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2015-12-29 うたのしくみ 細馬宏通 松本隆のハイハット このエントリーを含むブックマーク


うたのしくみ

作者: 細馬宏通

出版社: ぴあ 発売日: 2014/03/18

「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」

19世紀から1910年代にかけて、音楽はレコードよりもむしろ「シート・ミュージック」と呼ばれる譜面によって流行(略)

石版印刷の色鮮やかなデザインの表紙がつけられて、なかなか目で見て楽しいもの

(略)

 シート・ミュージック業界に欠かせぬ存在が「プラガー」でした。プラガー、というのは、そもそもは客のふりをした宣伝屋のことでした。ヴォードヴィル劇場に行って、あたかも客であるかのように歌のコーラスの部分で拍手を送ったり、ときには歌手を追ってコーラスを繰り返させたり客に唱和させたり。いわばサクラ係です。アーヴィング・バーリンは若い頃、こうした「プラガー」をやって日銭を稼いでいました。

 やがてシートミュージック売り場が繁盛するようになると、プラガーの意味が変わってきました。売り場自体が宣伝の場となり、1900年代後半には、店で譜面をピアノで弾いて聞かせたり、声を張り上げて歌う実演家としてのプラガーが活躍するようになりました。譜面を手にとった人は、プラガーに演奏してもらってその場で試聴する。これなら初見で譜面を読めない人でも、どんな曲かわかります。

 商売熱心なプラガーになると、いくつもの店を渡り歩き、ときには通りや駅やサルーンで歌い、シートミュージッ

クを売り込みました。(略)

[ガーシュインもプラガーから作曲家に]

 1900年代末、ニューヨークのユニオン・スクエア近く、音楽出版社が何軒も立ち並ぶ通りを歩くと、そこからは譜面を演奏するピアノの音がにぎやかに聞こえるようになりました。店に入ると狭い場所にピアノが何台も置かれて、プラガーたちが待ち構えている。モンロー・ローゼンフィールドという記者は、1909年、通りに響き渡るピアノがあまりにうるさいので「ティン・パン・アレイ」と皮肉って記事に書きました。以後、これら流行曲を量産する音楽出版業界は「ティン・パン・アレイ」と呼ばれるようになります。

(略)

[バーリンは]譜面が読めず、ピアノの方も一本指で、黒鍵のみを適当に弾くだけでした。

 幸い、ルームメイトのマックス・ウィンスロウは若き有能な作曲家で、歌唱指導もできればピアノも弾けて、曲のアレンジや売り込みにも長けていました。(略)1911年、23才のバーリンが作った「アレクサンダーズ・ラグタイム・バンド」を譜面に仕立て上げ、75人のプラガーに曲を叩き込み、店に来る客に聞かせ続けました。これがシート・ミュージック史上空前の大ヒットとなり、夏までに50万部、年の終わりには100万部が売れ、次の年にはさらに100万部、イギリスやヨーロッパにも流行は広がりました。これをきっかけにバーリンは次々と流行曲を作っていくことになります。

(略)

 アレクサンダーという名前は、「クーン・ソング」という、黒人をカリカチュア化した当時の歌でしばしば用いられたものです。黒人にアレクサンダーという古代帝国を思わせるおおげさな名前がつくのがおかしくて、その名前は客の笑いを誘いました。(略)この曲も、アフリカ系アメリカ人の軽快なラグタイムのリズムを借りておきながら、そこにアレサンダーというおおげさな名前を割り当てることでおかしみを出したというわけです。

(略)

 この「スワニー河をラグタイムで聞きたいなら」というところで、伴奏はそれまでの跳躍するラグタイムから一転して、四分音符となり、歌詞もスピードをずんと落として、フォスターの「故郷の人々(スワニー河)」のメロディを一瞬なぞります。この、古き良き時代の川の流れを感じさせたところで、曲は再び倍速で跳躍、そのことで、フォスターの調べをラグタイムに一変させる。年配の客にも目配せをしながら、若者の世界へとすいと身を転じる、その変わり身の速さ。ここにも、プラガー出身のバーリンらしさがよく出ています。そして、ことばと音楽とが自然なタイミングでひょいと変わるところに、作詞作曲を一人で行う作家の特徴が現れている。

 それだけではない、くるくる曲調が変わるこの曲を軽々と演奏することで、バンドは、その演奏力をも宣伝することになります。

ハイハット、松本隆

 すなわち、ハイハットとライド、二種類のシンバルの差は、単に音色の差ではない。二種類のシンバルを右手が往復するとき、ドラマーは、交差によってコンパクトに閉じられた体、上下左右に開かれた体という、二種類の構えを往復することになる。

 ドラムを叩くということは、そのような立体的な変化に身を委ねるということでもあるのだ。

(略)

この頃からドラマーは椅子に座って、ダンスホール、あるいはミシシッピー河を上り下りするリバーボートや「ショーボート」で景気のよいジャズを演奏するようになった。

 この時期を代表するドラマー、ウォーレン・ベイビー・ドッズの談話は、ニューオーリンズジャズの軍楽隊調のビートがリバーボートの上でいかに変化していったかを示していて興味深い。

当時、ニューオーリンズでは、エキゾチックな要素を加えるのに、ウッドブロックの音色が好まれていた。が、ベイビー・ドッズはリバーボートで演奏するうちに、ウッドブロックよりもリムショットのほうが「おだやかで柔らかい」ことに気づいたという。さらに彼はボートの上で、トリプレットをはじめスティックでシンバルを叩くさまざまな音色を工夫し、単なるリズム伴奏だけではなく、ブレイクやソロを演奏に取り入れた。

 おそらくリバーボートで好まれた音楽は、船に身を任せながら、なおこの身が船によって動き続けている、そんな高揚を感じさせる音楽だったろう。自分の体が行進するのではなく、船が勣く。その船の上で、船の前進を我が身の前進と感じさせる音楽。航海中に発せられる船の活動、ロープが船体を叩く音、鉄柱に金具が擦れ合う音、ことことと木と木が触れあう音は、演奏へと取り入れられ、音楽は人間の行進を船体の行進へと変換しただろう。ウッドブロックの甲高い音よりも柔らかく時を刻むリムショットが好まれ、ただのクラッシュだけでなくスティックのトリプレットによってシンバルが揺らされたのは、それが船の上だったからに違いない。

 リムショットやシンバルのビートが、いまなお聞く者に航行の響き、旅の響きを想起させるのは、単なる偶然ではあるまい。

(略)

 ハイハットの登場は1920年代後半と考えられている。その原型は、「ロウ・ソック」と呼ばれる二枚の合わせシンバルだ。ロウ・ソックはシンバルとペダルを連動させたもので、床近くにシンバルを置きそれを足踏みによって鳴らす楽器だった。

 当時のジャズのビートは、バスドラムを拍の頭で強く踏むスタイルだった。多くのドラマーは右利きで、彼らにとっては拍の頭を右足で踏むのが自然だったのだろう。その結果、ロウ・ソックのほうは、残る左足で踏まれることになった。

 このロウ・ソックを胸あたりまで高く掲げて、スティックで鳴らせる形にしたのがハイハットだ。左側にハイハットが配置されるようになったのは、おそらくこうした経緯によるものだろう。

 ハイハットは、ロウ・ソックと同じく、足踏みシンバルの機能を持っており、踏むだけでシンバルを閉じる音を発し、ビートを刻むことができる。

 しかし、それをスティックで叩くということは、まったく新しい響きをもたらした。その響きとは、二枚のシンバルの間にとらえられる空気によって生まれるニュアンスだった。

(略)

さらに強く踏み込めば、二枚はしっかり合わさり、コツコツと硬い音を響かせて、そこに空気が含まれていることすら感じさせなくなる。逆に、弱く浅く踏むなら、二枚のあいだにわずかな隙間があく。微かに揺れる上側は、下側に触れては離れ、さかさかと息をもらす。さらに力を抜けば、二枚は離れて荒々しく鳴る。

 ハイハットを叩くということは、そんな風に、左足によって息を漏らすことなのだ。

(略)

バディ・リッチはまるでニューオーリンズ・ジャズの記憶を現在に重ねるようにハイハットに左手を添え、シンバル一枚の音色を幾度も試した者だけが知っている手癖でハイハットに変化を与えていく。押さえ、緩め、ときに上下のシンバルをずらし、コアにエッジにとスティックを移動させ、ふくらみにとらえられた空気をわずかな隙間から吐き出させていく。もはやハイハットは楽器というよりは器官、ドラムの歴史がたどってきた空気を吸っては吐き出し軋み続ける機関車だ。

(略)

[「夏なんです」の松本隆のドラムは]

 リハーサルテイクや『ライヴ!!』版では、高みにあるライドは「ぎんぎんぎらぎらの太陽なんです」で叩かれている。松本さんの体は開かれて陽の光を浴び、あたかもその光によって曲が駆動するかのようにライドの余韻が響く。そして、日傘をぐるぐるさせるとき、松本さんの体は閉じ、ハイハットは大きく開け閉めされて息づく。夏の太陽が運行していき、そのぎんぎんぎらぎらの光をさえぎる日傘のかげで退屈がうずくまって呼吸をしている、というドラミングなのだ。これらの録音では、高い太陽とライド、その下の日傘とハイハット、と、いうふうに、ドラムセットの高さは歌詞の高さに重なる立体性を帯びている。

 ところが「風街ろまん」版では、この関係はまったく反転している。ぎんぎんぎらぎらの太陽のもとで、松本さんは逆に体を閉じ、ハイハットの閉じた音で硬い光を投げている。そして「日傘ぐるぐる」になると、どういうわけか松本さんの体は開き、手が高いライドに伸びるのである。

(略)

ライドの響きにつれて、日傘はソーラーエンジンで駆動する外輪船のように回転する。あたかも歌詞カードに描かれた花のように、傘の下の退屈がこの曲の運行を司り始める。ライドのまるさは太陽のまるさに重なり、日傘のまるさにも重なる。

(略)

さて、いよいよ「風をあつめて」だ。(略)

松本さんは伽藍としたドラム「セット」の前で手を交差させ、体を閉じている。

 ハイハットの音からすると、左足のつま先にはさはどの力はこめられていない。二枚のシンバルの間にはわずかに空気を漏らす隙間が残されていて、スティックで叩かれるたびに、薄い空気を8ビートで吐き出している。

 そこに汚点(しみ)が現われる。汚点はいたるところに現われて、直線の世界はにわかに広がりを得る。ここでハイハットは一息、大きく口を開いて空気をつかまえる。クラッシュが鳴り、靄ごしに遠いライドの音が一発、また一発と響く。するとどういうわけか、路次は航行の記憶をたぐり寄せるように湿り気を帯び、眼前には路面ならぬ露面電車が現われる。

 埋め立てられた都市=東京をひたひたと水が浸していく。スネアのフィルインが何かに駆られたように、歩を詰めて急ぎ始める。

 そして、風をあつめて、ということばが声になったとたん、松本さんの息づかいは明らかに変わる。ハイハットオープンを使ったフィルインは、たった二息だけれど、とても大きく響くので、巨大な生きものが波間から呼吸のために姿を現わしたのかと思うほどだ。その金属の肺でとらえられ、閉じこめられた空気は、風をあつめて、風をあつめてと唱えられるごとにスティックで確かめられ、大きく肺をふるわせる。

(略)

そしていよいよ、ことばが空へと視点を移すとき、シンバルは低いハイハットからドラムの頂点へと移り、松本さんの体は立体的に開く。左手はスネアを叩きながら、右手はライドシンバルに届き、ときおりエッジからコアへと近づいては、硬いアタックを響かせる。(略)

金属が涼やかに鳴っている。ドラマーの体は、背のびした路次になっている。

2015-12-26 つかこうへい正伝・その4 『蒲田行進曲』 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


つかこうへい正伝 1968-1982

作者: 長谷川康夫

出版社: 新潮社 発売日: 2015/11/18

“口立て”ゴーストライター?

