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2016-02-28 死刑に直面する人たち 佐藤大介 このエントリーを含むブックマーク


キュメント 死刑に直面する人たち――肉声から見た実態

作者: 佐藤大介

出版社: 岩波書店 発売日: 2016/01/23

袴田巌の精神状態

[議員時代の保坂展人が2003年に面会した際の会話]

保坂氏「今日はあなたの誕生日ですが、わかります? 67歳ですね」

袴田さん「そんなことを言われても困るんだよ。もういないんだから、ムゲンサイサイネンゲツ (無限歳歳年月?)歳はない。地球がないときに生まれてきた。地球を作った人……(=意味不明)」

「神の国の儀式があって、袴田巌は勝った。日本国家に対して五億円の損害賠償を取って……」(略)

「袴田巌は、智恵の一つ。私が中心になった。昨年儀式があった(略)

儀式だ……宇宙……。全世界のばい菌と戦っている。(ばい菌に)死刑判決を下している。昨年一月八日まで袴田巌はいた、もういなくなった。一月八日に全能の神である自分が吸収した。中に入っていった。私の智恵の一つ。なくなっちゃう」

 やりとりの一部からも、長期の身柄拘束によって、袴田さんが通常の精神状態を保てていなかったことがわかるだろう。

拘置所内でシャドーボクシングをしていたこともあったが、[衛生夫だった]江本さんは「そうした様子は一切見たことがないし、話に聞いたこともない」と言い切る。1980年の死刑確定後、隣接する房にいた死刑囚が処刑されたことなどをきっかけに精神のバランスを徐々に崩していったとされる。(略)

ポットのお茶だけではなく、トイレの水までも飲むようになってしまったことから、一日に摂取できる水分は二リットルと決められていたという。食事はデザートも含め、出されたものをすべてご飯にかけて食べていた。空になったごはんの容器にはお茶を入れ、最後はすべてをなめて食器を返す。袴田さんは基本的に食事を残すことはなく、たまに残すことがあれば「体調がわるいのではないか」と担当の刑務官が心配するほどだった。(略)

[普段は無口だが面会の申し入れがあると]

 「今さらなんだ!」

 「俺には関係ない!」

 袴田さんは、人が変わったように怒鳴り散らし、面会の申し出を拒否した。多くの確定死刑因にとって、面会は外部との接触ができる数少ない貴重な機会だが、袴田さんには独居房の中に作り上げた自らの「世界」を壊される時間としか映らなかったのかもしれない。(略)[江本は]袴田さんが認知症であるとの見方には懐疑的だ。(略)

 「僕らがビデオ視聴の日を忘れるとすぐに報知器を押すんです。そうして「今日はビデオの日でしょ」って言ってくる。これで認知症なのかなと思うんです。だから、試したことがあるんです。配当でデザートがあるのですが、わざと入れなかったり。そうすると「今日、デザート来てないよ」と。献立もルーティンが決まっているからわかっている。入れないとすぐに報知器。怒るわけじゃなくて「デザート忘れてない?」と。40年以上いるから当たり前ですが、刑務官以上に拘置所の生活を熟知しているんです」(略)

 「デザートで出されたイチゴ牛乳をごはんにかけて食べるのも、[〜大王といった]別の名前を願箋に記入するのも、それだけを取り出せば異常な行動に映るかもしれません。でも、気が遠くなるほど長い拘置所生活のなかで、すこしでも変化を出そうとするための行動とも考えられるのです」(略)

風呂上がりには、クシで髪をセットすることを忘れなかった。

 「自分がなぜここにいるのか考えたくないし、考えないようにしている。その代わりに、今の生活をどう謳歌するかを考えている。ここが自分の中の世界で、それをどう満足させるか。袴田さんの日常からは、そうした思いが感じられました」

確定死刑囚へのアンケート

東京拘置所内の死刑因(匿名希望)からは「皆ギリギリのところでしずかに生活しているのです。(略)一生懸命に警察検察裁判所のおかしなところを弁護人と話し戦っているのです。その一生懸命に戦っている人たちに、現行制度を答えられるわけがないじゃありませんか」といった、質問に対する抗議が寄せられた。だが、そうした声はこの一通のみで、回答を寄せた確定死刑囚たちは、時に饒舌と思えるほど、現行の死刑制度に対して意見を記している。

(略)

 「反対。自分も人を殺しておいてなんですが、だからこそわかることもあります。人の命はこわれてしまえば、二度ともどすことができない。死んでしまって、なにがつぐないでしょうか? 死ぬことが、つぐないになるのでしょうか」(匿名希望)

 「反対。人間の生きる権利を残酷に根こそぎ奪うものだから」(坂口弘

 「反対。人は変わり得るものだから」(連続企業爆破、大道寺将司)(略)

 「絶対反対。自分が死刑確定者だから反対というのではなく、恣意的にこれが適用、運用されているからです。三名殺害で無期、一名殺害で死刑。実際にこのような裁判は存在します」(福岡・強盗殺人放火、尾田信夫)

(略)

 さらに、執行方法についての質問では、回答した78名のうち44名が見直しを希望していた。「(絞首刑は)最も野蛮で非人道的な殺し方」(山野静二郎)(略)

 44名のうち25名は、執行方法を絞首刑から、米国などで採用されている薬物注射に変更するよう求めていた。(略)

強盗殺人の倉吉政隆死刑囚も「絞首刑でも三〜四分で逝けるので、どうってことはないけれど、人としての心で考えたら執行までの期間を何十年も苦しんで、その償いはしていると思うので、薬物注射の方がいいのではないでしょうか」との考えを述べている。実際に執行に携わる刑務官の負担軽減を理由に「自らが薬物注射のスイッチを押す」(宮前一明)との方法を提案する回答もあった。

(略)

庄子幸一死刑囚は「舌骨が折れ眼球が飛び出し、口中、耳鼻孔より止めどなく血が流れ、一本のロープに吊されて死が確定するまでくるくると身を回転させ、けいれんを続け、絶命する時間をいつも想像している」と記述している。「身体の損壊がない執行(をしてほしい)」とも書き、絞首刑に処されることへの恐怖心を露わにしていた。

(略)

[1970年代前半までは執行前日や二日前に告知されていたが、自殺者が出て当日言い渡しになった]

[回答者の六割が事前告知を求めたが]一方、事前告知は不要と回答したのは四名だった。倉吉政隆死刑囚は「別に知らせてもらえなくても、その時期が来ればそれなりに感じ、自分で自然と悟ると思いますので、その日が来るまでは普通通りに生活をしていれば、死刑だの執行だの考えて悩むようなことはないと思います」と、淡々とした筆致をみせる。(略)

女性二人殺害の兼岩幸男死刑囚は「(事前告知を)してほしい、してほしくないのどちらも嫌である。事前告知されたら自殺を考えるだろうし、突然執行されるのもその時に何をするかどんな行動をとるかわからない」と、揺れる心境を書いている。

 男女二人刺殺の中山進死刑囚は「私は、大人しく殺されてやらない。一生、忘れさせない」と、激しい感情をアンケート用紙にぶつけていたが[2014年病死]。

執行の日

確定死刑囚の首にロープがかけられてから踏み板が外れるまでは、わずか数秒程度。「この時間をすこしでも短くしてやることが、我々が死刑因にしてやれる精一杯の施し」と、執行に立ち会ったことのある刑務官は話した。

(略)

[落下してきた体が大きく揺れぬよう刑務官二人で抱きかかえ]さらに、ロープのねじれで体がきりきり舞いにならないようにし、立会人の方に向かせて静止させる。この「受け止め役」は死刑執行に立ち会う刑務官のなかでも最も敬遠される仕事で、拘置所幹部に指名された際、泣き顔になりながら「勘弁してください」と懇願したベテラン刑務官もいたという。(略)落下してから死亡確認までは15分ほど(略)

知らせを受けた肉親は、すぐに遺体を引き取りに来るケースもあれば、引き取りを拒否して無縁仏として供養されることもある。

(略)

[当日]「拘置所の職員全体に、どこか重苦しい雰囲気が漂います。誰が執行に立ち会ったかなどは、長く務めていればだいたいわかるものですが、刑務官同士で死刑の話題に触れることはありません。触れたくないというのが正しいでしょうか」(略)

元死刑囚を知る関係者は、執行後、担当の刑務官が「辛い」とこぼしながら、独房の遺品を整理していたことを鮮明に覚えている。

 「(元死刑囚は)部屋をいつもきれいにしていて、対応も素直でね。壁には子どもや家族の写真を貼っていて、おとなしく過ごしていた。やったことは凶悪だけど、普段接していると情は移るよ。いつも見ているのは、そんな素直なやつでしかないんだから。(執行は)ただ悲しいとしか言えない。悲惨だよ」

 その元死刑囚は刑場に連行され、目隠しや手錠をされる直前になり、抵抗をしたという。関係者は、かみしめるような口調でこう話した。

 「最後になって、やっぱり嫌だったんだろうね。でも、暴れられると刑務官も嫌なんだよ。押さえつけて手錠して縛ってなんて、誰もやりたくない。できれば、素直に応じてほしいんだよ……」(略)

[刑務官のそうした気持ちを知っているある死刑囚は]

 「名古屋での執行のとき、(刑務官が)苦しそうに辛そうに仕事をしておられ、執行があったのは(ニュースで)知っていたため、願い事など当時はいろいろとたのんでいたために、大変だと思ったので、私は今日は願い事とかいいので一日ゆっくり休んでくださいと言ったところ、今にも泣きそうな状況で「ありがとう、そんなこと言ってくれるのお前だけだわ」と言って、ポロッと「長いつきあいの奴を、なんのうらみもないのに……」と帰って行きました。国民は刑務官のこのような苦悩を知りません」

松田幸則の母

 松田元死刑囚は、執行の直前に母親へ送った手紙に「(執行の)順番が近づいてきている」と書いていたという。だが、死刑執行への恐怖などには触れず、母親への感謝の気持ちを綴っていた。

 「「母ちゃん、好きなもの食べて、元気でおって」っていうてな。「母ちゃんは自分にばっかりお金を送ってくれて、いつも感謝しとる」って。いつも感謝しとったです。私も精いっぱいなことをしたんでな……」

 拘置所で息子と対面し、霊柩車に遺体を乗せるとき、拘置所の看守が母親に言った。

 「模範囚でした。いつも笑顔で、頭が低かった」

 別の看守も「私は松田に教わりました」と語りかけてきた。松田元死刑囚は、立ち会いの拘置所幹部や看守らにそれぞれお礼を述べ、静かに絞首台に立ったという。「お母さん、最期は立派でしたよ」。母親は、拘置所幹部にそう言われた。

 「こぎゃんうれしかったことはないと、泣いたですたい。来てよかったと思ったですたい」

 視線を落としたまま語す母親に、少し間を置いて「そうした言葉を聞いて、お母さんはどう思われましたか」と尋ねた。母親は、一瞬視線を上げて目を合わせ、それからまたうつむいて「私は……本当はですね……」と言葉を続けた。

「ほんとは、[踏み板を外すスイッチの]電気を押しなった人たちに、どぎゃんした気持ちで押しなったですかと聞こうかと思ったですたいね。ばってん、もう、できんかったですたい」(略)

 「でも、仕事上、仕様がなかったですもんな。電気のスイッチ押すのはな。そんなの聞いても、返事はできんもんな。仕様がなかったもんな」

名古屋アベック殺人事件

[6人組(未成年5人)で、デート中の男女を鉄パイプ木刀で暴行、女性を強姦、連れ回したあと絞殺]

 殺害方法は、「このたばこを吸い終わるまで引っ張ろう」と話し合いながら、綱引きのようにしてロープで首を締め上げ、数十分かけて死に至らしめるという残忍なものだった。

(略)

[新聞記事]文中の「A」は、中川政和受刑者のことを指す。

 「「死刑、出ますか?」と判決前、拘置所へ接見に訪れた弁護士に不安をもらしていたAの顔色が、この日午前10時50分すぎの死刑宣告でサッと変わった。(略)

 小島裁判長の声が「冷酷、残忍、非道」と罪を指弾するにつれ、少年たちのイガグリ頭がうなだれ、うつむき、二人の少女の長い髪が揺れた。

(略)

[死刑判決まで罪の意識は薄かった]

[面会した母は話す]

「たいしたことないって感じなんです。未成年だからなんともならない、という考えがあったんでしょう。「どうしたのか?何かあったのか?」と尋ねても、ただ笑っている。ショックでした」 その印象は、別の日に面会に訪れた弟、健一さん(仮名)も同じだった。

 「会ったら「(自宅の)車をきちんと整理しておいてくれ」って言うんです。すぐにでも出られて、正式な裁判を受けるとは思ってもいなかったんでしょう」

 健一さんの言葉からは、中川受刑者が犯行当時「未成年だから厳しい刑罰を受けることはない」「すぐに釈放される」と考えていたことがうかがえる。

(略)

君江さんは振り返る。

 「死刑になりそうということになっても、面会では「もう疲れた」「もう(死刑で)いい」と、そんなことばかり言っていました。(略)

 当時の心境を、中川受刑者は関係者へ宛てた手紙の中で、こう記している。

 「一審で死刑判決を受けたときの私は、ある意味でもう人生を投げていて、どうせ悪くされるのなら思いきり悪のまま死んでいくしかないと思い、生きることに対しての執着はほとんど持っていませんでした。被害者のお二人に対しても、かわいそうなことをしたという気持ちはあったものの、自分でやっておきながら、本当にまるで他人事のような気持ちしか持っていなかったことも事実です。(略)

「[母から、死刑になれば楽になるだろうけど]それは本当に罪を償ったことにならない。生きていくことが、本当に罪を償うことになるんじゃないのか[と諭され、自分の犯した罪と向き合い、生きることの意味を問い始めるように。反省の態度が認められ、高裁で無期懲役、検察の上告断念で刑確定。作業賞与金を積み立て謝罪文を添えて被害者に送る。そして被害女性の父から返事]。

(略)

「橋本様が私の共犯者たちにことごとく裏切られているということは私も知っておりますので、橋本様からお便りをいただいた時には本当にとてもおどろき、又、とてもありがたいという気持ちと、とても申し訳ないという思いで一杯でした」

 中川受刑者の両親は、殺された二人の家族に賠償金をそれぞれ二千万円支払うことを決め、退職金やローンを利用して捻出した。だが、事件に加わったほかの五人の家族からは、賠償金の支払いはされていない。また、社会復帰した元被告人からも、遺族への謝罪は一切ないという。その現状を、中川受刑者は「裏切り」と表した。

(略)

橋本さんはアパートの一室に一人で暮らしていた。事件後、住んでいた家は売却し、妻は病死。自らも体調を崩して、入退院を繰り返した。事件の前後で、その生活は大きく変化していた。

 「世の中は加害者が中心なんですよ。だって、死んだ人間はなにも言えないし、帰ってもこない。そのなかで、被害者は苦しまなくてはならない。(中川受刑者)以外の加害者から、謝罪などはなにもないし、そうした連中が許される社会になっているんです。この世から、本当に殺生がなくなってほしいと思いますよ」(略)やや疲れた表情を見せながら、橋本さんは「殺生がなくなってほしい」と何度もつぶやいた。(略)

 「(略)刑務所の中にいるといろいろ苦労もあるだろうし、寂しい気持ちもあるだろうから、何か声をかけてやろうと思って送ったんです。彼を許したわけでは決してない。絶対に許すことはないですよ」

(略)

 「(中川受刑者に)更生してほしいとか、そうなったら私も救われるとか、そういうことを考えて手紙を書いてはいません。ただ、彼が謝っているのもわかる。それは事実でしょう。そして、娘が帰ってこないのも事実です。彼は、一度死んだ人間。そこから、裁判で判決が決まって、刑務所の中で一生懸命がんばっている。そのことは受け止めています」

(略)

[文通を始めたのは]

「手紙の中に、父が死んだということを書いてあったんです。本当かどうかはわからなかったけれど、そのことが、自分の中できっかけになったのかもしれませんね。彼も、自分の子供みたいな年齢ですから」(略)

 「いろんな気持ちが起きるんです。仏と鬼の両方の気持ちを持っている。それが人間でしょう」[橋本は仮釈放の許可を担う組織に中川の社会復帰を促す手紙を書いた](略)

直後に中川受刑者へ出した手紙には「君の気持ちは僕の身に突き刺さるほどよく分かりました。その気持ちを永遠に忘れることなくお願いします」と書かれていた。

次回に続く。


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2016-02-25 19世紀の女体化妄想『シュレーバー回想録』 このエントリーを含むブックマーク

ザクセン王国法曹界No.2まで登りつめるものの、精神を病み、女体化妄想にとらわれた男の回想録。


シュレーバー回想録 (中公クラシックス)

作者: D・P・シュレーバー

出版社: 中央公論新社 発売日: 2015/10/09

訳者解説

[神の奇蹟により]シュレーバーの身体は女体に変えられたのである。(略)

 著者は自分の病気のきっかけは控訴院民事部部長就任の際の途方もない「重圧」にあったと言う。(略)

夢ともうつつともつかぬ状態で「性交を受け入れる側である女になってみることもやはり元来なかなかけっこうなことにちがいないという考え」が脳裏に浮かんだというのである。「意識が完全に目覚めていたなら、私はこんな考えを憤然と退けたであろう」というのは、19世紀末の高位の裁判官としては当然のことだろう。しかし、精神病、あるいは当人の言う神経病の進行につれ、「女への変身」はシュレーバーの意識にはっきりとのぼるようになる。どうも神は、シュレーバーの身体を女体に変容させ、娼婦となして遺棄しようという陰謀に一枚噛んでいるらしい。そのせいで、乳房が膨らみ、男根が溶解し、身長が縮められることもあった。しかし、それは持続せず、また元の状態に戻るのだった。

 身体にこうした異常が生じるのに並行して、外界は破滅的な事態に陥る。人間はすでに滅亡していた。シュレーバーのまわりにいる医師や看護師、またときおり見舞いに訪れる妻も現実の人間ではなかった。それらは「かりそめに急ごしらえされた」者たちでしかない。破滅は地球全体にとどまらず、さらに全宇宙に及び、シュレーバーには「カシオペア座が収縮してただ一つの太陽にならざるをえなくなったとか、ひょっとするとまだ救いうるのはプレアデス星団ぐらいのものかもしれない」といった凶報が「声」を通じてもたらされた。

(略)

そうした「現実」の中で、シュレーバーは戦慄し、不安と恐怖に苛まれ、そしてときには「筆舌に尽くしがたい快楽」を感じる。

以下、回想録

人類の更新という世界秩序に適った最終目的を目指した脱男性化ではなく、脱男性化によって私に恥辱を加えることが図られたにすぎなかった。(略)

脱男性化がもうさし迫っているというので、神の光線が私を「ミス・シュレーバー」と呼んで嘲弄することも許されると思ったこともまれではなかった。当時頻繁に用いられ、うんざりするほど繰り返された、いくつかの常套句のなかに「つまりあなたを放縦な淫蕩に身を任せている者として描き出してやろうと思うのだ」等々というものがあった。私自身も長らく、とりわけ他人が私の身体を性的に虐待するということが話題になっていたあいだは、脱男性化という危機を当然自分を脅かす汚辱として感じてきたのである。

(略)

 それゆえ、私の身体にすでに群れをなして侵入していた女性神経あるいは官能神経も、一年以上ものあいだ私の挙動や気質に何の影響も及ぼせなかった。私は自分の男としての名誉心を傾注し、同時に、私がほとんど没入しきっていた宗教的観念の神聖さをもって、それらの神経の興奮をすべて抑制したのである。実際、私がそもそも女性神経の存在を意識したのは、何かのおりに光線が作為的に女性神経を運動させたときだけであった。その際、光線が意図したのは、女性神経を興奮させて臆病心を惹起し、そのようにして私を女々しくおどおどと震える人間として「描き出す」ことだった。他方、私の意志力をもってしても、とりわけベッドに横になっているときに、体内に官能的快感が頭をもたげるのは妨げきれなかった。この官能的快感はいわゆる「魂の官能的愉悦」として光線に対してより強い引力を及ぼしたのである

 世界秩序に適った状況をなおも想い起こさせたのは、とりわけ私の身体において執行されるべき脱男性化と何らかのかかわりをもつように思われる奇蹟であった。そのなかにはとりわけ私の生殖器のさまざまな変化が含まれていた。このような変化はまれには(とりわけベッドに横になっているとき)私の男根が体内に引き入れられるという、はっきりとした徴候として現れることもあった。しかし、頻繁に現れたのは、主として不純な光線が関与したときに生じるほとんど完全な溶解状態に近い男根の軟弱化であった。さらには幾本かの髭、とりわけ口髭を引き抜くという奇蹟、そしてまた体格全体の変化(身長を低くすること)が――これはたぶん脊椎が縮んだせいであったのだろうが、もしかすると大腿骨の骨素の収縮も関与しているのかもしれない――私の脱男性化とかかわりをもつように思われた奇蹟の一部をなしていた。この低身長化の奇蹟は下位の神(アフリマン)から発せられたもので、いつも決まって「あなたを少し小さくしようか」という、この奇蹟を告知する神の言葉を伴っていた。その際、私自身は、自分の身体が六センチから八センチほど小さくなったとの印象、すなわち女の身長に近づいたという印象をもったのである。

