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2015-11-28 ソーシャル無法地帯 出版の自由 このエントリーを含むブックマーク


ソーシャル無法地帯

作者: ローリー・アンドリューズ,田中敦

出版社: イースト・プレス 発売日: 2013/11/17

Spokeo

Spokeoは――不動産リストからマーケティング調査までの――何百というオンライン、オフラインの情報源から情報を集めて編集するだけではなく、個々人を特微づけるためにもその情報を使うのである。(略)Spokeoのサイトに人の名前を入力すると、その人物の住所、家の電話番号(電話帳に掲載していなくても)、年齢グループ、性別、民族、宗教、支持政党、婚姻情報、家族情報、学歴が無料で見られるのである。Spokeoにはその人物の家のグーグル・マップまで含まれているのだ。(略)

月に5ドル足らずの料金を支払えば、さらに豊富な情報が見られる。(略)その人物の所有物(プールや暖炉をもっているかどうか)、ライフスタイルや興味に関する情報、Spokeoが勝手に評価した健康レベル(「下の方50%」など)や経済レベル(「普通」や「大変好調」など)の評価である。月に5ドルの会費を払えば、限定会員向けのeメールアドレスやユーザーネームを使った逆引き検索も可能になる。こうした検索を使えば、ソーシャル・ネットワーク・サイトや出会い系サイトの個人プロフィールを読み出すことができる。(略)

 毎日Spokeoのデータベースを100万人以上の人々が検索し、読み込んだ情報をもとにして、人を雇うかどうか、信用を供与するかどうか、あるいはセックスしてもいいかどうかまでを決定している。しばしばその情報が間違っていることもある。不正確な情報源から引っ張ってきたり、不完全なアルゴリズムで解釈していたりするからである。にもかかわらず、プライバシーを侵害されている人々は、自分が汚名を着せられていることにはもちろん、Spokeoの存在にすら気づいていないかもしれない。Spokeoは自らを、信用調査機関を規制する法律の支配下にあるとは考えていない。

(略)

Spokeoはこう主張する。「Spokeoは娯楽目的のみに意図されており、信用や保険や雇用の適格性を判断する目的として考えるべきものではない」と。しかし、Spokeoは人物に対する「貴重な洞察力」を提供するものとして自らのサービスを奨励している。その証拠に、サイトのバナーは、「人材リクルーターは今すぐここをクリック!」(略)別のサイト上の広告バナーでは、「彼はあなたを裏切っているでしょうか? 彼のeメールを逆引きサーチすればわかります」と宣伝しているのだ。

 私があるロースクールの教授にSpokeoの話をしたところ、彼は即座にログインして自分の生活についてSpokeoが推測している情報を見た。Spokeoは、彼の住まいは正しくつかんでいた。また自宅の電話と携帯電話の番号も正確だった。しかし彼の妻の名はジェイミーだったので、Spokeoは彼女のことを若い息子と推測していた。そして彼の年齢は実際より30歳差し引いていて、彼は30歳である自分の娘と結婚していることになっていた。彼女はもちろん同じ姓である。この間違いは彼の信用評価に影響していた。というのは、30歳であるならば、60歳よりも収入が低いと想定されたからだ。しかし、Spokeoに訴えて、間違いを訂正させるにしても、そのことを一体どうやって知ればいいだろうか? 私の同僚教授はコンピューター法を教えていたが、私が話すまでSpokeoのことを聞いたこともなかったのだ。

(略)

[トーマス・ロビンズは]Spokeoを訴えた。裁判所は、ロビンズがSpokeoの掲載行為の結果、実害を被ったという主張をしなかったという理由で、カリフォルニア州不当競争法の下で彼の申し立てを却下した。

(略)

Spokeoは野放図に広がった数十億ドル規模のデータ・アグリゲーター産業の一部である(略)

ハリソン・タンは人々の個人情報を集めて売るためにSpokeoをつくったが、彼自身はデータベースから自分の情報を除去することにした。「私はたくさんのeメールや脅迫を受けている」と彼は語っている。にもかかわらず、Spokeoは他の人々の家の住所や電話帳に載せていない電話番号などの個人情報を本人の同意なしに提供している。(略)

フェイスブックは広告会社やゲームデザイナーとの契約の中で個人情報を金銭に換えているにもかかわらず、あるユーザーがプログラムを使って自分のフェイスブック・ページから自分のデータ(友達リスト)をコピーした際、そのユーザーをフェイスブックから締め出した。フェイスブックはまた、LovelyFaces計画を応援しているアーティストたちに対し法的措置を取ると脅し、彼らのフェイスブックのアカウントを停止した。このアーティストたちは、彼らの「コンセプチュアル・アートとしての挑発」は公開された情報を使っているので合法的であると主張した。しかし彼らはフェイスブック側の弁護士からの圧力に屈した。

 [X+1]

 [X+1]という会社は、集積されたオンラインデータを便ってウェブサイトの閲覧者をすばやく評価する。企業は[X+1]を使って、誰かが自社のウェブサイトを閲覧したときにどんな広告を表示したらよいかを判断する。(略)

顧客企業はこの種のサービスに推定で月に3万ドルから20万ドルを支払っている。

 ウォールストリートジャーナルはテストする人を雇って、[ [X+1]を使っている]キャピタル・ワンのサイトを閲覧させた。(略)[X+1]の判定は正確だった。すなわち、キャリー・アイザックは「コロラドスプリングズの若い母親で約5万ドルの年収で暮らしており、ウォルマートで買い物をし、子供向けのビデオを借りている」(キャピタル・ワンのウェブページは彼女にあまり特典のないクレジットカードを提示した)。ポール・ボーリファードは「ナッシュビルの建築士で子供はおらず、旅行好きで中古車を買っている」(彼には旅行の特典がついたクレジットカードを提示した)。トーマス・バーニーは「コロラド州の建築業者で大学の学位をもつスキーヤーで、信用度が高そうに見える」(彼には、最初の利息が0%、年間会費が無料の特待カードを提示した)。

出版の自由

 出版の自由のもともとの考え方は、特に政府に関する情報や意見の流布を抑える法律に対抗して1600年代に現れた。イギリスでは、17世紀末まで、国が発行した許可証がなければ出版は許されなかった。公の政府の批判は非合法であるばかりでなく、死刑を科せられるものでもあった。(略)

ジョン・ミルトンは、マーケットの思想が民主主義に不可欠であると考えていた――マーケットの思想を呼び起こし支持する情報に市民がアクセスできるのはまさにマーケットにおいてである――。市民は健全な政治判断を下すために異なる意見を比較検討することが必要である。ジョン・スチュアート・ミル(略)も同様に個人の言論の自由の権利はほとんど絶対的であることを支持していた――他者に危害を与えないときのみに限定されるが――。

 アメリカの入植者たちが基本的価値を表そうとしたとき、彼らはミルトンのマーケットの思想を保証する尺度を採用した。彼らは出版の前に許可証を要求するイギリスのやり方を拒否し、政府批判に対する刑罰を否定した。実際、政治的発言は、特に政府を批判する場合には、最大限保護されるべき表現形式であると考えられた。結局、イギリス政府に対する入植者たちの不満は彼らを革命へと走らせることになった。その結果は合衆国憲法修正第1条に現れている。「議会は言論の自由や出版の自由を縮小するような法律を制定してはならないものとする」。

(略)

 出版の自由の権利は匿名で公表する権利を含む。これは出版に許可が必要だったイギリスの法律ではあり得ない権利である。(略)

連邦最高裁は、匿名性は個人の意見に対する迫害を免れる手段以上のものであるということを示した。

(略)

1788年に建国の父のうちの3人、アレキサンダー・ハミルトン、ジェームズ・マジソン、ジョン・ジェイは重要な文書「ザ・フェデラリスト――新憲法を支持する論文集」を発表した。発表のときには彼らの名前は出ておらず、プブリウスという仮名で印刷されていた。それは、ローマ君主制を覆すのに助力して紀元前509年にローマ・コンスルになったプブリウス・ウァレリウス・プブリコラにちなんでいた。「ザ・フェデラリスト」の論文は説得力があった。批准に参加する州(植民地)が増え、憲法は1789年に効力を発した。

 出版の自由や匿名性の保護の範囲をめぐる法律論争はこんにちまで続いている。最高裁は、出版の自由が必然的にニュースを取材する権利も含むことを認めている。また、以前の訴訟では、政治的意見の表明の場面で匿名性の権利が保護されていたが、いくつかの事例においては、匿名での企業の批判のような、直接政府に関するものではない匿名の発言も保護してきた。

(略)

1600年代のイギリスでは、政府を批判することは、たとえそれが真実であっても、国家安全保障にとって有害であると見なされて刑罰を免れなかった。アメリカにおける規則はまったく逆である。アメリカは、マーケットの思想が民主主義に必要であるという考え方の上につくられた。政治的発言は保護される。時にそれが誤りであったとしてもである。

(略)

プラバシー侵害の可能性は、実は建国の父たちの念頭にはあったのである。彼らはよしんばそれが自分に向かってきても、出版の自由を支持するつもりだった。

 建国の父の一人であるアレキサンダー・ハミルトンは、マリア・レイノルズとの往復書簡によって、2人の婚外交渉が明らかにされたのを知ったときでも、出版の自由に不信感を抱かなかった。代わりに彼はその出来事を認めた小冊子を自ら発表した。報道陣の標的にされたにもかかわらず、ハミルトンは出版の自由の断固たる支持者であり続けた。のちにハミルトンは、トーマス・ジェファーソン大統領を誹謗した罪で告発されたハリー・クロスウェルを擁護した。ハミルトンは「私の考えでは、出版の自由は善良な動機により正当な目的のために真実を公表することにある。たとえそれが政府や判事や個人を非難するものであってもだ」と論じた。クロスウェルの誹謗の対象者であったジェファーソンも、表現の自由は極めて重要であると考えていた。「彼らの新聞は嘘、中傷、厚顔無恥に満ちている」とジェファーソンは友人に語った。「彼らが嘘をついたり中傷したりする権利において私は彼らを擁護するつもりだ」。

ここらへんまでで三分の一。面倒になったのでこれで終了。


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2015-11-26 検証 バブル失政・その4 コドモ橋本の失言 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


検証 バブル失政――エリートたちはなぜ誤ったのか

作者: 軽部謙介

出版社: 岩波書店 発売日: 2015/09/26

 1988年11月、日銀内部で、ある決定がなされた。短期金融市場改革だ。(略)

 金融政策の誘導の重心を、公定歩合から市場金利に移したらどうだろう。そうすれば、公定歩合変更の難しさが緩和できる。市場金利が上昇してきたら、公定歩合を追随して引き上げられるようにする。下がってきたら公定歩合も引き下げる――。

 つまり、公定歩合という長年にわたって金融政策の中心に君臨してきたツールを有名無実化しようという試みでもあった。

酔いしれる日本人

このころはまだ補佐的な役割を演じることの多かったバイロン・シーゲルには、さまざまな日本人が気楽に本音を語った。

 シーゲルはこう回顧する。

 「日本は戦争に負けた、でも経済ではあなたの国に勝ったという趣旨のことを何度も面と向かって言われた。あるときはビジネスマンから、あるときは日本政府の官僚から」

 この種の体験をした米国人は少なくない。

(略)

 「マネーサプライの動向が懸念される」とか「超緩和状態を解消するべきだ」などと警告を発していた三重野の部下たちも、多かれ少なかれ、バブルに酔っていた。

 ロンドンにいた田村は日本に帰国するたびに、同僚たちがゴルフ会員権の話をしているのに気付いた。特に房総半島のあるゴルフクラブに人気があった。そこの[数百万する]会員権をもっていないと、「日本銀行の中でも仲間にいれてもらえない」というムードがあったという。

ついに利上げ

24分で終了した臨時政策委員会では、この二年三ヵ月の間に膨らみ続けたバブルに言及する者は誰もいなかった。

 この利上げはのちに遅すぎたと評されることになる。

 あれだけ利上げに待ったをかけていた大蔵省のある事務次官経験者も「アメリカの圧力があったとはいえ、2.5%があれだけ長く続くとは。利上げは一年か一年半遅かった」と反省する。

 三重野も「完全に遅れた」と思っていた。同時にオーラルヒストリーの中で大蔵省などが「土俵」に上がってこなかったと自己弁護している。(略)

 のちに大蔵省の事務次官や日銀の副総裁をつとめた武藤敏郎はこう話している。

 「たしかにプレッシャーはあっただろう。日銀は何か言われるとすぐに萎縮してしまう。ただ、彼らが本当に上げなきゃいかんと思っていたふしはない。仮に本当にやりたいのなら、職をかけてでも大蔵と交渉すればよかったではないか。金融政策は強要されていたのか。違う。やろうと思ったらできたはずだ」

レーガンからブッシュになり、すべてチャラ

[89年「日米構造協議ニューヨーク会合」米側から今まで色々やってきたけど不均衡は解消されず、プラザ合意は効果がなかった、今度は構造問題だとかまされる]

大蔵省の内海は「これがだめだったら、あれをやってみようと、次々にやり方を変えてくる。アメリカらしいなあと思った」と受け止めた。

 まったく違う感慨を抱く当局者もいた。(略)

 国際協調に名を借りた利下げは、一体何のためだったのか――。「構造障壁協議」開始の話を聞いた日銀幹部は一瞬、虚無感にとらわれたという。

 「経常収支不均衡を内需拡大という政策手段で解消しようとしたことが、そもそも正しかったのか」

閣議事件から総量規制

[89年10月定例閣議で国土庁長官石井一が大蔵大臣橋本龍太郎に]

地価の上昇が続いているが、われわれ国土庁の政策では限界がある。銀行の土地関連融資は地価上昇の原因の一つであり、大蔵大臣からぜひ金融機関を指導していただきたい――。

 この石井の発言が事件だったのは、事前に何の打ち合わせもなく突然飛び出したことだ。(略)

[予定調和を旨とする霞が関文化に反すると]銀行局は怒った。

[しかも他の閣僚からも同調者が]

 大蔵省内には、国土庁に一杯喰わされたのではないかと疑う声もあった。土地局長の藤原が銀行局長の土田を説得できなかったので強硬手段にでたのではないか。[が、国土庁は長官の独断と平謝り](略)

 ただ、長官の石井はこの後も金融機関の融資を問題にする姿勢を崩さなかった。(略)[参院土地問題特別委員会で]投機に融資した場合は厳重な罰則を科した方がいいと思う」と答弁し波紋を広げた。(略)

 総量規制はのちの地価下落の引き金を引いたとされているが石井はこう話す。

 「総力を挙げて投機を止めたということだ。すべての施策をうった。ただ、あのときは目の前の火を消すのにやっとだった。そのあとのことまで関心はなかった」

 三日の事件は改めて地価が異様に膨らんでいることを印象付ける効果があった。

(略)

 「地価高騰を何とかしろ」という声は次第に「銀行融資を何とかしろ」という主張に収斂していった。

(略)

[89年5月公定歩合引き上げ後も、バブルは膨らみ続け、10月再利上げ。大蔵省もすんなり了承したが]注文もついた。

「予防的な引き締めということにしてくれ」

本格的な引き締めということになると、現状についてかなり危機感を示すものになる。

(略)

 このとき銀行局は、ノンバンクという別の材料をちらつかせることにより、何とか総量規制を求める攻勢をかわすことができた。(略)[しかし、それでも地価は上昇]銀行局は次第に追い詰められていった。

橋本龍太郎がコドモすぎて市場混乱

[89年12月日銀の「プリンス」三重野がついに総裁に。就任会見で]

「地価の上昇は(略)金融がその片棒をかついでいることは率直に認めねばなりません」(略)

[利上げ準備を読売が一面トップでスクープ]

 三重野の記憶によると、会議の「終わりのほうに」蔵相の橋本が近づいてきて「新聞に出ましたね」と語りかけた。その後の会話について三重野は「正確には覚えていない」という。(略)

[日経・滝田洋一談]

「[橋本が]三重野さんに「あれは何だ」と。そうしたら、三重野さんが、私は非常に不誠実だったという感じを今でも持っておりますけれども、「さあ、どうしますかね」と。そういうトーンのお答えをされたので、「それなら撤回してくれ」というやり取りになったんです」

 このときの事情を最初から最後まで目撃していたのは橋本の秘書官だった伏見泰治。彼の記憶は三重野や橋本の説明と少し異なる。

 「橋本さんは情報管理ができないのを嫌がる。あの日、月例経済会議で大臣の座っているところに三重野さんが来て「出ちゃいましたね」と言った。大臣の機嫌がみるみる悪くなるのが分かった。公定歩合という重要な話を真面目にやっているのに、三重野さんはそれを冗談ぽく言った。それを橋本さんは許せなかった。まあ、大人気ないと言えば大人気ないんだけど」

(略)

[大蔵省に戻り記者に囲まれ]橋本が突然こう言った。

 「たとえ、そんな話をしていたとしても、白紙に戻してこいと担当者らに言ってある」

 官邸で三重野との間に何かあったのかなど、橋本を取り囲んだ記者たちはこのときまだ知らない。彼らは一瞬耳を疑った。日銀の公定歩合操作に対して大臣が公然と拒否権を発動する。そんなことが実際にあるのか。

(略)

彼らの一報が日本を、そして世界を駆け巡った。

 「蔵相、公定歩合引き上げの撤回を要請」

 前代未聞の事態に市場は驚いた。為替も債券も株も、すべてのマーケットがこのニュースをめぐって乱高下した。

 (略)

 三重野は驚いた。思い当たる節がない。しかし、大臣は怒って「白紙に戻せ」と言っている。市場は荒れ、部下たちは事態収拾に走り回っている。三重野は歯痒さを感じながらも[利上げの]冷却期間を置くことを決意せざるを得なかった。

(略)

 もちろん大蔵省も困った。事務次官の平澤や総務審議官の篠沢が大臣室に集まり協議した。橋本の失言から市場は混乱している。「白紙撤回」と言った橋本の真意は三重野の態度にカチンときたという子どものようなたわいのないものだったが、市場はそうは受け止めない可能性が強い。

