しりあがり寿×山口晃対談「今、見ること」への提案

しりあがり寿×山口晃対談のとこだけ読んだ。というか他は正直……。

フレームの外を見る

しりあがり――(略)僕は漫画をずっと描いていたので、アートには漫画にないものをつい求めちゃいます。(略)
一番わかりやすいところで言うと、例えば大きさでしょうか。ベラスケスやダリの作品などを見ると、こんなに大きいのか、とか。ああいうのは漫画にはない要素ですよね。
(略)
[子供の頃《天才バカボン》の「実物大漫画」を読んで]
バカボンの顔があって「ねえパパ」とある。次の頁を開くと今度は見開きでバカボンのパパの顔があり「なんだいバカボン」と。それがすごくおもしろかったんですが、当時はなぜおもしろかったか、わからないんですね。でも後になって思ったのは「これは本に描いてあるものなのに、こいつらは自分たちが本になっていることに気付いてないんだ」と。漫画を読んでいるこちらは気付いているのに、漫画の中にいる登場人物たちは気付いていないというわけです。それから、すごくフレームというものを気にするようになった。

仕上げることの不自然さ

[卒業制作で大きな絵を描いたら点数が悪くて、「ここ描いてないぞ」と友達が指摘してくれたという、しりあがりの話を受けて]
山口――(略)作品を仕上げるということ自体、すごく不自然なことだなと。(略)人に伝わらなくとも、あるひな形の絵はできあがっていて、描いていない部分は自分の脳内にあるので、じゅうぶんにできあがったと思うんですけれども、作品となると、人に見せるとなると、脳内に補完されている部分も見えるようにしてあげないと許してもらえないというところがあります。僕が「これでいいんだけどなあ」と考えても、「でもこのまま美術館に展示しても伝わらない」と思ってしまい「しょうがない、この部分も描いておくか」と。(略)
危険なのは、「少し余計なことをしている」をやって、作品をつくっているような気になってしまうこと。本当は、根幹の部分がない限り、そんなものは作品でもなんでもない。でも、「少し余計なことをしている」部分のほうが体裁をつけやすかったりするんですよね。

デッサン、外を固めて中はすっきり

しりあがり――高校時代、僕にデッサンを教えてくれたのは彫刻の先生だったんですよ。汚くてもいいから量(マッス)をつかめと。(略)そう言われたので喜んでものすごく汚いのを描いて、重そうな、真っ黒な石膏像を描いていては喜んでいました。そうしたらデザイン科ではそのデッサンはダメだと。
(略)
山口――(略)油絵科だと「映像的だね」というのはダメなんですね。ペラッペラで、量がないことを意味する。あとは「工芸的だね」という言い方もありました。今、言うと怒られますけどね。(略)仕上げばっかり気にしているかのような……。でもデッサンは、姿勢として、寄って見る・離れて見るというのがセットで行われるので、今描いた細部が全体の中でどう整合性を保っているかを見ることができます。例えば文章を書くのも同じです。部分の硬さなり文の密度なりが、全体と比べてあっていないとか変だなとか、引いたり近づいたりをしながら確認しますよね。一方でそういった姿勢が当たり前の中、日本の古い絵を博物館などで見てみますと、まったく無視しているんですよ。寄らなきゃ見えないようなものを平気で描いているかと思えば、離れなきゃ見えないようなものも一緒に描いてしまっている。寄らないと細部がまるで見えない鶴の羽や、離れないと岩に見えないぐらいガサっと描いてある岩肌や岩の重なりなど、デッサンを学んでから自分の国の絵を改めて見ると、「あれなんか違うかもこの国!」と。(略)
しりあがり――(略)あと、やっぱりデッサンが下手くそな人って、漫画は特にそうですけど、同じ顔しか描けないんですよね。昔からよく話題にされますが、この髪型、正面から見たらどうなんだろう?みたいなのって多いじゃないですか。それが一応デッサンをしっかりやっている人は、別の角度から見ても描ける。まあそれが漫画としておもしろいかというと別なんですけど。おもいっきりデッサンが下手くそな、漫画漫画しているペターっとしたものがおもしろかったりもしますからね。(略)キャラクターの後ろの頭まで感じられるような、3D的な、自然な漫画の絵柄ができあがったのは、鳥山明さんの頃からじゃないかな。それまではペタっとしていて、筆やペンの抑揚がたよりのような画風が主体でしたが、鳥山さんとか大友(克洋)さんの頃から、線が細くても立体感があるというか、力があるというか、そうした絵柄が出てくるようになった。立体を描ける、現物をちゃんと描けるというのは、デッサンの力なのかな。
山ロ――西洋絵画だと線を消すじゃないですか。日本絵画は逆で、線を残すどころか、むしろ「カタチをとるのに気を取られるぐらいなら、線を引け!」という、江戸時代の絵師の画論にはそういうものがあります。下手にかたちを描かせると絵が縮こまるから、そんなのは後でいい、まずは運筆をやれと。その流れは残っているのかもしれませんね。
(略)
[山水画でも中国は]3Dなんてすね。墨を使っているんですけど、意識としては西洋絵画に近い。すきあらば墨の線を立体の中に紛れ込ませようとしている。岩の描写などを見ると、すごく空間に対して整合性のとれたものを描いているんですけど、日本人の描いた岩を見ると、同じ墨を使っているからだまされそうになるけれども、実は意識が全然違う。(略)
同じテクスチャーをつけているから岩に見えるけれども、これ全然立体的じゃないぞ、というのがいっぱいあります。昔からペラっとしたものを重ねて、奥行きを演出するのが日本の絵画なんでしょうか。
しりあがり――書割みたいだね。
山ロ――まさにそうです。雪舟も書割です。
(略)
中国の思想が原理的というか、必ず中心に意味を込めるというか、中心が空っぽなものを蔑むところがあるからかもしれません。盆栽などでも、中国のそれはものすごく物語を盛り込むんですね。(略)
中国では人為的につくられる中心ですが、外側を固めておけば、見る人の自由な意識が降ってくる――日本にはそういう思想があるのではないでしょうか。外というよりしろができれば、中は見る人の感覚に投げておくといったような。
(略)
「まあ、奥行きは隈取でもしておこうか」みたいな発想なのかなと思うことがあります(略) 
印象派が取り入れた理由もそこにあるのかなと。西欧ではカメラ的な、視神経の手前ぐらいまでを絵にしてきたわけじゃないですか、500年近く。そうした文化の中にあって、印象派は「おや、視神経の奥を描いている国がある」と気づいてビビっときたわけでしょう。「あれ、絶対こんな描き方をしてはいけないはずなのに、平気でやってしまっている!しかもちゃんと絵になっているぞこの人たち!」と。

