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2016-07-29 保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで このエントリーを含むブックマーク


保守主義とは何か - 反フランス革命から現代日本まで (中公新書)

作者: 宇野重規

メーカー/出版社: 中央公論新社

発売日: 2016/06/21

|本| Amazon.co.jp

はじめに

(略)「保守」とは何かとなると、実はかなり怪しい。(略)[結局のところ]「自分はリベラル(あるいは「左翼」)ではない」という、消極的な意味合いしかもたないのかもしれない。(略)

保守主義の思想は、楽天的な進歩主義を批判するものとして生まれ、発展していった。

 近代とはいわば、このような進歩主義と保守主義との対抗関係を軸に展開した時代ともいえる。そして、その場合に重要なのは、この対抗関係のなかでイニシアティブを握ったのが、つねに進歩主義であったということである。進歩主義があってこそ保守主義もまた意味をもつのであって、その逆ではない。進歩主義が有力であればあるほど、それを批判する保守主義もまた存在意義をもったのである。

 ところが今日、「進歩」の理念は、急速に失われつつある。

(略)

 結果として、「進歩」の理念に基づく進歩主義の旗色は悪く、逆説的に保守主義もまた、その位置づけが揺らいでいる。進歩主義というライバルを失った結果、保守主義もまた迷走を始めているのである。(略)

政治家バークの信念

しばしば指摘される、フランス革命の批判者であり、啓蒙思想に敵対した人物バークというイメージは、やや一面的であろう。(略)

ルソーの政治的影響を批判しつつ、その才能に早くから注目したのもバークである。

(略)

バークは政治の要諦は民衆を力で押さえ込むことではなく、その性情をよく理解することにあると説いた。

 民衆はもちろん無謬の存在ではない。彼らはしばしば判断を誤る。しかしながら、「彼らとその支配者との間のどのような抗争でも、少なくとも半分は民衆の側の言い分にも理がある」(『現代の不満の原因』)ことは疑えないとバークは主張した。

 悪政かどうかを判断するに際して、人々が感覚的に間違えることはほとんどないとバークはいう。人々が「この政治はおかしい」と肌で感じるとき、その感覚は正しいことがほとんどなのである。だとすれば、民衆が権力による圧迫を感じ、自らの利害が十分に反映されていないと声をあげるとき、その訴えをけっして軽視してはならない。政治は必ず公共の原理と国民の基盤の上に立っていなければならないというのが、政治家バークの信念であった。

「保守主義」という言葉

 ちなみに「保守主義」という言葉が使われるようになったのは、19世紀初頭のことである。逆にいえば、バークの時代にこの言葉は存在しない。

 1818年、フランスでルネ・シャトーブリアンが『保守主義者』という雑誌を創刊し、1830年代には英国でトーリが保守党と呼ばれるようになっている。キーワードは「保守する(conserve)」であった。元来、一般的に物を保存することを指したこの言葉が、政治的イデオロギーを示す用語へと転換する上で大きな役割をはたしたのは、いうまでもなくバークの『省察』である。

 しかし、このことを確認した上で、ただちに浮かぶのは、「それ以前には保守主義は存在しなかったのか」という疑問であろう。(略)

 この点について、明確な答えを示したのは、20世紀のハンガリーの知識社会学者カール・マンハイムである。マンハイムによれば、保守主義は、単に旧来のものを墨守し、変化を嫌うという意味での保守感情や伝統主義とは、はっきりと区別される。そのような志向は、いつの時代にも、どの社会にも見られるものであった。

 これに対し保守主義は、フランス革命とその後のダイナミックな変化に、自覚的に対応するものにほかならない。いまや保守すべき何かが危機にさらされている以上、これを積極的に選び直し、保守しなければならない。このような高度な自覚こそが、保守主義を生み出したのだとマンハイムは論じた(『保守主義的思考』)。

 このようなマンハイムの説明が正しいとすれば、バークはフランス革命のなかに、かつて存在しなかったような新たな脅威を見出したことになる。それはいったい何であったのだろうか。

フランス革命と名誉革命

 バークにとって、「保守する」とは、古いものをそのまま維持することではない。「何らか変更の手段を持たない国家には、自らを保守する手段がありません。そうした手段を欠いては、その国家が最も大切に維持したいと欲している憲法上の部分を喪失する危険すら冒すことになり兼ねません」。(略)

ここから、保守するためには変わらねばならないという、逆説にも聞こえる保守主義の信条が生まれていった。名誉革命とは、その意味で、保守と修正の二原理が力強く働いた事例であった。革命はあくまで、王国の古来の原理を回復するという視点からなされたのである。

 これに対し、フランス革命は王国の過去の原理の回復どころか、むしろ歴史の明確な断絶としてなされた点にバークは注目する。これに加え、フランス革命は、何らの歴史的根拠ももたない抽象的な原理に自らの立脚点を置こうとした。

(略)

バークは下院が民意によって支えられていることを強調している。その意味で、彼は単純に民主主義に敵対する思想家ではなかった。とはいえ、バークは、国王の地位を人民の選択に基礎づけることを認めなかった。国王は、あくまで王国の時間を超えた連続性を体現するものであり(略)

 その時々の民意の選択という不安定な基礎の上に、王国を立脚させるわけにはいかない。 (略)

バークは人権という理念自体を否定するわけではない。ただ、それが歴史的に形成され、もはや人々の第二の「自然」ともなった社会のなかで機能することを求めたのである。

ハイエクは保守主義者か

ハイエクは自らを自由主義者であると称しており、保守主義者であることを明確に否定している。(略)

要するに、保守主義はブレーキをかけるだけであって、未来に向けてのアクセルに欠けているというのである。

(略)

 ハイエクが否定するのは、変化を拒絶し、階層秩序に固執する保守主義であったといわねばならない。もし保守主義がそのようなものではなく、個人の自由と、それに基づく変化を許容するならば、ハイエクにとって保守主義を拒絶する理由はなくなる。例えば、このエッセイ[「なぜわたくしは保守主義者ではないのか」]のなかで、ハイエクはしばしばバークの名をあげ、彼への共感を隠さない。

(略)

ハイエクを20世紀の思想的文脈で捉え直すとき、彼を位置づけるべきはまず、1944年という時点における全体主義との対決であろう。

 たしかに1974年にノーベル経済学賞を受賞し、79年には英国のサッチャー首相就任にあたってその著作が言及されたこともあって、ハイエクは20世紀最後の四半世紀に再び「時の人」となった。その際には、もっぱら、福祉国家を批判し、市場メカニズムを強調する現代新自由主義の先駆者の一人とされることが多い。

 にもかかわらず、ハイエクを「市場の思想家」という現代的な枠組みでのみ理解することには問題がある。(略)

彼は教条的なレッセフェール(自由放任主義)に批判的であるし、貧困者の救済など、政府が一定の社会保障機能をはたすことも否定していない。その意味で、ひたすら市場の意義を強調し、政府の役割を否定した新自由主義者という像はハイエクにふさわしくない。そもそも彼の議論は必ずしも「大きな政府」か「小さな政府」か、という軸ではなされていない。のちに検討するように、「自生的秩序」や「法の支配」こそが、彼がもっとも重視した価値であった。

(略)

ハイエクが問題視したのは社会正義の実現という社会主義の理念ではなかった。この理念について、ハイエクは必ずしも否定していない。むしろ彼が批判したのは、社会主義がこの理念を実現するために採用した方法[「集産主義」]であった。(略)

どれだけ善意であるとしても、社会全体を統制する計画を立てることは、多様性と選択の自由を否定し、諸個人に一つの目的を強いることにつながるのである。その意味で、あらゆる集産主義の背景にあるのは、単一の価値体系が存在するという理想主義であり、人々の必要に順位をつけられるという幻想であるとハイエクは論じた。

 ここからも明らかなように、ハイエクの力点は、価格メカニズムがつねに正しいという主張ではなかった。むしろ、特定の個人や組織に社会全体の情報をすべて把握できるのかという懐疑こそが、ハイエクを突き動かしたのである。

(略)

 ここにハイエクの保守主義が明らかになるだろう。彼が問題にしたのは、自分はすべてを把握しているという人間の傲慢さであった。彼はフェビアン協会を主導したウェッブ夫妻など、社会主義に共感を示す当時の英国知識人にその種の傲慢さを見出した。抽象的な理念に基づく社会の改造に異を唱えたバークと同様に、ハイエクもまた、単一の価値に基づく計画の押しつけを批判したのである。

(略)

制度や慣習はつねに歴史のなかでふるいにかけられ、そこで生き残ってきたものである。ハイエクの考える「進化」とは、制度や慣習といった「ルール」の進化であった。このようなハイエクの秩序像が、きわめて保守主義と親和性の高いものであったことはいうまでもない。

(略)

ハイエクの思想の本質は人間の知の有限性やローカル性を重視する懐疑主義であり、多様性や選択の自由を重視する自由主義である。その政治的主張の中心は、憲法によって政府による恣意的な立法を抑制しようとする立憲主義にあった。このようなハイエクの思想に、バーク以来の英国保守主義の現代的展開を見てとることができるはずである。

オークショット「人類の会話」

統治とは、何かより良い社会を追い求めるものではない。統治の本質はむしろ、多様な企てや利害をもって生きる人々の衝突を回避することにある。それぞれの個人が自らの幸福を追求しつつ、相互に折り合っていくには「精緻な儀式」が必要である。そのような「精緻な儀式」として、法令制度を提供することが統治の役割なのである。

 そうだとすれば、統治者のつとめは、人々の情念に火をつけることではない。むしろ、あまりに情熱的になっている人々に、この世界には自分とは異なる他者が暮らしていることを思い起こさせることが肝心である。大切なのは、情熱に節度をもたせることにほかならない。その意味で、他の活動については革新的であるが、統治については保守的ということは、何ら矛盾ではないとオークショットは主張した。

(略)

統一体が特定の共通目的による結合であるとすれば、社交体は実体的目的から独立した、形式的な行為規範による結合である。両者は中世以来の起源をもつモデルであり、教会参事会やギルド、大学などが統一体であるとすれば、友人や隣人関係が社交体にあたる。前者ではすべての成員が共通目的によって動員されるとすれば、後者では成員は自由に自らの目的を選択することができる。

 オークショットの見るところ、近代の政治的言説はあまりに統一体のイメージで語られてきた。すなわち、自律的な個人の衝突を行為規範によって調整する「統治」ではなく、支配下にある人々を統一体の目的のために利用する「指導」の技法こそが、中心的な主題とされてきたのである。しかしながら、このことは偏見であり、人々は共通目的がなければ結合できないわけではない。ここまで見てきた「会話」のヴィジョンが、この社交体と密接に結びついていることは明らかであろう。

アメリカ保守主義の「創始者」

まず言及すべきは、リチャード・ウィーヴァーの『理念は実現する』(1948年)とラッセル・カークの『保守主義の精神』(1953年)であろう。(略)

第二次世界大戦による破壊に衝撃を受けたウィーヴァーは、『理念は実現する』の冒頭で、現代文明の精神的病理の原因を、中世スコラ哲学におけるウィリアム・オッカムの唯名論に見出している。(略)[それは神の絶対性を認めず、人間中心主義で]近代の思考はやがてニヒリズムに行き着き、道徳的秩序の崩壊をもたらしたとウィーヴァーは論じた。

 人間は本来、不完全なものである。だからこそ、人間にとって、精神の「重し」となる伝統が不可欠であると説くウィーヴァーの主張は、人間の理性や合理性についての楽観に満ちた時代の風潮のなかで、明らかに異端的であった。

(略)

現代アメリカの保守主義の精神的背景には、もう一つ指摘すべき要因がある。いわゆる「反知性主義」である。(略)

ハーヴァード大学に象徴されるエリート大学を卒業し、アメリカの政治や経済、文化や社会を主導する人々に対する草の根の不信感を示すものであるからだ。「エリートのいうことがすべて正しいわけではない」。ある意味で健全な反骨的精神がそこに込められていることを無視するわけにはいかない。(略)

アメリカ社会を支えているのは、一握りのエリートではない。地位も学歴もないけれど、生活に根ざした健全な判断力をもつ普通の人々こそが、アメリカ社会の根底にある。

(略)

現代アメリカの保守主義を準備したのは、新大陸アメリカに生まれ育った独特な「伝統主義」であった。それは政府の力に頼ることなく、自分と自分の家族のみで孤独に生きる人々の信念であり、固有の独立精神に基礎を置くものであった。と同時に、この独立精神を支えたのは強い宗教心であり、その場合の宗教とは、近代化と世俗化に適応したキリスト教ではなく、あくまで『聖書』と独特な回心体験に基礎をおくキリスト教であった。(略)

[このような「伝統主義」は20世紀中盤まで社会の前面にでなかったが、進歩的知識人への]信頼が翳りを見せ、むしろ不信感こそが募る時代状況のなか、伏流としてあった「伝統主義」は独特な「反知性主義」として、さらには「保守主義の精神」として顕在化するに至ったのである。(略)

現代アメリカの保守主義が、単なる精神的態度やメンタリティに終わることかく、一つの「革命」へと結晶化するにあたっては、「伝統主義」に加え、もう一つの要素が付け加わる必要があった。それが「リバタリアニズム」である。

(略)

 伝統的に社会主義など左派的立場と結びついて用いられてきた「リバタリアン」という言葉は、「大きな政府」に対する不信感を紐帯に、伝統主義と合流していく。政府に対する不信感と強固な個人主義が結合し、独特な「保守主義」が生まれることになったのである。(略)

フランク・メイヤーは、伝統主義とリバタリアニズムの合流を指して、「融合主義」と呼んだ。

次回に続く。


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2016-07-26 C・メイフィールド、山下達郎インタビュー このエントリーを含むブックマーク

部屋掃除で発掘した雑誌を最後に一度読み返すシリーズ。

特集は無視して、1994年のカーティス・メイフィールド・インタビューから。

f:id:kingfish:20160724193925j:image:w300

Cut1994年5月 Vol.30

『特集:フレンチ・ロリータ幻想』

VANESSA PARADIS バネッサ・パラディ

'90年代ファム・ファタルを徹底検証。

CHARLOTTE GAINSBOURG シャルロット・ゲンズブール

キャリア転換期を迎えた寡黙なシャルロットが初めてその揺れる心境を告白。

JANE BIRKIN ジェーン・バーキン

いまやシックな女の代名詞となった彼女が明かすセルジュ・ゲンズブールとの思い出。

ANNA KARINA アンナ・カリーナ

伝説となったヌーヴェル・ヴァーグ女優とゴダールの脆くも詩的な関係。

BRIGITTE BARDOT ブリジット・バルドー

フランス女優のシンボルとも言える世紀のアムルーズが語った稀少インタビュー。


ピープル・ゲット・レディ

アーティスト: インプレッションズ

メーカー/出版社: USMジャパン

発売日: 2012/10/17

|CD| Amazon.co.jp

事故以来初めて公式の場(グラミー賞授賞式場)に登場した51歳のカーティス。

 オリジナルのウェイラーズはインプレッションズをモデルにしていた。ボブ・マーリーはハーモニーから服装のスタイルまで、すべてをそっくりインプレッションズから借りてきていたのである。

――初めてギターを手にしたのはいつですか。

 「8歳か9歳のころ、わたしはノーザン・ジュビリーズというゴスペル・グループで歌っていたんだ。ジェリー・バトラーも一緒でね、とても仲がよかったよ。(略)

ピアノではすぐにブギ・ウギを弾くようになってね、あれは黒鍵を使うんだよね。[家にあった]そのギターを手に取り、いい加減に掻き鳴らしてみると、スペイン式のチューニングになっていた。つまりそれじゃコードが弾けないんだよ。すっかり調子がずれているからね。(略)そこで黒鍵に合わせてチューニングしてみた。つまりFシャープになったわけだね。そんなふうにして独学でギターを弾くようになったんだ。自分が何をやっているのか、あとになるまでわからなかった。アポロ・シアターでバンドと一緒にプレイすることになったとき、やっと自分がFシャープのキーでプレイしてるってことを知ったんだよ」

(略)

[ジェリーの妹を通じて、ジェリーと再会]

ジェリーはよくわたしの家に来ては、ウエスト・サイドのわたしのグループをやめて自分のところへ来ないかと誘った。ついにわたしも折れてね、それで夜になるといつも歌ってた。

 ジェリーとブルックス兄弟は「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」が気に入って、わたしたちはチェス・レコードで歌わせてもらう約束をとりつけた。冬の寒い日でね、胸まで埋まるくらい雪が積もっていて、その中をミシガン・アヴェニューの22丁目にあるチェス・レコードまで出かけていった。でもだれも入れてくれないんだ。わたしたちは1時間くらいぼうっと突っ立っていたんだが、そのうちふと通りの向こう側を見ると、ヴィー・ジェイ・レコードがあるじゃないか。わたしたちは歩道も歩かずにまっすぐそこを目がけて行った。アンプやら何やらすべて持って、雪の中を一直線にね。ドアをノックすると、ヴィー・ジェイの社長だったカルヴィン・カーターとユーアート・アブナーが中に入れてくれた。わたしたちは2階のオフィスに通じる階段で「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」を歌った。カルヴィンがこの曲を気に入ってね。それから3、4日のうちには、スタジオで「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」のレコーディングをしていたよ」

――「フォー・ユア・プレシャス・ラブ」は最初のソウル・レコードと言われてきました。あの曲が当時のリズム&ブルースとちがうものになったのはどういう点からだと思います?