 日銀の引き締め姿勢に対して、大蔵省が待ったをかけた。それは景況感が異なるためだ。いやいや、また米国が何か言ってきたのではないか。こういう市場の疑念は理解できた。

 発言してしまったことは仕方がない。「日銀とは内々にやってきているので、本当の撤回はできない」と幹部たちは橋本に説明した。最初は「まるで他人事のようだった」と三重野への怒りが鎮まらない様子だったが、次官の平澤は「これはすでに積み上げて決まったことなので、あとは自分たちにおまかせください」として大臣から事態収拾の一任を取り付けた。

(略)

[白紙撤回]報道もありましたが、大蔵省筋からは、こうした大臣発言は無かったとの了解の下に、今後とも適切な金融政策の運営に当たってほしい旨の連絡を受けているところです」(略)

 当局者たちは、白を黒にする修辞で事態を乗り切ろうとした。市場は少し落ち着いた。

(略)

[三重野談]

 「結局それで25日に公定歩合引き上げを決定しました。当初の予定からいったら数日遅れたわけですね。しかし、私は腹が立っていましてね。口には出しませんでしたが、もし大臣が最後まで折れなければ、マル公〔公定歩合〕上げを断行してしまおうと。それで僕は辞職しようと思ったんですけれども、だけどそうならないとも思ったんですね。

総量規制がこんなに効くとは予想外

[90年国土庁が地価高騰みんなでなんとかしてえ、とSOS通達。金融機関からノンバンクへの融資が毎年三割アップに焦る大蔵省]

ノンバンクを通じた迂回経路だけでなく、本体からも融資を拡大している。(略)[日銀の]自粛要請などまったく効いていなかった。

 ただ、銀行局は総量規制には相変わらず否定的だった。

(略)

このころ、世の中には漠とした不安が広がり始めていた。[90年初から]株価が急落し始めたのだ。(略)

財界の大物。メディア。大蔵省のOB[から総量規制導入の声](略)包囲網は狭まっていた。

(略)

[3月20日「予防的引き締めの総仕上げ」として1%の大幅利上げ、結果、株価は史上三番目の下げ]

市場はこれを「金融政策の失敗」とみていた。日銀がいたずらに利上げをしたからというわけだ。

株価は下落、地価は上昇。この時期、日本経済は不思議な状況に置かれていた。のちに両者は崩壊のタイミングがずれただけだと分かるのだが

(略)

総量規制に躊躇し続けた銀行局で、この通達が「効きすぎる」ことを懸念した幹部はいなかった。(略)

この通達は「不動産融資をするな」とは書いていない。「全体の伸び以下」にすることが求められているだけだ。なぜこの通達がその後、地価下落の主犯とされたのか。このときの大蔵省首脳はこう振り返る。

 「市場もそろそろ危ないと思っていた。総量規制されれば地価は下がるかもしれない。そう思えば買おうとしない。融資もなくなる。地価は下がるというわけだ。あ、締められるな、と思えばさっさと引き上げる。それがマーケットだ」

 銀行局担当の審議官だった松野は「この通達をだしたらどれくらい地価が下落するのかを事前に検証したことはなかった。ただ、あの通達は全体の伸び以下に抑えてほしいという内容だ。ゼロにしろなどとは言っていない。不良債権問題が明確に意識されるのはもっとあとのことだ」と話していた。

(略)

 予測できなかったというのは日銀も同じだった。総務局長をつとめた田村はこう回顧する。

 「資産価格がこれだけ下がるということまでわかっている人は、だれもいなかったのですよ」

 「その当時、三重野さんが土地〔地価〕もそんなに下がらないだろうけど一割くらい下げるかもしれないと言ったのですよ。(略)それで日銀はそこまで悲観的なのかと受け止められたですね」

(略)

 大臣の橋本は、総量規制発動から半年ほどたったとき、秘書官だった伏見泰治にぽつりとこう尋ねたことがある。

 「あれは本当に効いているのか」

 たまたま省内にいる金融機関からの出向者が「あれには参りました。困っています」と話していたのを覚えていた伏見は「あれは効いています」と答えた。橋本はそれ以上何も言わなかった。(略)

[政務担当秘書渡邉賢談]

 「総量規制がこうも効くとは思っていなかったようだ」

 しかし、一方で当時大蔵省内には疑問に思う声もあった。たとえば財務官の内海だ。この国際派官僚は資産価格の上昇を抑えるのに公定歩合を使うことに疑問をもっており、「やっぱり何らかの規制は必要だろう」と思っていた。しかし、総量規制の発動を知り「不動産価格はすでに調整が始まっていると見るべきなのに、何で今ごろ」と思っていた。

(略)

[90年8月イラクのクウェート侵攻]

 原油価格が上がったから、「これは危ない」とは思ったものの、現実として一般物価が上昇しなければ、公定歩合の引き上げにはつなげられない。しかし、三重野には石油ショックのときの経験があった。このとき、引き締めが遅れたために、インフレを招いたとの反省を日銀は胸に刻んでいた。三重野は「予防というよりは需要を押さえる本格的引き締めの第一歩ぐらいな感じ」と位置付けていたし、石油ショックのときの経験からいって、なるべく早くやっておこうと決意していた。[6%に引き上げ]

2015-11-24 検証 バブル失政・その3 消費税、ブラックマンデー このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


検証 バブル失政――エリートたちはなぜ誤ったのか

作者: 軽部謙介

出版社: 岩波書店 発売日: 2015/09/26

グリーンスパンにかまされる

 87年9月4日の朝、米国ではFRBの議長に就任したばかりのグリーンスパンがいきなり金利を上げた。引き上げは三年半ぶりで「インフレ懸念への対処」と説明された。そして西独も金融を引き締め気味にするよう運営方針を変えた。

 こうなれば当然のことではあるが、日銀内でも「日本はどうするんだ」という声が上がり始めた。

 特に米国の利上げに接して三重野は日銀の政策発動も「いよいよだ」と確信めいた感じを抱いていた。もちろん記者などには「いやあ、あんまり関係ない」と否定的なニュアンスで話したが、内心は「米国も上げたんだから、こちらもそろそろあげる時期が来ているな」と思っていた。(略)

 しかし、米国から届いた牽制のメッセージはこの思いに冷や水を浴びせた。

 「これで日銀も安心して金利を引き上げられるとは考えないでほしい」

 米国の要望は9月30日にジョンソン副議長から大蔵省を通じて伝えられた。

 ジョンソンは振り返って言う。

 「詳細は覚えていないが、内海さんたちに言った記憶がある。みんなで利上げを始めたら市場にショックを与える。市場がどう反応するか分からない、と。市場の崩壊を予想したわけではないが。日本には少なくともわれわれが動く間はじっとしていてくれということだった」

 もし日銀が追随利上げに踏み切れば、日米の金利差は拡大しない。ドルの急落を心配する米国の立場からすれば金利差の拡大が望ましい。何よりも米独に続き日本も上げれば、そのまま利上げ競争になりかねない。米国はそれが市場に与える影響を恐れた。わがままな要求ではあったが、総裁秘書役だった小島の記憶によると、このとき米国は「低め誘導をもっとやってほしい」とまで言ってきたという。

 若月によると、このあとBISの会合でグリーンスパンが澄田に同じような要請をしてきた。

株式含み益45%

[散々揉めたけど、どうにか]株式含み益の45%算入が事実上確定した。(略)

 70、50、45、35などと数字が飛び交いながらも、日本は何とか株式の含み益を確保することができた。(略)

 45%も算入できるのだからよしとすべし――。これが大蔵省の結論だった。そして、ロンドンの千野は東京にこんなメッセージを送った。

 「これまで交渉中で50%を1%でも切ったら説明かつかないと米英を脅してきている。従って、仮にも銀行界が「45%でよかった」とでも発言するようなことになると、えらいことになる。銀行のものの言い方は「70%算入」以外になし」

 民間銀行の首脳があいさつなどで米英の当局者らと面会したときに本音を漏らすなと注意しておくように、という意味だった。

ブラックマンデー

[火曜日の朝、営業局担当理事佃亮二は総裁室に呼ばれ]

総裁の澄田と、国際担当の理事、太田赳が並んで座っていた。[副総裁の三重野は会議で香港](略)

 当時のある日銀幹部は、太田に関して「ボルカーと直接話せるとか、ペールがああ言ったとか、きわめて個人的なつながりで仕事をしているなと感じた。俺一人が知っているみたいな感じだった」と好印象を抱いていなかったことを率直に明らかにする。

 佃が腰を下ろすと、澄田がこう言った。

 「米国の暴落を受けて世界恐慌になるのを防止しなければならない。ついては経済大国である東京市場で暴落の連鎖を止めねばならない」

 「気負っているな」と感じたのを佃は覚えている。おそらく太田にかなりレクチャーされているなとも感じた。(略)引き続き緩和政策を維持していくということでよいか」

 佃はこれに反対した。営業局の部下たちは、この朝、一斉に金融機関にヒアリングをかけていた。その結果、マーケットは意外にも冷静であることが分かってきた。

 「カネ余りなので資金の逃げていく先がない」

 「これは一時的な調整で、絶好の押し目買いの機会だ」

 こんな反応が返ってきていることを紹介しながら、佃は澄田に「ここであわてるべきではない。国内的に見れば一時的なショックでとどまる。ここで変なことを言ったら公定歩合引き上げのシナリオが崩れる」と主張した。

(略)

ここで、もし日本が利上げしたら、また世界の資本市場に大きなインパクトを与えるかもしれない。そういうことになる恐れがある限りなかなか上げられない。「ちょっと弱ったな」と三重野は思った。

 この感覚は部下たちも共有していた。金融政策の責任者である総務局長の若月は、「日本が暴落の引き金を引かなくてよかった」と胸をなで下ろすと同時に、「これですべてが吹き飛んでしまった」とも感じていた。しばらく公定歩合のことなど言い出せないだろうと。(略)

 ただ同時に三重野はこうも考えた。

 ――ブラックマンデーで日本の株がぐっと下がったので、熱気が冷めた。世の中の空気が少し落ち着いた。これは公定歩合を一つ上げるのをもうけたんじゃないか。

(略)

 ブラックマンデーの動揺が少し落ち着いてくると、日銀内部には「利上げのタイミングを逃した」という悲観論が強くなった。

BIS規制はバブルへの「通行手形」

 [87年バーゼルBIS会議]

ブラックマンデーの直後でもあり、「これだけ株式が暴落しているときに、株式の含み益を認めることには反対である」「株の含み益なんて長期的にみればプラスマイナスゼロだ。そんなものに頼って銀行経営をやったらだめだ」などの正論もでたが、すでに米英日で固まった大枠は変更できない。結局、最終的に自己資本規制は合意された。

 自己資本規制をクリアするために、邦銀は競って増資を行った。(略)

 自己資本規制は分母と分子の計算だ。つまり、8%をクリアしているなら、資本を1増やせば、資産つまり融資は12.5増やせることになる。のちにBIS規制はバブルを加速させたと批判されるゆえんだ。(略)

 結果的にBISの自己資本比率規制は日本の銀行に「通行手形」を渡したようなものだった。

ギロチンになった自己資本比率

[96年「早期是正措置」導入、比率が達成されていないと]自動的に厳しい行政処分の対象となった。銀行局の若手官僚としてBIS規制の交渉に参加した渡辺はこれを「数字が物神化されギロチンになった」と表現する。

 「銀行経営の健全性を図る物差しだった自己資本比率は単に便宜的なものだったはずなのに、いつの間にかこれで銀行という企業体の生き死にを判断するようになってしまった。時価会計と連動してギロチンになってしまったわけだ。(略)単なる便宜的なメジャーと思っていたのが、結果的に金融システムの不安定さと経済への影響を増幅させてしまった」

(略)

 千野は晩年、渡辺のところに時々電話をかけてきてこう言っていたという。

 「あれは正しかったんだよな」(略)

 「千野さんはよかれと思ってやった自己資本規制が、結果として経済の振幅を大きくした、経済の拡大の過程で火に油を注いだのではなかったのかと気にしていた」

 交渉に関与した大蔵省関係者はこう話す。

 「株は下がるぞという「朋友たちの警告」を受け入れられなかった。45%という含み益の比率を段階的に減らしていくという仕組みをそのときに入れていればよかったと、今は思う。しかし、当時そういう発想はなかった。株価は伸びていくものだと思っていた」

凪・88年夏

[88年9月] 企画課の若手日銀マンたちが深夜に集まった。白川方明、平野英治、稲葉延雄ら後に日銀の中枢を支えることになる面々だ。(略)利上げに舵を切れという建白書だ。一番最初に書いてきたのが白川だった。(略)

 企画課の若手たちはとにもかくにも、ペーパーを書き上げた。(略)

――たしかに物価は上がっていない。しかし、資産価格が上がり、景気も強い。マネーサプライも上昇著しい。いずれ物価に跳ね返ってくる。(略)今予防的に引き締めないと危ない――。こんなロジックで書かれたペーパーには彼らなりの危機感が投影されていた。(略)

[企画課の課長に渡した]彼らの議論はあっさりとボツになった。

(略)

 一方、このときの国際担当理事、太田赳はこう書き残している。

 「88年夏場での円相場の小康持続、特に88年10月央以降再び円高方向に推移した為替市場の動向と、終始一貫した物価の安定持続の下では、これ〔利上げ〕はなかなかできない相談であった」

(略)

 ただ、日銀の中でも危機感の持ち方は一様ではなかったし、当時の日本を支配していた楽観的な見方もある程度、影を落としていたようだ。

 調査役だったある日銀関係者は「日本経済は本当に強いと思っていた」と話し、89年末をピークにして株価が下落し始めたあとも「ちょっとした調整だと思っていた」という。

(略)

 調統局長だった南原はこのころの日本経済について「かなりしっかりしている」と思っていた。同時に強烈な危機感も抱いていた。しかし、その中身は独特のものだった。マネーサプライの増加を物価に結び付けて議論するよりも、地価の異様な上昇に危機感の焦点を当てるべきだ、と。もしこの地価が崩れたら、土地を担保に金を賃している銀行は大きな影響を受ける。南原は金融システムの健全性維持の観点から営業局の窓口指導を通じて資金の流れを絞るべきだと主張したが、営業局長の福井は「公定歩合の上げなくしてはできない」という。

(略)

[理事に昇格した菅野明が]

 日銀の参与会に出席していたときのことだ。参与会というのは、主に財界人たちがメンバーで、総裁、副総裁、そして理事たちが彼らの意見を聴くという機会だった。

 日銀側が、土地価格や株価の上昇について「行き過ぎている」という趣旨の発言をした。すると参与の一人がこう反論した。

 「日銀の中でそんなことを言う人がいるとは困ったものですなあ。日本経済が一皮むけて世界に向かって出ていこうというのに。日本が新しいレベルに入るのは当たり前で、それに疑いの目を向けられるとはいかがなものでしょう」

(略)

[畑亮二談]

 「あの夏、西独が二回も利上げした。米国も上げた。にもかかわらず日銀内では具体的に利上げの議論が盛り上がらなかった。(略)88年のあの時期になぜやらなかったのか。世論がバブルによるユーフォリアで一色になっていたからだ。政界も財界もみんながハッピーだった。アンハッピーなのは日銀だけだった」

(略)

 澄田の秘書役だった小島の記憶によると、日銀が組織として「本当に危ないと思うようになった」時期は1988年の秋だったという。(略)

 「東京から銀行の支店長がお客を連れて地方に来て、土地を買いあさっています」

 支店長会議などでこういう報告が相次いでなされてくると、楽観論は次第に姿を消した。

 89年の秋に入るころ、マネーサプライの上昇や資産価格の高騰に対して、「今すぐ動くべし」との声が、日銀の中でも強くなっていた。

 内心では危機感を抱きながら、周辺にはあまり明確にそれを伝えなかった三重野も、このころになるとはっきりと姿勢を示すようになっていたという。問題は、大蔵省を納得させられるかだ。

日銀、大蔵省他にスルーされる

 これに対して、官僚たちの反応はきわめて鈍いものだった。

 各省庁との話し合いを続けていくと見えてきたものがいくつかあった。ひとつは米国の影だ。大蔵省は、黒字がまだ大きいと主張した。通産省はスーパー301条で日本が対象にされるぞ、不公正貿易、つまり為替を円安に操作して輸出ドライブをかけるつもりだと疑われるぞ、と言ってきた。

(略)

 「雰囲気としては引き締めることなんかないだろうという感じだった。要は景気をふかせと」

 経済企画庁も、日本は動かないことが重要という「日本アンカー論」を唱えた。公定歩合の判断をする総務局長だった若月にとってみれば、「霞が関すべてが敵に回ったような感じ」だった。

 このとき、各省庁は、しかし、「敵に回った」のではなかった。日銀の問題意識を無視したのだ。

消費税で頭がいっぱいの大蔵省

日銀は大蔵省の姿勢の背景に89年4月のビッグイベントの影を見た。消費税導入だ。(略)

大蔵省の幹部たちは消費税導入で頭がいっぱいだった。(略)

88年夏から秋の臨時国会は消費税とリクルート疑惑をめぐり混乱した。(略)

88年の暮れから、89年のはじめにかけて、大蔵省は利上げを模索する日銀にこんなことをいうようになった。

 「消費税導入がうまくいくように波風は立てないでくれ」

(略)

[リクルート問題で揺れる]政治情勢で日銀が大蔵省に利上げ話をもっていっても「政局不安定」という言葉でまったく聞く耳持たぬという形で片づけられてしまった。

 それ以上に、日銀が利上げを検討などということが分かれば、「そうか、消費税導入に伴う物価上昇を警戒しているのだな」と憶測を呼ぶことは確実だ。(略)

 大蔵省側は「日銀が言う早めのブレーキ論は理解した。でも一刻を争うわけでもないんでしょう。だったら、消費税の動きを見てからでもいいのではないか」と繰り返した。

 日銀から見ても、消費税導入は単に大蔵省の施策という枠を超えて、政治問題化していた。与野党が真正面からぶつかっている。そんな政治的にプライオリティーが高いものを突き崩すだけの度胸を、中央銀行は持ち合わせてはいなかった。

