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2016-09-30 天才ジミヘンドリックス ギター革命児の真実 このエントリーを含むブックマーク


天才ジミヘンドリックス ギター革命児の真実

作者: ジョンマクダーモット, エディクレイマー, John McDermott, Eddie Kramer, 相川紀太郎

メーカー/出版社: シンコーミュージック

発売日: 1998/12/10

|本| Amazon.co.jp

訪英前

[ロンドン随一のモデル、リンダ・キースはボーイフレンドのキース・リチャーズについて訪米、偶然耳にしたジミの虜になる]

 「ヴィレッジの街角で演奏するのが大好きだったのよ。歌も歌ってほしいって、ずっと思ってたんだけど、彼は歌おうとしないの。だから、あたしが自分で歌ったわ。私の歌声が耐えがたかったからだろうと思うんだけど、結局彼も折れて、『よし、わかった、ぼくが歌ってやるよ!』って言ってくれたの。自分には歌えないんだって、心から信じ込んでたのね」

 ところが、リンダの激励もそれで済んだわけではなかったのだ。彼女は次から次へと、ボブ・ディランの歌を聞かせた。大事なのは実際の声質などではなく、歌いっぷりに備わった抑揚や感情であることを巧みに伝えていたのである。(略)

 「あたしたちはカップルなんかじゃなかったのよ。あたしは彼のガールフレンドじゃなかったの。まだキース・リチャーズとデートしてたんだから。ただジミの音楽に関心を抱いて、それが花開くことを切に願うようになったってことなのよ。あの人にはモティヴェーションと指示が必要だった。(略)

自分の民族上のルーツにも悩んでたわね。だから、自分の音楽的なルーツを踏まえてブルースを演りたいという欲求と、中堅のポップ・スターになりたいという欲求の間で葛藤にずいぶんさいなまれてたわけ。あたしはいつだって、ブルースを演って、とお尻を叩いてたんだけど、彼はそれを拒んでたわ。ひとつには彼がバディ・ガイやオーティス・ラッシュにすごい影響を受けていて、あの人たちにはとてもかなわない、ことに歌は話にならないって感じてたことがあるわね。(略)

[リンダはキースの新品のストラトをこっそり拝借して与え、ストーンズのマネージャー、アンドリュー・オールダムに売り込んだが失敗。シーモア・スタインにも売り込んだが失敗]

 二度までも肘てつを食らわされたヘンドリックスは、拒絶されることを宿命として甘受するようになると同時に、そうした拒絶にわが身をさらさせるリンダにいささかむっとしつつあった。(略)

[ロンドンへの帰還が迫ったリンダは、微々たる印税収入と、赤字ばかりのツアーに疲れたチャス・チャンドラーがレコード制作に興味を抱いてると知り最後のチャンスと売り込む。ショウ終了後、パブに誘われた]

ヘンドリックスははにかみがちで、おごってもらったビールや親切な言葉に感謝してはいたが、一方でチャンドラーにイギリスのミュージシャンに関する質問をぶつけてきた。特に、エリック・クラプトンを知っているかどうか聞いたのである。ここにいたって共通の基盤を見出したと感じたチャンドラーは、クラプトンに紹介することをヘンドリックスに約束したばかりか、クラプトンも少なくとも彼の技量には感心するだろうとまで言い切ったのだった。(略)

チャンドラーとマクヴェイはふたりとも、ジミの用心深いオプティミズムに注目していた。(略)ヘンドリックスは歓喜に舞い上がるどころか、自身の感情を抑制し、機材が不十分であることへの懸念や(略)

自分の声についてチャンドラーに釘を刺すことも忘れなかった。簡単に言えば、自分が「歌えない」ことを伝えたのだ。だが、チャンドラーとしては引き下がるわけにはいかなかった。(略)

 プロデュースしたいと思えるアーティストをようやく手中にしたチャンドラーは、自身のプランを実行しようと躍起になっていた。(略)

[ジミ]自身はチャンドラーの申し出をクールに受け止めていたのだった。「ここじゃロクなことがないから、(イギリスに)行ったほうがいいかなってとこだったよ」と後に当時の気分を振り返っている。

(略)

パスポートを取得するには、出生証明を手に入れないとどうにもならなかったんですが、当局によれば、そんな人物は生まれていないというんです。(略)[結局]証明書はあるにはあったんですが、ジョン・アレン・ヘンドリックスという姓名で登録されていたんです。父親が兵役に出ている間に母親がつけた名前ですよ」

(略)

[フライト中にまたも不安を訴えだしたジミのために、チャンドラーは友人のズート・マネー宅をアポなし訪問]

マネーが強くせがんだこともあって、ヘンドリックスはこのフラットで、彼のビッグ・ロール・バンドに混じってジャムった(このバンドのメンバーには、後にポリスを結成する若き日のアンディ・サマーズも含まれていた)。三時間近くブルースの古典や当時ヒットしたソウル・ナンバーを演奏するうちに、その場に居合わせた者たちのすべてはノックアウトされてしまった。

 その後、ふたりでロンドンに向かう道すがら、チャンドラーはヘンドリックスが安堵していることを感じ取っていた。

人柄、SF趣味

 当初は物静かで痛々しいほど内気だったヘンドリックスも、機転の早さとユーモアのセンスを徐々に表わしつつあった。チャスはこう語っている。

「今日、彼について流布している伝説といえは.悲劇的人物といった類いのものばかりでしょう。私の記憶しているジミは、いつも微笑をたたえていましたよ。いつもふたりで大笑いしていたんですから。ジミに関して悲劇的なことといったらただひとつ、彼の死だけです。生前は大変に懐が深かったし、一緒にいて本当に楽しい男だったんですよ。」

(略)

チャンドラーとの同居は、ヘンドリックスの作る歌詞や詩にもはっきりと影響を及ぼし始めていた。ジミは、チャンドラーのSF趣味にたちまちハマってしまったのである。チャンドラーは語る。

 「家には何十冊もSFの本がありました。ジミが最初に読んだのは『アース・アバイズ』でした。『フラッシュ・ゴードン』みたいなタイプの作品ではなくて、世界に終末が訪れ、新しい世界が生まれるという、天変地異ものの話ですよ。読み始めたと思ったら、全部読み終えてましたね。“Third Stone From The Sun”とか“Up From The Skies”なんかは、あの本から生まれたんです。彼が詞を作って、私がなんとかして少しばかりごまかすっていう調子でしたよ」

(略)

「何日もぶっつづけでリスクで遊んだものです。(略)

[グラハム・ナッシュ談]「ジミはリスクに関しては名人だったし――モノポリーにしてもばかにできない腕だったよ!」

LSD、カミングスの詩

[“Purple Haze”ができたのはドラッグ洗礼前だったとチャンドラーはLSD影響説を否定]

[まだ]自身の精神性を表明することにさほど自信を持てなかったヘンドリックスは、「紫のけむり、イエスは救ってくれる」といったフレーズに関して、あまりにひとりよがりだという理由で削っていた。

(略)

数年後、長期間にわたるエレクトリック・レディ・スタジオの建設中に、ヘンドリックスはこのスタジオの責任者となるジム・マーロンを相手に、詩人のe・e・カミングスヘの憧れを語っている。ヘンドリックスも彼の作品を飽くことなく読むというほどではなかったのだが、カミングスの詩のスタイルやエキゾティックな心象、自由な色彩の使い方が彼の心の琴線に触れたのである。

作戦

「ジミと私はよく夜中にむっくり起き上がっては、見出しになるためには誰を怒らせるべきか、思いめぐらせていたものですよ」――チャス・チャンドラー

“Like A Rolling Stone”

[チャス談]

「私はいつだって、“Like A Rolling Stone”のスタジオ・ヴァージョンを手がけたいと考えつづけてたんです。何度かやってみたことはあるんですが、どういうわけか、ミッチがタイムをうまくキープできないんですよ。(略)

どうしてあの曲に頭を悩ませたかといえば、私がグリニッチ・ヴィレッジのカフェ・ホワァ?でヘンドリックスを初めて見たとき、彼が最初に演奏したのは“Hey Joe”でしたが、二曲めは“Like A Rolling Stone”だったんです。そしてジミの歌を聴いているうちに、あの歌詞がどんなことを言おうとしているのか、初めてわかったんですよ。私はディランのファンだったんですが、彼が“Like A Rolling Stone”を書いた時点から彼に対する熱が冷め始めていたんです。ディランの曲がうまく飲み込めないというのは、あの曲が初めてでしたね。そんなわけであの曲をレコーディングしたいとふたりとも思っていたんですが、とうとううまくいきませんでした。何度も何度も頑張ってみたんですが」

ブルースの衰退とモータウン

 ヘンドリックスが愛してやまなかったブルース・ミュージックは、人気の面では確実に衰退の道をたどり始めていた。(略)

クロスオーヴァー指向のモータウンの勢いにはたじたじというのが実情だった。(略)

風雪のドサ回りを耐え抜いた多くのミュージシャンと同様、ヘンドリックスも相変わらずブルースを愛するとともに、モータウンに対しては穏やかならざる感情を抱いていた。(略)

 「まあ、ウケるのかも知れないけどさ、俺から見れば作り物だしえらくコマーシャルで、ムチャクチャにエレクトロニックな造りだよね……ソウル・サウンドの代用品って感じなんだ。黒人アーティストの本物の音じゃないんだよ。まるでコマーシャルなもんでさ、こぎれいにまとまってるわけだけど、俺が感じるものなんて何もないよ。まあ、アイズレー・ブラザーズは別だけど。彼らだけはね。あとはフォー・トップスあたりかな。あのレーベルがやってることといったら、どえらくハードなビートを盛り込むってことだろ――ほら、千人もの連中がタンバリンやらベルやらぶっ叩いて、ホーンも千人、ヴァイオリンも千人てな具合でさ――それで歌手はどうしてるかって言ったら、百万回もオーヴァーダブをやらかしたり、なんだかんだと装置がくっついてるエコー・チェンバーで歌ったりでね。なんでそんな作り物にするんだって感じだよ。ビートも最高だし、聴き心地もいいし、若い連中にも売れまくる。だけど、ソウルとしては代用品――俺ならモータウンのことはそう呼ぶね」

 ヘンドリックスは「Red House」で、今日的なブルースを創りたいと考えていた。

  • 悪徳マネージャー

ジミを食い物にしたマイケル・ジェフリーはエジプト従軍中、カイロで二日遅れの英字新聞を仕入れ故郷のニュースに飢えた同僚達に一部2ドルで売って週に8千ドル稼ぎ、その儲けでニューカッスルでクラブ・ア・ゴー・ゴーを開いた。そこで知り合ったアニマルズのマネージャーに。

 アニマルズの歴史を通じて、ジェフリーは常にこのグループの収入を隠匿し(略)

海外に設けたタックス・シェルター、隠れ投資、現金取り引きといった手口が、彼の創造力に富む心をとりこにしていたのだ。アニマルズは彼にとっての実験台だった。(略)ヤメタという会社は彼の創造力の産物であり(略)

ジェフリーは再三にわたり、アーティストが稼いでくれるピークといったら二年程度の期間しかないということをヒルマンに口を酸っぱくして言い聞かせていた。

(略)

ヘンドリックスも、ミッチェルもレディングも契約書にサインすることはなかった。レコーディングやマネージメント、出版に関してヤメタと独占契約を給んでいる以上、彼らにはサインする必要がなかったのである。(略)

ヤメタは著作権使用料として、返却する必要のない四万ドルという前払い金にありついた。著作権使用料の配分としては、合衆国内で発売されるすべてのレコードの小売り価格の10%、さらにはカナダで発売されるあらゆるレコード及びテープの売り上げがもたらすワーナー・ブラザースの純利益の50%が転がり込むことになっていた。そのうえヤメタは合意事項のなかで、「あらゆるマスター・テープを独占的かつ永続的に所有する権利」まで保持していた。(略)

ワーナーから支払われた四万ドルのうち八千ドルがヘンドリックスに渡された。ジェフリー、そしてとりわけチャンドラー――ポケット・マネーでヘンドリックスのために莫大な費用を肩替わりした人物――は、残りの三万二千ドルで当初つぎ込んだ費用を補てんしたのだった。

モンタレー・ポップ・フェスティバル

 ヘンドリックスは、リハーサルの最中に昔馴染みと遭遇していた。バディ・マイルスである。マイルスもこのときにはエレクトリック・フラッグのドラマーに収まっていたが、ふたりが初めて会ったのはマイルスが16歳の頃で、当時のマイルスはモントリオールで、ルビー&ザ・ロマンティックスのメンバーだった。そしてヘンドリックスは、アイズレー・ブラザーズの前座を務めるI・B・スペシャルズの一員としてこの町にやって来たのだった。ふたりはここで急速に親交を深めていった。

(略)

コイン・トスに負けたヘンドリックスは椅子に飛び上がり、ザ・フーの後で演奏しなければならないのならありとあらゆる手段を駆使してやると宣言した。(略)

もうもうたるスモークが充満するなか、ロジャー・ダルトリーはマイクを宙に舞わせ、ピート・タウンゼンドはギターを叩きつけ始め、まもなくキース・ムーンはドラム・セットを蹴りつけ破壊したのである。スモークと、破壊されたアンプが発するノイズが満ちるなか、ザ・フーは、仰天したモンタレーの「ピース・ラヴ&フラワーズ」を奉じる観客の熱狂的な喝采を浴びながら、ゆうゆうとステージを下りていった。(略)

ジミ・ヘンドリックスも、ザ・フーの狂騒的なステージを見逃しはしていなかった。(略)

ハンドペインティングをほどこした自分のストラトキャスターを犠牲にすることを即座に決意していた。(略)

 派手な音とともに「Foxy Lady」が終了すると、ヘンドリックスはマイクに歩み寄り、観客に向かって、「ちゃんと仕事ができるように」少しだけ時間をくれと大胆にも要求する。そしてベストとスカーフを脱ぎながら、ヘンドリックスは観客の気分をさらに和らげている。ピンクのスカーフを手にしたまま、「やっぱり……似合わないよね。素直にならなきゃな」と、うまい言い抜けをしているのだ。ジョニー・アリデイや、自分がバックを務めたR&Bの古つわものたちから学んだどおり、照れたようなユーモアは群衆をリラックスさせてくれるのである。

 このヘンドリックスの科白は、次の曲にうってつけだった。ディランの「Like A Rolling Stone」を堂々とアレンジしてみせたヴァージョンである。またしても、ヘンドリックスは完璧に時宜を得た曲を選んでいた。ディランの影響力はビートルズに等しく、ローリング・ストーンズを上回るほどにモンタレーの観客に浸透していた。

(略)

ヘンドリックスは床を転げ回り、あらん限りの力でアンプを揺さぶり、体の前面で強烈な攻撃を加えるべく、アンプの縁に立ちはだかる。(略)そのサウンドは、ザ・フーのピート・タウンゼンドがギターを叩きつけていた際には聞くことのできなかった不気味な音楽的クオリティをたたえていた。タウンゼンドの場合、アクションは乱暴に見えた。唇をきっと結び、怒りに顔をひきつらせた彼にとって、楽器を破壊することは演奏のしめくくりだった。ヘンドリックスのアクションは明らかに性的だったし、たえまなく腰をグラインドさせ、舌を動かしてアピールするそのステージぶりは、モンタレーの観客をあ然とさせていた。

 レディングとミッチェルが狂ったようにプレイをつづけるなか、ヘンドリックスはアンプの前に戻り、ロンソンのライター用オイルの缶をつかんだ。

次回に続く。


[関連記事]

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2016-09-27 磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義・その3 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義

作者: 磯崎新, 藤森照信

メーカー/出版社: 六耀社

発売日: 2016/08

|本| Amazon.co.jp

蟇股

藤森 (略)蟇股などのように、日本建築の中には、大工の腕前まかせでつくるしかない部分があるんですよね。たとえば窓でいうと、猪目という数寄屋で好まれる窓がある。(略)大江さんは、ここを見るとそいつの腕前がわかるって言っていました。その気で見ると、近代の蟇股は江戸時代のものとは大分違う。(略)

磯崎 (略)宇治上神社拝殿の蟇股がいいですね。(略)絶妙という感じで、何とも言えないんですよ。異様に扁平で細いんですね。だから、木造の軽みがあって。(略)それが、江戸時代くらいになるとデコラティブになって、鬼の顔のようなデザインになっちゃうわけですよ。神社にはもともと蟇股はなかったですね。

藤森 そうですね。もともと神社にはなくて、お寺でいちばん有名なものでは、法隆寺の人字形の割束がありますね。この人字形を、「明治神宮」では二重にしています。

磯崎 下手がこんなことをやると腕の悪さがバレちゃう。

藤森 たとえば、村野藤吾さんと黒川紀章さんの猪目を比べると、村野さんがどれくらい自由曲線をちゃんと描ける人かということがわかります。黒川さんは下手です。結局、二十世紀の建築教育って歴史主義とは違って、幾何学的構成はやっても自由曲線についてはトレーニングしないんですよ。自由曲線はその人の腕だけで原理がないうえ、訓練もしていない。一方で歴史主義の建築家達は、建築全体が自由曲線で成り立っているようなもので、村野さんは渡辺節さんに鍛えられた。大江さんと村野さんとで神社をやりあったら面白い対決になっていたでしょうね。

(略)

[村野さんは]学生時代は表現派とかモダンな建築が好きで、渡辺節さんの事務所に入ってヨーロッパの歴史主義を描かされたときには、毎日、翌日はやめようかと思っていたらしい。朝から晩まで曲線を描かされて、直されて。だけど結果的に、そこでの経験で彼はヨーロッパの歴史主義がもっていた、材料を使い分けるだとか、曲線と直線を組み合わすといったことを身につけた。

吉阪隆正、今和次郎、バッラク、消費の原理、肥溜め、残骸

磯崎 [55年の「吉阪自邸」は]レンガがやっとまわりにできたくらいのときで、床もコンクリートのままの状態でした。バラックに住むというよりは、骨組みができたという状態で、夏はマットの上にゴザを敷いて蚊帳を吊って寝ていたそうです。いわばコルビュジエのいう床と柱だけのドミノ・システムを実行して、それに最初に住み込んだということになるわけですね。(略)骨組みだけでまだトイレがなかったから、[二人の息子には]コンクリートのスラブの上から立ち小便をさせていたそうです。

(略)

藤森 僕は吉阪さんのことを今和次郎さんのお弟子として知っていましたが、変わった人だなくらいにしか思ってなかった。しかし、四十五歳で初めて設計をしたとき、歴史主義でも、モダニズムでもやるわけにもいかない。完全に行き詰まったときに、吉阪さんが学生時代に満州方面へ行ったときの文章を読んで、救われました。

 僕の場合、歴史家としてやると歴史主義になるし、批評家としてやると下手な現代建築家になる。それだけは嫌だった。吉阪さんの言葉に触発されて、建築界の目とか、いろいろ考えずに自分がやりたいものをやりなさい、というふうに文章が読めたんです。でも、そのときはまだ、あのスケッチは見ていなかった。泥の家の入口に棒が立って、布がドア代わりというスケッチです。