 「まあおそらくこういうことかな、ジェリーの力強いバリトン、それにわたしやブルックス兄弟のすごく高音のゴスペルっぽい響き――ハイ・ピッチのテナーが、サムのとても張りのあるバスに混じり合っていた。それでハーモニーがさらに広がりを生んだんだよ。もちろんわたしたちにとっては子供のころ聴いた響きだったんだが、世の中の人にとってはそれがよかったんだね」

――ジェリーはその後インプレッションズからはなれてしまいますね。

 「長くは続かなかったね、あのころはレーベルがリード・シンガーを引きはなして売り出すのがふつうだったんだ。たいていの場合はクロスオーバーが目的でね。(略)“ジェリー・バトラーとインプレッションズ”ということになって、当然ながらそれはかなり不協和音を生んだ。(略)

[ただ、そのおかげで]

ライター兼シンガーのカーティス・メイフィールドが、低くて小さな声にもかかわらずリード・シンガーになれたからさ。マイクロフォンとテクノロジーのおかげだね。だがわたしはジェリーのためにギターを弾くことはやめなかった。1年のうちには1000ドルくらいたまってね、それでインプレッションズはニューヨークに出ていくことになった。ABCパラマウントで初めてレコーディングしたのが「ジプシー・ウーマン」。そうやってだんだんと始まっていったんだよ、いきなりではなくてね」

――「ジプシー・ウーマン」で稼いだ金であなたは自分の著作権会社を作ったわけですね。そういうことができることまでどうして知っていたんですか。当時そういうことをやるアーティストはあまりいなかったと思うのですが。

 「どこで聞いたのかね、とにかく自分の曲の著作権を持っていなくちゃいけないってことを何かで知ったんだよ。それで最初、米国国会図書館に手紙を書いてみた。そこからちょっと教わって、曲の著作権をとるための書式も送ってもらったんだ。わたしはすごく若いころから、自分のものはできるだけ自分で持っていることが大事だと考えていた。子供のころ不安な思いをしたせいだろうね、貧しい家庭の貧しい学生だったからね」

(略)

とてもすばらしい、最高にビッグなアーティストの中にも、自分で持っているのは名声だけ、という人がいる。彼らには財産がないんだ。いつだって、自分のものはできるだけ自分で持っていなくてはいけないよ。いまでもわたしは30年前に書いた曲から小切手をもらってる。額の問題じゃない。自分で持っているということ、それがいまでも自分の生活に役立っているということだよ」

――当時のインプレッションズには(略)曲全体の根底にゴスペルがありますよね。

 「わたしたちはテンプテーションズではなくて、インプレッションズだったんだよ。ステージに出ていくと、いつでもオーディエンスはわたしたちを人間として尊重してくれた。ちゃんと聴いてくれたんだよ。わたしたちにいろんなステップを期待する人はいなかった。みんなわたしたちのハーモニーを愛してくれて、わたしたちが伝えようとしている言葉を愛してくれた。心の糧だったんだよ。インスピレーションを与えるメッセージを持ったものがちょうど待たれていたときだったんだ。だからちがいが出てきたんじゃないかな。

 わたしたちがデビューしたころは、なんだか教会でやっているようだったよ。オーディエンスの反応がそんなふうだったのさ。ひとりのアーティストにとにかく叫んでわめいて、ひざまずいたり踊ったり。だがインプレッションズが出てきたら、みんな静かに耳を傾けるようになった。「ピープル・ゲット・レディ」、あの曲をやるといつもシーンとなったのをいまでも思い出すよ。R&Bのヒット曲とはまるでちがっていたね」

――60年代に入るとあなたの曲には政治的な要素が強くなってきますが、あなた自身も政治活動をするようになったのですか。

 「いいや、わたしはアーティストでありエンターティナーにすぎないからね。あんまり政治的な人間ではないんだよ。わたしは自分の取り分がもらえるようにできるだけのことをやるしかない。個人として守るべきことを守ることにわたしの意味があると思うんだ。自分自身の意見を言う権利は行使しているよ、たとえば「ウィ・ピープル・フー・アー・ダーカー・ザン・ブルー」とか、「(ドント・ウォーリー)イフ・ゼアズ・ア・ヘル・ビロウ、ウィー・アー・オール・ゴーイング・トゥ・ゴー』といった曲がそうだ。

 政治の世界をなんとか揺さぶりたいとかいうわけではないんだよ。わたしはそういうタイプではない。ごく普通の人間だ。ただわたしたちはみんなの心に新たな糧を与えてあげることができた。ひとりひとりにものごとを考えさせ、人の決めたことに流されるのではなくて自分で決めるように」(略)


スーパーフライ+11(K2HD/紙ジャケット仕様)

アーティスト: カーティス・メイフィールド

メーカー/出版社: ビクターエンタテインメント

発売日: 2011/07/20

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スーパーフライ 特別版 [DVD]

メーカー/出版社: ワーナー・ホーム・ビデオ

発売日: 2013/11/06

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Let's Do It Again


シドニー・ポワチエ/一発大逆転 [DVD]

メーカー/出版社: ワーナー・ホーム・ビデオ

発売日: 2006/08/04

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――「スーパーフライ」のプロジェクトに係わるようになったいきさつを教えてくれませんか。

 「わたしがニューヨーク・シティのリンカーン・センターでショーをやっていたとき、フィル・フェンティ(脚本家)とシグ・ショア(プロデューサー)が一番前で観ていたんだよ。ショーのあとでふたりが楽屋に来て自己紹介すると、脚本があるんだが映画のサントラを書いてみる気はないかと言うんだね。(略)

脚本を読んで、アンダーラインを引いたり、曲がうまくはまりそうな部分に書き込みをしたりしたんだ。わたしはすぐフレディに心を惹かれてね、曲を書き始めた。既に「リトル・チャイルド・ランニン・ワイルド」という曲ができていて、それが脚本にぴったりに思えたから、映画の出だしで使うことにした。

 映画そのものを観たとき、これはすごく切り詰めた予算で作ったんだなってすぐにわかった。だが表面は服や車ですごくきらびやかに見えるんだ――いろんな意味で、まるでコカインのコマーシャルみたいだったよ!見ているとちょっとちがう方へ引っ張られてしまいそうな感じなんだ。ちゃんとしたストーリーがあったのに、コークをやりすぎてるものだから観る側を混乱させかねない。それでわたしは、自分の曲では徹底してほんもののストーリーを書かなくてはいけないと思った」

――なるほど。するとあの曲は、映画のイメージに逆らうことを目的にして書かれたのですか。

 「そうなるようにしたいと思っていた、正直なところそれがわたしの目的だったんだよ。音楽と歌詞が批評の役目を果たすように作った、映画が進んでいくのと一緒に誰かが話してるみたいにね。映画が公開される2、3カ月前にアルバムをリリースしたから、映画が始まったときにはキッズはもう曲を知っていたんだよ。みんな映画を観ていても、その奥にあるものはもうわかっていた。ちょっと論争にもなったが、わたしはとても満足だったよ。みんなわかってくれたんだ、きらびやかな服とストーリー・ラインの間に――生き延びようとする黒人がいるって。彼は無知な人間ではない。彼は知性を持ち、抜け出そうとしている人間だ、だからわたしは「スーパーフライ」の歌詞の中でそこを讃えたんだよ」

(略)

『スーパーフライ』、『クローディーン』『レッツ・ドゥ・イット・アゲイン』、『スパークル』、どれもビッグ・ヒットになったからね。(略)あるときシカゴのダウンタウンを歩いていたら、ステート・ストリートでわたしの映画3本が同時にかかっていた。どの入口にもわたしの名前が出ていてね、見ていてなかなか気分がよかった」

――あなたがビッグ・ヒットを出していた時期は、そのころがちょうど最後になるんですね。

 「まあね、そのあとにディスコ時代がやって来て、わたしは突然見捨てられた。いったい何をしたらいいのか、どんなふうにしたらいいのかもわからなかった。(略)わたしは初めてパレードの先頭に立てなくなったんだ。(略)クリエイティブな面ではわたしにとって一番つらい時期だっただろうな。そういう時代だったからなのか、あるいはそのときのわたしが燃え尽きたような感じだったのかもしれない。よくわからないよ」

――ディスコのあと、ブラック・コミュニティではラップが優勢になりました。そうしたラップ・アーティストがあなたの曲をサンプリングして使っていることについてはどう思います?

 「若い者たちの多くは、本質的にはミュージシャンではないんだよ。だが、自分たちではつなぎ合わせられないかもしれないものを、技術的な能力によってサンプリングすることができる。だからと言って彼らがクリエートできないということではない。彼らはサンプリングによって新しい創造方法を生み出したんだ。音楽を組み立てる新しい方法だよ、これはすばらしいことだ。いろいろな絵を切り貼りしてひとつの模様を作ってみるようなものだね。ちょっとはなれたところから見て、『うわ、見ろよこれ』って今度は近づいてみると、よく知ってる絵を寄せ集めてちがうふうに見せたものだってわかる。あの子たちがやっているのは、根本的にはそういうことだ」

(略)

[サンプリングして]うまく使ってくれて嬉しいよ。わたしにはあんなこと思いもつかなかっただろうね(略)彼らのやることには脱帽だ、彼らがそれで金を稼いでるからって責めるわけにはいかん。要するに、やっぱりこれは商売だっていうことさ。個人的なものでありクリエイティブなものであるけれども、商売でもあるんだよ。自分のやり方で金を稼ぐには、みんなのやり方も借りなきゃいけないわけさ」

――あの事故が起きた夜のことで何を覚えていますか。

 「あんまり話せることはないんだよ。(略)わたしは野外ステージの裏の階段を昇っていった。昇り切って、3歩か4歩歩いて、その次に気がついたときには床に転がっていた。ギターもどっかに行ってしまってて、靴も履いてない、眼鏡もない、そして体がまるっきり動かなかった。みごとに伸びてたんだよ。にっこり笑ってステージに向かっていったその次の瞬間には、まっすぐ夜空を見つめてた。雨が降り出してたなあ。

 すべてめちゃくちゃになっていた。動かせるのは首だけだった。自分がどうなってるのかと見回してみると、ぬいぐるみみたいに床の上でぶざまに寝そべっているんだよ。もちろん目は開けたままでいた、目を閉じたら死ぬんじゃないかって気がしたのさ。みんなが来てわたしを運んでくれた。病院はすぐそこにあった。どこまで深刻な状態なのか自分ではわからなかった、生きるか死ぬかもね。……どこがどうしてどうなったのかまるでわからなかった」

――いまはどんなリハビリを行っているんでしょうか。

 「正直に言うと何もしていないんだよ。ただ 単に、リハビリのしようがないからだがね。わたしが完全に寝たきりにならないようにと家族が手足のストレッチをさせてくれる。できるだけ体が固くならないように。でもどこも丈夫なんだよ、麻庫してるだけで。どこかのいいお医者がいつか魔法のような方法を見つけて、麻痺した部分を生き返らせてくれるかもしれない。そういうことが起こらないかぎり、おそらくわたしはこのままで死ぬんだろうね。

(略)

わたしは自分を哀れんではいないし、人から哀れみを受けたくもない。わたしはとても感謝しているんだよ、いまもこうして生きていられて、これほどすばらしい評価を受けて、たくさんの人たちがわたしに愛情を示してくれて――ほんとうにありがたいと思っている。わたしは憎しみを持たない、わたしは恨みも何もしない。ときには泣きながら目を覚ますこともあるが、それはわかってもらえるだろう。ミイラのようにがんじがらめに縛られていて、どうしても抜け出せないような気がすることもあるんだよ。でもけがをした者にとって、そういうことはふつうだろう。それを除けば、わたしはとても楽しく過ごしているんだよ」

(略)

――いまでも頭の中には音楽のアイディアがあるんですか。

 「ああもちろん、わたしは音楽のために生きているんだからね。きみとの話からでも4つか5つ曲ができただろう。できることなら、ボイス・アクティベーターとかこれから出て来るいろいろなものを使って、いつかそういう曲を作れるようになったらいいね。そうすればわたしはできるだけ人に頼らずに、もう一度この業界で役立てるようになるかもしれない」(略)

イギー・ポップ(『アメリカン・シーザー』を発表した頃)

――今回のライブではストゥージズ時代の曲など昔の曲もやっていましたが、どうしていま、昔のハードな曲をやるのでしょう

「昔の曲を発表した当時は、すごくクオリティの高い作品だと思ってた。いまでもそう思ってる。べつにハッタリかましてるんじゃなく、ホントにハードな作品だったんだよ。でも時代とマッチしなかったのか、当時は正しい評価を受けなかった。俺はね、絶対諦めない人間なんだ。だから20年前の俺の作品が未だに有名で、売れることを確信してる。だからいまもあの当時のアルバムを宣伝して、著作権料を稼ぐ。これは俺のプライドの問題でもあるんだ。それに俺のやってることの基本を見せる意味もある。だってあの曲は俺がやらなきゃダメだろ?俺がいなけりゃ世間に認められなかった作品なんだぜ。いまではあの頃の曲は発表当時よりも有名になった。俺が歌ってみんなに聴かせてきたからさ。やっといま正当な評価を受けるようになってるんだよ」

(略)

――この10数年の間、あなたの中で何が変わったと思いますか。

「前のようなエネルギーはないけど、その分強くなった。経験も積んだ。くじけないっていうのは大変なことだよ。成熟したと思うし、前よりハッピーだし、いまでは昔はなかった金や車や家もある。曲を発表し始めた頃、自分ではすごい作品だと思っても同意してくれる人はほとんどいなかった。でもいまでは大勢の人があの頃の作品を評価してくれる。だから自信もついたし、何よりも自分を信じてよかったと思う。その一方で、ヒットを飛ばしてあっという間に金を稼いで、数年も経ったら忘れ去られてしまう人たちをこの20年の間に見てきた。だからいま、俺はすごくいい気分だよ。ポップ音楽の世界でも正義がある、当然の報いがあるんだ。いい作品はいつかは評価を受けるものなのさ。若い頃はそういうことにも気づかないで、ただ犬みたいにやってたけどね(笑)」(略)

シュガー・ベイブ『ソングス』CD化記念、特別対談

山下達郎VS渋谷陽一

(略)竹内まりやさんのレコーディングで多忙を極め、どうしても執筆不能ということになってしまいました。CUT創刊以来、5年間連載していただいているのですが、落としたのはこれでまだ2度目、ということで許して下さい。今回は番外篇ということで、CUT前編集長の渋谷が、むりやりスダジオに押し入り[対談]

(略)

山下――渋谷君、最近なんだか岸信介に似てないか?

渋谷――週刊文春で「似たもの同士」っていうのに岸信介と出たんだよ。

山下――えっ「似たもの同士」でほんとに出たの?

渋谷――出たよ。

山下――すごいね、それ。

渋谷――すごかねえよ! ひとつも。

山下――ははははは。まあ渋谷君、体質は似てるよ、体質は。

渋谷――そのうちに“山下達郎とゲゲゲの鬼太郎”とか出るんだよ。

山下――俺はそういうのはもうそんな生易しいものじゃないもん。昔はもう言われ放題言われたからね。ハッキリ言って。

渋谷――はははは。何だよ、具体的に何を言われたの?

山下――昔はねえ、何だっけなあ……忘れちゃったよ。もう顔の話はやめよう。

(略)

[シュガーベイブ時代は色々酷い目に会ったという話があって]

山下――だからメディアに無条件で受け入れられるそういう人の中で長命を保った人はひとりもいないってのかなあ。(略)残ってる人は何らかの形でみんなやっぱりネガティブ・ファクターを投げられて、それに「この野郎!」っつって立ち向かってきた結果が結局フタを開けてみたら何とかいまでもいるっていうかさあ。

(略)

渋谷――だけど、そういう怨念の籠もったシュガー・ベイブを今回リマスターして出すというのは?

山下――いや、べつにアルバムに怨念はないもん。

渋谷――ああ。これはやっぱりちゃんと残したいなという非常に素朴なものなの?