私自身の考え方に重大な節目が刻まれたのは、1895年11月のことだった。私はこのときのことをはっきりと想い出す。その頃、晴れわたった晩秋の日々が数日間続き、朝方にはいつも濃い霧がエルベ河に垂れ込めていた。この時期に、私の身体に女性化の徴候が歴然と現れたのである。そのため、事態の進展が全体として何を目指しているのか、つまり、こうした事態に内在する目的が何であるのか、私はもはや認識しないわけにはいかなくなった。この時期の直前の幾夜かには、私が男性としての名誉心の命ずるままに、断固とした意志をもって対抗せねばならないと思っていなかったならば、ひょっとすると実際男根が体内に引き入れられてしまっていたかもしれない。当該の奇蹟の完成は、これほどまでに間近に迫っていたのである。ともかく魂の官能的愉悦はひじょうに強烈なものとなっていたので、私自身まず腕や両手に、後には、両足、胸、尻、さらには身体の他のあらゆる部分に、女体としての印象を感受した。

(略)

魂の官能的愉悦が生じるたびに幾度となく繰り返された常套句は、「奥様に対して、あなたはいったい恥ずかしくはないのか」とか、もっと下劣な「こいつはお○○○やってもらっているくせに、自分が控訴院民事部部長であったなどと言ってやがる」であった。確かに、こうした声は私に嫌悪を催させた。

(略)

 それ以来、私は女性性を育むということをはっきりと自覚をもって標榜してきた。また、今後も周囲の人々のことを顧慮しながら、できうる限りそうしていくつもりである。超感覚的な事柄の事情に与らぬ他の人々は私のことを何とでも考えるがよい。実際、男性の外見をもった痴呆の人間となるか、あるいは利発な女となるかという選択を迫られて、後者を選ばない男がいれば、会ってみたいものである。そして、ほかならぬまさにこの選択こそが、私にとっての問題なのだ。私が専心していた以前の職務を果たすことも、男の野心から達成しようとしていたその他のあらゆる目標も、人類のために私の悟性の力を種々活用するといったことも、このように事態が進展したため、いっさい不可能となってしまった。

つまり女性においては、官能的快感は身体全体にひろがっており、とくに乳房がきわめて敏感に官能的快感を感じ取るということは事実であるとされるようです。私といたしましては、やはりこの事実は、(腱か、神経かその呼び名はともかく)女性の場合には何かしら身体全体を覆うような器官が存在し、その覆い方の程度が男性よりずっと高いとでも考えなければ、説明がつかないのではないかと思っております。私にとって、こういった器官が自分の身体に――これまで繰り返し述べてきたとおり、神の奇蹟のせいで――普通ならば女性の身体においてしかありえないほど多量に存在しているということは、主観的には確かなのです。私の身体のどこであれ、手で軽く押さえれば、表層の皮膚の下に糸状ないしは筋状の構成体があるのを感じます。この構成体はとりわけ、胸の、女性ならば乳房のあるあたりに存在しており、そこにある構成体には先端にときおり結節のごとき塊ができるという特徴も認められるのであります。とりわけ何か女性にかかわることを考えているときに、この構成体を押さえると、私には女性の官能的快感に一致するような快感が感じられるのです。ついでながら申し上げておきますが、こんなことをするのは決して淫らな考えからではありません。どうしても眠れないとき、その他いかんとも耐えがたい苦痛から逃れようとするときには、こうするほかないのである。

(略)

 神が接近するとき、私の胸はかなり成熟した乳房の印象を与える。私を観察してやろうという人ならば、誰でも、この現象を自分の目で見ることができる。それゆえ、この限りにおいて、私は、いわば実地検証をしてもらい、その結果に基づいた証明を提出できるのである。もちろん、ある瞬間にちょっと観察してみるだけで、それが明らかになるわけではない。観察者には、約10分から15分ほど私のそばにいてもらわなくてはならないだろう。そうしてもらえれば、誰にでも、私の乳房が膨らんだり、平らになったりするのがわかるにちがいないと思う。胸やみぞおちには、もちろん男性としての体毛がそのまま残っている。しかし、これも私の場合には貧弱なものでしかない。また乳頭も男性としての大きさを保ち、それほど大きくはならない。しかしこれはこれとして、胴の上部をあらわにして鏡の前に立つ私を見れば、誰もが疑いもなく女性の上半身だという印象を得るであろうと――この幻想は、とくにほんの少し女としての化粧をすれば、さらに強められる――思いきって私は主張したい。さらにまた、この施設の外であっても、単なる好奇心からではなく、学問的関心に心を動かされる専門家がいれば、私からぜひ進んでというわけでもないが、そうした観察は許可したい。このこともここでためらわず宣言しておく。

(略)

放縦な淫蕩が、数多くの個々人だけではなく、民族全体を滅ぼしてまったことさえあるのは、まさに歴史の教えるところだ。しかし、この私には官能的愉悦に関してもはやそういった道徳的制約は存在しない。私の場合、道徳的制約はある意味でまったく逆転している。誤解のなきよう、ただちに言っておかねばならないのは私にとって、官能的愉悦を育むことが、自分の義務となってはいるが、しかし、それは決して、他の人間(婦人)への性的な欲情だとか、あるいはまして性的な交わりを結ぶことを指すのではないということだ。むしろ私は、自分が、男であると同時に女であるという人間として、自分自身と性交する様を思い浮かべ、さらに、性的に興奮することを目指して、もちろん決して自慰に類するようなことではないが――普通ならばおそらく卑猥とされるような――ある種の行為をせねばならないのである。

 私がこのような態度をとらざるをえなくなったのは、まさに神が私に対して世界秩序に悖る関係をもつに至ったからだ。この限りにおいて、きわめて逆説的に聞こえるかもしれないが、第一次十字軍参加者の「Dieu le veut.(神がこれを欲す)」という言葉が、そのまま私自身に当てはまる。

(略)

神は、世界秩序に適った魂の生存条件に見合ったこととして、絶えざる享楽を求める。そのため、いったんこのような世界秩序に悖る状況が生じたなかにおいても、可能な限り、神にこの享楽を与えることが私の使命となっており、私は魂の官能的愉悦を最高度にまで発達させることで、この使命を果たしているのだ。それゆえ、私自身が、その際、ほんの少しばかり性的な享楽に与ったにせよ、それは不当なこととは言えない。私には、何年も前から強いられてきた、とてつもなく苦しい耐乏生活に対する、ちょっとした埋め合わせとして、その享楽を受け取る権利がある。

(略)

もしも私に、私自身と性的に交わり合う女という役割をつねに演じることができ、そしてつねに自分の視線を女へとそそぎ、つねに女の姿を見つめていることなどができたなら、神は決して(略)撤退行為にはとりかからず、むしろ何の抵抗なく、一貫して引力に引かれてくるだろう

裁判医鑑定書から

 ちなみに患者のこうした妄想観念は瞠目すべき明晰さと、論理的な緻密さをもって展開され、根拠づけられている。しかし、ここではこれ以上その細部にまで立ち入るには及ぶまい。(略)

あとは、患者の振舞いにも、患者の観念の病的な面が絶えず現れ出ていることだけを指摘するに留めておきたい。すなわち、患者は顔の髭を剃ってしまい、女性用の化粧道具やちょっとした女性的な手仕事を好み、体のかなりの部分をあらわにして、鏡に見入ったり、色とりどりのリボンや紐で女性のように自分を飾ったりするのである。

管区病院医鑑定書から

[奇蹟への]さまざまな対抗手段のうち、ここではとくに半裸で部屋のなかを動き回ること(これは、たぶん『回想録』の中で何度も言及されている魂の官能的愉悦を喚び起こすためなのだろう)や、また色とりどりのリボンを飾った、広く胸の開いた肌着を着て鏡の前に立ち、自分の乳房――患者は自分が女性の乳房をもっていると考えているのである――を観察するなどということを挙げておく。こういった振舞いのせいで(以前には裸の両脚を窓から突き出したりもした)風邪をひくことさえあるのだが、患者は個々の症状もまた奇蹟のゆえだと考えるのである。しかし、患者には自分を傷つけようという意図はなく、また自殺しようという考えももはや捨ててしまっている。これは、身体がどれほど深い傷を受けても、患者自身にはどんな害も及ばないと信じ込んでいるからである。

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2016-02-23 憲法誕生・その2 新井政美 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


憲法誕生: 明治日本とオスマン帝国 二つの近代

作者: 新井政美

出版社: 河出書房新社 発売日: 2015/12/24

元老院国憲按

[明治13年の]この確定案において「皇帝」に関する第一篇第一章の第一条は「万世一系の皇統は日本国に君臨す」となっており、明治一一年案の「日本帝国は万世一系の皇統を以て之を治む」と比べて「統治」から「君臨」へと変化していることがわかる。稲田正次氏も指摘するとおり、この条項は元老院で検討した西洋諸国の憲法中に見られない、独自の規定であろう。(略)

第二条には「皇帝は神聖にして犯すべからず。縦い何事を為すもその責に任せず」とあり、皇帝の無答責が具体的に記されているのである。この条項はオーストリア憲法第四篇第一条、スウェーデン憲法第三条によったものというが、明治一一年案では「皇帝の身体は神聖にして侵す可からざる者とす」とのみ書かれていた。いっぽう、第二章「帝位継承」中に、プロイセン、オーストリア、ベルギーその他欧州諸憲法にならう形で、

 皇帝即位の礼を行ふときは両院の議員を召集し国憲を遵守することを誓う。

という重要な条項が入れられていることは注目に値する。皇帝が憲法遵守を議会で誓うというこの一項は、のちに井上毅によって独特な修正を受け、憲法公布時にはさらに興味深い変貌を遂げるが、この時点ではこの文言を、このような明快な形で草案中に挿入することについて、委員たちの間には何らの異論も出なかったという。

 いずれにせよ元老院はこれを確定案として、一二月末に議長から天皇へ奉呈した。(略)

[だが岩倉具視が不備があるとやりなおしを提案、伊藤博文に意見を求めた]

伊藤は元老院の草案を、西洋各国憲法の切り貼り、焼き直しにすぎず、日本の「国体」「人情」などにまったく配慮がなされていないと批判している[七年前の大久保の「土地風俗人情時勢」に適した政体をたてるべきという意見に呼応]

(略)

経緯の詳細は不明ながら、結局はこれを形式的に上奏させ、そのまま不採択として葬ることで三条と岩倉との間で意見がまとまったようで(略)元老院の国憲取調局そのものが翌年三月に正式に閉鎖されるにいたるのである。

 ただここで一点、忘れてならないのは、(略)[憲法制定の目的のひとつに君権の制限をおいていた]大久保のこの精神は、元老院には受け継がれていたと思われ(略)草案の作成に関わった(か、少なくともそれに近い立場にあった書記官)と思われる人物が、確定案が君権の制限についていま一歩踏み込めていないことに不満を抱いてしたと見える書き込みをしていたのである。

 だが国内の情勢は、大久保が憲法を構想したあと大きく動き、武力による反政府蜂起や地租改正に起因する一揆と、その後の言論による民権運動の高まりとが怒濤のように政府を襲うことになった。これらを経験した伊藤が「国体人情」にいささかも注意が払われていないと述べて元老院草案を批判するとき、制限を加えるべき権利の主体が、「君主」のそれから「民」のそれヘシフトしていたと推測することも可能であろうと思われる。少なくとも、「国体人情」が決して一定のものではなく、状況に応じてその内容を変える性質のものだったということは押さえておかねばならない。

井上毅私案

 よく知られているように、明治憲法成文の冒頭は「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」である。井上がなぜこれを第三章の中程に置いたのかは不明だが、やはり参考にしたプロイセン憲法の配列が影響しているのであろう。(略)[五年後の明治二〇年に提出する試案甲案、乙案において『治(しら)す所』と書くこと]と対照すると、ここでは同じ漢字でも「治(おさ)む」と、「尋常に」読ませていることも興味深い。「治(しら)す」は『古事記』から採られたものであり、日本の――少なくとも井上の――「国体」が、単なる「特質」から、しだいに「神がかって」ゆくことが、こんな所にも現われているように思われるからである。もともと明治の諸改革は、「文明化」あるいは「進歩」が「復古」の文脈で語られる傾向を示していた。(略)

だが、そのことと、国の基本法の中に神話を特ち込むこととは、また別である。「万世一系」はレトリックの色彩も濃いが、「治(しら)す」は明らかにその域を超えると思われる。

 では続いて、井上の用語にも着目しながら、この章の条文を少し検討してみよう。

 第一八条 天皇は大政を総攬し而してこの憲法に循由(じゅんゆう)して之を施行す。

(略)

プロイセンにおいては国王が憲法にしたがって統治を行なう前に、憲法を守ることを議会で誓うと明記されているのに対し、明治憲法成文においては「憲法の条規に依り」統治を行なうとなって、宣誓することはもちろん、天皇自身が憲法にしたがうことも、必ずしも明示的には記されなくなったことは無視しえないだろう。その間にあって、井上は、天皇が「憲法に循由して」この憲法を施行すると書している。「循由」は「依拠する、したがう」といった意味で、天皇がただ「憲法に依拠して大政を施行する」とも読めるが、「天皇個人も憲法を遵守しつつ、これにしたがって大政を施行する」と読めなくもない、若干曖昧な記述であるように思われる。

(略)

井上の中で、プロイセン流に天皇に憲法遵守を議会で誓わせるのは大いにためらわれたのであろうが、しかし、天皇自身も憲法を守ることは明記すべきだとの思いはあったのではないだろうか。その結果が「循由」という語の選択をもたらしたと考えるのは、穿ちすぎであろうか。そして、元老院国憲按には記されていた、天皇が即位に際して議会で憲法遵守を誓う条項は、井上私案では省かれているのである。

(略)

天皇の「統帥権」に関しても、井上案は「統率」という表現を用いている。この当時における「普遍」(欧州基準)を脱して「特殊」がいっそう強調されてゆくのは、このあとである。

行政の重視

[ベルリンでドイツ政治を見聞した伊藤博文は]理念的なものとしての憲法を生かすためには、他にさまざまな制度的裏打ちが必要なのではないか。――そうした疑問を抱いていたという。そして伊藤は、憲法と並んで「アドミニストレーション」を整備する重要性を感得していたというのである(瀧井一博『文明史のなかの明治憲法』)。そうした伊藤を待っていたのが、ウィーン大学のシュタインだった。

(略)

シュタインがもっとも警戒したものが、立法部のみが政治を主導する体制だった。「過度の民主政治は多数専制を導き、国家の土台を突き崩す」とシュタインは述べたという。彼の講義の中では、共和政治に代表される民主主義の過激化が繰り返し批判された。

 そしてシュタインは、君主専制も厳しく拒絶していた。彼によれば、君主は立法府と行政府とに対して特別な権力はもたず、元首としての君主のなすべきことは、「行政や立法の過程を通じて決定されたことを是認=裁可し、国家としての意思や行為の統一性をシンボライズすることにとどまるべき」だったという。(略)

「シュタインにおいて国家とは、行政による媒介を通じて外界との絶えざる相互作用をおこない、歴史の変化に適応していける有機体的制度」なのだった。行政府は、議会の意思や君主の意思に束縛されず、自律的に国家の統治を担ってゆくべきものなのである。したがってイギリスは議会に、ドイツは君主に支配を受けているとして批判の対象となっていた。

(略)

伊藤に、シュタインの講義が、あたかも天啓のように響いたことは疑いのないところであろう。(略)

プロイセン流の憲法制定が規定の方針となった状況で、いまや伊藤にとって、憲法の「制定」以上に、その行政府による「運用」が重大な問題と見えてきたと言うこともできるだろう。

 この時点で、明治憲法の公布までには、まだ六年半の歳月があった。

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2016-02-21 憲法誕生 大久保利通の構想 このエントリーを含むブックマーク


憲法誕生: 明治日本とオスマン帝国 二つの近代

作者: 新井政美

出版社: 河出書房新社 発売日: 2015/12/24

この同じ書翰の中で、大久保がウスターで見物した狐狩りの様子を、工場見学よりはるかに精彩のある筆致で描いているのも、じつは興味深い。大久保は、とくに六〇騎の人馬と猟犬「五千匹」とが一体となって行動する様に感心した様子で、

 犬に隊長あり、副長あり。衆犬みなこの長の進退指揮を待つ。実に競馬の勢、犬隊の規律、廻歴中の一奇観なり。

と記している。「規律」という、近代国家の一要素が、大久保というリーダーの心に強く印象づけられている様が、手に取るようにうかがわれる。さらにおもしろいのは、これに続けて、

 この騎馬の内に八十五歳の老人あり。太く逞しき馬に打ち乗り凛然として他に先を譲らず。その容体あたかも中老の人のごとし。聞く、この老人、狩りあることに未だ嘗て行かざることなしと。

と書いているくだりで、このあとフランスヘ移ってから(略)当時七十代後半に入っていたフランス大統領ティエールの壮気に感服したと記していることとあわせると、大久保が西洋で活躍する老人たちに、ひそかな注意を向けていたことが理解できるのである。

(略)

久米は次のように伝えている。

 バーミンハウに行くときの汽車の中では、突然話に『私のような年取ったものはこれから先のことはとても駄目じゃ。もう時勢に応じんから引く方じゃ』とこれだけ言われた。(略)

(略)

[西徳二郎宛て書翰の中で]

 英語もフランス語もしゃべれず、西洋人の好奇の視線を感じながら見物して歩いている自分を、このように[木偶人に斉しくと]戯画化し、あるいは冷笑している大久保の、汽車の中での「引退のつぶやき」は、その時点では真情の吐露であったにちがいないと思うのである。

 自分は幕府を倒して天皇の政府になそうと考えた。そして、その事業もほぼ成って我々のやることだけはやった。しかし、後はどうも困る。こうして西洋を歩いてみると、我々はこんな進歩の世には適しないシビリゼーションには全く辟易する。

と語っていたのである。さらに大久保が、何らの成果も上げられなかった岩倉使節派遣の失敗を自覚し、その責任も感じて失意落胆の状況であったことも知られている。(略)

[帰国後政務復帰せずにいたが、西郷の朝鮮派遣をとどめるために引っ張りだされ、あげく失敗]

日和見に回った三条・岩倉への失望(あるいは怒り)もあって、大久保はただちに辞表を提出し、西郷の朝鮮派遣は、上奏と勅裁とを待つだけとなった。

 しかし、こうした論争、政争の場に再度入ったこと、しかもそれに敗れたことで、大久保本来の政治家としての資質が目覚めたのではあるまいか。閣議後に彼は反撃の道を採ることになる。三条がストレスで倒れたのを好機に、岩倉をその代理とした上、閣議決定とあわせて派遣延期の私案をも岩倉に上奏させて、天皇にこれを採用させるという「秘策」を敢行(略)

[それを知った]西郷は即座に参議の職を辞して東京を去った。翌日には板垣退助江藤新平後藤象二郎、副島種臣の四参議がこれに続く。(略)

 しかし本書の文脈で言えば、この政変で、岩倉の意見を聞いた天皇が、政府の正式決定をくつがえす形で「西郷派遣案」を押さえ込んだこと、つまり、天皇の意思が政府の決定より優位に立つという前例を作ったことが重要であろう。仮に江藤らを中心とした「政敵」を追い落とすための策であったとしても、(のちに見るように)憲法制定という形で近代国家としての体裁を整えようと考える大久保にとって、これは、自らがその所在を明らかにしてしまった深刻な問題だったにちがいない。しかも、彼が追い落とした「政敵」たちによって、翌年には「民撰議院設立」の建白書が提出されるから、「民意」と「君主の意向」との間にあって、後進日本をいかにして西洋諸国に認められるような国へ導いてゆくかは、明治六年政変後政府に残った人々にとって、切実な課題と受け取られたはずである。

 そうした中で大久保は、すでに建白書が出される以前に憲法の構想を語っていた。(略)

 意見書の中で大久保は、まず世界の政体を「民主政治」と「君主政治」とに二分している。(略)

 それ民主の政は天下をもって一人に私せず、広く国家の洪益を計り、あまねく人民の自由を達し、法政の旨を失わず、首長の任に違わず、実に天理の本然を完具するもの。

であると述べている。大久保にとって、民主の政治が望ましいのは自明だったのである。ただそれは、

 旧習に馴致し、宿弊に固着するの国民においては適用すべからず。

であるとともに、その運用を誤ると、進取・先進の国民をも悲惨な状況に追いやるのである。大久保はその悲惨の例としてフランスをあげている。(略)パリ・コミューン直後にフランスを訪れただけに、民主に対する彼の姿勢に、コミューンは薄からぬ影を落としたにちがいない。大久保は、

 往事フランスの民主政治、その兇暴残虐は君主専制より甚だしと。名実相背くに及んではまたかくのごとし。

と書いている。(略)したがって、民主が必ずしも「至良」であるとは限らない。いっぽう、民が無知蒙昧である場合は、衆に抜きん出る才をもったものが「威力権勢」に任せて民の自由を束縛し、道理を説いてこれを賀御するのは、「まさに一時適用の至治」であると言う。過渡的であることを留保してはいるが、強いリーダーシップの称揚へ連なるこの見方は、ムスタファ・レシトの考えにも通じる見解だと言うことができるだろう。しかし、名君が立ち、これを良吏が輔弼していれば問題はないが、いったん暴君が現われ、これにおもねる「汚吏」が権力を濫用すれば、民の怒りは輔弼する官僚をとびこえて君主に向けられることになり、その「廃立簒奪」にいたるであろう。イギリスのクロムウェル、一七〇〇年代のフランス(ルイ十六世の運命)を見れば、それは明らかなのである。(略)

プロイセンの政体をイギリスで施行することも、イギリスのそれをアメリカに当てはめることもできないのであり、同様に、それらの国の政体をそのまま我が国に当てはめることもできない、と言っている。必ず、日本の「土地風俗人情時勢」に適した政体を立てるべきなのである。(略)

