりに、彼らは戦争勃発前の状態への回復を期待したのである。それゆえに、北部にはそのつもりがないばかりか、逆に南部に過大な要求をしてきたとき、南部人の困惑は大きく、不公正な処遇に対する怒りは激しかった。北部が「再建」というとき、それは南部の物質的な建て直しではなくて、敗者の文化的教化と道徳的再教育と政治的屈従を意味していることが明らかになったからだ。

卑怯な敵

 敗北は公正な戦闘の結果ではないという負けた側の確信は、とりわけ征服された南部連合で表明された。南北戦争前の年月に結晶化された自己認識によれば、卑劣極まりない物質的北部に南部が敗北したことは不可解だった。何と言っても、南部の優越性は輝かしく確固たるもので、戦争初期の軍事的勝利において敵ですら認めていたほどだったのだ。最終的に戦争に負けたのだとしても、原因は軍ではありえなかった。北部が南部に対して行ったことは、戦争などではなかった。(略)

 「我々の兵士を戦場で打ち負かせないので、彼らはこんなやり方で暴れ回るほかないのだ」と日記作家のエマ・ル・コントはシャーマン軍によるサウスカロライナのコロンビア炎上について書いた。南部の全体が連邦軍の焦土作戦と封鎖による餓死作戦に見舞われた。「彼らは我々の兵士を打ち負かせないのだ。だから彼らは焼き尽くし、我々の女や子供を餓死させるのだ」

明日につづく。

2007-11-13 歴史哲学についての(ry このエントリーを含むブックマーク

第四章だけ読んだ。あまり面白くないので息抜き画像を付けてみた。


歴史哲学についての異端的論考

作者: ヤン・パトチカ,石川達夫

出版社/メーカー: みすず書房

発売日: 2007/09/15

[ヨーロッパの]物理的力の最初の衝撃的な現れは、ヨーロッパの中心たるフランスの普遍的な意義を世俗的・合理的な新しい基礎の上に実現しようと努める革命的なナポレオン戦争であり、フランスは、ローマ帝国の実体のない最後の残余形態を今や消滅させる。大陸のヨーロッパとイギリスは、あからさまにロシアの力に頼らなければ自らを守ることができず、ロシアの力は長い間ヨーロッパの諸問題の裁定官になり、ヨーロッパの権力システムの提案者になり、ヨーロッパの葛藤と失敗から最も大きな利益を引き出す要因になる。

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[主婦コントを終え素に戻り、他人のコントを温かく見守っているところを抜かれた椿鬼奴]

 世界に吹き荒れて革命をもたらし、革命後のナポレオン戦争をもたらした突風の後で、ヨーロッパはまず帝国主義的なロシアの圧力のもとで、信用を落として誰にも信じられなくなった「正統性」に戻る。フランスの専制政治に対抗して、地方の伝統の分権主義と諸民族の自発性に訴えねばならなかったので、この不誠実な回帰は、民族運動、民族主義運動という標語のもとに括られる、新しくて雑多で部分的に非常に混沌とした出来事の始まりを記すことになった。ずっと前に中央集権化されて、言語的に統一された国家的集合体の存在するヨーロッパの西では、この運動はごく自然に、産業革命が企業と投機の国家的擁護を事実上要するという必要性と結びついて、国家はブルジョア的資本主義の影響下に入る。中欧と中東欧は、自分たちにとって模範となるこの発展を、羨望の眼差しで見守った。

 一方では革命とナポレオン時代に関して、他方ではロシアに関して、当時ヨーロッパのジャーナリズムは、「世界的強国」・「世界的国家システム」という概念を発展させた。他方、ロシアの帝国主義的姿勢を西の影響でぐらつかせようとする初期の試みに対してその姿勢をうまく守るロシアは、ビザンチンの帝国主義的キリスト教から継承した自らの政治的カテゴリーを、斜陽のヨーロッパ、分解するヨーロッパからの遺産という思想へと、ますますはっきりと発展させた。その思想は、その概念に合うヨーロッパ的要素を集めて、十九世紀全体にわたって維持される。

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[エミコがナレーションじゃなければ二割増し楽しくなると思われる朝ドラの番宣で子役の話をきく、「はっ、あたし浜ちゃんと司会もやってるのに、地方アナにされて外ロケで天気情報とかやされてるぅ」とブーメラン君状態の杉浦友紀]

