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2015-10-30 しりあがり寿×山口晃対談「今、見ること」への提案 このエントリーを含むブックマーク

しりあがり寿×山口晃対談のとこだけ読んだ。というか他は正直……。


現代アートの本当の見方 「見ること」が武器になる (Next Creator Book)

作者: 山口晃,しりあがり寿,松本次郎,御幸朋寿,堀江秀史,竹久侑,村田真,土屋誠一,谷口幹也,宮津大輔,三ツ木紀英,山木朝彦,橋本誠

出版社: フィルムアート社 発売日: 2014/09/30

フレームの外を見る

しりあがり――(略)僕は漫画をずっと描いていたので、アートには漫画にないものをつい求めちゃいます。(略)

一番わかりやすいところで言うと、例えば大きさでしょうか。ベラスケスやダリの作品などを見ると、こんなに大きいのか、とか。ああいうのは漫画にはない要素ですよね。

(略)

[子供の頃《天才バカボン》の「実物大漫画」を読んで]

バカボンの顔があって「ねえパパ」とある。次の頁を開くと今度は見開きでバカボンのパパの顔があり「なんだいバカボン」と。それがすごくおもしろかったんですが、当時はなぜおもしろかったか、わからないんですね。でも後になって思ったのは「これは本に描いてあるものなのに、こいつらは自分たちが本になっていることに気付いてないんだ」と。漫画を読んでいるこちらは気付いているのに、漫画の中にいる登場人物たちは気付いていないというわけです。それから、すごくフレームというものを気にするようになった。

仕上げることの不自然さ

[卒業制作で大きな絵を描いたら点数が悪くて、「ここ描いてないぞ」と友達が指摘してくれたという、しりあがりの話を受けて]

山口――(略)作品を仕上げるということ自体、すごく不自然なことだなと。(略)人に伝わらなくとも、あるひな形の絵はできあがっていて、描いていない部分は自分の脳内にあるので、じゅうぶんにできあがったと思うんですけれども、作品となると、人に見せるとなると、脳内に補完されている部分も見えるようにしてあげないと許してもらえないというところがあります。僕が「これでいいんだけどなあ」と考えても、「でもこのまま美術館に展示しても伝わらない」と思ってしまい「しょうがない、この部分も描いておくか」と。(略)

危険なのは、「少し余計なことをしている」をやって、作品をつくっているような気になってしまうこと。本当は、根幹の部分がない限り、そんなものは作品でもなんでもない。でも、「少し余計なことをしている」部分のほうが体裁をつけやすかったりするんですよね。

デッサン、外を固めて中はすっきり

しりあがり――高校時代、僕にデッサンを教えてくれたのは彫刻の先生だったんですよ。汚くてもいいから量(マッス)をつかめと。(略)そう言われたので喜んでものすごく汚いのを描いて、重そうな、真っ黒な石膏像を描いていては喜んでいました。そうしたらデザイン科ではそのデッサンはダメだと。

(略)

山口――(略)油絵科だと「映像的だね」というのはダメなんですね。ペラッペラで、量がないことを意味する。あとは「工芸的だね」という言い方もありました。今、言うと怒られますけどね。(略)仕上げばっかり気にしているかのような……。でもデッサンは、姿勢として、寄って見る・離れて見るというのがセットで行われるので、今描いた細部が全体の中でどう整合性を保っているかを見ることができます。例えば文章を書くのも同じです。部分の硬さなり文の密度なりが、全体と比べてあっていないとか変だなとか、引いたり近づいたりをしながら確認しますよね。一方でそういった姿勢が当たり前の中、日本の古い絵を博物館などで見てみますと、まったく無視しているんですよ。寄らなきゃ見えないようなものを平気で描いているかと思えば、離れなきゃ見えないようなものも一緒に描いてしまっている。寄らないと細部がまるで見えない鶴の羽や、離れないと岩に見えないぐらいガサっと描いてある岩肌や岩の重なりなど、デッサンを学んでから自分の国の絵を改めて見ると、「あれなんか違うかもこの国!」と。(略)

しりあがり――(略)あと、やっぱりデッサンが下手くそな人って、漫画は特にそうですけど、同じ顔しか描けないんですよね。昔からよく話題にされますが、この髪型、正面から見たらどうなんだろう?みたいなのって多いじゃないですか。それが一応デッサンをしっかりやっている人は、別の角度から見ても描ける。まあそれが漫画としておもしろいかというと別なんですけど。おもいっきりデッサンが下手くそな、漫画漫画しているペターっとしたものがおもしろかったりもしますからね。(略)キャラクターの後ろの頭まで感じられるような、3D的な、自然な漫画の絵柄ができあがったのは、鳥山明さんの頃からじゃないかな。それまではペタっとしていて、筆やペンの抑揚がたよりのような画風が主体でしたが、鳥山さんとか大友(克洋)さんの頃から、線が細くても立体感があるというか、力があるというか、そうした絵柄が出てくるようになった。立体を描ける、現物をちゃんと描けるというのは、デッサンの力なのかな。

山ロ――西洋絵画だと線を消すじゃないですか。日本絵画は逆で、線を残すどころか、むしろ「カタチをとるのに気を取られるぐらいなら、線を引け!」という、江戸時代の絵師の画論にはそういうものがあります。下手にかたちを描かせると絵が縮こまるから、そんなのは後でいい、まずは運筆をやれと。その流れは残っているのかもしれませんね。

(略)

[山水画でも中国は]3Dなんてすね。墨を使っているんですけど、意識としては西洋絵画に近い。すきあらば墨の線を立体の中に紛れ込ませようとしている。岩の描写などを見ると、すごく空間に対して整合性のとれたものを描いているんですけど、日本人の描いた岩を見ると、同じ墨を使っているからだまされそうになるけれども、実は意識が全然違う。(略)

同じテクスチャーをつけているから岩に見えるけれども、これ全然立体的じゃないぞ、というのがいっぱいあります。昔からペラっとしたものを重ねて、奥行きを演出するのが日本の絵画なんでしょうか。

しりあがり――書割みたいだね。

山ロ――まさにそうです。雪舟も書割です。

(略)

中国の思想が原理的というか、必ず中心に意味を込めるというか、中心が空っぽなものを蔑むところがあるからかもしれません。盆栽などでも、中国のそれはものすごく物語を盛り込むんですね。(略)

中国では人為的につくられる中心ですが、外側を固めておけば、見る人の自由な意識が降ってくる――日本にはそういう思想があるのではないでしょうか。外というよりしろができれば、中は見る人の感覚に投げておくといったような。

(略)

「まあ、奥行きは隈取でもしておこうか」みたいな発想なのかなと思うことがあります(略) 

印象派が取り入れた理由もそこにあるのかなと。西欧ではカメラ的な、視神経の手前ぐらいまでを絵にしてきたわけじゃないですか、500年近く。そうした文化の中にあって、印象派は「おや、視神経の奥を描いている国がある」と気づいてビビっときたわけでしょう。「あれ、絶対こんな描き方をしてはいけないはずなのに、平気でやってしまっている!しかもちゃんと絵になっているぞこの人たち!」と。

正しさよりも広さを

山ロ――間違いに対するおそれみたいなものはありますね。とにかく正しくあろう正しくあろうとするところがあって。

しりあがり――最近の若い人にそういう感じを持つことがあります。

山口――そんなにこだわらなくてもと感じるんですが。

しりあがり――それがサバイバルに繋がると思っているんじゃないかな。採点されることで淘汰されると感じているのかも。全然違うのにね、実際の淘汰のされ方って。もっとあいまいな、いいかげんな……。漫画の場合は、例えば、売れなければいけないというルールがあって、逆に言うと、売れるためにはどんなことをしてもいいという自由というかフトコロの深さがある。もちろん売れなきゃいけないって不自由さもあるけど。たくさんの人にわからないといけないと。

山口――(略)これは社会性をクリアしていないんじゃないかとか、絵画の文献を押さえていないんじゃないかとか、わあわあと考えてしまうんですけれども、自分を違うジャンルの人と思って自分の作品を見たときに、そんな風に気にしていたことは、実は誰も気にしていないよ、というのはありますね。

川村靖雄

[明治の日本美術再検証で注目されたのが]川村靖雄という人です。黒田清輝よりもずっと前に、日本人として初めて洋行をして、イタリアのアカデミーでデッサンのトップになるぐらい西洋絵画を学び、日本に帰ってきたんですけれども、その人が黒田清輝どころか、芸大のできる10年以上前に油絵を日本で実践するんですね。(略)カッチリとした油絵風の堅い画面に、ふわあっとしたニュアンス的なものを織り交ぜている。僕が思うには、川村靖雄が一番正しい油絵の持ち帰り方をしている。むしろ黒田清輝は、油絵の見方や油絵の精神というものを広めたために、かえって油絵に日本人が入る隙間がなくなっていた。その後の人たちが油絵の中に日本をどのように入れようかというともうモチーフしか残っていなくて、それで神話の絵とかを描き出すわけです。(略)

異国趣味を全部自分でやっているような絵しかなくて、対して川村靖雄の絵は、雪舟的な、あれだけ立体をとれるにもかかわらず、すごい薄塗りになっていて、影をほとんどつけない薄い絵を描いている。(略)

木に描いたり、絹に描いたり……自分の国にある支持体にいち早くシフトして、その上で油絵がこの国で何かできるか、一番相応しいのか、という部分を考えていた人です。

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kingfishkingfish 2015/10/31 16:58 吉本さんの話、全然記憶にないです。読んでないのか、忘却したのか。
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雪舟雪舟 2015/10/31 17:50 日本記者クラブでの小栗康平の会見動画(特に後半)面白かったですよ。

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雪舟雪舟 2015/10/31 21:26 ストーリーや劇的とは無縁の小栗映画ですからなかなか伝わらないでしょうね。楽しみはフジタの絵と小栗監督の画像の拮抗具合です。

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2015-10-28 ヘンな日本美術史・その2「上手」「模倣」「写実」 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


ヘンな日本美術史 : 山口晃

出版社: 祥伝社 発売日: 2012/11/01

雪舟

「京都国立博物館 恵可断臂図」リンク

[雪舟「慧可断臂図」禅僧の顔の]輪郭はどう見ても横からのものなのに、耳は後ろから、そして目は先程も申し上げたように正面から見たものです。(略)

写実的な絵と云うものの「嘘」を私たちは知っています。いくら巧い絵であっても、所詮は三次元のものを二次元の中でそう「見えるように」表現しているに過ぎません。そのイリュージョンに「真実」を見るのであれば、別に写実的な描き方ではなく、漫画的な、平面的に描く方法であっても構わないはずです。「輪郭は横から、目は正面から見たものだけれど、人だって分かるでしょう?」と云う感じです。(略)

写真的な画像上での正確さよりも、見る人の心に何がしかの真実が像を結ぶようにする事の方が犬切なのではないでしょうか。

「京都国立博物館 天橋立図」リンク

[「天橋立図」の最初の印象は、ぼそぼそした絵で「つまらない」、だがよく見ると実は瑞々しい]

よく言われる事ですが、この絵は別々に描いた絵を貼り合わせて一枚にしたもので、紙毎に視点や縮尺が全く違います。そのため、本番を描く為の下絵であると学者の方などは仰っていまして、恐らくそれが正しいのだろうと思います。

 けれども、これは私の願望でもあるのですが、雪舟はこの下絵と言われている絵自体で何かを打ち出そうとしていたのではないでしょうか。(略)

雪舟くらいになれば、この下絵を見た時に何かに気付いてしまうのではないかと思うのです。それは「下絵ってこんなにピチピチしているのだろう」と云うような感覚です。(略)

[最晩年80歳]でありながら、技巧的に集大成の感が無くて、むしろ全くまとまっていない。このまとまらなさというのは、最初に申し上げたような「こけつまろびつ」している状態、自分の中でこなれてしまう前に、さらに新しいものを探し続ける姿勢を示しています。(略)

[話は飛んで、ブリューゲルの息子・ヤンは父の画風の絵で生活した]

 ヤンは、ある種オリジナリティなどと云うものは最初から放棄しています。「お父さんみたいな絵」を描く事で、それを買う人がいて自分も楽しいのなら、それはそれで大らかでいいのかもしれないと私などは思います。(略)

 ただ、ヤンが写した絵を見ると、格段に絵に深みがありません。絵がその面面だけで止まってしまっているのです。考えてみれば、それは当たり前の事で、見ている対象がそもそも違うからです。

 父ブリューゲルは、画面の向こうに見ていた風景、あるいは自分の脳髄にある景色なりを探して、その絵のずっと向こうにある本質のようなものに届かせようとして絵を描いている。面面に現われたものは、その痕跡でしかない訳です。息子の方はこの画面をさらに写しているのですから、元の画面以上に深まる事ができません。つまり、描いている人間の意識の持ち方で、絵の深みと云うのは決まってくるのです。

 ブリューゲルなどを見ますと、筆致は粗く、ぼそぼそとしたままの放ったらかしも多い。同時代の他の人の方が余程丁寧になめしたように描いています。

 なぜそのような粗い筆致を残したのかと云うと(略)描いている対象の本質のようなもの、そこに少しでも早く近づきたかったからではないでしょうか。

 だからこそ、筆遣いは粗いのですが、ちゃんと狙いの定まった、明確な位置を捉えたものになっています。むしろ、丁寧に仕上げた絵の方が、何となくぎこちない絵になってしまうと云う事があるのです。

 私は、雪舟の絵にもそういう部分を感じました。「天橋立図」においても下書きなどと言われるくらい雑駁な筆遣いなのですが、その景色が持っているダイナミックな広がりみたいなものをいかに捕まえてやるかという、前のめりな姿勢、それに伴う大急ぎの筆致が、この絵を非常に瑞々しさを感じさせるものにしています。

上手

[下手な人は]一生懸命やってその程度と云うのが見ている人に伝わりますから、そこにいやらしさはありません。そうではなく、上手く描ける人が、「大らかな」線を描こうとする所にいやらしさが生まれてくるのです。

 上手い人は、信じられないくらい上手くなって、その上手さの泥濘から抜け出していくしかありません。それを、わざわざ上手さの影に潜った風を装うのは、とても見苦しい感じがします。むしろ、あまりにも突き抜けた上手さにまで到達して、その上手さが鼻に付かなくなるくらいになる事で、「上手のいやらしさ」から脱却するのが筋であると思うのです。

 例えば、西洋ではルーベンスがその部類に入るでしょう。(略)「絵なんか片手間です」とでも言いたげな感じで、絵に対するいやらしい執着から離れているような所があります。

 正直、「上手くて上手くてしょうがないでしょう」と云う所が無いとは言いませんが、当人がそこに拘泥していない感じがして、「ああ、結構です。本当にお上手ですので、その道で行ってください」とでも言いたくなります。

 技術を身に付ければ、段々「その通り」に描く事ができるようになってきますが、それは嬉しい事であると同時に、その通りに描くつまらなさも、一方で感じてしまうのが絵描きです。しかもそれは、上手く描けなかった時以上に、上手く描けてしまった時ほど感じられたのではないでしょうか。

 しかも、見た目の真実らしさと云うのは、とても魅力的なイリュージョンですから、多くの人はそこに飛び付きたくなります。応挙があれだけウケたのも(略)明治期に西洋的リアリズムの洗礼を受けた日本人の反応も、同じだった訳です。(略)

単に技術としての透視図法的写実に特化してしまった部分があったために、西洋の画の世界は、あれだけ真に迫った絵を描く事ができながら、写真が出てきた途端にその部分を芸術から放り出してしまうのです。それは、写実をする事が絵の目的ではないと気づいたからであり、そうした部分から解放されたと云う事でもありました。

 その上で、あれこれ方法を模索しながらも、芸術において絵画(ペインティング)と云う分野が残っている状態は、透視図法的写実とは別の次元で真実らしさを表現すると云う、前近代の日本の絵画空間の在り方に近しいのではないでしょうか。

 その頃の西欧が、ジャポニスムによって日本と云う進行形の前近代を取り入れたのは実に必然だった訳です。ただ付け加えると、ジヤポニスムを語るとき、日本美術の影響力の大きさを一面的に取り上げたがる向きが多いのですが、むしろ、あれだけの写実帝国を築き上げながら、一小国の美術に目を向けた西欧の感受性に目を留めるべきであり、自らの屋台骨をぐらぐら揺らしながら方向転換を図った行動こそ見るべきなのです。

(略)

かつての日本人が透視図法と云う概念を知らずにいる事ができたのに対して、現在の私たちは、既にそれを知ってしまいました。

 自転車に乗る事よりも、一度知った乗り方を忘れる事の方が難しいように、透視図法と云うものを忘れると云う事はできませんで、それを自覚的に忘れようとすると、近代の日本画になってしまうのです。これは非常に困難な道のりで、先人たちの死屍累々を見るにつけ、不可能なのではないかとも思えてきます。(略)

[著者としては、デッサンを身につけてしまった以上]かつての大和絵のように人間を描く事は、かなりいやらしい。

 少しの嘘がいやらしいのであれば、いっそのこと誰も付いてこないくらいの嘘をつけばいいのではないかと云う事で、採った手法の一つが「雲」を描き込んでみる事でした。「洛中洛外図」にも見られる、地上一メートルに浮いているような雲ならば、初めからウソと言っているようなもので嘘としての臭みも抜けますし、何よりも図の模倣、つまり型稽古によって現代とは全く違った身体感覚や絵画感覚が甦るのではないかと思ったのです。

 そもそも、この大和絵に見られる雲と云うのも、元を辿れば、中国で描かれていた雲紋から来た物で、彼の地では動物の動きや生命を表わすような部分があったそうです。描いてみると画面分割や視線の流れを生むのに便利なばかりでなく、何やら気韻(書画に漂う精神性)とはこう云う事なのかと感ぜられる時が無いではありません。

 こうした絵の次元での模倣はよくある事で、「模倣」と言うと昨今響きの悪い感じがしますが、良いものは真似したくなるものなのです。そこでは発露の仕方が問題になってくるのであり、模写と云う意識的なものから、気付いたら似てしまっていたと云う無自覚なものまで様々です。

 勢いのあるジャンルではそういう事が起こるもので、絵画など「独創性」に囚われてすっかりおとなしい今日この頃ですが、サイクルの速い漫画の世界では今も顕著です。相互模倣と差別化が同時に群がり起こり、ジャンルの熱気を見せつけられます。

 ただ、模倣だけを繰り返していく内に、やはり実空間から離れた薄っぺらい物、説得力も味わいも無い絵になってしまう事が多い。本当に上手い人の絵と云うのは、ここでそうなりません。ある種の模倣やデフォルメを繰り返しつつも、必ず実空間に帰ってきます。そして、実空間だけで描いていると、絵がつまらなくなるので、また実空間と離れて潜っていくと云う事を繰り返す、すなわち、実空間と自在に呼吸しながら描くと云う事ができるのです。

 恐らくは、又兵衛と云う絵師は、人物描写に於いてそれが非常に上手くできたのだと思います。

応挙の写生講座

 「写生をすると実物よりも大きく見えてしまうから気を付けよ」とも述べています。これは実感があると思いますが、私たちは注意を向けたものを大きく感じてしまうのです。

(略)

 応挙は、こうした実感と実際の差を矯正する方法として「鏡を見て描く」「望遠鏡を覗いてみる」と云うような事を言っています。

 「鏡」に関して言えば、いつもの慣れで見てしまう正像に対して、虚像の持つ違和感を覚える事で、観察がより自覚的になると云う面が考えられます。さらに、茫洋とした全視界から鏡の枠に閉じ込める事により、枠とひき比べてみる事ができるので、正確なフォルムやプロポーションをとりやすくなるのでしょう。

 「望遠鏡」はそこをすすめたもので、当時は単眼鏡でしょうから、両眼の立体視による形のゆらぎを取り去れます。私もデッサンで画面上の形を決めにゆく時は、片眼で判断します。望遠鏡は、それと枠に閉じ込める事の合わせ技なのでしょう。

 そうして注意して形を捉えたものを、どう云う筆法で表わすかと云えば「クマヲヨクシテ、ククリ少ナ」くするんだそうです。面的に描いて輪郭線は控えよ、と云う事です。実際、物のきわに墨の線のような太さを持った黒は見つけられない訳ですから、写生を旨とする者としては尤もな言い草です。しかし、この後に続く言葉に、私は軽くアゴが外れました。

 「ただし所による」(略)

 実際、彼の絵を見てみると、先の論を示すように描かれた孔雀の横で大輪の牡丹が笑っているのですが、その葉はくっきりと輪郭を示しており、孔雀の乗った岩にもはっきりと墨線がひかれていました。(略)これを見るに写生の人、応挙の求めた画面は透視図法的な写実空間とは別のものであるようです。(略)

[一方で]「見た事が無いものを描く時は、人の絵を参考にせよ」と、写生はどこへいった!?と言わざるを得ない事を述べていますし、先のような視点を固定した見方を示唆する一方で、多視点の大切さを言ったりもします。

 このように、現代人からすると何やらデタラメにも聞こえる応挙の論ですが、応挙作品を見ながらですと「なる程、この辺りの事を言ってるな」といちいち腑に落ちるのです。要は現代人とは異なる絵の作り方をしているのです。恣意と客観を按配する時の軸足の取り方が違うのでしょう。ですから、同じ写生を重視しても、近代日本画に多く見られる空間の破綻をまぬかれているのです。(略)

そもそも様式と写実と云うのが対岸にあるものかと言うとそうではなくて、三次元の現実を二次元に落とし込むと云う意味では、写実と云う名の様式でもあるのです。

 様式という嘘に乗ることで、そこに実以上に真実を見る事ができるのが様式の重要な役割で、だとすれば写実も、写真ですらも一つの様式なのだと言えます。

河鍋暁斎

暁斎が古いものからも新しいものからも一歩も逃げないで、それらを伝統的な筆法、画法で片っ端から捌いてゆくのを見ると、先述の岡倉天心らの用意した近代日本画は必要があったのかと思えてくる時があります。

