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2010-07-31 作曲家・渡辺岳夫の肖像 このエントリーを含むブックマーク


作曲家・渡辺岳夫の肖像 ハイジ、ガンダムの音楽を作った男 (P-Vine Books)

作者: 加藤義彦,鈴木啓之,濱田高志

出版社/メーカー: スペースシャワーネットワーク

発売日: 2010/06/18

「巨人の星」

[担当P・佐野寿七談]

岳夫さんは3種類のピアノスケッチを書いてきてくださったんですよ。Aパターンはテンポの速いマーチ風、Bパターンは童謡に近い従来の子供向け、Cパターンはテンポを無視した旧制高校の寮歌風。僕らは迷わずAと答えて、岳夫さんは一週間でテーマ曲「めざせ栄光の星」を書き上げました。社内の反応も良く、巨人軍の広報からもOKをもらったんです。ところが肝心のスポンサーからNGが出ちゃったんですね。(略)

「ウチは日本酒が好き。でもこれはスコッチウイスキーだ」と。自分たちが求めているのは「蒙古放浪歌」だと言われました。[わざと野暮ったく作って、OKに](略)

丸山明宏(現・美輪明宏)さんに歌ってもらったりもしました。

「キャンディ・キャンディ」

[堀江美都子談]

レコーディングの日に、先生がスキップしながらスタジオに入って来られたんですよ。本当に。どうしちゃったのっていうような感じで(笑)。あとで聞いたら明け方に曲ができたらしいんですよね。ハイになられてたみたいで。「ミッチ、これはね、100万枚売っちゃうからね」って言って。

松山祏士談

僕と先生との間柄は師弟関係という感覚ではなく、早い話が共同経営者だったと認識しているんです。メロディーというものは、霊感で生まれるもので、それはたいへんな才能だから、僕のような外野がどうこう言えるものではありません。ただ、こちらのテリトリー(アレンジ作業)に入って来られたら、それについてはこちらに任せて欲しいというところがありました。そこは先生も承知されていましたね。

(略)

岳夫先生の書くメロディーは、とてもオーソドックスなんです。先生は出身がドラムでしょう? でも、それを人から言われるのがいやだったんですよね。先生がお書きになる譜面には、絶対にシャープやフラットがつかないんです。これは褒め言葉で言っているんですけれど。

 いわゆる「ハ長調」なんてすね。でも、あのお方の「ハ長調」というのは、普通の人がいうところのそれとは違って、無駄なものを削ぎ落としていった先の「ハ長調」なんです。メロディーにつく和声も常識的な三和音じゃないということがわかって、一時期どうアレンジすればいいか悩みました。

 それで、「ここ、(和声の重なる順序を)こうしたらどうでしょう?」と聞いたら、「いや、違うんだよね」とくるから、違うというなら具体的なものがあるだろうと思って「どうしたらいいんでしょう」と聞き返すと「それを考えるのが、あなたの仕事でしょう」とこうくるわけなんです(笑)

(略)

メロディー譜に関しては岳夫先生が責任をもつわけです。ところが、メロディー譜だけでは、一般的、商業的な価値を生むような商品にならなかった(略)レコードとして音源を確立させるには現場の色々な葛藤がある。その最終的な責任は僕がとらなくてはならなかったわけです。それこそトラックダウンも含めてね。(略)

録音のディレクションは僕もやっていましたが、最終的に営業をやってテレビ局と話をつけられるのは岳夫先生でしたから、やはり実質的なプロデューサーは僕ではなく岳夫先生です。

  • 山本直純

岳夫の父・浦人は直純の父の弟子で、直純は浦人の弟子。岳夫は自由学園になじめずすぐ大泉中学に転出したのだが、その理由のひとつがピアノを自在に弾きこなす直純の存在だった。

この頃の山本への、そしてピアノに対するコンプレックスは、その後も岳夫の中でしばらく尾を引いた

1979年「テレビ映像研究」フジテレビ・嶋田親一との対談

嶋田 ご存知の通りお父さんが渡辺浦人先生で、僕は実は浦人先生の方と先にお仕事をさせて頂いたわけで、非常に恵まれた家庭ですよネ。

 ここから渡辺岳夫論になってくるんだけど、この人はこの家に生まれていながら最初は作曲家を志望していなかった、ここらあたりが僕は、テレビというメカと渡辺岳夫という人間が、非常にいい形でフィットしたポイントじゃあないかなと思えるんです。だからこの人は物事にのめり込んでいきながらフッと冷静に見ることが出来るという

渡辺 僕は素人だという意識がずーとあるんでネ(略)音楽学校にも行ってないしネ別にそんなことひがんで言ってるんではないけど、もともと、音楽というものは全くわからなかったし、結局やることがないから音楽をやっちゃっただけでネ……。自分の中で、駄目だなという意識が何時も頭のどこかにありますヨ。

 直純なんていうのは音楽なんてもう手の内なのね………(略)

僕は怖いんだネ、いまだに怖い(略)こんなものでいいのか? ということで怖い。突然、コン、コンと抜けている部分、欠落しているものがあるようでね。(略)もっといけないことは[自分で作った曲以外は]ピアノも弾けないし、ギターも弾けないでしョ……。

(略)

渡辺浦人という作曲家の息子だから、生まれた時から天才教育を受けてもうピアノは弾ける、作曲は出来る、なんでも出来ると受け手は思っていたらしいけど、こっちは何も出来ない。

[テレビの現状批判]

渡辺 病根は深いヨ。(略)少なくとも文化事業であるということ、それに免許制ですよ(略)

視聴率の問題にしても、あらゆる問題にしても僕らのところに聞えすぎるヨ。一つ一つのもっているセクションがみんな垂れ流しのように下に流してくるんだ。だから自分のもっている仕事の一番大事な部分というものは、みっともないから下には流せないという、当然咀嚼していく部分というものがあるべきなんだヨ。

[低報酬批判]

渡辺 劇伴は賤業なんですネ。(略)ブッチャケて言いますとネ、貴方のフジテレビが開局した時、30分の僕の作曲料は1万5千円だった。いま20年たって60分番組の作曲料が8万円ですヨ、月に4本やって32万円。(略)

8万円の作曲家なんだよ、46才にして。もっとやすい人もいっぱいいる。(略)

テレビ映画の僕らの作曲料なんてものは1本3万円から4万円、1クール(13本)1回録音して39万か40何万ですヨ。(略)

嶋田さん、喰っていけないんだから……。まあ僕みたいに3本も4本もやっていてこの通りなんだからネ。(略)

何故喰べていけるかというと[アニメ主題歌レコードの印税のおかげ]

(略)

やっぱり“ハイジ”が外国で売れたのは嬉しかったですネ。実数80万枚いったんだから。

「アルプスの少女ハイジ」

[担当P・高橋茂人談。イスラム圏にも売れるよう]

