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2016-04-30 カインド・オブ・ブルーの真実・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


カインド・オブ・ブルーの真実

作者: カーンアシュリー,中山康樹,中山啓子

出版社/メーカー: プロデュースセンター出版局

発売日: 2001/09/01

| 本 | Amazon.co.jp

30丁目スタジオ

[テレビ業界に進出した親会社のCBSがリーダークランツ・ホールを二分割してテレビ・スタジオにしたため、30丁目のギリシャ正教会を使うことに]

「30丁目スタジオは天井が高くて、広さが100フィート四方ある、とてつもなく大きなスタジオだった。ソロから40人、50人のミュージシャンが参加するシンフォニー・オーケストラやブロードウェイ・ミュージカルのアルバムまで、なんだってレコーディングできた。コロンビアはCBSにその物件の購入を承諾させたが、そのときCBSは、建物の改造や改装にはいっさいタッチしないことを条件に加えていた。だから、私たちはなにひとつ手を入れなかった。バルコニーに通じる階段を遮断してコントロール・ブースにしたし、教会時代の垂れ下がった埃だらけのカーテンもそのまま長いあいだ使っていた」

(略)

[マイク・バーニカー談]

 「いまではどんなスタジオでもみいだせない独特のサウンドがあった。(略)金属製のものはいっさい使われていなかった。床や天井や壁が木材だったから、ストリングスや他の楽器のサウンドと音響が調和したんだ」

(略)

クインシー・ジョーンズが語る。「あのスタジオでJJジョンソン、カイ・ウインディング、ソニー・スティットたちをよくレコーディングしたものだ。あれこそ純然たるアコースティック・サウンドだった。木材で囲まれたスタジオの特長が、木管楽器やアコースティックの楽器に最適だった」

安堵したジミー・コブ

フィリー・ジョー・ジョーンズの名声に脅かされていたジミー・コブは、セクステットの音楽性における変化に安堵の胸をなでおろした。「フィリー・ジョーの後任だったんだ。だから、むずかしい立場だった。そしたら幸い、マイルスの音楽が変わりはじめた。フィリー・ジョーのスタイルで演奏する必要がない方向、つまりモードヘ向かったんだ。フィリー・ジョー以上の演奏をしようとがんばらなくてもいいと思うとほっとした。フィリー・ジョーを超える演奏なんてできっこなかった」

《ブルー・イン・グリーン》クレジット問題

私はその朝、レコーディングの前に彼のアパートに行った。そして《ブルー・イン・グリーン》を略記した。あれは私の曲だった。だから、メンバーのためにメロディーとコード・チェンジをおおまかに書きとめた。それに《フラメンコ・スケッチズ》はマイルスと私の共作だった」

 この問題に関するマイルスの姿勢は、首尾一貫したものではない。自叙伝のなかでは、「ビルが『カインド・オブ・ブルー』の共作者だと触れまわったやつもいるが、それは嘘だ。あれはすべてオレの曲だ」と、断固として共作を否定する。にもかかわらず、1986年には、彼の自叙伝を執筆したクインシー・トループに、「《ブルー・イン・グリーン》、これはオレたち、ビルとオレで書いたんだ」と語っている。

 《ブルー・イン・グリーン》の作曲と『カインド・オブ・ブルー』全般に関するエヴァンスの協力的役割は、長く論議を呼んできた。バンドのメンバー、エヴァンスと親しい友人や評論家は、彼が当然の権利について語るときにみせた苦々しい表情に触れている。たとえば、ペッティンガーによるエヴァンスの評伝のなかで、友人の一人が、『カインド・オブ・ブルー』の多額の印税の一部を分配するよう要求したエヴァンスに対するマイルスの断固たる返答は、わずか25ドルの小切手一枚だったというエヴァンスの話を述懐している。

(略)

エヴァンスはおおいに不満を感じたものの、生涯その問題をとりたてて口にすることはなかった。だが、マイルスはさまざまなインタヴューのなかで、曲を特定することなく、インスピレーションとサウンドに関するエヴァンスの功績が認められるよう努めている。たとえば、1986年には、ベン・シドランにこう語っている。「ビルのピアノに対するアプローチがあのアルバムを際立たせたんだ」

エコー

 セッションには計7本のマイクが使われ、コントロール・ルームのボードを通して、当時の最新テクノロジー、3トラックにミックスダウンされた。さらに、ステレオが急速に普及したことにより、その3トラックのマスターは、ステレオとモノラルの2ヴァージョンに使用されることになる。通常ミックスには、30丁目スタジオの自然な反響音とともにエコーが多少加えられた。

 ジョン・ハモンドのような伝統を重んじるジャズ・プロデューサーは、そうしたスタジオの“トリック”にがく然とした。1953年、ハモンドがニューヨーカー誌に語っている。「1948年ごろからコロンビアはおぞましいエコー・ルームを使ってレコーディングを行い、サウンドをいじくりはじめた。ひとつには、レコード会社がそろいもそろってまやかしのサウンド・エフェクトを求めて血道を上げた背景がある。バンドのすべての楽器をオランダ・トンネル (ニュージャージーとマンハッタンを結ぶトンネル)のなかで演奏しているようなサウンドにすることにいったいどんなメリットがあるんだ?」

 30丁目スタジオでは、長年の試行錯誤が実を結び、1959年にはエコーを微妙にコントロールすることが可能になっていた。フランク・ライコが、『カインド・オブ・ブルー」のサウンド・エフェクトは、「ごくわずかだけ加えられたものだった」と断言する。「30丁目では、ケーブルがミキシング・コンソールから天井の低いコンクリートでできた地下室につながっていた。地下室のサイズは、だいたい12×15フィートで、私たちはそこにスピーカーと高性能の無指向性マイクロフォンを1台ずつセットしていた」

 セッションのサウンドはスピーカーを通して再生され、人けのない部屋で反響させて、マスター・ミックスでセンター・トラックに再度録音された。オリジナルの3トラックのテープを傾聴すれば、たとえばコルトレーンのソロのあいだ、トラックの右側や左側を消し、わずかにエコーを加えた、微妙なエフェクトを聴くことができる。

《ソー・ホワット》

メロディーの着想と趣は、アフリカの民族音楽とアメリカのゴスペルというふたつの具体的な音源に端を発する。マイルスによれば、アフリカの民族音楽は当時のガールフレンド、フランシス・テイラーに紹介されたギニア人のダンサー一行に由来するという。

 「オレたちはアフリカのバレエ団の公演に行った。連中のリズム!連中は5/4から6/8、で次に4/4というふうに変幻自在にリズムを変えるんだ」

 一行はまた、アフリカ特有のスケールを用いて演奏するカリンバ奏者をフィーチャーしていた。

 「オレは、あの晩はじめてフィンガー・ピアノを演奏し、ダンスに合わせて歌うのを聴いた。おい、あれはちょっとしたもんだったぜ」

 ゴスペルは、幼年時代に祖父の農場を訪れたとき、マイルスの胸に刻まれた記憶に基づく。

 「アーカンソーで聴いた覚えがあるサウンドをちょっとつけ加えたんだ。教会から家に歩いて帰るあいだ、みんなゴスペルを歌っていた。オレは6歳だった。あの暗いアーカンソーの田舎道をいとこと歩いた……オレが狙ったのは、あのフィーリングだった」

 マイルスは、ラヴェルやラフマニノフといった現代のクラシック音楽の要素を取り入れて融合させたが、作品の出来は、彼の当初のヴィジョンと多少異なる結果になった。

 「(略)オレはあのサウンドでアフリカのフィンガー・ピアノの音を活かしきれなかった。だがアルバムの大半は、とくに《オール・ブルース》と《ソー・ホワット》は、オレが狙ったとおりのものになった」

(略)

印象的なプレリュードの作者は誰なのだろう?(略)

マイルス自身あるいは。もう“もう一人のエヴァンス”、ギル・エヴァンスによって書かれた公算が高い。ギルが当時、ひそかにマイルスと共作に取り組んでいたことは衆知の事実だった。そして、1か月後のテレビ出演(『ザ・サウンド・オブ・マイルス・デイヴィス』)のために、また、1961年のカーネギー・ホールにおけるマイルスの歴史的なコンサートで起用された21人編成のオーケストラのために、そのプレリュードを再アレンジしたのはギルだった。ギルの未亡人アニタ・エヴァンスも、プレリュードがギルの手によるものと主張する。彼女は夫から、それを書いたことを聞いた記憶があるという。さらに、その疑問をコブに投げかけると、彼は「いかにもギルらしいサウンドだ」と断言した。

マイルスはときにはリズムに乗り、ときには意識的にリズムをはずし、また、リズムのすきまをかいくぐる。(略)

「ビリー・ホリデイはビートに遅れているかと思うと次の瞬間にはぴったりビートに合わせている。ときにはビートでリズム・セクションのなかに食いこむ必要がある。そのたびにバンドをまとめるわけだ」(略)

コルトレーンは、エヴァンスの多彩なアルペジオに刺激され、断片的に効果的なソロを聴かせる。コルトレーンが集中していることは、そのサウンドから伝わる。音階が転換する前に間を置き、インプロヴィゼーションに入るや、いっきにエネルギーを放出する。(略)

[エヴァンスは]最初、ためらいがちである。そしてホーンが音を発すると、一連の多彩な、えもいわれぬコードを響かせ、スタインウェイのソフト・ペダルを用いて音色に暖かみを加える。エヴァンスはソロのエンディングでのみ、強烈で印象的な持ち味をあらわにする。ハンコックが語る。「(略)彼はああいうフレーズ、セカンドを独特に弾くんだ。セカンドをね」

 同時にふたつのノート、つまりルートとセカンドを、あるいはルートとセカンドのあいだの音を弾くことによって、その不協和音で意表をつくのである。エヴァンスは、そうしたコードを次から次に奏でる。「あんな演奏は誰もしたことがなかった。彼はたぶんほかの誰よりもモードのコンセプトにしたがっていた。まったくあれで私の展望が大きく開かれたんだ」

すべてが、ただ“ポン”とはじけたんだ

 クインシー・ジョーンズもまた、『バードランド』のステージを何度か見守り、バンドのレパートリーにおける、新曲のけだるいテンポに注目した。「あれが『カインド・オブ・ブルー』のナンバーのきわだった特長のひとつなんだよ。つまりテンポがね。そのテンポには、まるで催眠術をかけられたような恍惚とさせる作用があった。なんだかわかるかい?ジャンキーのテンポだ。モードの演奏は独特のムードをかもし出すものだ。(略)」

 マイルスは、4月29日、『バードランド』のステージを終えた。1週間後、コルトレーンは『ジャイアント・ステップス』のレコーディングのためにスタジオに入る。(略)

コルトレーンにとって大きな飛躍であり、マイルスのグループを脱退し、彼自身のグループを結成することを予示する、音楽的な自立の宣言でもあった。

(略)

 コルトレーンの一時的な離脱につづき、キャノンボールもすでに一歩、踏み出していた。(略)

 コブがふり返る。「(略)ビルは例のピアノ・スタイル、キャノンボールはファンキーな持ち味、そしてコルトレーンは、ものにしたばかりのスタイルという具合にだ。また、ケリーとチェンバースと私はスウィング・トリオを組んでいたが、共演したいという申し出があとを断たなかった」

 マセロによれば、マイルスがセクステットをこれほど長く統率しえたことじたい、驚異だったという。「マイルスのセクステットのようなバンドを2か月もたせれば奇跡だった。すべてが、ただ“ポン”とはじけたんだ」

 バンドにはさしあたりキャノンボールが残っていたが、コルトレーンの穴を埋めるべきジミー・ヒースは、マイルスのモードに基づく新曲に悪戦苦闘していた。「マイルスははっきりとした指示が出せるから、彼に聞いたんだ。『ちょっと教えてくれ、《オータム・リーヴス》や《オン・グリーン・ドルフィン・ストリート》みたいなトラディショナルな終止形の曲はまったく問題ないんだが、この 《ソー・ホワット》は、その終止形で悩んでしまうんだよな。どうやるんだ?』とね。彼は『ブリッジは黒鍵だけ、それ以外は白鍵だけで演奏すると思って吹けばいいんだ』とこたえた。それはすばらしい分析だった。簡潔にして奥が深い」

『スケッチズ・オブ・スペイン』

のレコーディングは、『カインド・オブ・ブルー』 のワン・テイクによる即興的なアプローチとは対照的なものだった。スタジオ内でのマイルスの会話からもあきらかだった前回のセッションの明るさは、プロデューサーとアレンジャーの完全主義のもと、影をひそめていた。ちなみにプロデューサー、テオ・マセロは、このレコーディングではじめてマイルスのセッションを指揮していた。(略)

[マイルス談]

「『スケッチズ・オブ・スペイン』を完成させたあと、オレは喜怒哀楽の感情が枯れはてて、抜け殼になった。まったく骨の折れるやつをどうにか仕上げると、もうメロディーすら聴きたくもなかった」

 マイルスがレコーディング・スタジオに復帰したのは1年後、ギル・エヴァンスと再び共作に取り組んだのは、それからさらに1年後のことになる。マイルスは、レコーディングの合間をぬってステージ活動をつづけていた。彼は、ライヴ・パフォーマンスを息苦しいスタジオ・セッションの気晴らしとみなしていたにちがいない。(略)

[60年初頭サザーランドでステージを観たウォーレン・バーンハート談]

「なかに入ると、高い本格的な演奏用のステージがあって、それを取り囲むようにカウンターが円を描いていた。(略)カウンターの向こうのイタリア製のスーツを着た小柄なバーテンダーが『オーダーは?』と聞いたから、私はビールを注文し、そこに腰をおろした。すると突然、そのバーテンダーが階段を駆け上がり、トランペットを取りあげるじゃないか。私は『くそっ、しまった、あれがマイルスだったんだ』と思った。なんと彼はコルトレーンの演奏中、カウンターでふざけて客の応対をしていたんだ。当時コルトレーンはソロを45分間、吹きつづけた。彼は決してホーンを目から離そうとしなかった。そして休憩のあいだずっと、厨房に通じるカウンターのそばのソファーにねそべり、ひっそりと練習していた。ささやくような小さな音で。だから、男性用のトイレに行くために彼のそばを通ると、いろんな音階のサウンドが聞こえたものだ」

1972年、キャノンボールのフリージャズへの見解

「(略)彼らをひとくくりにはできない。みんなそれぞれにルーツが違うからね。たとえばマリオン・ブラウンは大学で音楽を専攻し、卒業してからはチャーリー・パーカーのような演奏をしていたが、いまはフリーをやっている。だが、みんながみんな、コルトレーンのように鍛えられたわけじゃない。フリー・ジャズは、コルトレーンと同じくらいの年齢からはじめるべきだし、彼のような修練を積んだうえで演奏すべきだろう。あの種の演奏は若いミュージシャン向きじゃない」(略)

 「いろんなフリーのプレイヤーが好んでモードを演奏した。先輩ミュージシャンのようにコード・チェンジを連結させられなかったからだ。彼らはグルーヴの点では問題ないが、『よし、ここはFマイナー・セヴン、このあとはBマイナーだ」というようなことを考えていない。私がなるほどと思うのは、フリーの連中よりもトーナルとコード・チェンジの両方をこなせるミュージシャンのモード・スタイルの演奏だ。だが、いちがいには言えない。フリー・スタイルのなかにも名手はいる。オーネットはなんだってやれる。しかも、スウィングする。私が言わんとするのは、あくまでも追随する一部の連中のことだ」

オーネット・コールマン

[ジョー・ザヴィヌル談]「『カインド・オブ・ブルー』は、ハートに響くすばらしいアルバムだった。だが、それによって考えかたが変わった覚えはない。その後オーネットが現れると、彼のサウンドは、生きる時代も違えば住む星も違うような気がした。まったく斬新そのものだった」

 マイルスは当初、オーネットの登場にいささか機嫌をそこね、おおいに当惑した多くのジャズ・ミュージシャンの一人だった。オリン・キープニュースがふり返る。「オーネットが出現すると、キャノンボールやジャズ畑の連中は大部分が冷ややかな態度をとった。それは演奏スタイルに加えて、オーネットがまたたくまに評論家の注目を集めたからだ」

(略)

マイルスは、59年のオーネットやその後のコルトレーンのように、ルールブックを投げ捨て、フリー・スタイルを熱狂的に受け入れようとはしなかった。マイルスがメロディーやリズムを無視することはなかった。

(略)

 オーネットが、マイルスのフレージングをダイレクトに否定するような対照的な見解を述べている。「私のフレージングはインプロヴィゼーションであり、スタイルはない。スタイルというものは、フレージングが固定したときに生まれるんだ」

 フリー・ジャズのメッセージが浸透して久しい1969年後期、マイルスはなおも執ようにひとつの音楽の輪郭と基盤を求めた。

 「ある種のスタイルがあっても、やっかいなことをやらかす必要があるんだ。壁やなんかを乗り越えて、ある程度自由にやるということだ。だが、枠組みがある。オレたちは度を越したくはないんだ。そこのバランスが取りづらい」

 後年、マイルスとオーネットの距離はせばまり、最終的には多少のスタイル的な相違にとどまった感がある。ようするに、マイルスとオーネットは、音楽的には対照的だが、それ以上に哲学的には近似するように思われる。彼らはともにジャズのルールや彼ら自身のメッセージを書きかえることに生涯を棒げた。次の会話は個別に語られたものではあるが、言外の意味を補足しあう。

 マイルス:4、5小節のあいだ、キーをはずして演奏したくなるもんだろう。オレがそういう演奏をこわがるもんか

 オーネット:ピッチより高く演奏することもできるし、低くしてもかまわない

 マイルス:オレは、たとえ熟練していても陳腐な常とう手段をいつも使うやつより、ノートをふたつみっつ間違えるやつの演奏のほうが好きだ

 オーネット:私はミスをしかねないと思うから、わきまえて演奏するようになっている

余波:アフターマス

[1986年マイルス談]

「オレがいろんなモードや代用コードを使って、キャノンボールやビル・エヴァンスとやった当時はみんな意欲的だった。だが、そういう活気はなくなっている。いまだにやっている連中もいるが、同じ刺激はない。温めなおした七面鳥みたいなもんで、新味がない」(略)

[評論家ロバート・パーマー談、1969年]「デュアン・オールマンは、当時私が知るかぎり、30分以上のあいだ、ワン・コードのヴァンプでソロがとれる唯一のロック・ギタリストだった。彼は退屈させないどころか、釘付けにした。その彼が私にこう言った。『あの種の演奏はマイルスとコルトレーン、とくに『カインド・オブ・ブルー』からいただいたんだよ。オレはあのアルバムを聴きこんできた。この2、3年、ほかのレコードはほとんど聴いていないぐらいだ』と」

(略)

ドナルド・フェイゲンは、テレビや映画館で流れる、クールでモーダルなヘンリー・マンシーニふうのテーマに『カインド・オブ・ブルー』が反映されているという。

 「60年代初期に、同じコードが長いあいだくり返されるだけだが、じつに雰囲気のある音楽をテレビや映画で聴いたものだ。ああいったスタイルは、『カインド・オブ・ブルー』が出たことによって認知されたんじゃないかと思う。これまで静的な映画音楽が数々作られてきたが、オスティナートがくり返される奇妙なサウンドの《ピンク・パンサー》のような曲は、あのクールでモーダルな音楽を発展させたものだ」

ジェイムズ・ブラウン《コールド・スウェット》

[ピー・ウィー・エリス談]

「セッションの前の晩、ショーのあとにジェイムズがオレを楽屋に呼んで、あのベース・ラインをハミングしたんだ。そこで、シンシナティに向かうバスのなかで、オレたちは例のホーン・ラインを夜どおし考えた。あれはワン・コードのスタイルで、あの2ノートのリフは《ソー・ホワット》のメロディーと完全に一致する。ふと浮かんで、ぴったりだと思ったんだ……Dee-Dum...Dee-Dum。あとでそれがなんだったか思い出した。ただちょっと“ひねった”《ソー・ホワット》だった」(略)

[1989年マイルス談]

「ジェイムズ・ブラウンは好きだ。オレが書いたあのナンバー、《ソー・ホワット》のアイデアは、オレが彼からちょうだいしたか、彼がオレからちょうだいしたかのどっちかだと思う。

 いずれにせよ、60年代後期から70年代におけるジェイムズ・ブラウン特有のファンクのリズムをマイルスが使ったことを考えれば、両者がインスピレーションを与えあったことはあきらかである。トランペッター、ウォレス・ルーニーは、マイルスが死去した年に交わした会話から、その“続編”があったと言う。

 「マイルスは、あの《ソー・ホワット》のリズム・スタイルをもう一度使おうとした。『キリマンジャロの娘』の《フレロン・ブラン》でトニー・ウイリアムスに《コールド・スウェット》のビートを叩かせたいと思ったそうだ。マイルスは私にこう言った、『あのくそったれ野郎ときたら《コールド・スウェット》をひっくり返して演奏したんだぜ!』とね。彼はすごく自慢にしていたんだよ。あれほどヒップなことはないと思っていた。1991年のことだが、彼はまだ、あのリズムにマイッていたんだ」

日本の“オリジナル・マスター”は「第3世代のコピー」!

 80年代初期のデジタル時代の黎明には、不幸な状況が生まれた。(略)ソニー・レガシーの副社長スティーヴ・バコーウィッツが、当時の状況をあきらかにする。

 「50年代後半から60年代には、コロンビアはあくまでもアメリカ国内のレコード会社だった。まだ国際的な音楽企業というレヴェルではなかった。だからフランスや日本の会社がレコードを出したいと言ってくれば、しめたものだった。ライセンスをもつ外国の会社にテープを送るのは、『おい、ついでにあのマイルスのレコードもコピーしてくれ。あした日本に船便で送るんだ』という感覚だった。したがって、外国に送ったテープは、エンジニアがマスターをコピーしたものもあれば、マスターのコピーから音源をとったものもあり、なかにはドルビーがかかったものもあった。そうしてフランスや日本の会社は、手に入れたテープを以後ずっと“オリジナル・マスター”として使うことになった。それは、せいぜいオリジナルの第2、第3世代のコピーだった。1992年には、ニューヨークのダウンタウンにあるタワーレコードで、7種類の『カインド・オブ・ブルー』が売られていた。(略)日本製の24ビットCDは40ドルの値段がついていたが、彼らが使ったマスターは、そもそも60年代につくられた第3世代のコピーなんだ」

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2016-04-28 カインド・オブ・ブルーの真実 このエントリーを含むブックマーク

今回引用したのは最初に翻訳された方から。


カインド・オブ・ブルーの真実

作者: カーンアシュリー,中山康樹,中山啓子

出版社/メーカー: プロデュースセンター出版局

発売日: 2001/09/01

| 本 | Amazon.co.jp

翻訳者と出版社が変わって最近発売されたのが下記の本。


マイルス・デイヴィス「カインド・オブ・ブルー」創作術 (モード・ジャズの原点を探る)

作者: アシュリー・カーン, 川嶋文丸

メーカー/出版社: DU BOOKS

発売日: 2014/09/30

| 本 | Amazon.co.jp

 『ウォーキン』は、マイルスがはじめて個人的な満足感を覚え、それに見合う人気を博したアルバムになった。「あのアルバムはすごかったぜ。なにしろ評論家の連中がよそ見しているあいだに売れはじめたんだからな」

(略)

 マイルスがパリ・ジャズ・フェスティヴァルに招待された1949年には、依然としてまぎれもないファッツ・ナヴァロの影響下にあり、高音域での熱演をくり広げていた。しかしその一方で、マイルスは、自分が決してディジー・ガレスピーやファッツ・ナヴァロのようなテクニシャンになれないことを悟っていた。(略)

[『どうしてオレにはそういう演奏ができないんだろう?』とマイルスに訊かれた]ディジーはこう言った。『ハイノートには耳を傾けないことだ。中音域をじっくり聴くんだ。オレが演奏するコードをコピーすればいい。低めの音域でやることだ』(略)

 マイルスがなによりもまず傾聴していたのは、メロディーだった。(略)

[キャノンボール・アダレイは]「マイルスはトランペットの名手ではなく、ソロイストの名手だ。マイルスを聴いて、突然、基本的なテクニックなど取るにたりないものに思えた。マイルスが違う意味でずばぬけていたからだ。ソロそのものが彼の構想の中心にあり、ソロじたいが作品なんだ」

観客に背を向けるマナーが尊大だと一部から非難

1950年代には、マイルスのように公然と非妥協的な断固とした姿勢をとる黒人男性は希少な存在だった。人種的緊張がみなぎる社会のなかで、マイルスの静かな、しかし決然とした個性は、同胞のアフリカン・アメリカンにとって最良の手本となった。あきらかに、彼が大多数をしめる白人の観客に背を向けることには、象徴的な意義があった。

(略)

ビル・コスビー(コメディアン)がふり返る。「ノース・フィラデルフィアでは50年代、マイルス・デイヴィスにのめりこむことが、一部のティーンエイジャーのステータスシンボルだった。つまり、マイルス・デイヴィスについて語れば“クール”で、マイルスのアルバムをもっていれば“最高にクール”だと思われた。彼はたんなるミュージシャン以上の存在だった」

(略)

ジミー・コブは、1940年代後期、仲間のミュージシャンがマイルスのスタイルを模倣していたことを記憶している。「マイルスのような身なりや立居ふるまいをし、演奏するときにはホーンのかまえかたまで真似る連中がいた。彼が死ぬまで、そんなふうに追随しようとする連中がいた、だろ?」

モード宣言

[1957年12月、マイルスは、セクステットの結成に向けて動きはじめる。]

 1972年、キャノンボールが述懐している。「バンドに戻ったコルトレーンは、なにもかも一変していた。以前やっていた酒やドラッグをいっさいやめて、まるで別人のような人格者になっていた」(略)

 コルトレーンは、心身の健康とともに音楽的力量を高めていた。(略)コルトレーンの音楽的なアプローチは、モンクとの共演を通じて劇的に発展していた。

 コルトレーンが語る。「私は、モンクから感覚的にも理論的にもテクニック的にも、あらゆる点で学んでいることを実感した。私が音楽に関する疑問をぶつけると、彼はいつもピアノに向かって明快なこたえを示してくれた。私は彼が演奏する姿をじっと見守り、問題を解決することができた」

 その夏から秋にかけて、マイルスがなおもトランペット・サウンドに磨きをかけているあいだ、コルトレーンはモンクの助力を得、せきを切るような自由奔放な“シーツ・オブ・サウンド”と呼ばれる演奏スタイルを強固なものにしていた。そして、果敢に探求するマイルスとコルトレーンの、本質的には異なるスタイルがかみ合った結果、深遠な驚くべきサウンドが生まれた。コルトレーンが次のように語っている。

 「バンドに戻ると、マイルスが音楽をさらに展開させ、新しい段階に入っていることがわかった。過去には、コードを多用する、構成に徹した時期があった。彼は“コードのためのコード”に関心をもっていた。だが今度は反対に、コード・チェンジを減らす方向に向かっているように感じた。彼は、自由に漂うようなラインと垂直的なコード進行の方向性をもったメロディーを使っていた。だから、ソロイストには垂直的に、あるいは水平的に演奏するという選択の自由が与えられた。彼のダイレクトなフリー・フローウィングなラインのおかげで、私自身、ハーモニックなアイデアが使いやすくなった」

 当時、ジャズ界に押し寄せていた新しい波“モード”は、スケール(音階)をメロディー・ラインのよりどころとする手法だった。1958年10月、マイルスがナット・ヘントフに語っている。

 「ギルは、《アイ・ラヴズ・ユー・ポーギー》のアレンジで、オレの譜面にひとつのスケールしか書きこまなかった。コードの指示はいっさいなかった。そうすると展開が自由になるんだ。このスタイルでいくと、えんえんとつづけられる。コード・チェンジを気にする必要がないし、メロディー・ラインをさらに活かせるわけだ。メロディーに関してどれほど創作力があるか、みきわめがつくというものだ。コードをベースにしていたら32小節終わったところで使いはたし、それまで使ったコードのかたちを変えてくり返すしかない」

 「いまのジャズには、一連の型どおりのコードから離れようとする動きがあるとオレは思っている。コードはますます減るだろう。だが、それによって無限の可能性が生まれるんだ。クラシックには、このスタイルで長いあいだやってきた作曲家もいるが、ジャズ・ミュージシャンにはめったにいない」

 「(略)ついこのあいだも[JJジョンソンに]ハチャトゥリアンのアメリカふうのスケールを少しばかり聴かせたところだ。ありふれたヨーロッパのスケールとは違うんだ。で、そのあと、メロディーやスケールによって曲を進行させるという話になり、JJが『オレはもうコードを書くつもりはない』って言ったんだ。ジョージ・ラッセルにしてもそうだ。やつの作品はほとんどスケールだ。結局、その変化は肌で感じられるというわけだ」

 それは、モード宣言といえる。ある意味で、モード・ジャズは、音楽を再び簡潔にする手法だった。(略)

従来のコード進行がなく、ソロイストには、独自のメロディー・パターンを即座に創造することが求められた。しかし、ワン・コードで長いソロをとるという発想は、ジャズ・ミュージシャンにとって、まったく無縁のものではなかった。

 ディック・カッツ(ピアノ)が指摘する。「(略)ラテン・ミュージックでも、バンドがひとつのコードにとどまる場合は多い。デューク・エリントンの《キャラヴァン》だって、例のFマイナーにいくまでは、ワン・コードの演奏が12小節つづくんだよ」

 マイルス自身、過去にモーダルなアプローチを試みていた。(略)

 アヴァキャンが回想する。「『ホワット・イズ・ジャズ』というアルバムをレナード・バーンスタインとつくったとき、バーンスタインが《スウィート・スー》のクール・スタイルのヴァージョンがほしいと言ったんだ。(略)[そこで]『実際にマイルスにやってもらおうじゃないか』と提案した。マイルスは、クールとモードの2ヴァージョンを演奏した。あきらかにそのときの演奏が、非常にフリーな、トータル・インプロヴィゼーションにいたる“イントロ”になった。彼は突然、メロディーのコード構成を簡素化しはじめたんだ。おそらくそれが、『カインド・オブ・ブルー』のあのサウンドを生むきっかけになったんだろう」

(略)

[1986年のインタビューでマイルスは]

「みんなクラシックのような方向でやっていた。白鍵の音だけ使うんだ。それがポイントだった。まあ、世界中の建築家がいっせいにフランク・ロイド・ライトと同じような設計をやりはじめたようなものだ」