山下――うん、ちゃんと残したいってだけで。前号にも書いたけど、当時出たまんまのマスターってのにそんなに好感がなかったの。何故かっつうと、その記憶とリンクしてるから。(略)

すごくレコーディングの条件が悪かったのよ。(略)エレック・レコードって新宿2丁目にビルを持ってて、そこの2階にあった小さいスタジオでレコーディングしたの。これがもう天井がほんとに低い、2メートルないような天井のコンクリの打ち放しで、マイクもなければ何にもないの。

渋谷――えっマイクがなくてどうやってレコーディングするの?(笑)。

山下――マイクがないって、たとえばレコーディングでピアノを録る時にはピアノに適したマイク、ドラムを録る時にはドラムに適したマイク、そういうようなマイクのバリエーションがないの。もうほとんど1種類か2種類のマイクが何十本とあるっていうさあ。PAだってこんなの使わないっていうようなね。そういうんで全部録音せざるを得なかったの。でもっと悪いことにその時にエレックっつうのは左前で(笑)。たとえば卓が拓郎の抵当とかスピーカーが泉谷の抵当とか。

(略)

大滝さんってエンジニアとしては素人だったでしょう、それがよかったの。あれがあの当時の日本のレコード業界のプロのエンジニアだったらめちゃくちゃにやられてたよね。(略)

そういう自由がきかなかったとこで、大滝さんがエンジニアやってるってことでいろんな実験ができたからさあ。そういうことで音としては非常に特徴があるし、また気が籠もってんだよね。不思議な言い方だけど。やっぱり大滝さんの熱意とそれから我々の熱意ってのが音に込められてて、それがうまい具合いね。確かにダイナミック・レンジとかオーディオ的に考えれば悪いかもしんないんだけど、気は入ってる。それがわかるまでに時間がかかったね。

(略)

今度、全曲このシュガー・ベイブのレパートリーでライブやるんだけど。それで当時の日本のロックの曲を2〜3曲やってみようと思って、どんな曲がいいかいろんなレコードを聴いたんだよ。すごくショボいの、どれも(笑)。(略)

音にガッツがないの。でも、これは不思議と普遍性があんだよ、ヘンな意味でのね。で、こないだシングル切った“パレード”なんかにしても、これにしても妙な具合の普遍性がね。だから音は古いけど、いま聴いても鑑賞には耐えるっていうさあ、不思議なエネルギーがあるっていうねえ。それはやっぱり大滝さんがやったからなんだろうね、ということはよくわかる。(略)

2016-07-23 アメリカン〜・その3 ゴダール、コッポラ このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


アメリカン・ニュー・シネマの息子たち―ルーカスからゴダールまで11人のインタヴュー集 (1982年)

作者: ロッキングオン

メーカー/出版社: ロッキング・オン社

発売日: 1982/01

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勝手に逃げろ/人生 Blu-ray

メーカー/出版社: 紀伊國屋書店

発売日: 2013/06/29

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ジャン=リュック・ゴダール

――〈Every Man for Himself〉は“第二の処女作だ”とおっしゃいましたが、その意味は?

★(略)[ラボやカメラマンとの]議論は昔と同じさ。たとえばぼくが「コダックのフィルムはこの20年間にずいぶん良くなってるはずだ!」と主張したりしてね。だから技術的な面でも、自分が、禁じられた領域に足を踏み込んでいく気分さ。自分が10歳の少年のようにも感じたし、一方、いまやいっぱい物を知ってる大人なんだ、とも感じた。しかし同時に、未知の世界にも入って行ったんだ。この“未知”という感じがあったから、第二の処女作をつくってるような気になったのさ。ぼくは、新しいものを発見したかった。自分にとってとっくにわかっているものを、呈示したりはしたくなかった。映画はほとんどが、そうだけれど、ぼくはそうしたくなかった。

(略)

――今日の映画が抱えている問題は何だと思いますか。

★ごく単純なことを発見したんだ。ほとんどの映画作家が、彼等の道具、すなわちカメラを、肌で知っていない。自分のカメラを持ってる人さえいない。タクシー運転手なら、1〜2年仕事から遠ざかっていたあとは、自分の家の周りを回ったりして、運転技術を忘れていないことを確かめるだろう。映画人には、この種のためらいがない。2年前にカメラにさわったことがあるから、もう、なんでもわかってる、というふうだ。ぼくが思うに、そんなことはあり得ない。自分の女房とだって、1年に1度しか会わないようだと、充実したメイク・ラヴはできないはずだ。でも、映画屋のやり方はこれなんだ。彼等は1年に1度、映画をつくる。だから、いまの映画はどれも、昔のよりつまらないのだ。マイケル・チミノが一年もカメラにさわらなくて、それをどうやって使えるのだ? プロデューサーは1日24時間、映画のことを考えている。詩人は毎時間、詩のことを考えている。朝の7時から夜の8時までの仕事だ。あとは忘れていろ、なんて考えない。

 もう一つの問題は、映画作家達が共同で映画をつくろうとしないことだ。一人一人がバラバラに、フォックス等々の大会社と契約する。すると彼は、映画づくりの総体に関する責任を持たなくなる。大会社の重役達は、映画作家にこびへつらわさせるのが好きだ。そういう意味では私も売春婦だが、しかし女衒は嫌いだ。第一番の敵は女衒だ。同類の売春婦ではない。ほとんどの映画作家が、こびへつらうことを好んでいる。しかし、肝心の映画をつくるのは彼等自身なんだ。もっと、共同して強くならなければならない。

(略)

一つの国に、映画作家は何人いればいいのかね? アメリカで年に百本の大作が出来るとすれば、千人は要らない。たぶん百人で十分だ。ただしいつも同じ百人であってはならない。チミノは2〜3年、ハード・コア・ポルノをつくってみるのもいいだろう。そうすれば違ったアイディアも持てるようになる。あるいはニカラグアでドキュメンタリーをつくってもいい。いつまでも同じようなことをやってちゃいけないんだ。マーティン・スコセーシを見ろよ。彼は、ときどき、小さな仕事をするが、それは彼にとっては、大作と同様に重要なんだ。その効果は必ず出て来る。フランシス・コッポラのやり方もこれとよく似ている。ジョージ・ルーカスなんかのやり方とは逆だ。

 ぼく自身は、カリフォルニアの仕事とモザンビークの仕事を同時に持っている。なぜか? 理由はきわめて論理的だ。カリフォルニアには映像が多量にある。モザンビークには全くない。人口の80パーセントは、映像というものを見たことがない。自然だけだ。ちょうど目が見えるようになったばかりの子供の前には、なんの記号も、意味もないのと同じだ。ただ、見ているだけだ。だから、モザンビークでは映像がナマな素材だ。一方、ハリウッドでは、映像はあまりに洗練されていて、もはや、解読することすら出来ない。ぼくは両者の中間に生きている。影響はカリフォルニアから受けるものが多いが、全然反対の方向にも行く必要がある。他人の作品ではなく、自分の作品をつくりたいからだ。

(略)

――〈Every Man for Himself〉でひんぱんに使われている、スロー・モーションやストップ・モーションについてお尋ねしたいのですが。

★ぼくの新しい映画の創世期さ。メリエも、動きの錯覚をつくり出すことが面白いとは考えていなかったのだ。彼は、様々の異った動きを見ることが重要だ、と言った。ぼくらも、一つの動きについて、どの速度にすると、脚本の意図にいちばんぴったりするのか、研究したことがある。たとえばキスの場面は、遅い速度がいいだろう。いまの映画をよく見てみれば、どの映画でも、どの俳優も、同じ速度でキスしていることに気付くだろう。しかし、これと対照的に、グレタ・ガルボがレイモン・ナバロにキスするときの様子はどうだ。サイレント映画には、一本の映画の中にも、ものすごく速度の違いがあった。それは、カメラがやったんじゃなく、俳優自身の決定でそれをやったのだ。今日のわれわれは、このセンスを失ない、いつも同じリズムでやっている。サイレント映画にあったリズムは、トーキーでせりふが喋られることによって平板化し、停滞した。これは、時と場合によっては良いことだ。しかし、サム・ペキンパーの殺しのシーンや、〈ロッキー2〉のスローモーションは、陳腐になってしまった。コマーシャルが多用したからね。だから、ぼくは、違った種類の速度を用いるべきだ、と考えた。でも今回は、その始まりにすぎない。ぼくは、ブライアン・デ・パルマの〈フューリー〉にたまたま使われているスローモーションが、スローモーションの唯一の良い使い方だと思う。小細工として使われているのでなく、ひとつのシークェンス全体にわたって使われているからね。

(略)

――あなたはいつも、映画の中でさえ、映画の本質を問い続けておられましたね。

★これからもそうしていく。というのも、ぼくは、コミュニケーションとは、ある場所から別の場所に行くことである、と考えるからだ。たとえば、ニューヨークから、テラライドに行くこと。ぼくにとって、人間であることとは、二つの場所の間にいることなのだ。重要なのは動きだ。一つの場所にいつづけることじゃない。ぼくの場合、映画をつくることと、生きる・生活することとが分かれていない。両者はひとつだ。だから、ぼくという人間は、映画をつくっているときに存在するのだ。よく、ぼくに、『あなたには個人生活がない。あなたみたいな人とはつき合えない。メイク・ラヴしてる最中にも、突然、“すごいシーンを考えついたぞ!”なんて言い出す。まるで色のことしか話題のない画家みたい』などと言う人がいる。しかし、自分のやっていること――創造行為――が、唯一、自分の喋れることじゃないかな。

 ぼくは、愛を求めていると思う。しかし、仕事を通じての愛でなくてはいやだ。

(略)

――すると、あなたの生活は、事実上、映画なのですね。

★映画だ。そして、ぼく自身が映画だから、ぼくは自分の生活と深い関りを持ち、これを、他の人々とわかち合うことができる。ぼくはいろんな、恐ろしい物事、美しい物事、口当りの良い物事、等々を見せたい。そうすると人々にはぼくがわかるだろう。いまでは、映像を人に見せることについて、前よりも勇気を持っている。自分自身であるためには、ぼくは、ぼく自身を外に投映しなければならない。映画産業がそのためにある。絵画と違って、特殊技能は要らない。ただ、映画を撮って、正しい時に記録する、勇気さえあればよい。これにもむろん、技能は必要だがね。そうすると、ぼくはぼくの一部を、人に見せることができ、人々はぼくの内側を見ることができる。映画は、人間が人間の内側を見るための唯一の手段だ。だから人々は映画を好むのであり、映画は不滅なのだ。

(略)

 映画カメラマンは、レンズとカメラがこっちにあって、ファインダーがここにある、という考え方をめったにしない。単純に、自分の目が対象を捉えている、と思っているだけだ。眼球―網膜―映像という、客観的な系を、対象化して考えようともしないのだ。画家や音楽家なら、自分の感覚器官を完全に対象化しているじゃないか。(略)

映画カメラマンはぼくに『ジャン・リュック、五・六でいいかな』とは言わずに、『こっちの動きと、さっきの動きと、どちらが大切かな』などとしか言わない。ぼくらは、ほんとなら、ある決定に基いて、レンズの絞りの適正値を発見しなければならないのだが、その種の質問を受けたことは一度もない。彼等はみんな高給取りだし、かつ、映画に対して責任を持っていないからだ。映画が出来るのは、コダック(の科学技術)が80%、カメラが15%、映画会社のトップが残りの%、オレには関係ねーや、というわけだ。

 ほとんどの映画カメラマンが、自分が何と戦っているのか、そして、敵に来て貰いたいのか去って貰いたいのかさえわかっていない劣等兵だ。ベトナムを撮っていても、自分にとってベトナムは何なのか、という観念が全く無しに撮っている。自分がベトナムに居たいのか、居たくないのかさえわかっていない。彼等とは話が出来ないよ。だからぼくは常に、映画についてなにも知らない人――たとえばアマチュア・カメラマン等――に関心を寄せてきたのだ。だからぼくは自分の映画に“アマチュアの”テクニックを用いてきたのだ。〈勝手にしやがれ〉では、当時ハリウッドとは縁もゆかりもなかった、ライフ誌の記者のテクニックを用いた。またぼくは、露光不足の画面を用いたこともある。ひどい、と言われたがね。でも、ぼくらは、人間の映画だからこそ、こんな画面も必要だ、と主張してきた。いまでこそ、一般に認められているが。(略)

ロバート・レッドフォード

――あなたの時代に、映画業界というのは変りましたか。

★60年代後半は、大きな映画会社が、いわゆるそれまでの大御所達の手から、ゼネラル・フーズとか、自動車部品メーカーといった巨大企業に渡って行った時代だ。新しい経営者達は、映画を、完全にビジネスと考えた。ところが、ちょうどそのころから、製作費何百万ドルという超大作が、さっぱり当たらなくなったんだ。そして、いまの映画業界には、予想とか計算はしょせん完璧には出来ないんだ、という、とても自然な空気がある。(略)

 で、それからは、大企業の経営者は表に立たなくなった。実質的に業界を牛耳った新顔達は、エージェント、つまり、映画会社のボス達だ。ところが、この体制で、腐敗が進行した。そして、いまは、映画作家が映画をつくる、という時代になっていると思う。会社はもはや、予算とか、制作意図の思想的な面とかで、若干の管理をするだけだ。

(略)

――あなたは以前、自分の環境問題への取り組み方が、初期にはあまりにも真面目すぎて、効果があるどころかかえって、人にケムたがられた、とおっしゃったことがありますね。

★まあ、若いときは、カッカとするからねえ。若いときは、目に見える現象だけを見て腹を立てる。山が裸になったり、空気が灰色になったりを見てね。しかし、その後、ものごとの全体像がみえてくる。たとえば、公害企業でも、それに目をつむって働かないと食って行けない人々がいるとか、そういう事実がわかってくる。そして、根本の問題を考えるようになる。(略)

――『自然資源学校』をつくれ、というあなたの提案については、まだ詳しく伺ってませんが。

★環境問題は、利害関係がからんでにっちもさっちも行かなくなることがある。だからこそ、政府が関与すべきなんだ。提案の核心は、経済開発と環境保護の双方をとりしきる資源管理官を養成しろ、という点だ。石炭を掘るな、とは言わない。掘ってもいいようなところで掘れ、と言いたいんだ。たとえば、国立公園地区は、人間の精神のために保護しておくべき地区だから、そんな地区を裸にすれば、人間が自分で自分の首を絞めるようなことになる。石炭を掘ってもかまわないような地区は、ほかに沢山ある。ぼくらのねらいは、これまでのように、開発や雇用と、きれいな空気とを、相容れないものとして考えず、これから25年後になって、われわれが後悔しないで済むような意思決定を、下せる人間を養成しよう、という点にある。(略)


地獄の黙示録 劇場公開版/特別完全版 [Blu-ray]

メーカー/出版社: NBCユニバーサル・エンターテイメントジャパン

発売日: 2015/06/24

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フランシス・コッポラ

 最初の主役(ハーヴェイ・カイテル)をクビにしたのがまずかった。スタッフは動転するし、しかも、あんなかたちでクビにされることは俳優生活の大きな傷になる。

(略)

元の脚本は、ベトナム戦争を通じての政治諷刺コメディみたいな感じだったんだ、たしか。漫画的なシーンの積み重ねで(略)フンのアッチラ(カーツのこと)が、マシンガンの弾丸ベルトを二本、肩からかけていて、主人公(ウィラード)をつかまえ、「どんなもんだ、まいったか!」なんて言う。ウィラードはカーツ側に寝返って、終りには彼を捕えに来たヘリコプターを、狂ったようにわめきながら銃撃する。まさに、漫画映画だよ。(略)

自分の仕事にしてから、まずやったのは、ウィラードに心理表現をさせること。これをまず徹底的にやった。元の脚本では、ウィラードは文字通りのゼロ、人格が無いんだ。手がかりが無かったから、最初のキャスティングをスチーブ・マックイーンにした。マックイーンならウィラードが生身の人間になるだろう、と考えた。でも、それからさらにぼくは、ウィラードの人間像をつっこんで考えてみた。非常に多くの場合に、ぼくはウィラードを“目撃者〜証人”として位置付け、それでいてなお、気持のいい人間らしさ、実在感も出したかった。

 マーティンに与えられたのは、ほとんど演ずることの不可能なほどの役柄だった。彼は、観察者、見張人に徹しなければならない。多量の関係書類に目を通す、完全に内省的な人物でなければならない。観客に、ベトナムで実際に起きていることの匂いを感じさせる人物であってはならない。カイテルにはそれが出来なかった。彼のおハコは、顔の筋肉をヒクヒクけいれんさせることで、そうするとお客は、彼に注目してしまうことになるんだ。

(略)

 あの映画の最良の部分――ヘリコプターの攻撃やサーフィン――は、ジョン・ミリウスの元の脚本からいただいた。(略)一方、変えたところも多い。ボートの乗員が殺される、これは脚本にはなかった。橋のシーンから先は、原作と、ぼくのアイデアが半々ぐらいだ。

(略)

――フィリピンの撮影が終ってから、マイケル・ハーが参加しましたね。せりふは全て彼が書いたんですか。

★彼の独壇場だった。彼は声のトーンまで決めた。ウィラードの、あの、かっこいい声、あれはマイケルの仕事だ。

(略)

★きみは、どの終り方のを見たの?

――ウィラードがカーツを殺す。彼はカーツの一味に対面する。それからランスを助け出して寺院を去り、ボートに乗る。爆撃の目標指示を要請する無線が入ってくる。ウィラードは無線機のスイッチを切る。彼とランスが川を下っていく。

★もうひとつのは見た? カーツを殺したウィラードが寺院の入口の段段に立って、群衆に相対している。群衆は彼におじぎをする。彼はそれを見つめ、うしろをふりかえり、また群衆を見つめる。それから縁の顔と“ザ・ホラー、ザ・ホラー”だ。(略)

一緒に仕事をしている優秀な連中(略)はだれも――コンピューターさえもが――ウィラードが少年を助けてボートで去る方の終り方を望んだんだ。

――あなたは望まなかった?