[以前平田満のアパートで目撃した下請け執筆スタイル。映画で忙しくなった平田の代わりに著者がやることに]

桝目いっぱいの角張った文字が、平田のものだということはすぐわかった。僕は黙って読み始める。小説の冒頭部分らしかった。一行目に『ロマンス』とタイトルがあり(略)主人公の名は「平田ミツル」。どうやらその少年が、ホモセクシュアルな感情を心に秘めているという設定のようだ。(略)

[著者らが書いた原稿をつかが推敲。芝居では無視できるが小説では必要となるリアルな風景描写や舞台設定のために取材に行かされる著者]

 僕が高野と共に、つかのもとで原稿を手伝った何年かの間、小説にしてもエッセイにしても、つかがゼロから筆を執ることはなかった。書こうとするものは、すべて僕らに口頭で伝えられるのだ。そこではメモ程度のものも渡されない。つまり、つかの原稿執筆は、役者たちを前にして芝居を作っていくときの“口立て”と、ある意味、似た作業だということだ。

 ならばいわゆる口述筆記かというと、それはちょっと違う。原稿に関しては、俳優として稽古場で受ける“口立て”より、僕らに託される部分がかなり大きい。(略)最初にこんな場面だという説明がある。そしてそこでどういったことが起きるかが大まかに伝えられる。キーとなる台詞もいくつか飛び出すが、芝居の稽古ほど細かく与えられるわけではない。第一稿目は、それ以外の台詞も含め、人物の動きや心情、情景の描写などは、ほぼこちらに任される。(略)

[『ロマンス』の場合]

 「選手宿舎の大食堂でミツルとシゲルを会わせてくれないか。(略)二人が選んだ料理が違うってのがいいな。(略)ミツルは自分の盆の上のメニューが気まずいんだけど、内心はときめいてる。で、シゲルはそんなミツルに気づいているのか、いないのか、いろんな手で甘えてみせる。ま、弄ぶわけよ。『ちょっと二人で外に出ませんか』とか誘って、ミツルが困ってると、テーブルの下の靴の先で、ふくらはぎのあたりをチョンチョンとつついてくるとかな。そうするとミツルは真っ赤になるわけだ。で、二人が夜のグラウンドに出て語りあう場面まで、作ってくれ」

(略)

つかはいったんざっと目を通してから、赤文字のペンを取る。シャーッと僕の文章が音を立てて次々と消され、細かくつかの筆が入って行く。ひっきりなしに新しい煙草に火をつけ、途中ときおり、クックックッと、喉の奥から笑い声を漏らしたりしながら、作業は続く。その笑いが、僕の書いた文章に対するものだとわかると、僕はホッとする。

(略)

そこからがまた僕の作業だ。つかの手が入った原稿を、また新しい原稿用紙に書き直していくのである。(略)

[再度つかの手が入り]僕が直す。そんな行って来いが、小説なら最低でも四、五回、場合によってはそれ以上、繰り返されることになる。

『いつも心に太陽を』

 「とにかく、立ち止まって考えたりしなくていい芝居だからね……若い女の子たちは、男同士の惚れた腫れたの世界にキャッキャ言って喜んでるんだけど、その実、どこか平田を自分に置き換えて観てる。普遍的なラブストーリーとしてね。つかさんがうまいのは、『愛することを恐れてはなりません。人をいとおしく思う気持ちに怯えてはなりません。いつも心に太陽を持って生きていきなさい』なんてキャッチコピーみたいな台詞が、芝居の中にふんだんにちりばめられてあるんだよ。(略)

 と、風間が語るそのどちらの台詞も、これまでのつかの芝居では決してお目にかかれなかったものだ。たとえ近い台詞があったとしても、必ずそれ自体に自嘲や揶揄が込められていた。『いつも心に太陽を』で、躊躇なく正面切って発せられたのは、それが“オカマ”によるものだからだ。この芝居における「男同士」というつかの仕掛けは、その一点で成功したのである。(略)

 楽屋口の前には連日、大勢の女の子たちが屯し、ファンレターを手に風間や平田を待ちわびた。そんな光景は、『いつも心に太陽を』が最初だった。二人が「モリリン」や「ミッチー」と、仲間うちで呼ばれているという女子高生からのアンケートを、つかが嬉しげに見せて回ったのは、中日を過ぎた頃だったろうか。とくに風間杜夫人気は沸騰した。風間に対する、それまでの一般的な演劇とは質の違う、ファンの“熱狂”ぶりはここから始まったのである。

 ただし、『いつも心に太陽を』という芝居自体は、評論家などからは、見事に無視された。“演劇”として評価するに値しない作品ということだったのだろう。だがそれはまさに、つかの狙い通りだったはずだ。

 そして再演時の千穐楽には、そんなつかによる観客サービスの極め付きともいうべき趣向が、終演後に登場する。八月に上演されることになった、西武劇場での新作第二弾の予告編である。

『広島に原爆を落とす日』予告

つかの中に、『戦争で死ねなかったお父さんのために』から生まれた「ディープ山崎」を主人公に据え、広島の原爆はその山崎の手で落とされることになるという構想があったのは間違いなく、そういった予告はされたはずだ。(略)

 「(略)『戦争で死ねなかったお父さんのために』より、構想10年の歳月をかけて戦争秘話に挑む男のための男の演劇!!可能なかぎりのドラマツルギーを駆使し79年夏、戦後史を震撼させるハードボイルド演劇!!非情の男ディープ山崎少佐を風間杜夫が、熱血漢吉田茂を平田満が、そして悲運の宰相近衛文麿に加藤健一を迎え、三大スター競演でお贈りするサスペンスロマン!!この夏あなたは確実に戦後の終焉を見る!!」

 当然ながら、平田満の吉田茂も、加藤健一の近衛文麿も単なる思い付きで、実際の舞台に登場することはない。予告編も同じようなもので、こういった語りの中に芝居場面が差し込まれ、役者たちが次々と姿を見せるのだ。例えば、

 「ひたひたと迫る暗殺の魔手。帝都に降りしきる黒い雨を朱に染め、テロリストの白刃が舞う!」

 という高野の声で、音楽が変わり、サラシに禅姿、手には日本刀の平田が現れる。

 「山崎!俺が介錯をしてやる!顔を上げろ。北関東血盟団の平田に不足はなかろうが!」

と、台詞を発すると、高野がすぐにそれにかぶせ、

 「『いつも心に太陽を』で新境地を開拓した平田満が、孤高のテロリストに挑む!」

 などと紹介するのである。

 何も知らずやってきて、思いがけずそんなものを観せられた客席の盛り上がりは大変なものだった。これ以降、千穐楽にこういった催しは恒例となり、予告編だけではなく、劇中で風間が乗った自転車や、北海道直送の新巻鮭が当たる抽選会だったり、役者たち全員が裃をつけての餅撒きであったりが行われ、公演最終日のチケットは毎回争奪戦となった。Tシャツ販売といい、こういったイベントといい、どれもが芝居作りとはまた別の、客商売という意味での劇団経営者としてのつかの才覚であり、実は作品の中身より、そんなスタイルのようなものの方が、このあと登場してくる下の世代の劇団に、与えた影響は大きかったと言えるかもしれない。

訣別

どんな芝居でも、いつもなら必ず何か大きな手直しをするつかだが、このときの『熱海殺人事件』に限っては、ほぼ前年のままだった。気持ちは八月の新作に向いていたのだろう。

 そしてそれを微妙に感じ、少々面白くなかったのが三浦洋一ではなかったか。いや、三浦自身もテレビドラマのレギュラーが入るなど、すっかり売れっ子となり、稽古の時間が取れなくなっていた。

 「ったく、三浦のヤツがよ、楽屋の姿見の前でゴルフの素振りやってんだよ……偉くなったもんだよ」

 つかがそんなふうに皆の前で皮肉ったりするのはいつものことで、今までなら「見られちゃいました?」などと、逆に悪ぶって笑顔を見せたはずの三浦が少し顔を強張らせるのが、僕は気になった。舞台上の三浦は明らかに疲れていた。「ゴミ捨て場のババアでも、犯してしまいそうなゲスな色気」と、つかが評した狂気じみたエネルギーもどこか薄れているように思えた。つかもそれに気づいていないわけはなかった。

 つかと三浦の間で何か起こったかは、僕の知るところではない。しかし、この1979年4月の『熱海殺人事件』を最後に三浦洋一がつかこうへいの舞台に立つことはなくなる。

 公演中、三浦と一緒に飲みに行ったときのことが、僕は忘れられない。紀伊國屋のビルを出て、新宿通りを伊勢丹方向に歩きながら、三浦がポツリとこう漏らしたのだ。

 「……長谷川……こんな所にいたって、いいことないぞ」

生駒直子

[四年ぶりの劇団員募集で酒井敏也と生駒直子が加入。高校の帰りに応募書類等を自分で届けに来たセーラー服の生駒。江美から「かわいい子」だったと聞き、早速呼び戻すつか]

 生駒の父は、松竹の映画監督だった生駒千里である。(略)

[父に連れられ中学で『熱海殺人事件』を観て以来]自分でチケットを買って、ほとんどの作品を観ていたという。環境のなせるわざか、かなり早熟な少女だったことは間違いない。そんな彼女もまた『ぴあ』の告知を見て、思い切って応募を決めたのだという。

 事務所に呼び戻された生駒に、つかはまず「俺の芝居が好きか」と確かめてから、学校や家族のことなどをあれこれ訊ね、「あとで連絡するから」と言って放免した。生駒は緊張しているのか、その年齢の女の子とは思えないほど静かに受け答えし、必要以上のことは一切口にしなかった。彼女のそんな印象は、それからもずっと変わらなかった。

直木賞落選、傷心でパーマ

普通なら真っ先に自分で落選を話題にし、減らず口を叩いてみせるはずのつかが、絵に描いたような元気のなさで、楽屋の隅に座っているだけだった。(略)

 「もう!直木賞落ちたぐらいで、芝居ほっぽり出して、やっと現れたと思ったら、パーマなんてかけちゃって、ジトッと暗がりに座ってさ。あっという間に消えるんだから、情けないったらありゃしない!」

 受付の岩間がそう捲し立てるを、僕らは笑いながら聞いていた。

(略)

 熊谷真実によると、つかとの付き合いは、『サロメ』のあとから始まっていた。彼女がNHKの朝の連続ドラマで主役を務めている間は、そのことが世間に漏れぬよう隠し続けたという。もちろん僕らは知っていたし、同じように気を遣ってきた。そして放送も終了し、晴れて二人は自由が丘で同居を始めたというわけだ。

『蒲田行進曲』

 まず稽古が始まった時点で、僕らが持っていた共通認識は、今度の新作は根岸季衣のための芝居であるということだった。『サロメ』以降、何作も続いたつかの舞台に、彼女は一切関わっていない。

 「皆が芝居をやってるのを外から観てて、ずっとうらやましかった。結局、私は『ストリッパー物語』だけなのかなあって」

 そんな根岸のために、つかがいよいよ新作に挑み(略)

つかの中にあったのは、やはり「ヴィヴィアン・リー」をモチーフとする「スターの座を追われた老女優」の物語だった。(略)

 その場面の稽古は根岸と僕で、かなり長く続いたはずだ。[来年入社予定の監督志望の]学生は、かつてその女優が主演した『二十四の瞳』を観たことで、映画の仕事を志したと、勢い込んで告げ、女優はそれを揶揄するように受け流すというような芝居だった。

(略)

