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2015-06-30 「あの戦争」から「この戦争」へ 高橋源一郎 このエントリーを含むブックマーク

なぬぅ、インテリげんちゃんが、ホテトル嬢送迎!?の巻。


「あの戦争」から「この戦争」へ ニッポンの小説3

作者: 高橋源一郎

出版社: 文藝春秋 発売日: 2014/12/11

26章『冒頭陳述』

下記リンク先にある陳述文をうまく編集して小説になるように高橋源一郎が引用しているので、その違いがわかるよう、引用文を全文引用。

(「……」がカットした部分、「/」が原文では改行になっている)

「「黒子のバスケ」脅迫事件の被告人意見陳述全文公開1」

「全文公開2」

「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人の渡邊博史と申します。このたびは意見陳述の機会を与えて頂けましたことに心から謝意を表させて頂きます。起訴されてない事案も含めまして「黒子のバスケ」脅迫事件とされる一連の威力業務妨害事件は全て自分が一人でやりました。全ての責任は自分にあります。そして、どのような判決が下されようとも、それを受け入れて控訴しないことと、実刑判決を受けて服役する場合には、仮釈放を申請せずに刑期満了まで服役することをこの場で宣言を致します。……動機について申し上げます。一連の事件を起こす以前から、自分の人生は汚くて醜くて無惨であると感じていました。それは挽回の可能性が全くないとも認識していました。そして自殺という手段をもって社会から退場したいと思っていました。痛みに苦しむ回復の見込みのない病人を苦痛から解放させるために死なせることを安楽死と言います。自分に当てはめますと、人生の駄目さに苦しみ挽回する見込みのない負け組の底辺が、苦痛から解放されたくて自殺しようとしていたというのが、適切な説明かと思います。自分はこれを「社会的安楽死」と命名していました。……自分の人生と犯行動機を身も蓋もなく客観的に表現しますと「10代20代をろくに努力もせず怠けて過ごして生きて来たバカが、30代にして『人生オワタ』状態になっていることに気がついて発狂し、自身のコンプレックスをくすぐる成功者を発見して、妬みから自殺の道連れにしてやろうと浅はかな考えから暴れた」ということになります。これで間違いありません。実に噴飯ものの動機なのです。/しかし自分の主観ではそれは違うのです。以前、刑務所での服役を体験した元政治家の獄中体験記を読みました。その中に身体障害者の受刑者仲間から「俺たち障害者はね、生まれたときから罰を受けているようなもんなんだよ」と言われたという記述があります。自分には身体障害者の苦悩は想像もつきません。しかし「生まれたときから罰を受けている」という感覚はとてもよく分かるのです。自分としてはその罰として誰かを愛することも、努力することも、好きなものを好きになることも、自由に生きることも、自立して生きることも許されなかったという感覚なのです。……自分は昨年の12月15日に逮捕されて、生まれて初めて手錠をされました。しかし全くショックはありませんでした。自分と致しましては、「いじめっ子と両親によってはめられていた見えない手錠が具現化しただけだ」という印象でした。……しつこく申し上げますが、自分はこの事件を決してゲーム感覚などでは起こしておりません。どこかの臨床心理士が新聞紙上で「好きなキャラ云々」などと真相にかすりもしないプロファイリングを披露して悦に入ってましたが、そんなしょぼい話ではないのです。……自分が逮捕されて2日後の朝に勾留されている警視庁麹町署から東京地検に出発しようとした時には、署の前にたくさんの報道陣が押し寄せて来ました。この時に自分の顔は笑っていました。これについて「有名になれたことに喜んでいる」というのが、世間一般の説であると聞いていますが、そんなことがあるはずがありません。カメラのフラッシュの洪水を浴びながら、「『何か』に罰され続けて来た自分がとうとう統治権力によって罰されることになったのか」と考えると、とめどもなくおかしさが込み上げて来て、それによって出た自嘲の笑いなのです。……正直に申し上げますと、今の日本の刑事司法には自分を罰する方法はないと思います。自分は現在は留置所で寝泊まりしております。他の被留置者と仲良く話をしたりもできました。自分が人とまともに長く会話をしたのは本当に久しぶりです。少なくとも過去10年にはありません。若い被留置者と話していて「こんなにかわいい弟がいれば、自分はやらかしていなかったろうな」とか「こんなに明るくて、カッコ良くて、ノリの良い友人が子供の頃にいたら、自分の人生も違っていたろうな」などと感じました。自分の人間関係は逮捕前より充実しています。食事も砂糖・塩・油脂が控えめなとてもヘルシーなものを三食きちんと頂いております。自分が三食まともに食べる生活をするのは20年ぶりくらいです。……逮捕の3ヶ月くらい前から自分は36歳にして、生まれて初めて芸能人が好きになりました。自分は同性愛者ですから、もちろん男性です。好きになったのは男性のグループです。逮捕前はそのグループについて書かれたブログに日参していましたし、情報を得るために新たに言語を習得しようかと思ったくらいでした。身柄を確保された瞬間も、スマートホンを使って、そのグループの曲を聞いていました。逮捕された直後は「俺の嫁の一重王子にもう会えないし、曲も聞けないし、活動の情報も追っかけられないのか」とか「あの人たちの惑星の住人になりたかった」などと思って悲しくなりましたが、心の中でお別れを済ましましたので、今はどうでもいいです。またここ10年くらい自分は重度のネット依存症状態でしたが、今は特にネットをやりたいとは思いません。事件についてのネット上の反応にももう興味はありません。つまり自分は娑婆の娯楽に未練がないのです。/そもそもまともに就職したことがなく、逮捕前の仕事も日雇い派遣でした。自分には失くして惜しい社会的地位がありません。/また、家族もいません。父親は既に他界しています。母親は自営業をしていましたが、自分の事件のせいで店を畳まざるを得なくなりました。それについて申し訳ないという気持ちは全くありません。むしろ素晴らしい復讐を果たせたと思い満足しています。自分と母親との関係はこのようなものです。他の親族とも疎遠で全くつき合いはありません。もちろん友人は全くいません。/さらに自分は生まれてから一度も恋人がいたことがありません。その道のプロにお金を払うという手段を含めても性交すらしたことがありません。恋人いない歴=童貞歴=年齢です。自分はネットスラングで言うところの「魔法使い」です。……ここ15年くらい殺人事件や交通事故の被害者遺族が、自分たちの苦しみや悲しみや怒りをメディア上で訴えているのをよく見かけますが、自分に言わせれば、その遺族たちは自分よりずっと幸せです。遺族たちは不幸にも愛する人を失ってしまいましたが、失う前には愛する人が存在したではありませんか。自分には愛する人を失うことすらできません。つまり自分には失って惜しい人間関係もありません。自分は留置所から借りたスウェットを着てこの場に立っていますが、それはつまり自分には公判用のおめかし用の衣類を差し入れてくれる人など誰もいないという意味です。ただ自分は自己憐憫に陥ってはいません。むしろ無用な人間関係がないことを清々しいとすら思っています。自分の帰りを待つ人も誰もいませんので、気楽で気楽で仕方がありません。/そして死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。これからの日本社会はこの「無敵の人」が増えこそすれ減りはしません。日本社会はこの「無敵の人」とどう向き合うべきかを真剣に考えるべきです。また「無敵の人」の犯罪者に対する効果的な処罰方法を刑事司法行政は真剣に考えるべきです。/長々と申し上げましたが、結論は自分は厳罰に処されるべきの一言に尽きます。自分は思わせぶりなことを申し上げましたが、客観的には大したいじめを受けてませんし、両親の自分に対する振る舞いも躾の範囲に収まることで虐待ではありません。……自分にはもうこれからはありません、自分に更生の可能性は全くありません。……ここまで書き上げて原稿を読み直しました。知性の欠片も感じられない実に酷い文章だと思いました。……繰り返し申し上げますが、自分のようなクズは何としても厳罰に処されなければなりません。/そして最後になりますが、自分の今の率直な心境を申し上げます。/「こんなクソみたいな人生やってられるか! とっとと死なせろ!」/日本中の前途ある少年たちがいじけず、妬まず、僻まず、嫉まず、前向きで明るくてかっこいいイケメンに育つことを願って終わりにしたいと思います。/本日は意見陳述の機会を頂きまして、本当にありがとうございました。

「喪服の死神」「怪人801面相」「黒報隊」こと渡邊博史

ここから著者の分析。

 わたしは、この文章を繰り返し読み、いくつかの感慨を抱いた。書き手が、その個人的な体験を通して、その個人だけではなく、もっと広い、もっと多くの人びとの意思や感情を代弁しているとするなら、それは優れた書き手であり、これは、優れた書き手によって書かれた文章である、と思った。

 それから、この文の書き手は、わたしが、「文学」であると思っているものに、可能な限り近づいていたのに、どこかある決定的なところで、通りすぎてしまった、とも思った。

 いや、わたしは、この作者のことをよく知っている、とさえ思った。そのことについて書く。


20代の終わりの頃のことだった。わたしは20歳から続けてきた肉体労働の現場にはほとんど行かなくなっていた。一つは、腰を痛めたせいだった。それまで感じたことがなかったのに、肉体労働を「きつい」と感じるようになった。また、その頃、わたしは妻と別居し、子どもを妻のところに置いて一人暮らしを始めていた。理由は「小説が書きたいから」だったが、それはロからでまかせでいっただけだった。そんなことができるとは自分でもまったく信じてはいなかった。肉体労働をしなくても、なにかをする必要があった。妻と子どもに仕送りをしなければならなかったし、金はどこかから降ってくるわけではなかった。生活費はかさむ一方だった。ギャンブル依存がもっともひどい時期でもあった。わたしは、複数のサラ金から借りた金で馬券を買って、なにもかも失くすと、それから、また別のサラ金で借りた。妻への送金ができなかった時はないが、内情は火の車だった。すぐにできて、高額な仕事はそんなになかった。目を瞑って「ヤバい」仕事もやらなければならなかった。それは苦ではなかった。要するに、どうでもよかったのだ。

 その頃やっていた仕事の一つが、「女衒」だ。簡単にいうなら、非合法の売春の斡旋である。もちろん、わたしは、末端の末端に過ぎなかったが。わたしは、当時「ホテトル」という名で流通しはじめた業態で働き始めた。マンションの小さな一室で女の子と待機し、別の場所からかかって来た電話の命じるホテルヘ女の子を連れてゆき、ホテルの部屋のドアのところで料金を受け取り、いったんマンションに戻った。そして、定められた時間が終わる頃に、またホテルヘ行って、女の子を連れて戻るのである。

(略)

彼女たちの多くは、立ち直ることが不可能なほど、外的にも内的にも壊れているようだったが、わたしは、そのことには、ほぼ無関心だったように思う。それどころではなかった。明日、サラ金に返す金が必要だったのだ。

 ある時、高校生の女の子がやって来た。

(略)

 わたしは、その女の子をホテルヘ連れてゆき、それから、しばらくして、ホテルヘ行き、彼女を連れて戻った。マンションヘ戻ると、女の子は、ポーチからカミソリを出して(なんのために持っていたのだろう)、左手に持ち、右手の頚部を切った。血が溢れ出た。わたしは、すぐに左手のカミソリを取り上げて(少し怖かったが)、ごみ箱に棄て、それから、女の子の右手を持ち上げ、そのまま、トイレに連れていって、そこにあったタオルで、縛った。ほんとうは救急車を呼ぶべきなのだが、それはできなかった。事務所に電話をして、車を呼んでもらった。いざという時に治療をしてくれる、特別な医者のところに連れていってもらうことになった。

(略)

 わたしは、その時、初めてきちんと女の子の顔を見た。可愛い子だった。

「…………」

 女の子がなにかをいったが、わたしには聞えなかった。

「なに?」とわたしはいった。今度は、女の子は、わたしにも聞えるようにはっきりいった。

「あたし、魂を殺しちゃった」

 わたしは、このことばを一度、小説の中に使ったことがある。それは、この時、聞いたことばだった。

 わたしは、「ふーん」とかなんとか曖昧な返事をして誤魔化したと思う。もしかしたら、聞こえないふりをしたかもしれない。はっきりとは覚えていない。そのうち、事務所の人間が来て、わたしを、管理不行き届きだと叱り、女の子を連れていった。その仕事は、その日で辞めた……といいたいところだが、それから、なお2週間ほど続けて辞めた。それから、その女の子には会っていない。わたしは、その他にも、似たような仕事をした。そのことについては、いつか書くことがあるかもしれない。

 女の子のことばを聞いて、わたしはなにかを感じたのだろう。震撼させられたのか。ちがう、と思う。

 わたしは、女の子のことばを聞いて、憎しみを抱いたような気がする。うるせえんだよ、そんなこというんじゃねえよ、と思ったような気がする。それぐらいじゃ死なねえんだよ、見え透いてんだよ、と思ったような気がする。

 わたしは、その頃、久しぶりに小説のことを考えるようになっていた。小説など書いていないから、書きたい小説、書こうと思っている小説のことをだ。それは、ひどく空しいことだった。だから、考えるたびに、苦しい思いがした。けれども、その空しいこと以外に考えてみたいことはなかった。

 わたしは、自分がこのまま、誰にも知られずに死ぬのではないかと思うと、毎晩、恐ろしさのあまり、震えた。なぜ、世界が自分のことを知ろうとしないのか、わたしには理解できなかった。

(略)

 わたしは、車を待っている間、手を握って支えているその女の子を肋けるのではなかったと思っていた。絶望して死ぬ人間をこの目で見たいと思った。その協力なら、してやったのに。

 わたしは、「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人の冒頭陳述を読みながら、ずっと、彼には、なにかを「書く」ための条件が、たとえば、作家になるための条件がほとんど揃っていたのだ、と思った。絶望は充分なほどあった。自らを冷徹に客観視する力もあった。それから、溢れるほどの明晰さも、社会を俯瞰視する能力も持っていた。さらにいうなら、「責任」というものの限界を、彼はよく知っていた。

 彼は、20代後半のわたしより、ずっと優秀であるように、わたしには思えた。

 だが、彼は書かなかった。いや、書いたのは、「冒頭陳述書」だったのだ。

 それは、結局、「名文」にすぎない、といえるのかもしれない。わたしは、そのことを惜しむ。もっと別のことが、できたかもしれなかったのだ。

次に酒鬼薔薇の「透明な存在であるボク……」という例の文章を引用して

 わたしは、この文章を、ほぼ15年ぶりで読み返したが、最初に読んだ時と同じように、美しいと思った。とても美しい。こんな文章が14歳に書けるのだろうか。いや、14歳だから書けるのだと思う。

(略)

 この少年には、長期にわたり、治療がほどこされた。精神面においてである。この社会に「復帰」できるように、つまり、この社会と「価値観」を共有できるように。

 彼は、いま、どこにいるのだろう。彼は、この「文章」を書いたことを覚えているだろうか。もう覚えてはいないかもしれない。彼は「矯正」されたはずだ。社会は、見事に、彼を「処刑」したのである。

 「黒子のバスケ」脅迫事件の犯人もまた罰せられるだろう。彼は、死刑を望んでいる。彼のような存在が、社会を揺るがしかねないことを、よく知っているからだ。

 「冒頭陳述書」も「犯行声明」も、「文学」ではない。けれども、わたしは、それらを読むたび、正直にいうなら、あるいは、繰り返していうなら、多くの小説を読むより、心が揺れ動くのを感じる。(略)

[↑これは文學界2014年6月号に掲載された回]

2015-06-22 日米開戦の正体 孫崎享 このエントリーを含むブックマーク

原発、TPP、集団的自衛権etcはどれも、真珠湾攻撃という愚行と同じコースを辿っている、そこで当時の状況を分析という本。

なのだが、なぜだか表紙とか文章に対極にあるネトウヨのドロッとした気配が漂っているような。どっちも切迫感ということなのか。というより小室直樹っぽいのかな。


日米開戦の正体――なぜ真珠湾攻撃という道を歩んだのか

作者: 孫崎享

出版社: 祥伝社 発売日: 2015/05/12

[チャーチルが真珠湾攻撃によって]「我々は勝ったのだ」と述べたように、英国は[米国参戦が決定となる]真珠湾攻撃を歓迎しました。ルーズベルト米国大統領も歓迎しました。

(略)

[開戦時国務次官補だったディーン・アチソン回顧録では]

東條大将政府にとって(略)より賢明であり、より安全な路線は、オランダ側に加える圧迫によってインドネシアの石油を獲得する動きであり、必要であれば、日本が使嗾して支持するインドネシア革命によってオランダ人を駆逐することであったろう。ワシントンにおいては、内閣と陸海軍はみな、予期される南方進出にいかに対処すべきかについて意見が分かれていた。(略)世論調査は、議会または一般大衆が、南大平洋における外国の植民領土を防守するための戦争を支持するかどうか疑わしいとし、そして、いかなる支持も一致したものではたしかにないだろうと報告した」

 そしてアチソンは、日本のパール・ハーバー攻撃を次のように結論づけます。

 「これ以上の愚策は想像もできなかった」

 この当時、「インドネシア石油確保のときには米国は苦しい」とする見解はどこまで日本の上層部にあったでしょうか。

(略)

1941年9月7日(「戦争を辞せざる決意の下におおむね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す」と決定した9月6日の御前会議の翌日)、東久邇宮稔彦殿下は東條陸相に米国の術策にはまるだけだと、辞職を求めています)

(略)