 近代の日本画は、私などには天心の危機意識と同志フェノロサの理想の押し付けが生み出した外発性の高い人工的な代物に見えるのです。(略)バルールの重視と透視図法の導入です。この二つは多分に西洋画的な要素であり、暁斎の描く実感による画と相容れませんが、西欧や欧化への対処の為にあえて加えられたのです。これを試した芳崖や雅邦の後の人たちは、パースのきちんととれた画を描くようになります。

 パースに関しては暁斎は「とれない」と云う事になるのですが、私はあえて「とれない事ができる」と言い換えます。(略)

[自転車に一度乗れるようになると]乗れない事ができなくなる。ムリに乗れない風をやろうとすると、とてもワザとらしくなります。

 近代日本画の中にそのテのワザとらしさを感じる事がありますが、そんな時はワザと逆パースにしていたり、バルールの調整を放棄していたり、古拙を気取ったりしている時で、何かをムリしているのです。

 そしてパースがとれる、バルールが合わせられる人の絵では、余白が許されなくなります。マネの「笛を吹く少年」のバックのように、何も描かないとしても最低限の陰影処理をしないと画空間が破綻するのです。そうした画空間がおかしな画も、近代日本画に見かけます。

 暁斎の「大和美人図」を見ると、袖口をこちらに見せた左手で、自分より後ろにある柱に触れる人物が描かれています。実際にそんなポーズをとると肩がはずれてしまいますが、パースを「とれない事ができる」暁斎の画空間では、こんなポーズも余白も自然に収まるのです。

 今の世に暁斎をつれてきても、彼は一つも困らないのではないでしょうか。日々起こる事象や、人間存在の深みを彼の筆で描き出してくれる事でしょう。彼の方法論は何一つ無効になっていないのです。

 こういった内発性の高い反応を残した人を美術史の真ん中に据えられなかった不幸を、私たちはよくよく考えてみなければなりません。

2015-10-26 ヘンな日本美術史 山口晃 写生の弊害 このエントリーを含むブックマーク

コメント欄で薦められて読んでみた。うーん、これは面白い。特に前半が面白すぎ。


ヘンな日本美術史 : 山口晃

出版社: 祥伝社 発売日: 2012/11/01

四巻通して初めてわかる「鳥獣戯画」の面白さ

[実は「鳥獣戯画」があまり好きではなかった]

動物たちや自然の風景を描く墨の線は、迷いが無く、かつ伸びやかな感じで素晴らしいものです。ユーモラスな描き方をしているとはいえ、描き手の確かな技術が窺えます。

 だからでしょうか、逆に手本がずっと並んでいるような印象を受けてしまう。“あまりにも”な感じに溢れていて(略)「上手でございます」ぶりがやや退屈に感じられてしまうのです。(略)

[以前プロを目指す人の絵を審査したら]わざとらしい個性、ニュアンスを出したようなものが多いのです。「私らしく、伸び伸びと描きました!」と云う雰囲気を出しつつ、その実まったく伸び伸び描いていない。

 どうも私はそういうものが苦手でして、それに比して「鳥獣戯画」を見ていると、しっかりと技術のある人が描いた絵は、上手さへの志向が素直で、とても潔いものであると感じられます。

(略)

 さらに、このような私の目から鱗を落としたのが、実物を目の当たりにした事でした。(略)

墨が吃驚する程に綺麗なのです。(略)[単に黒一色ではなく]ガラス絵を見ているような透明度と色の奥行きが感じられます。

 ザザッと岩を描いたような荒れた一筆。その墨の黒がスーッと吸い込まれるように、画面の上に定着されています。それがとにかく驚きでした。よほど粒子の細かい墨なのでしょう、黒と云うよりは青味がかって見えます。

 ですからこの感じは、印刷した図版では絶対に分かりません。

(略)

[動物が擬人化されている甲巻と違い、乙巻に擬人化はないが、途中から麒麟、龍といった空想上のものが入り込んでくる。]

その入り方がまたさらりとしていて自然で、当時の人ならずとも思わず信じてしまいそうなさりげなさです。

(略)

 進むにつれて「あれあれ、走っちゃってるぞ。この人」と云うような感じでどんどんとエスカレートしてゆく。最初が実在の動物なだけに、そこで現実とフィクションの重層的な構成が際立つのです。

[次の丙巻は人は人として]動物は動物として描かれていますが、心持ち擬人化されているようにも感じられる。(略)同じ絵の中に人がいることによって、この擬人化の位置と云うものが、甲巻の時とはまったく違う位置ヘズレてくるのです。(略)

ひょっとして最初に描かれた擬人化というものを読み解くための手引書になっているのかもしれない。あるいは逆に、乙巻で見たような動物の「動物臭さ」を洗い直しているとも受け取れる。(略)

[最後の丁巻は人間だけに。甲乙巻から制作年代が下がった丙丁巻は]以前の巻の内容をきちっと受けながら、それでいて前に描かれたものに対して喧嘩を売ってもいるように思えます。

 甲巻は、動物の擬人化、それも高度な技術で上手く特徴を捉えると云う手法で人間を描いてみせているけれども、それじゃあ人を人として描いてみては駄目なのか? と云った感じでしょうか。

(略)

巻が下るほど先の巻を参照して、それに対して応答する形で進んでいくと云った構成になっている。そのため、各巻のキャラが相互作用していて、四巻まとめて見て、初めてこんなに面白い絵巻だったのだと云う事が分かるのです。

(略)

現代で云う「批評」の走りだったとも言えそうです。(略)

近代以降の絵画では前提とされている「作家性」が前に出た作品の在り方ではなく、そういうものは割とどうでもいいと考えられている訳です。(略)

 複数の人が参加していって、結果として一つの作品とされる。後から描いた人は、同じ「鳥獣戯画」と呼ばれて一括りにされるとは恐らく考えていなかったでしょう。(略)現代で言えば同人誌を作る人がオリジナルの本を色々いじるような感じくらいだったかもしれません

(略)

 今の作家性の在り方とは違いますが、それでは自分と云うものが無いのかと言えば逆で、描く事で「自分」が限りなく広がっているのです。

 現代だったら独自性に固執するあまり、「あ、俺はこんな絵は描けない」と言って落ち込んで終わりなのですけれども、その粋が緩いと「じゃあ、俺はこうしてみよう」と云う風に広がるほうに行く。その結果、むしろ自分というものを保てる側面がある。そういう、絵描きにとってはある種の幸せな状態が生まれていたのだと思うのです。

「鳥獣戯画」はアニメの源流?

私にとってはそういうのは全く興味のない話で(略)

その絵が描かれた時代を起点にして、なるべくこっち向きの視点を獲得する。「こっち向き」と云うのは、要するに、その時代からどうなるか分からない未来を見据えた視線を一生懸命想像する方が、あるべき態度かと思います。

(略)

 絵巻物のように場面が移り変わるのが「コマ割り」の基本だと言われる事がありますけれども、コマと云うものは昔から外国にもありました。13〜14世紀頃に描かれたジョットの壁画「聖フランチェスコの生涯」なんかは思い切りコマが割られています。時間と空間を区切る「コマ」のような合理性はいかにも西洋です。

 むしろズルズルと空間がつながって、曖昧な雲とか林で空間が仕切られている妙の方が、日本人が受け継ぐべき所のような気がします。

 それはそうとしても、この「鳥獣戯画」を見た時に私たちが漫画的であると感じるのは、ある種の力の抜けた画調にあるのでしょう。

(略)

わざとふにゃっと描くと云うか、ちょろまかすと云うか、仕上げすぎないのは日本の絵の特徴です。できるけれどもやらないのか、できないのか、そもそもその気がないのかは分かりませんが、解像度が一段階落ちるとでも云ったような感じになる。

 ただ、解像度が落ちた事によって、ある全体性が逆にばっと浮き上がってくるのが、外国と比べて不思議な所です。

(略)

 日本の美術を考えた時、私は「枠」とか「入れ物」と云う言葉が思い浮かびます。他の国の人たちが中身で勝負する時に、日本人と云うのは外側でそれをするのです。器とか枠と云ったもので何か物事と向き合うような所がある。

白描画とは

墨の絵と塗りだけで描かれたものを指します。「鳥獣戯画」も白描絵巻です(略)

[どこがそんなに特徴的か]

「平面性のプロフェッショナル」と申しますか、画面と云うものだけで勝負している感がある。ぱっと見た時に、広間に人がいる空間よりも、線である、黒である、と云った画面そのものが見えてくるのです。(略)

面面構成の心地良さを優先してしまっている。奥行きなんかどうでもよいから、ここに黒を入れないと間が抜けてしまう。そちらの方が、彼らにとって重要だったのでしょう。

 面面の中に空間を構成するために様々な技法を凝らすと云うよりは、意識が画面の外に出ていて、画面そのものを作り出す方に意識が行っている。(略)

 絵を見る人の意識が画面の外とつながっていたとも言えるもので(略)非常に現代的なものです。(略)

[現代芸術が外に出ようとして行き詰ったのとは違い、白描画は]

画面の外の視点を獲得しながらも、中側の視点でも新たな領域へ踏み込んでいる。それが詞書と云うものです。(略)

字が擬人化され、人が擬デザイン化されているとでも申しましょうか、人も文字もデザインとなって、双方の枠が溶け出している。(略)

現実を写すと云うより、「この人物の配置がシビレル」、「文字を置くならそこしかない」みたいな感情が優先しています。

「写生」の害

 昔の日本の絵の特徴の一つに、モチーフすなわち描かれている対象と背景の「成分」が一緒だったと云う事があると思います。つまり、同じレベルでの描かれ方をしているからこそ、対象と背景が同一画面上にちゃんと収まっていられたのです。

 けれども、日本画はある時から、そこに別の成分を入れるようになりました。それが透視図法的「写生」、いわゆるデッサンの要素です。

 これは劇的な事でした。まるで、お出汁を薄くひいた美味しいお吸い物にサーロインステーキをぶち込むような乱暴さです。(略)その意味では、日本においては油絵などよりもむしろ日本画の方が、自らの足元を突き崩すような冒険をしている。その点、油絵と云うのは、能天気に海の向こうの「正解」を取り入れることで、立脚点の確保を保留してきたような所があります。

 しかし、その結果何が起きたかと云うと、それまで一緒だったモチーフと背景がバラバラになってしまったのです。見たものを見たままに描く「写生の成分」があまりに強くなると、それはもう日本の絵にとっては、「食材」ですらなくなってくる訳です。

 「伊勢物語絵巻」を見ても分かるように、背景が地そのままであったり、金箔であったり、絵と云うよりは物質です。それが背景になっているからこそ、人物の描画と云うものがこの描き方、この手数で許される。それは現実を写したと云うより、型押しされたような完璧なポージングです。

 実際の人間がここまで首を曲げたら死んでしまいます。でも、絵としてはこちらが正解なのです。人間が可能な範囲でのポージングでは、絵として間違いになってくる。もし、そのように描いてしまったら、絵の中の雲は単なる金粉としか見えなくなってしまうでしょう。すると、絵全体が空間ではなくなってしまいます。(略)

[当時の人は]意識しないでもそうした空間を描く事ができたと言いますか、自然とデッサンをしない絵になると言いますか、もっと血肉に近い部分で描いているように感じるのです。つまり、自然体で描けていたと云う事です。

 明治時代になり、写生をやった日本人はこれができなくなってしまいます。一度、自転車に「乗れる」ようになってしまうと、「乗れない」事をできなくなってしまうような感じです。

(略)

小さい子の絵が綺麗で強いのは、色も構図も主観に貫かれており、バランスが非常に良いからです。(略)

塗りたい色しか塗らないし、描きたい所しか描かない。実にムダが無いのです。しかし、大人が横から「お空にも色を塗りましょう」と言ってみたり、当人も「木が紫なんておかしいかな」などと思い始めるあたりから、絵のバランスがおかしくなり、一色に迷うようになるのです。

 「伊勢物語絵巻」の時代の絵師は(略)子供の頃から親方がやっているのを見て、真似する事で、何の疑いもなくそれができたのです。ものを見て描くよりも、こっちの方が美しいからそう描くと云う純粋さでやってこられた。

 ものを見て描く事を覚えると、それができなくなる時期があります。私自身がそうなのですが、よく見ようとするとどうしても腰が引けてしまい、ガサついた薄塗りの非常に痩せた絵になってしまうのです。けれども、近代以降において日本画を描こうと思ったら、そこを通過せざるを得ない部分もあって、それはいわば「不幸なハイブリッド」とでも云うべきものを生み出してしまいます。

(略)

 私の学生時代の同級生などでも、見ないと描けないと言う人が多くいます。やはり写生と云うものをやっていると、引き写す技術は非常に長けてくるのですが、頭の中でイメージしたものを再構築する技術は別の所へ行ってしまう。これは近代の美術教育を象徴していると思います。(略)

 多くの場合、漫画家の方と云うのは逆で、見ないでもすらすら描く事ができます。自分の中に記号的な「型」があるからです。その代わりに、粉本から粉本を写したような、非常に浅い絵になってしまう人も中にはいます。

 「あれ、ここにこういう影はつかないぞ」と云うような所に影をつけて、「ここにハイライトは入らないんじゃないかな」と云う所にハイライトが入っている。ものを見ないで、イメージの引き写しになってしまうのです。

 絵としての完成度が高いのは、その中間ではないでしょうか。現実のイメージを引き写すのですけれども、ものを見ながら描くという側面だけでなく、若冲の言う「神気」を捉えて描く事で、そのイメージを強化する。それが三次元を二次元に引き写すと云う事の性格だと思います。

次回に続く。


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2015-10-22 まんが学特講・その2 「くそリアル」不要論 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。

「さいとう・たかをは元祖BL?」といった話や

江口寿史先生の「マンガの背景」論と、マンガ家たちの反応。に関連するような話。


まんが学特講 目からウロコの戦後まんが史

作者: みなもと太郎 大塚英志

出版社:角川学芸出版 発売日:2010/07/14

『ホモホモ』で任天堂のロゴの入った花札を描いた時の話に戻るんだけど(略)あの時に編集者がクレームをつけたのは、著作権云々ではないと思うのです。(略)要するに写真の通りに描いたので、ものすごくリアルだったんです。一枚一枚が。それに対する恐怖……と言うとわかりにくいかもしれないけど、まんがでそこまで現物を描くことに対する拒否反応。そっちの方が強かったと思う。

(略)

それが今は自販機からコトンと出てきたのがくそリアルな缶ジュースという。(略)

絵でもビールのラベルやガラスの質感まで出してね。缶ビールだったらトーン削ってアルミの質感を出して、メーカーから何から全部わからせて、ロゴまでしっかり入れて、そんなもん何でまんがに必要なんだと俺は思うわけですわね。俺は美術高校でしたが、空き缶を描いた時でも、そういうロゴを入れると先生が叱るわけです。

――ロゴを写し取ることは、ものの形や質感、光の当たり方を捉えるのとは根本的に次元の違う……。

 そう。で、それらしく、文字があるように仕上げていけと。

(略)

 だから俺はリアル缶ビール、リアル缶コーヒーが雑誌まんがに出た時に、気色悪いという思いがあった。それと同じものを当時の『ホモホモ』の編集者は感じたんだと思うね。だから「現実ではないものに替えろ」という台詞になるんだろうと。

――まんがの中に「現実」があったらおかしいんだっていう……。

 あの時代では、あの『ホモホモ7』の扉絵の花札でもそれまでのまんがにないくらいリアルだったのよ。今見たらたいしたものじゃないけど。もちろんその後の時代のまんが家は、麻雀牌も花札もよりすさまじくリアルになっていくけど。

(略)

――本来、絵におけるリアルっていうのは、コップの質感をどう表現するかっていうリアルですよね。それはコーヒー缶を描くんだったらラベルとか商標とかロゴを全部描かなきゃいけないリアルとは違う種類のリアルですね。(略)

[大塚原作の]まんが担当田島昭宇が勝手にキャラクターにつけさせているアクセサリーが特定のブランドのやつらしくて、「そのアクセサリーをしてるからこのまんがが好きなんだ」っていう読者が、かなりの数でいますもん。(略)

そういう正確さが、今はまんがの中の「リアル」を作っているところがあるわけですね。「記号」としての「らしさ」からくるリアルじゃなく、「情報」として正確か、どういう「情報」を持ってくるかっていうリアル。

(略)

 まんが家がそんなものを一生懸命に描くなんていう発想が、そもそもまんが家の側になかったわけ。俺らの時代まではね。(略)

 平田弘史は大工と喧嘩するくらい細かいところまで入れるから、確かに作品の中で建物が生きてるよね。

――でも、そうやって写実的に描く、いわば絵画的にリアルという水準と、今度はロゴまで描き込むリアルとの間には、やっぱり一線があるわけですよね。

(略)

 最初に劇画が追求してたのはそっちじゃなかったんだよ。

――ええ。だから今のまんがは劇画の求めたリアリティとは全然違うわけですね。

 なんで商標まで描かなきゃいけないんだろう?

――うーん、一つには単純に間違ったものを描いちゃいけない、っていう意識がすごく強いみたいです。何か「正解を描かなきゃいけない」っていう意識が、まんが家の中にありますね。「正解」イコール「正確」イコール「リアル」みたいな。

 まんがにそんなものを求めるべきではないのにね。いちばん求めちゃいけないジャンル。

さいとう・たかをは元祖BL?

さいとう・たかをに妙なホモっぽさがあるって話はしたよね?(略)[初期の代表作の『天国でオハヨウ』]を読むと今は別れた嫁さんに当時どれほど惚れてたかってことがわかります。

――(略)奥様であられたセツコ・山田さんが描いた美青年キャラクターを、さいとう先生がそのテイストを生かして自作のハードボイルドもののキャラクターにうまく描きかえています。つまり、さいとう先生の男性キャラには少女まんがのベースが実はあるってことですよね。そこまではわかります。でも言っちゃったら、この美青年の「男と男」の世界は(略)[BL同人誌の]美青年同士の台詞のやりとりに似たものを感じたんですけど。っていうか、「俺は……いつも一人で居たいんだ……孤独……」とか何だよって。(略)「好きになりかけてたぜ、おめえの事……」(笑)。心と心でBLをやってる。

 コミティアでセツコ・山田さんに会った時に聞いたんですけど、やっぱり昔は少女まんがをやりたがってたと。

――えー、さいとう先生がですか?

(略)

[さいとう自身が]前から言ってますけどね。こういう気分を描くことは当時の少年まんがでは不可能です。(略)少年まんがには主人公の内面とか生活感、喜怒哀楽を描くコマは存在しないんです。それは少女まんがにしかなかったんですよ。(略)女々しい詩もたくさん書いていたと奥さん言ってたし(笑)。自分の劇画でまんが家になっていくとしたら、少年まんがは閉ざされている、少女まんがしか私が行く道はないんだ、とさいとう・たかをはなかば本気で考えていた。

(略)[女性目線の入った男性キャラが]入ってさいとう・たかをはまた一皮むけたんです。(略)とにかく、劇画は少女まんがから発生しているという事実は、日本のまんが史を語るうえで絶対に落としちゃいけないことです。

岩田専太郎の影響、モノクロ美

まだまんががポンチ絵扱いの時代はみんな挿絵画家にあこがれたわけ。特にリアルで当時新しい挿絵は岩田専太郎が最初だったから、みんな真似した。それはまんが史において欠かせない。(略)

 岩田専太郎が何の影響を受けたかというと、オーブリー・ビアズレーですから。で、ビアズレーが何の影響を受けたかというと、日本の絵画なのです。(略)

[岩田]以前は、読者や子供を引き付けるには色がついてる方が当然いいわけです。ところが岩田専太郎から白黒でもつ時代になるんです。で、印刷に金がかからない白黒の方に全部行ってしまった(略)

今のまんがの白黒文化はビアズレーから岩田専太郎経由で来てるの。ビアズレーが輸入されていなければ、浮世絵のようなカラーまんがの時代が来てたかもしれない……。カラーじゃないと絵ってもたないからね。

白土三平に影響を与えた「格好いい」決闘シーン

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「格好いい」の生みの親は?

[「冒険王」付録『マンガの書き方』を見せ]貝塚ひろしや望月三起也の作品で劇画の雰囲気を一生懸命出してるけど、劇画作家をここに持ってくるわけにはまだいかない時代です。(略)本家のさいとう劇画はきつすぎて使えない。それで少年まんがをさいとう・たかをふうにやらせているという、微妙な時代です。(略)さいとう・たかをにしてみればむかむかする時代ですね。(略)ここで「主人公は、かっこよくかきましょう」という台詞が出てくる。さいとう・たかをが出る以前は「かっこよく」という言葉はまんがにありません。(略)「かっこよく」という言い草になるのは、貸本劇画でのさいとう・たかを等が築いたものです。

――じゃあ手塚先生の主人公は「かっこよく」ではなかったんですか?

