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2015-03-29 『正戦と内戦』その3 モンロー主義 このエントリーを含むブックマーク

前回のつづき。


正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想

作者: 大竹弘二

出版社: 以文社 発売日: 2009/10/29

モンロー主義

元来はアメリカ大陸の防衛を目的としていたモンロー教書は、シュミットの見るところ、米欧両大陸間の単なる不干渉原則ではない。むしろそれは、アメリカ大陸内の一国であるアメリカ合衆国の利害関心によって規定された、干渉政策と不干渉政策との独特の融合物なのである。(略)

すなわちモンロー主義は、アメリカ合衆国が他のアメリカ大陸諸国へ干渉するための規範的根拠として利用されたというのである。

(略)

アメリカ合州国はたしかに他のアメリカ諸国の主権的独立を認めてはいるが、しかし、キューバ、ハイチ、サン・ドミンゴ、パナマ、ニカラグアなどとのあいだで、それらの国が私有財産の保護や公安と秩序の維持などの主権国家としての機能を果たせなくなったと判断したときには干渉することも可能にするような、「干渉条約」を締結している

(略)

しかし、アメリカ合州国自身に対してはもちろん、それが主権性を濫用しているかどうかを誰も決定できない。

重要な問題はやはり、〈誰が決定するのか〉である。(略)干渉の是非の決定権を握っているアメリカ合州国こそが、事実上の主権者なのである。

(略)

干渉条約というこの新たな国際法的な帝国主義は「形式的な国際法的同権を基礎としている」が、「とらえようもなく柔軟に」運用されることで、かえってますます強力な支配力を発揮するのである。だがシュミットは、19世紀にはモンロー主義に基づいてアメリカ大陸内でのみ機能してきたこの支配法が、いまやその性格を変質させつつあると考える。つまり、アメリカの帝国主義実践は、その行使の範囲をアメリカ大陸にとどまらぬ全世界に拡大させつつあるというのである。

(略)

 アメリカの要求により、国際連盟規約はその第21条において、「一定の地域に関する了解」としてのモンロー宣言に配慮し、アメリカがアメリカ大陸で従来持っていた諸々の特権に対してある種の承認を与えることになった。シュミットの見るところ、これによって国際連盟は、アメリカの意志に反してアメリカ大陸に介入するいかなる可能性も失った。というのも、国際連盟がアメリカ大陸の諸事項に関与しようとする場合、それがモンロー宣言を侵害するものでないかどうかは、事実上、まさにアメリカによって決定されるからである。アメリカの柔軟な解釈を許すモンロー宣言が、国際連盟規約より優位に立っているわけである。

(略)

一方、国際連盟に対するアメリカの影響力のほうは、アメリカ自身の連盟不参加にもかかわらず、そのコントロール下に置かれた中南米の連盟加盟国を通じて確保されている。この点でシュミットは、国際連盟に対するアメリカの関係が、「公式には欠席しながら実質的には出席しているという奇妙な混合」とも呼べるものであることを主張する。(略)アメリカは国際連盟にとって、いわば「間接権力」として機能しているのである。

(略)

シュミットが1920年代にこの議論を展開したとき、彼は両者のこのような関係を必ずしも否定的に捉えていたわけではない。というのも、20年代の彼は、英仏両国を始めとしたヨーロッパ戦勝列強の支配下にあるヴェルサイユ=ジュネーヴ体制の外側にいるアメリカに対して、勝者と敗者のあいだの仲裁者としての役割さえ認めていたからである。

アメリカ帝国主義批判

32年になると、明らかにアメリカヘのドイツの経済的従属を意識して、こう言われる。「アメリカ的な〔帝国主義の〕形式が基礎とする新たな区別とは、債権国と債務国の区別である」。

(略)

重要なのは、軍事的手段に訴える場合は「侵略」や「帝国主義」として弾劾されるのに、経済的手段による支配は定義上「平和的」とみなされるというのが、一つの法学的フィクションであるという点にほかならない。

(略)

こうして、規範化された戦争、すなわち「正戦」という問題系が浮かび上がってくるのである。

「帝国主義は国民戦争を行なうことはなく、これはむしろ排斥される。帝国主義はせいぜいのところ、国際的な政策に役立つ戦争を行なうだけである。帝国主義は、不正の戦争ではなく、正戦だけを行なう。いやむしろ、さらに帝国主義は、軍隊・戦車・巡洋艦によって他国が行なえば明らかに戦争であることをしたとしても、まったく戦争を行なっていないということが分かるだろう」。

(略)

パリ不戦条約によって、戦争は一方では断罪されたが、他方では、法的には平和的措置とみなされる「正戦というかたちで復活する。しかも、ある実力行使が断罪されるべき戦争であるか否かの決定は、この不戦条約の条項を定義し、解釈し、運用する力を事実上掌握したアメリカに依存する。

(略)

ケロッグ条約[パリ不戦条約]は、モンロー宣言がアメリカ大陸で持っていたのと似たような機能を、全世界でもつことがありえよう」。

 戦争を排斥したパリ不戦条約に繋がるようなアメリカの道徳主義についてシュミットが指摘するようになるのは、1930年代に入ってからである。とりわけ30年代後半になると、アメリカがしばしば「人類、民主主義、国際法の名のもとに戦争の正不正を決める仲裁者」として現れることが言われ、大統領ウィルソンの自由民主主義的なイデオロギーに基づいたアメリカの第一次大戦参戦などは、その一つの決定的な徴候とみなされる。この出来事こそが、第一次大戦後に発展した正戦論あるいは「差別化する戦争概念」の端緒とされるのである。

(略)

アメリカに対するシュミットの評価は、両義的であり続けている。(略)

アメリカの帝国主義的な世界干渉を批判しつつも、19世紀の「本来のモンロー主義」を「国際法的広域原理の先例」として評価し、アメリカがこの「本来のモンロー主義」に回帰することで、広域に基づく新世界秩序の理念に与することを期待することになるのである。

ソ連

シュミットの理論体系においても、このソ連はある特異な位置価を持っている。つまり、近代ヨーロッパが産み出した経済−技術的思考がロシア・ボルシェヴィズムによってその極北まで導かれたのが、共産主義ロシアにほかならないというのである。その唯物論的思考は、政治的なものの本質をなす理念性を否定する。

満州事変

総力戦を抑止するために考案された過渡的・中間的方途は、別のかたちの戦争を作り出しているに過ぎない。しかもそれは、シュミットにとっては、直接的な軍事衝突よりも過酷な総力戦になりうるのである。

(略)

 にもかかわらず、事実上の総力戦である経済戦争が「合法的」で「平和的」な措置であるとみなされてしまうところに、今日の国際法の欺瞞があるとされる。(略)

[その]典型的な例証として頻繁に引き合いに出すのが、満州事変のさいの中国での日本の軍事行動を「法学的には」なお「平和的措置」であるとみなした国際法学者ハンス・ヴェーベルクの見解である。第一次大戦後の普遍主義的国際法制は、戦争と平和の区別をこのように不分明にしてしまったというのである。

スイス 中立の危機

シュミットを触発したのは、国際連盟の制裁義務によってスイスの伝統的な中立政策が危機に陥っていることを論じたスイスの国際法学者ディートリヒ・シンドラーの議論である。シンドラーによれば、「スイスは国際連盟への加入によって条約違反国に対して経済制裁を講じる義務を負った」が、「〔連盟規約〕第16条の諸義務と〔中立権を認めた1907年の〕ハーグ協定との衝突が起こる限りでは、後者のほうが優越しなければならない」。

(略)

シンドラーはスイスの中立政策を守り抜こうとする意図に導かれていたのだが、30年代後半のシュミットは中立性の危機を、スイスのみならず、今日の国家一般の問題とみなすことになる。

(略)

「ジュネーヴ国際連盟の内部では、従来の中立性の本質をなしてきたような、戦争に対する法的な無差別は存在しない」のであり、「平和を侵害する者に対しては、中立性は存在しない」というのである。中立性の喪失は、「差別化する戦争概念」すなわち正戦論への転換を顕著に示している。(略)

 シュミットにとって、こうした正戦はもはや「戦争」と呼ぶことさえできない。そこでは、従来の国際法では同権の闘争相手であった敵が、法学的フィクションによって犯罪者へと変貌させられる。

連盟規約第16条に規定された加盟諸国の共同制裁措置は、そのような正戦にも等しいわけである。

民主化による「世界革命」、「少数民族」問題

例えば、ギュルケによれば、フランス革命以来、ウィルソンの国際連盟構想に至るまで、国際秩序の前提は民主主義的な国内秩序であるとみなされるようになってきた。(略)世界の秩序は諸国家が民主主義へ体制変化することで打ち立てられるわけであり、これはいわば、民主化による「世界革命」の発想にほかならない。「民主主義は世界の救済および解放という使命を確信しており、それゆえ、世界革命の担い手となる」。そして、「1789年の理念」であれ、「1919年のヴェルサイユの強制」であれ、こうした「民主主義的革命」は、西欧列強のヘゲモニーの表現にほかならず、「ドイツから自決権を奪うような理念」として機能しているというわけである。

 かくして、西欧列強が自立的な国家として承認するのは事実上、自由主義的な立憲国家だけであり、他方、そのような立憲国家でないとされた「不正常な」国家は内政干渉の対象となる。シュミットの見るところ、まさにこうした事情を示しているのが、ヴェルサイユ=ジュネーヴ体制による東欧の少数民族保護政策であった。

(略)

ヴェルサイユ=ジュネーヴ体制のもとでは、西欧列強諸国内には「少数民族」問題は存在しないとされる。なぜなら、個人主義に基づく公民的平等を前提とする自由主義的立憲国家においては、「少数民族」として特別に保護されるべき個人はありえないからである。

(略)

したがって、「少数民族」問題は非自由主義国家に固有の問題とされ、これが第一次大戦後の東欧の新興諸国に対する西欧列強の干渉を許している、とシュミットは考えるのである。

 国際法共同体の自立的構成国であるためには、そもそも西欧列強からその国内体制が「正常」であるとの承認を受けねばならない。

(略)

かくして、自由主義的法治国家に対するシュミットの批判は、同時に、主権国家中心の国際法体制の限界という認識へと至ることになる。そして彼は、1939年から新たな国際法秩序構想として展開される広域秩序論とともに、30年代に入ってもなお長らく固執していた国家概念そのものを相対化する方向に向かっていくのである。

本来のモンロー主義

[否定的だった]モンロー宣言に対する評価は、1939年に広域秩序構想が開始されるとともに肯定的なものへと反転する。

(略)

我々にとって決定的なのは、1823年の本来のモンロー主義が、広域について述べ、域外列強の不干渉の原則を広域のために打ち立てた、近代国際法史における最初の宣言だということである。

シュミットはこの「本来のモンロー主義」を、セオドア・ルーズヴェルトの帝国主義政策とともに普遍主義的干渉の手段と化した19世紀末以降のモンロー主義から区別する。モンロー主義が広域秩序のモデルたりうるのは、それがヨーロッパ大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を定めた防衛的原則にとどまっていた限りにおいてである。

(略)

広域秩序は、「モンロー主義の根本思想の有意味な利用と転用、そして同時に、モンロー主義の帝国主義的な誤用と普遍主義的な曲解の克服」のなかから生まれてこなければならない。(略)

シュミットは、不干渉という原理にこそ、こうした「核心」があると見て取ったのである。

 こうしてモンロー主義をモデルとしたシュミットの広域理論は、ある種の「ドイツ・モンロー主義」の表明として受け止められることになった。シュミット自身は、単にモンロー主義の模倣とみなされかねないとして、「ドイツ・モンロー主義」を標榜することを避けようとしている。だが、同時期のヒトラーの演説でははっきりと「ドイツ・モンロー主義」が明言されたことから分かるように、当時のドイツでは、モンロー主義のドイツ版として広域思想を展開しようとする者が多く現れたのである。

 その場合、しばしばこのドイツ的なモンロー主義の特有性は、人種−民族的な秩序であるという点に見出された。一方、アメリカのモンロー主義はこうした人種−民族的固有性に基づく空間的限定を欠いていたがゆえに、普遍主義的な世界干渉へ逸脱してしまったのだとされる。

(略)

シュミットはあくまで、「本来のモンロー主義」から不干渉思想という核心を取り出すだけにとどまっており、域外列強の干渉を排除する具体的空間秩序を、人種−民族的に根拠づけようとはしていないのである。

(略)

アメリカに対するシュミットの見方は非常に両義的なものとなる。(略)

この時期のシュミットにとっての敵は、アメリカよりも、むしろイギリスであった。そしてアメリカに対しては、イギリス世界帝国の側につくのか、あるいは「本来のモンロー主義」に基づく広域秩序形成に向かうのかを絶えず問い質すことになる。1940年の時点では次のように言われる。(略)

アメリカ合州国が、モンロー主義の本来の改竄されていない大陸的な広域思想へ決断するのか、もしくは、イギリス普遍主義の富や伝統と結合し、あるいは完全に融合してしまうのか、というものである。

そしてシュミットは、アメリカが広域秩序に回帰しつつあることを示すひとつの徴候を、アメリカ大陸諸国が大陸沿岸300マイル以内を中立的な安全地帯として設定した、1939年9月から10月までのパナマ会議のうちに見出そうとする。(略)

パナマ宣言の意義は、空間をもたぬ自由な海を具体的な広域のうちへ取り込む試みであるという点にあるわけだ。こうしたシュミットの期待はすぐに、アメリカ参戦によって裏切られることになる。

次回につづく。

2015-03-26 『正戦と内戦』その2 戦勝国による正統性 このエントリーを含むブックマーク

前日の続き。


正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想

作者: 大竹弘二

出版社: 以文社 発売日: 2009/10/29

法秩序の精神的な浸食、『リヴァイアサン』

 法秩序の精神的な浸食という問題を、シュミットは1938年のホッブズ論『リヴァイアサン』のなかで追究することになる。そこに見られるのは、近代国家はいまや精神的な力を持たない巨大な機械装置となることで、「全体国家」たりえなくなったという認識である。(略)

「メカニズムに全体性は不可能である」。このような技術化された国家が秩序の全体性を確保できないというのは、それが人々の内面や精神に対していかなる権力も持たないからである。しかも、いわゆる「リヴァイアサン」としての国家のこうした運命は、ホッブズの理論のうちであらかじめ定められていたのである。それは、ホッブズ自身が国家権力の支配が及ばない内面的信仰の自由を留保したことによってである。内面的留保というこの「破れ目」こそが、近代個人主義および自由主義の突破口となった。それはじきに、外面に対する内面の、公的なものに対する私的なものの優位への反転をひき起こし、リヴァイアサンを内側から崩壊させたというわけである。

 シュミットに言わせれば、そうした内面的留保を最大限に利用し、「生命力あるリヴァイアサンの去勢に協力した」のが、自由主義的なユダヤ人思想家たち、すなわち、17世紀のスピノザ、18世紀のモーゼス・メンデルスゾーン、19世紀のフリードリヒ・シュタールにほかならなかった。

(略)

 シュミットにすれば、外見上いかに秩序の統一が保たれていようと、精神における不和が存在するならば、国家にとって致命的である。

(略)

内面や良心が個人の自由に委ねられると、国家に残るのは、魂を持たない機械装置としての性格だけである。国家は技術的に中立化された装置となり、かくして19世紀には、精神を持たない実定法体系である法実証主義的な「法律国家」が現れるのである。

(略)

シュミットにとり、ある政治秩序は、精神にまで及ぶ一つの全体性として構築されていなければならなかった。

(略)

 かくして、1938年のホッブズ論とほぼ同時期の諸論文では、単に軍事的ではない精神的・世界観的な闘争となった戦争こそが、いわゆる「全体戦争=総力戦」であると性格づけられることになる。

国家主義への恐怖

 1912年の『国家の価値』論文は、超個人的な価値に個人が献身するためには媒介としての国家が不可欠であると強調することで、シュミットのいわゆる「国家主義的な」立場を顕著に表しているように見える。しかしながら、この当時のシュミットは、決して単純に現実のドイツ国家を称揚していたわけではなく、むしろ、ナショナリスト的な熱狂からは距離を取っていた。彼は第一次大戦勃発後の日記のなかで、開戦とともに国家が個人に対して及ぼすようになった強大な力への恐れを何度も吐露している。「戦争、命を落とす何千もの兵士、場合によっては牛が草を食むように私を貪り食うこの権力機構に対する私の無力を考えるとき、私には国家は、恐ろしく、陰惨で、途方もないものに思われる」。

 このような国家への不信は、1914年9月の親友フリッツ・アイスラーの戦死、そして、1915年2月からミュンヒェンでの兵役を経験するなかで、さらに強まっていく。

世界大戦中はどのような結果になるのだろうか。ドイツは正義の国になり、個人を無化する国になる。それはまさに、私が国家についての著書〔『国家の価値』論文〕で国家の理想として述べたことを実現する。……恐ろしい。私はいつの間にか犠牲者となり、そのために罵りを受ける。おぞましい。神よ、助けたまえ。

(略)

兵役中の日記では、プロイセンと軍国主義に対する嫌悪や、国家を前にしか個人の絶望的な無力が繰り返し表明される。(略)

シュミットは、大戦中のドイツ知識人に多く見られたような、ドイツがまさに世界史的使命を担った正戦を遂行しているとする「1914年の理念」とは程遠いところにいた。むしろ彼にとって第一次大戦とは、機械化・機能化された技術時代のもたらした破局、いわば「終末論的な恐慌」にほかならなかったのである。

敗戦と革命による転機

 反国家的な心情を隠すことがなかったシュミットに転機をもたらしたのは、ドイツの敗戦と革命の経験である。(略)

[敗戦の混乱を契機とした共産主義勢力によるミュンヒェン・レーテ共和国の樹立]

シュミット自身が絶えず身の危険を感じていたと回想するこの革命騒乱が、まさに秩序と安全の維持に近代国家の決定的役割を見出すようになる彼の思想形成に大きな影響を与えたと言える。と同時に、敗戦に伴ってドイツが甘受することになったヴェルサイユ条約は、シュミットにナショナリストとしての心情を呼び覚ますきっかけとなった

(略)

[1919年、マックス・ヴェーバーのミュンヒェン大でのゼミに参加したシュミットの回想]

彼は復讐主義者でした。ヴェルサイユに対するすべての復讐主義のなかでも、私が経験したなかでもっとも過激でした」

(略)