★ぼく個人としては、終り方は、ウィラードが出て来て群衆の方を見たとき、観客が、主人公は川を下って、カーツの書いたものをカーツの子供に届けようと考えているんだな、とわかり、寺院の方をふり向いたときには、彼は王になるつもりなのかな、と考える、こんな感じなんだ。彼は二つの選択の間を揺れ動く。そこへあの石の顔、そしてカーツの声で“ザ・ホラー、ザ・ホラー”が出て来る。これが、この映画の結論だ、と考えていた。

――わかりました。でもそれは、実際に封切られた映画の結論ではないですね。

★その通りだ。

(略)

――おどろきましたねえ。あなたの心の中では、いまだにあの映画は、ウィラードが寺院の階段にいるところで終りなんですね。

★最後に私は、この映画は常に、選択に関する映画であった、と感じた。彼は常に決意をする。使命を評価する。こんな具合だ――この男はアメリカ人じゃないか、殺してもよいのか? 慰問団を見ているときも、こんなんでいいのか? ここの連中はほんとに撃ち殺されて正当なのか? これでいいのか? これは正しいのか? ――全編を通じてこうだ。だから終り方も、選択を残した終り方にしたかった。それは“私はカーツたるべきか、ウィラードたるべきか”という選択だ。でも、そう考えたときには、その考えを十分に展開してみるだけの余裕がなかったんだ。そこで、まあ、ランスとボートで帰って行くのが無難か、とも思った。

 むろん二つは同じではない。石の顔が出て来て、“ザ・ホラー、ザ・ホラー”が聞こえる、というのは、本当の選択というよりむしろ、警告なんだ。残念だね。

――つくり直す気はありませんか。

★そこまではね。あの映画の終らせ方に関しては、5年間頭を痛めた。それに、いまの終り方が、いちばん大衆受けする終り方だということをぼくは知ってる。でも、もう一つのが、ぼくの終り方なんだ。かといって、これ以上時間を浪費するわけには行かない。あの映画が、大衆受けする形を持ってなかったとしたら、人気は二週間ぐらいしかもたないだろう。(略)

[二度目のインタビュー]

あれから2ヵ月経ったが、いまでは納得しているか、と聞いてみた。

 「いまではなにも後悔していないよ。どうして納得したかを話してあげよう。音楽に注意しながら見てみたんだ。あれは非常に不思議で、ヒロイックで、そして悲しい音楽だ。雨が降ってる。ウィラードが階段を降りる。少年を連れ出す。ぼくは、これでいいんだ、と思った。彼が少年を助け出す、という、暖かさがいい。いまでは、この終り方が好きだ。」

(略)

 記者は、さきのインタビューで、フランシスが、あの終り方が、コンラッドの原作の終り方と同様、気安めを目的とする“嘘”だ、と言ったことを思い出させた。

「たぶん、ある程度は嘘だろう。彼は武器を捨て、権力者になることを拒否するが、人間性というものは必ずしもこんなものではないだろう。でも、いまの、現実的な人間性と、ぼくが、こうあって欲しいと願う人間性とは、違う、ということも事実なんだよ。」

 私達は二人とも、肩をすくめて会話を終え、フランシスのオフィスを出て、階段を降りた。歩きながら彼は、相当に満足気に、「あーあ、これでやっと、“ゴッドファーザーのフランシス・コッポラ”と言われずに済むようになったよ」、と言った。

2016-07-21 アメリカン・ニュー・シネマの息子たち・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


アメリカン・ニュー・シネマの息子たち―ルーカスからゴダールまで11人のインタヴュー集 (1982年)

作者: ロッキングオン

メーカー/出版社: ロッキング・オン社

発売日: 1982/01

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マイケル・チミノ

[「天国の門」初試写会]

[クリス・クリストファーソンは]〈天国の門〉が自分の最高傑作だという自覚はあったが、それでもなぜか落ち着かなかった。(略)

[イザベル・ユッペールは]ヨーロッパでは知られていたが、この映画は彼女がアメリカでも名を成すための、大きなチャンスだった。

[ジェフ・ブリッジス]はチミノの監督第一作〈サンダーボルト〉に出演し、今回は、彼と再び仕事が出来るという理由だけのために、脇役であるにもかかわらず参加した。ニューヨークでもブリッジスはそわそわしていた。〈天国の門〉の制作中から、彼は、なにかどえらいものに参加しているのだと感じていた。

(略)

1時間後、会場の最後部に立っていたチミノは、「これは、まずい!」と感じていた。(略)

[翌朝]たたきのめされたチミノからの電話が終わったあと、クリストファーソンはルームサービスに新聞を持ってこさせた。彼はついさっきまで、チミノは気にし過ぎだよ、と思っていたが、違った。キャンビーはチミノをコテンパンにやっつけていた。どうにも救いようのない、百%の否定だった。

 “〈天国の門〉は、あまりにも完全な失敗作であるため、チミノ氏が、〈ディア・ハンター〉の成功を再び得るために、魂を悪魔に売り渡したものと疑われる。(略)〈ディア・ハンター〉の初めの結婚式シーンが長すぎると感じた方、〈天国の門〉となると、とてもあんなもんじゃないですゾ。”

 キャンビーのクソミソ批評がハリウッドにも伝わったとき、町中の映画会社の重役室は歓声で沸きかえり、ユナイテッド・アーチスツ社の廊下は、シーンと静まりかえった。

 翌日の昼、トロントヘ向かうアメリカン航空のファースト・クラスは、予期されたお祭り騒ぎとはうってかわって、まるで葬送列車であった。クリストファーソンとユッペールが並んで坐り、お天気のことだの、この前会ってから今日までどうしてただの、なんとか話をしようと努力している。しかし、二人とも、心ここにあらず。話は途切れ、本を読んだり、窓から外を見つめたり。ジェフ・ブリッジスはタイム誌に鼻をうずめている。(略)

チミノは幽霊みたいだ。「批評家達が、ぼくのやり方、ストーリーや監督の仕方に、ひょっとしたら異和感を覚えるのでは、とは思っていた。でも、クリスを初め出演者達、ヴィルモのカメラワーク、それに音楽等は、気に入ってくれると思っていた。」チミノは遠くを見つめた。「ぼくは、そんなにも、間違っていたのだろうか?」彼は俳優達の方をふり向いた。「みんな、ぼくを信頼してくれたんだ。」

(略)

なにがまずかったのでしょうか?プロデューサーのジョーン・キャレリは肩をすくめて答えた「いろんなことが結びついているわね。モンタナではマイケルはちょっとクレージーだったわ。アカデミー賞を二つ取ったことでテングになっていたのね。あのときの彼には抑制が欠けていたわ。――だれにもこういうことは起きるものだけど、映画は自分だけのためにつくるもんじゃないってことを、彼はもっと意識すべきだったわね。何百人もスタッフがいて、みんな彼を信頼してるのに、彼の方はだれの意見も聞かずに独走してしまったのよ。」

 「撮影が始まって1ヵ月後ぐらいから、ユナイテッドからは『なんとか中止にできないか』という電話ばかりかかってきたわ。私は、会社が私の側についてくれるなら、中止させてみせる、と言ったけど、……だめね。だれもかれも、マイケルの言いなりで、彼に忠告してやることなんかできないの。会社もよ。セットの規模も、エキストラの数も、無限にふくらんで行くんだけど、こわくてだれもマイケルにノーと言えないの。異常な状況だったわね。」

(略)

 チミノは、当時を思い出して、もっとキャレリの言うことを聞くべきだった、と言う。「聞こえない声がいちばん理性的な声、ってことがときどきあるもんなのだな。」

 「まるで陰謀みたいね。」ユッペールが各紙の記事を比較しながら言った。キャンビーの批評は始まりにすぎなかった。しかもそれは、その後のあらゆる論調の調子を決定していた。タイム、ニューズウィーク、ヴィレッジ・ボイスにつづき、ニューヨーク・デイリー・ニューズも、この映画を粉砕した。

 批評が一巡すると、次は内幕物、その次が解説の記事。絶え間なき記事の洪水である。

(略)

「みんなはぼくに何を望んでいるのか」、チミノはたずねた。「ぼくが二度と仕事をしないことをか?」

(略)

 ある映画作家は非難がましく言う。「彼は自分以外の人間を完全に無視している。」この意見は、記者が取材したほとんどの人が持っていた。(略)

 あるエージェントは、「自業自得だね。チミノは高慢で、冷酷で、ムカつく野郎だ。」

 あるプロデューサーは、「チミノは、ハリウッドで最も嫌われている男である。」と言った。このほか、チミノに関する話は山ほどある。彼は、自分にその資格のない事に関してもクレジットをまっさきに要求する。彼は自分の過去をいつわっている。彼は〈天国の門〉のセットで馬を爆死させた。彼は――効果をねらって――エキストラ達をわざと馬車で轢いた。彼は尺数が〈地獄の黙示録〉を超えたときのシャンペン・パーティーをすっぽかした。あるスチール・カメラマンが麻痺したのは彼のせいだ。……こんな話が、とめどなく出てくるのである。

 「まったく、バカげてるよ」、とチミノはためいきをつく。

 「もし、これがほんとなら、いまごろ彼は牢屋にいるわよ」、とキャレリも言う。

(略)

 ああ。問題は〈ディア・ハンター〉なのだ。(略)批評家達は〈ディア・ハンター〉を再批評するために〈天国の門〉を用いたように思える。彼等はあらためて、[成功した]〈ディア・ハンター〉はきらいだった、と言いたかったのだ。

(略)

 「マスコミなんかのマイケルのイメージは相当、歪曲されてるよ」、とブリッジスは言った。「たとえば、巨大なエゴとか書いてあるけど、ぼくは、仕事の面でも、個人的な面でも、それを感じたことはない。彼は自分のエゴをズボンの尻ポケットにしまっておける人だし、良い映画をつくることしか関心のない人だ。マイケルは、いろんなアイデアには十分に耳を傾ける。俳優の話をよく聞き、勇気づけてくれるし、スタッフ全員が参加意識を持てるよう気をつかう。他人を踏み台にしたりする人ではない。」

  「マイケルとの仕事はとっても好きでした」、イザベル・ユッペはこう言う。「彼の仕事ぶりは、心理的な面でも、肉体的な面でも、深みがあり、そして、手ぎわよいの。私は、ちっちゃなヨーロッパ映画に出てるような感じがしていました。超大作でたいへんだわ、なんて思ったことは一度もなかったわ。だから、なぜ、あんな騒ぎになるのか不思議です。

(略)

アメリカって国は、エンタテイメントなら4千万ドルでもOKなのね。そして、見る人を考えさせるような映画にこんなにお金を使うと、とたんにみんな、身構えてしまうのだわ。〈天国の門〉に関する批評や否定的な記事なんか、私が読んだのはどれも、あの映画の中身が何なのか理解しようとする、最小限の努力さえしてないのばっかりだったわ。長すぎるとか、金をかけすぎてるとかばっかしで、一人も、内容を分析していない。ヨーロッパだったら、内容を理解しようとしない批評家なんて、考えられもしないわ。」(略)


天国の門 [DVD]

メーカー/出版社: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

発売日: 2014/04/17

Amazon.co.jp

ゴールディー・ホーンとケイト・ハドソン

「私、完全なるペチャパイだったわ。(略)まるで、一本の棒よ。ひどい劣等感を持たなかったのが不思議なくらいよ。だって、どんな踊りでも、私がいちばんすみっこだったんだもの。踊り以外の、ほかのことでもよ。(略)

「胸当てパットでもなんでも着けたわ。それでもバカにされるの。男の子が『おい。その下にはせめて何かあるのかい?』、なんて言うの。

(略)

 「ニューヨークでは、踊りの勉強をしながらゴーゴー・ガールをやってたの。(略)

トップレスまではやんなかったけど、いかがわしい店で踊ってはいたの。少なくとも、自分が踊りがうまい、ってことは確認できたわね、そんな仕事でも。」

 ゴーゴー・ガール及びコーラス・ガールとして、彼女は、ニュージャージーに、また再びニューヨークに、そしてアナハイムに、ラスヴェガスに、と回った。

[1時間半の黙狂的レビューを一晩に4回]

 これじゃ、どうかなってしまうに決まっている。――そして、どうかなった。

 彼女は神経衰弱になった。(略)

「7年間、検査と治療よ。(略)7年間も隔離されていたのだから、家族はたいへんだったと思うわ。

[76年に二度目の結婚をしたあたりからキャリアが向上、しかし結婚は崩壊](略)

 「ママ!見てよ!イモ虫だよ!ママにあげるよ!お部屋で飼いなさいよ!」金髪の、喜色満面のオリヴァー・ラトレッジ・ハドソンが、ドアをバタンとあけ、ドドドッと入ってきて、カウチのところまでちょこちょこ走り寄った。手には、雑草のいっぱい入った瓶を握りしめている。(略)

 ([前夫の]ハドソンはマリブ・ビーチの家を取り、共同保護なので、この週は、子供達はホーンの家にいる。)(略)

ケイティーは、部屋のあっちこっちを動き回りながらオモチャと遊んでいる。(略)

 「女が出世することが、男にとってはとてもつらいこと、とうてい冷静に対処できないことであること。生きてるといろんなことがわかるけど、これがわかったときが、いちばん悲しかった。

(略)

 子供部屋にいくと、ケイトとオリヴァーが床の上に坐って、楽しそうに塗り絵を塗ったりしながら、有線テレビのインタビュー番組にゴルディーが出てくるのを待っている。

 ゴールディーがケイトを、大きく両手をまわして抱き、キスをする、と、そのとき、画面に、無表情な銀髪のホスト、映画評論家のチャールズ・チャンプリンが現れ、魅惑的なゴールディーを紹介し、彼女のことを、〈プライベート・ベンジャミン〉で“大勝利を収めた”と言い表した。

 「ママ・プライベート・ベンジャミン、なのにィ……」、と、オリヴァーが、映画の断片が写ったとき、困った風で訂正する。(略)


テス Blu-ray スペシャルエディション

メーカー/出版社: 角川書店

発売日: 2013/10/25

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ロマン・ポランスキー

母親は彼の目の前で拉致され、アウシュヴィッツで死んだ。7歳、金を払って、あちこちの非ユダヤ人にかくまって貰い、最後には、ある農家に送られた。話はさらに暗くなる。何度も、死ぬほどなぐられ(彼の頭には、いま、金属板がある)、飢え、夜には何度も脱走して、凍えるようなポーランドの山河を歩いた。これらがすべて、12歳までのことである。(略)

「〈テス〉の日没シーン、あれはぼくが昔見た風景なんだ。蕪を掘るところも、ぼくが昔、自分でやったことなんだ。あれはいやな体験だよ。ほんとに。」

 「結局、自分で自分を育ててきたようなものさ。」彼は考え込む。「戦争さえなければ、両親からしつけや教育も受けられたろうけどね。でも、いちばん最初の段階は、してもらったと思うよ。ぼくの家はブルジョワで、ぜいたくな生活だったから、ナチが来るまでの、ぼくの人生の最初の6年間で、ものごとはちゃんと立派に出来てなくちゃいけない、という感覚が身についたと思う。いまでもそうだが、ぼくは、なにかを始めたら、完璧に仕上げないと気が済まないのだ。手紙でもね、ぼくが手紙をあまり書かないのは、書き出すとすごく長くかかっちゃうからなのだ。自分が納得するまで、何回もなんかいも破り捨てるのさ。これが才能と天才の違いだ。才能は、人が持って生まれるもので、とても自然に、楽に、そなわっているものだ。そして、この才能を基礎にして、努力に努力を重ね、限界ギリギリまで自分を磨いていくと、それが天才になるのだ。」

 すでに午後も遅く、アパートは影に浸蝕されている。「実に奇妙な子供時代だったよ」、と彼は最後に言う。「生まれて初めての、しかも本物の危機感なんだ、ゲットーから脱走するとかいうのはね。いまでも、あのこわさは、ぼくの中にある。そして、なにかから脱出することが、人生において、最も価値あることだ、という感じをずっと持ち続けているね。」彼はあかりをつけ、やわらかく付け加える。「事実、ぼくは、ドライブではトンネルが好きなんだ。トンネルを出る時が気持良くてね。」(略)

 「今日、話をしてわかったけれど、ぼくは、子供の頃も、まわりに起こるいろんなおそろしいことを、とても自然なこととして感じていたんだ。ぼくは、それらを生きていたんだ。」彼の目はゆっくりと開く。「でも、最近はときどき、夜中に目が覚めることがある。いま、また、ぼくのまわりには、いまわしいことがいろいろあるからだね。ぼくは、一歩さがったところに立って、アウトサイダーみたいに、それらを見ているような気がする。まあ、波風多き人生だったけれども、人生の波乱なんてものには、ぼくは、価値をみとめないね、正直言って。」


殺しのドレス (2枚組特別編) [DVD]

メーカー/出版社: 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン

発売日: 2008/10/24

Amazon.co.jp

ブライアン・デ・パルマ

 「私のスタイルは、ヒッチコックとは非常に違っている。シュールでエロティックな映像を追求している。ヒッチコックは、この領域には、あまり深入りしてはいない。たとえば、〈サイコ〉は、女が、ボーイフレンドと結婚するために金を盗むという、泥棒物映画だ。〈殺しのドレス〉は、一人の女の、ひそかな、性的生活に関する映画だ。だから、あえて、過去の巨匠になぞらえるのなら、ヒッチコックよりむしろ、ブニュエルの感覚に近いものだ。」