次回に続く。

2015-11-22 検証 バブル失政・その2 BIS規制 このエントリーを含むブックマーク

前日のつづき。


検証 バブル失政――エリートたちはなぜ誤ったのか

作者: 軽部謙介

出版社: 岩波書店 発売日: 2015/09/26

突如米英がBIS規制

[1987年1月突如記者発表]

「英国と米国が銀行監督の新しい手法として自己資本率での規制を導入することで合意した」

(略)

邦銀の[海外]進出は、米国や英国の金融機関にとって大きな脅威だった。邦銀の急速な拡大に対する反発は広がっており、米英の動きは明らかに日本を封じ込めようとするものと大蔵省や日銀は受け取った。(略)

ボルカーはこう振り返る。

 「はじめに私は米国の銀行に自己資本を強化してもらいたいと思ったが、彼らは抵抗した。もしこの規制が実現したら欧州や日本の銀行と競争上の問題に直面すると言って。そこでまず欧州を巻き込んで、そして日本にもちかけた」

 「日本の銀行はアンフェアな利点を有していると思っていた。邦銀は大変低い自己資本比率で活動していた。BOEも同様の懸念をもっていたので、米英は手を組むことにした。そしてこれはほかの国と同じように行動させるため、邦銀や日本の監督当局に圧力をかけていくという戦略だった」

(略)

 彼らの主張は、日本の銀行が「薄利多売」をしてロンドンやニューヨークでシェアを広げているという内容だった。そして、それは邦銀の自己資本比率の脆弱さに起因していると見られた。(略)

[FRB国際局長のトルーマン談](略)

邦銀の活動に対しては米銀だけでなくワシントンの政策当局者の中でさえ相当の憤りがあった。日本にこの協定にサインさせることが重要だというのが共通認識だった」

(略)

株式の含み益を自己資本に勘定できるかは、日本にとって死活的に重要だった。(略)

 銀行局で自己資本規制問題に関与することになった渡辺は振り返る。

 「株式の価格変動リスクは、それまでも検討していたし、米国や英国との折衝に備えても検証した。そして、三割落ちても大丈夫ということを改めて確認した」

 近未来に株が三割を超えて落ち込んだらどうするのかという議論をした記憶は渡辺にはない。(略)大蔵省に集う俊英たちにとって、三割以上の株価下落というのは想像できなかった。

(略)

大蔵省が「株の含み益も認めるべきだ」と必死だった頃、細谷は部内の限られた人に「含み益算入」について「金融機関の健全性を重視する中央銀行の主張としていかがなものか」という見方を伝えていた。(略)

 大蔵省には、大手銀行首脳から直接、あるいは業界団体である全国銀行協会を通じて間接的に、悲鳴が届き始めていた。彼らは「邦銀を狙い撃ちにしたものだ」と反発した。ただその原因は自分たちが蒔いた種だった。邦銀の進出が目立ち始めたころから、米英は神経をとがらせていた。そして米銀を買収するなど米国で新たな業務展開に乗り出した邦銀に対して、FRBは事細かな資料提出を要求するようになった。

為替介入と「非不胎化」

[ニクソンショックのとき、為替介入して円レートを維持したのは損は出たが、いいことだった、とする宮沢には、「円高を食い止めねばダメだという信念のようなものがあった」と大蔵省関係者は回想]

部下の官僚たちに「今日はどのくらい介入したのか」と尋ねることも日常だった。(略)

 実際にこの業務を担当したことがある日銀マンは「とにかく自分の担当の都銀に電話をかけ続けて介入を指示する。でも市場の圧力も強くて、ひどいときには朝から晩まで介入していた」と振り返る。(略)

 大蔵省関係者はこう回顧する。

 「日銀がこんなとき介入するのは無駄ですといって介入しないことが何度もあった。たしかに正論だったのかもしれないが、円高阻止は、民の声、政治の声。何もしないわけにはいかなかった」

 国際金融局長だった内海も「介入せず」の日銀に怒った。「連日介入しているのに、それをやめたら方針転換だと思われて円高が進みかねない。夜中に日銀に乗り込んで猛烈に抗議したこともある」

 時の大臣は介入に熱心な宮沢。大臣の側近から為替資金課に「何で介入しないんだ」「お前たちはきちんとやっているのか」などと叱責の電話が入ることも度々だったという。

(略)

[介入で]市場に放出された円を日銀が十分に吸収しなかったのがバブルを加速させたとの説もある。専門家たちは、介入した資金を市場に放置しておくことを「非不胎化」と呼び、逆に資金を回収することを「不胎化」と言った。(略)

[日銀に「非不胎化」の議論はなく] 大蔵省も同じ認識だった。(略)

 ただ、このころ不胎化の議論がそうおおっぴらに出来たわけではない。当時介入の事実は秘中の秘で、介入額は事後的にも一切公表されなかった。そんな中で資金回収の話を始めれば、当然いくら介入したのかという具体的な数字が必要になってくる。介入の具体的な内容については日銀と大蔵省のごく一部が関与するテーマだけに、不胎化は大衆討議できない性格のものだった。

日銀を「羽交い絞め」にしていたのは宮沢なのか

 円高阻止のために一番効果的なのは米国にも「これ以上の円高はダメ」と言ってもらうことだ。

 しかし、米国がそんなに簡単に乗ってくるとも思えない。財政出動も考えたが、予算というプロセスは国会審議を経なければならず時間がかかる。だとすれば、ここは日銀に一肌脱いでもらうしか手がないのではないか。

 日銀に利下げを確約してもらう。それを土産にべーカーと会談して、円高ストップのための枠組みを作ることで日米合意する。そしてそれをG5、G7の合意に拡大し、円高に歯止めをかける――。大蔵省ではこんな戦略を描いていた。

(略)

 順番が逆だ――。これではまるで日銀がいけにえのヒツジではないか――。

 反発の声は出たが、大蔵省の態度は有無を言わせぬものだった。

(略)

 そして米国への不信感もあった。

 「いつものことながらアメリカがつまみ食いすることもありうる。それで日本が割を食うこともあるんじゃないかとも思った」

 日本が公定歩合を引き下げても、宮沢の考えている新しい枠組みに米国が乗ってくるという確証はない。一度引き下げた公定歩合はしばらく動かせないだろう。

 しかし、大蔵大臣がこれだけ熱心に追求している問題で、日銀がゼロ回答できるとも思えなかった。仮に下げるにしてもあとはタイミングか――。

(略)

[利下げを決意したが、肝心のG5、G7の日程が決まらず、不明のまま利上げすると「つまみ食い」されかねない。しかし利下げ情報は漏れ始めており、いつまでも延ばせない]

「公定歩合がもたないので六日に下げたい。ベーカーの感触を聞いてほしい」と助けを求めた。

 財務官の行天が米側に確かめたところ、「日本は公定歩合以外、何もないのだから、何とかG7までもたせてくれ」との返事だった。要するに、日本は利下げだけが国際協調行動に貢献できる政策なんだからあんまり早めに切ると「協調している」というメッセージ性を失ってしまうという意味だった。

(略)

日銀と大蔵の関係をみていくと、結局日銀を「羽交い絞め」にしていたのは宮沢自身ではなかったのかとも思われる。バブルは度重なる利下げが原因の一つだったと言われている。だとすれば、その利下げをめぐって日銀に圧力をかけた宮沢はバブルの要因を作ったことになる。

 宮沢本人はバブルの生成についてどう考えていたのか。(略)

[秘書官渡辺博史談]

 「(略)忸怩たるものはあったようだ。ただ、バブルのきっかけは自分の過ちではないと思っていたようだ」

 「インフレ一般と資産インフレが違う動きをする。このずれを見ていると変だよなと思ったことはあるけど、なんで生成しているのかを、自分で判断できていたのかということは自問されていたようだ」(略)

[98年]バブルの責任を問われた宮沢は独特の口調でこう述べている。

「責任はある。しかし、何をしたら回避できたかわからない」「では、どうすればよかったんですかなあ」

株大幅下落の想定はなかった

 自己資本規制のルール作りから日本だけが逃れるわけにはいかなくなっている。保有株式の含み益を算入しないと邦銀は想定される自己資本比率に達しない。ならば株式含み益の繰り入れを認めさせることが国益だ。幸いにも日本の株価は安定的に上昇している。算入できる額は低くはない。日本の銀行が国際的に活動するにはそれしか道はない。その交渉に全力をあげていこう――。(略)

 株が下落して含み益が大きく減少したらどうなるのか。実際に10年後に起こる事態をその時点で予想できたものは皆無だった。

「トゥー・マッチ、トゥー・レイト」

前任の竹下が主計局の論理に理解を示してくれたのに対して、宮沢は違った。(略)

 吉野を筆頭とする大蔵省、とりわけ主流派だった主計官僚にとって、内需拡大の要請に財政で応えることなど論外のように思えた。そして彼らはボスである宮沢との確執を深めていく。(略)

 大蔵宮僚たちは財政出動の弊害について宮沢を説得しようと試み、自民党などとの協議の場で反対するように要請した。しかし、会議から戻ってきた宮沢は「誰も反対しなかったので反対しなかった」という理屈で、賛成したことを明らかにした。それを聞かされた吉野たちはそろって驚いたが、大臣が認めたものをひっくり返すことは事実上不可能だった。

[87年5月に決定した六兆円の超大型補正予算は]結果的にバブルの加速を後押ししたとされる。

 日銀の関係者は振り返って「トゥー・マッチ、トゥー・レイト(大きすぎて遅すぎた)」だったとする。(略)この批判に対して大蔵省の事務次官経験者は「たしかに事後的には底を打っていた。そういう間違いはあった」と認めている。

 ただ同時にこの次官経験者はこうも語る。

 「間違っていたという批判は、皆さんにもお返ししたい」

 要は、政治も、メディアも、正確に事態を認識していなかったではないかというわけだ。

 のちにバブルを防ぐタイミングの判断を誤ったのは、「資産価格の上昇よりも一般物価を重視するという姿勢に固執したことが原因のひとつだった」という反省が日銀内にはでてくる。(略)

 澄田講演を読むと、このときも日銀は資産価格の上昇と一般物価の値上がりのリンクにこだわっていたことが分かる。(略)

 緩和は続けると言いながら、全体を聞けば[インフレ]警戒感が強く前に出ている。

(略)

 ただ、世の中はその認識をすんなりとは受け入れてくれなかった。ある大蔵官僚はこう回顧する。

 「事後的に見ればバブルに入っていたんだろうが、87年の夏ごろはまだ、プラザ以降の円高不況で大変だというムードがとても強かった。そのときは円高に対する恐怖感、抵抗感というものが日本の社会には一貫していた」

 とても引き締めに転じるようなムードではなかったというわけだ。

87年スイス・バーゼルでのBIS委員会

 「その時の最大の問題は現地の金融機関の約三分の一のサヤで貸していたということだ。ダンピングの一種ともみられ、現地の金融機関が怒った」

 米英が手を握っている以上、議論全体をつぶすのは、もう不可能に近かった。日本側もそれに対応して、目論見を絞った。

 ひとつは有価証券の含み益をできるだけ多く算入してもらえるようにする。日本の打ち出した70%はまったく受け入れられそうにない。(略)

 各国の批判の中に「最近の株価が上昇していることを背景に日本は強気なのだろうが、株は上がるだけではない」というものがあった。

 大蔵省銀行局の渡辺は「日本の場合、株価は戦後一貫して右肩上がりであり、安定的に推移してきた」と答えたが、各国を説得するのは難しそうだった。

(略)

 保有株式の含み益を算入させろ――。会議でこう発言するたびに、日本側は批判を受けた。西独の代表は、「含み益は不安定であり、銀行の資本にならない。含み益は意味がない」などと主張した。そのたびに反論したが、日本の考え方は世界ではなかなか通じなかった。そして各国の攻勢はそれからも続くことになる。(略)

大須敏生はもうひとつ、大事なことを感じていた。

 日本が懸命に主張する「株価含み益の繰り入れ」に関連して、米国で接触する人々から「日本の株価はクレージーだ」と繰り返し聞かされたことだ。もっとも彼らのロジックは「異常な日本の株価が崩れ、それがニューヨーク市場に飛び火するのは困る」という文脈だったが、「株価は上昇するばかりでない」というのはBIS規制の議論でもさんざん提起されている。

「高め誘導」

日銀はポジション・ペーパーを経て、87年夏、利上げに向けて態勢を敷いた。(略)

 まず、4月の日米首脳会談で決まった「短期金利の低め誘導」を何とかしなければならないのは明らかだった。(略)いざというときに大蔵省あたりから「市場金利が低いということは誰も金利引き上げを予想していないのではないか」と突っ込まれそうだった。そのために、「低金利政策を続ける」という方針を転換することにした。(略)

 福井以下の営業局がとったのは「市場の動きをあえて抑えない」というやり方だった。いわゆる短期金利の高め放置、もしくは誘導といわれる手法だ。(略)

しかし「高め誘導」といえば、日銀にはトラウマがあった。

[プラザ合意直後に行い、国債が暴落するなど大騒ぎに](略)

高金利に魅せられた投資家は円を買うだろうが、同時に内需拡大を目指すことになっていた日本の景気には冷や水を浴びせることになりかねない。

(略)

[米・大蔵省の意向に反するリスクのある金利操作だったが]

事態を知った企画課の若手行員は「いよいよ政策転換するんだ」という高揚感があったという。

次回に続く。

2015-11-21 検証 バブル失政 軽部謙介 このエントリーを含むブックマーク


検証 バブル失政――エリートたちはなぜ誤ったのか

作者: 軽部謙介

出版社: 岩波書店 発売日: 2015/09/26

「対日圧力」と「ワシントンの権力構造」

[FRB議長ボルカーは公定歩合引き下げ却下を提案したが、三対四で否決され、財務長官ベーカーに辞表提出、慰留され]

FRBが単独で利下げをすればドルの急落を招きかねないと恐れたボルカーと、利下げを求める理事たちの妥協[で]

(略)

 「二週間で日本と西独に利下げをのませる」

 FRBの奥の院で発生したクーデターの結果、協調利下げが焦点となった。米側から日本に対する圧力は強烈になっていく。しかし緒方が電話を受けたとき、日銀では誰一人としてそんな事態が起こっているなどとは知らなかった。

(略)

これはレーガン政権だけでなく、ブッシュ、クリントンと続く日米摩擦の典型的な対日話法になっていく。「われわれは保護主義者ではない。しかし、議会の圧力が強いのだ」というロジックだ。

 そしてそれはウソではなかった。(略)

 日本のような議院内閣制と異なり、米国では連邦議会が強いパワーをもつ。仮に大統領と同じ党派であっても、議員たちは独自の行動をとる。

 80年代後半もレーガンは常に議会の攻勢にさらされていた。さまざまな対日制裁法案が議会に出された。ホワイトハウスは「保護主義的立場をとらない」と常に主張したが、その圧力はじわじわと政権を追い詰めた。

 85年9月のプラザ合意はレーガン政権が議会に示したひとつの回答だったが、日本の経常収支黒字は縮小せず、米議会内には不満が渦巻いていた。

(略)

[FOMC幹部証言]

 「日本への報復として邦銀のプライマリー・ディーラー免許をはく奪せよというバカな米国の政治家がいて、私に圧力をかけてきた。私はそれに反対だったが、ある会合で日本の大臣や総裁たちにこう言ってやった。私はあなたたちを守る。ただ、もう少しやりやすいようにしてくれ、とね」

 米国は日本側の誰にものを言えば有効に機能するのかを見極めていた。FRBのジョンソンは駐米公使の内海を例に出してこう説明する。

 「我々は彼には影響力があると見ていた。特に竹下登は彼の言うことを聞いていた」

 どのボタンを押せば、どういう答えが出てくるかは見えているというわけだ。

 それと同時に、米側は日本の統治機構における日銀の位置もしっかりと把握していた。日銀が単独では物事を決定できないこと、大蔵省が事実上権限を握っていること、などなど。

(略)

 80年代のボルカー時代の後半、高金利を修正して米国経済を軟着陸させることはFRBの大きな課題だった。しかし同時にドルの急落は避けねばならない。ボルカーが日銀の澄田や緒方にしつこいくらい利下げを要求したのは、あくまでも米国経済の事情によるものだった。そしてその背景には、お互いにもつれあった議会やホワイトハウスからの有形無形の要請があった。

 「米国の対日圧力」を解剖していくと、ワシントンの権力構造に行き着くのだ。

協調利下げのためのアメリカの巧妙な罠

郵便貯金との交渉がからむ預金金利の引き下げが難しいことを理由にした日銀の抵抗は、FRBでは有名だった。FRB理事のジョンソンは「預金者の不満」を強調して利下げに抵抗する日銀について、「多少預金者をがっかりさせて消費に向かわせることも望ましいのではないか」と半分冗談交じりに大蔵省に主張していた。

(略)

日銀としてはサミット前に利下げをして「中曽根首相に土産を持たせた」などと言われるのは避けたかった。澄田の言う「政治には巻き込まれたくない」というのは、純粋に経済情勢のみから政策判断をしたいという欲求だった。

 ボルカーはこう返した。

 「タイミングの点で政治に巻き込まれたくないという意見にはまったく同感である」

 ワシントンの権力構造の変化から自分の地位を脅かしたクーデターまで起こされた。ボルカーの言葉は本音だった。

 しかし、変化球を投げてきた。

 「米国が公定歩合を下げる場合、日本が協調利下げをするには何日前に連絡すればよいのか」

 事務的な質問のようだが、この前提は協調利下げに日本が応じるということだ。米側が仕掛けた巧妙な罠にも見える。

 それに気づいたのかどうかは不明だが、澄田はこう返答した。

「一週間、あるいはそれより若干短くてもよいかもしれない。(略)