ハイジの心を支えている宗教色をなくし、誰にでもわかるようにとようにと、視覚化できるものを考えました、その結果、ハイジとおんじが暮らす山小屋の後ろに、大きなもみの木を植えたわけです。(略)そういえば、あの木を何本にしたらいいか、岳夫さんと話し合ったことがあったなあー。風が吹き抜けるときに出る音は、木を何本にすればもっとも効果的かって。結局、三本にしたんですが。

  • 「白い巨塔」トリビア

第24回で太地喜和子が財前に紹介する学術会員選挙でのライバル「近畿医大のシゲトウ教授」が岳夫

2010-07-27 イラン人は神の国イランをどう考えているか このエントリーを含むブックマーク

イラン人15人の声を集めた本。


イラン人は神の国イランをどう考えているか

作者: アーザルナフィーシー,アッバスキアロスタミ,レイラアーザムザンギャネー,白須英子

出版社/メーカー: 草思社

発売日: 2007/02/22

はじめに

アメリカは何十年にもわたって、イランを激怒させても仕方のない行動をとってきた。その一つが、かの有名な大統領の所信表明演説における「悪の枢軸」発言である。わずか半世紀前、アメリカ人が国王モハンマド・レザー・パフラヴィー政権を断固として支えていたことを、イスラーム共和国は忘れるはずがない。国王の失脚後、アメリカは身の毛のよだつようなイラン・イラク戦争の期間中、サダム・フセインを支援し、対ソヴィエトのアフガン戦争ではスンナ派原理主義者グループに資金援助をし、9月11日以前には、イランの不倶戴天の敵タリバンと取引をしていたのだ。

 そういうわけで、イランのアメリカに対するわだかまりは、奇妙なことにアメリカがイランをどう見てきたかを映す鏡になっている。

 実際のイラン人自身は、イデオロギー化されたイスラームと衛星テレビ、石油による莫大な国家収入と動かしがたい貧富の差が奇想天外に交差する、もっとずっと複雑で矛盾だらけの現実のなかで生きている。かりに地政学的には厄介者、宗教的には硬化症と診断されたとしても、イランは実は25歳以下の人口が半分以上を占める、驚くほど若い国で、アメリカン・ドリームの現実化を含めた、近代的なものの導入に貪欲なほど熱心である。

ゲラーレ・アーサイエシュ

私は自分が白人だと思って育った。ところが、イランからアメリカに移住してみると、そうではないことがわかった。(略)

[イランでの]私の社会的身分は、見た目がどのくらい魅力的か、何を着ているか、どこに住んでいるか、欧米に旅行したことがあるかなど、もっとほかの要素によって位置づけられていた。

 アメリカでは、身分の定め方が違う。ノースカロライナ州の高校時代には、アフリカ系アメリカ人の男の子は付き合ってくれたが、白人からは相手にされなかった。大学では、自分が黒い眉、黒い目、色の黒い生き物であることを思い知らされた。記者になってからの私は、下町では受けがよかった。初めて就職したときの記者室の秘書は、市民権のない少数民族の私を自慢できないと言って嘆いた。(略)

イランが肌の色を気にしない国であるとしたら、それはほとんどだれもが同じ色だからだ。したがって、偏見は否応なしに経済、宗教、民族的血筋など、別の要素によって形成されてきた。これを認めることは、子どものときから自分はアメリカ人やヨーロッパ人と同じだと思い、アラブ人やユダヤ人、パキスタン人やインド人、トルコ人、クルド人、アフガニスタン人、ごくまれにはアフリカ系アメリカ人をも見下すことが習性になっていた私の人種偏見を丸出しにすることだ。(略)

学校では、アイルランド人を母親にもつ級友はちょっとした貴族階級扱いだった。いとこがイギリスヘ留学すると聞いたりすると、妬ましく思ったものだ。アメリカ人の友だちカロラインがテヘランのわが家にしばらく滞在することになったとき、家族全員が根掘り葉掘り話を聞きたくてうずうずした。(略)

 ペルシア高原への最初の移住者はアーリア族(アーリアン)で、これが「イラン」の語源になっている。イラン人は自分たちを整頓好きなドイツ人、したがって白人と同属だと考えている。西欧では、“アーリアン”という言葉は、ヒトラーや煽動集団を連想させるので、ほとんどほめ言葉にならない。ところがイランでは大違いで、世界に名の通ったカントリークラブヘのだれもがほしがる招待状のようなものである。地球上の支配階級へのこの漠然としたつながりが、イラン人が他の中東諸国の人たち、とりわけ7世紀に活気を失っていたペルシア帝国を滅ぼすという向こう見ずな行為をしたアラブ人を見下す気風をつくっている。

レザー・アスラン(宗教学者)

テヘランでは、「宗教指導者」とか「坊さん」を意味するペルシア語「アホンド」は侮蔑語だ。いかがわしい、あるいは卑劣な行為をする人に、「そんなアホンドみたいなことをするな!」と非難することもある。革命前は、宗教指導者はスーパーの行列でも、「お先にどうぞ」と言われ、レストランに行けば一番良い席をとってもらえたが、今では、お店に宗教指導者がいても、人々は腹だたしげな言葉をつぶやきながら、つっけんどんにそばを通り抜ける。(略)

イランの憲法には人種、民族、言語、ジェンダーの平等が明記されている。(略)国政すべては「選挙によって表明された国民の意思を基礎として」、つまり、権限を与えられた議会と強力な独立した行政府を樹立して、遂行されるべきであると明記されている(略)

 理論上、「ファギーフ」は国家の「イスラーム教的性格」を確保するローマ法王的な存在であると解釈されていた。だが、革命直後の混乱期に、イランの初代ファギーフであり、このポストを創案したルーホッラー・ホメイニー師の圧倒的なカリスマ性に操られた強力な既成宗教指導者集団によって、この「ファギーフ」の権限を飛躍的に強化するための一連の憲法修正や司法決定がなされたとき、この官職の管轄範囲は劇的に変更されたのである。(略)

 実際、このイスラーム共和国はイスラーム国でもなければ共和国でもない。この国は神教国でもないし民主主義国でもない。イランはそのいずれともまったく異なった状態にある。この国は、第三世界的ファシズムと宗教が奇怪に混じり合った“坊さん統治国”で、20世紀のファシズムと同様、ポピュリズムの予想外の進展によって、世界を当惑させる一例になっている。

メーランギーズ・カール

最初のうち、マネキンの衣装が一夜にして変わったことが、イラン女性にヴェールの着用を強要する重要な兆候とは思われていなかった。そこで体制側は、常套手段として、女性の顔や素肌の露出している部分に酢を吹きかけるようになった。

(略)

 1980年、イラン・イラク戦争が勃発した。この戦争は、イスラーム革命に負けず劣らずイラン人女性のアイデンティティを目の敵にした。少年たちが徴兵され、前線に赴く前に遺書を書かされた。彼らが殉教したあと、当局はその遺書を公開するのが常だった――殉教者のほぼ全員が、女性たちにイスラーム風のヴェールをきちんとつけるように命じていた。その命令はスローガンになり、都市部の壁に書き付けられた。「姉妹たちよ、おまえのヴェールは私の血よりももっと効力がある。殉教者より」