(略)

「ポップ・アートに似たとこもあるね。ポップ・アートも、最初は、権威筋からは完全に無視された。洗剤の箱のデザインが美術品になるなんて、だれも理解できなかった。ロック評論だってそうだ。ロック&ロールをまじめに考えるなんて、バカだ、と言われたものだ。ところが、ある日突然、ロック&ロールもポップ・アートも、意味あるものだ、ということになった。私の映画も同じことだ。私の映画なんて、一見、汚くて、血まみれで、ダイムストアで売ってるような安物だ。まじめにとられなくて当然だ。」彼は深呼吸する。「でも、がんばらねばならない。年くった批評家達にとっては、20年も30年も前の名画しか映画じゃないんだ。新しいもの、コンテンポラリーなものは、わかろうとしない。しかし、こんなことは、映画ファンには関係のない話さ。」

(略)

「人間だれしも、自分について間違ったイメージを持っているだろ。ある分野で成功すると、“オレは恐怖映画の監督なんかじゃないぞ、オレはほんとは……」デ・パルマは言葉を探し「……詩人なんだ”、とかね。」彼はニッと笑う。「それから突然、自分の詩を映画化するとか称して、馬が野原を駆け回るシーンなんか撮り始める。」

 「私がトリュフォーで”〈Home Movies〉をつくったのだったら、はるかに成功していただろう。なぜなら、批評家達は、トリュフォーがこういう映画――自分の青春期をテーマにした、甘く、個人的で、センチな、ひねった、皮肉っぽい、おかしみのある映画をつくることには、慣れているからだ。私がそういうのをつくったら、彼等は異和感を感じるのだ。」デ・パルマはためいきをつく。「結局は、自分のいちばんの得手というものをよくわきまえて、たとえそれが巨万の富や成功をもたらそうとも、動じないことが肝心だね。」彼は微笑みながらこう言う。

(略)

「関心が、政治や倫理の方へ向いてきてると思う。(略)〈Greeting〉をつくったあと、テレビのおしゃべり番組に出たことがある。革命について話したりしたが、感じたのは単に、自分もまた、アスピリンや脱臭剤同様、テレビに登場する商品の一つになったな、ということだった。しゃべる内容はどうでもいいんだ。アメリカの衰退についてしゃべったが、それだって、どうってことはないのさ。私の感じでは、いま革命に起こっているのは、それが商品になってしまっていることだ。それは、アメリカでは、すべてのものが辿る宿命だ。どんなものでも、フルイにかけられたり、中和されたりして、最終的には、商品に変身してしまうのだ。」(略)

 「最近はますます、自分個人と関連のある題材を採り上げるようになっている。〈Home Movies〉は、自分の若い頃や、家族がテーマだった。そして、あの映画の主人公は、そのまま、〈殺しのドレス〉にも持ち込まれている。自分本人にとても似た人物なのだ。

次回に続く。

2016-07-18 アメリカン・ニュー・シネマの息子たち デビッド・リンチ このエントリーを含むブックマーク

ルーカスからゴダールまで11人のインタヴュー集 (1982年)


アメリカン・ニュー・シネマの息子たち―ルーカスからゴダールまで11人のインタヴュー集 (1982年)

作者: ロッキングオン

メーカー/出版社: ロッキング・オン社

発売日: 1982/01

|本| Amazon.co.jp

デビッド・リンチ

[『エレファントマン』公開後のインタビュー]

 デビッド・リンチという人は、外観をみると、ぜったいに、ニュー・イングランドの予備校の国語教師だ。つまり、言い方を換えれば、トーキング・ヘッズのメンバーだ。これだけさっぱりした実直そうな雰囲気は、この80年代においては、かえって、漫画チック、あるいは皮肉っぽくすらある。アーミー風のカーキ色のジャケット、編み上げ靴、無地のブルーのシャツ、1965年のポール・マッカートニーより長くないこざっぱりしたヘアー、学者みたいな眼鏡、薄青い、人を食ったような目。声も、身のこなしも、気まじめでアナーキーで、やはり、ぶっきらぼうなユーモアを感じさせる。しかし、気まじめに見えるのは、話を始めるまでである。話し始めたとたん明らかになるのは、彼が相当な奇人変人であって、とうてい、ハリウッドの偉大なる映画監督とは思えない、ということだ。とにかく、話している間、目の玉が上を向いたり横を向いたり、クスクス笑ったり、考えこんだり、その忙がしいこと。そして、友好的で率直で、かつ、なんとなくはにかみ屋さんである。

(略)

――あの映画のストーリーの、どんな点にあなたは惹かれたのですか。

★よくは、わからない。〈イレイザーヘッド〉につづくものとしては、うってつけと思えた。また、自分がメージャー路線に乗れて、かつ、妥協せずに済む作品と思えた。ぼくの、かねてからの気持は、芸術を大衆化したい、というものだ。つまり、自分が納得ができる。つくってて熱中できると同時に、人々も好きになってくれる映画、をつくりたい。この点で、いつも迷いのようなものがある。

(略)

――白黒で撮ろうと決心したのはなぜですか。

★最初から、これは白黒だ、と思っていた。モノクローム映画では、ごぞんじのように、モノクローム映画にしかない、どくとくの、非現実的な世界をつくれる。とくに、時代をさかのぼって、産業革命時代の、荒涼とした雰囲気を出すには、白黒が完璧だ。それに、ぼくの場合、好きな映画のほとんどが白黒作品だ。

(略)

――あなたが、奇型者とか、アウトサイダーとか、あるいは周縁的な人々に惹かれるのは、なぜでしょうか。

★わからないよ。たぶん、人間はだれでも、自分がアウトサイダーだと感じているのではないかな。ぼくが、ああいった人々に惹かれるのも、この観念が基底にあるからだろう。

――それから、荒廃した工業都市への執着は?

★そうだなあ、……もしだれかがぼくに、『これから、ディズニーランドか、廃工場に行こう』と言ったら、ぼくは、ためらいもなく、廃工場にしよう、と言うね。わけはよくわからないのだ。なにか一つのストーリーを展開させる場としては、最高の場所、という気がするのだ。あの、きめとながめに、ぼくはしびれてしまう。

――きめ(texture)?

★いろんな沢山の物が、細かく組み合っている、その、全体の感じだ。たとえば、ぼくは昔、ある獣医から、猫の死体を貰ったことがある。それから、地下室で、一大作業を開始した。まず、そいつを解剖したのだ。つぎに、そのバラバラ死体を瓶に入れようとした。しかし、瓶の口が小さいために、猫はまるでスリンキーみたいな格好で入っていって、瓶の中で死後硬直がはじまった。いや、ほんと、……

――なぜ猫を解剖したのですか。

★きめを勉強するためだ。〈イレイザーヘッド〉のための勉強だった。あひる、でもよかったな。あひるも好きだよ。だって、ここにくちばしがあるだろ、それから、頭があって、このへんに胴があって、それから脚がある、それから、なんといっても、あの目ね、目だよ。とても小さくてさ、しかも、宝石みたいにキラキラしてるだろ、つまり、あれだけ小さくて、しかも巨きな胴体と同じぐらいに、人の注意を引きつけるのだ。胴が目のようであってはいけないし、目が胴のようであってもだめだ。こういったことに、ぼくは、メタメタしびれてしまう。つまり、自然の中にある、一羽のあひるの中にある、均衡(プロポーション)には、なにか意味があるのだ。目の小ささと胴の大きさという均衡、それらを構成している物質、たった一羽のあひるの中にさえ、ものすごい“忙しさ”があること。ぼくは、絵画は、これらの法則に、無意識的に従っていると思う。そして、なにかを解剖すると、いろんな要素とか、それらの構成の具合とかが、すべて目の前に現われて来るのだ。もののきめとか、かたちとかは、すべて、アンビリーバブルなのだ。だから、猫を解剖したのだ。

――地下室に降りて行って、猫を解剖するときには、完全に冷静でしたか。

★冷静でしたよ。ぼくは、ハチャメチャな領域に入ることもできるし、その領域からずっと離れて、きめというもののもつ非感情的な領域に入ることもできる。自然というものには、なにかがあるのだ。とくに、それが解体を始めて、きめをあらわにしてくるときにはね。ずいぶん前から、ぼくは、それを見るのが好きだった。否定的な思想とか、死を愛好するとか、そんなんじゃ全然ない。でも、ぼくには、そんなレッテルが貼られそうだけれどね。工業が生み出している、いろんな物事やきめは、自然がなにかの上にほどこしためっきであり、これが、ぼくにとっては、ワクワクさせるのだ。ほかにもいくつか、ぼくをワクワクさせるものはあるがね。

――たとえば、どんな?

★アメリカ中西部、ロサンゼルスのダウンタウン、エジプトのヒエログラフ、ドイツ表現主義の白黒映画、アール・デコ。

(略)

――映画は何をなすべき、とお考えですか。

★映画にくらべれば、車もつまらない、飛行機や船の旅行もつまらない、という映画をぼくはつくりたい。キップを買って映画館に行くことが、ひとつの世界へ行くことでありひとつの体験であるような映画をつくりたい。多量のフィルムから選んで編集した、限られた時間の映画ではあるが、それを見ることによって、見る人が、別空間に連れて行かれるような映画だ。この、音と映像で構成される空間の中で、人は、なにかを知り、また、映画でしか味わえない感覚を味わうのでなければならない。ストーリーが大切なことは知っており、ぽくもストーリーに興味はあるが、むしろぼくは、映画がまさに映画であって、他のものではない、という考え方が好きだ。(略)

ぼくはとくにムードが好きだ。ものごとの表面の下にある、ものごとの中のどこかにある、ムードをしっかり出したい。ほとんどの映画が表面だけだ。ほとんどの映画が一行のジョークだ。(略)


エレファント・マン [Blu-ray]

メーカー/出版社: ジェネオン・ユニバーサル

発売日: 2012/04/13

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ジョージ・ルーカス〈アメリカン・グラフィティ〉

どこの映画会社からも断られた。雲行きは悪かった。その頃、〈THX1138〉が一部の尖鋭的な監督たちの関心を呼んだため、ぼくはカンヌ映画祭に招待されていた。ワーナーは旅費を出そうとしない。そこで、最後の2千ドルでヨーロッバ鉄道の切符を買い、リュックを背負ってカンヌヘ出かけた。(略)

ヨーロッパヘ行く途中、ニューヨークでユナイトの社長、デビッド・ピッカーに会って〈アメリカン……〉の構想を話した。彼が結局乗ってきて、カンヌの彼のホテルで、〈アメリカン……〉と〈スター・ウォーズ〉、計2本の契約を交わした。(略)

脚本を見たユナイトは“関心がない”と言った。そこでぼくは、脚本を抱えて映画会社回り。(略)全社から断られた。ユニバーサルだけが、スターを使えるなら乗ってもいい、と言った。ぼくはノーと言った。ユニバーサルは、大物プロデューサーでもいい、と言った。会社から渡されたプロデューサー・リストにはフランシスの名があった。[〈ゴッドファーザー〉封切り直前で話題沸騰](略)

ユニバーサルは前金を出そうとしないんだ。結局〈アメリカン・グラフフィティ〉はフランシスの金で出来たようなものだ。(略)[最初の試写で重役の]一人が“こんな映画をお客に見せるわけにいかない”と言った。はっきり、そう言ったんだ。フランシスはカッとなった。それは、ぼくの見る、フランシスの最も偉大な光景だった。彼はその重役に向かってわめいた。“おまえは、この文無し男に、なんということを言うんだ! この男は、無一文でこの映画をつくったんだそ。それを、なんたる物の言い方だ! 『ごくろうさま、ありがとう』ぐらい言ったらどうだ!”。フランシスは、わめいて、わめいて、わめきちらし、“いいとも、オレはこの映画が好きだ。オレがこれを買う。小切手はいますぐ書いてやる”と言った。

 結局、映画はユニバーサルが買ったが、そのあともケンカばかりだった。たとえば、5分削れ、5分ぐらい削ったって違いはない、と言うんだが、それも単に、権力者づらをしたいために言ってるだけなんだ。削らせる権利はある、と言うんだ。

ハリソン・フォード

「[〈アメリカン……〉の]ギャラは、同じ期間に大工として稼げる額の半分だった。でも、キャスティングがユニバーサルの頃から知ってるフレンド・ルースだったから、集まる人間も、仕事の雰囲気も、いいに違いないと思った。役は、たいした役ではなかったが、映画づくりに貢献できたという感じを持てたのは、これが初めてだった。(略)

 フレッド・ルースはフォードを、フランシス・コッポラの〈カンバセーション…盗聴…〉にも“若い男”の役でキャスティングした。「これも、すばらしい体験だった。その役を、どんな人物にするかを、自分で決められたんだからね。ぼくは、よし、ホモにしよう、と決めた。そこで、プロダクション・デザイナーのディーン・タヴラリスは、多量のレモンと、ルーサイトの木挽き台を用意した。それは効果をあげた。それから5年間はほとんど俳優としての仕事はしていない。(略)

 このあとが〈スター・ウォーズ〉だ。「冒険活劇に出る、という意識はなかった。SFということも意識しなかった。ジョージの仕事だから出ただけだ。くだらない映画のような気がしたけど、当たるか当たらないかなど、どうでもよかった。わりと、わかりやすい、人間の物語だ、とだけ思っていた。(略)

仕事に入ったときも、こいつはお上品なコメディだ、と思っていたね。(略)

 ハリソン・フォードは、スピルバーグとルーカスが彼を、インディアナ・ジョーンズの第一候補として考えていなかったことを知っている。[第一候補はトム・セレック]


アメリカン・グラフィティ [Blu-ray]

メーカー/出版社: ジェネオン・ユニバーサル

発売日: 2012/05/09

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ジャック・ニコルソン

 彼がいま抱えている構想の一つは、ジェームズ・M・ケインの1934年の小説「郵便配達は二度ベルを鳴らす」の映画化だ。(略)「ケインが面白いのは、チャンドラーやハメット等と同じハードボイルド出身であるにもかかわらず、彼等みたいに探偵、すなわち善人を書かずに、犯罪者を書いた点だ。」(略)

 「みんな、〈シャイニング〉にはだまされたと思っているようだが、あれは、ワーナーの映画の中では史上10位の売上げだったはずだ。評論家からは無視されたがね。」(略)

「みんな、あそこのせりふ[“Here's Johnny!”]が好きなんだ。スタンリー(・キューブリック)が、あそこを、こっけい感のあるせりふにしたがったことを覚えている。あそこは、あの映画の中でいちばんこわいシーンだから、そのこわさを、ちょっと壊すようなことを監督は望んだんだ。それでぼくは、あのせりふを考えついた。あのせりふには、あのときのぼくの仕事の、エッセンスがいっぱいつまっている。」

 「つまり、原作の、スチーブン・キングの小説の、核心に迫ろうとは思っていたが、同時に、昔のEG・コミックスのことも考えていたのさ。覚えているかい?」

 私も、いまだに生々しく覚えている。あのテの漫画は、親に内緒で見るもんだった。なにしろ、どれもこれも、手足バラバラとか、内臓がとび出したり、血まみれの漫画で、そして必ず、なんらかの、こわいブラック・ジョークが含まれていた。ジャックと私は、しばらく、自分が覚えているぶんのストーリーを話し交した。(略)ジャックは、妻に暴力をふるう悪い肉屋の話を覚えていた。妻が、夫の商売道具で夫を殺し、近所の人とバーベキューにして食べちゃうのだ。そして、みんなが彼女に、だんなさんはどこにいるのか、とたずねるのだ。(略)

「批評家たちには、EG・コミックスのパロディーをやったことが、わからなかったんじゃといかな。それとも、いま思えば、彼等は、恐怖映画なんか、スタンリーにはもったいない、とでも思ったのかな。」

(略)

[品行方正じゃなかった高校時代]本ばかり読んでいた。「小説を読んでると役の形がつかめるし、人間、ものを考えるようになるよ」(略)

 成績優秀で、奨学金まで貰えるところだったが、彼は大学を蹴り、カリフォルニアヘ行って12年間みっちり、演劇学校へ通った。「賭け玉突きもよくやった。プロ級だったよ。なにしろ、その店で3番目のウデだったから、ずいぶん儲けたな。ダンスホールで稼いだこともある。その金で最初の車、49年型スチュードベーカーを買ったよ。」

 同級生には、ジェフ・コーリー、マーチン・ランダウ、ソー・ストラスバーグ等がいた。実存主義の本をよく読んだ。禅にも興味を持った。(略)MGMのアニメ部で、事務員の仕事をし、トムとジェリー宛のファン・レターをさばいたこともある。(略)

きわめつきのビート・ジェネレーションである。まさに、ジャック・ケラワックが小説を書かずに俳優になったら、ジャック・ニコルソンになったことだろう。

「ぼくは幸運だったよ。30歳代までは売れなかったが、その間もガス欠になったことはない。ちゃんと、俳優として食っていけた。」

 ジャックは、俳優として、初期には、殺人狂のティーンエイジャーの役ばかりあてがわれた。「いまでも、その頃の影響が顔に残ってるだろ。目なんて、まるで、雪の上のションベンの跡だ。メーキャップのとき、かならず、マユ毛を剃り落とされたんだ。」(略)ニコルソンは、その後、メーキャップを断るようになった。(略)