緒方もその席にいたが、のちに「その時の話の具合で、それ〔利下げ〕がすぐに起こるとは思わなかったのです」と話している。しかし、この発言は受取りようによっては「日銀も協調利下げに応じる」ともとれた。(略)

 日銀内部には、「澄田は危ない」という認識があった。副総裁として澄田を支えねばならない三重野は常日頃、澄田に対して国際協調などという名目で金利の引き下げなどをすぐに約束しないように、くぎを刺していた。

(略)

 このままでは、「すぐに米国の圧力に屈してしまう」として、澄田に対し日銀の中で不信感が広がりかねない。三重野は「不仲説」がでたのを逆手にとって澄田を支えようとした。

 行内の求心力は、日銀生え抜きで次の総裁になると見られていた三重野の方がはるかに大きい。(略)

 いつも「ここはあなたに、本当に腹の底から決めてもらわなければだめなんです」と強調しながら補佐した三重野は、澄田について「非常にバランスのとれた、理解力のある聡明な人」とみていた。同時に何か一つの信念をもってそれに突き進むというタイプでないことも分かっていた。

 「あまり事が起きない平穏なときには非常に仕えやすい人だったと思いますが、修羅場に弱いというわけではないのですが、非常に修羅場に強いという感じはなかった」

「このままでは大恐慌になるぞ」と日銀を脅したボルカー

[170円を突破した円高を懸念する中曽根の意を受け緒方はボルカーに面会したが、その回答は]

「自分たちで何とかしろ。追加利下げでもなんでもすればいいじゃないか」と言っていた。

 中曽根の密使作戦はあっさりと失敗しただけでなく、米側に日本の円高恐怖症を強く印象付け、「だったら、金利引下げだ」という要求を強めるという逆効果も呼んだようだ。

(略)

[1986年自民圧勝。「政局、首相に主導権」]

[利下げは考えてないと答えた澄田に、大蔵省事務次官吉野良彦は介入見送りを示唆]

 米国との協調利下げに応じないなら、それに伴って円高になった場合の責任は日銀にあるぞ、その場合の始末は日銀が付けろよ――。誰がどう聞いても、脅し以外の何ものでもなかった。(略)

 「介入見送り」というのは尋常ではない。(略)

 米国と話していたら、突然横から大蔵省が口を出してきて、利下げしろという。おそらくその背後には米国の強い圧力があるのだろうと容易に想像できた。(略)

 米国は7月11日に6.5%から6.0%へと公定歩合の引き下げを発表したが、日銀が公定歩合を引き下げなかったことに澄田は「負い目」を感じているようだと周辺はみていた。

 サミットの開催など中曽根は日本の国益のために懸命の努力をしている。日銀としてもそれに協力することはできなかったのか――。

 「公僕」という考え方に強い共鳴を示す澄田はそう感じているのだろう。周辺はそう思った。

(略)

[宮沢蔵相就任翌日澄田は書簡を手渡し]

――当面の公定歩合引き下げは適当ではない。

――過剰流動性とまでは言えないにしても、株価や地価の値上がりには注意が必要だ。

(略)

 澄田はこの書簡に加えて、「公定歩合はすでに3.5%という低水準になっているから、次の引き下げは最後の弾丸と考えねばならない。したがって慎重かつ有効に使うべきである」と宮沢に理解を求めた。宮沢の返事は日銀関係者をほっとさせるものだった。深井メモにはこう語ったと記されている。

 「総裁のお考えに異論はない。たしかにやや過剰流動性気味になってきている」

(略)

[9月ボルカーとの会談で澄田は米側は11月の中間選挙前の日本の利下げを望んでいると察知]

 FRBは執拗だった。[10月ニューヨーク駐在参事南原晃がボルカーに帰国のあいさつに行くと、利下げの必要性を滔々と説かれ]

――30年代の大恐慌をもたらした最大の責任は、当時世界最大の債権国だった米国が金利を上げてしまったことにある。今は日本が世界最大の対外債権国であり、物価がマイナスなのに公定歩合を3.5%にとどめこれ以上の利下げに抵抗している。

 そしてこう付け加えたという。

 「このままでは大恐慌になるぞ」

 米側は「使えるルートは何でも使う」という攻撃的な姿勢を隠さなかった。

(略)

 86年10月は、このような利下げを求める国内の声と米国からの圧力が日銀を取り囲んでいた。しかし、三重野は国会答弁で明確に利下げを拒否した。澄田も米国の要請を断った。少なくとも三重野以下日銀幹部たちはそういう認識だった。(略)

[10月20日大蔵省事務次官吉野良彦から三重野に電話]

 「10月中に公定歩合を日銀が決断するという話は、自分も初めて聞いたんだけど、どうなっているんだ」(略)

 三重野は宮沢−ベーカーの間で準備が連む日米の共同声明が絡んでいると気づいた。(略)

[10月31日発表の共同声明で利下げが示される]

 一つは、ワシントンのトップ同士の話し合いで澄田が宮沢にOKをだした。もう一つは、宮沢が澄田の合意なしに大蔵省事務当局に公定歩合を盛り込むように指示をだした。この二通りだ。三重野もこのどちらかであろうと推測している。

(略)

 澄田は「そういうふうに承知した覚えはない」と繰り返した。一方、別の日銀幹部は澄田が「宮沢さんに頼まれたけど、機が熟したらと答えただけだ」と弁明していると聞かされた。

 総務局長だった深井は「意思疎通に行き違いがあったというほかはない」と推測した。

 しかし、一国の大蔵大臣と日銀総裁が「意思疎通に失敗した」で事は済まされない。

 日銀は窮した。意図的かどうかは別にして、すでに宮沢は日銀が利下げをするものだと思い込んでいる。そしてそのことは、たぶん米国にも伝わっていると思われた。(略)

 総合的に考えれば、勝負は見えていた。(略)

 日銀に圧力をかけてきた大蔵省も無傷ではなかった。

 円高を止める。そのためには米国の協力が必要だ。だとすれば彼らの求める内需拡大のためには財政も出動するべきだと、大臣の宮沢が補正予算の編成に意欲を示したのだ。政治からも「円高不況だ。何とかしろ」という声が強い。しかも大臣は財政出動を評価するケインジアンの宮沢だ。結局政治の力に押される形で[「総合経済対策」が決定](略)

それはのちにバブル加速の要因と指摘されるものとなる。

(略)

[日銀は86年はじめに地価上昇に警戒感を持っていた。11月の文書では]

「最近の地価上昇については、金融緩和が一つの要因であることは否定できない」

(略)

[三重野の一高、東大時代の友人で大蔵省事務次官や東京証券取引所理事長を歴任した長岡実談]

「三重野の気持ちは分かるような気がした。われわれが戦後の焼け野原、つまりマイナスの状態から這いつくばるようにして経済を立て直してきたのに、おかしな紳士や地上げ屋がのさばるなど、社会が健全性を失ってしまった。バブルは一種の病気だ。だから一度苦い薬を飲むべきではないかと思ったんじゃないだろうか」

次回に続く。

2015-11-19 踊る昭和歌謡 リズムからみる大衆音楽 このエントリーを含むブックマーク

タイトルから来る期待が大きすぎたからなのか、もっと面白くてもいいはずなのに……で終了。

学者スタンスだからなのだろうか。


踊る昭和歌謡―リズムからみる大衆音楽 (NHK出版新書 454)

作者: 輪島裕介

出版社: NHK出版 発売日: 2015/02/06

『ドドンパ誕生』裏話

[アイ・ジョージ自伝『ひとりだけの歌手』によると]

アロージャズオーケストラのメンバーとのレコーディングにおいて、日常的にラテン・パーカッションを用いた即興的なセッションを繰り返しており、ドドンパはその過程で生まれたという。(略)

[あるメンバーにペペ・モルト楽団が変わったリズムをやっていたと]

紹介されたのが、チャチャチャを変型したオフ・ビート・チャチャチャである。二拍目に馬鹿に強いアクセントがあり、奇妙な面白さがあった。

 「アローの“ちゃんねえ”が東京でおぼえて来たダンスもあるそうや」

 そう言って、もう誰でもご存知の、あの「ドドンパ」のダンスが踊られた。

 「なんや、けったいなダンスやな、びっこの踊りやないか」(略)そのうちにぼくが、突然あることを思いついた。

 「三拍目を三連音符にしたらどうだろ。よけい変わってて面白いかもしれないよ」(略)

 ンパ、ドドド、タタ、ンパ……これでー、二、三、四、一、二というくり返しになる。

(略)

LP『ドドンパ誕生』(1961・テイチク)の解説では、若干異なる仕方で記述されている。(略)

 先づドドンパの「パ」に当る小節2拍目をボンゴが1打します。次で第2コンガがコンガの皮をこすって出すツゥーンという音を一拍目に入れます。次にドドンパのドドンの部分になる第4拍目を第3コンガが、「パ」の部分を強調する為にタンバリンが、それからこれはドドンパのリズムがプラードのロカンボとも又フィリピンのオフビートでもなく、これが日本生れのドドンパであると主張するかのように「パ」と「ドドン」の間の第3拍目に三連音のリズムをきざみます。次いでマラカス、ティンバル等が小節を8つにきざみ、最後にドラムスがシンバルで4ビートをきざみながら参加することによって完全にドドンパのリズムが誕生した訳です。

 つまりジョージの自伝ではドドンパの「ドド」は三拍目に対応するとされていたのだが、LP解説では「ドドン」が四拍目、「パ」が二拍目ということになる。

(略)

[名前をつけようということになり]ジョージがこの名前を思いついたという。

 「ドドンパ!」

 「それや、それがええわ。ドドンパ!いかしとるで。秋田のドンパン節みたいなもんや。純国産リズム、ドドンパ。よっしゃ今年[1960】の夏にアローで大デモンストレーションやって大いに流行らしてやろうやないか……」

 ドドンパは、こうして、まったく即興的に突如として生まれた。

(略)

[61年大ヒットした]渡辺マリ「東京ドドンパ娘」に対する批判的なニュアンスを込めて、アイ・ジョージは自伝のなかで次のように主張する。

 ドドンパは、オフ・ビート・チャチャチャの音型である。そしてそれはフィリッピンのバンドが日本に持ち込んだものだ。しかし、三拍目を三連音符にしたのは、誰でもないアイ・ジョージである。ここのところと、ドドンパと命名したセンスだけは買ってほしい。

 それと、もうひとつ。さっきぼくは、新しいリズムを流行らせるには、流行歌が一番効果的だと書いた。しかし、ぼくたちはそんなことはわかり切っていたけれどやらなかった。そこを買ってほしい。

 なぜなら、ぽくが「東京・ドドンパ野郎」というようなレコードを出したら、もしかしたら何万枚かのヒットになったかもしれない。しかし、それは間違っていることなのだ。歌手に、ある風俗的なもののレッテルを貼ることは、一時期爆発的に人気が出るかもしれないけれど、そのレッテルが逆に一生とりのぞけなくなる。ぼくたちは、遊びの精神と、商売になるということからドドンパを作って流行らせたけれど、アイ・ジョージが、ドドンパと心中するのは、およそむなしいし馬鹿馬鹿しいことだ。だからしなかったのだ。

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2015-11-17 森田真生『数学する身体』 チューリング このエントリーを含むブックマーク

前半は以下に引用した話で面白いのだけど、後半は下記リンク先の著者インタビューのような感じに……。

『森田真生インタビュー「CHOREOGRAPH LIFE ―未知に開かれた”いま”を生きる―」』


数学する身体

作者: 森田真生

出版社: 新潮社 発売日: 2015/10/19

思考は脳みそだけではない。数学者は、自らの活動の空間を「建築」する。

人工進化というのは、自然界の進化の仕組みに着想を得たアルゴリズムで(略)コンピュータの中の仮想的なエージェントを進化させる方法のことである。(略)

生成したランダムなビット列の中から、何らかの基準に沿ってより優れたものを選び出し、その選ばれたビット列を「変異」させながら、次々と自己複製をさせていくということである。(略)

[人工進化で異なる音程の二つのブザーを聞き分けるチップを作ったら]

そのチップは百ある論理ブロックのうち、三十七個しか使っていなかったのだ。これは人間が設計した場合に最低限必要とされる論理ブロックの数を下回る数で、普通に考えると機能するはずがない。

 さらに不思議なことに、たった三十七個しか使われていない論理ブロックのうち、五つは他の論理ブロックと繋がっていないことがわかった。繋がっていない孤立した論理ブロックは、機能的にはどんな役割も果たしていないはずである。ところが驚くべきことに、これら五つの論理ブロックのどれ一つを取り除いても、回路は働かなくなってしまったのである。

 トンプソンらは、この奇妙なチップを詳細に調べた。すると、次第に興味深い事実が浮かび上がってきた。実は、この回路は電磁的な漏出や磁束を巧みに利用していたのである。普通はノイズとして、エンジニアの手によって慎重に排除されるこうした漏出が、回路基板を通じてチップからチップヘと伝わり、タスクをこなすための機能的な役割を果たしていたのだ。チップは回路間のデジタルな情報のやりとりだけでなく、いわばアナログの情報伝達経路を、進化的に獲得していたのである。

(略)

[人間が設計したならノイズは排除しようとするが]

設計者のいない、ボトムアップの進化の過程では、使えるものは、見境なくなんでも使われる。結果として、リソースは身体や環境に散らばり、ノイズとの区別が曖昧になる。どこまでが問題解決をしている主体で、どこからがその環境なのかということが、判然としないまま雑じりあう。

 物理世界の中を進化してきた生命現象としてのヒトもまた、もちろんその例外ではない。ともするとヒトの思考のリソースは頭蓋骨の中の脳みそであって、身体の外側はノイズであり、環境である、と思われがちだが[そうではないのではないか、脳の役割は限定的なのではないか。]

現れる存在―脳と身体と世界の再統合

現れる存在―脳と身体と世界の再統合

[クラーク『現れる存在』からもうひとつ。マグロの動きを解析してみたら]

マグロは自らの尾ひれで周囲に大小の渦や水圧の勾配を作り出し、その水の流れの変化を生かして、推進力を得ているのではないか、というのだ。

 普通、船や潜水艦にとって海水はあくまで克服すべき障害物である。ところが、マグロは周囲の水を、泳ぐという行為を実現するためのリソースとして積極的に生かしている、というわけだ。

 示唆に富む話である。周囲の環境と対立し、それを克服すべきものと捉えるのではなく、むしろ環境を問題解決のためのリソースとして積極的に行為の中に組み込んでいく。

(略)

 冒頭で見たのは「離散的数量を厳密に把握する(あるいは操作する)」という、人が本来苦手とするタスクを遂行するために、身体や物、さらには外部メディアを使った記号の体系を道具として利用しながら、認知能力が拡張されていく様子であった。(略)

はじめは紙と鉛筆を使っていた計算も、繰り返しているうちに神経系が訓練され、頭の中で想像上の数字を操作するだけで済んでしまうようになる。それは、道具としての数字が次第に自分の一部分になっていく、すなわち「身体化」されていく過程である。

 ひとたび「身体化」されると、紙と鉛筆を使って計算をしていたときには明らかに「行為」とみなされたことも、今度は「思考」とみなされるようになる。行為と思考の境界は案外に微妙なのである。

(略)

当初は道具であった数や図形が、それ自体数学的な研究の対象となると、事態はやや込み入ってくる。(略)

素数が無限にあることがわかれば、今度はその分布が気になる。正多面体を発見したら、今度はあり得るすべての正多面体を分類し尽くそうということになる。数学によって解決すべき問題が、数学の中から生まれてくるのだ。(略)

数学者は、自らの活動の空間を「建築」するのだ。(略)

行為が建築を生成し、建築が行為を誘導する。建築と中に住まう人との境界は雑じり合い、渾然とした一つのシステムが形成される。

ヒルベルト「数学についての数学」

19世紀に入ると、記号と計算の力に牽引されて奔放に発展していく数学を、その基礎から見直す動きが生まれる。何より、微積分学の発展によって古代ギリシア人が慎重に回避してきた「無限」にかかわる議論が数学の中心舞台に躍り出し、素朴な直観にばかり頼ってはいられなくなってきたのだ。

(略)

[「解析学の厳密化」が推し進められ]「極限」や「連続性」など、定義が曖昧なままにされていたいくつかの概念に対して、できる限り直観に依存しないような、厳密な定式化が試みられるようになる。(略)

[あたかも肉眼から顕微鏡による観察になったように]

目を疑うような光景が広がっていることもしばしばだった。たとえば「いかなる点においても接線を持たない連続関数」などという「病理的な」関数が発見されたときには、エルミートは「恐れおののき、まなこをそむけ」、ポアンカレは「直観はいかにしてわれわれをあざむくのか?」と自問し、戸惑いを隠すことができなかった。

 数学者が目を凝らし、数学をより克明に把握しようとすればするほど、そこには直観を裏切るような現象が現れたのだ。そうなると、数学者たちは自らの直観が大雑把で不完全であると自覚して、それが証明の手段として信用に足るものではないことを悟る。(略)

[計算が複雑化し]計算の代わりに創造的な「概念」を導入することで、過剰な計算過程を縮約しようと考える数学者が登場しはじめる。特にリーマンやデデキントを筆頭とする19世紀半ばのドイツの数学者たちが、数式と計算の時代から、概念と論理の時代へと舵を切っていこうとした。(略)

未知の概念も、すでに知られた対象の「集まり」として定義できれば、そうした「集まり」を操うための一般理論(すなわち「集合」の理論)を使って、誰もがそれを同じルールに従って操作することができるようになる。当初は個人の心の中に浮かび上がっただけの概念も、具体的な集合として定義されることで、万人の共有財産になるのである。

 そのため、概念を重視する数学の展開と相まって、集合の理論の整備が進んだ。その先鞭をつけたのがデデキントだ。

(略)

 ところが20世紀に入ると、デデキントやカントールによって創成された「集合論」には、致命的な欠陥があることが明らかになる。特に、1903年に公にされた「ラッセルのパラドクス」は、当時の集合論が、数学の基盤としては極めて危ういことを明らかにした。数学は、その基礎をめぐる深刻な「危機」に直面したのだ。