 そういうことですね。ただ手塚治虫の『週間探偵登場』に冷酷な殺し屋が出てくる。あれが日本最初のハードボイルド・タッチのまんがでしょう。(略)あの時代はまだ手塚治虫に貸本劇画の匂いはないと思う。でも、兆しとしては手塚治虫が全部先にやってるんだわな、さいとう・たかをよりも。(略)白土三平にも100%影響を与えた『複眼魔神』の決闘シーンね。誰もいない中でシーンとしながら格闘を表現している。あれは明らかに格好いい。「格好いい」という言葉は一切出てこない(略)けれども、すでに手塚治虫の世界では格好いいニュアンスがガンガン出てるわね。(略)白土三平にしかわからないわけ。極端に言うとね。まず、ヒーローという概念が無くて、それを「格好いい」まで昇華させたのが手塚治虫。それこそが王道だとなったのがさいとう・たかを。それで日本の独特のストーリーまんがができあがっていく。

姿三四郎からデヴィッド・ボウイ、そしてフェラチオ

 男主人公は姿三四郎を踏襲していくしかないわけです。(略)それは少女まんがも全部そうなのです。男の登場人物はみんなそう。一本気でスカッとしてて、清潔で、少し単純で。だから『あしたのジョー』が始まる以前に何があったのかということを、今言わなければいけないんです。昭和四十年の切り替わりを。映画で言うと、「ウエスト・サイド物語」の主人公のトニーですらも、姿三四郎タイプを持ってきたわけです。つまりハリウッドですらそうだった。(略)そうしたら大コケにコケる。で、脇役のジョージ・チャキリスとタッカー・スミスに女の子の人気がガーッと集まって、その時のショックがそれ以降に変わるわけでしょ。1961年です。で、これまでの加山雄三的な二枚目はもう通じないのか、と頭を抱える。

(略)

本当は第二、第三の姿三四郎が出るはずだったわけ。ところが、それが[戦争で]「忠君愛国」でなければならないという軍閥の方針によって、方向を閉ざされる。(略)

 いちばんかわいそうなのが山本有三『路傍の石』の吾一少年ですね。人間形成小説を書いている途中で、どんどん軍部の検閲が入ってきて、ペンを折る。戦後なんとか書き直そうとしたんだけど、今度はニヒリズムシニシズムが入ってくる。もう主役は「眠狂四郎」とか「座頭市」。眠狂四郎なんて第二次大戦の悪夢でどうしていいかわからなくなった人たちだよね。それを何とか福井英一が『イガグリくん』で姿三四郎を取り戻して、それを引きずったのが梶原一騎ですね。人間形成小説をそのまま引っ張ってきた。だから『あしたのジョー』もそうなりかけてたんです。特別少年院にいる間は。

(略)

「地球に落ちてきた男」のデヴィッド・ボウイ。それから「アラビアのロレンス」のピーター・オトゥール。この二人のホモっぽいヒーローが出てきて初めて日本の少女まんが家たちは、「姿三四郎はいらないんだわ」になる。(略)

 その流れの中で萩尾望都さんも目覚めていくわけです。それをさらに一般向けにエスカレートさせたのが竹宮恵子。彼女も『風と木の詩』以前の『スーパーお嬢さん』なんかでは姿三四郎が恋人です。

(略)

[72年封切りの『ディープ・スロート』以前に]松本零士が「まんがゴラク」の『聖凡人伝』でフェラチオという素晴らしい性技を導入して、性風俗が変わりますから。(略)あれで「まんがに載せていいんだ」となったわけで。(略)

[『花と蛇』では責めとして出てきたフェラチオが]あっけらかんとテクニックとして日の目を見たのは松本零士先生のおかげ。まあ松本零士は「佐土魔造」のペンネームで「SMファン」なんかにも巻頭イラストを描いてるからね。

(略)

[『ホモホモ』連載終了前後、飲み会で山上たつひこと遭遇]

俺を見るなり『ホモホモ』をべたぼめしてさ、「僕はもうシリアスまんが、描きません。『ホモホモ』みたいなギャグをやりますから見て下さい」って言うの。それから一年ほどして『喜劇新思想大系』が始まり、あとは皆さんご存知の通り。『がきデカ』ブームが吹き荒れてギャグまんがの流れが変わったでしょ。

下段右がフェラチオシーン

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植木等

『ナマちゃん』や『ひみつのアッコちゃん』の生活まんがから、『おそ松くん』に一転するまでの間に『スーダラおじさん』があるんですよ。(略)

滝田ゆうにも影響を与えます。滝田ゆうは「スーダラ気分」と最悪の暗い「ガロ」路線をビシッと一人の人間の中に凝縮したんです。

西谷祥子

「ちょっと泥臭い日本文学」ふうというのは、西谷祥子からスタートするわけだね。(略)[初めて越境したため]文学からの排撃も受けるわけです。(略)少女まんが家で文学側からがちゃがちゃと言われたのは西谷が初めですよ。

(略)

 山田詠美については、高信太郎が「SMモデルであった過去は明かしても、元まんが家であったことは明かさない。そのくらいまんが家の社会的地位は低いんだ」と言ってた(笑)。(略)

西谷祥子の評価の低さは可哀想すぎるかなと思うけどね。でも水野英子ら御三家の存在を知っている俺らの世代にとっては、西谷祥子は異質なものが入ってきたという気がないことはない。これが少女まんがに入ってきたら少女まんがが大変なことになる、ということはわかった。それはだけど、少年まんがの中に梶原一騎が入ってきた時、「これが主流になるの、困るな」と、俺が思ったのと同じことであって。(略)

それまでは、脱ぐなら脱ぐだけの大変な決意というのがあったわけだけど、いわゆるお色気のモンキー・パンチのように足をぴゅーっと描いても平気、ということを少女まんがでガンガンやり出しだのは西谷祥子ですから。それに対しての先輩作家の憤りっていうのは、それはよくわかる。

あの時代(1950年代後半から60年代前半)

[水野英子が「BSまんが夜話」で]「当時の少年まんがはレベルの低いものだった。人間の喜怒哀楽を描こうとするのは少女まんがしかなかった。あの時代は少年ものと少女もののレベルは違う」と言ってる。ところがその一方で(略)[水野も含め]女性作家が「少女まんがなんかつまらなくて、少年まんがばかり読んでました」と言ってたんですね。相反することを同時代の作家が語っていて、それを何の不思議もなく受け止められます、この私の世代は。

(略)

 アクションとかで女の子がワクワクするものは、確かに少年まんがにはあったということですね。少年であるということに対するある種のあこがれというか。

おわりに

(略)[松本正彦]が『劇画バカたち!!』で見せた、乗客の少ない電車内での、揺れに合わせた昭和三十年代の吊り革の描写や、真夜中の踏み切りでの「ちんちんちんちん…」という書き文字だけのドップラー効果、老残の漫画家のあたる火鉢に吸殻が林立しているリアルさなどは、対談で述べた現代まんがの、アルミ缶や紙幣のリアルさの追求とはまた違った、オルタナティブな「劇画表現」の追求なのであった。また、両氏[辰巳ヨシヒロ、松本]やさいとう・たかを等の草創期劇画もやはり『新寶島』を起点に持つ「手塚の子供たち」だった事も確認できた。ただ驚いたのは、私は対談の中で再三「手塚まんがの、僅か数ページに凝縮されたドラマ性、名人芸」を評価しているのに対し、辰巳ヨシヒロ氏は「雑誌に移ってからの手塚作品は、少ないページに無理やり話を詰め込むため、赤本単行本時代のゆったりしたコマ割りが無くなってしまい、読む気がしなくなった」と述べている点である。世代時代によるファースト・コンタクトの違いはこのように180度の価値観の差を生み出すもので、まんがを論じる人間は常に「自分の年代、立ち位置」を明確にしておかないと、不毛の争いや、誤解を招く事もあるのだと、肝に銘じておくべきなのであった。(略)

むかしのアシスタントむかしのアシスタント 2015/10/23 01:45 「新寶島」は、日本漫画の退化だったと、この本で言われていますね。
手塚治虫はいつも「自分は絵(デッサン)が描けたらなぁ、ストーリーは無尽蔵にあるんだ」と言っていっていました。でも私はそれはそうではないのではないかと、議論したことがあります。
泳ぎがいったんできてしまうと、二度と泳げないことが、できくなってしまいます。同じように、デッサンができてしまうと、デッサンができないことを失ってしまいます。つまり、デッサンから自由な描き方が、デッサンができることによってできなくなってしまうのです。パース(遠近)がとれると、余白が許されなくなります。パースがとれないことができると、画空間がどんなにおかしかろうが自由自在の画を描けることになります。
戦後の手塚治虫の「新寶島」の新しさは、デッサンができた戦前の漫画家には不可能で、だから退化に見えたのだと思います。

kingfishkingfish 2015/10/23 21:07 「テクニックを捨て去るインテリジェンスが必要だ」に繋がる話ですね。
と、ここで突然、自身に引き寄せた独り言モードになると、絵なんか描けないんだから、シロウトのヘンテコさで勝負するしかないわけで、下手にデッサンとか勉強しちゃうと中途半端なことになってよくないだろう……とシロウトのままで色々やったけど、世間から受け入れられる気配はないので、やはり一般性を獲得するには、ある程度の技術は必要なのかなあ、いやそれに、脳内のコレを表現するのにある程度の技術はやはり必要な気もするし、でも、散々苦労して勉強した挙句、昔のヘタクソな頃のほうが面白かったよとか言われたら、それもショックだし……と揺れる心で苦闘中みたいなw

むかしのアシスタントむかしのアシスタント 2015/10/23 23:26 その独り言には、ぜひ、日本画家・山口晃の傑作『へんな日本美術史』(の中の河鍋暁斎についてのところ)をおすすめします。

kingfishkingfish 2015/10/23 23:37 読んでみます。「デッサンなんかクソくらえと云わんばかりのヘンな絵の数々」うーん、面白そう。

むかしのアシスタントむかしのアシスタント 2015/10/24 08:07 「揺れる心で苦闘」の最初は、お絵かきがうまく成績が良かった小学生の「図工」から中学の「美術」での失速でしょうか。それは必要とされる能力が変わるからでした。とっぴな空想力、即興で似顔絵を描ける空想力、マンガのキャラをそらで描ける記憶力など、見てパッ!と描ける勘の良さがあれば「図工」の成績はお釣りが来ます。「美術」ではそうはいかなくて、対象を粘り強く観察、画材を操り、空間や質感をリアルに再現、じっくり見る能力が必要でした。そして美大受験の予備校で、受験生のデッサンをサディステックに否定し、楽天性とプライドを破壊し「改宗」させるショック療法の定石、この段階で挫折する高校生も少なくないのでした。

kingfishkingfish 2015/10/24 16:20 「揺れる心で苦闘」というのは別ジャンルのことでしてw
絵に関しては、小学生の段階で問題外というか、そもそも、描きたいという欲求がなかったというか……。
(まあ、絵以外でも表現欲はなかったんですけどw)

2015-10-19 まんが学特講:手塚にペンタッチは無かった このエントリーを含むブックマーク

『まんが学特講 目からウロコの戦後まんが史』

(講師:みなもと太郎 受講生:大塚英志)

表紙とパラっとめくった印象の十倍面白い内容。その他の「まんが学」よりずっと充実してるのに、なんか損してると思う。今、チラッと尼レビュを覗いたら「昔の漫画が好きなら」とか書かれていて、確かにそういう面もあるけれど、「セル画起源の手塚治虫にペンタッチは無かった」とか「今のまんが家は脳内で中割できないからコマ割ができなくて、アメコミになる」といった面白い話が展開されていて、たしかに「目からウロコ」。全部を通して読まないと面白さが伝わらない部分があるので、引用から伝わる面白さの十倍くらい現物は面白いと書いておこうw。

というわけで、順番を変えて、そこらへんのところからまず引用。


まんが学特講 目からウロコの戦後まんが史

作者: みなもと太郎 大塚英志

出版社:角川学芸出版 発売日:2010/07/14

手塚治虫にペンタッチは無かった?

ペンタッチがあった時代の方が特殊だった

[CGで描く最近の若いまんが家はペンタッチという概念がない、と話を振られ]

でも考えてみれば、俺が子供の頃にはペンタッチは無かったんだよ。(略)

もともと日本のまんがは筆で描いたタッチのようなやつだったんだよ。(略)[アニメ映画を観てショックを受けて]以降の作家たちはセル画を真似るような結果になってしまったわけ。その伝統で手塚治虫やトキワ荘の人たちにはペンタッチが無かったから、俺は何を使って描いてるのかわからなかった。(略)

[手塚や藤子が出していたのでは?と聞き手の大塚]

 とにかく子供まんがにペンタッチはないのです。(略)[ペンタッチが出てきたのは]貸本劇画だったんです。(略)

でも今度は真似したくもない絵。気色悪いのばっかりで。(略)でも、さいとう・たかおだけはかっこいいから真似したいと思う。描き方も完全にGペンで描いてるのがわかる。(略)

手塚治虫を筆頭とする人たちは、完成しすぎているがゆえに誰もペンタッチを見せてくれない。(略)

石森章太郎とか確かにペンタッチがわかる。それは「荒い手塚治虫」という感じで、劇画の「新しい、荒々しさ」とは違うよね。(略)

園田光慶の『アイアンマッスル』に影響を受けた若手たち、かざま鋭二、みね武、松森正、ながやす巧たちがどんどんレベルアップを目指して走りはじめた時、「そこまでは行くまい」と動揺せずに決めてたさいとう・たかおはさすがだな、と思った。「背景も必要以上に細かく描く必要はない」ってね。あの頃はみんなが底なしに細かくなっていったからね。で、それを読んで次の世代が今、青年誌なんかで妙に線だけきれいだけど、キャラクターにイマイチ魅力が無い作品を描いたりするのよね。(略)これが実は『アイアンマッスル』から始まった「新しい劇画」の、三十年たって出てきた弊害

(略)

――手塚にはペンタッチは無かったっていうのは、つまり模倣したい線を生んだのは劇画だという意味だっていうことは何となくわかりました。

 俺らの時代はってことだけどね。ペンタッチに惹かれたのは、俺が十六、七歳くらいの時からだから。要するに、それ以前・それ以降、共にアニメに負けてるな。

――手塚さんの絵がセル画起源だとするとそうですね。セル画って鉛筆のけっこう味のある線をわざわざトレースして、それこそ「描き版」をして、着色していくわけですから。

 パソコン画面の線になって、ペンタッチの無いまんがの時代にまた突入した。むしろペンタッチがあった頃の方が特殊な時代だったのかもしれません。

(略)

――(略)模倣性があるというか、真似しやすさみたいなものがある線っていうものがある……。

 あるでしょうね。西谷祥子がデビューしたら肉迫する投稿作品がどーっと出た。西谷祥子にはそういう模倣しやすさがあったんだろうね。

――それは西谷さんを模倣したことで、少女まんが全体の絵のクオリティは一気に上がったということですか。

 上がったという言い方もできるし、全部が同じものになったという言い方もできる。(略)西谷祥子は「真似しないでちょうだい!」って叫び続けて、悪役にならなくちゃならなかったわけだ。それで二、三年経ったら今度は投稿作品が全部萩尾望都ふうになったわけです。(略)彼女たち二人の絵は真似たいと思ったら即真似られたんです。

――つまり「真似たい」と思うことと実際に「真似られる」ことの一致が大きかったわけですよね。「できそう」だけど「真似たくない」でも、「真似たい」けど「できない」タッチでもなくて。「真似たい」し「できる」タッチを作った人が結果として影響力がある。当たり前だけど。

 そうだね。で、さいとう・たかをも俺らにとってはそれだった。

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アニメの「アトム」は動いてない。まんがの『アトム』は動いてる

俺にとってはセルアニメの「アトム」は動いてなくて、紙まんがの『アトム』は動いてる(略)

この時の動きっぷりは、他のまんがには絶対無かった。それもマルチに動くわけだから。事態を見つめてる科学者たちのグループがこちらにいる、レーダーにはそれが映ってる、ハラハラドキドキして屋上でお祈りする。それが重層的に描かれている。この同時進行でずーっといくわけです。(略)読んでる時の気分ははんとにもう、映画一本だよね。この二コマだって、このクラゲみたいなやつが砕ける速度まで感じるわけ。チョン、と触るとほろほろーっと溶けるというか。

――それってつまりコマとコマの、アニメでいう中割りを、先生は脳の中で子供心にしてたってことですよね。それってすごい創造力ですよね。

 だから、みんな読者はそれをしたでしょうし。

――って、みんな、できたんですか、そういう中割り的な読み方?

(略)

――(略)たとえばトキワ荘の人たちが、『新寶島』を見て「動いてる」って言うじゃないですか。

 そうそう、俺が見たって動かないのよ、『新寶島』見たって。

――ぼくは同じように『アトム』を見ても動かないんですよ。

(略)

 要するに、まんがの『アトム』はそれほど動いて感じない、なおかつテレビの「アトム」が動くアトムだと思った人間が、その後まんが家を志してネームを切っていく時に、明らかに違いが出ると思うんです。(略)

それで今俺らが、『アフタヌーン』だの何だので、どうしても感情移入できないコマ割りがたくさんあるわけですよね。

――(略)何でぼくらの世代はこんなにコマ割るのが下手なんだろう(略)

絶対、手塚先生みたいに割れない。それはぼく個人の才能だとしてもぼくと同じ年の連中くらいを境に下に行くとどんどんコマの割り方って明らかに下手になってきます。

 あれは、俺らまでの世代がやっていったコマ割りに飽きてやってることなんだろうと思っていたんだけど、飽きたんじゃなくてできなくてなの?

――できなくなったんだと思いますけど。

(略)

じゃあ「アフタヌーン」とかで俺らがどうしてもコマ割りを見て作品に入っていけなくて、悩み続けてるのは、必ずしも俺らが古くなってるからではないということになるわけ?(略)

コマを割れる人たちっていうのは、コマ間の動きを脳内で動かしちゃってる人っていうことになる。

――(略)ぼくらがコマを割れなかった理由がすごくよくわかりました。しかも半端に動くアニメはあったから、動くものに対する飢餓感というのがなかったのかもしれない。テレビで「アトム」を見ても、「動いてるものってこんなものだろう」って……。(略)結局、「今回のアトムは顔の出来が悪いよね」とか……(笑)。

 はいはいはい!そっちの方にいっちゃうのね?

――そうです(笑)。さっきの話の方にいっちゃう、そうやって。それで、アニメーターごとのタッチを判別できるおたくができあがるんだと思います。

(略)

 ということは、俺が読むのとあなたが読むこれとでは、コマの感覚が違うということになるね。

――そうかもしれません。後に行けば行くほどすごく極端に言えばおそらく一つのコマを一枚絵で見ちゃうんだと思います。(略)ぼくから五つ六つ下の子とやっていると、彼らは一つのコマの中のレイアウトをものすごく気にするんです。ネームって結局コマ割りじゃないですか? でもコマの連続より、コマの中でのレイアウトをむしろ気にする印象がある。

 次のコマに行けなくなるんだよね?

――そう、だから結局、見開きの止めゴマとか大ゴマがどのまんが家でも多くなってくと思うんですよ。(略)

今のまんが家なら、『アトム』の一ページと同じ台詞の量で、おそらく三、四ページにしちゃうでしょう。それは一点一点を一枚絵として完成していく、一枚絵をコラージュしていくみたいな感じで。

 でもそうしたら結局、アメコミと同じような、動きのないものになっていくわけじゃない。

――そう、だからアメコミが……。

 あっ、受け入れられるようになったわけか!!

(略)

――彼らはきっとぼくやみなもと先生が何故、アメコミを「読めない」のかわからないでしょうね。

 ……退化じゃないのか、それは?

――えーと、はっきり言って、退化だと思います。しかも、その退化について「今の若い者は」ってぼくは思ってましたけど、自分たちがその張本人の世代だったというのが、今すごくショックです(笑)。

(略)

 俺は宮崎駿のまんが版の『風の谷のナウシカ』は実はものすごく読みづらい。

――ぼくもあれはすごく読みづらい。安彦良和なんか特にそうですけど、アニメーターの描くまんがだとぼく、逆に中割りが見えちゃうんですよ。『アリオン』が徳間書店で始まって、ぼくずっと安彦さんの担当してたんだけど、コマ割りが絵コンテ状態なんですごく中割りが見えちゃう。安彦良和に怒られると思って黙ってたけど、何か、変、それってつまらないっていうか読みにくいんだけどと感じた記憶があります。

 そうです、そうです、その通りです。とにかくまんが版の『ナウシカ』は、ほんとに読んでてモタつくんです。

――宮崎さんもまんがのコマとコマのつなぎとかができない。アニメーターだからといってコマを接着できるわけじゃないですよね。

 (略)手塚治虫は、ページ数が少なかったから、必要最小限度を描いていったのが良かったの。

(略)

[読みにくいコマ割りになったのはいつから?]