ビル・エヴァンス

[同じ頃ビル・エヴァンスもモードを試みていたとビル・クロウ]

 「当時、ビルはレニー・トリスターノのような感じだった。だがタイムに関しては、レニーよりアグレッシヴでリズミックだった。なにしろレニーはレイドバックが好きだったからね。ビルはときどきスタイルを変えて、私のベース・ノートを引きたてた。最初は“なんだ?”と思ったが、彼はモードでたわむれていたんだ。演奏していたのは、おそらくブルースだった。私はそのときはじめて、同じコードが曲を通して宙をさまようような、あの“ノー・コード・チェンジ”を耳にしたんだ」

[エヴァンスは]マイルスのような実体験というより、むしろ自分自身の研究をかさねてモード・ジャズに到達していた。(略)マイルスは、ジュリアード音楽院を1年で退学し、ナイトクラブで修業をかさねたが、エヴァンスは正規の教育を受け、クラシックや音楽理論全般の学識をおさめた。そして、マイルスが、50年代中期にビバップからクールやハードパップにいたるモダン・ジャズ探求の波がしらに乗っていたあいだ、エヴァンスは、ダンス・バンドやオーケストラに加わり、ナット・キング・コールのスウィングふうピアノに倣って演奏していた。(略)

[対照的な二人だが]ともにラフマニノフやフランス印象主義派といった現代のクラシックの作曲家を熱烈に支持した。彼らの耳には、ジャズとクラシックは同じ本流に流れ入る支流だった。

 当時マイルスと同棲していたダンサー、フランシス・テイラーは、「私たちがいつも家で聴いていた音楽は、ハチャトゥリアン、ラヴェル、ブラームスなんかだったわ」と言う。(略)[エヴァンスのガールフレンドも]「彼は、いつもクラシック、たとえばラフマニノフやベートーヴェン、バッハを演奏していたものよ。そして、それがいつのまにかじょじょにジャズに変わっていたわ」(略)

彼らは、リリシズムと曲の構成を示唆するメロディー・ラインを追求した。ジャズ・シーンでは耳慣れない、エヴァンスの豊かなクラシックふうの表現は、ルートノートの演奏を避けることによってハーモニーの可能性を広げた。またマイルスは、ひとつのノートを演奏し、それを同時にいくつかのコードに関連させることにより、別の方向から同様の成果を収めた。キャノンボールがジャズ評論家アイラ・ギトラーに語っている。「コルトレーンと私は、マイルスのやりかたを“暗黙の指示”と呼んでいるんだ」

下記セッション収録アルバム


マイルス・デイビス : 1958マイルス+2

アーティスト: マイルス・デイビス

メーカー/出版社: SMJ

発売日: 2013/09/11

Amazon.co.jp ミュージック

[1958年再結成されたセクステットが始動、だが]そこには、ヘロインが暗い影を落としていた。とくにレッド・ガーランドとフィリー・ジョー・ジョーンズの行状、遅刻や金銭上の問題は、解消されていなかった。(略)

 《シッズ・アヘッド》のレコーディングで、マイルスがガーランドの演奏に注文をつける。そのとき、マイルスが投げかけた言葉は永遠の謎だが、ガーランドの平常心を失わせるに足るものだった。憤慨したガーランドはスタジオから立ち去り、やむをえずマイルスが《シッズ・アヘッド》ではピアノを演奏した。その出来事は、すでにマイルスとガーランドのあいだにできていた溝をさらに深めることになる。

(略)

[キャノンボールはマイルスからエヴァンスの感想を訊かれ「彼はすばらしいと思う」と答えた]

 ジミー・コブがのちに語っているように、マイルスは、新しいメンバーを補充するとき、必ずメンバー全員の意見に耳を傾けた。そしてまた、現場に出かけて自分の耳でたしかめることも怠らなかった。エヴァンスが、ソロで出演していた『ヴィレッジ・ヴァンガード』のステージをふり返る。「ある晩、演奏中に目をあけてふと見上げると、ピアノの端に耳を傾けるマイルスの頭があった」

(略)

[マイルス談]「ビルのピアノには“静かな情熱”があった。オレはそれが気に入った。やつのアプローチ、やつのサウンドは、水晶のように澄んでいた。滝から流れ落ち、きらきら光る清水のようなノートだった。レッドの演奏はリズムが前面に出たが、ビルはそいつをひかえめにしていた」

 マイルスはピアニストに決着をつけると、フィリー・ジョー・ジョーンズに注意を向けた。(略)

[ツアマネも兼ねてたキャノンボール談。ギャラを前借りしたしないで揉め]

彼は『まあ、ボストンではオレ抜きで演奏するんだな』と返した。私たちがボストンヘ行くと、マイルスは『ジョーはこないだろうな』と言った。そこで私は『ジミー・コブを呼ぼう』と提案した」

(略)

 5月26日、マイルスの32歳の誕生日に、セクステットは、エヴァンスとコブをバンドに迎えてはじめて30丁目スタジオに入り、セッションを行う。彼らがレコーディングしたのは、《フラン・ダンス》 《オン・グリーン・ドルフィン・ストリート》 《ステラ・バイ・スターライト》、そして《ラヴ・フォー・セイル》の4曲だった。

(略)

「ポール・チェンバースとジミー・コブは演奏を抑えていなければならず、苛立っていた。だから、どこかで思いきりスウィングしたいと思ったんだ。マイルスはふり向き、《ラヴ・フォー・セイル》だ』とだけ言うと演奏をはじめた」。レコードからも、ようやくスウィングするチャンスを手に入れたバンドの解放感が伝わってくる。

 エヴァンスは、当初からジレンマに陥った。彼は、ピアノの音色を抑制する能力、卓越した精度が買われて起用されたと捉えていた。事実、マイルスは満足を覚えた。そして、新しいバンドのサウンドと創造性に魅了された。だが他のメンバーは、この新しいピアニストに、少なくともリズム・セクションの一端を担うことを求めた。

(略)

ビルは、ほかの部分ではすばらしかったが、ハードな演奏は無理だった」(略)

キャノンボールは、彼のソロの背後でガーランドがみせたドラマティックな演出をなつかしんでいた。

 エヴァンスは、たしかにバンド内の彼のスタイルに関する、ある種の不満を理解していた。だが、彼にとって最大の試練は、グループのなかでただ一人“白人”として置かれた立場にあった(略)

キャノンボールがふり返る。「マイルスが、音楽以外のことでビルに干渉し、苦痛を与えた。彼はビルをもてあそんで、“ホワイティ”(白んぼ)と呼んだものだ」

 マイルス自身、エヴァンスに過酷な試練を与えたことを認めている。「オレはこう言ったんだ。『黒人に受け入れられるようにしろ。オレの言う意味がわかるか? おまえがバンドをぶちこわすことになるんだからな』ってな」

 結局のところ、エヴァンスは、白人に対する黒人の強い偏見にさらされ、それを黙殺することができなかった。

[11月、ツアーでの黒人客からのプレッシャーなどもあり、エヴァンスは脱退を申し出る。再度ガーランドを雇うも、遅刻癖は変わらず、ウィントン・ケリーが採用される]

(略)

[デイヴ・リーブマン談]「マイルスは私に、『オレにとって音楽的な道を開いたのはビルだった』と言ったことがある。ビルは、彼にとって特別な存在だった。

次回に続く。


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2016-04-26 私の1960年代 山本義隆の丸山眞男批判 このエントリーを含むブックマーク

丸山眞男を批判しつつも、「現代日本はデモクラシーが至上命令として教典化される危険が多分に存する。それはやがて恐るべき反動を準備するだろう。」といった主張は評価していると著者。


私の1960年代

作者: 山本義隆

メーカー/出版社: 金曜日

発売日: 2015/09/25

| 本 | Amazon.co.jp

丸山眞男批判

私は69年1月に逮捕状が出た後、もぐっているときに丸山批判のようなものを書きました。(略)

68年の東大闘争の期間中、丸山眞男が東大当局にたいして何か言うかと思って注目していたのですが、彼は何も言いませんでした。おなじように見ていた人は、少なくなかったと思います。教養学部の助教授・折原浩が8月に公表した「東京大学の死と再生を求めて」には書かれています。

 かつて「無責任の体系」を鋭利に分析され、「不作為の行為」について語られた、わたしの最も尊敬する教授がここにいたってなお沈黙を守っておられることは、東京大学の退廃を悲痛に象徴している。

明記されていませんが、この「教授」が丸山眞男を指すことはいわずもがなでしょう。そして丸山眞男が闘争について一度だけ発言したのは、11月の文学部の学部長にたいする無期限団交にたいする「理性の府としての大学にあるまじき行為であるのみならず、なによりもまず争う余地のない人権の蹂躙であります」と振りかぶった仰々しく、しかしかなり粗雑な内容の声明に、「法学部教授」の肩書きをつけてほかの文学部や法学部の何名かと連名で署名したときです。

 「おいおい、学生の人権はどうでもいいのか」と半畳を入れたくなりますが、それはともかく、私はその時、丸山眞男は外に言っていることと学内でやっていることが違うじゃないかというのが一番の印象でした。たとえば、彼が以前に批判した「超国家主義」と言われるかつての大日本帝国の無貴任きわまる支配体制などとまるでおなじようなことが東大でおこなわれているわけですが、それにたいしては、何も言いません。他方で、文学部の学部長追及闘争にたいする彼らの批判は、日本の権力あるいは権力側ジャーナリズムがさまざまな反体制運動を批判してきた論調とまったくおなじであり、それこそこれまで丸山が批判してきたものそのものではないのか、私はそういう形の批判をしたのです。一口で言うと丸山眞男のダブルスタンダードを批判したわけです。

 それからずっと後になって、保釈になって大学に戻ってきたとき、若い学生に言われました。「山本さん、あれではダメです。ああいう批判ではダメです。……丸山眞男のやっていることはあの人物の思想から出てきたと言わなくてはダメです。彼の思想がダメだからしてああいうことしかできないのだと、そういうように根本的に彼の思想そのものを批判しなくてはいけない」というわけです。私は考えました。そういう理屈は大変よくわかるけれども、どっちが丸山眞男を高く買っているだろうかといえば、その学生のほうが高く買っているように思われます。

 つまりその学生は、丸山眞男は思想と行動が一貫した人物と捉えた上で批判しろと言っているわけです。それにたいして私は、ああ丸山先生も東大の中では法学部長との個人的な関係、同僚との関係や大河内一男や文学部の教授との交友関係、そういうのを慮って結局そういうしがらみの中で生きているのだと、はっきりいえば、東大は居心地がいいところなのだな、と思ったのです。いわば、普通の人だということなのです。

 今でもたまに読むと、丸山眞男の永続的市民革命の主張など、いいこと言っていると思います。死後に公表された彼の手記には書かれています。

 デモクラシーが生々した精神原理たるためには、それが絶えず内面から更新され、批判されなければならぬ。デモクラシーがこうした内面性を欠くとき、それはひとつのドグマ、教義として固化する。かくしてそれはファシズムヘの最も峻厳な対立点を喪失する。現代日本はデモクラシーが至上命令として教典化される危険が多分に存する。それはやがて恐るべき反動を準備するだろう。デモクラシーは決して理想乃至善の代名詞ではない。[丸山眞男『自己内対話―3冊のノートから』14-15頁]

(略)

1954年の日記に「日本の支配階級がデモクラシーを許容したのは、最初から革命にたいする安全弁としてであった。だからデモクラシーが革命的である間は日本に土着せず、日本に土着したかぎりにおいてデモクラシーは保守的となった」と書き記した丸山は、安保闘争の直後、1960年8月に語っています。

 社会主義について永久革命を語ることは意味をなさぬ。永久革命はただ民主主義についてのみ語りうる。なぜなら民主主義は人民の支配−多数者の支配という永遠の逆説を内にふくんだ概念だからだ。多数が支配し少数が支配されるのは不自然である(ルソー)からこそ、まさに民主主義は制度としてではなく、プロセスとして永遠の運動としてのみ現実的なのである。[『自己内対話』42、56頁。丸山眞男集第四巻240頁]

 さらに1989年には「民主主義というのは理念と運動と制度の三位一体で、制度はそのうちの一つにすぎない。理念と運動としての民主主義は、何十年も前にいったことをくりかえすのは気がひけるけれども、“永久革命”なんですね」と、丸山はあらためて認めています。

 率直に言って現在の私は、丸山の民主主義のこの見方にかなり共感を覚えます。

(略)

[機動隊導入直前、丸山が加藤一郎総長代行にあてた明治新聞雑誌文庫保護を要請する手紙を紹介して]

 こういう話を「美談」と読む人もいるでしょうが、しかし、すぐにでも機動隊が私たちに襲いかかろうとしているあの69年1月の時点で、丸山先生は学生よりも古新聞を大切にしていたのかと、嫌味のひとつも言いたくなります。(略)

[ばかもの貴重な歴史資料だぞと言うのであれば]

その「貴重な資料」をひとつの大学のひとつの学部が独占的に所有するようなことをせずに、誰でもがアクセスできるように、国会図書館のような公共図書館に寄贈し、またコピーなりマイクロフィルムに複製して各大学の図書館に配布しておくべきではないのでしょうか。(略)

[在野で30年、科学思想史を研究した際、資料の在り処を探し出しアクセスすることに相当苦労した]

私たちの納めている税金で成り立っているすべての国立大学の蔵書が国民に解放されていて、誰でもが自由に使えるのであればどれほど助かるであろうにと、つくづく思ったものです。(略)

[著者は]1990年の頃に何年もかけて、東大闘争のビラ等の資料全5000点あまりを蒐集し、その「東大闘争にかんする唯一の一次資料」、いまでは掛け値なしに「世界に一部しかないもの」を、誰でもその気になれば閲覧することができるように、ゼロックス・コピーでハードカバー製本、全23巻(別巻5巻)の『東大闘争資料集』として、マイクロフィルム3本とともに国会図書館に収めました。外国の研究者がそれを利用したという話も仄聞しています。そしてさらに、そのマイクロフィルムを大原社会問題研究所にも寄贈し、また、まさに世界に一部しかないその数千点の資料原本を、マイクロフィルムとともに、千葉県佐倉にある国立歴史民俗博物館に寄贈しました。もちろんそのためには、相当の労力と時間を費やしましたし、またそれに要した経費は相当の額になりますが、すべて私の自腹です。

 そういったことを考えると、資料を守るために丸山先生が資料室に何日か泊まりこんだという話は、素直に「美談」とは受け取れません。


自己内対話―3冊のノートから

作者: 丸山眞男

メーカー/出版社: みすず書房

発売日: 1998/02/01

| 本 | Amazon.co.jp

廣松渉、ちょっといい話

 廣松さんと知り合ったのは、大管法闘争の処分撤回闘争の過程です。1963年の1月頃、文学部の校舎で私がタテカン(立て看板)を作っているとき、通りかかった大学院生が、タテカンを作るときには釘は少し曲がっているものを使ったほうが抜けにくく、したがって看板が壊れにくいと教えてくれたのです。50年代の活動家という雰囲気をもっていたその人物とは、その後キャンパスでなんどか顔を合わす機会があり、二度ほど雑誌論文の別刷りを手渡されたことがありました。その論文の著者名が門松暁鐘、哲学者・廣松渉の青年時代のペンネームです。廣松さんから釘の打ち方を教わったのは、私ぐらいかもしれません。

 保釈になってしばらくして、なにかの機会に廣松さんにお会いしたときに、山本君、あなたは立場上、今後いつまでも注目され、いろんな人からいろんなことを言われ、大変でしょうけれど、ひとつだけお願いしたいのは、評論家のようなものにはならないでください、というようなことを言われました。(略)後で、廣松さんのあの忠告は、まともに学問をやりなさいという意味ではなかったのかと、考え直しました。私にこんなような忠告をしてくださったのは、廣松さん一人ですが、現在それを非常に有難く思っています。

回想はこんな感じ。

20日の午前零時過ぎ、衆議院で抜き打ち的に会期延長と改定安保条約の自民党単独の強行採決がありました。安保のこのような形の採決は自民党内にも知らされていなかった自民党内岸フラクションの独走、一種のクーデターで、マスコミで「岸の暴挙」と報道された一件です。その日私は、寮の前で西部邁さんが熱烈なというか悲壮な感じのアジ演説をおこなっていたのを聞いています。そしてその日、多くの学生が自発的に国会に向かいました。

安保闘争時のブントの指導部は、国民会議内部での各団体間の姑息な腹の探りあいや主体性のない凭れあいにうんざりしていたのでしょう。そういう意味では、いくつもの党派や小集団が乱立していた1970年代の初めの頃、何人かで深作欣二監督『仁義なき戦い 代理戦争』を見に行ったあと、身につまされるなと語り合ったことを思いだします。そのあとで長崎浩さんに会ったら、やはり見ていたようで「あれは政治学の教科書だ」と言ってました。

60年安保闘争の時に教養学部の自治委員会や代議員大会でアジっていたのは、今では哲学者で有名な加藤尚武さんと日本近代史の研究者である坂野潤治さんです。

2016-04-24 なぜ国々は戦争をするのか ベトナム、ユーゴ このエントリーを含むブックマーク


なぜ国々は戦争をするのか 上

作者: ジョン・G・ストウシンガー,等松春夫,比較戦争史研究会

出版社/メーカー: 国書刊行会

発売日: 2015/10/27

| 本 | Amazon.co.jp

ベトナム戦争

 リンドン・ジョンソンは負けられないと思っていたため、その段階でもまだ北ベトナムに爆弾を落とし続け、さらに兵士を送り込み、死に追いやっていた。彼は米国がベトナムで戦うのは、私心が無く理想主義的な理由によるものなのだと信じることによって自己防衛をしていた。(略)ベトナムにおける戦争は、最終的には堕落した十字軍と化してしまった。

 ホーチミンは、毛沢東の操り人形に過ぎないというジョンソンのイメージとは大きく異なる人物であった。事実、この北ベトナムの指導者は1920年にフランス共産党を設立した一人でもあり、老齢のボルシェヴィキだったのである。そして彼は共産主義者としては毛沢東よりも古く、また生まれつき個性的な容貌をしていた。彼は共産主義者であると同時にベトナム・ナショナリストでもあった。デイヴィッド・ハルバースタムは彼のことを次のように描写した。「部分的にガンディー、部分的にレーニン、全体としてはベトナム人」。1954年にディエンビエンフーでフランスに勝利した後、ホーはベトナム人からの畏敬の念のみならず、第三世界全体において特別な尊敬の念を勝ち取っていた。毛沢東は単に、国民党政権というもう一方の中国人の陣営を打ち破ったに過ぎない。しかしホーは強力な西洋国家に打ち勝った人物であった。

 しかしながら、ホーチミンの最も特徴的な資質は、買収されないことであった。ベトナムの指導者たちは、ある程度安定した地位につくと必ず西洋的になり、ベトナム人らしさが減少し、金と権力によって腐敗していった。対照的にホーチミンは普通のベトナム人であり続けた。彼は高い地位に上がれば上がるほど、権威の装飾から目を背けるようになっていった。彼は記念碑、元帥の軍服、将軍の星の階級章を遠ざけ、常に質素な軍服を好んで身にまとっていた。ジョンソンが嘲笑した「黒いパジャマ」は、実際には彼の強さの源であり、彼を愛し、彼に心服した小作農民たちとの親密さを象徴するものであった。(略)

ソヴィエトの共産主義者たちは彼の強さを認識していた。ベトナムの共産党はスターリンの時代ですら、少しも粛清されることなく生き残ったのである。ホーチミンのリーダーシップには、スターリンですら干渉できなかった。

(略)

[晩年、半生を総括してジョンソンは言った]

「俺は偉大なる社会と幸福な結婚をした。その後、ベトナムという名前のあばずれ女がやってきて、すべてを台無しにしやがったのさ」。

(略)

 ベトナムに関する答えの出ない歴史的な質問として、おそらく次のようなものがある。早期に共産主義が勝利してしまうのと、戦争を戦い抜くことと、どちらの方が犠牲が少なかったであろうか?(略)

結果としてベトナムはより早い時期に共産主義体制になっていたかもしれない。しかしその共産主義は、モスクワと北京の両者に対する強烈な独立精神を含む独特なナショナリズムと結合しており、ティトー主義の一形態と言えるものであった。米国は、そのような結果とならば確実に共存できたはずである。そのような結果を遅延させることに、五万八千の水兵と三百万のベトナム人の生命と千五百億ドルの戦費が釣り合うとはとても考えられない。

(略)

共産主義国として残ったベトナムは、米国との貿易を奨励し、ホーチミン市は新たなビジネスの機会を求める米国人で溢れた。

(略)

 ロバート・S・マクナマラに次いでベトナムの悲劇に最も大きな影響を与えた者が、ジョンソン大統領の政策顧問を勤めたマクジョージ・バンディであったことに疑いの余地はない。バンディは戦争を支持しただけではなく、米軍が五十万も展開するに至るまでのすべての紛争のエスカレーションを支持していたのである。

(略)

[30年後悩む]バンディは次のような走り書きをしていた。「ハト派は正しかった」「戦うべきではなかった戦争」「私は大いなる失敗に加担していた」「状況の認識、政策の提言、計画の遂行の面で過ちを犯した」。

第5章 サラエヴォからコソヴォへ――ヨーロッパ最後の独裁者の戦争

ティトーはこのような民族的かつ宗教的な不協和音を外交手腕と、場合によっては暴力により管理していた。彼の長い治世を通じて、その指導力は疑問の余地なく維持されていた。彼の「臣民」が、彼の描くユーゴスラヴィアの理念に忠誠を保っていた間は、自由に旅行し、共産圏では異例の経済的繁栄を謳歌し、スターリン、フルシチョフ、ブレジネフらを鼻で引き回すという、ソ連に力があった当時としては小さからぬ特権を享受していた。

 ティトーの死後、ユーゴスラヴィアという火山は、たちまち溶岩を吹き始めた。それがコソヴォのセルビア人自治区から始まったのは、驚くには当たらない。(略)

当時のユーゴ大統領イヴァン・スタンボリッチは宥和的な人物であり、アルバニア人との対立を忌み嫌った。(略)自分の代わりに25年来の友人で目をかけていた若いスロボダン・ミロシェヴィッチを派遣した。スタンボリッチは彼に「慎重に、冷静に」と助言した。(略)

 スロボダン・ミロシェヴィッチは第二次世界大戦を通じて、死と裏切りの影の中で育った。両親は共に自殺している。彼にとっては愛妻のミラとセルビア民族主義の大義が救いであった。(略)

ミロシェヴィッチはコソヴォ市庁舎のバルコニーに立ち、セルビア人たちに投石するアルバニア人たちを見た。「誰も諸君に挑戦してはならないのだ」と彼は叫んだ。「ここは諸君セルビア人の土地だ。諸君の家があり、思い出がある。諸君の先祖と子孫のために、ここにとどまらねばならない」。セルビア人たちは「スロボ、スロボ」と気勢を上げ、アルバニア人たちを攻撃し始めた。アルバニア人たちは散り散りになって逃げ、ミロシェヴィッチはベオグラードに戻ったが、もう以前の彼ではなかった。ユーゴスラヴィアの共産主義者は、セルビア民族主義者に変容した。スタンボリッチは「ミロシェヴィッチはコソヴォで変わった」と、首を振って嘆いた。彼の心配は的中し、六ヵ月後にスタンボリッチは親友の手で大統領職を追われることになったからだ。

 ミロシェヴィッチは次第に、ユーゴスラヴィアで最も人目につき、最もダイナミックな政治的人物になりつつあった。彼以前のデマゴーグたちと同様、ミロシェヴィッチも大衆の動員という武器を用いた。

(略)

次の課題は、ユーゴスラヴィア最小の共和国モンテネグロだった。(略)セルビア人の支持者はモンテネグロの中枢深くに入り込み、おまけにミロシェヴィッチはモンテネグロ出身だった。ここにいたって彼の力はセルビアの国境を越えた。(略)モンテネグロを支配下に置いたことで、ミロシェヴィッチはティトー後のユーゴスラヴィアの正統な首班を決める選挙において、票の半分を掌握した。(略)1989年、スロボダン・ミロシェヴィッチは連邦の最も強大な政治的存在であった。

セルビア人による長いサラエヴォ包囲

「このヨーロッパの都市はカルタゴのようにゆっくりと消滅していく。ただし今回は、観客とビデオカメラの前で」。これは、ラドヴァン・カラジッチとその軍事的な片腕であるラトコ・ムラジッチが熟考の上で採用した戦略だった。サラエヴォがメディアの注目を集めるかげで、二人はボスニア全土で容赦ない「民族浄化」政策を推し進めていった。

(略)

 ミロシェヴィッチがロンドンにいる間、その配下のカラジッチとムラジッチは、ドリナ峡谷の愛すべき都市スレブレニツァヘの圧力を強めていた。(略)

「スレブレニツァの全イスラーム教徒は、降伏するか、町を退去せよ。さもなければ二日以内に町を攻略する」。市のUNHCR指導者は、深い自己嫌悪とともに屈服した。「三千人の死体よりは三千人の難民の方がましだ。われわれは彼らの命を救わねばならない」。彼は、力なくそう話した。このようにボスニアにおけるもっとも広範な「民族浄化」は、皮肉なことに国連の手で成し遂げられたのだった。

(略)

国連安保理は、古典的な泥縄対策として、スレブレニツァ、トゥズラ、ジェパ、ゴラズデ及びサラエヴォを「安全地帯」にすると宣言した。誤称という言葉では穏やか過ぎる。そこは「安全地帯」どころか、世界で最も危険な場所だった。セルビア人に「浄化」されたイスラーム教徒の難民が大勢、ボスニアのクロアチア人地区で、又はクロアチア全体で、隠れ場所を探していた。このことが、イスラーム教徒とクロアチア人との絶望的な戦闘を招いた。もちろん、ムラジッチ将軍は大喜びだった。彼は上機嫌で、「連中が潰し合うのを見届けたうえで、両方とも海に叩き込んでやる」とコメントした。

 1994年2月5日、サラエヴォの市場で爆弾が爆発した。それは、手をこまねいていた国際社会が目を覚まして介入する、最後の機会だった。

(略)

 イゼトベゴヴィッチ大統領は、ガーリ国連事務総長に対して絶望的な手紙を出している。「安全地帯と呼ばれる場所は、世界で最も危険な場所です……もしゴラズデが陥落したら、責任を取って国連事務総長を辞任することをお勧めします。あなたにできるのはそれだけです」。(略)

 ガーリ事務総長からの反応はなかった。彼がサラエヴォを訪れたのは1992年12月31日の一度だけであり、彼はそのとき「あなたたちの苛立ちはよく解る。しかし、世界にはもっとひどい状況の場所が十ヵ所はある……なんならそのリストを提供できる」とたしなめて、サラエヴォ市民を唖然とさせた。(略)テキサスから来た献身的な支援活動家のフレッド・キュニィは(略)「もし1939年に国連があったら……われわれはいま皆、ドイツ語を喋ってるだろうさ」と吐き捨てた。

(略)

 最新の和平案は、米英露仏独の五カ国からなる「連絡会議(コンタクト・グループ)」から提案された。(略)

ミロシェヴィッチは、提案は受諾できないとするカラジッチとムラジッチを説得し、コンタクト・グループとの折衝では柔軟な姿勢を装った。案の定、ボスニアのセルビア人二名は激怒し、見事にミロシェヴィッチの罠に落ちた。ミロシェヴィッチが平和構築者として現れたとき、彼らは血に飢えた戦争屋にしか見えなかった。ミロシェヴィッチはゴラズデ陥落以降、カラジッチとムラジッチの役目は済んだと結論しており、彼らには退場願って自分がスポットライトを浴びる時だと考えた。しかし彼の動きは、ボスニアのセルビア人の目には裏切りに映った。政治的ライヴァルを除くために、ミロシェヴィッチは、戦闘組織としてのセルビア人勢力を意気阻喪させてしまった。これは致命的な失敗であった。

(略)

 20世紀の戦争愛好家に戦争の機会がめぐって来たとき、彼らが示したのは自国民を無視することだった。ヒトラーは1945年、ナチが炎の中で滅ぶ時「ドイツは私に値しない!」と絶叫した。サダム・フセインは1991年、多国籍軍に自軍が地上戦で大敗しているとき、その激情をイラク国内のクルド人シーア派の少数派にぶつけた。そしてスロボダン・ミロシェヴィッチは、クロアチアとボスニアを追われ、1996年にベオグラードの選挙に敗れたさなか、コソヴォから百万のアルバニア系住民を追放することでセルビアにおける権力を奪取しようとした。(略)

 ミロシェヴィッチが軍事的敗北の後に計画した、コソヴォのアルバニア系住民に対する「民族浄化」こそが蛮行の中核であり、ボスニア紛争で行われたそれなど予行演習のようなものだった。ただ思い返してみると、78日間におよぶNATO軍による空爆を経てミロシェヴィッチが屈服を余儀なくされ、一世紀にわたる蛮行の連続で感覚が麻痺してしまっていた国際社会は、ようやくミロシェヴィッチの政策の悪辣さと規模の大きさに気付いたと言えよう。

(略)

ミロシェヴィッチがヒトラーを真似しなかったのは、アウシュヴィッツのガス室だけであった。

(略)

 NATO軍による空爆の発案者が、幼少期をホロコースト時代のセルビアで過ごした一人の米国人であったことは、驚くことではない。マデレーン・オルブライトは、チェコスロヴァキアの外交官だった父ヨセフ・コーベルが第二次世界大戦中に駐ユーゴスラヴィア大使を務めていたため、少女時代の二年間をベオグラードで過ごした。国務省に入った後、彼女は自身の一族の何人かはユダヤ系で、ナチス政権下で殺害されたことを知った。1998年にミロシェヴィッチがアルバニア人の迫害を始めたとき、オルブライトの天性が前面に出るようになった。「歴史が我々を見ている」と彼女はNATO外相会議で語った。「まさにこの部屋で、我々の前任者はボスニアの惨状に手をこまねいていた。もし我々が同じことをしたら、歴史は我々を許さないだろう」。英仏の大使が、セルビア人勢力を脅す表現を和らげるよう提案すると、オルブライトの補佐官ジェイミー・ルービンは受け入れるべきだと彼女にささやいた。彼女は「我々は今どこにいると思っているの。ミュンヘン?」と切り返した。彼女は倦まず弛まず、ときに英外相を説得して、動揺する諸国の外相たちを引っ張った。誰もミロシェヴィッチに不鮮明なシグナルを送ることは認められなかった。彼女があまりに強硬なため、NATO各国では空爆を「マデレーンの戦争」と表現した。おそらく幼少期にヒトラーから、あるいはスターリンから逃れた者にとっては、この戦争は個人的な使命になる。