(略)

コルビュジエが荒々しくて原始的だけれど、あれだけの完成度でやるでしょ。吉阪さんは初期の作を見ても、二十世紀とは違うところに目がいっている感じがあります。磯崎さんが言われた、「そこで立ち小便すればいい」という、原始性と始原性を肯定する建築家はいない。それが僕にとって、いちばんの興味です。彼は自邸の段階ではまだ、コルビュジエのピロティーとフレームでちゃんとやることを守っているんだけど、それがどんどん変になっていきます。変というか、独特の世界へいく。

(略)

磯崎さんが若い頃、一歩間違えばそっちへいったかもしれないネオダダの人達は、破滅的方向へと突き進む。世界中で芸術を否定する運動が起こっていた。とにかく二十世紀の欧米のアーティストは芸術を否定するんだけど、自分自身のことは否定しない。芸術を否定する自分、というのは最後まで保持して、成功すると偉い芸術家になる。

 ところが日本の前衛は、芸術の否定と自己破滅が一緒になる。フォンタナは画面に穴を開ける。そうやって生涯穴を開け続けて、美術史に作家として名を残した。だけど磯崎さんが先ほど言われたネオダダのグループは、トタン板に硫酸をかけて斧で穴を開けて自滅していくわけです。

磯崎 そしてゴミになって残らない。

藤森 僕は吉阪さんにもその要素があると思った。(略)建築家は実務があるから自滅はしないんだけれど、想像力としては相当危険な崖っぷちから飛んでしまいますよね。(略)戦災後のバラックに住んでいて、その後自邸をつくり始め、骨組みの状態で蚊帳を吊って住んでいた。結局僕にとっては、そういう吉阪さんの姿勢が救いだった。たとえば僕が設計を始めたときには、歴史的なことはやっちゃいけないとわかっていた。かといってモダンなことは他の建築家がやり尽くしている。おまけに磯崎さんなんか、建築の消滅みたいなことを言う。伊東豊雄さんなんかは今でもこのことについては怒るからね。建築は終わるって本気で思ったって。自分が建築をさあやろうとしているときに、兄貴がもうお前らこの領域は終わりだぞって言うんだからね。

 本当にどうしていいかわからなかったときに、吉阪さんの、底だと思ったところの下にもう一つの世界があるという感じがすごく救いだった。

(略)

今さんは民家の研究家で知られているけど、それだけじゃなくて、世界の建築家で最初にバラックに本気で興味をもった人です。何もない焼け野原で、あり合わせのものを運んで来て、人が家をつくるという、その原始状態への関心なんです。

(略)

 今さんは自分のことを「湿地をばかり選んで匍い歩くカタツブリのように妙なアンテナが発達し、角の先端指の先きに眼の玉が出来」と自己規定し、分離派や大正派の文化人に向かって、「陽当りに闘歩している読者はどうか私のようなみっともない運命に堕ちないように、立派な公認文化のうちに生活をば築いて」、と今さん一流のタンカを切って、去る。

磯崎 その離れ方が、歴史家藤森照信が正統的モダニズムの歴史学からずれていった、その契機とどう重なっていくか。路上観察の活動はゴミ拾いと同じですね。ゴミは美じゃない。それを拾ってきて、これを美と言う。これは一九八〇年代の日本の建築的、都市的思考に大きなインパクトを与えたわけですよ。これが今さんの大正時代の回心というか、明治以降の国家的近代化路線を回転するようないろいろなものと繋がっているのか。(略)

藤森 (略)今さんについてもう一つ大事なことがある。二十世紀の建築理論は、生産と工場を基本にする。コルビュジエも住宅を住むための機械と言った。二十世紀の生産と工場は大量生産、大量消費。バウハウスも生産工場の論理です。世界中の建築界の誰も気づかなかったんだけど、物を百つくったら、百売らないといけない。それで、売るときの空間が生産・工場の空間では売れないんです。それでは社会主義の商店になってしまう。まったく反対の原理でストリートの空間をつくらないといけない。多種で賑やかで、チャラチャラしないといけない、でも、そこは誰も考えなかった。

磯崎 それは一九二〇年代の大正の頃の話ですね。

藤森 そうです。分離派の人は相変わらず生産の原理で考えていたけれど、今さんは消費の原理に注目していた。つくるほうと売るほうとの都市的原理が反対であるというととに今さん以外気づいていない。今さんは普通に人が暮らしている町の問題に初めて興味をもった。そればかりでなく、今さんは柳田國男に連れられて民間調査に最初に行くんだけど、そのときのスケッチを見ると、肥溜めをちゃんと描いている。柳田國男の民家調査は、日本人の心の底に溜まっている考え方を探ろうとしていた。今さんは肥溜めとか、さりげなくみんながつくったようなものにも関心をもっていて、それが吉阪さんに流れていったんだと思う。吉阪さんはコルビュジエのもとで学びながら、途中から変なところへいってしまう。建築や芸術の崖から飛んでしまう。

磯崎 前川さん、坂倉さんなんかは、建築家が設計をやるということは一つの社会をつくっていく、社会的に建築をつくっていくことがミッションだと思っている。ところが、吉阪さんの受け取り方というのは、ミッションなんてもはやない。ミッションが崩壊して意味がなくなったところから、デブリ、つまり、残骸、破片こそが美だということを逆転して感知しているんだな。考えてみたら、僕らの戦争の焼跡を見た世代から言えば、その通りですよっていう印象です。

(略)

原爆の跡というのは地上にあったものの残骸自体も溶けているんですね。都市自体が消滅しているのだけれども、それは単純にまっさらになるんじゃなくて、そういう溶解状態ですよ。(略)

今さんはそれにのめり込んだというところが、他の建築家と違うところだな。

藤森 のめり込んで、帰ってこなかった。

磯崎 もうこれは帰れないんですよ。さっき言った九州派のアスファルト建築家も帰ってこられないんです。結局、大半がヒッピーに流れる。そして、菊畑茂久馬だけがちょっと正気で、いまではユネスコの世界記億遺産になっている。炭鉱の記録を見つけてきたんです。ネオダダの風倉匠にいたってはマゾヒスティックに自分の身休まで痛めつけているんだから。自分の体にアイロンあててそれがまた、じゅーっといって、煙が出ているところを僕らは見せられているんです。

藤森 その時代に磯崎さんは、心の底で廃墟を抱えながらも、生産の論理でずっといくわけですよね。


考現学入門 (ちくま文庫)

作者: 今和次郎, 藤森照信

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ウィアード・アーキテクチュア

ウィアード(weirdo宅)とは、要するに普通じゃない異様なかたちが生まれてくるということですね。こういうものを生み出したいという欲望みたいなのが、やっぱり片方にあったと思う。透明で直角でというピュアな建築に対して、反対の極限みたいなやつをつくりたいという欲望がやはりあるんですよ。

 原爆の後とか、震災の後というのは、そういうような状態がマイナス側に大量に一挙に出現する。(略)すべてが変形しているわけですね。これがやっぱり何とも言いがたい魅力なんですよ。

藤森 創造力の自由。

磯崎 そうです、その極限ですね。この自由な欲望を禁止しようとしているのが、今のゆるキャラとか「みんなの家」とかなんですよ。欲望を拒絶して抑圧して禁止しているんですね。それで成立しているものだから、まったく歯ごたえがない。(略)

神戸や東北の災害(略)の後に、隈研吾さんが「負ける建築」、伊東豊雄さんが「みんなの家」を世に出しているんです。隈さんの「負ける建築」も一九九五年の阪神淡路大震災の後ですから。(略)

その二人が、NHKのドキュメンタリー番組「プロフェッショナル仕事の流儀」で、今話題の建築家なんて言って特集される建築家なんですから。その二人が世の中で話題になっているんだとするならば、僕は二人がこういう人為を超える巨大自然災害を見ちゃったせいだと思うんです。とすると、僕の場合は原爆の焼け野原を見ちゃったせい、今和次郎は関東大震災を見たせいだと言える。

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「らしい」建築批判 新国立競技場、伊東豊雄 - 本と奇妙な煙

2016-09-25 磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義

作者: 磯崎新, 藤森照信

メーカー/出版社: 六耀社

発売日: 2016/08

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坂倉準三、スメラ学塾

磯崎 まだその時代(五〇年代)は、スメラ学塾について語ることもはばかれていた。坂倉さんのところでスメラ学塾が開かれていたことなど、ひそひそ話で僕らは聞いていた。つまり、坂倉さんは日本主義に転向した人であって、戦犯なのだというくらいの印象を最初は受けましたね。大東亜共栄圏なんて語るのもおぞましかった。(略)

藤森 坂倉さんが建築界では最も右傾化して、海軍と組み、かつ、「シュメールクラブ」(スメラ塾)という右翼グループをつくっていたということも、戦中の話も、何となく伝わってきていたんですね。

磯崎 (略)建築界においては転向論はあまりに込み入っていて、誰も触らなかった。思想的に回心したのは、最若年の丹下、浜口ぐらいで、その上の世代の国際的モダニズムの洗礼を受けてしまった人達は元来、思想的に思考なんてしていなくて、流行ぐらいに思い、折衷的にこなしていたのではないですかね。だから、戦後になって、一様に口を閉ざしていた。建築村は一心同体で内部告発をするにも手がかりさえない。(略)

[文化学園創立者、西村伊作は自伝で]

私のユリの夫、板倉は友人たちといっしょになって「スメラ」という団体を作っていた。スメラというのは、近東に昔、スメル人種というのがあって、それは人間が発生してから間もなく日本に来て住んだ、そして、日本というのは非常にいい国であるから、そこでスメル人が定住した。だから日本の天皇はすめら命であると、彼らは言っていた。その連中の中に仲小路という学者がいて、いろいろな信仰的な理想を理論化して説いていた。その人の説を信じてスメラの連中は一種の誇大妄想狂であった。(西村伊作『我に益あり』紀元社、昭和三五年)

(略)

純粋日本主義に凝り固まったと言われたスメラ学会は天皇さえも相対化してしまう世界主義だったとみえるんだけど、おそらく戦争中はかなり危険視された存在だったと言われていますね。スメル人を祖にする仮説は出口王仁三郎の著書にも出てくる。日本・ユダヤ同祖人説も別派をなしている。(略)

坂倉さんが奥さんの西村ユリさんと最初に住んだのが仲小路家のサロンの二階だったそうです。そして、そこで娘の(木田)三保さんが生まれているわけです。そこの離れに住んだのがイタリア料理店のキャンティのオーナーになった川添紫郎。彼はパリで有名なピアニスト原智恵子と一緒になった。このカップルがその離れに住んでいた。これはもちろん全員スメラ学塾のメンバーなんです。

(略)

三木清はドイツから帰国して、言論界の寵児になる。当時のニューアカですね。近衛内閣の思想的バックとなった「昭和研究会」なんかにも関わる。

 その三木清が京都から追われて東京に来た頃は、小島威彦が世話をして研究会なんかを組織したらしい。その彼がスメラ学塾をつくる。

(略)

[小島は]戦後はハイデッガー研究者としての一面があったのですが、戦争中はスメラ学普及、組織活動をやっている。スメラ学塾の講演会をしているうちに特高警察に捕まって一年くらいぶちこまれたりするんです。(略)

小島威彦は坂倉事務所では海軍へこのシステムを売り込む営業担当をやっていたらしく、出所後に坂倉事務所に戻り、日本中の木材業者を集めて軍用に開発したプレファブ住宅を組み立て始めた。そういう一種の企業家的組織については目先が利いているわけですよ。(略)

[戦後その組織力と行動力を発揮し社交クラブをつくる]

政財界の重要人物がパージされて社会的に活動できなくなった。三十代くらいのまだチンピラだった実業家達が、ばーっと表社会に浮かんでくる。こういう新しいジェネレーションの実業家と文化人を組み合わせる発想ですね。関西倶楽部というのをつくります。そして、その倶楽部を坂倉さんが設計します。彼はその後、今度は東京に経済同友会的な性格をもつ関東倶楽部をつくる。小島威彦はその役員、坂倉準三は倶楽部御用達の建築家というわけ。そこに関西では松下幸之助、東京では東急の五島昇、それから小田急の利光鶴松といった人達が倶楽部のメンバーになる。

パリ万博日本館設計

磯崎 (略)[もともとは、歴史主義の前田健二郎の和風の屋根だったのを]

図面調整を理由にして、坂倉さんが最初から設計し直したと僕は理解しています。

 その当時、[パリ万博でのスターリンとムッソリーニへの売り込みに失敗し]コルビュジエはまったく仕事がなかった。(略)空いている製図版が何台でもあるわけ。だから、うちでやれよというようなことを言って、坂倉さんに場所を提供したのだと思います。それで、他の連中が坂倉さんにああやれ、こうやれと言って焚き付けていたんじゃないかと。坂倉さんは、それならいっそのこと、全面的に改案して、コルビュジエ事務所のスタイルでいっちまえ、とデザインした日本館が名作になった。

(略)

藤森 日本の大使館は屋根のついてないような建物は日本的でないから、建築部門の賞に応募するなって言って応募しなかったが、審査委員会のオーギュスト・ペレが(略)坂倉さんの日本館をグランプリに選んだ。ペレはコルビュジエの先生です。(略)

坂倉さんはパリ万博の日本館について、フランク・ロイド・ライトから怒られたって言うんです。なぜお前は屋根をつけなかったんだと言って。ライトの考えていた屋根というのは、前田健二郎の屋根とは違って、ライトの「ロビー邸」のような屋根のことと思いますが。(略)

コルビュジエ、ライトとくればあとはミースです。ミースは日本館に影響を受けたにちがいない。

磯崎 ライトはコルビュジエが嫌いだったんですよ。コルビュジエが会いたいと言っても、ライトはアポイントメントを入れさせなかったと言われています。一方で、ミースのことは評価しています。

(略)

藤森 日本館は木造の考え方をもとにして鉄骨造をつくっているから、フレームをつくって間にスッキリとガラスを入れるんです。(略)

[ミースは]おそらく日本館を見て、柱梁のフレームにガラスをぽんと入れるということが美学として成立することを知ったんだろうと思います。それでシカゴヘ渡って自分の作品でも実践したんじゃないか。ただ、坂倉さん自身は自分のやっているすごいことに、気づいていなかったんじゃないかと思います。

磯崎 その納まりを、坂倉さんはどこで学んだのかな。

(略)

藤森 確かに日本館は、日本の木造の柱構造の美学をそのまま鉄骨造に移せることを見事に実践した例だと思います。ただ、板倉さんが自覚的でなかったことが問題なんです。

(略)

日本の伝統をどうするかという、独自の課題に取り組むことで、日本のモダニズムは本当にモダニズムの思想と美を体得した、と思います。(略)それがあったから、丹下さんが戦後だーっと走り出せたんだと思います。坂倉さん、前川さん、レーモンドが土台になっていたんです。だけど、丹下さんばかりしか、みんなの目に映らない。(略)

世界も、今はレーモンドを知っている人はまずいない。坂倉さんのパリ万博の日本館も、前川さんも知られていません。欧米に比べて建築家への注目が低い国だからしかたがない。日本の社会の中では、水面の上に一輪だけ丹下健三という蓮の花が見えるわけだけど、その下には、葉もあれば茎も蓮根もあることを知ってほしい。

白井晟一

磯崎 「浮雲」は、バラックみたいな温泉宿の部分的な増築をしたものですね。(略)

白井さんの設計は、設計者の立場から見ると理屈に合わない。和様折衷とも違うシュールリアリスティックな接合というか、白井さんが自分で詳細な図面を引くというよりは、当時は大工にいちいち直に指示を出してつくっていたんでしょうね。白井さんはおそらく「浮雲」に居候していたんでしょうから。

(略)

藤森 白井さんが戦前に初めて本格的につくった「歓帰荘」(略)[ドイツから]帰国して本気でつくった最初の建築で、簡単に言えば白井さんの愛人の家です。(略)

白井さんは「浮雲」のときのように、白石館に長逗留して、その一画に「歓帰荘」をつくっている。その間に、女将さんと関係したとして訴えられ、女将さんは姦通罪で旅館を追放されてしまった。この女将さんはあまりに有能で(略)堤康次郎に拾われ、彼女は最後には堤系の伊豆方面の三つくらいの旅館とホテルの総支配者になった。

磯崎 まるで、高台寺の和久傳と同じストーリーじゃないですか。(略)

和久傳の先代の女将は、白井さんと最後に一緒になった人ですよ。白井さんの最後の作品「雲伴居」の女将さん。あの人は高台寺で旅館をやっていた。そこで白井さんが長逗留しているうちに、彼女がころりと白井さんに惚れてしまった。そこで「雲伴居」をつくりましょうということになった。

(略)

藤森 建築史上に落ち着く場所がないんですよ。縄文とロマネスクとチューダーとモダニズムの要素をそれもバラバラに組み合わせてしまうんですから。

(略)

磯崎 (略)「浮雲」という旅館の名前は、恋人であった林芙美子さんとの関わりがあったんじゃないかという説が一つあり、さらに「浮雲」の旅館の女主人とも同じ関係にあったから、あの仕事ができたという説もあるんですね。もうこの話の時点で何人も女性の影があって、どんどん増えていくわけですよ。(略)

藤森 白井さんの風貌は独特ですよね。インテリ界の杉良太郎というか。梅沢富美男というか。(略)

雨の日に白井さんが突然やって来る。雨の中、傘もささず、レインコートを着て、フランス人と同じようにフランスパンをそのままポケットに突っ込んで(略)そんな姿を見せられると、女の人は陶然として言う通りになる。(略)

磯崎 同じような気分で白井さんを叙述しているのは林芙美子ですね。林さんの小説の中に友達の若い建築家というのが出てくるんですが、その後ろ姿が描かれている。パリで彼女と別れて駅に向かって行く。(略)その後ろ姿の描写が今、藤森さんの言った感じとそっくりなんですよ。

(略)

戦前のものでは、僕は中央公論社の社長の家が燃えたという伝説だけは知っています。僕は中央公論社の人からいろいろ話を聞いたんですが、家のオープンのときに暖炉に火をつけたら建物まで全部燃えちゃった。これは白井さんがいかに素人かっていう証明だよ、というんですね。

藤森 暖炉の火が茅葺きに移ったんだ。

建築は芸術扱いされていなかった

藤森 (略)[地下化した共産党が隠れ蓑として芸術運動をコントロールしようとNAPFをつくり]

新興建築家連盟結成のバックにいた。それを潰したのは佐野利器です。(略)そのあたりの事情を知っていたのは岸田日出刀さんですが最後まで語らなかった。(略)

佐野さんの立場に立つと、佐野さんは、内務省の中で、内田祥三に託して同潤会をつくり、貧しい人達の住宅を供給している。俺のやっている方法が正しく、お前らの革命をやろうってのは間違っていると思っている。新興建築家連盟が潰れて何が起こったかと言うと、今泉、梅田穣の創宇社系は、地下に潜っていく。帝国大学系の山田、谷口、土浦、前川などは、社会主義路線を捨てて、リベラル左派に変わり、バウハウスを範に日本工作文化連盟を結成する。