ローヤ・ハッカキャン

 1970年代には、「奴隷」、「苦悩」、「愚かな群衆から受ける苦しみ」などという言葉は、私たちの家族のほぼ全員に、ずしりと響きはしなかった。みんなで「来年はイスラエルで」と誓い合い、口では言うが、絵空事であることを知っていた。家族は乳と蜜の地を夢見るが、目が覚めたらテヘランにいたいものだと思っていた。ビジネスは好調だったし、企業家であるおじたちは、遠い昔のことのように思える歴史に束縛されたくなかった。ほぼ半世紀のあいだに、イラン在住の約十万人のユダヤ人は、国会に自分たちの選んだ代表を送っていた。ユダヤ人はとうとう、自分で選んだ住宅地のどこにでも住めるようになり(略)ユダヤ人を指す「不潔」という侮蔑語も、巷ではめったに聞かれなくなっていた。イランは、これまでの長い歴史のなかで、ユダヤ人に対してもっとも好意的になりつつあった。(略)

当時の何が私たちをイランから追い出したのだろうか?1979年の革命前夜に、私たちの戸口の向かいの壁に見えた、ナチスドイツの鍵十字のせいだったかのか?(略)

1984年にも、同じように、学校のトイレの使用を、宗教によって別々にせよという政令が出された。ある朝、私たちのクラスが校庭で分列行進をしていると、トイレの上に「ムスリム専用」という標示を取り付けている男たちが目に入った。最後の二区画には、「非ムスリム専用」という標示が付けられた。壁の鍵十字しるしのときと同じく、その標示ははじめ私たちを不安にしたが、それもまた、忌むべき標示以上のものにはならなかった。私たちティーンエイジの女の子には、そんな標示に黙って従うのは“ださい”ことだという暗黙の了解があった。みんなそんな標示を無視した。(略)

私たちがイランを出たのは、新体制――戦争と原理主義体制下の生活が、しだいに耐えがたいものになりつつあったからだ。キリスト教徒であろうとユダヤ人であろうと、だれだって国外脱出をせざるをえなかったであろう。(略)

 そういうわけで、中東全域で、イスラエル以外に、今なおもっとも大きなユダヤ人コミュニティーがあるのはイランである。ユダヤ人はイスラーム教徒が存在するはるか前にイランにきていたのである。21世紀初頭になっても、約二万人のユダヤ人がこの国に住みつづけている。

2010-07-20 高田渡の父・豊 このエントリーを含むブックマーク


高田渡と父・豊の「生活の柄」

作者: 本間健彦

出版社/メーカー: 社会評論社

発売日: 2009/12

一代で財を成した高田渡の祖父はアノ星製薬株を大量購入して大損。さらに干拓事業で失敗。渡は新潟干拓だと思い込んでいたが、実はフォークジャンボリーで御馴染みの中津川だった。

父・豊が学生時代、仏語を個人教授してもらったのがアナキスト石川三四郎、関東大震災後石川宅を訪ねると検挙されており、危険を察した豊は郷里へ。再度上京後は佐藤春夫門弟として新鋭詩人の仲間入りするも、破門され挫折。京都で弘文堂入社、一番仲が良かったのが富士正晴。戦時勤務していた「日本海事新聞」の退職金は新円切替でパーになり、空き家になっていた郷里の300坪の屋敷へ。壁紙売り・養鶏・山羊乳業・牛乳販売から芸妓就労斡旋所や保育園まで。妻・信子が57年48歳で癌死、家屋敷を処分して借金返済すると豊は四人の子[驍(たけし)18歳、蕃(しげる)16歳、烈(いさお)12歳、渡4歳]を連れて上京。引っ越す毎に落ちぶれ、かつては町長選にも立候補した男は、上野の浮浪者収容施設に流れつく。そこから深川の父子寮へ。長男は独立しており、次男と二人でニコヨンに。

 渡は中学卒業後タイヤ工就職が決まっていたが、知人の紹介で『赤旗』を印刷していたあかつき印刷の文選工となる。三鷹の都営団地に移って四年目の67年豊は62歳で死去。渡18歳。

夕刻、夕飯の仕度が出来たので、「お父さん、御飯が出来たよ」と蕃が呼びに行ったところ、すでに豊は死んでいた。(略)

通夜の席で渡は大声で泣き続けた。あまり泣き止まないので、[従兄弟の]中尾直樹が「渡君、少し散歩でもして来いよ」と言うと、渡は泣きながら外へ出て行った。そして団地の前の通りの向かい側にあった町工場の角に立ち尽くし、その夜、遅くまで泣き続けた。渡の号泣は、一棟置いた豊の通夜を営む四階の団地の部屋まで寒風に乗って聞こえてきたという。

父の死後、佐賀の叔母・香の元で薬局店を手伝いながら定時制へ。

圭一郎の話によると「じつは、この『魚つりブルース』の主人公は、鹿島の町にモデルがいたのです」とつぎのように語っている。

 「香おばあちゃんの家の隣の病院の院長先生が釣り好きで、日曜日になると朝早くから、家の前を流れている浜川に釣りに出かけていたんですね。渡さんと僕は、そんな先生の釣り人姿をよく見ていた。けれども先生がお酒の瓶を抱えて釣りをしていたかどうかは覚えていません。そのあたりは渡さんの創作じゃないかな……」。

69年7月、京都の渡を訪ねたシバ。事務所が「五つの赤い風船」のギャラをダンピングしたことに抗議して、渡は事務所を辞め、無職状態。

書店の配送、本屋の店番、漬物屋の店員、車の走行量計測など、何でもやった。たまたま知り合った『広辞苑』の編纂者新村出の孫の紹介で、改訂版作成の資料整理に従事したこともあった。

(略)

これは後の話だけれど、「80年代になり、フォークソングが忘れ去られ、生活に窮していた渡は、“俺、今、築地の魚市場で鮪運びやってるよ。しんどいけど面白いぞ”と言っていたことがありますよ」。ひがしのひとしから、そんな話も聞いた。

  • おまけ

ラビ・トリビア

69年に入って中山容が京都へやって来たことも、高田渡の生活を賑やかにした。中山と片桐ユズルは共に都立高校の英語教師仲間(略)

中山容と中山ラビの関係はフォーク歌手仲間たちには有名なのだが、ラビが中山の勤めていた都立高校の教え子だったということはあまり知られていない。中山ラビの話によると、「中山容は、英語の授業にボブ・ディランの『風に吹かれて』の詞を英訳しなさい」といった授業をする先生で、ラビは憧れてしまった。そのため中山容が京都の女子大の先生として赴任すると、高校を卒業したラビもあとを追いかけて京都へ行く。つまり駆け落ちである。[しかも容は妻子持ち]