[だがテレビで観た汐路章の言葉に触発され、つかは京都太秦へ取材に。帰ってきた時には芝居は「階段落ち」へと激変。「銀ちゃん」は中村錦之助、小夏は根岸の以前の芸名「嵯峨小夏」から]

(略)

[つかは平田ではなくあえて著者をヤスに]

 「とにかく長谷川君、稽古場では、自分で作った台詞をしゃべりまくってたからね、そんな中で、突然出て来たのが、『オレ、何でも飲み込んじゃうよ。飲み込みのヤスよ』ってやつ。つかさん、それ聞いて、喜んじゃってさ、そこからあのキャラクターの名は『ヤス』以外考えられなくなって……すごいよね。あの『飲み込みのヤス』のおかげで、『ヤス』っていう歴史的な名前が世に残ったんだからね」

 と、茶化すように根岸は笑う。

いたぶられてるのは銀ちゃんの方

 「銀ちゃん」の方は、はっきりしている。つか自身だ。言い方を変えれば、「金原峰雄」が目指す「つかこうへい」――。それが「銀ちゃん」なのだ。(略)

 かなりあとになって、つかは僕にこう漏らした。

 「バカはわかってないんだよな。『蒲田』ってのは、ほんとは銀ちゃんがヤスにいたぶられる話なんだけどなあ」

(略)

ヤスの方が圧倒的にインテリで育ちもよく、銀ちゃんはどこの馬の骨ともわからない、怪しい生まれなのだ。(略)

 そして銀ちゃんの方は、ヤスが秘めた思いに本能的に気づいている。銀ちゃんの、ヤスヘの振る舞いを含めたすべての言動は、彼の中にある特殊なコンプレックスの裏返しである。(略)

 ヤスは銀ちゃんのそんな思いまで了解しているがゆえに、自分をいたぶられ役として差し出すことで、なんとか銀ちゃんを癒そうとする。銀ちゃんは銀ちゃんで、ヤスの中に自分への哀れみを感じたとき、激高し、異常なまでの昂ぶりで、彼を足蹴にしてしまう。

 ところがヤスはそうされることにさえ、マゾヒスティックな快感を覚えるのだ。

 こんなふうに二重三重にひっくり返る、二人の屈折した関係こそが、つかこうへいが本当にやりたかった『蒲田行進曲』ではないだろうか。

 僕の中には、ずっとひとつの思いがある。もしあのとき、稽古場に三浦洋一がいて、最初から、彼を銀ちゃんに、平田をヤスとして作っていたら、つかが本来、目指そうとした芝居になったのではないかと……。

小夏

 「稽古場ではずいぶん戦った気がする。つかさんはどうしても、小夏の気持ちを、銀ちゃんのほうに行かせたいのよね。『私はそれでも銀ちゃんのことが好きなの』みたいな台詞を入れようとするのよ。つかさんにとって銀ちゃんは自分だからさ、女の気持ちとして銀ちゃんからは離れられないというふうに持っていきたいわけ。でも私はどうしてもそれが嫌だった。つかさんに『俺のこと好きだろう』って言われて、『あんたなんか嫌いだよ』って感じ」

 根岸季衣は笑いながら、あの日の稽古を懐かしむ。

 「だからそんな台詞つけられても、絶対に口にしない。銀ちゃんとの会話の中で、『そばにいる人が一番大切なの』 って、勝手に言い続けて……結局それが台詞になった。それでもつかさん、ひとり台詞の中とかに、『でもやっぱり、銀ちゃんのことは忘れられなかった……』とか、しつこく入れてくるのよ。そういうときは、“口立て”されたらとりあえず返しておいて、次に短く通すときには、いっつも忘れたふり。そうすりゃそのうちなくなるから」

 これは僕らにはとても出来ない芸当だ。

(略)

 舞台の方の『銀ちゃんのこと』(略)で初めて、風間銀ちゃんが生まれたわけである。根岸はそれを、加藤健一の銀ちゃんと比較してみせる。

 「加藤さんの場合は理詰めで役作りしてくるからね。全部がきちんと計算された芝居。だからかえって、その奥にある温かさのようなものに懸命に抗おうとする小夏というのは出しやすい。それが風間さんの方は、その瞬間、瞬間の情のようなもので押してくるじゃない。台詞吐きながら自分で感極まって、ブワッと目に涙、溜めたりするのよ。そうすると小夏はやっぱり揺らいでしまうところがあって、最終的にヤスのもとに行くという部分が、見えづらくなってくる。まあ、つかさんとしては、そっちのほうをやってもらいたいんだろうけどね」

ついに直木賞

[受賞会見を終え、祝賀会場に現れたつかは]集まった人間たちに向かい「オウ!」と声を発し、両手でVサインを突き上げてみせる。そして拍手の中、僕が平田や風間と座るテーブルにドカッと腰を下ろした。

 「よし!おまえらもう心配するな。お前らのガキが大学出るまで、全部俺が面倒見てやる。これから金がガンガン入ってくるからよ!」

 その異様なテンションに、僕らは笑顔を浮かべながらも、相変わらず「はあ」と答えるしかない。とにかくそれから三時間、つかの高揚はとどまるところを知らず、まわりに煽られるままに、ひとり気炎を上げ続けた。

(略)

そんな狂騒がしばらく続く中、つかは熊谷真実との離婚を公表する。

深作欣二

 「おまえひとり残されて、なんだか寂しそうだからよ。『蒲田』、出してもらうことにしたぞ」[と突然つかに言われれ、京都へ]

 監督の深作欣二に挨拶したのもそのときだ。

 「おう、来たか。長谷川君、やったな」

 「はせがわくん」という、独特の茨城なまりのイントネーションと、やさしげな笑顔は今でも忘れられない。深作欣二という人の俳優を見る目は、とにかく温かかった。撮影現場でも、どんな小さな役であっても、指示を与えるとき「OOくん」と必ずその名前を呼んだ。

(略)

前日に突然、助監督がやってきて、「監督がこれを長谷川君にやってもらえということだから」と、「差し込み」と呼ばれる、ワンシーンだけの手書き台本のコピーを渡されたのだ。(略)

[舞台版『蒲田』で]自分ごときが演じた部分を憶えていてくれたのだと知り、僕は感激した。(略)

[公開後新宿で飲んだ時]

深作がしみじみと言った。

「カツドウっていいよなぁ……」

2015-12-22 つかこうへい正伝・その3 つかブーム このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


つかこうへい正伝 1968-1982

作者: 長谷川康夫

出版社: 新潮社 発売日: 2015/11/18

かけおち

[73年北吉洋一が京都へかけおち]

事情を伝え聞いたつかが彼らのもとを訪ねてきた。なんと住所だけを頼りに、突然アパートの部屋に現れたのだ。

 自分の周りで起きる男女間の擦った揉んだほど、つかの好物はない。それはこの先もずっと変わらなかった。揉めれば揉めるほど、ややこしくなればなるほど、当事者以上に高揚し、俺にまかせろとばかり喜色満面でその状況に入り込んでくるのが、つかこうへいだった。(略)

 結局、思い描いた自らの活躍は遂げられぬまま、一日で逃げ帰ってしまったつかだが、置いてきた一万円と往復の交通費を決して無駄にはしなかった。数年後、このときの北吉たちの姿をヒントに小説にするのだ。短編集『いつも心に太陽を』に収められ、直木賞候補作のひとつとなった『かけおち』である。のちにそれをもとにした『かけおち'83』がNHKでドラマ化され、さらに『青春かけおち篇』として松竹で映画にもなったのだから、つかにとっては充分価値ある京都行きだったわけである。

(略)

[かけおちが三ヶ月で終わった北吉の目に、VANヂャケットが春にオープンする「VAN99ホール」の「芸術職人求む」というスタッフ募集広告。同時期に採用されたのがのちにつかの番頭役になる菅野重郎。山口健は生意気な北吉を「つかと芝居をやっていた」からと採用。つかに99ホールでの公演を要請]

つかが要求した条件は二つ。まず、役者には少額であってもギャラを出すこと。そしてもうひとつが、ホールを稽古場として使わせること。

 つまりこのとき、つかの中ではもう、六号館、そして暫との別れを決めていたのだろう。自分は暫の座付き作家ではなく、あくまで「つかこうへい事務所」の主宰者であり、自ら育てた役者たちを率いて世に出て行く。つかの思いはずっと変わらなかった。そんな彼にとって、99ホールからの依頼はまさに渡りに船だったのだ。

加藤健一、中野幾夫

「新芸」という劇団で、中野幾夫が「熱海殺人事件」を演出する――。ほんの数日前、つかから向島のもとに観劇の指令が届いたのである。(略)

この新芸の芝居は、つかが稽古場に度々顔を出し、あれこれ口出しした上で出来あがったものだと、僕はずっと思っていた。しかし、つかは本番を一度観に来ただけで、演出はすべて中野の手によるものだったという。(略)

[加藤談]「(略)台詞を平気でバンバン変えるでしょ。あれには驚いた。たとえば開き直った大山が、伝兵衛に煙草の火をつけさせるシーンなんかを突然思いついて、伝兵衛が差し出したライターを見て、『カルチェじゃなきゃ吸えねえよ?』とか言わせたりね。それまでそんな風に芝居作ったことないから、最初は面喰らったなあ」

(略)

 新芸の『熱海殺人事件』で中野が作ったいくつかの台詞は、ライターの場面を例に出すまでもなく、形を変えながらも、のちのつか演出の中に残っている。

 また戯曲には、大山を“正しい”犯人とするべく、伝兵衛が音楽をかけてその自供をあおるという場面がいくつかあるのだが、それを単に音楽を流すだけではなく、どの曲も出演者たちが客席に向かい、乗りに乗って歌ってみせるという趣向にしたのは中野である。もちろんつかもそれを踏襲した。

 そして忘れてはならないのは、やはり「大山金太郎」というキャラクターだろう。結局、このとき中野と加藤で作り上げた大山が、『熱海殺人事件』という芝居を決定づけたと言ってもいいだろう。それは八年後の紀伊國屋ホールにおける劇団つかこうへい事務所としての最後の公演まで、衣装やサングラス、髪形も含めて、変わることはなかった。何より、胸にマル金と大きく書かれたオレンジ色のツナギは、加藤演ずる大山金太郎の代名詞だった。

 「工員はかっこ悪くなきゃいけないわけだよね。でもそのかっこ悪さが、どこかでかっこ良く見える方法はないかと思って考えたのが、あのツナギ。ああいうツナギなら工員にも見えるし、それがファッションにも見える。自分で染めて、自分でアップリケ切り抜いて……(略)

 派手に登場した大山がかけていたサングラスを外すと、中にもう一つ丸メガネをしていて、情けなくも貧相な工員が夢から覚めたようにそこにいるという仕掛けも、このとき生まれた加藤のアイデアである。

VAN99ホール、三浦洋一

 山口健によると、当時VAN99ホールとしての年間総予算は一億あり、その割振りのすべてが山ロ一人に任されていた。演目の中でもつかの芝居は特別で、ひと公演で三百万ほどの金を一括でつか個人に渡し、その中からつかの裁量で役者たちの衣装代や出演料が支払われることになっていたという。劇場のキャパシティとステージ数からすれば、常識外れの上演料である。当時、演劇の世界に関わっている人間がこれを知ったら、たぶん腰を抜かしたろう。ましてや舞台美術もなく、音響・照明などの機材やスタッフもすべて99ホールが供出するのだから、実質的な芝居の制作費はほとんどかからない。ほぼすべてつかのギャラと言っていいのだ。

[つかは99ホールで萩谷京子のダンス公演を構成演出、翌年]ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのコンサートとして、つかの手による『ダウンタウン昭和を唄う』の第一弾『美空ひばりを唄う』が一月に五日間、五月には第二弾の『軍歌を唄う』が一日だけ行われ、すべて満員札止めとなった。この三公演とも、つかの演出料だけで二百万だったというから、これもまた破格である。(略)