 シュミットはルール占領のうちに、帝国主義の新たな支配形態を見て取った。その新しさは、この軍事行動が「法」の執行という体裁を取っているという点にある。第一次大戦後の国際安全保障体制を規定している法的枠組、すなわち、ヴェルサイユ条約とジュネーヴ国際連盟は、実のところ、何ら平和構築に寄与してはいない。つまり、それらは、強国が自らの権力要求を法的措置の名のもとで遂行するのに役立っているだけだというのである。「誰が命じるのか」、すなわち、誰が法を定義し、解釈し、適用するのかという問題が看過されるときには、法の支配がこのように帝国主義の道具に堕するということが起こりうる。このとき、支配の公開性を確保するはずの法は、外国勢力による「隠蔽、匿名性、不可視性」のコントロールに服してしまうというわけである。シュミットの見るところ、現代帝国主義は、まさに自らを法的言説によって武装することで支配を行使している。そして、実力行使のこうした規範的正当化の可能性とともに生じるのが、いわゆる「正戦」である。

(略)

 しかしながら、シュミットは単にドイツ・ナショナリストとしてヴェルサイユ=ジュネーヴ体制を攻撃することで満足しているわけではない。両大戦間期の彼が目指していたのは、既存のジュネーヴ国際連盟にとどまることのない、真の「連邦」を国際的に構築することにほかならなかった。(略)

彼の関心はあくまで、国際法秩序の制度的構築にあった。

国際連盟による「〈現状〉の正統性の保障」

[国際連盟規約は]以下のような保障の対象を規定している。すなわち、領土の不可侵性、政治的独立、攻撃に対する保護、脅威に対する保護。しかしながらシュミットが問うのは、これが一体いかなる正統性原理に則って規定された保障なのかということである。それは単に、戦勝国の権力政治が反映された大戦終了直後の〈現状〉を維持するだけのものではないか。(略)国際連盟が問題にしているのは、単に「〈現状〉の正統性の保障」にすぎないのだ。

 シュミットは、これまでの歴史において国際法共同体を構成してきた正統性原理を挙示している。ウェストファリア条約以降、19世紀まで機能していた「ヨーロッパの勢力均衡」原理やその競合原理であった「自然国境」論、さらに、19世紀以降の「国民性原理」などである。国際法上「正常」とされる状態は、そのつどこれらの正統性原理を基準にして判断されてきたのである。

(略)

実際、1815年には、「敗北したフランスが、1919年の国際連盟におけるように、過酷な扱いを受けることはなかった」。この違いはひとえに、神聖同盟体制が、「王朝的正統性」という明確な正統性原理に基づいた国際秩序だったからである。

(略)

強者の〈現状〉に抵抗しようとする弱者の試みはすべて、不法行為の烙印を押されるわけである。(略)

〈現状〉の変更は何であれ非合法とされるのである。

その法を誰が決定しているのか

問題は、「つねに事情がそうであるように、あらゆる当事者が自分の側に道徳性があると主張しながら、にもかかわらず、できる限り権力政治を追求している場合には、誰が決定をするのか」ということである。

もちろん誰しも、法、道徳、倫理、平和だけを望む。誰も不正を為そうなどとは思わない。しかし、具体的に唯一興味ある問題はつねに、何が正しいのか、平和とは何か、平和の攪乱や危険とは何であり、それはいかなる手段で取り除かれるのか、いつ状況が正常で「平穏」となるのか等々について、具体的な事例において誰が決定するのか、ということである。

いかなる権力政治も、自らを正当化するために法を引き合いに出す。

当然のことながら、列強はあらゆる機会に、自分たちが法を尊重していると主張する。しかし彼らは、具体的な事例において何が法であるのかを、自分たち以外の誰かが決定することを許しはしないだろう。

それゆえ、単に力に対する法の支配を称揚することには、何の意味もない。目を向けるべきは、その法を誰が決定しているのかということなのである。かくして、シュミットにおいては、第一次大戦後の国際法制の進歩に関わる主要問題は、それが一体誰のための法なのかという点に集中することになる。「それゆえ我々はつねに問わねばならない。具体的な事例において、国際連盟の名のもとで行為しているのは誰なのか、と」

 いまや政治対立は法形式として現れ、国際政治は司法手続へと移されたように見える。しかしそれは、その具体的内容の決定権を列強のみが掌握した政治的な国際法による支配なのであり、ラインラントはとりわけその犠牲となっているとされる。

(略)

このような非武装地帯の設定、およびそれに伴う諸規定は「法学的フィクション」であり、それは『独裁』で述べられたような「フィクション的な戒厳状態」と同様に、「政治的敵対者をよりうまく抑圧するための手段」にほかならない。ドイツは戦勝列強の定めた非武装の概念に従わねばならず、彼らによってそれに違反していると解釈された場合には、平和を攪乱しているとみなされる。(略)[さらにジュネーヴ議定書では]非武装義務への違反が「侵略」とさえ規定されることになった。(略)議定書は締約国に、「侵略者に対して軍事的に措置を講じる義務」までも定めている。後に『大地のノモス』で、この議定書が「攻撃戦争の犯罪化への萌芽」と位置づけられるゆえんである。シュミットに言わせれば、これはすべて、〈現状〉を変えようとするドイツを法的に犯罪化することへ向けられている。

帝国主義の新たな方法、規範を通じたコントロール

シュミットにとって、ある国家の主権的独立を表面上認めつつ、事実干渉のためのさまざまな法的手段を確保しておくというのは、まさに帝国主義の新たな方法にほかならない。つまり、他国を支配する方法は、軍事的な直接行動から、規範を通じたコントロールヘと変容したのである。このことは、「併合」という支配法が時代遅れになったことに顕著に示されている。第一次大戦後の世界では、民族の自決と自由という大義ゆえに、ある領土の併合は簡単には認められなくなった。しかし、こうした「併合の断念」は、列強が「もっと効果的で、もっと利益の多い他の方法を発見した」ことにも起因している。すなわち、列強は、小国を独立国として承認したうえで、その具体的内容は自らが決定できるようないわゆる「干渉条約」を、その国と締結するという方法を取るようになったのである。(略)

干渉国は、「コントロール下に置かれた」国の本質的な実存的問題、とりわけ、何が「公安と秩序」なのかについての具体的規定を決定するのである」。

(略)

 シュミットにすれば、干渉条約を通じて行使される帝国主義支配は、併合という直接的支配法よりも有害である。それは、被支配国の住民への保護責任を何ら負おうとしない、いわゆる「間接権力」による支配だからである。

(略)

直接的支配としての併合においては、「勝者は土地と住民とともに、政治的責任と代表を引き受けていた」が、今日では「コントロールを行なう国家は、併合に伴う重荷を負うことなしに、その軍事的・経済的利益をすべて手に入れている」、と。

(略)

現代では、真の権力者は意図的に不可視のままにとどまり、責任を引き受けずに支配の利得のみを手中にしようとしている。

(略)

 とはいえシュミットは、単に普遍的規範を利用している背後の誰かを暴き出すイデオロギー批判で満足しているわけではない。彼の目的は、単なる実定的な合法性の体系に代えて、何らかの実質的な正統性原理に即した法秩序を探求することにある。

次回につづく。

2015-03-24 『正戦と内戦』シュミットの国際秩序思想 このエントリーを含むブックマーク

『正戦と内戦』カール・シュミットの国際秩序思想 大竹 弘二


正戦と内戦 カール・シュミットの国際秩序思想

作者: 大竹弘二

出版社: 以文社 発売日: 2009/10/29

「あらゆる人道主義の背後には、誰が人間であるかは私が決める、という要求がある」

 第二次大戦でドイツが再度敗北し、ニュルンベルク裁判で新たな種類の戦争犯罪が裁かれることになったとき、シュミットの普遍主義批判はさらに先鋭的となる。とりわけ彼が矛先を向けるのは、二つの新たな戦争犯罪概念、つまり、「攻撃戦争」(「平和に対する罪」)と「人道に対する罪」である。これらはまさに、「無差別戦争観」から「差別化する戦争概念」(正戦論)への転換の徴候にほかならないからである。彼が両大戦間期から一貫して問題にしてきたのは、主権国家中心的な国際法のもとでは法的に同権の「敵」であった交戦相手が、国際法の普遍主義的法制化によって「犯罪者」へ変化するという過程であった。これは、戦争の「枠付け」を消失させ、道徳的観点のもとで犯罪化された交戦相手への殲滅戦争をひき起こすとされる。そして、彼はすでに1920年代には、このように「敵から人間という性質が剥奪され、それによって戦争がとりわけ非人間的なものとなる」危険を回避するため、「人類」のような道徳的意味をもった普遍概念は、政治的なもののカテゴリーから厳格に切り離されるべきことを主張していた。そうして、第二次大戦直後の時期に書き記された『注釈集』では、法概念としての「人道に対する罪」への批判が繰り返し現れることになる。「「人道に対する罪」とは何か。愛に対する罪などあるのか。殺人は犯罪であり、強姦や小児誘拐などもそうである。こうした構成要件すべてを差し引いてなお、純枠な非人道性という犯罪として何が残るというのか」。シュミットにすれば、この戦争犯罪概念はドイツの道徳的差別化に利用されているにすぎないのである。「人道に対する罪と、人道のための罪が存在する。人道に対する罪はドイツによって犯される。人道のための罪はドイツに対して犯される」。

 政治と道徳の混同に対するシュミットの批判は、論証戦略上二重の意味をもっている。一方で彼が示そうとするのは、「人類」のような普遍概念が混入されることで道徳によって汚染された政治抗争は、敵を「たんに撃退されるだけではなく、最終的に殲滅されるべき……非人間的怪物」として道徳的に断罪するような「特に強度な非人間的戦争」に至るということである(政治の道徳化)。他方で彼は、「人類」は抽象的な普遍概念にすぎず、それ自体では何ら政治対立の担い手たりえないのだから、それはつねに或る党派の「帝国主義的拡張のとりわけ有用なイデオロギー的道具」として機能していると主張する(道徳の政治化)。それゆえシュミットは、イデオロギー批判の意図をもって、「人類を口にする者は欺こうとしている」というプルードン的な警句を好んで言及するのである。「あらゆる人道主義の背後には、誰が人間であるかは私が決める、という要求がある」というわけである。

ハンス・J・モーゲンソー

実際、両者の思想には多くの共通する要素がある。とりわけ顕著なのは、国際政治のうちに普遍的な道徳的要求を持ち込むことへの拒否である。モーゲンソーの歴史診断は、シュミットのそれと極めて類似している。すなわち、国際関係の相対的な安定性を確保してきた主権国家中心的なウェストファリア体制の「バランス・オブ・パワー」は、20世紀に入って、政治を道徳主義的に汚染する米ソの外交によって解体の危険に晒されている、と。

 モーゲンソーの場合、こうした診断は、一つの外交実践上の意味をもっていた。つまり、冷戦期のアメリカに身を置いていた彼が尽力したのは、アメリカが陥りがちな「道徳的十字軍」が、ソ連とのあいだで普遍主義的イデオロギーを掲げあう妥協不可能な対立にエスカレートするのを阻止するため、「国益」のみを「一つの指針、一つの思考基準、一つの行動規則」とする外交政策を提起することであった。したがって彼の政治的現実主義は、国益を超える普遍的目的の追求は放棄する。国際関係を統御するのは、道徳的あるいは法的な普遍性への要求ではなく、諸国家が力と利益を相互に考量することで作り出される安定化の力学にほかならないのである。しかしながら、政治の道徳化への批判では一致していても、シュミットがモーゲンソーのこうした「国益中心主義」をも共有していたのかは検討の余地がある。

理念政治的なアスペクト

 シュミットの政治思想は、決して単純な「現実主義者」には還元できない。彼にとっては、国際政治のみならず、そもそも一般にいかなる政治においても、単なる事実的な力関係以上のものが作用しているという点こそが決定的なのである。ゆえにシュミットは、権力政治の立場を断固として退ける。「どんな政治体制も、権カ主張の単なる技術だけでは、一世代たりとも存続することはできない。政治的なものには理念が含まれている」。つまり、シュミットを特徴付けているのは、その理念政治的なアスペクトである。彼にとって人間の政治的実存を決定的に規定しているのは、何よりも言葉や語彙、とりわけ法概念といった観念的な契機にほかならず、それゆえ、その政治闘争はまさに言説闘争の性格を帯びることになる。

シュミットに大きな衝撃を与えたルール占領

1923年1月、ドイツによる戦争賠償支払いの遅延をヴェルサイユ条約への違反ととらえたフランスおよびベルギーは、それを口実として、工業地帯のルール地方を含むラインラントに軍を進駐させる。国際条約の違反に対する法執行という名目で行なわれたこの占領は、シュミットに、友敵の区別というあまりにも有名な政治的決断の定式を思いつくきっかけをりえたと同時に、単なるむき出しの力の衝突ではない、理念の抗争としての政治を確認させることになる。その実力行為は、ヴェルサイユ=ジュネーヴ体制の国際法概念によって理念的に根拠づけられたものだったからである。したがって、敵が依拠している理念的基礎もしくは法概念を批判することこそが、政治抗争においては決定的に重要となる。

法学的フィクションの道具化

 法概念はフィクションであり、そのときそれは一定の政治利用の可能性を免れることはできない。このようにフィクションとして作り出される法状態について、シュミットは1921年の『独裁』の萌芽となった初期論文『独裁と戒厳状態』のなかで扱っていた。(略)彼は国家の危機というものがそれ自体虚構された構成物でもありうるということを、戒厳状態についての観念がフランス革命以降に辿った歴史を検討しつつ論じている。戒厳状態は、19世紀を経過するなかでその性格を変容させていったというのである。すなわち、外敵との闘争が問題である戒厳状態から、内敵の鎮圧に利用されるそれへの移行である。

(略)

1793年の革命戦争においては、実際に外国勢力から国土を防衛する必要に迫られていたのだが、1830年および48年の革命状況において問題となったのは、むしろ国内における蜂起と騒乱だったのである。ここには、「事実として」現存していた戒厳状態から、「宣言される」ことでフィクションとして作り出される戒厳状態への転換が見られる。いわば、フィクションとしての戒厳状態は、「政府が反対者と闘争するさいの内政的な道具」にほかならないのだ。

(略)

 法学的フィクションのこのような政治利用に目を向けるとき、シュミットが決定的な重要性を見ているのは、いわゆる権限問題である。すなわち、「誰が決定するのか」ということである。(略)

裁判官の司法決断は法規範の内容から相対的に自立していることを主張した『法律と判決』以来、シュミットは一貫して、誰が法を措定・解釈・適用するのかという権限問題に関心を集中し続ける。

(略)

重要なのは、実定的な法条規そのものよりも、そのつどの具体的な個別事例においてその条規の内容がいかに解釈されるべきかを誰が決定するのかという問題にほかならない。

(略)

法理念は自分で自分自身を変形することができないということは、誰がそれを適用すべきかについて、法理念が何も述べていないということからして、すでに明白である。すべての変形には権威ノ介入がある。

主権者とは、規範が現実化するために必要な〈誰か〉にほかならない。具体的現実のなかでそのつど法を定義し、解釈し、適用することのできる者こそが、主権を掌握している者と言えるのだ。

(略)

 例えば、国際連盟規約のうちに国家の独立や主権の保障が謳われていたとしても、そもそも「保障されている事例が存在しているかどうか、政治的独立や主権の自由な行使が侵害または脅かされているかを、誰が決定するのか」。あるいはまた、攻撃からの保護が保障されているとしても、「何が攻撃なのかを厳密に定義する」ことなしには、「列強自身が、自分たちの軍事行動が攻撃なのか防衛なのかを決定する」ことが起こりうるだろう。そしてさらに、例えば、平和の攪乱からの保護が規定されているとしても、「平和の攪乱」という一般的な規定を引き合いに出すだけでは、何を保障したことにもならない。「問われるべきなのは、具体的に平和とは何かについて、あるいは具体的に何が平和の攪乱もしくは危険をなし、いかなる具体的手段によって、脅かされている平和が守られ、攪乱された平和が再建されるのかについて、誰が決定するのか、ということである。つねに同じ問いが残り続けるのである。すなわち、誰が命じるのかという」。

(略)

シュミットの見るところ、ドイツはそうした法的規定の具体的内容について決定する権限を奪われていることによって、同時に自らの主権を奪われ、列強の支配に屈している。

(略)

『政治神学』によれば、「正常」とみなされる状態を法秩序としてうち立てる者が主権者である。ヴェルサイユ=ジュネーヴ体制下では、国際法的に正統とされる状態を作り出しているのは戦勝国の列強であり、よって主権の所在は彼らにある。(略)シュミットの関心は、第一次大戦後における国際法上の正常性を作り出しているのは誰かを暴き出すイデオロギー批判へ繋がっていったのである。

(略)

それは決してむき出しの権力政治ではなく、法規範の内容の解釈権を事実上掌握することで行使される支配なのである。しかしながら、実のところシュミットは、こうした支配実践を単に批判するだけではない。むしろ、法の内容を具体的事態に合わせて柔軟に解釈しながら貫徹されるこの権力主張は、一つの偉大さの表現ともみなされているのだ。

(略)

アメリカ帝国主義についての1932年の論文でシュミットは、このように法の柔軟な解釈と運用を通じて支配を行使する現代帝国主義に対して、称讃にも似た評価を下している。(略)モンロー宣言を用いたアメリカ帝国主義の支配実践に対し(略)

「ある大民族が他の諸民族の言語様式、さらには思考様式さえ支配し、語彙、術語、概念を自ら定めるような場合にこそ、真の政治的権力が表現されている。

(略)

言語を支配する者こそが政治的支配を獲得するのである。(略)シュミットにとって、政治抗争は単なる権力政治ではなく、言説の領野を主戦場とする理念政治的な性格を帯びることになる。

次回につづく。

2015-03-22 『僕の音、僕の庭』井上鑑 筒美京平、大瀧詠一 このエントリーを含むブックマーク

大瀧詠一目当てでチラ読みしたが……そこはなんか……だった。


僕の音、僕の庭 ―鑑式音楽アレンジ論

作者: 井上鑑

出版社: 筑摩書房 発売日: 2011/08/09

大瀧詠一

[大瀧詠一プロデュースのシリア・ポールのレコーディングに参加して]触れたアメリカンポップスのエッセンスは新鮮な刺激だったのである。(略)