「私がフランス留学中、ペタン元帥とクレマンソー元首相から、こんなことを注意された。アメリカは、今回の大戦で(第一次大戦)で欧州において邪魔になるドイツをやっつけたから、次の戦争で、東洋で邪魔になる日本を叩きつけようとしている。アメリカは、日本が外交の下手なのをよく知っているから、日本をじりじりいじめて、日本の方から戦争を仕掛けるような手を打って来るにちがいない。そこで、日本が短気をおこして戦争をやったら、アメリカは大きな底力をもっているから、日本はかならず敗ける。だから、アメリカの手にのって戦争しないように我慢しなければならないと。現在の情勢は、まったくペタン元帥やクレマンソーの予言したようになっている。このさい我慢して、アメリカと戦争しないようにしなければダメだ。東條陸相は近衛内閣の一員である。軍では『命令に従う』という言菜があるが、いま天皇および総理大臣が日米会談を成立させたいというのだから、陸軍大臣としては、それに従うべきで、それでなければ辞職すべきではないか」

[東條はこれに対し、ABCD包囲網でジリ貧になり滅亡するより、勝算は五分、思い切って戦争と回答]

石原莞爾

「東條軍閥は石油がほしいので、南方諸島を取ろうとしている。石油のないことは初めからわかりきったことだ。何がない、かにがない、だから他国の領土に手をつける、これは泥棒ではないか。石油がなくて戦争ができないなら、支那事変は即時やめるがよろしい。(略)

ヤツらは今南方に手を出そうとしているが、日本海軍には日本本土防衛作戦計画はあるが、南方地域防衛の作戦計画はない、南だ北だ、支那海だといって諸方面の防衛に当れば、本土はガラ空だ。(略)日本の都市は丸焼けになるぞ。必ず負けるぞ」

(略)

「負けますな。(略)アメリカは一万円の現金を以て一万円の買物をするわけですが、日本は百円しかないのに一万円の買物をしようとするんですから」

満州鉄道

満州の処理をめぐり、伊藤博文(元首相)と児玉源太郎(陸軍参謀総長)が対立します。とりあえず、伊藤氏の意見が通りますが、それが、後に覆ります。(略)

[伊藤の主張]

「満州方面に於ける日本の権利は、講和条約に依って露国から譲り受けたもの、即ち遼東半島租借地と鉄道の外は何物も無いのである(略)。

商人なども仕切りに満州経営を説くけれども、満州は決して我国の属国では無い。純然たる清国領土の一部である。属地でも無い場所に、我が主権の行はるゝ道理はない」

「恒久的平和からえらるべき唯一の方法は、満州鉄道を清国領土にはいったところから国際化せしめることにある。(略)もしイギリスとアメリカがこの管理にあたるならば十分であろう」

「もし、今日のままに放任せば、北清のみならず、二一省の人心は終に日本に反抗するに至るべし。清人中には国権恢復の意見を抱くもの多く、その勢力決して悔るべからず」

(略)

[伊藤が暗殺されず]10年生き延び、穏健派の勢力を伸ばしていれば、歴史は変わったかもしれません。

 伊藤博文は再びロシアが南下してくることを懸念しています。しかし、米英を満州鉄道の経営に当たらせれば、ロシアに対する牽制になると判断しています。

 しかし日本国民はこれと逆の方向へと動いていきます。

(略)

日本は日露戦争によって、巨額の財政負担を強いられます。

満州については、(1)清国の独立を認め、欧米諸国と中国の市場を共有するという政策と、(2)できるだけ日本の権益を拡大するという二つの大きな選択があります。

 そのどちらの道を選ぶかが問われたのは、アメリカの鉄道王ハリマンによる南満州鉄道を共同経営(買収)しようとする動きです。

(略)

 これに反対したのが、外相小村寿太郎です。(略)

 「すでに講和条約にすら大不満のわが国にして、もしそのわずかにえた南満州鉄道をも(略)売渡し、みずから今次の計画を知ったならば民心がいやが上にも激昂し、さらにいかなる大騒擾をも惹起するやも測りがたい。(略)」

 結局この問題は小村寿太郎の意見が通って白紙に戻されました。

(略)

[しかし鉄道経営には資金不足でアメリカから借金した場合、「レール・機関車および車両はアメリカ工場より買いいれる」という条件がついた]

財政的に日本独自で管理する能力はなかったのです。

ここで「IF」を考えてみたいと思います。

満州鉄道の日米共同管理という構想が実現したとしましょう。この利点は次のものになります。

(1)満州を支配下に置いた日本軍は、常にソ連が復讐戦を挑んでいることに備えなければなりませんでしたが、米国の権益が絡みますから、日本単独で守るという状況は変化します

(2)中国をめぐり、米国と対立を続けていきますが、これもそう鋭い対立にならなかったでしょう

(3)日本は満州の支配に進み中国との戦闘に入っていきますが、たぶんこれもなかったでしょう

(4)満州経営、軍の強化という財政負担もそう大きくならなかったでしょう。

錦州攻撃

フーバー大統領は、「満州はしょうがない。しかし、中国本土の錦州攻撃は困る」という立場だったようです。(略)

[米赴任中の佐藤賢了が鷲津武官から聞いた話]

「出淵大使がフーバー大統領に呼ばれて、『もうしばらくすると議会が始まるので、うるさい連中(国会議員)がぞくぞくワシントンヘ集まってくる。日本の軍事行動がいつまでもやまないと、このうるさい連中がやかましい。特に国際都市錦州の攻撃でも起こると、ことが面倒だ。日本軍はわずかの間にほとんど全満州を席巻したのだから、錦州ぐらいは取らんでもよいだろう。どうか日本政府にこのことを伝えて欲しい』といわれたので、大使はすぐ外務大臣にそのむね電報したらしい。その返事がいま来たんだがね。その要旨は『幣原外務大臣が南陸軍大臣および金谷参謀総長に確かめたところ、錦州は攻撃しないとのことであった。(略)』というのだ。これはどうかね」(略)

 中西補佐官がいった。

 「満州からほとんど追い出されてしまった張学良は、錦州に臨時遼寧政府を設けてゲリラを指揮し、抗日の策源地となっておるのだから、錦州を攻略しなければ、満州の治安は回復するはずはありません。これはやるにきまっておりますよ(略)」

 大使はもう電報通り、国務省へ伝えてしまったとのことであった。やがて関東軍は錦州を攻撃し、またもやウソをついたことになった。

日独伊三国同盟

[1937年駐英大使リッペントロップがチャーチルと会談]

チャーチル 中部、東部ヨーロッパの支配権をドイツに握らせても平気だというほど、イギリスはヨーロッパ大陸の運命に無関心ではいられない。

リッペントロップ そうなると戦争は避けられない。それ以外に解決の道はない。総統は決意している。

(略)

リッペントロップは英独の対立の中で、日本を活用することを考えます。(略)

日独伊軍事同盟の構想がリッペントロップによって打ち出されました,それは英国を敵とするものです。英国の後ろには米国がいます。

 英国や米国は当然リッペントロップの動きを察知しています。日本国内では松岡外相らが「対米戦争を避けるために日独伊三国同盟を締結する」という論を展開しますが、「三国の連合せる力が、電光石火のごとく発動することを英仏両国は疑ってはならぬ」というリッペントロッブの構想の下に日本は動かされているのです。

(略)

[日本に提示された]リッペントロップ試案は「締約国が締約国以外の第三国より攻撃を受けたる場合においては、他の締約国は之に対し、武力援助を行なう義務あるものとす」などを含んでいます。

 ここではもう「ソ連の脅威」という見せかけのものではなくて、第三国、つまり英米が対象になります。英米を対象とした軍事同盟と言えます。

さらには皇居守備部隊が海軍省を襲撃する噂も出て、海軍は陸戦隊を横須賀の警備に回す事態も出てきます。(略)

板垣陸相と米内海相が五時間半にわたって会談しますが、米内海相は、英国を対象にする可能性のある条約は「絶対に不可との立場」を貫きます。

外務省もまた、井上欧亜局長が「本件はソ連のみを対象とすべきこと(英米を敵に回さぬ為)」という見解を陸相に伝えます。

(略)

右翼のグループが日独同盟の即時締結を要求します。彼らは海軍省に押しかけ、米内海相、山本五十六海軍次官への攻撃を行います。

平沼騏一郎首相、湯浅倉平内大臣、山本五十六海軍次官への暗殺計画も発覚します。

 海軍は陸軍の部隊が出てくることを警戒して、軍の配備まで行なう状況です。(略)

皇居守備部隊が海軍省を襲撃するという噂で、横須賀鎮守府に陸戦隊一個大隊が待機します。大阪にいた連合艦隊も東京に回します。海軍省内でも籠城の準備をします。

(略)

[ジョセフ・グルー駐日米大使はこの状況を本国へ打電]

4月19日米内海相はグルー大使に「日本においてファシズムを望み、独伊との連帯を求める分子は鎮圧した」と述べます。

 そしてこの時期、グルー大使は日本の指導層に次を説いて回っています。

・ヨーロッパに全面戦争が起これば、アメリカはその圈外にとどまることはできない。

・開戦当初の数週間に独伊がヨーロッパを席巻したとしても、米国の決意と資源で米英仏側が勝利する。第一次大戦と同じである。

・日本が英米を対象とする軍事同盟によってドイツに縛られているとすると、アメリカが日本と平和的な関係を続けることは不可能に近い。

・日米戦争はいかなる観点から観ても愚の骨頂である。

今から見ると、グルー大使は、本当に日本のために動いてくれる大使であったと思います。

日米交渉のワナ

[強硬なハルノートや太平洋艦隊というオトリの前に]

佐藤賢了は「もっとさかのぼれば日米交渉全体がわれわれの疑ったとおり、ワナであったともみられる」と書いています。

(略)

 まず井川忠雄が訪米し、次いで1941年3月6日、陸軍の岩畔豪雄軍事課長(陸軍軍備その他一般軍政と予算管理を担当)も訪米します。

 ここで、日米非公式会議が持たれ、米国側がコーデル・ハル国務長官、日本側から野村吉三郎大使が出席します。ここで「日米了解案」ができます。ここでは「米国は八紘一宇の建国精神を認め、満州国承認・支那事変の和平仲介・〔米国の〕欧州戦争不介入すら約しようとの意図を示すばかりか、日本に加えてきた経済圧迫も解除しようとするもので(略)話がうますぎて気味が悪かった」(『大東亜戦争回顧録』)ほどでした。

(略)

佐藤賢了は「(略)[野村大使はハルが「いっさいの国家の領土保全及び主権の尊重」を始めとする四原則を前提としたことを]ひたかくしにして、さわりのよい諒解案だけを本国に打電した。(略)四原則を同時に打電してくれば、陸軍のごときはこんな日米交渉に乗りはしなかったろう。(略)いまにいたるも、この口惜しさは忘れられない」と書いています。

(略)

 戦後、佐藤賢了はA級戦犯になりますが、岩畔豪雄は別の扱いを受けました。岩畔豪雄については、ハル国務長官が「今後、日米関係がどんなことになっても君たちの真剣な努力は忘れないし、君たちの安全は私が保証する」と述べたといわれています。そして、戦後はGHQの情報部門「G2」と深く関わりました。また、自衛隊創設に際して吉田茂から参加を求められ(参加は固辞)、京都産業大学の開学に関わり、水野成夫フジサンケイグループ創始者)らを始めとした財界人のアドバイザーや自民党右派のブレーンとして活躍しました。

 ではもう一人の関係者、野村吉三郎の戦後はどうなっているでしょうか。

 野村は公職追放となりました。しかし、ACJ(アメリカ対日協議会)は、定期的に経済的に苦しい野村の便宜を図り、追放解除に伴い、吉田茂の要請で再軍備問題の調査に当たり、海上警備隊創設に深く関わります。1953年、松下幸之助に請われ、日本ビクターの社長に就任。創生期の親会社であるアメリカRCAと技術支援契約を結び、日本ビクター再建の道筋をつけました。

外務省の責任

戦前の外交官なら、なぜ我々は日米開戦という愚策に突っ込んでいったかを徹底的に検証すべきと思いますが、その類の著述はほとんどありません。その中にあって、荻原徹の『大戦の解剖』は群を抜いています。

[日米の相違]

日本の当局ははじめから、「この戦争は、或る地域を占領してがんばつていれば、向うが嫌になって結局妥協で戦争を終り得る」と考えていたのに対してアメリカ側は、はじめから、あくまで東京を占領して、再び日本が侵略をおかし得ないようにしなければならないと考えていたのである。

まとめ

 確かに軍部は独走しました。この軍部の独走を許したのは、外交分野にいる外務省が自己責任を果たしていなかったことにもよります。アメリカの力、ドイツの力、中国の力、それを見極める責任は外務省にあるはずです。

 芦田均は「政党の有力者、または有能な官僚の一部は、あるいは故意に、あるいは心ならず、軍部に協力を示し、よって権勢の地位につくことに心がけた」と記述しましたが、その責任を負わなければならないのは外務省です。

 吉田茂、内田康哉、広田弘毅、有田八郎、佐藤尚武、松岡洋右らの外務官僚で外相、次官経験者は、自らが軍部に取り入りに行ったか、軍部に圧力を加えられ屈服した人々です。そしてその発端は、田中義一首相に自ら猟官運動をして次官についた吉田茂です。他方、毅然としてあるべき姿を説いた幣原喜重郎を、外務省は満州事変以降全く遠ざけています。

(略)

満州事変や二・二六事件は軍部に歴然とした勢力があり、これを覆すことはまず不可能だったと思います。しかし三国同盟は違います。日独伊と米英を中心とする連合国側の相対的力関係を理解する力があれば、三国同盟に進まない道は十分にありました。

 しかし当時の軍部は米国についてはほとんど学んでいません。外務省も、残念ながら吉田茂を筆頭に軍部に隷属する勢力が主流になっていました。時代の流れに迎合する空気が日本を覆っていて、巨視的な情勢判断ができないことが、三国同盟推進の力でした。しかし、こうした失敗を作る雰囲気は、今も同じです。

現在の日本

 さらに、米国国務省のサイトで領事部の「国外旅行」という項目で、外国での緊急時避難に関するサイトで次を掲載しています。

問:「米国市民でない私の家族や友人はどうなるのか。国務省は脱出を助けるのか」

答:「危機において我々が優先するのは米国市民を助けることである。あなたがたは米国政府のチャーターもしくは非商業輸送手段に、米国市民でない友人や家族を搭乗させることを期待すべきではない」

問:「避難時にどうして米軍軍用手段を使わないのか」

答:「ヘリコプターや米軍の運搬手段、および米政府が用意する軍事エスコートつきの輸送手段(による救出)は現実というよりハリウッドの脚本である」

2015-06-19 片山善博の自治体自立塾 このエントリーを含むブックマーク


片山善博の自治体自立塾

作者: 片山善博

出版社: 日本経済新聞出版社

発売日: 2015/05/21

地方交付税「先食い」

 自治体に「考える力」が不足していたことを象徴するのが、地方交付税の「先食い」である。筆者自身が名付けた「先食い」とは、ハード事業の財源をまずは自治体が地方債で調達し、後年度の元利償還金の相当部分を地方交付税の上乗せによって国が補填する仕組みをいう。

 もとよりこの仕組みには大きな落し穴がある。もし将来の元利償還財源を国が別枠で用意しなければ、国が補填するといっても、結局は全国の自治体の共有財源である地方交付税の中で始末するしかない。元利償還に回される額だけ将来の地方交付税は実質的に目減りする。

 ともあれ、多くの自治体はこの仕組みを歓迎し、「自前の財源を要しない有利な制度」だとして公共事業や箱モノ建設に勤しんだ。後に残されたのは巨額の地方債である。案の定、大量の地方債の償還時期を迎えても地方交付税の実質的上乗せなどなく、「手取り」はむしろ減らされる始末だった。慌てた首長たちは「国に騙された」と声高に言い募ったが、既に後の祭り。先行きに自信を失い、夜逃げ同然に合併に追い込まれる自治体が後を絶たなかった。

 この顛末を顧みるに、厳しく責められるべきは国である。調子のいいことを言って自治体に借金三昧させておきながら、肝心な時に梯子を外した罪は大きい。ただ、自治体にも落ち度はあった。そもそも世の中にそんなにうまい話などあるわけがない。「自前の財源を要しない有利な制度」などあり得るはずがないことぐらい容易にわかりそうなものだからだ。

 筆者は1999年鳥取県知事に就任早々、前任知事の時代にこの「有利な制度」を前提に計画していたいくつかの事業を中止ないし大幅に縮小した。併せて欠陥だらけのこの仕組みを即刻やめるべきだと全国知事会議などの場で訴え続けた。しかし、筆者の主張に賛同した知事は、田中康夫長野県知事(当時)ただ一人。全国市長会や全国町村会もほぼ似たり寄ったりだった。

 地方議会もこれには無力だった。首長が「先食い」の仕組みを「有利だ」「得だ」とはしゃいでいたとしても、予算の決定権は議会にある。賢明なる議員が愚かな「先食い」を阻止してくれていれば、その後の自治体財政はかくも危機的な状況に陥ることはなかっただろう。

(略)

[なぜ議会はチェックできないか。議員は資料や情報を執行部職員から入手する。しかしそこには偏りや意図が潜んでいる]

 執行部の職員がせっせと資料を持ってくるのは、議案を無傷で通してもらいたいからである。その際、議案の欠陥や、より優れた代替案に関する資料などを期待しても「木に縁りて魚を求むるが如し」である。

教育委員会人選の実態

[鳥取県前任知事は任命を事実上、県議会多数派に丸投げ、その結果]

県会議員選挙の際の候補者調整で出馬見送りを余儀なくされた者とか、引退した町村長で在任中にはその県議たちを支持していた者などが目立っていた。

縦割り

[知事に就任し]土木部が作成した「県内道路地図」を携えて視察に出かけたところ、その地図にない道路を「発見」した。土木部に質すと、それは農林水産部所管の農道なので、土木部の道路地図には載せていないとの説明だった。

(略)