2010-07-18 芝生公園は破壊された森 このエントリーを含むブックマーク


4千万本の木を植えた男が残す言葉

作者: 宮脇昭

出版社/メーカー: 河出書房新社

発売日: 2010/06/19

雑草は最も弱い植物

[農耕地ではどんなに草取りをしても雑草は繁茂するが、耕作放棄すると3、4年で消えてしまう]

雑草にとって人の手が入らない「最高の条件」のまま1年放置すると、短期一年生の耕地雑草よりも競争力が強く、草丈が高くなる二年生(越年生)雑草といわれるオオアレチノギク、ヒメムカシヨモギ、ヒメジョオン、また多年生のヨモギなどの路傍雑草が繁茂しはじめます。

 そして2〜3年経つと、セイタカアワグチソウや草原性のススキ、チガヤ、林縁生のクズやカナムグラが繁茂するようになります。

 こうして、あれほどしぶとく生育し続けて農家の人をてこずらせていた耕地雑草は、みごとに姿を消してしまいます。

(略)

 雑草は、たえず耕す、除草するという最も厳しい人為的干渉のもとで生き延びてきました。耕地雑草の戦略的な特性は、まかれた作物より遅く芽を出し、早く生長し、早く花を咲かせ、種子を結実させることで、これを「早産性」といいます。

 また、早く種子が落ち、軽くて容易に飛散するのが特徴で、これを「離脱性」が高いといいます。

 かつて人間が、野生植物から、ヒエ、ムギ、キビなどをつくるようになった際、種子を改良することによって早産性や離脱性の高い雑草の特性を克服しようと考えました。

 雑草は、人が触れるだけで種子がバラバラと落ちます。したがって、作物は草を刈ったり運んだりして動かしても容易に種子が落ちないように改良したのです。その結果、現在、安心して田畑で作物が栽培できているわけです。

ほそぼそと生息

「雑草」と呼ばれる野生の草本植物は、もともとはこのように定期的に冠水して新しい腐葉土が堆積するところ、あるいは山地で斜面が崩れて表土が絶えず堆積する断崖の下のような、富養ではあるが土が絶えず攪拌される不安定な立地に、ほそぼそと局地的に自生していたのです。

 しかし、人間が定住を始め、焼き畑や水田耕作で土を耕し、下草や落ち葉、人間や家畜の排泄物などを施肥するようになったことで、土壌に含まれる窒素を好む一年生の野生植物が、畑や水田の主として君臨するようになりました。

都市公園の原型は「荒れ野景観」

肉食を主とするヨーロッパの人々は、有史以前から家畜を林内に教牧して、下草、つまり“下の森”を食い尽くして破壊しました。そのために“上の森”も破壊され、森が失われてしまったのです。(略)

 そして、驚くことに、この破壊された風景こそが日本の行政機関が今なおつくっている都市公園の原型となっているのです。

 膨大な税金を投入してつくられる都市公園のモデルは、実はドイツ語の「Parklandschaft」。直訳すると「公園景観」ですが、これは家畜の過放牧で下草が食い尽くされて森が破壊された風景、いわば「荒れ野景観」を意味しています。

(略)

[本来の森が貧化して成立した芝生公園が、「モダンな市民の憩いの場である」と見なされて、明治以降、画一的につくられた]

管理不要な森

[自然の森は多層構造で]

互いに少しずつ我慢して共存しているのです。これが最も健全で、長もちのする土地本来の森の姿です。(略)

「場」を無視して単一植樹を行うと、管理費や維持費がいつまでも必要になるだけでなく、植物、森林そのものが長もちしません。森は主木ばかりでは育たないのです。(略)

[その土地にはない]いわゆる客員樹種を人工的に植林した単層群落では下草刈りなどの管理が必要で、自然災害に対しても大きな被害を受けやすくなります。[台風などで容易に倒れ洪水を引き起こす]

(略)

 それに対して、土地本来の樹種は、植えて3年も経てば管理費は不要です。時間と共に確実に生育し、多彩な防災・環境保全機能を果たす、土地本来の森になるからです。したがって、長期的には地域経済とも共生できる、真にエコロジカルな森です。

広葉樹は本当に金にならないか?

[広葉樹では金にならぬと針葉樹を植え] 管理を20〜30年続けてようやく木材として売れるようになったころ、はるかに安い外材が輸入されるようになって価格的に大きな差がつき、伐れば赤字、出せば赤字で、そのまま放置される植林地が増えてしまったのです。

 しかも、生物は弱ると子孫を増やそうとして生殖活動が盛んになり、より多くの花粉を飛ばします。

(略)

落葉広葉樹のケヤキなどは(略)胸高直径が80m以上の大木は、1本が教百万円から1000万円以上の値がつくということです。(略)

以前は「広葉樹は硬く、曲がりやすい」といわれていましたが、ノコギリやカンナなどの鋼もよくなっているし、今日ではいろいろな加工法で、あまり狂わない広葉樹材ができるようになったとドイツなどではいわれています。(略)

[広葉樹が金にならないというのは過去の迷信]

混植・密植の「宮脇式」

 植樹後2〜3年間は、年に1、2回、雑草を取る必要はありますが、その後は自然淘汰に任せ、森に育つのを見守ります。つまり、3年経てば、労力や管理費はいらないのです。あとは自然に任せるだけなので、まったく負担のない形でその土地本来の森が再生されていくわけです。将来、必要に応じて横枝は切っても、頭部は切りません。

生物多様性とは

ただ生育している植物や生息している動物の種数が多いという意味ではありません。人間社会にたとえていえば、火事現場のように野次馬など烏合の衆が集まるような、いわゆる不安定な立地に一時的に多くの種類の生物、植物が生息・生育しているのは見かけ上の多様性で、真の生物多様性ではありません。

 それぞれの地域で、持続的に安定した土地本来の自然の森やその周辺の草原、湿原などの総合システムの中でみられる、相互触発的でダイナミックな多様性であるべきです。

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2010-07-12 カフカの<中国>と同性愛 このエントリーを含むブックマーク


カフカの“中国”と同時代言説―黄禍・ユダヤ人・男性同盟

作者: 川島隆

出版社/メーカー: 彩流社

発売日: 2010/04

ミシェル・フーコーが論じるように、もとより男色という「行為」であった男同士の性愛は、近代に入って同性愛者という「種類」へと形を変えられた。その状況下では、自分が同性愛者に分類されることを恐れる心情(ホモフォビア)が広まり、ノーマルな男同士の関係はそのつど、自分は異性愛者であるというポーズを前提とせざるをえなくなる。(略)ところが、これに対して世紀転換期のドイツ語圏では、性愛的なものをも含む男同士の関係を「男性的な男性」の健全な文化として推奨し、ホモソーシャルなものとホモセクシュアルなものの連続性を可視化するような動きが起こったのである。