こうして、十九世紀ヨーロッパでは、まさに問題が解決されると見えるところで、政治的危機が深まったのである。即ち、ドイツ問題、イタリア問題である。それらの解決はヨーロッパを安定させる代わりに、実際にはその地方分権主義を先鋭化させ、それを狭いヨーロッパの空間において致命的なものとした。社会的危機もまた時代の進展と共に先鋭化し、必要不可欠な工事従事者プロレタリアートが自らの要求をますます強く提示するようになる。まさにこの瞬間に提起されて、ある者たちには世界政策的な政治的洞察の頂点と見なされた「打開策」――即ちヨーロッパの諸問題を世界規模にし、ヨーロッパの分割を世界の分割に投影すること――は、今まで潜在的なものだった敵対を白日の下にさらしただけで、全世界の資源をヨーロッパの競争の致命的に危険な企てに委ねざるをえなかった。しかも、非ヨーロッパ世界が、同時代の大衆のヨーロッパ、普通選挙権と官僚化された巨大な政党のヨーロッパから、自らの政治的重みを増してヨーロッパに対抗して自分の足で立つ術を学びうることを意識し始めた瞬間にである。

ナポレオン戦争のような戦争はまだ革命の理念に根ざしており、そこに啓蒙主義が特別な、軍事的に技術化された形態において反映していた。そして、啓蒙主義はその時代において世界の共通の理念的財産と確信であり、ここには、理性が世界を支配するという肯定的な理念があった。それは、西のキリスト教世界における分裂を決定的に解決しなければならないということが三十年戦争における共通の確信であったのと同様であり(略)

第一次世界大戦の背景にあった共通の理念は、世界と事物の即物的で客観的な意味のようなものは何も存在しないという、また、人の近づきうる領域においてそのような意味を実現することは力と権力の問題だという、次第に芽を出して来た確信であった。

2007-11-08 喪男・フーリエ・愛の新世界 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。

20代の姪に翻弄された喪男が放つ『愛の新世界』とは


シャルル・フーリエ伝―幻視者とその世界

作者: ジョナサンビーチャー,Jonathan Beecher,福島知己

出版社/メーカー: 作品社

発売日: 2001/05

多婚でオープンに。

ニガw部分をデカ字にしてみた。

愛の新世界では愛のいとなみは通常昼間行われる。またたいていの場合共同体の活動でもあり、手早く成就される。人々が夜部屋へ退散するのはまず眠るためでしかなく、通例眠るときは独りである。(略)単婚者の徒党を除けば、調和の性的活動の一切は屋外で行われるという。「多婚愛の諸階級では、一切隠すところのありえないように」されるのだ。

 フーリエが性的活動の開放性を強調した理由は、これによって文明にあれほどはびこっているセックスに関する偽善に終わりが告げられるというものだった。調和では、「今日見受けられるような、恋愛に繊細な神経のゆき届かない者が感傷愛の使徒を詐称するといった真似はなくなる

(略)

 したがってフーリエの愛の新世界の構想は、ルソーの夢想の具体化であり、ある意味ではそのカリカチュアである。人々が相互に「透明」で、直接的、自発的に関係を結び、策略や欺隔が絡まない社会。

いちゃつくカップルへの怨念

利己的で自己本位の恋愛には揶揄たっぷりだった。「会合という会合で日がな一日いちゃいちゃし合っている二人の若い恋人たちは、誰に何を言われようが、愛撫をやめないのである」。フーリエはこうした振舞いには「慎みが欠けている」と考え、調和社会から追放しようと万策を尽くした。

(略)

 調和人の多婚的愛戯の称賛、その開放性・透明性の強調のうちには、フーリエの愛の新世界の底流に流れる暗い色調があるように見える。(略)

フーリエは数節を費やして、朝ベッドに横になって愛を確かめる若い既婚カップルヘの憂さを晴らしている。彼の教えるところでは、調和社会ではこのようなカップルは朝四時にベッドからたたき出されるか、そうでなければ「その家庭的美徳によって、嘲笑の的になる」。(略)

地球を回る「天空鏡」が発明され、二人きりで森や野原に隠れようとする恋人たちを見つけ出すことができるようになると予言している。

(略)

開放性の強調や、覗き見的な懲罰の空想、単婚カップルが「慎みなく」その姿をさらけ出すことへの怒りは、何かしら示唆的である。(略)単婚制攻撃の向かう先は、抑圧的制度だけでなく、カップルを結合させうる強い情動的絆でもあったようだ。フーリエのエロスのユートピアは、表面的には放蕩者的であるとはいえ、まさしく彼には生涯手に入らなかったその種の情念――他者への焼き尽くすほどの絆――を根こぎにしようという欲望を表しているようである。

トンデモ喪男扱いばかりではなんなのでちょっといい話?