2016-04-22 私たちはどこまで資本主義に従うのか このエントリーを含むブックマーク

チラ見。


私たちはどこまで資本主義に従うのか―――市場経済には「第3の柱」が必要である

作者: ヘンリー・ミンツバーグ, 池村千秋

メーカー/出版社: ダイヤモンド社

発売日: 2015/12/11

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法人を警戒したリンカーン

 アメリカ社会のアンバランスの種子は、独立革命時にすでに蒔かれていた。アメリカ独立革命は、民主主義を生んだというより、きわめて個人主義的な民主主義が生まれるきっかけをつくったというほうが正確だ。(略)

自分たちのつくった憲法に「抑制と均衡」の仕組みを盛り込んだ。そうやって行政府と立法府と司法府を互いに牽制させることにより、政府の力は抑制されたが、私人と民間組織の力を抑制する仕組みは設けられなかった。

 そのおかげでアメリカは繁栄を遂げ(略)[他の国も]アメリカを模倣するようになった。

 しかし、このモデルは、社会のバランスがどうにか維持されてはじめて機能するものだった。私人と民間組織の力が暴走しないことが前提だったのだ。そのための歯止め役を担ってきたのが、法律や規制をつくる政府と、社会規範を維持するコミュニティだった。

 近年のアメリカでは、政府と地域コミュニティが弱体化し、社会のバランスが失われている

(略)

トーマス・ジェファーソンとエイブラハム・リンカーンは、法人を非常に警戒していた。ジェファーソンは、「豊富な資金をもつ法人が君臨する貴族政が出現しないように……その芽を摘まなくてはならない。法人はすでに、わが政府の力を試そうと挑みはじめている」と警告した。リンカーンは、南北戦争により「法人が王座に就き」「一部の人の手に(富が)集中し……共和国が破壊されるのではないか」と恐れ、「神よ、私の不安が的はずれなものであると立証してください」と祈った。しかし、祈りは聞き入れられなかったようだ。連邦最高裁判所が法人に自然人と同等の権利を認める判決をくだしたのは、この22年後のことである。

「グローバル企業のための民営化された司法制度」

 近年締結される二国間貿易協定では、民間企業が主権国家を特別の仲裁裁判所に提訴できる制度を盛り込むケースが多い。

(略)

大手たばこメーカーはこの制度を利用して、貧しい国々を脅したり脅迫したりすることで、国民の喫煙を抑制するための法規制を撤回させてきた。

(略)

ある製薬企業にいたっては、「カナダの特許法の修正まで求めてきた」という。

(略)

[ジョージ・モンビオットはガーディアン紙の記事で]

 裁定をくだす裁判所には、通常の裁判所のような権利保護の仕組みがまったくない。審理は非公開。裁判官はビジネス専門の弁護士で、多くの場合、訴訟を提起した企業と同種の企業を顧客にもっている。裁定によって影響を受ける市民とコミュニティに発言の権利はない。上訴の制度も存在しない。

 ある非政府組織(NGO)は、この仕組みを「グローバル企業のための民営化された司法制度」と呼んだ。この種の仲裁裁判所で裁判官を務める人物の一人も、「どうして主権国家がこのような仲裁裁判制度を受け入れたのか、いまだに理解に苦しむ」と言っている。

「代表あって課税なし」

1952年のアメリカでは、すべての税収の32%を企業が納めていたが、2010年、その割合は9%まで減っている。独立革命のとき、独立派は「代表なくして課税なし」というスローガンを掲げた。今日のアメリカでは、大企業に「代表あって課税なし」が認められている。

 アンブローズ・ピアスは1906年、有名な『悪魔の辞典』の原形となる書籍を出版したとき、「企業」をこう定義した――「個人が責任を負わずに、利益だけ手にするために考案された独創的な仕組み」。

自由企業が自由な人々の民主主義を乗っ取っている

 経済学者の論理では、コストを負担できるなら、誰がなにをしようと自由だとされる。大量のガソリンを消費する車に乗ってもよいし、使いもしない品物を買い込んでもよい。近くに飢えている人がいるのに、暴飲暴食を繰り返してもよい。需要と供給の法則に任せておけば、問題はおのずとすべて解決すると考えるのだ(空腹に苦しんでいる隣人に面と向かって、そんなことが言えるのだろうか)。

(略)

経済学理論の二つの大きな礎石――コストを負担できるなら、なんでも消費してよいという考え方と、外部性の害を他人に押しつけてもよいという考え方――の下の地中で、実際になにが起きているのかを直視したほうがよい。

(略)

ゴールドマン・サックスは、再生アルミニウムを倉庫に蓄え、それを倉庫間で移動させるだけで、3年間に50億ドルを儲けたとされる。こうした行為を合法的な腐敗と片づけるのではなく、明確に詐欺や窃盗と位置づけるべきではないか。

(略)

資本主義が勝利し、「歴史の終わり」が訪れたとされている。しかし、共産主義体制のロシアで共産党官僚たちが「プロレタリアート独裁」を乗っ取ったように、今日の資本主義体制では、自由企業が自由な人々の民主主義を乗っ取っている。共産主義も資本主義も、一部の人や組織に不当な特権を与える仕組みでしかないのだ。

「バランスの取れた文明的な自由」の重要性

 カナダの法律家ポール・ビジオーニは、2005年に辛辣なエッセーを発表し、今日のアメリカの状況と、1930年代にドイツとイタリアでファシズムが台頭した状況の類似点を指摘している。

 ビジオーニは当時のドイツとイタリアについて、「市民の犠牲の上で大企業が好き放題振る舞っていた」こと、ファシズムが登場する前に(経済的な)自由民主主義が存在し、経済的な力が一部の層に集中して、それが政治権力に転換していたこと、実効性のある反トラスト法が存在しなかったこと(「経済学者と産業界が法規制ではなく自己規制を主張し続けた点は、奇妙にも今日とよく似ている」と、ビジオーニは指摘している)、大企業の税が軽減されたこと、中流階級が「激しく痛めつけ」られたこと(ヒトラーは中流階級を「容赦なく打ちのめす」一方で、この層から熱烈な支持を受けていた)

(略)

 今日の社会は、民主主義が発展しているので、このようなことは起こらないと考える人は多い。しかし、ビジオーニはそうした楽観論に異を唱えた。楽観が自己満足を生めば、社会のシステムがいつの間にか歪んでいく危険があるというのだ。

 ファシスト独裁体制が生まれる道を開いたのは、20世紀はじめの自由放任型資本主義の時代に、誤った自由の概念が絶大な影響力をもったことだった。当時の(経済に関する)自由主義者たちは、無制約の個人的自由と経済的自由を要求し、それが社会にどれだけコストを生み出そうと頓着しなかったのである。そうした無制約の自由は、文明的な人間にふさわしいものではない。それは、野生のジャングルの世界における自由だ。……このような自由の概念は、すでに力をもっている人たちがさらに富と力を増やすことを全面的に肯定し、それ以外の人たちがどんなに悲惨な状況に身を置くことになっても問題にしない。国家の力を使ってその「自由」を制約しようとすれば、20世紀はじめの自由放任型の自由主義者たちから非難された。

 ビジオーニは、「バランスの取れた文明的な自由」の重要性を訴えて、このエッセーを締めくくっている。

2016-04-20 ティーパーティ運動の研究 憲法保守とは このエントリーを含むブックマーク

なんか読む気しねえという人は、デカ字のとこだけで済ませるといいかも。


ティーパーティ運動の研究―アメリカ保守主義の変容

作者: 久保文明,東京財団・現代アメリカ研究会

出版社/メーカー: エヌティティ出版

発売日: 2012/01/16

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chapter2 ティーパーティ運動とインスティテューションの崩壊  中山俊宏

 もともとアメリカにおける保守主義運動は共和党内反乱軍だった。1960年代前半、穏健なリベラルも包摂し、エスタブリッシュメント色が強い穏健な保守派が率いる政党だった共和党を、グラスルーツのエネルギーを動員しながら、「反共主義」「小さな政府」「伝統的な価値」の三つの価値を支柱にして「ハイジャック」しようとしたのが保守主義運動であった。当初、このムーブメントに関わった多くの活動家にとって、共和党はただの「乗り物」に過ぎず、最大の関心は共和党内の権力を奪取し、「三つの支柱」を軸に漂流するアメリカの政治文化を再定置することにあった。1964年には保守派のバリー・ゴールドウォーターを共和党大統領候補に押し上げ、その後、およそ16年かけてムーブメントのインフラを整え、レーガン政権を誕生させる。 1994年にはそれまで揺らぐことがなかった連邦議会における民主党優位の構図を覆し、着々と権力の拠点をワシントンのいたるところに配置してきた。(略)

[2000年]「ロング・マーチ(長征)」の結果、ついにホワイトハウス、連邦議会、そして保守色を強める最高裁とぼぼ三権を掌握し、事実上の「保守革命」が成し遂げられたかのように語られた。特に2002年の中間選挙における共和党議会の勝利、そして2004年のジョージ・W・ブッシュ大統領の再選は(略)

「恒久的共和党多数派体制」というようなことさえ語られた。(略)

[しかしリベラル派の巻き返しで]2006年には民主党が議会を取り返し、2008年にはホワイトハウスを取り返す。その背景には、いくつかの力学が作用していたが、やはりジョージ・W・ブッシュ政権に対する不満と幻滅が中心的な理由だろう。

(略)

ブッシュ大統領が保守主義を掲げながらも、結局は政府の権限を拡大させ、それをどんどん肥大化させていったこと、あとは世界を作り替えようという介入主義的理想主義に対する違和感が、「対テロ戦争」が長期化していくとともに高まっていったことなどが上げられる。

(略)

グラスルーツの保守派の不満は、本来は「反乱軍」であった保守主義運動が、権力の階段を上り、ワシントンの政治ゲームのルールを覚えていくとともに、保守主義のルーツを軽視するようになってしまったことに対する不満でもあった。

(略)

[その不満はブッシュ周辺だけでなく]ワシントンの政治エスタブリッシュメントの一部になってしまった「保守エスタブリッシュメント」に向けられていたともいえる。

(略)

つまり、2006-08年期に起きたことは、保守的な価値観そのものが退潮したことでは必ずしもなく、保守的な価値観を政治的影響力に変換する仕組みが機能しなくなったことだといえる。(略)

[ここ10年、保守派を自認する割合は30%台後半、リベラル派は20%前後で安定]

 つまり、2006-08期に保守主義が死んだとするならば、それは保守的思潮自体が消えてなくなったわけではなく、むしろそれを政治の言葉に変換するインフラが機能しなくなったということではないか。この政治的空白を埋めるかのように登場したのがティーパーティ運動だった。それは、まさに保守主義誕生のルーツに立ち返り、反乱軍としてワシントンに「ノー」を突きつけようという衝動に突き動かされた社会運動だった。

(略)

[これまで保守主義運動を支えてきたヘリテージ財団、アメリカ保守同盟]らにとってティーパーティ運動の存在は、保守主義運動の原風景を感じさせるものだったに違いない。しかし、それは彼らが掌握していた空間とは別のところから出現し、その台頭を歓迎しつつも、複雑な気持ちをもって眺めていたのだろう。ティーパーティ運動の特徴は、計算された政治的打算を徹底的に忌避し、とにかく剥き出しの衝動に突き動かされることにある種の純粋さを見いだしている点だろう。それは、彼らが政治権力そのものを奪取することよりも、ワシントンにメッセージを突きつけることを重視しているからだ。そのような態度は、保守主義運動の台頭を、ワシントンにおける行動空間を広げることとほぼ同一視してきた保守エスタブリッシュメントからすれば、危なっかしい動きに見えたに違いない。しかし、その圧倒的な存在を前に、ヘリテージ財団は(略)ティーパーティ運動との連携に力を注いでいる。

(略)

例外的にティーパーティ運動の信頼を集めるベルトウェイ内のアクション・タンクがフリーダムワークスだ。(略)マット・キビー会長兼CEOに挨拶した際に、不用意に「ティーパーティ運動の神経中枢を覗きにくるつもりでここに来た」と述べたところ、まっさきに「われわれはナーブ・センターなんかじゃない。むしろティーパーティ運動のサーヴィス・センターだ」とはっきりと否定された。

(略)

[その]自己規定は、フリーダムワークスが依拠するリバタリアン保守主義とも合致する。運動の中枢による一元的な管理ではなく、むしろ無秩序のなかに自主的に発生する秩序に身をまかせる。これがフリーダムワークスの組織理念だ。

 キビー氏のオフィスに入ってまっさきに目に入ったのは[ティーパーティには不似合いな]グレイトフル・デッドのポスターだった。(略)

[キビーは]ニヤッと笑いながら自分はシリアスなデッドヘッド(Deadhead)だと返答した。デッドヘッドとは、グレイトフル・デッドの熱狂的なファンで、しばしばコンサート・ツアーの際に全米中をついてまわる。(略)

[彼が見せてくれた保守系雑誌に掲載された記事には]

サイケデリックなフォントで「死の淵から甦る」と記され、真ん中に連邦議会の前でガズデン旗をもったキビーが立っている写真が配置されている。その記事のなかでキビーは、「保守的な信念をもったカウンターカルチャーの反逆者」として描かれている。いうまでもなく、「死の淵から甦る」とは、「保守主義の死」と「グレイトフル・デッド」の両方をひっかけたものだ。

(略)

デッドヘッド共同体には、どこかに中心があるわけではないが、不思議とある種の秩序が保たれている。必要があれば、互いに助け合うし、自由な精神がつねに維持されている。

(略)

保守派の活動家が、左翼系の活動家の運動モデルから着想を得ることは珍しいことではない。最近では、ブッシュ政権を支えたカール・ローブがアントニオ・グラムシの運動論に影響を受けたことが知られている。またティーパーティ運動についても、アメリカのコミュニティ・オーガナイザーであったサウル・アリンスキーの影響が指摘される場合がある。しかし、グレイトフル・デッドは完全に想定外だった。

 グラムシの議論も、アリンスキーの議論も、組織論であり、運動論である。しかし、デッドヘッズから吸収できることがあるとすればそれは非組織論であり、非運動論であろう。そして、ティーパーティ運動が、まさにこの「非組織性」において際立っているとすると、キビーの主張を単なるグレイトフル・デッドの一ファンの発言として退けることはできなくなる。

(略)

[保守エスタブリッシュメントがグラスルーツとの連携を図っていると伝えると]

キビーはそれに直接答えることはなく、しかし、明らかに勝ち誇った様子で、自分たちは組織化などをしようと考えていない、自分たちはつなげようとしているだけだと述べ、[フェイスブックのような機能をもつソーシャル・ネットワーキング・サイト運営計画を教えてくれた](略)

 どこかウェブ・ベンチャー企業のオフィスのような空気感さえ漂っているフリーダムワークスのオフィスは、ソーシャル・ネットワークが作り出した新たな情報空間とも親和性をもったまったく新しいタイプの政治活動を繰り広げようとしている組織を象徴している。その非組織論は、疑いなくリバタリアン保守主義とも合致している。

(略)

[ジョナサン・ラウチによると]

ティーパーティ運動の本質的重要性は、その思想内容にあるのではなく、その組織形態にあり、それは、アメリカの政治空間を形づくってきたインスティテューションの崩壊の表象であり、従来の政治回路が作動しなくなった兆候でもある。もはや、政党は選挙のシナリオを描けなくなっているし、人々も従来のプリント・メディアではなく、ブログやツイッターでつながり、情報を共有する。

chapter3 ティーパーティと分裂要因  渡辺将人

[ロン・ポールと、その次男であるランド・ポールのグループを概観することで]ティーパーティ内の分裂要因を検討する。

 ティーパーティにおける元祖的な存在を自称するポール派のティーパーティ運動は、その起源を「反オバマ」「反民主党」ではなく、「反ブッシュ政権」「反共和党」に置いていることに特質がある。言い換えれば、ティーパーティ発祥を「オバマ政権後」ではなく「オバマ政権前」に由来のある現象として考えている。

(略)

ポールは議会における投票をすべて合衆国憲法に照らして決めていることを明言する憲法保守に分類される議員である。しかし、憲法を根拠とする姿勢が原理的で、イラク戦争反対にとどまらず駐留米軍撤退論や海外援助不要論などの非関与的な外交政策や連邦準備制度の廃止などの主張が主流とかけ離れているため、共和党内はもとより議会全体のなかで孤立した周辺的存在であった。(略)

[そのポールが]ブッシュ政権末期からオバマ政権1期目にかけて、エレクタビリティは依然低いながらも大統領選挙候補として全国的に熱心な支持を得ている現象は異変と称せる動向であり

(略)

ポール派含め多くのティーパーティ活動家にとって2008年金融危機後に金融安定化を目指したTARP(不良資産救済プログラム)に対する批判は運動への覚醒要因であった。ランド・ポールは、2010年中間選挙で共和党政治家の再選が危ぶまれたのは、TARP賛同に対する「対価」だったと結論づけている。

(略)

「自由のためのキャンペーン」と名づけたポールを支える草の根の運動は、若年層の参加とネットによる運動の拡散から、保守版オバマ現象の形相も呈した。

  ポール派の反共和党エスタブリッシュメントの色彩をとりわけ鮮明にしたのは、2008年夏にミネソタ州で開かれた「共和国のための集会」であった。共和党大会が開催されるミネソタ州セントポールまで、280マイルの距離を支持者が3日間かけて歩く「自由への行進」は、終着点をミネアポリス市内の連邦準備銀行ビル前に据え、ロンーポールが連邦準備制度廃止を訴える演出を施した。抗議行進が民主党大会ではなく、共和党大会を照準に据えたことにポール派の当時の仮想敵が共和党エスタブリッシュメントにあった事情が垣間見える。

 2009年以降に拡散した全国規模のティーパーティ集会で多用されたボストン茶会事件時代のコスチュームやガズデン旗は、すでに2008年のポール派のシンボルとして同行進で使用されている。ポール派がティーパーティの元祖を主張し、ペイリンとその同系譜としてティーパーティ議員連盟の顔を務めるミシェル・バックマンを「後発」と考える向きがコアなポール派支持層の間に根強いのは、そうした経緯とも無縁ではない。

(略)

ポール派の哲学は概ね[2010年上院初当選した]次男ランドに継承されていることも支持者を安心させ、ポール派の運動を延命させた。

 党の団結を重視する共和党主流派は、党内分裂の種を作りがちなロン・ポール派を周辺に追いやってきたが、2010年以降のティーバーティ運動の台頭が皮肉にもポール派に命を吹き込ませ、それに伴い共和党脱退者も反動的に生じさせた。共和党穏健派がポール派の運動を嫌うのは、反共和党エスタブリッシュメントのレトリックに加えて、運動のスタイルや支持者層がきわめて「リベラル」に見えることも関係している。「革命」と銘打ったポール派の運動は若年層を基盤にしており、見た目には2008年のオバマ陣営の熱気を彷彿とさせる既視感すら呼び起こすだけに、ポール派の運動に感情的な嫌悪を露にする共和党関係者も少なくない。

(略)

[「小さな政府」を目指す]緩やかなシングル・イシュー運動であるだけに争点が拡散するとコアリションに亀裂が入りかねない。

(略)

リバタリアン系ティーパーティの受け皿がポール父子ならば、社会保守色が混在したティーパーティの受け皿がペイリンと後のバックマンである。(略)

[ポール派の「立憲主義」は]キリスト教信仰との抵触も避けられない。ロン・ポールは人工妊娠中絶についてプロライフ派であるが、憲法修正第10条を尊重して人工妊娠中絶は州が結論を出すべきであるとの条件をつけている。また、結婚の定義についても州に決めさせるべきだとしている。しかし、キリスト教右派にとって、憲法を信仰より優先させる考えには違和感が残る。

(略)

ポールは2010年に起きたニューヨークのモスク建設論争で建設擁護の立場だった(略)ムスリムを含む信仰の自由の担保はキリスト教徒の利益であるとの論法で、キリスト教右派の反発抑制に努めている。

(略)

 周知のようにポール派が基盤とするリバタリニズムは経済保守ではあるが、社会問題でも完全なる自由を優先するため、社会争点では皮肉にもリベラル派と親和性が高い政策選択に陥ることがある。(略)

実際、ポール派のティーパーティ活動家のなかには、教会に通わないプロチョイスで、大麻合法化賛成論者の社会リベラル派リバタリアンも多々存在する。無論、社会リベラル派といっても移民政策と憲法修正第2条の銃所持権では、民主党リベラル系と一致しない。むしろ、これら二つの争点はリバタリアンと宗教保守が一致できる社会争点である。

(略)

ポール派の外交政策は、周知のように非介入的、孤立主義的な姿勢を基本にしている。戦争遂行における大統領令濫用、米軍の海外駐留などに激しく抵抗しているが、その思想は財政保守と憲法保守主義に立脚している。

(略)

 ポール派外交がリベラルな平和主義ではないことは、人道的な海外援助にも否定的であることから明らかである。しかし、イラク戦争をはじめ防衛政策全般についての方針は、結果として反戦リベラルのような響きを伴う。民主党リベラル派もロン・ポールに対しては往々にして「興味深い」という形容で部分的な共感を寄せ、他のティーパーティ系議員とは区別して特異な評価を与える傾向がある

(略)

 経済政策におけるポール派の党内仮想敵が、超党派で金融安定化法を推進した財政穏健派であれば、外交政策における党内仮想敵は新保守主義者であり、ロン・ポールはネオコンを「偽の保守」と称している。

(略)

ポール派はマケインの副大統領候補だったペイリンをもはやネオコンの一種として遠ざけており

(略)

ポール親子自身は「孤立主義」と定義されることを拒絶し、軍事的非介入の自由貿易主義者を標榜している。ポールは「自分は今まで孤立主義者であったことはない。孤立主義の正反対である対話外交と自由貿易と自由な航行を支持している」と述べる。ランド・ポールはポール派を「孤立主義」と呼ぶのは、リベラル派がティーパーティを人種差別主義者と呼ぶのと同じ愚行で、マケインを「帝国主義者」と断じるような罵り言葉と同じであると嫌悪感を示す。

(略)

ラッセル・カーク、リチャード・ウィーバー、ロバート・ニスベットら伝統的保守知識人にポール外交の精神の源を探り、「当然彼らは平和主義者ではなかったが、戦争は物質的にも道徳的にも破滅的であり、本来的に最終手段であるべきだと信じていた」と述べる。一般的には「反知性主義」的な性質を帯びるとされるティーパーティ運動にあってポール派の姿勢は異色である。

chapter7 ティーパーティ運動と「憲法保守」  梅川健

 ティーパーティ運動の集会の参加者の多くは、ポケットサイズの憲法を持ち運び、ティーパーティ運動の団体のウェブサイトには、「アメリカを憲法の原則に立ち戻らせること」が、団体の使命として掲げられていることが多い。さらに、ティーパーティ系の候補者たちは自らを「憲法保守」だと名乗っていた。これらのティーパーティ運動と憲法との関わりは、いたるところで確認される組み合わせである。

(略)

「憲法保守」という概念が、ティーパーティの多様な側面を結び合わせる役割を果たしていたことを明らかにしたい。

(略)

 2009年1月27日に、フーヴァー研究所のピーター・バーコウィッツは「憲法保守」というタイトルのポリシー・ペーパーを発表した。このペーパーは、2008年の大統領選挙に敗れた共和党が今後とるべき戦略は、共和党の基本的な支持基盤である社会保守と、オバマ政権にうんざりしている経済保守とを結びつけることだと提言している。(略)

彼は、1957年から1972年にナショナル・レビューで編集者を勤めたフランク・メイヤーが、すでに解決策を提示しているという。

 バーコウィッツは、メイヤーを引用し、社会保守と経済保守は、お互いがなくては成り立たないという関係にあると主張する。家族やコミュニティが自律的な個人を形成するという社会保守の考え方は、市場における自律した個人という、経済保守がよって立つ前提を提供する。同様に、小さな政府や個人の自由の重視という経済保守の考え方は、社会保守に対して、家族やコミュニティが道徳を教えることができるのは、政府が制限されている場合に限るのだということを思い起こさせる。

 このようなメイヤーの考え方は60年代には、融合主義と呼ばれていた。バーコウィッツは、「メイヤーの主張に相応しいのは、憲法保守という名前であると論じている。その理由は、経済保守と社会保守の調和は、憲法の定める小さな政府に立ち戻ることで実現できるからだという。

(略)

ランド・ポールは選挙中、自らをリバタリアンというよりもむしろ憲法保守だと主張した。彼にとって憲法保守とは、「小さな政府と、個人の自由を重視する保守」という意味であり、「あらゆる保守派は、憲法保守の原則のもとに集まることができる」と述べている。ランド・ポールは、「連邦政府は、州政府が行えることを行ってはならない。州政府は、ローカルな自治体が行えることを行ってはならない。ローカルな自治体は、家族や信仰に基づいたコミュニティが互助によって可能なことを行ってはならない」と述べ、リバタリアンにとって重要な小さな政府と自由な市場という理念と、社会保守にとって重要な家族とコミュニティという価値を結びつけている。ランド・ポールは、憲法保守という考え方によって、「保守とリバタリアンとを結びつける」ことが可能であると考えており、「それこそ、私の選挙戦の中心である」と述べている。

(略)

 『ニューヨーク・タイムズ』紙のジェフリー・ローゼンによれば、マイク・リーが選挙戦においてとった立場は、ティーパーティ運動における憲法論の「教祖」とされるクレオン・スコウセンが1981年に出版した『5000年の跳躍』を下敷きにしている。

(略)

スコウセンは、アメリカ合衆国の建国の父祖たちは「28の神聖な原則」を打ち立てたと主張し(略)

「限定された権力だけが連邦政府に譲渡されたのであり、残りのすべての権力は市民に残されている」という第19原則から、連邦政府による規制のための行政機構は、環境保護庁や連邦通信委員会といったものも合めて、違憲であると結論している。なぜなら、それらの委員会は、「州と連邦の業務の境を曖昧にするため」である。

(略)

 全米憲法研究センターは、1971年にクレオン・スコウセンによって設立された団体である。現在の会長であるジャレド・タイラーは、31年間にわたり、『5000年の跳躍』を底本とした、「アメリカの建国」という8時間にも及ぶ長大なセミナーの講師をこなしてきた。

(略)

 セミナーの受講者は、受講料として10ドルを支払い、131ページからなるワークブックを受けとる。ワークブックは空欄穴埋め式となっており、受講者たちが8時間のセミナーを受け終えると、すべての空欄が埋まるという案配であった。このワークブックは、アメリカの建国がいかに宗教的な偉業であったのかが書かれており、スコウセンの原案によるものであった。

(略)

タイラーの議論の骨子は、「憲法には、時代を超越する原則が示されており、あるべき政治の姿についての不変の真理がある。それゆえ、アメリカは、不変の真実ヘと立ち戻らなくてはならない」ということであった。

 『5000年の跳躍』、「アメリカの建国」セミナーとティーパーティ系の候補者の主張には、二つの特徴がある。第一に、アメリカの建国期の原則を論じる際に、1776年の独立宣言と、1789年の合衆国憲法の両者を、自由に織り交ぜる点である。第二に、独立宣言を、「自然法」もしくは「神の意志の表れ」と理解する点である。

(略)

[憲法保守と80年代の共和党保守派が唱えた原意主義の違い]

アメリカの憲法解釈論には、憲法の文言を、憲法制定者たちが理解していたように解釈しなければならないと考える原意主義と呼ばれる法理論がある。 1980年代から今日まで、原意主義は保守派の憲法理論の主流である。リベラル派は、憲法をその時代の価値によって再解釈するべきだと考え、生きた憲法と呼ばれる憲法論を主張しており、原意主義は、これに対抗するものであった。

(略)

憲法保守は、原意主義を、政治運動の熱源となりうるように大衆化したものであったといえる。原意主義が、裁判官に対して、憲法の文言を憲法制定者たちが理解したように解釈するように求める法理論であったとすれば、憲法保守は、議会に対して、憲法に示された原則に従って政治を行うように求めるイデオロギーである。原意主義は、共和党と結びついて30年が経つが、憲法保守という形に変容されて初めて、グラス・ルーツヘと染みだしていったのである。

 その際に、原意主義ではありえなかった変化が憲法保守には生じた。(略)

憲法保守は、合衆国憲法とは、独立宣言に示された原則を、政治の世界の妥協を通して書き下したものだと考えている。それゆえに、ティーパーティ運動の候補者たちは、憲法修正条項が「誤っている」と主張できたのである。

2016-04-18 圏外編集者 都築響一 このエントリーを含むブックマーク

こっちの本(出版幻想論・その3 藤脇邦夫 - 本と奇妙な煙)同様、置屋状態の大手出版社・既存メディアへの怒りが激烈。


圏外編集者

作者: 都築響一

メーカー/出版社: 朝日出版社

発売日: 2015/12/05

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はじめに

[出版不況というが]

 出版というメディアは終わっているのだろうか。僕はそうは思わない。終わっているのは出版業界だ。(略)

がんばればがんばるほど業界から遠ざかってしまった僕のように(略)、むしろ自分が人生を賭けてもいいと思える本を作ることが、そのまま出版業界から弾き出されていくことにほかならない2015年の日本の現実を、「マスコミ志望の就活」とかに大切な人生の一時期を浪費している学生たちに知ってほしいだけだ。給料もらって上司の悪口言いながら経費で飲んでる現役編集者たちに、出口を見せてあげたいだけだ。

「編集」は基本的に孤独な作業

[90年代初頭世界最大見本市フランクフルト・ブックフェア、その年のテーマは「地下出版物」]

「地下出版物」にも上下関係があって、展示場のいちばんいい場所は反体制の政治的な雑誌や、発禁の現代文学とかが占めているなかで、いちばん隅っこの柱の陰に、ほかと明らかに雰囲気がちがう汚い革ジャンの太ったロシア人が自作本を並べて、ヒマそうにしてた。(略)

いかにも手作りふうの1冊がおもしろそうで「これいくら?」と聞いたら、「限定5部だから売れない」とか言う。(略)