 そこで、思い切って農林水産部の農道担当部門を、県道を所管する土木部道路課に統合することとした。県道と農道とを一元化することで、両者の間に生じるムダや重複を避け、合理的な道路ネットワークを形成するのがねらいだった。

(略)

[当然強い反発が]

 県庁職員よりも業界団体よりも、最も執拗に反対したのは農水省だった。それまで自分の手下のようにみなしていた農道担当部門が、建設省の影響下に組み入れられるなどもってのほかと言わんばかりだった。霞が関の縄張り争いをそのまま県に投影する思考から抜け出せない官僚たちを哀れに思いつつも、「土木部の中に新しい植民地ができたようなものじゃないか」と論したら、意外にも素直に納得したのが可笑しかった。

 中央官庁の縦割りがそのまま持ち込まれている組織は他にもある。例えば港の建設業務がそうで、海運用の港は土木部港湾課が、漁船用の港は農林水産部漁港課がそれぞれ中央官庁対応型の組織として設けられていた。

(略)

 港湾課と漁港課を統合する方針を発表したところ、直ちに水産庁の幹部が県庁に乗りこんできた。「鳥取県のためにならない」と言うのである。そこで、「ご親切には感謝するが、全国で一番小さい鳥取県庁の課の編制にまで関心を持ち、あれこれ注文をつけるあなた方はよほど暇だと見える。そんなつまらない役所はリストラ対象になってしかるべきだ」と皮肉ったら、そそくさと帰っていった。

無意味な「質問」

役所全体の業務が停滞するほど職員たちは答弁への対応に追われている。では、議会は質問を通じてそれに見合うだけの目覚ましい成果を自治体や住民にもたらしているだろうか。

 率直に言って、ほとんどの議会の「質問」は、そのために費やす時間や執行部職員の労力に比べて成果は乏しい。もちろん[中には必要性の高い施策提案もあるが](略)議会全体として見た場合には、その「生産性」はどうみても低い。(略)

例えばある議員は市長に対して市民の胃がん検診受診率などを尋ね、市長に答えさせている。関連の施策を論ずるに当たって大切な指標だとは思うが、わざわざ本会議場で市長が答えることではない。担当者に直接電話ででも尋ねた方がよほど早いし、正確である。受診率を聞いた後、胃がん検診のあり方などについて技術的な質問が続くのだが、それは担当部長との間のやりとりとなる。こうしたやりとりは本会議よりも常任委員会などの場でじっくり交わした方が断然意義深いと思うのだが。

 別の議員は過疎問題に絡めて「自分は安倍総理は好きではないけれども、『農村は宝の山』と発言した総理夫人は好きだ。市長はどう思うか」と質問し、市長が「甲乙つけがたい夫婦の仲ではないか」などと総理に気を使いながら答弁するくだりがある。このやりとりにどんな意味があるのだろう。

自治体「後援」の不承認が増えたわけ

 例えば、毎年憲法記念日の頃に開かれる憲法擁護の集会である。例年のように市が後援名義の使用を承認しようとすると、一部の市民から「憲法改正には賛成の市民も大勢いるというのに、なぜ反対の人たちの集会だけを後援するのか。政治的中立性に悖る」と詰め寄られる。

 過去何年も後援を続けてきた職員にしてみれば、そんな質問に自信を持って応じるだけの準備はない。(略)

 そこで職員が最終決定権者である市長にこの案件を持ち上げたとしても、総じて明快な結論は得られない。例年どおり承認せよと指示したとすると、次の議会で先のクレームと同趣旨の質問をぶつけられて、市長自身が矢面に立たされる。逆に不承認にせよと指示すると、護憲派の多くの市民の支持を失いかねないので、次の選挙のことが気になる市長にはそれも憚られる。

 かくして、職員は市長に迷惑が及ばないよう、自分たちで処理せざるを得ない。そうなると、どうしても穏便な方を選択しがちで、おそらく承認しない方に落ち着くのだろう。もとより承認の場合にも不承認の場合にもクレームは出てくるが、昨今どちらの側の声が大きいかといえば、不承認に対する苦情ではなく、承認することに対する抗議の方だからである。

 声が大きいだけでなく、抗議は往々にして執拗で、担当職員が激しい個人攻撃に晒されることすらある。職員にしてみれば、最終判断権者は市長なのだから、「文句があるなら市長に言ってくれ」と言いたくもなるが、先の事情からしてグッと飲み込むほかない。

 マスコミ報道では、自治体が承認しない事例が増えた傾向について、お役所が「尻込み」しているとか「ことなかれ主義」に陥っているなどの批判も見られ、それはそれで当たっていないこともないのだが、批判するだけでは問題は解決しない。この際、自治体のおかれた事情やその職員たちの窮状を察することも肝要である。

 では、今後これをどう取り扱えばよいか。一つには、首長がしっかりすることである。

条例の管理

[知人弁護士が]ある市の土地利用規制に関する条例について、その制定経緯などを調べるため議会事務局に出向いたところ、「事務局ではわかりかねるので、市の担当課に聞いてくれ」と言われた。議会図書室に立法資料を保管しているのではないのかと尋ねても、とんと要領を得なかったという。市議会は立法機関としての自覚に欠けているのではないかと、弁護士は呆れていた。

 本来立法機関としての議会は自らが成立させた条例とそれに基づく規則などを体系的に管理しておかねばならない。この場合の管理とは、条例などのデータベースを作成し、住民の照会に応じられる体制を整えておくことを意味する。

 データベースには条例の内容はもとより、これまでの改正の経緯、条例を制定ないし改正した時に提出された資料も含まれていなければならない。条例は制定時の住民だけでなく後世の住民をも拘束するのだから、どういう事情や背景のもとに制定ないし改正されたかについて、後々の住民に対しても説明する責任を負っているからである。(略)

[だが地方議会はこうした管理を適切に行っていない]

 最近はどこの自治体でも条例などのデータベースは「例規集」として首長部局が作成している。それを誰でも自治体のホームページを通じて読むことができるので実に便利である。便利なのはいいのだが、本当はこのデータベースは首長部局ではなく、議会事務局で整えておくべきものだと筆者はかねがね考えている。

 そもそも二元代表制のもとでは、議会が条例を制定し、それを首長が執行する。この仕組みのもとでは、条例は首長に対する議会からの指示書のようなものだ。その指示書を議会は自分で管理していないから、これまでの指示の内容を確認するには、指示した相手方である首長のもとで整理した「例規集」に頼らなければならない。なんとも不甲斐ないではないか。さらに、万が一首長部局が条例をうっかり、ないし意図的に改ざんしていたとしても、議会が「例規集」からそれを直ちに見破ることは無理だろうと思う。

(略)

[ある都議会議員が時代に合わない条例を見直す「棚卸し」を提案していた]

着眼は評価すべきなのだが、残念なことに「棚卸」をやるよう指示する相手方を間違えている。それをやらせるべきは首長部局ではなく、議会事務局のはずだ。条例を作ったのは議会なのだから、そのアフターケアも議会がしなければならないということだ。(略)

 しかも、条例の見直し作業を首長部局でやると、どうしても自分たちに都合の悪い見直しは避けたがるという「組織の論理」とお役人の習性を弁えておく必要がある。

(略)

[2014年定例都議会が決定した条例をネットで確認しようとすると、都総務局が議会提出案としてマスコミに発表した資料しかない。これが議会で一部でも修正されていたらどうなるのか]

2015-06-16 コマンド・カルチャー 米独将校教育の比較文化史 このエントリーを含むブックマーク

ドイツの軍事史家による独軍の将校教育の方が米軍より優れてるという分析。

そうなると「人格」を有する将校教育で、不法な命令には従わないという伝統もあったドイツ軍がなぜナチ体制に従ったのか、という疑問も出てくるわけで、その回答は、上級将校の腐敗欠陥etcというもの、うーん。


コマンド・カルチャー

−米独将校教育の比較文化史

作者: イエルク・ムート 大木 毅

出版社: 中央公論新社 発売日: 2015/04/28

米陸軍士官学校ウェスト・ポイントでのしごき

新しい校長マッカーサーは(略)ウェスト・ポイントを大幅に改善した。とくに、「マッカーサーの最下級生徒システム」を導入し、最下級生徒の扱いを変えたことが顕著である。それによると、たとえば「しごき」に積極的に反対する行動を取らなかったものには、いかなる名誉も与えられない。単に「しごき」をやらない、もしくは見て見ぬふりをするというのでは、もはや不充分だったのだ。

(略)

彼は、1899年に最下級生として、こうした拘束やしごきを経験している。「鷲にされる」、つまり担架から吊り下げられ、それから22分間「シャワーを浴びる」ことを強いられた。(略)マッカーサーは疲労困憊し、意識を失った。生徒間に共有されている、誤てる名誉規範に従い、マッカーサーは最初、議会の聴聞会で彼を痛めつけた男に不利な証言をするのを拒否した。軍法会議で、真に正しい名誉ある行動について論されて、マッカーサーはようやく彼をしごいたサディストの名を告げたのである。(略)

 ウェスト・ポイントの教育は四年制であるが、そのうち第一年がもっとも脱落率が高かった。「平民(プリーブス)」と呼ばれる新入生は、それぞれ、「二歳馬」、「乳牛」、「一号(ファースティーズ)」と称される二年生から四年生までの上級生に、好き勝手に弄ばれたからだ。(略)

 入校後最初の数週間には、「けだもの兵舎(ビースト・バラックス)」という、実にふさわしい俗称が付けられている。その間、プリーブスは、情け容赦のない嫌がらせ、侮辱、健康上とても推奨できないような激しい肉体訓練を耐えねばならないのだ。

(略)

 ウェスト・ポイントで本格的にしごきがはじまったのはいつなのか、いまだにあきらかではない。おそらく、南北戦争よりあとのことと思われるが、あるいは士官学校創設以来存在していて、単に残忍さが増しただけなのかもしれない。

(略)

「平民(プリーブス)」の身体の下にガラスの破片を置き、容赦なく腕立て伏せを強いるといったふうに、より厳しいものにすることができた。プリーブスの髪を糖蜜で固め、アリ塚近くの地面に縛りつけたり、何時間もロッカーに閉じ込めるというようなこともなされた。大量の飲食を強いられることもある。互いに反吐をかけ合うために、だ。普通の食事でさえも、「狙いすました拷問の実行」になり得た。ときに、プリーブスは食物や水を奪われて身体運動をやらされ、栄養障害や脱水症状で参ってしまった。「シャワー」というしごきは、こうだ。プリーブスは、毛織物製の制服、いわゆる「最下級生の肌」と重いレインコートを着て、壁を背にして、後頭部と壁のあいだにグラスを挟んで、立たされる。心身ともにストレスがかかり、また通風が欠けていることから、あっという間に汗が噴き出て、彼らはびしょ濡れになる。これが「シャワー」で、すぐに脱水症状を引き起こす。グラスを地面に落とすと、ひどいことにその代金を支払わされる。だが、通常は、卒倒するまで立たされっぱなしなのだ。(略)上級生が小便をかけることさえある。

(略)

[陸軍最良将校の一人]ジョージ・C・マーシャルは、「ネズミ(新入生)」のときに、残酷なしごきを受けて、重傷を負った。(略)直立させた銃剣の上にしゃがみこむことを強制され、ややあって力尽きた彼が倒れるとともに、臀部がひどく切り裂かれたのである。

傲慢

士官学校出の少尉たちが遭遇する、もしくは自ら使うことになるであろう武器や戦術についての実践的な軍事知識はまったく足りない(工兵科に配属された場合は別だ)。その結果、士官学校で四年間過ごしたのち、すぐに配置される軍の職務をこなす力がまったくないし、自分でもそう感じていたのである。彼らは往々にして、おのれが能力不足だという認識を、傲慢に振る舞うことで糊塗する。多くの場合、傲慢は、ウェスト・ポイント卒と同義語なのだ。また一方で、ウェスト・ポイントの平民制を乗り越えてきたのだから、自分は特別な存在なのだと考える者もある。だが、こうした自惚れ者のうち、何人かは戦闘の試練によって尊大さを失い、ウェスト・ポイントに入ったときの友人たちに忠告するはめになった。「実際、われわれウェスト・ポイント卒の最大の欠陥は、他人を見下すことだ」と。

一方、ドイツは

 ドイツのシステムは、その不公平な予備選抜、つまり「下層」に生まれると、他の階級の者よりも将校団に入るのに多大な困難があるということにより、不利益を被った。が、それはまた、幼年学校に入れた者に対しては、よくできた選抜システムを提供していたのである。ドイツの生徒は、ほんのティーンエイジャーにすぎないころから、将来の指揮官としての能力があることを証明しなければならない。ごく早くから、生徒は、生徒隊もしくは将校団での地位は、年功序列によって決められているわけではないことを悟る。ふさわしい業績さえあげれば、年少の生徒が上級生を追い越して、彼らの上官になることもあり得るのだ。これこそ、ドイツのシステムにおける最大の利点だった。ウェスト・ポイントでは、四年制の秩序が抜きがたく存在する。そこで生き残るには、リーダーシップよりも規則遵守のほうが助けになった。だが、陸軍幼年学校では、指揮統率能力が最高に評価された。また、ドイツの幼年学校では、しごきがはっきりと禁じられているばかりか、進級と指揮官率先垂範のシステムが抑止となるため、それが続く可能性はなかった。上級生もおのずから新入生に優しく接するようになる。一、二年のうちに、その新入生の部下になるかもしれないからだ。日常生活においても、権限を与えられた将校が常に生徒たちとともにいて、前年に上級生のなすがままになって苦しんだ者が、順送りだとばかりに後輩の教育に口を挟んだりしないようにしている。

(略)

将校は尊敬される存在でありながら、気軽に近寄って話しかけることができた。元生徒の多くが、幼年学校の校長と親しく会話したことを綴っている。

(略)

 四年間やり抜けば、アメリカの生徒は将校に任官する。だが、彼らが最初に指揮を執ったときから、自信が持てずに苦しむことになる。軍事やリーダーシップについて、適切な教育を受けていないからだ。数学や「平民」を怒鳴りつけたことなど、本当の軍隊での日常生活にあっては、まったく無意味だったことがわかる。多くの者が、古参下士官やもののわかった大佐に助けられる始末だった。

 ドイツの幼年学校を卒業した者は、アメリカの卒業生より何歳も年少であるにもかかわらず、ずっと進んでいた。民間学校で定められているのと同等の教育を受けている上に、中隊を指揮するのに必要な戦術やリーダーシップに関する知識を得ているのだ。とはいえ、彼の階級は少尉候補生にすぎず、自らに能力があることを繰り返し証明しなければ、将校には任官できない。連隊で二期、軍事学校で一期過ごしたのちに、将校になれるかどうかが決まるのである。士官学校のお定まりの生活ではなく、人生の現実こそが決定的なファクターなのだ。

第一次世界大戦後のドイツ軍の武装解除

 ヨーロッパに対する脅威とみなされたドイツ大参謀本部はヴェルサイユ条約によって解体され、参謀将校の教育も禁じられた。しかし、ドイツ軍は、大参謀本部を「兵務局」と改称しただけで、そのT4課が参謀将校教育を扱うことになった。参謀も、同様に「指揮官補佐」と名前を変えただけだった。これによって、連合国合同監視委員会を数年間あざむいたのである。(略)

訪独した米軍将校もまた、その全体像はつかんでいなかったとしても、衆人環視のもとにありながら、ヴェルサイユ条約が侵犯されていることを知っていた。(略)

多くの観測筋が、ドイツ人は「全陸軍を、一つの高度に効率的な学校に改編している」と特記している。

(略)

1928年、駐独アメリカ陸軍武官のアーサー・L・コンガー大佐は、どこかの将校学校に入校させろとやかましく求め、ドイツ陸軍の指導層を悩ませたあげくに、当時、兵務局T4の業務を分掌していた第三師団の学校参観を許された。コンガーは、「留保なし、無条件であらゆること」を視察する許可を得たが、「彼がその学校を参観したことを誰にも語らない」、さらには「そのような学校が存在することを認めない」ようにと、要求された。この米軍将校の参観は、おそらくドイツ軍がコンガーを「偏見がなく、率直で正直なドイツの友人」と考えだからこそ、実現したのである。また偶然ではあるものの、二十年近く前にコンガーはハンス・デルブリュックの学生だった。デルブリュックは今やベルリン大学で教鞭を執っており、近代軍事史のディシプリンを確立した人物とみなされていたのだ。

(略)

[だがコンガーは]ドイツ将校の信頼を裏切り、ワシントンの陸軍省宛に詳細な報告書を書いた。

(略)

ドイツのシステムは、アメリカよりもずっと優れていた。陸軍は広い範囲からの選抜を実行したし、青年将校も、まったく直属上官の思うままというわけではなかったからである。採点の際、受験者の名前は秘されていて、優れた得点が出た場合にのみ、軍管区司令部に当該の番号が付されたファイルが送り返される。それに基づき、問題の将校の能力についての報告書が連隊長から提出されることになっていた。

 軍管区試験では、高度な教養や難解な知識ではなく、軍事に関する堅実な理解が求められた。論理的に思考をまとめ、それを表現する能力は、才気を表すものとして評価された。軍管区試験は、ドイツの上級将校が下級将校を試すのみならず、現今の軍事について若い世代の意見を聴取する手段としても使われていたのである。

(略)

ドイツ将校にあっては、能力の欠如や予習不足は、戦友や講師もしくは学校の責任者にすぐ気づかれてしまう。ドイツ将校は、アメリカ軍のそれのごとく、何年も「繭」のような状態にとどまってはいられない。後者は、「往々にして、勉強する習慣をほとんどなくしていて」、ギヤがオーバードライブに入るのは、指揮幕僚大学校入校を命じられたときだけなのである。(略)