(略)

 ヒルベルトは考えた。現実的には概念を駆使して展開している数学も、原理的には有限的で機械的な方法だけで実行できるはずである。(略)

定理や証明は文字で書き表されるから、数学者の最終的なアウトプットは、記号の羅列に過ぎない。

 だとしたら、ひとまず数学的思考の意味や内容ということは横において、現実の数学者が原理的に生み出し得るアウトプットを、少なくとも表面上はそっくりそのまま生成できるような人工的システムをつくることができるのではないか。

(略)

適当に決められた人工言語と推論規則からなる「形式系」を数学理論の似姿だと思って、数学理論そのものの代わりに、形式系について研究をすることにしてはどうだろうか。(略)

ヒルベルトは生身の数学理論を研究する代わりにその似姿たる形式系を研究することで、数学についての哲学的な論争を、数学的に定式化された具体的な問題に還元してしまおうとしたのである。

(略)

 残念ながらこの計画は、若き数学者ゲーデルのいわゆる「不完全性定理」の発見によって暗礁に乗り上げる。(略)

が、ヒルベルトの「方法」そのものは、「数学の救済」とは別の文脈で、後世に多大な影響を残した。

(略)

 たとえば数直線や関数空間 など異なるいくつかの数学的対象が、ある共通の性質を持つことを示したかったとしよう。このとき、個別の対象についていちいち似たような証明を繰り返すよりも、あらかじめ数直線や関数空間に共通する性質を(位相空間の)「公理」として取り出しておけば、あとはそれらの公理から目的の性質を導き出すことで、証明を一度に片付けてしまうことができる。このように、公理的な方法には、数学の異なる分野を、互いに結びつけてしまう力があるのだ。

 公理的方法のこの著しい生産性に着目し、数学の全体を公理によって規定された抽象的な「構造」についての学問として再編成をしようとしたのが、「ニコラ・ブルバキ」を名乗るフランスの若手数学者の集団だ。(略)

ヒルベルトの方法から多分に影響を受けた彼らの数学が、その後の数学のあり方を決定的に方向づけていく。いまや、数学においてブルバキの構造主義的考え方は、ほとんど水や空気のように浸透している。

(略)

 他方で、ヒルベルトの思想は意外な副産物をも生んだ。彼の「数学を救おう」という浮世離れした計画の果てに、コンピュータが発明されたのだ。ヒルベルト流の「数学についての数学」の考え方を身につけた若き数学者アラン・チューリングによって、「計算についての数学」が整備され、その理論的な副産物として、現代のデジタルコンピュータの数学的な基礎が構築された。

 数学の形式化、公理化は、数学から身体をそぎ落とし、物理的直観や数学者の感覚などという曖昧で頼りないものから自立させていこうとする大きな動きの帰結である。そうした時代のうねりが頂点に達した20世紀の半ばに、身体を完全に失った「計算する機械」としてのコンピュータが誕生したのだ。

アラン・チューリング

[ひとつ上の憧れの先輩が急死]突然の出来事に呆然とするチューリングを、モーコムの母が何度か自宅に招待したそうである。チューリングはその度に、モーコムが使った寝袋で眠った。そうしていると、そこにモーコムの「魂」が漂っているかのように感じられたという。

 そもそも物理学が描くように、人間もまた自然法則に従う一つの「機械」に過ぎないのだとしたら、どうしてそこに自由な意志を持つ「魂」が宿るのか。意志や魂という概念を、どうすれば物理的世界の科学的な記述と調和させることができるのか。「心」の世界と「物」の世界の折り合いは、いかにしてつけられるのか。こうした一連の問いが、次第に彼の頭を支配していく。(略)

[なぜ発展途上だった論理学を選んだか]

 どうやらチューリングは、「心」と「機械」を架橋する手がかりを、数理論理学の世界に見出したのである。(略)

[ヒルベルト流の「数理論理学」には]心の働きを対象化して科学的に研究するための、方法論のヒントがあったのだ。

(略)

 彼は計算する人間の振る舞いをモデルとした、ある仮想的な機械を考えたのだ。(略)

“数”はチューリング機械によって「計算される」だけでなく、チューリング機械として「計算する」ものでもあるという同義性を獲得した。チューリングは、自ら数に与えたこの同義性を巧みに使って、あらゆるチューリング機械の動作を模倣できる「万能チューリング機械」を理論的に構成してみせた。

(略)

“数”は、それを人間が生み出して以来、人間の認知能力を延長し、補完する道具として、使用される一方であった。(略)数はどんなときにも、数学をする人間の身体とともにあった。

 チューリングはその数を人間の身体から解放したのだ。少なくとも理論的には数は計算されるばかりではなく、計算することができるようになった。「計算するもの(プログラム)」と「計算されるもの(データ)」の区別は解消されて、現代的なコンピュータの理論的礎石が打ち立てられた。

(略)

 人間の知性には直観やひらめきなど、チューリング機械の動作に還元できない要素がある。チューリングはそれを差し当たりオラクルという「括弧」にくくったのだ。物理では説明できない心の神秘が「魂」の問題として残されたのと同様に、チューリング機械では捉えられない知性の直観的な側面が、オラクルとして彼のモデルの中に残った。

 説明できることと説明できないこと、科学的に語れることと語れないこと、その境界を冷静に見極めた上で、説明可能な部分から慎重に着手していくのがチューリングのスタイルだ。(略)のちに彼は「機械によって知性を構成する」という夢を抱き、世界で最初の人工知能研究者になるのだが、この段階ではまだ、そんな過激な思想は姿を現していない。

 そんな彼の運命を変えたのが、戦争である。

(略)

 暗号解読の過程は、人間の「心」が生み出すひらめきや洞察と、「機械」による愚直な探索とのコラボレーションそのものだった。それはチューリングにとって、「心」と「機械」の間に、新たな橋が架けられていくような、目の覚める経験だっただろう。(略)

[暗号解読に成功した]1941年に、「機械の知能」について論じたテキストを書き(略)「経験から学ぶ機械」という着想を早くも披露していたことがわかっている。

(略)

脳の中だけを見ていても、あるいは身体の動きだけを見ていても、そこに数学はない。脳を媒介とした身体と環境の間の微妙な調整が、数学的思考を実現している。

(略)

 ヒルベルトは言語的に書き下された証明の性質に注目し、その本質を取り出すことで、「証明」を新たな数学的対象に仕立て上げた。チューリングは、行為として現れている「計算者」の動作に注目して、それをモデル化することで「計算」それ自体を数学的な対象に仕上げてしまった。彼らは「証明」や「計算」という形で外に吐き出された数学的思考をうまく切り出し、記号化し、それ自体を対象化することで、実り豊かな数学分野を立ち上げた。

(略)

数学的思考はもちろん計算ばかりではない。何か言葉では言い表せないような直観、意識にも上らないような逡巡、あるいは単純にわかること、発見することを喜ぶ心情。そうしたすべてが「数学」を支えているはずである。

 だとしたら、「計算する機械」と「数学する機械」の間には、あまりにも絶望的な距離がある。そう考えるのが普通ではないか。

 チューリングは必ずしもそうとは考えていなかった。あらかじめ決められた通り、愚直に動き続けるだけの機械が、暗号解読において驚くべき貢献をした。それはまだまだ遠く人間の知能には及ばないけれど、人間の創造的思考を目指す出発点としては悪くない場所かもしれない。彼は、そう考え始めていた。「計算する機械」から出発して、それを少しずつ改良していけば、やがては「数学する機械」も、あるいは数学に限らず、まるで人間のように思考する機械も作れるかもしれない。チューリングの心の中に芽生えた「人工知能」の夢は、このあとますます膨らんでいくことになる。

2015-11-14 横尾忠則 『言葉を離れる』 このエントリーを含むブックマーク

「中学二年生の時、江戸川乱歩と南洋一郎の少年向けの小説を三、四冊読んだきりで、30歳になるまで読書を必要とする生活とは無縁の人生を送ってきた」著者の半生が綴られてる。そこらへんは飛ばして最後の方から。


言葉を離れる

作者: 横尾忠則

出版社: 青土社 発売日: 2015/09/25

モチーフは絵葉書の滝

[ファインアートが合体の対象としたサブカルチャーはマンガ、広告、写真だったので]

ぼくは挿絵を絵画の中に導入したかったのです。鈴木御水、梁川剛一、山川惣治、ドレを中心に、シャーロック・ホームズやジュール・ヴェルヌの挿絵など洋の東西を問わず一画面の中に混合させてしまいました。

(略)

 挿絵的世界を主題にした一連の作品に取りかかると同時に、次なる主題が無意識的世界で準備されていたことをある日滝の夢を見始めることで知り、無意識が開示されることになりました。それから滝の夢を連続して見るようになりました。日頃滝に対する関心が強かったわけではありません。滝の夢を見る前は水の底の小石まで鮮明に見える美しい清流の中を川魚が何匹も流れに逆らいながら泳いでいる光景を夢で度々見ていました。この種の夢は目覚めたあと不思議と浄化作用がありました。それに対して滝は圧倒的なエネルギーと力を与えられた気分で、どこか高揚するものがありました。

(略)

 滝の夢の反復はぼくに滝の絵を描かせる動機になりました。当時現代美術で滝の絵を描く作家は皆無だったので、主題のオリジナル性を強調していましたが、その内国内でも滝をテーマにする「滝の画家」と名乗る作家も現れ始めました。そうなるとぼくは二番手の作家と対抗する気もしなくなり、あっさり滝の絵を描くことを止めてしまいました。

(略)

 ぼくの滝の絵はストレートに滝を描くのではなく、人物を含む様々な事物が混在する複雑な形態の中を滝が流れているという作品で森羅万象が全て滝で結ばれているような作品です。このような滝の絵の資料として滝のポストカードを蒐集するようになりました。

(略)

最初は絵のモチーフで集め出した滝のポストカードでしたが、カムデンのお店からどんどん送られてくるようになり、気がついたら一万三千枚に達したというわけです。(略)

 カムデンのアンティークショップに依存するだけではなく、実際に国内の滝巡りをしながら滝のポストカードを集めました。(略)ぼくの滝巡りは滝見物ではなく、滝の観光地のお土産屋で滝のポストカードを買うことなのです。本物の滝を前にして絵を描くわけではありません。ぼくは子供の頃から模写しか興味がなかったわけですから、滝のポストカードを模写するだけです。ナイアガラの滝やイグアスの滝に行っても真っ先に走って飛び込むところはお土産屋で、滝のポストカードを買うのです。買ってしまってから本物の滝を見物するというわけです。

 ぼくがモチーフにする対象は滝に限らず、その大半は大量生産された印刷物からです。印刷物はその性格から複数部数存在しています。このようにマスプロダクションされた印刷物は大衆の目を通した一種のイコンでもあります。イコンには人々の願いや祈りや欲望の想念が印刷物の表面に付着してイコンエネルギーになっています。このように手垢ではなく、目垢のついた印刷物の図像を絵にするのが好きなのです。マスプロダクションされた印刷物を使用するという点はポップアートと似ていますが、その意味するところはかなり異なります。ポップアートは消費社会の産物を使用することで批評になったりしていますが、ぼくの滝のポストカードは同じ大量生産されたものでも、そこに人間の想念や思念が付着しているということで、ポップアートの物質性に対して精神性が強調されています。そこがアメリカと日本との違いということでもあります。このような発想は日本的というより、ぼくの内部の土着性の吐露を意味しているようにも思います。

絵のモチーフなんて行きあたりばったり。

 滝の絵を描いたり滝のポストカードのインスタレーションを発表しているぼくの作品を見た人はぼくが滝に対して並々ならぬ思い入れを抱いていると思っているようですが、ぼくは滝が好きでも嫌いでもありません。平均的な日本人が滝に興味を持つのとさほど変りはないと思います。(略)

絵のモチーフなんて行きあたりばったり、出会い順に決まるものだと考えており、その主題に特別の思い入れも執着も何もありません。また主題の意味するものを必要以上に深く考えることもありません。滝は滝以外の何物でもないのです。滝は滝なのです。その滝に様々な装飾的な言葉をくっつける必要はないのです。(略)余計な言葉をくっつけて語れば語るほど滝は滝でなくなって別の物になってしまいます。(略)禅は言葉を排して単純になることでしょう。絵も同じです。言葉が頭の中で戯れている間は無心になれません。言葉の支配から完全に離脱して初めて絵が描けるのです。言葉が頭の中から消え、肉体が発する言葉のみに耳を傾ければいいと思うのです。言葉が頭を支配している間は絵が描けても、魂は描けないと思います。

 この間藝大の大学院修士課程の卒業制作展を見に行って、生徒から自作について語ってもらいました。その言葉の大半は観念的で、肉体の言葉は全く聞こえてきませんでした。現代美術はいつの間に言葉を必要とするようになったのでしょう。自作を観念的に語れない者は美術家失格とでも教えられているのでしょうか。そして鑑賞者までいつの間にか洗脳されて、頭の中を言葉いっぱいにして絵を理解することになるのでしょうか。その時、鑑賞者の本能や感性は必要ないことになります。言葉ってそんなに信用できるものでしょうか。

(略)

絵は観念ではなく肉体です。だから絵では絶対ウソはつけません。馬鹿は馬鹿な絵を、頭のいい人は頭のいい絵を、病弱な人は病弱な絵を、その人の本性がそのまま肉体を通して表現されます。

言葉を離れる

若い頃は私がいて他人がいました。他人を意識する私がいました。老齢になると私と他人がひとつになるような気がします。そのことは作品の方が先に気づいてくれます。私が背負っている自我を私から下ろして身軽になりたいのです。確かに自我が私を作り、作品を創ってきました。しかしそんな私の季節は終ろうとしています。言葉さえも私から下りたがっているような気もします。だからですかね、ぼくの中から言葉が毎日のようにひとつ、ふたつと滑り落ちていくのです。人間が死ぬということは肉体の中から全ての言葉が失くなる状態を言うのではないでしょうか。言葉が残っている間は死ねないのかも知れません。そして死んだら新たな言葉が生まれ、生きていた時代の言葉はその機能を失うことになって、向こうではその意味も内容も伝わらなくなることでしょう。ですから生きている間にうんと使い果たして、言葉の器を空っぽにして旅立つようにできれば最高ですよね。なぜなら言葉の中には人間の煩悩がビッシリ詰まっているからです。

画家に目的はない

[三島由紀夫の死について]

 普通はみんな目的を持ちます、結果も考えます、大義名分があります、そういったことで初めて行動を起こすわけだけど彼の中にはそれはないんですよ。ところがそれを論じようとする人は結果を見る、目的を探す、大義名分はなんだったのかということに関心を持つんだけど、三島さんにははっきりそれがないんですよ。そこは絵描きの人間に似ていると思うんです。画家って目的も持ってないんですよ。ギャラリーで展覧会をするとか、有名になるとか、そんな目的じゃないんですよね。目的もないし結果も考えない。(略)

それでそういう質問されたらセザンヌも困ると思う。なんでリンゴばっかり描いてるかって、描きたいから描いてるとかそんなことしか言えなくなってしまうと思うんですよね。そのリンゴがなんで美術の革命を起こしたかはわからないし。ぼくは芸術で革命を起こす、あるいはいままで観たことないような美術に触れた時は観た人の意識というのか、概念がその時ドドドドって崩れていくと思うんですよ。それがぼくはその人の革命だと思うんです。

(略)

 絵の現物はその人の身体から流れ出たアウラというのがあるわけですよね。タッチとか、そういったマティエールに移し込まれているというのか、それを観客は観るんですよ。われわれはゴッホの麦畑や、ゴッホの郵便配達夫を観ているんじゃなくて、塗りたくった絵具のタッチを観ているんですよ。あのタッチの心地よさをみんな観ているわけで、美術史家的に観るとそこにいろいろな説明が加えられますよね。彼の人生経験あるいは彼の思想や歴史や宗教心、ありとあらゆることが美術史的に説明される。そうではなくて、あの厚く塗られた物質としての絵の具を観ているんですよ。だから例えばマグリットのように技術を消したような絵からさえも絵の具の表層を観るんです。ただマグリットの場合はすごく思索ということ、考えるということを絵にしている人で、デュシャンほども徹底してないけども、絵を通してものを思索するわけですよ。そんなめんどくさいこと、それよりゴッホみたいに絵の具を観ているほうがいいんじゃないですか。だからマグリットの受ける今日性というのはたぶんマグリットの絵が言語的で観念的だというところもあると思うんですよね。

(略)だけど彼は20世紀の芸術に大きい影響はさほど与えてないと思うんですよ。芸術の前進が見られないんですよね。ピカソなんかどんどん自分の描いたものを否定してそれを破壊させ、崩落させながら進歩していくわけだけどもマグリットは同じスタイルでずっと来ているから芸術の進歩はないんですよ。マグリットは絵描きと呼べないかも知れない。むしろ哲学者と呼んだほうがいいのかも知れない。絵描きとしてはよくないですよね。すごく技術の優れた上手い看板屋さんみたいなものだから。だけど、彼の絵の普遍性は彼の絵が全部思索しているということにあるでしょうね。だからマグリットは文学者が奸きなんですよ。また観念的な人によって愛されているんです。だけどデュシャンから見れば「甘い!」ということになるでしょうね。デュシャンの考えはすごいですからね。ピカソだったら「お前そんなことで頭使ってる時間があるんだったらもっと描け」と言うでしょうね。

(略)

サント・ヴィクトワール山は一体何枚描けばいいのか。文学だったら、一作書けば同じようなものを何作も書く必要はない。ぼく達はそうじゃない。ひとつのことを描くと。どのように描けばこの絵を通して本当のことが言えるのかということを模索しているわけですよね。100枚描けばいいのか、200枚描けばいいのか。実にくだらないことを追求しているわけですよね。世間にとっても自分にとっても実にくだらない。これものすごく頭のいい、明晰な奥さんがいれば「あなたなんでこんな毎日なんの役にも立たない同じものを描いているんですか」って言われるかも知れない。ぼくが絵描きの奥さんだったらそう言いますね。意味がないことをやっているわけだから。意味のないことをいかに深く追求するかということで、これは描いていかないとわからないんですよ。よくこれで誰も怒らないで許してくれるなという。すごく笑っちゃうくらい不思議ですね。