[99ホールにはVAN上層部から]単なる社長の道楽だという批判も出たらしい。しかしそんな幹部たちを石津謙介は一喝したという。(略)

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのコンサートが意味を持つのは、つかではなく、三浦洋一にとってである。三浦は司会役として舞台に立ったのだが、演奏するバンドに合わせ、このとき初めてそのヘアスタイルをリーゼントにするのだ。

(略)

ここから一気に突っ走り、そのうち全く縁遠かったはずのバイクに跨り、「ロック」を歌うまでになるところがまた、三浦洋一らしかった。結局そんな三浦の“思い込み”や“自信”のようなものが、大きくなりすぎたことが、のちのつかこうへいとの別れに繋がったような気がしてならない。

『ストリッパー物語』

 たぶん“つかブーム”と言われる、かつてない熱気のようなものが客席に生まれたのは、この『ストリッパー物語』からだ。その雰囲気が、それまでのいわゆる演劇ファンによるものとは、どこか違っていることは明らかだった。ミュージカルでもないのに、一人の女の子のダンスを中心に据え、それを観せるために芝居部分があるという、当時の演劇とは一味違ったつかの試みが、観客の心をつかんだということもあるだろう。だがそれにも増して、根岸とし江というまだ21歳の女優の魅力に、満員の観客たちが惹き込まれていくのがわかった。

大津彰

 この『ストリッパー物語』で、僕は初めて大津彰がつかの芝居に生で音楽をつける場面に遭遇する。下手舞台の下に椅子が置かれ、セッティングされたマイクの前に座る大津が、ギターを弾きながら、あるときは歌、あるときはハミング、あるときはギターのアルペジオだけで、芝居に音をつけていくのだ。それはあたかも大津と舞台上の俳優たちの掛け合いのようだった。

 これ以降、紀伊國屋ホール、西武劇場、東芸劇場と、すべての舞台でその形がとられ、大津の作詞家としての仕事が忙しくなる前、80年暮れの『飛龍伝'80』まで続いたはずだ。(略)

稽古に、大津はすべて付き合い、つかが作っていく芝居に合わせ、自作の歌を入れていくのだ。稽古場で芝居が繰り返されるたびに、何度も何度も――。

 それだけではなく、二人は稽古の後、毎晩一緒に酒を飲み、つかは大津の意見を聞いて、翌日の芝居が変わるのである。いわばその頃のつかの芝居作りは、大津と二人三脚のようなところがあった。つかにとって大津は、慶應の仮面舞台の中で、ただ一人残った仲間であり、その絆は、大津が47歳の若さで亡くなるまで続いた。つかが唯一同志として、何かを演じることなく心許せた人間は、ある時期から大津だけだったように思う。大津の葬儀で今にも崩れ落ちそうに青ざめ、震える声で弔辞を読むつかの姿が、僕は忘れられない。

『ヒモのはなし』は出トチリから

[明美との別れを前にしたシゲが]ヒモとしての心構えを延々語るこの三浦の台詞は、初演の折はほんの短いものだったのだが、再演の稽古段階で足され[どんどん長くなった](略)理由は根岸にあった。

「まだ公演の早い時期に、私が出トチリしちゃったのよ。それで三浦君が勝手に台詞作って、一人でしゃべりながら、何とか舞台をもたせたんだけど、芝居がはねた後、つかさんが嫌味たっぷりに『まあ、根岸が楽屋で煙草一服する時間も作ってやらんとなあ』なんて言い出して、それからなのよ、毎日本番前にそこの稽古するようになったのは」

 このシゲの一人語りの部分が、のちに「三浦洋一ひとり会」で『ヒモのはなし』として一本の芝居になり、その語りを文字に起こして小説化したものは直木賞候補作となる。そしてさらにそれを原作として、当初の『ストリッパー物語』に近い形に戻した舞台『ヒモのはなし』が生まれるのだから、実に意味ある根岸の“出トチリ”だったわけである。

紀伊國屋ホール

どうして、ほとんど飛び込みのように「つかこうへい事務所」がその舞台に登場することが出来かのか。そしてなぜ、年間6本、81ステージもの公演が打てたのか。(略)

[一年、スプリンクラー設置工事のため予定を空けていたが、延期できることになり急遽予定を]埋めなければならなくなったというのだ。つかの芝居の噂を耳にして、99ホールに向かったのも、そのためだった。

 「結局その年、空いていた部分につかさんを全部入れて、それでデビュー初年にもかかわらず、あれだけの数の公演が打てたわけです。だからあれはスプリンクラーのおかげなんです」

 ここにも僕はつかの持つ“運”を感じる。

(略)

 日生や帝劇などの大劇場ならともかく、東京ひと公演で一万人を突破する芝居が、この新宿の中ホールから生まれたのだ。

 ホールのスタッフたちにとっても、これはまさしく事件だった。そして何より、つかとの出会いそのものが、それまでの仕事とは別物の、芝居に関わる高揚感を与えてくれたという。

[鈴木由美子談]

 「初めて会ったときから、強烈な押しの強さで、あれこれ無理難題を言う人だった。でも、とにかく面白いものをお客さんに見せたいというのがすべてで、お客が喜んでくれればOK。さらに彼らをどうやって劇場に引き寄せるかを絶えず考えていて、こっちはその熱にいつの間にか巻き込まれてる……自分たちも一緒にこの舞台を作ってるんだという感覚にさせられるんです。そんなことは他の劇団ではなかったから……ほんとに楽しかった」(略)

普通、演出家は初日が開けば劇場にはとんと顔をみせなくなるものだ。しかしつかの場合は、劇場入りしてから千穐楽まで連日現われる。(略)劇場スタッフたちは、つかのいつもの語り口に毎日圧倒されたようだ。(略)

[安部邦彦談]

 「つかさんの芝居が来るというのは、舞台事務室にとってもどこかお祭りだった。観客たちが芝居を待っているのと同じように、ホールのスタッフたちも、つかさんを迎えるのがうれしくて仕方がなかった。通路にギューギュー詰めに座ってもらう当日券のお客たちも、案内する僕らも同じような年齢で、一緒になってそのお祭りに参加しているような感じだった。詰められれば詰められるほど、お客もそれを喜ぶというような……だから文句を言う人間は一人もいない。そういう時代だった……

(略)

入場料が安いので、何度でも来られる。おまけにつかさんの芝居は観るたびにディテールに込められた狙いが新たに発見出来て、またそれを同行者に解説出来る……ずっとこの連鎖で、お客が増えていったような気がする」

(略)

上司であった金子和一郎が何度も口にした言葉を、二人とも同じように僕に伝えた。

「つかさんは紀伊國屋ホールにとって恩人だった」

『出発』

[「東京12チャンネル」のために収録し、初日一週間前に先行放映]

テレビ用の演出は、さらに芝居のあらゆるところに仕掛けられている。中でも、嫁の井上加奈子が妊娠を告げたところで、絶句する風間杜夫がカメラに向かい「コマーシャル行ってみよう!」と叫んでCMが入ったり、出番を終えて袖にはけてきた加藤健一を移動カメラが追い、サントリーホワイトのビンで埋め尽くされた楽屋で待っていた高野が「お疲れさま」と酒を注いで、「うまい!」と二人で盛り上がるなど、スポンサーに対する如才ない気づかいは、いかにもつからしい。

 テレビ用演出のラストは、最後の長い一人語りで芝居を終えた田中邦衛が、舞台から奈落に降りてきて、煙草を一服吸い、「祖母」の衣装やメイクをすでにはずした平田と二人で、今日の芝居の出来を淡々と振り返るといったものだ。そして最後に田中自身の言葉として、「父親ってのは、寂しく、哀しいもんだ」と芝居のテーマまで語らせ、本編は終わる。

(略)

 これ以降、つかこうへい事務所と[ディレクター]不破敏之の付き合いは長く続くことになる。82年の『蒲田行進曲』が解散公演となったあと、劇団としての最後の仕事が、「テレビ東京」での大晦日特番『つか版・忠臣蔵』だったのも、不破の存在があったからである。

『サロメ』

 そこにいたのは、見事に個性の違う、三人の若い女の子たちだった。主役の「サロメ」を演じることになっている水野さつ子(のちの蜷川有紀)は、特徴的な強い視線を持つ高校二年生。長身で手足が長く、どこか飄々としたかとうかずこ(当時は加藤かず子)が名古屋の女子大生。愛嬌のあるくりくりした目で、人懐っこい熊谷真実は、女子高を卒業間近。(略)

 驚いたことに、三人ともつかの芝居など観たことはなかった。彼女たちにとって、何より大事だったのは、パルコが制作する舞台ということだったのだ。水野がその募集を見たのは、少女向け雑誌『セブンティーン』だったし、かとうの場合はファッション雑誌『モア』だった。

 「『モア』は当時の女子大生のアイテムだったから……告知も洒落ていたし、中に[脚本の]阿木耀子さんの名前があったのに惹かれた。(略)恥ずかしいけど、つかさんの名前は知らなかった。演劇なんて関心なかったし……(略)」

 熊谷真実もまた、同級生から雑誌の切り抜きを見せられたことで、応募したという。

 「まわりはみんな、つかさんのことを知ってて、平田さんや風間さんなんか、かなりの人気だった。だから受かったときは大騒ぎになった」

次回に続く。

2015-12-19 つかこうへい正伝・その2 岸田戯曲賞受賞 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


つかこうへい正伝 1968-1982

作者: 長谷川康夫

出版社: 新潮社 発売日: 2015/11/18

平田満

「[初めて観た暫の芝居は]色んな芝居のコラージュでね、『天井桟敷』と『黒テント』と『状況』と『早稲小』と合わせたみたいなやつ。まあそのときは、そんなことはわからなかったけど……(略)

 「たまたま通りかかったら、芝居はもう始まっていて、劇団のアトリエの前にあった小さなベンチに座ってるおじさんが『ダダで入れてあげるよ』っていうんで、途中で入って行った」

 その「おじさん」が座長の向島三四郎だったというのだ。そして芝居がハネたあと、再び声を掛けられ、舞台装置や照明機材を取り外す、いわゆる“バラし”を手伝わされた。

 「ダダで観せてもらったから、何かやらなきゃならないと思って……」

 そのまま平田は打ち上げにまで参加し、これが彼の人生を決定づけてしまうことになる。

鈴木忠志

 鈴木忠志と出会った72年の春以降、つかは早稲田小劇場の稽古に、足繁く通うようになる。(略)

 つかは、役者に指示を飛ばす鈴木の言葉をこまかくノートに取りながら、なんとテープレコーダーまで回していたというのだ。まるで巨匠先生に付き従い、その技を盗もうとする書生を思わせるそんな姿は、どうしても僕には想像出来ない。(略)

[『新劇』掲載予定の「鈴木忠志論」の取材のためもあったのだろうと著者]

そこに書かれた鈴木のもの言いや態度が、僕の知る稽古場でのつかこうへいと驚くほど重なるということだ。(略)

つまりつかはこの時期に、その演出スタイルにおいて、鈴木忠志の影響を強く受けたということだ。事実、川田龍一や齋藤公一によれば、仮面舞台でのつかは稽古場で声を荒らげ、役者を口汚くののしったりすることはほとんどなかったという。暫以降のつかしか知らない僕たちには、そんな姿はまるで想像がつかない。(略)

 鈴木とつかの関係は、つかが『熱海殺人事件』で岸田戯曲賞を受賞する頃まで続くが、この時期の鈴木に対するつかの言動は、その後、目上と認めた人間に向け、彼が一貫してとり続けたもののひとつのパターンとして、僕などにはかなりわかりやすい。