 リュビーヌの回想によれば、父の死後シャルル少年は自分の部屋を与えられた。彼は一つしかない部屋の鍵をもち歩き、許可なしには誰にも入室を許さなかった。部屋は少年だけの聖域になり、そこでなら誰に気兼ねもなしに地図を見つめられ、ヴァイオリンを練習できた。ところでさまざまな孤独な興味のなかで彼がいちばん情熱を注いでいたのは、花々を愛することだった。彼は部屋を鉢植えの花でいっぱいにし、種類や色を慎重にえらんで飾り立てた。秩序への情熱は植木鉢にまで延長され、色、大きさ、形ごとに花々がひとまとめに集められた。

(略)

ドアから窓へ延びる細長い通路を除けば、部屋の全体が豊かに盛りあげられた土壌で覆われ、花々は文字通り床から生えてきていた。「真ん中の細道しか通路はなく、両側は美しい花々が、ゲッカコウやチューリップなどが床一面を飾っていました。

 旅行者としてフーリエはいつも数え収集し分類していた。出張のときメートル尺をもち歩き、目を惹いたものならどんな建物でも、モニュメントでも寸法を側った。弟子たちによれば、彼は老いて後も、記憶からこうした寸法を精確に述べ、出張販売員をしていた年月に訪れたほとんどの街の人口とか地勢とか気候についてこと細かに説明することができた。

経済的観点から女性解放

 フーリエの女性擁護論は、その思想の諸側面のうちで、彼が名を挙げるもとになったものの一つであり、今日でもこれはよく知られている。(略)「女性問題」についての彼の論述はフロラ・トリスタンその他数多くのフランスの先駆的フェミニストたちによって大絶賛された。また彼の弟子たちも1830-40年代の社会主義運動内部に女性解放論を広めるために大いに努力した。とはいえ、ある相違があったのは強調しておくべきである。1840年代の社会主義者たちが採った立場(女性の解放を博愛主義的道徳的基盤から諭じた)とは違って、フーリエの議論の主要点は功利主義的なものだった。彼によれば女性の奴隷状態は社会総体に被害を及ぼす「大失態」なのであり、その結果とりわけ経済領域では際立って、社会の発展が遅らされているのだ。

対抗倉庫

 自分の経験と観察を考えてみればフーリエには、商売で成功しようと望む限り、誠実を旨とするのは得策でないのは明らかだった。商品を不当表示し買い手を欺く商人のほうが、誠実に取引しようとする商人よりもはるかに成功しやすいのだ。(略)

すべての商人にあたかも誠実と徳への愛がその最も基本的な衝動であるかのように行為させる、「保障あるいは一般的保護の方策」

(略)

こうした計画のうちには、商人の全体を一群の保険会社に組織するという提案もあった。この保険会社は「交換と分配を行ってもらうために彼らに社会から依託された生産物に対して集合的に責任を負う」。商業組合を設立することを通して、商人の数を減らし、商業活動を規制しようという特認制度もさまざまに計画されていた。この場合、商業組合のメンバーは年毎に高くなる特認料の納付を義務づけられ、さもなければ「農工業など生産的事業」に鞍替えしなければならない。フーリエは協同倉庫網結成の計画まで作っていた。財をこの内部で流通し価値評価させることによって、小売商人をはじめとする仲買人の所有に帰することはけっしてないようにしようというもので、彼はこれを対抗倉庫と名づけた。最後に挙げた計画はとどのつまり商人を完全に排除することになるものであり、この計画を通してフーリエは、やがて「商業の害悪」と呼ぶことになるものを解決するにはアソシアシオンの原理を適用するしかないと思い定めるようになったのではないか。

では最後に1829年『産業の新世界』の広告文で苦笑いしてサヨウナラ

産業の実質生産の即時四倍化。酷税、塩・煙草・籤等の間接税の廃止。国庫の全負債の近日中の消滅。今日の祝典・舞踏会・宴会・見世物を凌ぐほどの、生産的労働の誘引化・密謀化。黒人と奴隷の無賠償解放の実施。封建制、ギリシアその他の農奴制、海賊行為、海上その他の独占の失墜。熟達した知識人・文学者・芸術家・教育者のすべての即時の莫大な富の取得。夢だ、幻だと、諸君は言うだろう。断じて、この著作こそは、新しい、きわめて体系的な学問なのだ。