(略)

ここで重要なのは、思想の取り締りをやっている国の側に、表現としての建築への興味がなかったことです。軍国主義日本は、美術、演劇、映画、演劇、文学、音楽、運動の七つの分野の表現者を連れて第二次世界大戦の思想戦、文化戦を戦った。そこに建築は入ってなかった。

(略)

日本とヨーロッパを比較するときに注意しなければいけないのは、日本という国が建築を表現だと見なしていない問題です。ヒットラーがモダニズムは許さないと言って、古代ギリシャ、ローマを基本にしろと言ったようなことを日本の政治家は考えない。だから、戦争が煮詰まった段階でも建築表現はまったく関係なかった。

磯崎 つまり、実用物で、イデオロギーとは無関係のテクノロジーの産物と見ていたというわけですね。国体だけが保持できれば、どんなデザインでも受け入れる。

大江宏

藤森 大江さんに、なぜ数寄屋をやらないのかと直接聞いたことがある。そしたら、あんなもの建築家がやるものじゃないって言われた。(略)神社や、書院造の設計はするけれど、数寄屋はやらないというところに、建築家として矜持をもたれていたんではないかと思います。

 岸田日出刀達、つまり大江さんの先生の世代が伝統に目覚めるわけです。伝統とモダンには接点があると。それで実際に丹下、大江世代はその中を生きる。みんな学生時代から伝統建築を見て回っていた。丹下さんの方法は明快で、伝統建築のかたちの真似はしないけれど、構成はどんどん学ぶという路線でいく。かたちについても、木造の柱梁を打ち放しコンクリートに読み変えることで大きな成果を挙げていく。それが大筋です。磯崎さん達は、その世代の尻に付いて始めるわけです。

磯崎 大江さんと丹下さんはしょっちゅう一緒にいましたね。(略)岸田さんが怖くて仕方がないという感じで、常に師の影から一歩、いや十歩は下がらないといけないというくらいの感じなんですよ。逆に僕らの世代は岸田さんが退官された頃に学生だったので、ちょっと飲みに行こうと誘われてお供をするような状態だったんです。

藤森 孫扱いですね。

磯崎 お酒の席ですから、僕らもいろいろと勝手な口をたたくわけですよ。それを見ていた大江さんは、何かの会のときに、お前らジェネレーションはもってのほかだ、大先生に対する礼儀を知らない。(略)と叱られました。

(略)

藤森 (略)大江さんが文部省に入ったのは、お父さんの関係でしょう。(略)大江新太郎は、伊東忠太と一緒に内務省で神社をずっとつくり続け、晩年は、大江国風建築塾を家でやっていた。だから当然大江宏さんは、神社系の人達がお父さんと一緒に神社について勉強したり設計したりする様子を日常的に見ていたわけで。バウハウスでもコルビュジエでもない、当時としては、珍しい経歴です。この「国史館」の計画案では伝統とモダニズムを混ぜた不思議なイメージでやっている。

サバイバル建築とリバイバル建築

藤森 結局、大江さんはアスプルンドから始まって「乃木神社」などの神社にまでいくわけですが、考えてみれば日本の伝統建築って、法隆寺以来サバイバルをして今までずっと生き延びている。今でも、神社の関係者や宮大工が伝えてつくっている。

 一方で、日本の伝統建築で、近代になって、サバイバルでなくリバイバルしたものは意外と少ない。リバイバルとは、一度消えたものをまったく新しい観点でもう一度学んでそれを再生することです。ルネサンスの時代にもサバイバルしているものはある。たとえば、英国のゴシックはずっとサバイバルしていて、田舎へ行くとゴシック的な建築を今でもつくり続けているんです。日本の建築家で、伝統のリバイバルをやったのは、大江さんだけかもしれない。ちゃんとモダンも知りながら、自分の好みや同時代の動きを知っていて、でも俺は神社をちゃんとやるぞというのが大江さんです。リバイバルの人だからサバイバルと違う。だから意識的に数寄屋と茶室はやらない。俺は社寺と住宅では書院造という正統だけをやるというわけです。

 逆に言うと、建築家達が伝統建築とどう付き合うかは大問題で、丹下さんなんかがそうです。木の柱、梁の構造をコンクリート打ち放しに置き換えるとか、法隆寺の左右非対称で軸線の先には目立つものはないというのが丹下さんの構成。そういう「本質を学ぶ」というやり方はリバイバルでもサバイバルでもない。もう一つ別の論理がある。磯崎さんもそうだし、僕もそうです。伝統や民家も好きだけど、あれから直接もってくるのは嫌だ。

磯崎 とりわけ日本はそうなんだけれども、たとえば建築家が戦争中に大東亜の朝鮮神社、台湾神社などのアジアのさまざまな神社をつくるじゃないですか。そうするとだいたい、靖国神社のスタイルなんです。明治神宮もそうで、あれは伊東忠太さんがやり始めたんですよね。伊東さんの理解で、いわば神社建築のモダニズムのかたちみたいなものが出来上がった。それが一九三〇年代、四〇年代に流行ったけれども、戦後、がたっと崩れて、後は仕方がないから、このていのリバイバルではなくて、修復したり、屋根を葺き替えたり、新築したりしているけれど、すべて権現造とかそこら辺の様式でしょ。徳川の時代までに成立したものを今、再現しているというだけで、藤森さんがおっしゃるように新しいモダニストが神社を設計していないわけですよ。そんな中で大江さんはこれをやったということに、僕は関心があります。

藤森 やっぱりリバイバルは、大江さんが初めてやったんですよ。伊東さんは歴史的様式の建築をやるけれども、あの人の歴史主義はサバイバルなんです。(略)

磯崎 だけど、「平安神宮」はもともと大極殿を模したものだから、神社建築じゃなかった。それを神社にしちゃったという由来がありますね。

藤森 (略)[大江さんの]お父さんは伊東忠太の跡を継ぐ。それで日本の神社建築の多くをやる。お父さんは基本的にはサバイバル的にやってきている。(略)

大江宏さんはお父さんのサバイバルをずっと見ていて、自分はああいうかたちではやらないぞってはっきり意識していたのかもしれない。

次回に続く。


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2016-09-22 戦前建築界の右傾化状況 磯崎新と藤森照信〜 このエントリーを含むブックマーク

戦後語られなかった、戦前戦中「モダニズム」についての磯崎新と藤森照信の対談。その前に、東京大空襲に協力したレーモンドの話。


磯崎新と藤森照信のモダニズム建築談義

作者: 磯崎新, 藤森照信

メーカー/出版社: 六耀社

発売日: 2016/08

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藤森照信 (略)建築界は、日本の建築家が戦中、戦後をどう切り抜けてきたかについて触れません。文学とか演劇とか絵とはそこが違う。しかし、戦争は日本のモダニズムにとって最大の試練でした。

 切り抜け方は単純じゃなくて、あの渦中で何かをあきらめた人もいるし、逆に大事なものを得た人もいるんですよね。得た人の代表は丹下健三だと思うんだけど、ちゃんと明らかにしておかないといけない。

(略)

磯崎新 終戦の年に僕は十四歳でした。三、四年くらい上になると堤清二みたいな人がいる。この人たちは戦前もある程度知っていて、むしろ戦後意識がはっきりしている。建築家でもそのジェネレーションは、戦後いきなり左翼になりますね。でも僕は、まだ下なんです。軍国少年教育を受けたことは確実です。とはいっても日本主義のイデオロギーなんてわからない。気が付いたら、まわりにみんな左翼になってる、そういう時代なわけですよ。(略)

レーモンドは別格でしたが、吉村順三さんも、それから前川國男さん、坂倉準三さん、丹下さんも大江宏さん、白井晟一さん、全員四十代ですよ。(略)

その先生達から僕は習ったわけだよね。でも、戦争前のことは誰もしゃべらないんだよ。(略)

丹下さんは最後までしゃべらなかったね。板倉さんだってしゃべらないしね。うんと晩年に、前川さんあたりが「あの頃の日本はね……」と言うのをちょろっと言われたくらい。他はもう誰も話さないし、聞いたことがないですね。

藤森 しゃべりたくないし、聞けば、何か過去の秘密をつつくような。

(略)

磯崎 [パージされて]四十代はみんな上がいないわけですよ。僕から見ると、僕のちょっと上の世代はほとんどミッシング・ジェネレーションです。つまり戦争でみんな死んでいる。もちろん建築にいけるかどうかなんてわからなくて、目的不明みたいなかたちで挫折したりして、建築とは関係のない世界に行っちゃった人が多い。そうすると僕の前の十年がほとんどいないんですね。いないというか、いるんだけどちょっとタイプが違うんですね。その上が「例の会」に集まっていた丹下さんのジェネレーション。みんな助教授になったばかりの人達。もちろんこの間に大谷幸夫さんとか、もうちょっと上の浅田孝さんあたり。みんな死んでいた可能性もあるでしょ。(略)[浅田は]広島の原爆のあと三〇キロメートルのところにいたんだから。

(略)

藤森 それともう一つは思想的な困難。あの激変をもろに受けると、以後、明るく積極的に生きていくのは難しい。(略)夢なんてもてるかみたいな。周りはみんな死んでいるんですから。浅田さんにはニヒリズムを感じました。静かで控えめだけど、コワい感じがあった。

磯崎 (略)丹下さん達のちょっと上のジェネレーションの建築家達は(略)軍需に関わっていたことはわかるわけ。下の連中は下の連中でいきなり左翼ですから、突き上げていました。浅田さんはその狭間にいた。あの人はだから面白いですね。超ねじれて向こうに突き抜けている。

アントニン・レーモンド

藤森 (略)コンクリートに関しては、レーモンドのほうがコルビュジエに先行していて、世界的に見ると、ペレ、レーモンドの順です。(略)「エラズリス邸案」を一九三三年にレーモンドがパクるわけです。コルビュジエに批判されて、レーモンドはおそらく、お前だって俺のコンクリートから影響を受けただろうと思ったんじゃないか。というのは、ペレが打ち放しをしているのに、コルビュジエはそれに興味をもたず、レーモンドの自邸の後に初めてやろうと思う。

(略)

コルビュジエを思い返しても、柱の太くなった壁みたいなもんです。平らな面で打つということをしない。面で打つということを平気でやったのはレーモンドです。それは、前川さん、丹下さんまでずっと引き継がれて、さらには安藤忠雄までくるわけですよね。(略)

面を平気で使えるということが、戦後の日本のモダニズムを世界の中で際立たせる力の一つになったんじゃないかって思う。

(略)

ルイス・カーンイエール大学で二つ美術館をつくっている。(略)[最初の方の]外壁を見ると打ち放しを全然使ってないんですよ。インテリアの柱には使っています。一方、後のイギリス美術館は柱、梁の打ち放しなんですよ。間にガラスをはめる。あれは丹下さんからの影響だと思っているんですよ。(略)

[カーンは来日して広島平和記念資料館を見て]コンクリートが知的で強靭で美しいものをつくれると気づく。(略)

磯崎 とはいえ、カーンの最初の美術館の天井は手の込んだ立体トラス、円筒形の階段などは打ち放しです。これは柱梁なんかの線材的な型枠とはまったく違う。コンクリートの表現はプラスティシティにあると考えていたのじゃないかな。造型性を重視していたわけです。

藤森 そう考えると、アメリカの構造って基本的に鉄ですからね。鉄のほうが打ち放しより安かったんですって。

磯崎 圧倒的に鉄が安いだけでなく使いやすかった。(略)

藤森 大工の手間を考えると、アメリカは鉄。日本は鉄筋コンクリート。

(略)

磯崎 (略)レーモンドのいちばん面白いところはコンクリートにプラスして、木造でしょ。「夏の家」でもクラブハウスにしても、木造でやっているわけじゃないですか。ただ、その木造のディテールが、日本的なディテールと違う。(略)

藤森 レーモンドは、日本の木造の魅力を日本の現代建築家に教えたのは自分だって言う。モダンな木造のつくりかた、日本の伝統的な木造をどう使えばモダンになるかというのを教えたのは自分だって。吉村さんは無口な人なんだけど、「俺だってレーモンドにたくさん教えたよ」って、ぼそっと言ってました。(略)

[「夏の家」の]面取り柱を独創と言っていいのは、真壁の壁って日本では土でやるもんなんですが、板でやるっていうのは日本人の誰も考えなかった。それはやっぱりレーモンドの中のアメリカの板壁のつくりからきている。

(略)

レーモンドとしては「エラズリス邸」は組積造だから、重苦しくてよくないと。でも基本的なプランのバタフライはすばらしい。自分だったらあれを木造におきかえて見事にやってみせるっていう気持ちでやっていた。すると、コルビュジエがレーモンドがパクったって発表する。レーモンドの自伝には、自分のほうがいかにコルビュジエのものよりすばらしいかを書き送ったって載っている。そうして、コルビュジエが、確かにお前のほうがうまいと言ってよこした長文の手紙の内容が載っています。

(略)

「夏の家」の建物はモダニズムの歴史の中で決定的に大事で、コルビュジエ的造形を木造でできるっていうことを証明した。だから木造モダニズムはここから始まると思っているんです。木造モダニズムって世界で日本にしかありません。だってモダニズムって、鉄とコンクリートでつくるものですから。

 木造モダニズムが、どれだけの豊かさを日本の建築界にもたらしたかをたどると、前川さんの流れでは丹下さんとの「岸記念体育会館」を生む。(略)戦後は池辺陽の「立体最小限住宅」に繋がり、さらに吉村順三の名作木造住宅群を生む。

(略)

レーモンド作品のつくり方でわからなかったことがあるんです。彼は、丸太を半割りにして、柱に抱かせて梁にしているんですよね。「夏の家」もそうだし、オフィスもそうでした。今見てもすばらしいと思います。まず、とても安い材を使用し、合理的な構造で、見た目もなかなかいい。あのつくりは誰が考えたのだろうと、ずっと疑問だった。日本の民家はこういうつくり方はしていないし、ヨーロッパでも見たことがない。

 それが、やっと最近わかったんです。(略)

[武田五一]は仮設の技術をよく知っていて、それにそっくりだそうです。丸太を半割りにして柱を挟んで、昔はボルト締めじゃないから繩で締める。それをレーモンドが見たんですね。ただレーモンドが偉いのは、その仮設建築で使われていた方法を本建築までもってきたところです。(略)

江戸時代の頃は、こういった半割り丸太の梁を、手挟みと呼んでいた。レーモンドはこの方法で、合理的で軽くて、すばらしい表現をやってみせるんだけど、さらに言うと、数寄屋や書院、社寺建築のようにならないかたちで、木造建築をちゃんとつくってみせるということを、「夏の家」でやった。

(略)

藤森 両方[レーモンドとコルビュジエ]ともオーギュスト・ペレの影響を受けた。

磯崎 オーギュスト・ペレは、伝統的な柱(カラム)をコンクリートで置き換えていますが、シカゴ派のルイス・サリバンは最初から鉄骨のフレームです。それをル・コルビュジエとミースがそれぞれ受け継いで、コンクリートを可塑的なシェルにまで繋がる側から、徹底して格子状の空間へと展開させたのではないでしょうか。

東京大空襲に協力したレーモンド

藤森 レーモンドは大変な功績を残した人です。日本のコルビュジエ派は、レーモンド、前川、丹下、磯崎とずっと受け継がれてくる。ただ戦後になると、レーモンドヘの批判がいっぱいある。その一つは、“お前が東京を空襲で焼いただろ”という批判です。東京空襲はレーモンドなしにはあり得なかったことを、相当早いうちから日本の建築家は知っていた。たとえば、高山英華さんのように都市防空を担当した人は、レーモンドに対して怒りがあったわけです。(略)

レーモンドは自伝に事情を書いています。日本の軍国主義を終わらせたいと思ったから自分は米軍に協力したということなんです。具体的には、一九四三年、ユタ州の砂漠のダグウェイ試爆場に実験のため、レーモンドの技術指導で日本の木造の広大な下町を再現した。(略)[それにより木造家屋には火だと気づき]焼夷弾の実験をやった。(略)

[東京を焼こうと思った、自伝には書いてない理由、それは彼がユダヤ人だったから]

彼の自伝を読むと、何人もの兄弟はアウシュビッツ収容所で死んでいる。(略)

 以前、僕がレーモンドはユダヤ人だと書いたら、秘書から、とてもユダヤ人だったとは思えないと抗議されたことがありました。だから、言わないようにしていたんです。レーモンドの調査のためにチェコに四回行ったんだけれど、四回目に行ったときに聞いたら、向こうの人が嬉しそうに[レーモンド展の]パンフレットを見せてくれた。(略)展覧会のタイトルが「あるユダヤ人一家の生涯」というんですよ。(略)

レーモンドが一九三七年に日本を去る、その前年に日独防共協定が結ばれています。(略)

 もう一つ、レーモンドのことでわかったことがあって、米国で名前を変えているんです。英語のまま読むと、ライマンというのが、チェコ時代の姓なんです。

 数年前、プラハのテレビ局が取材で来たんですが、彼らが、なぜレーモンドがプラハを去ったのか、その事情を教えてくれた。チェコには、チェコきっての有名なチェコ工科大学があり、建築学科がある。そこの建築学生クラブが貧しい学生のために、毎年奨学金を集めるためのパーティーをやるんだそうです。そのパーティーの経理をレーモンドが担当して、翌日金庫と共に消えた。そのお金でレーモンドは米国に行ったわけです。(略)

もちろん国際手配がかかったけど、アメリカでは捕まらなかった。(略)

日本に来たのは、国際手配を逃れるためだった可能性がある。で、どうやってケリをつけたかというと、日本で捕まり、自分が盗んだお金を倍にして日本から返して許されたそうです。

右傾化する建築界

[磯崎との雑談の中で前川國男が]

「戦争中に、あいつら[浜口隆一と丹下健三]は俺を突き上げるんだよ」と。(略)

[前川は日本建築界のリーダーだ、自分達はその弟子だ]今や時勢がそういうようになっているにもかかわらず、はっきりした態度表明をしていないのは何たることかと前川さんを突き上げたそうです。そのときに前川さんは、俺はすでに「新日本建築様式」的なことはやっているんだよ、単に屋根をかけることが日本建築じゃないというように言ったんだそうです。じゃあどういうのが日本のデザインなんだとさらに聞かれて、そのときに前川さんが例えに出したのは巡洋艦だったと思います。(略)[古鷹、青葉などの]軍艦のデザインが日本的なユニークさなんだと言われた。丹下さんが一九四二年の大東亜建設記念営造計画設計競技で一等に入選した前後の頃かな。(略)

[真珠湾攻撃で日本が熱狂する最中]一九四二年の春に丹下さんが、アメリカや英国を無視して日本建築をやるべきだという例の大東亜共栄圏の論文を書いた(略)