 川田龍一は、『戦争で死ねなかったお父さんのために』が『新劇』に掲載されたとき、つかに指示され、高級ブランデーを鈴木のもとに届けたという。

 さらに鈴木忠志によれば、岸田戯曲賞受賞の折には、つかは鈴木の妻を呼び出し、賞金の半分の五万円で、鈴木夫妻にそれぞれ腕時計とセーターを買ってくれたという。それもわざわざ三越まで行ったというところが、いかにもつからしい。

 そればかりか、つかは岸田戯曲賞受賞後、実家からかなりの額の金を送らせ、世話になった関係者に、しっかり付け届けをした。ある者には洋酒を、ある者にはカニ缶の詰め合わせを、ある者には帯留めを――。

 たしかにそういうことを平気でするひとだった。そこにはすべて、逆にそんなヤツだと思われたいという、つかの作為がある。扇田が看破したまさに「演技人間」の部分だ。そんなつかを、たぶん鈴木は面白がり、かわいがったのだろう。

 そしてつかの方は、早稲田小劇場に通い、鈴木の芝居作りを学ぶ中で、歌舞伎や狂言などの「演劇的教養」を吸収してゆく。それだけではなく、六方を踏みながらの発声や、仰向けで両足を上げ演歌を絶唱しながらの腹筋、腰を落とし金属製の脚立を背負っての白浪五人男の台詞など、その後、つかを経由して、僕らが暫で演技訓練として習ったことも多い。

(略)

 つまりこの頃、つかこうへいは、鈴木忠志という大きな存在を認めながらも、決してそのすべてを肯定することなく、それに臆することもなく、自らの演劇を確立し、世に打って出る道を、自分の中で、例によってしたたかに模索していたのである。

学生サークル劇団でだらけたノリだった「暫」

 平田や三浦洋一が佐藤信『あたしのビートルズ』の稽古に励んでいたその夏、向島はつかに初めて会っていた。もちろん間に入ったのは山口省二である。(略)

すぐに意気投合したらしい。四月に暫の芝居を観ていることもあり、つかは向島が若い劇団員を何人も抱えていることと、何より稽古場を持っていることに興味を示した。そして「ちょっと稽古をみてもらいたい」という向島の誘いにすぐに乗ったのだ。(略)

『新劇』に戯曲が載った新進の劇作家が芝居を教えてくれる――そんな謳い文句に惹かれ、皆、集まって来たのだろう。

[その中のひとりが、井上加奈子](略)

[稽古後、喫茶店で『つか版大喜利』に]

 「例えば『トルコ風呂に行った教師が、そこで働く昔の教え子に出会ってしまった。何と言う?』とか、『大晦日、同棲する男女の耳に、ゴーンと除夜の鐘。そのとき、ひと言』とかね。

「役者たちがメシ食えるようにする」

[既に高い評価のある]自分より一世代上の「早稲田小劇場」と、まだほんの学生劇団にすぎない「暫」。一方では、鈴木忠志に認められ、座付作家としての地位を得たいと思い、もう一方で、無条件で従ってくれる俳優たちを使って、自分の自由な芝居作りもしたい。それを両天秤にかけながら、今後の道を探っているようなところがあったのではないだろうか。

(略)

 深尾が記憶しているつかの言葉の中で、もうひとつ、こんなものがある。

 「早稲小はすごいけど、役者たちはみんな、芝居でメシ食えないじゃないですか。僕にそういうの全部まかせてくれたら、確実に食ってけるようにしますけどね」(略)

 「役者たちがメシ食えるようにする」

 これは、この先もつかがずっと口にし続けた言葉だ。(略)実際つかは、初期には自分が知り合ったテレビ局のプロデューサーたちに頭を下げて回ったし、子飼いの役者たちに自らマネージメント事務所を見つけてきたりした。[映画『蒲田行進曲』では風間、平田をゴリ推し](略)

意地の悪い見方をさせてもらえば、つかには、役者の名がマスコミを通じて売れることで、自分の芝居に客が増えるという計算があったはずだ。

 そしてそのこと以上に、役者のためにそこまでやってやる自分が好きなのだ。周りからは、人情味にあふれ、男気のある人間だと思ってもらえ、つか自身も、ろくでもない役者たちが彼の才能のおかけで売れたという満足感に浸れる。

 「……こんな自分が愛おしくってよ」

 『蒲田行進曲』の中で、銀ちゃんが小夏に向けて発する台詞である。

 「おめえらが、ウケてんじゃねえ、俺がウケてんだ!」

 出番を終えた役者たちが楽屋に帰ってくるたびに、つかが繰り返した言葉だ。

(略)

次第に配役が固まって行く中、劇団員たちには、一軍、二軍のような色分けがされていった。最終的に一軍の局長役は三浦洋一が演じるようになり、二軍の局長が平田満だったという。

 ところがなんと本番当日、最後の通し稽古で両方の芝居を見たつかが三浦を降ろし、局長役を平田に替えるのだ。(略)この呆れるほどの冷酷さ、残酷さもまた、つからしい一面である(略)

「三浦なんてよ、本番前に主役降ろされたんだぜ。観に来てくれって、友だちいっぱい呼んでるのによ、あいつ、受付やってたんだから」

つかが実に嬉しそうに話すのを、僕はその後、何度も聞かされた。

 三浦洋一というのは、よきにつけ悪しきにつけ、自分に自信があり、プライドの高い人間だった。そしてそれを平気で表に出すようなところがあった。つかの前で驚くほど寡黙で、ほとんど感情を表すことのない平田とは対照的だった。そんな三浦が本番を控え、どこか高揚している(つかに言わせれば「その気になってる」)姿に、つかがカチンときた……おそらくそんなところではないか。

『郵便屋さんちょっと・完結篇』

 仮面舞台の齋藤公一は、「のちのつかさんの芝居からは、僕らの時代にあった『詩的』な部分がどんどん削ぎ落とされていった」と振り返るが、この『郵便屋さんちょっと』の最終章を比較したとき、それは明確に表れている。(略)

 おそらくつかはこの頃、“別役的なもの”から離れようとしただけではなく、『三田詩人』時代の「つか・こうへい」との決別も図ったのだろう。そしてここから、多くの若者たちの熱狂を生んだ「つか芝居」は出発したのだと、僕はそんなふうに思う。

 これ以降のつかの劇中の台詞からは、少なくとも『郵便屋さんちょっと』のタイプ印刷版には残っていた、どこかスタイリッシュで、気取った言い回しが消え、とことん日常的な言葉の重なりになっていく。その上で、もっとひねくれ、もっと人間の本質を暴くようなものになる。

(略)

なぜかそこに岩間多佳子の名前はない。(略)白石加代子の娘役で出演するため、早稲田小劇場の稽古に参加していたのである。(略)つかは「勉強のため」と説得し、彼女を送り出したという。このヨーロッパ行きにより、岩間は勤めていた会社を辞めねばならず、ここから芝居一本でやっていくことになる。

 「つかさんが真剣な顔して言うのよね。『おまえな、今は俺なんかより、鈴木忠志の方が演出家としてはずっと上だ。だからおまえのためにも俺を離れて向こうに行った方がいいと思う』って。ほら、つかさんってある瞬間、とんでもなく真面目になって、大きな勘違いなんだけど、自分でも頑なにそれを信じ切って、説得してくることってよくあるじゃない。そのときも、ほんとに私を思ってのことで、きっと天下の早稲小で白石さんの相手役を務めれば、岩間も有名になると思ったんじゃないかな……」(略)

 「でも結局、そんな思惑、大外れで、そうなるとつかさん、自分で言ったことなんてころっと忘れちゃうし……私はなんだか人身御供にされたような気持ちだった」(略)

 齋藤公一は、つかがこの頃しみじみと語った言葉を憶えている。

 「早稲田のやつは、慶應と違って腰が座ってるからなあ」

 あれだけ露骨に早稲田嫌いを公言する陰で、こんなことを言っていたのだ。自分について来ることがなかった仮面舞台の仲間たちへの失望から、三浦や平田ら、早稲田で出会った役者たちに対して、何か確実に託せるものを感じ始めていたということではないだろうか。

ヒモ状態のつか

[仕送りのなくなった]この頃のつかは、沼袋のマンションを出て、江古田で間借りし、なんと平田満と同居を始めている。(略)

つかが平田のことを、それだけ特別に思っていたということだろう。この先、自分の作品を世に送り出す上で、俳優として必要不可欠な存在であると、このときもう気づいていたに違いない。ただしそれだけではなく、当時のつかの経済的事情も絡んでいたはずだ。実際、その部屋の家賃は平田が払っているし、彼がアルバイトした中華料理屋の給料袋が、そのままつかの懐に移動する場面に、劇団員たちは居合わせている。(略)

つかの生活はかなりの部分、まだ学生だった暫の面々によって支えられていたのではないだろうか。(略)

[劇団員総出のぬいぐるみイベントバイト料もすべてつかが奪取。井上の広告モデルギャラ、岩間のビアガーデンバイト料も同様の目に]

(略)

 ただし、つかが岸田戯曲賞を受賞し、一定以上の収入が入り始めてからは、その関係は全く逆になる。どんなときであっても僕らが金を出すことは一切なくなった。つかは当然のごとく、必ず僕らの分まで支払うのだ。これもまた後年まで徹底していた。僕がつかのもとを離れ、かなりの年齢になってからも、つかの前で財布を出したことは一度もない。

中野幾夫

[文学座の『熱海殺人事件』の稽古で忙しい]つかの代理として中野幾夫がやってきた。中野はそれまでも事あるごとに現れ、つかの慶應時代の後輩だということは知っていた。僕の知る限り、唯一つかと対等の口をきく、何やら不思議な存在だったが、二人のやり取りはいつも、つか芝居そのものといった面白さだった。

 そんな中野が演出席につき、僕らに指示を出し始めたとき、その物言いや与えてくる台詞に、あまりにもつかと重なるものが多いことに僕は驚いた。相手を客観視した上での突き放すような“皮肉”という部分では、むしろつか以上の鋭さがあったかもしれない。このとき僕は、彼によってつかが芝居の世界に引き込まれたことなど知らなかったが、「つかさんの方が、どこかこの中野さんのマネをしているところもあるかもしれない」と思ったことを憶えている。

 実は僕は今でも、つかが「つかこうへい」というキャラクターを確立していくうえで、少なからずこの中野幾夫という人間から貰い受けた部分があったと思っている。中野は若くして演劇の世界から身を引いてしまったが、のちのつか演出による『熱海殺人事件』の中には、中野のアイデアによるものがいくつも残っていて

根岸とし江

[見学していた根岸に]つかさんが、『君も寒いでしょう。よかったら一緒に踊りなさい』って」

 根岸はまったく物怖じせず、元気よく舞台に上がり、踊りに参加したが、僕らの我流のインチキなダンスとの違いは一目でわかった。つかはすぐに、前に出て好きなように踊ることを指示し、僕らは山本リングの曲に合わせて根岸が次々とやってみせる派手なステップや、手脚や腰の振りに懸命について行った。それはかなりの時間、続いたと思う。

 この日、たしか根岸はそのダンスに参加しただけだった。ただ、その全身から溢れる不思議なエネルギーのようなものに、僕らが圧倒されたことは間違いない。(略)

 根岸が帰っていったあと、つかは半分呆れ、半分感心したようにつぶやいた。

 「なんだか、ハイセイコーみたいな女だったな……」

 二度目に根岸が登場したのは、自由劇場での公演が始まったその本番前だった。そしてつかに言われ、また同じように倹らを従えて準備運動代わりのダンスをこれでもかと踊ってみせた。そのとき根岸が着ていたのが、真っ赤なベルボトムのジーンズに赤いサテンのシャツ、そして紺のベストだった。つかにとってもよほど印象的だったのだろう、これがそのまま『ストリッパー物語』の衣装となるのだが、それを観客たちが目にするのは、まだ一年半ほど先のことだ。