やっぱりアニメ絵の人たちが入ってきてからだな。アニメ絵で最初にヒットしたのは……萩原一至[『BASTARD!!』]かな?(略)

あのへんから、妙にストーリーに入り込めなくなったな。年とったせいかな、というのもあるわけよ、自分の中で。

(略)

――(略)今のまんが家って、ネームで悩まないですよ、びっくりするけど。(略)原作がついていてもいなくても、わりとコンテはスッと出てくる感じがある。(略)もっぱら作画の方に比重がいっていてネームに比重がない

(略)

 俺らはネームの方に時間がかかるね。絵を描くより。

(略)

――萩尾望都も、ネームができちゃえばあとは手作業で楽なものみたいなことはどっかで書いていたし。

(略)

 だからスクリーントーン多用アメコミふう作品ができあがるわけか……

(略)[昔の]まんが家が悩むって言ったら、ストーリーであって絵じゃないもん。(略)[今は]絵描きになってるわけだ。

――ええ、角川とかマニア系の雑誌はその傾向、強いんじゃないかな。だから人気があるまんが家はみんなイラストレーターになっちゃうし。

[ここから、最初に戻る。]

パロディのきっかけ

[みなもとが最初に読んだ高野よしてる]少女まんがのギャグのお涙ものを描いていたと思ったら、『13号発進せよ』も描けるし『木刀くん』も描ける。だからまんが家というのは何でも描いて当たり前だと子供心に思い込んでたわけですね。その後も昭和三十年代終わりまではトキワ荘の人たちも少年まんが・少女まんがを両方描いていた。その頃までは「児童まんが」というジャンルでひとくくりにできるくらい画風の幅はせまかったんです。そこに貸本屋の劇画がどっと出てきて、日本のまんがはさまざまな画風が乱立するようになる。

 ところが劇画が出てきて以後、まんが家入門の本すら「劇画はこういう顔にこういう背景をいれましょう。ギャグまんがは背景をあまり描き込んではいけません。単純にしましょう」なんて言うようになる。一生懸命型にはめようとするわけです。

(略)

[それでは]ロクなもんにならんわけでしょう。「それならもういっぺんぐちゃぐちゃにしちまえ」というのがこっちの[『ホモホモ7』]意図でしたね。

(略)

[絵の苦手な友人の漫画を手伝っていて、単調な会話のシーンがあり]

こんなページ読者に面白くないから、この二人を一コマ目はさいとう・たかをの絵にして、次は西谷祥子にして、次は秋竜山の絵にして、次はモンキー・パンチの絵にして……ってやってみた。それで描き終えてじっと見てみたら「あれ?こんな発想で何か描けるんじゃないかな……」と。それがスタート。『ホモホモ7』の糸口が見えてきた。

(略)

[冒頭に「昭和初期」と出る任侠映画をパロって]

[天皇Xデーを意味する]「昭和末期」はもちろんダメ。(略)これも単行本にする時に戻した。「マガジン」では「いつの頃かわからない頃」となっています。(略)戦前に講釈師が「頃は昭和の中の頃」と言って不敬罪(略)だから当然引っかかるかもしれないという危惧はあったけど、「わからねえだろ」と思ってやったら案の定引っかかった。

手塚が新しいわけではなかった

[1941〜46年まんがが戦争で消え]その間隙を縫って手塚治虫少年が戦後いきなりバーンとデビューする。(略)でも昭和30年くらいまでは手塚治虫よりちょっと年上のまんが家たちも手塚と同じようなまんがは描けたんですよ。(略)

[戦前のは]ギャグも乱暴だし、やることも乱暴。敵兵の首をパンパン刎ねて喜んで。(略)あの首がパンパン飛ぶのは歌舞伎ですよ。(略)弁慶が捕り手たちの首をポーンと全部刎ねる。あれと同じ感性でやっていた。そういうギャグを描くと戦後は「戦犯だ」ということになったから、ものすごくおとなしいギャグしかないんだよね、昭和20年代のギャグまんがは。だからこの人たちが戦前そんな派手というかノーテンキな戦争まんがを描いていたことは知らないわけです。(略)だから俺が子供の頃は「昔のまんが家はおとなしいまんがばかり描いているんだな」と思っていました。それに較べて手塚治虫は第三次世界大戦の話から始めたりするからね。

(略)

 俺はたまたま貸本屋で平田弘史やさいとう・たかをを読みふけっていたけど、まんが雑誌は彼らを排除し続けていた時代があったわけです。あの時は秋田書店のまんが入門書ですら、もうとにかく劇画はブルーカラーが読者だということで書かれている。(略)「劇画の読者は中卒みたいなやつしかいないぞ」と。(略)そう露骨でなくても。「そのような人たちに読まれているようです」という書き方で。明らかに劇画は差別されて、それに対する怒りもこちらにはあったわけ。

平田弘史の迫力はギャグの才能による

 次のコマヘの移り方はちばてつやと水野英子から、ストーリーはあすなひろし、テンポの持って行き方はさいとう・たかをや平田弘史から学んだ。(略)

 とにかく平田弘史のコマ割り、ページめくりの迫力の凄みに匹敵するのは、映画の黒澤明以外にはいない。それほどのド迫力を描き続けられた人ですね。(略)平田弘史の評価は今に至るまで結局みんなわかっていないんだけど、何故彼がそういう凄まじい迫力を出せたかというと、あの人にはギャグの才能があったからなんです。平田弘史のギャグまんがというものがあるのですが、それが全然誰も気がつかない。(略)

あの凄まじい剣豪まんがの中で、平然とギャグがバンバン出てくるんです。(略)

[グロテスクで凄まじいから笑うという意味ではなく]意識的にちゃんとギャグが入っているんです。(略)

今のアニメの中でもシリアスな場面で平然とギャグをやるのは、そりゃ途上において『ホモホモ7』があったかもしれないけど、じゃあみなもと太郎がどこからそれを仕入れてきたかというと、絵はギャグの赤塚不二夫であっても、テンポのおかしさと不思議さは平田弘史であり、さいとう・たかをであり、ありかわ・栄一なんです。要するに貸本劇画の凄い人たちですよ。

(略)

[『巨人の星』の]「ガーン」は貸本ではずっと当たり前のようにあった。それもおそらくいちばん最初にやったのは平田弘史ではないかな。(略)

ページをめくっていくことに対していちばん才能があった。そういう意味ではさいとう・たかをよりも確かにあったね。さいとう・たかをは見せ場を見開きの左ページに持ってきても平気だったけど、平田弘史はそれをしなかった。ページをめくって脅かすということをきちんと知っていた。で、あの「バーン」とかも入れたし、最後にはビックリマークをスミで一ページ、バーンと入れるとか、そういうことを発明もした。それは武満徹の音楽の雰囲気を出したくてやったことなんですが。

真似した方が先に売れちゃう悲劇

聖悠紀はめっちゃ新しかった。並大抵じゃないですよ。だって『超人ロック』は、あの第一作「ニンバスと負の世界」が出てから「少年キング」の「炎の虎」になるまで十年以上開いていますから。で、その間に萩尾望都や竹宮恵子が見に来る。

――はい。高校生の頃、「作画グループ」の本部に行った時、肉筆回覧誌に載ってた『ロック』に二十四年組の人の手書きで熱狂的なコメントがあったのを覚えています。

 それで『地球へ…』ができてくるわけだから。『地球へ…』が人気をとっている時に聖悠紀は仕事無いんだから。『超人ロック』が世に出てないんだから。これは日本のSFまんが史上とんでもなく悲しい話だ。

――聖さんのあの絵柄はどこから出てぎたんですか?少女まんがとSFが渾然とした。あの絵って

松本零士、あすなひろし、西谷祥子。本人がちゃんと言っています。(略)

女の子の顔は、最初は全部西谷祥子なんです。(略)帽子がヤマトにも出てくるあの帽子。あれがやたらデカイのは松本零士。で、流れの美しさはあすなひろし。その三人からスタートしたのは全部わかっていることです。

(略)

[あすなひろしさんと西谷祥子、矢代まさこがいなかったら、二十四年組は]

違うものになっているでしょう。ようするに二十四年組の最初の里中満智子以上のものにはならない。あの素朴な田舎っぽさね。あれです。

(略)

 萩尾望都はデビュー前に矢代まさこの模写をずいぶんしてたそうです。(略)

雑誌に出る以前の貸本時代の矢代まさこを、二十四年組は全部吸収してしまったわけです。でも世代が同じだったという恐ろしさがありますよね。(略)[昭和二十二年生まれの矢代]は十四、五歳くらいでもう単行本をバンバン描いている。

(略)

 矢代まさこという天才が十四、五歳の頃からびっしり描き溜めたものを、たった二歳くらいしか歳の違わないのが、まだ十二、三、四歳でそれを読んでビックリしていたわけです。

(略)

 矢代まさこにしてみれば、貸本世界で七、八、九年やってきて、やっと雑誌に出てきてみれば、自分のまんがで育った人たちが、自分よりも都会的な線で出てきている。それに対してどうしていいかおおいに悩むんです。

(略)

 矢代まさこは天才過ぎたから、十三、四歳でいきなり描き出して、それまでの少女まんがには絶対無かった、水野英子とも違うもの、ちばてつや路線とも違うもの、もっと何か不思議な、樹村みのりに近いのに、それでいてもっとストーリー性があるんです。

次回に続く。

むかしのアシスタントむかしのアシスタント 2015/10/20 10:34 どの「マンガ学」よりたしかにも面白いです。まんがは線でできていることをこれほど深く触れている人はいません。『お楽しみはこれもなのじゃー漫画の名セリフ―』も傑作です。
10代の頃に手塚治虫のアシスタントをしていたのですが、貸本劇画の園田光慶の「アイアンマッスル」の線の凄さを見て、手塚治虫に直接ペンタッチがないことを訊いたことがあります。手塚治虫はこう答えてくれました。「線はタッチだけではないのです。線が囲む空間にさまざまなニュアンスを作ることもできるんです」

kingfishkingfish 2015/10/20 20:56 「線はタッチだけでは〜」という話、面白いですね。そういう話を集めて誰か本にすればいいのに。
それにしても、アシスタントから、ある意味きついツッコミ入れられて、理路整然と説明する手塚さんて、エライなあ。

むかしのアシスタントむかしのアシスタント 2015/10/20 23:02 膨大な原稿枚数を書いた手塚治虫はさぞペンダコの痛みで悩んだのではないかと思い中指を見たのですが、ペンダコの後が全くないのです。小指から手首にかけてペンダコがあったのです。これは、高速で描くためにペンと原稿用紙を同時に動かすからなんですね。で、きついなぜツッコミを入れたんです(笑)。なぜそんなに高速で描くのか?手塚治虫はこう答えました。「すべてをフリーハンドで資料なしで<世界>を描くという覚悟はいつでもあるんです」

kingfishkingfish 2015/10/20 23:22 うわあ、次々と貴重な話が。
「俺はマメなんか絶対できなかった」と自慢する長嶋さんに通じるものがw。やっぱり天才はなんか違うのでしょうか。
ナマ手塚に目の前で「<世界>を描くという覚悟〜」とか言われたら痺れますね。編集者の原稿取り地獄話より、こういう話の方が面白いと思うのですが、なぜ本にならないでしょうね。

むかしのアシスタントむかしのアシスタント 2015/10/21 06:51 映画「バクマン」で、原稿描いているときのペンの滑る音が聞こえます。これは監督が実際の作画の現場で、アシスタントと先生のペンの音がまるでちがうことを発見したから表現できたことでした。
手塚治虫のペンの音を実際に聞いた人は、手塚治虫と机を並べていた初期のアシスタントです。後になると手塚治虫は二階に上り、そして別室で作画しましたから。私はたまたま代筆チームの一員だったので旅館でカンヅメのとき目の前でペンの音を聞きました。もちろん手塚治虫の音は別格でしたが、手塚の右腕と言われたチーフアシスタントの音が音楽のようにすばらしかったのです。またこのことも手塚治虫に聞きました。「線の動きはその人の動きだから、その人がよく出るのです」と。

kingfishkingfish 2015/10/21 20:54 こんなところではなく、ツイッターとかで、もっと多くの人に読んで欲しい話ばかりですよおおお。
アシスタントと技術論を交わしながら書いていた時代から、孤独な時代へと突入していく手塚の姿を想像して、センチメンタルな気分に……。

2015-10-17 ヒトラーと哲学者 哲学はナチズムとどう関わったか このエントリーを含むブックマーク


ヒトラーと哲学者: 哲学はナチズムとどう関わったか

作者: イヴォンヌシェラット,三ッ木道夫,大久保友博

出版社: 白水社 発売日: 2015/01/22

ヒトラー

1923年、南ドイツはミュンヘンの静かな路上で、ひとりの男が同じ光景を想い描く。「我々がラインラントの都市を二ダース炎上させたところで、どうしたというのか。ドイツの未来が約束されるのなら、十万の死者とて取るに足らんよ」(略)彼には延々としゃべるだけの優柔不断で、臆病者の、旧弊な政治家が歯がゆくてならないのだ。(略)

自分の戦争幻想「ドイツは世界的強国になるか、あるいは全然存在できないかのどちらかである」を言い立て(略)

「偉大な行いとは、その規模もまた無慈悲にならざるをえない」と男は断言するが、ハンフシュテングルは気が気でない――ふたりがいるのは公道で、民主主義の法治国家、ヴァイマール共和国のフリードリヒ・シラー像のそばをちょうど通り過ぎたところだったのだ。(略)

[数ヶ月後]その政治家はヴァイマ−ル警察に逮捕される。(略)ビアホールで催された集会に突撃し、銃を手に行動を迫ったのだ。会場に放火して建物全体と客全員を片づける手はずを整えていたが、その計画は途中で阻止され、彼は打破しようとしていた法の手中に落ちたのだった。

 この政治家とは、むろんアドルフ・ヒトラーである。(略)国家反逆罪を言い渡され、有罪となった破は、1924年の春にはランツベルク要塞に投獄される。

(略)

 残虐さこそ力の源なのだと、ヒトラーは確信していた。後年こう述べている。

路上でなぐりあいがあるとき人が集まってくるのを見たことがあるかね。残虐さには敬意がはらわれる。残虐と腕力。路上に集まる単純な人間は、腕力にしか敬意をはらわないのだ。(略)連中は、癒しとなる恐怖を欲する。なにかを恐れたいのだ。おびえながら、だれかに服従することを欲している。(略)大衆はそれを欲しているのだ。彼らは恐怖の戦慄を与えてくれるものを必要としているのである。

ひとり特にヒトラーを魅了した哲学者(略)「カントが我々のために果たした最大の貢献とは、中世の残存物にすぎない教義をきっぱりと否定したこと、教会の独断的な哲学を論破したことなのだ」

 哲学も、しかしナチスには限界のあるものだった。ヒトラーの目標は、ドイツが世界を支配するに十分なだけ大衆を教育することにあった。しかも彼らは、第三帝国に完全に服従したままでなければいけない。個性、批判的思考は単に妨げられるべきものでなく、法律で禁じられるべきものであった。重要なのは、理論による教育が、忠実な取り巻きというよりむしろ自由な精神を養ってしまいかねない点にある。それゆえヒトラーは、〈純粋な〉理論につねに嫌悪感を抱いていた。彼は理論を超える〈経験〉に重きを置いた。しかしどうしたら経験によって教育できるのだろうか。ローゼンベルクが答えを見つけ出していた。「平和な時代に生きるには不幸すぎる人々には」、偉大な英雄たちの伝記を精読することが力説されるのだ。(略)「偉大な人物や彼が成し遂げたものは、私たちには理性の法則による明らかに賢い理論よりも、千倍も重要で有益に思える。(略)

戦場でなら永続的な虐殺が支持される。戦争こそ完璧の到達点、その価値を理解することがナチ教育に欠かせないものとなった。

 人種主義を説いていたボイムラーとクリークは、その後、ローゼンベルクの戦争称揚に呼応する。自分たちの地位が脅かされると見えたのかもしれない――戦争が最高の教材となってしまえば、理論の構築など時代遅れになってしまうかもしれないのだ。しかしこれら忠実なナチ党員にとって、やはり思想が武器だった。それゆえ思想をいっそう完璧な暴力装置へと磨き上げること、これが彼らの身の丈にあった野心となっていく。

カール・シュミット

 国家は「自己の国民に死に赴く決意と躊躇なく敵を殺す覚悟とを要求する権利」を持っている。この言葉を、シュミットは1914年、27歳のときに力強く書いている。(略)一方で彼は自分のキャリアのため、軍隊に入るのをできるだけ先延ばしにした。

(略)

 ナチスが影響力を強めていくなか、シュミットが初めに抱いたのは嫌悪感だった。彼らのことを過激派で、国家の安全保障を脅かすものと考えていたのだ。そのかわり、安定するという理由で支持したのが[大統領制](略)

[冬の朝、カフェでコーヒー、ラジオから]

ヒトラーがドイツの首相に指名されたという知らせだった。びっくりしたシュミットは考え事から急に引き戻される。まず呆気にとられ、そのあと気持ちが沈み、疲れがどっとやってくる。三年間も大統領制を擁護してきたというのに。真っ暗な夜に自殺を考えたと、彼は正直な気持ちをあとで日記にしたためている。ヒトラーの主権独裁がいかに法に反した形で成し遂げられたかを書き付けたが、彼は気分が晴れなかった。(略)

「ヒトラーはやってのけたのだ。……あの老いぼれはとうとう狂ってしまった。ひどく寒い夜だ」。(略)

用心深い彼は、力を次第に高めた彼らがいずれドイツの大学から不純分子を追放するだろうと睨む。(略)

[ハイデガーの親ナチ的支持、党への参加を促され]

 ここで突如として、シュミットの心境が一変する。[入党、直後](略)

ドイツ各地の大学都市でナチの学生たちが、ユダヤ人著者の本を火にくべたのだ。炎が紙を引き裂くなか、シュミットは学生らの焚書を激励したばかりか、ナチスの地方紙でも記事を一筆書いている。そのなかで彼は、デカダン時代の「非ドイツ的精神」と「反ドイツの汚物」が焼かれたのは喜ばしい限りとして、国外生活者(著書の焼かれた人たち)の市民権を剥奪せよと政府に求めた。〈敵〉に通じているからというのがその理由だ。

(略)

「長いナイフの夜」事件が起こってしまう。ナチ内部で、裁判なしの処刑でもって反乱分子が粛正されたのだ。少なくとも党内の八十五人が殺害され、合計では百を超えたという。シュミットはこの粛正の正当性・合法性を速やかに擁護する。政治的殺人は「行政法の最高形式」として正当化されるとしたのだ。のちにゲーリングは、世界中の非難から総統を守ることこそ帝国法律家の義務である、と述べており、シュミットはこれに従い、「総統は法を護持する」という影響力の強い論文まで公表している。きわめて寛容な視点から伝記を書いたジョーゼフ・ベンダースキーでさえ、シュミットは「残忍な一党独裁の弁護人となった」と記しているほどだ。

(略)

 シュミットは出世を続け、ヒトラーの主席法律顧問となった。法哲学者としての専門知識のおかげで、彼はさらなる独裁行為にも法としての形を与えることができたし、そもそも彼のナチ哲学には、ドイツ民法からの〈人〉の排除という要素があった。シュミットはこう述べている。「憲法上の諸原則に闘する我々の考え方が、再びドイツの手に戻った。ドイツの血、ドイツの名誉がドイツ憲法の精神となった。そして国家は、人種の力と統一の体現者になった」

ハイデガー

 女性にとって、ハイデガーは魅惑的な人物だった。彼は当時人気の顔立ちで、映画でロミオを演じたレスリー・ハワードと、H・Hのジェームズ・メイソンを足して二で割った風であった。彼の魅力というのは、どこか悪そうな雰囲気、おそらく暴君特有の官能的な色気にあるのだろう。そして彼の哲学は逆に魔法のような不思議な世界で、この謎と力の絶妙な組み合わせが、女子学生・男子学生のどちらもを引きつけてやまないのだ。(略)

ひとりの女学生がおそらくはその謎めいたカリスマ性に心奪われるあまり、自分の命を投げうってしまったほどだった。

(略)

 彫刻入りの枠に大きなガラスのはまった窓のある総長室――そこにハイデガーは腰掛け、ナチ警察へ幾人もの同僚について破滅に追い込むような手紙を様々したためてゆく。そのなかには、のちにノーベル賞を取ることになる世界的に有名な科学者ヘルマン・フリートベルク・シュタウディンガー教授の調査をそそのかすものがあった。彼の罪とは、〈反戦論者〉のきらいがあることだった。ハイデガーはまた、この科学者がスパイかもしれない、というまことしやかな話さえでっち上げていた。(略)「とくにシュタウディンガーが今日、国民的な高揚の百パーセントの味方だと偽っているとなればなおさらである。退職勧告よりはむしろ免職が相当と考えられる。ハイル・ヒトラー ハイデガー」。

(略)

[軍事野外競技が必修となったことを教授たちが「時間の無駄」と反対すると]

悪評高い演説で感情を爆発させている。「国家のために闘うことが肝要なときに、時間の無駄であるなどと言うとは……いったい何ごとであろうか。危険が到来するのは国家のための労働からではなく、まさしく無関心と抵抗の態度からなのだ」。(略)

[ヒトラーが国際連盟脱退を示唆してすぐ]ハイデガーは語っている。「首相のこの言葉通り、他の民族がどのような道を行こうとも……我々は……茨の道を行くことを決心したのである。……我々は今、この決断の前提を知っている。それは、最悪の危険をも辞さぬ覚悟そして最後まで固く結ばれた友情である」。

戦後のハイデガー

[カール・シュミットの弁解]

「私が責任を問われている行為は、……本質的には多くの実り豊かな討論を生んできた学問的意見の発表というものである」

(略)

[ハンナ・アーレントはハイデガーについて]長らく触れずにいたが、戦後の1946年、公刊著作ではじめて彼の名を引き合いに出す。ハイデガーが「彼の恩師にして友人、その教授の地位を彼が引き継いでいたフッサールにたいして、学部への立ち入りを禁じたのは、フッサールがユダヤ人だったからである」、と。フッサールを解雇する書類に署名するくらいなら、ハイデガーは辞任した方がよかった、と彼女はたびたび語っている。「そしてこの書簡とこの署名が彼をほとんど死に追いやるところだったと知っているからには、ハイデガーを潜在的な殺人者だとみなさざるをえないのです」。

[50年ドイツに帰国しハイデガーと再会]

20年間自分に影響を与え続けた男を目に捉えたとき、内心は18歳の少女のそれへと戻っていたのだ。

(略)

「……ボーイがあなたの名を告げたとき(略)突然、時間が止まってしまったかのようでした」

(略)

 再会を経たアーレントは、その筆致を急激に変えている。〈殺人鬼〉は去り、その代わり天才が現れた。天才は、過去についてささいな詮索をされて煩わされるべきではないのだ。そのあとハンナは、現代哲学の様相を一変させる計画に手をつける。世界の檜舞台ヘハイデガーを復権させる手助けをしたのだ。その達成のために、よりにもよって彼女はユダヤ系出版社とのコネを使って、世界中で彼の本が手に入るようにしようとする。

(略)

 ハンナに加えて、予想だにしない思想家がもうひとり、ハイデガーの支援を始める。自由フランスのジャン=ポール・サルトルが、自身ナチスの戦争捕虜であったにもかかわらず、すでにハイデガー哲学を自分の思想に取り入れていたのだ。サルトルの大きな後ろ盾もあって、戦後の舞台にハイデガーはしっかりと返り咲くことができた。

(略)

 ナチ体制との関与について虚像を伝え、自分の協力がさも重要でなかったかのように見せかけ、罪の最大の証拠でもある著作や演説も細かく改竄・除外し、ハイデガーは無実の難解な哲学者の役を演じた。

(略)