 そして日本の現状は、

 その政は依然たる旧套に因襲し、君主専制の体を存す。

状況なのである。君主専制を排そうとする、大久保のこの認識は重要なものだろう。つい一月前に、政府の決定が天皇によって覆ったところだった。「良吏」が――すなわち自分が(!?)――輔弼していたから、そして「名君」であったから、それは「正しい」結果をもたらしたが、このまま行けるわけでないことを、大久保はよく理解していたにちがいないのである。では、「政体もって民主に帰すべきか」と自ら問うて大久保は「不可」と言う。ようやく廃藩置県を実行して中央集権体制はできあがったが

 人民久しく封建の圧制に慣れ、長く偏僻の陋習もって性をなすほとんど千年。豈に風俗人情のもってこれに適用するの国ならんや。民主もとより適用すべからず。君主もまた固守すべからず。

大久保の興味深いところは、日本の民衆がいまだ民主を適用する段階に達していないがゆえにそれは採れないが、しかし君主に長くとどまっていてよいとも考えていないことであろう。ではどうすればよいのか。(略)

君主の権限、ならびに民権、いずれにも制限を設け、君民互いの暴走を抑止しつつ公正の実現を図ろうとするこの「君民共治」の体制こそ、立憲君主制と言うことができるだろう。最終的にその体制へと導くべく、大久保は伊藤に対して定律国法(憲法)の調査を命じたのだった。

(略)

さらに重要なのは、この三権が一人の手に握られれば、その人物が、

 その威権を逞うし、私意に任せて法制を妄立してその権理を意とせず、恣ままに衆人を奴視して、あえてその疾苦を顧みず、全国の利害に関せずして特に一己の情欲を専らにせんこと有らんとす。

という弊害、あるいは危険があると述べていることである。そうであるがゆえに、ヨーロッパ諸国は[三権分立を確立した](略)

 このように大久保は、「衆人」の福利を意識し、これを擁護し、あわせて「全国の利害」を優先させる政治を保障するために、三権の分立を基礎に据えた憲法を制定せねばならないと明言していたのである。

(略)

また、大久保案の中では天皇の司法権行使に関わる記述もなされておらず、ただ、

 ・一般法律の羈束を受けず。

 ・訴訟の被告とならずといえども、裁判官に特命してこれを聴かしむること有るべし。

とあるだけで、これらはむしろ、天皇が法の上に超然と存在しているものであるにもかかわらず、場合によっては裁判官による聴取が可能としている点に注目すべきであるかもしれないのである。

 このように、大久保は、維新後わずか六年という大きな時代的制約の中で――「万世不朽の天位」にある天皇を戴くことを前提とし、欧米視察においてプロイセンの存在にもっとも深い感銘を受けつつも――専制的政治の排除に重点をおいた憲法を構想していたと言うことができるのである。とくに、十六年後に公布される憲法が、神聖化の進んだ君主に「天皇大権」と呼ばれる広汎な権限を与えることを考えるならば、「衆人」や「権理」や「全国の利害」を前面に出した大久保のこの姿勢を確認しておくことには、少なからず意味があるように思われる。

次回に続く。

2016-02-19 浄瑠璃を読もう・その2 橋本治 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


浄瑠璃を読もう

作者: 橋本治

出版社: 新潮社

発売日: 2012/07

「恋愛への衝動」をどう考えていたか

 前にも言ったが、江戸時代の人形浄瑠璃に登場する「お姫様」の仕事は、「恋をすること」である。ただもう一途に恋をする。はたの迷惑も考えず、「逢わせてたべ」と泣きすがる。「お姫様」ばかりでなく、「若い娘一般」がそうである。江戸時代というと、「不義はお家のご法度」で、社内恋愛は厳禁である。だから、武部源蔵と戸浪は、菅丞相の邸を追放になってしまう。菅丞相の処置は江戸時代一般の常識を純化したものだが、その家のお姫様である苅屋姫は、自由奔放である。「厳格な父のあり方に反発して」という、現代にありがちの言い訳が、彼女の中にはない。

(略)

 一体、「モラル第一主義」でもある江戸時代は、その制約からたやすく脱してしまう「恋愛への衝動」を、どう考えていたのだろうか? 果して江戸時代に、「恋愛は自由」だったのだろうか?それともいけないことだったのか?(略)

あまり感心されない娯楽の雄である人形浄瑠璃や歌舞伎は、この「恋愛」を大きな主題として掲げるが、それは、窮屈な体制社会に対して、「恋愛は自由だからどんどんしなさい」と訴え続けた、思想運動の成果なんだろうか? 答は、もっと現実的である。江戸時代人は酸いも甘いも噛み分けた「大人」だから、そんな単純な考え方をしない。「恋愛の衝動は誰にでも訪れる。しかし、それが幸福な形で結実するかどうかは分からない」という、いたってノーマルなジャッジをするのである。

「明確なる状況認識」と「覚悟」

[伝聞と噂だけで情報収集が容易じゃない江戸時代]

だから情報分析の方が重要で、自分に関わりのある人物の情報であればこそ、その断片を耳にしただけで「核心」にピンとこなければならない――つまり「人に聡い」のである。

(略)

情報量の少ない社会で生きるには、自分が直接間接に関わりを持つ人の「ありよう」を把握しておかなければならない。それをしなければ、自分の生きている社会は、壊れるかもしれないのである。だから、情報分析が重要になり、「自分が経験したこと」を洗い直して、情報分析が可能になるデータベース化しておかなければならない。これが出来るのが「バカじゃない」で、出来なければすなわち「バカ」なのである。

 バカじゃ困るから賢くなれ――これを観客に言い続けるのが、江戸時代の人形浄瑠璃である。だから、深い。『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助と加古川本蔵は、山科と鎌倉に離れて住んでいても、「相手はきっとこう考えるはず――こう考えるべきはず。そうでなければまともじゃない」という分析判断をしている。その結果、「なんでもお見通しの超人的人物」になっているが、江戸時代人にとっては、これが「立派な人物」で、「人に関するスタンダード」なのである。だから、市井の名もない庶民だって、これをやる。状況分析の出来ない人間は、ドラマの主役にはなれないのだ。

(略)

重要なのは、「決断を下す」の前にある、「明確なる状況認識と分析」なのだ。(略)だから、回りくどくてややこしいものになる。「明確な状況認識があれば、事態は必ず打開される」というのは幻想で、そうだったら、頭のいいサラリーマンは会社を変革出来ているのである。明確な状況認識があったって、事態は打開されない――これは、封建的な江戸時代管理社会でも、現代管理社会でも、同じである。

 だからと言って、「明確なる状況認識」を放棄してもいいという理由にはならない。だから、「明確なる状況認識」をして分析し、その後に「覚悟」が訪れる。明確なる状況認識をして、その結論が「こりゃだめだ……」になっても、自分を包んでいる状況が動いている限り、なんらかの「覚悟」をしなければならないのである。状況認識の結果、「こりゃだめだ」をひそかに理解した人は、だからこそ、孤独の内に覚悟を決める。情報が流れない社会は、個人の認識だって、そう簡単に流通しやしないのだ。だから、人形浄瑠璃での悲劇は、突然かつ唐突にやって来る。十分な認識の結果、ある結論に達した人物は、「自分が理解してしまった決断へと至る肚の内」を、決して人に語らないからだ。だから、人形浄瑠璃の悲劇は、周囲の人間にとって、いつも「突然やって来る」になる。もちろん、観客だって「周囲の人間」の一人である。

 それは、当事者にとっては、「かねて覚悟の上」である。覚悟はしてもどうにもならないから秘され、周囲の人間にとって、「悲劇は突然現れる」になる。「悲劇」は顕われ、そうなって当事者は、やっと周囲の人間に、自分の把握した悲劇状況を説明することが出来る。だからこそ、持って回ってややこしい。そして、そこからある一つの難点さえ生まれる。唐突に現れ出た悲劇の状況を当事者が説明しても、それがあまりにも唐突だから、周囲の人間――つまり観客の中には、この経緯が呑み込めない人間が出て来る。そうして、「重要なのは、まず決断、覚悟をすること――そうすれば、説明は後からついて来る(はず)」という短絡をしてしまうのだ。江戸時代が終わり、近代になる――近代になって軍国主義の総力戦へ日本が進んでしまうのは、この江戸時代に用意された、「決断すべきものは、つべこべ言わずにさっさと決断されなければだめだ」が、短絡して受け継がれた結果だろうと、私は思っている。そういうメンタリティがなければ、あんなに極端な方向へは行かない。

近松半二

[近松門左衛門の死の翌年に]生まれた近松半二は、二十代の初めに三大浄瑠璃の出現を目の辺りにする――三大浄瑠璃最後の『仮名手本忠臣蔵』の初演(一七四八年)は彼が二十四歳の年。『本朝廿四孝』はそれから二十年近くがたった一七六六年に登場し、彼は四十二歳になっている。

 彼が若い頃には、三大浄瑠璃の登場によって人形浄瑠璃界は全盛期を迎えているが、彼がいよいよその世界の作者であろうとする頃には、もう衰退期と言われるようになっている。歌舞伎が人形浄瑠璃のドラマを取り込み、完璧とも言えるようなドラマを生み出した人形浄瑠璃の方は、「またか――」のワンパターンに落ち込んでしまうからである。人形浄瑠璃の人気はドラマの人気で、歌舞伎の人気は役者の人気でもある。台本がイージーなものでも、役者に人気があれば歌舞伎に客は入る。その歌舞伎が人形浄瑠璃のすぐれた台本を取り入れて上演してしまえば、人形浄瑠璃に勝ち目はない。そこに登場するのが近松半二で、彼は人形浄瑠璃の人気を盛り返した人だから、「彼は人形浄瑠璃のドラマを革新してしまった」ということにもなる。

 人形浄瑠璃では三味線を相方にした太夫が物語のすべてを語る。作中人物を演じる人形達のありようは、ある意味で「運命に翻弄される」に近い。しかし、歌舞伎の舞台では、ドラマを語る太夫と作中人物のあり方は逆転する。役者の方が地位はずっと高くて、ドラマのすべてを語るはずの太夫は「ト書き語り」にまで落ちてしまう可能性があるからだ。同じドラマを演じるにしても、歌舞伎の舞台では、登場人物達がかなりの部分で、太夫の語る「運命」に抵抗してしまうのである。

 おとなしくドラマを演ずるだけではなく、相応以上に自己主張をしてしまう――それが役者の魅力でもあって、近松半二のドラマは「人形浄瑠璃のドラマを取り入れた歌舞伎」を、もう一度人形浄瑠璃の中に取り入れ直しているのである。どういうことかと言えば、それ以前の人形浄瑠璃のドラマに比べて、近松半二のドラマは、作中人物が野放しになっているということである。

『本朝廿四孝』のドンデン返し

[近松半二は、「道」の字が共通なことと、太田道灌の故事で有名な「みの一つだに悲しき」に「美濃がない」をこじつけ、斎藤道三を太田道灌の子孫にしてしまい、先祖が太田道灌を滅ぼした上杉謙信に恨みを持っていることにする。足利将軍に攻められ美濃を失い]浪人中の斎藤道三は、「まだ日本に渡来していない鉄砲」を《種が島》で手に入れ、これを「献上する」という名目で室町の御所に正体を隠して参上し、将軍義晴を銃撃してしまう。(略)[さらに道三は北条と組んで]武田と上杉を滅ぼそうとしている――そういう大悪人の斎藤道三の企みを、智将上杉謙信と武田信玄が力を合わせておびき出し、退治するというのが、『本朝廿四孝』なのである。

「どこまで本当なの?」とか、「斎藤道三て、そういう人なんですか?」と言ったら、もう作者近松半二の罠にかかっている。

(略)

 斎藤道三の井上新左衛門は、「この新兵器があれば、戦場で敵は皆殺しに出来る」と言い、まぬけな将軍義晴は「じゃ、射ってみろ」と言う。そしてその通りに、道三は将軍義晴を射殺してしまう

(略)

 既に斎藤遺三と意を通じている北条氏時は(略)「足利幕府の執権でありながら、将軍殺害の場に居合わせなかった責任をどう取るんだ。お前達二人が将軍暗殺を仕組んだんだろう」と武田、上杉の二人に吹っかける。

 安い喧嘩を売られた信玄の晴信は、「そんなことは企んでいない。無実だということを証明するために、息子の勝頼の首を打って差し出す」と言い、謙信の方も「謎の男を追ってどこかへ行ってしまった息子の景勝を探し出して、その首を打つ」と言う。それを聞いた手弱女御前は、「そんなせっかちなことをしなくてもいい。将軍の三回忌までに将軍暗殺の犯人を探し出せばいい。それが出来なかったら、二人の息子の首を打ちなさい」と言う。(略)そういう段取りを踏んで、話はいよいよ「本篇」である甲斐、信濃の方面へと舞台を移すことになる。

(略)

[それから三年、期限が迫る。17歳の武田勝頼は盲目の美少年。家老の板垣兵部は身代わりを探しに出ているが間に合わず、勝頼は切腹する。身代わりの蓑作を連れ帰った兵部はそれを知り、蓑作を切ろうとするが]何者かが障子の向こうから突き出した刀で殺されてしまう。兵部を殺したのは、この館の主人の武田信玄。なぜ兵部を殺すのかと言えば、「若君のお命を救わなければ――」で奔走していた兵部が、実は「お家乗っ取りを企む大悪人」だったからである。

 盲目の勝頼は、実は偽者で、同じ時期に生まれた板垣兵部の息子だった。自分の子供と主君の子供を入れ替えた兵部は、実の勝頼を信濃のはずれに養子に出して知らん顔――その子供が簑作だった

(略)

 健気な「武田勝頼」は、「親のため、家のため」を思って死んで行くが、彼は「偽の勝頼」でしかない。だから、彼の死はなんの意味も持たず、嘆かれる理由もない――そういうドンデン返しを持ち合わせて、偽の勝頼の「親のエゴによって偽の人生を歩まされた子の哀れさ」がうっすらと浮かび上がる。

(略)

 哀れなのは濡衣である。さっきまでは「悲劇の勝頼を支えるしっかり者の腰元――許されてその正式な妻」だったのが(略)

「真の勝頼=蓑作」は「将軍義晴暗殺犯の探索」を目的として、濡衣と共に信濃へと向かう

(略)

 上杉(長尾)謙信の娘八重垣姫は、許婚になっていた武田勝頼の「死」を聞かされ、その絵姿を前にして、嘆きの内に回向をしている。そこに新しく召し抱えられた蓑作が長裃姿で現れ、八重垣姫はポーッとなり、これも新参の腰元である濡衣に「知り合いなら仲立ちして」と積極的に頼み込む。

(略)

 実は濡衣は、信濃に往む「関兵衛」という人物の娘で、関兵衛は謙信館でガーデニングを担当する「花作り」なのだ。(略)

その関兵衛が、初めは「井上新左衛門」を名乗っていた「斎藤道三」だからである。濡衣は「斎藤道三の娘」なのである。そうなると話は一層ややこしくなるが、おそらく濡衣は、自分の父親が「斎藤道三」だということを知らないのだ(略)

 悪い親父の関兵衛は、自分の素姓がバレていないと思って、館の主人謙信に、「簑作は勝頼ですよ」とバラしてしまう。

(略)[だがこれは引っ掛かったと見せた上杉・武田の共同作戦で]

道三は捕まり、娘の濡衣は、この館に来ていた手弱女御前の身代わりとなって、父の放った鉄砲の犠牲となって死んで行くのである。

(略)

[舞台は三段目へ]

この「勘助」はもちろん、武田信玄の偉大なる軍師山本勘助だが、「勘助住家」と言いながら、ここに山本勘助は存在しない。(略)その未亡人である老婆が「山本勘助」を名乗っているのである。この一筋縄ではいかない婆さんの家には、二人の息子がいる。一人は、二段目に登場した「気のいい無頼漢」の横蔵。もう一人の弟の方は、かつて室町御所にいたイケメンの直江山城之助――長尾景勝に仕えていながら「謎の男」に賤の方を奪われ、腰元の八つ橋とオフィスラブをしていた困った山城之助は、主人謙信から勘当をされ、「お種」と名を改めた八つ橋と共に「慈悲蔵」と名を変え、この実家に戻って来ていた。(略)

[自分を邪険にする兄をかわいがり、親思いの弟につらく当たる母。そこへ勝頼同様腹を切らねばならない景勝が身代わりを求めてやってくる]

 そのことをさっさと理解してOKを出してしまう母親は、「横蔵なら景勝の身代わりになって首を打たれてもいい」と言ってしまったも同然なのである。つまり、「お前は可愛くない。兄の方が可愛い」と言っている母親の本音は逆で、実のところは「兄のことなんかどうでもいい」なのである。

 この母親の考えは、「兄を景勝の身代わりにして、弟の方には六韜三略の巻物を与え(元の通り)長尾家に奉公させる」なのである。[その魂胆を見抜いているので横蔵は母親に冷たくしていた]

(略)

 もちろん、横蔵は誰よりも頭がよくて、すべてを了解している。室町御所から賤の方を救い出したのも横蔵で、彼が連れて来た「どこかの女に生ませた子供」というのは、賤の方が生んだ「足利家の若君」なのである(賤の方は出産後に死亡している)。しかも横蔵は、「このままでは足利家の存亡の危機になる」と推測する智将武田信玄と組んで、彼の軍師になる約束さえしているのである。(略)

[北条の陰謀を危惧した]横蔵は、「生まれる若君」と、その正統性を証明する「源氏正統の白旗」を抱えて、室町御所から姿を消したのである。裏の竹藪に埋めてある「なにか」は、その白旗だったのである。「そういうややこしい事情も知らず、我が家の人間は長尾に臣従することしか考えていない大バカヤローだ!」というのが、「大曲中の大曲」を成り立たせる横蔵の「怒れる動機」なのである。

 横蔵は、「ここで景勝様のお身代わりになりなさい」と切腹を迫る母親の目の前で自分の片眼を潰し、「これで景勝の身代わりなんかにはなれないぞ」と言ってすべてを明かし「隻眼の軍師」である山本勘助としての名乗りを上げる。後の四役目で、斎藤道三をおびき出す段取りを仕掛けたのも、実はこの「信玄の軍師」である二代目山本勘助=横蔵だった、というわけである。

(略)

 以上、『本朝廿四孝』はこういう作品であると言って、おそらく「なるほど」と納得してくれる人間はそうもあるまい。(略)

これは、うっかりすると自虐的な考え方をしてしまう日本人に対して、「そんなにめんどくさい考え方をしなくてもいい」ということを明らかにするために作られた「無意味かもしれないドンデン返しが連続するドラマ」だからである。そうしておいてしかし、この「ドンデン返し」は、あるものの存在をあぶり出す――つまり、「親孝行って、そんなにたいしたもんなのか?」という疑問である。(略)

その元になる中国の『廿四孝』が、子供に自虐をすすめる無茶なものだということも、日本人はまた一方で理解している。そこを踏まえて、『本朝廿四孝』は、黙って「親孝行ですよ」と笑っているのである。だからこの作品は、ちょっとばかり変わっているのである。

江戸時代の観客は教育も受けていないのにどうして「歴史に関する知識」を有していたか

 今の観客は、自分の知識外のドラマを与えられると、平気で「分かんない」と言ってしまうが、江戸時代の観客は大人だから、そんなことを言わないのである。自分の知らないことでも平気で付き合って、「知っている」という顔をするのである。江戸時代の学習法は「マニュアルを与える」ではなくて、「まず実地に体験する――そうして分かる」だから、「知らない」ということは障害にならない。それを言いわけにすることが出来ない――そういう前提の上で、江戸時代のドラマ作者達は、なにも知らないかもしれない観客を、とりあえずは「知っているはず」という形で持ち上げて、「それはこうこうこういうことなんですよ」と、いつの間にか分からせてしまうテクニックを持っているのである。観客もまた、そういうものでなければ容認しない。

 だから、江戸時代の人形浄瑠璃は、「歴史に関する知識がないと分からないが、知識がなくてもかまわない」になり、「ろくに知らない人間にでも、こっちは分からせてやることが出来るんだ」と作者の方が思っているから、「細かい歴史知識」がギューギュー詰めになって、「改めて現代人に説明しようとするとややこしいことだらけ」ということにもなる。だから、「人形浄瑠璃のドラマは複雑」ということにもなる

なぜ近松門左衛門の紹介が最後の方になったか

この私が近松門左衛門を「人形浄瑠璃の中ではちょっと変わった存在」と考えているからである。

 近松門左衛門の名は江戸時代を通して高かった。別に「忘れられた作家」ではない。だから近松半二のように、死んだ近松門左衛門に憧れて「近松」姓を名乗る作家も出て来る。しかしその一方で、近松門左衛門には「明治以降の近代になって再発見された作家」という側面もある。どうしてそういうことになるのかというと、近松門左衛門が「有名ではありながらもその作品があまり上演されない作家」になっていたからである。

(略)

[それは]近松門左衛門の人形浄瑠璃が「上演しにくいもの」に変わってしまった[から](略)

[近松の時代には人形はすべて「一人遣い」だったが、死後10年経って「三人遣い」に]

三人遣いの人形は、人間以上に複雑な感情を表現出来るが、大雑把な動きしか出来ない一人遣いの人形に、それは出来ない。

(略)

 近松門左衛門の作品は上演しにくい。だからその内に、これを上演するのに必要な三味線の「譜」がなくなってしまう。そうなると、上演しようと思っても上演することが出来なくなる。(略)歌詞があっても楽譜がなければ上演が出来ない。詞章だけが残されている浄瑠璃作品は、「芸能」の面を欠落させて「文学」になるしかないのだ。

 近松門左衛門以降の作家達の作品は舞台の上で生き残り、当たり前のように上演される――そのことによって「前近代の俗なもの」と思われ、その文学価値が過小に評価されがちになるのに対して、文字だけで残った近松門左衛門作品は、これを読む者の胸を撃つ「文学」にもなる。

(略)