2007-11-07 シャルル・喪男・フーリエ伝 このエントリーを含むブックマーク

禿しく飛ばし読みなのだが、なんかトンデモな人。パリの奴等は俺の才能を恐れて無視するのだと激怒してるけど、こんなノリだとやはりそれは。


シャルル・フーリエ伝―幻視者とその世界

作者: ジョナサンビーチャー,Jonathan Beecher,福島知己

出版社/メーカー: 作品社

発売日: 2001/05

フーリエはある晩、アレクサンドル・ビクショという医学生を連れてノディエ家の夕べを辞そうとしていた。「空は晴れ渡り、満月が燦然と輝いていた。ビクショは思いのままを口にした。『きれいな月ですねえ、フーリエさん』。フーリエはうんざり顔で答えた。『そうですね。最後の輝きですから見逃さないようにしてください。どうしたって私の法則からは逃れられないわけですからね』」。月が消滅し、代わりに眼にもあやな五つの衛星が新たに生じるというフーリエの予言をビクショが知ったのは後になってからだった。

農業アソシアシオン、「情熱系列」

300家族の農家が協同化されれば、手入れの悪いいままでの300の穀物庫の代わりに、手入れの良いたった一つの穀物倉があればよい。大部分が極端な無知をもって扱われてきた300のワイン醸造桶の代わりに、たった一つの醸造所があればこと足りるのだ。

 いちばんの問題は、フーリエが看て取っているとおり、こうした共同体のメンバーがかならずもつだろう相反する欲望や利益や情念を調停することだった。

(略)

この理論が意味するのは、個人の欲望充足が一般の利益に役立ち、個人が社会的に有用な任務を労働することをみずから欲するような、新しい形態の社会組織の一モデルの構成である。

(略)

もし個々に好みを共有する人々を、年齢や財産や性格や教育程度を注意ぶかく細かに区別し対照化した集団間の系列に分別するならば、仕事は誘引的になり対立は調和される、という発見だった。自然的アソシアシオンのなかでの諸情念と生活の構成を調和することになる基本単位にフーリエが与えた名称こそ「情念系列」だった。

このフーリエさん、「25歳のときにはもう私は女性の気を惹こうなどとは全然思わなくなっていた」という喪男。でも「私はたくさんの乙女たちに100回以上もへたな詩を作った」という序文のついた、告白したいけど……、てな詩が残されてたりする。

1815年12月(33歳)。母の遺産が少し入ったので仕事を辞め田舎でゆっくりすることし、死んだ姉夫婦の遺児7人の親代わりになろうとしたばかりに、姪相手に悶々することに。ここらへん長々引用しないとその切なさ(おかしさ)が伝わらないのだが大胆にカットしてお届け。

ファニーの二人の妹、オルタンスとクラリスはいずれも20代前半だったが、その自由で安逸な暮らしぶりはこの地方である種の評判を得ていた。彼女らの放縦な振舞いの噂はすでにリヨンのフーリエの耳へ届いていたが、「原則として寛大」なのを誇りにしていた以上、彼はそれをなんとも思っていなかった。(略)家はしょっちゅう娘たちの友人の騒がしく言葉遣いの乱暴な軍人たちで溢れた。怪しげに入ったり出たり、夜毎奇妙な物音が聞こえた。(略)

こうしてフーリエは、タリシューに住んで最初の六か月間を通じて、姪たちときわめて良好な関係を維持した。彼には娘たちのうち最も魅力的だったクラリスヘの「小さな愛情」さえも芽生えたのだ。もっとも彼はその気持ちをひた隠しにしていた(略)

彼は姪たちの友人でロジーヌという名の若い娘にも魅力を覚えた。彼女の「味方に私はなろう、というのは皆が彼女を手荒に扱うから」。しかし彼はロジーヌにつきまといはしなかった。彼が後年言うには、「私は[タリシューヘ]来たとき女性に指一本触れることはすまいと思って」いたからだ。

(略)

 五月になると、オルタンスがにわかに、叔父への愛情のそぶりを示すようになった。(略)オルタンスはクラリスほど可愛くなかった。(略)いくらもたたないうちに、オルタンスがノートをちらちらと見るのを許すようになった。数行を彼女が読み、笑い、ときには「鋭敏で適切な」批評を加えて彼を「愕然」とさせた。