〈Hells Angels on Wheels〉、〈The Rebel Rousers〉といったバイク物で、彼はオートバイ乗りの役を、“現代の西部劇のつもりで”演じた。と言う。これはかなりロマンティックな見方ではあるが、バイクに乗る連中がいまでも彼のファンであることの理由でもある。

(略)

[名声を確立した「イージーライダー」]

当時ぼくは、いまからスターになるには長くやりすぎてるし、監督に転向しようか、と考えていた。

(略)

彼のファンの中には、〈カッコーの巣の上で〉、〈チャイナ・タウン〉、〈冬のカモメ〉などの役を、もう一度彼がやることを望んでいる人もいる。さらに、もっと昔に戻れ、と願っている人もいるのだ。アスペンで、ある晩、夕食のとき、革のジャケットを着た男が話しかけてきて、ジャックと1時間も、バイクの話をした。そして最後に、「あんたは、もう1本、バイク映画をやるべきだ。あと1本でいい。バイク映画の最高傑作をつくるんだ。みんなを夢中にさせたのはあんたなんだ。オレを夢中にさせたのはあんたなんだ。あんたの責任から言っても、バイク映画をつくるべきだ。オレ達は、あんたに貸しがある、という気がしているよ」、と言ったのである。

(略)

彼はとくに、アール・デコの画家、タマラ・ド・ラムピッカの絵がご自慢のようだった。彼女は、20年代から30年代にかけて活躍したが、いまでは殆ど忘れられている画家である。絵には、なにかの制服を着た、やせこけた男が描かれていた。(略)

 「タマラがヨーロッパでこれを描いていたころ、アメリカではフランク・テニー・ジョンソンがこいつを描いていた」そう言ってジャックは、壁にもたせかけてある絵のたばの中から、一枚のカンバスを引き出した。それは、夜明けの、焚き火がまだくすぶっている広い草原で、馬に乗っている二人のカウボーイの絵だ。「この二つの絵が、ほとんど同じ頃に描かれたという事実が、なんだかしらないがぼくにとっては、すごく魅力的なんだ」とジャックは言う。

 ジャックはこのほか、建築家フランク・ロイド・ライトの彫刻作品や、西部の現代画家ジェームズ・パーマの絵も、それぞれ数点、持っていた。さらに、シュガー・レイ・ロビンソンが写っているセシル・ビートンの写真がキッチンの近くにかかり、中国のプロパガンダ・ボスターのポップ・アート風みたいなのが数枚、パントリーにある。壁中、美術品だらけで、もうこれ以上は飾るスペースがない。(略)

自分の持っている美術品に関するジャックの知識はぼう大で、それを話し始めるととめどがない。吸血鬼のような歯をした男から、美術に関する高度な話を聞くのは、頭が混乱してくるような体験である。

(略)

 レイカーズの地元ゲームでニコルソンは、ビジター・チームのベンチのすぐ左に坐る。彼は、他の人が教会に行くように、熱心に定期的に試合を見に行く。彼は、他の猛烈バスケ・ファン同様、判定の間違いには大声で抗議し、超ファイン・プレーには立ち上って手をたたくが、ほとんどは、おとなしく坐ったまま、選手達の名前を、まるで聖人の名をとなえるように、呼んでいる。

 たとえば、ノーム・ニクソンがファウル・ラインから一つ沈めると、ジャックは、ささやくような声で「ノーマン」、と言う。ダンキング・ショットをしかけようとすると、「行けっ、ノーマン」になる。ジャバーのスカイ・フックが外れると、彼は、驚嘆して首を振り、「カリーム」、と言う。(略)

次回に続く。



メカスの映画日記―ニュー・アメリカン・シネマの起源 1959‐1971

作者: ジョナスメカス, 飯村昭子

メーカー/出版社: フィルムアート社

発売日: 1974/01/01

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2016-07-16 他の岬―ヨーロッパと民主主義 デリダ このエントリーを含むブックマーク

1993年に出版されたものの新装版。あとがき&解説だけ読んだ。


他の岬――ヨーロッパと民主主義 【新装版】

作者: ジャック・デリダ, [解説]國分功一郎, 高橋哲哉, 鵜飼哲

メーカー/出版社: みすず書房

発売日: 2016/05/21

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  • 訳者あとがき

高橋哲哉

 ヨーロッパの「今日」とは何か。「他の岬」にとって、それは「いわゆる中央ヨーロッパといわゆる東ヨーロッパを襲った激しい地震」――「ペレストロイカ」、「民主化」、「ベルリンの壁の崩壊」、「再統一」等々――であり、「いわゆる《湾岸》戦争」であり、そして名指しこそされていないが、なによりもまず、国民国家の神話に挑戦するEC(ヨーロッパ共同体)統合の進展である(「他の岬」の講演は1990年5月、原注は「いわゆる《湾岸》戦争三日目」(略)

 「同一性の権利」において、「外国人排斥や人種生殺や反ユダヤ主義や宗教的あるいは民族主義的ファナティスム」といった「最悪の暴力」が解き放たれ、もつれ合い、同時にそれが「約束の息吹、呼吸、精神=気息そのもの」ともつれ合うといった状況――は、その後の時間のなかで誰の目にも明らかな現実となり、ますます「切迫」の度合いを高めている。(略)

外国人排斥を唱える勢力の進出や人種・民族主義的犯罪の増加傾向は、フランス、イタリア、オーストリア、スペイン、スウェーデン、ベルギー等に広がり、とりわけ92年後半のドイツにおいて頂点に達したし、旧ユーゴスラヴィアにおける「民族浄化」思想の復活、それに基づく凄惨なテロルと「強制収容所」の現実に対して、西ヨーロッパはその無力さをさらけ出している。ECの市場統合は93年1月1日をもって発効したものの、この記念すべき「ヨーロッパ元年」の始まりの日に、ECが「一種の慎み」から公的な記念行事を自粛せざるをえなかったことは象徴的である。(略)

鵜飼哲

 「民の声、神の声」。ヘシオドスに起源を持つとされ古代ローマで諺の形を得たこの言葉は、周知のように、アメリカ合衆国の独立以来、「世論による統治という民主主義の真理を語る言葉として称賛されてきた。(略)古代においては、「民の声」とは、不可知の「神」の意志を告げる神託であった。近代政治制度の形成期には、この言葉は、王権神授説を掲げる君主制に対する闘争のなかで、人民主権を正当化する目的で援用された。アメリカ建国期にこの言葉を引いたトマス・ジェファーソンにとって「神」が単なる修辞でなかったことはこれまでも多くの論者の注意を引いてきた(略)

そこには、「神」の唯一性に見合う均質性を備えた「民」を、主権者として創出=確立するという強力なモチーフが働いていた。この点を指摘したのはカール・シュミットであった。

(略)

 しかし、共同体における支配者と被支配者の同一性を原理とする〈民主主義〉に対し、近代政治制度のもう一つの柱である〈自由主義〉は、公開性と討論というまったく異なる原理に立つ。『現代議会主義の精神史的地位』でシュミットが述べているように、〈自由主義〉と〈民主主義〉が共通の敵=君主制に対して結束していた19世紀には認識不可能だったこの原理間の相克は、第一次大戦後の欧米諸国、とりわけドイツにおいて危機的な発展を見せ、議会制度への「信仰」と大衆民主主義の現実の間に横たわる深淵はもはや覆うべくもなくなった。すなわち、権利上は主権者=主体であるべきもの(〈人民〉)が、事実上は議会政党による多数派獲得のための操作の対象(〈大衆〉)でしかないという矛盾が白日のもとに露呈したのである。「民の声、神の声」という言葉は、こうして、顧客と化した公衆の合意の獲得を目指す「広報活動」こそ政治であるという意味に理解されるに至った(ハーバーマス『公共性の構造転換』、第六章「公共性の政治的機能変化」参照)。

 この認識は両大戦間のドイツにおいて、ある場合には19世紀以来の社会主義的な形式民主主義批判に結びつきつつ独自の理論的展開をみせ(たとえばベンヤミン『暴力批判論』)、他の場合には30年代以降のシュミットのように、ファシズム運動に合流して憲法秩序の否定に向ったが、この左右両翼からの議会制民主主義批判の共通点は、〈人民〉に変わる主権者=決断の主体を新たな政治神学の問題として提起した点にあった。

 「日延べされた民主主義」は、こうした議会主義批判の必然性をすすんで認めつつ、これらの批判がその対象である議会制民主主義(少なくともその自己表象)となお共有している諸々の形而上学的規定の脱構築の可能性を示唆することで、「来るべき民主主義」の思考の枠組みを素描する試みといえよう。

(略)

ハイデッガーによれば、デカルトに始まる近代とは真理が表象の〈確実性〉に転化し〈計算可能性〉が存在の尺度とされる時代であり、民主主義的代表制度もその帰結の一つであるが、その一方で彼は、この時代がその臨界において、さまざまな「巨大なもの」の出現を通じて「計算不可能なもの」を齎しつつあることも見て取っていた。

(略)

デリダが「世論が計算不可能な平均なのではなく、〈計算不可能なもの〉がある」と述べるとき、彼はハイデッガーとともに、ハイデッガーに反して「世論」を思考している。(略)

ハイデッガーの存在論批判をそれに相応しい水準で受け止めたうえで「民主主義者」としてなお「最も思考すべきもの」があるのであり、デリダにとって、それは、例えば、「世論」なのである。

 こうしてあの諺「民の声、神の声」は新たな解釈を受ける。デリダは「世論」を「幽霊」と、さらに進んで 「否定政治学の神」と呼ぶ(略)

デリダはルソー自身が「一般意志」と「世論」を峻別していたことを重視する近年の研究動向にも眼を配りつつ、「世論」が少なくとも権利上は「対象でも主体でもない」と考える。「世論」としての「民」は、単に不在なのではないが決してそれ固有の場に現前せず、自ら肉声で語ることもない点で、否定神学の神と少なからぬ類縁性を持つのである。(略)

2016-07-14 感じるスコラ哲学:存在と神を味わった中世 このエントリーを含むブックマーク

第六章だけチラ読み。


感じるスコラ哲学:存在と神を味わった中世

作者: 山内志朗

メーカー/出版社: 慶應義塾大学出版会

発売日: 2016/05/24

|本| Amazon.co.jp

主意主義と主知主義

 主意主義とは愛と感情を重視する系譜なのです。主意主義とは、他のところでも語ったように、方向も定めずに無謀に突き進むことでも、一つに決まった目標地点を一心不乱に追い求めることでもなく、目的地を探し、見定めるために愛と感情を重んじる系譜なのです。

 主意主義という語はかなり新しい言葉で、19世紀になってから作られたものです。

(略)

トマス・アクィナスは、アリストテレスが12世紀にヨーロッパに紹介されるようになって、その伝統を新たにキリスト教神学に組み込むべく、壮大なゴシック建築の教会に見紛うほどの神学体系を築き上げました。それは知性を重視するもので「主知主義」と名づけるに相応しいものでした。そして、トマス・アクィナスが属していたドミニコ会と、それに対抗していたわけではないのですが、役回り上、対抗すべく想定されたフランシスコ会は、知的な闘争を行ったかのような物語が作り上げられていきます。

(略)

19世紀的な哲学地図の中で「主意主義」は構成され、適用されるべき思想が探し求められます。そして、それはドミニコ会の主知主義に対抗するように期待されたフランシスコ会の中に探し求められます。実のところ、ドミニコ会とフランシスコ会は、13世紀のパリ大学の中では、托鉢修道会の教育を快く思わなかった在俗教師団からの闘争に対して、同じ利害関係に立つ仲間だったのです。共闘を組みはしなかったとしても、対立していたわけではありません。圧倒的知的優位を確立したトマス・アクィナスヘの対抗を期待されて、フランシスコ会のドゥンス・スコトゥスは後に苦悩することになります。

自由意思と〈自由意志〉

自由意思(arbitrium liberum)は、選択肢から選択する能力でしかありません。arbiterとは、「審判者、裁き手」で、有罪か無罪か、セーフかアウトかを決める者です。白黒どちらを選ぶかは自由であっても、それ以外の選択肢は与えられていません。あくまで二つのどちらか一方を選ぶ程度の裁量権しか与えられていないのです。他方、〈自由意志〉は、愛や至福の主体となる人格的な能力であり、次元を異にする能力なのです。

(略)

「自然的意志」は「自然的欲求」とほぼ重なります。自然的欲求とは、事物が自らの固有の完全性を目指しての自然的傾向性であるとスコトゥスは整理します(略)

 自然的意志とは、のどの渇いた人が泉に駆け寄る姿を見ても分かるように、自然本性がその人を運動へと掻き立てます。強い意志によって、名誉や金銭に向かう人が、人から押されたり引っ張られたりすることがなくても、自ら進んでいくのと同じように、外からの働きがないまま、進んでいくからこそ「自然的意志」と呼びならわしたのでしょう。現代において、その事態に「意志」を適用することはありません。中世は、自発的な運動の様子を「意志」と呼んでいたのです。しかし、これは能動とは見なされていません。自由な自発的運動にしか、能動は適用されていないのです。

 そして、このテキストには、「絶対的意志(voluntas absoluta)」という特異な表現も出てきます。これは何でしょうか。(略)

[「絶対的」というのは]中世では「他から切り難されて、それ自体で」という意味で用いられます。すると、絶対的意志とは、自然に拘束はされているが、それ以外には、何ら拘束されていない意志と考えることができます。自然的意志とは、ありのままの自然本性の発露ということなのです。それだけでは自由な意志とは言えません。

 本来の意志と言えるのは、やはり〈自由意志〉の方で、対象に向かっての推進力である自然的傾向と自らの選択による自由な傾向、受動的傾向と能動的傾向の二つの契機からなるとスコトゥスは考えていたと思われます。

 ここでも「自由」ということが問題になってくるのですが、素性の善くない、扱いにくい概念だとつくづく思います。「自由」という言葉は、日本語では罪深い用語で、多くの誤解を引き起こしてきました。自由は「放恣」と異なるのですが、「自分のしたいことができること」と捉えられてきました。

 「自由」とは、古い意味では「自らに由ること」、したがって勝手気ままに振る舞うことを意味するものとして仏教用語として用いられていました。freedomやlibertyの翻訳として「自由」を使うのは不都合だったわけです。(略)

だからこそ、福澤は、自由の意味を説き明かすために、あえて「自由は不自由の中に在り」と逆説的な仕方で自由を語っています。他人を妨げないという一定の不自由を内包したものが本当の「自由」であると考えられています。

(略)

自由とは多くの制約の条件下においてしか成り立たない、自由を担うに足る条件を備えた者に許される「不自由」な状態なのです(略)

自由には、自らは能動的でありながら自分で制御できない弾みのごとき側面と、能動性を制御して目的との関連で分岐がある場合には望ましい方向を選択しながら進むような側面が存在しています。つまり、行為の起点・源泉が、自己の内にありながらも、その行為の制御の仕方において、異なる二類型が存在しているのです。

2016-07-11 ファシズムとは何か・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


ファシズムとは何か

作者: ケヴィン・パスモア, 福井憲彦

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2016/04/20

|本| Amazon.co.jp

ファシズム創出者の一人ともいわれることのあるモーリス・バレス(略)

ネイション(国民)とは、フランスに住む個人(男性のみだが)がともに住むことを理性的・民主的に選択したことの表れだ、と見なす自由主義的で民主主義的な観点を、バレスは拒絶した。彼にとってネイションとは、通常の人間の理性を超えたスピリチュアルな感覚から発するものであった。

 こうした見方は、人間の集合的な無意識という当時流行りであった心理学的な考え方、そしてまた、芸術は人間行動の下に隠されている神話に接近可能にしてくれるものだと見なす、象徴派文学運動によって形づくられたものである。バレスは、ネイションとは歴史と伝統が生み出したもの、そして農民が国土と長年にわたって接してきたことから生み出されたもの、と見なした。

群衆

 ファシストに影響を与えた人びとの一人として、群集心理に関するフランス人理論家、ギュスターヴ・ル・ボンを挙げておかなかればならない。彼は、非理性的な群衆はデマゴーグによって操作されうる、と主張した。ムッソリーニもヒトラーも、ル・ボンを引用していたが、しかしル・ボン自身はといえば保守主義により近く、また彼の理論は、極右に対すると同様に左翼に対しても魅力的であった。ル・ボンという鋳型から出てきたのがジョルジュ・ソレルであった。ソレルもまたムッソリーニによって引用されていた人物だが、彼も、大衆というのは神話と暴力によって誘導されるものだ、と主張していた。

(略)

ニーチェは、普遍主義こそが強者に対する尊敬を傷つけてきたのだ、と確信していた。ニーチェは、運命の人がよりスピリチュアルな共同体を創造するであろう、と望んでいたが、しかし彼の思想は矛盾に満ちており、折衷的なものであった。(略)