最初に登場した三人遣いの人形は、ワンシーンのショーアップのために出された限定的なもので、これ以前の人形には「複雑な感情表現」というものが必要ではなかった。それは、作者の書いたテキストを語る太夫が担当すればよかったのだ。

 近松門左衛門は、人形浄瑠璃の筆を執る先、初世坂田藤十郎が主演する歌舞伎の台本を書いていた。それが喧嘩別れをするような形で歌舞伎から離れ、人形浄瑠璃のテキスト執筆に専念するようになる。考えてみれば、この理由は簡単である。人間の歌舞伎役者は、作者の意図を超えた「勝手な自己表現」をするが、人形浄瑠璃の人形はそれをしない――まだ十分に出来る段階に来ていない。おそらく近松門左衛門は、ドラマの演じ手である人形達に「私の書いた人間ドラマの感情を、もっと深く緻密に表現しろ」と要求する必要を感じなかったのである。「私の書いたままに演じればよい」だったはずである。

 近松門左衛門の人形浄瑠璃の主役は、人形でも太夫でも三味線でもない。太夫にその詞章を語らせる、作者の近松門左衛門である。近松門左衛門の書いたテキストには、それをさせる「作者の強さ」が歴然としてあるが、音楽劇でもある人形浄瑠璃は、しかし、「作家性を明確にさせるもの」ではないのである。

(略)

 「悲しいから泣く」というだけのことであっても、三人遣いの人形は複雑な動きをする。それは「作者の意図を超えて心理的になる」ということであり、人形がそういう動きをするものになってしまえば、音楽劇である人形浄瑠璃の者も、このことを反映する――その動きを可能にするように「音の手数」も増え、間も長くなる。それを実現するべく、詞章の方も譲歩をする。そうなってドラマは、「間延びのしたもの」と捉えられかねなくもなる――それが近松門左衛門の後である。

 近松門左衛門の作品は激しい。噛んで吐き捨てるように、ドラマは一直線に進んで行く。「情を語る」が浄瑠璃のあり方だとすると、近松門左衛門は「非情を語ることによって、そこに存在するはずの情を暗示する」というような書き方をする。(略)

 近松門左衛門は、世界を統率する絶大なる認識者でもある。しかし、自身の感情表現を獲得してしまった「三人遣いの人形のドラマ」を綴るその後の作者達は、人形達の動きに翻弄されでもするかのようなドラマを書かなければならない。人形浄瑠璃のドラマが「くどくどと語られる情の緻密さ」によって形成され、屈曲した構成を持つようになったのもそのためで、「作者のあり方が後退した」ように思われてしまうのもそのためだろう。しかし、人形が独立した感情表現を獲得したことによって、人形浄瑠璃のドラマは「テキストに書かれていない深み」を獲得したことも事実で、日本人のメンタリティの深層部はこれを共有することによって形成されて来たとも思う。そのように、「近松門左衛門ばかりが特別な作家ではない」と私は思うから、偉大なる近松門左衛門の出番はこんなところにもなるのである。

世話浄瑠璃と時代浄瑠璃

 時代浄瑠璃を書く近松門左衛門は、リアリストなんかではない。時代浄瑠璃を書く近松門左衛門は、荒唐無稽な構想を案出するファンタジー作家である。そうなる理由は簡単で、時代浄瑠璃というものが、そもそも「旧知である――あるいは旧知であるはずの歴史を改変して、そこに江戸時代人魂のドラマを嵌め込んでしまう」という前提にのっとっているからだ。

(略)

 世話浄瑠璃は、時代浄瑠璃ではない。つまり「固定された枠組」がない。「現在」が舞台である。そこは、「義理と人情」によって出来上がっている世界であるかもしれない。しかし、世話浄瑠璃の主人公達は、そこからはみ出してしまうことによって、「自身のドラマ」を提供することになる。だから、近松門左衛門の創出した世話浄瑠璃の世界は、「義理と人情によって調和的に成り立っている世界」ではないということである。現実の中にいて、現実からはみ出してしまった人間達の物語が世話浄瑠璃になる――創始者、近松門左衛門の世話浄瑠璃は、そうしたものである。

 だから、「義理と人情」をそこに見出すことには、ほとんど意味がない。見出されるべきものは、いつの時代にも存在する「調和的な現実からはみ出してしまう人間達」であり、「調和的な現実からはみ出しても不思議がないようなものを抱えている人間のあり方」である。リアリズムとは、そうしたものを描き出す段取りなのであろうと、私は思う。

(略)

 なにしろ、寄っかかるべき「物語」という枠組みはないのである。主人公が動いて行く、そのこと自体が「物語」を構成するように組み立てるしかない。だから、近松門左衛門の手は写実にしかならない。

(略)

 その主人公の周辺データは「描写」となって積み上げられる。しかも主人公が「破綻」というところへ行ってしまった人間である以上、その「描写」の一々も破綻というところへしか行き着かない。哀しいことに、現実を取り仕切る「義理と人情」によって調和的に出来上がっている世界から、人間はうっかりと足を踏みはずすことがあり、そうした人間の物語は、救いのない「破綻へ至る物語」にしかならないのだ。

 それを書く近松門左衛門は、冷淡に近い突き放し方をして、物語を「物語」たらしめるように、ディテールを明確かつ淡々と積み上げて行く――そしてその途中で、「なんという哀れな、愚かしい……」という感慨が生まれる。

(略)

物語は、虚と実の間に存在する微妙なズレの中に作者が立つことによって生まれるのだ。

(略)

「物語」を生きる中で、主人公は愚かな選択をする――あるいは、愚かな選択を続ける。それを「哀れ」と思う作者は、どこかでストップをかけさせたいとも思う。しかし哀れなことに、その主人公はもう「破綻へと至った物語」を生きてしまったことによって、「物語の主人公」となっているのだ。今更その「愚かな選択」を止めようがない。

 かくして主人公は、一気呵成に破綻への道を滑り落ちて行く。作者はそれを見守るというわけではない。近松門左衛門は、そのようなサディストではない。そうなって行くしかない経緯を、冷静かつ明確に記して行く。だから文章は、熱を持った嘲笑のように冷たくもある――決して美しくはない。それでいい。そうならないと物語の終着点へ行きつけない。その終着点とは、「なんと哀れな――」の一言である。

2016-02-14 浄瑠璃を読もう 橋本治 このエントリーを含むブックマーク


浄瑠璃を読もう

作者: 橋本治

出版社: 新潮社

発売日: 2012/07

  • 『仮名手本忠臣蔵』と参加への欲望

『仮名手本忠臣蔵』は江戸元禄の事件を暦応元年(1338年)に移した。足利尊氏の弟が京都から代参に来るのを高師直(=吉良上野介がモデル)が接待する。その下に塩冶判官(=浅野内匠頭)と桃井若狭助がいる。師直にさんざんいびられた若狭助がもう我慢ならんアイツ殺すと家老・加古川本蔵に告げ、慌てた本蔵は師直にどっさりつけ届け。師直に横恋慕された塩冶判官の妻・顔世は恋文を渡され、どう断ったらと思案に暮れる。

[本蔵の場面での]《忠義忠臣忠孝の》の《忠》の音は、鼠の鳴き声にひっかけてある。《白鼠》は福を呼ぶ縁起のいいものだということにもなっているが、ここは、本蔵の白髪頭にも引っかけているはずで、浄瑠璃作者は、本蔵の《忠》を咄っていることにもなる。(略)

[加古川本蔵のモデルは]浅野内匠頭を抱き止めて、刃傷を制止した人物、梶川与惣兵衛である。(略)「浅野内匠頭を抱き止めた人間は、なにを考えていたんだろう?」という、普通の人間なら考えないような発想(略)

『仮名手本忠臣蔵』の作者は、実のところ「忠臣」とか「忠義」にかなり懐疑的なのだ。

(略)

[お軽は顔世の師直に対して断りの手紙を]持ってやって来た。まったく、余計なことをする女だが、この「主人の複雑な状況をまったく推測しない新入りの腰元お軽」は、「今時の新人OL」と考えて一向に間違いがない。こういう女性が登場してしまうところが、『仮名手本忠臣蔵』のすごさである。

 お軽は、京都近郊の山崎に住む百姓の娘である。兄の平右衛門は、塩治家の足軽になっている。そのつてを頼って腰元になったのだろうが、お軽はその名の通り「軽い女」である。(略)《ちいさい時から。在所をあるく事さえ嫌いで。》と語られる人物でもある。「田舎なんか、歩くのもいや」という娘が、都会に憧れてOLになったのである。目的は一つしかないだろう。しかも、塩冶の御家中には、その「目的」がちゃんと裃を着て存在していた。三十の手前の早野勘平は、お軽にとって、とびっきりのイケメンだったのである。すぐにお軽は、勘平と出来てしまった。奥様の顔世御前は、「このお断りの手紙、どうしようかしら?」と悩んでいるが、お軽は、「その手紙持ってけば勘平さんに会えるな」とだけ考えて、「私、ちょっと行ってきますよ」で、勝手に使いに出てしまったのである。(略)どこまでも「勘平さんに会いたい」で、会ったらどうするも決まっている女なのである。

(略)

 桃井若狭助は、「師直が現れたら叩っ切ってやる」の勢いで、松の間にいる。そこに伴内を連れて現れた師直は、いきなり刀を差し出して平あやまりになる。拍子抜けした若狭助は、「こんなものを切ったら刀の汚れだ」という心境になっているが、師直の方はここぞとばかりに、目下の若狭助にゴマをする。(略)[うんざりした]若狭助は逃げ出すつもりで、師直主従に付き添われて去って行く――これを本蔵が物陰から見ていて、「ああ、よかった」と思うところに、判官が現れる。そして、「バカな若造にペコペコして、ああ、気分が悪い」と思う師直が戻って来る。

 師直は、ただでさえ八つ当たりをしたい気分でいて、そこに現れた塩冶判官は、顔世御前の書いた「お断りの返歌」さえも手にしている。事情を知らない判官は、知らないまま顔世から托されたものを渡し、それを見た師直は、煮え湯を飲まされた気分になる。なにも知らないまんま平然と座っている判官の顔を見ると、「この野郎、夫婦揃って人を咄いやがって!」の気分になる。かくして、一方的に堪忍袋の緒を切ってしまった師直は、思いつく限りの罵詈雑言を判官に浴びせ、さしもの判官も堪えかねて、刀を抜く。

 師直は額を切られ、「あと一刀」と思う判官の体を、物陰に隠れていた本蔵が飛び出して押さえ

(略)

 時間外の業務をオフィスラブで過ごした勘平は、殿様が大事件を起こした[と知り責任を感じ切腹しようとするが、お軽が責任は私にあると止め](略)

「別に、侍なんかやってなくたっていいじゃないの。私の家に来れば、父さんだって母さんだって、あんたの面倒みてくれるわよ」なのである。[こうして勘平お軽はとんずらの決意](略)

 今の歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』では、このお軽と勘平のシークエンスを、ほとんど上演しない。(略)

東京ではこれをやる代わりに、原作にはない「お軽と勘平の道行」ですませてしまう。満開の菜の花と富士山の見える戸塚山中を美男美女が道行をして、そこに追っかけて来た鷲坂伴内を勘平がやっつけるというシーンだが、これは、幕末になって作られた別物である。お軽と勘平が「濃厚に生々しい現代人」であるということを十分に承知した江戸人は、その生々しさに飽きて、代わりに「きれい」を採用した結果がそのまま受け継がれているのである。(略)お軽と勘平は「どうしようもない現代人」だからこそ、ああいう悲劇を演じなければならないのだから、やはりここはちゃんと上演してほしい。

(略)

やっと登場した大星由良之助(=大石内蔵助)は、この二つのドラマの見届け人的役割しか果たさない。

 どうしてかというと、浄瑠璃というものが、そういうものだからである。(略)

人形浄瑠璃の観客と作者達は、みんな「町人」なのである。(略)

有名な仇討ち事件も、実は「自分達とは関係ない武士の起こした事件」なのである。(略)自分達とは関係のないドラマなのだ。(略)

江戸時代の人間は、「自分はなにものであるか」を明確に知っている――つまり、「町人」でしかない自分を「なにか別のもの」と仮想して、「自分」から逸脱することが出来ないのである。だから、自分達の参加出来ないものを改変して、「そこに自分達が参加出来る余地」を作ってしまうのである。だからこそ、『仮名手本忠臣蔵』には、大切な職務中の男の手を取って、「しよう」と平気で言ってしまう女が出て来るのである。(略)だから、彼等はかくも生々しい。

(略)

[自分のいる外に、討入を仕切った大石内蔵助]という立派な人物はいるのである。いるのだから、もうそれでいいのである。そこに参加の余地はない。(略)傍観者でしかない江戸時代の町人達は、「傍観者として事件に参加していたその人物」を探し当ててしまったのである。

第七:一力茶屋の場。敵の目をあざむくため祇園で遊びまくる大星。偵察に来た元ライバル家老は帰ったふりをして床下に潜んで様子を探る。ドタバタが静まった夜、大星が顔世御前からの密書を読んでいると、二階にいるお軽に読まれてしまう

演出上、お軽に気づいた由良助が動揺する隙に九太夫が手紙を引っ張り、手紙は破れて、その跡を見た由良助が床下の九太夫に気づくことになっている。(略)

 由良助は、二階のお軽に「下りて来いよ」と言う。(略)

「お軽が密書を見たのなら、口封じのために殺す」と決めているのである。だから、「人に見られないように、ここにある梯子を使って、窓から下りて来いよ」と言う。そして、自分の発散する危険な匂いをお軽に悟られないよう、「酒に酔ったバカな客」で一貫して通そうとする。そこで、お軽と由良助の「じゃらじゃらした」と言われるベタベタごっこが始まるのである。

 お軽は、言われるままに梯子を下りる。「揺れるからこわいーん」「ほーら、下からノーパンが見えちゃうぞォ」というようなことを、二人は江戸時代の言葉で言い合って、下りて来たお軽を、由良助は抱き下ろす。

(略)

彼女の口から出た《なんじゃやら面白そうな文》の一言は、本当にその通りのものなのである。「へー、由良さん、こんなこと計画してるんだ」である。「おもしろそう」の後、現代だったら「2ちゃんねるに書き込んじゃおかな」とか、「お金に困ったらマスコミにちくっちゃお」と続いても不思議がないような《なんじゃやら面白そうな文》の一言なのである。由良助が「殺すしかないな」と思うのは、当然だろう。彼女は、そのように軽いのである。驚くべきである。『仮名手本忠臣蔵』の最も有名なヒロインは、仇討ちにまったく関心を持たなかった女なのである。

(略)

 私はそれを非難しているわけではない。十八世紀の江戸時代に、しかもあの有名な『仮名手本忠臣蔵』の中に、こんな現代女がいたことに驚嘆しているのである――「なんてすごいんだ」と。

ロックな義太夫

 言葉が始まる前、三味線の前奏は、アップテンポである。非常に力強くて景気がいい――聞きようによっては「危機的なニュアンス」が感じられるかもしれないが、「これはロックである」と考えてしまえば、なんの問題もない。日本の江戸時代に、こんなノリのいいアップテンポの音楽があったのかと思うと、感動してしまう。江戸時代の三味線は「粋」というようなところに入れられてしまうが、人形浄瑠璃――義太夫節の三味線は、まだ瀟洒にならず野性味を残した太棹だから、これが連弾で威勢よく鳴り始めると、たまらなく昂揚してしまう。三味線音楽の義太夫節を「義理人情の湿った世界」などと未だに考えている人は、こういう音を聞いてみればよいのである。びっくりするだろう。そういう威勢のいいアップテンポのヘヴィな音の中で、太夫達は《浮世とは》と語り始める――歌い始める。

 義太夫語りの太夫達の声は、澄んだ声なんかではない。前近代の不純物をたっぷりと含んだ、低くて太い濁声である。それが調子に乗って歌うと、歌詞が時々ぶれて聞こえる。《浮世とは》と言っているはずだが、これが「憂きやとは」と聞こえたりもする。(略)

威勢のいい音楽に乗って、「憂きやとは」と、声を揃えて楽しげに歌われたりするとどうなるか?(略)

聞いている方は、「とても楽しそうに“ああ、いやだなァ”と言っている」と思える。この浄瑠璃は、まさしくそのようなものなのである。

 《浮世とは。誰がいいそめて。飛鳥川。ふちも知行と瀬とかわり。》(略)

 突然出て来た《飛鳥川》とはなんなのか?「飛鳥川」と言えば、「昨日の深み(淵)が今日は浅瀬(瀬)になる」ということで有名な、変化の多い川である。『古今和歌集』の「世の中は何か常なる飛鳥川 昨日の淵ぞ今日は瀬になる」の歌以来、「世の常ならぬ姿の象徴」ということになっている。有名な『方丈記』の冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」も、この和歌の影響下にある。(略)

[「淵」=「扶持」(武士の給料)で「知行」という言葉が出てくる](略)

《よるべも浪の下人》とは、「よるべがない」から「浪人」のことである。(略)

ここのところの文章の意味が取れないのは、文章が二重購造になっているからである。(略)「“水”というメロディに乗せて、これまでのあらすじを語る」という構造になっているのである。だから、「メロディ」を聞き流して、「歌詞」の部分だけを頭に入れればいい。すると、「浮世とは誰が言い出したんだ。扶持も知行も変わり浪人となった男と縁を結んだのは、塩冶判官の妨害をした加古川本蔵で、それは恋の成就の邪魔にもなる――その本蔵の娘の小浪は」ということになって、後がすんなり分かる。小浪と[騒動前に婚約していた由良之助の息子]力弥の仲は、結納も取らずそのままになっていたから、母親は山科にいる力弥を頼って、娘を連れて行くことにしたが、相手の事情も考えて、親子二人だけで都へ出発した――である。

 なぜここに「水」が登場するのかと言えば、一家の姓が「加古川」で、娘が「小浪」、母の名前さえも「戸無瀬――戸のない瀬、遮る岸のない広々とした浅瀬あるいは急流」という、「水」に縁のあるものだからである。そこから、浄瑠璃作者は「転変の象徴」である飛鳥川を持ち出す。「道行旅路の嫁入」の冒頭は、言葉によるイメージ映像のようなもので、二重の意味を持つ掛詞は「映像言語」というべきものである。まず「流れの速い川」がある。その映像に、勤務先を夫った侍の姿が重なる。そこに「切腹せざるをえない塩冶判官」や「大騒動の中で彼を抱き止める加古川本蔵」の映像がオーバーラップして、そのまま「川の岸辺を行く親子連れ」になる。

(略)

 女二人は、もう「駿河の府中」に来ていて、その城下町を過ぎると、お母さんはいそいそとして、退屈しのぎの話を始める。それがなにかというと、新婚初夜のセックスについてである。

 《二世の盃済で後。閨のむつ言さゝめ言。親しらず子しらずと。蔦の細道。もつれ合。嬉しかろうと手を引ば。》

「式が済んだら寝室に入って、二人でもつれ合いよ」と、この年若いお母さんは、娘の手を取って言うのである。場所は、「蔦の細道」と言われる宇津谷峠。(略)人気がなく道幅の狭い山間の峠道を、「ほら危いわよ」と娘の手を引くお母さんは、そのついでに、「結婚したら、こんな風にもつれ合いよ。いいわね」と言うのである。

 十代の娘は、「もう、やァね、お母さんは……」

(略)

[この道行は]三十分たらずの間に、鎌倉から琵琶湖の先にある山科までの東海道の道筋を、全部見せてしまう(略)バックの景色がバタリバタリと、曲の進行につれて変わって行くのである。そういう「東海道五十三次早替わりショー」でもある。

第十:塩冶判官に恩ある天河屋義平は大星に見込まれ武器輸送を担当。討入に加担していると察知した役人達が義平の店に逮捕にやってくる。

[届けられた長持を調べようとする役人]

それをさせじとする義平は長持の上にどっかと座り込み、役人の方は役人の方で、幼いよし松の首に刃を突きつけて、「白状しなければ息子を殺すぞ」と脅す。しかし義平はこれに屈せず、《天河屋の義平は男でござるぞ。(略)と大見得を切る。(略)

[だが]それは、義平の覚悟を試すために大星由良助が送った偽役人で、実は討入メンバーの変装だった――ここまではまだいい。浄瑠璃のドラマでありがちのことだから。しかし、それを命じた大星由良助がどこにいたかとなったら、もう「お笑い」である。由良之助は、義平が腰を下ろした長持の中にずっと隠れているのである。いつの間に大星由良助は、エスパー伊東のようなことをするお笑い系の人となってしまったのか――である。

(略)

 十段目は、伏線が空回りする内容の浅いドラマになっている。その代わり、ここには「赤穂四十七士討入の豆知識」が置かれている。既に言ったが、由良之助達はこの家で義平にふるまわれた蕎麦を食う。義平の勇気に感じ入って、その屋号を「天」「河」に分けて討入の際の合言葉にする。そういう「実録劇」のように持って行って、義平のあり方を称える――。(略)

いかに「参加への欲望」を根本に置くとはいっても、これはいささかやり過ぎの薄っぺらであろうと、私は思う。

次回に続く。

2016-02-12 帝国議会 〈戦前民主主義〉の五七年 このエントリーを含むブックマーク


帝国議会 〈戦前民主主義〉の五七年 (講談社選書メチエ)

作者: 村瀬信一

出版社: 講談社 発売日: 2015/11/11

「国民政党」の誕生

こうした勢力桔抗状態はその後しばらく続き、明治三一年六月には両者合同して衆院の絶対多数を握る大政党・憲政党が出現したりしたが、短期間で自由党系の憲政党と進歩党系の憲政本党に分裂し、また桔抗状態にかえった。