詫びることも、ヒトラーの犠牲者の苦しみに同情を示すことも、一切なかった。ホロコーストヘの意見を求められた彼は、ユダヤの人々の失われた命など戦闘中に殺されたドイツ人と同じ、とばかりに発言し、さらには罪の懺悔を迫る周囲の圧力のなかでも、保守愛国の作家エルンスト・ユンガーを相手に、ヒトラーは自分の名誉を傷つけたと、ハイデガーは愚痴っている。「ヒトラーは私に謝罪すべきじゃないかね?」と逆に問い返してもいる。

迫害された学者の復帰は

 ナチの哲学者の大半が裁判を回避したとすれば、生き残ったユダヤ人思想家はどうなったのか。無事復職できたのか。国外に出た彼らはドイツヘ帰ったのか。

(略)

ヤスパースは、ユダヤ人の妻ゲルトルートのため〈汚染〉されていると、ナチスから指摘されていた。彼はありとあらゆる手を尽くして抵抗し、けっしてナチには屈さなかったため[失職](略)夫妻は、強制収容所送りといういつ終わると知れない脅威を相手に、恐怖が増すばかりの十年間をずっと耐え続けた。(略)

 1945年のヤスパースは楽観視していた。ドイツは元通りになり、かつてナチであった者は責任に問われるものと思っていたのだ。ハイデルベルク大学復興の責任者のひとりとなった彼は、その立場から、ナチの過去を持つ教授らの復職に反対した。だが、ヒトラーの支配下、存在を脅かされつつも長年生き抜いてきたヤスパースその人も、ナチ哲学者の多くが戻ってきたのを目の当たりにし、そして気付けば自分自身も無視されていたとあっては、打ちのめされざるを得ない。1948年、彼は母国を後にし、抵抗の意味合いから自分のドイツ市民権を放棄する。スイスのバーゼル大学に移った彼は、そこで残りの人生を過ごしたのだった

(略)

[帰国してみると]アドルノ一家の家は、ナチス時代に捨て値で売却されてしまっていた。(略)

ドイツに戻って暮らしたいという願いだけではどうにもならない。再び職に就くことが何よりもまず必要だったのだ。(略)ところが得られたのは、ホルクハイマーの代理という一時的なポストだけで、1950年まで依然として定職にはつけないままだった。大学は、ナチスにその職を追われた人間に対し、何の保障をする様子もなかった。

(略)

多くの亡命者同様、アドルノはドイツ国内に支後者とのつながりもなければ影響力もなかった。そして元ナチが大学に再登用されてゆく一方で、アドルノは大学に復職しようと頑張るが、それは実につらいものだった。アドルノのもとを訪ねたホルクハイマーは、「忘却することと冷ややかな欺瞞というのが、ナチスの相続人を最も好意的に評価している精神風土です」と指摘している。(略)

 ホルクハイマーの大きな助けもあり、またアドルノの出した本の高評価も相まって、とうとう大学もこれ以に彼を拒めなくなる。1957年、フランクフルトに戻った彼は、フランクフルト大学の正教授に就任する。元ナチのヘルムート・リッターは、教授会が終わったすぐあとに、大声で次のようなことを言ったという。フランクフルトで出世するには、ホルクハイマーの弟子で、ユダヤ人でなくてはならないのだな、と。それに激怒したホルクハイマーは、抗議として辞職してしまう。大学でなお続く反ユダヤ主義に腹を据えかね、ホルクハイマーは1958年に早期退職してしまったのだ。

 こうしてあとに残されたアドルノは、ユダヤ系ドイツ哲学の炎を絶やさないよう、ひとり奮闘することになる。

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2015-10-15 吉本隆明〈未収録〉第8巻その2 柳田國男 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


吉本隆明〈未収録〉講演集第8巻 物語と人称のドラマ: 作家論・作品論〈戦前編〉 (シリーズ・全集)

作者: 吉本隆明

出版社: 筑摩書房 発売日: 2015/07/08

柳田國男と田山花袋

柳田は田山花袋に批判的になったのは、『蒲団』[から](略)あれは「きたならしい作品」だというのが柳田國男のおもな批判の根拠でした。二十歳前後の青春期から仲のよい文学仲間ですから、田山花袋に会うといつでも、身辺とか家庭とか近親とかに素材をとって作品を書いて、自然主義を無理やり主義としておし通そうとするとそれに縛られて、かえってじぶん自身を窮屈にしてしまう、じぶんの方法をもっと拡げることをやったらどうだと批判していたと柳田は言っています。またそれに関連してじぶんは田山花袋と自然主義のかかわりについてかんがえるたびに、時代が人間を拘束する力がとてもきついものだと感じたとも述べています。つまり花袋はじぶんで築いた城のなかに立てこもり、自然主義の山の上にのったまま、そこからなかなかおりてくることができなくなった。おりてこようにも自然主義といえば花袋が象徴だとおもわれていることで、その思潮から出にくくなってしまった。いかに人間というものは時代に拘束されるものか、田山の生き方をおもうたびにそんな感想をもったと、柳田は述べています。

 柳田國男のうけとりようなのですが、自然主義は、どうして社会的不公平とか悲惨にたいする抵抗を文学の主眼にしないのか、田山花袋にたびたび話したが、自然主義にとっては社会に役立つか役立たないかは、文学の本道ではないとかたくなに固執していて、いつでも花袋に拒まれたとも述べています。

 どちらの言い分か妥当なのかは微妙ですが、このあたりから柳田国男と田山花袋との別れ道がみえてきます。ここの見解をおしすすめていきますと、一方で花袋に象徴される自然主義の本質的なところにぶつかってきますし、また他方で柳田國男の民俗学の方法みたいなところにつきあたっていきます。

 一方で柳田は、じぶんは世間からかけ離れたこと、世間の常識どおりの尺度ではないこと、あるいは世間が現実に役に立つとおもわないことでも、かまわずに気がつくと記録をとったり、かんがえたりしてきた。これは田山花袋や自然主義から学んだことだといっています。つまり社会に役立つかどうか、面白いか、面白くないかよりも客観描写も主観描写も含め徹底的に描ききってしまわなければならないとする花袋ら自然主義から学んで、民俗的な記録とか文章とかメモを固執して書きつづけてきたというのです。

 それからもうひとつ若い頃田山花袋から、いっしょに旅して、旅の仕方をおしえられたと述べている文章があります。(略)ある村をとおって、そこに関心をひくものがあると寄り道したり、二、三日でも一カ月でも滞在して、村人の生活や風俗習慣を見聞して、関心がみたされるとその村を出てゆきます。これが柳田のいう旅人なのです。[関心を持ちすぎて定住してしまうと旅人ではなくなる](略)

そこに定住して村人といっしょに生活し、耕したり、宗教をひろめたり、知識をひろめたりしながら、そこに居着いてしまうと、柳田國男のかんがえる旅人から外れてしまいます。(略)

柳田國男はいつも関心がおわればそこを出ていくというやり方をしていますが、それは若いときに田山花袋から学んだことだといっていいのです。田山花袋は旅行家であり、紀行作家でありました。柳田は花袋に誘われてよく旅をし、紀行文も書いています。その観察は風景だけでなく、土地の風俗や習慣や生活にわたっていますが、これは田山花袋から影響をうけたとても重要なところではないかとおもわれます。

(略)

[生活苦で飢え]じぶんたちを殺してくれと父親にせがんで、小屋の敷居を枕に子供たちは横になります。炭焼きはついフラフラとなって子供たちを殺しじぶんも死のうとするが死にきれないで自首してきます。柳田はそういう犯罪記録を役所で調べていて感銘をうけ、その話を田山花袋に語ってきかせるのです。柳田が書いているところでは、田山花袋はそれはとても特殊で、あまりに深刻すぎて文学にはならないといって、小説にすることはできなかった。自然主義は客観描写、現実暴露の悲哀みたいなことをいうが、その描写も現実もたいしたものではない、そう柳田は書いています。

 これは柳田國男の自然主義文学にたいする根本的な批判だったとおもいます。そうはいいながら青年期に抒情詩人として柳田國男の仲間だった人たちが自然主義文学の主流をつくっていきました。田山花袋、国木田独歩、太田玉茗、島崎藤村といった人たちがそうです。柳田国男はそういう人たちの作品に素材を提供しています。誰だってこういう境遇だったらこういうふうにしちゃうのじゃないかとおもわれる犯罪記録などを、感銘をうけると素材として語ってきかせるわけです。たとえば田山花袋に『一兵卒の銃殺』という作品がありますが、それはじぶんが提供した素材で田山花袋が書いたといっています。

(略)

 柳田國男にも反省はあります。自然主義文学のまえに現実を客観的におそれず描写することが重要だと最初に身をもって示したのは二葉亭四迷だと柳田國男は書いています。なるほどこういう描写の仕方があるものなのだと感心したけれど、好みからいうとどうしてもそれについていけなかったと述べています。小説というと、美男子と美女とが出てきて、恋愛を育んでゆくという才子佳人の活躍する物語という通念がどうしてもじぶんのなかにあって、現実暴露ということになると、ついていけなかったというのです。田山花袋たちの自然主義にたいする柳田國男の反撥もある意味ではとても根深いわけです。そこに柳田國男なりの「歌のわかれ」があって、じぶんの農政論や民俗学の方向にいく道をつけていったとおもいます。一方、田山花袋は美男と美女のでてくる夢のような物語が文学じゃないという道をつきつめていったわけです。そして自然主義文学が同時代のおもな思潮になるところまで、田山花袋を象徴的な担い手として移っていきました。

(略)

[『蒲団』のあらすじを説明し]

妻君が死んじゃったら、あの女をひきいれてということを誰も空想したことがないというのは嘘なので、どんな人でも空想することがありうる。それは万人に共通なものだというのが自然主義文学の確信のひとつです。もしそうだとして妄想のなかでやっているのだとすれば、それを描写してあきらかにすることくらいができなければ文学とはいえないのじゃないかというのが花袋らのもうひとつの確信でした。この二つの確信が『蒲団』のなかに含まれています。真っ当だというこの二つの確信が、柳田國男にとってきたならしく人間の卑小さを示すだけで、何の意味もないことにおもえました。皆さんはどうおもわれるでしょうか。文学という立場からは田山花袋の感じ方を肯定せざるをえないとおもいます。またそれを描くことも自由だとおもいます。文学にはその種の制約は何もないのです。

(略)

平凡な人間の卑小な行為もあまり崇高でない行為も全部真実であるかぎり大胆に描かなければならないという自然主義の理念、思想は、だんだんと私小説の身辺雑記みたいなところに凝縮していきます。でも日本の明治以後の文学が西欧近代に近づいてゆくためには一度はくぐるべき重要な理念、思想だったとおもわれます。

 柳田國男の自然主義にたいする批判は、いい点ばかりだとはおもわれません。社会の悲惨や政治の悲惨や制度の悲惨をみている柳田國男の場所はかなり特別な(特権的な)高みの場所だからです。つまり悲惨の真只中にいて悲惨を問題にしているわけではありません。

 さきの『山の人生』に描かれている悲惨な炭焼きの話もそうです。この犯罪を、柳田国男は敏感に反応して、悲惨が社会や政治の制度に原因があり、その場所にいれば誰にでも犯罪を犯す可能性がある自然権的な善だとみているわけです。柳田國男がこの悲惨の外に、むしろ裁くものの場所にいるということが、逆に悲惨にたいして敏感にしているともいえます。田山花袋が『蒲団』で描いている女弟子にまつわるゴチャゴチャみたいなことは、悲惨でも何でもない瑣末な出来事で、しかも主人公が賢明ならば避けられることかもしれません。しかし花袋にとって目の前におこったもっとも切実な課題だということで『蒲団』という作品は書かれていることはたしかです。花袋からすれば社会的事件でないから問題にならないとか社会的悲惨だから重要なのだという観点はないとかんがえられています。柳田国男の批判は一面では深刻な響きをもちますが、一面では外側の遠くにいて傍観しているからそういえるのだ、ともかんがえられましょう。もっといえば柳田國男はごく普通の人がどんな瑣末なことにあくせくかかずらわりながら生活しているのかほんとは知らないのだと花袋はいいたいのだとおもいます。(略)

[『蒲団』の]世評が高まれば高まるほど柳田國男は反撥して、もう『蒲団』の評判を聞くのもいやでしょうがないというふうになって、それから以後しばらく田山と行き来しなくなってしまった、しかしよくかんがえてみると、そのとき花袋は花袋なりに、自然主義文学は自然主義文学なりに成熟していった時期だとおもうと柳田國男は書いています。

行動的文体。柳田と田山、互いの影響。

『田舎教師』の文体は行動的な文体です。(略)主体が行動していることを主体が描いているという文体をもっています。(略)

 羽生からは車に乗つた。母親が徹夜して縫つてくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯、車夫は色のあせた毛布を袴の上にかけて、梶棒を上げた。何となく胸がおどつた。

[「清三は」と主語をつければ]記述者あるいは作者がひとつの場所にいて、清三という主人公が羽生から車に乗ったところを描写しているという文体になるはずです。ところがいまのようにいきなり「羽生からは車に乗った。」といったら、清三という人がじぶんの動作をそういっているように皆さんに(読者に)おもえてくるわけでしょう。(略)

「羽生から」のつぎに「は」という助詞をつけたのは文体上たいへんな意味があるのですが、「羽生からは車に乗った。」といったら、車に乗っている清三が単に乗っているじぶんを描いているふうにきこえるでしょう。つまり何をいいたいかといいますと、「清三」という主語を省いたことと、(略)この「は」をつけるかつけないかというその二つのことで、文体にふくみができるわけです。そのふくみがなぜできるかといいますと、客観描写のように清三が車に乗ったことを作者が描いているのだともうけとれますし、また「羽生からは車に乗った」というと清三が車に乗ることを清三自身が書いているようにもとれるわけです。その二つのうけとられ方の幅が読む人にふくみを与えるのです。

(略)

この作品の行動的文体が、柳田國男の『遠野物語』の文体とよく似ているということです。(略)

この種の文体で『遠野物語』を書いているばあい柳田國男はどんな主題をとり上げているかといいますと、たいていは里の人が山に行って、山人に出会って夢うつつのうちに奇怪な出来事に出あったということになっています。この特徴がなければ『遠野物語』は昔話を誰それから聞いて、記録しただけということになります。(略)

ここですぐに、柳田國男は『遠野物語』を書くときに花袋の『田舎教師』の影響をうけたといいたいわけではありません。またそれを確定することはとても難しいことです。

 また逆にこの『田舎教師』の行動的な文体は『遠野物語』の文体から田山花袋がうけとったのだということもなかなか困難です。

(略)

[『田舎教師』のもうひとつの特徴は]一種の「地名小説」だということです。それからもうひとつ野原に咲く花「花づくしの小説」なのです。それからもうひとつ、一種の「歴史地史を描いている小説」ということもできます。つまり、地名とか、野原の花の名とか、地勢地形のなかに一人の孤独な文学好きの埋もれていく青年教師をおいた物語といえるとおもいます。(略)

花袋は紀行文を初期の頃たくさん書いています。その紀行文の延長線でひとりでに花袋の初期の特徴がこの『田舎教師』のなかに出てきているわけで、この描き方は柳田國男がどこそこの地誌を描くときの描き方とたいへんよく類似しております。それもまた、どちらがどちらに影響を与えたと確定することは難しいのですが

太宰治

太宰治が、志賀直哉を『如是我聞』(略)の中で、「俺は読者にサービスしている。」志賀直哉っていうのは、ちっともサービスしていないじゃないか。いつでもエゴの絶対なところで自分の感想に似たものを書いて、それで愉快だったとか不愉快だったとかいう言葉で小説を書いているだけじゃないか。そう志賀直哉を攻撃しているところがあるんです。俺はそうじゃない、読者にどうやったらおいしい料理を提供できるか、ということをたえず考えて苦しんでいる。

(略)

 それからもうひとつはさきほども言ったとおり、倫理ということに関連するわけです。志賀直哉に対してお前の小説は詰将棋だ、つまり必ず詰むに決まっている詰将棋じゃないか、だけど俺のはそうじゃない、俺は詰むか詰まないか、いつでもわかんない、っていうそのおののきっていいましょうか、そういうのが俺の小説にはあるんだ。つまり俺はそういうふうにしか小説を作ってないと述べています。

(略)

いまでもその問題はとても切実なんです。誰か具体的に挙げられるといいんですが。例えば大江健三郎の小説はサービスのない小説なんですよ。だけど、例えば村上春樹の小説はサービスしている小説だと思います。もっと、例えば、村上龍はもっとサービスしていると思います。

(略)

[太宰の批判はある意味、当時より、現在の方がもっと切実で]

だけどあんまりサービスするとサブカルチャーのエンタテイメントになっちゃうぞ、という言い方まで広範に拡がっています。

(略)

 僕なんかに言わせれば、大江さんの『懐かしい年への手紙』なんていうのはもう文学じゃないよってことになりそうです。(略)ちょっと読んじゃいられないよ、これを本当に読んだ人がいたら、お目にかかりたいもんだ。僕を除いてはそんなにいないはずです。それほど読めない小説なんです。

(略)

僕に言わせれば、売文っていうことの最小限度の心構え、最小限度のモラルは、自分が旅芸人だっていう自意識です。つまんねえことを言って歩いて、それで金もらってるやつなんで、要するに普通の人の生活からどこかでそれちゃったんだ、そこのとこが後ろめたいんだっていうのが、たえずどこかにあるのです。だから普通の人っていうのが何なんだ、普通の人っていうのはどうなんだっていうことが、たえず気に掛かってしようがないはずなんです。

(略)

 大江さんの小説や言動に何が足りないかといえば、それが足りないんです。あの志賀直哉に何が足りないかっていえば、太宰治にいわせればそれなんですよ。つまり、どっかで、普通の人より上等だと思っているところがあるんですよ。志賀直哉にもあるんですよ。そんなことを俺は思ってないっていうかもしれないけれど、それはもう無意識の領域まで入ってきますからね。(略)太宰治がサービスって言っている部分には普通の人から自分は落っこってるっていう意識がものすごくあると思うんです。だからいつでも普通の人とか、普通の人の生活とか、健康な生活が気に掛かってしようがないっていうことがあると思います。それは僕に言わせれば、芸術がかつて芸術であった時代に本質的にあったもんなんです。それがまた、太宰治の作品を永続する古典にさせているし、いまの人たちに読ませている、何かだと思いますね。

 僕は、大江健三郎の『懐かしい年への手紙』などを誉めている批評家なんて、全くだめな野郎だっていう(場内、笑い)ふうに思ってます。つまり、しようがないやつだと思ってます。そんな作品じゃないんです。ちょっと読んで御覧になればいいですよ。何か海外的規模のイモじゃないかっておもいます(場内、爆笑)。これはイモの知識自慢じゃないか。こんなのが小説になるわけはない。つまりテキストからテキストヘ渡り歩いたっていうことを自慢たらしく書いたことが、どうして文学作品なのでしょうか。そういう問題だと思うんです。

(略)

メキシコ行ったとか、どこ行ったとかいって、何を頼まれて、こういうことをお話したとかって(略)

どうして文学作品になるかということが問われるべきだと思います。

 太宰治にもあります(略)新潟高校へ行って講演した時の、「みみずく通信」っていう作品などそうです。僕は好きな作品です。そういうことを書いただけなんですが、あれはりっぱな文学作品だと思うんです。イロニーが沢山ありますが、やっぱり自分が旅芸人だという思いがちゃんとあるからだと思います。それは、かろうじて芸になっています。

 しかし、志賀直哉はそれを、そういうふうに読めなかったんです。なぜかっていえば、真面目な人だからです。主観的に真面目な人で、自分を無意識に偉いと思っているからです。だから、この「みみずく通信」っていう作品を読んで、「俺は不愉快だった」と、こういうふうに批評をしたわけです。つまり不愉快だった。なぜかって、こいつは卑下しているように見えて、やつは新潟高校へ行ってしゃべって、そのことを自慢たらしく書いていると受けとったのです。

(略)

[それに対し太宰は志賀の「小僧の神様」こそ自慢話だと言い返した]

おごられた方の小僧さんの気持ちが、どういうものかお前は全然分かってない、わかろうともしない、お前の文学はいつもそうだと言ってるわけです。それに対して、自分の「みみずく通信」は、そうじゃない、お前は全然読み違いしているということを言っているのだとおもいます。

 そこの問題は、いまはその当時よりもっと切実なんです。いまは戦後すぐの時よりもっと、文学の世界、売文家の世界はもっとこわれているんです。そしてある意味じゃとても鮮明なんです。文章をひさいで食っているヤツと食わないヤツと、大いに食ってるヤツとそうじゃないヤツの区別は、とても鮮明になっていて、双方ともに居直らざるを得ないところです。そういう場面がみんなきついところなんです。

(略)

日本からメキシコから広島の原爆から渡り歩いて、おしゃべりして金貰って社会の木鐸というか、お手本になるみたいなことを文学作品のなかに書き込んだりしていると、そりゃもう思い違いだよ、ということがあると思うんです。

  • オマケ

月報8---「鮎川信夫と吉本隆明」瀬尾育生

[鮎川と吉本の交友が始まった]時期について年表を作ってみると――

48-49ベルリン封鎖 49ソ連初の核実験 50朝鮮戦争 53スターリン死去 54吉本「荒地詩人賞」 55ワルシャワ条約機構設立 56ハンガリー事件 58鮎川信夫解説『吉本隆明詩集』ユリイカ版……

 鮎川・吉本の出会いが、日本の無条件降伏から始まる「戦後」よりは、むしろ朝鮮戦争後の「戦後」、いいかえると世界のシステムが「冷戦」体制として構築されてゆく時間と重なっていることが見えてくると思う。

(略)

[十数回の対談の話題は]主題が何であれ、前面に出たり背後に隠れたりしながらつねに対話に情動の強度を供給していたのが、ソ連批判であり、その系統につらなる日本の左翼・進歩派のコンフォーミズムヘの激しい拒絶だった。