文学座『熱海殺人事件』

ずいぶんちゃんとした芝居だというのが、正直な感想だった。(略)

 石井強司によれば、それでも文学座にとっては厄介な戯曲だったという。

「ト書きはほとんどないし、展開のスピードや意外性にどこかついていけないところがあったと思う。(略)

芝居の途中で実際の照明や音楽を出演者が止めたりするなんてのが、それまでの新劇ではありえないし、ずいぶん刺激されたよね。何よりも、言葉が“生”なんだよ。今までの戯曲と違うのはもちろんだけど、当時のいわゆる『アングラ』とも違う、日常の言葉というのかな。(略)」

 僕などには、ずっとそばで観てきたつかの芝居(略)と比べて、『熱海殺人事件』はいかにも“新劇”的に思えたのに、その中にいる人たちにとっては、まったく別物だったらしい。

(略)

[当初は「静かでおとなしい人」だったが、上演が終わる頃には芝居の評判に自信を得たか、いつものつかになり]

劇団内につかシンパが増えていったのは想像するに容易い。

 「作品自体もそうだけど、つかこうへいというキャラクターと付き合うのはかなりインパクトがあったからね。あの時代、続々と新しい演劇が世に出てきて、若い劇団員の中には、自分たちがどこか新劇という枠の中でぬるま湯的な育ち方をしてるんじゃないか、これでいいのかという思いがあって、そこをつかさんにわしづかみにされたというか……」

(略)文学座との蜜月は、75年秋の『戦争〜』の再演まで続くのだが、それ以降はなぜかぷっつりと縁が切れてしまう。

 石井は、つかがアトリエではなく、本公演に芝居を書き下ろすことを望み、それが実現しなかったからではないかと言う。

 「まあ今なら、優秀な新人作家の芝居をちょっと本公演に回せないかってことになるんだけど、まだそんな時代じゃないからね」

 これを聞いて思い出したことがある。つかが、あの『やさしいゴドーの待ち方――その傾向と対策』で試した老女優と弟子の芝居を「杉村春子と太地喜和子でやりたいんだよな」と語るのを、僕は一度ならず耳にしているのだ。

 たぶんつかはそういったものを書かせろと、文学座に要求したのではないか。

岸田戯曲賞受賞

 別役を除いては、すべての選考委員がつかの若さに触れ、老婆心ともいうべき憂慮をみせているのが面白い。それを書かずにはいられないほど、25歳での受賞は異例だったということだろう。選評の全文を読むと、『熱海殺人事件』を積極的に推しているのも別役実だけで、彼を除くほぼ全員が清水邦夫の『ぼくらが非情の大河をくだる時』をまず第一に選んでいる。『熱海』を推すにしても皆、同時受賞という意見で、石沢秀二と矢代静一に至っては、それすらあまり乗り気ではなかったようだ。

 つかにとっては、前年の岸田戯曲賞の選考が何らかの事情で取りやめになったことが幸いしたのかもしれない。(略)

 これもまた、つかこうへいの持って生まれた“運”のようなものだろうか。(略)

[しかし]マスコミが積極的に取り上げたのは、本来なら次点として受賞を逃したかもしれないつかの方だった。(略)

まさにつかは“時の人”となった。

(略)

岸田賞の受賞パーテイーには、岩間をはじめ大津や島崎ら仮面舞台時代からの仲間、そして暫からは平田と井上だけが参加したという。ようするに彼らが、つかにとっての“身内”だったということだろう。今になって考えると、これがその先、つかの選択する方向を示しているのだが、ここではまだ当人も気づいていないはずだ。

次回に続く。

2015-12-17 つかこうへい正伝 “何時か公平”説の真偽 このエントリーを含むブックマーク


つかこうへい正伝 1968-1982

作者: 長谷川康夫

出版社: 新潮社 発売日: 2015/11/18

40年の付き合いがある著者や番頭格の菅野重郎が闘病中のつかの安否が気になっても、怖くてこちらからは電話もできない。なぜなら、二十歳の頃から、連絡してくるのは一方的につかであり

僕はただ待っているだけだった。そして何か指示されれば無条件で受け入れてきた。それがどれだけ理不尽な要求であっても……。(略)

今回だって、どれほど見舞いに行きたい気持ちがあっても、「来い」と言われない限り、こちらからそれをすることは絶対になかった。それが僕とつかさんだった。

 しかしまさか菅野までが未だにそんな関係でいるとは……。彼は今、ある意味つかさんのビジネスパートナーであり、公私にわたっての相談役を務めているのではなかったのか。

傍若無人で小心で、残酷なくせに心優しく、とことん楽天的だと思ったら、死ぬほど悲観的になる……世の中の人間すべてをバカと呼び、稽古場で芝居が気に入らなければ、役者を一日罵倒し続け、取材が入れば、どの役者よりも目立とうとする……打ち上げで褒めた役者が笑顔でも見せようものなら、激高してテーブルのビール瓶を足で払い、カラオケでマイクを握れば、誰にも歌わせず、そのくせ他の客からクレームが来たとたん、シュンとして店を出て行く……。

父は鉄鋼業やホテル業を営む裕福な家庭の次男。

「つかこうへい」と名乗った後、すぐに「金原峰雄」という本名を示し、自分が在日韓国人であることを、初対面である[仮面舞台の]劇団員たち全員に告げたという。彼らと関わる第一歩を、まずそこから始めたのだ。これはとても興味深い。『三田詩人』の同人中では、一切それは語られてはいないし、翌年入団してくる齋藤ら劇団の二期生たちにも自分から伝えることはなかった。のちに早稲田の劇団「暫」に乗り込んだときも、あえて皆に告げたりはしなかった。

 たぶんそんな正面切っての告白など、つかの人生の中で後にも先にもこのときだけではないだろうか。いや、このときつかが行ったのは「告白」というよりむしろ、彼自身の「宣言」である。自分はこれから演劇に関わる、おまえたちと芝居をやって行く、という「決意表明」なのだ。そのために、いいか、なめるんじゃないぞ、俺は「ただの日本人」じゃないんだからなと、つか一流のはったりをかましたのだ。

(略)

 だが面白いことに、川田にせよ、重松にせよ、つかの出自を聞いてもただ「ふーん」と思っただけだったという。東京の山の手の高校出身の彼らには、もしかしたらつかが逆手に取ろうとしたかもしれない、いわゆるある種の「意識」のようなものはまるでなかったのだ。(略)つかの意気込みはまるで通じていなかったようだ。

大学時代のつかが恋していた堀田百合子談

 「逆説的な言葉だったり、皮肉だったり、どこか傍若無人を装っていることも含めて、すべてに懸命だったように思う。そうやってある種、演じていくうちに、それが身につき、のちのつかこうへいが作り上げられていったのではないかしら」(略)

 もうひとつ、堀田百合子がつかこうへいを評する中で、ズバリ言い当てていると唸らされたものがある。それは、つかが彼女との交流が途絶えた後も、後年まで、その父である堀田善衛のもとに自らの芝居の案内を送り続けたという話の中で、飛び出したものだ。

「ほら、彼って利にさといでしょう」

「利にさとい」……決して非難や揶揄する口調ではなく、むしろ愛すべき一面として、堀田はその言葉を使った。確かにその通りだ。つかこうへいの傍にいて、その強烈な上昇志向から生じる対外的な言動を目の当たりにして来た僕は、この言葉を聞いたとき、よくぞ見事ひと言で表現してくれたと、思わず堀田百合子の手を握りしめそうになった。

(略)

長いインタビューの最後に、僕はずっとためらっていた質問を、あえて口にした。つかこうへいとあなたは付き合っていたのか、と。

 堀田の答えは実に明快だった。

 「ボーイフレンドの一人かな」

 まったく厭味なく、サラリと言ってのける彼女に、つかが残したあの写真の中の女子大生が重なった。そして僕は二十一歳のつかの心情を思い、少し胸が痛くなった。(略)

 ひとつだけ、どうしても書いておきたい話がある。それは僕が川田親一から聞いたもので、堀田自身は全く知らなかったのだが……。

 たぶん時期的には少し後のことだろう。北陸に旅行に出た堀田を、つかが川田の運転する車で追ったというのだ。三日ほど行方を捜す中で、朝、金沢の駅で歯を磨いていると、遠くのホームに堀田が現れたのだという。しかし、つかはその姿をじっと見つめるだけだった。そしてひと言「帰ろう」と川田に告げ、そのまま車でまた東京を目指した――。

 この話を聞いたとき、僕はうれしくてしかたなかった。こんなつかさんがいたんだ……と。

 つかがその翌年書くことになる、初期の代表作『郵便屋さんちょっと』に登場するヒロインは「ゆりの看護婦さん」と呼ばれる少女だ。

『白と黒とだけの階段』パンフ内のつか理論

[普通に煙草を買ったらそこには何もコミュニケーションはない](略)

現代人にとって一番恐ろしいのは無視される事であり、無視された時点で、一万円札を持って一日に二、三度ハイライト一ケづつ買いに行くような行動に出る。そして煙草屋のおばさんの如何なる意味でも僕を意識した眼で見る、その顔を見て僕ははじめて、『存在』が体じゅう満ちてくる訳です。僕の演劇の一つのパターンはその奇妙な行動?に出た時の寂しさを裏がえしにすることです。

 つかがこれほど明確に自らの作劇術を分析してみせたのは、これ以降ないのではないだろうか。

齋藤公一談

「[『赤いベレー帽をあなたに』は]話が『遠い声 遠い部屋』によく似てるんだよね。というか、もろそのまま。その頃、僕がそれを読んでるのをつかさんが見て、顔色変えたからね。『なんでおまえそれ知ってるんだ』って。『いや、カポーティぐらい知ってますよ』って答えたら、とたん機嫌が悪くなって……何なんだろうって思ってたら、『赤ベレ』を読んで行くうちに、あれ?そっくりだぞ、と……つかさんバレるのが嫌だったんだろうね」(略)

「重松さんなんかから、さんざん聞かされてたから、どんな人なんだろうと思ったら、なんだか痩せこけて、チョコマカしてて……やたら“吹く”ヒトだなあって思った。とにかく『世に出ている文学なるものはすべて読破している』みたいな言い方だからね。その当時は結構“吹く”奴いたけど、レベルを超えてたなあ。『そのうち俺は、世界文学全集に載るから』なんてことを平然と言うような……こっちは笑っちゃいけないと思うし」

無頼

 この頃つかが、以前にも増して無頼を気取るようになったのは、どこか自分の先行きへの不安の裏返しだったのではないだろうか。大学は卒業しないと決めた。自らの才能への自信はある。だからといって何の将来も保証されてはいない。結局、よりどころは仲間たちだけだった。

 「俺たちは必ずプロになるからな」

 という言葉を、この時期、つかは何度も口にしたという。

 僕が早稲田の「暫」に入団したての頃、ちょうど慶應から『郵便屋さんちょっと』の稽古に参加していた齋藤に言われたことがある。

 「いいか長谷川、つかさん絶対、大学やめさせようとするから気をつけろ」

 どうやら道連れを作ることで、つかは自らの不安を解消しようとしたのではないか。結局早稲田では、僕を含めて、つかの許で芝居を続けた者はすべて中退したのだから、狙い通りになったというべきか。それに巻き込まれることのなかった齋藤などは、つかから事あるごとに「この裏切り者が」と謂れのない罵倒を受けたという。