正しさよりも広さを

山ロ――間違いに対するおそれみたいなものはありますね。とにかく正しくあろう正しくあろうとするところがあって。
しりあがり――最近の若い人にそういう感じを持つことがあります。
山口――そんなにこだわらなくてもと感じるんですが。
しりあがり――それがサバイバルに繋がると思っているんじゃないかな。採点されることで淘汰されると感じているのかも。全然違うのにね、実際の淘汰のされ方って。もっとあいまいな、いいかげんな……。漫画の場合は、例えば、売れなければいけないというルールがあって、逆に言うと、売れるためにはどんなことをしてもいいという自由というかフトコロの深さがある。もちろん売れなきゃいけないって不自由さもあるけど。たくさんの人にわからないといけないと。

山口――(略)これは社会性をクリアしていないんじゃないかとか、絵画の文献を押さえていないんじゃないかとか、わあわあと考えてしまうんですけれども、自分を違うジャンルの人と思って自分の作品を見たときに、そんな風に気にしていたことは、実は誰も気にしていないよ、というのはありますね。

川村靖雄

[明治の日本美術再検証で注目されたのが]川村靖雄という人です。黒田清輝よりもずっと前に、日本人として初めて洋行をして、イタリアのアカデミーでデッサンのトップになるぐらい西洋絵画を学び、日本に帰ってきたんですけれども、その人が黒田清輝どころか、芸大のできる10年以上前に油絵を日本で実践するんですね。(略)カッチリとした油絵風の堅い画面に、ふわあっとしたニュアンス的なものを織り交ぜている。僕が思うには、川村靖雄が一番正しい油絵の持ち帰り方をしている。むしろ黒田清輝は、油絵の見方や油絵の精神というものを広めたために、かえって油絵に日本人が入る隙間がなくなっていた。その後の人たちが油絵の中に日本をどのように入れようかというともうモチーフしか残っていなくて、それで神話の絵とかを描き出すわけです。(略)
異国趣味を全部自分でやっているような絵しかなくて、対して川村靖雄の絵は、雪舟的な、あれだけ立体をとれるにもかかわらず、すごい薄塗りになっていて、影をほとんどつけない薄い絵を描いている。(略)
木に描いたり、絹に描いたり……自分の国にある支持体にいち早くシフトして、その上で油絵がこの国で何かできるか、一番相応しいのか、という部分を考えていた人です。

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