カール・クラウスの『万里の長城』

[若い皇帝と側近を苦々しく思っていた引退後のビスマルクは彼等の同性愛疑惑を示唆。ハルデン主幹の雑誌『未来』が記事にして皇帝は高官・将軍三人を解任。そのひとりモルトケ伯がハルデンを名誉毀損で訴え裁判に。その最中の1907年カール・クラウスは]

「女性的なものを男の中にまで求める者は『同性愛的』だとは言えず、同性愛的行為を行なっていても『異性愛的』である」。彼の考えでは、相手が同性であるという心理的抵抗を超克してまで男性のもつ女性的魅力を愛でることができるほどの「全き男性」は、「病人」としての同性愛者(=女性的な男性)の、むしろ対極にあるような存在なのである。(略)

[さらに1909年エッセイ「万里の長城」では「黄禍」が]

キリスト教文明の中で「とうに女になっている」白人男性に対する黄色人種男性の性的脅威として捉えなおされている。クラウスは、中国で出生率がきわめて高いらしいことを一つの根拠に、ニーチェ流の超人じみた性的強者としての中国人像を執拗に描き出す。(略)

中国で社会的に認められた「少年愛」とは男性が同性のもつ女性的な要素を愛するという行為であるのに対し、西洋の「同性愛」なるものは、性への罪意識にもとづくキリスト教道徳によって歪められた性生活から生まれた病理学の、そのまた落とし子であるというのだ。クラウスは、あいかわらず典拠不明の性風俗研究を参照しながら、中国では男性同士の性愛が上流社会に、ひいては皇帝の周辺にまで及んでいると語る。(略)

エッセイ全体の結論として、キリスト教道徳という名の「長城」(壁)で囲われているのは、実は中国ではなく西洋社会のほう(略)西洋文明の抑圧的な性秩序と、中国における解放的な性愛のあり方(とクラウスの考えるもの)とが対置され、後者の優越が説かれている

[マックス・ノルダウ『退化論』に代表されるように、西洋文化が病んでいるという強迫観念はまさに時代の空気であった]

エーレンフェルス

白人の社会が「黄色」の奔流に蹂躙され「モンゴル化」される希望を語ったのは、実はクラウス一人だけではない。(略)

性的豊穣を奨励したクリスティアン・フォン・エーレンフェルスの教えは、ただし決して性的放縦を擁護するものではなく、逆に「禁欲」の勧めを基調とする、むしろピューリタン的なものであった。(略)

単婚制のせいで白人という種は生物学的退化の危機に瀕しており、この状況を変えるためには単婚制からの「男性解放」が必要である。さもなければ、いずれ新たな「競争相手」、すなわち多婚制ゆえに日の出の勢いで増殖しつづけるモンゴル人種に敗北し、白人全体が「モンゴル化」される危険性があるというのだ。(略)

カフカはプラハ大学で、このエーレンフェルスに教えを受けた。

[マックス・ブロートは自伝で「大昔のような服装」でプラハの街中を闊歩する孤独な「奇人」として敬意をこめて描写している。彼の説は]

当地の市民社会で「抗議の嵐」を巻き起こし、さらにエーレンフェルスが自らユダヤ人の血を引いていることを認め、その事実を「誇りにする」と言明したために、反ユダヤ主義的な風潮を煽り立てることになったという。

ハンス・ハイルマン

[カフカが「中国人学者」のイメージを汲んだ『中国抒情詩集』編訳者]

 こうした帝国主義批判の姿勢にもかかわらず、というよりもその姿勢ゆえに、ハイルマンは「偏見を排した」中国像を提示するどころか、逆に一段と古い固定観念へ接続することになる。(略)

[中国民族は周以来停滞状態にあり]

「男らしくない」中国人たちが住まう「何も変わらない」平和な家父長制社会

(略)

多婚制の導入以降、公的領域からの女性排除と極端な男性支配が現出した(とハイルマンが考える)中国社会(略)

李白や杜甫などの詩人たちが皇帝とも個人的友誼で結ばれつつ「詩人同盟」を形成し、情熱的に同性間の友情を謳い上げているという構図であった。(略)

ハイルマンは、黄禍論に対抗してむしろ古色蒼然たる中国人ステレオタイプに依拠することで、結果的に、「非男性的な男性同盟」とでも言うべき二律背反的な図を読者の眼前に描き出したのであった。

 杜甫が李白に贈った詩に特別な愛着を示したというカフカもまた、その図を十分に意識しつつ中国詩集を読んだと見なすのが妥当であろう。

流刑地にて

[『流刑地にて』を寓話としてではなく、具体的事柄として解釈するのが現在流行。転換点となったのはW・ミュラー=ザイデルの研究]

『流刑地にて』というテクストが同時代の現実的状況にいかに深く結びついていたかを明らかにした。つまり、若き日のカフカが体験した世紀転換期はドイツ語圈において流刑を法制度に組みこむ可能性がにわかに現実味を帯びた時期に他ならなかったのである。(略)植民地獲得競争に出遅れた国ドイツは、もとより流刑植民地というものを所有しなかった。しかし1880年代中盤を境にドイツが植民地経営に積極的に乗り出すようになると、1890年代から20世紀初頭にかけて、流刑制度の導入は活発な議論の対象となったのだった。(略)

[カフカがプラハ大学で刑法を学んだハンス・グロースは浮浪者・アナーキスト・同性愛者などを植民地で自然淘汰に委ねることを提唱。刑法学者ローベルト・ハインドルは仏英等の流刑植民地を歴訪、当地の刑法制度を見聞し]

1913年、旅行記『流刑地への旅』にまとめた。[流刑囚や拷問装置の]豊富な写真資料を収録して現地の様子を生々しく伝えるハインドルの書物は、出版後まもなく大きな反響を呼んだ。カフカが『流刑地にて』を書く前年のことである。

『責苦の庭』

フランスのアナーキスト作家オクターヴ・ミルボーが1899年に出版し、1901年にはドイツ語に訳された(略)H・ビンダーは、『流刑地にて』がほぼ全編にわたってミルボー作品からのモチーフ借用によって成り立っている事実を徹底的に洗い出してみせたのだった。

(略)

ミルボーがドレフュス事件の渦中にあって執筆した作品であり、そこには反ユダヤ主義に狂奔するフランス社会への批判が結晶している。(略)カフカは同時代のユダヤ人の一人として、ドレフュス事件には強い関心を寄せていた。(略)カフカの描く流刑地で「フランス語」が話されている点は、ドレフュスが悪魔島へ流刑されたことを思わせる。

彼は二年間の別離を経て、とある中国南部の町でクララと再会する。この町には「責苦の庭」と呼ばれる処刑場があり(略)そこで凄まじくも多種多彩な拷問・処刑のありさまを見聞することになる。(略)憑かれたように残虐行為を求めるクララの姿には、ありとあらゆる拷問が行なわれる「責苦の庭」そのものが重ね合わされ、そのすべてが病気と死と腐敗する肉のイメージで染め上げられていく。そこでは主人公の白人男性から見た他者としての「女性」および「中国」が一つに融合している観がある。

