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2010-02-22 イギリス出版史、著作権、定価制 このエントリーを含むブックマーク


イギリス出版史

作者: ジョンフェザー,箕輪成男

出版社/メーカー: 玉川大学出版部

発売日: 1991/06

物書きの誕生

16世紀の終り頃には、広義の文学が、すでに商品化を遂げていた。しかしそうした商業化の報酬はもっぱら印刷家・出版者・書籍販売人の方に流れてしまい、著者を潤すことがなかった。このことはそれほど驚くに当らない、中世の書物を写本所から解放し、市場に流れるようにした功労者は、印刷家であったからだ。[書籍の生産と流通に資金を出す出版者が利益を得るのは当然](略)

写本で何百点でも入手できた中世以来の共通遺産を、印刷に付することで生き延びることができたのである。そうした本の多くは著者が不明であったり、誰が著者かを考える必要がないほど古かった。(略)

[読者が増え成熟してきた]市場を満足させるには、古い本をくり返し重版するだけではだめだった。激動する政治・宗教的状況と、人々の好みや流行の変化のために[新しい本を書いてくれる著者が必要となった]

著作権

スコットランドとアイルランドの書籍販売業者の海賊行為に対して、法的に対抗することは必ずしも簡単ではなかった。(略)彼らがアイルランドで、それらの本を印刷したことは全く合法的な行為であって、ただそうして作られた海賊版が、販売目的でイギリスに持込まれた時にはじめてそれは不法行為になったのである。(略)[スコットランドの法律の基礎であるローマ法には「無体財産」という概念がなく著作権を認めていなかった。一方]

イギリスの法廷は次第に、著者が本を書いた時、彼は一個の財産を創り出したのだ、という考え方をとるようになっていた

(略)

[エディンバラのアレクサンダー・ドナルドソンはロンドンに自分の書店を開き、挑発的に海賊版を売り、当然訴えられた。著作権が認められているイギリスでは負けるはずだったが]

ロンドン書籍業者の独占は公衆の利益に叶うものでなく、そのために本の値段が不当に高くつり上げられていることを主張する新しい議論が出て来たのだ。一体著作権とはいかなる種類の財産であるのか、それは馬とか家といったものと同じに扱うことができるのかどうか、という疑問も表明された。1710年法の根拠とされた、学習奨励という目的が、こうした商売の独占によって本当に最善のサービスを期待できるのか、が深刻に問われたのである。こうして過去30年間の大勢とは逆に、上院はドナルドソンを支持する判決を下し、著作権の永久存続という考えに反対したのであった。

 この判決はイギリス出版史の決定的な転換点となった。

児童書と売薬

[18世紀の発展のひとつが児童書の出版]

ここで重要なのはこの革新を担った人物が、ロンドン書籍業界の有力出版者グループ以外から出たことである。(略)

[ジョン・ニューベリーは1746年ジェームズ博士の解熱剤の専売権を手に入れ大当り]

[売薬業者]は全国的な流通網と同時に、全国的な広告を必要としたが、その両方に大きな実績をもつのが出販業界であった。(略)ロンドンの新聞は全国向け広告の唯一の媒体(略)また出版業界が構築した書店を通しての全国的流通網というユニークなシステムも売薬家たちにとって、明らかに役立つものであった。こうして多くの地方書店が専売薬品の代理店となり、ロンドン書籍産業の多くのメンバーが、薬の発売元となったのである。(略)

第一にニューベリーは解熱剤を売った経験から、広告すれば物が売れることを学び、その教訓を出版活動に応用した点である。第二に彼は卸であれ小売であれ、販売以前に、ある本の全印刷部数を統一様式で製本して売り出すということをはじめた最初の出版者であった。第三に彼は子供達を教育するというより、彼らを楽しませることを考えて独特なジャンルの本を出版した最初の出版者であった。(略)本格的な児童向け出版を試みた最初のものは『小びと雑誌』(1751年)であった。これは毎月発行され、18世紀中葉の代表的出版物、総合雑誌の若者版といったものであった。

ゾッキ本

[1790年]ゾッキ本商売を発明したジェームズ・ラッキントンもまた業界のよそ者であった。西イギリスの貪しく、ほとんど本と無縁の世界に育った彼が、いくつかの人生冒険のあと、ロンドンで小売書店を開いたのは1774年のことであった。(略)彼は当然、薄利多売の方が、厚利少売より、長期的に見て利益が多いことを知っていたのである。売れ足のおそい本を始末するために出版者の開くせり市に参加する権利を手に入れたラッキントンは、そこで大量仕入したものを、大幅値引して大衆に売ることを開始した。(略)業界内に反対があったにもかかわらず彼は成功した。それは次第に出販者たちが古い在庫を一括処分し、投資資金の一部でも回収した方がとくだと考えるようになったためであった。

定価制

19世紀半ばの経済思想は完全に自由貿易擁護であり、1846年の穀物法廃止は保護主義的経済政策の実質的終了を意味していた。(略)1848年の秋に、書籍販売業者たちが再び書籍の「定価制」を実施しようと企てたのは、自由貿易論者が大勝利をあげた直後のことであった。だから全くタイミングが悪かったのだ。権力の側から先ず反対の嵐がまき起った。(略)

[業界側は結束が乱れ、ディッケンズ、廉価本の熱烈な支持者カーライル、テニソンが自由販売を擁護したこともあり]

キャンベル委員会は1852年定価制反対の結論を出し、書籍販売業者協会は解散した。書籍販売は無制限競争時代に入ったのである。

(略)

定価販売協定の強制を諦めたことは結局業界に大きな破滅をもたらした。1860年代頃の業界新聞は破産した書籍販売人たちの悲しい物語で一杯である。いやゾッキ本の販売人さえも市場の力関係の中で倒産したのである。(略)深刻な値引販売競争の中では、販売業者たちは最も通俗的で早く売れる本しか在庫できず、大冊で価値の高い、しかし売るのに時間がかかり、売れ部数も少ないような作品を棚に飾る余裕を失っていたのである。(略)

[問題の解決を]リードしたのはフレデリック・マクミランである。彼は1890年に今や名出版社となったマクミランを継いでいた。(略)

1890年代の間マクミランは多くの正価本を出版し、それは新たに結成されたロンドン書籍販売人協会によって積極的な支持を受けた。(略)

[1900年から実施された]正価本協定は、成立直後の数年間、深刻な挑戦を受けたこともあったが、20世紀イギリス出版体制の経済的な基盤として永く存在し続けたのである。

1956年、価格カルテル防止のために制限的販売慣習法ができ、1900年の正価本協定を改訂しようという動きがおこり、業界は法廷闘争に出た。

安売りが許されるならば、ペーパーバックと若干のベストセラーだけを置く、けばけばしい文房具屋が栄えて、在庫保有書店は消滅するだろう、ということが申し立てられた。(略)

[1962年10月のバックレイ判事の審判書は]業界人の耳には至福の音楽ときこえたことだろう。[正価本協定が廃止されると](1)在庫保有書店は減少し、その内容は劣化する(2)本の価格は上る、そして(3)出版点数は減少する、といっているのである。バックレイは結論として、そのような結果が生ずることは公衆の利益に反することであり、登録官の主張する、正価本協定は業界の行う不法な制限であるという法的議論を退ける、というものであった。(略)

こうして正価本協定は生き延びた。

[関連記事]

18世紀の永久著作権闘争 - 本と奇妙な煙

2010-02-19 明石康の交渉術 このエントリーを含むブックマーク

聞き手の木村元彦への興味で借りてみた。


「独裁者」との交渉術 (集英社新書 525A)

作者: 明石康

出版社/メーカー: 集英社

発売日: 2010/01/15

文民統制

[「戦争をやりたがるのは文民」という田母神発言、文民統制]

 そのことについていつも私はNATO南部方面軍の総司令官であったボーダ提督のことを思い出します。高校中退、水兵からのたたき上げで、アメリカ海軍の最高の地位まで上り詰めた人です。最後には自殺してしまうのですけれども、この人は本当の軍人であるがゆえに、武器の恐ろしさをよく知っていた。その使用については、慎重のうえにも慎重でした。(略)軍事的な圧力を加えていく場合も、態度を変えた相手の退路を決して遮断しない、ということまできちんと考えながら行動していた。驚くべき戦略家であり、柔軟で素晴らしい人でした。第二次大戦を経験した日本人は、我々の世代も含めて、軍人に対する大きな偏見を持っていますが、本当の軍人というのは、武器の怖さを知っているし、文民優位の体制のもとにおいても、きちんと傾聴すべき意見を吐く人たちだと、私は考えます。

(略)

しっかりした歴史観が育っていけば、田母神氏のような意見も、力を失っていくのではないかと思います。だからこそ自衛隊を日陰者にしておくことの危険性を感じます。(略)

民主主義的で平和的な体制のもとでも、限定された自衛が必要であるということを、我々はもっと正直に認めるべきです。また、憲法九条がまったくだめだ、と否定することもおかしいと私は思います。

ポル・ポト派

直接折衝した相手はキュー・サンファンというポル・ポト派の元大統領です。彼はフランス仕込みの経済学者でマルクス主義者だった。(略)スポークスマンに過ぎず、彼と交渉をしても、暖簾に腕押しという感じで、その場で決定ができない。(略)