冷静になってる連中は、建築界にもいて、今泉善一です。当時、共産党の赤色ギャング事件で捕まって、刑務所に入れられていた彼は、世間の皆がおかしくなっちゃってびっくりしたって。(略)[13年刑務所にいて、敗戦直前出所]前川さんが拾ってくれたんですね。

(略)

そこまでにいたる前川さんの道のりを述べると、大きい転機となったのが一九三〇年の新興建築家連盟創設です。これは共産党がバックアップして進めていた。ところが、結成大会直後に読売新聞が赤の巣窟と報じたことで、連盟は一挙に崩壊する。崩壊後、二手に分かれる。共産党の秘密の党員だったグループと、前川さん、谷口吉郎さん、岸田さんなどのリベラリストでモダニストのグループ。(略)

モダニストは、当時ドイツもそうでしたけど、バウハウスと共産主義は深く繋がっていた。それがバウハウスの場合は、ヒットラーの登場で潰される。ある人物はロシアに逃げる。ある人物はアメリカに逃げる。残る人もいた。日本でも同じことが起こって、日本は亡命はしないけれど、共産党系の人達はもう、地下に潜る方向へいくしかない。(略)

そのとき、前川さん達は、心の傷をもつわけです。転向意識をもつ。モダニズムは社会を変える強い大きな力としてそれまで考え、それを実践する自分には正義がある、と信じてきたのに(略)社会は捨てデザインだけでいく。

(略)

左翼からリベラルに移っても、モダニズムをあくまで主張したのが、一九三一年の帝室博物館(現・東京国立博物館)のコンペです。あれは正面から立ち向かっている。

磯崎 だけど、前川さんはイデオロギーとしてやったというのではなくて、「負ければ賊軍」というくらいの科白を言うわけです。この前川さんの科白は、なかなか効いていますよ。勝ったら勝ち組、コンペに落ちたから賊だと言われている。この捨て台詞みたいな言葉は、そのときの前川さんになかなか根性があったということを、みんなに見せたと思うんですね。

藤森 それから右傾化まで時間がありまして。十年近くリベラリズムのままですね。

(略)

磯崎 (略)立原道造が丹下さん達の一年前に卒業して、一年間石本建築事務所にいました。一年過ぎて夏になって、胸が悪くなり長期休暇をとるんですよ。そして、彼が旅行に出たときに会いに行ったのが、深沢紅子さん。彼女が岩手にいるので、そこまで行って、そこで堀辰雄論を書くんですね。(略)

内容は、ここで堀辰雄と縁を切りたいと、ほとんどそういうふうに読める。堀辰雄に、せっかくあなたにここまでついてきたけれど、もう無理だというようなことを彼流に微妙に細かく書いているんですね。(略)後に堀辰雄に、そうは言ったけれどもと、信従することのアンビバレンスを弁解する手紙を書いている。そしてそのときに、岩手から同級生の一人に、浜口さんと丹下さんの住所を聞いているんです。堀辰雄と絶縁して文学的に自分のステップを踏んでいく。死ぬ直前ですから。そのぎりぎりのところで、今度は丹下さんにあの回心を促す手紙を書くわけなんです。(略)

僕の考えでは、立原さんはこれまでのヒューマニズム、モダニズムのラインではだめで、日本共同体っていうようなものに全身を預けることによって変えるべきだと。丹下さんがそれをやれるというように彼は踏んだんではないかと思います。

(略)

藤森 丹下さんに日本浪曼派のことは、さすがに躊躇があって僕からは聞けなかったんだけれど、戦前の話をしているときに、向こうからおっしゃったんです。日本浪曼派を読んで、「何か自分の気持ちを開いてくれるんだ」と思ったって。

磯崎 それを聞いたのは、藤森さんが初めてですよ。僕らのときは、日本浪曼派なんて言っちゃいけない。それをもし丹下さんがひと言でも言ったら、宮内嘉久とか中高己(佐々木宏のペンネーム)とかが総攻撃をしようと待ち構えているわけです。そういうテンションがありましたね。

藤森 僕は、孫世代の歴史家だから。(略)

でも、立原、丹下、前川っていうのが面白いですよね。いちばん敏感なのは詩人。それに建築が続いていって、根っからのモダニストでリベラリストの前川さんがやっと真珠湾で動く……。

磯崎 だけど、そのときでも屋根などはつけない。空間だよなんて言っている。

(略)

開戦直後の社会的熱狂が連盟のメンバーをゆすります。岸田さんは汲み取り便所の使用法なんかをエッセイにしてふてくされます。堀口さんは茶室研究と称して関西の茶庭を渡り歩く、要領よく立ち回れたのは谷口吉郎さんで、早くからコルビュジエ批判をやって転向していたので、ベルリンでシュペーアに会ったりしている。前川さんだけは鈍かった。

 僕の感じで言うと、前川さんの独特なリアリズム思考が常に時代と向き合わざるを得なかったとみえます。テクノロジーだったら形だけど、リアリズムだからその時代にしっかりベーシックとなるようなものと繋ごうと考えている。丹下さんはもうそこはすっぽかしているわけですよ。形式主義にもっていくわけなんです。前川さんは形式主義ではありません。

藤森 そこが先ほどの日本のモダンデザインとしては巡洋艦があるじゃないか、に繋がるわけですね。

磯崎 このあたりの事例は、同じく熱狂の最中に書かれた坂口安吾の『日本文化私説』に出てきます。彼は小菅刑務所とドライアイスエ場と軍艦が同じように美しいと述べています。必要性だけでデザインされて妙に付加されたものが一切ないと。僕は「新即物主義的思考(ノイエ・ザッハリッヒカイト)のエッセンス」が語られていると理解したのですが、前川さんはその気分を伝えたかったんじゃないでしょうかね。政治的なものを超えて、それはテクノロジーの美学で、一九三〇年以降、体制の如何を問わず、たとえば、ロドチェンコのグラフィック、ナチ親衛隊のヘルメット、フーバーダム、ロンドン動物園のペンギン池、日本の軍艦、そのデザイン表現は、新即物主義である点で、共通していました。丹下さんはこのロジックをあえて逆転させたのです。(略)

丹下さんは、美しきもののみ機能的であると言って、言葉をひっくり返すじゃないですか。あれは明らかに前川さんのテクノロジカル・アプローチに対抗した発言ですよね。前川さんは機能的なものこそ美しいという、モダニズムの正統派ですね。

(略)

藤森 生産力理論を進めるにあたり、政府の中に企画院ができ(略)企画院事件を起こした。生産力理論が計画経済になり、それが経済界から総スカンをくって、一つの事件になり、大勢の政府内の人が追放された。岸信介はその中心人物です。

磯崎 みんな満州に行かされる。

藤森 この企画院の流れが、戦後に復活するかたちで経済安定本部になり、さらに戦後復興を上から進める経済企画庁になる。丹下さんは、その経済安定本部と密着しています。だから、丹下さんが戦後になってから、高度成長の時代に経済論、社会論で依拠するロストウの理論は、そこに根がある。

次回に続く。


私と日本建築 (SD選書 17)

作者: A.レーモンド

メーカー/出版社: 鹿島出版会

発売日: 1967/06/01

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2016-09-19 内容見本にみる出版昭和史 紀田順一郎 このエントリーを含むブックマーク


内容見本にみる出版昭和史 (活字倶楽部)

作者: 紀田順一郎

メーカー/出版社: 本の雑誌社

発売日: 1992/05

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『日本児童文庫』と『小学生全集』のデスマッチ

[北原白秋の弟・鉄雄の出版社「アルス」が『日本児童文庫』を企画、東京朝日新聞に五段抜きで広告を出したが]

その広告のすぐ下に同じく五段のスペースで興文社と文藝春秋社の共同出版として菊池寛・芥川龍之介責任編集による『小学生全集』全八十巻を刊行するとあったものだから、たちまち大騒ぎとなった。現在なら単なる類似企画として済んだであろうが、前述のように当時は児童ものの企画自体がめずらしかったので、「さては」と白秋側が思ったのは無理もない。どうやら、広告代理店に双方の事情に通じる者がいて、企画を洩らしたということのようだ。菊池側にも漠然とした案はあったのだが、白秋側の動きにあわてて、とりあえず全集名だけの広告を打ったのだろう。その証拠に菊池側の広告はいかにも速成という感じで、細目の発表も一ヵ月近く遅れた。

(略)

[アルスは提訴し、白秋は新聞に「満天下の正義に訴う」という四千字の広告を出した]

「(略)何が児童への愛でありますか。何が人間としての愛でありますか。何が日本民族の徳性でありますか。

 児童よ、悪より守れ。児童よ、私は叫ぶ。私は熱涙滂沱としているのだ。誰が誰が、この日本のこの可憐な児童を自己の物的我執と営利慾の犠牲とし、堕獄せしめつつあるか。

 邪悪であります。陋であります。曲であります。ああ、寧ろ残虐であります。怒ったのです。私は怒ったのです。怒らずにはいられないのです。

 菊池寛何者であります。寛の芸術何ほどであります。何の勢力が彼の過分至極の声名をいつまでも保持し得られましょうか。かの常に金力の豊富と偉大とを盲信し呼号する興文社が何でありますか」

(略)

 これに対して菊池は三日後、「待て!而して見よ 満天下の正義をして苦笑せしむる勿れ」という広告の中で、つぎのように軽くいなしたにとどまった。

「天馬にも比すべき芸術家が、御令弟の出版事業に熱狂して自分に喰ってかゝっていられることは、非常に気の毒です。……正義とか芸術とか文教とか、そんな高飛車な物云いを、あんな時にするものではありません。少くとも一商人である令弟を防禦するときに使うべき言葉ではないでしょう」

 係争は七月末に示談、八月上旬に不起訴となったが、この紛争は双方とも四、五十万円(現在の十二億〜十五億円)もの広告代をドブに捨てたようなもので、アルスは翌年あえなく倒産、興文社も前後して姿を消した。企画だけの文藝春秋社は無傷だった。芥川龍之介は全集がスタートして二カ月後に自殺したが、当初は白秋と菊池との板挟みになったのではないかという噂も流れた。直接の原因ではなかったろうが、彼を厭世の念に駆り立てた一要因であったことは否定しがたい。

『現代大衆文学全集』

大正から昭和初期にかけての大衆小説といえば髷もの(時代小説)と通俗現代小説が中心だった。当時の人気作家江戸川乱歩などは探偵小説を大衆文学に分類されることに不満だったし、中里介山は自らの『大菩薩峠』を「大衆文学ではない、大乗文学だ」と主張していた。いずれにせよ、この“大衆文学”という名称を考えだしたのは白井喬二である。

 円本ブームの昭和初年、そのころ新興出版社だった平凡社の下中弥三郎は、大衆文学をもって戦線に加わろうと、当時「報知新聞」の連載『富士に立つ影』で人気絶頂の白井喬二に『現代大衆文学全集』の編集を依頼した。白井は日ごろ提唱の大衆文学普及の好機到来と二つ返事で快諾(略)「失敗の時は筆を折って故山に骨を埋める覚悟を固めた」(略)

 内容見本にはまた「高級常識の教科書」「笑い囁きながらも処世の常識生活必須の知識を会得さする国民常識教科書であります」という表現も見られる。(略)大衆文学の普及にあたっては実利性、大衆教化性を売りものにする必要があったことを示すもので、講談社の出版哲学(面白くて為になる)とも軌を一にするものだった。(略)

[これに対抗し新潮社は『現代長篇小説全集』]「幾ら面白くても、近頃流行の剣劇髷物のようなものだと、余り殺伐過ぎたり、筋の運びが乱暴であったりして、優れた芸術品でないばかりか、往々悪い影響を及ぼさないとも限りません」と“文芸ものの老舗”としての見識を示すふりをしながら新参の平凡社にジャブをくれた。

(略)

円本ブームが過去のものとなった昭和十年、初の女流作家の全集として『古屋信子全集』全十二巻(新潮社)が出ている(略)

 『三聯花』という作品については「道のほとりの公衆電話で垣間見しが縁となった二人の処女、更に通り合せた一人の処女との三つ花に聯る人生現実の相」などとあり、第一巻配本の『女の友情』の惹句には「処女も主婦も青年も紳士もこの書の出るのをどんなに待たれていたことか?」という具合に“処女”が連発されている。当時の処女や貞操という語の響きには、昨今の放送禁止用語などとは比較にならぬ衝撃性があったことを知るのである。

『漱石全集』

 いまから見ておどろくべきは校正担当者の報酬の安さで、森田草平が月額三十円、内田百閒が同じく月額十円にすぎなかった。今日の水準に換算すると、草平がせいぜい六万円、百閒がわずか二万円台ということにしかならない。あるとき、その十円を前借したら岩波が小切手でよこしたということを、百閒が憤慨して書いている。むろん、土地価格をはじめ物価の安い時代ではあったが、戦前の出版物がおよそ円本にせよ辞典にせよ、知的ルンペンプロレタリアートの労働価格の安さの上に成立していたことを忘れてはなるまい。

(略)

 推薦文といっても各人各様で(略)漱石本の装禎でも知られる画家の津田青楓などは、夏目家の風呂にあるじといっしょに入った思い出を記している。漱石は湯舟から頭だけ出して女房難をかこち、「西洋の偉い哲学者も生涯女房に苦るしめられたと云う話」をしたが、風呂からあがるさい、青楓が放っておいた石鹸箱を漱石がていねいに掃除してから出たのには、ふだん無頓着な人と思っていたので非常に意外な気がしたとある。恐妻のゆえだったかどうか、興味あるところである。

古典

[戦後]海外のほうはフランスであろうがドイツであろうが、あるいは戦前軽視していたアメリカであろうが、旧訳まで引っ張りだしての出版合戦を展開したものだが、自国の古典となると神憑りの戦時中の反動から、だれ一人見向きもせず、神田神保町あたりでは国文の注釈書や『古事類苑』などの資料が均一台に放り出してある始末だった。ようやく古典ものに目が向くようになるのは、昭和三十年代に入ってからである。

 同じような状況が、じつは明治初期にも存在した。旧習一新、文明開化の時代とあって、近世以前の古典などは弊履のごとく打ち捨てられ、錦絵などは反古同然の扱いを受けた。ようやく人々が古典に回帰したのは、帝国憲法が発布され、ナショナリズムの昂揚ムードが支配しはじめた二十年代の半ばくらいからで、このころ淡島寒月を介して西鶴の存在を知った尾崎紅葉が、古典再評価の口火を切ったことはよく知られている。

『鴎外全集』

荷風としては従来鴎外を称揚してきた面目を保つことができ、大満悦だったに相違ないが、親潮社が一枚噛んできたことに強いこだわりを示しているについては理由があった。鴎外の死にあたって雑誌「新潮」が「生前イヤな奴で死後もイヤな奴がある。……鴎外だのがそれだ。……翻訳こそしたが彼の仕事が文壇に取ってどれだけ意義あるものかは疑わしい」という無署名記事(筆者、中村武羅夫)を掲げたからである。いまでこそ鴎外は大文豪だが、当時の文壇人からは敬して遠ざけられるという傾向があり、葬儀に参列した文壇人はわずかに「十四五人のみ」(『断腸亭日乗』)という寂しさであった。その意味で中村武羅夫の記事は、文壇の空気を伝えたものにすぎないといえようが、烈火のごとく怒った荷風は「今後新潮社へは一切執筆を拒否すること、および新潮社に関係する文士輩とは、誰彼の別なく、かの『新潮』の記事を是認しているものとして、たとえ席を同じくしても言語を交えない」という反駁文を認(したた)めた。

 中村は鴎外の官吏臭や権威主義的な一面を嫌ったのであろうし、一方の荷風は“坊主憎けりゃ”のたぐいで、一作家の些細な悪口を出版社ぐるみの陰謀であるかのようにいきり立った。もともと極端に組織的な仕事のきらいな荷風が生涯でただ一度他人の全集に肩入れした動機は、鴎外への傾倒の念に発することはいうまでもないが、このような「新潮」への強い反感がバネになったこともたしかである。

『世界古典文学全集』全五十巻

 内容は『ホメーロス』『詩経国風 書経』『ヴェーダ ウパニシャッド』からはじまって『ルソー』『ゲーテ』にいたる。『聖書』『禅家語録』『タキトウス』などという巻もあるが、アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデス、アリストパネス、杜甫、シェイクスピアなどについては全作品を収録しているので、これだけでも従来の文学全集とは発想がちがう。

(略)

[推薦文は]三島由紀夫のものがいかにもそれらしい。「もし小説家志望の少年に会ったら、私はまずこの全集の通読をすすめようと思う。……ヘナヘナしたモダンな思いつきの独創性なんか、この鉄壁によってはねかえされてしまうのを知るだろう。その絶望からしか、現代の文学も亦、はじまらぬことに気づくだろう。一般読者には実はこの全集をすすめたくない。古典の面白さを一度味わったら、現代文学なんかおかしくて読めなくなる危険があるから」

『世界推理小説全集』 文壇人と推理小説

 「ハヤカワ・ミステリ」の成功を横目に見て、ひそかに期するところがあったのは、いうまでもなく東京創元社である。(略)『世界推理小説全集』第一期二十八巻の刊行を開始した。(略)

[内容見本]表紙に「花森安治装幀」「文学の香高い名訳 作家・評論家による処女訳多数」と謳った点がミソで、これが意外に時代の気分とマッチした。そもそも創元社が推理小説に着目した動機は、同社に縁の深い小林秀雄、大岡昇平、吉田健一ら文壇人がこぞって推理小説好きであったことによる。(略)

 内容見本には乱歩、大岡昇平の監修のことばのほか、小泉信三、椎名麟三の推薦の辞が載っているが、それより興味深いのは書目で、当初収録予定であった『奇巌城』(福永武彦訳)が途中で『矢の家』に変更になったり(略)

後年『矢の家』が福永訳ということで古書マニアの収集対象となったことも特筆さるべきであろう。ガードナーなどが林房雄訳ということでどれだけ“文学性”が高まったかは知らぬが、とかく話題の多い全集であった。

 忘れてはならないことは、この『世界推理小説全集』が“推理小説”という呼称そのものの普及に功のあったこと。戦後「探偵」の「偵」の字が当用漢字から外されたさい、木々高太郎が「推理小説」という名称を創案、自らの監修する『推理小説叢書』に用いたが、あまり普及しなかった。木々の主張する推理小説=文学論が性急に過ぎて、昭和初期を中心とする猟奇通俗小説の線上で探偵ものに親しんできた従来の読者の賛同を得ることが難しかったのである。そこへ古い衣を思い切り新しい衣装にくるんだ推理小説シリーズが誕生した。今日でいえばCIその他のイメージアップ作戦に該当するであろう。旧套のマニア(鬼と自称した)にとっては、“探偵本”につきものの禍々しさ、いかがわしさがキレイに染み抜きされ、高度成長期直前の戦後教養主義によって色あげられたようなこの全集は、まったく興味の対象外でしかなかったろうが、新しいエンターテインメントを志向する中間読者層からは歓迎された

(略)