[大瀧詠一ミュージックスクールで教わったこと]

例えば、ビッグバンドジャズの全盛期からロカビリーへの移行期には、スイングしている跳ねたリズム感から、ステディで直線的なエイトビートのリズム感への大きな変化が起きたことは知っていたが、過渡的に不思議なドラムとベースの関係が実在したことなど聞いたこともなかったのだ。

 つまり、古いリズム感から抜け出し切れず、ついあちこちでビートが跳ねてしまうドラマーと、新時代エイトビートのリズム感をしっかり刻んでいるベーシストが同じ曲の録音に参加しているのだ。

筒美京平さんが教えてくれたこと

 仕事を始めた初期には、かなり乱暴なオファーにも出くわしました。当時、ヒットチャートの動向は今以上に影響力がありましたから、編曲家を選ぶのに当たって上位十位以内のスタッフから探すという姿勢が普通にあったのです。ある時など関係者は「鑑」という漢字から年配の人物を想像していたらしく、弟子と勘違いされて「先生はご一緒じゃないのですか?」と言われて驚いたことすらあります。(略)相手への理解無しに「売れるものを頼むよ」では良い打ち合わせが生まれるはずもありません。

「良い打ち合わせ」と「売れるものを頼むよ」というアプローチが矛盾するというわけではありません。むしろ「売れるもの」の影には常に「良い打ち合わせ」があるとさえ言うことができます。

(略)

 京平さんと接点が生まれた経緯そのものが、創造的な打ち合わせの基盤とはどういうものかを表しているかもしれません。研究熱心で知られる京平さんは、洋楽の新作アルバムやシングルを常にチェックしていました。それに加えて国内のチャートの動向、セールス的にビッグではなくても音楽性が注目されるアーティストなどを見逃さずに勉強されていました。

(略)

 まだ初対面に近い時でも、僕の仕事に関して「あの曲のアレンジは良かった」とか「この作品のコンセプトは誰の発案?」というように具体的な指摘や質問が話題に上って驚かされたものです。(略)

京平さんに注目された井上鑑編曲作品の中には、実は「売れて世間に知られた」曲とは言えないものも多かったのです。

 当時京平さんは飯倉片町の奥まったところに外交官向けマンションのような趣の事務所を構えていて、編曲家たちは声がかかるとそこへ打ち合わせに伺うわけです。(略)

 打ち合わせは京平さんのビジョンをデモテープとイメージサンプルによって学ぶ時間、という趣でした。話題の幅も広く、様々なジャンルの新しい流れをキャッチしていることに、いつも感心させられていました。

 レコード会社や事務所の人間たちも、ディベートというよりはマーケティング戦略も含む京平哲学を拝受するような姿勢で、注文を細かくつける人など皆無でした。

 京平さんは音楽的方向付けも明解で「このイントロとこの間奏と、こんな感じのリズムね。はい、じゃあお願い」と具体例で示されるものでした。それらのサンプルは洋楽チャート上昇中の曲であったり、今年はこれだ!という注目ジャンルだったり、京平さんのアンテナにピックアップされ再編集された情報でした。

(略)

 京平さんは何人もの編曲家を使い分けて仕事をしていました。

 極端に言えば「イメージサンプルそのまま」のサウンドを要求する場合もあったと思いますが、僕には向いた役回りではないとすぐに気付かれたのだと思います。

 稲垣潤一作品などニューミュージック的なアプローチの曲でのお付き合いが多かったのはそんな理由からでしょう。

(略)

 京平さんは専業作曲家の時代からトータルで音楽を作るサウンドメーカーヘの転換期に先端を走っていました。仕事のスタイルも、新しい手法を使いこなしている存在でもありました。

 70年代には、まだ編曲用の資料は一般的にごく簡単なものでした。譜面だけを受け取る場合すらあったのですが、京平さんは早くから自らコンピューターでプログラミングしたサンプル音源を作っていました。

(略)

 あれほどたくさんのヒット曲を生み出した筒美京平さんの持つ「売れるものを創り出す能力」とは実際何だったのでしょうか。

 聴き手がある音楽と初めて出会う時(略)あまりに予測通りの流れしか出てこないと人はその曲を「新鮮昧がない」「類型的」と判断しますし、逆に予測から遠く離れていく展開には「馴染めない」「好きなタイプじゃない」とジャッジするのが普通です。

 「新鮮だ」と感じてもらいつつ「馴染みやすい」「好みのタイプだ」と認知してもらうことがヒット曲の条件である、と論理的に整頓した上で京平作品を見直してみるとその緻密さが見えてきます。

 例えば四小節単位のメロディー進行の最後、凡庸な作曲家であれば単なる繰り返しに陥りそうな部分に、一拍の短い休みで次のメロディーラインが前倒しのような感じで入ってくるというような巧妙な仕掛けがあちこちに施されているのです。逆に、聴き手を一呼吸待たせて次に出てくるパートを強調する、という手法もありました。そうした一呼吸置く箇所には印象的なフレーズが鳴ったり、変わった音色が使われたりしていてインサートカットのような効果をもたらす計算がなされているのです。

 メロディーの展開の中に、なるほどこうして人々は曲を覚えていくんだな、と思わせる心理的構成方法がさりげなく配合されています。にもかかわらず、それらのトリックは歌詞が付いて歌われると、何事も無かったかのように自然に流れていきます。日本語のアクセント、多用される単語の組み合わせがどの様なシラブル数になっているか、という点までも意識が及んでいたのだと思います。

佐野元春の曲のストリングスアレンジをやることになり

リハーサルスタジオでツアー・リハーサルをバンドと一緒にやっているところへ僕が出かけていった記憶があります。(略)コード譜と歌詞カードを前に打ち合わせが始まったのです。

 大体の雰囲気を説明しながら聞きましょう、という発言が佐野さんからあり、曲を流しはじめたのですが「ここは未だストリングスは出てこない」「このあたりからこんな感じでストリングスが入ってくる」と作者としての意図を説明してくれながら「フンフン、タララーラーラ」とイメージを歌ってくれているのです。(略)ちょっと止めていいですか、とお願いしてシャープペンシルを取り出させてもらい、先へ進むことにしました。

(略)

 走り書きとはいえ、佐野さん自身の感じている流れの作り方や、リズムの感じ、場所によっては「これはかなり確固たる決定項だな」と思えるフレーズを書き取れたので、数日後それらのメモを参照しながら弦のアレンジをまとめました。

(略)

 ストリングス録音当日、テストテイクが終了すると佐野さんは怪訝そうな面持ちで話しかけてきました。「鑑さん、どうして僕の考えていたことがこんなに全部判ったんですか!?驚きました!」と言われて、全部正確に歌って下さいましたよ、と説明しましたが打ち合わせの時には完全にアーティストモードに入っていたらしく、覚えていないということでした。

(略)

 佐野さんが自分で譜面に書いて渡そうと思えば、すぐに記譜法など身につけてしまうでしょうが、僕の立場からみても精緻に記譜された譜面を渡されるよりも、時には本人のハミングで伝えてもらう方がダイナミクスを含めてイメージの深部まで受け取ることができると感じます。譜面を書けることだけが楽想の正確な伝達能力の高さを表しているのではありません。

(略)

 僕が一緒に仕事をした外国人ミュージシャンたちは一様に優れた記憶力の持ち主でした。特に、全くと言って良いほど譜面の読めないイギリス人アーティスト達が曲を覚えるスピードには驚嘆したものです(略)

 彼らに言わせれば、楽譜の読み書きが苦もなくできる(ように見える)人間は驚嘆の的なのですが、僕から見ればメモも無しに細かく詰めていく彼らの音楽作りの方がはるかに驚異的だったのです。

田中信一のミキシング

あれを上げろと言われてボリュームを上げると、別の楽器の演奏者が自分の音が聞こえないと言い出す、というような状況の中でお手上げになってしまう若手もよく見かけました。

 そんな中、田中さんは一流の対処法を実践していました。

 演奏者たちが「あれが小さい。これが大きい」と言っていると丁寧に「解りました」とは言うのですがいっこうに慌てず、ほとんど最低限の調整しかしません。

 「じゃ、もう一度様子を見ましょう」という雰囲気になってまた演奏が始まるのですが、振り返って微笑みつつ「鑑さん、これが自然にだんだん良い音になっていくんですよ」と特徴のある低い声で言うのです。本当かな、と誰しも最初は思うのですが、何回かのテストテイクのなかで次第にサウンドがまとまり、あれが聞こえない、という声もやがて消えていくのでした。

 これは技巧を凝らしたマジックでも成り行き任せでもありません。(略)テストテイクを数回演奏している内に演奏者は徐々に曲を理解し、把握していきます。その曲の個性となる中心的要素はリズムなのかメロディーなのか、どの程度情熱的なのか、等々を理解していくとともにそれぞれが自分のプレーや音色も吟味を始めます。

 さらに他の演奏者のアプローチも把握してくると「あそこであんな感じの演奏をするのか」という周りの楽器パートヘの理解から「では僕はその箇所をどのように演奏しようか、優しい音色で弾いてみようか」などというリアクションが生まれてくるのです。こうした音楽の中での対話に加えて、言葉による打ち合わせをしながらサウンドの方向性がまとまってくると、自然に演奏の強弱や音色の鋭さや柔らかさも決まってきます。そしてお互いに聞きやすい、バランスの良いアンサンブルになる、という流れなのです。

 例えば「ベースが聞こえない」と言われたときに「ベースのボリュームを上げる」というのは、数限りなくある解決方法の内の一つにしか過ぎません。同じ様な周波数帯域の成分を持つ他の要素とベースの音色とが打ち消しあってしまっているのかもしれません。あるいはメインのボーカルが大きすぎるとか、ドラムの音色との関係かもしれません。もっと電気的な理由でベースの音色が明瞭でなくなっている可能性もあります。極端な場合、演奏者サイドの弾き方の問題で聞こえないという場合も十分有り得るのです。

2015-03-20 科学神話の虚実・その2 電子の発見 このエントリーを含むブックマーク

前回のつづき。


ニュートンのりんご、アインシュタインの神 -科学神話の虚実-

作者: アルベルト・A・マルティネス 野村尚子

出版社: 青土社 発売日: 2015/01/29

電子を発見したのは、J・J・トムソンではない

 トムソンは、自分の実験から、気体原子はもっと小さい、「根本原子」に分割できるという結論が導けると論じ、その粒子を「微粒子」と呼んだ。また、この物質の「新しい状態」(固体でも液体でも気体でもない)は、一種類だけで、これが既知の科学元素すべてを構成する実体であるとも論じた。

 これが1897年のトムソンの全部を要約したことである。彼が陰極線が原子よりも小さい、負に帯電した粒子からなると結論したのは正しかった。そしてその速さ、質量、電荷に対する彼の推定もまずまずのものだった。彼はまた、その「微粒子」が原子の構成成分であるという点でも正しかった。ということは、トムソンが電子を発見したことになるのだろうか?

(略)

ニュートンのような物理学者が、光は直線上を進み、くっきりとした影を作るから粒子でできていると論じていた。同様に1869年、ヨハン・ヒットルフが陰極線も影を作るということを示した。その学生であったウィリアム・クルックスもまた実験を行って鋭い影を示した。たとえばクルックスは陰極線の通り道に鉄製の十字を置くと、非常に鮮明な影ができることを発見した。

 クルックスはまた陰極線は、用いるさまざまな材質に関わりなく、みな同じ特質を有することも発見した。さらに、ある効果が粒子からなるものかどうかをテストするには、その効果がものを押すことができるかどうか、運動量を与えるかどうかを決定すればよいだろう。これに沿ってクルックスはパドル付の小さな金属車輪をガラスのレール上に設置して、パドルに陰極線が当たるようにしたものを考案した。陰極線がパドルに当たるとき、車輪が回って動き、陰極線が運動量を与えたのを示すことを彼は見つけた。クルックスはまた、陰極線が強力なU字形の磁石によって偏向させられることがあること、陰極線の二つの流れは帯電した物体同士のように(クーロンの実験におけるボール同士のように)互いに反発することも示した。

 1879年、クルックスは実験で得た根拠からこう結論した。陰極線は「物質の第四状態」(固体でも液体でも気体でもない)であり、いわば「輻射物質」であると。彼は述べている。(略)彼は陰極線を「宇宙の物理的基礎を構成するものと正当な理由をもって考えられる、小さくて分割不能な粒子」と記した。

 1884年、アーサー・シュスターは負に帯電した粒子からなる陰極線は、陰極の近くの分子が崩壊したときに生み出されると論じた。(略)磁力による偏向実験によって、1890年までにはシュスターは、電荷対質量比の上限と下限を推定した。(略)

だがシュスターは原子は分割可能であるとも、取り外し可能な部分をもつとも考えていなかった。そんなことを言ったら、古くて馬鹿げていると思われていた錬金術にあまりに近すぎると思われるところだろう。(略)

[シュスターはこう回想する]

そんな異端の説を公然と明らかにしようものなら、私はまともな物理学者だとはとうてい思われなかったはずだ。

(略)

 1870年代以来、ジョージ・ジョンストーン・ストーニーは、恒久的に原子付属する正と負の電気の物質的な形の伴う単位が存在すると論じていた。それらが原子の周りを回っていると彼は想像し、1891年になると彼はそれらの小さな単位を「電子」と呼んだ。

 なおも、陰極線は原子より小さい粒子であると別の論証をするとすれば、原子を透さない物質でも陰極線なら透過できるのを証明することだろう。こちらはボンにおいて1892年、ヘルツとその学生であったフィリップ・レーナルトが示した方法である。だが彼らは、陰極線は物質を貫通するので、波のような類であり、ちょうど音が壁を通り抜けるようなもので、粒子ではないと主張した。レーナルトは、陰極線が金属箔を通過する際に偏向し、扇型に広がることを示した。

(略)

レーナルトは陰極線がくぐるガスが何であるかには関係なく、磁場によって同じ偏向を示すことを発見した。トムソンはレーナルトの発見を解釈して、多くの分子のあいだを分子にぶつからずに通れるのだから、微粒子は原子よりも小さいことを示唆すると考えた。

 1895年、ジャン・ペランは、負の電荷は陰極線には必ず伴うことを実験で証明した。彼が言うには、陰極線が波ではなく粒子からなるという主張を支持する一つの結果である。トムソンはこれらの結果は自分の研究に影響を与えたと認めた。さらに1896年4月、グスタフ・ヤクマンは、陰極線の静電気による偏向を示す実験結果を発表した。広く言われていたこととは正反対に、本当はトムソンがそれをやった最初の人物ではなかったのである。

 しかもこれらの科学者たちで、電子(または「イオン」あるいは「微粒子」)のすべての特質を同定したものは誰もいなかった。彼らの特徴づけや推論には間違いがあったのである。J・J・トムソンもそうだった。たとえば彼は、原子の構成物はこの微粒子だけだと主張した。それは間違いだった。

(略)

 J・J・トムソンが電子を発見したという説に何か残るものはあるだろうか。

(略)

[ならば、発見者とは言えなくても、電子を多くの科学者に受け入れさせるのに貢献したじゃないかと、擁護することは可能か?]

たとえばシャルル・クーロンは「クーロンの法則」を提唱した最初の人物ではない。ジョゼフ・プリーストリーのような人たちの方がもっと早く提唱しているのである。同様に、チャールズ・ダーウィンは自然選択による種の進化を提唱した最初の人物ではなかった。1831年の本の中で、パトリック・マシューが、競争と環境の圧力に対抗して子の数を過剰にすることが種を変化させると論じている。彼の推測は無視されてきたようだが、ダーウィンの成功の後で、マシューは功績が認められることを求め、自分こそが「自然選択の原理の発見者」だと述べた。それでも評価は得られなかった。ダーウィンの意見では、一般的には、「読者たちを確信させるのに成功したものに「すべての功績」が行く」のである。

 しかし電子に関しては、社会に少しずつ信じさせ、現象を確かめるのに一役かった物理学者が何人かいる。陰極線は直進すると示したものもいれば、陰極線は機械的な運動量を弾丸のように伝えると示したものもおり、また陰極線は原子より小さい粒子からなると示したものもいる、などなど。

(略)

 「電子の発見」を振り返ったテオドル・アラバツィスは、この表現は、物理学者の電子があると信じるのを固めるに至った複雑な過程と解するのが適切だと説いている。

(略)

 神話とは我々の無知が変装したものである。単純な電子発見の物語は好都合なことに物理と歴史の絡み合いを隠し、学生にこのような目に見えないものをすぐ想像できるようにしてくれて、説明と計算に使えるのである。学生たちに1870年代から1913年まで物理学者たちが物質と電気の構成成分の固定に格闘してきた実際のプロセスを話そうとするなら、かなりの大仕事になってしまう。だから教科書はそうはせず、極度に単純化され、輪郭をぼかした絵を描いてしまう。

アインシュタインと優生学

 もし人間が動物から進化したなら、我々と同じようには行動しない動物から進化したことになる。おそらく環境と選択的な交配が徐々に、今の我々には自然に見える人間の行動をとる存在を生み出したのだろう。だがもしそうなら、人間は自分自身の進化をコントロールすべきだろうか? この問題がダーウィンのいとこ、フランシス・ゴルトンによって調べられた。

 1840年代、ゴルトンはケンブリッジ大学で数学を学んでいた。(略)

物事を定量化するのが好きだった彼は、人類のために数学を応用したいと考えた。

 人類学者は人間の体とその行動に相関があることを立証しようとしてきた。体、姿勢、頭部の凹凸を測定してみたが、行動の生物学的根拠は見つけられないでいた。ゴルトンも人間の特徴の定量化にますます惹きつけられるようになった。アフリカを旅行して、彼は用心しながら女性の体の形を測定した。後には指紋を数値的に分析しようと試みて、犯罪者を同定するのに指紋を使うことを早くから提唱するようになった。

 ダーウィンの進化論に関心があったこともその理由の一つであるが、ゴルトンは精神の能力が遺伝するかどうかに興味を抱いた。立派な人は愚息をもつことになりやすいという見方もあった。それとも、天才どうしには血縁関係があるだろうか? それでゴルトンは伝記の百科事典を調べ、卓越した政治家、法律家、軍事指導者、科学者、芸術家のあいだの血縁関係にある人々の数を数えた。そのうち驚くほど多くの人々が血縁関係にあることがわかった。ゴルトンは特に、血縁がある親族間で科学と芸術の優れた業績が繰り返し出現することに印象づけられた。なぜならこのような分野では、政治や社会の制度におけるほど、身内びいきや社会的な力が強くははたらかないからである。彼は結論として、遺伝は身体的な特徴だけでなく、才能にも影響するとした。