 ところが、明治三三年九月、大きな転機が訪れる。伊藤博文による立憲政友会結成である。維新以来多くの政治的成功を収め、それまでに三度の組閣を経験し、まだ当面は有力な首班候補であり続けるであろう伊藤(略)国民政党をめざす一大政党の誕生であった。(略)[伊藤の全国遊説]を通巻低音の如く貫いていたのは既成政党の宿弊とその打破であり、そこに自ら模範的政党をつくり、率いようとする伊藤の決意がにじみ出ていた。結党式直前(略)[天皇に職を辞すことを願い出、二万円を下賜される]政友会が「勅許政党」といわれた所以であり、それだけ特別な存在と見なされたのである。(略)尾崎行雄が、民権運動以来のしがらみを捨てて政友会創立に馳せ参じたのは、その意義を象徴的に示すものであった。(略)

 この立憲政友会の創立間もなく、正に政友会を基礎として第四次伊藤内閣が成立したが、増税問題などで蹉跌を生じ、七ヵ月で倒れた。そのあと、明治三四年六月、桂太郎が維新の第二世代として初めて組閣した。(略)

その政権初期においては、桂の政友会に対する態度が硬かったことは事実である。(略)桂の後ろ盾である山県有朋が政党を嫌っていたこともあったろうが、それに加えて同郷の先輩であり、元老でもある伊藤が衆院第一党を総裁として率いているという息苦しい状態への、彼なりの挑戦でもあったろう。現に、明治三六年になって桂は、伊藤を政友会総裁から枢密院議長へ祭り上げることに成功している。(略)

 日露戦争が日本の勝利に終わると、状況は一変する。桂は、伊藤にかわって政友会を率いた(略)[西園寺公望、原敬らと信頼関係を築き、桂と西園寺が]交互に組閣する時代が現出したのである。その背景にあったのは、日露戦争に勝利したとはいってもロシアから賠償金はとれなかったことから、戦費を賄うための重税に耐えていた国民の不満を抑えきれなくなる危険を感じた桂内閣が、それに備えて政友会を味方につけようとし、政権獲得を視野に入れた政友会もそれに乗ったためであった。実際、国民の不満は帝都東京を舞台とした暴動――日比谷焼き打ち事件となって噴出し、桂内閣を震撼させたが、政友会が暴動に乗じて反桂内閣的態度をとる、という選択をしなかったことで暴動が鎮静化していった。その象徴的な事実を見れば、桂の着眼は正しかったといえるであろう。

第一次護憲運動

[陸軍に逆らい総辞職した西園寺の後任のあてがなく、山県はその独走を嫌って宮中入りさせた桂を起用するしかなかった]

 ところが、そのような密室の経緯をうかがい知ることのできない民衆の目には、この一連の経緯は、陸軍の大御所・山県有朋が(略)横車を押し通そうとする陰謀に映った。そのため、第一次護憲運動と呼ばれる、従来はあり得なかったような民衆による大規模な運動が全国的に展開されたのである。日露戦争にともなう増税により、選挙法改正がなかったにもかかわらず、有権者の数は大幅に増えていた。数が増えただけではなく、戦争終了後も依然として継続していた重税に苦しみ、またそれゆえに勝利への貢献度を自覚する、ものをいう民衆となっていたのである。その彼らの目は、単に政策の是非ではなく、宮中に入って間もない桂の不自然な組閣、その背後にある山県の動きといったような(そうした認識が実態とはずれがあるにしても)権力のあり方にも厳しく注がれ始めていた。そのような民衆が、当時進行しつつあった都市化現象、交通・通信網の発達、新聞の普及などの条件を背景として大規模な直接行動に出、それに政友会や国民党は引きずられるかのように同調していったのである。

 追い詰められた桂がとった行動は、かねてからの腹案であった新政党を結成して、その力をバックに難局を乗り切ることであった。(略)[一時しのぎの考えだけではなく、自分を宮中に押し込めようとした]山県が最も嫌う政党を率いることで、自らの閉塞状況を打破しようともしていたのである。[首相辞任から八ヶ月後桂は死去、それでも桂の遺志を引き継ぎ立憲同志会が成立]

選挙の大衆化

 大正政変のあと成立した第一次山本権兵衛内閣は(略)大正三年になって海軍の軍艦購入にからむ収賄事件、いわゆるシーメンス事件の表面化によって厳しい批判を浴び、退陣を余儀なくされた。この種のスキャンダルで倒れた政権というのは史上初であった。この時期において、戦後日本のような大衆民主主義的状況がすでに萌芽を見せていたということであろう。つい一年前には山県や桂、さらには陸軍を攻撃した民衆は、今度は山本内閣の基盤である薩派・海軍、そして政友会に矛先を向け、疑惑を追求する側にまわった桂の遺産・立憲同志会や、貴族院に拍手を送った。民衆の、振幅の大きな動きは政治を左右する重要なファクターとなっていたのである。後継首班に、政党リーダーを退いてなお衰えぬ人気を誇っていた大隈重信が、76歳の高齢で山県や井上馨によって担ぎだされたのはそれをよく物語っている。(略)

大正四年三月二五日に総選挙が行われた。この総選挙については、違う文脈において後述するが、戦前の総選挙史上画期的な意義を持つものである。解散にあたって国民世論を総選挙に問う、という解散本来の意義を鮮明に打ち出した政府の声明が初めて出されたこと、首相が全国的な選挙遊説に出るという、これも今日なら当然のことがこの時初めて実行に移されたこと、しかもその大隈の演説がレコード化されたこと、政党とはいえない大隈伯後後会が結成され、早稲田ナショナリズムが動員されたこと、等々、多くの新機軸が打ち出された。選挙の大衆化とでもいうべきか、とにかく個々の候補者の選挙運動の集合体ではなく、党として有権者全体に明確なメッセージを発するということが初めて本格的になされた、と総括することができるかもしれない。

自由民権運動がおこった原因は、

大きくいえば明治維新の革命としての性格にあったといってよいであろう。(略)

勝者は圧倒的な勝者であったわけではなく、敗者も徹底的に殲滅されたわけではなかった。(略)

新政府に最後まで反抗した幕軍の指揮官であった榎本武揚は、後に赦免されたばかりか、立身して文相・外相などを歴任した。(略)

 その一方で、革命のあとの路線対立から、勝者の中の勝者といってよい西郷隆盛は西南戦争で敗死する運命をたどったし、大隈重信のように追放されてしまう者も出た。勝者と敗者の境界線があまり明確ではなく、敗者といえども、日本の独立・近代化という目的は勝者と共有していた。幕末・維新の政争は、黒船来航に始まる西欧からの衝撃への対応の方法と担い手をめぐって戦われたのである。したがって敗者、あるいは落ちこぼれた勝者が、自分たちにも日本の命運に関与する資格と権利があり、また自分たちも参加することで真の独立と近代化が得られるのだ、という論理のもとに、政治における発言の場と力、それを保障するものとしての議会開設を求めて行動していくことになる。議会制度についての知識が、すでに幕末の段階である程度浸透しており、また民撰議院設立建白が板垣退助らによって提出される以前に、新政府がその近い将来における導入を考えていたというような事情も、それを後押しした。自由民権運動とはそのような背景の中で展開されたのである。

 この自由民権運動を、苦しい中で戦い抜いたリーダーたちは特別視され、後々まで別格といってよい扱いを受けていくことになる。

(略)

[被選挙人資格に直接国税15円以上納付があり]彼らの中にはそれだけの資産を持っていない者も少なからずいた。しかし、名の通った民権運動家ならぜひうちの選挙区から、という要望を受け、不動産の名義貸しのようなかたちで被選資格をつくることができた。

(略)

 だが、民権運動の中で活躍しながら、そこまでたどり着けなかった者は悲惨であった。(略)小田切謙明はその典型で、山梨県自由民権運動中随一の功労をたたえられながら、運動と事業経営とで家産をすり減らした挙げ句、第一回・第二回総選挙で山梨一区から出馬したものの、次点にすら届かぬ惨敗に終わり、その政治歴は一介の院外党員で終わっている。

家長選挙論

昭和一五年、大政翼賛会に結実する、いわゆる近衛新体制運動――ナチス的な一国一党体制をつくり、高度国防国家を実現しようとする運動――が展開される中、普通選挙を廃し家長(戸主)のみ選挙権を認める選挙法改正が計画されたことがある。(略)

 これの源流について、第二次近衛内閣成立と同時に内務次官となった挟間茂が、「国体明徴論が出て来、右翼的な考え方が相当強力に政府方面に力を得るようになつたということで、この際普通選挙制度をひつくり返して、あるいは戸主選挙とか世帯主の選挙にしようという空気が昭和一四年、第二次近衛内閣の頃からずつと起こつて来たわけです。(略)

これは畢境我が国は家族制度の国である、だから家長に選挙権を与えるべきものだという、時代錯誤にも等しい幼稚な議論が背景になっていたと思うのですが、そういう次第で昭和十五年の終り頃になると選挙法改正ということがなんだかモヤモヤとした空気になって来たのです」(『内政史研究資料第三三集 挟間茂氏談話第三回速記録』)という回想を残している。

 近衛新体制運動に合流した諸勢力のうち、復古的傾向の濃い精神右翼系からの強い働きかけ、ということであろう(略)

 家長選挙論が煮詰まってきたのは、その一五年の暮れだったらしい。(略)

 この戸主選挙案がまとめられる経緯については、やはり挟間茂の回想が手がかりを与える。それは、

その後一二月半ば頃に、突然総理官邸で頂上会合がありまして、そのときは政党はもう解消しておりましたが、旧政党の大幹部(略)と関係各省の大臣、陸海軍大臣など約二〇人ばかりが総理官邸の日本間に集まりまして、そして、問題は選挙法改正について協議したのです、審議の結果誰が主張したのかわからないけれども、結局普通選挙制度を廃止して戸主に選挙権を与えるということに決まってしまったわけです。普通選挙を覆して制限選挙になったわけです。それで、ぼくはむろん次官ですからそこに陪席し傍聴させられただけで発言権はないのですけれども、これは余りにひどいことだと思いまして、丁度そこで休憩になりましたのでそのときに――もう夜明けになっておりましたが――戸主選挙ということになるとこれはとんでもないことであります、日本の政治史上一大汚点を印することになります。(略)立派な人でも戸主でない人はザラにあるのですという話を力をこめて話したのです。そうしたら、「それはもっともだ」ということになって会議が再開されたときに、「戸主だけに選挙権を認めることになると洩れが起こるからそれを救わなければならない」ということになりまして、それを補うために但し書をつけよう「但し軍務に服したる者はこの限りにあらず」そういう但し書をつけることで話がまとまりました、ますます複雑怪奇で、どうにもこうにもならないのですね。(挟間茂談話)

という次第であった。(略)

この選拳法の一件だけが原因ではないようであるが、安井英二内相は一二月二一日付で辞任し、挟間と、警視総監の山崎巌が行を共にした。少なくとも挟間は「こんな無茶な法案を立案して将来その無定見を笑われるより、この際職を辞することが賢明な途であると決心」してのことであった。

 結局この選挙法改正は具体化されることなく終わった。

GHQ帝国議会改革案

[GHQによる帝国議会大胆改造を主に担当した民政局立法課長ジャスティン・ウィリアムズ]がみるところでは、日本の議会には四つの弱点があった。それは、「(一)一国の立法府に必要不可欠な尊厳も権威も持っていない。(二)近代国家の国事を方向づけるために必要な機構を欠いている。(三)改正憲法下において国会は著しくその権限を増大させることになっているにもかかわらず、憲法を補足する法律によってそれが縮小されるおそれがある。(四)現在の政治指導者は、中央政府を支配している封建的官僚機構より国会を優位に置くことを望んでもいなければ、そうする意図もない」(『マッカーサーの政治改革』)という諸点であった。(略)

  1 議員歳費を妥当な額にする。

  2 各議員に秘書をつけて補佐させる。

  3 各議員に事務所を与える。

  4 議員に郵便物を無料にする特権を与える。

  5 両院に独立した予備資金を与える。

  6 国会図書館の設立。

  7 法制局と資料提供部門を設置する。

  8 両議院による法制協議会を設置する。

  9 各省に対応した常任委員会を設置する。

  10 各常任委員会に有資格の専門家を配置する。

  11 委員会による公聴会を行う。

  12 議員同士による自由討議を認める条項を設ける。

  13 質疑時間を制限する。

  14 議員の地位を低下させるような慣行を排除する。

(略)

元来日本および日本政治の専門家ではなかったウィリアムズが、短期間のうちに帝国議会の実態について比較的よく研究したことが反映されているように思われる。

 代議士たちが少ない歳費にどれだけ悩まされ、活動に不自由していたかを知っている者の目で見れば、1〜4は極めて妥当な提案に受け取れる。最終的に、歳費は国家公務員の最高の給料額、すなわち最高位の公務員である次官の給料と同額にする、という方針で決められた。(略)代議士たちの政策的知識・情報へのアクセスの不自由さを考慮するならば、6・7も当を得たものであった。

間もなく彼はこの任務について、いくつかの強い不満を抱くようになる。リーダー格の日本の代議士が議会の変革に協力的ではないこと、代議士たちだけではなくワシントンもあまり熱心ではなく、議会改革に関する具体的な指令がさっぱり来ないこと(略)

 エスマンも八月のうちに日本を去ることになったため、ウィリアムズは一人で議会改革に取り組まなければならないという困難な立場に追い込まれたが、そのことは逆に彼の功名心に火をつけたらしい。彼は、スウォープとエスマンの腹案よりも急進的なプランを練って上司に売り込み、承認を得ることで立場を強化し、日本側と折衝しようと考えたのである。

(略)

彼が帝国議会の弱点を解消するための有力な処方箋と考えたのは、本会議中心の読会制をアメリカ議会に特徴的な、常任委員会中心の審議システムに改めることであった。(略)国会が「無能なおしゃべり社交場」に堕すことを防止するためには、アメリカのように、議員を専門性の高い常任委員会に帰属させ、その分野のスペシャリストに叩き直すことが有効だ――彼はそう考えたのかもしれない。付け加えると、[提案]8の法制協議会と11の公聴会も、アメリカ議会で採用されているシステムである。

 帝国議会に対して低い評価しか持ち得ず、またそもそも日本政治の専門家ではなく、政治学畑の出身でもないウィリアムズが帝国議会を改造しようとする時、念頭に置く理想の議会像が彼の母国のそれに傾きがちであるのは自然であった。

(略)

 ただ、戦前期の日本は慣習として議院内閣制に近い政治体制をとっていたし、ウィリアムズが覚書を仕上げているのと同時進行で、帝国議会において審議されていた日本国憲法が定めている政治体制も議院内閣制であった。行政府と立法府とが一体化している面の大きい議院内閣制と、三権分立が徹底しているアメリカの議院制度との親和性について、ウィリアムズが綿密に考察を重ねていた様子はない。まずアメリカ議会的方式ありき、で突き進んでいるように映るし、その点が日本側の認識とのずれとして現れてくるのである。

(略)

 第二次草案において「常置委員会」がどのような位置づけを与えられていたかは、草案本文が見つかっていないので、また西沢の回想(「国会法立案過程におけるGHQとの関係」)に頼るしかないのであるが、それによると、常任委員会が会期中のみ活動するのに対し、「常置委員会」は閉会中の活動を主とし、議院において閉会中引き続き審査を委するものと議決した問題や、閉会中内閣から審査を求められた問題を扱い、その構成員は各党幹部クラスの大物政治家を予定していたという。ところが、ウィリアムズは議会が閉会期間中も活動しているとガバメントが二つできることになるからだめだ(略)という理屈で「常置委員会」構想の削除を迫った。日本側はやむなくそれを受け容れて第三次草案を作成した。

(略)

 真の理由は、要するに「常置委員会」が、ウィリアムズが導入しようとしているアメリカ的な常任委員会中心システムに馴染まないからであった。

(略)

「戦後憲法体制の構築を主導したアメリカは、議院内閣制の土台のうえに、アメリカ的な立法府の要素を接ぎ木した」(山口二郎『政治改革』)という評価が今日ではまったく定着しているが、そもそも国会法成立時において、日本の政治家たちもそれを自覚していた。

(略)

 日本の政治指導者が、そのような英米混淆的な制度について抱いた「懐疑」に対して、GHQは「新しい制度を試してみなさい、良いものは続けなさい、うまく機能しないものは捨てなさい」と助言し続けたという(『マッカーサーの政治改革』)。やがて占領が終わり、いわゆる「五五年体制」のかたちができかけた時に、法制協議会や自由討議は廃止された。

2016-02-09 メイキング・オブ・サージェント・ペパー・その3 このエントリーを含むブックマーク

前日の続き。


メイキング・オブ・サージェント・ペパー

作者: ジョージマーティン 水木まり

出版社: キネマ旬報社 発売日: 1996/04

アルバム・カヴァー

 そもそも初めにポールが考えていたのは、ビートルズが公園でロンドン市長か誰かそういった人から公式の紹介を受けるというものだった。北部のあちこちの公園に実際にあるような大きな花時計のうしろに彼らは立つことになった。この架空の公園には素晴らしい群衆がいる――架空の観客が見たり聴いたりしているのだ。ジョージ、ポール、ジョンは3人が希望するキャラクターのリストを[デザイン担当の]ピーター・ブレイクに渡した。(略)

 ジョン・レノンが選んだのは、黒魔術師のアリスター・クロウリー、アドルフ・ヒトラー、イエス・キリスト、リヴァプールのフットボール選手アルバート・スタビンス(実のところジョンはスタビンスが何者か知らなかった。父親が彼を好きだったことを知っていただけだ)といった人たちだった。ヒトラーのような人物をリストに入れたのは単にいたずら好きだからで、断じてヒーローなんかではない。キリスト発言が物議をかもしたあとだけに、これらの人物が使われないだろうことを、ジョンは百も承知していた。彼はただちょっと試してみただけだった。(略)

ジョージはもちろん12人のインドの導師を入れたがった。リンゴは「みんなに任せるよ」と言ってリストを作らなかった。彼らは私のヒーローを聞いてくれなかった。もし聞いてくれていたら、J・S・バッハとR・J・ミッチェル(スピットファイアー戦闘機の設計士)が加わっていたことだろう。(略)

 ソニー・リストンとダイアナ・ドーズの蝋人形を置いたのはピーターだった。(略)

 ビートルズはパッケージ代としてロバート・フレイザーに1500ポンド支払った。フレイザーはブレイクとハワースに200ポンドの下請け料を支払った。

 ブレイクは路上アーティストのジョー・エフグレイヴに、想像力に富んだ楽しい絵を2台のドラムの皮に描いてくれるよう頼んだ。(略)

 有名な“マリファナ・プラント”の中にT・E・ローレンスの胸像がある。(略)先端のとがった小さくて緑色をした問題の植物はカナビスというインド大麻であると、いろいろな方面で非難された。実はこれは非常によく秘密が守られた冗談だった。本当のラテン語の名前はペパロミアだ!(略)

 そのほかの植物については容易に確認できる。ヒアシンス、アジアンタム、ケンティア・ヤシ、アゼリア(略)

 とにかく、これらの草花が植物学上怪しいものであるはずはない。なぜかと言えば、これがロンドンのメイダ・ヴェイルに古くからある有名な園芸店、クリフトン・ナーサリーズから届いたものだからである。その店が畏れ多い草を配達するようなことはしないだろう!(略)

 植物を配達してきた3人の青年の中で一番若い男の子は大のビートルズ・ファンだった。彼は自分もカヴァーに貢献させてもらえないかと頼み、写真の最前部に黄色いヒアシンスでギターを型作り、その上に緑色の支柱を置いて弦に見立てた。このギターの形をした花が“ポール”と読める――ポールの“死”を証明しようとしている人たちはそう言った。

(略)

 ビートルズはこうした人たち全員の顔や姿を載せたがったが、著作権の問題についてはまったく考えていなかった。私はトラブルになるとわかっていた。(略)

[以前スコットランド人アーティストのアルバム・カヴァーに、キルトをはいた男性が壮大な高地を悲しげなまなざしで見つめている素晴らしい写真をエイジェンシーを通じて入手して使ったら、後日スコットランドの下院議員から訴訟を起こすと迫られ、EMIから大目玉を食らった]

 このような経験があったので、EMIの社長、サー・ジョセフ・ロックウッドが、提案された《ペパー》のカヴァーを一目見るなり、「たわけたことを。これじゃだめだ」と言ったのを、しごく当然のことだと思った。

 「これでいきます」とビートルズは答えた。(略)

「OK、そんなにやりたいのなら、必ずきちんとした手続きをとってもらいたい。EMIはいっさい責任を負うつもりはないからな。それに、何があろうと何人かの顔は外してもらう。まずはガンジーだ。インドにはいくらでも問題があるんだから、これ以上ひっかき回すことはない。それからヒトラーは断じて許さん」

 「わかったよ」サー・ジョーの厳しい条件を伝え聞いたポールは素早く言い返した。「マーロン・ブランドふたりとガンジーひとりの交換っていうのはどうかな」

ロックvsシンフォニー

 《ペパー》で我々が開発したあらゆるプロダクション技術をジョンが気に入っている、と私は思っていたのだが、間もなく彼はそのやり方に反発するようになってきた。彼は彼が言うところの“誠実”なレコーディングに戻りたがった――言い換えれば、彼はできるだけライヴ・パフォーマンスに近いレコードを作りたがったということである。私たちはステージの演奏をレコードにしようとしたのではなくて、音でちょっとした映画を作ろうとしたのだ。そのように私は考えていた。(略)

 当時私は彼らにこう言った。「交響曲のように考えるんだ。異なったキーでも呼び戻すことのできる主題を考える。対位法を考える。ひとつの歌を別のもうひとつの歌と対比するように置くことを考える。そうすれば思わぬ相乗効果が得られるものだ――どれもきみたちにできることばかりだよ」だが、ジョンはそのいっさいを否定した。