[最高司令官ソン・セン]この人は、何百人も何千人も人を殺してきただろうと思わせる鋭い目をしてね、口を開くと、言うことに凄みがあったのです。ソン・センはキュー・サンファンのように、羊の皮で自分を包むようなことはしなかったし、もっとストレートな人でした。各派の間の闘争についても突き放した冷徹な言い方で話していました。

選挙と民主主義

ところがワシントンのアメリカ政府やニューヨークの国連本部は、民主主義についての一種の原理主義に陥っていて、連立をけしからんと言うわけです。シアヌークと明石が、選挙で勝った第一党による政権づくりを無視して連立政権を支持するのはけしからんと批判をしました。

(略)

[ブラヒミ報告書で]選挙と民主主義というのは違うのだ、民主主義が目的で、それを確立するための一つの手段が選挙なのだと言っているのですね。また、選挙によって事態が安定するためには、市民社会ができていないとダメだとも。市民社会というのは、見方次第では中産階級とも言えるし、知識階級とも言えるでしょう。とにかく政府でもないし野党でもない、社会を安定させる重石みたいなもの。公平なアンパイアとして常識を持った人たちの一群が存在しないと、民主主義が定着したとはいえないし、それが定着するためには相当の時間がいる。選挙を一回や二回やったところで、そこまではいかないだろうというのです。

マスコミ不信

カンボジア選挙の前夜に最も懸念したのは、実はポル・ポト派による総攻撃ではなくて、ごく小規模な攻撃であってもポル・ポト派の攻撃があったことを世界中のマスコミがかなり潤色、脚色して報道するに違いないということでした。それによって世論が動揺し、各国政府が国連PKOから自国の軍隊を次々と撤退して、PKOが空中分解するかもしれないという惧れを持っていました。

ミロシェヴィッチ

カラジッチは、体は大きいけれどもやんちゃな子供のようなところがあり(略)にわか作りのセルビア人勢力の親分といった感じ(略)

ミロシェヴィッチはカラジッチとは距離を置いて(略)私に対しては、セルビアの利害を考えつつ行動する物わかりのいい良識派である、という印象を与えていましたね。彼は、カラジッチやムラジッチのような頭の固いナショナリストは困ったものだな、という口調で話していました。そして事実、NATO軍による空爆を回避させた。カラジッチなどより、もっと老練で、一回り大きい政治家だったのでしょうね。(略)

[ミロシェヴィッチが操っていたと言われているが]カラジッチがまったくの木偶の坊であったかといえば、そうではなく、ボスニアにおけるローカルなセルビア人指導者としては、それなりの影響力を持っていました。カラジッチが国連にNOと言えば、やはりミロシェヴィッチも無視できない面があったと思います。しかし、ミロシェヴィッチが本気で迫れば、カラジッチも最終的には従わざるを得なかった。(略)ミロシェヴィッチは、あくまで冷徹な現実主義者でした。心情的な民族主義者というよりは、むしろセルビア民族主義を利用してのし上がってきた人物です。大局的に物を見ることができました。ただ、致命的な欠陥は、人を見る目がなかった(略)

ムラジッチが軍を100%仕切っていたと思います。セルビア人勢力軍はムラジッチ将車に全面的な忠誠心を抱いていました。それこそ、この人のためなら死んでもいいというくらいの。ムラジッチは、戦争で亡くなったセルビア兵の数まで総人口に含めてカウントしていたのです。それほど盲目的に自民族を愛していた。(略)

セルビア側に対しては、国連の要員が攻撃を受けた場合には、人命を守るために最小限の反撃はせざるを得ない、と説明しました。カラジッチには、限定空爆(近接航空支援)と本格的な空爆とは峻別されるべきであると、口を酸っぱくして言ってきたし、書簡でも何度も説明したのです。(略)[限定空爆は]地上からも監視員によって確認したうえで、国連側の要員に現に攻撃を加えている武器、例えば戦車や大砲だけを狙いました。

 おそらくカラジッチは、ああそうなのかと、少しずつ理解していったと思います。けれども、ムラジッチはNATOの空爆を、どんな形でも受け入れようとはしなかった。

国際的なプレゼンス

このごろの日本人は、国際的なプレゼンスが弱いから、もっと発言力を高めるべきだと異口同音にいいます。けれども、相手が何を考え何を心配し何を夢見ているのかを無視して、一方的にこちらの思いだけをぶちまけたって、素直に聞き入れられるはずもありません。文脈を無視したことを言ったら失笑を買うだけです。(略)相手が聞きたいことをきちんと答えられるようになれば、相手も一生懸命こちらに耳を傾けてくれるのです。

人権

 スリランカやミャンマーをめぐって、欧米諸国の人権や民主主義思想を、どの程度、普遍的なものと考えるか、あるいは各地域に適応させ変化させるべきものとして考えるのかという議論が交わされています。(略)

人権は普遍的なものですが、山の頂上のようなもので、そこに至る登山道は一つではありません。各国、各地域、各文化によって違ってくる。それを心得ずに、ヨーロッパの地域外交の担い手などは、バサーッと横切りにやってしまうわけです。これでは、相手の反発を買うだけになってしまうことが多い。

援助

[国際的寄与は軍事面より]平和がこれだけ進めば、日本や、その他の先進国からの援助も増えるし、その結果、生活水準は高くなっていくのだ、という希望を持たせるようにする。「平和に対する配当」という考え方に立つことですね。(略)

[スリランカ和平が停滞して欧米諸国は]

平和が進めば援助を増やすという約束だったが、進まないなら援助を減らすべきだろう、と彼ららしい理屈でそう言ってきた。それに対し、我々はこう答えました。

 援助を減らしても、困るのは碌でもない指導者ではなく、一般民衆である。民衆には平和について何の罪もないし、懲らしめる理由もない。だから援助を減らしてはいけない。(略)

[欧米と日本の援助の違い]

欧米は、ベンチマークをきちんと立てて援助をしましょうと言う。日本はその点、ODA憲章に盛り込んだ明確な考え方に基づいた協力ではありますが、一方的な条件をスリランカに高圧的に呑ませるようなことはしない。(略)インフレ率を何パーセント以下にしろ等々。そういう形で途上国の成長産業がバタバタ倒れてしまうような誤りについては、IMFもその後、反省しているようですね。

2010-02-17 ナラ・レオンの真実・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづきに行く前に、旬な話をすると、昨日のフィギュア・ペアですよ。TVつけたら話題の川口さんが映ってて、体が華奢で頭が大きいせいかヴァルネラブルで妙に生なましくて、最後までひきこまれて、チョト、もらい泣き。川口ペアがプライベートな感じで生々しいとすると、次に出てきたドイツの世界チャンピョンはプロの生々しさというかエロスというか、男のボディと体のバネがファンキーなのにそれでいて仕草はエレガント。二人の人間をフレームに入れるせいなのか、シングルより疾走感がある。しかも二人の配置で流れが生まれるペアと生まれないペアがくっきり分かれる。シングルだと全部自分の責任だけど、ペアだと投げた俺が悪いのか転んだ私が悪いのかの世界。そもそも男女が白昼からみあうわけで……ペアって面白いなと思っていたら、残りの中国ペア二組は中国雑技団と場末のスナックで趣きゼロ、しかもそれが金と銀という。

話が終わらないので残りは最後に。


ナラ・レオン 美しきボサノヴァのミューズの真実 (P‐Vine BOOKs)

作者: セルジオ・カブラル,堀内隆志,荒井めぐみ

出版社/メーカー: スペースシャワーネットワーク

発売日: 2009/12/11

犬猿の仲・エリス・レジーナ

「ナラ・レオンっていう女の子には、何の反感もなかったの。今は、MPB内外でナラがころころ姿勢を変えることにイライラしちゃうのよ。長い間、女神だったくせに、次第にあるムーヴメントに参加しては次に移ることを繰り返すようになった。ボサノヴァから始まって、そのあと、モーホのサンバを歌うようになって、のちには、プロテストソングに向かい、それが今では、イエ・イエ・イエを支持しているわ。全部自分で否定してきたものよ。(略)全てのスクラップをみんなで集めたら、結局は“でたらめ”という名のゲームだって分かるわ。

(略)

ナラはいつも旬な人にケンカを吹っかけるの、自分がそれで目立つようにね。(略)とにかく実際のところは、ナラはとても歌が下手で、話が上手いということ。自分がやりたいことがわらかないんだわ。(略)いつの日かナラが正直になると決めたら、私たちは友達に戻るって確信しているの」 

ナラの方も「人生何がそんなに楽しいんだか。ずっと笑っているだけじゃない」と返している。

カエターノ・ヴェローゾによる納得の解説

「エリスには、ナラが思いも及ばないような音楽的な才能と歌がある。でも、エリスには無名の商業歌手としてのコンディションからテレビを介して商業的に成功した人としてのイメージがあり、ナラの軌跡と比較したときに不安定さを感じてしまうのだろう。ナラは、ボサノヴァの創始者であり、政治的なポジションを決めるにしても、知的好奇心という意味でも上流階級の余裕があって、わざわざ何かを証明したりとか、飛びぬけた才能を見せ付けたりする必要がない。

軍政令第五号の時代、シコ・ブアルキ、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ジェラルド・ヴァンドレー、エドゥ・ロボらは既にブラジル脱出。八年間の歌手生活に疲れた27歳のナラは、69年ヴェネチア経由でパリへ。そこでの仲間の一人が

ガルシア・マルケスはナラが大好きで(略)一目見ただけで自分の映画への出演依頼をしたのだ。(略)