 当時のロシアは印刷機やパソコンどころか、コピー機すら1枚ごとに上司に許可を取らないと自由に使えない、という状況だったらしいので、簡単に自費出版なんてとんでもないわけ。で、そいつは手動のタイプライターに紙を挟んで、それにカーボン紙を挟んで、また紙を……という具合に紙とカーボン紙を重ねていって、原稿を打つと。指に力を込めて打てば、5部まではなんとかいけるんだ、とか平然と説明されて、僕はなんと言っていいのかわからなくなった。

(略)

能力や財力は持っていない。でも、意欲だけはだれよりもある。この強い意志が、タイプを叩く力になって『モスクワ・ローリングストーンズ・ファンクラブ会報』は世に生まれた。当時、オシャレなデザイナーたちは「Macのレイアウトソフトは文字組みがどうの」とか「やっぱり活版が」とか、ごちゃごちゃ言ってたけれど、モスクワから汚い雑誌を背負ってドイツまで来たそいつに出会ってから、その手の贅沢な戯言は口が裂けても言わないように、こころに決めた。

 ひとりで自費出版本やZINEを作って、ブックフェアやコミケで売ってる人間にも、モスクワの革ジャン兄ちゃんみたいに、他人とコミュニケーションを取るのが苦手なタイプがいるはずだ。いままでいろんな人間を取材してきたけれど、経験から言って、ほんとうにすごい本を作ってるのは地味で無口で、ひとりでコツコツ作業するのが好き、というひとばかりだった。口で説明するんじゃなくて、なにかを作ってみんなに見せるのが、彼らのコミュニケーションなのだった。「編集」は基本的に孤独な作業だ。(略)[多人数で作っても]最終的な判断はひとりの編集長が下すはず。だからこそ雑誌の個性が生まれてくる。逆に、そういう「編集長の顔」が見えない雑誌は、おもしろくない。

 だからいま、地方でよく見かけるでしょう、ひらがなタイトルのほっこり雑誌。ああいうのって、がんばってるなとは思うけど、意外におもしろいのが少ない。「昔ながらの町のパン屋さん」とか「アートでエコなカフェ」みたいな記事ばっかりで(笑)。たぶん、みんなで相談しながら作っているからだ、仲良しクラブみたいな感じで。

 ひとりということは、相談するひとがいないということ。だからブレようがない。どうしても作りたいという思いの前に、「仲間」は助けにもなるけど、時として障害にもなりうる。(略)

専門家より自分の感覚

[80年代前半NYに取材に行っていると]

どんどんシーンがおもしろくなってくる。それまでは単に「グラフィティ=落書き=違法行為」扱いだったのが、キースもバスキアも、ちょうど鋭い画廊がピックアップし始めた時期だった。

 それで彼らを取材する。で、東京に帰ってきて記事にするのに、いろいろ参考資料を探そうとしても、『美術手帖』や『芸術新潮』、どこを見てもそんな情報は載ってない。

 そうなると最初は、自分がハズしたかと思うわけ。専門家がぜんぜん取り上げてないから。でも、そういうことがあまりにもたびたび起こるうちに、ハタと気がついた。専門家たちは、実際に行ってないから知らないだけだって。知識はあっても行勣力がないから、その分野で起こりつつある新しい流れを知りえない。(略)

で、そうやってだんだん、専門家の言うことじゃなくて、自分の目と感覚のほうを信用するようになっていった。10年間の雑誌時代で、僕にとってはそれがいちばんのトレーニングだった。

新しいものへの嗅覚

 ほんとに新しいものに遭遇したときって、いきなり「最高!」とか思えなかったりする。もちろん名前も聞いたことないし、見たこともないし、いいとか悪いとか、判断ができない。でも、出会った瞬間にこころがざわつく。

 それを「いい」と言い切るのには、もちろん不安もいっぱいある。知らないのは自分だけなのかもしれないし、まったくハズしてるだけかもしれない。

 いまだにほとんどの記事はそういう不安を抱えながら作っているけれど(ほんとに!)、不安を乗り越えるためにできること、そのひとつに「カネを出す」ことがある。

 たとえばまったく無名な画家を特集したいと思うときに、そのひとの絵を自腹で買おうか考えたら「金を出してもいいほど好きなのか、ちょっとよさそうだから取材してみようって程度なのか」、瞬時に判断できる。(略)それが自分の嗅覚を育てる上で、いちばん手っ取り早い方法かもしれない。

(略)

 美術でも文学でも音楽でも、他人の評価ではなくて、自分でドアを開けてみないと、経験は積み上げられない。そうやって成功と失敗を繰り返しているうちに、いつのまにか、自分が「いい」と思ったものは、だれがなんと言おうと、いいと言い切れる日がやってくる。

(略)

 1980年代初期というのは、アートで言えばニューペインティングだったけれど、建築やインテリアデザインの世界では「ハイテック」というスタイルが爆発的に出てきた。それまで建築のエレメントとは見なされていなかった工業製品を大胆に使ったり、剥き出しの構造に美を見出したり。建築の世界で不動の概念だった「モダニズム」というものに対する、パンキッシュな反抗精神も秘めていて、ニューペインティングに近いスピリットを感じたし、すごく興奮した。

(略)

日本の建築雑誌は立派だけど、どこを見てもそんなのは載ってなくて、コルビュジエだのライトだのって大御所建築家と、超高級家具しか出ていない。そんな家に住んでるひとなんて、ひとりも知り合いにいないのに。

 それで「居住空間学」を始めてみたら、ちゃんと現地に行って取材してるのに「てきとうに写真買って誌面作ってんじゃねえよ」とか、おっさん評論家に怒られたり。そういう侮しさは忘れないし、それがいまでも仕事の原動力になってる。「いまに見てろ!」って……もうすぐ60歳だけど。

読者層を想定するな

 その編集長から教わったことはいろいろあるけど、いちばん身についたのは、「読者層を想定するな、マ−ケットリサーチは絶対にするな」だった。知らないだれかのためでなく、自分のリアルを追求しろ、と。そういう教えが、僕の編集者人生のスタートだったのかもしれない。

 たとえば女性誌を作るとする。「この雑誌の対象は25〜30歳の独身女性で、収入はこれくらいで……」とか、読者層を想定する。その瞬間に、その雑誌って終わるよね。だって自分は25〜30歳の独身女性じゃないから。

(略)

ポーチとかの「特別付録」の包袋紙みたいなファッション誌や、男性編集者が勝手に妄想する女性向けセックス特集なんて、だれが読みたい? しかもそういうリサーチって、出版社自身じゃなくて、たいてい大手の広告代理店とかが出してくるものだし。

 若い編集者と飲む機会もたまにあるけれど、「企画が通らない」とか「編集長がダメ」とか「営業が口出す」とか文句言うのは、だいたい大手出版社のやつ(笑)。高給取りにかぎって、文句が多いから。弱小出版社のエロ雑誌や実話誌の編集者は、ぜったい文句言わない、ほんとに。「給料安いし大変だけど、好きでやってるんですから」って。

若手編集者の加齢臭

いまだに「石の上にも三年」とか言う上司や先輩がいる。それは「石の上に三年いちゃった」やつが言うセリフだ。(略)転職なんてどんどんすればいい。合わないと思ったら、辞めちゃえばいい。そういう直感って、意外と正確だから。

 こういう仕事だと、むしろ3年同じところで我慢していたら、感覚が失われてしまう危険だってある。たとえばオヤジ系週刊誌って、どのページも加齢臭すごいでしょ。でも実際に編集部で誌面を作っているのは、若手の編集者が多かったりする。(略)不思議に思って、知り合いの編集者に聞いたことがあった。そしたら2〜3年編集部にいるうちに、どんどん文章も年取っちゃうんだって。

 それはすごく怖いと思った。(略)

 自分が思ってもいない、信じてもいない誌面を作らされているうちに、いつのまにか自分が「思っても信じてもなかったこと」そのものになっている。「ちょい悪おやじ」とか「プロ彼女」とかに

『ArT RANDOM』とMac導入

「アウトサイダー・アート」は、このジャンルとしては日本で出版された最初の一冊だったと思う。ヘンリー・ダーガーの作品も、これが日本では初めて紹介された機会だった。

 102冊もあるから、1冊ずつの思い出はとても語り尽くせないけれど、印象に残っている出来事のひとつは、このとき初めて Macを導入したこと。それまではちゃちいワープロしか使ってなかったから。

(略)

 当時はまだデータ入稿ではなく写植の時代で、そうすると英語の写植というのが、お金も時間も非常にかかる。著者は世界中に散らばっているから、校正のやり取りも大変だし。

 それで発売されたばかりのパソコンを導入すれば、日本語と英語をシームレスに使えるかと思って[50万円で購入]

(略)

[HDDなんてなく]フロッピーを何十枚もがちゃがちゃ抜き差ししながらの作業。プリンターだって、ちょっとあとに出た最初のレーザープリンターはもちろんモノクロだけで、A4までしか出力できなくて、それでも100万円ぐらいした。

(略)

そこでまたいろいろ言うやつがいるわけ。「パーソナルコンピュータは、ただ便利だからという理由で使うものではありません、新たなツールが新たな思考を生むのです」なんて。カチンと来たね〜(笑)。

 そういうこと言うひとは、たいてい大学の先生だったり、企業の研究者だったりする。ちゃんとお給料と研究室もらって、それでそういうことを言う。でもこっちは、なんとか少しでも写植代を減らして、安くいい本ができるようにという、もっともっと切実な理由で、身銭を切って導入してるわけ。崖っぶちまでの近さが、ぜんぜんちがうから。

 それって大学で「美術は死んだか」とか悠長に議論してる御大作家や評論家先生と、まるで一緒でしょ。ごちゃごちゃ言ってるあいだに、1枚でも多く絵を描けって。あのあたりでもう、自分のアカデミズム嫌いが決定的になったのだった。

『TOKYO STYLE』

[あちこち企画を持ち込んだが相手にされず]「そんな狭い部屋ばっかり、どうするの?意地悪すぎじゃない」(略)

[一旦諦めかけたが]

ついに我慢できなくなって、ヨドバシカメラに駆け込んだ。「素人でも使える大型カメラのセットください」って、買ってしまった。経験ゼロなのに。

 とりあえず、友達のカメラマンにフィルムの入れ方だけ教わって、クルマを持っていなかったので、中古スクーターの足元にカメラバッグを置いて、三脚を背中に背負って、走り始めた。通常のインテリア撮影で使う大型の照明機材は高価で手が出なかったし、だいいち原チャリの足元にも置けなかったから、ランプをひとつだけ買って、カメラバッグに押し込んで。

 当時はまだフィルムの時代だったから、最近のデジカメのように高感度でもきれいに撮れる、なんてわけにはいかない。ストロボもないから、暗いままで撮る。ということは、露出時間が30秒とか1分とかになる。(略)

「部屋の主が写ってないのが、逆に想像力をかきたてる」とか評してくれたひとがけっこういたけれど(略)実は写せなかっただけ(笑)。1分間じっとしてて、なんて言えないでしょ。

『ROADSIDE JAPAN』

[原付きで地方は無理なので]マツダのなんとかいうセダンを12万円で売ってもらった。(略)カーステレオはついてたものの(カセットだけ)、スピーカーのコーンが破れていて、それでジミ・ヘンドリツクスとかかけると、いい感じだった!(略)

長距離のときは高速のサービスエリアで仮眠して。(略)

自分ひとりで旅に出て、ひとりで運転もして、写真も撮って、文章も書くなら、なんとかなる。そういう純粋に経済的な理由で、写真も文章もひとりでやったのだし、それからもずっと、僕の仕事はだいたいそんなようになっている。

 「やっぱりぜんぶ自分でやるのはコダワリですか?」と、よく聞かれるけれど、それはまったくちがう。きちんとトレーニングしたわけではないから、いまだに写真は「撮れてるかな?」と心配だし(特にフィルム時代はそうだった)、本心を言えば出張の段取りや写真撮影はだれかに任せて、自分はインタビューや、次に行く場所のリサーチに専念したい。(略)

よく今まで、居眠り運転で死ななかったと思う、ほんとに。

「死刑囚の俳句」

とにかくどんなひとがこういう句集を作っているのか知りたくて、出版社を訪ねてみた。

 そこは東京の神田ではなくて、滋賀県の琵琶湖のほとりにあるまったくふつうの住宅で、温厚そうな中年の男女ふたりが営んでいる出版社だった。それでいろいろエピソードや苦労話を聞かせてもらううちに、まず唖然としたのが「俳壇からは圧倒的に批判のほうが多かったんです」と言われたとき。

 死刑囚の俳句はおもに、死刑廃止の市民運動に取り組んでいる団体を通じて世に出るので、活動家たちからは「また俳句屋が来たぞ」なんてからかわれて、それで本になったら俳壇から「ひとつひとつの句に、作者の境遇など短い説明を入れたのがよくない」「俳句を読みつけていない人にもわかりやすいように、3行に分かち書きしたのもよくない(ほんとうは1行で書くべき)」「ルビを振ったのもよくない」などなど、「ずいぶんお叱りを受けちゃいました」って苦笑いしてた。くだらない、ほんとうに。

『ヒップホップの詩人たち』

[地方でも音楽活動ができるという話のあと]

 誤解されないように言っておくと、それはなにも「いま地方が盛り上がってるから」とかでは、まったくない。

(略)

シャッター商店街と郊外化。若者に仕事は見つからないし、賃金は低価安定だし、文化的なプロジェクトなんてなにもない。

 セックスとクルマしかなくて、でもどこを運転してもイオンタウンと洋服の青山東京靴流通センターとパチンコ屋とファミレスがあるだけ。そういう、東京とは比べものにならない閉塞感でがんじがらめになっているからこそ、「ひどすぎて笑える」くらいのやりきれなさだからこそ、こころを撃つなにかが生まれてくる。ほんとうにすごいものは、ぬるま湯からは生まれないから。「マイルドヤンキー」とか騒いでるマスコミは、その絶望感がまったくわかっていない。

『妄想芸術劇場』

右リンク先で画像プレビューできます→BCCKS / ブックス - 都築響一著『妄想芸術劇場001 ぴんから体操』

エロ雑誌にもやっぱり上下関係があって、売れっ子のモデルやAV女優をきれいに撮影したグラビア雑誌が頂点だとすると、読者の投稿だけで成り立っている『ニャン2』のような露出投稿雑誌は、エロ雑誌界の最底辺だ。エロというより、グロと言いたいページのほうが多いくらいだし。ド変態だし。

 ただ、そんな最底辺の露出投稿雑誌にあっても、写真を投稿できるひとたちは、やっぱり恵まれた部類でもある。とんでもないことをさせて、写真に撮らせてくれる相手がいるのだから。そういう相手すらいない、写真を撮ることさえできない人間でもなにかを発信できる場所、それが「投稿イラスト」コーナーだ。

(略)

 脳内は妄想でパンパンに膨らんでるけれど、自分には縛らせたり、調教させてくれる相手がいない。カネで買うこともできない、それどころか女性に声をかけることすら苦手。そういう男たちが自分の妄想を絵にしては、送ってくる。なかには毎月何枚も。なかには創刊以来20年以上、欠かさずに。

(略)

 なかにはほんとうにアートとして素晴らしいと思える作品もあった。特に狂気の度合いが突き抜けているというか、とんでもなくパワフルな絵を描く「ぴんから体操」という投稿ネームの投稿者には、あまりにも感銘を受けたので、なんとか本人にお願いして、デザイナーの松本弦人さんが主宰する「BCCKS」という自費出版システムを使って、僕が自分で『妄想芸術劇場・ぴんから体操』という作品集を作ったりもした。

(略)

 そういう投稿イラスト職人って、いったいどんな人間なのか、当然知りたくなる。[だが30人に声をかけ、実際に会えたのは3人](略)

「どう使ってもらってもかまわないけど、会いに来るのだけはやめてくれ」というひとが大半だった。いったいどういうことなんだろうって、すごくびっくりした。

 彼らにとっては、妄想を具現化した絵があって、それだけが外の世界との接点なのかもしれない。それ以外に接点を持ちたくないのかもしれない。接点を持とうとしても持てない、精神的や肉体的な障害があるのかもしれない。

 投稿の封筒裏に書いてあるから、投稿者の住所はわかってる。そこに東京の港区や渋谷区なんて地名はなくて、すべて地方、すべて郊外だったのも印象的だった。

「スキマ」狙いではない

「どうやってネタを探すんですか」と、「どうやったらそういうようにスキマ狙いできるんですか」というのが、インタビューを受けるときの二大質問かもしれない(笑)。

 ここで声を大にして言いたいのは、『TOKYO STYLE』のときからスナックの取材にいたるまでずっと、僕が取材してきたのは「スキマ」じゃなくて「大多数」だから。有名建築家がデザインした豪邸に住んでるひとより、狭い賃貸マンションに住んでるひとのほうがずっと多いはず。

(略)

 みんながやってることを、どうしてメディアは取り上げられないのか。それが僕には長いこと疑問だった。もし、みんなにはできない、ひと握りのひとたちにしかできないことしか取り上げられないのなら、みんながやっていること、みんなが行っているところは価値がないのか。劣っているのか。前にも言ったけれど、そうやって羨望や欲求不満を煽っていくシステムや誌面作りにほとほと嫌気が差したから、みんなと一緒の場所にいようとしているだけ。だからもう既存のメディアから、ほとんど仕事が来ないわけだけど(笑)。

 みんながやってることを記事にするとは、どういうことかというと、「取材が楽」ということでもある。皮肉ではなく、ほんとうに。探さないと見つからない、というものではなく、どこにでもあるもの。スナックだってラブホテルだってワンルームマンションだって、そこらへんにいくらでもあるものばかりだから。

「アマチュアにできない量」

 技術の進歩とは、技術を学ぶ時間を短縮することで、表現のハードルをぐっと下げてくれることを意味する。

[経験値よりセンスと行動力だけの勝負に](略)

 いつでもそうだがテクノロジーは、持たざる者にとっては力になるし、持つ者にとっては脅威になる。(略)

 ただ、「描ける」と「描く」がちがうように、その先が大変なのは、いまも昔も変わらない。だから表現っておもしろいのだろう。ひとにできないものを生み出す困難さはいつでも一緒、でもスタートラインに立つのは昔よりずっと簡単になった。これはものすごく大きいことだと思う。

(略)

 そういう時代にあっても、「プロはアマチュアのできないことをやらなきゃならない」のだけれど、僕は自分が編集の、写真のプロとしてどう「アマチュアにできないこと」をできるのか、正直言ってわからない。自信もない。いまできるのは「アマチュアにできないこと」ではなくて、「アマチュアにできない量」しかない。ほんとうに、それだけだ。

2016-04-16 レッキング・クルーのいい仕事・その3 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


レッキング・クルーのいい仕事 (P-Vine Books)

作者: ケント・ハートマン, 加瀬俊

メーカー/出版社: スペースシャワーネットワーク

発売日: 2012/11/16

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  • キャロル・ケイ一代記

キャロル・スミス。父はトロンボーン、母はピアノ奏者、ギグの稼ぎはささやかかつ不安定で生活は苦しかった。両親は離婚、父は姿を消す。母は福祉にたより、キャロルは9歳で放課後働くように。ある日訪れたスティールギターの訪問員に母は豚の貯金箱からなけなしの10ドルを払った。友達に誘われて覗いたギター教室、その才能を見ぬいたホレス・ハチェット先生は教室の手伝いをするなら無料でレッスンしようと提案。14歳にして先生の口利きでロングビーチ界隈でめきめき頭角を現し、週一でライヴ。高校生の頃にはダンスパーティーにひっぱりだこ。

 高校を卒業してすぐ、キャロルは二年のあいだヘンリー・ブッセ楽団と仕事をする機会にありつき、ダンスイベントなどで演奏を務めながらアメリカ中を旅した。彼女はバンドのベース奏者であるアル・ケイと結婚をすることとなり、まもなく娘と息子が誕生した。キャロルは離婚後もなお彼の名字を名乗ることとなる。

(略)

[昼間はタイピスト、夜は]ロサンゼルス中のジャズクラブでほぼ毎晩のようにギターを弾くようになった。二人の子どもを抱える母親は言うまでもなく、誰だってくたくたになるようなスケジュールである。しかし、ビバップを演奏することによってキャロル・ケイの音楽の魂は燃え盛った。彼女に音楽を捨て去ることなどできないのだ。彼女が演奏すればするほど、西海岸ジャズのトップシーンでの彼女の名声は上がっていく一方だった。

 しかし運の悪いことに、50年代後半にロック・アンド・ロール人気が高まると南カリフォルニアのジャズ愛好者だけを対象としたクラブはそのあおりを直に受けて消えていった。(略)

[そんな時、スタジオミュージシャンの依頼]

ジャズ以外のレコーディングに参加しようものならビバップのライヴ奏者としてのキャリアはご破算だ[戻り道はないが、キャロルは決断した。](略)

「ミシシッピ出身の新人シンガーで、私がプロデュースに取りかかり始めたのがいるんだ」とブラックウェルは続けざまに言った。(略)

「サム・クックというのだけれど」

 60年代の初頭、仕事の絶えないキャロル・ケイは、自分がプライベートでもプロとしても分かれ道に差しかかっていることに気がついた。

 アメリカが外地で戦争を行っている真っ只中のこと、ケイはじっくりと熟考を重ねたうえでユダヤ教に改宗することにした。バプティスト派のキリスト教信者として教育をうけた彼女だったが、1961年にデヴィッド・ファイアストーンというユダヤ人の有名実業家と結婚を果たしてからというもの、夫の家族が受け継いでいる宗教的・文化的伝統に魅了されていた。(略)

 1964年に離婚を迎え、一時はキリスト教に回帰しようと試みたものの、キャロル・ケイはそれでもユダヤ教の信仰を捨てなかった。(略)

 さらにキャロル・ケイはプロのミュージシャンとしても転機を迎えていた。ある日、彼女は驚いたことに、キャピトル・レコードのプロデューサーから本職であるギターの代わりにフェンダーのエレキベースを弾いて欲しいと頼まれたのだった。いつものベーシストがセッションに来られなくなったため、ひどく困っているのだという。(略)

 しかし、ケイは思った以上にベースの演奏が楽しいということに興味をひかれた。リズム役としての演奏だけでなく、ベースの醸し出すフィーリングは彼女の性に合うものだった。そしてより現実的な問題としては、このまま正式にベーシストに転向すれば、プロデューサー一人一人の好みに合わせるために一日に何回も三本以上のギターを抱えてスタジオに行く必要はなくなるだろう。なんてったって、フェンダーのプレシジョン・ベースが一本あれば間に合うのだから。少し考えてから、彼女は決断をくだした。[しかもギターほど競争相手が多くなかった](略)

ジャズの経験が豊富なケイのような創意あふれる上級者たちは、ウォーキングベースを弾きながら大きなグルーブを生む術を心得ていたため、エレキベースで楽曲を生き生きさせることができた。

(略)

[「ヘルプ・ミー・ロンダ」録音時、クルーが延々演奏する間、ブライアン・ウィルソンはコントロールブースで電話で話し込みつづけ、しまいには乱入してきた父親と喧嘩、セッションは中止に。我慢ならないケイは帰り際、ブライアンに中指を立ててみせた。それでも干されなかった]

[69年初頭]何千曲もの楽曲を演奏してきたケイは、完全に燃え尽きてしまっていた。モンキーズを代表とするような、多くのロック・アンド・ロールアーティストのセッションで注文される演奏には腕の見せ所がほとんどないことに不満をつのらせた彼女は、業界に嫌気がさしてきてしまったのだった。それで彼女は業界から離れることにしたわけだ。(略)

教えることが大好きだったケイは、自分で音楽関連の書籍出版社を立ち上げようと思いついた。初の自著、『エレキベースの弾き方』が好セールスを収めたケイは、今度は主に上級者を対象にした音楽教室で自ら指導する仕事を始めたのだった。

ジム・ゴードンの悲劇

 シャーマン・オークスに暮らすゴードン家は、見かけの上では典型的なサンフェルナンド・バレーの中産階級家庭だった。父親は会計士で、母親は看護婦だった。よくしつけられた二人の子どもは、電話に出るときには必ず「もしもし、こちらゴードンでございます」と答えていた。(略)人生は健康的なテレビドラマのメイキング場面のようだった。

 しかし、幼いジェイムズ・ベック・ゴードンは物心ついたときから、この明るい陽光とアメリカン・ドリームに彩られた、金太郎飴のような世界に居心地の悪さを感じていたのだった。ゴードンは両親から溺愛されていたにもかかわらず、自分だけ取り残されてしまったような、不安でたまらない気持ちをぬぐい去ることはできなかった。彼は内気な少年でもあったので、友だち作りにも苦労した。食べることで気分は良くなったが、そのせいで彼は太りだし、精神的にもさらに不安定になってしまった。ディキシー・キャニオン小学校の同級生にデブと呼ばれ、嘲笑されることがなによりも嫌だったのだ。そんなことは絶対に間違っている。

 内面に動揺を抱えこんだゴードン少年に、問答無用の安らぎを与えてくれる存在がひとつだけあった。不安に怯える彼の心をやさしくなだめてくれる、ささやき声である。その親切な存在のことを、彼はただ「声」と呼んでいた。物心ついたころから彼の頭のなかに聞こえていたこの「声」は、彼の真の友人であった。「声」はいつでもゴードン少年に寄り添って、彼の心を導き、苦痛をなだめてくれるのだった。(略)

八歳になったときに空き缶をいくつも組み立てて、手作りのドラムセットを作ると、それからヒマさえあればラジオに合わせてそのドラムを叩くことに熱中するようになった。若くして才能の片鱗をのぞかせた息子の姿に感激した両親は、彼に本物のドラムキットを買い与え、高い金を払って地元のプロの手によるレッスンに通わせた。(略)

15歳になるころには、彼をワールドクラスのドラマーだとみなす人は多かった。

 ハンサムで背の高い、巻き毛の青年となったジム・ゴードンは――相変わらずやや肥満気味ではあったものの――(略)学校でリーダー格となった(略)ジルという美しい金髪のガールフレンドまで手に入れたのだった。

 人生は上々だ。「声」ですら、そうささやいた。

(略)

 1963年の半ば、典型的なアメリカ人の好青年のような身なりを整えたジム・ゴードンは18歳の誕生日を目前に控えながら、偽造した身分証明書を使ってエヴァリー・ブラザーズとともに遥かイギリスまで飛行機で旅をした。(略)

 一緒に仕事をした誰もがゴードンをべた褒めするので(略)なんとあのブライアン・ウィルソン様からお呼びの声がかかり、『ペット・サウンズ』の歴史的セッションに数曲参加したのだった。それからというもの、ゴードンのキャリアは順風満帆だった。親切なハル・ブレインが自分のスケジュールに合わないレコーディング日程を彼にまわしてくれるようになったおかげもあり、次から次ヘトップアーティストとの仕事が舞いこんでくるようになったのだ。60年代の後半には、ブレインとアール・パーマーの二人をのぞけば、ジム・ゴードンはロサンゼルスのロック・アンド・ロール界でもっとも忙しいドラマーになったのだ。

 しかし、この時期に、ゴードンの清廉潔白なイメージは少しずつその輝かしい風格を失い始めたのだった。(略)

[ドラッグの]強烈な幻覚効果は、生まれつきパラノイアの傾向があったゴードンには悪い取り合わせだった。そして急激に、「声」は彼に害悪を及ぼすようになったのである。

(略)

 ニヶ月にわたってド派手な乱痴気騒ぎを繰り広げたマッド・ドッグス・ツアーの真っ最中のある日、特に深い理由もなく、ゴードンはガールフレンドのリタ・クーリッジの腕を引くと、その美しい顔面をおもいっきり殴った。そのしばらく前にレオン・ラッセルと破局していたクーリッジは、当時ジョー・コッカーのバックコーラスを務めながら、ゴードンと付き合っていたのだった。

(略)

彼の精神的なもろさに気がついている人間は音楽業界にはほとんどいなかった。彼は懐かしのホームコメディー『ビーバーちゃん』を思わせるような好青年で、フランク・ザッパにいたっては彼をスキッピーという愛称で呼んでいたほどだった。それに、少なくともその時点では、ゴードンの演奏にはひとつの乱れもなかった。

(略)

[70年代末には]「スピードボール」と呼ばれるヘロインとコカインの同時併用を好んだせいもあり、ダメージはさらに深刻になっていった。「声」と禁断症状でカッとなって突発的な癇癪を起こすことも多くなり、ときにはスタジオ内で異様な行動にでることもあった。(略)

[ドラマーとしての信用を完全に失い]スタジオでは誰も彼に近づこうとはしなかった。二度の離婚も経験した。彼のドラッグとアルコールヘの依存は軽減されることがなかった。ロサンゼルス中の精神病院に通ったが、ほとんど効果はなかった。このドラマーの人生はもうめちゃくちゃだった。

 1983年の7月3日の晩に、頭の中にとどろきわたる「声」に身も心も縛られ続けたせいで精神的にも感情的にも疲弊していたゴードンは、なんとかしてその状況から抜け出したくなった。「声」は彼の一挙一動を監視し、食事の際にもなにを、いつ、どれだけ食べるべきか指図していた。それだけでなく、「声」はもうゴードンにドラムを叩かせてくれなかったのだった。ゴードンは、「声」が母親の生身の声と一体化してしまったと考えた。なんとかしなくてはいけない。

 ハンマーと刃渡り八インチ以上のナイフを革のアタッシュケースにしまいこむと、ゴードンは白いダットサンに乗り込み、車でひしめく道路にそっと乗り出した。そして彼はバン・ナイズのマンションから母親の往むノース・ハリウッドのアパートを目指して東に向かったが、そのあいだすべての交通規則に忠実に従った。「声」は車の運転にはうるさいのだ。

 アパート正面の駐車場に車を停めると、ゴードンは二つの道具を入れたケースをつかみ、車から降りた。そして建物に向かって歩いていき、ベルを鳴らしたのだった。72歳の母親が足を引きずりながらドアをあけると、自分の末の息子が彼女を上からにらみつけるようにして立っていたので思わず彼女は驚いた。自分のすべての苦しみの源は母親だと信じきっているゴードンは、目の前の彼女に対してなにをしなければいけないか分かっていた。錯乱状態にある彼にとっては、それはすべて自己防衛のための策だったのである。この女は敵だ。殺らなきゃ、俺が殺られる。彼の表情はそう物語っていた。(略)