 「そんなのぼくにとってはロックンロールじゃないよ、ジョージ」と彼は言った。「ロックンロールっていうのはグルーヴがあってこそいい歌なのさ」

 一方、ポールは、“継ぎ目のないシンフォニー”(略)という考え、つまり我々が《ペパー》で思いついたような考えを本当に気に入っていた。こういう理由で《アビー・ロード》の1面はジョンの望んだ通り(略)2面にはポールと私でさらに《ペパー》のスタイルを継続(略)

 《アビー・ロード》に取りかかった頃には、狂乱の年月が過ぎ去っていったので、ジョンは喜んで2面を手伝ってくれた。彼は結構歌を書いてくれた! 〈ビコーズ〉は彼の最高傑作のひとつに入る。問題は何も起こらなかった。だが彼はやはり徹底したロックのほうを好んだ。

まだ許してくれないリンゴ

今日までリンゴは、ビートルズの初レコーディング・セッションで彼に演奏させなかった私を、決して許してくれなかった。(略)

[30年経つが]我々が会うと未だに波風が立つ。どうしてこんなに長びくのか驚かされる。

 〈ラヴ・ミー・ドゥ〉にはふたつのヴァージョンがある。リンゴがドラムを叩いたシングル・ヴァージョンと、アンディ・ホワイトがドラム、リンゴがタンバリンを叩いたアルバム・ヴァージョンである。アメリカでは《レアリティーズ》が発売されるまで、リンゴのドラミングは日の目を見なかった。

(略)

[私はエプスタインにピート・ベストは首だ、セッション・ドラマーを呼ぶと伝えていた。ビートルズの3人も同じ結論だったことをエプスタンが伝えなかったので、スタジオに]

 リンゴが現れたとき、私は彼をいったい何者なのかと思った。[その技倆をはかっている時間はなかったので、アンディに叩かせ](略)

リンゴには残念賞としてタンバリンを与えた!(略)

 のちにリンゴに演奏してもらったところ、彼がとても素晴らしいことを知った。(略)

 リンゴは昔からずっとユニークなドラム・サウンドを叩き出してきた。彼の声と同じくらい独特のサウンドだ。(略)

[ポールの《タグ・オブ・ウォー》でスティーヴ・ガッドとリンゴの]演奏は同じマイクでひとつのトラックに一緒に録音された。

 サウンドの違いは驚くほどだった。リンゴはゆったりした太くてユニークな音を生み出した。彼はバス・ドラムの音をさらに太くしたがったために、テープ・スピードを変えることがしばしばあった。このようにドラムの音色にこだわるところが彼の素晴らしさのひとつである。(略)

 ぼくは大のビートルズ・ファンだった。彼らはアルバムごとに自分たちを磨いてきた。例えば、特に《ラバー・ソウル》とそれ以降は、何よりもドラミングが変った。そのアルバムの前まで、ロックンロールにおけるドラムの“フィル・イン”は基本で、どれも似たようなものが多かった。だけどこのレコードにはスペース・フィル――ぼくはそう呼んでいるんだけど――があるんだ。そこにはものすごい雰囲気が残されている。そこが音楽的に一番ぼくにアピールした。それにドラムのサウンドがずっとよくなってきた。そこで今ぼくが考えなければならないのは、あんな音を出すドラムをどうやって手に入れるかってことだ。――アル・クーパー

リンゴは優れたタム・タム・プレイヤーでもあった。〈ア・デイ・イン・ザ・ライフ〉ではリンゴのタム・タムをかなりフィーチャーした。おそらくこれは、このアルバムで聴ける、いや、ビートルズの全作品で聴ける彼の最高の演奏といえるだろう。

DI導入

 ビートルズのアルバムでは初めて、マイクとアンプの代わりにダイレクト・インジェクション(DI)・ボックスを使い、ギターとレコーディング・ボードを接続してポールのベースがレコーディングされた。それは、目立たないところで黙々と働きつづける天才技術士、ケン・タウンゼンドが、急場しのぎにやってくれたものだった。DIボックスは我々にとって初めての試み、まさに大発見だった。これによって我々はベース・ギターを思いのままに“料理”できたのである。

 新し物好きのジョンが言った。「それ、いいねえ、ほかの楽器も全部やってみようよ。それにあんなふうにうたってみたいなあ!」

 「あのねえ、ジョン」と私は答えた。「きみの声を直接ボードに入れることはできるけど、ひとつ小さな問題があるんだよ。きみにちょっとした手術を受けてもらって、首にプラグの差込み口を取りつけてもらわないとね」

67年6月25日〈オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ〉全世界同時中継

 私個人にとってあの放送は、混乱に満ちた恐怖の7日間を締め括るものだった。あの週、ジュディと私は小さなアパートから引越した。そのアパートはやがて生まれてくるはずの子どもにふさわしくなかったからだ。私は『ア・ハード・デイズ・ナイト』の映画音楽のギャラを貯金しておいたので、それをハイド・パーク・スクエアから少し離れたところにある家の購入資金に充てた。私たちは6月24日の土曜日に引越した。

 その前の週末、私の父が胸を患って入院した。父は84歳の老人だが、これまで病気をしたことがなかった。私は毎日見舞いに行き、彼は回復しているかに見えた。体力は衰えていたが、気持ちは負けていなかったのだ。6月20日の朝、私はいつものように彼を病院に見舞った。私が病室に入ろうとしたとき、シスターに呼び止められた。「残念ながらお父さまは今朝早くお亡くなりになられました」そう彼女は言った。そういう事だった。私の人生は文字どおり粉々に砕けた。信じられなかった。私はよろめき、涙で目がかすんだ。愛こそはすべてである。

ブライアン・エプスタインの死

《ペパー》が終われば我々の生活も一区切りつくと私は思っていた。(略)

 6月いっぱいにかけて〈マジカル・ミステリー・ツアー〉と、〈オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ〉のレコーディングを済ませると、7月はビートルズのレコーディングからやっと解放された。(略)

8月9日、私たちの初めての子ども、ルーシーが生まれた。(略)

 ビートルズの4人はマハリシに会いにウェールズに行っていた。そこで私たちは、その週末に当たる8月25日、初めてルーシーを抱きしめて心を跳らせながら家族だけで田舎へ出掛けた。(略)

 日曜日、私たちは早めの昼食をとりに村のパブヘ出掛けた。私たちが店へ入っていくと、急に静まりかえった。私たちはすぐに何かおかしいことに気づいた。店主が私のほうへ身を乗り出して小声で言った。「お友だちが亡くなられました」「えっ?」私にはなんのことだかさっぱりわからなかった。

 「エプスタイン氏です」と彼は言った。「ブライアン・エプスタイン氏です」

(略)

[結婚した時、ブライアンはジョージ夫妻とビートルズ・カップルだけのディナーパーティを開いてくれた]

みんながナプキンを広げると、ブライアンは参列者を見回しながら言った。「さて、みなさん、食事が終ったらみなさんのナプキン・リングをジュディとジョージに戻して下さい。そのわけはそこをご覧に……」彼は急に言葉を切ると、うれしそうに私たちを見た。私たちが小さなリングに目をやると、それぞれに“M”という字が彫られていた。この食事の席で我々11人組を賛えた11個の銀のリングは、今でも大事にしまってある。

 とても素敵なことだ。彼はそういう人だった。寛大で想像力に富み、衝動的。私はそのパブに立ちつくしていた。何も見えず、何も聞こえなかった。突然、なんの前ぶれもなく彼が死んでしまった。どうしても実感がわかなかった。

 いったいどうして彼が死んでしまったのか、私は納得がいかなかった。最後に彼に会ったとき、彼はとても元気だった。それに彼はまだ若い。まったく説明がつかなかった。(略)

 ブライアンは自ら生命を断とうとしたわけではない、と今でも私は信じている。もしそうだとすれば、彼はもっと華々しくやっただろう。いわば彼は賑やかに去らず、めそめそと泣きながら去っていった。だがブライアンはショウマンなのだ。彼が自分の死を計画したのなら、あのように人目を忍んだ大胆さに欠けるやり方はしなかったろう。

(略)

 彼は前に自殺を図ったことがあったが、必ず失敗するように注意していたし、誰かの目に留まるところに助けを求めるメモを残していた。その夜もいつものように薬を飲んでいたのは明らかだ。彼はピルを常用していた――一日をスタートさせるための覚醒剤、眠るための睡眠剤。酒も飲んでいたようだが、そこがいつもと違っていた。

 私は、その夜彼がとても疲れて帰宅し、睡眠薬を2錠飲んだのだ、と思っている。ところが深夜に目が覚めてこう思ったのだ。「夜が明ける前にもう少し眠っておかなければ」そしてさらに2錠口に放りこんだ。しかしながら彼は目を覚まさなかった。

(略)

 私たちは全員葬儀に参列した。シナゴーグユダヤ教の礼拝堂)に入ってきたときのビートルズを、私は今も忘れない。ショックのあまり顔は青白く引きつっていた。ブライアンに敬意を払って、4人は頭にヤムルカをかぶった。その小さな丸い帽子は彼らの洗い髪からすぐに滑り落ち、それを彼らの後ろにいたウェンディ・ハンスンが拾い上げて4人のモップ頭に戻す。これを何度もくり返していた。その様子を見ながら、私はなぜかとても悲しくなり、やりきれなかった。

 ジュディと私がロンドンの家へ戻ると、ブライアンを痛切に思い出させるものが待っていた。(略)[娘の誕生を祝う]大きな花束がジュディ宛に送られてきたのだ。メッセンジャーは留守であることを知ると、そのまま玄関前に置いていってしまった。花は、ブライアンのように、死んでいた。

2016-02-06 メイキング・オブ・サージェント・ペパー・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


メイキング・オブ・サージェント・ペパー

作者: ジョージマーティン 水木まり

出版社: キネマ旬報社 発売日: 1996/04

  • 〈ア・デイ・イン・ザ・ライフ〉

テープ・エコー

 トラック4:ジョンのヴォーカル、すでに深いテープ・エコーをかける。ジョンはいつも自分の声を嫌って何か手を加えたがる。今回は、〈ハートブレイク・ホテル〉をうたったときのエルヴィス・プレスリーみたいにしたいと言った。そこで我々は、声の残響を実際の声の0.09秒後に置くことにした。

(略)

取り出した音をまた録音していくという具合に、声が震えるような感じの音になるまでこれを何度もくり返したという。

 これをヘッドフォンで聴いていたジョンは、自分の声にものすごいディストーションがかけられていたので大喜びした。(略)

[10代の頃ギターの練習をしていると怒ったミミ伯母さんに家のポーチに追い出され]自然と声にエコーがかかるようなところだったので、彼はそういう音に慣れ親しみながら育ってきた。つまり、ジョンにとっては、エコーがかかっている状態が自然だったわけである。そしてまた彼は、グループで演奏するようになって間もなく、テープ・エコーが自分のリズム感に役立つことに気がついた。テープのディレイが正しければ、彼は拍子を保ちやすいというのだ。

  • 〈グッド・モーニング、グッド・モーニング〉

 当時ジョンは、ウェイブリッジというロンドンのベッドタウンの中でももっとも上流区域と言われるところで、27部屋ある“高級チューダー様式”邸宅に住んでいた。(略)

 一方、未婚のポールは自由奔放で洗練された有閑紳士で、前衛芸術家たちとのつきあいもあって“適切な”画廊や芝居に行き、適切なアンダーグラウンド雑誌を読み、ある意味でジョンやリンゴが羨むような生活を送っていた。ところでジョージは魅力的なパティ・ボイドと結婚したばかりだった。

 ジョンは郊外生活から脱け出したくなると、ポールの家まで車を走らせ、一晩過ごしてくることが頻繁にあった。ポールの家はロンドン中心部のアビー・ロードからそう遠くないところにあった。ジョンは妻と子どものために安定した家庭生活といったようなものを築かなければならなかったが、ウェイブリッジの雰囲気がよい歌を書くことを促進するとは思っていなかった。

 ポールは型にはまらない人たちと付きあっていたと思うよ。でも彼はすごく型にはまったやつだった。でもジョンは型にはまっていなかった。――リンゴ

(略)

 中産階級の中年男みたいだ、と日増しに感じていたジョンにとって、自由気ままにしているポールを見るのは辛かった。彼は、最良の時にあっても、すぐに退屈してしまった。(略)

そこは警備のゆき届いた安心して暮らせる金持ちのための地域で、トム・ジョーンズ、クリフ・リチャードといった多くの有名人の家があった。イギリスのメディアの大物が住むところ、それがウェイブリッジなのだ。ハリウッド・スターにとってのビヴァリー・ヒルズと同じだ。(略)会いにいけば、彼は幸福そうに見えた。しかし、どこかで彼はもっとエキサイティングな何かを捜し求めていた。

 ある意味でウェイブリッジは、ヨーコ・オノがジョンにとって魅力的に写ったことの説明になる。彼女は郊外生活者特有の物の考え方に対する解毒剤のようなものだったのだ。

 彼女は彼が本当にやりたかったことをやる自由を彼に与えた。ゴルフ・クラブのようなところでそれはできなかったのさ。――ポール

 そういうわけで、〈グッド・モーニング〉は郊外居住者の生活様式を皮肉っぽく――嘲笑的にとは言うまい――見ている歌なのである。(略)“誰もが何もやることがないのを知っている。どこも全部閉まっていて、まるで廃墟のよう。会う人みんなが半分眠っている……ぼくには何も言うことはない。いいんじゃないの、おはよう……”(略)(“妻に会ってお茶を飲む時間だ”という歌詞は、当時イギリスのテレビで放映されていたどちらかというとくだらないメロドラマ『妻に会って』から頂戴した。)

「ノルウェイの森」

 1966年を迎えるまでに、ビートルズは成功という衝撃的な体験をし、歌を書く方法も大きく変ってきた。(略)

特にジョンが音楽的な進展とともに、自分の歌の中でメッセージを伝えはじめた。そのよい例が《ラバー・ソウル》の中に収められている。

 ジュディと私はジョンとシンシアと一緒にスイスへスキーを楽しみに行った。そこでジョンは〈ノーウェジアン・ウッド〉を書きはじめた。ある晩彼はホテルのベッドルームで未完成のこの新曲を私たちにうたって聴かせてくれた。歌はその後ウェイブリッジでポールの協力を得て完成した。私は、まさかこの歌がシンシアに対する当てつけだとは思いもしなかったが、しかし、明らかにそのとおりだった。“かつてぼくには女の子がいた。それともかつて彼女にはぼくがいたと言うべきか……” 彼は少しいぶかしげな表情でシンシアを横目で見ながらうたった。とても若い頃にシンシアを妊娠させてしまったために彼は結婚せざるを得なかったのだ。あの頃はそれが当然だった。なぜなら、もしそうしなかったら、礼儀正しいイギリス社会の常識から外れて生きていかなければならないからだ。異議あり!

 そうは言うものの、あの頃の彼は十分幸福だった――意地の悪いところはなかったのだ――ただ、いつものようなとげとげしさがあった。

〈トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ〉

[当時ジョンが読んでいたティモシー・リアリー博士訳]『Tibetan Book of the Dead』やタンブーラのエキゾチックなサウンド、そしてジョンが求めた神秘的なゾンビのようなサウンドとは別に、この歌にはさらにもっと奇怪で素晴らしいところがある。それはポールが持ちこんだものだ。当時ポールは、我々がアヴァン・ギャルドと呼ぶものにとても入れこんでいた。モダン・アート、文学、ジョン・ケイジやシュトックハウゼンといった人たちによる現代音楽――こういったものを彼は、アッシャー家が備えている豊かな環境の中で耳にしてきた。ポールがジェーンとデイトするようになって付き合いの始まったアッシャー家の人々は、非常に知的で音楽好きだった。(略)

 よりよい歌を書く助けとなるものとして、ポールはブレネルのテープ・レコーダーを2台持っていた。そのテープ・レコーダーの消去ヘッドを取り外して録音ヘッドだけにすれば、作りたい音は普通に録音されて、次にそのテープを回したときにも消去されないだろうということを、ポールは発見した。その録音された音は再生ヘッドを通過して、再び録音される。これをテープがいっぱいになるまで何度もくり返すのだ。その音を再生したら、録音を始めたときのノイズとは似ても似つかない音が出てくる(もしあなたがビートルズの一員なら、それこそ願ってもない音であるはずだ!)。ポールはこのように、奇妙でひずんだノイズをいっぱい詰めこんで“テープ・ループ”を作り上げたのだ。(略)[それに倣い他のメンバーも]わけのわからないものを録音したループを作りだした。

 彼らはそれらのテープ・ループを、まるで猫がスズメをくわえてくるように、私のところへ持ってきた。(略)

私は気に入ったループを16本選んで――それぞれが6秒ほどの長さだった――〈トゥモロウ・ネヴァー・ノウズ〉で使った。(略)

レコーディング・コンソールをオルガンのように使うんだ。そのとき同時に、ここにあるループを回す、連続的にね。16本は無理だが、8本なら大丈夫だ」スタジオには8トラックのミキシング・デスクがあった――前にも説明したとおり、我々のテープ・レコーダーは一度に4トラックしか扱えないのだから、何とも皮肉なことだ。

 そのとき私がしなければならなかったのはテープ・レコーダーを8台捜してきて、それぞれの台でテープ・ループを回すことだった。

雰囲気と音像を造り出す

ダブル・トラッキングの初期の型を考案したのはケン・タウンゼンドだ。(略)2台のテープ・マシンを使い、どちらも配電線で供給される電力ではなくて、ある特定の周波数を出す発信機で動かす。そうすることによって、マスター・トラックとコピー・トラックはだいたい同じようにロックされるのである。(略)

私はジョンに、録音された彼の声が「ふたつに分けられた派手なフランジで特別に処理されるんだよ」と慎重に説明した。「きみの声が二重になるんだよ、ジョン……」やがて彼は私にからかわれていると気づいたが、あとになっていつもこう言いだしたものだった。「ジョージ、この辺で声をフランジ処理したらどうかな?」

 それから何年もたってアメリカヘ行ったとき、私は地方のレコーディング・エンジニアがこの言葉を使うのを聞いた。「その言葉は?」と彼に尋ねた。「ああ、これは」と彼は答えた。「テープ・リールの縁(フランジ)を親指で押すと得られる効果でね……」彼が何を考えようと、私にはわかる!(略)

 ビートルズがポピュラー音楽の慣習に反抗的になりはじめてから、私もより楽しいことを自由にできるようになった。実験したり音像を造り上げていったり、歌にふさわしい雰囲気を作ったりと、すべて私の好きなことばかりだ。(略)

 雰囲気と音像を造り出す……これは私の得意なことだった。ビートルズが出てくる前から、私はたくさんこれをやってきた。1962年にパーロフォンは〈タイム・ビート/ワルツ・イン・オービット〉というシングルを発売した。これは電子音を編集したもので、作者は“レイ・カソード”という人物だった――私である!(略)

[BBCのレイディオフォニクス・ワークショップという実験音部門のエンジニア達は]自分たちが触れられるものならどんなものでも使って、風変りな音を作ることにすべての時間を費やすような連中だった。彼らは、発振器や変速テープ・マシンといった(彼らにとっては)標準的な機材を持っていたが、さらにはかなり具体的な音楽をも楽しんでいた。牛乳びん、古いパイプ……《ブルー・ピーター》は彼らにとって朝飯前だ。彼らを有名にした最大の功績はロン・グレイナーとの共作で、これは『ドクター・フー』のために驚くべきテーマ音楽を生み出した。

 レイ・カソードが登場したのは、ワークショップが考案した純粋に人工音だけのリズミックなトラックに、生のミュージシャンを少し加えたいと私が思ったからだ。それはまぎれもない失敗作だった。だが、なかなか興味深い失敗作でもあった……とにかくそこから何かを学んだのだから! 私がレコーディングしたピーター・セラーズのトラックも音像を構築する訓練になった。例えばあるトラックでピーターは、批評家集団遊びをした。それはつまり、それぞれ違う声をした5人のピーターを作り出さなければならないということだ。私たちはステレオ・レコーディングの中央にひとつの声を置き、両側にふたつずつ置いて、彼らの“一団”がたがいに話し合っているような錯覚を与えた。

〈フィクシング・ア・ホール〉

 面白いことに、そもそもポールがベースを弾きたがったことは一度もなかった。ほかになり手がいなかったのでビートルズのベーシストになったまでだ。(略)

 ビートルズの中ではポールが一番ミュージシャンとしての才能を持っていた。初めて会った頃、彼はピアノをまったく弾けなかったのだが、それから〈レディ・マドンナ〉までは本当に短時間だった。(略)

また、リンゴを含むほかの誰よりも技術的にうまくドラムを叩くことができた(ただし、リンゴは彼のキットから独自のサウンドを叩き出すが、ポールにはそれができない)。(略)

 〈フィクシング・ア・ホール〉は《サージェント・ペパー》のレコーディング中、初めてアビー・ロードを離れた作品だった。(略)[ポールは]譜面を書けなかったので、歌詞と2、3のコード・チェンジを走り書きする程度で、あとはそれをレコーディングする以外、その歌をしっかりと覚えておく方法がなかったのだ。(略)

[アビー・ロードが空いていなかったので]ポールがやる気になっている間に、大急ぎでスタジオを捜さなければならなかった。我々が見つけたのはトッテンハム・コート・ロードにあるリージェント・サウンドというスタジオだった。そこはポピュラー音楽業界の中心地にあるデモ用のスタジオでしかなく、天井の低い小さな箱のような部屋だった。

(略)