『緋牡丹博徒』と『男はつらいよ』

『緋牡丹博徒』シリーズの熱狂的なファンだった。(略)つかが幼い頃、父に連れられ繰り返し観たという、旅芝居にも通ずるものがあったのだろう。(略)[「任侠映画」の劇構造が]その後のつか作品において重要な要素のひとつとなっていく。(略)

 そしてこの頃もうひとつ、つかが絶対に欠かさなかった映画がある。『男はつらいよ』である。これもまた第一作公開が69年の夏。つかが演劇の世界に足を踏み入れた時期にちょうど重なる。僕の知る限り、その後も十数年、盆と正月の『寅さん』は、つかにとって重要なイベントだった。何度か一緒に劇場に足を運んだが、そのあと皆が集まると、つかは必ずいくつかの印象的なシーンを語り、いかに「寅」が面白いかを、自分で演じてみせたりしたものだ。(略)

 『男はつらいよ』の「車寅次郎」が、そのキャラクターと語り口において、つか作品に与えた影響は半端なものではない。しいて挙げれば『蒲田行進曲』の銀ちゃんなど、その台詞回しといい、思い込みの強さといい、寅さんそのものである。いや、影響を受けたという意味では、作品の登場人物以上に、何よりつかこうへい自身がそうなのだ。普段のつかの語り口調は、間違いなくどこか「寅」が染みついていた。

卒業写真

[堀田百合子が持参した慶應卒業アルバムに中退であるはずのつかの顔が]

 これに関しては、岩間が記憶していた。ある日、稽古場にやってきたつかが、

 「俺、今日、卒業写真撮って来たんだ」

 と口にしたというのだ。つかが卒業出来ないと知っていた岩間は、不思議に思ったという。

 つかは自分が慶應出身であることに、ある種の誇りのようなものを持っていた。もちろん正面切ってそんなことを語ったりはしない。しかし、自らに関してあれはどなんでも自虐的に笑い飛ばしたり、揶揄してみせたりするつかが、慶應の話をするときだけは、どこか自慢げな表情を素直に浮かべるのを、僕はずっと感じていた。

 それを考えると、この卒業写真の件もわかるような気がする。つかは自分が慶應の学生であったことを何らかの記録として残しておきたかったに違いない。さらに両親にそれを見せてやりたいという思いもあったのではないか。いや、もしかすると、このアルバムを見せることで、両親には卒業したと嘘をついたのかも……まあ、あの人ならなくはない。

売り込み

 雑誌『新劇』の1972年4月号には、つかの戯曲として初めて、『戦争で死ねなかったお父さんのために』が掲載されるが、それはこの戯曲をつかが早稲田小劇場の主宰者、鈴木忠志のところに持ち込み、作品を気に入った鈴木が『新劇』に紹介したというのが経緯らしい。(略)

 早稲田小劇場といえば、自分が劇作家として最も意識していた別役実のかつてのフランチャイズであり、主宰者である鈴木忠志の手によってその別役作品が数多く世に送り出された場所である。おまけに現在そこに、演出家の鈴木忠志はいても、作家はいない。となれば、つかが何を考えたか充分想像はつく。とにかく自ら売り込みをかけたわけである。(略)

舞台設定を指示するようなト書きがまったくなく、ただ台詞が並ぶだけのこの戯曲が、鈴木は演出家としてお気に召したらしい。(略)

つかが『郵便屋さんちょっと』ではなく、あえて『戦争で死ねなかったお父さんのために』の方を蔦森に託したのは、ト書きがないことに鈴木が惹かれるのを読んでいたというわけではないだろう。(略)70年安保闘争の残り香が強いその時代に、戦争なり国家なりを茶化して見せながら、その本質を晒していくという手法は、あるテーマ性をもった作品としての評価を、いわゆる演劇人筋からは受けやすい……そんなしたたかな計算があったのではないか。

 その狙い通りだったかどうか、『戦争〜』を読んだ鈴木は、すぐに「こいつに会いたい」と、一面識もない若い劇作家を呼ぶのである。現れたつかは実に礼儀正しく、低姿勢な青年に見えたという。このあたりが、先輩諸氏の懐に飛び込む術を心得えたつからしいところだ。

 そしてつかは真っ先に自分が韓国籍であることを告げる。ここにもまた、僕はどこか、つか流のある作為を感じてしまう。

“何時か公平”説の真偽

[成美子が唱え、扇田昭彦『日本の現代演劇』(1995)によって広まった「いつか公平」説]

 ああ、つかさんやったな……と僕は思う。この頃すでに、つかはそれまで対外的には一切触れることのなかった自分の国籍を公にし(略)極端な言い方をすれば、自らの国籍の問題を作家としての武器にし始めた時期に重なるのだ。それはかつて鈴木忠志に対して使ったものを、広く外に向けたと思えばいい。(略)

[扇田も]初めて出会い、真っ先に「僕は韓国籍なんです」と打ち明けられたという。扇田の朝日新聞の演劇記者という立場が、つかにあえてそれを言わせた……というのはかなり穿った見方だろうか。(略)

つかの中で、いつも何かしらの計算が働いていたような気がしてならない。そんなしたたかさを、つかはずっと持ち続けていたはずだ。

 ゆえに扇田から“何時か公平”説を伝えられたとき、つかはかなり面白がったのだと思う。「これは使える」と、瞬時に判断したのだろう。思ってもみなかったこじつけにどこか喜び、「そう受け取ってもらっても構わない」と言葉をわざと濁して、ニヤリとしたのではないか。

 いや、もちろんこれはあくまで僕の推測にすぎない。ただ、つかこうへいという人間が自分のペンネームを考えるときに、“何時か公平”などというベタついた暗喩を込めることなど、僕には想像できないのだ。(略)

[著者が73年島崎武典に訊ねた時の]答えは「慶應入学当時、よく通る場所にあった家の表札からいただいた」というものだった。(略)

 重松収はつかが仮面舞台に登場した折に、漢字では「塚光平」と書くのだと当人から教えられたというから、この話にはかなり信憑性がある。

次回に続く。

2015-12-15 ProcessingでGIFアニメ このエントリーを含むブックマーク

動画を作ろうと(何度目だw)10月頃から黙々とProcessingを勉強してたのですが、結局、SVGをGeomerativeでぐにょぐにょするとこに落ち着きました。

まあ他にもできるようにはなったのですが(タイポ拡散とかねw)、学習したテクニックと、映像的面白さのかねあいの難しさといいますか。

現在のネット回線における適切なGIF容量がわからないので、とりあえず100KBを目安にコマ数を減らしてみました。

拾い物画像から、トップに使えそうな横長画像を適当に選んでSVG化。

たぶんすぐにトップ画像変更すると思うので、こちらにも貼っておきます。

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2015-12-08 小泉義之×千葉雅也「ドゥルーズを忘れることは可能か」 このエントリーを含むブックマーク

巻頭の、対談 小泉義之×千葉雅也「ドゥルーズを忘れることは可能か」だけ読んでみた。


ドゥルーズ | 河出書房新社編集部

没後20年を迎える哲学者の新たな姿。宇野邦一×鵜飼哲、小泉義之×千葉雅也、江川隆男×堀千晶、檜垣立哉、廣瀬純他。

小泉 『哲学とは何か』は、風景がまったく変わっていませんか。私には、『シネマ』以降のドゥルーズは、単独で別物になっている気がします。おそらく、そう考えてみたほうがいい。廣瀬純の語法でいえば、晩年のドゥルーズは絶望している。そういう感触がある。後期のドゥルーズについては、コントロール社会(管理社会)批判や、『哲学とは何か』での政治哲学論などをとって、ドゥルーズの政治性なるものをあれこれの仕方で救おうとする向きもあるけど、それはちょっと違うのではないかと思っています。

千葉 ドゥルーズ晩年の、ですから90年代になされたコントロール社会批判については、そういう社会構造に対してドゥルーズから何らかのアクティブな批判のやり方を得ようとして解釈したがる人がいるようですが――これは主にネグリ=ハート派のことを念頭に置いていますが――、しかしドゥルーズ当人はもっとパッシブでしょう。彼の議論は、コントロール社会に「絶望」しているということであって、批判の可能性を見出すにしても、それは絶望を徹底した果てにあるような批判性でしょう。『記号と事件』に入っているネグリとの対談でも、ネグリが「新しいコミュニケーションにもとづくコミュニズムがこれから可能かもしれない、それはどうですか」と問いかけるのに対して、ドゥルーズは「私はコミュニケーションは全面的に腐っていると思います」と言うわけです。僕はドゥルーズのこういうところに惹かれている。必要なのは「非コミュニケーションだ」と言うわけです。

小泉 遡れば、『差異と反復』についても、ドゥルーズは「序文」で、これは黙示録になりそこねた書物だと書いています。哲学的SFとして、絶滅の最後の日、絶滅の後の最初の日のことを書こうとしたが書けなかったと書いている。

小泉 あと、丹生谷さんの砂漠のイメージだよね。丹生谷さんの資質も相まって、陰気なドゥルーズは貴重でした。

千葉 丹生谷さんの「造成居住区の午後へ」は魅力的ですね、領土化された男の世界とその外部との境界=造成居住区で、女たちがいつ終わるとも知れぬ駄話を続けている。そんな女たちと老人が弛緩した午後に徘徊している場面、それこそドゥルーズ的風景だと言っている。

小泉 早くから、ドゥルーズを老人の哲学者にしていたからね。

千葉 あの当時グローバルに見て、そういう負のドゥルーズ像にむしろ賭け金を置くというのは、珍しいものだったんじゃないでしょうか。

千葉 さて、次の話題に移りましょう。アレクサンダー・ギャロウェイが最近「ドゥルーズを忘れろ」という発言をして、英語圈で話題になっていました。そこでは、三つのドゥルージアンの類型について「忘れろ」と言われている。

(略)

第一には、グーグル・ドゥルージアン。第ニには、カール・セーガン・ドゥルージアン。第三が、訳すのがちょっと難しいですが、ウェット・ディアパー・ドゥルージアン――「濡れたオムツ」のドゥルージアンですから、オムツがまだ取れない幼児的なドゥルージアンということでしょうね。第一のものですが、グーグル・ドゥルージアンというのは、ネットワーキングで何でもやれるぞというタイプ。 コンピュータによる情報ネットワークがリゾームに等しく、それでもって脱領土化が起こっていってバンザイみたいな感じでしょう。第二の、カール・セーガン・ドゥルージアンというのは、大自然バンザイ、宇宙バンザイということでしょうね。そこに人間も含めての、また人工物も含めての、倒錯した大いなる自然のなかへ、というような。

小泉 初期ドゥルーズの、ユング的無意識や、神秘主義的なものに親和的なところとか、そういうことでしょうかね。

千葉 最後のオムツが取れないというのは、60年代のアングラ・革命カルチャーにあいかわらずアディクトしていて、それを繰り返し言うばかりの「おっさんロックファン」みたいなドゥルージアン、そういう感じでしょうかね(笑)。

小泉 で、解放の政治を目指し、その解放の先が多形倒錯。

千葉 多形倒錯で「欲望を解放せよ」みたいな、ヒッピー的なものですよね。こういうのがいけないと言っている。それに対して評価に値するのが、『アンチ・オイディプス』のときのアンチ・ファシスト的なドゥルーズ、あるいはコミュニスト的な含意をもつドゥルーズの部分であり、また管理社会批判をした90年代のドゥルーズ。まとめると、アンチ・ファシズム、コミュニズム、そして管理社会批判(これはだいたいネオリベ批判に重なる)というわけですから、まあ、典型的にグローバル・アカデミア的な左派知識人が言いそうなことである、と。

小泉 ギャロウェイもそういう人だよね。

千葉 そうなのかなと思います。そういう典型的な規矩に則る形でのドゥルーズは救えるけど、という話になっている。ところで小泉さんは広義の狂いに立脚する議論を『ドゥルーズと狂気』ではっきり打ち出されたわけで、これは多少なりウェット・ディアパー・ドゥルージアンと揶揄される可能性があると思ったんですけど、いかがですか?