ハンマーで母親の脳天を激しく打つと(略)母親の胸めがけて、そのキラリと光る鋸状の刃を繰り返し振り下ろした。そうして、ついに目的が達成されたと分かった。「声」は――母親の声は――ようやく鎮まったのである。

 その翌日、母親の死を告げるだけのためにゴードン宅を訪れた警察は、激しい苦痛に心を苛まれ、リビングのカーペットに顔を埋めて泣いている彼の姿を見つけた。ゴードンは即座に自首し、パトカーの後部座席で抑えきれないほどの涙にむせびながら、「ごめんなさい、本当にごめんなさい、でも母さんは僕をずっと苦しめていたんです」と警官に言った。

[無期懲役で服役中](略)

ときには囚人仲間とバンド演奏をすることもあるという。

ディーン・マーティン「ヒューストン」セッション終了後、ちょっと重ね録りをさせてくれと言ったハル・ブレインは、スタジオにあったガラスの灰皿をドラムスティックで叩き

そのハンマーで金床を叩くようなビートは、マーティンの気だるそうなボーカルにウエスタン調のくっきりした輪郭を与えることに成功したのだった。

Sonny&Cher - The Beat Goes On (live)

D

ソニー・ボノが作ったFコードだけの「ビート・ゴーズ・オン」。その単調さにレッキング・クルーの士気は低下、ついに無頼派バーニー・ケッセルが「こんなに腕の見せ所のない曲は初めて弾くぜ」と一言。

[キャロル・ケイ]の意見では、このダラダラしたワンコードの曲はひどい代物だった。最初から最後まで、だらけっぱなしなのである。そこで自分のアコースティックギターでいくつかのベースラインを戯れに弾いているうちに、彼女はダン・ダン・ダン・ダ・ダン・ダン・ダ・ダン・ダンという跳ね回りたくなるようなフレーズを思いついた。

 ボノはそれを聞くとすぐにセッションを中断した。

 「それだ、キャロル!」彼は感極まって言った。

 「いま弾いてるのはなんのフレーズだい?」

[こうして救われた曲は二年ぶりのヒットとなり]

低調だったソニー&シェールのキャリアを破滅の道から救い上げたのだった。

モンキーズ

当初はラヴィン・スプーンフルという新人バンドを採用するつもりだったのだが、このプロデューサーニ人組は彼らの番組にピッタリな愉快な無法者たちを取り揃えるために、キャスト募集をかけることにした。(略)

[その簡潔な広告文は]

 「イカれてるぜ! 新番組に出演するフォーク&ロールのミュージシャン、シンガーのオーディションを開催。17歳から21歳までのアホどもを四人募集中。ベン・フランクのような元気ある連中を求ム。仕事をする勇気があるなら、面接に来るベシ」(略)

[最終候補]のなかには将来的に有名になるスティーブン・スティルスやヴァン・ダイク・パークス、そしてゲイリー・ルイスなどのミュージシャンの姿もあった。

2016-04-14 レッキング・クルーのいい仕事・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


レッキング・クルーのいい仕事 (P-Vine Books)

作者: ケント・ハートマン, 加瀬俊

メーカー/出版社: スペースシャワーネットワーク

発売日: 2012/11/16

ビリー・ストレンジとブライアン・ウィルソン

[ある日曜の午後、ビリー・ストレンジにブライアン・ウィルソンから仕事の依頼電話]

 「ブライアン、そうしたいとこだけど」ストレンジは返事をした。

 「今日は日曜だし、息子の世話をしてやらなきゃいけないんだ。それに、俺は今ギターを持ってないんだよ」

 バツイチの父親として、ストレンジは息子と過ごす時間をなにより楽しみにしていた。(略)

 「そうか、なら心配ないよ」ウィルソンは明るい声で言った。

 「息子も連れてくればいい。じゃあ、またあとで」

(略)

 35歳のストレンジは、この頃にはもうすでに業界屈指のスタジオ・ミュージシャンとしての地位を固めていた。彼はどんな弦楽器を手渡されても楽々と弾きこなしてしまうだけでなく、小さな文字で楽譜に書き込まれた注意書きの通りにその場で演奏する能力を持っていた。ストレンジはアレンジを生み出す腕にも長けていて(彼のアレンジによってナンシー・シナトラの「にくい貴方」は堂々とナンバーワンに輝いた)、それに今はプロデュースも行っていた。

(略)

 「ここだ、この部分を聞いてくれよビリー。ここに十二弦のエレキギターのソロが必要なんだ」

 「ブライアン、俺は十二弦のエレキギターなんて持ってねえよ」

 「よし、なら買えばいい」(略)

数分のうちに、二人の配達員が新品のフェンダーの十二弦エレキギターとフェンダーのツインリバーブ・アンプを担いでスタジオの裏口に現れた。どちらも日曜定休の店から届けられたのである。

(略)

ブライアンに頼まれた通り、のちに「スループ・ジョン・B」となる曲のちょうど真ん中に八小節のソロをさっと弾いてみせた。

「それだ!」ウィルソンは喜びのあまり大声をあげた。

「上出来だぜ、ビリー」

 そういうわけで、あまりにも急に始まったその世界一短いレコーディングセッションは終わりを迎えたのだが、最後のサプライズが待っていた。

 ストレンジと息子が帰ろうと立ち上がると、ビーチ・ボーイズのリーダーは百ドル札の束を取り出し、そこから何枚かめくって、ビリーの胸ポケットにしまった。

 「今日はわざわざすげえリフを弾きに来てくれてありがとな。ギターとアンプを忘れるなよ」

 ビリー・ストレンジは目を丸くしてその場に立ち尽くした。ニューアルバムを期限と予算の範囲内で完成させなくてはいけないというとんでもない重圧を受けた世界的に有名なプロデューサーが、自分に現金で五百ドルを手渡し、二千ドルをゆうに超えるだろう高価な機材を新品のままくれたのである。それもたった二、三分の仕事の報酬として。

『ペット・サウンズ』

 三ヶ月といううんざりする期間のあいだ、グレン・キャンベル、キャロル・ケイ、ハル・ブレインをはじめとするミュージシャンたちは『ペット・サウンズ』の制作に骨身を削った。ときには夜の七時から深夜過ぎまでスタジオで作業をすることもあったが、そのあいだにレコーディングされるのはせいぜい一曲といったところだった。次のセッションが始まる数時間後にそなえて睡眠時間を確保しておきたいブレインがドラムの脇で雑魚寝をするはめになったのも一度や二度ではなかった。(略)

 『ペット・サウンズ』の制作過程において、演奏に万全を期したかったウィルソンは、バンドの連中を手元に置いておきたかったのだった。(略)

[長期におよんだセッションのおかげで]ブレインは自分たちがブライアン・ウィルソンの心を読めるのではないかと思うほどだった。(略)

「神のみぞ知る」のパーカッションに「なにか」が欠けているのだがそれがわからなかったとき、ブレインは代わりにオレンジジュースのペットボトルをテープで巻き合わせて叩いてみたらどうかと提案した。ウィルソンはその結果に大満足だった。

 別のセッションで、ウィルソンはハモンドオルガンの足元にあるベースペダル鍵盤の音色がどうしても気にいらなかったので、オルガン奏者のラリー・ネクテルに床に寝そべって手を使って演奏するように指図した。どう考えてもオーソドックスとはいえない演奏法だったが、ネクテルもブレインも、レッキング・クルーの他のメンバーの誰だって、それに文句を言う人はいなかった。うまくいけばなんでも良かったのである。

(略)

[だが『ペット・サウンズ』のセールスは無残な結果に]

 「あんなブライアンは見たことがないよ」

その数週間後のある夜、ネクテルはブレインに言った。彼らはリリースを目前に控えた単発シングル「グッド・バイブレーション」の重ね録りのために大急ぎで設けられたセッションに参加していたのだった。

 「俺もだよ」ブレインはそう認めた。

(略)

 ベル・エアの上品なベラジオ通りに面したブライアン・ウィルソンの薄黄色に塗られた豪邸の門に立ち、呼び出しブザーを鳴らしたハル・ブレインは、なにかがおかしいと気づいた。1967年の秋のことだった。(略)

[ウィルソンが精神を病み、ドラッグ中毒にという噂が既に出ていた]

 はっきりとした理由はわからないが、スタジオの心臓部であるべきコントロールブースだけは奇妙にも一階ではなく二階のバルコニーらしき場所に設けられていた。この不吉の前兆を知らせるような気味の悪いブースには小さなスリット窓がいくつも並んでいて、階下の様子を脅迫的に見下ろしているのだった。まるで中世の戦争に用いられた要塞のようだった。音楽を作るのにうってつけの環境とは到底いえないな、ブレインはそう思った。(略)

三時間のセッションからはなにも生まれなかった。(略)

 その日の帰り道、レッキング・クルーの何人かが誰かの姿をちらっと目撃した。あれは一体ブライアン・ウィルソンだろうか? 少なくともぼんやりと彼に似た誰かではあった。ゴールド・スターやウエスタン・レコーダーズで彼らの演奏を指揮した、あの愛想の良く、身なりのよい、精力的な男はもういないのだ。そこにいたのは、汚らしい髪に、ふるびたバスローブを身にまといスリッパをはいた肥満体型の男だった。影の中をなにも言わずに通りすぎたその男の目つきは――目つきとは到底いえないようなものだったのだが――彼らを透かしてその向こう側を見ているかのようだった。名高いプロデューサーであり、音楽界のスターだった男が、自分自身の殼の中の世界に閉じこもってしまったことは明らかだった。そしてその世界にレッキング・クルーはお呼びでないのだ。

 ミュージシャンたちは驚いて立ち止まった。

 「よう、ブライアン。調子はどうだい?」彼らの一人が言った。

 ウィルソンは返事をしなかった。

 「ヘイ、ブライアン。会いたかったぜ」別の一人が言った。

 それでも返事はない。

 アメリカでかつて一番の人気を博したバンドのリーダーが、重い体を引きずるように薄暗い廊下に姿を消してしまうと、言葉にできない悲しさがあたりに漂った。彼らの目にした光景に胸が張り裂けそうになっただけではない、自分たちが過ごしたたぐい稀な時間が、世界を変えた時間が、ついに、正式に終わりを迎えたのだと彼らは気づかされたのである。もう二度と、あの時間は帰ってこないのだ。

 ブライアン・ウィルソンとレッキング・クルーは五年近くのあいだスタジオで家族同然の時間を過ごし、二十二曲という先例のないほど多くのシングルをトップチャートに送り出したのだったが、ウィルソンはもはやレッキング・クルーのメンバーが誰だったかさえ覚えていないようだった。

「明日に架ける橋」

 ガーファンクルとネクテルが完成させた素晴らしいテイクをコントロールブースで聴きながら、ブレインはどういったわけか、囚人の群れに鎖に繋がれ、足を引きずりながらぬかるんだ道を歩いている気の毒な男の姿を思い浮かべ続けていた。(略)

 「もしよければ、この部分で試してみたいアイデアがあるんだ。ちょっと変に思うかもしれないけど、うまくいくかもしれない」

 もちろん、ブレインがサイモン&ガーファンクルのセッションで並外れたアイデアを思いついたのは今回が初めてではなかった。その数ヶ月前、(アルバムから最初にシングルカットされた)「ボクサー」のレコーディング中に、このデュオは「ライラライ」と繰り返されるコーラスの合間にメリハリをつけるための破裂音を加えたくなった。最大限のエコーを引き出すために密閉空間が必要だったので、サイモンはブレインをニューヨークまで呼び出した。するとヘイリーはコロムビアのエレベーターシャフトの一番下までブレインを連れて行き、そこで彼にスネアを思いっきり叩かせたのだった。

 サイモンの了承を得たブレインは今回、駐車場まで行って車のトランクからスリップ防止のためのチェーンを引きずり出した。それから数時間のあいだブレインは機材倉庫にしゃがみこみながら、その頑丈な鉄の鎖をセメントの床に叩き付け、その音を遠くから録音させた。一拍目でまず引きずり、二拍目で床を打ち、三拍目でまた引きずると、四拍目でまた床を打ったのだ。この素晴らしいアイデアは曲の三つ目のバースから壮大なエンディングまでパーカッションの一部として組み込まれることになった。

(略)

 ラリー・ネクテルに関していえば、「明日に架ける橋」に残した不滅のアレンジによってグラミー賞を獲得するまでに至ったのだった。雇われプレーヤーであるにも関わらず、卓越した演奏技術を評価されてグラミー受賞までいったのはレッキング・クルーのなかでもネクテルが最初で最後だった。(略)[「明日に〜」の大ヒットで]ネクテル、ブレイン、オズボーンの三人はロック・アンド・ロールの世界で最も熱い期待を集めるリズム隊になったのだった。

「俺にリズムを合わせろ」

 サイモン&ガーファンクルのエンジニア兼プロデューサーであったロイ・ヘイリーはよく「ジョー・オズボーンがミスをしたからってテープを止めなきゃいけないなんてことはあり得ないよ。だって奴は絶対にミスをしないからね」と言っていたぐらいだ。そして今度はアルパートがオズボーンのレッキング・クルー仲間であるハル・ブレインをカーペンターズのセッションドラマーとして推薦した。もちろん、ティファナ・ブラスの数多くの大ヒット作でドラムを叩き、アルパートを長年のあいだサポートしていたのがブレインだった。(略)

「遥かなる影」の演奏にギタリストのルイ・シェルトンと取りかかったブレインは、その体に深く染み付いたリズム感で、リチャード・カーペンターのピアノ演奏のリズムがどんどん先走っていることに気がついたのだ。(略)

 皮肉にも、その数年前にブレインは、まだ駆け出し時代のルイ・シェルトンがレッキング・クルーとスタジオで初めて一緒に仕事をした際、同じような状態に陥っていることを気に留めたことがあった。ブレインはその時シェルトンに言った。

 「ルイ、お前のギターはかなり気に入ってるし、お前はこの業界でこれからも良い仕事ができると思う。けど、さっきから少しリズムが先走ってるんだ。いいかい、レコーディングの現場ではドラマーが神様なのさ。俺よりも先に拍子を変えられちゃ困るぜ。とにかく俺にリズムを合わせろよな」

 ブレインのこの言葉を心に刻み付けたシェルトンは、モンキーズの「恋の終列車」の冒頭の有名なギターリフをはじめ、それから数多くの偉業を成し遂げていった(のちにシールズ&クロフツのすべてのヒット作をプロデュースしたのも彼だった)。彼にとってそれは目から鱗のアドバイスであり、大きな勉強になったのだ。(略)

ロック・アンド・ロールのセッション界における長老であるブレインから間違いを正されたことをきっかけに、(グレン・キャンベルの親友でもあった)もの静かで控えめなシェルトンはいわゆる業界の「お抱えプレーヤー」としての役を得たのだった。シェルトンは、レッキング・クルーの常連メンバーとして引っ張りだこの存在になれたこともあって、生涯にわたってブレインのこのアドバイスに感謝し続けた。

 さて、ブレインはどうにかして同じような知恵をリチャード・カーペンターに授けなくてはいけなかったのだが、カーペンターはミュージシャン仲間であるだけでなく、そのセッションにブレインを呼んだアーティストでもあった。勇気を出して物言いするにも、うまく立ち回らなくてはいけない。

「リチャード、ちょっと待った」ブレインはそう言うと、演奏を一時中断した。「こんなテンポの速い曲にしたいのかい?」

「どういうことだい?」

 カーペンターはキーボードの演奏もアレンジの腕前も優れていたが、テンポがかすかにズレていることに気がついていなかったのだった。(略)

 「ピアノがちょっと速くなってると思うんだ。試しにクリック・トラックを使ってみるってのはどうだい?」

(略)

「遥かなる影」のレコーディングが進むうちに、ブレインはまた違うことに気がついた。そこで彼は休憩のあいだにカレンに話してみることにした。

 「ねえ、これは俺が話すべきことじゃないのかもしれないけど」

 ブレインは慎重に話を切り出した。

 「ひょっとしたら違うキーで歌ったほうがいいんじゃないかな」

 長年にわたってペトゥラ・クラークやバーブラ・ストライサンドなどの大物シンガーと仕事をしてきたブレインは、女性ボーカリストの長所を引き出すにはどうすればいいか、直感を働かせることができるようになっていたのだった。そして今回のケースで言えば、カレン・カーペンターが類まれな才能の持ち主であるのに関わらず、彼女が歌っているピッチが高すぎると彼は感じたのだ。彼女は本来、もっと低いキーで歌うのが理想的なのである。

 「でもこのキーでリハーサルをしたのよ」

 カレンはそう答えると、事実確認のために近くに座っていた両親のほうを見た。彼女の両親、ハロルドとアグネス夫婦はブレインがおせっかいでなにを言おうが気にしていなかった。

 「駄目よ、それがカレンの歌い方なんだから」アグネスは冷たく言い放った。

 「それに、このデュオの花形はリチャードなのであって、カレンはドラマーでしかないわ」

 ブレインはすぐに引き下がり、この話題をそこでやめにした。(略)

家族がからんでいる仕事に口をはさむのはリスクの高いことだった。しかし、その夜にミュージシャンたちと最後の仕上げをしていたブレインは、カレンが結局違うキーで歌ったことを知った。

[「遥かなる影」は四週連続ナンバーワンに]

終焉

 レノンのアルバム『ロックンロール』のレコーディングが1973年の12月に終わりを迎えるころには(略)、レッキング・クルーは就職難が自分たちの仕事に明らかな影響を及ぼしていることを感じていた。実際のところ、ロック・アンド・ロールの仕事数が大幅に減っていることにずっと気がついていたメンバーも多かったのだ。AMラジオのチャート番組が消え始めたこと(さらに楽曲の時間が長くなったこと)がその一つの理由だったが、それよりも音楽業界をとりまく状況自体が変化したことのほうが深く関係していた。業界の流儀が変わり始めていたのである。プロデューサーやアレンジャーは自由契約のセッションミュージシャンたちにすべてのパートの演奏を肩代わりさせるという、かつて猛威をふるったやり方に魅力を感じなくなってきていた。アメリカやドアーズなどのロサンゼルスを拠点として次々とヒット作を生んでいた有名バンドでさえ、前期作品ではレッキング・クルーの助けを借りることもあったが(ハル・ブレインとジョー・オズボーンは「ヴェンチュラ・ハイウェイ」に、ラリー・ネクテルは「ハートに火をつけて」に参加している)、その後は自分たちの力でレコーディングをするようになったのである。

 大手レーベルもまた、ひと足ふた足遅れ気味ではあったものの、アメリカの若者たちの気概をリリース曲に反映するために、60年代の後半から70年代の前半までには自分たちですべての楽器演奏を担当したいと主張するアーティストたちとの契約をすすめるようになった。パッケージングの上手さはもう流行遅れなのだった。内容に嘘がないこと、つまりリアルであることこそが新しい哲学だった。イーグルスや、スリー・ドッグ・ナイト、シカゴ、ドゥービー・ブラザーズ、そしてフリートウッド・マックのような、自分たちですべてを取り仕切ることができるバンドが人気を高めていくにしたがって、レッキング・クルーのキャリアもまた危険にさらされることになったのである。

 それだけでなく、技術の発達が大きな影響力を持ち始めていた。48トラックのスタジオは言うまでもなく、シンセサイザーやドラムマシーンが登場したことにより、多くの場合では(シンガーだけのレコーディングはとくに)必要にあわせて一人か二人のミュージシャンを起用し、何パターンものベースやギターを弾かせ、個別のトラックを重ねて録音したほうが楽だし、コストもかからなくなっていった。(略)

(スペクターのように)ギャラの高いプロミュージシャンを大きなスタジオに一度に何人も集めてレコーディングをする必要もなくなった。時代は変わってしまったのだ。今やすべての仕事をバラバラに、安上がりに仕上げることが可能になったのだ。

 ややこしいことに、ハングリーな若手セッションミュージシャンたちが、まだありつけそうな仕事が残っているならばなんだってかすめ取ってやるうと待ち構えていた。それはちょうどレッキング・クルーが青いブレザーにネクタイを着用した先輩連中にたいしてしたのと同じことだった。彼ら新人たちはさらに、より現代的で「カリフォルニアらしい」サウンドと感性を持ち合わせていたので、1970年代のシンガーソングライターたちが得意とした、まろやかなアコースティックサウンドにはぴったりだった。(略)

好むと好まざるとにかかわらず、聖火は次のランナーの手に渡ったのだ。

 70年代の半ばには、キャロル・ケイや、ゲイリー・コールマン、アール・パーマー、ドン・ピーク、ビル・ピットマン、ミシェル・ルビーニ、そしてトミー・テデスコなどのメンバーはすでに映画やテレビのサントラ制作の仕事に主戦場を移し、時にはジャズの演奏にも手をのばしていた。ロック・アンド・ロールではもう飯が食えなくなっていたのだ。バーニー・ケッセルのように、ソロアーティストとしてアルバムを発表するメンバーも数人いた。ジョー・オズボーンがナッシュビルに移ると、フランク・シナトラからナッシュビルのレコード会社を経営してほしいと頼まれたビリー・ストレンジもそれに続いた。ラリー・ネクテルはブレッドというバンドに加入した。マイク・ディージーはロック・アンド・ロール仕込みの牧師として再出発を果たした。ライル・リッツは世界最高のウクレレ奏者としての地位を手にした。アル・ケイシーはフェニックスに引っ越し、セッションで演奏したり、音楽教師の仕事をしたりした。レッキング・クルーは、そのほとんどが散り散りになっていったのだ。

 そして、グレン・キャンベルはどうだったかといえば、1972年の7月に冠番組である『グレン・キャンベル・グッドタイム・アワー』が終了すると同時に、ヒット曲にも見放され始めていた。(略)

[だが「ラインストーン・カウボーイ」という曲で返り咲き]70年代のあいだ大ヒット作を楽々と発表できるようになった。

(略)

 しかし、ハル・ブレインはいまだに現役を続けている数少ないベテランとして、ロック・アンド・ロールの仕事はなんでも引き受けていた。(略)

大物ミュージシャンのセッションに呼ばれることはじわじわと少なくなっていった。そこで彼はバドワイザーやりコカコーラ、そしてグッドイヤーのような大手企業を相手に短いコマーシャルソングを作る仕事の数を増やし、収入を補うようになった。ギャラは良かったが、いつでも満足感を得られるような仕事ではなかった。しかし、ブレインが身を託した業界はめまぐるしく様変わりしつつあったものの、彼のドラムの腕が発揮された最後の大ヒット曲が、まもなくひょんなきっかけで舞いこんで来るのだった。

(略)

 「デニス、無知を承知で聞くんだが、そのキャプテン&テニールってのは一体どこのどいつだい?」

 ドラゴンは微笑んだ。

 「あんたも知っているはずさ」彼はブレインの記憶を呼び覚まそうと、そう返事をした。

 「一月に俺の兄貴と、その奥さんとパラマウント・レコーディングでしたセッションだよ。覚えているだろ?」

 ああ、あのセッションか。ひょっとしたら、[「あなたが演奏しているんじゃない」と]妻が口にしていた曲はこれだったのかもしれない。

(略)

「愛ある限り」はヒット曲どころのさわぎではなかった。さらに単にナンバーワンに輝いただけでもない。この曲はいたるところでガンガン流れるようになり、キャプテン&テニールを一夜のうちにスターにしてしまったのである。(略)

 しかし、「愛ある限り」を最後にハル・ブレインの比類なきキャリアは低迷の一途をたどっていった。70年代が終わり、80年代に突入するころには、ジョン・デンバーとの仕事はとっくに終わっていて、まるでかつてスタジオで使用されていた4トラックのテープレコーダーのように、どんなセッションにも呼ばれなくなってしまった。そしてブレインはついに引退を決めたのだった。

「エコーはどうした?」とスペクター

[92年復活したフィル・スペクターのためにレッキングクルー再集結]

 スタジオ56の若い経営者たちが伝説的なプロデューサーであるフィル・スペクターの好むレコーディング方法をまったく知らないということは、最初から明らかだった。巨大なマルチトラック機材があるにもかかわらず、数本のマイクしか使用できないこの環境は、明らかに多重録音を繰り返すために設計されており、一度に三十人近くの大所帯を詰めこんで、一人一人に個別の入力信号を必要とするようなレコーディングを行うのは不可能だったのだ。

(略)

若手の専属エンジニアがテープを回すと、流れてくる演奏は上出来だった。良い曲に仕上がっている。しかし、ひとつ決定的な要素が抜け落ちていた。スペクターサウンドの代名詞であり、彼が録音したすべての音をつなぎ合わせる要素であるエコーが欠けていたのである。スペクターがモニターでレッキング・クルーの生演奏を聞いていたときには聞こえていたのだが、それがなぜか消えていたのだ。

 「エコーはどうした?」困惑したスペクターはエンジニアに尋ねた。

 「ああ、えっと、うちのスタジオはエコーをかけて録音しないんです」

 この若造はさりげなく返事をした。

 「とりあえずそれはモニタリング用のテイクです。エコーなら、あとでミックスダウンのときに付け加えられますから」

 ミックスダウンのときに、だって? スペクターは絶句しかけた。こいつらは俺が数時間かけて念入りになにをしていたかなど、まったく理解していないのだ。それでも、どこか別の場所を探してもしょうがないことだった。このスタジオがこうやってセットアップするなら、他所に行ってもおそらく同じことだろう。古き良きゴールド・スターが、スペクターにとっての最後の砦だったのだ。

 「これでセッションは終わりだ」

 スペクターは隣の部屋で期待しながら待っているミュージシャンたちに向かって、マイク越しにぶっきらぼうに言い放った。それから、ほんのすこし物憂げな口調で、彼は優しくこう付け加えた。

 「ありがとう、みんな。素晴らしい演奏だったよ」

次回はキャロル・ケイ・ヒストリーとジム・ゴードンの悲劇。

2016-04-12 レッキング・クルーのいい仕事 このエントリーを含むブックマーク

肝心のスタジオ・ミュージシャンの話は次回になります。


レッキング・クルーのいい仕事 (P-Vine Books)

作者: ケント・ハートマン, 加瀬俊

メーカー/出版社: スペースシャワーネットワーク

発売日: 2012/11/16

ウォール・オブ・サウンド

レヴィンの目の前ではいくつものメーターがレッドゾーンまで振り切れかけていて、音量が許容域をはみ出したために音割れが生じている危険を知らせていた。

 レヴィンは深呼吸をすると、怒りを買うであろうことを承知でフェーダーを一斉にオフにした。

 信じられないといった様子のスペクターが恐怖の視線を送った。

 「なんてことしてくれたんだ、畜生!」彼の怒りは爆発した。

 「もうちょっとのところだったんだぜ! もうすぐで目当てのサウンドが手に入ったんだ!」

 「ごめんな、フィル。だけどこれ以上の音量は無理だったんだ。あれじゃ録音なんてできやしない」

 スペクターは椅子にどっと倒れこみ、やる気をなくしてしまった。(略)

[申し訳なく思い、レヴィンは元よりも全体の音量を下げフェーダーを元の位置に戻し始めた]

 現場のミュージシャンたちがまた曲を演奏し始めると、レヴィンは極度の注意を払って二本のアコースティックギターの音量を上げた。ここまでは大丈夫だ。それから彼はゆっくりと三本のベースの音量をそれぞれ上げ、さらにピアノの三重奏を、そしてサックス、ドラムとパーカッションと続けていった。悪くない、と彼は思った。あともう少し、残るはひとつ。

 しかし、レヴィンがエレキギターの音量をコントロールする最後のフェーダーに手をのばしたその時、スペクターがとつぜん叫んだ。

 「ストップ!それだ。それで完璧だ」

 レヴィンの手はその場で固まった。

 「おい、エレキはどうするんだ? まだ音量を上げてないぜ」

 「いいから、なにも触るんじゃない。このままのサウンドがいい。録音しちまおう。今すぐにだ」

 沢山の楽器が小さな空間にすし詰めにされているので、偶然にも隣り合わせたいくつものマイクがエレキギターの音をひろいあげ、そのファズ効果のかかった音色が、あたかも最初からそう計画されていたかのように、混じり合う音のなかに巧妙にとけ込んでいた。

 ギターの音色そのものにも工夫があった。ギタリストのビリー・ストレンジ(スティーヴ・ダダラスが好んで使うミュージシャンの一人だった)は生音に近いほうが曲にあうと思い、フェンダーのツインリバーブの裏から四本の6L6GC出力管の中の一本を抜いていたのだ。スペクターが驚くほどいい音色だった。だから彼はトップミュージシャンとだけしか仕事をしたくないのだ。(略)

ボビー・シーン、ダーレン・ライト、ファニタ・ジェイムズの歌声がそれに乗ると、もはや特別な曲が生まれたのだということを疑う者は誰一人としていなかった。ロック・アンド・ロール史が永遠に塗り替えられたのだ。

Jan and Dean Live - Little Old Lady from Pasadena

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「パサデナのお婆ちゃん」

[1964年]新年の伝統行事であるトーナメント・オブ・ローゼズ・パレードが行われる通りを運転しながら、由緒ただしいオールドタウン地区の情景やざわめきを見ていると、小さなおばあちゃんが黄色いド派手なフォードの32年式デュースクーペを飛ばして現れるという光景がアルトフェルドの頭にパッと浮かび上がった。ふとした思いつきだったのかもしれない。もしくは、コメディアンのジャック・ベニーがテレビ番組で演じていた「パサデナのお婆ちゃん」が売りに出した中古車をめぐるコントに出てくるジョークのことが念頭にあったのかもしれない。(略)

アルトフェルドは熱心なジャン・ベリーと一緒に、架空のスピード狂おばあちゃんについてのミュージカルを構想しはじめた。

(略)

予算の都合上、三時間のセッションで五曲もレコーディングしなくてはならず、時間に余裕がまったくなかった(略)

 ブレインとパーマーが綿密に打ち合わせしてダブルドラムの譜割りを作る作業に(ベリーは二台のドラムを細部にいたるまで完璧なユニゾンで鳴らすことで大きなサウンドを作るのが好きだった)リハーサル時間のほとんどが費やされた(略)

 「ア・デュース・ゴーアー」というタイトルの最初の一曲に着手すると、レッキング・クルーはそれをたったワンテイクで音源を仕上げてしまった。ここまではいい調子だ。次に演奏したのは「マリブ・ビーチ」、さらに「リトル・スクール・ガール」、続いて「ゴー・ゴー・ゴー」とレコーディングを進めた。万事順調だった。(略)