ナラは、フランス人が歌うブラジルの曲に、フランス語の歌詞をつけて家計を助けていた。その中の一人が、音楽活動の絶頂期にあったフランソワーズ・アルディだ。

(略)

[子供も産まれ]パリでの穏やかな生活が、ナラに働く喜びを思い出させた。(略)音楽を通して、再び「ブラジル」を見出したいと思っていた。でもそれは、フランスに追いやられることになった灰色のブラジルではなく、思春期や青春時代の、クビシェッキ大統領の希望に満ちたブラジルだった。「うまく説明できないのだけれど、でも、急に、唯一歌いたいと思ったのがボサノヴァだったの。ギターを取ってトムや、カルロス・リラの歌を歌い始めた。(略)ずいぶんと時間がかかったけれど、音楽を再び好きになったの。それまでというもの、音楽がずっと嫌いだった。

71年夫の仕事と言葉を話し始めた娘のためにブラジルへ戻ることに。

新しいアルバムは『美しきボサノヴァのミューズ』と名付けられ、ナラは出来に満足していた。「このアルバムでは、とてもうまく歌えていると思う。“趣味はいいけど歌が下手”とか言っている人たちにも、そう言いたい。もうそんな話はうんざり。だって本当に、私は歌がうまいと思う。(略)[声量がなく音程が外れているといった批判]には飽き飽きだし、すごく傷ついたわ。(略)昔は「どうしてヒットしたと思う?」って聞かれると、謙虚に「レパートリーがいいから」って答えて、それにみんなも納得していたけれど、もうそういうのは終わりにしたの。私は歌がうまいのよ」

Nara Leao "Samba De Uma Nota So" (1971)

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上の動画に映ってるのは冬のパリで撮った『美しきボサノヴァのミューズ』のジャケ。

ナラは、当時マンシェッチ誌のパリ支局長だった幼馴染のネイ・スロウレヴィッチにアルバムジャケットのレイアウトと写真を依頼した。ネイはおそらく、1964年の軍事クーデター後に初めてパリに亡命したブラジル人だ。(略)

[観光客相手に写真を撮って生計を立てていたが、凱旋門正面で燃える車を激写したのがきっかけでマンシェッチ誌に採用された。]

ネイとナラは、アルバムの写真をセーヌ川の川辺で撮る約束をしていたが、予定していた時間のパリはとても冷え込み、雪が降っていた。ナラは時間を変更してもらおうと電話をしたが、ネイは賛成しなかった。

「こんなに雪が降っている中で写真を撮るわけ?」

「この雪で撮るからこそいいんだよ」

 ナラが黒いレインコートをまとって、黒い帽子でやってくるのを見て、ネイは「ロシアの兵隊みたいだ」と思い、ナラに挨拶をする前から写真を撮り始めた。写真の出来は本当に素晴らしいものだった。

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  • 冒頭のつづき。

競技としてはミスのなかった中国が金銀なのは納得なのだが、芸術としては……。そりゃ伊藤さんだってそこで勝負にならなくてジャンプで対抗したわけで、正解なのだろうけど、なんか芸術に対する大きな誤解があるんだよなあ。中国二千年の趣があればそれでもいいのだけど、基本的にガサツなのよ、上位二組。雑技団ノリでザクザク技を決めてるだけなんだよなあ。5位だった中国ペアにはまだヨーロピアンな趣きを意識してるところがあった。そこらへんは実に難しくて、先日も国営教育テレビで外人ピアニストが日本人女性ピアニストを、お前は感情表現がなってないとこんてんぱんにレクチャーしていて、その時は、そんな大袈裟な感情表現がいいと思うのは外人の趣味だろう、って気分になったし。

そんなわけで個人的ベスト3。

ダントツでドイツペア

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次が六位だったカナダペア。フィギュアの格好って、いつまでアランフェスってカンジでヒラヒラなのだが、カナダの男の格好がすげえカジュアル。

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三位は川口さんのロシアペア。

2010-02-15 ナラ・レオンの真実 このエントリーを含むブックマーク

パラッとめくれば「おされ4ブヤ系(死後)」にス力ト口な発言が目に付いて思わず借りる。

[64年10月のインタビュー]

「ボサノヴァはもうたくさん。意味もないし、もうたくさん。アパートの音楽集会で、ニ、三のインテリのために歌うなんてもううんざり。(略)もっとメッセージがある純粋なサンバが歌いたいの。それに、ボサノヴァがうちで生まれたなんて大嘘。メンバーは私の家にも集まっていたけれど、他の場所でもたくさん集まっていたのよ。私は本当にボサノヴァと関係ないんだから。(略)ボサノヴァなんて眠くなるし興味が沸かないわ。」

後に本人も攻撃的だったと認めているこの発言に、「“みんな”のインテリジェンスを過小評価しすぎ(シルヴィア・テリス)」「少し過ちを犯しているように感じるけれど、それは若さによるものだ。(ルイス・エサ)」etc。

[若気の至りDEATHよ、腰あんパンダDEATHよ、でも御意見番気取りの「薬みつる」が一番不愉快]


ナラ・レオン 美しきボサノヴァのミューズの真実 (P‐Vine BOOKs)

作者: セルジオ・カブラル,堀内隆志,荒井めぐみ

出版社/メーカー: スペースシャワーネットワーク

発売日: 2009/12/11

父は弁護士、母は教師、女でも自立することが大事だとだけ教えられ、あとは自由奔放に育てられたナラ。16歳でブラジル一有名なモデルとなった姉に劣等感。

12歳の頃は泣いてばかりいた。おとなしくて、シャイで、自分自身をすごく醜いと思っていたの。最悪なのは、美人の妹だっていうこと。あのとき、ナラ・レオンはまだ存在していなかったわ。(略)

何かあるといつも自分のせいじゃないかと過剰な罪の意識を感じて(略)19歳の頃にはコンスタントに自殺を考えるようになった。音楽活動をしていたから、青春なんてなかったし。

左傾化

[62年恋人ルイ・ゲーハ監督の『良心なき世代』出演オファーを断るも、多くのシネマ・ノーヴォ映画人と知り合いに]

ナラが政治的活動をするようになったのは、カルロス・リラの影響だと思っている人が多いが、(略)[当時は断交しており]リラも著書で「ナラが政治的になったのは、シネマ・ノーヴォの影響だ」と述べている。

“反逆分子”

[64年フィリップス移籍。メディアに「Asa Branca」を録音したいと話し「コパカパーナの女の子が北東部のバイアォンを歌うなんて!」と驚かれる。当時“反逆分子”は軍事政権に反対する人間を意味する言葉]

ナラは「人々の悲劇や、問題、悲しみ、苦悩や喜びを歌うのが“反逆分子”と分類されるんだったら、そう呼ばれることから逃れられないと思う。(略)」と話している。

 この「本当のブラジル音楽のルーツを探したい」という発言は、まさに真剣なもので、ベレンからリオヘの帰り、各地の音楽を知るために北東部のたくさんの街に寄っている。高性能のレコーダーも買った。(略)旅の最後はサルヴァドールヘ。そこでは、数々の音楽を、特にホーダ・ヂ・サンバの曲を収集するつもりだった。

[そこで21歳のカエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ジル、17歳のマリア・ベターニャと知り合う]

カエターノは著書に「その身軽さ。実用的な考え方で偏見がなく、気品のあるその振る舞い。高慢なところのない、繊細な輝き」と

“opinião nara leão”

D

64年来日

 日本滞在中、全てはうまく行っていた。しかし、ナラがファッションショーで「オピニオン」を歌うと決めた時、事件は起こった。セルジオ・メンデスがピアノで伴奏することを拒否したのだ。(略)

ナラがショーの間や休憩時間に、若いモデルたちにも熱心に政治の話をして興味を持たせようとしていたことを、セルジオ・メンデスは知っていた。ナラは女の子たちに、ファッションや流行などの無益なことはやめて、民衆の貧困などのもっと深刻なことに関心を持つように説教していた。(略)

[結局自分でギターを弾き「オピニオン」を歌った]

ナラによると、セルジオ・メンデスはショーの間にナラに嫌がらせをしていたそうだ。例えばいくつかの曲で、ナラが歌で入ろうとした瞬間に曲のキーを変えて意地悪をした。そこで、各曲のキーをよく理解していたナラは、いつも自分でギターを弾いて歌うようになった。

この後で冒頭の発言となる。でも、セルメンがイラッとするのもなんとなくわかる。

[マルコス・ヴァーリと兄の共作「A resposta」の歌詞は]

明らかに「郊外に住む人たちを心配したゾーナ・スル地区の女の子」であるナラ・レオンを批判するもので、政治的な音楽を支持する人たちも批判している。

(略)

自分の言いたいことも分からないような

人たちのことは放っておきな

彼らには理解できないんだ

いいサンバには

空や海を歌ったものもあるって

だけど、いいサンバは人々が日々感じる

飢えを歌ったものらしい

(略)

貧しい人のために何もしないのに

海の見えるところに住んで、モーホの話をしたところで

生活が良くなる人がいるわけじゃない

[“ビーチのサンバ”と紹介されていたヴァーリ兄弟だが、すぐに農地改革を擁護する“Terra De Ninguem”(後にエリス・レジーナが大ヒットさせる)をリリース“社会的な音楽”に参加してゆく。「ギターを弾く手も戦争をするし大地を傷つける」という“Viola Enluarada”がヒットしたり。]