国産の推理小説全集は春陽堂の『日本探偵小説全集』があるが、重量感のあるものとしては河出書房の『探偵小説名作全集』全十一巻が最初であろう。乱歩を筆頭に小酒井不木、甲賀三郎、横溝正史から戦後は高木彬光までの本格派の系譜を重視した選定で、蒼井雄の『船富家の惨劇』が収録されたのが話題になった。大井広介あたりが選者になっていることは、刊行のことばに「探偵小説を支える理念は市民社会の正義であり、……独裁国家には栄えない」などとあることからもわかる。荒正人の推薦の辞に「『船富家の惨劇』など、戦争の最中に、大井広介の邸で、終りの部分を閉じて犯人あてを夢中になって愉しんだものだ」とあるが、戦後の一時期に文壇の愛好家たちが犯人あてに熱中したり、警察庁や場末のバーなどの見学を行ったりしているのは、今日のミステリーのあり方からは考えられないことで、坂口安吾や福永武彦の推理作品もこのような状況から生まれたのである。

『岩波英和辞典』

『岩波英和辞典』の初版が出たのは昭和十一年(略)辞典が完成したとき、島村盛助は田中に「君はこの七年間じつに苦労したが、どんな辛いときでも、決してただの一度も私ににがい顔を見せたことはなかった。これだけはなかなか出来ないことだ」賞賛した。

 それもそのはず、田中菊雄は英語=人生、人生=英語ともいうべき存在であった。明治二十六年、北海道は小樽の貧しい家に生まれ、高等小学校の卒業さえ待てずに列車給仕となり、勤務の間を縫って苦学をした。(略)

『オクスフォード英語辞典』に準拠し、語源を重視するのが最大の特色だが、これは田中が最初の赴任先である広島中学で、初講義にさいして生徒のいやがらせの質問に備え、第一課に出る二百の単語のすべてについて、徹夜で語源を調べあげた経験に発したもので、以後彼は人一倍語源に関心をいだくことになったという。

(略)

昭和四十九年に出た『小学館ランダムハウス英和大辞典』全四巻で、これまで研究社の独占だった大辞典の分野に、英語の辞書とはまったく無縁だった小学館が“殴りこみ”をかけたことで注目を浴びた。

 題名からは単なる翻訳と見られかねないこの辞書だが(略)

激動する現時点に立って、全く新しい観点から『米国における国語辞典』と『日本における英和辞典』との合体を企図し、今その成果を世に問おうとするものであります」ということになる。

 もっとも、この“合体”がそう簡単に実現したと恩ったら間違いで、当初ランダムハウス社の編集長は「原典に対していささかの変更も認めない」という強硬な態度だった。そこで、英語を母国語としている欧米人と、それを外国語としている日本人の立場の相違、文化的背景の相違などを縷々説明、やっとの思いで承諾をとりつけることができたという。(略)

「7年の歳月、300万ドルの巨費が投じられた世界でも屈指の大辞典」「人間と機械の偉大なる協力 4台のコンピュータを編集に駆使」……。当時、日本ではまだ辞書編纂にコンピューターは使用されていなかったので、このコピーはかなり目を惹いたと思われる。(略)

 小学館の企画は一種の快挙で、アカデミックな辞書づくりをしてきた既存勢力には衝撃であった。その理由は安井稔の推薦文に明らかである。「従来の英和辞典は、しばしば、いかにすれば既存の特定辞典に似すぎた姿にならないかということに腐心してきた。小学館ランダムハウス英和大辞典は、いかにして既存の特定辞典に心置きなく似せることができるかということを基本的な目標としている。……われわれは、これによって、真に大辞典の名にふさわしい英和辞典をはじめて手にすることになるであろう。歴史に残る偉業の成功を心から祈りたいと思う」。これは皮肉でも何でもなく、英和辞書の置かれた位置について率直に述べたにすぎない。

2016-09-16 慰霊と招魂―靖国の思想 村上重良 このエントリーを含むブックマーク


慰霊と招魂―靖国の思想 (岩波新書)

作者: 村上重良

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 1974/09/28

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靖国の思想

大老の暗殺と攘夷の実力行動の続発に危機感を深めた幕府は、総力を傾注して反幕分子の掃滅を図り、それにたいして尊攘派は自己防衛と報復のテロで反撃した。幕府倒壊前夜の数年間、日本をおおったこの政治的極限状況は、悽惨な流血で満たされており、倒幕、佐幕の両勢力のあいだには、報復と憎悪の念がみなぎっていた。靖国の思想は、こういう歴史上の特異な一時期に普及した国事殉難者の招魂の思想を原型として形成された。(略)

 桜田門外の変を契機として攻守所を変えた尊攘派は、公武合体の進行とともに大獄の刑死者をはじめ自派の犠牲者の名誉回復に乗りだした。

(略)

 明治維新に先立つこと六年のこの時点で、倒幕派は自派に忠誠を尽した犠牲者すべての名誉回復と顕彰を、国家的規模で企図するにいたったのである。[長州藩の内請で孝明天皇が下した勅文を受け、幕府は尊攘派囚人を赦免、墓をつくることを許した。](略)

 天皇によって、尊攘派の志士の死が、藩を超えた「国事」の殉難者として位置づけられたことは、現に身命を賭して苦闘している倒幕運動の担い手たちを感奮させた。志士たちは、京都に在る現実の天皇を、しばしば「玉」と称して、大義名分を言いたてるための政治的道具と見なしていたが、志士草莽の徒を死地に赴かせた情熱の根源は、理念のなかにのみ存在する「天皇」そのものへの絶対的忠誠という狂熱的な信念であった。

 孝明天皇による国事殉難者の招魂弔祭の下命にこたえて、各地の志士たちのあいだで、殉難した先人の招魂祭がさかんに提唱され、挙行されるようになった。

長州藩の招魂場が護国神社の源流

 下関の対外戦争から、蛤門の変、第一次長州征伐の内戦と、うちつづく戦争で戦死者が続出した長州藩では、戦役者を手あつく葬り、祭祀を営む施設を設ける必要が生じたのである。(略)

はげしい内戦を経た藩士のあいだでは、藩主への忠誠は、もとよりすべての行動の大義名分ではあったが、すでに藩への帰属意識を超えた天皇への忠誠と、天皇中心の国家という意識が広がっていた。とくに、自力で外国連合軍と戦った攘夷戦と、幕府軍との軍事的対決の経験は、封建的境界を乗りこえた国家の意識を高揚させた。吉田松陰が説いた(略)「国事」の意識は、倒幕前夜の長州藩内では、現実のたたかいで裏づけられた行動原理にまで高められていた。

(略)

 長州藩は、幕末に招魂場(のち招魂社)を設けた唯一の藩であり、その数は、明治維新までに(略)16社に達した。こうして長州藩の招魂場は、全国の招魂社(のち護国神社)の源流となった。

東京招魂社創建

[1869年諸藩主の版籍奉還が続き]新政府の政治的基盤は、一年余の短期間で着実に固まってきたが、前年12月、蝦夷地全域を制圧して箱館に共和制の独立政府を樹立した榎本武揚らの旧幕府軍は、活発な外交攻勢を展開して、諸外国の承認をとりつけはじめた。新政府は、北辺の独立国の動向を監視しつつ、討伐の準備をちゃくちゃくと進めた。(略)

[2月事実上の東京遷都を発表、それを機に]政府部内で、東京に招魂社を創建することが提議された。内戦継続中の緊張した雰囲気のなかで、戦没者の招魂は、戦意高揚のためにも、ゆるがせにできない重要事であった(略)

 社地の候補地は、当初、上野が有力で、ほかに赤坂の江戸見坂上も挙げられていた。(略)[大村益次郎は上野の寛永寺、東照宮一帯を考え、木戸の同意も得たが]みずから指揮した彰義隊との戦闘のあともなまなましい上野は、亡魂の地であるとして、ほかに社地をもとめることになった。(略)

[五稜郭が開城し]鳥羽伏見の戦い以来の内戦の天皇軍全戦没者が、あらためて招魂されることになったが、政府は、中央集権の実をあげるために、全戦没者の招魂祭を諸藩にゆだねず、みずからの手で実施する方針をとったのである。

(略)

 東京九段坂上の広大な旧幕府歩兵調練場あとにくりひろげられた招魂祭は、七月一日から三日間の奉納相撲に老若男女郎あつまり、花火があがって、近年にない賑わいとなった。この祭典は、東京奠都、内戦終息後に、新首都の東京ではじめて営まれた一大祭典であり、天皇の新政府に反発する空気が根づよい東京の民心を新政に向かわせるために、ことさら大がかりな祭典が演出されたのであろう。     

神道国教化政策

 政府は、仏教に強圧を加えつつ、神社をもって寺院にとってかわらせて、中央集権的政治支配の末端としての役割を担わせる方針をとった。同時に(略)[西洋文明導入による]キリスト教の進出に、深刻な危機感をいだいていた。政府は、成立当初、幕府の禁教政策を受けついでキリスト教を「邪宗門」として国禁としたが、この禁令は、キリスト教諸国の大公使の抗議によって、キリシタン禁止と邪宗門禁止の二項に書き改められた。しかし政府は、キリスト教を異教、外教とよんで、なお禁教の方針をゆるめなかった。(略)

 政府のキリスト教弾圧は、江戸時代を超える激しさで強行された。(略)長崎近郊の浦上のキリシタン農民3109名が検挙され、津和野藩など西日本の21藩に流刑(略)苦役、教諭、拷問の数年間をおくらねばならなかった。(略)

外国使臣団の知るところとなり、大・公使の抗議が相次いだが、政府は、所行の悪い者を他に移住させたにすぎないと言い抜け、弾圧をつづけた。流刑者を割り当てられた藩のなかには、政府に迎合して残忍な拷問をくりかえした藩もあり(略)

 明治初年の神道国教化政策は、仏教、キリスト教へのきびしい弾圧をはじめ、陰陽道系の天社神道、六十六部、普化宗、修験道の禁止、廃止等の措置を背景に強行された。(略)

全国の神社は、それぞれの歴史的伝統や性格の差異にかかわりなく、天皇と直結する伊勢神宮のもとに中央集権的に再編成された。地縁的な鎮守、土産(うぶすな)、氏神の社も、習合神道系の祭神をまつる宮、社も、現世利益信仰の社司も、特定の人間を祭神とする宮社、宮司、霊廟も、それぞれの個性を無視されて、一括して「神社」とよばれることになり、すべての神社は、天皇崇拝を国民に普及するための国家的公的施設に変質した。伊勢神宮じたいも(略)アマテラシマススメオオミカミを祀る至聖所へと、つくり変えられた。同時に政府は、より直接的に天皇崇拝の普及定着に役立つ新しい性格の神社をつぎつぎに創建していった。

 明治初年の神社の創建は、南朝の「忠臣」を祭神とする諸神社に始まり、つぎに天皇じしんを祭神とする諸神社へと進んでいった。

別格官幣社

[国民教化の一環として楠木正成の]湊川神社をはじめ、「忠臣」を祭神とする神社があらたに創建されると、その社格が問題となった。代表的な忠死者を個人として顕彰するという創建の目的からも、国民にあたえる教育的効果からも、この種の神社は高い社格で遇する必要があり、最高の社格である官幣社が適当とされた。しかし、古来、官幣社には、人間を祭神とした例はなく、しかも、祭神が「臣下」にすぎないという難点があった。これを大中小の官幣社に列格することは、古代以来の神祇制度の伝統からいって、異例にすぎるのである。そこで、別格官幣社という新しい社格が発案され(略)

湊川神社列格の翌年(略)

[家康を祀った東照宮は]幕府の倒壊によって、明治初年にはその存続すら危ぶまれ[たが](略)政府は、徳川家康をあらためて「臣下」として遇する列格をし、東照宮の地位を安定させたのである。同時に政府は、東照宮の宗教的権威を低めるために、明治維新当初から、豊臣秀吉と織田信長を祭神とする神社の創建を計画した。(略)

[信長の]建勲神社列格の翌年には、新田義貞を祀る福井県の藤島神社が別格官幣社に列格

[制定6年で別格官幣社は9社に、東照宮は最下位のランク]

大化の改新の功労者、「逆賊」道鏡皇位「簒奪」をはばんだ模範的忠臣、建武の中興をささえ南朝に殉じた武将たち、衰微した朝儀を復興した近世的統一者たちであり、徳川家康以外は、すべて幕末に尊攘派の志士草莽を熱狂させた歴史上の英雄であった。

西南戦争が契機に

 いっきょに多数の戦没者を出した西南戦争は、東京招魂社の性格を大きく変える契機となった。政府は、天皇にそむく「賊徒」を征討してたおれた西南戦争戦没者のために、招魂社で三日間にわたるかつてない盛大な臨時大祭を行なって、戦没者を合祀し顕彰するとともに、国民のあいだの反政府の気運をおさえ、天皇と国家への忠誠心を盛りあげることにした。(略)

相撲、競馬、射撃、仕掛け花火等が催され、境内は老若男女で埋まり盛況をきわめた。(略)

 この画期的な臨時大祭に、さきの台湾出兵戦没者のさいにつづいて、明治天皇は三回目の参拝を行なったが、以後は、臨時大祭のたびに、天皇の参拝が例となった。天皇の名による戦争で一命を失った戦没者の処遇は、合祀と天皇の参拝で完結することになったのである。

(略)

 東京招魂社は、神社を所管する内務省社寺局の管轄外にあり、神社ではないため、有力な神社[に比べ](略)不備であった。(略)

陸軍省内の意見書が、とくに神官をおくことを強調していたのは、軍の唯一の宗教施設である東京招魂社を、官社なみに強化したいという年来の願望の表明であるとともに、西南戦争を機として、各地の招魂社が相次いで創建整備されるという新しい情勢に促されたものであった。(略)

[1879年東京招魂社は]靖国神社と改称され、別格官幣社に列格された。

靖国神社

招魂社の社名については、かねてから神道家をはじめ関係者のあいだで異論が出ていた。(略)招魂とはもともと天に在る霊魂を一時的に招き降して祭る祭儀をさすことばであるから、その斎場は、祭典ごとにしつらえる招魂場のはずであった、恒久的な施設を意味する社祠ではないというのである。(略)

祭神が永久に鎮祭されている神社の名称としては、ふさわしくないことは明らかであった。そのうえ、全国各地の招魂場が、招魂社の名称に統一された結果、中央の招魂社であり、陸・海軍の唯一の宗教施設である東京招魂社を、社名のうえでも、一般の招魂社と明確に区別する必要があった。

(略)

日本では、古来、「靖国」を熟語として用いたり、「やすくに」と訓ませた例は見られないようである。(略)国を安らかにする意味の「安国」が広く用いられており、改称列格の祭文も「安国」を用いていた。「靖国」の名称は、儒教に通じた神道家の発案であったろうが、あえて歴史的伝統のある「安国」を避けたのは、この語が、「立正安国」の形で、中世以来、日蓮系の仏教宗派の布教で広く普及し、「安国」が寺号、院号にも用いられていることから、仏教色をきらったためと思われる。

(略)

[改称は]この宗教施設そのものの変質を意味していた。招魂社では、いわば忠死者の霊魂が主人公であったが、靖国神社では、「国」がはっきりと前面に出てきた。(略)

個性をつよくとどめていた「忠魂」が、しだいに個性を失って(略)天皇のための死者集団を、均質で無機質の祭神集団に仕立てあげる宗教的装置であった。こうして靖国神社は、無限に祭神が増えつづけ、しかも、どれほど多数の祭神があらたに加わっても、神社そのものの性格にはいささかも変化がないという、神社としてはほかに類例のない特異性をそなえる結果となった。

(略)

 靖国神社は、別格官幣社であるから、その祭神は特定の個人でなければならなかった。(略)

靖国神社では、先例のない一万を超える祭神集団の処理に、新しい方式をつくりだした。祭神を選定する合祀の基準には、客観的には、幕末維新の国事殉難者と、天皇の名による内戦および対外戦争の戦没者等という枠があったが、形式上は、合祀は天皇の意志によるものとされ(略)ひとしく忠良な「臣民」である祭神たちは、生前の位階や功績はさまざまでも、すべて同格であって、そこにはなんらの差別も存在しないはずであった。何万名に増えても、祭神は、まったく平等で、ひとりひとりが主祭神であり(略)一君万民の神社版が、靖国神社の構造の特徴であった。

(略)

合祀のたびに、巻物に新祭神の官位姓名を列記して社殿の内陣に納めてきたが、これを社殿の左右の床に安置して、神体に準ずる扱いをすることになったのである。こうして靖国神社では、実際には個性をほとんど失った祭神集団を祀りながら、祭神の名簿を宗教的に意義づけて副神体に高めることで、特定の個人を祭神とする別格官幣社のたてまえを保持した。

英霊

[1911年の『靖国神社誌』]の序文で、祭神を「英霊」とよんでいることから、日露戦後には、戦没者の霊を英霊と称するようになったことが知られる。英霊は、もともと霊魂の美称であるが、幕末に、水戸藩の藤田東湖が、「文天祥の正気の歌に和す」と題する漢詩で、「英霊いまだかつてほろびず、とこしえに天地の間にあり」とうたい、この漢詩が志士のあいだで愛唱されて以来、広く普及したことばであった。戦没者の霊は、これまで忠魂、忠霊とよばれてきたが、日露戦争を境に、より個性のうすい抽象的な英霊というよびかたが一般化するようになった。

明治神宮

[大正デモクラシーに「臣民」道徳の危機を感じた政府は思想統制を強化、1920年明治神宮を創建]

この造営事業を、明治天皇にたいする国民の崇敬と思慕の念を結集する一大カンパニアとして盛りあげていった。(略)

 靖国神社につづいて東京に出現したこの巨大な神社は、近代天皇制の宗教的モニュメントであった。靖国神社が天皇のための忠死者を顕彰する宗教施設であるのにたいして、宏大森厳な施設をもつ明治神宮は、直接、同時代の天皇、皇后を祭神とすることによって、天皇の神性を国民に示威する役割をはたした。

靖国神社法案

朝鮮における南北の緊張の激化とベトナム戦争の拡大によって、アメリカの極東戦略の一翼を担う自衛隊の陸海空の戦力は加速度的に増強され、日本軍国主義の復活が現実の問題となった。自衛隊と靖国神社、護国神社との結びつきも、時とともに公然化し、1966年7月には、海上自衛隊の将兵160名が、靖国神社に集団で参拝した。この参拝は、個人の自由参拝と称しながら、制服で社頭に整列し、号令でいっせいに拝礼するという、事実上の公式参拝であった。また各地の護国神社の祭典には、地方自治体の首長とともに自衛隊幹部が参列し、自衛隊員が集団で参拝したり、自衛隊の殉職者を、遺族の意志とかかわりなく、護国神社に合祀または併記するなど、護国神社の公的復権のための既成事実がつみ重ねられていった。

 1967年、国民の広範な反対を押しきって、国民の祝日として「建国記念の日」を判定し、記紀神話に発する紀元節の復活を実現した政府・自民党は(略)「靖国神社法案」を発表した。同法案は、靖国神社から宗教性を除去して合憲を装っていたが、遺族会神社本庁等の反対にあって、国会提出は見送られた。(略)

靖国神社の国営化は、いっきょに現実の問題となり、宗教界をはじめ、国民各層のあいだから、反対の声が高まった。(略)

同法案は、第三条で「第一条の戦没者及び国事に殉じた人々は、政令で定める基準に従い、靖国神社の申出に基づいて、内閣総理大臣が決定する」と述べ、事実上の新祭神合祀の決定権を内閣総理大臣にゆだねたが、この条文は、同時に、来たるべき戦争における戦没者の処遇をさだめたものにほかならない。

(略)

自民党は、「靖国神社法案」をとくに重視し、執拗にその成立を企図したが、宗教者をはじめとする国民の広範な反対にあって、そのたびに成立を阻まれた。(略)

[反対請願署名は]1973年には累計約1100万に達し、反対運動は、しだいにその規模を拡大するとともに、質的にも深化した。全国各地で、「町のヤスクニ」として、神社と公共団体との癒着など、信教の自由と政教分離を侵害している身近な事例が摘発され、住民による反対運動が組織されるようになった。

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2016-09-13 日中戦争 古屋哲夫 このエントリーを含むブックマーク

「日中戦争を外側から処理するために、イギリスを圧迫するという政策は、ついにアメリカを敵対的な関係の当事者に」、オイルマッチで火事配信男を見ている気分に。


日中戦争 (岩波新書 黄版 302)

作者: 古屋哲夫

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 1985/05/20

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なぜ「事変」なのか?

