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2010-06-30 チベット問題、陶片追放 このエントリーを含むブックマーク

チラ見二冊


万国公法の時代―洋務・変法運動 (新編 原典中国近代思想史 第2巻)

作者: 村田雄二郎

出版社: 岩波書店 発売日: 2010/04/28

チベット問題

[ロンドンの曾紀沢から李鴻章への1885年の書簡]

西洋の列強は近ごろ、中華の属国を侵奪することに専念しておりまして、「真の属国ではない」というのをその口実としています。けだし中国は属国に対し、その国内政治にも対外交渉にも干渉しませんから、そもそも西洋の属国に対する処遇とは、まったく異なっているからです。チベットとモンゴルは共に中国の属地であって、属国ではありません。にもかかわらず、われわれのチベット統治は、西洋の属国支配に比べても、なお寛大なのです。(略)われわれがいま大権を総攬して天下に明示しなくては、「属国」と呼ばれる属地が将来、さらに「真の属国ではない」属国だとみなされて、侵奪の憂き目にあうやもしれません。

(略)

フランスのベトナム侵略は、はじめ名もなき私商と狡猾な宣教師がこっそりすすめ、わが中華を無視してベトナムと条約をむすび、条約を締結するまで、こちらに文書一枚すら知らせてよこさず、ついにはベトナム全土を占拠し、あまつさえ最近、戦火すら交えたのであります。

 イギリスはチベットに対し、当初やはりフランスのやり口に倣っておりました。聞きましたところでは、前任のインド相とインド総督はしばしば、「中国を介さずこっそりチベットと通商条約を締結し、ことが達成してから、文書一枚で中国に知らせるようにすれば、中国はどうすることもできまい」と画策していた、との由です。ところがいま、イギリスはそんな当初の計画を改めて、公式にわが主権を承認して、インド・チベット間の通商をあらかじめ、われわれに協議してまいりました。どうしてこのようになったかと申しますと、清仏開戦以来、勝敗は五分五分で、われわれをあなどってばかりはいられない、と西洋人が気づいたからにほかなりません。

万国律例の刊行を要請する上奏文

外国人は口語であれ文語であれ、中国語の修得を心がけております、なかでも狡猾な者は、中国の典籍の研究に没頭しております。事件が起こって議論になりますと、中国の制度や法律を援用して詰問してまいります。こちらもことあるごとに、むこうの先例に依拠して論破したいと思っておりますが、いかんせん外国の法律はすべて横文字で、まったく読めませんし、同文館の学生にしても、習熟にはなお時間がかかります。西洋諸国が非難しあったとき、頃合いをみはからって調べましたところ、『万国律例』なる書物があることを知りました。

(略)

この外国の『律例』という書物は、中国の制度とつきあわせますと、もとよりぴたりと合うものではありませんが、役に立つところもございます。今年、プロイセンが天津でデンマークの船舶を拘留した事件で、われわれはひそかにこの『律例』にある文言を使って、プロイセン側と論争してみましたところ、プロイセン公使も即座に誤りを認めて、唯々諾々としたがいましたが、これなどその好例でございましょう。そこでわれわれは協議のすえ、銀五百両を支給して、刊行後は三百部をわが総理衛門に献呈するよう、申しつけることにいたしました。

学識

[郭嵩トウの日記]

 わたしは世間からののしられることが多い。姚彦嘉〔姚嶽望〕は、学識が人よりすぐれているからですよ、となぐさめてくれるが、誤りである。わたしなど、学識というに値しない。宋・明の史書はきちんとそなわっていて、〔それを読みさえすれば、わたしのような意見になるはずだからだ。それ〕にもかかわらず、世人の見聞や頭の中は、数百年来の虚妄驕慢な議論にあふれてしまって、その事実をちっとも研究しようとはしない。かつて何願船〔何秋濤〕が西洋事情を論じるのを聞いた際、深く要点をついたものだったので、驚いて、どうすればそうなれるのですか、とたずねてみた。「儒教の経典や周秦の古書からはじまって、近くは先人の儒者の論著にいたるまでを読んだのですが、歴代の史書で裏づけしながら、たがいに参照してつきとめていけば、くっきりとよく理解できるのです。世俗の議論は、自尊心を煽るだけで、よりどころとするに足りません」とのお答えであった。こういうのを学識というのである。


アテネ民主政 命をかけた八人の政治家 (講談社選書メチエ)

作者: 澤田典子

出版社: 講談社 発売日: 2010/04/09

陶片追放は僭主防止か?

 陶片追放は、実に奇妙な制度である。10年間という期限つきで、追放されるのは一年にひとりのみ。全く弁明も許されず、何ゆえに追放されるのかも明示されないまま、いわば欠席裁判のような形で追放が決まってしまう。死刑判決が下る可能性の高い弾劾裁判に比べればはるかにマイルドだが、弁明すらできないというのは、ある意味で弾劾裁判よりも恐い。また、陶片追放の施行が決まってから投票までの約ニカ月の期間は、集票活動などの裏工作にうってつけである。(略)

[制度の目的は諸説あり]

僭主防止という教科書的な理解は、実は、最初の犠牲者が僭主一族に連なるヒッパルコスだったことから前四世紀になって生まれた見方にすぎず、前五世紀の同時代史料には、僭主防止という目的があったことを示すものはないのである。(略)

[全てを剥奪され放逐された貴族一門が国外で力を蓄えクーデターを起こすことが繰り返され国が乱れたので]

こうした状況に終止符を打つために、一族全員の追放ではなく、ひとりだけを10年間の期限つきの追放に処すというマイルドな方式によって、集団亡命とクーデターの血みどろの連鎖を断ち切ろうとしたのが陶片追放の制度だった、という説[が近年有力になりつつある](略)

貴族たちの争いの一種の仲裁手段であるとすれば、財産も市民権も保持したままでの10年間の追放、という奇妙にマイルドな性質も納得がいく。リーダーの追放によって貴族たちの抗争を鎮静化させ、同時に、追放された貴族によるクーデターの芽も摘む。いかにも、稀有の知謀の賜と言われるあの10部族制を創設したクレイステネスの立案を思わせる巧妙な制度である。