Marcos Valle - Viola Enluarada

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うんざり

[65年]「歌手としての生活に耐えられない」と話し、音楽活動に対する冷めた発言で読者をびっくりさせたことがあった。「きっともう私、歌わないわ。最初は、街に出ると『ほら、ナラ・レオンよ』って言われるのを聞いて、すごく気持ちが良かったの。でも、毎日すごい数の電話がかかってくるのよ、そのほとんどは不躾だし。お客さんががっかりしちゃうから、毎回必ず「カルカラー」を歌わないといけないし、女の子たちが真似するから、この前髪も服装も変えられないし。みんなに抑圧されているようで苦しいの。まるで私の意思なんてないみたいだし、みんながナラという人を作り上げていて、それが自分じゃないように感じるなら、全てをやめるしかないじゃない」

明日につづく

2010-02-12 ジャンゴ・ラインハルト伝 このエントリーを含むブックマーク

冒頭から長文引用。


ジャンゴ・ラインハルト伝---ジャンゴ わが兄弟

作者: シャルル・ドゥローネ,平野徹

出版社/メーカー: 河出書房新社

発売日: 2009/12/23

 二十代になるまで、ジャンゴはスーツを着たことがなく、決まったひとつの家で暮らしたこともなかった。彼の暮らしぶりは、太古あるいは中世的なジプシーのそれだった。(略)

 現代生活の周縁部に位置する大都市の入口付近にいたとはいえ、キャラバンでの移動生活で育った者が、一族から離れてひとつの「家」に居住する、定住するということが、ジャンゴ本人にとって、身内のジプシーたちにとって、どれはどの大事件であるか、その衝撃はわたしたちの想像をこえているだろう。(略)ジャンゴが引っ越した先には、数週間にわたって、パリの城門付近から放浪民が大挙してやってきては、付近をうろついていた。放浪民たちは、一族の兄弟たるジャンゴが誘拐や軟禁に遭ったのではないかと疑い、みずからの目で事実をたしかめずにはいられなかったのだ。(略)

 近代化を遂げたパリ市街地のはずれに往んでいた放浪民たちが、いかに時代から取りのこされ、羨ましく思えるほど強固に風習と信仰を保ってきたか(略)東洋的なジプシーの伝統では、男はけっしてはたらかず、金をかせぐどころか浪費する存在で、はたらくのは妻の役目であり、妻の唯一の誇りは、夫によい服を着せ、安閑な生活をさせることとされていた。

(略)

ジャンゴという人物は、彼の仲間から切り離しては理解することはできない。ジャンゴとジャンゴの妻は、定住生活をはじめてからも、根っからの「ジプシー」でありつづけたのである。ホテルの一室も、宮殿のようなアパルトマンの部屋も、二人の手にかかれば、たちまちキャラバンの野営地に変貌してしまう。二人はどんな住居にいても、秩序をひっくりかえし、馴れ親しんだ風景を再現しようとする。彼らにしてみれば、ただくつろげる環境をつくりたいというだけなのである。椅子の上にはアルコールを温める焜炉、そこらじゅうに放置されたままの台所用具、台所の壁には写真を何枚か。無頓着なこのカップルは、彼らの「従兄弟」ほか、素性の知れぬ人物でも平気で迎え入れたから、二人があたらしい場所に引っ越すと、すぐに屋内は人でごったがえすことになってしまう。ジャンゴの義弟など、ジャンゴの往むホテルにやってきてはじめて宿泊したとき、一晩じゅう水道を流しっぱなしにした。小川の音なしでは眠れないというのだ。昼夜を問わず何時でも、驚き呆れる隣人たちを尻目に、あやしげな風体の輩が階段を昇り降りし、野営地そのもののジャンゴの部屋に入りびたっていた。

 モンマルトルの家具つき部屋で、ベッドに身を横たえ、悠然とかまえているジャンゴ。東西各地からやってきては、ベッドや床に押し合いへし合い腰かけ、えんえんと煙草をふかし、酒をのみつづけているジャンゴのまわりに集うジプシーたち。(略)

 キャラバンのこと、そして世界に開かれた街道のことが、いつもジャンゴの頭にあった。夢想家で感じやすいこの男は、ほんの些細なことでも、苛立ちの種に遭遇しようものなら、即刻失踪してしまう。定住するようになって二十年ほどすぎてからも、ジャンゴが放浪の旅に出てしまうことはよくあった。何か月も雲隠れしては、ジャンゴの仕事の世話をかってでた者たちを、不安におとしいれるのである。

2010-02-11 ダーウィンが信じた道・その3 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ

作者: エイドリアン・デズモンド,ジェイムズ・ムーア,矢野真千子,野下祥子

出版社/メーカー: 日本放送出版協会

発売日: 2009/06

ウォレスに出し抜かれる

表舞台への登場に向かって突き進むダーウィンは、人類の真の起源は獣であると暴露することに胃がねじり上げられるほどの恐怖を感じていた。その恐怖は、彼を20年間沈黙させてきた。そして暴露する間際に彼を療養所に追いやるほどだった。

(略)

アガシが評判を上げ、人類多起源論者の長大な本がもてはやされている状況では、プリチャードが彼の大作でおこなったように、打撃をあたえられるほど大量の詳細情報を積み上げる必要があった。

(略)

 だれもがダーウィンのように口を閉ざしていたわけではない。転成説の論争の中心には人類があることを理解していた博物学者がいた、ダーウィンの極東での協力者だった、アルフレッド・ラッセル・ウォレスだ。(略)

 人間は類人猿から発展したと主張する『創造の自然史の痕跡』は、「人間の一族の発祥地」がどこであるかも予測していた、ウォレスは、その場所、オランダ領東インド諸島へ向かった。ボルネオやスマトラの森林のなかで、オランウータンと人間のあいだの隔たりを埋めるものが見つかるのではないかと期待していたのだ。彼はそれから一年もたたない1955年に、一つの種は別の「近接した種」からのみ生み出されると主張する短い梗概を発表した。このとき、ブライスがこの小論文のことをダーウィンに知らせている。ブライスが「どう思いますか?」と質問すると、ダーウィンは「すべて結構だ!!」と答えた。ブライスは「これは、種の持続性についてのあなたの考えをぐらつかせるわけではないんですね?」とも聞いている。もちろんダーウィンはずっと先に進んでおり、あまり気にしていなかった。そしてこう書き留めている。「それほど目新しいものはない。私と似た系統樹を使っている」。研究に夢中になりすぎていたダーウィンは、この小論が何の兆候なのか気づくことができなかったのだ。

 母国からはるか遠くにいるウォレスは、ダーウィンが怖れて書かなかった領域へと突き進んでいた。

(略)

[四年前に奴隷を使うアリが発見され]

ダーウィンが赤いアリと黒いアリを観察しているとき、イギリス人はアメリカの「人種」という時限爆弾がいつ爆発するだろうと不安を抱きながら毎日の新聞を食い入るように読んでいた。

(略)

[1858年ウォレスの原稿が届く。急がないと出し抜かれると三年前に助言をくれたライエルに]

ダーウィンは、あなたの「言葉がまさに現実になった」と認めている。(略)

20年の恐怖のあと、ダーウィンは崖っぷちに立たされた。ライエルにうめくように言うのが精一杯だった。「私の独創性のすべてが……粉砕されてしまう!」(略)

 あわただしい手紙のやりとりで紳士協定が結ばれた。フッカーとライエルがダーウィンの優先権を確保する手はずを整えた。(略)ダーウィンとウォレスの共同発表をおこなう際に、まずダーウィンの1844年の小論と1857年のグレイヘの手紙の抜粋を、それからウォレスの原稿を読み上げるというものだった。二人の論文はこの順番で発表された(極東にいたウォレスは知らなかったが)。自然淘汰説の世界での初お目見えだったこの会合では、この説はほとんど注目されずに終わっている。

奴隷アリ

 皮肉なことに、『種の起源』の内容のうち「何よりも注目を引いたのは、奴隷アリについて書いた箇所だった」とダーウィンはのちに回想している。彼はこの本を書くにあたって反奴隷制の思想を直接織り込んだりはしなかった。アリの不思議な本能について記述はしたが、アリと人間を同列に見るようなことはしていない。

(略)

彼自身がほんとうに考えていたのは、アリの本能は、たとえそれが「別のアリを苦しませる」ふるまいであっても、それは必然的な自然淘汰の結果であって、そこに責められるべき非人道性はないということだ。人間がおこなう奴隷制は本能ではない。それはまったく違う。そこには責められるべき非人道性がある。

リンカーンの奴隷解放宣言は

ダーウィンが求めていた「聖戦」からはほど遠かった。遅きに失しており、また、解放されるのは「反逆」州の奴隷だけ、つまり連邦側の奴隷州では適用されないというのだ。ダーウィンのケンブリッジ時代のかつての師、アダム・セジウィックもこの条件を知って驚き、「リンカーンは奴隷制の潰瘍をさらに悪化させようとしている。自分の側につく奴隷州に特別褒賞をあたえるなど、とんでもない」と言った。ダーウィンも失望し、「奴隷解放言言には何の効果も期待できない」と感じた。

ライエルへの失望

 [1863年の]ライエルの新著、『人間の古さ』に期待しすぎたダーウィンの失望は大きかった。(略)