 実際われわれは、ファシズムの起源を、もっぱら理性の拒絶という点にだけみるわけにはいかない。反対に、前に挙げた思想家たちはみな、神話もエリートも群衆も、普遍的な科学的原理を用いて研究することができる、と考えていた。たとえばル・ボンは、進化論を誤用して、進化と自然淘汰が、理性の力の発展を通してエリートが大衆の上に立つことを可能にしてきたのだ、と論じていた。その結果、エリートは、大衆の激情の原因を理解し、大衆をナショナリズムに即した安全な方向に導くために、社会科学を活用することができるのだ、と。当時の基準によれば、優生学的な社会計画は、その人種論的な次元ともども、聞違いなく科学的だったのである。もちろん、われわれにとっては、これらの多くは似非科学である。

社会ダーウィニズムの主張者たちは、

貧者救済を伴った近代社会の安楽が、不適合者の生存と社会の退化に繋がりはしないかと恐れた。彼らは回答として「優生論」を説き、不適合者の断種といった「否定的」手段と、そして(あるいは)また、健常者の再生産奨励といった「肯定的」手段とを、提案していた。

 社会ダーウィニズムの主張者のなかには、大衆がカウチポテト(無気力)症候群の19世紀末版に陥ることを予防できるのは、強力な指導者によってのみだ、と思っている者もいた。社会ダーウィニズム信奉者はまた、国民国家間における力の闘争は不可避だ、と信じており、なかには、国民の運命に比べれば個人の運命などは微々たる重要性しかない、と思っている人たちもいた。

(略)

 人種差別は、帝国主義の本質的な要素の一つであった。(略)ヨーロッパ列強は人種科学を利用して、「劣った」非ヨーロッパ系の人びとに対する支配を正当化し、それがふさわしいと列強自身が見なしたところでは、法の支配を無視した。いくつかのところで生じた現地住民たちの絶滅は、ホロコーストの先行事例に当たるものであった。

急進右翼とは、

大衆政治の結果であるとともに、それを抑え込むための試みでもあった。急進右翼は、ネイションを階級や宗教よりも上位に位置づけ、競争相手を抑え込み、ある種の左翼政策を引き継ぎ変形させることによって、この政治舞台で敵と戦おうとしたのである。こうした潜在的に矛盾をはらんだ目的があった、という点を明確にしたうえで、急進右翼は理解されるべきなのである。

 まず、ナショナリズムから始めよう。19世紀末に至るまで、ナショナリストはまず左翼に位置していた。というのも彼らは、民族の「自己決定」への権利を唱え、多民族国家であったロシア帝国やハプスブルク帝国、イギリス帝国に対して、民主主義の名において挑んでいたからである。しかしながらナショナリストたちはまた、正義という普遍原理に対する訴えを、しばしば、潜在的に非民主主義的でロマン主義的なナショナリズムとも結びつけた。それは、ナショナルな理念の、なかば神秘的な確信をすべての住民に求めるものであった。その住民たちは、同一の人種的出自を持っているのであって、他の人種とは本質的に異なるのだ、とされた。

(略)

19世紀の社会主義者たちは多くがナショナリストでもあって、自分たちを民族や国民の代表と見なしており、「コスモポリタン」な資本家や貴族に敵対していたからである。社会主義者たちはより広い急進的な伝統に溶け込んでもいたが、その伝統は、女性の権利を滅多に認めることはなく、しばしば外国嫌いでもあった。

ドイツは不完全にしか統一されなかったのだ、

という信念は広まっていた。ユリウス・ラングベーンが1890年に匿名で出版した『教育家としてのレンブラント』は、「民族至上主義的」な考え方の完璧な事例である。すなわち、エスニックという点でたがいに結びついている人びとのなかに根を張ったナショナリズム、という考え方である。ラングベーンは、このオランダ人の巨匠は、その仲間の同郷人たちと同様に、人種という点では実質的にドイツ人だ、と信じていた。そしてこの混乱した本は、レンブラントを、新たなドイツ宗教改革の教師として描いていた。

 ラングベーンは、素人のジェネラリストを縮図的に体現する人物であった。すなわち彼は、専門分野への学問の「分化」に対して不満を抱いていた。彼は、科学・学問を芸術と結合させることを推奨し、人種の心理的現実からの情報をとらえた歴史によって、無味乾燥の専門的な歴史を置き換えよ、と勧めている。彼は、同時代の優生学を引き合いに出し(略)同時にまた、「民族」に根を張っている英雄芸術家という神話にも訴える。そうした英雄こそが、スピリチュアルな再生をもって政治的統一を完全なものにしてくれるのだ、と。

(略)

 1920年代末になると、ラングベーンの本はふたたび売れ出した。とくに、他のより一般的な急進右翼の人びとと並んでラングベーンは、アジアやアフリカでの伝統的な帝国の野望ではなしに、むしろ「レーベンスラウム(生存圏)」という観念とも結びつけられた、東ヨーロッパヘの膨張というナチによる転換を先取りしていた。ラングベーンが示した企図は、人種論的・社会的・優生学的な技術的開発の計画と、ドイツがアメリカやイギリス、ロシアといった競争相手と経済的にも軍事的にも競い合える勢力圏を発展させなければならない、という考えとを、結びつけるものであった。

権力の座についたファシズム

 自由主義派のの政治家たちは、やっかいな選択に直面していた。彼らが抵抗したとしても、軍も警察もファシストと戦うことは拒否するであろう。たとえファシストが敗れたとしても、利を得るのは左翼となるであろう。ファシストは議会に少数の議席しか持っていないわけだが、しかし彼らを政府内に引き込むほうがまだましだろう、と考える点で、政界と実業界と軍部が一致した。(略)

行政当局と軍からの支持を保証されたイタリア・ファシストは、左翼の人びとを攻撃して処罰もされなかった。(略)

 1923年、カトリック政党であったイタリア人民党は、ファシスト行動隊からの攻撃と、教皇による党への支持撤回という二重の衝撃のもとで崩壊した。ムッソリーニは教皇に対して、教皇によるファシスト党支持への見返りに、教会の地位を改善する約束をしていたのである。

(略)

 ファシスト党が政府内に入った今や、左翼の弾圧と自由経済の承認で安心した保守派から、多くの者が入党した。彼らは、ムッソリーニが秩序を再建し、それによって「平常化」が実現するだろう、と期待していた。

(略)

[ムッソリーニは]1924年の総選挙でファシスト党が議会多数を勝ち取るために、まず選挙法を作り直した。(略)

1920年代末までには、ファシストのイメージとして優勢なのは、「かまうもんか」といって社会主義者に殴りかかる若い独身の男、というものではもはやなくなり、新たな国民国家建設のために九時から六時まで働く責任ある夫にして父、その妻はイタリアのために子供たちを産み育てる、というものになっていた。

(略)

党はもう一つの余計な官僚機構のようになり、党という切り札が、国家公務員における昇進の必要条件となった。(略)

ファシズム国家における権力への接近が、通常の官僚選抜や訓練といった方法だけでなく、イデオロギー的な従順さがあるか否かによって決定づけられるようになった

ドイツ、1933年3月23日

議場内部では、大統領と内閣が位置する壇上の背後に、巨大な鉤十字の旗が下がっていた。議場に入るために議員たちは、建物前の広場に密集していた鉤十字印を身につけた横柄な若者たちからの攻撃に、耐えなければならなかった。彼らは議員たちに向かって、「中央党の豚野郎」とか「マルクス主義者の雌豚」とかと、大声で罵詈雑言を浴びせかけていたからである。共産党の議員たちは、議事堂焼失に党が関与していたという難癖をつけられて、すでに投獄されていた。何人かの社会主義者も収監され、別の何人かは建物に入ろうとしたところで逮捕された。議場ではナチの突撃隊員が社会主義者の議員の背後に並び、出入り口を固めていた。(略)

議会の承認を必要としない立法権を首相に認める(略)法律は憲法改正を必然的に伴うものであったので、議員の三分の二の賛成が必要とされた。したがってナチは、保守派の支持を必要としていた。法案の説明に立ったヒトラーの演説は、議会の存続や、保守派の象徴である大統領ヒンデンブルクの地位は脅かされることはない、として、保守派を安心させるものであった。(略)

 反対演説に立った社会主義者オットー・ヴェルスは、「人間性と正義、自由と社会主義という原理」について、勇気をもって喚起した。(略)激しい感情から詰まったような声になりながら、すでに強制収容所や監獄に囚われている人たちへの思いを述べて締めくくった。夢中になってメモを取っていたヒトラーは、社会主義者こそが14年間もナチを迫害してきたではないかと非難して、激烈に反論した。(略)

社会主義派の議員からヤジが飛んだが、彼らの背後に控えていた突撃隊は、「お前ら今日こそ縛り首だぞ」と、ひそやかに呻いた。

 全権委任法は、社会主義者の94票の反対に対して441票の賛成で可決された。それは法の支配の終焉を告げ、総統の意志に基づいた新たな類いの権威に基礎を与えるものであった。(略)社会主義者たちが次の犠牲者であった。

権力への上昇

 ヒトラーが権カヘの道を見出すのにムッソリーニよりも長いことかかったという事実は、ナチズムを単に危機と、人びとの「方向喪失」との産物なのだとするような見方に、警鐘を鴇らす。

(略)

 それでもヴァイマル共和国は存続していた。主要な政治勢力が支持していたからである。イタリアの場合とは違って、ドイツの社会主義者たちは共和国体制を擁護し、労働者たちのゼネストがカップ一揆の失敗を確実なものにした。一揆が成功するには軍の支持が肝腎であったが、その軍部は、英仏がドイツにおけるナショナリズム体制を容認しないであろうと知り、当面、民主主義を受け容れたのである。

(略)

ヴァイマルの政治はなんでもありの状態に頽落し、各利害集団がそれぞれ他の集団に対して、国民的な利害を(ということはすなわち自分たちの主張する利害を)優先していないではないか、として非難するという事態になっていった。ナチ党が勝利したのは、彼らこそは個別の諸利害をネイションのために従属させることができるのだと、幅広い有権者たちを納得させられたからであった。(略)

[1929年大恐慌で]

 600万の労働者たちの多くは、貧困をもたらしてしまったように思われた現体制を断念して、共産主義へと(いくらかの場合には褐色シャツのナチズムヘと)乗り換えた。共産党は、ナチ党と並んで票数を上げた。議会による統治は不可能となり、1930年から、政府は政令によって行動せざるをえなくなった。もはや連合国を恐れなくなった軍部は、つねに政治に介入するようになった。ドイツの民主主義は、ヒトラーが権力を掌握する以前から、すでに死にかかっていたのである。

 1923年の一揆に関わったことで収監されている間に、ヒトラーは、自分自身の失敗に照らしてイタリアの事例を考え直し、権力を勝ち取れるのは投票箱を通じてでしかない、という結論を得ていた。はじめのうち選挙プロパガンダは、主に工業労働者に向けたものであった。共産党から彼らを引き剥がそうと、望んだのである。

 しかし1928年の選挙では、農業危機にひどく苦しんでいたプロテスタント系の農民たちから、予期しない支持を得ることができた。この時からナチ党のプロパガンダは、よりいっそう保守系の投票者たちを狙ったものとなり、それによって、1930年選挙での躍進に成功したのである。

(略)

ナチの運動は、社会主義者からも、少数ながら意味ある得票を勝ち取った。それは、多かれ少なかれ男女同等に訴えかけるものであった。1932年7月の選挙では、ドイツの労働者階級の四分の一ほど、とくに小都市の小さな企業の労働者たちが、ナチ党に投票したと見なされている。

(略)

1933年3月5日の選挙でナチ党は、期待されたほどの成果はあげられなかったが、ドイツ国家国民党の支持を得て、全権委任法を成立させることができた。

 続く数週の間に、労働組合は禁止され、ナチではない右翼諸政党は自主的に解党し、そしてユダヤ系の国家公務員は解雇された。一般の人たちは、反対意見を述べた場合に待っている運命がよくわかっていた。この事実は、はたしてドイツ人は皆がナチ支配に同意したのか、それとも単に大衆集会でヒトラーを讃えただけなのか、という問題への見解を示唆するであろう。

(略)

 ナチの急進的な態度は、とくに政治面で明白であった。法の支配の破壊は、単に恣意的な弾圧や強制収容所への拘束、あるいは処刑を意味しただけでなく、規則に基づいた統治・司法・行政の、まさに基盤そのものの腐食を意味していた。公務員は強制的に解雇され、党の諸機構と親衛隊とが並列的に行政を担当したが、それらの要員は、公務上の手続きによってではなしに、イデオロギー的な基盤と党への貢献によって採用された。それまではあり得なかったような経歴を持った人びとが、影響力のある地位に上昇した。

 イタリアにおけるファシズムの場合と同様に、労働組合の急進派や、ナチズムが女性の地位をもっと平等にすると期待していた人びとは、権力の座についたナチズムにまったく失望した。

(略)

 ヒトラーのたいへんな人気は、共産主義を破壊してドイツの国際的な地位を復活させたことから来ていたが、それはまた、各地区でユダヤ人が被っていた運命への無関心とも対になっており、反ユダヤ主義者たちに計画を実行する絶好の機会を提供した。

(略)

 ドイツの軍部や公務員、大学教授団(略)体制のさまざまな構成要員たちは、ヒトラーの行動計画を実現することを熱心に、相互に競い合った。ある活動家が語ったように、彼らは「総統の方を向いて」仕事をしたのである。ヒトラーにとっては、細部にわたってまで政策を語る必要はなかった。(略)

 さまざまな権力が入り乱れた状態だったので、政策立案者たちは、道義や法による拘束を気にしなくなっていた。統治の原理は不確実なものとなり、体制の犠牲者たちは救いなく放置された。

チャンドラ・ボース

 インドでは、国民議会の左派的リーダーであったチャンドラ・ボースが、はじめのうちイタリア・ファシズムを、19世紀のイタリア復興、すなわちリソルジメントの後継者とみなして、魅力を感じていた。1926年に彼は、ファシズムと共産主義の新たな総合をインドは実現するであろう、と主張したので、イギリス当局は彼を明白なファシストと見なした。

 しかしボースは、議会内で反ファシストたちから圧力を受け、自分の見解を穏やかなものに切り替えていった。それには、ヒトラーが、人種論に基づいたイギリスによるインド統治を正当だと発言したことも、いくらかの理由として関わっていた。ボースは、今度はケマル・アタチュルクの社会主義的な権威主義へと関心を向けた。しかし彼は、イギリスの敵がインドの独立達成の助けとなるという期待を、最後まで捨てなかった。1941年、彼はベルリンに向けて脱出し、そこで捕虜〔北アフリカ戦線で戦ったインド兵〕の間から募ったインド軍団形成に助力し、ついで、日本軍の捕虜〔イギリス領マラヤやシンガポールで戦ったインド兵〕から形成されたインド国民軍に期待を寄せたのである。

2016-07-07 ファシズムとは何か 労働者が極右に近づく理由 このエントリーを含むブックマーク

順番を飛ばして興味を引きそうな、最近の話の第7章から。


ファシズムとは何か

作者: ケヴィン・パスモア, 福井憲彦

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2016/04/20

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新右翼

 極右の政策がより受容されるようになったことのもう一つの理由は、知識人たちがウルトラナショナリズムの定義を転換したことにもあった。実際に彼らは外国嫌いと不寛容とを、自由民主的な普遍言語の表現へと置き換えた。

(略)

 新右翼が生み出したものの多くは、新しいものではなかった。たとえば、それらが、戦間期ファシズムの発想源となった似非科学(民族間闘争の不可避とか適者生存とか、個人間の必然的不平等、人種的純粋性の必要など)の焼き直しにすぎないことを見抜くのは、簡単である。独創的であったのは、国家内の少数派差別を正当化するための「同等の権利」の援用である(ただそれも、ナチ急進派のオットー・シュトラッサーがすでに同様の考えを持ってはいたので、まあ独創的、というくらいか)。あるネイションのいわゆる独自性を保持していくためには、すべての人種が純粋である権利を持っているのだから、少数民族を差別化する必要がある、と新右翼は主張したのだった。

(略)

 ついで第二に、自由主義をナショナリズムとつなぐ別の動きが存在した。2002年のオランダ総選挙におけるピム・フォルタインの政見と候補者リストは、一見したところでは現代極右の典型であった。(略)しかし、公然とした同性愛者であったフォルタインは、イスラームを非難するにあたって、女性とゲイとに対するヨーロッパの寛容と権利承認を脅かす「遅れた宗教」ではないか、と主張したのである。

(略)

[第三に、サッチャー、レーガンなどの]新保守主義者が、左翼に対抗する動きに拍車をかけはじめた。経済においてそれは、規制緩和というかたちでの自由主義経済の復活を意味した。それがまたグローバルな自由貿易を意味する限り、新保守主義は、新右翼の経済ナショナリズムとは対立したが、しかし新保守主義者は自由化を正当化するにあたって、それこそはグローバル競争の時代に国を強化するものなのだ、としたのであった。

(略)

 1981年には、グローバルな経済危機の最中で、フランスでは社会主義派が大統領選挙に勝ち(略)

他の国々では新保守主義が勢力を誇っていた時期に、フランスの右派は派閥に分かれて対立を繰り返した。国民戦線に投票した人びとは、当初は比較的裕福で、年配者、カトリック信者、保守思想を持ち、反社会主義であり、党の綱領も、こうした投票者たちの自由市場を支持する主張に一致していた。国民戦線の人種主義は、こうした自由経済の主張を強めるものでもあった。というのは、アラブ人は「不適合者」の象徴であり、市場で競争することもできず、福祉にばかり頼って無為徒食だ、としていたからである。