 アテネで実際に陶片追放が施行されたのは、10件余りにすぎない。その実施件数の少なさから、僭主防止という目的を離れて政争の具として用いられ、結局は弊害だけが目立って廃れてしまった

2010-06-28 台湾ナショナリズム このエントリーを含むブックマーク


台湾ナショナリズム 東アジア近代のアポリア (講談社選書メチエ)

作者: 丸川哲史

出版社: 講談社 発売日: 2010/05/07

「台湾民主国」

のコンセプトは、フランスの共和制にならったもので、フランスに留学していた台湾における洋務運動の推進者で、当時副将となっていた陳季同のアイディアであったと言われている。当時フランスはベトナムを領有していたことから、その同情を買い、干渉を呼び込もうとした動きとも推察されている。(略)

[「台湾領有戦争」は軽視されているが、日本軍死者は5000人に上り、日清戦争の過半数に相当]

[台湾領有後、フランスへの売却も検討された]

初期投資のためのコストヘの不安を押してまで台湾の植民地経営を続けていくことに、どのようなメリットがあったのか。それは結局のところ、台湾の植民地経営を立派に「成功」させることにより、西洋列強と同様の地位を主張するところに最大の眼目があったからである。だから、台湾における公的な建物や道路などのインフラ整備には、内地以上に重視された部分も見受けられる。台湾は、日本が植民地帝国主義への道程を歩む一大実験場となった、と言えよう。

霧社事件

[1930年の霧社事件]は、1910年代に主に漢人中心の武力抵抗に手を焼いていた時期からかなりの時間が経って引き起こされたものとして、台湾総督府からすれば意外な感覚があったようである。(略)

[霧社出身の原住民の若者で警察官となっていた花岡兄弟が]

日本と蜂起側の板ばさみになり、追いつめられる過程で自殺を図ったことなども(男たちの後を追うように多くの女性たちも自殺している)、日本人に大きなイマジネーションを与えた。日本人の立場は当然のこと総督府権力側にあるわけだが、原住民の抵抗の中に現代社会の中で見失われたとされる「武士道精神」を投影し評価を与えるなど、一種倒錯した「同情」も生じたりもしていた。

(略)

[メディア技術の進歩により]掃討の過程が逐一内地において即日報じられ、後に展開されることになるメディアと戦争との関わりの原型となった。そのためこの第一次霧社事件は、翌年の来るべき「満州事変」の予行演習の意味合いが後に持たれるようになる。

琉球

[カイロ会談時の蒋介石の日記。日本が中国から奪った土地は返還されるべき]

ただ琉球は国際的機関を通じて米国との共同管理となってもよい。これらは、私から提起したことであるが、それは第一に米国の内心を慮ってのことであり、第二に琉球は日清戦争の前に既に日本に所属していたからであり、また第三にこの地に関しては私たちが単独で管理するよりも米国の方が適切にやれるだろうからだ。

農地改革

1953年、国民党政権は大陸統治時代に実行を試みたものの閥=地主の反対で頓挫していた土地改革「耕者有其田」――土地を耕す者にその土地を再配分する政策を台湾で実行し、そして「成功」を収めた。重要なのは、この土地改革も、「赤化」の浸透を避けたいとする当時の米国政府と利害が完全に一致するところから、その大きな支持を得ていたことである。その意味でもこの土地改革は、白色テロからの流れの中に位置づけられる。(略)

[これにより]土地と人口の流動化が容易になり、産業育成と産業構造の転換に「成功」した。土地改革が比較的スムースに進んだ[のは大陸からの国民党政権と台湾の地主階層との癒着が少なかったことが一番の要因](略)

国民党政権はこれにより台湾自生の地主階級の力を削ぐことに「成功」し、また当時の住民の大多数であった農民を味方に引き付けることに「成功」するところとなった。このときの台湾地主層の喪失感は、主に日本や米国など海外で活躍することとなる、後の台湾独立運動家の精神的背景を形成したとも言われている。

朝鮮戦争

[米国に見限られ共産党軍による台湾解放も時間の問題だった時に勃発]

朝鮮戦争は、台湾における中華民国の事実上の主権状態が成立した起点でもあり、それがなければ、今日私たちが知る台湾はあり得ていない。台湾は大陸から派遣された解放軍によって「解放」されていた可能性が高いのである。その意味で、朝鮮戦争という出来事は、台湾においてタブー視されている。

[大陸中国奪回の起点にしようと蒋介石は米国に参戦を申し出るも拒否されている]

クウェート侵攻

イラクのクウェート侵攻は、大陸中国の「台湾解放」をシミュレートするものでもあった。人民解放軍首脳にとって、イラクのクウェート侵攻が米国の作戦によって粉砕された事跡は大きなショックとなった。実際には、79年の「台湾同胞に告げるの書」において、旧来の武力による「台湾解放」は半ば放棄されていたとも言えるが、湾岸戦争の結果によって、海峡を渡った作戦が実際にも不可能であると思い知らされたことになる。

2010-06-16 サキソフォン物語 このエントリーを含むブックマーク

冒頭のサックス開発者伝が一番面白く、他はいささか散漫な……気もしないでもない。


サキソフォン物語 悪魔の角笛からジャズの花形へ

作者: マイケル・シーゲル,諸岡敏行

出版社: 青土社 発売日: 2010/04/23

1814年の生まれで、アントワーヌ・ジョゼフと名づけられ(略)父親のシャルル・ジョゼフ・サックスは(略)ベルギー随一の楽器職人(略)

十五歳のときには象牙のクラリネット一本とフルート二本をつくり、1830年のブリュッセル産業博覧会でもっとも完成された作品との評価を得た。二十歳になるまでにはソプラノ・クラリネットの新たなキーの配列を考え、バス・クラリネットを再生、復活させている。(略)

[1842年28歳でパリヘ]

アドルフ・サックスは口も態度も横柄だが端正な顔立ちで、ひげが濃くて女性がうっとりする目をし、19世紀の熱烈な空想家を絵に描いたかのようだった。恐ろしく自信にあふれ、「人生は征服するかされるか、勝つか負けるか。わたしは征服する側でいたい」というのが口ぐせだ。(略)