 どのような歌にしていきたいかということでいえば、ジョンも必ずいいアイディアを持っていた。ただ彼の場合、頭の中にイメージするものがあっても、それを具体化するためのいいアイディアを、必ずしも持っていなかったのである。ポールのほうがずっと自分の求めているものが鮮明だったし、具体的だった。ジョンはどういう雰囲気の歌にしたいかを私に話すのだが、ポールはこの場所にチェロを入れたいとかトランペットを入れたいという具合に言ってくるのだ。したがって、結局のところジョンは十分に思いどおりのものが得られず、不幸せな結果に終っていたかもしれない。

 ある意味で《サージェント・ペパー》はユートピアである。ジョンは超現実主義者だが、同時にいつも即席のユートピアを求めている。彼は矛盾を孕んだ男だった。夢の中で聴こえたと思ったものが、現実の世界では決して彼の耳に聴こえてこないのだ。我々が聴いたものは、私やビートルズの残りの3人の解釈によるジョンが求めたものだったのである。だからいつも彼自身が思い描いていた完璧なものには達し得なかった。それはある点で、たぶん私の失敗であった。

〈ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト〉

収集魔のジョンはセヴンオークスのアンティーク・ショップを漁っているうちに、偶然、古いヴィクトリア時代のポスター[1843年のサーカスの広告]を見つけた。(略)

歌に出てくる名前はすべて、その古い上質皮紙に書かれていたものだ。双子のヘンダースン、パブロ・ファンキス、ミスター・カイト……などなど、詞のほとんどがそうだ。

 「本当にカラフルなサーカスの感じが伝えられるといいんだけどな」とジョンは私に言った。「タイツ姿のアクロバット、動物の臭い、メリーゴーラウンド。おがくずの臭いを出したいんだよ。ジョージ」

(略)

手回しオルガンのような音にするのがよいことだけは、私にもわかっていた。そこで私はジョンに、ほかにアイディアがないかどうか尋ねた。すると彼は、とても風変りな答を返してきた。「『ザ・マジック・ラウンダバウト』っていう子ども番組の音楽があるだろ、あの音が大好きなんだ。すごくシンプルなんだけど、最高だ」それはラッパを吹き鳴らしたような騒々しいサウンドだった。ジョンは子ども番組が好きで、ちょくちょく観ていた。(略)

私はスティーム・オルガンを捜した。1967年にはまだあったのだ。私はそれを手に入れ、伴奏で使うことを考えて、とても興奮した――すごいぞ!(略)

[しかしパンチカードによる自動ピアノのようなもので]

 我々のオリジナル・パンチ・カードを作るのはとても難しそうだった。時間もすごくかかるだろう。ジョンはそれを購入するべきだと考えた。(略)

[現実的になってスティーム・オルガンを使ったレコードを捜せるだけすべて集めてみたが、殆ど軍隊行進曲でイメージには合わない]

「ぼくたちがやるべきことは、オルガンとマウス・オルガンで、どこにもないバック・トラックを作り上げることだよ――上下するような感じの音を」私たちはさっそくハーモニウムだけを使って始めた。ハーモニウムはアビー・ロードの家具の一部になっている獣みたいに大きなオルガンに似た楽器だ。これが始まりだった。それから、ハモンドとロウリー・オルガン、それに最愛のローディ、マル・エヴァンスが吹く大きなバス・ハーモニカを使って特殊効果を重ねていった。ジョンも私も大喜びで、互いに相手を中断させながら、夢中になってオルガンの走句を探った。

 “そしてもちろん、馬のヘンリーがワルツを踊る……”という歌詞の少しあとに来たところで、ジョンは音楽をぐるぐる回して、馬が輪になって踊っているその中に人々を連れていきたいと言い出した。そのためにどうすればいいかはわかった。半音階の装飾音を連続して急ピッチで弾くのだ。それは私が弾かなければならなかった。ジョンはそこまで上手にピアノを弾けなかったからだ。ところが、いざやってみると、私にもできなかった!(略)

[1オクターブ下の演奏を半分のスピードで録音し通常再生で解決]

 ジョンももう1台のオルガンを一緒に弾いた(略)彼は“ウーンパッパッ”をくり返していただけだった。それはとても素敵なサウンドに聴こえた。だがまだ何か足りなかった。何かはわかっている。カリオペ、スティーム・オルガンである。(略)

[二分ほどの録音テープを細切れにし再度つなげる]

この奇妙な方法によって我々は、スティーム・オルガンのレコードのいろいろなパート――それぞれ1秒程度のものだ――で、いわばパッチワーク・キルトを作ったのだ。たくさんのさまざまな部分がぐるぐる回る。それを聴いてみると、混沌とした音のかたまりになっていた。元の曲を特定するのはまったく無理だったが、間違いなくスティーム・オルガンの音だった。完璧だ!我々の求めていた遊園地の雰囲気が出ている。ジョンはわくわくしていた。(略)

スティーム・オルガンの音は潜在意識に印象づけるものでなければならなかった。私はそれらが前面に出てこないように気をつけ、なおかつ聴き取れる程度に保った。

バッド・トリップ

[〈ゲティング・ベター〉のアレンジ打ち合わせ中、ジョンが気分が悪いと言うので、屋上に連れて行くと]

ジョンは深く息を吸い込み、その拍子にからだがふらついて、ビルの端のほうへ2歩踏み出した。私はあわてて彼の腕をつかんだ。下まで優に50フィートはある。ジョンは私の腕に寄りかかるようにして、ふたりで少しそこに立っていた。「気分がよくなってきたよ」と言って、ジョンは星を見上げた。「ワーッ……見てごらんよ! すごいじゃないか!」

 私は彼の視線を追った。星は確かにきれいだし、数え切れないほど空に散りばめられているように見える――だが、そんなに言うほどすごい眺めではなかった。そのように大袈裟なことを言うのは彼らしくなかった。私は彼を見つめた。彼は感覚が鋭くなり、からだを揺らし、人間音叉のように共振していた。(略)ジョージとポールが屋上に駆け上がってきた。ふたりは、我々の居場所を知るや否やスタジオを飛び出してきたのだ。

 ふたりはジョンが気分を悪くした理由を知っていた。ほかのみんなも知っていたのかもしれない――父親のようなこのジョージ・マーティン以外は。

 非常に単純なことだった。ジョンはLSDでトリップしていたのだ。誤って服用してしまった、と彼らは言った――彼はアンフェタミン錠剤を飲んだつもりだった、と。率直に言って、どちらも大して違いはない。

 ジョンは自分が飛べると思っていて、屋上の低い手摺りから今にも身を乗り出しそうだった。ジョージもポールも怯えきっていた。(略)

 それから何年もたって、私はポールとあの晩のことを話した。ジョンと私が屋上にいると知って、ジョージとポールは震え上がったそうだ。ふたりはジョンがいわゆるバッド・トリップしていることに気づいたのだ。

次回に続く。

2016-02-03 メイキング・オブ・サージェント・ペパー ジョージ・マーティン このエントリーを含むブックマーク

以下《ペパー》=「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」。


メイキング・オブ・サージェント・ペパー

作者: ジョージマーティン 水木まり

出版社: キネマ旬報社 発売日: 1996/04

〈ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァ〉

 私が初めてそれを聴いたのは、1966年11月の冷たい風が吹きすさぶ夜だった。我々はアビー・ロードの第2スタジオにいた。ジョンはアクースティック・ギターを抱えて、私の目の前に立った。これは彼が私に新曲を披露してくれるときのいつものやり方だった(略)

 イントロのふたつのコードに導かれて、曲は星のような輝きを持ってくり返す旋律に入っていった――“目を閉じれば楽に生きていける……”あの鼻にかかった素晴らしい独特の声がかすかに震え、胸にしみ入る。私はすっかり魅せられた。恋に落ちてしまった。「どうだい?」ジョンは歌い終わると、ひどく神経質に聞いた。(略)

「すごいよ、ジョン。本当にすごい歌だ。これをどういうふうにしたいんだい?」

 「それを教えてくれるのがきみだろ!」と、ジョンは笑いながら私に返してきた。実は今になって、あのときこう言えていたら、と思う。つまり、今聴いたままの歌で十分だ、と。あのときのまさに初めて通して聴いた音をテープに録音して、それを発売したかったと、どれほど残念に思ったことか!

(略)

 このセッションでジョンはアクースティック・ギターを受け持ちたがった。それで、メロトロンはポールが引き受けることになった。(略)

いつもどおり、ジョンがヴォーカル・レコーディングのスピードを変えてくれと言いだした。私は彼の声をどんなときでも素靖らしいと思っていたのだが、彼はいつも、自分の思いどおりに“改良”するために、声をひずませたり歪めたりしてくれと、私に頼んだ。そこで我々は彼のヴォーカルをオーヴァーダブするとき、テープ・レコーダーの電源の周波数を通常の50ヘルツから53ヘルツに切り替えた。これを通常のスピードで再生すると、声が半音下がって、より温かく、よりハスキーに聞こえた。

 それは神秘的な夜だった。我々はみんな、新しいアルバムの冒頭部が気に入り、一夜明けた金曜の早朝、疲れてはいたが十分満足して家路についた。

 しかしながらその週末の間も、豊富な想像力は活発に働きつづけ、我々が月曜日のセッションに集まったときには(略)改善案が山のように用意されていた。(略)

“目を閉じれば楽に生きていける……”という始まりではなくて、“きみを連れていこう……”というコーラス部分からの始まりにするというのだ。

 それはとてもよい移動だった。というのは、これによって聴き手は即座に詞を理解するからだ。抽象的なコメントで始まる代わりに、非常に魅惑的な旅の共有を聴き手は迫られる。それはまるでジョンが裏通りでつかまえた人びとをパーティに誘っているかのようである。しかし、それでもやはりイントロが必要だった。ヴァースで使われているコードをいじり回していたポールが、音の反復進行を思いついた。それはまったく歌のコードそのままだったのだが、アルペジオ・スタイルに発展させていた。

(略)

[テイク7をマスターとし全員アセテートのデモを持ち帰った。一週間後、ジョンが満足できないと言い出し]

彼は、ストリングスとブラスを使いたがり、そのためのスコアを私に書いてくれと言ってきた。

 翌週の12月8日、木曜日、新しいリズム・トラックを録るためのセッションが準備された。(略)

[クリフ・リチャードの新作映画プレミアから]ジェフと私が戻ると、第2スタジオでは静かな暴動が起きていた。(略)自分たちだけで“珍しい”リズム・トラックを付けたら、さぞ楽しいにちがいないと考えたのだ。彼らは手当り次第に何でも打ち鳴らした。(略)三流のターザン映画のような騒ぎだった。ジョンとポールはボンゴを叩きつけていた。ジョージは大きなケトルドラムを叩き、ときどきそれにポールが加わった。ニール・アスピノールはひょうたん型のヘラを、マル・エヴァンスはトロンボーン、ジョージの友人、テリー・ドーランはマラカスを、といった具合だ。別の誰かはフィンガー・シンバルをチリンチリン鳴らしていた。そして誰よりもリンゴが、いつもの自分のドラム・キットでこの不協和音をまとめようと、男らしく頑張っていた。(略)

ジョンの声が粗削りなビートに合わせてはっきりと聞こえた――“クランベリー・ソース、クランベリー・ソース……”なぜクランベリー・ソースなのか? ま、いいではないか。クリスマスも近いことだし!(略)

人々の耳には“クランベリー・ソース”ではなく、“アイ・ベリード・ポール(ポールを埋葬した)”と言っているように聞こえたらしい。

さまざまなヴァリエイションの中からどのパフォーマンスを選ぶか、ジョンはなかなか決められなかった。そもそも初めてこの歌を録音したテイク1をジョンが捨ててから、ずい分時間が経過していたが、この期におよんで彼は、スローで瞑想的なヴァージョンにするか、熟狂的でパーカッシヴな最強チーム、チェロとブラスを入れたテイク20にするか、悩みはじめたのである。(略)

「どっちも好きなんだ。このふたつをくっつけよう。テイク7から始めて途中からテイク20に移り、華やかに終っていこう」

 「すごいね!」と私は答えた。「ただし、問題がふたつほどある。まず、ふたつのテイクはキーがまったく違う、音質も異ればテンポもまるで違う。それ以外は何も問題はないよ!」私の皮肉に対してジョンは、大人が子どもをなだめるときのように寛容な笑みを浮かべた。「なあ、ジョージ」と、彼は簡潔に言った。「きみなら絶対できるさ、そうだろ?」そして彼は私に背を向け、去っていった。私はジェフ・エマリックのほうを見て唸り声をあげた。

(略)

 我々は有能な専門家たちを召集した。彼らは恐竜ほどの大きさもある洗たく機のような機材を運びこんできた。“周波数変換機”である。このバルブ・パワーのモンスターは送電幹線につなげられ、1秒間に50サイクルという通常の周波数を上げたり下げたり変換した。彼らがどうやってそんなことができたのか、私に聞かないでほしい。いまでも謎だ。私に言えるのは、作業を進めていくうちに発熱してきて、なおも続ければ火花を散らして爆発していたかもしれないということだ。だが、我々にはこれしかない。電源を入れた。私たちは編集をごまかすために、サウンドが変わる個所を捜した。そして、きっかり1分たったところにそれを見つけた。

 あの編集はとても目立ってしまった、と私は感じているのだが、誰も気づいていないらしい。ジョンは結果に大喜びで、それを最終的な歌として受け入れた。

(略)

 破棄したり録音し直したりしたものはたくさんある。〈ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァ〉のファースト・テイクがいい例だ。あれは素晴らしいテイクだったが、すべて捨ててしまった。今なお、あれ以上のものはないかもしれない。さらにはまた、オーケストラ・ヴァージョンの終りの部分は、リズムがひどすぎて使えなかった。あれだけ苦労して編集したにもかかわらず、最初から最後まで完全にひとつにまとまったテイクを作ることができない。そうなれば答は明白である。ビートが狂ってくる前にフェイド・アウトするのだ。つまり、私の好きなちょっとした部分を捨てることを意味する。その部分には、トランペットとギターの見事な演奏が入っており、また、ジョンがでたらめにメロトロンを演奏して作り出した音の滝も含まれていた。それはエネルギーにあふれた部分で、私はそれを残すことに決めた。

 そこで我々は、唯一可能な方法を実行した――リズムが狂いだす直前で歌をフェイド・アウトし、聴き手にこれで終りだと思わせておいて、再びフェイド・インして栄光のフィナーレを迎える。

デモ、オーディションの回顧

 レコーディングの質はぞっとするようなものだった。それだけでなく、このビートルズと名乗る連中は、その当時でさえ古臭く聴こえるような通俗歌謡[「オーヴァー・ザ・レインボウ」「ベサメ・ムーチョ」etc]をたて続けに、ただ機械的に演奏しているだけなのだ。(略)

 当時のイギリス・レコード産業の通念がそうであったように、ブライアンも、甘くささやくようにうたわれるバラッドこそが成功への道を約束するものだ、と信じていた。そこで彼はビートルズに、そういったタイプの歌をデモ・テープ用に録音することを強要した。(略)

「よくありませんね」と私は言った。「何というか……」私が口ごもっていると、ブライアンは突然売り込みを開始し、ビートルズをほめちぎった。「いつか」と彼は目をぎらぎらと輝かせて私に言った。「彼らはエルヴィス・プレスリーより大物になります」(略)

私は何かを捜し求めていたが、それは私だけのクリフ・リチャードだったのだ。私は常々、アビー・ロードの同僚である[クリフを手がけ成功している]ノリー・パラマーを羨ましく思っていた。(略)ビートルズは私の金のガチョウになってくれるだろうか? 疑わしい。にもかかわらず、決断しがたい何か、興味をそそる何か――少なくとも新しさ――があった。

 「どうだろうか」と私は言った。「彼らに会えば決断もできると思うんだが、彼らをロンドンに連れていらっしゃい。そうしたらスタジオに入れてテストしてみよう」

(略)

 彼らが演奏している間、私は考えていた。「誰が一番いい顔をしているか。誰が一番いい声をしているか」私が捜していたのは、新しいバディ・ホリーとクリケッツ、新しいクリフ・リチャードとシャドウズだったのだ。私は彼らをグループとして見ていなかった。ポール・マッカートニーとビートルズか、それともジョン・レノンとビートルズか。このふたりのうちのどちらか、それだけは確かだった。ピート・ベストはジェイムス・ディーンのようなかげりのある、とびきりのハンサムだったが、一番外向的でなかった。それに彼のドラム……不安が残る。(略)

 やがて彼らは〈ラヴ・ミー・ドゥ〉を演奏した。(略)[ジョンが]あの一風変った独特の鼻にかかったほとんど平担なセカンド・ハーモニーを付けたのである。そのとき突然、私は思い当たった。私が聴いているのはグループなのだ。私は彼らをグループとして受け入れ、グループとして作り上げていくべきなのだ、と。この独特のハーモニー、ユニークな音のブレンド――これがセールス・ポイントだ。

英国におけるブルース、チャック・ベリーのブルース

 50年代を通してパーロフォンでの私の仕事のひとつに、このレーベルで発売可能のレコードを捜すために、あらゆる傾向のレコードを念入りに調べるというのがあった。それらのほとんどはアメリカのキング・レーベルから来た。(略)

 キングは小さなR&Bレーベルで(略)“黒人のための黒人による音楽のレコードを出すレーベル”と当時は説明された。

 ニナ・シモンのような偉大な人も、まだ無名だった頃にキングを通じて私のところに来た(略)

しかし、ビートルズについていえば、私が特に思い出すのは、ブルース・ヴォーカルやギターに忘れがたいハーモニカの伴奏をつけたサニー・テリーやブラウニー・マッギーのレコードだ。あの明るい日射しが降り注ぐ午後、初めてジョン・レノンが使い古しのブリキのハーモニカと呼んでいる“ハープ”を取り出して、嘆き悲しむような音色を吹いたとき、すぐに私の心に思い浮かんだのは、そうした人たちの粗削りで鋭い、ダウン・ホームなサウンドだった。

 私がビートルズの最初のレコードに〈ラヴ・ミー・ドゥ〉を選んだのは、たぶん、あのハーモニカの音のせいだ。彼らの自作曲であろうと、スタンダード・ナンバーのカヴァーであろうと、私をあれほど直撃した歌はほかになかった。私は、この新しい跳ねるようなアップ・ビートの歌にハーモニカを使うのは、とても独創的だと思った。確かにブリティッシュ・ポップ・ミュージックを演奏する白人少年たちが出す音としては、非常にユニークだった。

 1950年代のイギリスでは、ブルース・ミュージックのマーケットはとても小さかった。当時はまだ、黒人が占める人口の割合が低かったし、西インド生まれのレゲエやジャズを聴く傾向にあった。白人はジャズとポップを聴いていた。そういうわけで、ブルースヘの関心は低かったのだ。私自身も、パーロフォンで売るものを決める以外、あまり気に止めなかった。

(略)

 イギリスのレーベルはどこも、ブルースをジャズの一部として捉える傾向があった。それは、我が国にブルースを紹介したのがイギリスのジャズ・ミュージシャンたちだったからだ。パーロフォンは当時、ジャズ・レーベルだった。(略)

私が聴いていたキング・レコードのブルースは、もっと粗野だったが、それがアメリカの黒人ジャズなのだろうと思っていた。そして、その音楽には熱狂的な支待者がいるだろうと思いはしたものの、そこ止まりだった。

 だが、ビートルズはこの音楽をまったく違った目で見ていた。つまり、この音楽が何であれ、ジャズでない、と。実際、彼らはそれを、ジャズに対抗するものだと捉えていた。もちろん彼らがもっとも熱心に聴いていたのは、もっと身近にあったチャック・ベリーをはじめとするこの類いの音楽だった。そして彼らにとってはこれが、鋭く突き剌さるブルースだったのである。

 ベリーはあらゆる影響――カウボーイ・ミュージックの影響、カントリー&ウエスタンの影響、ゴスペル・ミュージック、それにヒルビリー・フォークの影響――を自分の音楽に取り込み、それらを混ぜ合わせて彼ならではのもの、非常にモダンなサウンドを作り上げた。つまり、彼は、都市のエレクトリック・ブルースを取り上げ、そこに彼の気の向くままに何でも混ぜ合わせ、スピードを上げ、そして、ギターもヴォーカルもドラムも何もかもどでかい音量に上げて特にバックビートを強調させたのだ。彼は新しいギターのスタイルも生み出した。(略)

 ビートルズが飛びついたのはこれだった。“純粋なブルース”と呼ばれる私が聴いていたものよりもむしろ、チャック・ベリーや彼の後に続いた人たちの形を変えたブルース・ミュージックだったのだ。ベリーと仲間たちが作り出すサウンドはとてもぶしつけで、当時のイギリスのポップ・シンガーが作り出していた気取ったサウンドとは大違いだった。それは腹に一撃を受けたような、そして、若さを感じさせる音楽で、ビートルズは腹に一撃を受けたがったのだ。

大音量をレコード盤に刻みたい

キング・レーベルのレコードやビートルズが聴かせてくれたレコードで私が驚いたのは、技術的な攻撃性だった。アメリカのスタジオはイギリスのスタジオよりはるかに大きな音量をレコード盤に詰めこむことができた。輸入されたばかりの45回転盤を手に取り、それをじっと見てみれば、わざわざプレーヤーにかけてみるまでもなく、その耳をつんざく大音量がわかった。それは、人々が言うように、とてもいかしていた(イン・ザ・グルーヴ)。

 「すごいね」と私は言ったものだった。「こんなふうにレコードをカットできないものかなあ?」もしこれほど大きな音量にレコードをカットしようとしたら、針が、いや恐らくダンセットのレコード・プレーヤーのアームごとレコード盤から跳ね上がって床に転がり落ちたことだろう。だが、アメリカのレコードだと針が跳ね上がらない。彼らは技術面でずっと我々の先を行っていたし、また、ただ叫ぶだけでなく、唸ったり吠えたりする声のレコードも作ることができた。彼らがどうやったのかわからなかったが、きちんと知りたかった。