 合衆国とドイツのきわだった差異は、学校の教官や監事の選抜にある。軍学校や陸軍大学校に配属されるのは、戦争で多彩な経験をしたベテランのみで、しかも彼らは教育者の素質があることを示さなければならなかった。

(略)

 アメリカの軍学校では、実施部隊で異なるノウハウを得るチャンスを与えぬまま、元学生だけを教官とするため、「経験の地平が狭隘になる」ことは避けられない。そのことは、ドイツ将校が何度も特記している。

(略)

高度な能力が期待され、しかも厳しい選抜がなされていたにもかかわらず、上級軍学校に至るまで、ドイツ軍が優れた教官に不自由することはなかった。ドイツの青年将校たちは、エルヴィン・ロンメルに戦術を、ハインツ・グデーリアンに自動車輸送の実際を教えられることになったのである。両者ともに、それぞれの分野での専門家そのものだった。

委任戦術

 こうしたドイツの専門軍事教育システム全体が、有名な委任戦術に道を拓いた。この概念の総体は、アメリカ英語で「任務指定命令」と訳されているが、適切ではない。イギリス英語のそれも「訓令統制」と、こちらも良いものではない。(略)

 委任戦術は、往々にして命令の出し方のテクニックだと誤解されている。だが、本当のところ、それは指揮統制の哲学なのである。委任戦術の土台となっている理念は、上官による方針指示はあるものの、けっして事細かな統制はやらないということなのだ。(略)

ベストの訳語は「任務指向指揮システム」であろう。(略)

 アメリカの中隊長が、とある村を攻撃し、占領せよとの命令を受けたと仮定する。彼は、第一中隊を村の側面に向かわせ、第三中隊を正面突撃させよというふうに言われるはずだ。戦車四両が中隊に配属され、正面突撃支援を行うから、こちらが主攻になる。数時間ののち、中隊の攻撃は成功、中隊長は後方に無線報告を行い、つぎの命令を求める。

 一方、ドイツの中隊長が与えられるのは、「一六〇〇までにこの村を確保せよ、終わり」といった命令だ。攻撃前に、この中隊長は「一介の擲弾兵にまでも、攻撃中、何をなすよう求められているかを徹底」しておく。もし、小隊長や下士官が斃れたら、徴集兵が指揮を執らなければならないのだ。アメリカの兵隊たちは、こうした情報を切望したが、それが得られることはなかった。「命令が『なぜ出されたか、その理由』をほとんど知り得ないこと」が、GIにとって、もっとも深刻な問題の一つだったと、陸軍当局によって確認されている。

 ドイツ軍の中隊長は、配属された戦車を村に隣接した高地に配して援護射撃させるかもしれないし、集落の周囲に展開させて、村の守備隊の逃走を封じるかもしれない。村の攻撃方法に関しては、正面突撃、浸透、両翼攻撃と、中隊長が状況に鑑みてベストとみなしたものなら、どれを使ってもよい。村が占領されたなら、防御側の残兵追撃と、ただちに必要とされるわけではない部隊がさらに推進せしめられる。ドィツ軍の中隊長は、委任戦術の理念により、上官の攻撃構想をすべて理解しているし、彼が取るべき行動はすべて、一六〇〇時までに村を奪取せよという単純な命令に包含されている。訓練の結果、ドイツ将校は、「詳細な指令など必要としない」のだ。

 最良の例の一つが、当時大佐でクライスト装甲集団の参謀長だったタルト・ツァィツラーの言葉であろう。1940年のフランス戦直前、隷下快速部隊の指揮官と参謀将校たちに、彼は言った。

 「諸君、私は貴官らの師団が、完璧にドイツ国境を越え、完璧にベルギー国境を越え、完璧にムーズ川を越えることを要求する。どうやるかということには頓着していない。それは、完全に貴官たちにゆだねる」。対照的に、北アフリカ上陸作戦に関して米軍部隊に出された命令書は、シアーズ・ローバックのカタログほどの厚さがあった。

 クライスト装甲集団所属の第19自動車化軍団長ハインツ・グデーリアン中将は、委任戦術の精神にのっとり、指揮下の部隊にもっと有名な命令を下した。彼らは全員「終着駅までの切符を持っている」としたのである。この終着駅とは、それぞれに指定された、英仏海峡沿いの都市を意味していた。これらをどうやって奪取するかは、すべて部下に任されたのだ。

2015-06-13 地平線の相談 細野晴臣 星野源 このエントリーを含むブックマーク

『泰安洋行』パロディ表紙をめくると、各方面に受けそうなw二人の手つなぎ写真。いつまで残ってるかわからないけど、一応リンク。

http://cdn2.natalie.mu/media/comic/1306/extra/news_xlarge_tvbros0605.jpg

「なるべく音楽の話をしない、くだらない話をする」というコンセプトなので、前半はあまり音楽の話はなし。

以下、表記のないものは細野の発言。


地平線の相談

作者: 細野晴臣 星野源

出版社: 文藝春秋 発売日: 2015/03/28

アホアホマン

[ファンに知的イメージを持たれて困るという星野の相談に]

頭のいい友だちを見てると、時々、バカなことをやるしかないみたいなんだよね。ウンチのついたパンツでテレビに出たりとか。(略)でも、僕はあそこまでしなくてもいいんじゃないかと思ってさ。頭がいいと思われてるんなら、それでいいじゃん。イメージを演じちゃえばいいんじゃない?

楽譜

[楽譜が読み書きできないという話から、昔、遅刻常習の細野がスタジオに行くと、「ベースが来ない」とイライラしてるオーケストラ一同が。席に着くなり本番開始]

すぐには楽譜を理解できないから、もうドキドキしちゃうんだよね。(略)

五線譜を目で追って、1、2、3、4……これはドだな、とかやっとわかる。ところが、いざ弾き始めるとすぐに思うんだ。なんて簡単な曲なんだろうと。もう、適当に弾けちゃうわけ(笑)。(略)

ちなみにそのレコーディングは、野口五郎さんの歌謡曲だったよ(笑)。

クリマスカード

[年賀状の話から、クリマスカードの話に]

20年くらい前かな。ヴァン・ダイク・パークスから、何年か届いたの。(略)

でも、返事をしないままにしていたら、次に会ったときに「ホソノは僕のことが嫌いなんだね」って言われちゃった(笑)。

役者

[星野がベッドシーンをやることになり、困ってるという話から、細野さんが『居酒屋兆治』に公務員役で出た時の話に]

僕が[酔ってくだを巻く]伊丹さんにキレると、後ろから高倉さんが僕を押さえて、「まあまあここはひとつ」って。それだけのシーンなんだけど、「もう二度とやらない」と思った(笑)。自分のミュージシャンとしての精神が破壊されるんだよ。かなぐり捨てないとできないから。だから、星野くんはすごいなあと思うんだ、両方使い分けてるわけでしょう。

事象の地平線

何年前だったかな。はっぴいえんどのトリビュートライブに呼ばれたとき、ちょうど、楽屋でスケッチ・ショウのマスタリング音源を聴いていたんだよ。現在の自分の作業を行いながら、袖からは、はっぴいえんどをカバーする歌声が聴こえてくる(笑)。(略)なにこれって感じだよ。過去の自分からすごく遠い場所まで来たつもりが、隣には、はっぴいえんどがいる。変だなあ、以前は直線的に物事が進んでいたのが、だんだんそうじゃなくなってきたんだなと悟ったんだ。(略)

星野くんは、“事象の地平線”っていう言葉、知ってる?(略)天体物理学の概念なんだよ。(略)ブラックホールの中に入ると、それ以前の物理法則が崩壊するじゃない? そこで起こることに関しては、科学者も研究のしようがない。その境目を、事象の地平線というんだ。(略)音楽の世界も、今、事象の地平線にさしかかっていると思う。シンプルに言うと、そこで面白いことをやり続けていないと、音楽なんてできないわけだよ。バンドなら解放できるけど、個人は解散できないから。(略)面白さは、常に自分の中に持っていなくちゃいけないんだけど、そんなの、意図的に持とうと思っても持てるものじゃないし、なくなっちゃうこともある。すると、すごく醒めた感じになっちゃうんだ。(略)

つい10年前までそんな気持ちだったんだし、あらゆる音楽はもう全部聴き尽くしたなって白けた感じだったの。ところが、それは無知だということが最近わかった。新しい音楽に発見はないんだけど、古い音楽には発見がいっぱいあるんだよ。これは“今までにはない体験”なんだよね。

音楽的統合失調症

細野 ニューヨークに行くと、上手いミュージシャンがうじゃうじゃいるわけ。(略)

[日本にも時間単位高額ギャラの上手いスタジオミュージシャンならいる]

ダビングするとまたいくらとかね。確かに上手いんだけど、そういう割り切ったやり方をされると、こっちもいわゆる仕事の気分になっちゃうじゃない?(略)だから、あくまでも仲間としてやれるミュージシャンがもっといたほうがいいと思うんだけど。(略)とにかく、ミュージシャンの層の薄さは悩みの種。そのことを考えると、僕らは、西洋を中心とする音楽文化の片隅にいるんだなあっていう気持ちになったりもする。(略)

たとえば、テレビでソウルの歴史を紐解く番組を放送していたりするじゃない?でも、公民権運動のこともよく知らない自分は、その成り立ちの部分とは関係がない。(略)連綿と続く黒人音楽からこんなに影響を受けていながら、自分の人生自体には関係がない。そうしたら、“関係ない病”に陥っちゃったんだ。(略)

悲しいとかいう感情の問題じゃなくて、事実、関係ないところでやってきたんだなって現実を再認識した。

(略)

洋楽の誰それがカッコいいとか、そういう流れで来ちゃったわけ、日本のロックは、はっぴいえんどはちょっと外れていたけど、基本的には同じ。唯一、YMOだけは「関係ない」を意識してやり出したんだよ。(略)クラフトワークを聴いて、「ヨーロッパの深い伝統から生まれてきた鋼のようなコンセプトにはかなわない。だから僕らは紙のように軽薄でいいや(笑)」と思ったの。開き直り? それが、まあ、よかったのかな。(略)

原点にはどうしても戦争があるんだ。敗戦で進駐軍が来て、そこから今に至るから。戦後2年経って生まれて、知らない間にアメリカ文化を刷り込まれた。でも、それってルーツのある文化じゃない。なんて言ったらいいんだろう……“音楽的統合失調症”って呼んだらいいのかな?

(略)

星野 (略)ひとつのジャンルを真摯に追いかけてる人は「ホンモノ」と呼ばれますけど、あまり納得がいかなくて。俺は、一見様々な音楽をつまみ食いしてるように見えるけど、その人でしかありえないような表現をしている、なぜか専門家や批評家の方からはニセモノ、軽薄と呼ばれてしまっている人のほうが好きだったりします。

細野 僕もそうなんだよね。あのホンモノじゃないモノに惹かれてしまう(笑)。

ベース

[中1の時、友達三人、ギターでユニゾン]

僕はみんなのチューニング係をやってたわけ。全員リードをやりたがるから、自分はサイドに回ってね。みんなが下手糞なリードをやるのを、厳しい目で見てた。(略)誰もベースを弾きたがらないんだ。(略)

ベースをやると職種が変わる。シンガーじゃなくてミュージシャンになっちゃうんだよ。だから僕は、歌い出すまですごく時間がかかった。ベースをやってると、歌うなんてことは考えたこともなかったから。

細野さん、乙女心に目覚める

[映画『グーグーだって猫である』の音楽を担当し、遅まきながら大島弓子にはまる]

僕ね、大島さんの世界に触れてから、自分の中に今まで放っておいた乙女心が急に姿を現してきたんだよ。(略)

ずうっと放ったらかしにしてたから、僕の乙女心は全然ナイーブすぎるの。ヘナチョコなんだよ。だから、大島さんの漫画を読んで乙女心を勉強してるんだ。(略)

60になっても、自分の中にはまだ知られざる弱い部分があることがわかってきた。最近、プライベートな場面で、放ったらかしにしておいたその部分を使う必要性が生じたんだ。恐れおののいている自分に出会ったよ。

(略)

[別の回で、もう少し詳しく話をと言われ]

「自分がいかに乙女じゃないか」ってことがハッキリしただけでね。女性はいくつになっても、したたかに、柔軟に生きていくじゃないですか。乙女の延長線上にそういう生き方があるんだよ。ところが、男は僕らの年代になると、たとえば、会社をリタイアするなり、男社会の競争原理から放り出される。そうなると、家庭で厄介者扱いになっちゃうんだよ。男は、乙女の詳細を学ばなきゃ、楽に生きていけないってことがわかったんだ、この年になってね。

小学生の頃の不思議体験

たとえば、夜中にみんなが寝た後、子ども部屋でひとり机に向かって勉強してるじゃない。そうすると、静けさがその空間に蔓延していくわけ。やがて、鉛筆を走らせる音が部屋いっぱいに響いたりして、なにか恐ろしい感じがヒタヒタと広がってくる。そのうち、ちょっとした音がダンダンダンってフィードバックするようになる。そういうときは、自分の手が部屋いっばいの大きさになっちゃうんだ。(略)

あの感覚が、今の自分にはもう一切なくなったのが少し残念なの。

(略)

そういえば、風呂に入るたびにのぼせて、シューンって耳鳴りがしたりもしたなあ。ものすごいホワイトノイズの大音量が脳の中で鳴り響くんだよ。そして、それがフィードバックして無限大になってく。

[星野がAVの話を振り]

細野 最近、エロスは追求してないなあ。(略)

ところで、なんであんなに可愛い子たちが、たくさんAVの世界へ行くの?

(略)

(恵比寿)マスカッツは明るいよね。AKBより明るいし、全然、面白い。

(略)

[女優では誰が好き?]

星野 つぼみ、成瀬心美……選べないっす!

細野 全然知らない。今度、観てみようかな。

怒る

星野 細野さんは、これまでたくさんのバンドを率いてきた中で、怒ったりした経験はありますか?

細野 バンドでは怒ったことないなあ。特にYMOの末期は、怒る以前の問題がいっぱいあったんだ。忙しすぎてメンバー同士が直接会えないとかさ(笑)。問題が多すぎて、怒るより考え込んでた。(略)

怒るのはね、やっぱり本人が目の前にいないとダメだよ。面と向かって怒らず、いないところでいろいろ言ってたのが間接的に噂の形で伝わると、問題がさらにこじれる。(略)

でも、いざ当人を目の前にすると怒れないんだよねえ(笑)。

プロデューサー感覚

星野 CDのジャケットやデザインコンセプト考えたりするの、すごく好きなんですよ。細野さんって、音楽にまつわる音楽以外のクリエイティブな作業って好きですか?

細野 ものすごく好きだね。

星野 PVなんかも、ご自分でアイデアを出されたりしてましたもんね。

細野 うん、そういうの、ものすごくやりたいんだよ。ただ、気持ちのエネルギーは星野くん同様に強いんだけど体が動かない(笑)。

(略)

出来ることは、せいぜい全体の3割3分3厘ぐらい。実は、YMOの初期は、音楽自体は他のふたりに任せて、僕はその周りを固めてたんだ。グラフィックとか、コピーライティングとかね。(略)最初の2、3枚はそうだった。『BGM』までかな。その後は燃え尽きたんだよね。(略)

[音楽の周囲を固める作業は]好きだったね。ただ、はっぴいえんどに関しては松本(隆)くんのビジョンが強かったから彼に預けたけど。『風街ろまん』とか、世界が出来上がってたから。

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アンビエント・ドライヴァー/細野晴臣 - 本と奇妙な煙

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HOSONO百景 細野晴臣 - 本と奇妙な煙

イエローイエローイエローイエロー 2016/11/13 13:47 突然失礼します。
細野さんが野口五郎さんの楽曲に参加されたという話は聞いたことがなかったので、ちょっと調べてみたんですが…
野口五郎さんではなく郷ひろみさんの勘違いではないでしょうか?

http://mmw4.web.fc2.com/dbymo/history1983.html

kingfishkingfish 2016/11/13 18:10 細野さんの記憶ちがいなのかもしれませんが、本ではそのように書かれていました。役立たずの返答でスミマセン。

2015-06-10 ビートルズのここを聴け・その2 ロニー・ジョンソン このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


ビートルズのここを聴け―リヴァプールとニューオリンズをむすぶ、新・ビートルズ学

作者: 斎藤節雄

出版社: シンコーミュージック

発売日: 2001/03/01

ロニー・ジョンソン

アメリカン・ブラック・ミュージックにおける「田舎性VS.都会性」を、正当に把握しておかないとその音楽/サウンドにおける、ギターVS.ピアノの存在性もまた見え無くなってしまい、「ピアノはジャズもしくはシティ・ブルース、ギターはカントリー・ブルース」という、短絡的かつ無謀な定義へと至り易く成る。

(略)

ロニー・ジョンソンはニューオリンズに生まれ育ち、元々ラグタイムもジャズもBLUESも、あらゆるブラック・ミュージックが溢れた環境の中から、また彼独自の音楽BLUESを編み出した天才ということである。実は、一番得意だったのはギターであろうが、音楽一家に育った披はピアノ、ヴァイオリン、マンドリン、バンジョー……、ロバート・ジョンソンと並んでロニーの信奉者であったビッグ・ビル・ブルンジーによれば、「音楽を奏でられるものなら何でも!」プレイ出来たという話であり

(略)

初期の作品集『ステッピン・オン・ザ・ブルース』を一聴すれば分かることだが、その「作曲上のコード進行」にしても、ソロのメロディ・ラインにしても(略)

[ビッグ・ビル、ロバート・ジョンソン]が「敬服し切って当然!」という「新時代(黒人)音楽」である。あの時代において、ロニー・ジョンソンと同じレヴェルに居たのは、やはりフレンチ・クォーターの花形ミュージシャン同士であったであろう、モートン、サッチモ、ドッズといった、同様に天才である連中たちぐらいであったに違いない……なーんて具合に不肖筆者が持ち上げてはみても、よりマニアックなブルース専門誌とか記事を目にすると(略)[ブラインド・レモン・ジェファーソン、ブラインド・ウィリー・ジョンソン、]チャーリー・パットン、サン・ハウスという辺りが、「カントリー・ブルースの決定版」的に紹介されている。

 そう、ロニーは明らかに「シティ・ブルース」であって、上記のテキサス、ミシシッピ辺りのディープ・サウスなカントリー・ブルースとは異質だが、前述のようにシティ・ブルースと来れば、例えばピーティ・ウィートストロー、リロイ・カー、ビッグ・メイシオといった、ピアニスト/シンガーを引き合いに出すのが定石であって、「ジャズ・マンとの交流まで在った、シティ派ギタリスト/シンガー」ロニーの、出る幕は無くなってしまうのである……。とりあえず日本では!