ダーウィンを怒らせたのは本の最後だった。最後の一マイルを行くことがどうしてもできなかったライエルは、創造説を復活させたのだ。ダーウィンが思うに、ライエルは結局のところ、自分の信条を変える勇気がなかったのだ。「頭でわかっていても心が応じなかったのだろう」と、フッカーも思った。(略)

この崇高なる「創造の法則」は、何百万年ものあいだ自然を放置しておきながら、いきなり割って入ってきて、ある動物に最初の「魂」をあたえて人間にするのである。

(略)

ダーウィンは望みを断たれ、思わず「うなり声をあげた」。以前からの病気がぶり返した。(略)

「私は、あなたが種の派生についてご自身が考えておられることをはっきり述べなかったことに、失望しております……私はつねづね、あなたのご判断はこの主題における画期的なものになると信じておりましたのに。すべてがおしまいになってしまいました」(略)

ダーウィンはグレイに書いた。「こんなことなら私の説に正面切って反対意見を述べてくれたほうがよっぽどよかったのにと思います」。ダーウィンは混乱していた。病気はどんどんひどくなり、嘔吐と抑鬱が長期間続き、1856年の末には動くことすらままならない状態になった。おまけに、周囲で立て続けに人が亡くなった。フッカーの子どもと父が死に、[ビーグル号艦長]フィッツロイまでもが自殺した。それでも、ライエルに対しては一片の同情も示さなかった。

社会主義者ウォレス

[1864年人類学会で]ウォレスは社会主義者ならではの視点で、自然淘汰はいずれ完全なる「社会的平等」をもたらすはずだと語ったのだ。自然淘汰は「高等な」人種すべてを一定の水準まで上げるだけでなく「下等な」人種も向上させて、「世界はふたたび単一の人種に落ち着く。そこでは個人は人間性において優劣がないため」、みな自由となり高圧的な政府は消滅するというのだ。(略)

 ダーウィンはウォレスの論文に複雑な思いをもった。たとえば、文明人になると淘汰が止まるという説には納得できなかった。しかし、ほかのだれかがスポットライトの下に立ってくれたのはうれしかった。(略)職業専門学校出で標本を売って生計を立てているウォレスは恐れを知らない。失うものは何もないのだ。もと測量士で熱帯旅行家のウォレスには、守らなければならない社会的地位もなければ、評判を保ってやるべき息子や娘もいなかった(略)ウォレスはダーウィンが怖じ気づいているのを知っていたので、みずから除雪機の役を果たした。

ジャマイカの反乱

1866年、「自然淘汰」の原稿から「人間」の部分を削除して10年後、ダーウィンはようやく人種の起源について語る勇気を奮い起こした。本格的な執筆のきっかけになったのは、ジャマイカの反乱に対する残虐な鎮圧だ。

[黒人蜂起を残虐に鎮圧した総督アイアーは解任され本国に召還。世論は二分。帰国した無慈悲な暴君を称賛する歓迎会に長男が出席したことを知りショックを受けるダーウィン] (略)

 アイアーを告発しようという博愛主義のうねりが失速すると、世の中は殺伐としてきた、ハントに噛みつかれ、フッカーに逆らわれ、息子に茶化されたダーウィン(略)

[透視や交霊が満載のウォレスの新著『超自然現象の科学的側面』にダーウィンは仰天]

心霊主義は、急速に広がる唯物論に対抗するように、改革に失敗した旧世代の社会主義者(略)に急速に広がっていた。(略)政治で解決できないのなら、霊の力で社会をユートピアに導こうというのである。

父と子

[長男の回想]

話題がアイアーのことになり、前総督を殺人罪で告訴するのはやりすぎではないかと思った私は、つい、告訴側は集めたお金の余剰分で宴会ができるだろうというような軽口を叩いてしまったのだ。すると父はかっとなって私のほうに向き直り、それがお前の本心ならいますぐサウサンプトンに帰れ、と怒鳴った……翌朝の七時ごろ、父は私が寝ていた客室にやってきてベッドに腰を下ろすと、昨夜お前にあんなふうに怒鳴ってしまったことで一睡もできなかった、と言った――とても柔らかく弱々しい口調で。

性淘汰と擬態

 ダーウィンは自分の説、とりわけ性淘汰説を宝物のように大事にしていた。もちろん、周囲はそんなことに気づくはずもない。(略)ライエルはダーウィンが大げさに言っているだけだと思っていた。ウォレスは最初から乗り気ではなく、いまではダーウィンに対抗する隠蔽擬態や体色についての理論を組み立てている。(略)

通常は雌のほうが、産卵中に捕食者に見つからないよう目立たない羽色をしているのに、例外的に雄より雌のほうがきれいな羽色をしているチョウがいる。(略)

 感じやすいダーウィンは、この擬態の例に自分の提案力がおびやかされているように思ったに違いない。(略)ウォレスによれば「性淘汰のおもな作用は両方の性をほぼ同じ色にすることだが……雌にとってはとりわけ、目立たない色にすることが危険回避のために重要」だという。性淘汰の作用を相殺するかたちで、自然淘汰は雌に有利なように、つまり覆いのない巣にすわって産卵する雌が安全なように、地味な色になるよう作用した。雌にカムフラージュの必要がなければ、雌もきれいな色になっているはずだ、と。さらに悪いことに、ウォレスは性淘汰説を人種の説明にあてはめるのを拒否し続けていた。これこそがダーウィンの最大の目的だというのに。(略)

 ウォレスは亡霊のようにつきまとった。女が自分たちの美の基準に基づいて男を選ぶことで人種への分岐が進んだというダーウィンの説に、最後まで疑念を突きつけた。(略)ウォレスはダーウィンに、妻を盗むという囚習をどう説明するのかと問うた。(略)「女が男を選んでいるわけではない」と反論した。むしろ男が、女を選ぶ。妻という名の「召使い」として。「大半の未開人にとって美は動機にならない」とウォレスは主張した。

2010-02-09 ダーウィンが信じた道・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ

作者: エイドリアン・デズモンド,ジェイムズ・ムーア,矢野真千子,野下祥子

出版社/メーカー: 日本放送出版協会

発売日: 2009/06

崩壊

[ロンドン科学界にデビューした頃]

ダーウィンはひそかに進化論ノートブックに書き込みをしていた。(略)

「種がそうだと認めると……たがいに変化するかもしれないと認めると……すると、構造全体がばらばらになり、崩れる」。彼の破壊作業は、創造説の堂々とした体系を解体しようとしていた。(略)

「構造は崩れる! しかし人類は――すばらしい人類は……神性ではなく、いまの形の終わりがやがて来る……人間も例外ではない――」

自然淘汰と揺れる心

マルサスを読む前のダーウィンは、「人類の将来の運命」をもっと優しいものとして思い描いていた。いくつかの「変種は絶滅していく」(タスマニア人の状況が危機的なことは知っていた)としても、ほかの民族については楽観的で「アフリカのニグロは敗北していない」。(略)

すべての人間が融合すると(略)以前より強靫な、より能力の高い血統が生まれるという証拠があった。人間の民族混合は短期的にはよいことかもしれない。(略)

 しかしマルサスを読んだあと、ダーウィンのイメージはずっと荒涼たるものになる。(略)[乏しい資源をめぐる戦争と飢餓]

刺激を受けたダーウィンは、民族接触の暗い側面を理論的に考えはじめた。(略)

[インディアン虐殺で「文明化」がもたらされるとした、自身の文章に動揺し削除したり]

 植民地での絶滅を生物学的に研究したダーウィンは、「人種の」絶滅を避けがたい進化論的結果と見るようになった。

(略)

 彼は、移住や侵略、闘争こそが必要不可欠だと考えはじめた。それは発展過程、厳しい試練なのだ。勝利した「破壊者」が生き残って繁殖し、そして新しく勝ち取った環境にさらに適応していく。帝国の領土拡大は、人間の進歩のまさに原動力となりつつあった。

(略)

[その一方で、「自分たちの土地は、やがて奪われる運命にあることはわかっている」という先住民の言葉に悲しい気持ちになり]

インディアンを虐殺したロサス将軍についても「非人間め」と書きなぐっている。

(略)

ダーウィンにとっての「進歩」とは、もっと壮大な背景に描かれたものだ。利益はすべての種に及ぶ。絶滅は自然の公理、つまり「厳格に森羅万象に適用される」のだ。自然そのものが前進し、足の下にある化石を押しつぶす。(略)

自然淘汰は、「より弱い」存在が消滅することに基づいていた。個体であれ、種全体であれ、「進歩」を起こすために滅びなければならなかった。つまり、「ヨーロッパ人が足を踏み入れたところ、どこでも、先住民の死を招くように思われる」のだ。

ヨーロッパ人は進化の代理人だった。

アガシ

[アメリカ中部の州への移住という1850年頃の]夢想は、アメリカが明らかに戦争へとかじを切るにつれて薄れていく。(略)

このような時代に、ルイ・アガシは人種理論家として賛美される。(略)地球上のそれぞれの動物地理学的地域にある動物相は、それら動物相が出現したときからずっとそこにあったのだと彼は主張した。

(略)

ダーウィンはすべての種――少なくとも彼がそれまでに研究したフジツボにおける種は、継続的に「いちじるしく変化しやすい」ことを証明していた。

(略)