(略)

結論をまとめ、『遺伝的天才』という本を1869年に出版した。ダーウィンは、主に生来の精神面の才能だけでなく、熱心さや努力においてもまた人は異なるものだと考えていたが、ゴルトンの研究を読んで、天賦の才は遺伝する傾向があると確信するようになった。

(略)

ゴルトンと妻は子をもうけることができなかったのに、どこの町でも移民と貧しい人々が溢れているように見えた。だからゴルトンは時間がたてば、無能と意志薄弱と貧困が増幅し、イギリスの才能ある人々は消え去ってしまうのではないかと恐れた。

(略)

 1883年、ゴルトンは「よい生まれである」ことを意味する「優生学」という名称を人間の遺伝を改良させる計画的育種の研究に適用した。優生学は生物学の教師が一般に触れたがらない生物学史の一面である。

(略)

厄介な失敗の中でも、優生学はことのほか目立っている。占星術と錬金術の最悪の側面よりもさらに大きな恥だからである。

 そうはいっても優生学は、社会をその病気から治すのだという高邁なる希望を原動力にしていた。我々がトマトをもっといいものに作れるなら、なぜもっとよい人間が作れないのか? ゴルトンは英国政府が人々の能力を測定してそれに従ってランク付けすべきだと訴えた。より高いランクの夫婦なら子供をたくさんもつことを奨励され、より低いランクなら子供を多くもつことは推奨されない。さらにゴルトンは最低ランクの個人は社会から隔離し、子供をもつことを防止するのが望ましいと考えた。ゴルトンは人々は生来平等であるとは考えていなかった。

(略)

アメリカの優生学者たちはわずか一〜二対の遺伝子が、知的障害、暴力的な気質、癩病、犯罪、躁鬱さらには貧困にまで至る悪い形質を決めてしまうのだと主張した。優生学は疫病と戦い、社会変革を実践する有望な技術のように見えた。優生学考たちは、人間を以前の状態になんとか回復させることにより、退化と人種の混血を減少させようとした。

(略)

さらにアメリカの優生学者たちは特定の「人種」が生来多くの問題を抱える傾向があると推定した。イタリア人は暴力的、ユダヤ人は盗みをしがち、などなど。ダヴェンポートは「劣った血」が北方白色人種へ流入することを防ぐ法律を求めた。

(略)

 政治家たちは、セオドア・ルーズベルト大統領が支持した断種法とともに、制限つきの移民政策を進めた。出生率が下がったことに警戒感をもったルーズベルトは「人種の自殺」に対抗する改革もまた先導した。1907年までには、インディアナ州で400人を超える囚人が断種され、その後インディアナ州は「退化」予防の断種法を制定した。1916年になると、アメリカ優生学会が問題の多い一家「ジューク家」だけが起こす犯罪とその施設の世話でニューヨーク州にかかる費用が200万ドルを超えたが、もとのジューク夫婦を社会から隔離しておけばその費用は2万5000ドルで済んだだろうし、彼らが断種していればわずか150ドルになったはずであるという見解を明らかにした。1917年までには16の州が断種法を有するようになっていた。

 優勢主義への関心は知能テストの実施をも駆り立てた。(略)

知能テストは生来のものとされる能力に従って生徒をクラス分けするための手段になった。

(略)

 熱烈な優生学者たちは、アメリカの平等宣言を一つの神話にすぎないとどんどん否定するようになった。

(略)

1929年には24の州が断種法を制定しており、1935年1月には2万1500人を超える人が自らの意志ではなく法律によって断種を受けた。

 しかし優生学をナンセンスだと否定する科学者と批判派の一群は増えていき、これは科学に変装した偏見が浸みこんだものだと非難した。

(略)

 それでも、他の国々で優生学は人気を獲得した。特にドイツでは、それを受け入れたある人物がいた。アルバート・アインシュタインは、他の多くの人と同様に遺伝的継承にひきつけられた。初めは対等の存在として妻ミレヴァ・マリチを愛したが、「身体的にも道徳的にも劣った人間」として彼女を蔑視するようになった。彼女は先天性の股関節脱臼があり、鬱と神経症にも苦しんでいたが、それを彼は彼女の遺伝子のせいだと考えた。彼女の妹は精神的に問題があり、緊張性疾患をわずらっていた。同様にアインシュタインとマリチの二人目の息子、エドゥアルトは情緒不安定で、アインシュタインはそれをマリチの家系の「重い遺伝的欠陥」のせいだと考えた。アインシュタインは内心、古代スパルタ人が社会を強くするために、自分の子の中でいちばん弱い子を遺棄して死なせるという習慣を認めていた。1917年、彼は親しい友人に宛ててこう書いている。「生殖能力のある年月を越えて生きられないものを生かし続ければ文明化された人類社会をむしばむ。……だから未来を衛生的にするために、医者が手加減せず」断種するという「取り締まりを行うのが急務になるだろう」。

(略)

 一方、優生学はアメリカの教育改革の重要な一部になっていた。1940年代に合衆国の高校で使われる生物学の教科書のうち、90%近くが優生学を提唱する章を含んでいた。だがナチの人種差別プログラムの恐怖を知ったとき、優生学に対する幅広い支持は崩壊した。

(略)

アインシュタインの二番目の息子は鬱病と統合失調症となり、精神病院に収容された。アインシュタインはそんな慢性病は遺伝によるものだと考え、息子に宛ててこう書いている。「人種を退化させることは確かに悪いことだ。考えられる限りもっとも悪いことの一つだ」。そして無神経にもこんな言葉まで付け加えている。「お前のような存在を生み出した我を許したまえ」。同様にアインシュタインは、彼が遺伝的に劣ると軽蔑していた女性と自分の最初の息子が結婚するのを激しく反対した。彼女は年上で背が低く、取り憑かれたような、複雑な性格で、マリチにとてもよく似ていた。それゆえアインシュタインは、息子のハンス・アルベルトが彼女とのあいだに子供をもつのは「危険」で「惨め」なことであり、「災難」に思えることであり、何とか防ごうと、不作法なまでに反対した。偏見に満ちた反対は失敗に終わった。

2015-03-18 科学神話の虚実『ニュートンのりんご〜』 このエントリーを含むブックマーク

『ニュートンのりんご、アインシュタインの神』


ニュートンのりんご、アインシュタインの神 -科学神話の虚実-

作者: アルベルト・A・マルティネス 野村尚子

出版社: 青土社 発売日: 2015/01/29

ガリレオはピサの斜塔から物体など落下させていない

[レーン・クーパー教授は1935年自著で]ガリレオはピサの斜塔から物体など落下させていないと主張した。

(略)

 ガリレオとピサの斜塔の物語が最初に現れたのは、ガリレオが晩年、視力を失い、自宅に幽閉されていた1639年から亡くなる1642年まで仕えていた若い秘書、ヴォンチェンツィオ・ヴィヴィアーニによるガリレオ伝である。(略)自分では目撃していない出来事のことだった。

(略)

[1544年フィレンツェの歴史学者ベネデット・ヴァルキは]物体が重いほど早く落下するという主張に反対している。従ってガリレオが生まれるずっと前に、運動についてのアリストテレスの主張は、落下する物体に関する実験によってすでに反論されていたのである。

 その後、パドヴァ大学の数学教授、ジュゼッペ・モレッティが落下物体の実験を行い、1576年、重量の異なる同じ材質の落体が地面に一緒に到達することを報告した。

(略)

 ガリレオはピサ大学にいたあいだ(1589〜1592年)、死後かなりたってから出版された書物『運動について』の執筆を始めた。この本には、塔から落下する物体の問題が収められている。

 (アリストテレスの)この意見がどれくらい馬鹿げているかは、火を見るより明らかだ。つまりたとえば、一方が他方より100倍よりも大きい二つの鉛の球が月がある球の高さから落下したとして、大きい方が地球に到達するのに1時間かかった場合、小さい方が動くのに100時間かかるなどと一体誰が信じるだろうか? あるいはまた、高い塔から石の大きさが一方の石の倍となる二つの石を同時に放り出したとして、小さい方が塔の半分まで落下したときに、大きい方はすでに地面に到達しているだろうか?

 この手稿で、ガリレオは塔から落下する物体について繰り返し言及しているが、ピサの斜塔を明記してはおらず、またいかなる実験についても詳細には記してはいない。さらにガリレオは、この著書ではっきりと、異なる重量の物体が異なる早さで落下すると主張しているのだ!彼は、一方が木でもう一方が鉛という二つの物体を高い塔の頂から落下させたら、「鉛の物体の方が大きく先行して移動した。これが私がしばしば試験していることである」と主張した。ガリレオはそして、落下する物体の速さは、(アリストテレスが主張したと思われる重量などではなく)密度に比例する、と考えていた。

 16世紀末のある時点で、フランドルの数学者で技術者のシモン・ステヴィンは、異なる重量の落下する物体が同時に地面に衝突するとはっきり確信するようになった。彼は、一方が他方より10倍よりも重い二つの鉛の球を「約30フィートの高さの位置から」下の厚板へと落としたが、「軽い方が重い方より10倍の後になるのではなく、両方とも一度にゴツンと厚板に衝突するように思われる」と主張した。

(略)

 1604年にガリレオは、パオロ・サルピに手紙を送った。その中では、異なる物体が同じ速さで落下すると述べている。その頃ガリレオは、速さは(時間にではなく)落下距離に比例すると誤って考えていた。

 1612年、ギリシャ語の教授であるジョルジョ・コレジオは、マッツォーニの行った物体落下の実験は不十分な高さから行われたとして、マッツォーニの主張を批判した。そしてコレジオは、ピサの塔のてっぺんから物体を落下させ、コレジオ自身でアリストテレスが正しい、すなわち物体全体は、別々にした部分よりも速く落下することを示した、と簡潔に述べている。

(略)

 数十年後の1641年3月、ピサの数学教授、ヴィンチェンツオ・レニエリはガリレオに手紙を送った。その中で彼はピサの斜塔から物体を落下させて実験を行ったことを述べ、それらの実験を解釈するようにガリレオに頼んだ。レニエリはこう書いている。

(略)

我々はついにそれとは反対の事実を見出した。大聖堂の鐘塔の頂きから落とした、鉛の球と木の球とのあいだには、少なくとも三クビトの差が生じるからである。一方が球形砲弾と同じ大きさで、他方がマスケット銃弾と同じ大きさの二つの鉛の球での実験も行ったが、同じ鐘塔の高さからは、大きい方と小さい方のあいだでは、大きい方がゆうに掌一つ分先行していたのが観察された。

(略)

 レニエリが斜塔での実験について盲目のガリレオに書き送ったとき、ちょうどヴィヴィアーニはガリレオの秘書であった。1年後、ガリレオはこの世を去った。15年後、ヴィヴィアーニは、ガリレオがピサの塔から物体を落下させたと主張した。

 ガリレオが何十年にもわたって書いた多くの手紙や手稿のどれにも彼が斜塔から何か物を落下させたと主張するものはない。そしてそのできごとを目撃したであろう彼の同時代人の誰もそんなことを報告していないのだ。

ダーウィン

 古い本の多くは、チャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島を訪ねたとき、フィンチの嘴に多様性があるのを見て進化について閃いたと主張している。

(略)

 しかし、手堅く行われた過去の研究では、ハーヴァード大学のフランク・J・サロウェイが、実はダーウィンがフィンチの影響をほとんど受けなかったこと、その食餌をほとんど観察していなかったことを明らかにしている。実際のところ、ダーウィンは集めた標本が少なすぎて、どの種のフィンチがどの島の固有種であるか決定できなかった。各々の標本をどこで採取したか追跡できる記録すら残していなかった。実は、どの島にも固有のフィンチがいたわけではなかった。それなのに不幸にしてサロウェイの歴史的発見にいまだ気付かないままの教師や著述家たちが存在するのである。

 ガラパゴスのフィンチがダーウィンに進化について考えさせる決定打になったという流布している神話が生じたのは、『ビーグル号航海記』の第二版に、フィンチに関するこんな一文が加えられているからだ。「互いに近縁である鳥の小規模な一群における構造の漸次的変化と多様性を見ると、この群島に元々いたわずかな鳥から、一つの種が選ばれていろいろなものに変化したと本気で想像してもいいかもしれない」。だが、この短い見解はダーウィンの旅行記とおびただしいノートとは異質であり、1835年の航海時の彼の考えを代表するものといえる証拠はない。この見解を加えたのは1845年のことであり、彼が進化を確信してからすでに8年たっていた。それにもかかわらずフィンチが名声を獲得したのは、彼の航海記のいくつもの版が、くだんの引用文とともにフィンチの図を含んでいたのが理由の一つに挙げられよう。

(略)

ダーウィンがガラパゴス固有種の巨大ウミガメを進化論に基づいて考えたといわれている。(略)

 だがこの神話もまたフランク・サロウェイによって一蹴されてしまった。実際のところは、当時ダーウィンは甲羅の形がドームかサドルの形か(ちなみにガラパゴとはサドルを意味する)に基づいてカメの種を区別できる可能性には、注意を払っていなかった。彼はガラパゴスで目にしたカメがインド洋で見たのと同じ種だと推定していた。だからカメの甲羅を集めて分析しようという気はなかったのである。フィッツロイはガラパゴス諸島から船を出発させる前に、30もの巨大リクガメを捕獲したが、ただ食糧として捕まえたにすぎなかった。ダーウィンとその仲間たちは、それらの巨大で美味しいカメをイギリスに帰還する前にことごとく食し、ばかでかい甲羅と骨を海水に投げ捨てていた。ダーウィンは二匹の子ガメをペットとして飼ったが、船上にもち込んだ巨大なリクガメの方は全部平らげたのである。

(略)

なぜ異なる種が同じ環境で生きてきたのだろうか?この疑問を彼は早い時期には考えていなかったので、すべての標本を場所の違いをラベルして分けることができなかった。だから彼はフィンチについて特に推論できるはずはなかったし、カメに至ってはうわさを聞いただけだった。

(略)

標本が何の標本なのかを特定しようとして、ダーウィンは混乱して悩んでいた。多様な標本は異なる種、属またはただ単に異なる変種だったのか?どこでそのいくつかを手に入れたのだったか?どれが新しい種なのか?南米リマよりも北の北西部沿岸には彼は足を踏み入れていなかったので、ガラパゴスの動物たちが島に固有なのかどうか判断できなかった。南米からの大型の化石にしても、彼はそれが何なのか、ほとんど特定できなかったのである。

フランクリンは電気凧なんかあげてない

1752年5月、マルリ=ラ=ヴィルで数人の人間が、先の尖った40フィートもの鉄の棒を使って嵐の雲が電気を伝えてくれるかどうかをテストした。雲が頭上を通り過ぎたとき、鉄の棒から電気の「火花」を抽出した。このグループは、たいてい「トマ・ダリバール他」と言われる(略)フランクリンが提案した実験に概ね従って試していたが、フランクリンとは独立にやっていた。だからフランクリン自身が雲から電気を引き出した最初というわけではなかったのだ(何年も後である1768年には、フランクリンはダリバールのことを、「雲から電光を取り出そうと試みる勇気のある最初の人物」と書いて称賛している)。わずか数か月後である1752年7月、また別のフランス人の実験家、ジャック・ド・ロマがある科学の学会に手紙で、「子供のおもちゃ」を使って雲から帯電する可能性を探るという計画をたてた、と述べている。

 1752年8月27日、ベンジャミン・フランクリンの新聞である『ペンシルバニア・ガゼット』紙は、ダリバールその他の避雷針の実験を要約した手紙を載せた。フランクリンは自分がこれに類する実験を行ったということは一言も付け加えていない。その年の10月、フランクリンは自分の新聞に凧の実験の短い説明を載せた。彼が説明した他の実験と比べると、説明は曖昧でフィラデルフィアのいつ、どこで行われたかもはっきり書いておらず、証人のことにも触れていない。自分が実験を行ったとは実際に述べてはいないのだ。

 はっきり言えば、雷が凧に落ち、電気を糸に走らせたら、それはすさまじいことで、糸だって蒸発するだろうという想像は誰でもできそうだが、それをフランクリンは説明していなかった。

(略)

 1753年、フランス在住のジャック・ド・ロマは、空中で発生した電気を大凧の撚糸を使って集める試みに成功したことを報告した(ド・ロマはフランクリンや誰か他の人が同じ実験を思いついていたことは知らなかった)。ほとんど濡れていない糸で電気を集めるのには失敗したド・ロマは、薄い銅線を麻糸に沿わせた。

(略)

ガラスの棒の先端に金属をつけ、それを吊るした筒に向け、近づけることによって火花を引出した。彼と数人の手伝いおよび見物人もまた指を使って火花を引き寄せた。頭上の暗い雲が流れていくと、火花は減った。雲がもっと流れてくると、目撃者たちは指、鍵、細いガラス棒、剣を用いて電気を感じようとした。

(略)[嵐が近づき]

ド・ロマは自分の頭に蜘蛛の巣が張られたような電気の効果を感じた。すると長いわらが一本、地面から跳んでスズの筒へと引き寄せられ、すさまじい爆発を起こし、雷のような音をたて、電気の「火」の8インチほどの明るい火花を生じた。さらに火花が出るとともにバリバリという音が起こり、糸は光を発した。風と雨が凧を落としてしまったので、実験は終了となった。幸いなことに、負傷者はいなかった。

 フランクリンとは違い、ド・ロマは、さまざまな手順、寸法、予防措置、時間、条件、見えたこと、観察、音、さらには匂いまで詳細な観察を豊富に残している。

次回につづく。

2015-03-13 統治新論・その2 大竹弘二・國分功一郎 このエントリーを含むブックマーク

前回のつづき。


統治新論 民主主義のマネジメント (atプラス叢書)