エクトル・ベルリオーズは担当するコラムの大半を「ことばにできないほど明晰で先見性があり、ねばり強く自分を貫く練達の士」サックスのために割いた。そこでは新しい楽器がル・サキソフォンと呼ばれ(略)

「それは泣く、嘆く、夢見る。その音は力強くクレッシェンドし、また、残響のエコーのエコーになるまで耳に残る。たそがれと溶けあうまで」(略)「サキソフォンの高域の音には苦しみや悲しみの響きがある。低い音は逆に荘厳なもので、ミサを思わせるといっていい。サキソフォンは今日知られているどんな低音楽器よりも美しく聞こえる」

1846年に八本の楽器群の特許が取れ、特にEフラットのバリトン・サキソフォンは数年で五大陸を制覇。同業者は連合して「新楽器は既存の特許の寄せ集め」だとして、サックスを訴えた。

楽器製造業連合は豊富な資金力にものをいわせて法廷闘争をつづけた。(略)サックスの図面や特殊な道具は盗まれ、楽器は偽造され、従業員は買収されて重要な作業工程で手抜きをした。その工房は不審火で焼けた。敵陣営はもっと荒っぽい手段にも訴えた。サックスの寝台の下に爆発物がしかけられ(略)[二度目は]従業員が雇い主と同じ背格好をしていたため、胸を剌されて致命傷を負った。

(略)

[様々な妨害等で]資金も底をついて1852年と73年に破産宣告の憂き目をみた。1877年の三度目のときは傾いた工場を息子たちに譲って、五百近くあつめた珍しい楽器を手放し、自分で工夫した道具類も売りはらった。そのころには特許の独占権もとっくに切れて、ほかの楽器業者がいくつかサキソフォンの製作にはいっている。

 フランス軍が行く先々の駐屯地に音楽隊を帯同していたおかげで、サキソフォンは1860年代はじめのフランス干渉戦争時にはメキシコに持ちこまれ、すぐさま新天地に広まった。実際、ニューオーリンズに住みついた最初のサキソフォン奏者はメキシコ人のフロレンシオ・ラモスだとされる。(略)メキシコから流れこんだ演奏家の多くはこの町でジャズの第一世代となり、生まれかけている混交音楽に国境の南の強い影響を与えた。

[困窮し年金給付を世論に訴える]

「わたしが世に出る前、これは誇りをもっていえるのだが、フランスに楽器産業はなかった。少なくとも、なきに等しかった。それをわたしが興した。比類のないものにした。わたしはおおぜいの労働者と演奏家に仕事の場を与えた。とりわけその恩恵を受けたのはわたしの楽器の偽造者たちだ」と自賛した。

発明王

世論に訴えたあと、ささやかな老齢年金の給付を受けて口すぎをし、パリ・オペラハウスで舞台監督をつとめながら、1894年、その死の年には35の特許を認められている。実用的な工夫もあったし、雲をつかむような夢の大発明もあった。混乱する頭で考えに考えたらしいものもあった。サックスはたとえば音を変えたり補正したりする器具を考案した。もともと放物線には強い関心があって、放物線を描いたサキソフォンの管体はサックスの特許申請をとおしてもっとも特徴的な形状だが、それを生かした音楽堂の申請理由は客席のすみずみまで理想の音を楽しめるというものだった。サックスはまた「蒸気機関車の汽笛の音を改善する」仕組みを考えた。グドロニエ・サックスという発明は室内の空気を殺菌目的のグドロン、つまりタール臭でみたす装置であり、医学者のルイ・パストゥールも何台か注文している。

(略)

バスティーユ監獄の広場にある青銅の柱と同じ大きさの楽器をつくってやるとサックスはいい、「サックスの雷鳴」と命名した。さらには巨大オルガンの設計も考えた。丘を背に建設して蒸気機関車のエンジンで動かし、パリの全市民のためにマイアベーアの作品を演奏する計画だ。『レヴュ・ガゼット・ミュジカル・ド・パリ』誌によると、この楽器は「四、五気圧の送風を受けて、振動板が作動する。振動板は巨大な鋼板でつくられ、高圧の空気でぶんぶん鳴る」。友人のベルリオーズは当時のロマン派らしい誇大な表現を駆使して、巨大オルガンは「いちばん高い塔のてっぺんから首都の喜びと悲しみを歌い、その響きに全市民を包みこむ」と断言した。

 サックスは何もかも破滅させたい精神状態のとき、巨大な砲を思いついた。大きさは10メートル、重さは550トンで、ひとつの都市を壊滅させる能力があった。信奉者のひとりは「破壊をほしいままにし、防壁をすべて粉砕し、要塞をがれきの山にし、鉱山を押しつぶし、発電所を吹きとばすだろう。砲弾の爆発がひとびとを恐怖の淵に落とすのは当然のこととして、だれにも止められない荒廃を広範にもたらすといっていい」とうけあっている。

 奇矯な発明家、アドルフ・サックスは「サックス砲」と名づけた巨大な破壊兵器を思い浮かべながら、生涯の敵だった楽器製造業連合に心の目で狙いを定めていたのかもしれない。

オーネット・コールマン

【デューイ・レッドマン談】

[高校の一年後輩、タクシーの運転手をしながら夜バンドをやっていた頃、空港で再会]

「「オーネットはいった。『デューイ、まだ吹いているかい。だったらきて、いっしょにやらないか』」(略)「つぎに覚えているのはニューヨークに出ていて、オーネットの『ニューヨーク・イズ・ナウ』を録音したことだ。エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・ギャリソンとね」

(略)

オーネットはしじゅう、前の世代の演奏家から仲間外れにされた、とデューイはいう。自分たちと同じやりかたでも吹けることが分かるまで、オーネットの試みは能力不足をごまかすための方便だと思っていたからだ。(略)