当時の政府においても軍部においても、中国に対する宣戦布告が実際に必要だという考え方が主流になったことは一度もないといってよい。そしてそれは、当時の日本の戦争指導者の意識においては、中国に全面戦争を仕かけなくても日本の目標は達成できる、したがって宣戦布告は不必要であり、望ましくもないものととらえられていたことを示すものであった。たとえば、盧溝橋事件当時における陸軍の最強硬派ですらも、中国に対する「一撃」を加えることを主張していたのであって、全面戦争を予想していたわけではなかった。つまり、「支那事変」との呼称が決定された当時には、全面戦争にいたらない軍事的一撃で達成されるはずの戦争目的が考えられていたに違いないのである。

 そしてその「一撃」は、盧溝橋事件を処理するための「一撃」なのであるから、事件処理の過程のなかに、それによって達成される「目的」がかくされていたとみなくてはなるまい。

解決条件としては、現地でさえ十分な調査もしていないこの段階で、事件の責任は中国側にあるときめこみ、中国軍の衝突現場付近からの撤退、中国側責任者の処罰、中国側の謝罪、同種事件の再発を防止する保障などを(略)中国の現地機関に承認させる、というのが、日本側のいう「現地解決」なのである。

 要するに日本側が「現地解決・不拡大」というのは、中国側が、こうした特殊な内容をもつ 「現地解決」を認めれば、事件を拡大しないという条件付不拡大方針なのであり、逆にそれを認めなければ、今まで認めてきたものを拒否するという理屈に合わない「暴戻」な態度であり、うちこらしめ「膺懲」しなければならないという拡大方針に転ずることになるのであった。盧溝橋事件以後の事態が、一見日本側の受け身にみえるのは、そこに、これまで積み重ねてきた侵略方式の保持という側面が存在するからにほかならない。

 要するに、日中戦争がとらえにくいのは、現実には全面戦争へと向う戦争の拡大にあたって、これまでの、現地政権の分離と傀儡化をめざす「現地解決」の成果を確保し、なし崩し的侵略方式を継続するという、いわば全面戦争を回避する形での戦争目的が立てられていたからであった。そしてこの問題が、日中戦争を盧溝橋付近での日本軍への発砲事件に始まると考えたのでは、全く見えなくなることは、もう繰り返すまでもないであろう。

満鉄付属地

[ロシアからの]譲渡を中国側に認めさせた「満州に関する日清条約」では(略)満鉄の利益を保護するため、満鉄と並行する幹線や満鉄の利益を害するような枝線を建設しないことを要求し、これを清国政府の声明として会議録(秘密)に記録させたのであった。(略)日本側の拡張解釈を可能にするような多くのあいまいな部分を含んでいることが特徴であった。たとえば並行線禁止問題にしても、満鉄とどれだけの距離と角度を持つものを禁止すべき並行線とみなすのか、また満鉄の利益を害する枝線とはどのような種類のものを指すか、などについて、具体的な規定はなく、また一度も論議されたこともなかった。(略)

[この]拡張解釈によって、日本側が最大の利益を引き出したのは満鉄付属地であった。(略)

[ポーツマス講和条約には]ロシア政府は「長春・旅順間の鉄道及び其の一切の支線並びに同地方に於て之に付属する一切の権利、特権及び財産」を日本政府に譲渡する、というこれだけの文面しかない。この「一切の権利、特権及び財産」というわずかな文言のなかに、鉄道付属地とその経営権に関する問題もすべて含まれているというわけである。(略)

 つまり、ロシアが付属地の行政権を排他的に掌握していたから日本も同様な行政権を有するはずである(略)

ロシアは鉄道があれば付属地をつけたのだから、日本も、ロシアの権益と関係ない安奉線にも、当然鉄道付属地をつけることができる、というのが日本のやり方であった。実際には条約上の権限の解釈などとは無関係に、ロシアから受けついだ付属地のうえに、日本が獲得した土地をどんどんとつぎ込んで、日本の満鉄付属地がつくられていったのであった。

(略)

信夫淳平著『濁蒙特殊権益論』の表現をかりれば「(略)恰も大蛙を呑んで腹を膨らませた蛇を幾十頭となく繋ぎ合せたような形で、言わば瓢箪形の長大な地積」であった。(略)

このあいまいな根拠の上に築かれた付属地社会のなかに、満州事変前には約20万人の日本人が住みついていたのであった。

満蒙特殊利益論

[第一次世界大戦に参戦したアメリカは極東では日本に妥協的態度を示し、石井・ランシング協定では]

日本の中国における特殊権益を承認するという事態がおこっている。(略)

 しかし同時に、中国の独立と領土保全の尊重と、商工業に対する機会均等主義の支持がうたわれているのであり、それと矛盾しない特殊利益とは何かとなると、首をかしげたくなるが、満州治安維持の要求などは、この公文によりアメリカの支持を得られるものと期待されたことであろう。なお1922年のワシントン会議終了後、アメリカはこの公文の廃案を提議し、日本は、日本の中国における特殊利害関係は、外交文書で明示的に認めると否とにかかわらず存在するとして、廃棄に同意したのであった。

 ともかく、一時的にせよ、特殊利益がアメリカによって承認されたことは、満蒙特殊利益論を日本の世論のなかにも広く根づかせるうえで大きな役割りを果したといえよう。特殊利益、特殊権益、特殊地位などの用語は、その意味内容はあいまいなままに、政界にもジャーナリズムにも広範に普及してゆくようになるのである。

(略)

 ロシア革命で日露協約のパートナー・帝政ロシアを失い、ワシントン会議における太平洋方面に関する四か国条約の成立によって日英同盟を廃棄され、孤立した日本は、もはや二一か条要求にみられるような、露骨な権益要求をもち出すことは不可能になっていた。

 そして第一次大戦後には、そうした情勢の変化に対応して、いわゆる中国本部の問題については列国と協調しながら、満蒙問題はこれと切り離して独自の関係を維持しようとする、新たな方式があみ出されてきた。それは、中国が軍閥割拠のありさまとなり、満州に張作霖軍閥が形成されてきたという条件を基礎とするものであり、関東軍が独自な政治勢力に成長してくるのも、この新たな方式を基礎としてのことであった。

「満蒙」の秩序維持が「自衛に」

[反日化する中国の大衆運動は]民族自決主義の世界的風潮を背景としながら、ロシア革命や朝鮮独立運動と相呼応するような様相を示し(略)[それに対抗し]

満州を反革命的・親日的に安定させることによって、日本に向う革命運動・民族運動の波動を断ち切ろうというわけであり(略)

日本の援助をうけた張作霖が中国中央に進出することは、中国本部に対する列国協調を破壊し、また中央の混乱を満州にもち込むことになると考えられた。

 この中央から離れて、満州の支配を安定・確立せよ、という要求は、やがて「保境安民」という言葉で表現されるようになるのであるが、それが中国から分離された満州というイメージを生み出すことは必然であった。

[しかし張作霖は満州だけでは軍隊を養えず、日本の説得を無視し、たえず中央進出を試み、中央での戦乱が満州に波及するおそれが]

奉天軍敗走の可能性が強く感ぜられるようになると、武器供与の如き段階をこえて、「自衛」の名目のもとに一挙に日本軍隊の出動によって治安を維持するという構想が生み出されてくるのであった。それに用うべき軍隊は、「関東軍」としてまさに現場に存在していた。(略)

「満蒙に於ける秩序の維持」は、日本の同地域に対する利害関係、「朝鮮の統治上」とくに重要視している問題であり、したがって「自衛上必要と認むる場合には機宜の措置」をとる、というのである。いわば中・朝・ソをにらむ戦略高地としてとらえられた「満蒙」の秩序維持は、ついに「自衛」にかかわる問題とされるにいたったのであった。

(略)

[郭松齢軍の反乱で張作霖は半狂乱で下野を決意したが、関東軍が付属地の外側に広大な戦闘禁止区域を設定したことで、復活。郭軍を打破]

 この一連の過程のなかで、関東軍のなかには、満蒙治安維持の主役としての意識が広がっていったにちがいない。関東軍から満蒙政策に関する意見書が次々と出されるようになるのはこれ以後のことである。(略)

 単なる鉄道守備隊であったはずの関東軍が、満蒙治安維持の主役にのしあがってきたとき、日本は、日中戦争への一つの曲がり角を曲がってしまったように思われるのである。

南京政府樹立と「現地保護」

日本で若槻内閣から田中義一内閣への政変がおこなわれていたちょうど同じ頃(略)

蒋介石が反共クーデターによって南京政府を樹立(略)

南京政府軍が徐州に迫ってくると、田中内閣は、山東省に居住する日本人を保護するとの名目で出兵に踏み切ったのであった。

 それは当時「現地保護」と呼ばれたやり方であり(略)[若槻内閣の幣原喜重郎外相]だったら、軍隊を現地へ送るより、在留日本人の方を安全な場所まで引揚げさせたにちがいないと考えられたのである。しかし両者のちがいは、たんに居留民保護の方法というだけの問題ではなく、国民革命全体にどう対応するのかという問題にまで及ぶものであった。

 すなわち、幣原外交の場合には、国民革命によって中国が統一されることは、動かし難い勢いであるとみて、むしろその統一の勢いを支持しながら、その性格を日本にとって望ましい方向に導くことを主眼として政策が進められていた。具体的には、蒋介石の反共政策を支持し(略)日本の満蒙権益を認めさせる(略)

 もちろん反共派の共産派に対する勝利は、田中外交にとっても望ましいことにはちがいなかった。しかし田中外交の場合には、その反共派が主導権を握ったにしても、国民革命軍という軍隊によって、満蒙が外から占領されることを拒否する、という点に政策の最重点をおくものであった。組閣直後のすばやい山東出兵は、このような軍事的発想を物語るものといえよう。

(略)

[張作霖爆殺による外交破綻で田中内閣が総辞職するまでの一年間]

満蒙における日本の権益や関東軍の地位が弱まるかもしれないという不安が、陸軍中央部に、指揮命令系統にとらわれない横断的結合を急速に拡大することになった

実現しなかった政策転換

37年5月頃には、民間からも、中国との直接の関係はしばらくそのままにして、幣制改革の成功以来中国への影響を強めつつあるイギリスと提携して、中国との関係を間接的にでも改善すべきだとする意見が唱えられるようになってきた。そして外交レベルでも、6月4日林内閣に第一次近衛内閣が代り、再び広田外相が登場した直後、イギリスから中国幣制維持のための共同経済援助の申出があると、外務省内には、この機会に日英協調を実現すべきだとする動きが広まってきた。中国駐在の川越大使も、この際イギリスの主導権を認めて対華借款に参加し、満州事変以来の「対支根本方針の急転回」をなすべきであるとする長文の意見を具申してきた。しかしこの電報が外務省に到着したのは7月6日午後であり、日本は「急転回」のいとまもなしに、翌日には盧溝橋事件に引きこまれてゆくことになるのであった。

反英意識の高まり、そしてアメリカ登場

イギリスに対する問題は、すでに38年の夏から、日本側の呼び方でいえば、「防共協定強化」という形で、具体的に論議されてきていた。(略)

[ドイツは防共協定を]ソ連のみでなく、イギリスやフランスをも対象とする軍事同盟に改定することを提議(略)

徐州作戦から帰国して陸相に就任したばかりの板垣征四郎中将は、6月17日近衛首相に提出した「支那事変指導に関する説明」と題する文書のなかで、「今次事変は事実上、在支欧米勢力打倒の端緒」であると性格づけるとともに、さらに「防共協定の強化と対米善処とに依り、蘇(=ソ連)英を牽制し支那抗日政権の欧米依存政策を打破するを要す」と述べているが、その基底になっているのは、ソ連やイギリスは蒋介石を援助して、日本の戦争遂行を妨害しているという見方であった。(略)

ドイツの提案に賛成する陸軍と、ヨーロッパでのドイツと英仏との戦争に自動的にまき込まれることを避けようとする海軍・外務当局との対立が次の平沼内閣までえんえんと続いた。[あげく、ドイツがソ連と不可侵条約締結](略)

驚いた平沼内閣はドイツとの交渉を打切り、「欧州の天地は複雑怪奇」という有名な首相談話を残して総辞職してしまった。

 このときちょうど、ソ満国境ノモンハン付近で[関東軍敗北](略)

このノモンハン事件は、むしろ中央の意図からはずれた関東軍の独走であり、6月の北支那方面軍による天津のイギリス租界封鎖事件の方が重要であった。(略)

 日本側の不満は、直接には英租界が抗日分子の活動の拠点になっているというものであったが、より根本的には、イギリスが日本の華北金融支配に協力しないという点に向けられていた。すでにみたように、日本は華北占領後、中国連合準備銀行を設立し、連銀券を発行して国民政府の法幣の流通を禁止したのであるが、イギリスはこの政策に協力せず、天津租界では法幣が堂々と流通し、租界内の金融機関も連銀への現銀拠出に応じようとはしなかった。

(略)

この間、日本国内では、6月にはすでに右翼団体が反英宣伝にのり出しており、7月に入ると各地でイギリスを非難する市民大会やデモ行進が組織され、市議会での決議もあいつぐという有様となった。(略)[378件の市民大会(85万名)]街頭デモ行進には40万名を上まわる参加者があったとされている。これらの動きは多分に陸軍の煽動により、警察も公認するという官製運動の性格の強いものであったと思われるが、7月15日には朝日・毎日・読売などの新聞社に同盟通信社を加えた計10社が、イギリスは「援蒋の策動」をあえてしているという共同宣言を発表して、この動きに呼応していた。(略)

[有田・クレーギー会談では、イギリス側が譲歩したが、法幣の流通禁止問題で交渉は完全に行き詰まる]

このときイギリスの立場を支えるべく、アメリカが乗り出してきたのであった。(略)

[7月26日]アメリカ政府は日米通商条約を破棄すると日本政府に通告した。(略)

日中戦争を外側から処理するために、イギリスを圧迫するという政策は、ついにアメリカを敵対的な関係の当事者に引き出してしまったのであった。(略)

日本にとって、日米通商条約の破棄は、租界における法幣問題などとはくらべものにならないような重大事であった。

全面撤兵か対米戦争か

[蒋介石の冬季大攻勢は]日本側のいう持久戦体制など、とうてい実現しえないことを意味するものでもあった。(略)

[8月には40万の]中共軍が華北全般にわたっていっせいに蜂起した、いわゆる「百団大戦」が展開され、以後、治安確保のためにも、より大きな兵力が必要とされるに至っている。結局中国大陸における兵力削減という持久戦構想の眼目はほとんど実現できずに終ったのであった。

 このような日中戦争を正面から解決する見通しは立たず、アメリカとの関係も悪化するばかりという状況のなかで、この二つの問題に同時に対処できる方策としてとりあげられたのが、東南アジア問題であり、ヨーロッパにおいて、ドイツが電撃的勝利を収めると、それは一挙に戦争政策の中心に押しあげられることになった。(略)

[39年12月]陸・海・外三相が署名した「対外施策方針要綱」には「南方を含む東亜新秩序」という新しい問題が出されていた。それは「事変解決」のための新秩序は、南方まで含まなくては成り立たなくなったということであろう。

(略)

ドイツの勝利に酔った日本の戦争指導者の眼には、国際情勢は世界再分割の方向に動いているとみえてきているのであり、そこから日中戦争も、東南アジア問題も、この世界再分割の動きに加わることによって、そのなかで解決してゆこうとする考え方が生まれてくるのであった。軍部はこのような方向の国策化を準備しつつ、新体制運勤にのり出してきた近衛文麿をかつぎあげて、政治の雰囲気までも転換させたのであった。

(略)

[日独伊三国同盟締結での]松岡外相の構想は、第二次大戦後の世界は「東亜・ソ巡・欧州・米州の四大分野」に分かれるとし、独伊の生存圈としてヨーロッパ、アフリカを認める代りに、日本は東アジアを獲得する、中間にあるソ連にはペルシャ湾方面に進出させ、場合によってはインドをその生存圈と認めることもありうる、そしてアメリカには、南北アメリカを与えて、こうした再分割に介入させないようにする、というわけであった。主要な敵は、かつてのソ連からイギリスヘと完全に転換されていた。

(略)

この構想からいえば、蒋介石政権は、ヨーロッパからアジアにいたる新秩序のなかに閉じこめられ、窒息死するはずであった。したがって、日中戦争を解決するためには、この新秩序をつくり出せばよいということになるわけであり、日中戦争は現状のまま凍結して、戦争政策の方向は東南アジアヘの進出に向けかえられることになるのであった。

(略)

「支那事変処理」に関しては「第三国の援蒋行為を絶滅する等凡ゆる手段を尽して」と記されているにとどまるのに対して、「南方問題」に開しては「武力行使」の問題が提起されるに至っているのである。(略)

さらに、武力行使にあたっては、戦争の相手を極力「英国のみに局限」することに努めるが、しかし「対米開戦」を避けられない場合もあり得るとして、はじめて、アメリカとの戦争に言及してきているのである。もはや明らかに、戦争指導者たちの関心は、中国との戦争から離れて、イギリスとの戦争に向けられているのであった。

(略)

日独伊三国同盟締結、汪兆銘政権承認と、日本の政策が一つ進むごとに、アメリカの対応もそれだけ強硬なものとなってきた。アメリカと切り離して、イギリスとだけ戦争し、アメリカを枠外において世界新秩序をつくり、東亜新秩序のなかに日中戦争を解消するという構想が、現実に通用しないことは、たちまちのうちに明らかになりつつあった。そのうえ、日独伊ソ四国による世界再分割の夢は、41年6月22日の独ソ開戦によって、あえなく消え去っていった。