(略)

[主人公を挑発するクララの言葉]

あなたはヨーロッパの色男でしかないのね。臆病で、寒がりの子猫ちゃん、カトリシスムのおかげで自然を怖がることと、セックスを憎むことを馬鹿みたいに教えこまれてしまったのね。あなたの中の生命の感覚は教会のおかげで歪められ、腐らされてしまったんだわ

2010-07-03 ジミ・ヘン…光と影・その2 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


ジミ・ヘンドリックスとアメリカの光と影 -ブラック・ミュージック&ポップ・カルチャー・レヴォリューション

作者: チャールズ・シャー・マリー,廣木明子

出版社: フィルムアート社 発売日: 2010/01/26

両親の離婚で二年間叔母に預けられた際、近くの居留地に住むチェロキーの血を引く母方の祖母からネイティヴ・アメリカンの受難の歴史と強烈な誇りを教えられる。幼い頃のジミーは極端にシャイで内向的。

 ハイスクール同様、彼は軍隊でも楽しく過ごせなかった。落下傘部隊の隊員たちは彼をぼんやりした妙なヤツだと思っていた。彼がギターを抱えて眠るようになると、完全にバカだと決めつけた。(略)

しょっちゅうからかわれ、いやがらせをされ、殴られた。ギターを盗まれ、隠されて、ひざまずいて懇願するまで返してもらえなかった。(略)26回目のパラシュート降下で背中の筋を違え、1962年の夏に除隊許可証を得た。

不遇時代

[ボビー・ウーマック談:R&Bツアーで一緒だった]

「ジミ・ヘンドリックスはのけ者にされていた。彼はとにかくすごく変で、格好もめちゃくちゃでさ。みんなが言うのさ。“あのマザーファッカーを見てみろよ、あれじゃ仕事になんかありつけねえ、あれじゃどうしようもねえ”ってさ。みんなまるでわかってなかったんだ。(略)

“ゴージャス”ジョージがバラードを歌っているのに、歯でギターを弾いたりする。するとジョージが振り返って言うのさ。“もう一度だけ言うがな、ジミ、今度お前がギターをくわえているところを見つけたら、本当にそいつを食わせるからな。これはオレのショーなのにオレの顔は丸つぶれだ。振り返ったら、マザーファッカーがギターを食ってやがるんじゃな”

(略)

[当時は]きちんと髪を切って、スーツにタイを締めてないと、使ってもらえなかったんだ。ところがヤツはひどいぼろを着ていて、慈善バザーで買ってきたみたいな服ばかりだった。それにいつも妙なアクセサリーをつけていてさ、伸び切った髪はぼさぼさだ。(略)

もちろん、あとになってから、みんな“くそっ、あいつはオレのバンドにいたのに!”って触れまわったさ。

のちにヘンドリックスが商業的なソウルの拘束からどんなに遠く離れていったにせよ、あるいは彼が“ペンギン・スーツ”や“フラッシュ・ゴードン・ショー”をどんなにバカにして語ったにせよ、ソウル・レヴューの厳しいレッスンは彼の中に残ったのだ。

(略)

ヘンドリックスはかつてマイケル・ブルームフィールドに「クラプトンを焼き殺してやりたい、あいつはリズムが弾けないから」と語ったことがあるという。

ヘンドリックスは束の間、キング・カーティスの下で演奏したことがあり(略)ヘンドリックスがお行儀よくしていたら、ニューヨークのトップクラスのスタジオ・プレイヤーで終わっていた可能性もある。(略)

[コーネル・デュプリーによれば]カーティスがアイズレー・ブラザーズのところからヘンドリックスを引き抜いてきたのは、バンドのサウンドをアップデートしたかったからで、それに当時は「ジミはアシッドな演奏はしていなかった……もっとR&Bだった。つまり、泥臭かった。つまり、ファンキーだった。つまり、彼はアルバート・キングもやれたけど、違う角度からとらえてた」。

ビートルズとシュープリームス

 ジミ・ヘンドリックスは橋を架けることなど不可能に思えた文化的深淵を超えて(略)[黒人のアメリカ文化]を崇拝するヒップかぶれのロンドンに到着した。(略)

[英国の若者が崇拝する偏屈な高齢ブルースマン達に実際に会って混乱したのは当然かもしれない、同世代同士でも齟齬があったのだから]

初めてニューヨークに逗留した際に、ビートルズは――間違いなく幾ばくかの性的戯れと刺激一般を求めて――ザ・シュープリームスを彼らのホテルのスイート・ルームに招いたが、ダイアナ・ロスと同僚が到着したとき、双方が唖然とした。シュープリームスはマリファナの煙がたちこめ、ジーンズ姿の四人の男が完全にラリってのびているのを目にした。(略)

[スーツと手袋と毛皮をまとい付き添いを連れた]シュープリームスはビートルズがこんなヤク浸りのクズだなんて信じられなかった。ビートルズはデトロイト出身の黒人娘がこんなにも“ご清潔”で“スクウェア”なのにショックを受けた。相手がこうあるべきという互いの概念が根本的な誤解に基づいていたのであり、出会いはほどなく双方の困惑の重みで崩壊した。デトロイト代表団はビートルズにイギリス人の“品格”とデヴィッド・ニーヴン風の懇勲さを期待し、ビートルズの方はシュープリームスはベッシー・スミスの歌の化身のような、淫らな地獄育ちのパーティ狂だと思い込んでいたのだ。いかしたモップ頭たちは完全に上昇志向の黒人プロレタリアートの野心に気づけずにいたし、シュープリームスのほうは白人のロックンロール・ボヘミアンをまったく読み違えていた。

白人がジミに求めた役

 ジミ・ヘンドリックスは対照的に、まさに直感的に白人のボヘミアンを、ことにイギリスの白人のロックンロール・ボヘミアンを理解していた。(略)

[ジミは彼らが求める]

“フラワー・ジェネレーションのエレクトリック・ニガー・ダンディ、種馬王かつ金の子牛、ぶっ飛びドープ・ミュージックの創始者、最も驚くべき可視の力”役を演じ、サイコーにハッピーだったのだ。だが、まさにこの種のロール・プレイングこそが、黒人オーディエンスによる受容を妨げた。(略)多くのアメリカの黒人がなんとしても振り払いたいと思ってきた類いのステレオタイプを正確に演じていた。(略)

 ヘンドリックスは実際けばけばしく、目立ちたがり屋で、明らかに麻薬を常用し、ブロンドに囲まれて写真を撮られるのが好きで、アメリカの黒人が黒人エンターティナーたちに要求するようになっていたある種の威厳、規律、自制をほぼ完全に欠いていた。

(略)