[残り]あと十分となっても、おばあちゃんと彼女の愛車について歌ったヘンテコな名曲にはまだ手を触れないままだった。(略)さらに運の悪いことに、その日は偶然にも組合代表がその場で待ち伏せしながら、このぜいたくなセッションに監視の目を光らせていた。一秒でも残業が発生すれば、その時間をちゃんとセッション記録に記載するよう圧力をかけていたのだ。

 テープレコーダーの故障のせいで出ばなをくじかれたメンバーたちがすぐに持ち場に戻ると、もう三分しか時間が残っていなかった。(略)ピリピリとしたムードはもう爆発寸前だった。次のテイクで仕上げなくてはいけない。

 しかし、スネアのタイミングをぴしゃりと合わせたハル・ブレインとアール・パーマーのドラミングによって、関係者全員のピンチは回避されたのだった。ジャン・ベリーの仮歌だけをガイドにしながらドラムを叩くこの二人は、瞬く間にレッキング・クルーの他のメンバーたちを奮い立たせ、そのひとつのすき間もない怒とうの演奏は小躍りしたくなるようなトラックヘと変貌していった。最後の音を鳴らし終わった瞬間に、時計が予定の三時間に終了を告げた。組合のスパイにはお帰りいただこう。おばあちゃんは時間きっちりにフィニッシュラインを通過したのだ。

(略)

1964年にはすでにレッキング・クルーにとってこんな事態はよくあることだった。プレッシャーを受けながらも手早く完璧な演奏ができるというのが彼らの持ち味だったのだ。(略)ロサンゼルス中のプロデューサーが締め切り間近には給料を倍に跳ね上げてまで彼らを揃えたがったのである。バンドの正規メンバーがレコーディングで受け取る額と照らし合わせれば、その金額は三倍にものぼるものだった。

I Got You Babe - Sonny and Cher

D

ソニー・ボノ

[音楽宣伝マン稼業に嫌気がさし、自身でヒット曲を飛ばそうと、強引な売り込みで西海岸広報としてフィルスペクター帝国に食い込んだ。すぐに右腕となり、コーヒーを買いに走り、夜食に付き合い、といった雑用をこなしつつ、ヒットメイカーのノウハウを盗んだ。]

手持ち無沙汰なボノの髪がこれ以上薄くならないように、スペクターはハル・ブレインに頼んでタンバリンや他の当たり障りのない打楽器をソニーに担当させた。ずっとまわりをフラフラされるくらいならなんだってよかったのだ(略)

 「ビー・マイ・ベイビー」の25テイク目でカスタネットをファンキーに打ち鳴らそうと躍起になっていたボノの弱々しく鈍臭い演奏は、いつもは辛抱強いはずのスペクターにとっても見過ごせないほどだった。

 「ソニー、さすがのスイングだぜ」

 お世辞めいた調子でスペクターが言うと、その皮肉に気がついたレッキング・クルーのメンバーたちがどっと笑い声をあげた。ボノがビバップ歌手として成功を収めることになろうとは、誰も知る由もないことだった。

(略)

『ア・クリスマス・ギフト・フォー・ユー・フロム・フィルズ・レコード』の製作に費やした長いセッションの期間には、ボノはその鋭い観察眼によって自分が待ち望んでいたものをつかみ取ったのだった。自分の曲を自信をもってプロデュースするために必要な手順が彼のアタマにくっきりと描かれたのだ。今やボノには自分にそれができることを確信していた。楽器は弾けないかもしれない、歌だってうまくはないかもしれない。しかし、彼はその業界のトップに君臨する人間からどの要素をどのように組み立てていけばいいのかということを学んだのだった。つまり彼はヒット曲の作り方を学んだのだ。彼に今必要なのはそれを試す機会だけだった。

(略)

[64年、チャート40位にも食い込めなくなったフィルズ・レコード]

「恋の雨音」という曲を聴いたDJは、はっきりと顔をしかめ、スペクターの大きなサウンドに感激する人間はもういないという意見をボノに告げた。世間の趣味は変わりはじめていた。(略)

 「レノンとマッカートニーの最近の動向を知ってるかい?」とそのDJは尋ねた。

 ボノは意気消沈しながらも、このDJの言っていることは正しいとわかっていた。チャートは嘘をつかないのだ。(略)

[電話報告で]ボノは致命的な判断ミスをおかした。DJの発言以外にはなにも報告しなければいいものを、ボノはショックを和らげようとして、こう付け加えてしまったのだった。

 「フィル、サウンドを変えなくちゃいけないと思うんだ」

 スペクターにとってはその一言で十分だった。

(略)

[クビになった]ボノは自分のガールフレンドとボーカル録りをすれば活路が見いだせるかもしれないと思った。彼女は美しい黒髪を持った、ボノよりも11歳年下のティーンエイジャーで、力強いヴィブラートとスター性あふれる存在感を持ち合わせていた。彼女とデュオを組めば、キャリアを築くことができるかもしれない。(略)

[18歳のシェリリン・ラピエール(愛称・シェール)とデュオを結成し]レッキング・クルーのメンバーを一人当たり15ドルという値で雇い、組合を通さずに自費製作のデモをいくつか作った。さらにボノはその人脈をいかして、新曲の販売元としてリプリーズ・レコードとの契約を手にした。そうして発売されたシングルのうち、「ベイビー・ドント・ゴー」は1964年後半にロサンゼルスのローカル・チャートで堂々とした結果を出した。(略)しかし、全国区での人気を得るにはほど遠く、収入も名誉も中途半端なものにすぎなかった。

 そんなことを考えながら、ボノは椅子に深くもたれ、長いため息をついた。こんな夜は眠ろうとしたって無駄だった。もう一度前屈みの姿勢になると、彼はぼんやりとしたまま近くのクリーニング店から届いた薄いダンボールのうえに一見バラバラな歌詞のアイデアを書き綴りはじめた。(略)

その夜にかぎってボノは歌詞を書けば書くほど、自分が実際になにかをつかみかけているような気分になった。彼は自分の感情にまかせて連想をするうちに、思いがけず夫婦関係の本音に近づいていた。シェールとボノはまだ成功にはいたっていないし、豊かな生活にもまだ縁が薄いとはいえ、少なくともこの感情だけは失ったことがなかったのだった。

 歌詞のおよそ半分を仕上げると、にわかに活気づいたボノは階段を駆け下りて、作曲のためだけにガレージにしまってあった安い中古ピアノヘと急いだ。彼の知っているコードはほんの一握りしかないうえに、それを上手に演奏することすらままならなかったが、それで間に合わせなくてはいけないだろう。溢れ出すひらめきにまかせて、歌詞とメロディーがボノの頭と指先から未だかつてない勢いで生み出されていった。自分の演奏力をフルに絞り出してピアノを鳴らすうちに、彼は一時間足らずで曲を仕上げてしまった。(略)

[「アイ・ガット・ユー・ベイブ」は英米で一位に]

「明日なき世界」「夢のカリフォルニア」

 19歳のP・F・スローンが、ある夜実家のダイニングテーブルで遅くまで作業していると、自分の内なる声がそのまま流れ出してきたような曲の着想を得た。それはスローンが辛抱ならないと思っていたいくつもの社会問題について神に必死に訴える内容で、当時は憎悪にみちた偽善行為が横行していて、黒人と白人のあいだの人種的不和は絶えず、選挙権すら与えられていない若いアメリカ人男子がベトナムの戦地に送られるという不義がまかり通っていた。「明日なき世界」とその曲を名付けたスローンはスティーブ・バリの力を借りて、メロディーと曲の構成を仕上げた。(略)

[バリー・マクガイアを起用し録音を終えても]まだバリは疑心暗鬼だった。

 「これはなんだか気の滅入る曲だぜ、フィル。バリーに歌わせるべきなのかわからない」とバリは言った。

 世界の終末を予期するような歌詞と、不吉な響きを持ったこの曲は、1965年当時のポップ・ラジオにとっては理想的なものではなかった。もちろん、ザ・バーズの登場によってこの年の始めにはフォークロックはラジオで流されていたし、メッセージソングは真新しいものではなかった。しかし、「明日なき世界」は完全に別物の曲だった。どこをとっても暗かったのだ。ダンヒルの人間はアドラーを始め、この曲はアルバム収録曲以上のものだとは思っていなかったし、よくてもシングルB面曲だろうと思っていた。

(略)

[スティーブ・バリがオフィスで聴いていると社長のジェイ・カスラーがちょっと聴かせろとテープを取り上げ、そのままこっそりラジオ局に持ち込んでしまった。ラジオで流れているのを聴いたルー・アドラーは激怒]

アドラーはこの曲は未完成だと思っていたのだった。彼の意見ではマクガイアのボーカルには録り直しが必要だった。マクガイアは不慣れな歌詞を歌うのにまごついてしまい、目の前の小さな手書き文字を読み取ろうと時間を稼ぐうちに、聴き取れるほどの声で「ああぅ」という苦悶を漏らしてしまったのだった。そんなプロフェッショナルとは言いがたいテイクを、ルー・アドラーがラジオで流してほしいわけなどなかった。

 しかし、KFWBは態度を変えようとしなかった。

「手放したくないね」ウィートリーは言った。

「こいつは『抱きしめたい』以来で一番リクエストの多い曲なんだ。お前さんたちは曲を勝手に仕上げて新しいバージョンをこっちに渡してくれればいいさ。でもこのバージョンはその間もかけさせてもらうからな」

 スマッシュヒットが目前だということに気がついたダンヒルの重役たちはそこでひっこんだ。彼らはマクガイアにもう一度スタジオ入りしてくれとも頼まなかった。彼の荒っぽいボーカルは結局のところ、これしかないと言えるような完璧な雰囲気をアレンジに付け加えることとなったのだ。P・F・スローンの心からの抗議をこめたこの曲は、のちに全国チャート1位を獲得し、ダンヒルに最初のナンバーワンヒットをもたらした。しかし、この奇抜な曲からさらにもうひとつのご褒美を得ることになることをダンヒル・レコードはまだ知らなかった。

(略)

 彼の旧友であったデニー・ドハーティ、キャス・エリオット、ジョン・フィリップス、そしてミシェル・フィリップスの最新曲を聞いたバリー・マクガイアは、彼らの特別な魅力に気がついた。ニューヨークとヴァージン諸島の小さなクラブを練り歩いてからロサンゼルスヘとやってきたこのツキに見放されていた四人組は、レコード契約を必死で探していた。彼らは野たれ死ぬ一歩手前の状態だったのだ。「明日なき世界」でスマッシュヒットを飛ばしたばかりのお人好しであるマクガイアは、彼らが音楽業界で連絡をとれる一番の人物だった。

(略)

 「おまえらはマジでいい声をしているよ」

 マクガイアはマリファナ煙草をまわしながら熱っぽく言った。

 「うちのプロデューサーのルー・アドラーの前で一曲歌ってみないかい?」

(略)

[「夢のカリフォルニア」を聴いたルー・アドラーは内心大喜びしつつ、そっけなく契約]

マクガイアのセカンドアルバムで彼らにバックコーラスを担当させた。しかし、レコーディングが進行するにつれ、誰が本物のスター歌手であるかは明らかになった。(略)

アドラーは言った。

 「この曲をバリーにはやらんよ。そういう約束をしたことは確かだが、そういうわけにはいかなくなった。この曲をお前たちのシングルにしたい」(略)

[ジョン・フィリップスからそう聞かされ]

 「もちろんさ、ジョン」すこしがっかりしつつも、マクガイアは寛大に答えた。「これはお前の曲なんだ。お前が作曲したんだから」

(略)

[広報マンに会わない方針のKHJディレクターに強引に会おうとするアドラー]

 「だからなんだってんだ」

 無愛想なジェイコブスはカッとなって言った。(略)

 「俺は忙しいんだ」

 「ロン、五分くらい会ってあげてもいいでしょう?」ブレネマンは食い下がった。

 「レコード室の裏でもいいじゃないですか」(略)

 「わかった、五分だけだからな」彼はキッパリと言い放った。(略)

 「これがうちの新人であるママス&パパスのファーストシングルです」

(略)

 「つまりお前はこんなイージー・リスニングみたいなクソ曲を俺に聞かせたくてうずうずしながら、ニッコデルで飲んだくれてたってわけか?」

 2分42秒の曲の再生が終わるとジェイコブスは言った。

 「こんな曲にチャンスなんてあるもんか」

 アドラーは手柄もなく、がっかりして帰ることになった。

 しかし、「夢のカリフォルニア」には奇妙なチャンスが待っていた。それから数週間のあいだ、KHJのスタッフの何人かにさまざまな二流ラジオ局から連絡が届いたのだった。サンバーナーディーノやサンディエゴなどの地元ラジオ局ではこの曲の評判が上々で、リクエストがどしどし届いているのだという。データは絶対に嘘をつかないと信じているジェイコブスが嫌々ながら「夢のカリフォルニア」をKHJのプレイリストに付け加えると、この曲はすぐにナンバーワンを獲得した。

次回に続く。

2016-04-10 出版幻想論・その3 藤脇邦夫 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。

ここ(出版幻想論 データハウスの秘密w - 本と奇妙な煙)の冒頭でも書いたように、著者は売上至上主義の人ではありません、念のため。1994年の本。


出版幻想論

作者: 藤脇邦夫

メーカー/出版社: 太田出版

発売日: 1994/05

角川春樹

 70年代の出版を変えたのは角川春樹である。(略)

エンターテイメントだろうと何だろうと他の出版社で目を向けられなかったジャンルや作家を発掘し(今だとその区別が分かりにくくなっているが)、ビジネス的に成立させたところに、彼の独自性と意味がある。それは当時の文壇の大御所クラスが原稿をくれなかったこともある。だが、角川春樹は、それ以前の『ラブストーリー』のヒットで得た実績で、エンターテイメントの原作なら映画のヒットによって、また、その本も売れるということを知っていた。しかし、日本ではそういう「エンターテイメント」そのものがあるかどうか分からない。

 ところが、この人は逆を考えた。本を売るために映画(テレビではなく映画という発想もスゴイ)を作ればいいじゃないか。(略)

文芸編集者は税金対策

 編集という職業ジャンルが、どこまでを指すのかわからなくなっているのも90年代の出版の特徴の一つだ。本当は企画を立てて、交渉して、入稿してレイアウトして、造本するまで全部を指す言葉であり、昔はそれをすべて一人の人間がやっていたハズである。(略)

もともと本作りは一種の個人作業のハズなのだが、今はすべて外注化されている。(略)

今は単なる請負仕事の一つにしかすぎない、会社の中のサラリーマン制作屋になっている。社内編プロとでもいうのだろうか。

 編集という言葉はもうない。今あるのは、営業企画と制作と販売、この三つだけだ。営業と編集という分け方はもう死語だといっていい。編集は制作といいかえ、営業は営業企画と販売に分かれる。(略)

[企画・制作もフリーを使い]しかも他の販売会社に営業をさせて売っている出版社もある(他に営業・販売を委託した方が安いという人もいるが、本当だろうか。一冊営業し注文総数五〇〇〇部で三〇万円というのがあるらしい。これを安いか、高いかは考え方次第だが、僕は金額のモンダイではないと思う。そういう発想自体が邪道だと思うのだ)。その全部の流れを見る進行役の誰かを編集と今はいうらしい。こういう人間が今、大手出版社に山ほどいる。

 どうしてそういうシステムになってしまうかというと、そうしないとノルマがこなせないのだ。すべてそれから派生している。つまりある人間の、団塊の世代ぐらいの給料を払うには、会社が損益を割り振ると、年間これぐらい出してもらわないとという、利益の数字が出る。そうするとそれをこなすためには、当然年間何冊かある程度の冊数を出さなければならないというノルマ(略)が発生する。当然、ノルマをこなすために、什事の何割かを外部に委託しなければならない。

(略)

 出版で一番恐いというか頭が痛いのが人件費で、固定費だから、毎月確実に出ていく。利益が出るか出ないか分からない本を作っているのに金だけは出てしまう。だから人を増やしたらやっていけない。だが雑誌は違う。別の計算でうまくいけば半年ぐらいはずっと売り上げを維持できるから経営的には一番安定したものになる(逆に売れないと赤字の額も確実に巨大なものになる)。(略)

 バブルの時、本を作って利益が出ても、人件費とか考えると、銀行に預けていた方がいいんじゃないかといわれたことがある。(略)

編プロ受注率が出版社を左右する

 大手出版社の社員が税金対策の出版をしている間、実は誰が出版というビシネスを支えていたかというと、編集プロダクションである。(略)

バブル時代の景気が良い時は、広告収入目あてに次々と雑誌が創刊され、当の出版社で作り手が足りなくなってきたことから重宝されだした。しかも編集者たちが人手不足とか、自分の時間が欲しいとかいい出して、仕事はしないし、新卒も入ってこない。入っても九時−五時で帰る。となると、本作りの専門家のところに仕事が行くのは当然だ。

 だが、この編プロの盛衰が、それに頼りすぎるあまり、また、出版を変えてしまった。つまり、当の編集者が考えることをやめてしまって、ただの進行役になってしまったのである。だからその編プロが作る本が売れなくなるにつれて、その出版社までおかしくなってしまうわけだ

(略)

 実際今、編プロは大変だ。編プロを支えたのは、実は出版と、もう一つメーカーのPR誌で、ギャラはいい、払いは早い、あまりゴチャゴチャいわない、取材費もふんだんだったから、結構いい時代だった。

(略)

問題は編プロだけではない。実は編プロ依存を続けてきた後遺症として、出版社が本当に脱け殼みたいな、ただ本を出すスポンサーみたいになってきたことの方がより本質的問題である。

(略)

円高におけるメーカーと一緒だ。工場は全部海外で、本社部門だけ日本にあるようになるのと同じことである。こうした信じられない外注化を支えているのか、70年代以前に取った口座の既得権(高い掛け率)だ。ここから生じる差額で管理費が捻出されているのだ。(略)

[外注化で]出版社のカラーがないどころか、まあ今はなくてもかまわない時代だが、誰が何をしているのかわからなくなる。奥付の出版社名にも意味がなくなってしまうと思うのは僕だけだろうか(たとえば、ある文芸出版社とか実用書出版社が、突然ロックとかジャズの音楽の本とか、若者向けのタレント本とか、ジャンルの違う翻訳書を出版する場合、背後には必ず編プロがいる)。

 僕は個人的には営業を外に委託した瞬間、その出版社は終わりだと思う。というのは絶対情報がフィードバックされない。(略)

 本書を書いた最大のモチーフが、売れる本の情報は書店にあり、それを企画化する営業こそが、出版社の命運をにぎっていると主張することであった以上、編集の外注化はともかく、こうした状況に強く異議をとなえたい。

本にも賞味期間がある

(略)[在庫は負担になるので]

今は、昔みたいに増刷を見込みでやらなくなったのである。五〇〇〇部作った本が全部売れて、注文が二〇〇〇たまったとする。でも、増刷をしない。三〇〇〇たまるまで待って、たまったら三〇〇〇で刷る。たまるまで待っているわけである。一〜二ヵ月たっても三〇〇〇たまらなかったら、しなくていい(保留注文スリップも戻した方がいい)。初版部数の四〇パーセントぐらいの返品はスグ帰ってくるからだ(どんなに売れた本でも、必ず二割は返品がある)。

 それからでも遅くない。完売したら終わり。その後は、何かのきっかけで、新装版にして、増補改訂版の形で一回流通させた方がいい(自分の例でいうと、89年に『コンプリート・スティーヴン・キング』を二八〇〇円、ソフトカバーで五〇〇〇部出版し、完売した。そして、三年後に追加の情報、新しい記事を入れて上製三八〇〇円(消費税込)、四〇〇〇部で完売、95年くらいにサード・エディションとして、四八〇〇円、函入りで三〇〇〇部完売できたらいいと思う)。

 これが、今のロングセラーのあり方だと思う。それ以外はもう物理的にできなくなりつつある。全国の書店三〇〇軒の常備で、そこに年に二回転ぐらいしかしない本を置いて売るという時代は、ハッキリいってもう終わったといっていいからだ。

 つまり、本にも賞味期間があるということだ。これはもう売れないのか、だったらもう一回売れるように、何か新しい物を入れて、もう一回出せばいいじゃないかということである。(略)

図書館は出版産業の敵だ

(略)「公共的な場が商業的な利益を侵食していいのか」、これはもっと声を大きくして言うべきだ。本当は国会図書館だけあって、必要な人間だけ行けばいいのである。(略)

 図書館の面白いところは、中間小説までフォローし、絶版の作品も持っているところで、古い中間小説はよく文庫化のネタの元になっている。ある出版社でどうしても元本が必要になって、図書館からのコピーで作った本があるくらいだ。つまり、あそこは出版の遺跡の宝庫であって、そういう意味での利用はあってもいいが(略)

出版における新商品とは

(略)85年は「ビジネス書元年」と名付けていたと思うが、この前後からバブルの真只中にさしかかり、横文字の翻訳やビジネス書が、値段が高ければ高いほど売れた。(略)

 だが、今、そのすべてが失速してしまった。ビジネス書を読む時間も金も余裕もなければ、誰もそんなただでさえ高い本を買おうとは思わない。さらに、文化を支えていた思想も哲学も、広告代理店の都合のいいように消費されてしまった。結局、ここ90〜93年の話題は、ヘアー云々に代表されるヌード写真集に席捲されたといえる。(略)

これがいかに取次の書籍売上げと書店の経営を支えているか、知る人は少ないだろう。ハードカバーで、しかも立読みを防ぐためにあらかじめパッケージしてある、二〇〇〇〜三〇〇〇円でページ数さえわからない(写真集にはノンブルはない)商品が棚差しで、日本全国どこでも、いつでも、また長く売れるというのはおどろくべきことだ。また、この価格がさらに書店にとっておいしいものになっている。実際、出版のマネーメイキングのイメージをコミックに次いで変えたのはこの写真集だといっていい。

(略)

 ところで、90年代に入って本の売れなさ加減は相当なものである。(略)

[マンガの売れ行きにかげりが出て]事態は深刻である。マンガに代わるマネーメイキング出版物はハッキリいってない。いかに写真集が売れても補うことができないくらい、その売上げは巨大である。

――となると、恒久的に本を売りつづけなければいけない出版界が考えた応急処置として、まことしやかに語られているのが、マンガの二次使用としての、文庫化である。(略)三年は売上げを維持できると考えているようだが、これはいってみれば、タコが自分の足を食っているようなもので(略)

追記・後に秋田書店が『ブラックジャック』の一挙文庫化でたやすくミリオンセラーを実現してしまった。

ただし、写真集の功罪というのもあって、あれで本というか写真集を作る制作費が上がりすぎて、もう何か映画の主演女優の交渉みたいになってしまい、いわゆる相対的に本の制作費が従来の本とは比べものにならない額になった。出版という、少ない制作費で利益を出そうという業界にとっては困る現象だ。ある女優の写真集で初版一〇万部。それでトントンだというから話はデカイ。価格が三〇〇〇円だから三億。三億で六五の掛で計算すると初版の制作費に一億以上かけていることになる。しかも前金で三〇〇〇万。

 これは契約料で、あとは印税である。さらに、カメラマンの印税が今は大きいのだ。カメラマンがコーディネーターみたいな役目をするようになってきて、「ああ、この人が脱ぎますよ」とか、「俺だったら、あれを話をつけてやってもいい」とかで、二次出版物を作らなければ合わなくなった。豪華本にするとか、逆に、文庫にするとか、一つのことで三回ぐらい商売しないと回収できない巨大な制作費である。だが、一冊の写真集に制作費一億というのはあまりにもリスキーすぎる。もうギャンブルみたいなもので、当たっているうちはいいが、それこそ、別の意味での出版の原点からかけはなれているのかもしれない。

90年代の出版界を予想する

(略)

 ?「文庫が別の意味での一般書になる」。ちくま文庫に代表されるように、文庫の方が価格設定が自由になり(略)小さくて価格が高いというのは販売(書店)にとって魅力的である。(略)

 ?「趣味・娯楽のムックが今以上に増える」。つまりは「サライ」型のムックが増えるということで、「太陽」なども雑誌でありながら、別冊、ムックという捉え方になっている。(略)

 ?「映画、音楽、文芸といった芸術分野がすべて雑誌の特集の形でしか成立しなくなり、単一の書籍の存在意義がなくなる」。88年代後半頃から、無目的に出た安易な翻訳のロック本、映画本はすべて雑誌の中の特集として片付けられる。あと、書籍として成立するのは資料(LD、CDリスト)的なものだけである。

 ?「本の売行動向を左右するのは読者と書店と営業だけであり、書評、広告、評論家などの存在意味がなくなる」。読者と販売側が作家や編集者以上の知識と選択眼を持った以上、不要な本はすべて淘汰される。

(略)

 ?「女性向けの形をかえたポルノグラフィーが静かなブームになる」。耽美小説からゲイ小説まで、今まで日本で未開拓の分野だっただけに、ブームの余波も長く続くと思われる。(略)

編集者40代定年説

(略)人数に応じた売り上げが期待できないのなら、リストラ以前に、編集と営業の二大部門の構成比を変えるべきだというのが、出版営業である僕の意見である。仮に人数三〇人の書籍だけの出版社で、一〇人の編集、一〇人の事務総務経理その他、一〇人の営業という比率はおかしい(雑誌だけの出版社だと、この構成比は全く違う。編集二〇人、営業、その他一〇人である)。どうしても全体人数である三〇人が動かせないなら、一〇人の事務その他は変わらず、編集一五人、営業五人という陣容はどうだろう。これで維持できないなら、それぞれの部署から、その比率に従って、人数を減らしていくだけの話である。これが、現在考えられる一番健康的な出版社の経営母体比率だと思う(実用書の出版社だと大体そうである)。

(略)

 僕が考えるに、書籍の出版というのは、いや、出版は書籍だけを出している限り、本来の意味の中小企業そのものではないのか? これは別に皮肉をいっているのではなく、そういう少人数による、パーソナルな制作物であるからこそ、小さな出版社でも一〇〇万部という夢も残されているわけだ(実際は、一〇万部でも同じ意味だと思う。というのは仮に一〇〇万部という部数などが出ると、逆に資金繰りから会社がベストセラー倒産してしまうからだ)。

 出版社の最低構成人員は三人だという。社長が経理と営業を兼ねて、営業事務が内勤で一人、そしてもう一人が、本の制作(編集?)という形である。このスタイルで創業した出版社は山ほどあるハズだ。そして、消えていった出版社も。このくらいの規模になると、取次の口座が消えない程度に、年に一〜二冊出版しているほうが維持できるという。赤字になった本を一冊出した時のリアクションの方が大きいからだそうだ。ここで、ロングセラーなる物が、意味をもってくる。そういう本をもっている出版社が一人の営業でコツコツ注文を取っている方が実利があるという。後向きの考えといわれそうだが、これが出版の原点であり、根源のような気もする。(略)

「カネを飼っているような本」の作り方

 今まで書いたことと矛盾するようだが、実は「本」は、今の日本で今時珍しい、利益率のいい商品という側面も兼ね備えている。もちろん、売れてからのハナシで、売れないと、徒労に近い労働量と非生産的な人件費に圧迫される、典型的な自転車操業の中小企業である。

 だから良書とか文化という自己満足が必要なのかもしれない。というのは、出版社で売れなくて倒産というのは、掃いて捨てるほどあるが、経営者が首をつったというのはあまり聞かない(本当にあったら、スイマセン)。せいぜい夜逃げぐらいである。

 初版五千から一万部の本が、それ以上売れて、間違って一〇万でも超えると(営業費も広告費もない場合に限る)、もうあとは紙代だけである。あながち札を刷っているようなものという表現はオーバーではない。これほどボロイ商売があるかと思うほどだ(残念ながら僕はマンガでしか経験したことがない)。メーカーでありながら、工場も持たずに、ただ活字を組んで、印刷した紙を綴じて製本したモノに、価格がついて商品になるのだから。

(略)

 だから今は、特別インテリでなくても、人が面白いと思って買ってくれることが書けて、たまたま運がよくて本が出ると、思わぬ金が入ってくることもある。昔はもっと「本」にする際の内容審査が厳しかったような気がする

(略)

 だが、そういうふうに「中身が軽い」本が売れるこの現実も、商品性という観点から考えるなら、話は別である。もう、それでいい時代なのだ。あのニューアカブームの頃の、中身のある(重い?)本(実際、重量もあった)の末路を考えてみればいい。あの時、どの出版社も中身が力タければカタイほどいい、なんでもかんでも本にしていたのだ。とにかく、それを買う人間がいて、また世間体も悪くない。となれば、それに一斉に右倣えになるのも当たり前である(この頃が編集者の能書きのピークだろう)。

(略)

中身でない、それに附随する他の条件についてここで書いておくと――

1.上製本ではなく、絶対にソフトカバーでなければならない。上製本ほど手間がかかるものはない。定価が二〜三〇〇円高くなっても、やめたほうがいい。最後は手作業になるので、大量生産に向かない。箱入りはもう論外(略)

2.仮に一〇万部突破しても、絶対に広告を打たない。他の媒体が記事にしてとりあげてくれるまで待つ。それだけで十分で、これは最終的に損益を考えるとよくわかる。

3.著者にきたテレビ出演、インタビューetc注文はすべて受けさせる(協力しない著者の本はもう増刷しない)。そのたびにまた売れる。

4.内容証明がこようが、週刊誌・新聞で叩かれようが、本が売れている限りは絶対に謝罪しない。そして、売れ行きが完全に止まってから謝罪する。

2016-04-08 出版幻想論・その2 安原顕対談 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。またまた著者の話ではなく、安原顕との対談を。


出版幻想論

作者: 藤脇邦夫

メーカー/出版社: 太田出版

発売日: 1994/05

94年5月に出た本なので、まだ肩書はリテレール編集長・安原顕となっているけど、対談の中で、『「リテレール」の最初の一年間の金主で、一年もたたぬうちに、僕らに四千万円もの借金を押しつけて逃げた、昔の竹内書店の同僚、天道』なんて話も出てきてる。

安原 (略)[大手の編集者が原価計算とか知らない]というのは、組合が強かった時代、中央公論の場合、原価計算を教えると、利益や粗利が全部分かっちゃう。となると組合が賃上げや労働条件の改善とかの話をしてきた時、都合が悪い。その当時の中央公論社は全集ブームで儲かっていたんだよ。『日本の歴史』は、一冊480円時代で、たしか各巻平均80万部も売れた。(略)