(略)

「パットン→ハウス→ロバート・ジョンソン」こそを、「ブルースの3本柱」としようとするタイプのブルース・マニアの方々というのは、「ジャズはジャズ、ブルースはブルースで孤高、唯一無二」と、処女性尊重に近しい、神聖なる存在としてのブルースこそをデッチ上げようとする。(略)

ゆえに、ロバート・ジョンソンの中の“ロニー”の部分、つまり都会性/シティ・ブルース性はバッサリと切り捨て、“スライド・ギター”である上に、「アフリカ!プリミティヴ!!ワイルド!!!」なヴォーカルで、リスナーを「これぞカントリー・ブルース」と納得させ易い、「ミシシッピ出身のパットン&ハウス路線」のみと、直結させる。

 また、なぜスライド・ギターこそが好ましいか、御分かりだろうか?極めて「ヴォーカル的あるいはギターらしい」、と言うよりは多分、「ピアノ的では無い!」というところこそが肝であろう。そう、ロニー・ジョンソンのみならず、フロリダ出身でイースト・コースト及びシカゴで活躍した、「ラグタイム・ギターの名手」ブラインド・ブレイクや、「ミシシッピ出身で、1930〜40年代のシティ派シカゴ・ブルース時代は良いとして、1950年代のフォーク・ブルースがどうも……」、と謂れるビッグ・ビルなど、レギュラー・チューニングでピアノを思わせる程の、複雑な「神技ギター奏法のブルース・マン」が軽視される傾向というのも、正にそこから端を発しているようだ。そして、周知の通りロバート・ジョンソン奏法というのも、ロニーやビッグ・ビルというフィンガー・ピッキングの達人を手本にしたことによって、一聴「ツイン・ギター・コンビネイション? 否トリプル?!」、或いはキース・リチャーズに従うと『ギター・バッハか!?』という程の、神技的複雑さを誇ってはいるが、そこにパットン&ハウス系のスライド・ギターが絡む(つまり、ある面ロニー&ビッグ・ビル以上に複雑!)ことによってこそ、「カントリー・ブルース王者」なのである。

(略)

 確かに1936〜37年のロバート・ジョンソン・ブルースを聴くと、オーブンG系のスライド・ギターで「トニック7th感&ブルー・ノートが強烈」な上に、「ブキウギ・ピアノを引へ継いだグルーヴ」まで加わっているし、「3コードの12小節ブルース」という形式もほぼ完成しており、ある面「カントリー・ブルースの決定版」として、ロニー・ジョンソン、ブラインド・ブレイク、ビッグ・ビルとは違った意味で、「洗練されている」のは間違いない。

 しかし、それより10年以上も前、ニューオーリンズに生まれて、ジャズの名人とさえ渡り合った、ロニー・ジョンソンの「洗練されている」、あの音楽は一体どうなるのだ?!

(略)

ジャズ的進化を遂げていたロニー・ジョンソン・ブルースが、序々に両隣のミシシッピ及びテキサスの、田舎(略)の、黒人音楽に消化されていく内、ようやくロバート・ジョンソン程度に(略)と憶測した方が、自然なのではないだろうか?

(略)

ロニーに影響された30年代の、ビッグ・ビル・ブルースに用いられた表現らしいが、ロニー・ジョンソンの音楽は、正に元祖ハッピー・ブルースなのである。

(略)

「ニューオリンズ・ミュージックとしてのロニー・ジョンソン・ブルース」は、ビートルズのメンバーが誰ひとりとして直接的な影響を語っていなくとも、確実に「ニューオリンズ・ミュージック好きのビートルズ」に、リンク的影響は及ぼしているのだ。ましてやロニーの音楽は、サン・ハウスのように 「時代に埋もれた、SPレコード期から掘り起こされた宝石の原石」という感じの類いでは無く、当時十分にヒットし、ロバート・ジョンソン、チャーリー・クリスチャン、B.B.キングといった、新時代のギター・ヒーローを刺激し

[ポール談]スタックスのスネア

[メンバーと一緒にスタックスのレコードを聴いていて]

大体ジョージの家だったな――ジョージのスタックスのレコード・コレクションは素晴らしかったからね(!)――そこでスネアの音を聴いて、“ああ、こいつはこれまで聴いた中で最高のスネアだ”なんて思う。で、僕らはそのレコードを(アビイ・ロードの)エンジニアのとこに持って行って、“これを聴いてくれよ、こういうサウンドにしてくれなきゃ”。決してまるっきり同じサウンドにはなりゃしないんだけど、とりあえずサウンドの方向性を提案するわけさ……。)

The Dirty Mac

D

『ロックンロール・サーカス』での「ザ・ダーティー・マック」

“THE DIRTY MAC”、それは68年11月22日にリリースされたばかりの、ホワイト・アルバムからの「ヤー・ブルース」をピック・アップしているワケであって、ある面「プロモーション目的?!」という取り方も出来なくは無い。が、70年12月『回想するジョン・レノン』の時点においてさえ、まだ彼がそれについて言及しているところから、概ねは『1968年初め、ジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズから独立した、ピーター・グリーンら“FLEETWOOD MAC”が、50年代オーティス・ラッシュのマイナー・ブルース“オール・ユア・ラヴ”を改作、“ブラック・マジック・ウーマン”――そうサンタナが72年にリバイバル・ヒットさせるアレ――として、イギリスで大ヒットさせた!』件、その辺りを揶揄したとされる「ヤー・ブルース」を、そのテレビ出演時(前記の通りの御蔵入りで終わるワケだが)に披露して、徹底的に“FLEETWOOD MAC”をヤリ込める!ということこそが主目的であった!!と邪推可能なのである。

 しかし、流石に「反骨精神の塊ジョン」、それを何とクラプトン、そしてストーンズのキース、ジミヘンのとこのミッチ・ミッチェルという、十二分に“FLEETWOOD MAC”をビビらせ得る、ブリティッシュR&Bシーンのトップで固めた上、それをキメてしまうのだから……!ちなみに、キース&ミッチはその撮影のための人選だったと思われるが、クラプトンは、その後の“プラスティック・オノ・バンド”――“プラスティック・ソウル・マン”転じてのソレに違いあるまい!――への参加、そして『“レット・イット・ビー”撮影初期における、「ジョージの一時的“脱退”」に際した、“ジョージが戻らぬなら、クラプトンを呼ぼう”』という、ジョン発言からも窺えるように(略)「浪人中のクラプトン」とジョンは、カナリ真剣に「ニュー・バンド結成」を目論んで居たのであった。

ドノヴァン

「オリエント/インド趣味」のみならず、「ディランとも直接交流」、そしてそれまでは、「ダーク・ブラウン・ヘアのMcCARTNEY」(略)として、ある面“ケルティック・ヒーロー”でも在ったであろうポールからすると、ドノヴァンは十分注目に値する後輩であったハズ。実際はジョンの方が、インドでばかりでは無く、何かと可愛がっていたようではあるが――68年5月初め、ドノヴァンは何故か離婚目前のシンシア、そしてジュリアンと共に、ギリシア旅行!――、ドノヴァンの語るところによると、「ジョンには、直接フィンガー・ピッキングを教えてたんだけど、ポールはそれを側で覗き見していた」とか。また、ポール・ファンの御方なら、「サンシャイン・スーパーマン」に続いた(略)「メロウ・イエロー」レコーディングに、「ポールが参加」していることに御気付きだろうが、そのセッションのアレンジャー/ベーシストだった、“ジョン・ポール・ジョーンズ”によると、そのアレンジに対し、他のスタッフは難色を示していたのだが、「ポール様の御賛同」によって、結果採用されたそうだ。

 そう「1968年」、ロンドンではデイヴィ・グレアムに続いた、ヤンシュ&レンボーンがペンタンダルを、カーシーがスティーライ・スパンを、そしてリチャード・トンプソンらがフェアポート・コンヴェンションを……という具合に、「若きフォーキー・ヒーロー/ドノヴァンのスター化」に伴い、アメリカのディランらとはひと味異なる、独自のブリティッシュ・フォークも台頭し始め、その中心人物ドノヴァンのみならず、その彼が「バートのブルース」&「ヤンシュの家」で親密振りを表した、バート・ヤンシュその人も、実はドノヴァンと同じスコットランド・グラスゴー出身という辺りから、「何でも一番で居たい!男」ポールゆえ、ケルト香るアコGナンバー「ブラックバード」からの、スタートと成ったのではあるまいか!?さらに、「マザー・ネイチャーズ・サン」!

2015-06-08 ビートルズのここを聴け―リヴァプールとニューオリンズ このエントリーを含むブックマーク

「リヴァプールとニューオリンズをむすぶ、新・ビートルズ学」


ビートルズのここを聴け―リヴァプールとニューオリンズをむすぶ、新・ビートルズ学

作者: 斎藤節雄

出版社: シンコーミュージック

発売日: 2001/03/01

ラテン・ミュージック

スペイン、ポルトガルという同系のヨーロッパ文化において、取り分けフラメンコ&ファド(略)

実ははるか東方オリエントのインド方面からペルシア〜アラビア〜エジプト〜北アフリカを経て、主にイスラム教/イスラム文化に紛れてイベリア半島へと至った、“ジプシー/ヒターノ”の音楽なのである……。(略)

アフリカ中央西部あたりのソレナリに「イスラム化」していたであろうバンツー族のモノのみならず、地中海側「800年イスラム化していたヨーロッパ/イベリア半島」を通じて、ジプシーやベルベル人(モロッコ〜アルジェリア〜チュニジアあたりのマグレブ/北アフリカ人)が発揮した、北海側ヨーロッパ人に勝る黒人/アフリカ性もまた、“1492年”以前からラテン・ミュージックには取り込まれていた!ということである。

(略)

ジャズは、アメリカにおいてヨーロッバ白人とアフリカ黒人が出会って……」という、短絡的なシナリオこそが納得し易かったりするのだろうが、前述のようにそのジャズ発祥地ニューオリンズの「元ヨーロッパ人」の中心は、元フランス系および元スペイン系という地中海寄りラテン系ヨーロッパ人であり、さらに今では「ジャズ的ニュー・ミュージック」がイキナリ突発的にアメリカ南部の港町ニューオリンズのみから萌芽したワケではなく、「ラテン・ミュージック・エリア」に分類されているカリブ海/西インド諸島との交流の内に、そういったエリアにおいては「大都会」ではあるニューオリンズゆえ結果的に人、ミュージシャンも集まり、最も発展したのだろうという見方ができる……ゆえに広義に解釈すれば、確かに「ジャズは、ラテン・ミュージックの一種」でもあり、後述していく「新たなアメリカン・ミュージックの源となる、新たなニューオリンズ・ミュージック」もまた、そのリズム/グルーヴ面においてラテン・ミュージックからの影響が指摘できるのだ……。

 さて以上のような展開は、「ニューオリンズとリヴァプール/ビートルズ」という、極めて重要なキィ・ポイントを語っていくための振りであり

Bruce Channel - Hey Baby

D

ジョンのハーモニカ

[ブルース・チャネル:62年ビルボード1位になった一発屋C&W系シンガー]

そのチャネルUKツアー中に少なくとも「2回」、レコード・デビュー前のビートルズは彼の前座を務めており、そして周知の通りその「ヘイ!ベイビー」を特徴付けたそのハーモニカ・プレイヤーから、ジョンは直接ハーモニカ演奏の指導を受けたのである。それに関するビートルズ側からの直接的コメントは目にしていないが、『回想するジョン・レノン(「レノン・リメンバーズ」に改題)』でジョンはその「ヘイ!ベイビー」に触れており、「ディラン以前」において『ハーモニカはイケる!』を確信し、「ラヴ・ミー・ドゥ」→「プリーズ・プリーズ・ミー」→「フロムーミー・トゥ・ユー」……となっていったのは間違いなさそうだ。

レノン・リメンバーズ

レノン・リメンバーズ

[『ビートルズ/レコーディング・セッション』『アンソロジー2』におけるマーク・ルウィソーンの発見]

[1965年6月14日のロンドンEMI第2スタジオ]

「イエスタディ」を弾き語りで聴かされていたジョージ・マーティンとしても(略)レコード化可能な3作のOKテイクとして「夢の人」「イエスタディ」に加えてあのアグレッシヴな「アイム・ダウン」まで見事に歌い演奏し切ってしまうポールには、改めて腰を抜かされたのではないだろうか

(略)

さらに我々をポールが驚かせる一件、「夢の人」を6回テイクし、その第6テイクをアルバム用完全ヴァージョンとした後「アイム・ダウン」に取り掛かり、そのファースト・テイク(『アンソロジー2』収録。計7回その時テイクし、第7テイクをレコード化)が終わったところで、例のルウィソーンが発見したポールの“Plastic soul man,plastic soul man”(略)

[ルウィソーンが指摘するように、それはミック・ジャガーを指すジョークであり、その他、R&Bをカヴァーしていたグループ]

加えてポール自身への自嘲も含むのだろうし、また(略)テレ……も。

(略)

本物のブラックR&Bミュージシャンによる、『白人のインチキ・ソウル・ミュージック』に対する陰口がプラスティック・ソウルであり、それ転じて『ラバー・ソウル』、「ゴム製ソウル」の由来は……「ストーンズのヴォーカリストの“唇”」を、写真やビデオでチェックすればすぐに判明するに違いない。ちなみに、「その唇のヴォーカリスト」が主演している、70年のイギリス映画『パフォーマンス 青春の罠』における彼の役名は、「ラバー・リップ」……

(略)

アニマルズ「朝日のあたる家」に加えて、まだ“シングル用に「アイ・ウォナ・ビー・ユア・マン(彼氏になりたい)」をアテがってやった後輩”ぐらいに、侮っていたかも知れないストーンズの、本国イギリスにおける大ヒット「リトル・レッド・ルースター」が相まり、「そういう状況への反骨精神の発露」となり、秘かにレノン/マッカートニーが溜飲を下げようという企てもあっての、「ディジー・ミス・リジー」&「バッド・ボーイ」、そして「アイム・ダウン」ではなかったのだろうか?! そう、“ブルージー”という面ではジャガー、バートンには適わないものの、“アグレッシブ”というブラック・ミュージック/R&B性においては、「その3曲」で十分に肩を並べているハズだ。しかも、「アイム・ダウン」はカヴァーではなく、「ポールのオリジナル」なのである

(略)

 ルウィソーンは単に、「ジョンが“TWIST AND SHOUT”を1テイクで録ったというのは驚異的ですが、“LONG TALL SALLY”も1テイクで?」と振っただけなのだが(略)

 《ポール:そうだよ。ジョンと僕は対等だった。(中略)僕は感傷的なバラードを作るというので有名になっていたし、ジョンは僕と口論すると、わざわざそれを強調するようなことを言った。でも本当は、彼にもちゃんとわかってたんじゃないかと思う。“KANSAS CITY”で僕が行き詰まったとき(略)「しっかりしろよ!君の力はそんなものじゃないはずだ。頑張れ!」と言ってくれたのは彼だったよ。僕らは2人とも同じように、ノイジーな曲を書けばバラードも書いたんだ。僕は“YESTERDAY”ゆえにバラード作者と呼ばれ、ジョンは“TWIST AND SHOUT”ゆえに絶叫型と呼ばれたが、彼がリンゴのために書いた“GOOD NIGHT”はこの上なくセンチメンタルなバラードだし、自分(ジョン)の母親を歌った“JULIA”だってそうだよ。“TWIST AND SHOUT”のノイジーさを上回るものはないにせよ、誰にでも二面性があるものさ。》

(略)

[ツアー、1ヶ月半程の完全オフを経た4ヶ月後]

再スタートの日10月12日はやはり「ジョンの日」として始まり、ファースト・セッションの「浮気娘」はともかくとして、セカンド・セッションはイキナリ、その直前の 「アメリカ・ツアー中に、バーズ/デイヴィッド・クロスビーからも使用を薦められた」という、“シタール”(略)をフィーチュアした「ノルウェイの森」だ……! あのポールの「6月14日」から4ヶ月、弟分ポールと「対等では在りたくない」であろう兄貴分ジョンからの、またキツい一発がポールのボディに適中した瞬間であったに違いあるまい。そして翌10月13日、「アイム・ダウン」よりははるかにレノン/マッカートニーらしいオリジナリティを誇り、結果的に『ラバー・ソウル』のオープニングを飾ることになる、ポール主体のプラスティック・ソウル系ナンバー「ドライヴ・マイ・カー」の一日である……そういうレノン/マッカートニー中心の攻めぎ合いが丸1ヶ月ぐらい連続していく内、あの名盤『ラバー・ソウル』が自ずから形を成していく……。