 二人の論旨を比較してみると、これは冷戦を過去のこととして見ている今だから言えることかもしれないのですが、鮎川さんにおいて「冷戦」という状況が、不断に変容をはらみながらも、はるかに長く――ほとんど摂理と言えるほどに――持続すると考えられていたように思う。だからこそ世界システムのなかでの米ソの核戦略とそのリアル・ポリティクスの分析にあれほどの情熱を傾けることができたし、また文学的関心を、このなかば永続的な世界観権力のもとで激しく孤立している人間像に対して、やはり永続的なものとして、向け続けたのだと思う。ソルジェニーツィンがつねに彼の関心の中心にあり、デルモア・シュワルツを主人公とした「必敗者」という作品が、詩人という存在の宿命的を語するものになっている。

 だが吉本さんにとって、認識は微妙に違っていたと思う。冷戦についての吉本さんの判断は、1963年の「非行としての戦争」あたりからすでに明確になっているのですが――もはや古典的な「戦争」も「平和」も存在しない。それら古典的な表象をたよりにした「反戦運動」も「平和運動」も意味を持たない。帝国主義的な平和と帝国主義的な戦争との「同在」こそが、情況の本質である。核兵器の高度化は世界の破滅の接近を意味するのではない。それは「平和の中の戦争」の高度化、《生産交通の収奪戦》の高度化以外のものを意味してはいない。したがって課題は核兵器の廃絶などではない。世界規模での《生産交通の収奪戦》の克服である……。

 20年後の80年代初め、吉本さんはこの姿勢の延長上で、80年代はじめポーランドの労組「連帯」の運動のなかに、あらたな世界秩序への展望を描くことになる。冷戦の変容と崩壊に向かっての吉本さんのコミットは終始具体的実践的なもので、30年後に社会主義圈が崩壊しても、50年後に核兵器の問題が原発問題に置き換わっても、変更する必要がないくらいの射程があった。

(略)

では鮎川さんはどうか?(略)日本語に翻訳される前の、早い時期のハンナ・アーレントが何度か言及されているのに気づく。アーレントやクリント・イーストウッドに代表されるもの。アメリカの共和主義。(略)鮎川さんが体現していたのは、冷戦の中で凍結されたアメリカ独立革命の理念だった。戦後とても早い時期から鮎川さんは、それを政治理念としてだけではなく、無名にして共同なるものの複数性――という詩作品形成の理念としてとりだしてみせた稀有な詩人、特異な革命思想家だったと思う。

 フランス革命の内在的批判から出発したマルクスを引き継ぐようにして、ロシア革命に対する批判を徹底し、それを突き抜けるように思想を展開した吉本さんと、アメリカ独立革命理念の流れを引く鮎川さんとの間には、革命の像を巡って、ほんとうは激しい齟齬が存在したに違いない。だが二人はともに20世紀前半の世界戦争の時代からやってきて、冷戦の時代をとおして「共闘」を実現した、日本戦後の革命思想の両極だった、と言ってみたい気がするわけです。

(略)

[月報9に続く]

2015-10-13 吉本隆明〈未収録〉第8巻 北村透谷 このエントリーを含むブックマーク


吉本隆明〈未収録〉講演集第8巻 物語と人称のドラマ: 作家論・作品論〈戦前編〉 (シリーズ・全集)

作者: 吉本隆明

出版社: 筑摩書房 発売日: 2015/07/08

透谷における倫理の開き方

まず第一に、「当世文学の潮模様」が割合いに初期のころに書かれていますが、この論旨はどういうことかといえば、いまの文壇を見回してみると非常に有能で、才能のある人が得意になっていい作品を書いている。しかし本当はといえば、いま得意になってそんなことを書いている時期かというのが、透谷がここで云っていることです。

(略)

 いま文壇でもてはやされている人たちの文学は、要するにときに応じて書いている風俗小説じゃないか、いまは得意になってそんなものを書いている時期ではないのだと透谷は云っています。じぶんの中にあるのは、そうではない。言葉で云うことはできないし、言葉で云うと何となく間違ってしまうような気がするので全然云えないのだけれど、要するに憤りだけはじぶんの中にあって、その憤りが何に対する憤りか考えてみると、涙が出てきてしまうほどだという言い方をしています。

 明治二十三年ですから、ちょうど時代が大曲りするときで、つまり自由民権運動がつぶれそうになっていて、その中のある部分は(略)ちゃんとした公党として名乗り出てしまうみたいになる。いわゆる非合法的な面とか直接行動的な面は全部だめになってしまって、どうしようもないというところにいました。たぶん透谷はそれを考えると、得意になっている連中の気持ちが分からないということを云っているのだと思います。

(略)

 そういう言い方は、透谷が初めに云って、透谷のいちばん素朴な倫理観、あるいは文学における倫理ですが、その素朴な文学の倫理というのは、素朴なためにかえってなかなか根強いもので、現在でも同じで、そういうことを云う人たちはたくさんいます。つまりアフリカに飢えた人はたくさんいるじゃないか、お前は食い放題、おもしろ半分に食っているみたいにしていてしようがないじゃないかみたいなことを云うやつはいっぱいいるわけです。それは非常に素朴な倫理なので、現在の問題は、僕にいわせればそういう素朴な倫理は単に素朴だからだめだというだけではなくて、それは悪だときっぱりと云わなければならない段階にあると僕は思っています。

(略)

 これを透谷がどこまで開いていけるかということが、透谷の問題です。つまり僕らが透谷の倫理を開いていく場合に、どういう筋道を通ればいいのかというのが、透谷における倫理の開き方の問題です。(略)

「内部生命論」がそれに当たるだろうと思います。そこで、じぶんは文学をやっているけれども、それは生命というのは何なのかということをいまの日本の文学の中に植えつけたいというか、そのためにじぶんは文学をやっているのだという言い方をしています。

(略)

内面性[内部生命]というのは(略)人間以外のものがつくった、つまり神がつくったものなのだ。(略)

 これはあからさまではありませんが、透谷の信仰告白だといえばいえると思います。透谷がキリスト教の神を本当に信じていたのかどうかは怪しいのですが(略)

 しかし、透谷が優秀なところは、倫理というものをもっと拡大して見せた点にあると思います。(略)

[ドストエフスキーの『罪と罰』]

 分別があり、知識があるラスコーリニコフがなぜ殺人の罪を犯したのか。(略)

その動機なき殺人はひとつの必然で、これを描いている『罪と罰』という作品は凄い作品なのだということを言い得ています。それは要するに社会が意識的に持っている善悪ではなくて、無形に持っているひとつの暗黒があって、それが人間をして動機なき殺人に持っていかせてしまうことがありうる。(略)

社会が動機なき暗黒というものをはらんでしまったことで、ほかのことはしないけど、考えることをしているというインテリゲンチャを生んでしまったし、また生んでいる理由なのだということを『罪と罰』から初めて導き出しています。それが透谷の倫理観のいちばん炸裂したというか展開した場所であるわけです。

 そういうところまでいくと、一種「内部生命論」の中で収まりたい、あるいは収めたい倫理観から少し透谷がはみ出して、いわゆる普通の倫理、善悪というものを超えたところに倫理のあるひとつのあり方を想定しています。また、そういう社会が出現するだろうということを想定していることを意味します。これが、少なくとも透谷の表現したものから倫理というものを最大限に引っ張っていったところで、僕らに見えてくる問題だと僕は思います。

(略)

 だから、いわゆる社会的善悪、あるいは文学的善悪(略)積極的な主題をとるのが文学だみたいなことを云っているのは、どうしようもないということになるわけで、倫理というのは最大限まで引っ張っていったほうがいいものなのだと思います。透谷はすでに明治二十年代に確実にそこまで倫理観を到達させているということがいえます。

 素朴なる倫理がなぜだめなのかと言い切れるか、あるいは現在言い切らなければいけないかということを説明してみせてもいいわけですが、そんなことをしていると僕の話になってしまいますから、僕が考えた透谷の自然観というところに急ぎ、入っていきたいと思います。

透谷の自然観

「天地」という言葉を使っていますが、要するに宇宙ということだと思います。(略)造化のかぎりなさというところから、何かを持ってこられる自然観が本当の自然観なのだ。

(略)

神が創造した天地から無限に汲み取れるものが自然であって、それを内面の問題とするかぎり、空の空を撃つということ、つまり精神の問題が本当の人間の問題なのだということを同時に云っていると思います。

 透谷はこういう自然観を、文学の考え方としても、また倫理としても、それから間接的ですが信仰の問題としても、初めて云っていると思います。だから愛山との論争は、効用性が文学にとって必ずしも第一義かどうかということの論争でもありますが、同時に透谷は内部的な生命を文学が重んずるかぎり、それは空の空を撃つ、つまり目に見えない無限の天地から汲み取るということ、それ自体が文学の本当の目的なのだと同時に云っているのです。

(略)

力としての自然という概念を(略)たぶんエマーソンから得ている概念だと思います。ところが(略)エマーソンとはまったく反対に使っています。(略)エマーソンが自然の力といっている場合は、きわめて肯定的な意味で自然の力を云っています。

 ところが、透谷はまったく反対の使い方をしています。目に見える社会であろうと、人間の欲望であろうと、あるいは人間の関係であろうと、何でもいいのですが、目に見えるものは、詩人に対して必ず圧迫を加えてくるものなのだ。もし自然が物質的な、あるいは社会とか目に見えるものとして自然というものが考えられるとすれば、それはやはりことごとく人間の心を圧迫するものとして機能してしまう、それが自然の力なのだといっています。だから自然の力に対抗するには、やはり目に見えるカではだめなのだ、空の空に相渉るような力を人間が持っていないと、押し寄せてくる自然の力に対抗することはできないという言い方で自然の力の意味を使っています。これはエマーソンとはまったく反対の使い方です。

(略)

自然を見ていると、人事のつまらなさを全部忘れてしまうという言い方で、信仰を肯定的にエマーソンはとらえているわけです。そこが透谷は非常に気に食わなかったところだと思います。

(略)

[透谷の方は]初期にあったゆとりのある自然観から、はるかに突き進んでしまい、もはや自然を力として考えた場合に、人間、特に厭世詩人を圧迫するものとしてしかないのだという言い方になってしまっています。

 そこが透谷の自然観の至り着いているところです。(略)

エマーソンは農場・農業は福音なのだという言い方をしています。いまのエコロジストが農業は福音なのだというのと近い言い方をしているでしょう。

次回に続く。


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2015-10-10 吉本隆明〈未収録〉第9巻 物語とメタファー このエントリーを含むブックマーク


吉本隆明〈未収録〉講演集第9巻 物語とメタファー

作者: 吉本隆明

出版社: 筑摩書房 発売日: 2015/08/06

  • 荒地派について

[四季派の立原道造、三好達治とかの抒情詩みたいなものが詩だと考えて育った年代だったので]

荒地の詩が出てきたときにびっくりしたわけです。(略)

現実に対するさまざまな体験というのをだんだん重層化して重ねていって、現実の体験に対する内面的な反応、あるいは内的体験を積み重ねていくということ自体が詩の言葉になってしまうということがものすごい驚きであって、このように詩というのは書けるものかというのをとても新鮮な驚きとして感じたわけです。

(略)

[鮎川信夫の「アメリカ」は]

それは一九四二年の秋であった

「御機嫌よう!

僕らはもう会うこともないだろう

生きているにしても 倒れているにしても

僕らの行手は暗いのだ」

そして銃を担ったおたがいの姿を嘲けりながら

ひとりずつ夜の街から消えていった

というようにして始まります。こういう言葉が詩になるのか、それからこういう体験が詩になるのかということは、三好達治の詩からも立原道造の詩からも想像することができないわけです。

(略)

[もうひとつは]一種のコラージュの手法というのが詩でできるのだということがやはりたいへんな驚きだったのです。(略)「御機嫌よう!(略)僕らの行手は暗いのだ」という、詩の中ではかぎ括弧になっていますけれども、つまりこれはトーマス・マンの小説の中の言葉です。これを鮎川さんが、云ってみればはめ込んでいるわけです。(略)所在不明なコラージュの文句がみんなかぎ括弧でたくさん引用してあります。

 それで、全部それが長編詩の中の一こまになっています。こういうことが詩でできるのかということがたいへんな驚きでした。

(略)

もうひとつ、詩というのは意識と無意識のひとつの流れであって、流れから始まって流れが終わったときには終わってしまいます。もっと違う言い方をしますと、内面的な持続というものが終わったときには一編の詩が終わってしまう。それで内面的な持続というのをある言葉を契機にして始められたら詩が始まる、あるいは詩が作れる。これは四季派の三好達治の詩でも立原道造の詩でも、中原中也の詩でもそうです。半ば無意識的に最初の言葉さえぶつけられれば、つまり出てくれば、そこから意識の持続といいましょうか、内面的な持続というのがあるかぎり、言葉で表現できるかぎり詩は成り立っていく。そして持続が終わったときに詩が終わる。

 そういうものが一般的に詩と考えられるとすれば、もうひとつ荒地の詩人たちが日本の詩の中にもたらした方法というのは何か。どう云ったらいいのでしょう、推敲可能な詩が書けるということです。

(略)

 もちろんこれは立原道造もやっています。立原道造の詩をすっと読んでみるとそんなことはやっていないように見えます。半ば無意識のように見えるわけです。一種の意識の持続の流れというものが詩なのです。

 ところで、そうではなくて流れを止めるということ。止めて考え込む、あるいは立ち止まること、立ち止まって自分が書いた詩の一行を自分でじっと見てみるとか検討してみるという詩の書き方が可能だということを初めて、少なくとも僕にとっては初めて教えてくれたのが荒地派の詩の特徴だと思いました。(略)

[自分が四季派の叙情詩を]模倣しながら書いてきた詩というのは、いずれもそういう半ば無意識というか、流れだけが問題であって、流れが尽きたときはだめだと、流れの最初の一行が出てきたらそこで続くかもしれないという詩ばかり書いていました。

 そうではないのだ。詩というのは一行一行立ち止まって考えたり、次の行は何にして、こうしたらいいか、ああしたらいいかということを考え込むことが可能だという方法を教えてくれたといいますか、展開して見せてくれたということがまた新鮮な驚きであるし、たいへんびっくりしたことなんです。つまりこれだったらやれる。散文と同じように詩というのはいろいろなことができると考えさせた問題です。

[荒地派後期に]僕らが加わっていったときには、多分、今から考えると行き詰ったと内部で感じられていたので、どこか新しい血を入れようと考えたのではないでしょうか。(略)

言葉が現実を引っかく、引っかいてえぐり取るみたいな感じで言葉を使うことができなくなってしまったのです。

(略)

荒地派の詩人のような言葉の使い方をして、それから共通の感性を持ち、初期のころだったら共通の語彙を持っている。例えば墓場とか死者・死の影・雨・遺言とか。戦争体験の影だと思いますけど、割合いに死というような体験、これはちょっと暗い体験の言葉なのですけど、そういう共通の語彙があるというのは、そういう現実の引っかき方、言葉の使い方を長年やってくることはたいへんなことなのです。

 何がたいへんなのか。現実を引っかく度合いに応じて自分自身の内面の崩壊というのを一種犠牲にしなければ、現実を引っかく言葉を持続することができないということがあります。

(略)

荒地派の詩人のように非日常的な現実体験の累積を内面化するというようなことばかり長い間やっていると、やはり一種の自己破壊という犠牲なしにはどうしても不可能となります。(略)

多分、精神的に晩節を全うしたのは、主たる荒地の詩人で鮎川さんだけではないかと思われます。あとは大なり小なり「アルコール飲まずにはいられねえよ」、要するに「ちょっとこれはかなわねえよ」というぐらいに、ものすごく精神崩壊の危機がいつでもあった。これが荒地の詩人たちの晩節だと思います。

  • 「物語性の中のメタファー」(寺山修司について)

メタファーであって同時に物語であるということは従来の近代短歌の概念では不可能であるとされていたことです。寺山さんはそれを『田園に死す』でやってしまったとおもいます。これは近代以降も日本の歌人がだれもやれなかったことですし、いまもやられていないことだとおもいます。メタファーの短歌は素材としては現実的ですが、寺山さんの『田園に死す』はメタファーであり同時に物語性である短歌を成立させてしまったとおもいます。『田園に死す』はその意味で隔絶した類例のない達成だとおもいます。

たった一つの嫁入道具仏壇を義眼のうつるまで磨くなり

老木の脳天裂きて来し斧をかくまふ如く抱き寝るべし

 これはフィクションだと思います。そしてフィクションだけかというとそうではなく、この全体がなにかの暗喩になっているわけです。この何かというのが寺山さんが言葉ではなく本質的に表現したいことなのでしょう。全部フィクションであり、何かのメタファーになっているという作品です。(略)

物語の短歌だけなら啄木の系譜の人は、現在の俵万智にいたるまでたくさん作られています。しかし物語の短歌で、それが何かのメタファーになっているというのはだれにも作られていないのです。いってみれば物語性とメタファーというのは短歌のなかでは少なくとも二律背反で、どららかをやろうとすればどちらかが捨てられるという関係にあります。寺山さんは何かの比喩であり同時に物語であるという短歌を、それは虚構の真実をあらわす短歌なのですが、なしとげたのだと私は考えます。

(略)

比喩と物語性を二重にさせている表現の背後にある「何か」とはひと口にいってしまえば「生まれ」ということ、具体的にいえば「母親」と「家」ということに対する寺山さん独特の思い入れで

(略)

[寺山さんは]既視感の体験を語りながら「これは自分が生まれる前に見た光景なのではないかと思った」という解釈をしています。(略)

[恐山の郷土史研究家に聞かされた話:ある男が自分は隣り村で生まれた気がすると言うと両親は]

「そんな馬鹿なことがあるか、おまえは私が生んだんだ」と言うんだけれども、隣村にいったら子供が言ったとおりのうちがあって、そこには十年くらい前に死んだ子供がいて、生きていたらちょうど自分と同じくらいになっているという。そういう話を寺山さんは聞いたと書いています。これもまたいまの既視感の話とつながってくるわけです。生まれ代わりの話になります。

 この話に寺山さんがたいへんな興味を抱いたということがあります。そういう理解の仕方をもう少し先まで引き伸ばしてみます。(略)

人の母親というのはたくさんいていいはずなんだ、自分を生んでくれた母親が母親だと思う必要はないということに結びつけています。要するに母親はたくさんいる、あるいは他人の母親をみてこの人は自分の母親だったことがあるような気がすると考えたって、既視感からはいいはずだということだとおもいます。

(略)

自分が少なくとも恋しくなるような母親のイメージというのは自分の実際の母親に得られなかった。そこで母親と同世代の人にそれを得たいとおもったり、自分と同世代の恋愛関係のある女の人にそれを得たいとおもったりという形で、寺山さんにはいつでも母親とか家とかいうものに対する憎悪と同時に、憎悪を裏返すと過剰な愛着がありました。この二つが寺山さんをあまり悪魔的にしなかったところでしょう。

偽感情

純文学とか現代詩とかそういうところに寺山さんは愛想をつかして、サブカルチャーの人と場面をいつも自分のなかに繰り入れてきた人です。寺山さんを否定的に評価する観点を見つけようとすると、たぶん寺山さんの作品の表現には偽感情があるということだとおもいます。つまり文学というのはフィクションであってもプシュードじゃないんだ、あるいは偽感情じゃないんだという言い方をすれば寺山さんを否定的に評価したい場合には、できないことはないとおもいます。だけどこれは言ってみれば純文学が至上であって最も進んだものだという観点にもとづいた言い方になります。

 寺山さんの作品にある偽感情が寺山さんのサブカルチャーに対する関心の大きかった理由だとして、それは寺山さんの本領なんだということができます。この偽感情がどう処理されているかということは、とても大きな寺山さんの特徴になるとおもいます。純文学の人にも偽感情はあります。ただ、自分には偽感情はなくて、真実の感情だけを表現しているとおもっているわけです。少なくともいま日本に流布されている純文学の作家だとか詩人はみなそうです。偽感情はあるんですけれども偽感情はもたないとおもっているわけです。

 純文学の人には自己欺轍という形で偽感情はあらわれます。寺山さんの場合にはプシュードな感情は真実を表現すればみなが白けてしまうだろう、言葉が凍ってしまうだろうという思い込みをもたらします。本来的にいえばそれがあるということが文学ですが、それは物凄く恐いんです。純文学の人は自己欺瞞としてそれがあるからあまり恐怖は感じないで、やっていられるのです。サルトルは一所懸命に自己欺瞞の質を哲学的に考えたわけですが、そういう追い詰め方ををするものは純文学とか純哲学には避けがたくあるとおもいます。これを言葉に表現したら読者はいなくなってしまうという「思い込み」が寺山さんにあって、それは俺はあまりに不幸に生まれたという思い込みと同じなのですが、どこかで偽感情を入れなければ、うまく人に提供できないということが寺山さんの文学の本質だとおもいます。

 寺山さんには思い込みの過剰がありました。その思い込みの過剰こそが寺山さんの資質の本来的な姿をあらわしていました。寺山さんを新しい古典として取り上げるのなら、この問題をよく突いてほしい気がします。  

俵万智

もちろん力量からして、ちょっと天才的なところがあるとおもいます。(略)短歌を物語にしちゃったということ。それから、挫傷感、屈折が少ないということ。すぐにいまの大勢の読者にうけそうな要素は数えられます。短歌だけに限らないんですが、文学の表現はいつも否定性ということを特徴とします。(略)

俵さんの歌はある意味で否定性を打ち消してしまったところに成立っています。それはとても大きな特徴だとおもうんです。そして、もしかするとこの特徴は短歌だけでなく文学全般が、現在当面している問題であるかもしれないのです。つまり否定性を打ち消すことが文学芸術の否定性の課題として成り立ちうるかどうかという情況が出現していることが現在の大きな問題なんじゃないかなという気がします。

2015-10-07 橋本治 失われた〜その2 子規、漱石 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


失われた近代を求めてIII 明治二十年代の作家達 (失われた近代を求めて 3)

作者: 橋本治

出版社: 朝日新聞出版 発売日: 2014/10/07

正岡子規

 明治の第一世代として生まれても、少年正岡子規を育てたのは、江戸時代以来の武士の教養である漢学で、十代の半ばまで、子規は漢字で考え漢詩を作るのが好きな漢学少年になっている。それが政治少年に変わってしまうのが、十六歳になった明治十五年である。

 その年は、前年に議会開設が決定され、自由民権運動とその弾圧が高まる時期で、小学校を卒業した北村透谷がプー太郎状態から自由民権運動に接近して行くような時期

(略)

 少年正岡子規が松山の中学で熱心に演説をしたり、自由民権関係の校内雑誌の創刊を計画したりする政治活動をしていたことは事実で、政治家志望で上京して来たのも事実である。「他に選択肢がないから」という理由で「政治家志望」を口にしただけの人が熱心に政治活動をするというのも不思議だが、明治の少年正岡子規にとってはこれが不思議ではなかった。正岡子規の「へんな選択」は、その後も続くからである。

(略)

 上京の二年後、十九歳になった明治十八年の正岡子規(略)が哲学にはまった理由は、簡単に説明出来るはずである。真面目な漢学少年だった正岡子規は、「説得力のあるへんな考え方」を知らなかった。ところが東京に出て来た子規は、叔父から四方山話の末に「聞いたことのない公理」のような話を聞かされて興奮してしまうのである。

(略)

 十代の正岡子規のおもしろいところは、いろんなものと遭遇して感動してしまうことである。(略)

 十九歳の春に「誰がなんと言おうと哲学」とその志望を変えてしまった正岡子規は、その年の秋になると、今度は「文学」と出会って衝撃を受ける。[継続刊行中の坪内逍遥『当世書生気質』](略)

哲学を目指しながらそれと対立するような詩歌小説にも引かれてしまう正岡子規は、「この相反する二つを結び付けるものはないか」と思って、詩歌書画の美術を哲学的に論ずる「審美学」というジャンルの存在を知り、「これだ!」と審美学の方に進んでしまうことになる。[またすぐ方向転換するが](略)

次に衝撃を受ける相手は、同年の幸田露伴である。

 正岡子規は、我が強いというか異様にプライドが高い。八歳年上の逍遥なら尊敬出来るが、それ以外の若い同年代の人間だと、なにをしても「知らぬものか」という態度でいる。(略)同年ながら既に帝国大学に進んで[文壇デビューして]いる尾崎紅葉の成功を、帝大の手前にいる正岡子規はどう見たのか?