編集者たちは毎月三百時間の残業をやらされた。(略)当然、これだけ働き、会社も儲かっていたから、給料を上げろ、労働条件を改善しろと、労働争議に発展していったわけね。しかも、大手は分業制なので、制作は制作と、別々だから、一人の編集者が一冊の本についてトータルに関われない、関わらない。僕は小出版社をいくつか経て中央公論に入ったから、前の会社では多少原価計算もやっていたので、中公に入ってまず、その事に驚き、かつあきれたね。儲かる本を作らないと言ったって、最初から原価計算を教えていないんだから。

(略)

 さっき集英社の人と会っていたんですが、あの会社は四十代で年収二千万円なんだそうです。マガジンハウスや文藝春秋もそうですが。その他交際費、交通費といった諸経費を合わせると、約二千五百万円にはなると思う。会社はもっとかかる。まあ、集英社はマンガもあるし、バブルの頃は広告費だけでも年間二百億円あったから、どうせ税金で取られるんだから、どんどん払ってもいいんです。五千万円でもいいと思うの。ただ、これは集英社だから成立する話であって、平凡社や岩波書店ではなかなかむずかしい。(略)

しかも、岩波書店は体質的に、働く人は悪[土日も出社する奴は資本家の走狗と言われる]、働かない人は善みたいなところがあるでしょう。(略)

 でも、なぜそんな体質でもやっていけるのかというと、『広辞苑』があるからなのね。返品なしの買い切りで六千八百円だかの辞書が百万部以上でしょう。それはおいしいなんてものじゃないよね。卸しもわれわれとは違って73%掛けとか78%掛けとかでしょう。でも、友人に聞くと、その金はもうとっくに使っちゃったんだって。

(略)

藤脇 (略)[『広辞苑』新版発売時、岩波の社長が記者から]「岩波がめずらしく宣伝していますね」という問いを受けて「岩波といえども、黙って売れる時代ではないんです。広告費を破格に計上しました。そうしないと、もうやっていけないんです」と答えていた。いつものサイクルより早い八年で新版を出したので、僕はおかしいとは思っていたけれど。しかし、初めて聞いた、岩波書店の社長がそういったことを口にするのを。

(略)

藤脇 (略)安原さんが言われたような本[カラヴァッジオの『画集』とか古い文庫の復刻etc]を出すためにも、きちんとビジネスとして成立する本を片方で用意しておかなければならない。(略)

書店は、やはり一冊売れて幾ら、千円の本を売れば二百円入るということで物を考えざるを得ない。でも、そのどこがいけないのかと思う。商売なんだから。

安原 そこまでいうんだったら、僕は、まず再販制度をやめにして、取次も潰して、全部買い切りにすべきだと思う。それで淘汰されればいいんじゃないの。

(略)

藤脇 でも再販制度が崩れたら、日本の出版社の八割はなくなる。雑誌も出せなくなる。

安原 つぷれてもいいし、雑誌なんて出せなくなったっていいじゃない。元々出版社なんていまの一、二割ぐらいで、ちょうどいいんだよ。そのために藤脇君の会社やメタローグがつぶれたっていいじゃない。そうなったら僕は別の販売ルートを考えるから。雑誌だって、五割返品なんて当たり前なんだぜ。四色のヴィジュアル雑誌、280ページで十万部ぐらい刷ると、紙、製本、印刷だけでも、だいたい一億円はかかるのね、一号当たり。それで五割返本だと単純計算でも五千万円ドブに捨てたのと同じなんだよ、毎月。パルプの量だってベラ棒ですよ。地球に優しいとか、エコとか言ってるエコロジストは、なぜこの本の返品問題に殴り込みをかけないのか。

(略)

藤脇 でも、直販や買い切りとなったら、もう少し価格が上がらないと、書店も乗らないでしょう。

安原 そう。だから目黒考二さんが、本の値段は全部今の二倍でいいと言っている。ところがこれまた問題は大手出版社なんだよ。大手は原価計算なんて無視しているからね。例えば、純文学は売れないけどニ、三千部では少なすぎるので、五、六千部は一応刷る。もちろん半分は戻る。でも、定価を見るとたいてい千五、六百円でしょう。大手は他の商品で儲かってるから、こんな価格設定にしているけれど、これで何百人もの会社がやっていけるわけないじゃない。第一、小出版社では返品五割の本なんか作れないよ。だから三千六百円の定価を付けるとする。でも読者はそんなカラクリは分からないから、なぜこんなに高いのか、ってな話になっちゃう。

(略)

「リテレール」の場合、平均240ページで、紙、製本、印刷費で、だいたい四百五十万円。それに原稿料が一号当たり平均ニ百五十万円、合計七百万円かかるんだよ。それで一万四千部刷って、だいたい二割返本、多いときは三割だからちょっと厳しいんだ。

(略)

藤脇 (略)『フィネガンズ・ウェイク』を初回二百冊入れるなんてリブロ池袋店でしかできない。あの本は定価が三千八百円でしょ。利益も大きい。ある種の理想論かもしれないけれど、そういうふうに商売すべきなんだと思う。(略)

安原 それとリブロ池袋店は特殊なお客がついているからね。読まなくても、見栄張って、読書人面をしているお客の心情をよく知っているんだよね、彼らは。

藤脇 そう。買わせればいいんだから。その後読んだかどうか、そこまで考える必要は出版社にも書店にもない。

安原「リテレール」創刊号を六百冊売ってくれましたからね、リブロ池袋店は。(略)

だからリブロ池袋店には足を向けて寝られないの。

藤脇「リテレール」が一軒の書店でマンガ並みに売れるなんてことはスゴイですね。

安原 すごいんです、あの書店は。その他、青山ブックセンターや八重洲ブックセンター、パルコブックセンター渋谷店も、毎号三百冊くらいは売ってくれてます。こういう書店が十軒くらいあると、僕としては最高なんだけどね。

(略)

[利益だけ考えるならラブホテルやパチンコ屋をやればいいんだ、という安原に]

藤脇 僕もそう思う。金儲けしたいんだったら、それは別の業界に行った方がいい。

安原 僕は藤脇君も嫌っている「文化だから守れ」とか、そういうばかばかしいことを言っているんじゃないのね。そうじゃなくて、つまりもっと言えば、出版社が大きくなり過ぎたんだよ。

藤脇 その点は同感ですね。つまりこの業界というのは、いい意味での中小企業の集合体なんだから、あまり大きくなると違うことを――文化とか良書とか――言いだすようになる。

安原 せいぜい十人とか二十人で、大して給料は貰わないけれど、まあ何とか人並みぐらいに暮らせる。それでも本が好きで、これは売れないけれども、別の本で何とか帳尻を合わせるから企画を通してほしいとかなんとかの世界で、一冊一冊の原価計算をチマチマやるような元々セコイ商売なんだよ。

藤脇 だけど、80年代に入って、マンガの売り上げと雑誌の広告が、それを変えてしまった。そうした状況の中で、良書というものを押し付けられる書店のことも、少しは考えた方がいいんじゃないかということです。

(略)

安原 (略)藤脇君は編集者が企画まで外部委託、進行管理だけをする出版状況を取り上げて「編集者の時代の終わり」について書いているよね。この指摘は正しいんじゃない。例えば、マガジンハウスは企画や編集をガンガン外注してるよね。しかも、その外注先のフリーの編集者のレベルの低さといったらない。しかももっとおそろしいのは、そうしたフリーの連中の出す「ゴミ企画」ですら、もはや編集者は出せない。つまり、企画が立てられないんだね。(略)

試験問題を解くことだけは得意だから、難しい入社試験はできるんだけど、さて、会社に入ると何をどうやっていいか分からない。だってちょっとしたライターの名前すら知らないんだから企画を考えるとっかかりすらない。

(略)

安原 (略)大手は卸正味は高いし、六ヵ月の委託本でも翌月80%〜100%、取次から現金が支払われ、六ヵ月後の清算時点で、返品分の金を取次に戻すシステムでしょう。弱小出版社は卸正味は62%、委託本は六ヵ月後に売れた分だけ入金、翌月支払われるはずの注文品も30%が保証金として半年間も支払われない。弱小出版社と大手とでは一冊千円の本の卸正味で一冊につき百円も違うんだから、やってられねえよな。

藤脇 トーハンと日版は、もともと大手出版社の販売部門から始まってますから。

安原 とにかくトーハン、日版だけでシェアの80%近く、二社の売上は一兆二千億!その金はすべて大手にまわって、われわれ弱小出版社は返品マージンだ、やれなんだかんだと金を取られて大手出版社の損失補填をさせられている。

(略)

安原 [年俸制にしろ。『マリ・クレール』連載の吉本ばなな『TUGUMI』が二百万部六億の利益をあげたのに]

その社長賞が十万円だからね。人をなめきってるよな。そんなもの一千万円でしょうが。(略)樋口可南子の『ウォーター・フルーツ』の担当者なんて、特別ボーナスをきちんと一千万円もらったって言うからね。

(略)

その頃、広告費が月に二億円だよ(略)

しかも会社はマンガで大損しているんだから。『藤子不二雄全集』って、知ってる? 毎週一冊ずつ出して完結までに五年もかかったんだぜ。全部買うと十万円以上するんじゃない。それで確か一巻480円で、刷りは(略)一万五千部だって話。どれだけ損したか分かる?

藤脇 どうやって採算を合わせているんだろう。合わせてない?

安原 しかも製作は、100%中央公論の別会社で、親会社に卸すから帳簿上は返品ゼロ。だから定価かける部数が全部売り上げで、利益だと思っているんだから呆れる。それからマンガの愛蔵版って知っている?(略)

三冊六千円近い金で一体誰が買うんだよ。返品の山また山だぜ。だから僕はマンガという話を聞いただけで、ムカムカしちゃうんだ。マンガで潰れるなんてみっともないじゃない。だったら秋田書店みたいにマンガ専門の出版社になりゃあいいんだよ。

次回に続く。

2016-04-06 出版幻想論 データハウスの秘密w このエントリーを含むブックマーク


出版幻想論

作者: 藤脇邦夫

メーカー/出版社: 太田出版

発売日: 1994/05

出版アナザーサイド 藤脇邦夫 - 本と奇妙な煙が面白かったので、こっちも読んでみた。1994年の本です。

まず順番を飛ばして、一番刺激的なデータハウス・鵜野義嗣との対談。

これはホント眼から鱗が落ちる内容。かといってデータハウスの本を読みたいとも、データハウスの本ばかりになることがいいとは思えないがw。でも確かに、ある意味、正論。

念のため書いておくと対談している著者は、白夜書房で採算をとりながらマニアックな音楽本・映画本を出している人なので、売れたらええのやという人ではない。とはいえ営業に行った先でお前はこんなエロ雑誌を出して恥ずかしくないのかと説教受けたりしているので、採算度外視で文化だとふんぞりかえってる出版人への怒りもある。

背景を説明しておくと、飛鳥新社の『磯野家の謎』に便乗して『サザエさんの秘密』を40万部売ったのがデータハウス。

藤脇 何人で作ってらっしゃるんですか。

鵜野 だいたい企画というか、原稿を書き上げてもらうまでは僕一人なんです。(略)

よく分からなくても、何かどうも真面目そうだなとか、世の中にないなということだったら、とにかく出そうかと。

(略)

藤脇 (略)何がすごいって、今、週三冊ペースで本が出てるでしょう。

鵜野 出せますよ。要するに、みんなが勝手に作っているんです。勝手に本を作りたい人が、うちにきて、僕がいいといったら、勝手に作っているだけの話です。

(略)

鵜野 (略)予約が殺到しそうな本は、一切予告しないんです。(略)

予告しないで見本を持って行くのがおもしろいんです、取次に。驚かしたいから。次に書店を驚かす。そして最後は読者を驚かす。

(略)

鵜野 (略)[本社分は持たず]常時平積みのお得意様の分を残して売り切り方式です。

(略)

独創的な企画本というのは当たるかもしれないけれども、当たらないかもしれない。だからそれは楽しみながら、遊び気分でやっておいて、幾つかの雑誌的なシリーズ[『サザエさんの秘密』]ものは出しておかないとだめだというのは、だんだん気づいたことです。(略)

あのシリーズはまだまだどんどん出ます。売れても売れなくてもどんどん出してやれと。(略)

まだまだ持ち込みがどんどんきています。この前はミラクルガールズの秘密をやりたい人がいて、まあよく分からないけれども、作りたかったら原稿を送れといったら、送ってきたんです、見本原稿を。それを見ると、どうも子供みたいなんです。それで高校生?って聞いたら、いや中学生ですって。

(略)

藤脇 (略)データハウスの一番の特色は、本が出るのが早いということ。便乗本だろうがなんだろうが、早いということに、今、大きな意味がある。

(略)

鵜野 [以前から企画はあったが、12月に『磯野家の謎』が出て、先を越されたと一旦あきらめたが、フト思い返し、20日で書いて10日で制作。3月3日に店頭に。10万部行けるとは思ったが、初版は3万部に。3月中に40万部。印刷所が寝ないで、一日おきに5万部刷ってくれた。ベストセラーズがドラえもんを出すと知ってスピードアップして、二週間早く、4月に『ドラえもんの秘密』を出した。初版11万部。連休前の21日間で56万部作った]

(略)

鵜野『ドラえもんの秘密』は半分売れました。あと半分は捨てましたよ。

藤脇『サザエさんの秘密』は?

鵜野 あれは56万部刷ったから40万部ぐらい売れたと思います。

藤脇 すごい。もっとすごいのは期間。二ヵ月以内に、それだけ作って売ってしまって終わり。だから月刊誌とか週刊誌感覚なんだ。

鵜野 でもあまり儲からなかったです、あれは。だって56万部作って、20万部以上返ってきたらそんなに儲からないです。だけど、おもしろいというか、騒がせるのがおもしろいでしょう。利益がどうというのではなくて。その勢いで、仕事が生まれるわけでしょう。仕事が生まれたら、いっぱいおもしろい人がやってきて。その瞬間に、次の本がダーッと決まった。だから最初のは騒がすための起爆剤みたいなものです。それで一気にいろんな人の売り込みがあって、じゃあ勝手に作れということで。

(略)

世間はブームは終ったというけれども、僕は初めからブームがあったとは思わない。「謎本ブーム」などと、言う人を見ると笑ってしまう。サザエさんブームはあったと思うけれども、ブームだと思ってそれだけで納得している人は、その瞬間に敗北しているんです。ブームじゃなくて、要するにそういう物が売れるということに、長い間気づかなかった。

藤脇 ここが、普通にない発想なんだ、鵜野さんの。大笑いなのは、本家本元の飛鳥新社が、うちが本家本元って、水戸黄門の謎本を出したんだけれども、他のと一緒に思われてしまったこと。

鵜野 (略)[黄門本は]売れるかどうかは疑問だとは思ったのですが、もし売れたらシャクだから、ちょっとちょっかい出してやろうかって。その前に出したらおもしろいなと。結局向こうより二日ぐらい遅れましたけれども、それは一応ひやかしで、三万部作って。

藤脇 ひやかしで、しかも三万部というのがおかしい。

鵜野 一応、売り切りましたよ。

(略)

藤脇 やはりスビードですね、出版は。

鵜野 いや、全部スピードだとは思わないですけど、スピードで売れるもの、スピードが全ての本もあります。

願脇 では、鵜野さんにおける失敗というのは、スピードだけですか?

鵜野 いや、そんなことはないです。たとえばこれはおもしろいといって、皆が売れると思う本を出して、売れずにコケたら、これもおもしろいです。ある意味で快感です。『長島伝説』って本を出したんです。一昨年、長島が監督になるって決まった瞬間に長島の現役時代の、紙面に出ているスポニチを全部縮刷版にして出そうと思ったんです。[一週間で集めて3万部刷った](略)

取次も売れるといったんです。でも、ほとんど売れなかった。

(略)

[打率なら7割くらい?]

鵜野 (略)10冊出して、感覚的には、重版できる本が半分あればいいですね。(略)

やたら作っていますから。定価もいいかげんにつけてますし。今、上製本はすべて1300円。分厚い300ページを越える本でも全部1300円です。惰性です。

藤脇 惰性? でもページ単価とか?

鵜野 そんなの計算してません。コストがいくらかかったというのは、買う側にとっては、あまり関係ないことなんです。(略)子供が買うような本は、1000円とか1300円を越えたら、絶対だめです。(略)

[原価計算は]したことない。定価はいくらだったら買ってくれるかなというだけです。

(略)

[データハウスを設立して10年、一番最初は田中角栄判決に合わせた角栄最新データ集]

鵜野 (略)それまで編プロをやってたんですが、突然出版社を作ることにして。

藤脇 でも口座を開くのが大変だったでしょう。金銭的な方だって。

鵜野 金はあまりいらないと思う。出版社を作るには。売れる本を出せばいいんだから。いらないんじゃないですか。金がいくらあったらできるかという問題じゃない。もちろん一冊目を作るお金というのは必要ですが、そんなのは何百万もいらないわけで。最初から売れる本だったら、借りることはできるし、国民金融公庫だったら、300万円ぐらいは貨してくれる。それを借りれば十分。口座も簡単。最初に売れるような本の企画を出して。売れるような本というのは、結果的に売れる本ではなくて、売れるに違いないという本です。それも斬新な企画はだめ。かならず注目されるイベントに合わせた本か、あるいは大ベストセラーの便乗本。間違いなく、これは取次とか書店が動きます。(略)

見本原稿を作って、ダミーを作るんです。そんなものはコピーで10ページもあればいい。それで書店にパーッとDMを送る。(略)[角栄判決本だから売れるんじゃないかと、40、50冊と書店から注文が来た]

そうやって勝手に注文書をためる。最後は、書店から注文もあるし、売れたら困るということでほとんどの取次が口座を開いてくれました。(略)

たとえば、今話題になっているジェフ何とかが書いた、松田聖子さんの本。結果的に売れなくても大騒ぎになるかもしれない本です。(略)

要するに、もし取らなくって、話題になって書店から苦情が殺到したら困ると、取次がそう思うことが大切です。(略)

極端にいえばウソでもいいんです。

[初版2万部で1万部しか売れず、焦って]

『おもしろすぎるデータハウス』って本を作ったんです。すぐ作らないといけない。すぐ作れるのは何だ。よそのものを取ってこいと。『微笑』とか取っている雑誌の段ボール何箱分かのコピーを取って、バーッと選んで、学生とかあまり原稿を書いたことのない人間を集めて書かせて、そのまま出したんです。そうしたら売れました。8万部でしたか。(略)

その次が、『悪の手引書』(略)

あれは奥の手なんです。(略)

タブーってありますよね。売れるに決まっているんだけど、フツーはしない本。だけどあまり、そういう奥の手をしょっちゅう使っていたらだめです。それにやはりやっかいです。『悪の手引書』のときも、やくざとか、いろんな電話があるし、警察もくる。しかし、お金に困ったらまた出します。

[格好をつけて硬めの『国家と中絶の論理』をハードカバー2万部作ったら数百しか売れず、そんなことをやってたら出す本全部売れなくなり、起死回生で長門裕之『洋子へ』。売れるとは思わず、初版2万部。](略)

藤脇 鵜野さんは気づいているかどうか分からないけれど、『洋子へ』が、いわゆる本がワイドショーネタになった最初です。勝手に宣伝した。本が社会問題というか、ゴシップだろうが何だろうが、話題になったのはあれからです。梅田の紀伊國屋で神話を作ったそうですね。二時間で350冊。(略)

鵜野 今のうちの力だったら、もっと作りました。100万部はいったでしょうね。(略)

[最終的に]40万部しかいかなかった。もし『洋子へ』を毎日5万、10万と作っていたら100万部は越えたでしょう。二時間で350冊売れている時点に、本があれば、誰でも買ったわけでしょう。ところが、それが一ヵ月たったら、誰も買わない。テレビも全部終わっている。週刊誌になった頃は、もう終わりなんです。(略)

テレビやっているときに、本がないなんていうのは最悪。(略)

それだったら出さない方がいい。

(略)

だから50万、100万部行く本って、二時間で読めなければだめ。内容があったらだめ。充実していたら売れない。充実していたら10万、20万部で止まってしまう。(略)

内容がいいからというので買うものは、価値判断が入ります。厄介なんです。買う方も。ところが、雰囲気というか、売れている、何か良さそうなものというのは、私も私もという感じで、何も考えないで買います。だから、買う側も軽く買えるし、それで終わりです。

藤脇 二時間1000円で楽しめたらいいじゃない。そういう見方が、今は大切だと思う。書店にしても、瞬間的にサッと売れるものがいい。

鵜野 僕は出版物を作りたいわけではないんです。いたずらしたいだけなんです。エクスパートなものはほとんど興味ないし、まず妙な物というか、おもしろい物を作りたいというのがあって。

(略)

藤脇 そこ[書店の反応を見て重版をかける時]で返品のこととか考えませんか?

鵜野 返品を考えていたらできない。返品はこっちのミスだから。(略)

売れると思って出したものが、売れなかったら、やはり出した者の責任だと思う。返品は、うちの会社がある限り、いつでも受け入れますけれど。一方では、注文がきても断ることもいっぱいある。これは売れませんからと。一冊にしてくださいとか。売れないことほど信用をなくすことはない。だから注文がきてもそれは出さない。

(略)

鵜野 要するに、もともと素人なんです、本作りも。人脈がまずなかった。誰も書いてくれる人がいなかった。『洋子へ』を出した頃から、芸能関係の記者とかテレビ局だとか取材にきた人を、全部著者にしてしまうんです。

(略)

藤脇 返品とかは、全部自動断裁なんですか。

鵜野 年末決算期に全部やります。[新刊57点320万部刷って]去年は70万部ぐらい断裁しました。

[社員は鵜野、編集、営業、業務、総務、経理、バイト2人の計8名。あと宅急便係と電話番。その前は4人程度。]

鵜野 [スピード勝負の本だから]宅急便の係は大変。一日中宅急便をやっている。(略)

宅急便で運賃が月100万円ぐらいかかっている。

藤脇 制作の人も、もう死んでいるんじゃないですか。一人で10日ぐらいで本を作らされるし。

鵜野 そのかわり当然誤植も多い。この前なんか、ある本で、乱丁なんだけど、読者から電話がかかってきた。「203ページの次がつながらないんですが」って。「それは、204、205を読んで、202、203を読んでね」って。「ああ、そうですか。分かりました」ガチャン。それで終わり。それで読めるんだから、欠陥品じゃないでしょう。ゴソッと一ページないんだったら回収しなけりゃならないけれど。もちろん替えてくれといったら替えます。でも、別にそういわない人に替えてあげる必要はない。

(略)

鵜野 僕は本を読まない。年間一冊も。

藤脇 でも会社に山ほど私があるじゃないですか。

鵜野 あれは買うだけ。買った瞬間に、もう本の役目は終わり。蔵書は全部で五万冊くらいある。(略)書店で本を見かけますよね。それでタイトル、テーマ、表紙、そして中身のレイアウト、それだけ見れば、それ以上見えることはないんじゃないかと。書いてることは、著者が適当に書いていることだからと思って(笑)。

藤脇 出版の本質をついているような気がする。

鵜野 買った瞬間に得られたものの中にヒントなり、何かある。それだけでいいんです。読んでいたら日が暮れます、そんなもの。上がってきた原稿もろくに読まないほどですから。見本原稿がきても、斜めにバッと読むだけ。要するにタイトルと、テーマと項目。項目を見ればだいたい分かる。あとはまともそうなことが書いてあるかどうか。

(略)

[どんな本を買う?]

鵜野 妙な本。世の中にない本。雰囲気的に怪しい本。売れなさそうな本。情報って、マイナーな情報の方が、役に立つんです。ベストセラーを買ったって、何の役にも立たない。全然売れなかった、一冊も売れなかった本を僕だけ買っていれば、その情報は皆知らない情報ですから、生かせます。

[年間800万円ほど本を買い、ちゃんと読む本はゼロ。10ページも読まない。チラ見でインスピレーションがあればいい]

(略)

鵜野 だから、他のところは、よく分かっていない。『磯野家の謎』が売れたのを見てサザエさんが国民的ヒーローだからと理解し、「寅さん」を出した。売れるわけがないのに。何か他社のラインナップを見ていると、売れないものばかり選んでいる。多分、30代が作っているんでしょうけど。たとえば「あしたのジョー」とか、「巨人の星」とか。好きで出すのはいいけど、売れると思って作っているとしたらおかしい話ですよ。で、ブームが終わったという。当たり前です。そんなマンガのブームはとうに終わっているんですから。まあ、それで他社が撤退してくれたのはありがたいですけど。(略)

『スラムダンクの秘密』だって7万部を越えてますし、『幽遊白書の秘密』だって10万を越えるでしょうし。だからアイドル本なんです、あれは。うちはアイドル本を片っ端から人気のある物からやっているわけでしょう。売れるに決まっている。どうして出さないんでしょう。

(略)

鵜野 いろいろ失敗しながらやっていますけど、僕がやるのは本を作るというより、やはり仕事をいっぱい作り出すことじゃないかな、と思っている。(略)

[企画を]持っていても、担当編集者はいいといっても、上がだめだとか。そういう人を、すくいとってあげれば、そういう人がうちで暴れまくれば、それで稼げるわけだし。そういう人がいっぱい本を出せればそれでいいんじゃないですか。ただ、仕事ですから、何をおいてもきちんとお金は払う。極端なことをいったら、完全犯罪の銀行強盗をやってでも払う。世間にいくらいわれても、世間に責任を負う必要はないけれど、一緒にやった人には責任を員うべきだと思っていますから。

(略)

読者も買ってくれる人だけウケたらいい。買わない人はどうでもいい。

藤脇 僕もそう思う。読者は一番残酷。買わなければいいんだから。でも、こんないい本なのに、読者がバカだからとかいって、買いたくない人も買わなければいけないようなことをついいってしまう編集者が後をたたない。この対談を読んで、早く目からウロコを落として欲しいですね。僕も今日から本をもう完全に一つのモノだと思って営業しなければ。(略)

鵜野 モノと思わなければって、最初からモノなんですよ。

藤脇 どうも、すみません、失礼しました(笑)。まだ幻想があるんだ。

鵜野 モノだから思い入れがないとかではなくて、モノだから思い入れがある。作ったモノだから。百姓の人が米を作っても同じだと思うし。それと違うということが、そもそも思い上がりだと思うし。どっちが大事かといったら、米の方が大事だと思う。ただ、できるだけ多くの人を喜ばせてやろうというのがある。(略)

ということで肝心の著者の話は次回に続く。

2016-04-04 出版アナザーサイド・その2 藤脇邦夫 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


出版アナザーサイド

作者: 藤脇邦夫

出版社/メーカー: 本の雑誌社

発売日: 2015/12/08

「漫画ブリッコ」

当然大塚英志が出てくるのだが、特別悪口を書いてあるわけでもないのに、全部「O」となっている。安全策なのか、下記のような事情だからなのか。うーん、コワイw

[同人誌周辺でのロリコンブームに乗って創刊してみたが不振。廃刊の瀬戸際でOに会う。そのつてで「藤原カムイ」「ひろもりしのぶ」を掲載すると大反響。社内の反対を押し切り単行本を出すと2冊で2万部。会社所有の新宿の「大人のおもちゃ店」が不振で、Oに印口崇を紹介してもらい「まんがの森」オープン。自社コミックを系列書店で販売するから丸儲け]

[『「おたく」の精神史』]連載当時、僕についても実名で触れていたが、1冊にまとまった時、なぜかその箇所は全て削除してしまったようだ。

(略)

Oがそれ[三人のNW女性漫画家]を発見して、掲載したのはやはり編集者としての目利きが確かにあったと思う。この点についての評価はどう低く見積もっても動かない。Oがいなければ、この雑誌がなければ、岡崎京子、桜沢エリカといった才能が世に出なかった可能性だってあるわけだ。

(略)

 その前後から、Oはフリーの立場ながら、この雑誌に対する発言権が強くなり、フリーの枠を超えた言動が多くなってきた。収益的にも無視できない部分があり、それを許容してしまった社内側(僕も含めて)にも問題があった事は否めない。

 結果的に、僕がOと会社の調整役のようになってしまい、公私ともども付き合いが始まるようになった。

(略)

僕から見ても漫画出版の編集者のなかで、Oの見識と教養はズバ抜けていた。(略)

 だが、何事にも限度があって、理論が先行すると、肝心の仕事がおろそかになる。そのころから、いつまでも「漫画ブリッコ」を続ける気がなくなったのか、雑誌もひところの売れ行きから下がってきて、その対策について話し合うことが多くなっていった。そのうちどういうわけか、「漫画ブリッコ」内で、白倉由美を相手の対談で、何号にもわたって会社の内部批判を始めるようになった。さすがに中止を迫ると、結果的にこの雑誌の編集担当から降りるという一方的な電話の一言でOとの縁は切れた。2〜3年の付き合いだっただろうか。その後、30年近く一度も会っていないが、その前後ぐらいに刊行した『物語消費論』が、Oの考えをそのまま書いたもので、当時、鏡明がSFマガジンに書いた書評が一番的を射ていると思う。

 今から考えると、その内部告発のような対談は、この雑誌を辞める理由付けにわざと始めたようなフシもないではない。

ザッパ本と八木康夫

 僕がこの会社で音楽本を手がけるようになった最初は、第一章で述べたように、『ザ・ビートルズレポート』だが、本格的に始めたのは、1988年1月に刊行した『ロックンロール・バビロン』からだった。(略)この本の思いもよらぬヒットが、良くも悪くもこの後の音楽本の方向を決定付けたといってもいい。

[初版7000、最終的に24000部]

[1988年バブル絶頂、何度目かのザッパブームでザッパ本を企画]

初対面の八木康夫さんは何とも形容しがたい不思議な雰囲気の人で、ヒッピーまがいの風体ながら物腰は柔らかく、およそ人と対立しそうもないような人に見えたが、これは自分の仕事を遂行するためのスタイルの一つとわかったのは随分後になってからだった。八木さんには、本のブックデザインと解説をお願いしたい程度の心づもりだったのだが、八木さんは違う風に受け取ったのか、自分の都合のいいように解釈したのか、今となっては不明だが、自分が今まで書いたザッパのレコード解説を1冊にまとめる話で来たと思った(もしくは思いこんだ)らしい。僕自身は必ずしもそう思っていなかったが、この機会に、その翻訳本の中に、資料として入れてもいいかなぐらいの考えだった。本のデザインは引き受けるとのことなので、今まで書いた解説を全部コピーして送ってもらえませんかといって、それが届いてみたら……(略)