作者: 大竹弘二 國分功一郎

出版社: 太田出版 発売日: 2015/01/24

マックス・ヴェーバー

大竹 ただヴェーバーに関していうと、晩年の彼が議会主義に否定的になったとまではいえないと思います。彼が死んだのは、正式なヴァイマル共和国議会としての最初の選挙がようやくおこなわれた1920年6月です。たしかにすでにさまざまな政治的混乱は見られましたが、彼はまだ本当に深刻な議会の機能不全に直面するには至っていません。ヴェーバーは結局、第一次世界大戦以前のドイツの自由主義者の問題意識に忠実だったと思います。つまり、皇帝とその官僚機構に対して、議会制民主主義をどのように有効に機能させるかということです。人民投票的大統領制という晩年の構想を引き合いに出して、ヴェーバーは議会制を軽視したかのように解釈するのは、シュミットなどヴァイマル期の思想家たちの議会不信をヴェーバーに事後的に投影しているだけだと思います。

ベンヤミン

大竹 (略)1921年初頭に出版された『独裁』をベンヤミンが読んでいたかどうかは定かでありませんが、同年に発表された彼の論考「暴力批判論」には、シュミットの例外状態論につながる議論が見られます。ベンヤミンは「法維持的暴力」/「法措定的暴力」という二つの暴力を区別しつつも、この区別が廃棄されてしまうような暴力形態を考えています。その例として挙げられるのが警察です。警察は法を維持するための装置でありながら、あらゆるケースに介入することで法の適用領域を無際限に広げ、事実上、新たに自分自身で法を措定し直しているのだと。法を運用しているはずの権力が、いつの間にか自分で法をつくり出していくわけです。その限りで、警察は権力のもっとも退廃した形態だとベンヤミンはいっています。

 ジョルジュ・アガンベンは、1922年に出版されたシュミットの『政治神学』を、ベンヤミンの「暴力批判論」に対する応答であると解釈しています。これが事実かどうかはともかくとして、『政治神学』ではじめて打ち出される「主権」の理論が、例外状態論が直面した困難の解決であることはたしかです。つまり、法の適用が法規範から無際限に逸脱していってしまう危険をどう防ぐか。シュミットの解決策は、「例外状態」においてはたしかに法規範は超えられ、無視されるかもしれないが、それは「主権」という、より高次の規範の名においておこなわれる、というものです。主権が法を超えて直接統治する状態が「例外状態」であるというわけです。法執行権力、つまり行政権力は、たとえ法の束縛から解き放たれたとしても、主権者の直接の管轄下でコントロールされます。こうして『政治神学』とともに、主権者が例外状態を統治するというシュミットの理論の一般的なイメージが確定することになります。

シュミット

大竹 「憲法制定権力」は主権のことですから、30年代にはあまりいわなくなりますね。国民であれ君主であれ、憲法制定権力が法を超越的に措定するという発想から、内在的に自然的に法秩序が生まれてくるという考えに30年代はうつります。俗に「決断主義」から「具体的秩序思想」への移行といわれる変化ですが。

(略)

結果として現状追認になってしまった。決断主義であれば少なくとも主体的な選択がありますが、それ自体として内容不明確な「具体的秩序」は、ヴァイマル時代にはヴァイマル共和国、ナチス時代にはナチス体制といったように、すでにあらかじめ存在している秩序を指す以上の概念ではなくなってしまう。だから結局のところシュミットは、そのつどの政治体制に順応し、既存の秩序を事後的に肯定しているにすぎないというのが、たとえばカール・レーヴィットによる批判です。

憲法改正の限界

大竹 ナチスの「合法的革命」の問題がここでも出てきますね。手続きが形式上合法なら、どんな法改正をしてもいいのか。さらにいえば、民主主義的な手続きによって民主主義そのものを転覆させることは許されるのか。ヴァイマル期のシュミットは、仮に憲法に書かれている改正手続きにしたがっていたとしても、憲法には決して変えてはいけない核心部分があると主張しました。そうでないと、憲法が自分で自分を破壊することを認めることになり、法的安定性が究極的に保てなくなってしまうからです。いわゆる「憲法改正の限界」です。この学説は現在の日本の憲法学でも広く受け入れられていますね。安倍首相が憲法改正手続きを定めた憲法96条そのものの改正に意欲を示したとき、その反対論としてもしばしば援用されました。

(略)

 こうした考えは、特に戦後の西ドイツの「基本法」――事実上の「憲法」に相当するものですが――にはっきりと反映されています。そこでは、憲法改正にあたっては人権保護や社会国家・連邦国家といった国の基本原則は変えてはならないと明示されています。それは「自由で民主的な基本秩序」とも表現されています。

(略)

ナチスの権力奪取を防げなかったヴァイマル憲法への反省にもとづくものです。基本法の起草者たちへのシュミットの理論的な影響も多少あったといわれています。

(略)

いずれにせよ、戦後西ドイツの体制が「闘う民主主義」などと呼ばれたのは、民主主義を否定する勢力には、民主主義的な権利や民主的な手続きに参加する機会を与えないという意思をはっきりさせたからです。たとえば、過激な政党を活動禁止にできることが基本法に定められているのは有名ですが、最近話題になっているものでいえば、1960年にいち早く民衆扇動罪というヘイトスピーチ規制が刑法典130条に設けられたのもその一例です。無制限な自由、無制限な民主主義にはどこかで歯止めをかけないと、自由や民主主義そのものが破壊されるという考えからです。

 ただ問題なのは、何をもって憲法改正の限界とするか、守られるべき憲法の根幹とはなんなのかが、依然としてあいまいさをとどめているという点です。

(略)

何が「自由で民主的な基本秩序」への脅威を意味するのかについては、さまざまな解釈の余地が残ります。実際、ドイツ赤軍によるテロが相次いだ70年代には、左派勢力を過剰に警戒するあまり、これがかなり拡大解釈されました。ときのブラント政権が、憲法に敵対する人物の公務員任用を拒否する「過激派条例」という悪名高い条例を出したのですが、その運用がかなり恣意的だった。たとえば、ベトナム反戦デモに少し参加しただけで「自由で民主的な基本秩序」に反すると見なされ、学校の先生になれなかった事例などです。こうした極端な措置が憲法秩序を防衛するという名目でおこなわれたわけです。

「押しつけ憲法」のトラウマ

大竹 たとえば、改憲派のなかには、自主憲法さえ制定すれば日本が一人前の主権国家になれると考えているようなひとがいます。とにかく一度日本国民自身の手で憲法が制定されれば、それで「押しつけ憲法」のトラウマは克服され、アメリカの属国という汚名から逃れられる、と。

 ただ、こうした考えは、憲法制定というはじまりの時点にあまりに強い負荷を負わせていると思います。憲法の内実は具体的な運用のなかでかたちづくられるものです。ですから、憲法が真にその国の国民自身のものになるかどうかは、それが実際にどのように解釈・運用されるかにも左右されます。一回の制定手続きだけでその憲法の性格が決まるわけではありません。(略)

[70年近く運用されてきた]この憲法が日本国民の独立主権を体現するものになっているかどうかは、この運用の歴史を見て判断しなければならない。改憲・護憲いずれの立場をとるにせよ、議論の出発点はそこからです。

文字のうえできちんと憲法改正することにあまりに抵抗しすぎると、文字がそれを運用する精神のほうに飲み込まれかねない。つまり、法の解釈が現状追認的なかたちで恣意的に拡大していく危険があるわけです。

 たとえばナチス期のシュミットは、精神の戦いということを力説しています。彼によると、これまでドイツはイギリスやフランスといった西欧自由主義諸国の影響のもとでドイツ固有の法秩序を見失ってきた。これを取り戻すにはどうすればいいか。たしかにドイツは外国由来の法律概念を数多く受け入れている。しかしそれらをドイツ的な精神によって解釈することで、ドイツ民族固有の意味をもった概念に変えることができるはずだ。こう考えたわけです。まさに法の文字ではなく、その精神のレベルで、外国と戦うということです。

 しかし、この場合のドイツ的もしくはナチス的精神なるものがなんなのかよくわからない。結局のところ、法概念を自分の好きなように換骨奪胎して勝手に解釈することを認めているだけのように思えます。そう考えると、法を運用する精神という目に見えない原理を変にもち上げないほうがいいこともたしかです。やはり文字のレベルでの実践も必要でしょう。

シュミットの同質主義的な民主主義

大竹 (略)シュミットにとっては、ある人民がひとつの同質的な集団として存在していることが民主主義の条件です。民主主義は個人の自由や権利に立脚するというより、集団的アイデンティティに立脚するというのが彼の考えです。個人の自由や権利を守るのは、民主主義の役割ではなく、むしろ民主主義とは相反する自由主義の役割とされます。自由主義と民主主義との違いは、個人の「自由」を重視するか、共同体メンバーの「平等」を重視するかという観点からとらえられるのが一般的ですが、シュミットは民主主義的な平等というものは同質的な人間集団においてのみ可能だと考えるわけです。

(略)

民主主義というのは、あるひとびとがみずからの政治的意思を集団として自己決定することだ、と。シュミットのこのような定義の背景のひとつとして、おそらく第一次世界大戦後にさかんに主張されるようになった民族自決の問題があるでしょうね。戦後に、オーストリア=ハンガリー、オスマン=トルコなどの帝国が解体したことで、とりわけ東ヨーロッパ地域に新しい国民国家が誕生する。シュミットはこうした同時代の国際状況を目の当たりにしていました。実際、シュミットは20年代から国際法や国際連盟についての論文も数多く執筆していますが、そこでは民主主義と民族自決がほとんど同じ概念として扱われています。

(略)

たしかにシュミットの同質主義的な民主主義はいまでは批判も多いです。人民の同質性というとき、彼自身は必ずしも血でつながった民族や人種を念頭においていたわけではありませんでしたが、ナチス期になると結果的に、生物学主義や人種理論に近いところに行ってしまった。このように、同質性という概念がなんらかの民族や人種に実体化される危険があるのは事実です。

 しかし、人民の同質性ということをもっと脱色して、シュミットに好意的なかたちで理解すれば、政治の目的は個人の普遍的な権利を守るだけでなく、あるひとびとが自分たちに固有な生活のあり方をみずから決定し、実現することだというコミュニタリアン的な思想をいいあらわしたものとみなすこともできます。実際ハーバーマスは、シュミットの民主主義論は現在のコミュニタリアンに重なると指摘しています。もっとも彼はこの二つをまとめて批判するためにこういっているのですが。いずれにせよ、シュミットが定式化した自由主義と民主主義の対立は、「リベラル」と「コミュニタリアン」の対立としていい換えることもできるでしょう。

ハーバーマス、市民的不服従の正統性

大竹 (略)ハーバーマスは80年代前半に市民的不服従の正統性について論じているのですが、その背景としては環境運動や女性運動といった「新しい社会運動」の盛り上がりがあります。

(略)

 彼によると、たとえ非合法な行為であったとしても、国家を民主主義的に正統化していくという観点から見れば、なんらかの寄与をすることがありうる。もちろん、非暴力的な行為に限りますよ。たとえそのときは非合法な行為であっても、あとから見れば正しい行為だったとひとびとに認められて、国家の法秩序のなかに新たな権利として書き込まれる可能性もある。もちろん、認められない可能性もありますが。ともかくも、立憲国家を進歩させるきっかけとして市民的不服従をとらえようというわけです。

(略)

「討議倫理」を作動させるそのつどのきっかけといっていいでしょう。

(略)

[市民的不服従は]

民主主義と立憲主義が触れ合う境界地点といっていいかもしれません。

(略)

単なる法律を超えたところにある正義へのセンシビリティをもって、みずからの責任でそれに忠実であろうとする。少なくとも民主主義の出発点がそこにあります。それはたしかに立憲主義と齟齬をきたすこともありますが、立憲主義の進歩に寄与することもあるわけです。もしバスの白人優先席に座った黒人女性ローザ・パークスが人種分離法にしたがって素直に優先席をゆずっていたら、アメリカの公民権法は成立していなかったかもしれない。

(略)

異議申立ての行動を立憲主義の発展にどうつなげていくか、そこが問われているのだと思います。

2015-03-11 統治新論、シュミット 大竹弘二・國分功一郎 このエントリーを含むブックマーク

『統治新論――民主主義のマネジメント』

大竹弘二・國分功一郎対談


統治新論 民主主義のマネジメント (atプラス叢書)

作者: 大竹弘二 國分功一郎

出版社: 太田出版 発売日: 2015/01/24

シュミット、例外状態論

大竹 シュミットは一般的には国家主権の理論家だととらえられています。しかし、1920年代のシュミットはたしかにそうですが、30年代以降は主権理論を放棄し、むしろ、行政理論について考えるようになっていく。その歴史的な背景としては、29年の世界大恐慌があります。経済危機に対処するためには、融通がきかない法律に縛られていては後手後手に回ってしまう。状況に応じて柔軟性があるかたちで統治をするにはどうすればよいのか、と。それで行政国家論に行きつきました。特にナチス期になると、もはや議会での立法はどうでもよく、いわゆる総統の下す命令や措置がすべての法律と同等の価値をもつと考えるようになる。法治国家の原理をほとんど放棄してしまい、実質的に例外状態を永続化してしまうロジックになります。

(略)

20年代までのシュミットは、例外状態において政府が下す措置は、たしかに法は超えるが、主権を超えるわけではないといったかたちで正当化しました。30年代になると、今度は主権概念に代わって、「具体的秩序」や「ノモス」といった概念のもとで例外状態をコントロールしようとします。行政の活動が恣意的なものにならないための努力はしているわけですが、いかんせん彼のいう「具体的秩序」は全然「具体的」じゃない。行政措置に対する規範的な縛りはないも同然となって、恣意的な執行活動がどんどん広がることになる。

 ナチス政権は独裁政権といわれますが、ひとりの独裁者がすべてを決めていたというイメージは少し違います。政治学者フランツ・ノイマンの有名なナチズム研究書『ビヒモス』でも指摘されていますが、法律を超えて、そのつどの予測できない措置・命令が拡大していくという点にナチス体制の特徴があります。むろんノイマンは、同じフランクフルト学派のフリードリヒ・ポロックやマックス・ホルクハイマーとは違って、ナチズムを「国家資本主義」、つまり国家が経済を全面的にコントロールする体制とまでは解釈していませんが、執行権力の活動のいびつな肥大化を問題にしている。その意味ではナチスの全体主義支配は、極端なところまで行きついた一種の行政国家として定義できるのだと思います。

(略)

行政の活動はつねにそうした危険をはらんでいます。さらに、先ほどもいったように、「公開性の根源」ではシュミットの例外状態論をさらに突きすすめ、執行権が法を超えるという事態のラディカルな帰結として新自由主義的な流れを考えています。統治活動が民間企業に外部委託されるようになると、行政国家ですらなくなってしまう。そのときには、単に行政権力が肥大化するというだけにとどまらず、統治が国家の決定する法令ルールから完全に切り離されてしまうんじゃないかと。少なくとも、国家の行為であれば、不完全なものであれルールはあるわけです。国民がそれを決めて、チェックできる仕組みはある程度整っている。しかし、民営化されてしまうと、その活動をチェックすることすらもむずかしくなる。accountability(説明責任)という概念はありますが、いまだ単なる道徳的な要請にとどまっているように思えます。

大竹 (略)ドゥルーズが『哲学の教科書』のなかでモーリス・オーリウという法学者の考えを引用して、法ではなく制度のほうが重要だということをいっている。法が制度をつくるのではなくて、制度が法をつくるということですね。オーリウは制度を重視して法を考えた法学者なんですが、実はシュミットがこのひとにすごく依拠している。さっき触れたシュミットの「具体的秩序」思想のベースになっているのが、オーリウの制度論なんですね。一般的な法律ではなく、具体的な制度にもとづく統治でなければならないと。ヴァイマル共和国時代の後半からそういう「制度的保障」という考えを出してくるんですが、当初はまだよかった。しかしナチス期になると、その具体的な制度が具体性のまったくない「ノモス」のような概念に横滑りしてしまう。おおよそドイツ民族の(あるいは後年になるとヨーロッパの)文化的共同体を示唆していることはわかるのですが、しかし抽象的な概念にとどまっています。統治はそのノモスにさえ依拠していれば、法律を超えてもさしつかえないという話になり、法律の恒常的な侵害を正当化するロジックになってしまう。だから、シュミットのような抽象的なかたちではなく、制度というものをもっと本当の意味で具体的に設計していく必要がある。

マイネッケ

[大竹がマイネッケについて書いた文章を紹介して]

國分  マイネッケによれば、政治家はしばしば法を犠牲にしてでも国家を救うという挙に出なければならない。国家理性論とは、そうした法に対する侵犯行為をなんとか規範化しようとする試みであった。そうすると国家理性論には、統治のためには法を犯してもよいが、しかしその行為も実はある種の高次の法にしたがっているという奇妙な論理、パラドクスが見い出せることになる。

(略)

マイネッケによれば、近代国家は結局このパラドクスをうまく解決できなくて挫折した。別のいい方をすると、力と法のパラドクスの折り合いをつけることができなかった。そこでマイネッケは次のように指摘します。第一次大戦のような破局は「必要があれば法を犯して行動してもよい」と命ずる国家理性がもたらした「近代的な肥大症」の悪しき結果である、と。

(略)

 とはいえ、マイネッケが最終的に出した結論というのは、政治的行為者は法と力のあいだで引き裂かれつつも、その矛盾を自覚的に引き受けねばならないという「お馴染み」のものだった。

「国家」と「国民」

大竹 90年代当時の思想界の言説では、しばしば「国家」と「国民」が混同されて、近代国家はもっぱら「国民」というイデオロギーの産物としてのみとらえられていたように思います。ひとびとを同質化している「国民」理念の虚構性さえ批判すれば、やがて国家権力もなくなっていくはずだと。そうしたイデオロギー批判の重要性を否定するわけではありませんが、その際にはしばしば、国家が物理的・制度的につくり上げられた統治機構であるという事実が見逃されてしまったのではないでしょうか。

法の制定と運用

大竹 (略)[法の制定に劣らず、]あるいは、法の制定以上に法の運用のほうが重要だといっていいかもしれません。なぜなら、結局のところ、ある法がどういう性格の法であるかは、書かれている条文そのものではなく、その条文がどういうふうに運用されていくかによって決まるわけですから。極端にいえば、日々の運用のなかで、法はたえず新たに制定され続けているとさえいうことができます。