《(略)其が非常の評判で世の中に持て囃されたけれ共、予は其を侮るのか妬むのか、敢て読まうとも思はずたゞ何事かあらんと済し込んで居た》

 早い話が嫉妬である。(略)

 「俺の方がもっと面白く書ける」は、単なる子規の自負心で、「二十三歳当時の文章は幼稚で人前に出せるようなものではなかった」と、その当時を振り返る子規は認めているが、妬みからではなく《本統に安心して仕舞ふた》と言うのはなぜだろう? 単純な話、それが正岡子規の「書きたい」と思うような小説ではなかったからだろう。だからその翌年になって幸田露伴の『風流仏』に出会うと、子規は全面的に降伏して、「『風流仏』のような小説を書きたい」と思うようになってしまう。[長編を書いて露伴に見せるも評価されず、小説を断念](略)

二十六歳の子規は、精神状態が不安定になり、友人に「この先はあまり露伴のことを言わないでくれ」とか、「僕は小説家になろうとは思わない、詩人になりたいんだ」なんてことを言っている。「自分は幸田露伴になれない」と思うことが、よほど悔しかったのだろう。正岡子規は、そうして俳人への道を進んで行く。

北村透谷が《粋》を嫌う理由

 江戸時代の遊戯性は萎縮して、かつてそこに「自由奔放」があったことはなかなか思い出されない。西洋文明を摂取する時代は大真面目になってしまって、「自由奔放」の入る余地がない。だから西鶴を取り入れて、尾崎紅葉は《一風異様な文体》と言いわけをして、にもかかわらずその文体は順当なものでもある。尾崎紅葉は、自由奔放であるには真面目で臆病すぎるから、終生自身の文章への検討を重ね、その前衛ではない「調和力」によって、一代の人気作家となった。そこが「文章がひねくれて難解」な幸田露伴とは違うところである。

(略)

 尾崎紅葉の『伽羅枕』と幸田露伴の『新葉末集』(特にその内の『辻浄瑠璃』)の二作は、北村透谷にとって、相当ショッキングな作品だったらしい。尾崎紅葉と幸田露伴は、北村透谷にとって小説の新しい時代を拓く書き手だったはずだが、その二人が揃って、北村透谷にとっては後ろ向きであるような《我が文学をして再び元禄の昔に返らしむる》作品を発表してしまった。

(略)

数えで二十五歳の北村透谷は近代青年で、もう江戸時代以来の旧弊が我慢出来なくなっている。北村透谷にとって《粋》というものはそういう古い美意識で、そんな時代遅れのものを、今更自分と同世代である一歳年上の尾崎紅葉や幸田露伴が拒絶せずに平気で書いているということが腹立たしいという一面はあるだろう。

(略)

 北村透谷は《粋》が嫌いなのだが、しかしその理由は、《粋》が「終わってしまった時代の古い美意識」だからではない。北村透谷が《粋》を嫌うのは、彼らしい筋の通った理由がある。《粋》という概念は恋愛に似ていて恋愛ではないし、恋愛にはなれない――そこが問題だ

(略)

 恋愛は人を愚かにして、クリアであってしかるべき人の視界を暗くする。そのネガディヴであるところが恋愛で、だからこそ「恋と哀は種一つ」と歌われる。一方の《粋》は、恋愛に溺れて惑う者を笑う――その一点で理性的なものである

(略)

[擬似恋愛を提供する遊郭で]本気の恋愛に陥ってしまった人間は、終始一貫、擬似恋愛を装いながら本気の恋愛を実践しなければならない。それが《粋》の一形態である。

(略)

『処女の純潔を論ず(略)』を書いた北村透谷は、当然のように、パッシヴで弱い女が好きだ。

(略)

《粋》は理性に属するものだから、これを最上の概念にしてしまうと、恋愛が成り立たなくなってしまう。

(略)

 しかし、江戸時代の町人が発明した《粋》という概念は、遊びのための根本ルールでもあって、北村透谷が目の敵にするようなものでもない。北村透谷は、尾崎紅葉と幸田露伴の有望なる同世代作家が、揃って遊里を舞台にする見事な作品を書いてしまったことに腹を立てて、「《粋》などという概念が未だに生き残っていることが間違いのもとなのだ」として、『徳川氏時代の平民的理想』という論を書いて発表してしまうが、事実はそれほど面倒なことではないだろうと思う。

(略)

 北村透谷にとって最上の女性のあり方は、「気高き処女が恋の想いに身を悶えさせる」というものだから(略)『伽羅枕』のヒロインのあり方に文句を付ける。

(略)

見方を変えればこの作は、「男性原理の支配する江戸時代に、恋愛などというつまらないものに縛られず生き抜いた女の痛快譚」というものにもなる。現代の女達なら、『伽羅枕』の主人公佐太夫を「男に縛られない女」として評価してしまうだろう。恋のもやもやの中に溺れてしまう女を書くことだけが「文学」ではないはずだが、「恋愛至上主義の方に行ってしまった日本の男」の元祖でもある北村透谷は、あまりそういう気づき方をしない。その点では、実作者である尾崎紅葉の方がずっと上で、『伽羅枕』に関してはこう語っている。

 《彼作は唯あれだけのことをづべらづべらかいたに過ぎない。幾等か油のゝツてゐた時でしたから、文章も艶麗(はで)にかいてあるので、世間はうけましたがね、実際は明治の文壇に出すべきものではない。明治初年頃の旧作家がかくべきもので、新しい教育を受けた小説家の筆を煩はすべきものぢやァなからうと私(わしァ)考える》

(略)

 前近代から脱した「近代小説」がまだろくに存在していない明治二十年代の前半に、尾崎紅葉は「新しい時代に即応した作品」を書かなければならないと思っていて、自分の書く『伽羅枕』を「こんなものはちっとも新しくない」と思っている。しかし、そうは思っていても「私はこういうものだって書けちまうしね」だし、「今の時代に出さなくたっていいものだけど、面白いからいいじゃねェか」くらいのことは思っている。

 明治の近代になって、男達は近代人になろうとする。近代人になろうとして高等教育を受けた男達は、もうそれだけで自分のことを「近代人」だと思い込んでしまう。しかし、女にとって「近代」などというものは、さして意味がない。女達の生活スタイルは、前近代の江戸時代にもう完成しているから、女達にとって「近代」などというのはどうでもいいもので、それは新しい着物の模様のようなものでしかない。中身が前近代のままの女にとって、「近代」というものは「もっと自由になってもいい」と呼びかけるものだ。だから、近代の女は自由になって「女」というものをよく知らない「身も心も近代であろうとした真面目な若い男達」を翻弄する。

(略)

 男は近代になって「近代人」になり、なろうとして、その必然にピンと来ない「近代の皮をかぶった前近代の女」に翻弄されている――そのように見えて、実は、自分が身に着けてしまった近代という衣装の窮屈さに身悶えしている。

夏目漱石

「自然主義」系の書き手が夏目漱石の書くものを「拵えもの」と非難するのは、夏目漱石の書くものが、自分達の書くもの、あるいは書かんとするものとどこかで重なると思えるからだ。『三四郎』以後の夏目漱石の書く「苦い小説」は、「自然主義」作家の内実に響いて、しかし彼等に「俺の人生はあんな風にうまく収まらない」と感じさせる。だから「拵えもの」と非難する。それを夏目漱石は右の文章できちんと一蹴しているのだが、しかし不思議なのは、どうして夏目漱石が「俺達とどこかで抵触している」と「自然主義」系の作家達をイライラさせるような小説を書いているのかということである。

 「拵えもの」なら、「自然主義」と抵触するようなしんどいものを書かずに、もっと気楽なものを書けばいいのにと思う。『三四郎』の二年前に完結した『我輩は猫である』や『坊っちゃん』を、夏目漱石は楽しみながら書いていた。それがいつの間にか変わったが、夏目漱石は私小説作家ではない。だから、彼の「苦い小説」が彼自身とどう重なるのかはよく分からず、見る人にとっては「他人事の拵えもの」になる。

(略)

 夏目漱石は、近代にやって来られた日本も、日本にやって来た西洋の近代も好きではない。英文学者になってしまった夏目漱石は、西洋の近代の中に自分の望むものなどなにもないことを知る。(略)

初めは、その近代のありようをからかって、『吾輩は猫である』とか『坊っちゃん』を書いていた。

(略)

放っておけば、自分は生きていたくない。「己という病」を重々に承知していればこそ、夏目漱石は「則天去私」を言う。

(略)

自分は現実に生きて、現実に生きるということは「他人と共に生きる」ということだから、夏目漱石にとっての重要な命題は「他人はどう生きるか」になる。だからこそ彼は、自分とは関係のない――ある部分で自分とは重なるかもしれない「拵えもの」の他人を小説に書く。文章を書くこと自体が好きだった彼は、その結果つらい方向に進まざるをえなくなる。

あとがき

 読みにくい明治二十年代の文章を読んでいて思った。書き手はみんな若い。幸田露伴も尾崎紅葉も、二十三歳でプロ作家としてデビューしている。その若さは時代の若さでもあろうかと思ったが、引いてふっと考えると「海のものとも山のものとも知れない二十三歳の若者を平気でデビューさせた出版社があった」ということになる。

(略)

 日本には江戸時代以来の出版文化があるにしろ、「その業界が“新しいものを出してみよう”と思うのはどういうことだろう?」と私は考えて、少し呆然とした。その「進む先」がなんであるかがまだロクに分からないにもかかわらず、小説に対して「それは必要だ」と思って期待をしてくれた人達が大勢いたのだ。その「期待」があったればこそ、多くの作家達が雑誌編集の側にも回った。創刊された『都の花』の編集担当者は言文一致体の書き手だった山田美妙で、森鴎外や幸田露伴も別の雑誌で編集の仕事を受け持っている。雑誌の編集こそしなかったが、夏目漱石だって朝日新聞の文芸欄の担当をしていた。それはつまり、これから生まれる「新しい文学」に対して、みんなが期待をしていたということだと思う。近代日本文学の初めにあって、その後に失われてしまったものは「人の期待」だったのかと思うと、私は言葉を失ってしまう。

2015-10-05 橋本治 失われた近代を求めて〜北村透谷 このエントリーを含むブックマーク


失われた近代を求めてIII 明治二十年代の作家達 (失われた近代を求めて 3)

作者: 橋本治

出版社: 朝日新聞出版 発売日: 2014/10/07

北村透谷

神奈川県臨時議会の書記となって金を得た透谷は、満で十五歳数えで十七歳の時期に、八王子の遊廓へ入り浸りになっている。そこで金がなくなると横浜のグランドホテルでボーイになって働き、東京専門学校(後の早稲田大学)の政治科に入学し、多摩の地で自由民権運動に加わる。妻のミナは、その自由民権運動の基地となるような豪農の娘だが、やがて追い詰められた自由民権運動が過激化して、満で十六数えで十八歳の北村透谷は闘争資金獲得のための強盗をやるように同志から持ちかけられ、そのあり方に疑問を感じて自由民権運動から離脱する。その離脱に際して透谷少年は頭を丸めたというから、彼はかなり傷ついていたはずで、それからすると北村透谷は、近代最初の「挫折した少年」ということにかる。

 「遊郭に入り浸り」ということを経験した透谷の結婚は、「性的飢餓感から女にフラッとなっての結婚」というものではない。「年頃だから身を固めろ」と言われた結婚でもない――それにしては若過ぎる。

(略)

三歳年上の石坂ミナ(略)は、当時最先端であったキリスト教のミッション教育を受けたエリート女性でもあって、他に婚約者がいたにもかかわらず北村透谷の求愛を受け入れた、《やは肌のあつき血汐》と「あつき血汐の頭脳」を兼ね備えた女性だから、いくら「恋愛の必須」を訴える厭世詩家の北村透谷だとて、妻に当たり散らして家庭を破壊するようなことをしない。かえって逆に、その家庭を守ろうとして働き、刀折れ矢尽きるような形で死んでしまう。ある意味で、北村透谷は、「恋の素晴しさだけを歌う浪漫主義の詩人」とは対極的な存在である。

 《戀愛は人世の秘鑰なり》(→『厭世詩家と女性』青空文庫)と言われて、恋に憧れ恋に後ろめたさを感じていた若者は、「おおッ」と思い身を乗り出すだろう。しかし、北村透谷は恋に憧れる男ではない。《戀愛は人世の秘鑰なり》と言われてうなずく男でさえ、実体験のないまま恋に憧れるだけのことが多かった時代に、既に北村透谷は《秘鑰》を我が物としてしまっている。「恋への憧れの心」が「浪漫主義」を生んだのかもしれないが、北村透谷は違う。彼が「浪漫主義の人」であるならば、北村透谷はそこに存在することによって、「浪漫主義」の変改を迫るような人でもある。

(略)

 『楚囚之詩』でデビューしながら、北村透谷はいつの間にか詩人ではなくなって、文芸評論家というものになっている(小説も少しは書くけれど)。(略)彼の評論の中心にあるのは、「そうじゃない、それは違う」と言う明確な声で、「じゃどうすればいいの?」という問いに彼は答えない。

 『厭世詩家と女性』はまさにそういうもので、前半では「恋愛は人の世の秘密を解く鍵である」と言って恋愛を肯定し持ち上げ、後半になると打って変わって、「恋愛の素晴しさを知っている厭世詩人が結婚すると、その恋愛の対象だった妻は俗の権化となる」と言って、「詩人の妻なんかになったら大変だ」と結ぶ。こういうものを『女学雑誌』という女性誌に発表するのだから、文学に関心を持つ女性読者は、「じゃ、私はどうすればいいの?」ということになるだろうが、これに北村透谷は答えない。ただ「現実はそういうものだ」と言うだけなのだが、それが北村透谷で、だからこそ彼は、「そうじゃない、それは違う」と言い続ける。「じゃ、どうすればいいのか」と「その先」を提示する前に、「現実のここが違っている」ということを指摘し続ける。北村透谷はある種の理想主義者だが、その理想の前に横たわる現実の歪さ――現実認識の至らなさ、歪さを衝き続ける。

(略)

 「いやだ、いやだ」の十五歳が終わると、(略)[書記]、横浜のグランドホテルで英語を学習するために働き始め、別のところで速記法も習って、遊郭通いも覚え、前年に創立されて坪内逍遥が講師になっていた東京専門学校の政治科に入学するが、すぐに中退。数えの十八歳になって、過激化した自由民権運動から頭を丸めて離脱して、同じ東京専門学校の英文科に再入学するが、これも長続きはしない。

 当時の作家の多くは「しかるべき学校を出てそれなりの職を得る」というコースを辿るが、北村透谷はインディペンダントでフリーなライターであり編集者に終始する。そのことによって生活苦に喘ぎもするが、小学校在学当時からフラッと家出をして旅に出てしまうような北村透谷にとって、学校ではなく現実の中で学ぶ風来坊的な人生は、人にとやかく言われる理由のない、当たり前のことだったのだろう。

 そういう小学校を卒業したばかりの少年の前で、自由民権運動は徹妙に性質を変えて行く。板垣退助は暴漢に襲われ、福島県令の三島通庸は自由党員を徹底的に弾圧する。議会開設を目的として来た運動が、開設の約束を勝ち取ると、議会開設までにまだ間のある中で、自由を弾圧する専横的な敵と実力で戦う方向に進んで行く。自由民権運動が先鋭化して行くのは当然の成り行きだが、それはまた政治家を志す少年にとっては、政治が分かりやすくなって行く道筋でもある。

「文人のすることは事業じゃない」と山路愛山にブチキレ

《事業》という言葉に込めた独特の意味を説明するのに《心霊》というおどろおどろしいような言葉が登場するのは、頼山陽や荻生徂徠を論ずる「史論家」と言われた山路愛山が、一方ではキリスト教の牧師でもあったからで、山路愛山と北村透谷の親交の仲立ちをしたのはキリスト教なのである。(略)

山路愛山のこの文章を読むと、依怙地に凝り固まってヒステリックになってしまった北村透谷の哀れさが透けて見える。

 『頼襄を論ず』の当該部分を読めば《事業》という言葉がかなり特殊な使われ方をしていることは分かるし、「頼山陽の偉大さと影響力を称えるために《事業》という言葉を使ったのか」ということはうっすらと分かる。北村透谷ならそれくらいのことは分かるだろうが、それを曲げて「文人のすることは事業じゃない。文人のすることは人の内面に関わることで、お前の言うことを借りれば“空を撃つため”だ」と怒ってしまう。更には、山路愛山が史論家であり評論家であって詩や小説を書く人間ではないことから、「俺とお前は違うんだ。俺は純文学だが、お前は非純文学だ」なんてことまで言ってしまっている。デビューした頃の北村透谷は、こんなことを言う人ではなかったはずである。

(略)

 北村透谷が、近代初めの「小説バブル」と言いたいような状況を作り出している作家達を《歓楽者》と非難するのは、《彼等世外に超然たり》ということになっているからである。彼等は現実の外に超然として、いやな現実を見ない(略)「上から目線で空回りしていることを自覚していない」と言っている。(略)

この彼の論調は、三年後に彼を激怒させる山路愛山の言うところとほぼ同じである。《文章即ち事業なり。文土筆を揮ふ猶英雄剣を揮ふが如し。共に空を撃つが為めに非ず》(略)というような山路愛山の言葉は、この時の北村透谷が言っておかしくないことなのである。

(略)

[二ヶ月後の]『時勢に感あり」は、『当世文学の潮模様』より一歩進んで「世の中に生きる他人達のことを考えてやれよ」と言うものである。

 『当世文学の潮模様』では「皮肉な独り言」のニュアンスを持っていた透谷の怒りは、ここでもっとストレートになって、当時の書き手達(明治23年段階では、坪内逍遥でさえやっと三十の坂を越したくらいで、みんな若い)に訴える――。

(略)

《人は魚の如し、暗らきに棲み暗らきに迷ふて寒むく食少なく世を送る者》なのだから、我が身の不幸を嘆かざるをえない人は《幾百万》もいる。だから、「どうして彼等の方を向いて慰めてやろうとしないのか? 彼等が求めるのは侮蔑でも冷笑でもなく、温かい一滴の涙に象徴されるシンパシイだ」と、北村透谷は言う。これは「文章が空を撃つようなものであってはならない」と言う人の発言であるはずである。

[それがなぜ三年後に変質して、「“事業”なんか糞食らえだ。俺は空の空を撃つことに誇りをかけている」と言うようになるのか。]

宗教と《個人的生命》

[『今日の基督教文学』]は、宗教の外にある文芸雑誌に発表されたものではない。宗教の機関誌でもあるようなものに発表されたものである。そう思って見れば、微妙な違和感を感じ取ることも出来るだろう。北村透谷は、「宗教や哲学は文学より上」と考えてはいないのだ。「文学は宗教より上」であって、宗教は哲学と併置されるようなものである。ここには「宗教の優越性」などがない。だから、「布教の為に文学を利用しようとしても無駄だ」ということが、逆転した形ではっきりとは書かれている(略)

 北村透谷にとって、宗教というものは、《文学の舞台にまで達し》て、やっと《社界の一動力》となりうるものである。(略)自分の編集するキリスト教系雑誌の中で至ってクールに、「宗教自体にそれはどの力はない」と言ってしまっている。

(略)

 自由民権運動に挫折した――と言うよりも、変質した自由民権運動に絶望してこれを去った北村透谷の中に、「社会変革の意思」がないはずはない――、『当世文学の潮模様』の中で「自閉した文学空間の中ではしゃいでいるだけでいいのか」と言った北村透谷が、《事業》の語に嫌厭を示す理由などない。しかし、「前向きな《事業》ばかりやっていたら、《個人的生命》はどうなるのか?」――そう考えるのが北村透谷である。だから、北村透谷は「社会運動家」にも「宗教家」にもならず、「文学家」であり続けた。北村透谷の「変質」あるいは「混乱」の根本にあるのはこの問題のはずで、これこそが近代日本文学の混乱の因だろうと、私は思う。