 だけどこれはやっぱり自分の中で革命を、自分なりのレボリューションを起こしたいという気持なのかも知れないですね。昨日までうんと抽象化されたあれを描いた。ついに抽象まで来たじゃないか。これで終りかなと思ったらそうじゃない、今度は具象にボーンと180度もどってしまった。ここから描き始めて、また抽象にいくと思うんですよ。そうするとあの抽象じゃない別の抽象にいくかも知れない。あるいは……全然わからない。人生はこういうものなのかなと。

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横尾忠則のツイッター本 - 本と奇妙な煙

2015-11-12 アメリカ西漸史・その2 ブルース・カミングス このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


アメリカ西漸史―“明白なる運命”とその未来

作者: ブルースカミングス 渡辺将人

出版社: 東洋書林 発売日: 2013/10

日本人強制収容

[イサム・ノグチは]自ら進んでコロラド州ポストンの収容所で6ヶ月を過ごした(略)「真珠湾は決して消えないショックだった。一瞬にして自分はもう彫刻家というだけの存在ではいられなくなった。自分はアメリカ人というだけではなく、2世だった」。名前ではなく通し番号で呼ばれるような1万7000人が詰め込まれた収容所に、志願して入るという珍しくも勇敢で叡智溢れる行動は、「非現実的な忘れられない感情」から生じたものだった。この感情がもとで「完全に一員になれない」という気持ちを、前半生の40年間、ノグチは抱き続けた。

(略)

1942年初頭、アイダホ州知事のチェイス・クラークは、日本人はすべて日本に送還し、そのあとで「列島を沈めろ」と促した――「日本人はネズミのような暮らしをし、ネズミのように繁殖し、ネズミのように行動する。あいつらはここには要らない」。

(略)

 日本人の強制収容は歴史上まったく前例のない措置で、大量のインディアンの強制移住の延長にあるものでもなかった。1929年の大恐慌で数百万の失業者がでたときに、アメリカの権力者はメキシコ人の追放も考案した。1929年から1935年まで、連邦から地方に至るあらゆるレベルで公的機関が、50万人から100万人ほどのメキシコ人を追い払ったが、そのうち不法移民は10万人ほどにすぎなかった。

(略)

 不名誉なエスニック集団の強制移住は、まるでスターリンがやったことにも値するようなことだが、戦争が始まって労働力不足が深刻になると、あっというまに方針が逆転した。安いメキシコ人の労働者を大急ぎでアメリカに入れるため、「ブラセロ・プログラム」が発動され、戦争中に20万人が国境を越えた。アメリカ政府が彼らの交通費を支給していた。

沖縄

沖縄は、日本のなかの「韓国」として機能している。海外に永続的に展開している唯一の海兵隊の遠征軍の拠点である(第3海兵遠征軍)。日本の新しい基地建設は朝鮮戦争と共に幕を開けたが、韓国と違って日米のエリートはほとんどの米軍基地(約75%)をこの小さな島に押し込めることができたし、日本人の大半の目からそらすこともちょうど可能だった

(略)

 職業軍人は保守的で共和党に投票するという点では(略)基地の一部はスモールタウンのアメリカかもしれない。(略)公民権運動、ヴェトナム戦争、セックス、ドラック、ロックンロールがまるで存在していなかったかのようだ。2003年、アフガニスタンで亡くなった兵隊の葬儀では「詩篇23」に続きジョン・ウェインの映画『グリーン・ベレー』で使用された曲『グリーン・ベレーのバラード』が流された。こうした感覚は妙な慣習に支えられている。それはそこかしこにある、病理的ですらあるジェイン・フォンダ嫌悪にも見られる。フォンダの写真は軍の施設の小便器にも貼りつけられている(ここを狙え)。共通の儀式として、アメリカ海軍士官学校では下級生が消灯時に「グッドナイト・ジェイン・フォンダ!」と叫ぶと全員が「グッドナイト・ビッチ!」と返答する。

(略)

 夕食後に部屋に戻って、米軍放送のテレビのスイッチを入れた。ドン・ラムズフェルドがイラク戦争は敗戦ではない、我々は苦境には陥っていないと語っていた。ニュース、スポーツ、それから基地外のアクティビティを紹介する 「コマーシャル」ブレイクである。サドウを学びましょう、スシの食べ方を学びましょう、日本語を勉強しましょうという、現地人と仲良くやっていく方法の有り難いアドバイスである。ご立派なことではあるが、まったく同じものを韓国でも目にし、その上で、数十年間なんの顕著な結果も生まれない現実も見た。大槌を握る男が大きな女性の彫刻を一撃で破壊するという、性的虐待や攻撃を戒める強烈な映像が流れた。ほかのクリップでは「アメリカの人種の坩堝」を賞賛しているらしい『キスして、私はポーランド系です』というものが流れていた。

◆結論――永遠の群島◆

 ヨーゼフ・シュンペーターにとって、帝国主義は先祖帰りであった。元々は膨張主義者の口実として求められた戦略や政策だったが、目的を見失ってからも長いあいだ継続する運動の機械となった。帝国主義は「際限ない強制的な膨張に向く、国家の一部に見られる目的なき性質」である。新聞では毎日のようにほとんどお笑いとしか言えないような議論が書かれている。アメリカ軍はイラクから明日にも撤退すべきだとか、来年がよいとか、5年後がよいとか――失笑を禁じ得ない。なぜなら、1945年以降の歴史は本質的にアメリカ軍が完全に撤退することはないことを明確に教えてくれるからだ

(略)

 この帝国は軍事的な特徴を帯びざるを得なかった。なによりまず1950年には問題は軍事的に定義された(略)。第2に、アメリカはおよそ帝国の文官らしき存在を抱えていなかった。1950年代以前は、外交の世界はアイヴィーリーグと品のよい伝統の縮図であり、ほとんどアメリカ人の目の届かない場で、さほど忙しい仕事もないままで淡々と行われていたものだった。ジョージ・ケナンのような傑出した人物も輩出したが、国内には強力な地盤を育てられなかった。マッカーシーの中国担当外交官叩きが、アメリカの東アジア外交の専門性を1世紀ものあいだ、台なしにさせたのは、よく知られるところだ。ニクソンによるアルジャー・ヒスヘの攻撃は、さらに悪い結果を生んだかもしれない。ピンストライプのスーツを着込んだ連中は、誰もが疑念の対象となり、アメリカ国内に生息する外国人のような存在と見られるようになったし、国務省の権限も致命的に弱まった。そして1960年代、マクジョージ・バンディ、ウォルト・ロストー、ヘンリー・キッシンジャー、ズビグニュー・ブレジンスキーなどのなどのアカデミック・スペシャリストが登場する。彼ら催眠術師は、国際問題に関するオカルト・サイエンスを大統領に吹き込んだ。彼らは国務省には敵対的に接し、本音では同省を無視しつつも責任だけはそこに割り振った。かくして国務省の影響はかつてなく薄められた。国務省は明確な利権基盤のない、ただの外交当局だと思われがちだが、世界中の700以上の軍事施設はしぶとく長いあいだ生き残る。彼らは永遠の辞令を自律的に抱えている。外国の米軍基地の仕事ぶりを予想することはできるし、Kストリートのロビイスト集団のように、根絶もできるかのように見える。40年近く前、上院外交委員会はシュンペーターを要約してこう記した――「一旦アメリカの海外基地が根を張れば、自律的な生を歩み始める。元来の任務は時代遅れとなっても、新たな任務がつくり出される。施設を維持する意図はもちろんのこと、多くの場合は実際には拡大するためである」。米軍の威力がいかなる潜在的なライバルのそれよりも大きく、自国領土内の大陸からいかなる敵を撃つこともできるようになったからと、あちらこちらに広がる群島の必要性を問うたところで、その問いは要点を外している。すでに基地は存在しているのだ。であればこそ、末永く生き残り続けるのだ。

2015-11-10 アメリカ西漸史 《明白なる運命》とその未来 このエントリーを含むブックマーク


アメリカ西漸史―“明白なる運命”とその未来

作者: ブルースカミングス 渡辺将人

出版社: 東洋書林 発売日: 2013/10

◆庭園の機械◆

1812年の米英戦争当時、敵のイギリスは「サタンの慰撫を受け、楽園からアメリカの第1世代を奪おうとしていた。平和で農業に基づく土地を、軍事と製造業に基づく国に変えようとしていた」と、トマス・ジェファーソンは嘆いた。戦争は機械を突き動かし、機械は戦争を突き動かした。ソローにとって、ウォールデン池の静寂を台なしにする蒸気機関車の汽笛は、隔絶された世界としての、囲われた空間の平和を乱す機械にほかならなかった。その流れに抗して、人々は後ずさりし、あるいは反逆した。森のなかに還り、近代からの逃亡を図り、西に行く決心を固め――そして遅かれ早かれ、喪失と諦めの感覚を引きずって、都市の産業が象徴するアメリカに戻ってくるのだった。(略)

 レオ・マルクスは1964年に出版された『庭園における機械』という影響力のある本によって、「田園的な理念における機械はアメリカ発見の時代からずっとアメリカの意味を定義づけてきた」と論じている。

(略)

 レオ・マルクスによれば、アメリカの田園はひとつのデザインであり、「理想が部分として取り込まれる、そうした思想や感情の大きな構造」である。それに抗う動力こそ機械であり、ソローやホイットマンにとっては蒸気機関、あるいは織物工場ということになるのかもしれない。それらはメルヴィルの『白鯨』で、怪物の骨組みを眺めるイシュメイルの脳裡に突如として形象が浮かび上がるようなもので「田園的な空想の満足に浸っていると、突然、衝撃的な介入者が現れたのに近い」。

◆シカゴ――大平原の幻影◆

 アメリカ第2の都市の名称は、ミシガン湖の南西の端あたりから出ている悪臭の蒸気に由来している。ゲイリーの製鉄工場のことではない。ピエール・デュ・サブレという黒人が、臭気漂う沼をインディアンの言葉で悪臭を意味する「シカゴ」と呼んだからだ。縦横無尽に広がる都市に、ゲイリーから近づいていくと、巨大な湖畔のスカイラインが幻影のように突如として出現する。19世紀半ばのこの街も、それは同じだった。熱情で衝き動かされるジェファーソンの言う強欲な都市の怪物の典型例として、突如として出現し、中西部におけるロサンジェルスの初期のように、大平原を飲み込んでいった。大いなる湖と悠然と広がる河川、西に向かうたなびき、そしてほどなくして生じる鉄道からなる合流点で繁栄したこの都市は、それまでのアメリカにはそぐわないほどの急成長を遂げ、西部や南西部でのちに短期間に勃興する都市の先ぶれとなった。はじめて西部の典型的な都市として出現したシカゴは、デンヴァーのみならず太平洋岸までのすべてを見渡す都市という、まったく新しい存在を示した。第2次産業革命のとてつもない力とあいまって、シカゴは地域における巨大産業の中心地となった。産業地帯はピッツバーグからクリーグランドやデトロイトを通ってセントルイスやカンザスシティヘと広がり、これが中西部を変質させると共に、もうひとつのエデンやアルカディアに対する希望と夢を打ち砕いた。シカゴはフレデリック・ターナーの緩慢に進化していくアメーバのようなアメリカの発展の道に終止符を打った。つまりはフロンティアを終焉させ、革命と置き換えたのだった。

(略)

鉄道は、シカゴという地理上の「針の穴」を通って、トウモロコシ、小麦から豚や牛にまで及ぶ西部の産物のすべてを輸送し、それらを中西部、東部、ヨーロッパで売りさばいた。より大きな視点をとれば、シカゴという都市の誕生は、ともすると世界経済における意義としても解釈され得るだろう。(略)

穀物、食肉、西部からの鉄道貨物を捌き、また、商業会議所という優れた価格決定のメカニズムによって需給を管理することで、ロンドンとニューヨークという金融センターを支えたのだった。

 大穀物倉庫、商品取引所、トウモロコシを、肉、すなわち豚に変える優れた手段を管理する方法など――現代の太平洋岸諸都市のように、シカゴはイノヴェーションの中心でもあった。鉄道が穀物の単位をブッシェルから「貨車1両分」 へと変えた。最も儲かるのは、穀物の荷を素早く下ろし、貨物車を空にして西部に戻すやり方だった。シカゴでは多量の穀物を余らせ腐らせもしたが、その問題もバッファローで1832年に発明された蒸気駆動を導入した大穀物倉庫が解決してくれた。大規模に荷下ろしされた穀物は回転する落とし樋に投げ込まれ、貯蔵庫に蓄積された。コンベヤーベルトが自動的に穀物の川を動かし、計測し、運び、分類した。セントルイスでは、まだ人足を使って穀物を袋ごとにミシシッピ川のはしけから工場へと運んでいた時代である。大穀物倉庫には、1日何百万トンもの穀物が道ばれた。この巨大な倉庫は、12車両分、すなわち2万4000ブッシェルもの穀物を1時間でさばき切った。シカゴは、12ものこうした大穀物倉庫を擁していた。

(略)

 トウモロコシを市場に持ち込むにあたって、食肉としての豚にするのが最も効率的に利益があがる方法だと、改革の嗅覚に長けた者は気づき、それによってシカゴはまったく違う街へと変貌した。複数の畜役所が誕生し(湖畔の畜殺所のように)、何世代ものあいだ売買業者は豚の腹やトウモロコシで荒稼ぎする一方で、荒くれものの労働者たちが、泣き叫ぶ獣の喉をナイフでかき切った(ノーマン・メイラーは「家畜は頭上のトローリーで霊的な循環に乗せられていた。次の家畜、そのまた後ろの家畜と、畜殺は死の叫びを生じさせた」と書いている)。

(略)

シカゴにすべての豚を集めるアイデアが生まれ、「解体ライン」に豚を走らせ、流血の湿気に満ちた硬い金属音の響く、悪臭を放つ不快な空間としての畜役所が、アメリカの産業を次の世紀で突き動かす大量生産技術の先駆けとなった(後にヘンリー・フォードの組み立てラインが生まれた)。そこでは、解体された豚や牛を腐らせる前に市場に迅速に運ぶ問題も生じた。ガスタヴァス・J・スウィフトが冷凍車(柑橘類の輸送業者が発明した)を採用し、豚や牛をポークチョップやTボーンステーキとして、東部の市場に流通させた。南北戦争が終わる頃までには、シカゴは「豚の都」というタイトルをシンシナティから奪い取った。

ネイティヴ・アメリカン

 メキシコ以北に生存していたインディアンの7分の6が、1492年から1600年の間に死滅したという事実は

想像を絶するが、人口減少はヨーロッパ人の植民と同時に始まった。(略)

大半は天然痘、腸チフス、はしか、コレラ、横根、マラリア、黄熱病などの病気で死亡した。どれも新世界には存在していなかったもので、ネイティヴ・アメリカンの免疫システムは、病原菌の前になすすべもなく徐々に屈服していった。

(略)

疾病の感染源となったヨーロッパ人は、病原菌を意図せずばらまいたが、一方、意図的にインディアンに施す物資に塗り付けておくこともあった。たとえば毛布である。カルヴァン主義者で不屈の信仰心の持ち主であったコットン・マザーは、神の意志と考えたが、「天然痘をインディアンの間で流行させる」ことを確実にする含意もあったのである。人口減少は驚異的であり、死神が恐ろしい勢いで大陸を駆け抜けた。マサチューセッツ岸のインディアンの90%が1617年から1619年に天然痘で亡くなったのだ。ヒューロン・インディアンは1640年代に人口の半数から3分の2を感染症で失った。大平原地帯の複数のインディアンの部族のなかには、97%から98%も数を減じた部族もいた。クロウ族は70%、アラパホ族は43%減った。天然痘はマンダン族を滅ぼし、スー族のラコタの民をほぼ壊滅させた。1900年、インディアンの数はアメリカの領土全体のなかでも22万人から30万人くらいの数になっていたが、彼らは「人類史でも最大の人口動態上の大災害」の生き残りである。

 連邦議会と国土調査者たちは、フロンティアはただ空っぽなのではなく、所有地として誰も保持していないと考えた。マサチューセッツ湾植民地知事のジョン・ウィンスロップは、はるか前からインディアンは土地の所有者ではないと宣言していたが、その根拠はインディアンが土地に囲いをつけないことや開墾しないことにあった。それに対してインディアンの族長のマサソイトは、プリマスの植民者に問うた――「所有地と呼んでいるのはどういう意味であろうか。大地を所用することはできない。なぜなら土地は母であり、母の子、獣、鳥、魚、すべての人間を育ててくれる」。大地は「すべての者のためにある」。そうした土地がどうして1人の人物に帰属するのか。マサソイトの説得力ある議論は、のちにまもなく大陸を飲み込む所有をめぐる個人主義とは共鳴しなかった。

『日米必戦論』

 膨張主義者の論壇のなかで増えていた記事は、カリフォルニアの侵略を日本が極秘裏に進めているというものだった。ホーマー・リーという、奇妙な男が『無知という勇敢』(1909)[『日米必戦論』望月小太郎訳]のなかで、日米の衝突は避けられないと書いた。彼は経済競争が戦争につながるという複雑な論理を組み立てていた。有事になれば、日本海軍はワシントン州のチェヘイリス、サンフランシスコのゴート・アイランド、ロサンジェルスの3ヶ所に100万人の侵入者を送り込むだろうとしていた。リーの本は詳細な地図とナンセンスで埋めつくされ、よく売れた。アメリカの参謀本部は、彼の本に真面目に注目した。マッカーサー将軍の情報参謀のチャールズ・ウィロビーは、1941年に引用までしている。ハースト・プレス社は、日本の太平洋岸への脅威の噂を煽りたて、1915年9月の記事では、どのように戦争が展開するかといった計画もご丁寧に提供している。陸海共同戦におけるカリフォルニアの海岸上陸作戦の訓練だとして紹介された、日本兵士の写真も掲載された(のちにそれは日清戦争の修正写真であることが証明された)。ロサンジェルスの地元紙は、いったん戦争が始まったれば、日本の鉄道労働者がヘンリー・ハンティントンの「レッドカー」網を乗っ取り、日本軍の師団をロサンジェルス郡界隈で輸送するのだと書き立てた。こうした言説を一笑に付すアメリカ人は「ホワイト・ジャップ」と呼ばれた。『侵略』という名の小説は、ロサンジェルスっ子の究極の悪夢を想起させた。日本の飛行機がロサンジェルスを焼夷弾で火の海にして、地上に降りてきた落下傘部隊は「悪魔のような形相でオレンジをぱくぱく食べる」といった描写だった。