Prince La La - She Put The Hurt On Me

D

ドクター・ジョンが語る、ニューオリンズ・ビート

ニューオリンズの音楽は、アメリカの音楽にとてつもない影響をあたえてた。でもニューオリンズの外じゃ、誰もそのことを気にかけようとはしなかった。リズムひとつ見ても、ニューオリンズがどれだけの影響力を持ってたか分かるっていうのにね。アール・パーマーやチャールズ・ウィリアムズは、R&BやR&Rのリズムを一変させてしまったほどの人たちだった。それに、『ニューオリンズのビートは、モータウンにも影響』をあたえてたんだ。私に言わせれば、『モータウンのビートっていうのは、ジョン・ブドローやスモーキー・ジョー・ジョンソンのビートをコピー』したものさ。ベリー・ゴーディは、AFOの連中がバックをやったプリンス・ラ・ラの“シー・プット・ザ・ハート・オン・ミー”のブードローのビートを、『そのまま、シュープリームスのベイビー・ラヴに使って大ヒット』させたんだ。それだけじゃない。モータウンのやつらはウォーデル・ケーザックとスモーキー・ジョーをデトロイトに呼んで演奏させ、その『テープをスタジオ・ミュージシャンに聴かせて練習させた』んだよ。それに『ブッカー・T&ザ・MG'sのアル・ジャクソンもチャーリー・ウィリアムズのドラミングから大きな影響を受けてた』んだ。アルは、「私のドラムは、チャーリーのドラムを単純にしたものなんだ」って言ってたよ。『リヴォン・ヘルムも、リンゴ・スターも、チャールズから影響を受けた』と言ってた。それを考え合わせれば、『ニューオリンズのR&Bは、モータウンからサザン・ソウル、ロックまで、すべての基本になった』と言っていいはずさ。

(略)

あとに現れたニューオリンズのドラマーと言えば、まずジグ(ジョー・ジグ・モデリスト/ミーターズ)だろう。レッド・ツェッペリンから、Pファンク(略)まで、ジグのドラムに影響されたやつらは数知れないよ。ニューオリンズの音楽を、外の世界に知らしめたという点では、アラン(・トゥーサン)とミーターズの功績は計り知れないほど大きいね。

次回に続く。

2015-06-05 モータウン〜 その6 ノーマン・ホイットフィールド このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


モータウン・ミュージック

作者: ネルソンジョージ 林田ひめじ

出版社: 早川書房 発売日: 1987/10

崩壊

モータウン初期のモーター・タウン・レビュー運営に不可欠の存在だったビーンズ・ボウルズは地方政治に首を突っこみ、会社のイメージに悪影響をおよぼしたとして解雇された(スモーキー・ロビンソンはそのすぐ後、彼を自分のツアー・バンドの音楽ディレクターとして雇う)。長年モータウンと黒人ラジオ局との橋わたし役をつとめてきたジャック・ギブソンもまた、モータウンのイメージにそぐわないという理由でエイルズによって解雇された。このためモータウンは、それまで彼らを支持していた黒人ラジオ局の多くを敵にまわすことになった(スタックス・レコードはギブソンにプロモーション・ディレクターの職を与える)。チョリー・アトキンズはラスヴェガスに居を移し、ステージ・ショーの仕掛け人としての評判をかわれてカジノ・ホテルで働きながら、自分の好きなR&Bアーティスト(グラディス・ナイト・アンド・ザ・ピップス、テンプテーションズ、オージェイズ)との仕事を、フリーの立場でこなすようになった。1967年グエン・ゴーディーと離婚したハーヴェイ・フークアもフリーとなり、RCAと好条件でプロデューサー契約をかわし、ニュー・バースなどのバンドを世に送り出す(略)

いつもモータウンを自分の会社のように考えて制作部門の監督にあたり、ゴーディーにたいしては一家の誰にも負けない忠誠心を発揮してきたミッキー・スティーヴンソンは、1969年、モータウンの株主になりたいと申し出た。彼はもしそれがかなわなければモータウンを辞めて、彼自身のレーベルを持たせてくれるというMGMの誘いを受けるしかないと決意していた。ベリーの答はノーだった。スティーヴンソンは退社、キム・ウェストンも後を追う。そしてまもなくクラレンス・ポールも彼のもとに行くことになる。

(略)

[ベリーもH‐D‐Hだけは失いたくなかった]

ひきとめ策として彼らに一人当たり毎年10万ドルを、印税の他に出そうともちかけていたということだ。しかし、それはあまりにも少額だった。H‐D‐Hは自分たちの道を見出すべく、1968年にモータウンを離れた。結局、ベリーが皆に教えてくれたのは、自分自身で何かをやるしかない、ということだった。

[まずモータウンがH‐D‐Hに400万ドルの損害賠償請求。逆にH‐D‐Hがモータウンに2200万ドルの損害賠償請求。争いは70年代半ばまで続いた]

ノーマン・ホイットフィールド

 まん丸でふさふさのアフロ・ヘア、きれいに刈りこまれた髭、そして無愛想で横柄な表情が印象的な男ノーマン・ホイットフィールドは、もうモータウン・ファミリーの二流メンバーではなかった。H−D−Hの離脱、そしてますます焦点の定まらなくなってきたスモーキーの作曲能力を考えると、ノーマンこそが、多産だったモータウンの生産ラインを立て直すために求められる人物であった。この使命のために、彼は新編成となったファンク・ブラザースを活用しなければならなかった。(略)ベニー・ベンジャミンはすっかり弱っていて、しっかりしたビートのキープ役をまかせられる状態ではなかった。かわりにユリエル・ジョーンズがメインとなるリズムを刻み、ベニーはシンバルを叩いてリズムに色を添えただけだった。[69年、死去](略)

白人の若手ベーシスト、ボブ・バビットが、まもなくジェマーソンと仕事を分け合うようになった。(略)

 この新体制にたいしてホイットフィールドはモータウンの新しいサウンドはどうあるべきかを示した。彼はスライ・ストーンが市場におよぼしている影響の大きさをしっかりととらえていた。

(略)

 ホイットフィールドはスライ・ストーンの作品を念入りに研究した結果、レコードのプロデュースというものは「科学だ。サウンドの科学なんだ」ということに気づき、また音響的に見ると音楽は、モータウン・サウンドもスタックスのソウル・サウンドも共に過去の遺物となってしまうような、よりスケールの大きな広がりのある時代に突入しつつあるという結論に達したのだった。ジェイムズ・ジェマーソンによれば、ノーマンはダンスのできる演奏というだけでは満足せず、二つか三つの基本的なコードを使っただけでしかもどのレコードもそれぞれ違った味を持つ「とてつもないファンク」を作ろうと考えていたみたいだ、と言う。1968年のこと、ユリエル・ジョーンズによると、ホイットフィールドは「ある日スタジオに入ってきて『何か違ったことをやりたいんだ。何か新鮮なことを』って言った」その結果できあがったのが〈クラウド・ナイン〉であり、長時間演奏を特徴とした新しい量産ソウルだった。そしてそれは70年代のディスコの大流行の発端となったのである。(略)

[〈クラウド〜〉から]忘れることのできない〈パパ・ワズ・ア・ローリン・ストーン〉[まで]を次々に送り出し、ホイットフィールドはモータウンを改革した。(略)

[〈クラウド・ナイン〉誕生秘話:ユリエル・ジョーンズ談]

 シンバルのビートから生まれたんだ。ノーマンがやってきて、シンバルはこんなふうにしてほしい、って言う。二、三分、シンバルだけで同じビートを刻ませておいて、次に足はこんなふうに刻んでくれって言うわけ。実を言うと、彼はそうやって僕の演奏を聴きながら、その上に何をつけ加えればいいか考えてるんだ。そうして次にはバンド全体で演奏させる。その間に彼はちょっとしたことを思いつくと、ここはこう、そこはこう、と指示する。彼の心の中では構想はもうできあがっているんだけど、僕らが実際に演奏しはじめてやっとそれが実体のあるものになるわけさ。演奏してるとミュージシャンがたまたま何かフレーズを編み出すだろ。そうすると彼は「それ使ってくれ。いいよ。そういうのが欲しいんだ」って言うんだ。誰かがひらめいて何かアイデアを出すまで、僕らは何度も何度も、ひたすらすわって演奏を続ける。そしてそのアイデアを使うわけだ。12人か13人の男が、ただリズムに合わせて演奏をやりつづけるんだ。


〈クラウド・ナイン〉はきわめてあからさまにハイになることを歌った歌で(略)「あの曲が発表になった時には、当局側はちょっとばかり肝をつぶしてたよ」とオーティス・ウィリアムズは言う。

(略)

[それまでのアルバムはヒット・シングルと穴埋め曲から成り立っていたが]

シネマスコープ・ソウルともいうべき壮大な曲 〈パパ・ワズ・ア・ローリン・ストーン〉の11分45秒全部を楽しむためにはアルバムを買わざるを得なくなった。モータウンはここで初めて、45回転レコードでは手に入れることのできない、33回転ならではの歌を世に送り出したわけだ。

 1940年代に始まった黒人向けラジオは、早口のジャイヴを得意とするDJがやつぎばやにヒット曲をかけていくというスタイルでずっと続けられてきたが、ホイットフィールドの野心的作品の長さ(略)や、その扱うテーマ(ぶらぶらしている困った親父)から挑戦を受けることになった。ホイットフィールド=ストロング、そしてヘイズ、メイフィールドなどの作品の影響で、黒人ラジオ局はロック専門の“アンダーグラウンド”なFM局にも対抗できるような、しゃれた大胆なものに変身することを余儀なくされた。都会的センスを持った、ゆったりとした喋り口のアナウンサーが、昔ながらの黒人DJの座を徐々に奪っていった。

(略)

ホイットフィールド=ストロングは暴力的なまでにリズミックな演奏を作りあげ、見せかけのヒップさと流行の先端をいく社会意識がごちゃまぜになった歌詞をあおるようにもりあげた

(略)

 そのうちホイットフィールドはヒット以上のものを望むようになった。彼はスライやヘンドリックスの音楽を高く評価していたが、それと同じくらい彼らの衝撃的なファッションにも心を奪われていた。〈ファンキー・ミュージック〉を歌うテンプテーションズにはスエードのベスト、金縁めがね、マルチ・カラーのパンツというファンキーな流行ファッション(チョリー・アトキンズはそれを見てすっかり面くらってしまった)もそれなりに効果を発揮したが、ホイットフィールドが後押ししていたグループ、アンディスピューテッド・トゥルースに関しては話はまた別だった。ブレンダ・エヴァンス、ビリー・カルヴィン、ジョー・ハリスは若くてやる気満々の三人組で、ヒット曲のためならホイットフィールドの言う「コズミックなこと」――顔を白っぽくメークアップしたり、ブロンドのアフロにしたり、銀色のメタリックな衣裳を着たりすることもよろこんでやった。

(略)

ホイットフィールドの言葉を借りれば「ヒット・マシンのスイッチをオンにし」て、〈スマイリング・フェイシズ・サムタイムス〉を彼らに手渡した。これは暗い調子の妄想がかったレコードで、ノーマンが大衆の動向に敏感なことを示す曲だった(当時、リベラル派の人間の多くがこの曲をニクソン政権にたいするコメントとうけとった)。〈フェイシズ〉は第三位に入り、ノーマンはこのグループなら音楽的にも視覚的にも自分の理想を実現してくれる、と考えた。

 その頃ホイットフィールドとテンプテーションズの関係はすっかり冷えきってしまっていた。ホイットフィールドがテンプテーションズの歌う曲を他のアーティストにも歌わせてしまうことを彼らは不愉快に感じていた。(略)

ノーマンは、すべてのグループに〈ウォー〉や〈ファンキー・ミュージック〉のシングルを録音させようとしたのだった。

Smiling Faces - The Undisputed Truth

D

テンプテーションズ

[エディ・ケンドリックスの]グループ脱退によって、ポール・ウィリアムズは哀れにも心の支えをなくしてしまった。徐々に生活が乱れつつあった彼は、支えとなってくれる存在をどうしても必要としていたのに。その時すでにポールはひどい抑鬱状態におちいっており、ドラッグや酒によってその症状はますます悪化の一途をたどっていた。彼にはいつもどこか不幸の影がつきまとっていたが、誰にもその本当の理由はわからなかった。ただ一つ確かだったことは、1967年頃からそれが始まっていたということだ。かつてはテンプテーションズ一番のダンサーだったポールがリズムにのり遅れるようになった。どっしりとしたバリトン・ヴォイスは不安定にふらつくようになった。歌詞も忘れがちになった。(略)

[リチャード・ストリートとメンバー交代]

ベリーはポール・ウィリアムズをモータウンの相談役にするという寛大な措置をとった。ケンドリックスが 《デトロイト・フリー・プレス》に語った表現を引用すれば、「街角にたたずんで、自分の人生に何かが起こるのを待っている」ウィリアムズにたいしてベリーは給料を払ったわけだ。彼は理髪店の株を持っていたし、振付けに関してはまだテンプテーションズを手伝ったりもした。「でもそんなことも、壁にかかったゴールド・レコードを見て暗澹たる気持ちになる彼にはなんの役にも立たなかった」ケンドリックスが最後にウィリアムズを見たのは1973年8月中頃だったという。別れ際にウィリアムズは彼の腕をとって、「忘れるなよ。人間、引き際が肝心だぜ」と言ったという。一週間後の1973年8月17日、彼は駐車した車の中で、水泳パンツ一枚の姿で、自分の頭を撃ち抜いた。ヒッツヴィルのスタジオからほんの2ブロックしか離れていない場所だった。

マーヴィン・ゲイ 〈ホワッツ・ゴーイング・オン〉

 1969年後半から1971年までの間、マーヴィン・ゲイは途方に暮れて毎日をすごしていた。ライヴで歌うこともせず、モータウンのプロデューサーたちと仕事をするのもやめて、一日中酔っ払って妻のアンナと喧嘩ばかりしていた。タミー・テレルの病気の一件があって以来、マーヴィンはセックス・シンボル、スター歌手としての生活と、父親から受けた宗教的教育との矛盾に悩んでいた。説明のつかない深い虚しさが、彼の心の底に住みついてしまっていた。

(略)

[70年、31歳になったゲイは]デトロイト・ライオンズに入団しようと決めた[が門前払い]

(略)

 ジャズにたいする興味、そしてルーツであるドゥーワップやゴスペルの影響を反映して、マーヴィンの作曲スタイルはより個人的な色彩を強めていった。彼にとっての過渡期は大詰めに近づいていた。

友人のちょっとした助けがあればすぐにでも新しい局面を迎えることができる、そんな状態であった。(略)

スモーキーの〈アイ・セカンド・ザット・エモーション〉の共作者でもあるアル・クリーヴランドはある日の午後、レナルド・ベンソン[フォートップス]の家をぶらりと訪ねた。ベンソンは何をするでもなくアコースティック・ギターをもてあそんでいるところだった。60年代末の社会的大変動についてクリーヴランドと話しているうちに、ベンソンは幻想的なメロディーをギターで奏ではじめる。二人は協力して、そのメロディーを歌らしい形にまとめていった。三週間後、クリーヴランドは車の中からミシガン湖を眺めているうちに、例の歌を傑作にしてくれそうなサビの歌詞を思いついた。ベンンンとクリーヴランドは完成した曲を聴きながら、これはマーヴィンのしなやかな歌声と瞑想的な性格にぴったりじゃないかと感じたのだった。

 最初マーヴィンは〈ホワッツ・ゴーイング・オン〉のレコーディングにあまり乗り気ではなかった。

 「僕らは一ヵ月くらい彼を説得しつづけたんだ」とクリーヴランドは回想している。「彼はその時もう一年半もレコードを出していなかったし、経済的にも楽じゃなかった。当然、精神的にも健康とは言えなかった」クリーヴランドがロスアンジェルスに行っている間、テープはマーヴィンが持っていた。(略)彼の留守中にマーヴィンは〈ホワッツ・ゴーイング・オン〉を録音してしまった。(略)

 ところがレコードがあまりにも急激に評判となったため、一つ問題が起きた。アルバムの準備がまったくできていなかったのだ。クリーヴランドとベンソンがあわててデトロイトに戻ってみると、マーヴィンはアレンジャーのデヴィッド・ヴァン・デピットの協力を得て、大急ぎでレコーディング・セッションのお膳立てをしているところだった。「僕らはあの曲を書いた時点でアルバムのコンセプトについてもいろいろ話し合ってたんだ。なのにマーヴィンは僕らに相談もなしでスタートしてしまったんだよ」今になってもなお、クリーヴランドはいくぶんムッとした調子で語っている。(略)

[ジョニー・グリフィス談]

「ある日、マーヴィンは一時間半も遅れて、バケット一杯のフライド・チキンを持ってあらわれた。『今回はちょっと変わったことをやるんだ』と彼は言った。(略)

 「すこしやってみて、聴き返す。『ワオ、いい感じ』」アルバムの制作についてマーヴィンはこう話す。「別のところを聴いてみる。『待てよ、このバックにはこれを入れてみるといいんじゃないかな』で、やってみる。『ほら、ベルみたいだろ、ディンディンって。な?』そんなふうにして作っていくわけさ。組み立てていったんだ。画家が絵を描くのに似てるんだ。最初はゆっくり、一つ一つ描いていくしかないんだ」長い年月を経た今もなお、アルバム《ホワッツ・ゴーイング・オン》には、まるで空中に掛かる一枚の絵のように、画家の作品の手触りがある。

スティーヴィー・ワンダー覚醒

[21歳になり、モータウンが預かっていた100万ドルを受け取る。契約更新をわざと半年引き延ばしたあげく]

彼はモータウンにこう告げたのだった。「僕はあなたがたの言うことにはもう従わない。僕との契約は破棄してほしい」

[71年NYへ。CSB、アトランティックが接触。トントズ・エクスパンディング・ヘッド・バンド(マルコム・セシルとロバート・マーゴレフという二人のミュージシャン兼技術者)のアルバム<ゼロ・タイム>を聴いて、シンセ中毒に。二人に会い、環状にシンセを結合した巨大な機械トントをいじらせてもらう。三人で「心の詩」から「ファースト・フィナーレ」までのアルバム四枚の土台となる素材を一年で録音してしまう]