[奴隷制御用学者ともいえる]アガシはダーウィンにとって憎むべき存在になりつつあった。(略)アガシにとって人種の拡散は禁句だった。

[そこでダーウィンは研究対象をフジツボから種子に変え、海水に浸かった種子や鳥の糞の中の種子が発芽することを確認]

次はハト

[大英帝国外交官らに依頼した世界中のハトが]

ダーウィンの「恐怖の小部屋」宛に死骸のつまった木箱が続々と送られてきた。空気のいい屋外には、生きた標本がつまった大型のハト小屋がすでに二つ建っていた。(略)

人間と違って、ハトは論点を証明するために実験することができる。ヒナがかえるとすぐに処理をして、漂白した骨を計測した。ダーウィンが知りたかったのは、誇張された特徴がヒナでは衰えており、祖先のハトにより似ているかどうかだった((略)[生後たった10日の天使のようなふわふわのヒナを]シチュー鍋に放り込んでいるのだから、良心がちくちくと痛んだ。ダーウィンは「悪行に手を染めてしまった」と告白している。)(略)

無惨にも殺されたヒナ鳥を調べることで、ダーウィンは孵化してからどれくらいの時間がたつと淘汰された特質があらわれるのかを確認することができた。しかし、彼が証明したかったのは、世界中の珍種のハトが地味なカワラバトに由来していることだ(略)

 ダーウィンが証明のためにまずおこなったのは、誇りある愛好家ならやりそうもないことだった。血統書つきのハトを異系交配したのだ。(略)そうすれば、「原初から」別々だったという意見は「極端な愚論」だと反撃できる。そのころのダーウィンは、五品種以上のハトを統合して一つの品種をつくったところだった。そしていまのところ、「複数の種を掛け合わせた複雑な交配種はきわめて不妊性が高い」と一般では考えられていたにもかかわらず、「繁殖力は弱まっていなかった」。

(略)

[わずかな変異を選び取るハトの育種家の]秘儀的な手法についての内部情報を得るために、ダーウィンは上流から庶民に至るまでのハト愛好会に参加した。(略)

 庶民愛好家たちがもう一つ教えてくれたことがある。変種を掛け合わせて永続的な交配品種をつくるのはひじょうにむずかしいのだ。交配品種のどれかはつねに片方の親のタイプに戻ってしまうという。

(略)

また同様に、人種の継続性は少数の原初の種間交配からつくりだされたと考えている人類学の根拠も切り崩していた。永続的な変化は変種間の交配からもたらされるものではなく、農場で動物たちにおこなわれているように、自然界での数え切れないほどの世代にわたる個体の不断の淘汰によってもたらされるのだ。

 のちにダーウィンは、中間品種も何世代かたつと確立される可能性があることを認めている。

出し抜かれないよう早く書き上げろとダーウィンをせっついたライエルだったが

ライエルはダーウィンの二冊目と三冊目のノートブックを開いたとき、そこにおずおずと登場しているサルの顔を見つめ、身震いした。ダーウィンが奴隷制を打倒する強力な存在と考えているみじめな共通の祖先は、ライエルの目には堕落し、高潔さを失ったものに見えた。ダーウィンにとっての道徳的な進歩は、ライエルにとっては人類の破滅だった。自分がもっていた高尚な世界観で織りなされた世界が揺らぐにつれて、彼は崩壊を恐れるようになる。彼は何ページにもわたって懸念を書きつづり、「もしあれが真実だったら?」と悩んだ。もし人類の歴史が地球の歴史にほかならないとしたら、魂はどこにある?もしシェイクスピアやニュートンが鳴き声をたてる小さな生き物から生まれたのだとしたら、白人は黒い野蛮人、いやキーキー嗚くチンパンジーから漸進的に発生したということになるのか?高貴さはその途上にあるのではなく、その結果にあるはずだ。いや、ほんとうにそうだったのか? ダーウィンの考えにとりつかれたように、何度も何度もライエルは考えた。偶然と神の設計、法と摂理、肉体と魂、死と永遠、人間とサル。苦しい「深夜の思考」から逃れることができなかった。しかしライエルは、最高のできごとは人間が最近あらわれたことだという点には同意していても、創造の中心が複数あるというアガシの考えは拒否していた。

(略)

ライエルはいまだに、気候変動へのある種の自動的な適応という昔ながらの観点で考えていた

明日につづく。

2010-02-07 ダーウィンが信じた道 このエントリーを含むブックマーク

博愛に燃え反奴隷を唱える裕福な女子(←現代ならネットで相当いじられそうdaze)に囲まれて育ったダーウィンは、黒人を自分達とは違う劣等種とする奴隷制支持者たちの「多起源論」を打ち破ろうと「進化論」に突き進んだ。南北戦争前後の成り行きにやきもきするダーウィン。興奮するネ。


ダーウィンが信じた道―進化論に隠されたメッセージ

作者: エイドリアン・デズモンド,ジェイムズ・ムーア,矢野真千子,野下祥子

出版社/メーカー: 日本放送出版協会

発売日: 2009/06

奴隷解放を唱える二人の祖父

1780年代から1830年代にかけてイキリスで広まった反奴隷制という気運は、アメリカという植民地を失ったあとのイギリス人の心に、愛国的な誇りという新たな感情を生み出した。ダーウィンの人格形成期には奴隷制反対運動がかつてないほど高まっていた。こうした人道主義的環境のなかで育ったのは彼だけではない。(略)

[ダーウィンの二人の祖父は満月の夜に「ルナ協会」という科学研究会を開催。工業都市バーミンガムの製品がアフリカとジャマイカからの奴隷と交換されることを知った、祖父エラズマス・ダーウィンは圧倒的筆力で奴隷解放を謳った。]

エラズマスは啓蒙期の申し子だ。熱烈な共和制支持者の彼は、アメリカの独立とフランスの革命を応援した。機械を発明し、未来を予測し、たくさんの詩を書いた。彼にとっての進歩は、望ましくないものを排して高きに昇るための、性欲が駆動力となるゆっくりとした前進であって

(略)

[ウェッジウッド創始者]ジョサイアは「誤りようのない人間機械」という時間交替制の分業システムを築いた。彼の宗教観も機械のように合理的だった。彼の一家は、三位一体とイエスの神性を初期キリスト教からの堕落だとして否定する「合理的な非国教徒」だった。(略)神の世界はそれだけで完璧なエンジンであって、人々はその完璧なる人間イエスに従っていれば向上する。救済は、階級やしきたりや人種にかかわらずすべての人に開かれている。その教えのもと、女たちも男女平等の意識に目覚め、ウェッジウッドの次世代の妻や娘は男と同等に奴隷制反対の動機をもつことになる。 

(略)

ジョサイアとエラズマスは共同作業で奴隷貿易と闘った。鋭いペン先をもつ太った医者は、どっしり構えて義足の製陶家を支え、製陶家のほうは事業の才覚とロンドンのショールームを通じて首都の人脈を使った。

母の死後、威圧的な父を避け、叔父ウェッジウッド二世のメア屋敷で四人の従姉妹と過ごすチャールズ。

人道的な取り組みは彼らの生活の中心だった。メア屋敷で、女たちは孤児院や募金活動、診療所、読書室、日曜学校、虐待防止団体、「禁酒のためのお茶会」[とりわけ反奴隷運動]などを支援していた。(略)

 奴隷の売買は1807年に非合法となったが、商人や船長は金儲けのためなら法を軽んじるのをいとわなかった。(略)

ウェッジウッド家の女たち――ジョスの妹のサラ、妻のエリザベス(ベッシー)と未婚の四人の娘(そのうち一人がダーウィンの未来の妻となる)――は推進役となった。もっとも、メア屋敷の博愛の嵐の中心人物は、50歳のサラだ。私有地に自分の屋敷をもち、簡素な暮らしをしていた裕福な未婚女性であるサラは、父ジョサイア・ウェッジウッド一世から相続した2万5000ポンドの収入を浪費するための対象を求めていた。信心深く人道主義に燃えていた彼女は「1000ポンド近くも」ばらまいて、ベッシーを驚かせた。(略)

[1828年設立の女性反奴隷制協会]初回会合では、ベッシーが書類を読み上げ、メンバーは「東インドの砂糖しか使わない、薦めない」と決議した。厨房を管理する女性たちは西インド諸島の砂糖の不買運動を再燃させるのに最適の集団である(略)ベッシーが「私たちは犯罪者の生産品を使わないことで、犯罪に加担せずにすむのです」と宣言した。しかし、倫理的消費行動はほとんど前進しなかった。紳士階級の大部分が無関心だったことや、トーリー党からの嫌がらせがあったためだ。

骨相学

[モートンの論文では]「アメリカ先住民」の拷問への耐性については、「脳の構造に帰する」差異により「さまざまな性格が生まれつき備わっている」ことを前提とした記述となっている。(略)骨相学者が頭を測るのに用いた道具は、そのまま形質人類学者の頭蓋測定用具になってゆく。そして、こうした測定をおこなう両学者たちは、人種ごとの気質は環境ではなく遺伝で決まるものだという見方を強めていくのである。

 人種人類学をその後の数十年にアメリカとイキリスで奇妙な方向に向かわせたのは、骨相学だった。頭蓋骨の形と人種の気質の関係は、モートンに決定的な影響をあたえ、この男は死後、「アメリカ派人類学の父」という名をもらうことになる。そしてこれこそが、奴隷制を正当化する科学、ダーウィンが対決しようとした相手なのだ。 