[1971年欧州ツアー]「錚々たる顔ぶれだ。デューク・エリントンの楽団、ソニー・スティット、デクスター・ゴードン、マイルス・デイヴィスとね。オーネットとわたしの控え室はソニーの隣だった。ある晩、笑ったり、しゃべったり、飲んだりで隣があまりにうるさかったから、わたしはひとこと、いいにいった。デクスターがソニーに何か見せていて、みんなで盛りあがっていた。すると、いきなり通路のどこかで、チャーリー・パーカーの吹く音がきこえた。なんと、バードだよ。とたんに、みんな静かになった。だれが吹いているのか、わたしにはすぐに分かった。オーネットだ。といって、オーネットのパーカーというんじゃない。まさしくチャーリー・パーカーだった。わたしの知るだれよりも、オーネットはチャーリー・パーカーに近い演奏ができる。しかも同じアルトだ。みんな口をあんぐり開け、あたりは静まりかえった。シーツにネズミが小便をする音だって、きこえたろうな。ほんと。何分もそのままだった。バードだものね。吹きだしそうになるのを必死にこらえて、わたしは控え室に戻った。オーネットは吹くのをやめ、にやりとした。二分たって、デクスターが部屋にきた。ひとことも、オーネットには悪態をつかなかったよ。『調子はどうだ、オーネット』(バードの後継者をもって任ずる)ソニー・スティットもきた。『やあ、いいサウンドだな』それまでは相手にもされていなかった」

リー・コニッツ

「わたしの発想は地味でね、いろいろ考えながら、違うサウンドを見つけつづけることだ。のどの開きを広げて、両唇を噛むダブルリップにしてみたり

(略)

「毎日毎日、新しくはじまる感じがする。楽器を手にして、単純な音を出し、前の日のことで覚えているものを全部やり直し、もっと上へと進めてみる。やらないのは、前の日につかんだ音をつかまえようとすることだ。(略)

晩年のズート・シムズを見たとき、若いころと同じヒプスターみたいに吹こうとしていた。正しいことかって、わたしは思った。人生の終わりを迎えた男みたいに吹かなくてはって。自分の音楽とひとつになりたいなら、自分の現実と向きあって、いまやれる最高の演奏をし、充足をはかることだろう。若手と張りあってスウィングしたり、熱くなったり、速く吹いたりするのではなく、たとえ最低の力しか出なくても、いいメロディを吹くよりも意味があることはあるかね」(略)

 「ステージにあがったとき、わたしには吹こうとする最初の音は何かなんて分からない」とリーはいう。「あるのは強い思いだ。これまでの年月、ずっと実現しようとしてきたものだよ。ものすごくうまくいっていると、いい音が自然に生まれ、音が音を生む感じになる。わたしはただそこに立って、それを楽しめばいい。一度もきいたことがないという感じだ。意識下のものが出るんだね。いつも願っている状態だ。派手でなくていい。ずっと低い演奏のレヴェルで吹いていても満足感はある。そのときの自分にやれることを全部知ったうえでね。何よりもだいじなことだよ。どんなレヴェルでも楽しめる自分が好きだというのは」

2010-06-12 言文一致体の誕生 /橋本治 このエントリーを含むブックマーク


失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生

(失われた近代を求めて 1)

作者: 橋本治

出版社: 朝日新聞出版 発売日: 2010/04/20

『愚管抄』

 面倒臭い話をするとなれば、意味の凝縮された漢語を使うしかない。「それだけだと分からない」と思っても、まだ「明確に論旨を通すための日本語」というのは、存在しない。(略)漢文脈と和文脈をくっつけて一つにしてしまったら、「難解と曖昧のドッキング」ということになってしまう。(略)

 「和漢混淆文だから分かりやすい」などというのは幻想で、慈円の『愚管抄』は、「普段に流通するような日本語で面倒臭い話をする」という、当時的にはまだ存在しなかった前衛的な試みを結果的にやってしまっているものだから、「はて、この文章はなにを言っているのだ?」と、たんびたんびに頭を抱え込まなければならなかったりもする。

「きっと慈円は“漢文は難しいから、もっと分かりやすい和漢混淆文で書こう”と思ったのだろう」と考えるのが「一番素直な理解」のようにも思えるが、そうではない。慈円は、そのような単純な前提に立ってはいないし、そのように単純な理解もしていない。もっと違う前提に立っている。

 『愚管抄』の内容は「漢文で書かれてしかるべきもの」で、慈円はもちろん、その本来に従って、漢文で『愚管抄』を書ける人である。にもかかわらずこの人は、それを和文脈の和漢混淆文で書いた。

[「漢文の翻訳体の創造」でもあり、「あとがき」には「翻訳の苦労」が書いてある]

[「鎌倉時代の東大学長」慈円による]『愚管抄』は、「歴史に無関心になってしまった学生達の目を、ちゃんとした歴史理解に向けるための入門書」なのである。

 だから、「あんた達の興味を惹くようにおもしろく書いた。しかし、いっぱし知識人の己惚れを持っているあんた達は、“おもしろい=下らない”と考えるだろう――内心では“おもしろい”と思いながら。これはこれで下らなく書いたが、言っていることは確かなのだ。そこのところを心して読め。それで“ちゃんと知りたい”と思ったら原典を読め。読んで現実に立ち向かえ」と言うのが、『愚管抄』なのである。

(略)

 慈円は「現実に立ち向かえ」と言っているのだが、それはいかなる「現実」か?

(略)

慈円が『愚管抄』を書く時期は、鎌倉幕府と京都の朝廷の間に承久の乱が起ころうとする「危機の時」なのである。

 慈円には、「自分のやるべきこと」がはっきりと分かっている――「人の関心を歴史に向かわせること」である。そのために慈円が具体的になすべきことは、「歴史ではないが、人の関心を歴史に向かわせるもの」を書くことである。慈円は、それを実現するためになにが必要なのかも、具体的に分かっている――文体の創造である。だから、「かなで書く」ということを、慈円は選択する。 驚いたことに、慈円が「かな文字を使った和文脈で『愚管抄』を書く」という決断をしたのは、「歴史を分かりやすく書くため」ではなかったのである。「今までの“歴史”とは違うものを書こう(そして“歴史”に目を向けさせよう)」と思って、「今までの文体とは違う文体」を選んだのである。