田舎の才人たちにフーリエが本を書こうとしていることがバレ嘲笑をあびており、姪の励ましは執筆継続のための唯一の心の支えとなる。

「運命が送ってくれた支援」にしがみつくように、彼は彼女に飛びついた。数週間も経たないうちに、フーリエは自分の姪にのぼせ上がるようになり、同時にしだいに彼女のもつ批評の才能に感嘆するようにもなった。概論で扱うさまざまな問題について彼はこの姪にアドヴァイスを求め(略)

自分に必要なのは、オルタンスがずっと協力してくれると信じることだけだ。

 けれどもこのときフーリエに疑いが湧き上がった。オルタンスは気まぐれで移り気な女性だと彼は知っていた。彼女がそんなに長いあいだ論文に興味をもち続けてくれるなどということが、ほんとうにありうるだろうか。「守り札」が突然なくなってしまったらどうなってしまうだろう。そうなったらどうしようという思いに悩まされたあげく、彼は姪の金銭欲に訴えることにした。オルタンスはよくフーリエに、人生に望むものは最低五万フランの財産をもち、完全な恋愛の自由を許してくれるほど年老いた伴侶だと話していた。この何も要求しない年老いた伴侶の役割をどうして彼が演じえないはずがあるだろうか。(略)[五万フランの財産をつくるため]フーリエは商業界へ戻ろうと決心した。彼女のため、そして自分の著作のために。

[遠まわしにプロポーズ]

そのときまで私は君に二点を註文します。第一に、君の仮面を外すこと。あれこれの光景を見れば私には何から何までわかりました。もし君の姉妹が私に貞淑なふりをしたいなら、彼女たちにはしたいようにさせてやります。君に率直になってほしいだけです。……それともう一つ(略)[財産をつくるから仕事の補佐をしてねという要求]

だが散歩中に行為を目撃。

「ギャランはオルスタンスのスカートの中に手を入れ、腕は肘まで隠れていた。妹のクラリスがその前で見ていた」。三人は彼に気づかなかった。

嫌われる事を恐れ黙ったままに。姪達が男に弄ばれていると思い、そこに愛しさを見出していたのだが、ようやく姪達の方がヤリマンなのだということに気付く。だんだん気まずくなり、8月にフーリエは家を出る決意。

彼の決心を聞くと、オルタンスは考え直した。叔父が出ていって、あれこれ噂されるのではないか、と心配し始めたのである。彼女はその夜おそくフーリエの部屋に現れ、行かないでほしいと頼んだ。彼が断るとオルタンスは、「罵言の雨あられ(略)そればかりか彼女は、フーリエの男を試そうとし始めた。彼は「男としてふるまって」いないと言い立てた。自由恋愛の信奉者だと言うわりには、「絶好機が向こうから転がってきているのに、うまく利用してこなかった」、と言うのだ。(略)

翌年1月までフーリエは未練残して愚図愚図。

 [1817年]1月26日の晩、衝突が起こり、彼は出発を早める結果になった。(略)フーリエが酔っているので娘たちが叱ると、フーリエは突然怒りだし、怒鳴り散らした。「六か月の侮辱に私は15分のにがい真理で応えた。『エロ爺』といういつものあだ名に私は逆=真理で、『エロ娘』の称号で応じた」

(略)

 フーリエがベレーヘ着きパラ=ブリヤ家へ身を寄せてみて初めてわかったのだが、リュバ家の娘たちとの反目の噂は彼の到着より先に届いていた。覗きをしたと言って責められ、若い世代の敵、好色で嫉妬に狂った年寄り呼ばわりされ、実の姪に始まってタリシューの娘たちすべてをたらしこもうとし(て失敗し)た、と糾弾された。

(´・ω・) カワイソス。

残り少しだが明日につづく。

2007-11-05 ルソーとジュネーヴ共和国、アイルランドのナショナリズム このエントリーを含むブックマーク

意味なくつまみぐい。


ルソーとジュネーヴ共和国―人民主権論の成立

作者: 川合清隆

出版社/メーカー: 名古屋大学出版会

発売日: 2007/06

仏に服従する17世紀ジュネーヴ

17世紀を通じて、ジュネーヴ共和国はフランス王国とサヴォワ公国の狭間にあって絶えず併合の危険にさらされていた。この両大国の脅威に対し、共和国は、巧みな外交によって、また要塞強化によって、併合の危険をかろうじて切り抜けてきたのである。(略)