 法についてのこうした考え方には、長い哲学的伝統があります。たとえば、16世紀のフランスの思想家ミシェル・ド・モンテーニュは高等法院で法官をつとめた人物ですが、その彼も「法律の解釈には法律の起草と同じくらい広く自由の余地がある」と嘆いています。いくら細かく法律をつくったとしても、人間たちの行為の無限の多様さは決して網羅できないので、実際の判決においては、裁判官が自由に法律を解釈することが避けられないというわけです。

(略)

ヴァルター・ベンヤミンは「暴力批判論」で、「法を措定する」行為は「法を維持する」行為としばしば区別できないほど絡みあっていると指摘していますし、これとの関連でジャック・デリダもまた、「適用可能性のない法というものはない」と述べています。

 要するに、「法」と「力」というものは単純に対立しているわけではありません。力が法をつくったり踏みにじったりする、あるいは法が力を抑えるというよりも、法そのもののなかに法を踏み超えていくような力の可能性が内在しているということです。

(略)

[解釈執行]によってかえって法の本来の趣旨から逸脱することかありうるわけです。そして、法そのものはこれをどうすることもできない。

ブリューニング内閣の大統領緊急令濫用

大竹 (略)世界恐慌のさなかの30年にハインリヒ・ブリューニング内閣というのが成立しますが、これがまさにシュミットの行政国家論を地でいくようなことをするわけです。この内閣は少数与党内閣だったので、議会で簡単に法案を通すことができませんでした。そこでブリューニングが利用したのが、有名なヴァイマル憲法第48条の大統領緊急命令権です。議会で立法をおこなう代わりに、大統領の名で公布される行政命令を使って政治運営をすすめるわけです。こうして本来は単に法の適用をおこなっているはずの行政権力が、当の法律にとって代わるような役割を果たすことになります。こうした大統領緊急令の濫用が結局は法の支配を骨技きにしてしまい、ナチス政権への道を開いてしまうわけです。

緊急令濫用の一因は福祉国家へのシフト

大竹 [緊急令が濫用されたのは、小党乱立で議会が機能不全に陥っていたからだけではなく、福祉国家にシフトしたため]

ヴァイマル憲法は、生存権をはじめとして、労働・教育・住宅保有の権利などの社会権を大幅に認めた世界史上初の憲法で、保守派からは社会主義的とさえみなされた憲法です。これらの権利を政策のなかで実現していくためには、議会の立法だけではどうしても不十分です。国民生活の隅々にまで配慮することのできる行政介入がいやおうなくその役割を増していく。

福祉国家とナチス

大竹 ナチスは19世紀以降の社会福祉国家のパラダイムのもとで見る必要があるでしょう。特にドイツでは、現在の社会保障制度の基礎となっているオットー・フォン・ビスマルクの社会福祉の伝統があります。そうした行政国家化の流れのうえに、ヴァイマル共和国もナチスもある。

(略)

 歴史家のデートレフ・ポイカートが指摘していることですが、ヴァイマル共和国時代に行政コストの増大によって、社会国家はすでに財政上の危機に陥っていたそうです。ヴァイマル憲法に労働や教育などのさまざまな国民の権利が盛り込まれたのはいいけれど、それを実現するためのお金の裏付けがなかった。社会保障のための財政資金はアメリカからの資本の借り入れによってなんとかまかなわれていたわけですが、世界大恐慌によって外資がドイツから引き揚げると、財政難はますます深刻化する。そうなると給付対象者の「選別」というものが必要になってきます。つまり、その者が給付にふさわしい「価値のある」あるいは「役に立つ」人間であるかどうか。社会政策が「社会防衛」としての性格を強めていくわけです。ナチス時代になると、そうした人間の「有用性」が明確に人種理論や生物学によって基礎づけられるようになる。ナチスは人種生物学にもとづく社会福祉国家といえます。

(略)

結婚したひとに無利子で融資し、出産した子どもの数に応じて返済金を減額する結婚貨付なんていう制度もありました。当然、女性の出産奨励というナチスの母性保護政策にそった制度です。これによって、それまで働いていた女性の多くが専業主婦として家庭に入り、彼女らの抜けた職場が男性失業者によって補われました。ナチス時代の失業率低下にはこうした数字のトリックもあります。専業主婦は失業者として換算されませんから。

次回につづく。


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2015-03-09 「反おもしろくない」でいけ、春樹批評 吉本隆明 このエントリーを含むブックマーク

吉本隆明未収録講演集第二巻。94年の「物語について」という講演だけ、あまり聴いたことのない話が多かったので引用。

前半が、当時出たばかりの『ねじまき鳥〜』についての話、ここらへんで読むのをやめられそうな可能性があるので、後半の、現代は大衆も高等遊民化し、漱石の時代のように、純文学作家がオレはお前たちとは違うと孤立できず、大衆におもねり通俗化しがちで、これから純文学が成立するには「反おもしろくない」でいかないと駄目かもという話が面白いよと前置き。

この講演だけ読むと吉本が春樹を評価してなかったようにとられそうなので、純文学界で評価されてなかった初期から評価していた、と念の為に書いておくw


吉本隆明〈未収録〉講演集2 心と生命について (シリーズ・全集)

作者: 吉本隆明

出版社: 筑摩書房 発売日: 2015/01/08

村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

 それから[村上が]もうひとつ云っていることは、物語というのは起承転結といいましょうか、初めにイントロダクション、入り口があって、展開していって、A、B、C、Dと行って、Dのところにクライマックスがきて、それから終末がくるというのが昔話からの物語の定型ですが、じぶんはその定型の順序を変えている。初めにBがきたり、次にDがきたりという変え方をしたらどうかと考えて書いていると云っています。(略)

「流れがそういかないように筋道を抜いて物語を書いたらどうなるかということをじぶんはやってきた。断片的な告白、あるいは断片的な感想をつなぎ合わせて、それをひとつの長編に持っていってしまうという形に近いことをやろうとしてきた」と云っています。(略)

「日本の近代文学をたとえば漱石に象徴させて読んでみると、Aから始まってB、C、Dというところで、ギリギリに登場人物なり物語の筋道を追い詰めていってクライマックス、終局へいくというように、定型的で、しかも自我と外界の出来事のあいだの葛藤をギリギリ追い詰めていく、そういう小説が日本の近代小説の主流だ。じぶんはそれが主流だと思うと小説を書く気がしないし、書けなかった。順序を崩すことをじぶんができるようになり、それから中を抜いてしまって物語にすることをやれるようになって、じぶんの小説が初めて成り立った」という言い方をしています。

(略)

「自分は自我意識のレベル、つまり日常意識のレベルでの葛藤とか蔑視とかドラマとか、そういう処で作品を書いていない。それよりも、もっと無意識のほうに下がった処に主眼を置いて小説を書いている。そうするとじぶんの書いているような作品になるんだ」と云っています。

 村上さん自身はそう思って書いていますが、僕らがはたから野次馬として読むと、そうじゃなくて、やっぱり漱石流の、つまり近代文学あるいは西欧近代が培ってきた自我意識の葛藤と現在の風俗を非常にうまく取り混ぜてというか、折衷しながら作品を書いていると見えてしまうのです。

 だから意地悪く云えば、「漱石の作品は風俗小説と云えないけど、村上さんの作品は風俗小説と云えば風俗小説だよな。おもしろい風俗、奇妙な風俗が村上さんの小説を非常に引き立てているな」というように見えます。

(略)

[中条省平が『ねじまき鳥〜』を登場人物や事件のつづまりがひとつもついてない、曖昧なままで、小説の倫理に反すると全否定したことへの、村上の弁明が「漱石流の日常生活の意識的な自我と外界との葛藤とか事件を書こうとしていない」なのだろうと吉本]

 僕は、なぜ村上さんの作品がおもしろいのか、いいのかといった場合、意味論的にと云いますか、「こういう筋書きで、こうなって、この自我とこの自我がこういうふうに葛藤してこうなったんだ」という意味合いでの良さは、あったとしても半分で、あとの半分は、文体を流れている一種のリズムの気持ち良さです。それは何の意味もないというか、意味とはかかわりない一種のリズムがあって、それが停滞せずに流れていく。だから、いったんそこに入り込むと、終わりまでずっと流れに沿って、読み終わって気持ちがいいというか、心地良い感じで読み終わる。そういう要素が村上さんの作品にはあって、「半分はその良さだろう」と読めるのではないかと思います。

(略)

これで読めば、登場人物のつづまりがついていないじゃないかとか、こんなばかなことがあるかということはあまり気にならずに、リズムの流れとして気持ち良く読んでいけるところがありますから、それでいいんじゃないかと僕は思います。

 物語で云えば、半分無意識の領域のところで書いているから、そんなに因果関係が明瞭にならなくても、そんなことは夢と同じで無意識の領域ではいっぱいありうるから、つづまりがついていなかったり矛盾があっても気にならないんじゃないかということを、村上さんはあらかじめ弁明していると思います。

(略)

村上さんが漱石の小説とかじぶんの小説について触れている問題は、僕の物語についての考え方からすると「形態論」という概念の問題になると思います。

 形態論から云えば、「村上さんは形態を意識下にというか、無意識のほうに沈めて考えようとしたんだ」と云えば、非常にいい弁護の仕方になると思います。物語の形態とは何なのかということを少し説明します。

[以下「形態論」の説明省略]

漱石の形態論

 日本の明治以降の近代小説は、それこそ漱石なんか典型的に、最も遠くまで形態認識を展開させた人です。それをどれだけ近代化するかというと、近代的に独立した一個の自我の日常意識があって、自分以外のものを全部外界あるいは他者と考え、それとの葛藤が物語になっていく。実際にある形態、日常生活で当面する形態よりも物語の形態認識をもっと鋭く際立たせる。あるいは自我意識をもっと鋭く際立たせることを、漱石はとことんまでやったのです。

 つまり、漱石の小説の中における想像力は、そういうところにあると云っていいと思います。それがいちばん分かりやすい漱石の作品は『道草』です。『道草』はじぶんたちの夫婦の自伝小説だと読めば読めるような、あるいは私小説と読めば読めるようなもので

(略)

 川崎長太郎でも安岡章太郎でもだれでもいいのですけど、典型的な私小説作家がじぶんの家庭内外のいろいろな出来事を書いたりすると、ちょっと読んじゃいられないよというように、ゴチャゴチャしたことをグダグダ書いてちっともおもしろくないというふうに読めば読める。つまりルソーの『告白』みたいに、「告白なんだけど哲学書として読める」というものは、日本の私小説にはないのです。

 日常あった出来事をグダグダまんべんなく書いて、初めも尻尾も分からないみたいに書いているのが日本の私小説で、それなりの良さや特徴もありますけど、激石がそういう私小説的な素材、つまり家庭の内と外で起こった出来事を書くと、日常意識の形態認識にならないのです。

(略)

 存在論的なと云ったらおかしいですが、実存的な領域まで、主人公もひとりでにそうなってしまうし、奥さんもそうなってしまうという形です。人間の存在感というのはかかるものかという、存在感との間の葛藤みたいに読めるぐらい、『道草』は立体的です。

 漱石が書くと立体的だ。しかし日本のほかの私小説作家がこういう素材を扱っても、平面的な描写がダラダラ続くことになってしまう。これはどうしてかというと、形態認識が違うからです。要するに、現実の日常認識がまるで違う。あるいはそれを近代と云うなら、近代に対する身の置き方がまるで違うということになります。

(略)

同時代のほかの人、たとえば田山花袋みたいな当時の自然主義作家と比べるとお話にならないぐらい違います。田山花袋の小説は、いいものもたくさんありますが、どういうふうにできているかというと自然描写と、そんなに際立った自我ではなくて、日常ありふれて発揮される自我の日常的な葛藤を描いています。

(略)

 そういう意味合いで云えば、田山花袋の小説は自然描写と同じです。(略)

「そこに咲いていてきれいだった」という次元で出てきますけど、それと同じ次元で、日常の主人公たちの自我の表われ方が出てくるという形で小説が書かれていますから、平面的な小説だということになります。

(略)

 つまり、村上さんの小説は、現在の日本の文学の上等ないい作品なんだというふうに見た場合、村上さん自身、「漱石的自我、あるいは存在論的自我の葛藤ということを小説の本筋だとはじぶんは考えたくない。そうじゃなくて、人間の無意識がどんな事件を引き起こし、どんなことを考えるかということを描く。いまの時代なら、なおさらそういうものを掘り起こすことがじぶんの文学のモチーフだ」と云って、そう位置づけていますが、僕が客観的に見たら、そういうふうにはできていないよ、できているといっても半分ぐらいだよというふうにしか云えないと思います。

 要するに、漱石的な自我を近代小説の本筋とすれば、とことんやってしまっているから、「じぶんが小説を書くとすれば、こういう書き方をしたらそれ以上には出られないことは分かりきっている。形態的にちょっと違うようにしよう」と考えたことは確かだけど、それがうまくいっているとは、僕には思えません。

(略)

[村上龍他の作品にも軽く触れてから]

 つまり漱石流の自我認識に比べたらはるかに通俗的な自我意識のところで、ただ素材だけは現在だから違う風俗の素材だとか違う宗教の素材を持ってくるけど、そういう素材の新奇さというか珍らしさと、割合に通俗的な自我認識が合体してできあがっている作品が、いまいい作品だと云われているものの正直なあり方じゃないかと、僕には思えます。 

高等遊民

かつてだったら、これだけ作品を見事に描けたら、ひとりでに物語の形態認識としてもはるかに近代小説の認識を超えているというふうになるはずです。だけど、作家に対してそうはさせないよと足を引っ張っているのが現在の大部分の読み手というか、読者を想定するとかつての漱石時代だったらそういう読者はほんの小部分しかいなかったのです。

(略)

漱石自身はそれを高等遊民と名づけていますが、要するにこれは日本近代が初めて生んだ知識人なんです。フラフラして「考えることをしている」のですが、外から見たら何もやっていないでぼんやりしているのとちっとも変わらない。(略)

ただ遊んでいるだけにしか見えないけど、西欧の近代社会も、ロシアの近代社会も、日本の明治以降の近代社会も、必然的にそういう男たちを生み出してしまった。知識人というのはそういうものだ。

(略)

 その時代の形態認識では、漱石的作品は非常に意味を持ちます。(略)

 ところが現在は、考えることをしているというのは珍らしくも何ともないのです。極端なことを云うと、日本の国民の九割は考えることをしているというふうになっています。

(略)

 だから、「考えることをしている人間だ」ということだけに根拠を与えることはできないので、もしかすると非常に巧みにというか、非常にうまく、そういう意味合いでできあがった物語や近代小説の形態を壊すということが、本当は現行の小説あるいは文学作品の課題かもしれないのですが、なかなかそうはいきません。

(略)

九割のじぶんは考えることをしているんだという人が無意識に足を引っ張っているのです。

(略)

考えることをしているという多数派の九割の人に対して、小説家が「俺はお前らと同じように考えることをしているだけではないぞ」と示す孤独さと云ったらいいんでしょうか、それを保つのはものすごく難しくなっていると思います。

(略)

 作家といえども九割の中の一人であって、九割がお前は頭がおかしくなっていると云っているんだよと、じぶんで孤独になりそうなじぶんの足を引っ張ることになって、孤独になりきれないで、どこかで九割の人とじぶんがつながっているという意識を持ちたいのです。そうしたら、表現した物語の形態ははるかに通俗的になります。それは免れないと思います。つまり九割の人と同じ基盤でおもしろおかしくというのを持たざるをえないというのはものすごく当然なことですし、そういう意味では漱石時代の文学者より、本格的な文学というのははるかに難しくなっていると思います。

(略)

だけど俺は、本当は自我を考えるのは当然なんだというところで安んじている九割の人とは違う。俺はそこから元へ戻って、根柢的にそうなっているものをもう一回壊したいという課題をいつでも持っているんだ」というところで小説を書くのがいかに難しいかと云えば、また云えてしまうというのが現在の状態だと思います。

 村上さんは鋭敏な人だし村上龍という人も鋭敏だから、言葉で云えるかどうかは別として、たぶんそういうことに感覚的に気がついていると思います。自分はそれをやったんだよと云いたいし、そう思っているかもしれませんが、主観的にそう思っていることが客観的にそうかというと違ってて、僕はそれはうまくできていないと思います。

 ですから折衷になってしまっています。九割九分の人と根柢が同じところで孤独になろうと思ってもなりようがないんだよというところで、ちょっと気を許してしまっているみたいなところがあって、それは何かというと、近代的自我の確立で考えることをしているという一種の協業になってしまう。その二つがミックスしているというのが、骨組みだけ、形態論だけ云えば村上龍さんなり春樹さんの小説の本筋だと思います。

(略)

それはものすごく難しいから、知識で云えば一種の知識主義になってしまうし、どこかで九割九分の、あるいは九割の人と同じなんだということがじぶんの安心感になってしまいます。

 無意識のうちにそれが安心感になったら、作品の中でどんなふうに深刻めかしても、必ずそれは表われてきます。そうなってしまっているのが事実じゃないでしょうか。

つくられる無意識

そういうふうにできあがっている無意識を、何と呼んでいいか分からないのですが、一種のつくられる無意識といいましょうか。河合さんのユング心理学とかフロイト心理学は、「意識の下に無意識がある」ということですが、そうじゃなくて意識の上に無意識がある。つまりつくられる無意識というか、無意識のうちに無意識をつくらなくてはならない。その無意識は、意識の下に引っ込めてあってときどきそれが出てきて爆発するという無意識じゃなくて、じぶんが意識の極限まで行く。つまり「考えることをしている」ということを意味づけるとすれば、意味づけたもののもっと先のところに無意識みたいなものがあって、それがどうつくられたかは半分ぐらい分かってもあとは分からない。そういう無意識をつくるのが、たぶんいまの課題だと僕は思います。それはどういうものなのかとなると、手がかりがあるように思えると、またそれが遠ざかってしまうという形で、社会的にも個人の内面でも、考えることをしているということでも、なかなかうまくそれを捕まえることができない。

反復

親たちは捨てたつもりなのに[兄妹は石やパン屑を辿って]また帰ってきてしまう。そういうふうに同じ形の物語が反復するのが童話とか昔物語みたいなものの典型です。

 反復というのは物語の大きな柱です。それは目に見える反復もあるし、目に見えない反復があるものもあります。たとえば物語の筋道を、自分の自我意識のフィルターを通すわけですが、そのフィルターが非常に細かくて震えるように動いていると、そこを通過してくる反復というのは、ほとんど反復と気づかれない反復の仕方をします。(略)