(略)

 北村透谷は、彼なりに「人は皆同じ」を考える。たとえばそれは、「霊性」と言われるようなものである。キリスト教的には「霊性」だが、仏教的には「仏性」である。「そういうものが人の根本にある」と考えれば、「人は皆同じ」が成り立つ。山路愛山の言葉を借りれば「心霊が心霊に影響を及ぼす」が可能になって、人と人の間の壁が取り払われる。社会変革の一々は面倒な大事業だが、人の中核にあって埋れている「霊性」のようなものを目覚めさせれば、一挙に「みんなが平等な社会」が出来上がる――という考え方だって存在する。社会主義国家の国民に「学習」が必須だったのもこのためで、北村透谷のキリスト教への接近は、「みんなが同じ」を達成する理論の可能性を考えてのことではないかと思う。

 しかし、「皆同じ」になって、北村透谷は嬉しいか? 北村透谷の中には皆と違う固有の欲望――《個人的生命》もあるのである。

次回に続く。

2015-10-03 戦争画とニッポン 会田誠&椹木野衣 このエントリーを含むブックマーク

本編の対談より巻末の作品短評の方が面白いような。


戦争画とニッポン

作者: 会田誠 椹木野衣

出版社: 講談社 発売日: 2015/06/24

戦争画の印象

会田 正直な感想を言うと、ちょっとこう、「がっかり」というところがありましたね。ネタ探しに行っていた当時の感覚としては、戦争画を見れば、何かすごい、エグい絵がいっぱいあって、それをちょっと現代風に味つけしたら、コロコロやばい作品が作れるんじゃないかというような下心もあったんです。要するに、ちょっと大げさに言えば、今の漫画で言えば、駕籠真太郎さん的な作品にでも、すぐに置きかえられるような、鬼畜米英まっしぐらで、かなり偏ったイデオロギーに染まった、ひどい絵があるかと思っていた。ところが、蓋を開けてみたら何て言うんですかね、どれもやさしい。だから、「本当の戦争画はやさしい絵が多いな」というのが第一印象でした。

(略)

たくさん見た戦争画の中で、特別に、僕を良い意味で「ムラムラさせた」のが藤田嗣治の《アッツ島玉砕》だったんです。

(略)

先ほど「暗い叙情」と言いましたが、僕には太平洋戦争に対して漠然と抱いていたイメージがあって、それはひと言では言い表せない、非常に混沌としたものなんですが、最初に《アッツ島玉砕》を見た瞬間に、「ああ、これは近いかもしれない」と思いました。(略)

あのやるせない暗さ、そこに蠢くパッション、根深い日本人の血、近代戦の理不尽な死……そういったものすべてをひっくるめて、「人間の宿痾としての戦争」のどうしようもなさが描かれているように思いました。戦場のひとコマを描いたスナップ的でレポート的な戦争画が多い中、藤田だけは太平洋戦争全体を総括するような、巨視的な視点を持ち得ているように思います。


輝け!大東亜共栄圏

作者: 駕籠真太郎

出版社: 太田出版 発売日: 2013/11/01

椹木 (略)一方、アメリカは「コンバット・ペインティング」という戦争に特化したポピュラーなジャンルがあります。画壇のトップにいた画家たちが動員された日本やイギリスの場合とは違って、これは、西洋美術史の王道からかなり距離のあるものです。その筋の職業画家たちが手掛けたもので、かなりペンキ絵的というか、屋外のビルボードに描かれる広告絵のようなところがあります。日本での日清・日露戦争の戦争画でも似たような傾向が強いです。これは戦後になっても同様で、戦争を主題とする絵は通俗的で、いつも一段低いものとされてきました。戦中には戦争画を手掛け、藤田に激賞された小松崎茂の描いたプラモデルの箱絵なんかが典型ですが、そうでなくても丸木夫妻の《原爆の図》なんかの扱いにも、同じことが言えるのではないでしょうか。それを考えると戦争記録画のほうが特別なんです。日本の近代美術で一瞬だけ、戦争画が美術の代名詞になり得た時期があったという意味で。

会田 その筋の画家、という話で言えば、戦争画ではありませんが、社会主義リアリズムの時代には、国家の発注を受けて、ものすごく腕の立つ画家たちが大画面の作品を作ったりしていましたね。

椹木 確かに、日本でも戦争画の影響がいちばん残ったのは、日本共産党指導下の絵かもしれません。べたべたのリアリズムで、労働者が団結した群像図を志高く描く。構図だけ見たら、戦争画とほとんど区別できない。これはソ連のスターリン期以降のリアリズム芸術もそうですし、中国の文化人革命以降や現在で言えば北朝鮮なんかも同じですね。しかし、戦時中には軍部を批判していた共産党が、戦後は旧軍部と同じ様式で資本主義との「戦争」画を描かせるとは、何とも皮肉です。

会田 中国で今、ものすごい高額で売れている、成功した現代のペインターには、基礎的なデッサンを描かせたら非常に上手いという人が、たぶんたくさんいます。彼らは北京中央美術学院という難関美大卒のエリートが多いのですが、そこの先生たちは社会主義リアリズムをみっちりたたき込まれた世代と聞きました。

椹木 画家としての個性でさえブルジョア的な悪徳だとされ、徹底的に無個性だけど超絶的な写実技法を叩きこまれた世代ですね。

会田 口をにかっと開いて笑った男の絵で有名な岳敏君は、何かワンパターンのような感じで描かれていますが、あの手の人たちは、相当基礎デッサン力高いですよね。(略)こっちなんか到底歯が立たない、という感じがします。これは僕の主観ですが、日本人の戦争画、あるいは巨大な歴史画に漂う絶対的な不得意感というのは、ばかばかしい言い方で言うと、やはり肉をあまり食ってない感じだと思うんです。

(略)

日本人の戦争画はやっぱりやさしい。当時の美術雑誌をぱらぱらと見ていても、画家たちが現地でささっと描いたような、ちょいとしたスケッチのほうが、生き生きとしているような気もしますし。日本人は文学でも重厚な長編よりエッセイ的なもののほうが得意だったりするので、戦争画も、ふと詠む俳句のように「墜落した飛行機の残骸は哀れを誘うなあ」みたいな淡彩画のほうが、得意な感じもするのです。だから日本の戦争画を見る面白さのひとつは、もしかしたら世界でも一番、戦争画に向いていない民族がやろうとした、ということかもしれません。戦争画を見せるとアジアの人を傷つけるという理由で、タブー視されているけれども、むしろちゃんと見せたらいいと思うのです。もしかしたら、「ここまで向いてなかったか」「そりゃ戦争に負けるわ」と言われるかもしれません。

  • 巻末作品解説

宮本三郎『萬朶隊比島沖に奮戦す』

▼上手いと思います。というか、写実画家としての本能に純粋に従っている感じがします。近代戦で初めて現れた、自然な雲や波とは違う、けれど規模的にはそれに匹敵する、人工的な煤煙や海面の盛り上がり。たぶん軍から与えられた写真資料を、目をキラキラさせて凝視しながら描いたんじゃないかと想像します。(会田)

岩田専太郎『特攻隊内地基地を進発す』

▼日本画家というよりは挿絵画家として活躍し、名うての美人画の担い手であった岩田ならではの戦争画だ.戦前は江戸川乱歩、戦後は松本清張の挿絵を手掛けた岩田の絵は、男たちだけの世界を描いてもどこかエロティックで、戦意を感じさせる以前に匂い立つような色気がある。(椹木)

▼確かに、例えば軍歌「同期の桜」がもともとは少女雑誌に載った男色をほのめかす詩から来ている、といったエピソードを連想させるような絵ですね。戦後も人気挿絵師として引っ張りだこだったこの浅草のモダンボーイは、戦後重たいものをじくじくと抱え続けた油絵画家たちとは、やはりもともと人種が違った、という気がします。(会田)

川端龍子『輸送船団海南島出発』

▼伝記的事実は知らないですが、画面から「精神的マッチョな男性的表現者の系譜に連なる人」とお見受けしています。近代兵器の構造美に着目してスケルトンの戦闘機を描いた《香炉峰》とか、自分んちの庭の吹き飛ばされた植物を英霊にオーバーラップさせて描いた《爆弾散華》とか、彼の戦争画は自身の全キャリアの中でも出来の良いものが多いと思います。直截的に戦闘を描くことを日本画家のプライドに賭けて避けつつも、ある意味戦争画ともっとも相性が良かったという、不思議な存在感の画家ですね。(会田)

古沢岩美『斃卒』

▼戦争画を描いた主要画家たちは同じ「従軍」でも絵描きとして派遣されたが、古沢は一兵卒として「従軍した画家」。初めから画家として派遣されたわけではない。中国戦線で古沢が見たのは、24万の兵のうち8万が飢え死に、コレラで絶命する地獄だった。「戦争記録画は本当の戦争を描いていない」――古沢は戦後、この絵でそのことを証明した。(椹木)

▼日本軍は兵站補給を疎かにする悪癖があり、戦死者のうち圧倒的多数は餓死者だった――という話をよく聞きます。救いのないやるせなさを感じさせる話です。そしてこの画家は、不勉強のため存じ上げなかったのですが、そのやるせなさに呼応する絵を戦後いくつも描いているんですね。直接戦争とは関係ないエロチックな裸婦の絵であっても、なんともねちっこくギラギラしていて、従軍体験の爪痕を感じさせます。(会田)


戦争と美術1937‐1945

作者: 椹木野衣,蔵屋美香,河田明久,平瀬礼太,大谷省吾,針生一郎

出版社: 国書刊行会 発売日: 2008/01/25

フジタフジタ 2015/10/04 06:52 いいタイミングの紹介ですね、来月、劇的な戦争協力画を描いた藤田嗣治をあつかった新作映画「FOUJITA」が上映されます。フジタは戦争画でも裸婦でも一貫して遠近法ではなく、距離を無視した強力に手元に引き寄せる、感触の描法が圧倒的です。それをフジタは「触れるような手応えがなければ描けない」といっています。

kingfishkingfish 2015/10/04 19:37 公式サイトの予告観ました。
評伝かなにか読んでみようかなあ。

フジタフジタ 2015/10/04 21:42 パリでは日本画の手法で西洋画の伝統である裸婦を描き成功したフジタが、大東亜の理想が叫ばれる日本では西洋画の技法で戦争画を描いた、この矛盾、ねじれはとても興味深いです。

kingfishkingfish 2015/10/04 22:57 この本の中で会田氏が、玉砕図のぐちゃぐちゃ感が戦後フランスで出たアンフォルメルだ、パリ美術界の流れを察知してたんじゃないか、と夢想してました。

フジタフジタ 2015/10/05 08:31 玉砕図は近くから見ないとたしかにぐちゃぐちゃです。ボードレールがドラクロワ論で何が描かれているか遠目にはわからないが近寄ると意味が明確になる、でもドラクロワの色彩はその意味とは別のところで形成される、色は色だけで様々な感情を引き起こす力をもち無数の効果をうむ、絵画はそうした関係性だけで成立するといいます、ボードレールのこの理論は、後にカンデンスキーやクレーがバウハウスの講義で展開しようとしていた抽象絵画にそのままつながっていきます。

kingfishkingfish 2015/10/05 18:32 なるほどー。勉強になりました。

2015-10-01 負けない力 橋本治 このエントリーを含むブックマーク

本が書けるくらい元気になっているのでしょうか、ということでそれ以上は望まないというか。

全然関係ないけど、往年のビートたけしにシビレた劇団ひとりがオモクリで「たけしさんの面白トーク……のはず……」と固まった笑顔に……的な。昔を知らない若い奴に、たけしってどこが……、とかは言われたくないと握りしめた拳は汗ぐっちょりみたいな。


負けない力

作者: 橋本治

出版社: 大和書房 発売日: 2015/07/09

第一章 知性はもう負けている

レクター博士のように(略)「頭がいいだけのへんな人」(略)には、自分の「異様な欲望」をコントロールする能力がありません。だから、「異常な犯罪者」になったとしても、頭だけは無駄にいいので、「自分のやったことの正当性」などを平気で口にします。そのようにキャラが造形されるのです。

 人間が社会生活を営む上で必要なのは、自分の欲望をコントロールすることです。実際にそういうコントロールが出来ているかどうかは別として、重要なのはその「必要」を理解して、自分自身が生きる上での前提にしておくことです。それこそが「知性がある」です。

(略)

 「頭はいいけど知性がない人」と言われて、どんな人を思い浮かべますか? 私は「品がなくてがさつな人」を思い浮かべて、「勉強は出来ても知性がない人」と言われると、「つまりはバカなんじゃないの?」と思ってしまいます。

第二章 知性はもっと負けている

[男尊女卑の風潮がまだあり]「理屈を言う女は可愛くない」と思われ、その結果、「インテリ女は女らしくないブスだ」ということになっていました。「知的な美人」というものが必要とされるのは、こうした女性の閉塞状況があったればこそです。(略)

「おしゃれというものは、男の好みに合わせて、自分をバカに見せるものだ」ということが、一部の知的女性には信じ込まれていました。(略)

 そういうものだから、「これは、自分をバカに見せる意識の低い今まで通りのものとは違う、自分をグレードアップして知的であるように見せる、新しいファッションでメイクなのですよ」という「知的な美人のファッションスタイル」が登場するのですが、今となってはなんともめんどくさい「経過」で「手続き」です。

(略)

「知的な女のファッション」が登場した後では、「私はみんなとは違う方向に行く」という流れも生まれます。

(略)

私がここで語ろうとしているのは、「初めは重要な意味を持っていたはずの知性が、やがてはなんの意味もないものに変わってしまう、そのプロセス」です。(略)

 それは、「誰かが“私は当たり前の中に埋没したくない”と言い出して、それが当たり前になると、誰もが“自分”をアピールするような個性的なファッションになり、その結果“みんな同じよう”になる」です。そういう展開を「大衆化」と言って、「大衆化」はとんでもない変化を生みます。

 たとえば、「ボディコン」はバブルの時代を代表するファッションで、「ボディコン女」というとどうしても「バカの代名詞」のようになっていましたが、これが実は「自己主張をする知的なファッション」なのです。

 ボディコン以前のキャリアウーマンファッションは、「男に媚びないファッション」で、すれすれのところで「男を拒絶するファッション」になってしまいます。だから、「男を拒絶してなにが嬉しいんだろう」という考え方も一方に生まれて、「男を拒絶しない、女の体のボディラインをありのままに強調した服」も生まれます。「ボディコンシャス」は「体のあり方に意識的」で、これを略して「ボディコン」です。外国語が使い勝手をよくするために短略化されると、その分「バカ度」も増すものですが、以上のような背景を持つのですから、「ボディコン」は思想的な服なのです。

 左翼思想が生まれて勢いを持つと、それに対抗するために右翼思想が生まれるように、キャリアウーマンファッションが生まれてボディコンも生まれたのです。だからボディコンを着ると、「私はある思想的確信に従ってこれを選び取った――ゆえに私がバカであるはずがない」ということになって、高飛車になってしまうのです。それが「知的」の効果です。

 ボディコンはキャリアウーマンファッションの対極にあるようなものですが、「私はえらいのよ」感が充満していることはどちらも同じです。(略)

ファッションの流行の中に、「私はそれを選んだからえらい」という思想的な要素が入り込んで来るからです。

(略)

高級ブランドを普通の人間が求める理由は、「私は高級ブランドを知っている。知っているから、私はそれを選べる」という知的優越感によるものなのです。その後に「そして買える」というものが来ます。

 ボディコンもキャリアウーマンファッションもブランド物も、すべては「思想的なファッション」で、その背後には、それを選ぶ人達の「私は自己を主張したい」という気持があります。めんどくさい言い方をすれば、それは「私が私であることの自己証明」です。

 この自己証明は「自分の外部にあるものを選び取ることによって可能になる」というもので、最早「自分」というものは「自分の内部にあるもの」ではなくて、「自分の外部にあるものを選び取ることによって表明されるもの」です。だから、この自己証明は金がかかります。

 いつの間にか人は「思想的な存在」になって、「私が私であることを表明したい」という自負心は、社会が豊かになるにつれて当たり前に広がって行き、そこに不景気がやって来たってそう簡単には収まりません。収まらないのは、定着してしまった「私は私でありたい」という欲望がとても強いものだからです。

 社会が豊かになって行くにつれて、「ファッションはその人の信念の表れ」というものになって行きますが、その先駆けとなったのがキャリアウーマンファッションです。その辺りから「ファッションが分からないのはダサイバカ」ということになるのですが

(略)

 「私はおしゃれをしています」と思っている人間は、それだけで「私はえらい。世のあり方が分かっている、知的な人間だ」と思いがちになってしまいます。これは、「自己主張の強い人間は、自分に知性があると思いがち」という法則の変化形です。「そんなへんな法則は知らない」と思われるかもしれませんが、今私が作ったばかりの「法則」なので、ご存知なくても不思議ではありません。

 自己主張の強い人は、「私は正しい」と信じています。そして、自己主張が強くなればなるほど「私は正しい!」の度合いも強くなって、「こんなに強く“正しい”と信じ込めるのだから、私は頭がいいのだ」と思い込めるのです。

 話はようやくこの章の初めに戻りましたが、私が言いたいのは「アイドル文化はこうして定着した」ではなくて、「みんなが知的になると知性なんかどうでもよくなる」ということです。(略)

「知的になる」というのはそうそうむずかしいことではなく、「自分は知的である」と思い込めば「知的」になれてしまうようなものでもあるのです。つまり「知的とバカはほぼ同じ」で、「自己主張が強くなれば、“目分は頭がよくて知性がある”と思い込める」です。

 悪い言い方をすれば、「みんながちょっとばかりえらそうになって、“目分はもう頭がいいから知性なんていらない”と思うようになった」です。そうだと思えば、矛盾なんかどこにもありません。

第三章 「知性」がえらそうだった時代

「教養」というのは「学んで身につけるもの」ですから、その知識が「身に沁みるかどうか」なんてことを考えずに、黙っておとなしくこれを引き受けなければなりません。その点で、「教養ある人」は真面目な人です。

 真面目な人は、知識を身につけることに疑問なんかを持ちません。そんなものを持ってしまうと、黙っておとなしく呑み込めるはずのものが呑み込めなくなります。だから、「教養ある人」はあまり疑問を持ちませんし、「分からない」という考え方もあまりしません。「なんでも分かるから“分からない”ということがない」のではなくて、「“分からない”と認めることが自分の敗北につながる」と思っているから、「分からない」ということを認めないのです。

 「どこがどう分からないのはよく分からないけど、なんかよく分からない」と思ったら、「自分はなにに引っかかってるのか?」を考えればよいのです。「なにが分からないのか」はモヤモヤとしていることなので、すぐには正体を現しません。だからまず「なにか引っかかるものがある」と考えるのです。

(略)

 「分からなきゃいけないこと」と思い込んで理解するのと、「なにかが分かんないんだけど」と思って考え直すのでは、自分へのプレッシャー度が違います。「分からなきゃいけない」と思って理解しようとすると、分からないのは「自分の責任」です。でも、「なんかへんだな?」で考え直すのは、「自分のせい」ではなくて「相手のせい」です。「あいつがわけの分かんないことを言うから、こっちはわけが分かんないんだ」と思って相手の言うことをフォローするのは、相手のボロを探すことなので、探究心は働きやすいのです。

 だから、会議の席にいる一番エライ人は、いたってあっさりと「なんだかよく分からんな」と言ってしまいます。エラクなった人は、「分からないのは自分の責任」なんていう考え方をしなくなるからです。

第四章 「教養主義的な考え方」から脱するために

 「他人の考え方」というのは、覚えるものではなくて、学ぶものです。「そういう考え方もあるんだ」と思って参考にして、自分の硬直してしまった「それまでの考え方」を修正して、自分の「考える範囲」を広げるためにあるのが「他人の考え方を学ぶ」で、つまりは、自分を成長させることなのです。

 「他人の考え方を覚える」だけだと、その成長に必要な変化が起こりません。前に私は「知識を身につけるのではなく、知識が身に沁みることが必要だ」と言いましたが、教養主義というのは、身に沁みなければなんの意味もない「他人の考え方」でさえも、「覚えていればなんとかなる知識の一種」として処理してしまうのです。

 「他人の考え方を知る」というのは、大袈裟に言えば、それだけで「自分の考え方」を揺るがせてしまいます。それで人は、あまり「他人の考え方」を知りたいとは思いません。「うっかりそんなことをして、へんに自分の考え方が揺さぶられるのはいやだ」と思っているのが普通で、そういう人達が知りたいのは、「自分の考え方を肯定してくれる、自分と同じような他人の考え方」だけです。(略)

 でも教養主義者は、「他人の考え方に揺さぶられる」ということを恐れません。恐れる前に、「なにを言っているのかよく分からない他人の考え方」なんかは拒絶してしまいます。そして、知っておくとトクになりそうな、「知識としてまとめられた他人の考え方」だけをマスターするのです。「その考え方ならもう知っている」と言うためだけに。それなら、「他人の考え方」を恐れる必要なんかありません。

「他人の考え方」を知識として取り入れられる教養主義者は、「他人の考え方に侵されない強固な自分」を持っていることになります。でもその一方で、「自分の考え方」が時代遅れになりそうになると、「別の考え方」と入れ換えてしまうのも、同じ教養主義者です。

 「自分の考え方」を持っている人なら、そう簡単に「考え方の入れ換え」なんかは出来ません。でも、いくつもの「他人の考え方」を「知識」として持とうとする教養主義者には、それが出来るのです。どうしてそんなことが出来るのかというと、話は簡単です。「自分の考え方」を平気で入れ換えてしまえる教養主義者には、「自分のオリジナルな考え方」が稀薄だからです。