 ところが、フランスから資本と技術を持ってやって来る新教徒難民の増加とともに、ジュネーヴの商・工業が発展すればするほど、共和国はますます深くフランス経済圏に組み込まれていった。共和国が少しでも反抗的態度を取れば、フランス王国は直ちにジュネーヴ国境を閉鎖し、フランス国内のジュネーヴ人の追放・財産没収などによって共和国を締め上げ、武力を用いずに屈服させることもできた。そのようなフランスとの関係から、ジュネーヴの参事会や二百人議会の内部にはヴェルサイユ宮廷の言いなりになる《フランス派》が形成され、彼らはあたかもルイ太陽王の臣下のように振る舞った。ジュネーヴ政府は結局、スイス同盟より、ヴェルサイユ宮廷に頼るほうを選んだのである。ジュネーブの「諸議会は、守備隊を増強し、スイス都市同盟に参加するための交渉を再開してはどうかという、同盟都市[ベルン、チューリヒ」からの提言をすべて拒絶し、ただフランス王の命令への絶対的服従のみが共和国の将来を保証することができると見なしていた。人民はこの重苦しい保護をどうにか我慢して耐えていたが、為政者たちはどんな代償を払っても絶対君主の機嫌を損ねるようなことは避けなければならないと考えていた。


IRA(アイルランド共和国軍)―アイルランドのナショナリズム (1985年)

作者: 鈴木良平

出版社/メーカー: 彩流社

発売日: 1985/09

|本| Amazon.co.jp

アイルランドの独身率

 もうひとつは結婚率の低下である。大飢饉後、田畑などを分散させないために、農村で結婚できる子供は長男と長女の二人だけと言われた。長男は嫁をもらって家を継ぎ、長女は他家に嫁つぐことができるが、他の息子、娘たちは海外に移住するか、アイルランドに留まるかぎりは独身でいるほかなかった。家族は経済的単位になっていた。

(略)

1926年 未婚率(%)

年齢   男   女

25-30    80  62

30-35   62  42

35-40   50  32

(略)

それはひとつにはフランス革命によって国を追われたフランスのヤンセニストの司祭たちがアイルランドに亡命してきて、アイルランドの神学校で内省的で厳格な禁欲生活を説いたせいとも言われるが、大飢饉の影響が最大のものであることは言うまでもない。その証拠に1960年代になって生活水準が向上するにつれて、アイルランド人の結婚率も上昇している。1958年と1970年を比べると、結婚率は驚くなかれ40%も上昇しているのである。

 また、大飢饉後の結婚できない状況は、英国ヴィクトリア朝の偽善主義の輸入と相いまって、一方では性のタブー化を生み、それが独身主義を補強した。他方では性のみが不道徳の典型とみなされることによって、暴力、偽言、飲酒などが見のがされた。飲酒などは善人であることからくる弱さとして、かえって善人の証明とみなされたりした。

  • 今日の2ch

日本ハム金村と阪神中村泰広が交換トレード


公「道民が五月蝿いので金村引き取ってもらえませんか?」

虎「タダで?ええよ。面倒見たるわ。」

公「・・・いや、腐っても金村は元エースなんで。」

虎「交換すんの?誰が欲しいん?」

公「赤星でお願いします。」

虎「何や冷やかしかい!帰れ、帰れw」

公「じゃ、じゃあ浜中で」

虎「え!?は、浜中でいいん??(どないしよう・・・)」

虎「そや、ファームに有望株がおるんや、それで(ry

コレが真相

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金村の取説置いておきますね。

取 扱 説 明 書

ランナーを沢山出しても慌てないでください。ランナーを出しながら抑える劇場型ピッチャーです。

球速はあまり無いです。コントロールと投球術で魅せるタイプです。

際どいコースを突いてのフォアボールが多いのは仕様です。

その際、審判と揉めない様に注意が必要です。結構文句は言います。

決め球フォークボールの被打率は優秀でした。。。

去年から時折パームを投げますが、パームはNANDAを見て覚えたらしい。

意外とプライドが高いです。傷つけないように注意しましょう。

大舞台には意外と強いです。信頼しましょう。

俺のパワプロでは登録名を「サトル」にしたがってました。

俺は金村がいなくなって寂しいです。

2007-11-02 橋本治/ああでもなく5 このエントリーを含むブックマーク

先日2chで橋本治ってなにが凄いの?てな書き込みを見てうーむと思ってしまった。確かに以下長々と引用してみると、昔を知らぬ人にはウッチー(の寒い橋本ぶりっこ)と大差ないように見えるのかと思えなくもなく、それでは無念なのでいっそボツにしようかとも思ったのだが、結局こうして、長文引用。シャチホコに喰われろ、ウチダ。