反復がそこを通るときに通俗的な反復はそこの網の目を通れなくて、セレクトされてしまうということがあります。そういう小説は、反復なんかちっともないように見えますが、よく分析するともちろん反復があるわけです。つまり反復というのは昔物語とか童話に典型的なように、おもしろさということと対応します。物語をおもしろくするという形をもっと通俗的にすると、反復になってしまう。通俗的にして、子どもにも分かりやすくすると、童話みたいな形での反復や昔話みたいな反復になってしまいます。これを高度にしてやろうと、反復する物語性を高度に震える自我意識というか、繊細な自我意識のフィルターを通そうとすると、分かりやすい反復だけフィルターから除外されて、それを通りうる反復、目に見えない反復に近いものしか通れない。ですから、これは高度な小説と云われるものになってしまうのです。

 それは云ってみれば、通俗的な言葉で云うと、物語をおもしろくなくさせる要素になります。つまり村上さんの小説は、まだおもしろい要素がある。だけど漱石の小説はおもしろいというわけにはいかない。こういうのは深刻すぎて嫌だ、小説はおもしろおかしくなくちゃ嫌だという人はちょっと飛びつけない。うまいから飛びつけるということはありますが、飛びつけないということになりますし、まして近代的自我というか「自我の震えは繊細にして、かつ非常に存在論的に確立しているものだから、俺が書いた小説はものすごく高度なんだ」とじぶんで思っている人の小説も、やっぱりおもしろくないというだけのものです。僕が云いたいことは、そうじゃなくて、現在の小説は「おもしろくないの反対」ということが可能であるかどうかです。どう云ったらいいでしょうか。「反対のおもしろい」というのか、知りませんけれども、そういうことが可能であるかどうかが物語としての課題になると僕は思っています。

 近代的自我の延長線上で高度なものはいろいろありますが、たとえばカフカの小説は高度な震えの中を通過していきます。ですから反復なんて見当たらない。欠如しか見当たらないということになりますが、この高度さは、僕はおもしろくないという高度さだと思います。

 「おもしろくないの反対だ」という高度さではないと思います。「おもしろいの反対」は、子どもにはわからないというふうになるかもしれませんが、これは子どもがわからない高度な文学鑑賞だよとか、これを書くのは高度な人なんだよと思っているようなおもしろくなさというのは、僕は終わりだと思いますし、終わっていると思います。

 「反おもしろくない」というのはどういうことだ。ちょっと云いようがないなということになるのですが、それが現代の物語の課題であると思います。

反おもしろくないことというのは何なのか。形態というのは何なのか。形態の最も現代的課題は何なのか。パラ・イメージというか上からの視点を導入する、想像力に上からの視線を入れるということはどういう意味を持つか。つまり「反」というものに対してどういう役割をするか。そういうことにとにかくいろいろなところから手をつけて、そこに取り掛かりたいわけです。それが完全にできているとか、うまくできているとは必ずしも云えないんですが、僕自身が批評的課題として持っていることを云えば、そういうところです。

2015-03-06 政治的正義 オトフリート・ヘッフェ 人権 このエントリーを含むブックマーク

人権のあたりをチラ見。


政治的正義―法と国家に関する批判哲学の基礎づけ (叢書・ウニベルシタス)

作者: オトフリートヘッフェ 北尾宏之 望月俊孝 平石隆敏

出版社: 法政大学出版局 発売日: 1994/10

人権

 憲法の歴史を見ればわかるように、近代の政治的構想の中心に位置するのは人権である。人権とはすなわち、人間なら誰であれ、またどんな状況においてであれ要求してよい権利である。これに批判的な人たちはいくぶん軽蔑的に「近代の市民宗教」などと呼んだりしているが、これは西洋における権利の展開の中ではひとつの革命を意味している。ただし、革命とはいっても歴史的進展というかたちで繰り広げられた革命ではあるけれども。人権の理念は、ギリシアやストア、それにユダヤ教やキリスト教の政治哲学に見られる準備段階での思想のあとを受けて、ヨーロッパの啓蒙主義運動の中でその輪郭がすみずみまで定まった。

(略)

 いうまでもないことだが、人権という想定に対しては、一連の根本的な異議がある。まずはじめに登場する疑念は、一種の法倫理学的相対主義である。すなわち、人権というものはいつでもどこでも妥当しなければならないはずなのに、実際には普遍的な請求権の思想はおもに西洋の文化圈にしか見られず、その中でも歴史的にはおそい時期の現象なのだ、というわけである。

 このように人権の理念が社会的・歴史的に制約されているとする異議に対しては、わりあい簡単に対処することができる。発見のコンテクストと正当化のコンテクストとを区別し、その哲学的・政治的発見が比較的おそいからといって発見されたものの普遍妥当性が排除されはしないということをしっかり見ておけばよいのである。さらにいえば、法原理のなかには、意味内容のうえでは人権にかかわっており、しかも歴史上はじめて人権言言が出されるよりもずっとまえからほとんどすべての法的共同社会で承認されてきたようなものも存在する。たとえば殺しの禁止がそうである。他方また、信仰の自由のように、一定の付随的条件のもとではじめて揺さぶられるにいたった人権もある。キリスト生誕以前のローマは被征服民に対して彼らが自分たちの祭式をおこなうことを許していたが、国家宗教に成長したキリスト教はこのような寛容を捨て去ったのである。

 もちろん、人権思想のなかに請求権の普遍性という考えが含まれているとはいっても、多くの人権宣言は、くわしく見てみると不十分で、一面的で、おそらくは行きすぎでもあることがわかる。人権思想は規範的・批判的な性格をもつものである。人権にかかかる請求権が性や肌の色、言語、宗教的信条や政治的信条、さらには経済的・社会的地位といったものとかかわりなく適用されるべきだというのなら、体系のうえからいえば、まずもってその請求権がまさにこれらの要因とはかかわりなく人間の権利であるということを証明しておかねばならないであろう。もしこの証明に失敗するならば、問題になっている人権は本当の人権ではなく見せかけの人権だということになる。

 次に、功利主義の側からは、法倫理学的に見てもっと重大な異議が提出される。それが論拠とするところは、こうである。功利主義にしたがえば、正当化に関する議論において最後にものを言うのは配分的利益ではなく集団全体の利益である。ところが、人権は、その概念からいうと配分的利益、すなわちひとりひとりすべての人間に与えられるべき利益である。ゆえに、このような人権の利益は、もしもそれより大きい社会全体の利益があるならば、そちらの利益のために犠牲にされてもかまわない。功利主義は、こんなふうに言うのである。けれども、これまでおこなってきた正義のパースペクティブの説明と正当化は、功利主義に反対して、こう述べることになる。すなわち、強制というかたちをとる社会的関係が全面的に正当といえるのは、その社会的関係が当事者の全体にとって利益があるだけではなく、ひとりひとりすべての当事者にとって利益がある場合に限られるのだ、と。

 このようにして、残る異議は、基本的には次に述べる第三の異議だけになる。あるものがそんなふうにすべての人にとってプラスになる普遍的な利益であるということなど証明できるわけがない、というのがその異議である。

(略)

ハーバーマスは、「道徳哲学者は道徳的真理への特権的な接近を」思いのままにできるわけでは「ない」と主張する。これは正しい。しかし、だからといって、行為の自由を可能にする普遍的条件がありえないということにはならない。これがあってはじめて行為の自由が可能になるというような普遍的条件は存在する。それはすべての人にとって有益であって、普遍的な同意を得ることができる。しかもそれは、たしかに討議を通じての意志形成のなかで何度も新たに「合理的」だと明らかにすることもできるけれども、しかし体系のうえではいつでもすでに討議的意志形成自身の前提となっている。「必死でわが身を守る」のではなく身体と生命の不可侵性について「ただただ討議するだけ」でよいという人も、すでに「実質的な」条件のもとで生きている。道徳哲学(ここでは法倫理学・国家倫理学としての道徳哲学)だけが特権的にその実質的条件を正当化できるわけではないけれども、道徳哲学はその権能を十分にもっている。

 以上の洞察をもっと一般化して言い直すと、われわれは自由の相互放棄という正義の中間原理でもって配分的利益という意味での普遍的利益を見いだした、ということになる。あとはもう、この中間原理がさらに人権という性格、したがって人間であるがゆえにこそ人間に当然与えられるべきである請求権という性格をももっているということを明らかにしさえすれば十分である。

「人権の歴史がまだ短い」は近代の自惚れ

 数多くの憲法史や憲法論の研究が示しているように、人権の実定化の過程のなかで特に大きな役割を果たしているのは近代における展開である。すなわち、人権としての意義をもつ基本権を宣言したものがはじめて見られるのは、18世紀の後半になってようやくのことである。たしかに自由権を宣言する伝統はそれよりもずっと以前からある。しかし、たとえば『マグナ・カルタ』(1215年)やハンガリーのアンドレアス二世の『金印勅書』(1222年)のような多くの中世の自由の証書は、けっして人権の擁護を請け負っているわけではなく、ある特定の都市や身分に対して特権を保証しているのであって、しかも生まれながらの支配者によって「上から」与えられたものである。このような状況はずっと変わらなかったが、『ヴァージニア権利宣言』(1776年)が登場してはじめて状況が一変した。これは、「ヴァージニアの善良なる市民の代表者たち」によって「下から」公布された。それゆえ、これは主権者である市民によるものであって、しかももはや特定の特権階級にではなく、すべての人間に自由を認定するものである。

 それからほんの数世代のうちに、あとを追うように大多数の国家が同様の基本権の声明を掲げることになった。それゆえ、正義の中間原理の承認の歴史は、始まるのはおそかったが、いったん始まってからは急速に進展し、今日では基本的に完結してしまっているという過程であるかのように見える。いいかえれば、何千年、何十万年つづいた長い世界史のほんの短い歴史であるかのように見える。しかし、もっとくわしく見ていくならば、こうした見方は訂正しておかなければならない。(略)

「人権の歴史がまだ短い」とする考え方のなかには、近代の自惚れの傾向が見え隠れしている。

 人権の実定化の歴史がすべて近代の中にあるとみなす試みに対しては、次のような反論をあげることができる。人権が基本権として承認されたということは、せいぜいのところ最後の仕上げにすぎない。そうした仕上げを果たすことができたのは、それを支える精神史的・法制史的な素地があったからにほかならない。この精神史的・法制史的な素地をさかのぼってたどると、ヨーロッパの啓蒙主義や中世の自由の証書をはるかに越えて、ギリシアの古典哲学やヘレニズム思想、そしてユダヤ教およびキリスト教の宗教観にまで達することになる。

 ヘーゲルのよく知られた思想に依拠するなら、世界史を人権の承認が(遅々としてではあるが)前進していく歩みとして読むこともできるであろう。(略)

では、その歴史が始まったのはいつなのか。それは、(当初は慣習法的であったにせよ)刑法が成立したときである。法的共同体の誕生が見られるのは、(民法と区別した意味での)刑法においてである。それゆえ、最初の大きな「正義の前進」、つまり最初の「人権の実定化の前進」が生じたのは近代ではないし、はたまたヘレニズムやキリスト教の時代をまつまでもない。そうではなくて、刑法が(多少とも外形的に)成立して、その制裁によって身体と生命、名誉、財産といった基本的自由が保護されるようになったときである。

自由権

 このように人権が実定法として承認されるにあたっては、人権は二重の意味をもっている。体系のうえでまず第一の意味は、人間が互いに対してもつ請求権としての意味である。そして第二に、人権は、そういう請求権を保護すべき機関(すなわち国家)に対する請求権としての意味ももっている。たしかに人権は共に生きる他の人間の側から危機にさらされることがある。だからこそ国家が人権を保護する。しかし、人権の危機はそれだけにはとどまらない。「保護権力」自身によって請求権が危うくされる場合もある。たとえば身体と生命は、恣意的な拘禁や行きすぎた(「過酷な」)刑罰によって、あるいはまた拷問のようにまったく不当な措置によって危うくされることがある。

(略)

 近代において人権をめぐる議論に火がつくことになった背景では、こういった第二の意味にかかわる問題までもが一因としてはたらいている。近代の初期においてもまだしばらくは国家と教会との融合が広く一般に見られた。そして次には国家権力が絶対主義的な傾向をもつようになった。こうした状況のもとで、自由権が国家権力に対する拒否権というかたちで具体化した。近代の憲法理論にしたがえば、自由権は国家が侵害してはならない公法上の権利(いわゆる消極的地位)である。そして、このような拒否権という枠組みの中で、信仰の自由、言論の自由、そして人身の自由(人身保護の基本権、すなわち恣意的な拘禁からの保護)がもっとも重要な自由権として登場するのである。

福祉国家

 国家に社会福祉の責任があることを基礎づけるためには二つの論証戦略がある。ひとつは絶対的な論証である。この論証は、社会福祉の責任が他の諸原理(ここでは、正しい共存のための諸原理)から独立に妥当する国家の任務であることを証明しようとする。これに対して、もうひとつは機能的な論証である。こちらの論証は、これまでたどってきた正当化の方向をさらに先へと進めるものである。それは、国家を正義が現実のものとなるための条件だとみなし、ある種の福祉国家的な要素がなければ基本的自由はしかるべき歴史的現実性を得ることがないということを示す。このような機能的な正当化の線でいえば、福祉国家は政治的正義の戦略のひとつである。

(略)

 機能的な正当化においては、福祉国家を福利国家という意味に解さないことが重要である。というのも、福利という表現はあまりにも幸福や幸せという表現に近いからである。たしかに、「近代国家は人間が幸福になるのを手助けすることができるし、また手助けすべきだ」という見解もある。しかし、この見解はひとつの期待にすぎない。あるいはそれどころか空約束にすぎず、国家にはそれを果たす能力も権限もないとさえいえる。それゆえ、福祉国家の機能的な正当化は「脱神話化」から出発する。つまり、近代の政治的構想のなかに非現実的で同時に不当でもあるような要素がときおり忍び込むということ、このことの指摘から出発するわけである。

 その指摘は以下のとおりである。法秩序や国家秩序においては、それが徹頭徹尾正しい法秩序であり国家秩序であるとしても、人間の幸福追求のいくつかの可能性が決まるだけである。これに対して、それらの可能性のなかからひとつを選び出してつかみとることは、それぞれの個人なり集団なりにゆだねられている。というのも、人間は究極的には何のために生きているのかという問いに対する答えとなるもの(すなわち幸福、自己実現、あるいはその人自身の人間性)、これは、われわれを取り巻く諸条件に対して能動的に、しかも多くの場合創造的に対決することによってはじめて生じてくるからである。もちろん、だからといって法的関係や国家的関係が人間の幸福要求にとって重要でないというわけではない。

(略)

 近代においては、政治に対する多くの期待のなかに神話的な要素が隠れている。その神話的な要素をしりぞけることが課題となるわけだが、もちろん無差別にしりぞけるわけではない。というのも、それは「幸福」の意味しだいだからである。アメリカの独立宣言のいうところによると、幸福の追求は人間にとってひとつの権利でさえある。ただし、この場合の幸福は、「私的な幸福」という意味に解してはならない。私的な幸福に対しては、国家は何の権限ももつことができないし、またもつべきでもない。しかし、幸福には「公的な幸福」という意味をもたせることもできる。したがって、幸福追求の権利に、共同体の諸問題についての発言や決定に参加する権利という意味をもたせることもできるわけである。ところが、そうなると、この権利は民主的な参政権に近いものになる。

(略)

 民主的な参政権は、それだけではまだ福祉国家の要素を含んでいるとはいえない。しかし、民主制という点から福祉国家の機能的正当化を果たすための出発点にはなる。それにしたがうと、共同体は、参政権が実現可能となる範囲を定めることになる経済的、社会的、文化的、政治的な条件に対して責任の一部分を担っている。

まとめ

以上のさまざまな実定化の戦略は、具体的な正義に到達する公算を高めはするけれども、しかしその保証までは与えない。具体的な正義は依然として政治的論争のひとつの対象であるにとどまっており、しかもその論争はといえば、一部の人たちの利害関係だとか潜在的な威力や脅威に左右されている。それゆえ、いずれかの政体について「それはほかのものよりも正しい」という言い方はできる。ところが、国家がその概念に含まれる正義概念にしたがって要求されるあり方、すなわち無制限な「倫理的理念の現実性」についてはどうか。これを備えているなどと申し立てることは、経験的な共同体にはできないし、立憲民主制福祉国家にもできない。もちろん、このような留保がなされるからといって、立憲民主制福祉国家は「市民の時代だなどとうわべだけ見せかけていたことの化けの皮がはがされたのだ」ということになるわけではない。むしろまったく逆で、立憲民主制福祉国家においてこそ正義のための本質的な諸条件が実現される。ただ、その諸条件は具体的な正義に対する保証とはならないというだけのことである。

2015-03-04 マルクスとヘーゲル・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回のつづき。


マルクスとヘーゲル (叢書・ウニベルシタス)

作者: ジャン・イッポリット 宇津木正 田口英治

出版社: 法政大学出版局

発売日: 1983/01

ブルジョワ

へーゲルが叙述し表現するのは、同じ時期にゲーテが行なったように、勝利し、自分自身に確信をもつブルジョワジーの世界であり、上昇しつつあるこのブルジョワジーに固有の世界観である。しかしながらへーゲルは、その弁証法的天才による非凡な洞察力をもって、いままさに形成されつつあるこの世界のあらゆる矛盾を、また、雲が嵐をはらむようにこの世界が自己のなかにはらんでいるあらゆる危機を見抜いているのである。このことによって、へーゲルは、はやくも1807年以来、彼の時代を越えている。(略)

へーゲルは(略)アダム・スミスをのりこえて、リカードゥを予告している。自由主義経済の厳しい限界をのりこえ、彼は人間生活についての哲学をつくりあげる。この哲学は、たとえそれが悲劇的なヴィジョンに終っているとしても(略)

真の革命のために果実が熟す時がいたるや、K・マルクスの著作のなかに現われるような解決を、準備しているのである。

ヘーゲルは、アダム・スミスがただ描くだけで満足するものから結論を引き出す。利己心はたんなるみせかけにすぎず、また無私無欲の(あるいはそう自称する)徳はたんなる無気力にすぎない。世界の推移は諸個人の相互作用の結果である。それこそ普遍的個人性である。そして行為し、実際に活動するとき、自分を利己的だと思いこんでいる各個人性は自分自身をのりこえるが、普遍的個人性のこの世界の中に自分を認めることを拒否するのである。しかしながらこの世界を定立し完成するものこそまさにこの個人性なのである。「しかし個人はこのようにして自分自身に別れを告げたのであり、自分だけで普遍性として成長し、自分から個別性を洗い流す。」