 ヘンドリックスに黒人の支持者は一切いなかったと言えば、それは神話に、しかもレイシストの神話に迎合することになる。「彼を発見するには新しい人種の黒人でなくてはならなかった」とボビー・ウーマックは語った。「だって会社は(黒人が)彼みたいなニガーをわかるとは思っていなかったからね。ところが、若い黒人が、ファンが彼みたいな格好をしはじめて、オレは思ったね。“なんてこった、黒人のヒッピーなんて初めて見たぞ”って」。(略)

[黒人もジミのレコードを買っていたがすべてポップ・チャートでカウントされていた]

ただ彼は黒人向けのラジオ局ではほとんど、あるいは一切かけてもらえなかった。局側は彼の音楽は既存のフォーマットにまったく収まらないと感じていたのだ。

クロスオーヴァー

[は黒人人気を確立した者が白人層に向けて売り出す過程を指し、黒人層の支持を失う両刃の剣である]

ボビー・ウーマックは彼の師であるサム・クックがクロスオーヴァーの落とし穴を強く意識していたことを覚えている。「レコーディングのときはクロスオーヴァーするために白っぽく聞こえなきゃいけない」とクックはウーマックに語った。「だがB面では黒っぽい音で基盤を守る。いいか、絶対にそれを忘れるんじゃないぞ」

(略)

[ジミには五年間のチットリン・サーキットでの欲求不満があったが、それを経験していないスライ・ストーンは積極的にR&Bの手法を利用し黒人白人双方に同時に接近した。やがてジミは黒人層との乖離に敏感になっていく。一方、マネジメント側はヘンドリックスの“名誉白人”の地位の重要性を認識しており]

「白人のマネージャーやらが言うんだよ、“そういうニガーたちと演奏するな。十四のガキはビビるだろう。可愛いイギリス人を戻すんだよ”ってね」(略)「すると、黒人たちは彼が白人の側に寝返ったと言いだす。」

スライ・ストーン

ふたりは知り合いだったが、親しくはなかった。スライはマッチョすぎたのだ。彼は男らしいというのは傲慢でクレイジーに振る舞うことだと思っていたが、ジミは違った。「こっちが“ヘイ・マン、調子はどう?”って声をかけても、彼は何も言わないで、ただ笑ってるだけなんだ」それでも、ヘンドリックスはスライがやっていることを強烈に意識していた。(略)

一度スタジオでロバート・ワイアットが作った曲のひとつにジミがベース・ラインを重ねると申し出たとき、その結果はラリー・グラハムがスライと演奏としてるときと驚くほどそっくりだったという(略)

[あるライヴで]冗談半分にスライの当時最新の1969年のヒット、「シング・ア・シンプル・ソング」のメインのリフをほのめかしたことさえある。

ヴードゥー・チャイル」

はまさしく、“ブルースの年代順の案内ツアー”となっている。レコード化された最初期のデルタ・ブルースから始まって、シカゴでマディ・ウォーターズ、デトロイトでジョン・リー・フッカーが行なったエレクトリックな実験へ、さらにはB・B・キングの洗練されたスウィングとジョン・コルトレーンの宇宙のつぶやき、そして最後には輝かしい自由な形態のノイズに行き着いて、それは擬音的に歴史とカテゴリーの溶解と崩壊を喚起している。当時はきわめてサイケデリックだと見なされたその歌詞は[チャス・チャンドラーのSF小説コレクションから吸収したもの]

  • トリビア

“アメリカ革命の娘たち”

[マイケル・ジェフリーがモンキーズとのツアーの仕事を取ってきてしまい]

チャス・チャンドラーは“アメリカ革命の娘たち”という右翼の圧力団体がヘンドリックスをツアーからはずすように工作したという作り話をでっち上げた。それで誰の顔もつぶさず、まことしやかに事を収めることができ

2010-07-01 ジミ・ヘンドリックスとアメリカの光と影 このエントリーを含むブックマーク

白人による「黒人音楽」でなければ白人層に流通しないという壁。最後の方では頭角を現しつつあったとはいえ、米国R&Bツアーでどさ回りをやっていた無名のジミヘンは、バラードを謳い上げる雇い主の後ろで「ギターに食いついて」顰蹙を買う「醜いアヒルの子」だった。ところが英国ブルースシーンでクラプトンをKOし瞬く間にスターとなって名誉白人状態で米国に再上陸。黒人でありながら白人ロックスターのように白人層に流通する不思議な存在に。


ジミ・ヘンドリックスとアメリカの光と影 -ブラック・ミュージック&ポップ・カルチャー・レヴォリューション

作者: チャールズ・シャー・マリー,廣木明子

出版社: フィルムアート社 発売日: 2010/01/26

人種差別vs青春の主張

[「アイム・ア・マン」「マニッシュ・ボーイ」etcはイギリスの青二才のブルース・ファンには大人気で、大人としての認知を主張する若者たちの欲求・関心事にぴったりフィットしていた。]

人種差別主義者の白人は伝統的に、どんな年齢の黒人でも“ボーイズ”と呼ぶ点にある。この曲の白人ヴァージョンの言外の意は「オレは男(そして、きみは女の子)、だからやろうぜ」だが、マディとボの場合のサブテキストは、「オレは男(だから絶対にオレをボーイと呼ぶな)」だ。

(略)

ブルースの陽気な肉欲と悲痛な社会的リアリズムが、思春期の男性のパワー幻想への熱い耽溺へと移し替えられてしまう。

(略)

テディ・ベアだの淡い恋だのお人形娘だのは、ホルモンが逆上しそうな思春期の男にはあまり魅力的ではない。彼らには、タフで訳知り顔のブルースのセクシュアリティ、そしてブルースを演奏する若い白人のパフォーマーのほうが、[アイドルポップより]ずっと魅力的だった。

UKブルース青年公式

イギリスのブルースバンドが経験する感情の全域は

A(自分が可哀想に思える)から

B(自意識過剰かな)を通じて

C(実はタフじゃないのにそんなふりをしているんだ)へ、

D(オレは怒ったぜ)

 娯楽産業は伝統的に、黒人のスタイルを“メインストリーム”に持ち込む役目を白人パフォーマーに担わせてきた。黒人のスタイルを白人にも受け入れられるものにし、最終的には武装解除するのだ。(略)

ボ・ディドリーは(略)断言している。彼とチャック・ベリーが演っていたもの、彼が今も続けているものは、ロックンロールと呼ばれていたが、白人が演りだしたとたん、「ヤツらがロックンロールで、俺たちはR&Bってことになったんだ」そして、R&Bは(アトランティック以外は)ゲットーを意味した。

(略)

リトル・リチャードは回想する。彼はもちろん、初期の雇い主の中でいちばんヘンドリックスに影響を与えた人物だ。

「それでオレたちは、[偏狭なレイシストに対処して]オレのイメージをクレイジーで奇抜にすることにした。大人がこいつは無害だと思うようなね。あるショーではイギリス女王の格好で現われて、翌日は教皇に扮したりしてさ」。