このストレスな社会! (ああでもなくこうでもなく (5))

作者: 橋本治

出版社/メーカー: マドラ出版

発売日: 2007/01

ストレス

つまり、人間の生活が「個室単位」を前提としていて、「この個室状況がいやだ!」と言ってしまうと、居場所がなくなってしまうからだ。それでなんか、どこかでピリピリしている。ストレスを抱えたまま、「個室状況=ストレス状況」を引き受けなければならなくなっている。大変なことだ。でも、ストレスは自分の中にあって、自分の中にある以上、それが「自分の問題」であることだけは間違いがない。(略)

 自分が見えないと、他人もまた見えなくなる。「自分の見えなさ加減」と、「他人の見えなさ加減」は、またちょっと違っていて、「他人」というものは、見えなくなればなるほど、「近くにいる」と思えてしまうものでもある。だから、冷静になると、「他人というのは自分とは違うもので、結構遠いところにいるものだな」と思えるようにもなるのだが、関係障害というのは、きっとこの距離感のつかめなさだとしか思えない。

(↑余談ですが、当方のOCRソフトが「距離感」を「距陰唇」と認識したであります。そこまでいったら「巨陰唇」にしとけや)

メディアは、正しく「えらそう」であらなければならない

 1980年代の初めに、女性誌も一つの曲り角にぶつかっていた。(略)

若い娘達も、「可愛い金髪の外人モデル」をスタンダードとする、日本ファッション文化の本道に飽きかかっている――自分のあり方との間に、違和感を感じている。そういう時代だったから、「なんでいつまでも、外人モデルなの?」と私は言った。

(略)

今じゃ、読者モデルの花盛りで、私は「モデルのレベルも落ちちゃったな」と思っている。今から四半世紀も前に、「読者モデルを使うように考えた方がいいよ」と言ったのは、「このまま状況を放置すると、シロートである読者にイニシアチヴを取られて、“ファッション誌”という地位を失うことにもなりかねないから、今の内に読者を取り込んで“読者へのイニシアチブを取る”ということを維持し続けるべきだ」という、深い戦略的な理由からなのである。主導権をお客さんに渡したら、よって立つところがなくなるというのが、実は、メディアのあり方の本来なのである。

 メディアは、正しく「えらそう」であらなければならない――そのために大苦労を続けなければならない。しかし、硬直して巨大化してそれ相応のステイタスを獲得してしまうと、それが出来なくなる。それとは、自分達より低いところにある現場を見て、それを正しく取り入れることではあるけれど。

挫折。

放言で説教くらってるタイゾーに昔の自分を見る橋本。

[編集長の]アドヴァイスを受けて、「はい、はい、はーい」と言って、言われた通りにするのである。それはもちろん、「言われた通り」ではあって、「相手の望むような方向で」なんかではない。(略)

 「だってやなんだもん」を言ってしまうと、その後は、全部「自分のオリジナルで処理をする」になる。(略)もちろん、それは困難な道なので、やがてつらい目にあって挫折を強いられることになる。だから私は、「杉村太蔵には落選を経験してもらわなければ」と思うのである。

(略)

 問題は、あるところでは「はい」を調子よく引き受け、引き受けがたいところで「はい」を渋って、結局は受け入れるという、普通の人である。こういう人達は、「相手の言うことに従ったのだから、自分の安全も相手が保障してくれる」と思って、調子いい自分の「責任」をなかなか認めないのである。だから、「身にしみないくせに人の言うことを聞いて、そのことによって凡庸になって行く」という道を選んだ人は、挫折をしにくいのである。挫折というのはつまるところ、「自分の責任を認める」ということだから。

「思考する体力がある」というのは、「自分には分からないことがある」という、劣等感を保持しても平気でいられる体力を持つことである

昔の普通の人は、「この世の中には自分には分かんないむつかしいことがあるな」という状態を当たり前にして生きていたということである。(略)劣等感を生じさせるかもしれない状況を平気で引き受けて生きていた、ということである。(略)普通の人は、「分からん」と思いながらも平気なのである。つまり、とっても体力があったということである。(略)