『平凡』ニ葉亭四迷

[ニ葉亭四迷が翻訳した]『あひびき』の文章に衝撃を受けた田山花袋は、「こういう文章もあるんだ!」と思った、「言文一致体という固定された文体がある」派の人間である。だから「既に出来上がっている」と思われる仮想の模範の中に、自分の思考――あるいは「思いの丈」を押し込もうとしている。それがあるから、途中で文章が息苦しくなる。「不器用」とは、そうしたことである。

 一方、『浮雲』の初篇から二十年がたった『平凡』のニ葉亭四迷は、見事にこなれている

『平凡』の語り手である《私》が書き始める半生記は、当たり前の文学者が書くような「力んだもの」ではないはずなのである(略)

もう「文学の外」に出てしまった人間を通して、文学者流の「力んだ人生」とは違った、普通の、そして当たり前にリアルな人間像を造形しようとしたのである――そのことによって、当時流行する《自然主義》なるものに、一撃を加えようとしたのである。それが自身をも痛撃することになるのだということを、重々知りながら。

 《……が、待てよ。何ぼ自然主義だと云って、斯う如何もダラダラと書いていた日には、三十九年の半生を語るに、三十九年掛るかも知れない。も少し省略ろう。

 で、唐突ながら、祖母は病死した。》(『平凡』七)

 なんという素敵な展開なんだと、私なんかは感嘆してしまう。(略)

 《……が、待てよ。》以下は、普通ならいらない。ただ「×年後、祖母は死んだ。病死である。」ですむことだ。しかしそれをすると、妙に取り澄ました感じになる。それまで続いて来た文章のトーンを生かすために存在するのが《……が、待てよ。》で、この文章を書く「《私》の現在」の挿入は必要になるのだろう。そして、《で、唐突ながら、祖母は病死した。》というピリオドを打って、そこから話があらぬ方へ行くのかというと、そうではない。「祖母が死んだ日の話」へと続く。(略)

 『平凡』という小説は、今の我々が思うより、ずっと新しい。もしかしたら、それが書かれた百年前の明治四十年の段階よりも、この今に於いてより切実な「現代小説」であるかもしれない。

[『平凡』の最後に置かれた「文学への絶望」は]あくまでも、作中人物である《私》の絶望で、独白体で書かれてはいても、『平凡』は二葉亭四迷の私小説ではないのだ。ここに書かれていることは、二葉亭四迷=長谷川辰之助の事実に沿ったものではない。これは、私小説に見せかけたフィクションなのだ。

彼にとって、「遊びがある」ということは真実で、それこそが彼の《実感》なのだ。ところが、「遊び」の分からない連中は、「実感から遊離した“自称の真実”ばかりを書いている。「真実への実感」によって「遊び」を存在させる二葉亭四迷からすれば、その真実を排除して「実感」さえも仮構する文学などは、「浅ましい」の極みだろう。だから、最後の一文へ至る――《況んやだらしのない人間が、だらしのない物を書いているのが古今の文壇の》とは、「私は分かっているが、お前達は分かっていないだろう」という挑発なのである。

通り相場として、『浮雲』は「日本初の言文一致体小説」ということになっているが、そうだろうか? そんなことよりもまず、『浮雲』は明治二十年当時の現実に対して片っ端から皮肉やからかいをぶつける「日本初の現代小説」で、それは実質に於いて「悪態小説」と言うべきものだと考えた方がいいと思う。(略)

 ところが、その話が進むに従って、主人公の文三は追い込まれ、作者の筆もこれをからかう余裕をなくしてしまう。

[失敗を自覚した四迷は二十年間沈黙する]

『平凡』は、「作者の経験したこととは違うことを、技巧をもって、自然主義とは別種のだらだらした文体で書いた小説」になっている。その文体こそが、戯作の饒舌を止揚させた「彼の言文一致体」と言うべきもので、これを書くことによって二葉亭四迷は、単調なる自然主義へ挑戦する。だからこそ、その最後に至って「文学への絶望」や「拒絶」を歴然とさせてしまうのだが、一体彼は、なにに怒っているのだろう?

『浮雲』に始まり『平凡』で終わる彼の小説家としてのあり方を一直線に結んでしまえば、「こんな現実は嘘っぱちだ!」と喝破出来るような小説を書きたかったようにも思える。しかし、彼が最後に書いた小説は、自然主義的私小説のパロディであり、と同時に「完璧なる架空の私小説」という高い完成度を持つ小説である。だから私は「これで二葉亭四迷はなにを訴えたかったのだろう?」と考える。この完成度の高い小説は、不思議な形で「なにか」を明らかに訴えているのだ。

2010-06-08 ロックで独立する方法/忌野清志郎 このエントリーを含むブックマーク

出版時期のずっと前、2000年のインタビュー、つまり、あんなことがあったから出たわけで……、未だに表紙は直視できません。一年経ってようやく読もうという気分になれた。肝心な話については長文引用になってしまった(これでも削った)。


ロックで独立する方法

作者: 忌野清志郎

出版社: 太田出版 発売日: 2009/07/29

崩壊の真相

「自然消滅」とか「天寿を全うした」とでも言うしかない。確かにギクシャクはしてたけど、何か決定的なトラブルや摩擦があったわけじゃないんだよ。(略)やっぱり最終的には、オレと仲井戸さんとの関係が大きかったかもしれない。(略)[数年前から自分のスタイルでやりたいと思っていたところに、新井田耕造が脱退し]チャボの中で弾けたんじゃないかな。ひとつの決心がついたというか。

 新井田さんが辞めたのは「時代」のせいもあったかもしれない。(略)

ドラマーはリズムボックスを聴きながら叩くっていう、ちょっと倒錯したスタイルが定着してしまった。(略)アナログなリズム感覚に変調をきたしたというか、彼の好きだった「たまった感じ」みたいのがズレてきちゃったというか……。(略)

[『RAZOR SHARP』の前、清志郎とG2抜きの“チャボバンド”(&春日)のツアーが楽しかったリンコさんが次のアルバムは春日をプロデューサーにしたいと言い出し]