巨大なシンセサイザーは(略)グリニッチ・ヴィレッジにあるジミ・ヘンドリックスのエレクトリック・レディー・スタジオヘと移された。三人は共同でアルバムを一枚制作する予定だったが、当時ワンダーの下で働いていたある人間の言葉を借りれば彼らは「すっかりのめり込んでしまったんだ。ずんずん、ずんずんとね」仕事は夜になっても続けられたし、真夜中過ぎにスタートしてそのまま朝を迎え、午後までぶっ通しということもしばしばだった。同じスタジオでヘンドリックス自身が《エレクトリック・レディーランド》を制作した時のような熱気で仕事は続けられ、彼らはレコーディングの費用だけで25万ドル近くを費やしてしまった。スティーヴィーがアイデアを出し、マーゴレフとセシルが技術的な知識を提供するというかたちで、最初の一年だけでも彼らは35曲分のリズム・トラックを完成させた。セシルの概算では、四枚のアルバムに使われた曲の他に、完成されミックスも終わった曲があと40曲はあり、「いろんなかたちで作業途中の」曲が240くらいはあるはずだという。プロになって以来ずっと、スティーヴィーはこうした自由を待ち望んでいた。シンセサイザーを手にした彼は、それまでポップ・ミュージシャンが持ったことのない支配力を、レコーディングにおいて振るうようになったのである。(略)

エレクトリック・レディーのスピーカーから流れてきた音楽は、スティーヴィーを1970年代最も革新的なミュージシャンの一人に位置づけた。

まだまだあったけど、6回やったので終了。

2015-06-03 モータウン〜 その5 ノーザン・ソウル、シュープリームス このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


モータウン・ミュージック

作者: ネルソンジョージ 林田ひめじ

出版社: 早川書房 発売日: 1987/10

ノーザン・ソウル

[ビートルズ、マージービート他に押され、米ポップスは英国チャートから締め出されていた。モータウン首脳が訪欧]

EMIと配給契約を交わし、何組かのアーティストのツアーの話を持ち帰った。その中で特筆すべきは1964年のメリー・ウェルズとビートルズの合同ツアーだろうか。(略)

 イギリスでのモータウン人気に火をつけたのはシュープリームスだった。イギリスでの突破口を求めてベリーは1964年初め、当時、英国タムラ/モータウン鑑賞協会の創始者であり会長だったデヴィッド・ゴーディンをデトロイトに招き、現状の打開について話し合った。(略)[ゴーディン]はこう述べている。「そこで私は、一番いいのはモータウンという会社、そしてそのサウンドをまるごと宣伝して売っていくことだという結論に達したのです」(略)ベリーは彼に〈ホエア・ディド・アワ・ラヴ・ゴー?〉のレコードを聴かせた。ゴーディンは、この曲ならばイギリスでもヒット間違いなしだと直感した。

 イギリスでの〈ホエア?〉のリリースと時を同じくして、イギリスの沖合に停泊した船から送信する海賊ラジオ局のはしりとなったラジオ・カロラインが活躍しはじめていた。こうした海賊局は、政府独占のBBCのようなラジオ局ではまず放送されない音楽をガンガン流した。ゴーディンは語る。

 「(略)自分たちの影響力を知るためには、他の局では流していないようなレコードをとりあげるしかありませんでした。そこで彼らはディオンヌ・ワーウィックやエタ・ジェイムズやシュープリームスを流してみました。するとそれらのレコードがどんどんチャートを駆け上がりはじめたというわけです」

(略)

1966年になってタムラ=モータウンのアーティストが定期的にトップ20に食いこみはじめ、イングランド北部(ここではモータウンの音楽がしばしば“ノーザン・ソウル”と呼ばれていた)に熱狂的なファンが急増するにいたって、ベリーがゴーディンの意見を信頼したのは正しかったことがはっきりした。

(略)

[65年、タムラ=モータウン・レヴューが英国へ、収支はとんとん。モータウン目当てのファンが前座のジョージー・フェイムに激怒]

「異常に高価なチケットが災いして、ホールには半分しか客が入っていなかった」(略)

「リヴァプール・サウンドヘの反撃のために、“通”の間でタムラ=モータウンとして知られるデトロイト・サウンドがやってきた」とボイルは書きたてている。「イギリスの連中よりもずっと洗練され、はるかにプロフェッショナルだ。ベルベットの手袋をはめた手で、強烈なパンチをくらったようなものだ」

 グラスゴーのある新聞は第一面にタムラ=モータウンのツアーを紹介し、「ついに、ビートルズのアイドルだったグループがグラスゴーヘやってきた」という大見出しの下、シュープリームス、スティーヴィー・ワンダー、マーサ・アンド・ザ・ヴァンデラスらの写真を掲載した。また小見出しには「これが“無名の人間”をスターに変えてしまう男だ」と書かれていた。ラムゼイ・ワトソンの記事にはこうあった。「軍事作戦のように緻密な計画の下、デトロイト・サウンドが今夜イギリスのポップ・シーンに襲いかかろうとしている。世界中のヒット・パレードを総ナメにした半分ポップス、半分ジャズの、ヘヴィーで一度聴いたら忘れられないロックのビートが初めてグラスゴーにお目見えする。……その仕掛人は太っちょで童顔のニグロ、ベリー・ゴーディー・ジュニアだ」

スティーヴィー・ワンダー

[〈フィンガーティップス〉以降ヒットがなく、社内から特別扱いに嫉妬の嵐。一発屋扱いにして契約解除してしまえという空気に。追い詰められたスティーヴィー、だが〈アップタイト〉のヒットで一転]

彼はそのドライヴ感あるテンポを、R&Bのシンガーなどではなくローリング・ストーンズの〈サティスファクション〉から得たと語っている。1964年、ストーンズとともにツアーを行ない、彼らのドライヴ感あふれるビートに聴衆が熱狂するのに深い印象を受けていたのだ。(略)チャーリー・ワッツのスタイルをモータウン・ミュージックにとりこんでしまうあたりは、開花する彼の天才ぶりをよくあらわしている。(略)

[次の次のシングルが]ディランの〈風に吹かれて〉のカヴァー・ヴァージョンだとは誰も予想できなかった。モータウンのスタジオに入っていない時、スティーヴィーはモータウン以外のポップ・ミュージックを自分流にアレンジして楽しんでいた。といってもそれはクラレンス・ポールが教えてくれたようなスタンダードではなく、ディランの〈ミスター・タンブリン・マン〉や〈風に吹かれて〉といった歌だった。クラレンス・ポールもそんな彼を応援し、〈風に吹かれて〉ではプロデューサーである彼の高音のバック・ヴォーカルを聴くことができる。(略)

この曲はスティーヴィーにとってかならずプラスになると力説して、ポールは社内の懐疑的な雰囲気をおさえこんだのだった。

 〈風に吹かれて〉はポップ・チャートの九位という好成績を残した。しかし一番重要なことは、この曲がソウル・チャートで一位となり、モータウンも含めた多くのレコード会社が考えていたほど黒人の音楽的嗜好が偏狭なものではないというスティーヴィーの信念を裏づけたという事実だ。まだ多くのことを学びつつあったスティーヴィーにとって、これは意義深い経験となった。これから後、彼はつねにファンの中核を成す黒人たちを前へ前へとひっぱっていこうと努め、けっして型にはまった作品でお茶をにごそうとはしなかった。

 〈風に吹かれて〉の成功後も、このレコードにたいするモータウンの社内的な批判は続き、その攻撃目標はスティーヴィーだけではなくなった。クラレンス・ポールが、自分が預かった若者を利用してシンガーとしての復権をはかったと糾弾されてしまったのだ。〈風に吹かれて〉のレコードに入っているポールの声が目立ちすぎている、スティーヴィーと一緒にステージに上がり、その曲を歌っている、といったことがその証拠とされた。

(略)

[ツアーのある朝]

スティーヴィーが頭を抱えて、死にそうなほど頭痛がひどいと言い出した時、後方では当惑の混じったくすくす笑いが起こった。その前夜、バンドの連中はスティーヴィーに初めてのマリファナ体験をさせたのだが、何事にも熱中しやすい彼はつい度を越してしまったのだ。ミュージシャンは彼の様子を見ているだけでおかしかった。ところがそのうちベリーが後ろをふりかえってスティーヴィーを心配しはじめたので、プレイヤーたちは落ちつかなくなった。何人かがスティーヴィーを黙らせようとした。ところがスティーヴィーはとうとう後ろを向いて、哀れな声でこう言ったのだ。「ねえ、誰かアスピリン持ってない? 夕べのあれで頭がガンガンするんだ」

 バスを降りて開かれたミーティングで、ベリーは断固とした口調で、スティーヴィーがモータウンにとってどれほど価値のある存在か、そしてモータウンが彼にどれほど金をつぎこんでいるかを皆に説いて聞かせた。もしこの少年に万一のことがあれば、かならず誰かに責任をとらせるぞ、と彼は宣言した。この一件に関係した人間は皆冷や汗をかいたが、ミュージシャンもスティーヴィーもツアー中に“ウロウロ遊びまわる”ことをやめようとはしなかった。(略)

すべては“リトル・スティーヴィー”から脱却しようとする彼の必死の努力だった。

ソウル

 ベリー・ゴーディーは設立を予定していたゴスペルのレーベル名に使用するために、“ソウル”という言葉の著作権を取得しておいた。抑制から解き放たれた、感情むきだしの黒人教会の音楽と“ソウル”という言葉を結びつけようと考えていたのだ。しかし1965年も終わりに近づく頃には、“ソウル”という言葉は黒人社会で、そしてブラック・ミュージックの中で、もっと広い意味合いをもって使われるようになっていた。一般的にはその言葉は、黒人にあって白人にない特質――白人とは違う話し方、歩き方、世界観などをさすようになっていた。

(略)

レコード業界に身をおく黒人たちは皆ベリーとの競争に息もたえだえだった。多くの者がモータウンを真似たが、モータウンを超えられた者は一人もいなかった。

(略)

 ところがスタックスは組織もしっかりしており、ブラック・ミュージック界では長い経験を持つ会社、アトランティック・レコードに配給を委託し、しかも白人、黒人の両方に受け入れられる独自のサウンドを持っていた。ヒップな白人や進歩的な黒人はベリーの立身出世志向や、時として作りすぎともいえるプロデュースぶりにうんざりしはじめていた。スタックスは“本物”であり“ヒップなもの”であり、アメリカの黒人社会の“本当の姿を反映”したものだった。それにたいしてモータウンはただの“ニグロの音楽”だった。

(略)

ソウルの人気はモータウンの軽めのサウンドにたいする挑戦であり、モータウンが中核として必要としていた黒人聴衆を奪われるかもしれないという脅威となった。これになんとか対処しようと、1965年ベリーはソウル・レコードをゴスペルではなく世俗的な音楽のレーベルとしてスタートさせる。

(略)

 モータウンで最初に“ソウル”のヒットを飛ばしたのはジュニア・ウォーカー・アンド・ジ・オール・スターズだった。

シュープリームス

ベリーはシュープリームスのステージがあるといつも一番前で椅子を舞台の方に向けてすわり、しばしば、まるで何かに夢中になっている子供のように口を開けていた。チョリー・アトキンズの上品で女の子っぽい振付けに合わせて、フローがぽっちゃりした女性らしい体を動かす様をベリーは眺めた。彼女のいたずらっぽい微笑みはフットライトを越えて、その人柄をうかがわせていた。メリーはきらきらと輝いてみえ、美しく、不自然なほど楽しげだった。

(略)

 ベリーは些細なミスにも残酷なまでにきびしかった。中でも彼の批評を集中的に浴びたのはダイアナだった。ベリーは彼女をグループの中心とみなしていたからだ。ダイアナはショーの花形でなければならなかった。もし彼女がベリーの望むとおりの熱意をもって義務を果たさないようなことがあると、彼の怒りは爆発し、ダイアナは彼のにらみつける前で泣きくずれた。するとベリーは態度を一変させて彼女を慰め、抱き起こしてやり、やさしい言葉をかけて彼女をうっとりさせてしまうのだった。ベリーとダイアナの間にはこうした“アメと鞭”の関係があった。ベリーは愛情と規律を使い分けることにより、彼女のエゴを思いのままにふくらませたりしぼませたりした。ベリーは必要となれば、人の心を操る名人だった。ダイアナは“それ”――つまり愛、人に認められること、スターの座――をなんとしても手に入れたいと望んでいた。(略)

 「文字どおり最初から、ベリーは彼女を自分のものにした」とビーンズ・ボウルズは語る。「彼女がステージから降りてくると彼は『とてもよかったよ、でもこれこれのことをしたほうがいいな』と言うんだ。彼女はいつでもそういったプレッシャーをかけられていたよ」

(略)

ベリーはダイアナを作りあげていった。しかしそのために、かえって彼女のほうが誰も気のつかないところでベリーにある種の支配力を持つようになる。二人は恋人同士だったのだろうか? ベリーもダイアナもそのことを公には認めていないし、記録に残るような形でそれを肯定した者は誰もいない。しかし盲目か馬鹿ででもないかぎり、ベリーが彼女の進路に示した特別な関心や、彼女がベリーについて話す時の、崇拝するような愛情あふれる様子を見逃すことはできなかっただろう。二人は恋人以上だった。お互いが相手によって作りあげられた存在だった。彼なしではダイアナはけっしてスターにはなれなかっただろう。そしてダイアナこそ、その存在のすべて――ポップな歌声、野心、忠誠心、向学心、ベリーのセックス・シンボルであり娘であろうとする努力――を賭けてベリーの夢を実現させた人物だったのだ。

(略)

1965年、彼女たちは“世界八番目の不思議”と言われたヒューストンのアストロドームの完成記念式典に、ジュディー・ガーランドとともに出演。1966年にはポップ・グループとしては初めて、リンカーン・センターのフィルハーモニック・ホールの舞台に立った。モータウンの許可を得て、シュープリームス印のパンまで発売される始末だった。政治的雰囲気が濃厚だった60年代中頃のアメリカにおいて、デトロイトから出てきた三人の女の子が有名なハリウッドのスターと共演したり、クラシック音楽の殿堂にのりこんだり、果てはスーパーマーケットの棚まで占領したりすることは、きわめて強力なシンボル性を持っていた。

(略)

 台風の目はダイアナ・ロスであった。彼女のエゴはいまやシュープリームスのレコード売り上げと同じくらい大きくふくらんでいた。(略)

「(略)ナンバー・ワン・ヒットもないくせに大スターみたいな顔をしてウロウロしているいんちきな人をいっぱい知ってるわ。私にはそういう人たちにはない何かがあるの。ファンのみんなにはそれがわかってる。私は本物なのよ」

(略)

 1966年中頃には、ダイアナはもうシュープリームスの次のことを考えていた。(略)

ダイアナがグループを脱退するという噂がひろがりはじめたのはこの頃だった。それはたぶん、モータウン自身から“洩れた”話だった。いつもながら、シュープリームスに関するモータウンのタイミングのよさとニュース操作の巧みさは完璧だった。

(略)

〈ルースターテイル〉で、ダイアナがフローのことを「おとなしい人なの」と紹介した時、フローはバカにしたように「あなたがそう思ってるだけよ」とやり返し、客を笑わせた。後になってフローは、アーティスト養成部の用意したダイアナのあのセリフは、おそらく自分にたいする遠回しのメッセージだったに違いないと断言する。モータウンがフローをどう扱うつもりか、それはまもなくあきらかになった。(略)

あるリハーサルの時のことだった。フローはステージの前面に出て〈ピープル〉を歌いはじめた。ほんの四行かそこらを歌ったところで、ベリーが曲を中断させた。その曲はダイアナに歌わせろ、彼はそう命令したのだ。心臓をえぐられたように、フローは後ずさりし、そして泣いた。それ以降彼女がシュープリームスでソロを歌うことは二度となかった。

 スポットライトの輪がダイアナにしぼられていき、ヒット曲が次々に生まれるなかで、フローはだんだんと暗闇の中に埋もれていった。彼女はすでに、青春の夢のかごに閉じこめられてさえずるバックグラウンド・シンガーにすぎなかった。メリーはどうしていたのか? 彼女は自分の出番が来るまではしっかりと口をつぐんでいた。彼女は静観していた。何が起きているのか、語ろうとはしなかった。そして体をゆらゆら動かしながら、〈ホエア・ディド・アワ・ラヴ・ゴー?〉のバックで「ウー、ベイビー、ベイビー」と、甘くささやくように歌っていた。

次回に続く。

2015-06-01 モータウン〜 その4 ファンク・ブラザーズ、HDH このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


モータウン・ミュージック

作者: ネルソンジョージ 林田ひめじ

出版社: 早川書房 発売日: 1987/10

ファンク・ブラザーズ

デトロイトの黒人ミュージシャンの間ではモータウンのギャラの安さは常識となっていた(略)

[そこを狙い]ゴールデン・ワールドとリック=ティック・レコードが行動を起こした。(略)モータウンのケチさかげんをあげつらい、モータウンの才能あるミュージシャンたちに、自分のところのセッションに参加してくれれば組合規準で金を支払うと誘いをかけた。ミュージシャンはこの話に食いついた。ヴァン・ダイク、ジェマーソン、ベンジャミン、その他何人かが週末にこっそりと抜け出してはバイトに精をだした。(略)

エドウィン・スターの〈エージェント・ダブル・オー・ソウル〉(略)

〈ストップ・ハー・オン・サイト〉は、モータウン以外から発表された“モータウン・サウンド”の中で最高のレコードという評価を得ている。

(略)