[一方「分からないこと」を恥とする人は]「劣等感になりそうなものを撲滅し続ける」という方向で生き続けなければいけないのである。私なんかは、「大変だろうなア」と思うばかりである。そして、これに対して「今の勉強しない高校生」系の人達が登場する。

 この人達はともかく、「なんか、むつかしくってよく分からない」というようなことを、平気で「ないもの」にしてしまうのである。劣等感を発生させる因になるようなものが、ないのである。そりゃもう、こざっぱりして大変だろうよ。前の二種類の人が、「体力がある」と「体力を消耗する」の系統であるのに対して、この人達は「体力がなくてもいい」なのである。大変なこった。現在は「今の勉強しない高校生」だらけになってしまっているということである。

 今の人は、劣等感を持ちこたえられない。自分に劣等感を感じさせてしまうようなものを「ないこと」にしてしまう。だから、自分とは違うところに「知らなきゃいけないのかもしれないようなむつかしいこと」が存在することを認めない。めんどくさいことは「考えなくていい」にしてしまう。そうして、こざっぱりしたきれいな人間になってしまう――そうして、「劣等感を抱えていられるような体力のある人」を、嗤う。あるいは、「怪訝なもの」として遠ざける。そのようにして、「めんどくさいこと」を「ない」のまんまにしておく(私は「いじめの構造」の根本に、このことがあると思っている)。だから、「めんどくさいこと」が起こると、とんでもないことになる。

2006年5月号の話。これ笑えたのだが、自分だけか。

 小沢一郎が民主党の新代表になっちゃって、大変ですね。私としては、「えー、じゃ、結局、日本は自民党内の福田派と田中派の対立があった1980年代以前のまんまだってことか?」としか思わない。

(略)

 お家乗っ取りのその時、亡き殿に将来を嘱望されていたはずの忠臣小沢一郎は、なにがあったのかは知らないが、いち早く城を出て、諸国を転々としていた。それが今、「足利幕府復興」を掲げて、流浪の眞紀子姫の前に姿を現したのである。

 「姫君、お懐かしうございます」

 「小沢殿、ようもまァ、堅固で――」

 などという会話があって、画面が代わるとすぐに、街道を行く早馬である。

 字幕は「京都 鷹ヶ峰」――宗匠頭巾をつけた野中広務が枯山水の庭を前に茶碗をいじっていると、「殿!」と呼ぶ声がする。

 「なに、小沢が動いたと――」

 で、野中広務のアップになると、もう一頭の早馬は、より遠くの山道を目指している。

 「なに、小沢が動いた――」とアップになるのは、黒染めの衣に金襴の袈裟を着けた大勲位憎正中曽根康弘。その横には、去年の郵政民営化で屈辱の踏み絵を踏まされた息子も控えている。

 きっと、あちこちで忍びの者も呼び出されて、改革の御旗を掲げる鳩山由紀夫は颯爽と自転車に乗って街道を行くんだろう。

残りひとつなのだが題材もアレだし明日につづくことにしよう。

[追記]↑結局、つづくのやめました。

2007-11-01

[]「While Mao's Guitars Gently Troop」公開 「While Mao's Guitars Gently Troop」公開を含むブックマーク

ここで聴けるが→(音と奇妙な煙)

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とうとう買ったよ、Ibanez AFS75T。オレも今日からギタリスト。

D

こういうときヨツベは便利だなあ。「hollow body」で検索してチェック。購入前2ch板見てたら、大人なんだから10万だそうよ、って書き込みがあったけど、もうこっちは激安セピアクルーで済まそうかなんて考えてる次元ですよ。あまりにオモチャみたいなのもどうかと思い、オレの限界4万強で手をうつ。アンプは、どうせパーツ取りだからアンプ・シュミレーターでいいやとV-AMP2にして1万強。

もう著作権でゴタゴタ言われねえぞ。弾きまくるんだ、オレ。

コード1個ずつ押さえて採取すればいいやと思っていたがそれさえ無理だということが判明。オレの指ってギターに向かないんだな。オープンチューニングに鬼になるぞ。とりあえずカッティングだけうまくなればなんとかなると。

肝心の曲の方は、ループにしといて後で抜き差しすればいいやと思っていたらヌキサシならなくなるという、いつも失敗パターンに。何度も同じ失敗を繰り返すなと自分自身に怒りたいところだが、これが才能のなさなんでしょうね。気持が新しいイメージに向かいだしたので途中放棄。

それにしてもチームを日本一にしてもぐだぐだ言われるって。やくとかたまきはシャチホコに喰われてしまえ。