春日といえばとにかくドラマーに人一倍うるさいタイプだから、それで新井田くんと揉め始めちゃってね……。まあ、いろいろあったんだ。

 オレとリンコさんの関係っていうのも、確かに不思議な関係かもしれない。なにしろもう当時で20年近く一緒にやってきたわけだし、ある種兄弟みたいなものだ。(略)で、RCが休業に決まった時点で、リンコさんの中にはチャボバンドに「移籍」しようという思惑もあったんだと思う。

ところが、チャボにはまったくその気がなかったみたいで……。

 そのへんはなかなか微妙なすれ違いなんだけど、仲井戸さんはああいう人だから、きっと「清志郎からリンコさんを奪うわけにはいかない」ぐらいの気持ちがあったのかもしれない。記憶は確かじゃないけど、いつかどこかでそういうことをチラッと言ってたような気がする。そういう人なんだ。

(略)

オレとチャボは仲よくて、オレとG2も仲いいけど、チャボとG2は仲悪い……と、バンド内がそういう複雑な関係になっていく。リンコさんともだんだん仲悪くなっちゃってたな。長い間にはいろいろあるさ。

(略)

[『RAZOR〜』や『カバーズ』での]試みもすべては危機感があったから。でも、「いよいよダメか」って時は、もう20年もバンドをやってればコミュニケーション以前にわかっちゃうものさ。そう感じたのは、確かレコーディングの最中だったと思う。(略)

[正式な解散の一年前]G2はもう音楽があまり好きじゃなくなってた。[長野のスキーロッジにこもり、夏場はそこを貸しスタジオにしていた。]

「辞めてもらうことになっちゃったんだけど……」と話を切りだしたら、一応驚いてはいたけど、薄々わかってた感じだった。少なくとも「まだやる気がある」という様子はなかったから。でも、それも仕方のないことだ。(略)

解散はスタッフや関係者の間でも暗黙の了解事項だった。(略)むしろ驚いてたのは、以前の関係者。破廉ケンチとかサカタとか。オレんちに押しかけてきて「もう一度考え直したほうがいいんじゃないの? しばらく休業ってことにして、また復活するためにオレが頑張るから」って言う。だから「いや、頑張らなくていいんだよ。やっとやめられたんだから。いいんだから頑張らなくって」ってなだめた。(略)

その時はもう「ああ、問題がいっぺんに片づいてスッキリした。あんな面倒くさいやつらともう一緒にやらなくていいんだ!」っていう解放感があった。

 もちろんそれだけじゃないけどね。なんて言うか、確かに失恋した時の気分に似てたな。バンドに失恋したんだよ。「オレのせいじゃないのにな」っていう後ろ向きの気分と「オレのせいじゃないんだから」っていうサバサバした気分が、複雑に絡み合ってて。(略)大袈裟に言えば「身を切られるような思い」「自分の中にぽっかり大穴が空いた気分」もあった。ラクになったけど、つらい。つらいけど、ラクになった。

(略)

 タイマーズが楽しかったのも、ある意味で無責任だったからだ。最初からどうせ一過性の活動と決めてたから、それを維持しなきゃいけないプレッシャーとも無縁だった。その点がRCの場合と決定的に違ってた。

(略)

[『パパの歌』TV出演用の即席バンド2・3’s]

もうRCの二の舞はごめんだっていう気持ちがあるから、あくまでもソロ活動のためのバンドと割り切ってた。「オレがソロで君たちはバックなんだ」っていう暗黙の了解があるはずなんだけど、ツアーで回ってるうちにバックの連中が「ここはこうした方が……」ってアイデアを出すようになる。で、オレもそこはソロとしてもっと仕切りゃいいのに「そうだなぁ」なんて受け入れちゃう。で、気がつくとやっぱりいつの間にかバンドになっちゃってるんだ、不思議なもので。

 結局、オレは厳密な意味でのソロにはなれない、根っからのバンドマン体質なのかもしれないな。

バンドマンと自転車

これまでずっと自分は「バンドマン」だと思ってきた。実際、そう名乗ってきた。自分が「バンドマン」以外の何者かだと思ったことは、一度だってない。自分は常にバンドのメンバーとして活動を続けてきたし、バンド以外の形で音楽をやりたいと思ったこともなかった。きっとこれからも、ずっとそうであり続けるはずだ。(略)

[仲間と自転車でツーリングすると]

全然意識が違ってくる。ちょっと辛くなっても、まだまだ余力があっても「とにかくみんなで目的地まで行かなくちゃ」っていう意識になるんだよ。(略)

なんかそういうところが「あ、RCがブレイクしてステージでむちゃくちゃ演ってた頃の『あの感じ』に似てんなあ」と思ったんだ。(略)急な坂道を登ってく時なんか、もう汗だくになって心臓が飛び出しそうになる。一瞬、このまま死ぬんじゃないかって思うくらい。そんな時、独りだったら「もうやめた」になるんだけど、仲間と登ってる時はそう簡単に勝手にやめられない。

 あの頃も「もうメジャーになったんだから、これ以上頑張んなくていいや」って独りなら思ったかもしれない。でも、みんなで思いっきり登り続けてた。二時間のワンステージ終わるまでに心臓が止まりそうなくらいにね。

 あれは独りじゃ絶対できない。あれは自転車のツーリングのパワーだったんだ。

30分泣いた……。

でもさ、オレはね、一生に一度、100万枚っていうのを売ってみたいんだ。音楽をなんにも変えないで、この感じで。

ファンとして新生RCを設定した春日博文

パーティーの帰りか何かにふらりと立ち寄った、さして面識もなかった売れっ子ギタリストが、RCの現状を目の当たりにするやいきなり「オレがギター弾いてやる。いいドラマーも付ける」ってわけで、一挙に新生RCの基礎工事をしてくれちゃったんだから。(略)正式メンバーになったわけじゃなく、彼はただの「こうすればRCは新しく強力になれる」というサンプルを提示してくれただけだった。でも、それが決定的だったんだ。(略)[ミュージシャン同士]面識はなくても、密かにファンだったりすることは、よくあることだ。この“奇跡”は、春日がRCの個人的ファンだったからこそ起こり得たケースだろう。