ホイッグ党政権誕生

 トーリー党政権は1830年11月に倒壊した。この時代初のホイッグ党内閣が、ついに議会改革と奴隷制廃止に乗り出した。ダーウィンがケンブリッジで試験問題を読んでいるころ、新しい反奴隷制法案の請求が「満場一致で採択」され(略)

だが、まっ先に黒人問題が取り上げられると信じていたメア屋敷では、トマス・ファウエル・バクストンが「すべてのニグロの解放を議会に提案しただけ」だったと知り、怒りの嵐が吹き荒れた。「なんてこと! 私たちはこんな些細なことで不運な人たちを一生、鞭を打たれる立場に引き渡してしまうの?」。

ビーグル号、ブラジルへ

ダーウィンはサルヴァドルの蒸し暑い通りを歩きながら、そこで生活する奴隷たちの現状に向き合った。あらゆる労働が「黒人によっておこなわれ」、その黒人たちは「重荷」のせいでふらつきながら、歌で「リズムをとりつつ、気力を奮い立たせている」。「ニグロの礼儀正しさ」には驚かされた。黒人のウェイトレスの接客態度の丁重なこと。黒人の子どもたちにピストルやコンパスを見せたときの、うれしそうな顔。ダーウィンは出かけるときは念のため武装してはいたものの、その必要はなかった。奴隷たちのほとんどは、彼が思っていたより幸せそうに見えた。

(略)

闇取り引きは日常茶飯で、黒人は家畜同然に倉庫に押し込められる。(略)拷問具、猿ぐつわ、手指足指、突起つきの首輪がいたるところにある。ダーウィンの当初の印象は、あっというまに変わっていった。(略)

[主人に自由になりたいかと聞かれた奴隷が「いいえ」と答えた話を披露したフィッツロイ艦長に]

反奴隷制の立場を唱える者ならだれでも、幾度となく反論として聞かされる詭弁だ。(略)「主人の目の前で奴隷が言うことに……本心が出ているわけがないではありませんか!」と口にしてしまった。(略)フイッツロイは激怒し、「君は奴隷の言葉より私の言葉を疑うのか」と咎めた。(略)

このときから、ダーウィンは奴隷制に反対する気持ちを積極的に認めることになる。

 ダーウィンは下級将校室で食事をとることになった。そのとき励ましてくれたのは、「気取らず男らしい信仰心」と奴隷船への嫌悪を隠さない、話し好きの少尉バーソロミュー・サリヴァンだった。

奴隷解放

ジョスはグレイ卿のホイッグ党内閣の「忠実な支援者」であり続けた。家族はグレイ内閣を、「あらゆる非人道的行為を許さない完璧な内閣」だと考えていた。(略)

[1833年]議会はついにイギリス植民地の奴隷80万人の解放を決めた。その日、ダーウィンはアルゼンチンの大平原、パンパスを馬で走る旅に出ていた。数ヵ月後、チリ沖合いで、彼はその知らせを受け取った。「あなたも私たちと同じくらいよろこんでくれることでしょう」と、姉スーザンが書いてよこしたのだった。

ダーウィン大地に立つ

五年におよぶ周航で見たもの聞いたもののうち、ダーウィンの脳裏に生涯、取りついて離れなくなるできごとが一つあった。八月中旬の雨季が終わろうとするころ、ビーグル号が南米大陸で最後に寄港したペルナンブコでのことだった。町は「不潔」で「むかむか」した。悪臭のなかに家々が「陰気に突っ立っている」。この地では、少数派のヨーロッパ人が「黒または浅黒い色の肌」の海に「異物」のように浮かんでいた。数か月前に300人のアフリカ人が町の南に陸揚げされ、大農園まで連行されたという。そしていまも、海上では鎖でつながれた男と女の荷がこちらに向かっている。農園主たちは「残忍な密輸」を守るために団結し、イギリス領事側はいっそう海上巡視を強化していた。(略)

ダーウィンは一軒の家から叫び声があがるのを聞いた。虐待がまさにおこなわれている現場だった。(略)

ダーウィンは熱帯で、本物の痛みを、鎖でつながれた足を、サトウキビ畑で鞭打たれた傷跡の残る背中を、じかに感じて理解した。この航海を通して、彼は奴隷制という向かい風を受けるよう針路を固定した。邪悪な強風に逆らって帆を揚げることにした。こうして彼は、日に焼け、潮風にもまれ、大人になって、祖国に戻るのである。

明日につづく。

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ダーウィンの生涯 - 本と奇妙な煙

2010-02-05 クルーグマン、中世の怠惰な学生 このエントリーを含むブックマーク

二冊チラ見。


危機突破の経済学 (Voice select)

作者: ポール・クルーグマン,大野和基

出版社/メーカー: PHP研究所

発売日: 2009/06/02

オバマ

じつのところ、オバマはレーガンのことを大いに褒めており、本当は民主党のなかでも中道のほうだと思います。でも一般の人は、オバマは反レーガンだと100%思っています。(略)

支持者は非常に進歩主義者でしたが、オバマ自身は適度に進歩主義です。(略)いまのオバマがどう言うのかではなく、何を言うかということに静かに耳を傾けてみれば、その中身がまったく左ではないことがわかります。人はそれを信じませんが、私にはわかります。

CRC(規制者の認知的捕獲)

ルービンはもともとウォールストリートに非常に近いので、一種のCRC(規制者としての義務と自分の行動の矛盾からくる葛藤や不安な状態のこと)に陥る可能性があります。でもこの3人に限っては、個人的な金銭上の利益が彼らの原動力になっているとは思いません。ただウォールストリートの人と付き合うと、彼らの見方から世界を見始めるので、それは問題です。

(略)

 ウォールストリートの大勢の人は、我々のお金を持って逃げた人たちだからです。実際、ガイトナーとサマーズは、政府高官は銀行を管理するのが下手であると信じている、と実際に言ったことがあるのです。

金融規制

[家計総資産は10年前の水準に戻ったが]それでも、格差社会という点ではいまよりもましになるはずですし、そうなってほしいと切に思っています。所得格差はそもそもこの金融バブルの結果であり、それはいま新しい規制を加えることで、消えていくものです。ですから、いま規制を加えるべきなのです。そして、過度な給与は制限をして、一般の労働者の所得を押し上げる、そうした運動をやるべきです。そうすれば、貯蓄率も次第に上がるはずです。

ビッグ・スリー破綻

 経済が下降しているときに、大きな産業が破綻するのを見たくありません。最後には消えるとしても、いまは時期が非常に悪い。生命維持装置をつけて、ここ2〜3年は延命させておくのがいいでしょう。もちろん、奇跡が起きるという錯覚は、してはいけません。

「ビッグ・スリーは救済しないほうがいい」とノーベル賞受賞式で私が言ったという「誤報」が日本では流れたと聞きましたが、そのときに私が言ったのは、「自動車産業のビッグ・スリーはいずれ消滅するかもしれない」ということでした。

 結局、クライスラーは破産ということになりましたが、政府は少なくとも経済がよくなるまでは救済し続けるべきだったでしょう。

(略)救済しないほうがいいなどとは、決して言っておりません。少なくとも何を救済できるかを確かに見極めるまでは、とりあえず救済したほうがいいのです。


大学の起源

作者: チャールズ・ホーマーハスキンズ,Charles Homer Haskins,青木靖三,三浦常司

出版社/メーカー: 八坂書房

発売日: 2009/11

中世パリの怠惰な学生

教師から教師、学校から学校へとわたり歩き、一度として全課程や正規の講義を聞いたことのない怠けものや目的のない学生がいる。学生という名前と、大学へ行っている間の自分の受けとる収入だけを望んでいる学生は、好んで朝遅くまで寝ていられる教会法の講義を選び、週に一度か二度だけ教室へ出る。勉強すべき時にケーキを食べたり、教室では居眠りをしたりして、残りの時間は居酒屋で飲んだり、スペインに城を建て(白昼夢を見)たりして過ごす学生も多い。そしてパリを去る時が来ると、このような学生たちは学識をみせびらかすために、広い余白と立派な赤い装釘の子牛皮の大きな本を集め、書物の入った賢い袋とからっぽの頭をもって帰って行くのである。

カネオクレ

わたくしがオクスフォードでこのうえなく勤勉に勉強していることをここにお報せします。しかし金銭の問題がわたくしが学位をとって教師に任用されるのを大いに妨げています。というのは、お送りいただいた最後の金銭をつかってしまって以来、すでにニカ月たっているからです。この町は物価が高く、金銭のいることが多いのです。貸間を借り、必需品を買い、いまはこまごまとは書けない他の多くのものも用意しなければなりません。それ故、初めにはうまくいっていたものをわたくしが完成できるように、神のおあわれみに促されて、お助け下さるよう、うやうやしく神父としての尊師にお願いします。何しろケレスやバッカスがいなければアポロも冷たくなるということをご考慮下さいますように。

父怒る

わたしはおまえが自制よりも放縦を、勉強よりも遊びを好み、他人が勉強している時にへたなギターをかき鳴らし、放らつで怠けた生活をしており、おまえのもっと勤勉な仲間が法律書を何冊も読んでいる間におまえは一冊しか読んでいないという結果になっていることを、最近発見した。それ故、わたしはおまえがもはや浪費家と呼ばれなくなり、おまえの不名誉がよい評判にかわるよう、おまえの放らつでのんきなやり方をすっかり悔いることを、この機会におまえに勧告する決心をしたのである。