パーラメンツも、その頃は直立型のヴォーカル・グループで、リック=ティックから〈テスティファイ〉を発表し[ソウル・チャート3位](略)

ウィンゲイトは1965年にサン・レモ・ゴールデン・ストリングスという、モータウンが使ったデトロイト・シンフォニーの演奏家たちから或るグループを結成(略)〈ハングリー・フォー・ラヴ〉をポップ・チャートのトップ30に送りこんだこともあった。

 モータウンはゴールデン・ワールドが自分たちのミュージシャンを勝手に使っているのを知ると、すぐにミッキー・スティーヴンソンを差し向けて、プレイヤーたちに思い直させようとした。

(略)

 このアルバイトはゴールデン・ワールドだけでなく、モータウン・サウンドを盗もうとデトロイトに潜入してくる他のプロデューサーたちにもひろがった。プレイヤーたちは60年代、バート・バカラックとハル・デヴィッドがデトロイトにやってきてディオンヌ・ワーウィックのレコーディングを行なったのを覚えていると言う。また彼らはセッションのためにニューヨークやシカゴヘ行ったこともあった。彼らが非公式に参加したレコードの中で最も有名なのは、1967年にジャッキー・ウィルソンが放った大ヒット〈ハイヤー・アンド・ハイヤー〉だろう。シカゴで録音されたこの曲には[ジェマーソン、ヴァン・ダイク、ジョニー・グリフィスが参加](略)

 ベリーのスタジオ・ミュージシャンにたいする扱いについて肯定的な評価をしていたヴァン・ダイクだが、彼自身もやはり失望を味わわずにはすまなかった。実のところ彼の場合にも、スタジオ・ミュージシャンからレコーディング・アーティストへの一線を越えようとしたとたん、トラブルが起きたのである。(略)

[スティーヴィーがハーモニカを担当した〈モンキー・トーク〉というラムゼイ・ルイス・スタイルのポップなジャズ・ナンバー]

ベリーも「こりゃ大当たり間違いなしだ」と喜んだ。しかし、問題が一つあった。ヴァン・ダイクがアーティストとしての契約をしないかぎり、モータウンはそのレコードをリリースできなかったのだ。「そこで私はアーティスト契約を結んだ」とヴァン・ダイクは語る。「だから私は当然〈モンキー・トーク〉を出すんだと思ってた。ところが彼らはとうとうそれを発表せずじまいだった」

(略)

[会社は]モータウンのヒット曲のリズム・トラックにオルガンをオーヴァーダビングしてみないかと持ちかけた。その結果できあがったのが《アール・ヴァン・ダイク・プレイズ・ザット・モータウン・サウンド》というアルバムだったが、〈モンキー・トーク〉は含まれていなかった。人をだますようなこのやり方にヴァン・ダイクの気持ちは傷ついたが、彼にはモータウンの考えを読みとることができた。「〈モンキー・トーク〉は新曲だったし、ピアノとハーモニカが前面にフィーチャーされていたから、もしそれを発表すればモータウンとしては私をプッシュしなければならなくなる。そのためにはたぶん、私はスティーヴィーと一緒にツアーに出ることになるだろう。それは彼らの望むことじゃなかったんだ。私にはスタジオで働いていてほしかったわけさ」その後さらにジャズっぽいアルバムが二枚、彼を中心にして制作されたが、ヴァン・ダイクはスタジオに留まり、スタインウェイとハモンドのB3オルガンを弾き、ジェマーソンやベンジャミンの不始末をかばってやるという仕事を続けたのだった。

(略)

[ジェマーソン談]

「そりゃもう、ベニーは俺の一番のお気に入りのドラマーだったよ。彼が死んだ時には、二週間、何も食べられなかった。すごいショックだったんだ。ドラムスとベースでさ、サウンドをタイトに引き締めていたのは俺たち二人だったからね。楽譜なんて必要なかった。私が弾きはじめる。彼が叩きはじめる。互いに顔を見合わせるだけで、三連符、四連符、ダブル・タイム、その他なんでも、どうすればいいかわかったんだ」

(略)

モータウンのレコードではピアノ、オルガン、ヴァイブなどのバランスが悪かったり、サックス・ソロがひどい音質だったりということが間々ある。ベニーのドラムスさえ、H‐D‐Hのミキシングではタンバリンとギターの音にかき消されてよく聞きとれないことがある。しかし、ベース・ラインだけは、けっしてそんなことはなかった。ベース・ラインがそれほどまでに存在感を保てた理由の一つとして、モータウンが業界でも最初に、ベースを直接ミキサー卓に接続して録音したスタジオの一つであったことがあげられる

(略)

 ジャズの出身ではあったが、ジェマーソンは自分が影響を受けたものについて、次のように語ったことがある。

 俺の中にはいつも東洋的な、というか精神的なものがあった。たとえば〈スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オヴ・ラヴ〉のベース・ラインにはアラビア風の雰囲気があるだろう。身近にはいつも東洋人がいたんだ、中国人とか日本人がね。それから、アフリカやキューバやインドの音階も勉強したことがある。そうしたものすべてをモータウンでの仕事に応用した。デトロイトの俺の家の近所には東洋から来た人たちがたくさん住んでいた。俺のプレイを気に入ってくれる東洋系の音楽家もいて、彼らとはずっとつきあってる。

 彼らの話し方、声の抑揚といったものを注意深く聞いた。すこしは意味だってわかるようになったんだ。彼らの歩き方を観察して、その動きからビートを感じとったりもする。テンプテーションズがやったヘヴィーでファンキーな曲があったんだけど……名前は忘れてしまったけど、いつも歩きまわっている、大きな太った女性がいた。彼女はじっとしていられない質でね。彼女の動きを見ていて、そのテンプテーションズの曲のベース・ラインを編み出したんだ。

(略)

[プロデューサーから渡されるのは、コード進行か、簡単なメロディーと歌詞だけ]

ジェマーソンはそれをもとにベース・ラインを組み立ててしまうのだった。「いつもメロディーを支えるようにと考えていた」と彼は言っている。「そうしなきゃならなかった。たいていはパターンの繰り返しなんだけど、その中にいろんなものを盛りこんでいった。パターンの繰り返しでもファンキーで気持ちのこもったものにしたいからね」

録音技術

エンジニアのマイク・マクレインとローレンス・ホーンは、ブライアン・ホランドやその他何人かのプロデューサーと協力して実験と失敗をかさねながら、60年代中頃にはもともと3トラック用だった録音機を8トラック用に改造してしまった。コントロールルームのドアを入ったすぐ横の壁際にはアンペックスの8トラックが2台あった。マイクロフォンのケーブルはカンゾウの枝のような格好で天井からぶら下がっていた。メインとなる8トラックのミキサー卓の向こうのスタジオにはギタリストとベーシストのために置かれた椅子があった。ピアノはそのすぐ左にあり、ピアノのななめ向かいにドラムスがセッティングされていた。部屋の真ん中にはマイクロフォンがたれ下がり、すくなくとも最初の頃にはそこでシンガーたちがスタジオ・ライヴの形で歌を吹きこんだものだった。ベリーが隣接するビルを買収した時に、ピアノの後ろの壁の部分にサイドルームが作られた。ヴァイブやオルガン、パーカッション類がそこに置かれた。(略)

大きなアンプを置くスペースなどはなかったので、ギターやベースは直接ミキサー卓に接続され、部屋に一個だけあるスピーカーからその音が流された。ギタリストはセッションが始まる前に、ぜったいオーバーしてはならないプリセット・レベルにボリュームのつまみを合わせておくことが習慣になっていた。あまり何度もそのレベルをオーバーしてしまうギタリストは、モータウンでの仕事を失うことになった。こうした準備は必要上やむなく行なわれたわけだが、それがあの歯切れのよいモータウン・サウンドの誕生に大きく貢献することになった。

(略)

モータウンは最初にリミッターを多用した会社の一つだった。若くて未熟なヴォーカリストがおおぜいいるモータウンでは、リミッターはなくてはならない安全装置だったのだ。反対に、ニューヨークのレコーディング業界ではリミッターは歓迎されなかった。シンガーの持つ“ダイナミック・レンジ”を台なしにしてしまうと考えられたのだ

(略)

また「驚くべき台数のイコライザー」を使っていたということだ。ある時など、8トラックのレコーディングに、16台のイコライザーが使用されたという。そのおかげで幅広い周波数帯域をレコーディングに活用することができた。ニューヨークで行なわれるセッションではふつう、一本のマイクにたいしては二つの周波数しか設定されていなかった。すなわち、ベースとトレブルだ。モータウンでは一本のマイクでベース、ミッド・レンジ、ロウアー・トレブル、ミドル・トレブル、そしてアッパー・トレブルが区別され、ミキシングの段階でさらにイコライザーが使用された。

(略)

[トランジスタ・ラジオ、カーラジオが普及]

ベリーとその仲間は賢明にも、モータウンの音楽はトランジスター・ラジオ向けに制作すべきだという結論に達する。

(略)

 品質管理のオフィスでは、モータウンのチーフ・エンジニア、マイク・マクレインがカー・ラジオにそっくりの、超小型でキンキンした音を出すよう設計されたラジオを作りあげていた。この装置を基準にして、モータウンのレコードの、あの高音を強調したサウンドが生み出されたのだ。

 同じく重要な役割を果たしたのは、レコーディングされた曲がどれだけの説得力を持っているかはマスター・テープではなくレコードのビニール盤の音で判断すべしというベリーの見解だった。(略)テープからプラスティックヘ音を移しかえる過程で何かが失われてしまうからだ。

(略)

[63年ディスクのカッティング・マシン導入]

ヒット狙いのシングルはこのマシンで直接レコード盤に移しかえられた。ベリーはモータウンがリリースする曲すべてについて、数えきれないほどの違ったミックス・ヴァージョンを作らせた。ギターの音を下げてベースを上げろ、歌詞の二番になったらヴォーカルを大きめにしろ、などなど。いろいろな指示が出るたびにテープがミックスし直され、それがディスクにカッティングされ、その音が検討された。ミックスが20種類というとさすがに多い方だったが、12種類などというのはざらだった。H‐D‐Hが制作した素晴らしい出来の曲でも5種類ですむなんてことはまずなかった。むしろ強力なレコードほど完璧なミキシングをめざして、多くの案が試作された。

H‐D‐H

駆け出しの頃の三人にたいして、ミュージシャンたちはいくらか軽蔑感を抱いていた。(略)

[ある日、ブライアン・ホランドからいくつかのコードを試してくれと指示された]

ジェマーンンは 〈スリー・ブラインド・マイス〉のメロディーを弾いてブライアンをからかい、他のプレイヤーを喜ばせたというのだ。ジョニー・グリフィスは当時、「彼らは自分たちが何をやっているのかもわかっていなかった」と言い、ヴァン・ダイクもそれにうなずいて、「そうそう。五つぐらいのコードと、それにフィーリングだけを持ってやってくるわけだよ。形あるものに仕上げてない彼らを、私たちはよく笑ったものさ」と語る。

(略)

[ヴァン・ダイク談]

ラモンはいつもピアノに向かって、変わりばえのしない、つまらない作品を作ってた。彼の歌う曲と同じように、ラモンを見ているとジェイムズ・ブラウンを思い出したもんだ。彼は一つのリズム・トラックから十曲は作ることができた。どれも同じような曲だったからね。ところが私が何かフレーズを弾くと彼は「いやいや、そのフレーズは前の曲で使ったじゃないか。別のを弾いてくれよ」って言うんだ。よくそういうことがあった。どっちみち曲に違いがあるわけじゃないのにね。彼はこう言うんだ。「僕の曲全部に、おんなじくだらないフレーズばっかり弾かないでくれ。もうきみを使わないよ」だから私も言い返した。「だってあんたのくだらない曲は全部おんなじに聞こえるぜ」って。

(略)

[それについては]

エディー・ホランドも認めているが、それが自分や自分の相棒たちについての話だということは否定している。彼は次のように記憶している。

 彼らはブライアンをコケにしようとしたけど、ブライアンは彼らの出すコードを全部言い当てたんだ。ブライアンがコードをちゃんと知っていて、どれがほしいか、どの音がちゃんと出ていないかも指示できるとわかると、ミュージシャンたちはすぐ態度を改めた。彼らがそういうふうに態度を一変させるのを何度も見たし、ブライアンについてのそんな話は何かの間違いだろう。

(略)

プロセスでまっすぐにした髪の毛をバッチリとセットし、おしゃれなニットを着て、気障ったらしいパイプをくわえた三人の若僧が、レコードを買う大衆の好みをしっかりとつかんでいることはまもなくあきらかとなる。彼らはマイルスやモンクのことなど知らなかったかもしれないし、楽器の名人というわけでもなかったが、メロディー作りについては天賦の才能を持っていたし、ストーリー性のある歌詞作りにもずば抜けたセンスを備え、さらに“ひっかけ”と呼ばれる、くりかえし登場する歌や楽器のフレーズを生み出すことにも長けていた。

(略)

 ラモン・ドジャーの話では、H‐D‐Hはすこしずつ手を加えながら、一日に二、三曲の歌を完成させていったという。「曲の断片のようなものがいっぱいあったからね。フックの部分だけとか、歌詞の切れっぱしとか。だから一日の終わりには何かしら曲ができあがっていたよ。だからこそ私たちはあれほどの短期間に成功することができたんだと思うよ」エディーは歌詞を書き、ブライアンは作曲をした。そしてラモンは、ホランド兄弟のそれぞれと共同で、両方をすこしずつ担当した。

(略)

 H‐D‐Hの考えからすれば、概略だけのコード譜を見てバカにしたり文句を言ったりするミュージシャンは、音楽の本質をわかっていない、ということになる。ブライアンはこう語っている。

 コードなんていうのはパズルみたいにあてはめていけばいいんだ。肝心なのはいつだってメロディーさ。メロディーを生かすためにはコードをあちこち変更したりもするよ。曲の盛り上がりを考えて変えることもあるし。とにかくメロディー第一。メロディーがあって初めてコードもつけられるんだ。コードは砂糖の衣のようにメロディーを包んで華やかにしたり、ちょっぴりドラマティックにしたりする手助けをしてくれればいいんだ。ドレスアップのね。それが枠組みになる必要はないんだよ。

(略)

デヴィッド・モースは次のように書いている。「彼らはなんのためらいもなく、古い曲をスペア・パーツとして利用し、歌を組み立ててしまう。歌詞の一節、テーマとなるアイデア、音楽的なスタイル、バックの演奏、サックスのソロでさえ、組み替えられ、レコードからレコードヘと使い回しされる。彼らの曲はすべて、いわばコラージュなのだ」

(略)

[元モータウン・エンジニア談]

 彼ら〔H‐D‐H〕のやり方を教えようか。彼らはまず演奏だけのトラックを録音する。その時点では、誰に歌わせるかなんとなく考えはあるけど、はっきりとは決まっていないんだ。基本的な楽器、つまりリズム・セクション、ホーン、ストリングスなどが録音できると、ブライアンかラモンのどちらかがこれを編集して、レコードになるよう音楽的にまとまったものにする。でエディーがそれに歌詞をつけていく。この作業を四回か五回、完璧な形になるまでくりかえすんだ。それから彼らはその曲をいろんなアーティストに歌わせてみて、一番できのいいアーティストに与えるわけさ。

(略)

 60年代中頃を通じてH‐D‐Hの作曲やアレンジはどんどん野心的になっていった。(略)

ジョニー・グリフィスは、〈リーチ・アウト・アイル・ビー・ゼア〉〈スタンディング・イン・ザ・シャドウズ・オヴ・ラヴ〉〈バーナデット〉〈セヴン・ルームズ・オヴ・グルーム〉――すべて1966年末から67年中頃にかけてリリースされた曲だ――のように、ドラマティックなブレークやぐっと気分をもりあげる楽器のフレーズ、それに意外なリズム・チェンジがふんだんに使われた曲をさして、H‐D‐Hの“クラシック時代”と評する。ブライアン・ホランドはクラシックを聴きこんでいたし、“テンションと解放”の力学が曲の構成上いかに重要かもちゃんと勉強していた。サウンドが複雑になっていくにつれて、ブライアンがレコーディングに費やす時間も長くなっていった。たとえば〈リーチ・アウト〉は、録音に二時間近くをかけた。1966年頃のモータウンの常識からすれば、これはもうマラソン・セッションと言ってよかった。

 H‐D‐Hはまた、モータウンのセッションに画期的なスタジオ・テクニックをいくつかとりいれた。何回か、ジェイムズ・ジェマーソンの弾くエレクトリック・ベースに、クラレンス・イザベルのアコースティック・ベースが重ねて録音された(ジェマーソンは後日このことを否定している)。一方が躍動感のある派手なベース・ラインを、そしてもう一方が“ストレートな”ベース・ラインを演奏することによって、ダイナミックなリズム・トラックをより強烈なものにしたわけだ。シンセサイザーの前身ともいえる電子機器、オシレーターも、“耳当たりをよくする”機械としてH‐D‐Hによって多用された――シュープリームスの〈ザ・ハプニング〉〈イン・アンド・アウト・オヴ・ラヴ〉がそうだが、〈リフレクションズ〉の一風変わったイントロも忘れることはできない。すべて1967年の作品である。

(略)

H‐D‐Hはその才能で数々の賞、尊敬、そして金を手にした。彼らは幸福なはずだった。しかし表面下ではぎこちない空気が渦巻いていた。彼らが生み出した利益(略)彼らがモータウンの音楽に与えたアイデンティティー、これらすべてを考えれば、彼らはもっと大きな見返りを期待してもいいのではないか――次次とヒット曲を送り出しながら、エディーはこうした気持ちを抱き、ラモンや弟のブライアンと話し合うようになっていた。

次回に続く。