 その後、右派の主流が(あまり首尾一貫してではなかったが)自由経済路線に向かったのに対して、国民戦線はそこから離れることになった。国民戦線は、投票者のほとんどを右派から、それもフランスの地方小都市の右派から、とくに獲得し続けている。(略)若年の労働者階級男子の党ともなってきており、彼らはしばしば失業中で、比較的教育程度が低く、大都市の近郊工業地帯に暮らしている。

 1995年の大統領選挙では、労働者の三割が国民戦線に投票したが、それは社会党や共産党への支持より上まわっていた。(略)

2000年代までには、ほぼ新保守主義を放棄し、グローバル化と外国人労働者に対抗してフランス人の雇用を守ろう、という路線をとるようになった。これはまた、大部分の右翼にも訴えかける政策であった。

労働者が極右に近づく理由

あふれるほどの消費を促す文化的圧力や、さまざまな商品の性的アピールとの結びつきのゆえに、貧しい若者たちは置いてきぼりの感覚を抱いている。彼らは、政府が階級的不平等に対処すべきなのに、それ以上にジェンダーや人種や性的問題に取り組みがちだということで、そうした政府に対して腹を立てている。

(略)

 その結果、極右は金持ち層に対して腹を立てて、キャリアウーマンを嫌う。ゲットー化した郊外団地で、若い白人たちは移民と対峙している。彼らは、移民を犯罪集団として非難し、「やつら」の女を襲ったりする。そして、なかには、抑圧された「少数派」という役回りを彼らに与えてくれる政党に、加わるようになる。

(略)

 労働者が極右に近づくのは、1990年代から多くの社会主義政党が新保守主義的な路線をとるようになった、という現実からも来ているところがある。左右の差異が消滅し、双方とも、経済の変容で勝ち残った人びとのために発言し、敗れた者たちは代表もなしに放っておかれている。左翼が選挙で勝つために右旋回し、保守政党のほうは左翼とは差異化するために、外国嫌いを利用している。出し抜かれないように左翼は、自分たちも移民に対しては弱腰ではない、として有権者を安心させようとする。反移民政策がまともなものとされるようになるが、しかしこのようなまともさは、極右が不必要になるほど極右を正当化するたぐいのものである。いずれにせよ、移民こそが敗者である。

(略)

 戦間期のファシズムと現代の極右の間には、(極端なナショナリズムと少数民族に対する差別、反フェミニズム、反社会主義、ポピュリズム、社会的・政治的エリートヘの敵対、反資本主義、そして反議会主義といったように)正真正銘の連続性が存在する。しかし同様に、(大衆動員や擬似軍隊的暴力の不在、一党体制国家の創出という野望の欠落、といったように)はっきりした違いも存在する。さらには、現代の極右は、民主主義の転覆を狙うよりも、民主主義が潜在的にはらんでいる差別的な可能性を利用しようと狙っている。だからといって、現代の極右がファシズムよりも「悪くない」とか「危険度が低い」というわけではない。

ファシストにとって「近代的」とか「伝統的」とかは、なにを意味していたか

 ファシストが依拠していたのは、社会ダーウィニズムとそのフランス的変形であるラマルク主義、集団心理学、社会生物学、群衆科学、神話研究、であった。それらの考え方をすべてつき合わせることによって、ネイションの性格や(あるいは)人種について、一見すると科学的であるような議論がなされた。ネイションがもし不可避の凋落に向かう傾向に打ち勝ち、国際的な生きるか死ぬかの闘争に生き残らなければならないとすれば、そのネイションは内部的に力強く同質的でなければならない、という確信と、ここに挙げたような「科学」とが結びついていた。

 ここにおいてファシストの思想は、芸術的な近代主義によって彫琢されていた。それによれば、世界は暗い、脅威に満ちた場所であり、なにものもいっさい永遠ではなく、しかしにもかかわらず、芸術家の特殊な技術を通して意味を与えられ、飼いならされさえするかもしれない、そういう場所なのだ、と。

(略)

ファシズムとは、伝統と近代性とか、あるいは急進的と反動的といったような、二項対立では容易に区分けが効かない、相互に開運しつつ対立もしているイデオロギーと実践との、一連の矛盾に満ちた総体にほかならないのである。

「ナショナル・ポピュリスト」

 政治社会学者のアニー・コロヴァルドが説明しているように、フランスの国民戦線が「ナショナル・ポピュリスト」というラベルをみずから採用したことは、ある危険な状態を強く示すものである。この「ナショナル・ポピュリスト」という分類は、国民戦線自身が作ったものではなく、フランスの大学制度において戦略的な地位を占めていて政府筋にも近い、そういう政治学者たちのグループによって考え出されたものであった。(略)

彼らは国民戦線について、こう描いた。それは、グローバル時代における自分たちの困難に対する単純な回答を求める、社会の周縁部にいる教育程度の低い人びとからの、一時的な「ナショナル・ポピュリスト」的抗議にほかならないのである、と。庶民へのある種の軽蔑が表されていることは別にして、このような解釈は、現在の国民戦線指導部にいる高等教育を受けた専門的政治家たちに都合の良いように、機能することになっている。国民戦線はファシズムとは違う、声なき人びとを代表しているのだ、という主張には学問的な根拠がある、と彼らが断言できるようにしたからである。それはあたかも、ファシスト的でなければ人種差別も認められる、といっているようなものだ。

 ただし、国民戦線にファシストというラベルを貼ることは、それはそれで問題であろう。それは、たしかに政党の信頼を失墜させる方法かもしれないが、しかし国民戦線の支持者たちは通常自分たちがファシストだとは思っていない以上、この運動はエリートによって侮蔑的に忘れ去られた真面目な人びとを代表しているのだ、という彼らの確信を、かえって強化してしまう危険を冒すことになるのである。

次回に続く。


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2016-07-02 通過者の視線 森山大道 宮本常一 このエントリーを含むブックマーク


通過者の視線

作者: 森山大道

メーカー/出版社: 月曜社

発売日: 2014/10/10

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宮本常一『写真・日記集成』

(略)とにかく圧倒されました。

 まず宮本さんが歩いた物理的な距離、写真を撮った物質的な量。ぼくももう五十年ぐらい路上を歩いて撮ってきて、北海道や東北も結構うろうろした時期があるけど、その場所の選び方歩き方はじつに勝手気ままで、系統立ててきちんと写してきたわけではない。そういう意味を含めても、宮本さんの軌跡というのはすごいなと圧倒されました。そこにはもちろん民俗学という背骨があるんですけども、この人ちょっと半端ではない、かなわないとそのころから本当に思っているんです。(略)

ここまで徹底して日本を緻密に歩いて見た人はいない。(略)

目に映る全部が自分の民俗学の世界だとはっきり思っていた人ですね。この人ほど一種物狂いというか撮り狂った人は、プロカメラマンでもいないんじゃないかなおそらく。(略)

[自分なら]踏み込めない所まで宮本さんはニコニコ入っていってしれっと写してしまっている。そこに凄みを感じるんです。宮本さんの写真を見ていると、写す対象に過多な心情を入れたりしていないし情緒的な深入りもしていない。ぼくはそれを通過者の視線と言うんだけど、民俗学者としての宮本さんの場合、単なる通過者では済まないわけです。(略)

そうした学者としての使命もありながら、あれだけ撮ったというのは脱帽です。(略)

トータルに見るとそういう情緒に語りかけている部分が見事にない。

 というのは貪欲に何でもかんでも見たら撮っちゃうからでしょうね。ここはちょっと絵になるからとか情緒的でいいなどといちいち思わないで、とにかくまずシャッターを押す。やっぱりそれですね。

 そのことは写真の本質と実はとても大きくかかわっている。(略)

ぼくは基本的に、写真という装置の根幹はアマチュアリズムとアノニマス(匿名性)だと思っているわけですが、宮本さんはこれを図らずも見事に体現している。ぼくら写真家も「何でも感じたものを撮ればいい」と言いながら、それこそ構図にこだわるとか、どこかで表現意識というものに否応なく捉われてしまうんです。(略)

だからそこのところを、手もなくっていうのはおかしいけどあっさりやっちゃってるわけで、宮本さんには勝てないよね、という感じがある。(略)

通過者の視線でさらっと撮ってはいるけれど写した写真のどれも構図がいい。(略)先天的なセンスがありますね。

(略)

[子供や働く女性を撮っても目線が対等。都会人的な節度があり振る舞いがスマート]

 要するに魅力的な人だったと思う。だって撮られている人との関係性は写真に表れますからね。振りかぶってないし、さらりと撮ってるしさ。

 こういう言い方は失礼だけど、宮本さんっておそらく人たらしなんですね。さりげなく人たらし。

(略)

撮るという行為をぼくの言葉で言うと「日常の裂け目」を見るということですね。流動する日常にはスリットが無数にあって、そこを見たい写したいっていうのがある。それは言い換えると異界という言葉にもなるんだけど、宮本さんがフィールドワークで歩かれたすごい領域の写真を見ると、それもまたもうひとつの異界なんです。しかもこれだけの量を見せられると、相対する異界を感じてしまう。そこには、歴史的な時間の在りようとかそこに生きた人の在りようとかいろんなことが映って、風俗とか、土俗とか、民俗とかを全部含めたうえのトータルで見ると、宮本さんが写した人々と風土には強靭な実存性が露われています。


宮本常一 写真・日記集成 全2巻・別巻1

作者: 宮本常一

メーカー/出版社: 毎日新聞社

発売日: 2005/03/31

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パントマイム

 ムカシムカシの話である。ヤツらは、人の親指ほどの沢山の小さなビンの中の液に浸ってそれぞれ眠っていた。それぞれがカキの皮膚をしてその形はほとんどエビだった。(略)産婦人科病院の、暗い廊下に立ち並んだ標本棚の片隅で、ガラスケースの棚に、フォルマリン液に漬けられた無数の胎児たちが皆ひっそりと肩を寄せ合って陽の当る中庭を眺めていた。

 その頃ぼくは二十五歳で、フリー・カメラマンになったばかり

(略)

 初期の段階で掻爬された人間の胎児は二センチにも充たず、形状としては鳥や魚や兎や亀などのそれらとほとんど変わらず、ぼくは小学生の頃に理科の図鑑で見た、ダーウィン進化説の図解イラストを思い出していた。いわば生物の原質、人間の種子とでも言うべきか、じいっと見ていると限りなく愛しかった。

(略)

 この、「パントマイム」の写真のことで言えば、結局ぼくの若さだけが唯一のテーマだったと思う。別に、芸術であるとか創造であるとかの意識などではなく、もっと未分化で不確かで単純な衝動だったはずだ。

(略)

 極めて好意的な老院長の厚意で、ぼくは胎児の入ったビンを沢山手にして、もう使わなくなっていた旧い分娩室をスタジオ代わりに撮影を始めた。持参したケント紙の上にビンから取り出した胎児たちを置いて、そこに多少のドラマティックな要素を加えて、ぼくは胎児たちと言葉にならない対話に熱中した。二、三ヵ月目くらいの胎児は、まるで小エビのように小ちゃくて可愛くて、教科書の挿絵と同じだった。(略)部屋には、フォルマリンの強い匂いと、フラット・ランプによる照明の温気、そしてぼくの汗やなにやかやの匂いが混然となって異様な臭気が充満し、ぼくはその中で、さながらラプラスの鬼と化して、日の落ちるまで粘り写していた。(略)

ぼくにとっての、“青春の写真”の時であり、ぼく自身の、パントマイムの時であった。

 そして、それらの写真は、それから半年後に、「現代の眼」という月刊誌に掲載された。(略)

面影記

(略)ぼくは二十六歳、S子は二つ年上の二十八歳で、東京の洋装メーカーの秘書室勤務だった。(略)

 S子は肉が好きだった。高校卒業と同時に北九州のOという小さな炭鉱町の炭住街から八歳上の姉を頼って上京し、当時もM区、K町のアパートで姉と二人きりで住んでいた。子供の頃から生活の苦労を舐めたようなふうであった。ぼくと一緒に街で食事をするときなど、必ず肉っ気のある品を注文した。だって、肉なんか食べさせてもらえなかったし、と言って、まず最初に肉片からおいしそうに口に入れた。(略)

それほど高給を取っているわけもないのに、二人で遊ぶ金はいつもS子が、いいからいいからあなた子持ちでしょ、と必ず支払った。(略)

三十六歳で独身の姉を思いやって、どんなに夜遅くなっても必ずアパートに帰っていった。(略)

 ぼくも酒には弱かったが、S子はさらに弱かった。(略)

[酔うと]女学生が持つような部厚い布製の財布兼定期入れ[から](略)一枚の古い名刺版の風景写真を抜き出して、遠い目つきで眺めるのがつねであった。(略)

茶ばんで、周辺がボロけ、無数の折れシワの入ったその小さな写真には、O町のひなびた停車場が写っていた。少し引いたアングルの風景だった。土塁のように盛り上がった細い一本のプラットホーム、まっ黒な蒸気機関車が煤煙を吐いて停っていて、こちらに光り伸びてくるレールは、途中から手前におい茂る秋の草花やセイタカアワダチ草に隠されて断ち消えている。碍子をいっぱい並べた電信柱が無数の電線を引いて遠くの林間に紛れ込んでいき、その背景はボタ山とおぼしき三角形に突んがった黯い小山が重なって写っている。不思議と人っ気もなんにもなく、風景全体が晩秋の薄日のなかでまどろんでいるような懐かしい構図であった。写真の裏には、ペン字で小さく昭和二十九年十一月十四日と記されてあった。

(略)

 S子とは、ほんのささいなことで別れることになってしまった。(略)三年におよぶツキアイであった。別れることになる半年まえ、ぼくはある賞の新人賞を取った。日ごろ、一貫した金欠病患者であったぼくは、よくS子からフィルム代や印画紙代を出してもらっていた。S子はイヤな顔もせずいつも気前よく購ってくれた。賞をもらったあと、ぼくは少々照れ良かったが、やや改まった感じでひとことS子にお礼を言った。別れてしばらくたった頃S子から最後の手紙が届き、いろいろと気持ちの整理を済ませたなどと書いてあり、終わりの方に、アナタから賞のお礼を言われたときが二人の時間のなかでいちばんうれしく、もうあれで充分でした、といった意味のことが記されていた。今度はぼくがジーンとする番であった。そのとき、S子は三十一歳、ぼくは二十九歳になっていた。S子は秘書室長になり、ぼくも賞をきっかけに忙しくなっていった。以来十八年間、二人はそれぞれべつべつの地図のなかに紛れこんでしまい、ふたたび顔を合わせることもないままである。

 今年の夏(略)ある街を撮った帰りに乗換駅で渋谷行きを待っていると、となりのホームにたまたまD線の電車が入ってきた。まだ帰るには陽も高かったし、あまりに暑かったせいもあって、ぼくはとっさにその電車に飛び乗ってしまった。(略)フト停った駅名を眺めるとK駅だった。かつて、S子との逢瀬のたびに乗り降りした駅名であった。前後の判断もなく、引き込まれるようにホームに降りてしまった。まったく何の気持ちの用意もなく、その日突然、ぼくは十八年ぶりに記憶の駅頭に立つことになった。夏の、遅い午後の夕日が強く街区を染め上げていた。まぎれもなく、あの夕日だった。

(略)

意志とはべつに、細胞がなびくままに、むかしS子が住んでいたアパートヘの道を辿っていた。(略)そのアパートは小さなモルタルのアパートだったので、まさかもう在るはずもなかろうと思い込んでいたが、銭湯の角を曲がったとたんに、在った。ぼくは瞬間、もはや懐かしさなどを通り越した、名状しがたく眩惑に似た感覚とともに、ジリジリと西日に焦がされる眼前の風景をまえに立ちつくすばかりであった。よもや住んでいるわけもないだろう。気をとりなおしてアパートに近づいた。

(略)

階段下に錆びて並ぶ郵便受けのひとつに、まぎれもないS子の名前があった。見覚えのある筆跡で小さく記されていた。(略)

ウチはみんな縁遠いのよ、と寂しそうに笑っていた面影が目に浮かんだ。次にぼくは、衝動というほかなく見さかいもなく、二階への鉄の階段を昇っていき、ためらいなくいちばん奥の部屋のまえに立った。狭い通路に洗たく物が整然と干してあった。ぼくはドアをノックした。もう一度ノックして五秒待ち、次いで素早くドアを離れて急いで階段を下りて路上に戻った。留守であったのだろうか。待っている五秒の間に、ぼくはさっと我に帰ったのである。胸が鳴り汗がどっと吹き出した。よかった、留守でよかったと思った。もし留守でなかったとしたら、四十六歳のぼくが五十歳に近いS子と再会していたことになる。それでいったいぼくはどうしていたというのだろうか(略)

ぼくはその夜仕事場で、S子とのかつての時間を回想した。そして、ぼくの仕事場から車に乗って三十分とはかからないところで、毎夜S子が眠っていたことに思い至り、人間同士のつながりの、生の仕方のなさを知って撫然たる思いであった。そして、いちばん最後に、遠い日の暮れがた、湘南の小さな漁村の浜辺で、黄色いワンピースの背を見せて笑っていたS子を思い描いた。(略)

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