 日米戦争の最も有名なシナリオは、ヘクター・バイウォーターによる1925年出版の『太平洋海権論』だった。日本によるアメリカ太平洋艦隊への攻撃で戦争が始まるというシナリオの本で、作者本人の言では、後々に評価を得たという(確かに彼は真珠湾攻撃こそ予測しなかったが、フィリピン、グアムヘの1941年の攻撃といういくつかの点を予見した)。彼によれば、日本を封じ込める唯一の方法は、フィリピンとミッドウェイとウェーク島に海軍基地を造ることだったが、それはまさに戦争とその後に対する予言めいた示唆でもあった。真珠湾攻撃の設計者、山本五十六長官は、ワシントンの若き海軍駐在武官だった時分、バイウォーターの本から詳細を学び、東京の日本政府にレポートを書いて報告していた。言うまでもなく、白人対黄色人種、アングロ=サクソン対ジャパニーズ・サムライという「人種戦争」になることが予測されたが、陸軍元帥の山縣有朋は、人種間の黙示録的な衝突の予測にあえて注目していた。

[Bywater(1925)On Yamagatas's racial views]

次回に続く。

2015-11-08 ユリイカ ケラリーノ・サンドロヴィッチ特集 このエントリーを含むブックマーク


ユリイカ 2015年10月臨時増刊号 総特集◎KERA/ケラリーノ・サンドロヴィッチ -有頂天、ナゴムレコード、ナイロン100℃・・・

ケラリーノ・サンドロヴィッチ 宮沢章夫 松尾スズキ 大森靖子

出版社: 青土社 発売日: 2015/09/19

【対談】宮沢章夫+ケラリーノ・サンドロヴィッチ

シティボーイズ

宮沢 シティボーイズは基本、もの[ネタ]を考えるのは意外なことにきたろうさん。(略)ああ見えても、本当はきたろうさんがリーダーなんだよね。実はひとり、年齢が一歳上だし。隠してるけど……

ジュネス企画

KERA (略)当時、渋谷の道玄坂のマンションの小さな一室に会社があって、そこにドンと置かれている棚にフィルムがいっぱいあるんですけど、僕は学校帰り、友達とも遊ばずにそこに毎日通ってたんです。社長がひとりでやってる会社だから、彼は黙々と外国にタイプを打ったりしてるんだけど、僕はただじーっと、そこにあるフィルムをひたすらに眺めてました。そのうちに勝手に8mm映写機を持ってきて、部屋の片隅で上映したりするようになった(笑)。きっと、それもぜんぶ僕が子どもだったから許されたんですよ。そうやって、中学生から高校三年生までそこに入り浸ってました。

 あるとき、芦屋雁之助さんや小雁さんが会社に来て――ふたりはそれぞれホラー映画とミュージカル映画のマニアなんです――、社長と話してるのをそばで聞いてたんですけど、たまにこっちに話を振ってくるんですよ。「ところで君はなんだ?」って(笑)。(略)ソーダ水をおごってもらった

小林信彦

宮沢 (略)KERAと僕では小林信彦に対する評価がちょっと違う。単純なことを言うと、KERAは『世界の喜劇人』が好きで、僕は『日本の喜劇人』が好きっていうね。これはけっこうな違いなんですよ。KERAは“ギャグ”っていうものを純粋に好きなんだなと思う。

KERA そうですね。『世界の喜劇人』は、コメディアン論や作品論を通した、おそらく日本初のギャグの分折書ですからね。『日本の喜劇人』は、半分は人間観察ですよね。自分が実際に接した喜劇人を語るわけですからね。それ以上の強みはないでしょう。小林信彦さんにしか書けなかった一冊ですね。

(略)

宮沢 僕は、『日本の喜劇人』は21、2歳のとき、30回は読んだんですよ。それで、ひとりひとりの喜劇人についての年表まで作った。どうかしてんだよね、この段階ですでに(笑)。そこでハタと気がついたのはね、これって、小林信彦の青春の挫折の記録なんだってことだった。これは小林信彦の私小説なんじゃないか。だから、やっぱり小説家なんです。日本の喜劇は、アメリカの喜劇が当たり前に持っていた“乾いた笑い”を作ることができない。そのことに対する挫折感とか諦念が、小林さんの基本にある。

 あるとき深夜に、アメリカの批評家が選んだ「喜劇映画ベスト100」みたいな番組をテレビでやってたんだよね。それで、さすがだなと思ったのが、チャップリンよりもマルクス・ブラザーズとバスター・キートンが上位にランクされている。ところが、それでも『吾輩はカモである』は二位なんだ。じゃあ、一位はなにかっていうと、ビリー・ワイルダーの『お熱いのがお好き』なんだよね。これはなにを表しているかというと、いまの日本に照らし合わせてみれば、つまり、KERAや松尾君より、三谷幸喜さんが上にくるっていうことでしょ(笑)。(略)

もちろん、作り手としてのビリー・ワイルダーはすごいけど、僕にはできないですよ。要するに、三谷幸喜みたいには書けない。(略)書かないんじゃなくて、書けないとしか言いようがない(笑)。技術的に、あんなにうまくできないと思ってる。

KERA そうですかね? たしかに三谷さんは抜群にうまいけど、仕掛けとしてはわりと簡単なつくりじゃないですか? 伏線の張り方なんて、とんでもない破天荒なひねりのあるものよりもむしろ定石のパターンのほうがしっくりきたりするし。

(略)

[若い演劇人の「笑い」について]

KERA (略)書く方はともかく、演者のスキルは一時期より低下してると感じます。(略)「やり方ひとつでいくらでも笑えるものになるのに」ともどかしく感じることは多いですね。(略)笑いの勘みたいなものについては、きっとそれを下の世代に伝承してゆくシステムが途絶えてしまったんだろうとも想像します。そこには「観客が笑いを求めなくなった」という単純な要因があるのかもしれません。

宮沢 舞台においても、テレビ的な笑いが、むしろ主流になってるところはあるのかもしれない。僕らが始めたころは、テレビの笑いも、ある種類の芸人さんもつまんないっていう前提があったんですよ。それをどうやって壊していくかって気持ちが強かった。

(略)

いまであれば笑いをやりたかったら吉本とか人力舎とか、ああいうところに行くってことになるのかなあ。学校もあるし。それはそれで正しいと思うけど。

【ナゴム座談会】大槻ケンヂ+直枝政広+まゆたん

[人選はKERAと聞かされ]

大槻 たぶん、創成期を知ってる人(大槻)と、ファン目線の部分もあった人(まゆたん)と、あとは音楽的にいちばんまっとうな人(直枝)。そういうことですよ。いや、まゆたんはまっとうだけどさ。

(略)

[すきすきスウィッチの「おみやげ」を「勝手に歌った」とKERAが佐藤幸雄に怒られたという話から]

大槻 KERAさんはたしかにそういうところがあって、当時、僕の学校の先輩がローションズっていうバンドをやっていたんですけど、どうも初期有頂天の曲は、かなりの曲がローションズの曲なんですよ。(略)

直枝 気持ちが先走って、好きだとやりたくなっちゃう(笑)。悪気はまったくないんですよね。

(略)

大槻 KERAさんのいいところはね、笑ってくれるところ。KERAさんって、これは酷いっていうことでも、たいがい「アハハ!それおかしいよ!」って笑ってくれるんですよ。そうするとこっちも乗っちゃうでしょ。それで悪乗りの連鎖が始まる。空手バカボンもその延長線上でしたね。(略)KERAさんって、生まれて初めて自分の表現を評価してくれた人だったと思うな。(略)

直枝 僕もそうでしたね。知らない人がいきなり来て、自分のやってることを「それいいね!」って褒めてくれた。「こっちおいでよ」って言ってくれたのがKERA君だった。

(略)

大槻 (略)我々は脇の変なところで売ってるような感じですよ。だから正直に言って、カーネーションはナゴムにいちゃダメだよ!って思ってた(笑)。KERAさん、ちゃんとした人たちをそそのかさないで!ナゴムは空バカと木魚でいいじゃん!って思ってましたよ(笑)。(略)

格闘技で例えるとね、佐山聡っていう初代ダイガーマスクがいて、たしかに才能があってすごいんだけど、ありすぎてちょっと先走っちゃうんですよ。まわりが「おいおい、待てよ……」っていう感じになって孤立していくところがあったんだけど、KERAさんにもちょっとそういうところがありましたよね。KERAさんはあっちに面白い人がいる!ってなるとどんどん呼んできちゃうし、こっちで面白いライブがあるって聞くと出るって決めちゃうし。そうやってひとりでどんどん進んでいっちゃうから、まわりがついていけないなってことはありました。だから、その後劇団をあんなに大きくしたのには驚きました。

(略)

[今でも昔の印象と変わらない、行動的なとことか、という話から]

直枝 (略)当時、KERA君と毎週電話で熱く語ってたことはいまでも思い出すし、初めてレコードができて、恵比寿のウェンディーズで待ち合わせをしたときのこともよく憶えてるんです。真夏の暑い日に(略)「直枝さんできたよー!」って、汗だくだくで紙袋に入れた大量のレコードを両手でぶらさげてやってきたの。そこから取り出した何箱かをくれて「あとは自分たちで売ってお金にしてね」って言い残して、KERA君は「新宿の帝都無線にレコードを置いてもらってくる」って去っていった。その姿ばっかり憶えているんですよ。かっこいいなあって思った。そういうのがいまもずっと続いてる感じが伝わってくるんです。Twitterなんか見てると、あの人、ずっと動いてるでしょ。書いたり考えたり、止まることをしないから。

(略)

大槻 これはみなさん同意してくれると思うんだけど、「KERAさんじゃしょうがない」って思わせるところがある。それが面白いところですよね。そこが魅力、っていうのとはちょっと違うんですけどね(笑)。(略)

KERAさんが言うんじゃしょうがない、むしろやってやろうって気持ちにさせてくれるところがあるんです。(略)

[日本ロック界はヤクザ型の縦社会なとこがあるけど、ナゴムは横社会]

誰もKERAさんのために盾になって死のうっていう人はいない感じがあったわけですよ。(略)

いまでも語りぐさなんですけど、ナゴムにほとんど関わっていない、当時電気グループのまりん(砂原良徳)さんが、KERAさんがあるバンドマンにからまれたときに、「KERAさん逃げて!」って盾になったんです。……KERAさんをいちばん守ろうとしてくれた人がナゴムじゃないまりんさんだったっていう(笑)。

(略)

実はKERAさんって、異様にヘビーメタルを嫌うんですよ(笑)。ハードロックが嫌いなんですね。だから有頂天と対バンしたいんだけど、KERAさんは筋肉少女帯が嫌だろうから誘えないなって。(略)

KERAさんの映画では『グミ・チョコレート・パイン』がいちばん良かったな。(略)あれは俗っぽい面が出てていいよね。KERAさんがひとりでどんどん作ると、ウディ・アレンになっちゃうからね。

2015-11-06 『オンライン・バカ』 ウィキペディアの問題点 このエントリーを含むブックマーク

パラッとめくって、ウィキに関するあたりだけ読んだ。

原題は「The End of Absence: Reclaiming What We've Lost in a World of Constant」。惹句だとしても、「オンライン・バカ」というタイトルはどうなんだろう。


オンライン・バカ -常時接続の世界がわたしたちにしていること-

作者: マイケル・ハリス 松浦俊輔

出版社: 青土社 発売日: 2015/08/24

ウィキペディアの問題点

[ジェームズ・ハイルマン](略)は、ウィキペディアの使命の正しさを信じている。週に40時間は小さな町の病院にある救急治療室で医者として働き、さらに40時間をウィキペディアのための無給の仕事に充て、余暇に医療関連のページを編集し、補強している。(略)およそ800人の活発な管理者の一人だ。仕事に深く関与しており、最近は、「妊娠」のページの冒頭につける画像は裸の女性にするか着衣の女性にするかという、五か月にわたる議論を差配した(100人の利用者が投票して、最終決定による画像がアップロードされた――着衣だった)。

 アドミニストレーターは決して栄光の地位ではない。この称号が与えられると「アドミンシップ申請」の後、一週間ほど、博士論文の口述試験のような同業者による審査を経る(略)アドミニストレーターは真偽を判定することはできない。ただそこに向かってモップをかけることができるだけだ。

 しかし数年前、ハイルマンは「超越瞑想」(Transcendental Meditation、略称:TM)の真偽をめぐる争いに巻き込まれることになった。(略)ウィキペディアが超越瞑想には健康について無視できない利益があると公式に述べていた。ハイルマンは文献を調べ、その主張を支持する証拠が見つからないので、当該ページから違反する文章を削除した。

 その部分はすぐさま再掲された。ハイルマンはTMは新興宗教と考えていたが、TMの人々は自分は科学者だと考えていた。「自分たちの」ウィキペディアのページで挙げられるようになった出典は、すべて超越瞑想の綱領と連動した研究だった。

 ウィキペディア上での論争は、一般の投票で決着がつけられる。両陣営の一定回数の改訂合戦が行なわれた後に、単なる手順の一つとして、そのような投票が行なわれる。しかし、ハイルマンとTMの件は一般の編集者(つまり利用者)が投票に関心を抱くほどではなかった。TM側で作業する編集者チーム(わずか10人ほど)でも、実施されたどの文言についての投票にも勝つことができた。TM編集者はTimidGuy〔臆病者〕やLittleOlive〔オリーブちゃん〕のような、格別に弱者風に見せることをねらって選ばれた(とハイルマンは言う)ログインネームを使っていた。

 「連中は実際にはいつもめちゃくちゃ礼儀正しい奴らですよ」とハイルマンは私に言った。「不満をあらわにしたりしないで、いつも定められた通りにふるまってます。ページに自分の見方を、何年もかけて、穏やかに、静かに押しつけた、礼儀正しい、良心的な編集者です。総じて宗教はそうですが、辛抱強く、心理学もよく理解しています」。

 ハイルマンは自分自身の真実、伝統的な科学の方法に沿った真実のために戦い続け、結局、ウィキペディアの投票方式を回避する方法を探した。ウィキペディアの論争の大多数は一般投票で決着がつけられるが、さらに高い権威と呼べるグループが一つあった。「裁定委員会」だ。ジミー・ウェールズはこのサイトを設立してから二年後、編集者間のどうしようもなくなった論争に決着をつけるための委員会を考えた――そうして12名(今は15名)を選んだ。ハイルマンはこの超越瞑想の件を、この最後のよりどころとなる法廷に二度持ち込んだ。

 何にもならなかった。「裁定委員会は行儀作法の問題を判断するだけで、事実かどうかの問題は判断しないんです」と、ハイルマンは説明した。つまり、礼儀正しくふるまえば、その人による真実は、うるさい事実を振り回す人からとやかく言われても残ってよいということだ。(略)

[委員会の一人に確認すると]

1ダースをちょっと超える人数で、医学から宗教からさらにその向こうのすべての内容の問題について判断を求められる資格など、まずありません。扱えるのは、人がどうふるまっているかです」。奇妙なことに、裁定委員会に持ち込まれる事例はどんどん少なくなった。2006年には116件あったが、以後、その数は急降下している。2013年には、委員会が扱ったのはわずか12件だった。

 裁定委員会は明らかに善意のもので、その目的に役立っているが、ウィキペディアの知識生産は、いつもどこかの強固な党派性の影響を受ける(略)

「これはウィキペディアの弱点です」とハイルマンは言う。「果てしなく我慢すれば、どの知識が世界に提示されるかを一つの集団が変えることは実質的に可能です」。今日に至るまで、ハイルマンは超越瞑想のページの姿勢には不快感を抱いている。最後にハイルマンは「あちらは単純にこちらを根負けさせたのです。私は降参せざるをえなかった」。(略)

この巨大な三次資料が、知識生産で恥ずかしげもなく採用されるようになるとき、私たちが心配しなければならないのは、ひどいでっちあげでも、悪意のない間違いでもない。(略)

ジェームズ・ハイルマンのような一個人の努力よりも長生きする勢力の利害なのだ。コカコーラ社にはいくらでも時間がある。すべての教会もそうだ(略)

私たちの集団的な、組み込まれた偏りは、将来の世代に、人間の理解に対して、どんな捉えがたい、気づきにくい変更をもたらすだろう。

2015-11-04 ビーチ・ボーイズ・中山康樹監修[KAWADE夢ムック] このエントリーを含むブックマーク


ビーチ・ボーイズ―永遠の夏永遠のサーフィンU.S.A (KAWADE夢ムック)

作者: 中山康樹

出版社: 河出書房新社 発売日: 2002/07

鈴木慶一の「スマイル時代」狂気話

[幻の『スマイル』いいたい放談【鈴木慶一×松尾清憲×湯浅学】]

[“外まわりメンバーとブライアン”の軋轢という話の流れで]