2010-02-03 カノッサの屈辱とユダヤ迫害 このエントリーを含むブックマーク


中世の国家と教会―カノッサからウォルムスへ 1077~1122

作者: E.ヴェルナー,瀬原義生

出版社/メーカー: 未来社

発売日: 1991/04

新しい信仰

封建世界の教会の硬直した信仰のなかへ、未だ聞いたこともない、新しい思想を持ちこんだのも、商人たちであった。(略)イタリアから来た人びとは新しい信仰をひろめ、その聴聞者たちに、教会の秘蹟なしにえられる霊魂の救いを約束した(略)この世界から逃避し、――洗礼も、聖餐も、贖罪もなく――自分の労働によって生きようとおもっていること、が明らかにされた。(略)

新しい信仰は、都市住民層に彼らにふさわしいイデオロギーを伝えようと、おずおずと、手探りで努めつつ、教会という制度をもたない、ただ聖書にのみ基礎をおいた信仰共同体の存在を宣言したのであった。(略)

アキタニアでは、反教会的な教えがすでに1018年に現われており、マルヌではおそらくそれより早く、またオルレアンでは1022年にそれが出現している。いたるところで、新しい純化された信仰のための闘いがなされていた。こうした教えがすでに11世紀の中頃ザクセンにまでたっしていたことは、増大するコミュニケーション、広くひろがっていく商業が、商品だけでなく、ビザンツ、ブルガリア起源の、カトリックの教義を疑問視するような思想をも伝えるものであった、ということを示している。

下僕制

農民の大部分は、隷属状態にとどまり、領主の経済外強制につよくさらされたままであった。教会はこの状態を承認し、それを神の欲し給うところであるとした。(略)

下僕制は、良い人間を教育するための、神の試練にほかならない(略)階級支配のこうした正当化は、中世全体を通して、聖職者の重要な任務に属したのである。

グレゴリウス七世

彼以前のどの教皇にもみられないほど、グレゴリウス七世は、自分に用いられうるあらゆる手段をもって、権力教会のために立ち向った。この権力教会においては、ただ聖職者だけが支配し、命令し、国王も、諸侯も、ましてや農民、市民も発言権をもってはいないのである。

 他面において、グレゴリウスとその一党は、新しい世界像をもって、神格化されたドイツ王権から神秘的救済者観、奇蹟実現者観をはぎとった。(略)

グレゴリウスによって強調されたこの新しい帝国・国王概念には、国政的意義があった、というのは、これによって彼は、ドイツ国王の支配をイタリア、ブルグント、ハンガリー、ボヘミアの支配から分離したからである。

カノッサの屈辱

国王は国王で、憎むべき成り上り者によって強制されたこの地位の降格を十分に意識していた。それは、カノッサの食卓での、彼の振舞いにも示されている。陰うつに、言葉少なく、彼は食卓に坐り、なにものにも触らず、爪で食卓の板を掻いていた。もちろん彼は、帝国における王冠をめぐる綱引きを、自分の有利なように決定しうる時間を獲得したと考えた。しかし、彼の父の精神にあった帝国改革という高邁な理念は、現実のまえに、粉々となって砕け散った。彼は瓦礫の山のまえに立ち、完全に最初から始めねばならなかった。彼がともかくもう一度始めることができたこと、彼が再び政治的に行動能力をえたこと、これを彼はカノッサ行に負うている。この行動の自由は高価についた。しかし、彼にほかにどんな可能性があったのであろうか? グレゴリウスもまた、彼の勝利を心からは喜んではいなかった。グレゴリウスは、相手の廃位を堅持しなければならないそのときに、相手を破門から解き、和解し、釈放しなければならなかった。このことに、情容赦のない諸侯がどのように反応するであろうか?

(略)

ロンバルディアの司教たちがハインリヒに対して反抗した。(略)しかし、その非難の声はながく続かなかった。彼らはすぐに、ハインリヒが再び行動能力を回復したことに気付き、彼の周囲に集まった。(略)

もっとも不満な態度をとったのは、ドイツの諸侯であった。(略)[ハインリヒ復活]の責任を教皇に帰した。彼らの考えによれば、教皇はひとのいいなりになり、しかも約束を破る人物とみなされた。(略)フォルヒハイムにおいて、グレゴリウスの関知するところなく、ただし教皇特使の同意をえて、シュヴァーベン大公ルードルフを対立国王に選出した。つまり、教皇の判決を待たなかったのである。

(略)

グレゴリウスは権力を握ったのが彼ではなくて、反対派諸侯であること、彼にはただ支援者の役割しか残されていないこと、について見誤ることはなかった。

(略)

フォルヒハイムの舞台は、真の力関係を明らかに示した。教皇は、地方権力との抗争におちいった国王を木っぱみじんにすることができたが、彼自身も、貴族戦線の意志に対しては無力な存在であった。貴族たちは、彼らの支配領域においては、ノルマン人やフランスの領主と同じように、教皇の脅迫に楯つく手段と可能性をまさしく行使することができた。彼らにとっては、教皇は認知手段、権力をめぐるゲームの切り札としてのみ重要であった。(略)[グレゴリウス七世]にとって、フォルヒハイムは、ハインリヒにとってのカノッサと同様、少なからざる苦い味をもつものであった。 

(略)

 意地悪く、1077年春と夏、不意をおそったのはノルマン人であった。誓約やあらゆる種類の教会の罰に遠慮することなく、彼らは教皇領に侵入し、サビーヌ人の土地をこえてティボリに進み、ベネベントを囲み、ローマをさえ脅かした。ここでは、破門と教会外追放もなんら助けにはならず、ただ懇願と祈願が残されているだけであった。

王の逆襲

ハインリヒに対する都市の同情は、道徳的だけでなく、物質的支持となってあらわされた。市民共同体は、ハインリヒに敵対的な司教を追放することによって、彼を援け、また彼に金を寄付し、ハインリヒはそれを傭兵徴募のために使った。(略)それによって、家臣の供出兵に依存しなくなっていた。また彼は、困難なときに農民を軍事奉仕に動員した。(略)

彼はグレゴリウス七世の鼻をつまんで、意のままにふりまわした。教皇は、相変わらず、ドイツにおける諸党派の仲裁裁判官として登場するという目的にしばられ、身動きできなくなっていた。ハインリヒは、グレゴリウスを引き留めておくえさとして、この固定観念を利用した。すなわち、彼は口先では思い上った仲裁裁判官の役割を認めながら、実際には、これを妨害するためにあらゆることを行った。ハインリヒは、ルードルフ派の諸侯たちが教皇のこの態度を怒り、ルードルフとザクセン間に亀裂が生じるにいたったことを知った。彼は見せかけの平和交渉をつうじて、教皇特使に服従を顕示しながら、他方、舞台裏では、敵に対して新しい打撃を与えるべく武装を強化していたのである。

1084年3月、ハインリヒは、ついにクレメンス三世と軍隊とを連れて、聖都へ入った。復活祭の日曜日、クレメンスは彼に聖ペテロ教会で皇帝の戴冠を行った。グレゴリウスは、サン・タンジェロ城でなすところなく、人民が彼を呪い、新教皇と皇帝に讃歌をおくるのを見守るほかはなかった。

 そこへ、ようやくロベール・ギスカールが、ノルマンとサラセン人の部隊をひき連れて、救援にかけつけた。皇帝側は、躊躇することなく都市を去り、北方へと引き上げた。結局、ハインリヒは目的を達し、優勢なノルマンと事を構えようとは考えなかった。 三日間のあいだ、不幸な都市には、強盗、放火、殺人が支配した。勝利者が引き上げたとき、残ったのは瓦礫の山であった。グレゴリウスにとって、この「解放された」都市に留ることが、どうしてできただろうか。そんなことをすれば、彼は市民によって八つ裂きにされかねなかったろう。

論争文書

 混乱したこの時代で新しいことといえば、改革派が武器として論争文書を用い、グレゴリウス七世が自分の書簡を宣伝手段として利用したことだけでなく、国王の官房もまた同じ手段でしっぺ返しをしたということである。ハインリヒ四世の書簡が比較的多数保存されているのは、いうまでもなく、それが宣伝の目的で書かれ、流布されたということから説明されうる。それは、味方を獲得し、自分の立場を正当化し、相手の立場を不条理へ導くために役立てられた。

 もっとも鋭いペンをふるったのは論争文著述家であったが、彼らは、相手の立場の弱点すべてを情容赦なくあばき出し、自分の立場を、自由に使えるあらゆる権威、たとえば聖書や教父からの引用文によって、擁護した。

教皇派が国王攻撃のために、反ユダヤ感情を煽った

もし皇帝に忠実な司教たちがユダヤ人保護を支持するというのであれば、国王に打撃を与えるためには、教皇派としては、それを掘りくずさなければならない。こうしてユダヤ人は、欲しなかったにもかかわらず、叙任権闘争の渦のなかに巻きこまれてしまった。グレゴリウス七世の時代には、彼らはハインリヒ四世の側についた。改革派がユダヤ人を中傷する場合、じつは目標は国王にあった。そのさい、改革派は民衆の声を巧みに、「イエスを殺した者」の方向へ操っていったのである。

 民衆は、はじめ、反ユダヤ的感情にとらわれておらず、迫害の行動などには出なかった。教会改革者が、はじめて、憎悪と熱狂を大衆にもちこんだのである。