解説の範囲をはるかに超えた、もう1冊の本になるような分量になることがわかってきた。この時から、そんなに一定数のファンがついているのなら、このライナーも1冊にまとめて、2冊本にしてもいいかなと思うようになっていたが、これが半分正解で、半分間違っていたのは本になるまでわからなかった。

 これで大体の概要が決定して、八木さんに、今まで書いたライナーは70年前半からのものなので、それまでの60年代の部分と、現在までの抜けている所を書き足してほしいと言ったのが運のツキで、これをまたほとんど無制限に近く書くとは思わなかった。この人は物事の「ほど」ということがわからない人なんだと気付いた時はもう遅かった。(略)

八木さんが仕事に夢中になると、締め切りを意識しない(無視する?)人であることを知らなかったのだから、暢気なものだった。(略)

[予告広告だけで500部注文が来た。紀伊國屋書店梅田本店からは50冊、最後には100冊。芸術書コーナー担当の北村貴克は80年代「Hanako West」を2万部売り切った男]大阪という場所における本の売れ方を熟知していた人で、逆に同店の新宿店のデータはあまり意識していなかった。(略)

1冊定価250円で、いかに店内で5〜6ヵ所積み、店前のワゴン販売等があっても、である。僕は最初2000部の聞き間違いと思っていたが、本人は涼しい顔で2万部と言っていた。[1ヶ月を待たず完売]

(略)

社長が年明けに出社した際、この本を持っていくと、「何だ、これは」と言うので「ザッパの本です」と答えると、

 「こんな本、企画会議に出したか? 定価は9800円じゃないか。こんな豪華本何冊作ったんだ」

 「3000部です」

 「こんな本どうやって売るんだ。一体どういうつもりだ」

 「定価9800円で3000部ですが、事前注文で発売前に完売しました」

 「?!」

 文句を言おうとふり上げたこぶしを降ろすところがなくなったわけだが、自分が企画した本の中でも、一番結果オーライだったのは、これと『オール・アバウト・ナイアガラ』だろう。こういうことは2回もあれば十分である。

(略)

製作費も、ここで初めて書くが、当時の金額で合計1200万円前後かかった。もし赤字になったらどうしていたのだろうといったことは一切考えていなかった。考えていたらこういった本はどうやっても出来ない。自分のカンを信じるしかないわけだが、まだ35歳頃の僕はまさに自分の興味と関心だけで仕事をしていたのだから、見方を変えたら無謀の一言だった。

[定価5800円5000部作ったスプリングスティーン本が4割弱の売れ行きで大コケ、以後10年間音楽本は封印]

摘発で「写真時代」自主休刊のピンチを「パチンコ必勝ガイド」で逆転した末井昭

[パチンコ雑誌では後発三番手、しかも]最初は投稿アイドルグラフ誌の「クラスメイトジュニア」の増刊で、これは後から考えると大きな意味を持っているのだが、この本誌「クラスメイトジュニア」は最初からセブン-イレブン等のCVS(コンビニ)に入っていて、増刊も当然、同じCVSで販売されることになる。来る90年代のCVSでの雑誌販売を予見していたのか、当時この雑誌しかCVSの扱いがなかったのでこの雑誌の増刊にしたのか、その辺の事情は不確かだが、森下さんの営業センスから考えると、そこまで見通していたとしても不思議ではない。

 増刊1号は、確か12万部だった。すぐ反応があり、というのはこの時でさえ、CVSのPOSは書店の一部POSより早く、1週間目のPOSで50%超えていると、返品率は20%以内、つまり80%の売れ行きが期待できるという計算式があり、それに従うと次の部数はこのくらいという幸せな計算をしていくことになる。

 増刊3号目から独立創刊、部数も一気に15万部を超え、当時末井さんは「この雑誌は20万部行きますよ」と静かな口調で語っていたが、その予想どおり1年以内に20万部になった。これを基本部数(?)として、末井さんなりの方程式があるらしく、次号はこの必勝法が掲載されるので5万部増やしてくださいといった調子だった。これは取次にも非常に分かりやすい理由にもなり、この頃部数は自由自在だった(何と幸福な時代だろう、今では想像もできないことばかりだ)。

(略)

[CVSの]データによると、深夜1時が一番売れるという。つまり、ホールが11時に閉店になるので、その後、CVSで弁当を買うのと一緒に、今日の戦果の分析をするために買うわけだ。いつか末井さんにこの雑誌を読んだら本当に勝てるんですかと初歩的な質問をしたが(略)「これは負けた人が買う雑誌だから」と明快な答えだった。(略)

深夜1時の次に売れているのが、午前中の8〜9時だった。これは10時にパチンコ店が開店する前に研究するために買っていることを示している。開店の10時が一番売れないのは当たり前で、この時間は開店時に並んでいる貴重な時間だから、雑誌を買っている時ではない。

(略)

[この二つの時間帯は]書店が開いていない時間帯(略)この雑誌とCVSの出現は完全にこの常識を変えた。夜中の1時に一番売れる雑誌が今まであっただろうか。

(略)

[30万部近くなった1992年10月から月2回刊になり50万部超え]定価は税込390円だったから、2億近くになる。これがピークと思っていたら、2000年代に入りパチスロ必勝ガイドとパチスロ漫画誌で、さらに驚異的な売り上げを記録していくことになる。

 これが、2010年以降まで続くとは誰が予想しただろうか。

(略)

[一方著者は「クロスワード」の増刊として暴走族周辺狙いの「バースト」を創刊、3号まで不振だったが、雑誌内の「刺青」の写真がウケ出し、さらにパンク雑誌としても認知されるようになり、広島パルコでは100冊入れて8〜90%売れた]

アマゾンの功罪

 アマゾンの日本上陸は出版業界的にはそんなに大きな話題ではなかったように思う。最初の説明会も日本出版クラブの一室で、150人くらいだっただろうか。取次も中堅の大阪屋ということで、一部での試験的な取り組みとしてのニュアンスが強かった。しかし、自社的には、2001年3月21日に刊行した白夜版『オール・アバウト・ナイアガラ』の事前受注で、マニア的な、どうしても欲しいジャンルの販売先として確実な需要があることがよくわかった。書店に注文するよりも確実に在庫のあるなしが分かり、事前予約もできるというのが読者にとって最大の利点だったのだろう。(略)

[ネット書店の事前予約数は]発売前の初版部数設定の確立と根拠にもなる。

(略)

 しかし、全て物事にはプラス・マイナスがあって(略)ネット書店で事前の反応のないアイテムはその時点で、悪い意味でその売れ行きが発売前に判明してしまうこと。しかし、一番意外だったのが、ネット書店の書誌データが業界的に使用され始めたことだ。発売日、タイトル、著者、定価、ISBNが瞬時にわかる方法は当時他になかった。また、書店としても、この売れ行きデータは自店の売れ行きの物差しにもなるわけで、店頭にないものは注文してみようということになるし、店舗との売れ行き比較の基本データにもなる。

渋谷陽一

[『出版幻想論』の3年後出した『出版現実論』の対談に出てくれた]

渋谷さんは出版活動において、営業と編集は同等のもので、どちらが上とか下とかいうものではなく、営業の部分だけが突出しすぎると、編集不在になってしまう。両方ともクリエイティブな部分があり、それをポップカルチャーは発生当時から元々内包しているものだと説明してくれたが、それは僕の営業過多の部分をやんわりと指摘してくれたのかもしれない。

 僕は渋谷さんが取次に行って、実際に部数交渉している姿を想像できなかったが、営業についても一家言あり、ロック評論家とは全く別の一面をかいま見た瞬間だった。(略)この時、僕は確かに、「ロッキング・オン」の経営者としての渋谷さんと対談していたわけだ。

 渋谷さんにとって、会社発足以後、営業感覚は本人はもちろん、会社的にも必要不可欠なものだったらしく、ずいぶん後になって、元「ロッキング・オン」の音楽ライターから、『出版幻想論』を社員研修の一環として、すべての新人社員に読ませていたと聞いて、対談の際の発言を裏付ける一つの事実として、僕は素直に厚意として受け取った。


ロックンロール・バビロン

作者: ゲーリーハーマン, 中江昌彦

メーカー/出版社: 白夜書房

発売日: 1988/01


フィル・スペクター 甦る伝説 増補改訂版

作者: マークリボウスキー, 大瀧詠一, 奥田祐士

メーカー/出版社: 白夜書房

発売日: 2008/03/21


増補改訂版 オール・アバウト・ナイアガラ

作者: 大瀧詠一

メーカー/出版社: 白夜書房

発売日: 2005/12/07

大瀧詠一『オール・アバウト・ナイアガラ』

『ロックンロール・バビロン』がヒットして、社内でも音楽本に力を入れていこうということになり、まだ海外情報が少ない時代ということもあって、「翻訳を中心に」のコンセプトで、米「Goldmine」、英「Record Collector」と提携した「GOLD WAX」というマニアマガジンを立ち上げて、第1号の原稿を選択していると、近々Rhinoでフィル・スペクターの過去のタイトルのCD化が進んでいるという記事を発見した。[それに合わせて初の本格的なフィル・スペクターの伝記が89年に刊行されること知る](略)

これが、後に刊行した『フィル・スペクター 甦る伝説』(1990年)の原書で、88年5月のことだった。その時、僕がこれを翻訳して大滝さんの監修で日本版を出そうと思ったのはいうまでもない。(略)

その時はまだ大滝さんの、音楽以外のジャンルでのこだわり、関心の深さをよく埋解していなかったのだろうと思う。[大瀧の快諾を得て]さっそく翻訳者と打ち合わせて、これで完成と思っていたのだから、おめでたいにもほどがある。

[できた翻訳を送ると大瀧から脚註をつける必要がある200近い人名、用語一覧表が送られ、それができたら監修・解説を書くとの回答。さらに日本盤ディスコグラフィーもつけたいと言われ、一年かけてなんとか完成](略)

 しかし、ここでまだ終わらないのが「ナイアガラ」で、最後に大滝さん自身に註の監修チェックをしてもらわなければならず、また翻訳出版権(2年間)が切れるギジギリの頃で、この日中に見てもらわないと本が出ないという時期になって切羽詰まって電話すると、「ゲラを持って福生まで来い」ということになり、夜7時近くに訪問して、それから4時間近く、大滝さんの部屋で家庭教師の如く、机に2人向かって座り、すべてのページに赤の訂正等を入れていく作業で、時間が過ぎていった(その時に、あるミュージシャンの名前を間違えて、お互いに言い合いになり、怖いもの知らずで反論した自分も自分だが、大滝さんが証拠のシングル盤を棚から探し出してきて、それを突きつけられて怒鳴られた時は心臓が止まるかと思った)。終電近くまで何とかすべてチェックしてもらって帰宅し、これでやっと、すべてが終わったと思ったら、まだ最後のどんでん返しが待っていた。(略)

[なんと同時発売予定のMMGの「スペクターCD-BOX」が、寸前で発売中止]

会いに行くと大滝さんは、「CD-BOXが発売中止になったら、本だけ出しても仕方ないだろう」と、平然とした回答だった。僕が自殺しそうな顔をしていたからかどうかはともかく、何とか本だけは出させてもらうように了解してもらった。しかし、普段は絶対妥協しない大滝さんが、この時は珍しく、僕の立場を少しは考えて譲歩してくれたのだと今にして思う(解説に、「辞表片手の藤脇君」とあるのはこのことだ)。結局本だけ出すことになったのだが、まだバブルの残滓があった頃で、4800円の価格でも販売は好調だった。

(略)

 この一件で、さすがに僕ももうこれ以上の本作りもないだろうと思って、最後に、スペクター本のお礼も兼ねて福生に行くと、珍しく逆に大滝さんから、「俺は生涯で、あと1冊だけ本を出そうと思っているんだけど、お前やるか?」と言われて、やめとけばいいのに、「僕に任せて下さい!」と言ってしまったのが運のツキ。「わかっちゃいるけどやめられない」とはこのことだ。

(略)

[それから音沙汰なく]

94年、10年ぶりの活動再開ともいえるダブル・オーレコード発足の業界パーティーで、また4年ぶりに大滝さんに会うと、前述の話の続きが待っていた。(略)

 今から考えると、スペクター本の刊行は、この『オール・アバウト・ナイアガラ』増補版を任せるかどうかを見極める、大滝さんなりのテストだったような気もする。(略)スペクター本はほぼ2年かかったが、この『オール・アバウト・ナイアガラ』は、これは本当なのだが、完成まで実に5年かかった。


デニス・ホッパー―狂気からの帰還

作者: エレナロドリゲス, 綾部修

メーカー/出版社: 白夜書房

発売日: 1989/05

大瀧詠一の本の読み方

 確か、『デニス・ホッパー 狂気からの帰還』を贈った後、会う機会があった時に、この本のことを「意外に面白かった」と言ってくれて、どういう風に読んだかを一部始終話してくれた。

 まず、目次を見て、自分の興昧のありそうなことを探し(なければ、もうその本を読むことはない)、まずその箇所から読み始めるのだという。その箇所を読んで面白いと思ったら、今度は最初からその部分も含めて最後まで読みとおす。そうすると、なぜ自分がその箇所に興味があったかが分かるのだということだった。

(略)

自分の興味、関心のある範囲が今もブレていないか、もしブレているのなら、それはどうしてなのかを自分自身に問い直しているとでもいったらいいだろうか。あくまでも自分なりの確固たる興味の範囲があり、それに入らないものには関心はないが、もし関心があるのなら、その理由を自分自身で自問自答しているということになる。

(略)

 因みに、前述の本で大滝さんが興味を持った箇所というのは、「イージーライダー」の後、ホッパーが酒とドラッグでハリウッドを追われて、メキシコで「ラストムービー」(1971年)という映画を撮っていた時のことで、「ブルーベルベット」で復活を果たす前の雌伏時代の章だった。「ロン・バケ」前の時期とダブらせていたところもあったのかもしれないが、何となく、その章に興味を持った理由が分かるような気もする。


JAPROCKSAMPLER ジャップ・ロック・サンプラー -戦後、日本人がどのようにして独自の音楽を模索してきたか-

作者: ジュリアン・コープ,奥田祐士

出版社/メーカー: 白夜書房

発売日: 2008/07/23

『ジャップロックサンプラー』

妄想ジャップロック - 本と奇妙な煙 

著者の周辺に、日本ロック誕生の時期について、生半可の聞きかじりの情報を持つ怪しいスタッフが多くいたらしく、その連中からの事実確認のない誤情報がこの本の基本になっていた。その誤解を楽しむといった屈折した考えが僕の中にあり、原書で読んでいても「?」の連続で、そのまま訳しただけでも爆笑の連続だった。僕はこういった妄想による、カルチャーギャップの産物が昔から大好きで、この「どこまでが本当で、どこまでがそうでないのか」について、当の日本人が検討しながら読んでいくのは一種の快感だった。

(略)

[後日]大手新聞社のヨーロッパ支局のある人から連絡があり、当のジュリアン・コープから、自分の本が日本で翻訳されたそうだが、日本での売れ行き、反応はどうかとの問い合わせだった。

 そこで僕が、日本でのアマゾンのカスタマーレビューや、書評等について、そのまま伝えると、翻訳版が好評だったら日本に行く予定にしたかったらしいが(公演も含めて)、その様子では来日は見送りたいとのことだった。

第四章はファンだった小林信彦の本をようやく作れた話と、そのイベントでの苦労話。


[関連記事]

出版幻想論 データハウスの秘密w - 本と奇妙な煙

2016-04-02 出版アナザーサイド 藤脇邦夫 このエントリーを含むブックマーク

白夜書房から出ていたジャックス、大瀧、ザッパ他、マニアックな音楽本(妄想ジャップロック - 本と奇妙な煙  さよならアメリカ、さよならニッポン - 本と奇妙な煙)を手掛けていたのが著者。


出版アナザーサイド

作者: 藤脇邦夫

出版社/メーカー: 本の雑誌社

発売日: 2015/12/08

白夜書房

森下さんが脱サラして、ある通販専門のアダルト出版社M書房に入り、その後独立して、ビニール本の出版社「グリーン企画販売」を設立したのが73〜74年で、その後それを基にして、75年に出版社「セルフ出版」ができることになる。まだ、取次口座がなかったので、上野のゾッキ卸しの「日正堂」の口座を借りて書店流通させていた。(略)

77年に白夜書房も設立、最初は硬いイメージの出版社でないと取次口座を開設できないということで、まず書籍口座を、なんと、あのイタロ・カルヴィーノの『蜘蛛の巣の小道』で開いた。これは、書籍部門の福田博人さんが、以前在籍していた薔薇十字社からの関連で持ってきたものらしく、これで取次口座が開けたというのだから、なんとも時代を感じさせる裏事情だ。(略)白夜書房(この社名は福田さんが、五木寛之の小説から採ったと聞いた)という社名は、皮肉にも書籍で知られるようになっていく。つまり、荒木経惟さんの一連の写真集である。

末井昭

末井さんは苦労した人特有の、面倒見がよく、去る者は追わないが来るものは拒まないタイプで、僕も入社時から社内的にも随分良くしてもらった。(略)

 末井さんも、セルフ出版時代の「ニューセルフ」「ウィークエンドスーパー」等で業界内で既にかなりの有名人だったが、いずれの雑誌も大ヒットというわけでもなく、実際に売れ行きと評価がともなったのは、「写真時代」かららしい。しかもその時、セルフ出版、白夜書房とも赤字続きで、「写真時代」が売れなかったらパッと桜と共に散ろうとか言っていたらしく、「写真時代」は、この会社の社運をかけた雑誌でもあったわけだ。幸い、ほぼ完売状態で、燭光が見えてきた時期に僕は入社したことになる。

(略)

「写真時代」は、創刊して2年目くらいまでは隔月刊誌だったが、信じがたいことに、編集は、末井さんと助手の森田富生君、この2人だけだった。2人で、10万部台の雑誌を刊行していたのだから、驚異的を通り越した別の次元の話だが、さらに末井さんは他の雑誌も兼任して、増刊まで手掛けていた。(略)

[雑誌5〜6誌と増刊を出して]社員は30人に満たなかったと思う。(略)25年後、ピーク時の2007年には、グループ全体で、バイトも入れて350人前後にまでなったのだから、驚異の成長率だった。

 「写真時代」は月刊化する84年までに既に部数は15万部を突破し、85年くらいから20万部を記録するようになった。1冊500円だったから、定価で1億、このくらいの人数の規模の出版社としては大当たりした雑誌だった。内容的にあまり広告が期待できなかったが、実売だけで利益を出していたのだから、今では考えられない出版状況といえるだろう。その後の、「熱烈投稿」「スーパー写真塾」もそれぞれ20万部前後になり、売り上げ的には、中堅出版社として成長していった。年商も軽く20億を超えるようになる。

漫画とエロ本

この会社に入ってある人から言われたことがある。

「漫画とエロ本だけなんだ、買わないと読めないのは」

 この言葉には商業出版のある一面が凝縮されている。

情報センター出版局の失速

僕は紛れもない晶文社チルドレンだった。(略)晶文社の黄金時代が70年代であることは誰の眼にも明らかで、自分なりに、その後を、その延長線上の違うものにしたいという、身分不相応な妄想を抱いていた。つまり、晶文社の三大カルチャージャンルとされていた「ジャズ」は「ロック」に、「演劇」は「漫画」に、「海外文学と現代詩」は「写真とアダルト」に、といった具合に置き換えて考えるようになっていた。それがどこまでできたかははなはだ疑問だが、自分としては、70年代から80年代への、サブカルチャーの傾向の変化の一端をこのように思い込んでいた。

 1980年初頭から、当時、書籍で出版業界を席巻していたのは、情報センター出版局で(略)[『私、プロレスの味方です』『さらば国分寺書店のオババ』等で]ヒットを連発し、確かにこれは出版界の新しい流れだった。(略)

 ちょうどこの時期は、写真時代の創刊前後と時期が重なっており、85年位までは、メジャー以外では、雑誌は白夜書房、書籍は情報センター出版局、これが取次、書店の一致した認識だった。

 客観的に見て、83年の藤原新也の『東京漂流』が同社のピークだったと思う(何といっても、紀伊國屋書店新宿本店が車を手配して、搬入日に販売するために、1000冊、印刷所に取りに行ったのはこの時が最初で最後だっただろう)。これを境に硬派路線に切り替えたのかどうか知らないが(略)

関西の親会社と出版局長が何かの理由で袂を分かってしまって退社するに及んで、ある意味、情報センター出版局の時代は終わった。88〜89年頃だったと思う。

 その頃、僕が意識していたのは、「宝島」から刊行される、『ANO・ANO』等の一連のエッセイや増刊号だった。時あたかもバンドブーム前夜で、こういう出版物が単なる音楽本の範疇を超えて、漫画を読むように、「音楽を聴いてコンサートに行きバンドを組む」といった流れを自然に作っていた。その象徴が、81年に出たRCサクセションの『愛しあってるかい』だ。売れ行きもだが、「宝島」とRCと時代がまさに一体となった瞬間で、これ以降『戸川純の気持ち』といった関連書も出て、まさに追随を許さない存在の雑誌となっていく。なかったのは漫画の要素くらいだった(岡崎京子が連載し始めるのは、その後からである)。

 情報センター出版局の失速は僕にとっていろいろなことを教えてくれた。つまり、出版社経営は定期雑誌という柱がなければ毎月の資金繰りを安定させるのは難しく、連載をまとめた単行本の刊行スタイルが維持できないということだ(もちろん例外はある)。これを情報センター出版局は書き下ろしでこなしていたのだから、相当なクオリティーだったが、単行本はしょせん単発であり、毎月、ある一定の部数が売れるとは限らない。ここに陥穽があったのだが、それでも5年維持できたのだから大したものである。それと、これは僕だけの見方だけかもしれないが、当時の20〜30代を相手にする場合、漫画と音楽の要素、及び関連人脈がなかったのが致命的だったと思う。販路としても、時代はこの二つの要素を元に成立し始めている頃で、書籍だけの出版社として、そのジャンルヘの目配りがなかったのではないかと推測される。これは別に非難しているわけではなく、自分もそう思っていながら打つ手がなかった時期を同時に過ごしているからだ。自分でも、その時期、漫画がなければ、後述する音楽本等の出版は全て日の目を見ずに終わっただろう。その意味では、自分の運と趣味に少し感謝したいところだ。

佐藤重臣から雑誌「映画評論」商標権を400万円で買わないかと言ってきた

 実は、僕はある事情通から、「映画評論」の70年代のアンダーグラウンド映画全盛期の時代の発行部数を聞いていた。もう書いてもいいと思うが、確か5000部前後。価格が70年代当時230〜450円だったので、原稿料を払わないのは当然にしても、これでは維持するのが難しいのではと思っていたが、実際は、佐藤氏の顔(?)で、ある程度広告が、少ない金額ながら入っていて、それでぎりぎりなんとか維持していたようだ。途中で雑誌が刊行できなくなったのは、ある映画祭の主宰を引き受けたのだが、その動員の目算が外れ、資金難になったのが裏事情らしい。だからなのか、その時、この「映画評論」は売れなくて廃刊になったんじゃなくて、休刊しているだけなんだとしきりに弁明していた。「出版業界的には同じことなんですよ」と言おうと思ったが、初対面で業界の事情を話して、そこで最終通告するのはどうかと思って、とりあえずその話は受け取って後日連絡するということにした。もちろん、会社にその話を持ちかけることはしなかった。当然である。

書原の森原幹雄

[営業で訪れ社名を告げると態度が豹変。「写真時代」で当てただけだろ、他の本も出さないとやっていけないぞ、と言われ早々に立ち去ろうとして]

ある出版社の本が、入ってすぐの場所に大量に置かれているのに気づいた。この会社の常備店なんてすかと聞くと、常備じゃなくても、出版物に力があれば売るに決まっていると言われ、最後には、「玄光社は馬力があるからね、お宅の出版社とは違うよ」と説教口調で言われるに及んだ。これがトドメとなって、単純だが、以後、椎名町に下車することはなかった。

[一年ほどして森原から桜沢エリカの『かわいいもの』と、岡崎京子の『バージン』を手持ちで直納してくれと電話]

直納すると、少し態度が変わったようだった。本人なりの感謝の言葉はあったものの、その後に、「どうしたの、よくこんな漫画出せたね。誰か新しい才能のある人が入ったの?」とまた余計なことを言われ少し気分を害したが、森原の見る目が間違っていなかったのは、2人の漫画家のその後の活躍を見れば良く分かることだ。それにしても、玄光社の次が、女性ニューウェーブコミックとはその守備範囲の広さに感心し、この件で、この人物に一目置いたことは確かだ。いかに沿線に大学の芸術学部がある環境とはいえ、そこまで本の目配りが出来る人物は、当時他にはいなかった。

 いろいろと話してみると、年齢は僕より3〜4歳上。本を作るプロがいるのであれば、本を販売する書店側にもプロがいるということをこの時初めて知った。そのくらい森原の、販売における見識と情報網は相当なもので、80年代に関東圈で書店営業をした者で、森原の名前を知らないものはいなかっただろう。

 ともあれ、この一件で、一生もう縁がないと思っていた人物とまた付き合いが始まり、一番仲が悪かったのが、最後には一番親密になるのだから世の中は分からない。(略)この人物に出会わなかったら、『出版幻想論』を書くことはまずなかっただろう。

(略)

 マドンナ自身の構成による著書ともいえる写真集が出た頃、この売れ行きについて、「この本を買うことによって、買った人間はマドンナと同じものを持っていて同じ立場になれると思うんだな、だから買っておきたい。所有することによって、同じ価値観を共有できる、そう考えるわけだ」と言っていたが、書店側で、そういった女性の読者の気持ちまで分かるものなのか。

 他には、魚柄仁之助の『うおつか流 台所のリストラ術』の存在を教えてくれたのも森原さんだった。

(略)

その頃から、森原さんはいわゆるマニアックな内容の本の情報ではなく、まだ誰も気づいていない、売れ行きそのものがマニアックな本を見つけて、これを自分の店でできるだけ売るということを始めた。一般的な売れ行きになった時は、他の店でも売られているわけで、その時は、それほど商品を追いかける必要はない。だから、いくら売れても部数的に限界のある、映画や音楽の本についてはそれほど追いかけていなかったのは、「逆もまた真なり」と思ったほどだった。

 ニューアカブームが終わりかけた頃に刊行された『消えるヒッチハイカー』を始めとした、一連の都市伝説本についての目のつけ方も、雑誌で評判になるより早かったような気がする。白夜書房の本でいうと、「ハッカージャパン」が売れ始めた頃にはいち早く連絡をくれて、かなり持ち上げてくれていたのを思い出す

(略)

[最後に会った時に]また余計なことを言われた。曰く、

 「君は書店営業には向いていないね」

 森原さんの退職と同時に、付き合いが始まったのが書原の上村社長(上村卓夫氏)だった。(略)森原さんの考え方の一部自体が、どうやら上村社長から来ていることは、話をしているうちにすぐわかった。(略)

僕の出版業界の精神的な恩人ともいえる(略)上村社長の存在は僕にとって、かけがえのないものだった。

 誤解を恐れずにいえば上村社長は、僕が出版業界で出会った書店経営者の中でも突出した、独特の考えの持ち主だった。さらにその考えは、自分で、直接売れたスリップを見ているという自負から来るものだった。

(略)

[POS定着以前](70〜80年代)の書店には職人的な人物が多くいたといわれるが、逆に、職人的でなければ務まらない業界でもあったわけだ。しかしマイナス面ばかりではない。職人的であればこそ、意図的な仕入れによる新しいジャンルの開拓と売り上げにも直結することもできたわけで、売り上げの維持は当然にしても、機械に頼らない分、その人の人間的な好みが強く出た職種でもあったと思う。

 上村社長は、こういった職人気質を持った最後の書店人だった。

(略)

 僕が『出版幻想諭』の中で、図書館の存在について、図書館の過剰な貸し出しサービスは周辺の書店の売り上げ減に直結するという、当然のことを書くと、こう言われた。

 「図書館について、そう考えるのはわからないわけじゃないけど、図書館で、ある本の存在を知って、その関連で違う本を書店で買うこともあるから、その考えは一方的過ぎるよ。いい意味で持ちつ持たれつだと思うし、実際、ウチの店でも一部納品してるからね。君のように、ある部分だけを敵視していると、全体が見えなくなって、せっかくの自分の仕事が徒労になってしまって損じゃないか。業界全体のことを考えろというんじゃなく、図書館についての意見は、それはそれで自分の仕事を考えるためにも必要なことになっていると思うよ」

見城徹

[文庫部に異動になり『花と蛇』文庫化を思い立つ。吉行淳之介が以前書いたエッセイを第一巻解説に使っていいと配慮してくれた。]

後から考えると、角川文庫ではいち早く、70年代初頭に既に『家畜人ヤプー』を文庫化していたし、何よりも時代は、「写真時代」を筆頭に、日本中がアダルトで発情していたような頃で、時期は熟していたといえるだろう。

(略)

 見城さんが「SM」に強い関心があるのは話をしているうちにわかってきたが、やはりそれは編集者としてのカンが最初にあり、「これを普通のOLに読ませようと思っていたんだ」とよく言っていた。角川文庫版の『花と蛇』は女性の読者も付いたそうだが、営業的に見ると、角川文庫ということで日本全国どこでも入手できるというのが大きかったと思う。

(略)

[幻冬舎創立時、営業に誘われたがあの仕事の厳しさとメジャー志向にはついていけないだろうと断った]

 「俺は一部の趣味というか、マニアのためのものというのか、つまりマイナーなものに興味がないんだ。マイナーな、趣味の世界のものは、マニアを連れてきて、マニアが満足するものを作ればある程度売れることはわかっている。だけど、そういったものはそこまでのもので、限界があるんだ。別に俺がわざわざ作る必要はない。それはそういうやつに任せておけばいいんだ。俺はもっと世の中をあっと言わせる、もっと多くの読者に影響を与えるものを作りたいんだ」

(略)もともとマイナー趣味の塊のような自分には、ちょっとない発想で、その点でも、一緒に仕事をするのはしんどいだろうなと思っていた。

次回に続く。