栗鼠虎なう

確かにかつては大手レコード会社が音楽業界全体を牛耳ってた時代もあった。(略)もはや「レコードをつくってるだけの場所」と考えたほうがいい。(略)「プロダクション側が脅さなければレコード会社は動かない」というのが常識化してる。(略)例の『君が代』問題で揉めた時にも、昔からの友人で某プロダクションの社長のMに相談したんだけど、やっぱり「ポリドールはダメよ、脅かさなきゃダメなんだ、あの会社は!」って懇切丁寧なアドバイスをくれた。(略)

 オレもいろんなレコード会社を遍歴してきたけど、結局どこも同じようなもんだった。契約を結ぶ前は「もぉウチはロックだけは絶対どこにも負けませんから」みたいな調子なんだけど、中に入ればどこも同じ。(略)いかに会社を維持していくか、いかに社員を食わせるかだけの世界になっちゃってる。

(略)

[そんなシステムのアンチとして生まれたインディーズも、すっかりメジャー傘下]

 ようするにインディーズじゃなくて「インディーズ的な音」や「インディーズ風のスタイル」が、新しい売れセン商品として「インディーズ」の名前をつけてメジャーな路線に流されるだけ。ただし契約金ゼロ、製作費自己負担ってとこだけ「本物のインディーズ」だったりする。わけがわからない。

『君が代』とジミヘン

『TIME』の記者と自然にジミヘンの話になって、こちらが「アメリカじゃこんなこと問題にならないだろ。ウッドストックでとっくの昔にジミヘンがあんなことやっちゃってるんだから」って逆取材したら、「そんなことない。実はあの時、ジミヘンだっていろんな非難を浴びてた。ただベトナム戦争に国中がうんざりし始めてたから大きな問題にならなかっただけで、仮にあれを湾岸戦争の頃にやってたら右翼が大騒ぎしたはずだ」って答えてた。

客層

何年か前から、ステージで最後に『雨上がりの空に』を演らなくてもよくなったんだ。演っても昔みたいな盛り上がり方がなくなった。ようするに、ちょうどその頃に客が入れ替わったんだな。RCをひきずってない新しいファンが多数派になったってわけだ。

ラタイガミタイ

[あぶないファンレターの話から]

中にはネタにさせてもらったのもあった。汚い字で「初めてお便りします。私はキヨシローさんの裸体が見たいです。他になにも望みはないです。最近そう思い続けています」とかなんとか書いてある。普通じゃないと思ったが、その「裸体が見たい」ってフレーズは韻を踏んでるし、不思議な響きなんで「きみのラタイが見たい」って歌詞に使わせてもらった。

独立は自由か面倒か

独立する前の「自分には見えなかった問題」とか「自分には関係なかった問題」ってのは、ようするに「自分ではどうにもならない問題」だった。それが「自分でどうにかしなきゃならない問題」になってくるわけだ。それはつまり「自分でどうにかできる問題」ということだ。それを「自由」と呼ぶか「面倒くさい」と呼ぶかは、本人の独立への覚悟や意識が決める。

  • 余談

イヤな仕事を断る場合「法外なギャラをふっかける」という方法があるが、たまに相手がOKして失敗する。その一例が陽水の「お元気ですか〜」CMですって。

2010-06-06 生物多様性〈喪失〉の真実 このエントリーを含むブックマーク

エコ同様、「生物多様性」も食い物にされているわけDEATH。


生物多様性〈喪失〉の真実――熱帯雨林破壊のポリティカル・エコロジー

作者: ジョン・H・ヴァンダーミーア,イヴェット・ペルフェクト,新島義昭

出版社: みすず書房 発売日: 2010/04/21

ボッタクリ「緑の革命

1960年代に施行された一連の政策の総称で、これにより、主として先進国で開発されたこの近代農業システムは、「改良された」作物品種、化学的農薬、肥料などを含む技術パッケージの形で南側諸国に輸出された。緑の革命推進者たちの主張は、この近代農業システムは南側諸国の農業生産を変貌させ、何百万もの人々が人口過剰の結果としての絶え間ない飢餓に陥る危険から救うことになる、というものだった。だが、いまも世界規模で蔓延している飢餓は貧困の結果であって、人口過剰の結果ではない。これについては、有り余る証拠が当時すでにあったし、いまでもある。緑の革命の究極の目標は、農業に必要な仕込み材料(種子、殺虫剤、肥料など)をさばくための海外市場を開拓することであって、飢餓と闘うことではなかったのだ――そして、実際、緑の革命の技術は、飢餓をなくすというよりも、悪化させる傾向があったのである。

[しかも同じ研究機関が遺伝子組み換え作物による「緑の革命2」で再度ボッタクリ中]

森林再生サギ

[「伐採して放置された」地域が自然に回復しているのに比べ、「森林再生がおこなわれた」地域では製紙用の成長が早い樹木を植えたプランテーションができている]

これが「森林再生」と言えるのだろうか。(略)何もしないよりもはるかにひどいような気がする。何百種もの樹木、またそれを食糧としている無数の昆虫、計り知れないほど多様な落ち葉などの中で生きている数えきれないほどの生きもので構成されていた森林が、単作のプランテーションに変えられてしまっている。生物多様性の損失はほぼ完璧になってしまった。

(略)

[確かにプランテーションにより自然林伐採が減る一面はあるだろうが、プランテーションを「森林再生」と偽ることで森林伐採の批判をかわそうという会社側の目論見は確か。コスタリカ政府が森林再生には税金を免除しているので、ストン林業社は建材用樹木プランテーションを「森林再生」事業だと主張している。]

「生物多様性」利権

 雨林破壊に関する近視眼的でエリート的な見方は、残念ながら、世界の熱帯雨林が失われていくことに歯止めをかけようと真剣に望んでいるというよりも、生物保全の分野における肩書きや、潜在的な資金提供者とのよい関係を保つのに都合のよい意見の場合の方が多い。

バナナ、チョコレート、コーヒー、トマトといった、あって当然と現在では思われている多くの食品や薬の原料植物などは、もとはと言えば、熱帯の生物多様性を利用して一儲け企んだ起業家、海賊、政府の思惑からもたらされたものなのだ。(略)現代の薬品の多くも、雨林から採取した植物性原料で作られているのである。(略)

[この図式は継続しており]