(略)

彼は世界が推移するときに、個人が活動するときに、普遍的になる個別的個人のあの疎外――驚くべき弁証法である――について考察する。「意識はそれ自身の前で一つのなぞになる。その活動の諸結果は、もはやそれ自身にとって自分の活動そのものではない。」へーゲルのいうように、自己を外化するとき、世界のなかで自己を対象化するとき――しかもこの世界は他のものの世界、他者の世界であり、この世界を通してのみ自然はわれわれに達する、というのは、どんなささやかな物質的道具でも他者を暗示するからであり、またおそらくそれ自体としての自然という観念そのものもまた他者を暗示するからである――、個別的意識は自己を疎外し、みずからを他のものとする。世界における対象化と自己疎外、これこそへーゲルの具体的弁証法の二つの大きな契機なのである。

(略)

彼のヴィジョンは、1800年ごろに彼が観察することのできたドイツ社会が、彼をしてこの新しい世界の矛盾をこのように意識させるものではけっしてなかっただけに、ますます驚くべきものである。アダム・スミスがこのような分析をすでに準備していたことは本当である。しかしへーゲルは、新しい中世への回帰を説く反動的ロマン主義者に従うことなく、むしろやがて現われる経済学者や社会主義者の分析に先鞭をつけているのである。

(略)

個人は「よりいっそう労働することができる」が、へーゲルが指摘しているように、「その労働の価値はそのとき下落しはじめる。」それでも個人は、労働からより多くのものを引きだすために、生きるために必要なものを手に入れるために、労働時間を延長したり、労働の強度をたかめたりするように駆り立てられる。ある期間がたつと(略)この進歩は消せ失せ、個人は以前の生活水準にまたもどる。「労働はそのときより低い価値の一商品である。」ヘーゲルがここで、どのように、アダム・スミスを発展させ、賃銀鉄則を予告し、ある意味ではK・マルクスの分析を準備しているかがわかる。彼が分業のひきおこす全結果に感づいていることを付け加えておこう。「労働の抽象的性質によって、労働はますます機械的になり、ますます不条理になる。」

(略)

結局、生産と消費の全体の運動は、「他の機械、他の販路の絶えまない探求、しかも終ることのない探求」に導かれる。ヘーゲルははやくも1803年に、この生産のための生産の運動を認めていたといえるであろう。それは、のちにリカードゥが語ったものであり、またK・マルクスが資本主義的生産の全過程を動かす価値増殖として表現したものである。われわれが次に引用するイェーナ時代の文章を、K・マルクスが知っているはずはなかったが、にもかかわらずそれらの文章はマルクスを予感させる。

(略)

かくして、不健康で、危険な労働を、工場や鉱山の不条理な労働を余儀なくされる、ますます増大する人間の集団が存在する」。へーゲルはさらに述べる。「この全集団はついに救いようのない貧困にゆだねられる……。まさにこのとき大きな富と大きな貧困との対立が世界の舞台に姿をみせる――登場する」。(略)

「富はあらゆるものを自己に引き寄せる、そして内在的な必然性によって富は同じ側に増大するばかりであるが、一方では貧困が他の側に増大する。」

憲法

ヘーゲルはたしかに「一国民は、世界精神がその国民において到達する意識に照応する体制[憲法]をもつ」と指摘する。けれどもこの意識はすでに乗り越えられうるものであり、「したがって」、とマルクスは言う、「革命は必要であり、そして革命を行なわなければならない。」同様に、へーゲルによれば、立法権はただ憲法を適用するだけであるが、その適用が結局憲法それ自体を変更することになる。とすれば、この権力が「憲法を生みだす」、社会的人間の権力にほかならない、となぜはっきりと言わないのであろうか。立法権はそれ自身憲法[体制]の一部分である。しかし憲法もまたひとりでにできたものではない。へーゲルによれば、もっと先々まで規定されていく必要があるもろもろの法が、にもかかわらず作成されることが要請される……。この衝突は単純である。立法権は憲法に従属する権能であると同時に、憲法を制定する権能でもある。ひとが、国民――抽象的理念ではない――があらゆる現実の憲法の生きた源泉であるということを現実に認めないなら、そこにたしかに一つの矛盾が存在するのである。

ヘーゲルとマルクス

思うに、へーゲルの影響はひじょうに重要であったし、またもしわれわれが、マルクスの思想の形成と発展に寄与したヘーゲルの主要な著作、『精神現象学』、『論理学』、『法の哲学』を知らなければ、マルクスの基本的著作である『資本論』を理解することはできないであろう。マルクスがこれらさまざまの著作をひじょうに丹念に読んだこと、また、彼がそれらの著作から出発して、あるときはそれらから啓示を受けたり、あるときはそれらの観念論を反駁したりしながら、彼の思想をつくりあげたことは確実である。ひとが時として主張したところとは逆に、マルクスは『精神現象学』を正確に知っていた。この難解な著作のその時代のどんな注解者もマルクスほどその意味を洞察し、その射程を望見したものはいなかった。そのことを確かめるためには、『独仏年誌』に発表されることになっていた経済学と哲学についてのマルクスの研究を参照することで十分である。(略)

感覚的意識から絶対知にいたるへーゲルの『現象学』全体を要約し再考している。この研究はへーゲルのもっとも解りにくい文章をとりあげ、その意味を明確にしようと努めており、歴史における人間の疎外の止揚というへーゲルの試みの独創性と価値、およびヘーゲルの失敗の理由――彼はただ観念の面でしか問題を提起しなかったのでそれを解決しえない――を論証しようとする。

(略)

マルクスは『精神現象学』をすみずみまで知っていた。このことは、たとえば『ドイツ・イデオロギー』にみられるように、禁欲主義や不幸な意識についてこの著作の一節に言及していることによっても立証される。ヘーゲルの『論理学』の影響を知るためには、つまりは『資本論』を読むことで十分である。マルクスの叙述の方法や彼が与える証明(略)を理解しうるためには、レーニンが指摘したように、前もってこの『論理学』をマスターしていなければならぬことがわかるであろう。

プロレタリアート

そこからマルクスの弁証法が示す理想主義と現実主義との綜合が生れる。この綜合を、マルクスはへーゲル的国民を社会階級に代置することによって、プロレタリアートのなかにそれを見出せると考える。プロレタリアートは、他の種族もしくは他の民族を支配すべき選ばれた種族でも選ばれた民族でもない。それは人間の疎外の最後の産物であり、そしてこのようなものとして、それのみが理念を完全に実現できるのである。なぜなら人間は、ヘーゲルが『現象学』のなかで述べたように、純粋な物の状態に、一片の骨やあるいは一箇の頭蓋骨に還元されることはありえず、疎外のもっとも極端な状態から自分をはね返させる自己意識のあの弾力性を持っているからである。理念はそれまで、相互に対立しあいつねに他の諸階級から自己を防御しなければならなかった社会諸階級の限定された状況によってその実現が妨げられていたのである。マルクスは人間解放の問題を提起しつつ次のように言く。「これがわれわれの解答である。ラディカルな鎖につながれた一階級を形成しなければならない。市民社会のどんな階級でもないような市民社会の一階級、その普遍的苦悩によって普遍的性格をもち、なにか特殊な不正ではなくて不正そのものをこうむっているためにどんな特殊な権利をも要求しない一領域、もはや歴史的な権原ではなくただ人間的な権原だけをよりどころにすることができる一領域……社会の他のあらゆる領域から自分を解放し、その結果あらゆる領域を解放することなしには、自分を解放することのできない一領域、一言で言えば、人間の完全な喪失であり、したがって人間の完全な回復によってのみ自分自身をかちとることのできる一領域、こうした一つの領域を形成しなければならない。」

2015-03-02 マルクスとヘーゲル ジャン・イッポリット このエントリーを含むブックマーク


マルクスとヘーゲル (叢書・ウニベルシタス)

作者: ジャン・イッポリット 宇津木正 田口英治

出版社: 法政大学出版局

発売日: 1983/01

脚注

ヘーゲルは国家をまず契約として、ついで個人の“運命 ”を表わす力として考えたように思われる。まもなく彼は同様に、もう一つの運命を、すなわち“ 富”つまり私的利益の多方面にわたる活動のなかに消え去る国家それ自身の運命を考察することになる。個人が市民になることによって国家と和解したとき、国家は自分の面前に自分の運命である経済の世界をみいだす。国家と経済的利益との和解は、自然法にかんするイェーナ時代の著作のなかで考察されている。

富、施されるものの魂

歴史における危機的時代は、旧い秩序がもはや表面的にしか存続せず、しかも新しい秩序はまだ姿を現わしていない時代である。(略)

国家権力は絶対君主制において自らを実現したとき、普遍性というその性格を失った。それ自身はもはや外見にすぎないのである。その結果、富が人々の求める唯一の善となる。(略)

富が本質になった後にも、社会体のなかに差異はいぜん存続する。特権をもつものともたないもの、尊大な金持といやしいおべっか使いなどがいる。(略)

富が――ここで問題なのは、労働や生産一般ではなくて、享受の直接的条件である――唯一の本質になったということには、社会体の深刻な頽廃が含まれている。なぜならば、「富が分与するもの、富が他者に与えるもの、それは自分だけの存在である。しかしながら富が施されるのは、自己を失った自然としてでも、無造作に与えられる生活手段としてでもなく、自分で自分を維持する自己を意識した本質としてである」からである。(略)

解体しつつある世界についてもっとも明晰な意識が存するのは、もっと深い分裂のなかにある、施されるものの魂においてなのである。

[脚注22]

われわれが考察するヘーゲルのこの章のなかには、実際には、富の二つの異なった弁証法がある。――アダム・スミスを読んだヘーゲルは、スミスに従って、現われでんとする新しい世界を考察する。労働、生産、享受としての富の運動はそれ自体普遍的な運動である。しかし、自己意識にたいしては、それはこのようなものとしては現われない。「享受においては、各人は万人に享受すべきものを与え、労働においては、各人は自分のためと全く同様に万人のために労働し、また、万人が彼のために労働する。」このばあい、個人の利益はみせかけであり、仮象にすぎない。しかしここで考察しようとする第二の弁証法は、むしろ富自体のために富を欲求することがひきおこす頽廃の弁証法である。

啓蒙が戦いで勝ちを占めた。

しかしそこで次の問題が提起される。「あらゆる偏見、あらゆる迷信が追放されるといまや残っているのは何か、そうしたものの代りに啓蒙が普及させた真理はどのようなものか。」(略)

「有用性」という真理である。それ自体として存在していたものはすべて破壊され、もはや平板で変りやすい世界しか残っていない。(略)

精神性をとり去られた世界は、もはや、人間が人間にとって有用と考えられるかぎりにおいてのみ、群としてあるいは社会として存続するにすぎないところの「人間の群」の世界である。(略)

いかなる絶対的真理も、一つの契機から他の契機へ果てしなく推移するという真理、すなわち即自と対他とのあいだを往復する有用性を除いては、この世界にもはや現われない。しかし功利主義とはまさに、自らの中にその諸契機をまだまとめていなかったところの、懸命に否定するけれどもたえず再現するのをみることになる表面の薄皮のように、自分の前に対象性を保持していたところの思想の無定見である。「有用性は対象の述語にすぎず、それ自身は主語でない。」それゆえにこの無定見は消滅しなければならないし、新しい時代の偉大な真理が宣言されねばならない。「人間は自由な意志である」と。人間は、社会的有用性というこの平板な世界を越えて高まり、世界がめざす真理として、その「普遍的自己意識」のなかに絶対者を発見する。この内的な革命から、実際の現実の実際の革命がほとばしりで、意識の新しい形態、すなわち「絶対的自由」が現われ出てくる。その中でこれまで分離されていた二つの世界がついに和解させられるのである。

絶対的自由

チュービンゲンにおいてルソーを読んだへーゲルは、いまやフランスに展開している諸事件を手がかりにして『社会契約論』の文章を解釈する。ルソーとカントの原理、すなわち新しい時代の原理とは「絶対的自由」の原理である。人間はその本質において意志であるが、私的な目的を追求する特殊意志ではなくて一般意志である。(略)

自由であるということは、各々の市民が一般意志のなかに、すなわち国家のなかに、分割しえない仕方で、自分自身をみいだすことである。人間は欲望の特殊な衝動に代えて、人間自身が自分で定めたところの法に服従する。人民は神となったのである。人民はこの法において直接に自分を認める。フランス革命のなかで、この絶対的自由は「世界の王座にのぼるが、いかなる力もそれに対抗することはできない」。しかし、普遍と個体とのこの直接的な出会いは一つの抽象である。それが人間のなかにみるものは市民(シトワイヤン)だけであり、ブルジョワ、ありのままの私的な人間ではない。ところでへーゲルは、チュービンゲン時代の初期の著作以来、国家と個人のあいだに必然的に入ってくるあの有機的社会を自覚していた。ルソーの著作が不十分で袋小路に導かれたのは、この具体的世界を無視したためである。個別意志と一般意志とのあいだの直接的同一性は、へーゲルによれば、古代都市においてはありえたけれども、今日ではそれはもはや不可能である。個人は必然的に自己の意志を疎外せざるをえない。そしてへーゲルのいうように、個人は「自分を物にする」、すなわち無限に彼を越える全体の特殊な一契機にならざるをえない。一般意志は、具体的・特殊的な領域に分割され組織されたこの全体を通してのみ実現される。しかしながら、全体的仕事に直接的・意識的に参加することこそ、自己意識の絶対的権利である。意志のあらゆる疎外、自己意識のあらゆる制限にたいする闘争がフランス革命の偉大さをなすのであるが、しかしそれは失敗におわる。サン・ジュストは言明した、「事態のなりゆきはおそらくわれわれが決して考えもしなかった諸結果にわれわれを導くだろう」と。へーゲルが後に理性の狡智と名づけるであろうこの事態のなりゆきが、理念の真の試練であり、歴史の運動を考察する哲学者に、世界の流れのなかで実現される理念の正確な意味を洩らすのである。フランス革命は広大な形而上学的経験ともいえるのである。

政府は「権力についた徒党」

「なんらかの政府はつねに存在する。問題はただそれがどのように生成したかを知ることである。」

 それゆえに国民公会の時期に、政府は「権力についた徒党」として存在する。「だから政府と呼ばれるものは勝利をえた徒党にすぎず、徒党であるというまさにこの点に、ただちにその没落の必然性がみいだされるのである。」ジロンド党の後で、ロベスピエールが恐るべき力をもって権力をにぎり、「必然性がこんどは彼を見捨てる」まで「国家を維持する。」ところが絶対的自由はまさにそのことによって実現され、その実現は、絶対的自由そのものが意図したものの反対である。

(略)

1794年を通して行なわれる大きな形而上学的経験は、政治と死のあいだに新しい関係を確立する、絶対的自由が完全に実現されるという経験である。全面的な民主制が現われるが、その民主制はそれがそうであると主張するもののまさに反対であることが示される。それは、言葉の文字通りの意味における全体主義的体制、すなわち反自由主義的民主制である。なぜならそれは、私的人間を市民のなかに、彼岸の宗教を国家の宗教のなかに、完全に吸収したからである。ロベスピエールは共和国の焦点と支持を宗教のなかに求める。へーゲルは述べている、「ロベスピエールは徳を大まじめに考えた人間であった」と。

革命のたびに

社会的実体は自覚した主体によってますます浸透されるであろう。おそらく窮極においては、それまで必然的であった疎外は消滅し、個人は、共同の社会的事業のなかに自分の反映をみいだすまでに、その自己意識を拡大するであろう。そのとき彼は「普遍的精神の実際の対象的現実、すなわち自分を特殊なものとして締めだす実際の現実に堪える」ことができるようになるであろう。――しかしながら、へーゲルは、精神の歴史の過程をそのように考えることを、疑問を呈した後、拒否しているように思われる。ルターが地上における神の支配の実現を不可能と考えたのと同じように、へーゲルもまた、少なくとも『現象学』のなかでは、二つの世界のこの直接的和解とは別の解決を考えている。フランス革命の失敗は必然的事実として記録されているようにみえる。そして「精神は別の土地に移る。」すなわち、絶対的自由が、実際に実現されるかわりに、カント、フィヒテ、ロマン主義者の道徳的・宗教的世界に内面化されるところのドイツに移るのである。『歴史哲学』のなかでヘーゲルは述べるであろう。「それはドイツ人のなかではおだやかな理論にとどまったが、しかしフランス人はそれを実際に実行しようと望んだ」と。

(略)

[バークは]イギリスの自由をフランスの自由と対比し、このような実験の結果を予見する。すなわち、それは暴力と専制の勝利となるであろう、「諸君は暴力にうったえざるをえないだろう」と。しかし彼はこの実験の偉大さその普遍的な意義を理解しない。彼は、「花壇の庭師」のように念入りにすべてを地ならししながら、抽象から始めるフランス的理性に、偏見のための偏見、思想なき経験主義を対比するだけにとどまっている。若干の点でへーゲルの判断がバークのそれにときとして似ているとしても(略)両者のあいだの相違は本質的である。

(略)

この革命そのものは、その部分的失敗にもかかわらず、へーゲルにとっては、その諸結果が無限であるところの思想の革命なのである。へーゲルがその晩年に『歴史哲学講義』において、いまいちどこの革命について述べたことをここに引用するのは、おそらく無益ではないであろう。「権利の思想、概念は、みずからを一挙に妥当なものとした。そして旧い不正の機構はそれに抗することはできなかった。権利の思想のなかに、したがっていまや一つの憲法がうちたてられ、今後はすべてがこの基礎にもとづかねばならない。太陽が天空にのぼり、遊星がその廻りをまわって以来このかた、人間が頭で、つまり思想で立ち、これにしたがって現実をうちたてるということは見られなかった。(略)いまはじめて、人間は、思想が精神的現実を支配すべきであることを認識するにいたったのである。

(略)

崇高な感動がその時代にみなぎり、精神の熱狂が世界をふるわせた。それはあたかも、このときにはじめて、神的なものと世界との真の和解が達せられたかのごとくであった。」

次回につづく。