 今日では大音量のトラックにするには、ただ単にフェイダーを押し上げればよいが、あの当時は本当に大変だった。あのようなタイプのポップ・レコードを大音量にすればするほど、よりいっそうインパクトが強そうだったし、もちろんより売れそうでもあった。ディスク・ジョッキーは唸り声を上げているレコードを1枚でもかければびっくりしただろうし、ラジオでそれを聴いた人もびっくりしてレコード店へ駆けこみ、それを買う。それがビジネスだ。

 溝から最大限の音量を出すということが私にとって一番の関心事になった。夜中に目が覚めて考えだすということもあった。あの素晴らしいサウンド……!(略)

4人からもうるさく言われた。彼らにはアメリカ輸入盤の違いが聴きとれたのだ。「ねえ、どうしてこんなふうにできないの、ジョージ?」と、4人は声を揃えて言った。「こんなふうにしたいよ!」

 んー、なぜ私にはできないのか? なぜならそれは、レコードをかけたとき、針がしっかりと溝にとどまり、なおかつドンドンと叩くような感じが出るようなやり方でディスクにベース・サウンドをカッティングしていくようなものだからだ。それはギター、ドラム、ベースの周波数をぴったり同じにすることであり、ドラムをマイクでうまく拾うことでもあった。ビートルズ以前にバス・ドラムにマイクを置いたグループは少なかった。彼らはドラム・セットから4フィートほど離れたところにマイクを置き、それで何とかなると期待した。ベース・ギターもしかりである(略)。ポールはすごくいいベース・サウンドがとれると言い張ったので、私は彼のベースにマイクを通常よりずっと近づけ、もっとよくべース音をマイクが拾うことを確かめる必要があることに気づいた。そうやって我々は要求されているものをたがいに教えあった。ビートルズと私がである。私たちはエキサイティングなサウンドに向かって一緒に手探りで進んでいった。

 私たちはうまくやったようだった。というのも後に、そのさらにずっと後になっても、レコーディング・アーティストが私のところにやってきて、今度は彼らが言ったのだ。「どうしてビートルズのトラックのようにできないんだろう?」彼らは〈ベイビー・ユア・ア・リッチ・マン〉のベース・ギターを聴いてこう言う。「ねえ、きみ、こいつはゴキゲンなベース・サウンドじゃないか。いったいぜんたいどうやってこんなベース・サウンドを出せたんだい? ぼくたちにもこんなすごいサウンドを作ってくれよ!」

 だがしかし、実際のところその底に流れていたのはブルースのうねるようなパワー、苦心して得た大音量だったのである。

ブギ・ウギ

 ポールの話では、彼の父親はピアノでブギ・ウギを弾くのが好きだったそうだ。(略)

ブギ・ピアノの曲の中で左手が弾くベース・ラインは、単にブンブンというリズミックな音というよりもむしろ強い対位法のメロディを生み出す。ポール自身のベース・ギター奏法は、もちろんもっともメロディアスだ。彼は誰も到達できなかった規準を設定した。時にはベース・ラインのメロディから歌を書くことさえある。〈ベイビー・ユア・ア・リッチ・マン〉で聴くことのできるポールのベース・ラインは、彼が何をできるかを示したよい例だ。

ビーチボーイズ

《ペット・サウンズ》におけるウィルスンの対位法を使った曲作りは、世の中と疎遠状態にあった頃のビートルズには理解できない、あるいは考えつかないものだったが、彼らを非常に熱狂させ、曲作りに奮いたたせた。彼らのハーモニーはより複雑になってきた。声がたがいに“応答”しはじめたのである。〈シーズ・リーヴィング・ホーム〉はふたつのパートの対位法を使った作品だ――ジョンとポールのふたりの声がたがいに混ざりあい、補いあって完全なものになる(そしてストリングスによって次々と強調される)。少なくとも《ペパー》が登場するまで、こういったことに関しては(略)ビーチ・ボーイズのほうが優れていた。(略)

〈ゴッド・オンリー・ノウズ〉は、ビートルズを本当にびっくりさせ、彼らの注意を引きつけた。だが結局のところ、彼らが注目したその相方のグループがずっと聴いてきたのがビートルズだったのである。

(略)《ラバー・ソウル》を聴いた。それは明らかにぼくにとっての挑戦だった。(略)ぼくはすぐに《ペット・サウンズ》の曲作りを始めた。――ブライアン・ウィルスン

《ペット・サウンズ》の後に《ペパー》が来た。《ペパー》を聴いてブライアン・ウィルスンは、そのとき取りかかっていたアルバムを破棄し、苦悩のあまり数か月間引きこもってしまった、と伝えられた。その間に彼はじっくりと考え直したのにちがいない。なぜなら次のビーチ・ボーイズの《スマイリー・スマイル》は、明らかにもう一枚の傑作だったからである。(略)

大西洋を挟んでの非常に面白い強烈なパンチの応酬、ソングライティングとレコーディングの天才たちによる対抗試合だった。

次回に続く。

2016-02-01 エリック・サティの世界 ユリイカ 2016年1月臨時増刊号 このエントリーを含むブックマーク


ユリイカ 2016年1月臨時増刊号 総特集◎エリック・サティの世界

作者: 小沼純一,坂本龍一,高橋アキ,谷川俊太郎,ヤマザキマリ

出版社: 青土社 発売日: 2015/11/27

  • 宙吊りの状態のままに――サティの謎と固有性

坂本龍一×小沼純一

[最近の人は言葉やエピソードからサティに入ってるという話を受け]

坂本 やはりぼくらはロラン・バルトなんかの影響を受けているから、作者個人とは切り離し、何より音楽というテクストだけにこだわりたい、というところがあります。(略)

その意味で、音楽に直接向かったとき、やはりサティの音楽は、ぼくにとっては謎多きものなのです。ドビュッシーはある程度、その深化が推測できる。ラヴェルはさらに、です。しかしサティは……。で、「6人組」はそこから何を学んだか?というのも大きな疑問だったりするんです。あまりにもサティの痕跡がないようにぼくには思える。(略)

――これまたとても限定的だったんじゃないでしょうか、若かった「6人組」との付き合いと影響については。コクトーというバイアスが掛かっていたサティだったわけだし、大衆音楽をシリアスな音楽の場に持ち込むとか、ある種、異化効果のようなところで、だったのではないか。だから音楽の語りそのもの、響きそのものについて、ではなかった

坂本 少なくとも音楽的にはあまり繋がり、影響が感じられない。サティは非常に孤独な作曲家だ。

坂本 [近藤譲さんと]「サティは、いいんだけど、作曲法としては応用しにくいよね」っていう話をしたことがあって、妙に記憶に残っています。もう30年以上前でしょうか。ただ、そこを言葉で説明するのがなかなか難しいのです。応用しにくさで言うと、ドビュッシーも応用しにくい。こっちの方が分かりやすい。分かりやすい応用しにくさがある。ドビュッシーは全てがinventionだからです。サティも若干それに近いけれども、何かが違う。で、一番応用しやすいのは当然ラヴェルです。

――サティの音の数は多くない。そして剥き出しになっている。どの音も聞こえてくる。

坂本 そういうこともあるし、なんだろう……、コンセプトと楽曲と思想なんか渾然一体となっているので、作曲法として取り出すことが難しい、という面がある。(略)

それにね、マネすると、思想までマネすることになってしまう。思想抜きのマネは、最低です。思想をマネることは出来ないし。ですから、サティの音楽はけっこうお手上げのところがあります。音のことを考えても、あれはサティだからいいので、他の誰かがマネしたら、最低の音楽になってしまいます。

――う〜む……。響きの新しさを第一義に考えているわけではないですし。

坂本 違いますね。響きの発明だったらやはりドビュッシーでしょう。ただ、サティの才能を一番知っていたのはドビュッシー。ドビュッシーの才能を一番知っていたのもサティ。

――だから、エピゴーネンがいそうでいないのではないでしょうか。

坂本 そうですね。

――ドビュッシーもどき、ラヴェルもどきは沢山いましたが。

坂本 (略)作曲的に応用しにくいってどういうことだろう……。これがもう40年以上分からなくて……。確かに応用しにくいんだけど、何故なのか?

(略)

坂本 他の音楽、バッハにしろベートーヴェンにしろ、さらにドビュッシーでさえ、はっきり先人からの影響から始まっています。しかし《ジムノペディ》の前に、あんな音楽はないのではないか? どこを探したら、あれほどシンプルな不思議な音楽があるでしょう?

(略)

坂本 ひとつ、サティがなぜあんな音楽を書くようになったかという謎ですが……もしかしたらブリコラージュという言葉がけっこう近いのかも、とフト思いました。(略)

つまり彼は明確にアカデミーの音楽とは違うものを目指した。その時、身辺にあるものに目を向けるとキャバレー音楽やら路上音楽やら、グレゴリアン聖歌以前の古代への幻想だったであろうと。それら想像も含めたあり合わせの音楽から、あの不思議な音楽が少しずつ形になっていったのではないか、と想像したんです。

  • エゾテリック・サティの時代――竹下節子

 ドビュッシーの父はパリ・コミューンで投獄されてから社会的に不安定な立場にあった。(略)義務教育が法定化される前の1866年生まれのドビュッシーは学校に行かなかったが叔母とその愛人を通して文化サロンの社会と出会い、コンセルヴァトワールで才能が開花した。

(略)

 カトリックの教養のないドビュッシーがはじめてグレゴリアン旋法と出会うのも[銀行家未亡人と結婚して]社会的上昇を果たしてからだ。(略)

カトリック趣味は当時の多くのブルジョワが貴族化するのに必要な戦略だった。(略)

第三共和国のブルジョワにとっても、旧領主や地主は銀行と産業の邪魔になる。労働者に寄り添うジェスチャーが必要で庶民のふりをしながら、本心は貴族になりたかった。プルーストにも見られるように、このようなブルジョワのスノビズムが、「反動、右派、ナショナリズム」という感性を育てた。その中には芸術擁護や豪奢な生活も含まれている。ドビュッシーが18世紀の宮廷や王立アカデミーの中で花開いたフランス・バロック音楽を研究したのもその貴族趣味のおかげだ。(略)

ドビュッシーにとってのフランス・バロック音楽は、当時のロマン主義のナショナリズムの文脈で掲げられるものだった。出身階級を裏切った罪悪感がナショナリズムに向かったのだろう。(略)

 一方、サティはその反対だった。裕福な海運業者で音楽的教養もカトリック的教養もあり10ヶ国語を話す父と、フランス語を習いにやってきたスコットランド人の母との間にまれた。そのせいで聖公会の洗礼を受けたが母が死に、六歳で祖父母に引き取られてカトリックの再洗礼を受け八歳からの四年間、聖レオナール教会のオルガニストから個人教授を受けて教会旋法を身につけた。その後で彼を引き取った父の再婚相手はピアニストだった。父はサティを公教育から外してエリート教育を施した。その恩恵を受けたにもかかわらずサティの心は民衆に向かった。社会的に認められる道を歩まず、労働者の子供に音楽を教えたり曲をキャバレーの劇団に捧げたりした。近代都市の貧困を前にして怒り、富裕層が礼拝する神の偽善性に反発するようになる。「神さまなどそこいらのならず者のひとりだと思うようになった。慈悲とかいうやつはどこかにおいてめったに出さない(からだ)」と言い捨てて、神の国からも自分の出身階級からもひたすら下降していくのである。

(略)

薔薇十字団のエリート主義や三位一体のカトリック臭や誇大な演劇趣味もサティの求めるものではなかった。とうとう彼は自分とイエスだけが率いる「芸術のための教会」を設立する。信者も司祭も聖歌隊長もサティひとりで、聖堂は狭い居室の物置でしかなかった。やがてサティはそこも捨て、パリ郊外の労働者地区に住み、ほぼ路上生活者のようなその日暮らしの中で労働者を支援し、死後は共同墓地に埋葬されるのだ。

  • サティのイロニー 椎名亮輔

[サティが自分を音響測定者だと書いてるのは、実は『フランスの音楽家たち』における自分の評価への皮肉だったという話]

なるほど、サティは自分が「不器用な」「テクニシャン」とか「奇妙な」「探求者」とか書かれているのを、逆手にとったんだな、ということがわかる。ヴォルタはその直後、注釈中で「オクターブ・セレなるペンネームのかげに身をひそめているのは − 自分の著作のなかで、作曲家としての自作に言及するためである − 批評家マリ=オクターヴ=ジェラール=ジャン・プーエーである」と述べ、結局、サティがこの文章を書いたのは、このような卑劣な策略をとってまで自画自賛をするような人物に、不当に悪い扱いを受けて怒ったのだ、ということをにおわせる。

(略)

[『フランスの音楽家たち』で扱われている作曲家の顔ぶれは]何たる乱雑さであろう。有名無名が混在しているのは、100年後の私たちがそれを見やすい立場にあることを割り引いでも、やはり目に余る気がする。たとえば、カスティヨンの作品などは、どう考えてもドビュッシーのものと同列に置くことはできないと思う。(略)そしてサティの名はないのである。

 これこそが、サティが自分は「音楽家ではない」と言った原因ではないか。カスティヨンやシュヴィヤールのような二流の作曲家さえ一章をさかれている「現代フランスの音楽家」という書物に、一章を設けて論じられるどころではなく、ドビュッシーの項目の隅っこに、侮蔑的な言辞[「それほど重要ではない」]を伴って自分の名前が出ているのに、サティは怒ったのだ。

 1898年から彼はパリ南郊アルクイユに引っ越す。そこは貧しく薄汚れた工業地帯だったが、サティは地域の活動に徐々に参加していくことになる。地域青年会に参加し、音楽会や遠足を企画・運営し、夜警をし(うるさいと苦情が出て中止)、県から表彰され(1909年)、最後には選挙にまで打って出た(1919年)。これだけ地域に貢献しているのだから当選して当然、と思いきやあえなく落選。アルクイユの住人たちは、パリ上流社会に出入りしているサティを、やはり疑惑の眼差しで見ていたのだった。プロレタリアに親近感を抱き、社会党や共産党(!)にまで入党した「貧乏紳士」サティは、ここでも無理解による幻滅を味わうのだ。

  • エリック・サティと芸術キャバレー 室田尚子

[日本人がイメージするミラーボールなキャバレーとは違い]

サティが生きていた時代のキャバレー、より正確にいうならば「芸術キャバレー」は(略)諷刺のためのメディアだったのである。

(略)

 フランスにおける「シャンソン」こそ、諷刺のためのもっとも理想的な武器だといえる。(略)

様々な事件や政治家などを揶揄する内容を持った歌を、「シャンソニエ」と呼ばれる人たちが街角で歌い人気を博した。シャンソニエによって生み出された反逆の歌は、民衆という不特定多数によって取り込まれ変容していく過程で諷刺のエネルギーを膨張させていく。近代の芸術キャバレーは、そのエネルギーに形式を与え、ひとつのジャンルとして確立させたものといえる。

 芸術キャバレーの先駆者には、18世紀に誕生した「カヴォー」や「ゴゲット」、19世紀の初めから工業都市や港町に誕生した「カフェ・シャンタン」とその規模が大きくなった「カフェ・コンセール」などがあるが、いずれも、時事問題や政治諷刺をテーマにしたシャンソン・ポピュレールが生み出される場として機能していた。特に、カフェ・コンセールからは、自ら作詞作曲し歌う自作自演歌手が登場した。

(略)

ギルベールは、シャンソンにおける「語り女性歌手」のスタイルを確立した。もともとは、正規の音楽教育を受けていない歌手の声量不足という欠点を補うものだったが、言葉を語るように歌うそのスタイルはシャンソンの歌唱様式となって定着した。

 1881年11月18日、モンマルトルのロシュシュアール大通りにキャバレー〈黒猫〉が、ロドルフ・サリによって開店する。歴史上初の芸術キャバレーの誕生だ。このサリという人物、表向きは画家ということになっているが、絵の才能よりはむしろ口が上手い、一種のPRマンだった。

(略)

サティは〈黒猫〉の第二ピアニストになった。彼が就いた初めての職業である。(略)同郷のアルフォンス・アレーは、そんなサティをファーストネームのエリックに引っ掛けて「エゾテリック・サティ(気難し屋のサティ)」と呼んだ。

(略)

〈黒猫〉における重要な出し物のひとつに影絵芝居があった。これは、「フランスの浮世絵師」とも呼ばれるジャポニスムの画家アンリ・リヴィエールが考案したもので、当時はまだ発明されていなかった映画に先駆けて生まれた映像芸術である。縦1メートル40、横1メートル20のスクリーンに、移動可能な色とりどりの光をあてて動物や人間を浮かび上がらせる。スクリーンの前には朗読者、歌手、小規模の楽団や合唱隊が配置され、芝居に合わせて演奏が繰り広げられる様は、まさに小さな「総合芸術」であり大好評を博した。群衆が「ボール紙で作られている」という《ジュヌヴィエーヴ・ド・ブラバン》は、この影絵芝居のために作られたのではないだろうか。サティとコンタミーヌによる他の歌曲の成立時期から考えても、この作品が〈黒猫〉での上演を想定して生み出された可能性は極めて高い。

 「ジムノペディスト」と紹介されたサティが実際に《三つのジムノペディ》を書いたのは1888年。(略)

 斜めに影を切り、光り輝く清流が

 黄金の波立てて流れていた、磨かれた石板の上

 そこに琥珀の粒が光にきらめき合いながら

 サラバンドの舞をジムノペディに溶かし込んでいた

  • エリック・サティとその時代 ガブリエル・フルニエ

[フルニエ(1893-1963)は後期印象派の画家。第一次大戦中にサティと親しくなった]

彼がロトンドにふらりと現れると、私はとても嬉しくなるのだった。多くの場合、パリを歩き回った後、帰る途中に立ち寄っていた。だから埃まみれだったが、あの天使の微笑とともに、愛想は良かった。身なりは、公証人のように、実にきちんとしていた。山高帽、ハイカラーのシャツ、絹の糸くずでできた灰色の手袋、そして雨傘を脇にもって、彼は私たち仲間のテーブルに加わり、楽しそうに話しはじめる。(略)

味わい深い話は魔法のようだった。たしかに、口調はきつかったが、決して意地悪ではなかった。独り苦しむのに慣れている人なら誰でもそうであるように、彼もまた感じやすく、非常に鋭い感受性が表に出ないように言葉を選んでいた。自分の見方にこだわるので、付き合いにくいと感じる人もいた。

(略)

彼の自作以外には、ラグタイムの演奏を聞いたことがある。その奇妙な新しさに、私は魅せられてしまった。あの前代未聞のシンコペーションのリズムと黒人の奏者の特徴である左手の動きによって度肝を抜かれた私は、まだ一般には知られていなかったこの驚くべき音楽をどこで見つけたのか、彼に聞いてみようとも思わなかった。時が過ぎ、ジャズ音楽に詳しくなった今では、サティが私たちに内輪で弾いてくれたのは、ジャズの開祖の一人であるジェリー・ロール・モートンの曲だったと確信できる。(略)

[ストラヴィンスキー関連の本を読んで、ようやくサティがどうやって黒人音楽を知ったかわかった]

1916年にアメリカを訪れたスイスの指揮者のエルンスト・アンセルメが、ジャズのレコードを何枚かストラヴィンスキーに渡したと書かれていたのだ。当時は『バラード』より前の時期で、パリに滞在していたストラヴィンスキーは、サティの前でそれらをかけたに違いない。『バラード』以前の、それも『兵士の物語』以前のことだった。そう強調しておきたい。

(略)

[サティが音楽を担当したコクトーの『バラード』公開舞台稽古の日]

ジャン・プエグはサティにお世辞を言いに、楽屋に来た。次の週、攻撃的で俗な言葉遣いで作品をこきおろすジャン・プエグの記事を読んだサティの驚きはどれくらいだっただろう。サティは激高し、当然のことながら、怒りと驚きを伝えるためプエグに反論することにした。(略)

あなたはどうしようもない間抜けだ、しかも音痴。

 怒り狂ったジャン・プエグは、名誉棄損の廉でサティを軽罪裁判所に訴えた。弁論には私も出席し、目をぱちぱちさせながら、不正に憤るあまり感情を抑えられないでいるサティの姿を認めた。

(略)

 プエグは弁護士を通して、厳しい判決を願った。「判事の皆さん、お忘れなく。この絵葉書は、封筒に入れられていないので、依頼人の住むアパルトマンの管理人に始まって、誰でも読むことができ、悪い噂は建物全体に広がりうるのです。さらに、通りの両側の住人へ、界隈全体へと広がって、依頼人ジャン・プエグ氏の名誉に現実の、かつ相当な侵害を引き起こすことになります」。

 私たちの叫びは判決の言い渡しの際に激しさを増し、聴衆の退席が命じられた。(略)待合室へと追い払われたジャン・コクトーは、化粧がわからなくなるくらい怒りで真っ青になり(略)

私自身も、プエグの弁護士が居丈高に私たちの前を通り過ぎるのを見て唖然としたのだった。動揺が広がり「あいつをぶっころしてやる!」と叫び声がとどろいた。平手打ちをくらわせたのはジャン・コクトーだった。ただちに警備員に捕まったコクトーは、裁判所の地下にあった警察署に連行され、そこで私たちは、手ひどく扱われたらしき状態の彼に再会した。

(略)

[訳者解説](略)

公判の印象も悪く刑務所行きが確実視されたサティだが、結局、「パリの女王」ミシア・セールの奔走のおかげで最後には執行猶予(五年)を得て、収監はされなかった。