(略)

 41年4月から始められたアメリカとの交渉の中心は、簡単にいえば、アメリカの仲介で日中戦争が解決できるか、という問題であった。そしてさらにその焦点は、日本が中国大陸からの全面撤兵に応ずるか、どうかの問題にほかならなかった。(略)

結局のところ日本の指導者たちは、この要求[「華北・蒙疆の一定地域」への駐兵]を守り抜くために、日中戦争の外側の大東亜共栄圈に戦争を拡大していったのであった。(略)

太平洋戦争へと突入し、日中戦争は、太平洋戦争に従属した地位におかれるに至ったのであった。

忘れられた日中戦争

1945年1月、北ビルマの日本軍が撃破され、ビルマ・ルートが再開された時には、日中戦争における日本の敗北は決定的なものとなっていた。アメリカの軍需物資は大量に中国に輸送され始め、中国軍も最新の装備と、アメリカ式訓練によって改編されていった。(略)

 日中戦争がこのまま続いていたら、日本軍が態勢を立て直した中国軍に撃破されたであろうことは、この両作戦をみても明らかであった。しかし事態がそこまで進展する前に、日本の戦争指導者は、原爆で本土を直撃され、ソ連参戦という新たな衝撃をうけて降伏してしまった。日中戦争を解決するために、その外側で太平洋戦争をはじめたという順序を逆にたどるとすると、太平洋戦争の結着の次に、日中戦争の結着をつけてはじめて戦争が終るということになるわけであるが、日本の地理的な位置の故に、日中戦争での決戦なしに、戦争全体を終らせることが可能になったのであった。

 そしてそのことから、日本の戦後が、もっぱら太平洋戦争の戦後として、日中戦争を忘れさせるような形で、展開される条件が生まれてくるのであった。(略)

アメリカの単独占領は、アメリカの仲介しない日本と第三国との直接的な関係を成り立たせなくしたし、また国共内戦は、中国の側にも日本の戦後に介入する余裕を失わせるものであった。つまり日本は中国と隔離された形で、戦後をはじめたということになろう。しかも、国共内戦で日中戦争の相手であった蒋介石が敗北し、台湾に逃れるという事態になると、アメリカに仲介された日中関係は、日中戦争をどう清算すべきかという観点からではなくて、台湾と北京のいずれをえらぶかという点から出発することを余儀なくされたのであった。

2016-09-08 大きな魚をつかまえよう デヴィッド・リンチ このエントリーを含むブックマーク


大きな魚をつかまえよう―リンチ流アート・ライフ∞瞑想レッスン

作者: デイヴィッドリンチ, David Lynch, 草坂虹恵

メーカー/出版社: 四月社

発売日: 2012/04

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人生の始まり

 私の人生は、アメリカの北西部で育ったごく普通の人間として始まった。父は農務省の研究員で樹木を調べていた。だから私は森にいることが多かった。子どもにとって、森は神秘的だ。私はスモール・タウンと呼ばれる場所に住んでいた。世界は家の一ブロック先か、せいぜいニブロック先までだと思っていた。あらゆることをその小さな空間で体験したんだ。あらゆる夢、あらゆる友だちがその小さな世界にあった。それでも私には、すべてがとても巨大で謎めいていた。夢を見たり、友だちと遊んだりする時間がたっぷりあった。(略)

夜の庭園

 そう、私はかつて画家だった。絵を描いてアート・スクールに進学した。映画には興味がなかった。たまに映画を見に出かけたけど、ほんとうは絵だけを描いていたかった。(略)

[午後三時、学校のアトリエで]夜の庭園を描いていたら――これは黒い絵の具を多用し、暗闇に緑葉植物が浮かびあがるものだったが――その植物群が突然動きだし、風の音が聞こえてきた。ドラッグもやっていないのに。「ああ、なんて素晴らしいんだろう!」と息を呑んだ。そして、映画なら絵を動かせるかもしれないと考えるようになった。(略)

[学校のコンクールで]動く絵画を制作しようと思った。私は縦六フィート、横八フィート大のスクリーンに彫刻を施し、そこにストップモーションを連ねた拙いアニメを映写した。『病気になった6人の男』というタイトルだった。(略)

[制作に200ドルを費やしてしまったが]

年上の学生がこの作品を見て、自分のためにもう一本作ってほしいと注文してくれた。

 こうして私はうまい具合に仕事を始めることができた。それからというもの、ずっと前途洋々の道を歩んできた。そして徐々に――というよりは一足飛びに――映画に恋していった。

アイデア

(略)映画一本まるまる一度に浮かんできたら、どんなにすごいことだろう。でも私にはばらばらにしか、アイデアが浮かんでこない。(略)

『ブルーベルベット』では真っ赤な唇、緑の芝生、ボビー・ヴィントンの歌う「ブルーベルベット」がその各片だった。次に野原に捨てられた耳。そして、あの映画ができあがった。(略)

アンジェロ・バダラメンティ

 アンジェロ・バダラメンティとは、『ブルーベルベット』の時に初めて知り合った。以来、ずっと映画の曲を書いてもらっている。もう兄弟みたいなものだ。

 われわれはこんなふうに仕事をする。まず、ピアノの前に座ったアンジェロの横に、私が腰を降ろす。私が語りかけると、アンジェロは演奏を始める。言葉を音楽にしていくんだ。言わんとすることが理解できない時には、何ともひどい演奏になる。そんな時は「そうじゃないよ」と声をかけ、少しばかり言葉を変えてみせる。すると違う演奏が始まる。(略)

そして私が「そう、それだ」と言うと、アンジェロは魔法を使い始めて、正しい道筋をたどっていく。

 これがほんとうに楽しいんだ。家が隣だったら、もう毎日でもやりたいぐらいさ。でも彼はニュージャージーで、私はロサンジェルスだからなあ。

配役

 名優かどうかはたいして重要じゃない。配役を選ぶ際は、役柄と深い結びつきがもてる、役になりきれる人物を選はなければならない。

 俳優に脚本を渡していきなり読ませるなんて、私は一度もやったことがない。それは俳優にとって苦痛だろうし、私としても得られるものは何もない。(略)

私は俳優と話し、彼らが話すのを観察する。頭の中で脚本どおりに彼らを動かしながら、話すんだ。途中まで演じられるが、止まってしまう者もいる。そのうち一人が最後まで演じ、私は役にふさわしい人物を知る。(略)

[『ブルーベルベット』でデニス・ホッパーを起用したかったが]

「(略)かなり体調が悪いしトラブルの種になるだけだ」と誰もが言っていた。そこであらたな人材を探すことにしたんだ。ところがある日、エージェントが電話を寄こして、「デニスはドラッグと酒を断ち、もう別の映画にも出演してるから撮った監督に確認してみればいい」と言ってきた。続けざまに、デニス・ホッパー本人が電話をかけてきてこう言った。「俺がフランクを演じねばならん。フランクは俺だ」もう身震いするほど怖かったよ。(略)

『ツイン・ピークス』

(略)『ツイン・ピークス』のパイロット版を撮影している時、フランク・シルヴァという名のセット・ドレッサーに美術を担当してもらった。(略)

[ローラ・パーマーの家の場面を撮影中、女性スタッフの声が]

「フランク、そんなふうに、ドアの前に化粧台を置いたりしちゃダメじゃない。部屋から出られなくなるわよ」

 部屋にいるフランクの映像が思い浮かんだ。私は部屋に駆け込むと、「きみは俳優かね?」と尋ねた。「ええ、まあ偶然にね」というのが彼の答えだった。ロサンジェルスでは誰もが俳優だ。ひょっとしたら、世界中のみんなが俳優なのかもしれない。そこで私はこう言った。「フランク、きみはこの場面に出演するんだ」

 われわれはカメラをパンさせながら、部屋の場面を撮影した。フランクを入れずに二回、ベッドの足下で凍りつくフランクを入れて一回。でも、その場面にどんな意味があるのかはわからなかった。

 その晩は、階下でローラ・パーマーの母親を撮影していた。彼女は娘を亡くした悲しみと苦悩に耐えられず、カウチに横たわる。突然、彼女は心の中で何かを目の当たりにし、跳ね起きて悲鳴をあげる。(略)私は「カット――パーフェクトだ。素晴らしい!」と言った。ところがショーンは、「いや、ダメですよ。これじゃあね」と言う。

「何かあったのかね」

「鏡にある人が映ってたんです」

「誰が映ってたって?」

「フランクです」

 そう、物事はこんなふうに起きて、きみを夢見心地にさせるんだ。ひとつのことが別の何かを導いてくれる。この流れに身を委ねていけば、全体が切り拓けるよ。

赤い部屋

 ある夏の日、私はロサンジェルスのCFIにいた。『ツイン・ピークス』のパイロット版を編集していて、その日の作業を終えたところだ。夕方の六時半に建物を出ると、駐車場にずらりと車が並んでいた。ふとある車の屋根に両手を押し当てると、たいそう温かい――熱くはなく、程よい温かさだった。そこで車に寄りかかると――スーッと赤い部屋が浮かんできた。そして、続けざまに、場面といくつかのセリフが思い浮かんだ。

(略)

「待てよ、壁は赤いけど、硬くはないよな」(略)

「一面はカーテンだ。不透明ではなく半透明の」(略)

「床はどうすればいい?……何か必要だろう」最初のアイデアを思い返すと、床にも何かあったことに気づく――一面にね。そして床もアイデアどおりにしてみる。こうして最初のアイデアをもっとたくさん思いだすんだ。いろんなことを試行錯誤するが、整理したり、別の材料をつけ加えたりするうちに、アイデアどおりだと感じられるようになる。

一般化

 映画の中の女性をすべての女性の象徴として、男性をすべての男性の象徴として語るのは、危険なことだ。批評家は何でも一般化したがる。でもこの特別な物語の、あの特別な登場人物が、その特別な道筋をたどっていくんだ。こうした具体性のある設定のおかげで、固有の世界ができあがる。時に人は、そんな世界に入り込んで体験したくなるんだ。


ロスト・ハイウェイ デイヴィッド・リンチ リストア版 [Blu-ray]

メーカー/出版社: パラマウント ホーム エンタテインメント ジャパン

発売日: 2013/08/23

Amazon.co.jp

『ロスト・ハイウェイ』

 バリー・ギフォードと一緒に『ロスト・ハイウェイ』の脚本を書いている時は、当時公判中だったO・J・シンプソンの裁判のことが頭から離れなかった。ギフォードには一度も話さなかったが、この映画は、あの事件と何らかの関連性がある。

 O・J・シンプソンがニコニコと笑みを絶やさないでいることに、私は打ちのめされた。事件について何ら問題ないと言わんばかりに、その後、喜々とゴルフに興じていたのだ。なぜこんなにニコニコしていられるのか。あんな事件を起こしたら、生きていくのは大変なのに。(略)

[そんな時「心因性遁走」という精神医学用語を発見]

計り知れない恐怖から抜け出そうとして、心そのものが事実を虚偽の出来事に書き換えてしまう。言ってみれば、『ロスト・ハイウェイ』はその病理についての映画だ。それと、何ひとつ永遠に隠し通せるものはないという真実を物語っている。

制約

 制約があるから、心を羽ばたかせることもできる。(略)

 友だちのゲイリー・ダミーコは特殊効果の仕事をしている。姿あるものを爆破させるのが大好きだ。『ロスト・ハイウェイ』で家を吹き飛ばしたのもゲイリーだ。(略)

[製作マネージャーに家を撤去しますかと訊かれ]私の頭はぐるぐる回り始めた。(略)

「ある物を吹き飛ばしたいんだけどできるかな?」ゲイリーの顔が輝いたので、「この家を木端微塵にしてほしいんだ」と口にした。

 すると彼は、「事前に言ってくれたらよかったのに。機材があったかなあ」それでも「そうさね。まあやってみるかね」と言ってセットヘ入り、持っていたあらゆる配線を括りつけた。それは最も美しい光景だった。もし彼が機材を用意していたら、事前に爆破するという情報を得ていたら、これほど美しい眺めにならなかっただろう。ギラギラしないソフトな爆発で、建物を数百フィート四方に飛び散らせた。何ともソフトな輝きだった。われわれはフィルムを逆回転させて、この瞬間を撮影した。こうして信じられない場面が生まれた。

質感

 腐乱死体が好きなわけじゃないが、朽ちていく肉体には驚くべき質感がある。腐乱した小動物の遺骸を見たことがあるかい? こうしたものを見るのは楽しい。樹皮や、小さな昆虫や、カップに注いだコーヒーや、一切れのパイをクローズアップで見るのと同じくらい好きだなあ。近づいて見てごらん。その質感たるや見事だから。

大工の手仕事

 木はモノを作るうえで、恰好のマテリアルだ。柔らかい木もあれば硬い木もある。木を用いて作業していると、いずれの木にも固有の美が備わっているのがわかる。新鮮な松の木の切れ端を見つめていると、いい香りがして、天国にでもいるような心地になる。松の葉の香りも同じように素晴らしい。子どもの頃、私はポンデローサ松の松脂が染みついた樹皮をよく噛んでいた。分泌された樹液が表面にこびりついてるんだ。もしきみが新鮮な松脂を噛んでみたかったら、シロップのようなものだと覚えておくといい。(略)古い蜂蜜のように固まっているものもある。これを噛むと、松脂の味でクレイジーな気分になる。ほどよい加減にね。

松は軽軟材だから作業しやすく、簡単に手に入る。若い頃はこれを使っていろんなモノを作った。でもある時、私は米松のモミ材に惚れ込んでしまった。縦目のものだ。これにニスを塗ると、目を見張るほど美しい深みが出る。切れ端を二片組み合わせるだけでも、無数の可能性を感じてしまう。そうして作業するうちに、コツのようなものを学んでいくんだ。

 ギュンターというドイツ人の大工がいるが、彼は決して電動工具を使わない。取っ手のついた美しい木箱に、手仕事用の道具類を詰め込んで現場にやってくる。どこへ行くにもこれだけ持参する。ギュンターは(略)米松のモミ材に小さな細工を施した。切れ端を二片組み合わせ、その継ぎ目を年老いたつぶれた親指でこすると、継ぎ目を消してしまったんだ。魔法にかかったように、二つの切れ端は完全に一体となった。ギュンターこそ木物の大工だ。

映画の偉人たち

 私はビリー・ワイルダーの熱狂的なファンだ。好きなのは、独自の作品世界を築いた二作品――『サンセット大通り』と『アパートの鍵貸します』だ。

 次にフェリーニが来る。彼はとてつもないインスピレーションの持ち主だ。私が好きなのは『道』と『81/2』だが、実を言えば、どの作品を選んでもいいくらいだ。いずれも独自の世界、登場人物、ムードがある。(略)

 ヒッチコックも大好きだ。『裏窓』は私を映画に狂わせた一作だ。むろんいい意味でね。ワン・ルームにいるジェームズ・スチュワートの居心地のよさと言ったら。何て涼しげな部屋だろう。(略)

一遍のミステリーの中で集い、窓から見える謎を解き明かしていくのは最高だ。これこそ魔法だと、映画を見た誰もが感じるはずだ。暇を見つけて、あの部屋を訪ねるのはとても心地いい。

フェリーニ

 ローマでコマーシャルを撮影している時[クルーに元フェリーニ組の人がいたので、入院中のフェリーニに挨拶できることに](略)

夏の夜の午後六時。美しくも暖かい晩に、私はフェリーニ組だった一人の人物と受付を通り抜け、彼のいる病室に入った。(略)

 フェリーニは座るように私を促した。彼は二台のベッドの間に置かれた小さな車椅子に腰をかけ、私の手を取った。そうして半時間話をした。あまり質問をしようとは思わなかった。ただ彼の言葉に耳を傾けた。フェリーニは過ぎ去りし日のことを話してくれた――さまざまな出来事を。いろんな話をしてくれた。名残り惜しかったが、われわれは退出した。金曜の夜のことで、日曜にフェリーニは昏睡状態となり、帰らぬ人となった。

キューブリック

[ジョージ・ルーカスのスタッフがキューブリックに遭遇、お気に入りの映画を観に来ないかと誘われ家に行くと、彼は『イレイザーヘッド』を上映したと聞かされ]

私はもう死にたくなるほど穏やかで幸福な気持ちに包まれた。

 キューブリックの映画は全部好きだが、私のお気に入りは『ロリータ』だ。あの作品世界が好きだ。登場人物と演技も好きだ。あの映画のジェームズ・メイスンは、超然とした存在感を放っている。

デジタル・ビデオのクオリティ

 現在使っているデジタル・ビデオのカメラはソニーのPD−150で、これはHDカメラよりも画質が悪い。でも私はこの劣悪な画質が好きだ。カメラが小振りなのも気に入っている。

 その質感は、1930年代に作られた映画を思わせる。当時は感光乳剤の質が良くなかったので、スクリーンで再現できる情報に限度があった。ソニーのPDの画質は、それにちょっと近いところがある。高解像度とはかけ離れてるんだ。ある画面で何が見えてるのか疑問だったり、隅っこに暗闇があったりしたほうが、精神は夢見ることができる。(略)

 高解像度のカメラは残念ながら明瞭すぎる。(略)

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2016-09-05 プリンス論 西寺郷太 このエントリーを含むブックマーク


プリンス論 (新潮新書)

作者: 西寺郷太

メーカー/出版社: 新潮社

発売日: 2015/09/17

|本| Amazon.co.jp

〈ビートに抱かれて〉

 なんとこの曲には、全編を通じて[黒人音楽の肝である]「ベース」が存在しない。そもそも制作過程では入っていたようなのだが、最終段階でのミックスで、「ベースがない方がクール」というプリンスの判断により、ベースのトラックがオフになったままリリースされたのだ。(略)

さらに凄いのが、この異質な構成の奇妙奇天烈な曲が、1984年のビルボード年間チャートで1位を獲得していることだ。(略)

同じ音楽家として言うが、「変なこと」「異常なこと」それだけを追求するのは実は難しくない。しかし、アヴァンギャルドでありつつヒットさせることほど難しいことはない。

《ダーティ・マインド》

[前作までの]ポップでハッピー、かつメロウでソフィストケイトされた音楽性をサード・アルバム《ダーティ・マインド》以降、綺麗さっぱり捨て去ってしまう。

 薄っぺらいシンセサイザー、ドラムとベースだけの生々しいサウンドに、当時のリスナーは「これはデモ・テープか?」と驚いたという。

 その印象は正しい。

 なんと《ダーティ・マインド》は、プリンスが作ったデモ・テープをそのままリリースしたアルバムだったのだ。

 性的に露骨な歌詞はエスカレートし、放送禁止曲となることでかえって注目を巣めた。さらに、それまで入念なレコーディング・ワークと完璧主義によって見えにくくなっていたメロディのキャッチーさそのものに、フォーカスが当たる結果となった。そのダイナミックな即興感覚は、同時期にロンドンで爆発したパンク・ミュージックの影響も大きかったのかもしれない。