小泉 そうだね。はい、オムツが取れない小泉です(笑)。

千葉 「いまだに狂気とか言ってるのか」って(笑)。

小泉 そうだよね、恥ずかしいよね(笑)。でも、これはむしろギャロウェイに直接に聞きたいくらいだけど、いま、多形倒錯を言祝ぐ人はどこにいるんでしょうか。たとえばLGBTにしても、それは多形倒錯どころじゃないよね。

千葉 規範化されちゃってますよね。まともな市民としてのLGBTでしょう。

小泉 お行儀がいい。

千葉 ええ。性の破壊的な面をプッシュする話は前よりもやりにくい状況だと思います。

(略)

しかしそうすると、小泉さんはやっぱり開き直りということになりますか?

小泉 ちょっと待って(笑)。これは真面目に言うね。もちろん私は、世代的にも時代的にも、解放という理念、自由と同じ意味での解放の理念に動かされたし、いまでも自由としての解放、解放としての自由を心から願っています。ドゥルーズの逃走線や絶対的脱頒土化についても、哲学研究者としては留保をつけますが、人としてはそれは絶対に正しいといまでも思っています。ドゥルーズが多形倒錯に賭けたと文献的に読むことができるとはあまり思わないけど、多形倒錯的なものに賭けたドゥルーズをこよなく愛していますよ。

千葉 それは僕もそうです。

小泉 私自身は、いま、濡れたオムツがどこにあるのか、どこでどのように封印されて不可視化されているのかと問題を立ててもきたんですが、でも、この立て方だと文化左翼的でフレンチ・セオリー的ですね。どうもドゥルーズ的ではない。そこで私などは、オムツをあてがわれる老人のことを考えたことがあるのか、とギャロウェイみたいな人にはツッコミ返して当座をしのいできたわけです。

千葉 かつての狂気に賭けるドゥルーズという面に、バラバラの貧しい特異性に注目するドゥルーズを位置づけ直すという方法があるんじゃないかと考えているわけですよ。それはアンチ・ファシストになるし、管理社会からの落ちこぼれの肯定ですから、ギャロウェイらにとって救われるべきドゥルーズの基準にも合致するでしょう。繰り返しになりますが、僕が重視しているのは、貧しさや狭さ、有限性の問題をドゥルーズからいかに読み取って応用するかなんですが、そういうスタンスより、複雑な力の絡み合いが素晴らしいみたいな、バロック的なスタンスのほうが声が大きい。グーグル・ドゥルージアンにしてもカール・セーガン・ドゥルージアンにしてもバロッキズムでしょう。だから僕としては、切断的ドゥルーズを強調している。

小泉 グーグル系やセーガン系がよろしくないというのはいいのです。しかし、ギャロウェイがわかっていないのはその射程です。千葉さんのいう接続過剰を切りたいのなら、たとえば創発性概念を捨てるべきです。新しいものの発明、創造性、イノヴェーションといったスローガンも捨てるべきです。ドゥルーズは可能性概念を捨てたとも言えますが、ギャロウェイの線で行くなら、現働化概念も潜在性概念も捨てるべきです。関係の外在性という標語も捨てるべきです。要は簡単な話で、ドゥルーズの用語には手垢がついてしまっているから、まずは自前の用語で考えましょう、ということです。その上で、私自身は、グーグル系やセーガン系がまったくダメと言うつもりはない。だって、本当にそこでフロー体験してイッてるなら、千葉さんのいう意味で、圧倒的に貧しいじゃないですか。それに、グーグル的なものやセーガン的なものをどうするかは現実に争われるべきことですし、私の印象では、新しい唯物論には、環境主義や科学技術論などに見られるグーグル系やセーガン系に対する批判が萌していると思います。スローガン的に駄目出ししておけば片付くと思っているギャロウェイの態度はよくない。

(略)

むしろ、ギャロウェイ自身の書き物が不徹底なんです。彼が書いていることは、実質的には、プログラムに関わる概念とドゥルーズ哲学の概念を対応させているだけです。そんなことで、グーグル的なものを批評できるのかと思いますね。

2015-12-01 アメリカ・宗教・戦争 西谷修・宇野邦一・鵜飼哲 このエントリーを含むブックマーク

2003年の本をチラ見。


アメリカ・宗教・戦争

作者: 西谷修 宇野邦一 鵜飼哲

出版社: せりか書房 発売日: 2003/03

西谷 (略)アフガニスタン攻撃が一段落して以来、いつの間にか次はイラクだということになって、9・11には直接関わりのないイラクのフセイン体制を「除去」することが、世界の緊急課題のように語られています。というより、それが今すぐにやらないと世界が危険だといったキャンペーンが張られて、世界の耳目はそこに釘付けになっています。しかしどう考えても、最大の大量破壊兵器を持ち、それを使うと公言しているのはアメリカであって、アメリカは自分が使うのだけは正義だと思い込んでいるようですから、これは手のつけようがない。

(略)

鵜飼 (略)もう一つは、「ナチスと同じでなければ何をしてもいい」という考え方。とりわけナチの犠牲者であったユダヤ人であれば、「ナチには核兵器がなかったから、核兵器を使ってもいい」ということまで含まれます。今でもイスラエルとナチズムを比較するような議論が出ると、シオニストのユダヤ人から出てくる最初の反応は、「どこにガス室があるんだ」ということですね。つまり「ガス室さえなければ、なにをしてもいい」と言わんばかりのことを言う。

(略)

西谷 (略)グアンタナモ以降、あるいはタリバン、アルカイダの殲滅以降、「人権が適用されないカテゴリーが人間にはある」ということが、公然とまかり通るようになった。

(略)

「テロ」という言葉がうまく機能して、「テロリスト」というレッテルを貼ったら、もう「人権などない」というふうにされ、それが全世界で正当化されて通用するようになったのは、9・11以降ですね。

鵜飼 (略)今度のアメリカのイラクヘの先制攻撃を正当化する議論は、ヨーロッパ人の目から見たら、ヒットラー的なものへの回帰以外の何物でもない。戦争を違法化することで、ヨーロッパはなんとか新しい秩序をつくろうとしてきた。そのすべてをご破算にしようとする。それこそ逆行であって、こんなものが通るんだったら国連自体を破壊することになる。イデーにおいて。しかし、可能性としてそういう事態が見えてきた以上、国連秩序は完全に脱構築過程に入りましたね。

西谷 国連というのは、「戦争をやらない」「戦争は悪である」ということでできる安全保障機構なんだよね。それを、「戦争をやろうとする者がいるから、それを先につぶすんだ」ということになると、国連体制なんてまったく根底から突き崩される。(略)

だから何で今ごろみんながアガンベンをありがたがるのかわからない。アガンベンが9・11以降に言ってることなんて寝言だよ。「国家の役割が安全保障だけになると、その国家はテロリスト的になり、それは危険だ」と言っている。「なに寝ぼけてんの!」っていうこと。アメリカはもうその先をいってるんだから。だから、哲学者という連中は、哲学のなかから問題を持ち出してきて、哲学の更新とかをやっているわけ。それは現実世界と直接関係ない。現実世界に照らし合わせてみて、「あ、これはこういうふうに言えるな」とか反りを合わせるだけで、現実世界はなんら哲学なんて必要としていない。そういうことに哲学はあまりに鈍感すぎる。特に哲学を解説する連中がね。

 鵜飼 イギリスの場合、フランスのアルジェリアと比べると、引き際がはやかった。やばくなると逃げる、パレスチナでもそうでした。それで、結局フランスのように頭から転ぶみたいなことはなかった。フランスは、ベトナムでもアルジェリアでも頭から転んでるわけですね。

(略)

 西谷 たしかにイギリスは植民地からなんとか早く引いて、イラクみたいな人工国家をつくらせたり、連邦に取り込んだりして、なんとか経営の続きをやろうとしてきた。

親鸞

宇野 仏教の近代化というのは、どういう方向で、例えば何宗で起きていることですか。

西谷 いま念頭に置いているのは浄土真宗ですが、真宗は明治国家の形成にいろいろなかたちで深く関与している。思想的には個の自我の宗教ということを言い始めた。それが清沢満之で、ヘーゲルの宗教哲学を訳した人なの。おもしろいことに、浄土真宗のなかでは明治の終わり頃まで親鸞はほとんどみんな知らなかったんだってね。『歎異抄』は危ない本だからというので、ごく一部の偉い人しか見ちゃいけないものだった。蓮如以降しかみんな知らない。親鸞の存在さえ知られていなかったと言いますよ。それを清沢満之が、もう一度親鸞まで戻って、他力本願とか親鸞の道ってなんだということを問い直す。それもヘーゲルの宗教哲学なんかを参照しながら考え直して、信仰というのは個的な主体の自覚として生まれるものだと、まさにヘーゲルなんだけど。それが近代における「悪人正機」の文字通りの発見ですよ。

鵜飼 プロテスタンティズムだな。

西谷 まさにそう。そういう形で清沢満之が『歎異抄』を忘却から引き出して教学の中心に据える。みんなこれを読まなくちゃいけないと。ところが、清沢満之は肺をやられて40歳前に亡くなってしまって、「精神界」という雑誌をやっていた清沢のグループから暁烏敏という人物がイデオローグとして出てきて、彼が個の自覚が「悪人正機」というのを、いわばきわめて小乗的にというか機会主義的に解釈した、「天下国家のことよりも、精神のうちで個の自覚としての信仰を掘り下げなさい」と。それが戦前、戦中の浄土真宗を戦争体制のなかに引っ張っていったんですね。

鵜飼 悪人正機説からは死刑廃止論も出ても良さそうなものだけどね。

西谷 大正時代以降の浄土真宗というのは江戸時代までの浄土真宗と全然違うらしい。特に戦後はそれがひどくなったらしい、『歎異抄』がブームになるでしょう。またそれが時代の気配とぴったり合っちゃったということもある。もともとは法然にある専修念仏という考えは、「絶対他力」を打ちだすことで、ある超越の審絶を確保するという、きわめて一神教的な面があります。だからプロテスタントというより、大川周明ではないけれど、イスラームの構造を思わせるところもあります。そこらへんのことも課題だと思う。

靖国

鵜飼 (略)靖国自体は、今の視点から見れば明らかにこれは輸入品であって、そのモデルはギリシアですね。

 古代ギリシアのポリスにおける、戦死した同胞や市民の弔い方がベースになっている。それ以前は、例えばフロイトが『死と戦争に関する時評』で強調しているけど、前近代においては神道的な宗教、当時のフロイト的な展望で言えば未開人の宗教においては、たとえ戦争に勝っても、自分たちが殺した死者たちの崇りを恐れるところに戦争と宗教の接点があった。だから、自分の共同体の領域に入る前にみそぎをする。清めることによって、自分たちが殺した相手の怨念を払った。ここに宗教というものの根拠があったわけで、自分の国の死んだ人間だけを祀るなんていうことはあり得なかったわけです。「殺した者は崇るはずがない」という前提に立っている以上、これはもう伝統とは関係ない。日本の神道とか仏教だって、最初から「国家安寧のために」って言われるけれども、「菅原道真の怨霊が怖い」とか「平将門の怨霊が怖い」と言うことでやっていたわけだから。

 今のアメリカのアーリントン墓地でもそうだけど、基本はギリシアです。その場合ギリシアの原理はなにかと言ったら、アテナイの場合は、「女が子供を産むんじゃなくて、アテナイの大地が子供を産む」(略)という考え方です。そこから生まれた者がそこに帰るということで、神聖な国土という観念が生まれるわけ。