そういうのって、バンドとしてはすごい摩擦が起きると思うよ。私事で申し訳ないけど、俺にも“ブライアン時代”っていうのがあるんだけどね(笑)。(略)ムーンライダーズのほかのメンバーはみんな外まわりしてるんだよ。松尾クンがやってたシネマを俺がプロデュースしてたときとか、みんな外まわりでいろんなミュージシャンのバック・バントをやっててね。(略)そのあいだって誰もいないじゃん。コマーシャルの仕事があってもシネマを使ったりして。22年ぐらい前だけどね。(略)スタジオに残ってる俺は解放されるんだけど、戻ってきたメンバーはすごい暗い顔してるんだよ。旅疲れしてるんだよね。あのとき、もしもみんなの留守中にスタジオ・ミュージシャンを集めて俺がオケだけ作っちゃっていたら、きっと『スマイル』みたいに発売中止になってたんだろうけどね。(略)その“ブライアン時代”のあと、82年に『マニラ・マニエラ』というアルバムを出したんだけど、あれが“スマイル時代”なんだよね(笑)。(略)完全に気が狂ってたからね。まずポスターを置いて、みんな朝はこのポスターに挨拶しなくちゃいけないとか言って。みんなすごいいやがってるんだよ。(略)そのときの俺ってすごいハイになっててさ。(略)料理用のアルミホイルをマイクに何メートルつけられるか、とか言ってね。それでヴォーカルを録るぞって(笑)。(略)あとは逆立ちして歌ってみたり。でも、みんなじょじょについてくるんだよね。最初はいやがってるんだけど面白いかもなんて思いはじめちゃって。それでまた旅に出ていく。(略)長いバンドにはそういうこともあるんですよ。(略)[そうなったきっかけは]忙しすぎかな。(略)[ツアー帰りのメンバーとスタジオ疲れの鈴木の]疲労と疲労がぶつかると気が狂うんだよ。そういう突拍子もないことをやらないとレコーディングできない。(略)もちろんドラッグまではやってないけどね(笑)。

  • フィル・スペクター

「ブライアンに絶大な影響を与えた鬼才」大嶽好徳

ウォール・オブ・サウンドの真実

 ウォール・オブ・サウンドとは、「当時としては珍しい多重録音と巧みなエコー処理により、まるで音の壁のような分厚く、迫力のあるサウンドのこと」という意味合いの解説が多くみられる。

 しかし、多重録音を確立したのは、ギタリストのレス・ポールである。彼が妻のメリー・フォードと組んだ多重録音による最初のヒット曲《ノラ》は1950年だ。同じ年に大ヒットしたパティーペイジの《テネシー・ワルツ》も多重録音による“ひとりデュオ”だった。さらに、レス・ポールは1953年に8トラック・レコーダーを完成させている。このことからも、60年代において「多重録音」はとくに珍しいものではなくなっていた、といっていいだろう。

 じつはウォール・オブ・サウンドは、多重録音のことではないのである。おそらく「音を重ねる」という言葉がいつの間にか、「多重録音」という言葉にすり替わってしまったのではないか。

 普通、ピアノ、ベース、ギターなどのリズム楽器は一台ずつしか用意しない。しかしスペクターは、それぞれ複数用意し、ユニゾンで弾かせることにより十分な音量と音圧を得ようとした。つまり、「ユニゾンで弾かせる」という意味で「音を重ねる」を用いた、と考えたほうが自然だ。

 さらに、基本的なバック・トラック、つまり、リズム・セクションとホーン・セクションはワン・トラックによるライヴ(一発録音)だったのである。

 また、ウォール・オブ・サウンドの特徴は深いエコーにある、と思っている人もいるようだ。エコー処理は、ウォール・オブ・サウンドにとって本質的なテクニックではない。たしかに深いエコーをかけることでウォール・オブ・サウンドふうに聞こえることもあるが、ヘタな歌もエコーをかけるとうまく聞こえるのと同様、似て非なるものといえるだろう。

 《ビー・マイ・ベイビー》を改めて聴いてみれば、意外にエコーが浅いことに気がつくはずだ。エンジニアのラリー・レヴィンは言っている。「ほとんどの人がエコーだと思っていたらしいが、そうではない」

 これらのことを踏まえてビーチ・ボーイズを聴くと、ブライアン・ウィルソンはスペクターのテクニックの本質的なところを理解し、自分のものとして完全に消化していたことがわかる。

  • ペット・サウンズ比較検証 

山下達郎、執念の解説「改訂」史

93年発 TOCP7767-69

(略)ようやく英文ブックレットの対訳がついたこと。さらに復活した達郎の解説は大幅な改訂が行われ(第三版だ!)、人名や用語・漢字かな文字の表記の手直しのほか、たとえば、《ドント・トーク》の曲解説で、「カーメン・マクレエがアルバムでこの曲を取り上げている」という記述を、「カーメン・マクレエが67年のアルバム『フォー・ワンス・イン・マイ・ライフ』でこの曲を取り上げている」とするなど、より具体的で詳しい解説に改訂。また、《僕を信じて》のバイシクル・フォンの使用の有無について、88年版では、あくまで推測であるということで、「但しハーモニカの可能性もなきにしもあらず」という但し書きを入れてあるが、ここでは、その後の調査で確証が得られたのか、「但し書き」部分を取り払っている。うーん、もう頭が上がりません。

(略)

97年 TOCP3322

(略)消費税変更に伴うただの新装販。のはずなのだが、達郎の解説にはまたしても大幅な改訂が加えられている。これは『ペット・サウンズ・セッションズ』及びその関連資料が世に出たことによる改訂だ(でも、まだ日本版『セッシションズ』は出ていなかったような)。

 思い描いてきた『ペット・サウンズ』のレコーディング、ミックス・ダウンとは、どうやら異なるようだということがわかったためか、それまでの版で説明してきた「別々に録音されたいくつかの断片をつなぎ合わせたもの、あるいはミックス・ダウンを別々に行ってあとでつないだものと考えられる」という説を取り下げ、「実は細かいパーカッションの類までが一発録りで行っていることが判明し、ちょっとしたショックだった」と打ち明けている。

 そしてここに音楽の現場にいる達郎ならではのコメントが入る。「だが、それなら何故途中でミックスを変えているのか?たった4トラックしかない時代で、編曲をこれだけ作り込んでいて、普通なら曲中での音質の変化を嫌うものなのだが。まったくもって不思議である。」ここまで一つの作品「解説」の改訂を続ける達郎も、十分に不思議な人物なんですけど……。ま、とにかく第五版で、この第五版がメジャーな改訂版としては現在最新のものだ。またこのCDから萩原健太の解説も追加された。

 2002年5月現在、今でもこのCDが現行版となっている。リマスターはもちろん87年のままだ。トホホ。

オリジナル盤

 マトリックス・ナンバーとはアナログ盤レーベルの外側に刻まれた番号。多くの場合マスター番号をあらわすといわれている。このナンバーが小さい方が、若い。ようするに初版に近いわけだ。そして音質的にも鮮度が高い。なにごとも若さっていいな、ってこと。研究が進んだビートルズの中古LPでは、この番号が2から1になっただけで価格がウン万あがるものもあるという。

 値段があがるのはイヤだけど、ピートルズを筆頭にマトリックスの研究が進んだことである程度盤の音質が特定できるようになった。昔は音質の話をする場合、たとえば輸入盤は音がいいという人とそんなに良くないという人がいたとしても、片方がナンバーの若いオリジナル盤、片方が10回目くらいのプレスの盤ではまったく話がかみ合わなかったのである。

 で、ビートルズはともかく『ペット・サウンズ』はどこまで番号が若いのがあるのか。今回の探検で発見できたのは以下のもの。もちろんもっと若いのもあると思う。

・ペンシルバニア産 F17/F21

・カリフォルニア産 G28/F27

(略)

さてこれでやっと音質の話だ。ビートルズの英国オリジナル盤の音の良さ、特にナマナマしさや活きのよさについてはよく言及されているけれど『ペット・サウンズ』はオリジナルだからといってそれほどすごいわけではない。カッティング・レベルが低く、パッと聴いた感じ、迫力はない。ただA面の何ヵ所か、それとB面の《ヒア・トウディ》の盛り上がりなど、音が密集する部分があって、その部分でのダイナミック・レンジはかなり広い。逆にいうとこの落差をつけたいためにわざと全体的なレベルを落としているのかもしれない。なにしろ明確で強烈なビートがなく、そのくせ中音域に音が密集しているアルバムなのだ。この後に出てくる再発盤や他の国の盤は下手にレベルをあげたため歪み気味になってしまっているものが多い。

 特に米のCapitol盤だから悪いというわけではない。たとえば『サマー・デイズ』のオリジナル盤(Capitol T2354:ペンシルバ二ア産F1/G2)は素晴らしい音、これぞオリジナルって感じのサウンドが楽しめる。通常うめ草的といわれるB面ラストのアカペラなどもあまりの鮮烈さ、生々しさに感動してしまう。やはり『ペット・サウンズ』が特殊なのだろうか。

 ただ、パッとしないといっても、鮮度が高く、モノならではの奥行きはあるし、彫りも深い。よくこのアルバムに関していわれる、浮遊感、クリーミーとかドリーミーという感じはこの米モノ盤を大音量で聞くとすごくよくわかる。最近のリマスター版のように解像度が高く、スネアなどをエンハンスして強調している音からは感じとれないサウンドが広がるのだ。

 また工場の違いによる2種類の盤はペンシルバニア産は中域がスッキリとしていてどちらかというと硬質な感じ。カリフォルニア産は中域に厚みがありあたたかくフワっとした感じ(って偏見かな)。マトリックス番号が若いものなら鮮度はどちらも高いので、この2つの差は好みの問題かもしれない。

 今回何枚かオリジナル盤を集めて試聴した結果、最も人気が高かったのが、写真34のプロモ盤。プロモといってもジャケットに“PROMO”という文字型のパンチ穴が開けてあるだけなのだが…。カリフォルニア産でマトリックス番号はG28/G30。やわらかく鮮度の高いサウンド。今回聴いた全LP/CDの中でももっとも音のまとまりがよかった。やはりビーチ・ボーイズのアルバムはカリフォルニア産がいいのだろうか。

 なお87年のリマスターでのみ修正された《少しの間》のカウントもれ(?)、タイトル曲のテープゆれはもちろんオリジナル盤から存在する。

(略)

 疑似ステの音は今聞くとやはりヘン。高音が右、低音が左によっていたり、ヴォーカルがおかしな位相で鳴っていたりする。ただこの米国疑似ステレオ盤はそれなりに鮮度は高い。

(略)

 リプライズに移籍後の72年の再発。新作『カール&ザ・パッションズ』のおまけでついていた。(略)

 たしかにモノラル・カッティングでCapitol盤より音圧は高いが、そのためか中域は歪み気味。音はもはや死んでいる。

(略)

●英国モノラル盤初版:CAPITOL/EMI T2548

 英国モノ盤は中古市場でも人気が高い。特に初版はコーティングが美しい折り返しジャケット、クラシカルなデザインのCapitolレーベル、重量感のある盤と、非常に高級感がある。でも音はイマイチ。中域に圧力があり、カッティング・レベルも高いが、米国オリジナル盤より鮮度は落ちていて、音はひしゃげている

(略)

[高音質?LPもかなり出たが、どれもあまりいい結果は出ていない、が]

 99年のトゥルー・ステレオ・ミックス盤。同年に発売された日本の2in1CDと同じロン・マクマスターによるリマスター。どちらかというと逆で、このマスターを使って日本でCD化したのかもしれない。

 これは素晴らしい音で、『セッションズ』に収録されたCDに比べてアナログ盤らしい暖かみ、広がりが増している。これだったら高音質といわれても納得できる。モノでキビしかった「駄目な僕」が歪み感もなくきちんと鳴る。楽器ひとつひとつが明確に聞こえてくる。(略)

 しかしこうしてステレオ・ミックスを聴くともとのモノ・ミックスの素晴らしさをあらためて再認識してしまう。こんな複雑で多くの音を一つのサウンド(最近は音響というのかしら?)にまとめてしまっているのだ。しかもステレオで聴いて、あれこんな音あったのか、と思ってモノを聞き直すとちゃんと入っているのである。

  • おまけ

[定説のように語られてる話も、案外そうじゃないんだねという話。批判的意味合いで言っているのではないので、そこんとこヨロシクw]

2011年に日本発売のこの本(ビーチ・ボーイズとカリフォルニア文化 - 本と奇妙な煙)を読むと、2002年発売の当書で定説のように語られてることが事実じゃないことがわかる。

たとえば、「アメリカン・ポップス史におけるビーチ・ボーイズの位置」(佐藤良明)では

ウィルソン家ってロス郊外に住む、いわば中小企業の社長さんですよ。同世代の感性豊かなイギリス人青年とちがって、黒人音楽への憧れみたいなものもない。

と書かれているけど、のちに没落するラヴ家はともかく、ウィルソン家は挫折いっぱいの家庭。また黒人音楽を全く知らないとも言えない。

ここ二年ほど、マリーは(略)南カリフォルニア・ガス会社で働いていた。(略)[真珠湾攻撃時]管理部門の平社員だった。(略)

[父]バディ、52歳。今や家族の誰にもやさしい言葉ひとつかけない、大酒飲みのもと便利屋に成り下がっていた彼は、重たい木製の工具箱をよっこいしょとかつぎ、毎日ように大声で“クソガキども”のせいで仕事に遅れるなどと悪態をつきながら家を出た。だが少なくともその半分はウソで、そのままヴァーノンの工業地帯のそばにある肉体労働者たちが集まる居酒屋へと姿を消すことが多かった。(略)エディスが食費用にとっておいたお金をバディが飲み代にくすねたとき、彼女は吐き捨てるように言った。「やっぱりウィルソン家の人間だね」。(略)

 哀しいかな、マリーもバディと同様、貧困やその他の障害ゆえに個人の尊厳に関して無頓着な環境で育った人間だった。威圧的に出なければ他人からは軽んじられ、大人同士がいったんケンカになれば死さえありうる、そんな環境だったのだ。(略)

そうこうしているうちに、いつのまにかマリーは自分自身で道を切り開くチャンスを遅らせてしまっていた。

(略)

 1945年初期、マリーはグッドイヤーの別の部署の主任補佐に昇進した。そこで彼が任された仕事は、窮屈で息苦しい組み立て工程の現場で見習い生に仕事を教えることだった。(略)

新入りに悪態をつきながら、マリーはぐるぐる回るタイヤの台座の電源を急いで切った。その時だった、棒が機械に巻きこまれ、見習いのあやふやな手元から離れたかと思うと、台座からはね飛ばされたそれはマリーの目にまるで銛のように突き刺さった。(略)

 五年勤続賞のピンを受け取ったその日、マリーはオードリーに他人のために働くのはもう耐えられないと告げ、エアリサーチ社を退職して自営でやっていくことを心に決めた。

 ウィルソン家は大きなパレードのいまだ傍観者だった。うまく立ち回って主流に乗ることなどマリーにはできなかったし、それを苦々しく思う父バディ・ウィルソンは、次第にすべてを次男のせいにするという、いつものパターンを繰り返すようになった。

一夜にして大金持ちになったミルトンは(略)地中海ふうの三階建ての大豪邸を建ててしまった。14部屋もあるラヴ家のヒルサイドハウスに、一列になっておっかなびっくり入場したウィルソン一家(略)

しかしそのときすでにラヴ・シート・メタルはトラブルを抱えていた。あまりの急成長が原因で、会社とクライアントの間で訴訟が絶えず、トントン拍子の成長が数年続いたあとは、業績も横ばい状態だったのだ。

(略)

ラヴ家は、ウィルソン家の間抜けな遺伝子を何ひとつ受け継いでいなかった。

(略)

[ブライアンはフォー・フレッシュメンを崇拝]

 一方マイクは(略)ドリフターズなど、黒人ヴォーカル・グループに目がなかった。

(略)

ラヴが経営する板金店は倒産し(略)ベッドルームが三つの薄汚い家に引っ越すことを余儀なくされた。(略)

サウスランドの成功者の手本だったラヴ家の地位は、一瞬のうちに泡と消えた。今や一族の期待の星はウィルソン家だった。 そしてそれは明らかに(略)ブライアンだった。

「ビーチ・ボーイズストーリー」(中山康樹)では

グループの将来に不安を感じていたアル・ジャーディンは、ビーチ・ボーイズがキャピトルと契約を結ぶことを知らないまま、脱退を決意する。

と書かれてるけど、

 1962年3月8日、ハイト・モーガンがさらなるレコーディングのためにビーチ・ボーイズに招集をかけたとき、空いていたのはブライアン、カール、アルのみだった。(略)

 キャンディックスからビーチ・ボーイズのフル・レングスのアルバムを発売したいと考えていたモーガンは、それに見合う十分な素材を揃えるつもりでおり、〈サーフィン・サファリ〉も、現在90位台で上昇中の〈サーフィン〉に続くヒット・シングル間違いなしとの自信があった。しかしアル・ジャーディンに問題が起きた。彼はグループ結成の原動力であり功労者だったが、両親との長い話し合いの結果、自分にとって一番賢い次のステップとして、ロックンロールから足を洗って学問の道に進むと決めたのだ。彼はグループを脱退し、歯医者か医者になる目的を叶えるために、ミシガン州ビッグ・ラピッズにあるフェリス大学の医学校に進んだ。

 突然ジャーディンを失ったことは、ライブが間近に迫っていたビーチ・ボーイズにとって危機的状況だった。

(略)

 〈サーフィン〉は地元のチャートで最高位2位になり、ビルボードのホット100でも3月24日に75位を記録した。数量ベースで5万枚を見こんでいたキャンディックスだったが、製造コストの圧迫がこの弱小レーベルを重大な財政危機に追いこむ結果となり、結局ハイト・モーガンはキャンディックスの責務と配給をハーブ・ニューマンのエラ・レコードに委ねることにした。ところが、1962年3月29日に交わした契約文書のインクもまだほとんど乾いていないうちのこのモーガンの行動を、マリーは契約不履行と解釈し(略)

ハイト・モーガンに対してお前の役割は終わったと告げ、自分が一からやり直してみせると宣言した。マリーはキャピトル・レコードを相手に、もっと高額で大きな契約を取り交わせると信じていたのだった。

(略)

1962年7月16日、ビーチ・ボーイズはキャピトル・レコードと契約を交わした。