製薬会社が、市場に出せる製品の原料がないかと、いまも残っている熱帯雨林の中を探し回っている。コスタリカの国立生物多様性研究所の中心課題は、製薬会社に売ることのできる産物の探索なのである。

ポリティカル・エコロジー

主流派環境保護運動では、保護されて島状に残っている熱帯雨林を買い上げたり、新たに保護するために、大量の募金活動をしてきた。(略)

見渡すかぎり殺虫剤まみれの近代農業によるプランテーション、低賃金にあえぐ地方労働者、家族を何とか養う手立てを求めている大量の土地なし農民たちの存在する地帯という海に囲まれながらも、島のように熱帯雨林が点在する(略)

 私たちが提案するアプローチ、つまりポリティカル・エコロジー的戦略は、点在する保護林のあいだの土地と人々を重視したものである。

自然保護バックラッシュ

ジョン・テボークの『自然へのレクイエム』と、ジョン・オーツの『自然保護の神話と現実――アフリカ熱帯雨林からの報告』は、専門的な文献ではいくつか厳しい批判を浴びているが、概して、一般メディアではべた褒めされている。(略)こうした、いわゆるバックラッシャーたちの基本的論点は、地元の人々のニーズに力点を置いた環境保護計画はまったく機能していない、というものだ。(略)

彼らが述べているように、こうした計画の大半がまったく失敗だったという点では、これら著者たちの全般的な批判に大筋で同意見だ。だが、彼らの型どおりの結論――解決策としては、人間の影響を排除し、高度に保護された自然の生息地という、孤立した保護区域を設置するしかない、という意見にはどうにも納得できない。

 これらアナリストの意見のうち的を射ているのは、熱帯雨林破壊を減らすために工夫されたほとんどすべての環境保護計画がとんでもない失敗を重ねている、という点だ。だがその反面バックラッシャーたちは、これらの計画が地元住民を巻きこんでいようといまいと失敗していただろうという、明らかな(だが決定的な)事実を見落としている。(略)

ゲートで仕切られたコミュニティまがいの原生自然を夢見ている連中は、原生自然の破壊は社会政治的解決策を必要とする社会政治的問題だ、ということを理解する必要がある。(略)

最近の生態学的な研究は、森林の孤立した小区画を守るだけでは大規模な絶滅を防ぐには十分ではない、ということを強く示唆している。(略)

自然の生息地のばらばらな小領域のあいだに生物の拡散のための「回廊」を保障する環境計画が、種の長期保存のためには必須だということだ。(略)

 農民が雨林を切り倒しているというイメージは、過去においては強力なものだった。[そこから産児制限で全ては解決するという単純な主張が生まれたりもした](略)

 私たちはこれまで、土地をもたない農民たちの農業活動は多くの森林伐採に直接責任があるものの、それ自体が何か別の問題の結果なのだ、ということを証明しようと大いに骨を折ってきた。(略)政治経済的構造が、そもそも否応なく土地のない農民を生み出しているからだ。

熱帯雨林の復元力

かつて熱帯雨林というのは、大昔から存在し、とても想像もできないほど長い年月を経た幹の数々が塔のように聳え立つ、ゆるぎなき大聖堂のようなもので、人の手にはほとんど触れられることもなく、自然の有為転変にもびくともしない場所だという、ロマンチックな想像で彩られた場所だった。だが、この想像はまるで的外れである。(略)

[嵐、地滑り、自然火災、人間の活動etcで]

文字どおりの「手つかずの」森林を見つけることなど、およそ夢物語に近い。

これは重要な論点だ。熱帯雨林は、長期にわたる大量の物理的被害に耐えられる。見た目は脆弱のようだが、実は復元能力が高いということも、現在ではわかっている(略)

大きな嵐の後でも、地滑りの後でも、小作農の農耕の後でも、ちゃんとまた元の姿に成長してくる。土地のない農民が森林の小区画を伐採して二年ほどそこでトウモロコシを育て、それからその場所を放棄する、ということをしても、長い目で見た場合、ほとんど影響はない(森林はちゃんと元どおりになる)。しかし、バナナ会社が物理的に土壌の構造を変え、化学的に土壌の成分を変え、生態系全体を殺虫剤まみれにしてしまうと、その影響ははるかに大きい。そして、一部の土地でもセメントで覆ってしまうと、もう、よほどの長い年月をかけないかぎり、熱帯の森林として回復することはないだろう。

冬と水不足がない熱帯雨林地域は農業に適していると思われがちだが

[酸性で有機物の含有量が低い土壌に対応して、熱帯雨林は自らの組織に栄養素を貯蔵している]

そこで、森林を伐採して燃やすと、植えた作物に、燃やした植物の中の栄養素がたちまち行き届く。

まるでさまざまな肥料を一度にまとめて与えたような効果が出る。すると作物は、最初はとびきりの収穫をもたらすが、一年目のシーズンのあいだに使われなかった栄養素は、やがてその土壌系から流出してしまう。二年目のシーズンになって初めて、その土地は「不毛」だったことが明らかになる。比較的安定した土壌の土地に住んでいた人が、こうした熱帯雨林地域に移住してきてこのパターンに遭遇すると、ことさらいまいましい気分になる。着いた最初の年はたいてい豊作に出くわすことができるので、ぬか喜びをしてしまう。ところが、かりに二年目に大不作に見舞われることはなくても、三年目か四年目にそうなることはほぼ間違いなく、そこで農夫は否応なく場所を変えて、森林の別の小区画を伐採するしかなくなってしまう。

 二番目の問題は、害虫、病害、雑草だ。(略)湿潤で高温な環境[は害虫や雑草にとっても天国]

熱帯雨林地域で農業を計画する際に従うべき一般原則が三つある。第一は、酸性度の非常に高い土壌では基本的な穀物の生産は試みるな、ということだ。第二には、最も貧弱な土壌では樹木を植えろ、ということ。第三には、多年生植物(たとえば調理用のバナナとか、果樹など、実をつけてから一年で枯れてしまうことのない作物)を、どんな農業計画の場合でも取り入れることだ。(略)

[一年生だと枯れている間に土壌から栄養素が流れてしまう]