[ヘンドリックス伝記著者は]ミッチ・ミッチェルのヘンドリックスに対する“奇妙な軽蔑”や、ミッチェルとレディングの両方が“ニガー”や“クーン”といった言葉を毎日ふざけて使っていたことを挙げて、エクスペリエンス内にも人種的緊張が多々あったとしている。(略)

「ノエルはフォークストーンから来たんだ。黒人なんてひとりもいない土地だよ」ロバート・ワイアットは語った。「彼には悪気などさらさらなくて、うっかり口にしていただけだったんだよ」。要するに、ノエルもミッチェルもアメリカの黒人が何を不快に感じ、何なら平気なのかなど、これっぽっちも考えなかったということだ。

「ジミが5、6年早く生まれていた、きっと“若きブルースマン”のひとりになっていただろう」

[どさ回りでぱっとしない頃にマディ・ウォーターズ詣]

ヘンドリックスがニュー・エイジ・ブルースのテクニックを少々披露すると、悲しいかな、伝統からあまりに大きく逸脱してしまうことに関して、善意の遠回しのお説教が返ってきた。数年後、光り輝くスーパースターとして、ヘンドリックスはマディのほぼ同時代人であり、永遠のライバルであるハウリン・ウルフと対面し、この老人から公衆の面前で容赦なくこき下ろされた。ウルフはワウワウ・ペダルをシャミールがアラファトを嫌うように毛嫌いしていたのだ。ウォーターズとウルフは、ブルームフィールドやクラプトンの奇抜な演奏は大目に見ても、ヘンドリックスにはそれを許さなかった。彼らは結局のところ白人の青年で、道理がわからないのもしょうがない。しかし、ヘンドリックスはブラザーなのだから、ルールを心得ていてしかるべきなのだと。

ブルースの巨人の憂鬱

ジョン・リー・フッカーは、アンプのエコーを効かした一連のブルースのヒット・レコードを出し、それは文字通り電気がバチバチ音を立てるようなものだったが、彼は環境が変わればやることも変えるという姿勢で問題を解決した。黒人クラブでは、彼はスーツを着てバンドを率いて登場し、最新のソウル・ヒットのメドレーで口火を切って、エレクトリックーギターを弾いた。白人のフォーク好きのために演奏するときには、ドレス・ダウンし、アコースティック・ギターを持ってきてソロで演った。

(略)

[マディ・ウォーターズの1958年の初英国ツアー]

彼の獰猛なエレクトリック・ギターとオーティス・スパンのアンプにつないだピアノが、電気嫌いのジャズ批評家[からロックだと酷評され](略)

六年後、マディが、アコースティック・ギターを手に、特別に昔風のデルタの曲を用意して戻ってくると、その国には彼の曲にちなんで名をつけたバンドがうじゃうじゃいて(ザ・ローリング・ストーンズ、デヴィッド・ボウイのマニッシュ・ボーイ、ザ・モジョズ)、モッズとアート・スクールの学生でいっぱいのオーディエンスは、最初はヤードバーズやマンフレッド・マン、聖なるストーンズのステージで聞いて知った曲に、キャーキャー大騒ぎした。それでもマディ・ウォーターズは依然ブルース界の巨人で、物憂げな威厳のあるまなざしに自ずと軽蔑を浮かべ

ピート・タウンゼントは語る。「皮肉なことにさ、みんなひどく哀れに見えたんだよ。チェックのジャケットを着たジョン・リー・フッカーがキャバレー・ショーみたいなことをやるのとかがさ。彼は今だってずっとやってるんだけど。なぜか彼らはオレたちがやった画期的なジャンプについてくることができなかった感じだった。ヘンドリックスはやった……そして、もっと先へ行ったんだ」

R&B解釈の英米の違い

“リズム&ブルース”という言葉はイギリスとアメリカ合衆国とでは極端に解釈が異なる。元来それはアトランティック・レコードのプロデューサー兼重役だったジェリー・ウェックスラーの造語で、単にブラック・ポップ・ミュージックを指していた。主にブラック・コミュニティによってブラック・コミュニティ向けに作られた音楽なら何でもだ。ところがイギリスでの定義では、ローリング・ストーンズと彼らのあとに続いた名声の差は多々ある数々のバンドが演奏したものなら何でも、ということになった。

“ブリティッシュR&B”はシカゴ・ブルースと50年代のロカビリーと60年代初期のソウルを適当に融合させたものだ。

(略)

T・ボーン・ウォーカーから始まってB・B・キングやアルバート・キング、フレディ・キングら傑出したソリストに代表されるブルースの一派、あるいはバディ・ガイやオーティス・ラッシュ、マジック・サムらのシカゴ“ウエスト・サイド”派に、ストーンズはほとんど興味を示さなかった。唯一こうした勢力からクリエイティヴな影響を引き出せた(あるいは完全にまねをできたのさえただひとりだが)イギリスのギタリストはエリック・クラプトンで

B・B・キング談[1989年]

「彼は俺を父親のように思っていたんだと思うな。(略)彼はジミ・ヘンドリックスで、誰も彼のようにはなれないんだから、恐れるものなど何もなかったはずだが、それでも父親か誰か、長い間ずっと一緒に過ごしてきた相手に対するように俺を尊敬してくれたんだ。そんなふうに俺を敬っていた……腰を下ろして、ちょっとギターを弾いて“こういうのどう思います?”って尋ねてね。彼は依然俺に対してシャイだったが、それでも親しみは感じられた。ちょっとした仲間意識みたいなものがね。それでこっちもちょっと彼が息子のひとりのような気がしてさ」。B・Bはヘンドリックスがブルースをマスターしていることに関していささかの疑問も持っていなかった。「ジミはブルースを演奏し、しかもうまかった。彼はいいブルースを演っている。ただ、ジミ・ヘンドリックス流にやってみせただけさ」

バディ・ガイ

は1967年にアン・アーバー・ブルーズ&ジャズ・フェスティヴァルで演奏したときのことを回想している。

 「45分くらい演奏したあとで、俺はギターでいくつかの技をやって見せた。ドラム・スティックで弾くとかそういう類いのことをね。そしたらオーディエンスの誰かが大声で言ったんだ。“ジミ・ヘンドリックスを見たんだな!”ってね。67年当時、俺は彼が誰かも知らなかったから、訊き返した。“そいつは誰だ?”だが、客はそれをまったくのジョークだと思ったんだよ……カナダに行ったときもみんなが言うんだ。“なんだ!ジミ・ヘンドリックスのコピーじゃないか”ってさ。(略)

 ニューヨークではテープ・レコーダーを持ったヘンドリックスがついてきた。彼が“オレは何年もずっとあなたを追いかけてきたんだ。あなたの演奏をテープに録りたいんだ”って言うんで、“俺の聞いた話じゃ、俺があんたを追いかけていることになっているがな”って答えた。彼は“ふたりの間じゃわかっていることじゃないですか。そんなやつらのことは気にしないで”と言った。

残り少しだが、疲れたので明日につづく。