DIRTY MIND

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白人文化の影響

1970年代のミネアポリスには黒人が「全人口の3%弱しかいなかった」のだ。(略)

圧倒的な「白人文化」に囲まれるようにして、天才プリンスは育った。(略)

ある種のウィークポイントとも言える「白人アーティストたちからの圧倒的な影響」。しかし、振り返ってみれば、それこそが人種間の壁をその音楽で壊したプリンスの「新しさ」に繋がったと言える。


サイン・オブ・ザ・タイムズ

アーティスト: プリンス

メーカー/出版社: ワーナーミュージック・ジャパン

発売日: 2005/05/25

|CD| Amazon.co.jp

《サイン・オブ・ザ・タイムス》

[83-86年に恋人だったスザンヌ]

「おそらくプリンスが生涯一番奸きだった女性。ザ・レヴォリューションの重要メンバー、ウェンディは双子の姉妹。

(略)

[専属エンジニア]スーザン・ロジャースが、BBCのプリンス未発表曲追跡企画『Hunting for Prince's Vault』で語った(略)

「あるときプリンスはスタジオに入って、とても美しいバラードをレコーディングしたわ。(略)レコーディングを終えた後、プリンスはとても穏やかに『消してくれ』と言った。私の中のファン魂が『だめ!』と心の中で叫んだわ。私は『すこし考えたらどう? 明日までせめて待ちましょう』と言った。すると彼はボタンを押して録音を消してしまった。その音源は永遠に無くなってしまった」

 この消去された幻の曲は、プリンスが別れたスザンナを想って作ったものだ、と伝えられている。

(略)

 〈KISS〉や〈マニック・マンデイ〉がチャートで暴れまくっているその同時期、プリンスはザ・レヴォリューションと共に、結果的に未発表に終わる2枚組《ドリーム・ファクトリー》の制作に入っていた。収録される予定だった楽曲には〈ドロシー・パーカーのバラード〉〈スロウ・ラヴ〉〈スターフィッシュ・アンド・コーヒー〉〈プレイス・オブ・ユア・マン〉〈サイン・オブ・ザ・タイムス〉などがある。これらの楽曲は、バンドによる演奏をプリンス自身が演奏し直したヴァージョンと入れ替えられながら、翌年にリリースされる《サイン・オブ・ザ・タイムス》へと集約されてゆく。(略)

 《ドリーム・ファクトリー》の特徴は、初期の「ワンマン思想」(そもそもデビュー・アルバムの段階で彼は、すべての楽器を演奏していたのだ)からは考えられないほどに、ソング・ライティングにおけるリサとウェンディの比重を高めるなど、「一層のバンド化」を狙ったことにある。

(略)

 しかし、彼は心変わりする。(略)

 バンドとの共同作業でもあった《ドリーム・ファクトリー》制作を突然中止した彼は、自身による作詞・作曲・演奏にこだわったプロジェクト《クリスタル・ボール》と、意表をついたアイディアによって生まれた企画アルバム《カミール》に集中する。(略)

 まずリズム・トラックや演奏を女性歌手が歌うキーに合わせてレコーディングした後、あえて男性であるプリンス自身がその女性キーで歌う。その際テープの回転数を大幅に落とし、再生時に元に戻して早める。(略)

 少し不自然な子供のような甲高い声になるのだが、プリンスはこの声の主を架空の女性シンガー「カミール」と名付け、アルバム丸1枚分を制作した。しかし、この作品もお蔵入りとなった。最終的に《サイン・オブ・ザ・タイムス》に、カミールの楽曲リストから〈イフ・アイ・ワズ・ユア・ガールフレンド〉〈ハウスクウェイク〉などが収録されることになる。そこで聴けるヘンテコな声こそが、「カミール」の声だ。(略)

[《ドリーム・ファクトリー》《カミール》と同時進行していた《クリスタル・ボール》はアルバム3枚組のボリュームに]

ワーナーから「せめて2枚組に。たくさんある曲を削って濃縮させればもっと良くなるのでは?」と指摘を受ける。(略)

 そして22曲の《クリスタル・ボール》からさらに15曲を選抜。シーナ・イーストンとのデュエットでシングル的要素の強い〈U・ガット・ザ・ルック〉が加えられたのが、《サイン・オブ・ザ・タイムス》となる。

 ちなみにこの3枚組から2枚組への取捨選択の中でカットされてしまった、10分28秒の大曲〈クリスタル・ボール〉こそが、プリンスの音楽キャリアの中で最も凄みのある傑作だと僕は信じて疑わない。


ラヴ・シンボル

アーティスト: プリンス&ザ・ニュー・パワー・ジェネレーション

メーカー/出版社: ワーナーミュージック・ジャパン

発売日: 2005/11/23

|CD| Amazon.co.jp

マイケルとプリンス

《ラヴ・シンボル》でもうひとつ触れておきたいのが、アルバム冒頭を飾る〈マイ・ネーム・イズ・プリンス〉についでだ。

 この曲はマニアの中で、「キング・オブ・ポップ」と自分を称し始め、独自のファンク路線を捨てニュー・ジャック・スウィングに擦り寄ったマイケル・ジャクソンヘの攻撃、揶揄だとする解釈がある。

 「俺の名前はプリンス。我はファンキーで唯一無二だ。お前の娘を手に入れるまで、俺はこの街を立ち去ることはない。俺は王になどなるつもりはない。なぜなら頂上をこの目で見たからだ。そこは儚い夢だった。大きな車と女性たち、可愛い衣装の山、それで顔は立つかもしれないが、魂は救われない。俺はオマエにそれを告げにきた。もっとうまくいく方法があるんだ」

 マイケルの特徴である「ダッ!」「アオー!」などのパーカッシヴな唱法を意図的に真似した、と言われるこの曲。プリンスの真意はわからないが、時代の荒波に飲まれることに抗うプリンスからの盟友への、厳しくも愛を込めた忠告のようにも聞こえてくる。(略)

[ライバルの二人は]意外にも仲が良かった。(略)一緒にペイズリー・パークでバスケット・ボールや卓球で遊んだ(プリンスが意外にもダンス以外では運動音痴なマイケルをこてんぱんにした)など、エピソードには事欠かない。いわゆる「黒人音楽」の範疇に収まりきらない特殊な環境で育ち、頂点を極めた同士。数少ない「黒人スーパースター」として、シンパシーを感じる間柄だったのだろう。

 面白いのはマイケルが自らの長男を「プリンス」と呼んだことだ(本名はマイケル・ジョセフ・ジャクソン・ジュニア)。「ブランケット」という愛称で呼ばれた次男は、正式名をプリンス・マイケル・ジャクソン2世という。「プリンスという名は、母方の祖父から受け継いだ」とマイケルは説明しているが、わざわざ最大のライバルの名を息子たちにつける感覚は、常人にはよくわからない。

 マイケルの死後、プリンスは彼の代表曲のひとつ〈ドント・ストップ・ティル・ユー・ゲット・イナフ〉を、ライブの定番レパートリーに加え演奏し続けている。


3121

アーティスト: プリンス

メーカー/出版社: ユニバーサル インターナショナル

発売日: 2006/03/20

|CD| Amazon.co.jp

プリセット主義

最初から完成された音が頭の中で鳴っているのか。

それとも、作業中に偶然ひらめくものなのか。

この質問にプリンスは、こう答えている。

「俺はすべてをはじめから心の中に描いている。シンセ・パートのオーヴァー・ダブにしてもそうで、フレーズに合ったサウンドが得られるまでプリセットを次々と呼び出している。サウンドの組み合わせを耳で確認しながらね。だが、プリセットに手を加えることはほとんどない」(略)

[カレー作りに例えるなら]市販のカレー・ルーをそのまま使う、というのだ。(略)

実はスティーヴィー・ワンダーも、「プリセットしか使わない」とインタビューで答えている。頭の中でその音が完璧に鳴り響いている天才は、ある意味せっかちなのだろう。無数にあるプリセットの中から音色を選び取り、そのまま使う。音色は、プリセットから選び取ればそれでいい、弾き方や鳴らし方にこそ個性が生まれると思っていることがふたりに共通している。

 実は、この唯我独尊の直観主義者ゆえのシンセサイザー音色などへの過度な期待のなさ、ある種の悪い意昧での思い切りの良さこそが、1990代にプリンスが失速した音楽面での最大の理由だと僕は考えている。それが2000年代に入って、状況が変化する。

 2004年の《ミュージコロジー》、2006年の《3121》における状況好転は、彼自身の方針の変更によってもたらされただけではない。一時はダサいと忌み嫌われた「80年代的シンセ・サウンド」が、2000年代になって復権する。それが大きく影響しているのではないだろうか。(略)

当時を知らない若い世代も、その上の世代も、シンセ音源むき出しのチープさ、ダサカッコよさこそキュートで面白い、という空気になったのだ。

 だからといって、1980年代の手法をそのまま繰り返せばいいというわけではない。その絶妙なブレンド具合こそが必要になってくる。(略)

《3121》収録曲〈ロリータ〉を聴いてみてほしい。プリンス自身が叩く生々しい人間的なドラム・サウンドと、彼が弾くまさしくプリセット音源的なシンセサイザーのコード・ワーク。その組み合わせこそが「ゼロ年代」的な響きであり、新たな衝撃を広い世代に与えた。

 特にセカンド・シングルになった〈ブラック・スウェット〉では、プリンスが「自分らしさ」の換骨奪胎に挑戦し、見事に成功している。〈ビートに抱かれて〉〈KISS〉に続いて、彼はゼロ年代にまたしても「ベースラインが存在しないプリンス流“密室ファンク”」の傑作を生み出した。

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2016-09-02 波乱万丈シュンペーター 資本主義、社会主義、民主主義 このエントリーを含むブックマーク

トーマス・K・マクロウによる冒頭序文の履歴が波乱万丈すぎ。


日経BPクラシックス 資本主義、社会主義、民主主義 I

作者: ヨーゼフ・シュンペーター, 大野一

メーカー/出版社: 日経BP社

発売日: 2016/07/13

|本| Amazon.co.jp

 シュンペーターは、幼少時から波乱に満ちた生涯を送ってきました。「自分は何者か」という内なる疑問の声が湧くのもまず当然の環境だったといえます。(略)[1883年チェコに生まれ]4歳の時に父親が亡くなり、母とともにオーストリアに移住します。(略)

 母ヨハンナは、息子の類い稀な才能を直ちに見抜き、できる限り最高の教育を受けさせようと決意します。この目的を遂げるため――また彼女自身の社会的な野心もあり――32歳の時に、オーストリア軍の65歳の退役将校と再婚します。再婚相手が高位の貴族でもあり(略)ウィーンのテレジアヌム(貴族の子弟が通う中等教育機関)に通うことができました。

 当時のウィーンは、オーストリア・ハンガリー帝国の華麗な首都です。音楽の都、芸術の都、世界に名だたる科学・文学・哲学の中心地として知られていました。一家は帝国議会の裏正面からわずか30メートルほどにある高級アパートを一フロアすべて借り切ります。(略)若きシュンペーターは、ここで10歳から23歳まで過ごします。ここで身に着けた貴族的な、洗練された物腰は、生涯変わることがありませんでした。

 しかし、自分は一体、何者なのか――。片親を失った小さな町の実業家の息子なのか。何事でも一番を求める野心的なステージママの息子なのか。地方からウィーンに流れ込んだその他大勢の中流階級の一人なのか。それとも、オーストリアの誉れ高い貴族の一員、義理の父親の威を借りた人間なのか――。シュンペーターは後に、自分が度々「とんでもない紳士気取り」の役回りを演じていたと述懐しています。

 友人や同僚から幾度となく指摘された浅焦い肌、「東洋風」のエキゾチックな顔立ちも、アイデンティティーを揺るがす一因になりました。類い稀な頭脳もそうです。(略)

多くの天才少年の例に漏れず、目上の人にはよくかわいがられましたが、同じ年頃の同性の友人にはほとんど恵まれませんでした。ハンサムでチャーミングだったため、女性にはめっぽうもてました。10代から50代半ばまで幾度となく情事を重ね、日記にも「間違いない。自分には女性を扱う才能がある」と淡々と言いています。

(略)

[ウィーン大学卒業後ヨーロッパを周遊]

各国の重要な経済学者に残らず会って直接話を聞こうと考え、30歳になる頃にはそれを実現していました。その間にイギリスの上流階級の女性と結婚。力イロで弁護士業を営み、一財産築いた後は、経済学の教授となり、才ーストリア・ハンガリー帝国の複数の大学で教鞭を執りました。(略)

この時期までに、論文・書評三十数本と主著三冊を発表。二冊目の『経済発展の理論』は、経済学の20世紀の古典として今も知られています。(略)1914年には、31歳の若さでコロンビア大学から名誉学位を授与されるという異例の待遇も受けます。

 そうした中、第一次世界大戦が勃発します。(略)大学で唯一の経済学の教授だったため、徴兵は免れましたが、信じがたい思いで1914-18年の惨劇を見守ります。(略)

根は平和主義者だったシュンペーターは、戦争の流れを変えるため、オーストリア・ハンガリー帝国にドイツとの同盟解消を要求し、アメリカの仲介で単独講和を結ぶべきだと考えました。事は思い通りには進みませんでしたが、シュンペーターは徐々に政治に手を染めるようになります。研究に割く時間は、必然的に減っていきました。

[終戦後、オーストリア・ハンガリー帝国は解体]社会が混乱を極める中、1919年に発足した初代内閣には、財務大臣ヨーゼフ・シュンペーターの姿がありました。

 シュンペーターが考えた経済復興策は、ほぼすべて理にかなったものでした。起業、外国借款、自由貿易の奨励といった政策です。ただ、どれも大きな成果は期待できませんでした。結局のところ、オーストリアもドイツと同じ敗戦国であり、政府の手足を縛る過酷な講和条約の影響から逃れられなかったのです。加えて、シュンペーター自身が政治家の資質を欠いていたことも明らかになり、在任期間は七ヵ月にとどまりした。(略)

 財務省を去った後も、権力と華やかな生活への憧れはやみませんでした。ウィーンが好きで、首都から200キロ以上も離れたグラーツ大学の単調な生活に戻る気がしなかったのです。そこで、銀行を設立する特別免許を1920年に取得します。シュンペーターが政権内で不当な扱いを受けたと感じていた議会にいる友人たちが、償いの意味で免許取得を取り計らってくれました(略)。その後三年間、シュンペーターは経済的に大成功を収めます。銀行経営にはタッチせず、個人的な投資でまた一財産築きました。しかし、1924年にウィーン株式市場が暴落。投資先の新興企業もたちまち倒産します。シュンペーターは私財をすべて失ったばかりか、多額の負債まで抱え込みました。

 政治にもビジネスにも嫌気が差し、喉から手が出るほど職を必要としていたシュンペーターは、アカデミズムの世界に戻ります。一流の学者としての世界的な名声は健在でした。日本の優良大学二校とベルリンの二流校から声がかかりましたが、またとないチャンスはドイツ有数の名門校ボン大学から来ました。(略)

あまりにも短い、人生最高の幸福な時間が始まったのです。申し分のない職を手にしたシュンペーターは、若く美しい花嫁アニー・ライジンガーを迎えます。シュンペーターはアニーの虜になっていました(最初の結婚は大戦中に破綻し、イギリス人の夫人は故郷に帰っていました)。

 しかし、悲劇がシュンペーターを襲います。ボンに移ってから八ヵ月後、変転極まりない人生で唯一変わらぬ存在だった母のヨハンナが急死。その六週間後、今度は23歳のアニーが出産中に亡くなり、産まれた男の子もわずか数時間でこの世を去ったのです。

 三人の死にシュンペーターは打ちひしがれました。ウィーンにいる友人に「何もかもが嫌になり、もう何が起きても構わない」と書き送っています。「罰が当たったのかもしれないが、こんな仕打ちは……」。シュンペーターに残されたのは、仕事に没頭する習慣と、資本主義の全貌を理解しようという執念だけでした。

(略)

シュンペーターは1932年までボン大学の教壇に立ち続けますが、その間、二度ボンを離れ、ハーバード大学客員教授を務めています。最終的にハーバードに移籍するまで、大西洋を五回横断しました。ヒトラーが政権を取るわずか四ヵ月前にドイツを離れたのは、シュンペーターの人生で数少ない幸運な出来事でした。

(略)

 資本主義の下で起きる創造的破壊は、過酷なプロセスであることが少なくありません。自らも1924年に私財を失ったシュンペーターは、この点をよく理解していました。本書でも「成功と失敗は金銭で測られ、出世すれば金が入り、身を落とせば金を失う。(……)[資本主義は]『巨万の富』の夢と『どん底の生活』の悪夢を描き、それを容赦ないスピードで現実のものとしてきた」と書いています。常に容赦なく変化することが資本主義の証しなのです。

(略)

資本主義の精神的なよすがの問題についても、何ら幻想は抱いていません。「騎士が探し求めた聖杯に比べれば、株式取引所は安っぽく見える」。日記にも「これまで多くの人に受け入れられてきた理想の中で、誰かのビジネスにならなかったものがかつてあっただろうか。そう思うことが少なくない」と記しています。

 シュンペーター自身の精神の底流は深いところを流れており、資本主義の行き過ぎに心を痛めていました。それでも、世界の人々の物質的な生活水準を引き上げることが今なお人類最大の願いであると感じていましたし、そう悟っていました。問題はどうやって資本主義を維持していくのか、資本主義の力をどのように利用し、どのように自滅を防ぐのかでした。これは本書が発している明確なメッセージの一つですが、資本主義は大半の人が考えるより遥かに脆弱で、資本主義を発展させ維持していくのは想像を遥かに超えて難しいのです。

(略)

本書の完成が近づいていた、1941年の講演で「私が倫理的帝国主義と呼ぶもの――アメリカの考え方に従って世界の秩序を維持しようというエートスを持つ帝国主義」を批判しています。1944年の日記にも「アメリカの爆撃機の下で、世界の平和と民主主義を確立できるのだろうか」と書き、同じような先見の明を示しています

(略)

アメリカ政府が戦時中に行った日系人10万人以上の強制収容に衝撃を受け、英米によるドイツヘの絨毯爆撃に慄然とし、B29が役下した焼夷弾と原爆で日本の都市が壊滅したことに戦慄を覚えました。(略)

シュンペーターは、第二次大戦と冷戦を背景に長期的にアメリカの軍国化が進めば、文化的・政治的に悲惨な結果を招くことを非常にはっきりと見抜いていました。たとえそれがソ連の牽制にどれほど必要だったとしてもです。

 1940年代初めの一時期、こうした発言の多くは周囲の不評を買いました。友人や同僚の一部でさえ、眉を顰めたのです。社会的には人生で最もつらい時期の一つでした。

トーマス・K・マクロウによる伝記本。


シュンペーター伝―革新による経済発展の預言者の生涯

作者: トーマス・K.マクロウ, Thomas K. McCraw, 八木紀一郎, 田村勝省

メーカー/出版社: 一灯舎

発売日: 2010/12

|本| Amazon.co.jp