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2017-02-27 1984年のUWF 柳澤健 このエントリーを含むブックマーク

一番驚いたのが更級四郎がUのブレーンだったこと。そっちでもブラックアングル描いてたのかw。

なんでいきなり中井祐樹?と思って読み進むと、真のUである佐山がUを創った時に見ていた未来、さらにその限界を超えた先にいるから、という結論だった。


1984年のUWF

作者: 柳澤健

メーカー/出版社: 文藝春秋

発売日: 2017/01/27

|本| Amazon.co.jp

カール・ゴッチとルー・テーズ

[ルー・テーズの妻は]亡き夫とカールゴッチの違いを次のように評している。

《カールはプロフェッショナル・レスリングのリアリティに決して飛び込んで行かなかった。カールにとってレスリングは誇りでありコンペティション(競争)だった。でも、ルーにとってレスリングはビジネスだった。レスリングは、チケットを買ってくれる人の汗でできているのよ。》

ゴッチ、佐山を救出する

“1976年のアントニオ猪木”に向かって、佐山聡は「打撃と投げと関節技を組み合わせた新しい格闘技を作りたいんです」と申し出たのだ。(略)

[猪木は言った]

「わかった。お前の言う新しい格闘技をウチの会社でやろう。実現した時には、お前を第1号の選手にしよう」

[だがそれから佐山はメキシコ行きを命じられ二年]

欲求不満ばかりがつのる日々から佐山を救い出してくれたのは、意外にもカール・ゴッチだった。(略)

[友人のジムで指導するためにゴッチは度々メキシコを訪れており]

 来日するたびに付け人として面倒を見てくれた佐山が、別人のように痩せてしまったのを気の毒に思い、ゴッチはフロリダ州オデッサの自宅に連れ帰った。

 1980年4月のことだ。

 《猪木はよく、若いレスラーをとんでもない場所へ遠征させていた。テネシーやメキシコなど待遇の悪い土地へ、非常に問題のあるルートを使って送るんだ。日本へ戻ってきたときに、日本がいかに条件がいいかということを分からせるつもりだったんだろう。だから彼らは、私がヤングボーイたちにレスリングを教えることを嫌っていたよ。なぜならヤングボーイたちが力をつけ、独立心をもつようになると反抗的になるからだ。だからボロボロになるまで追い詰めて、日本に帰ってくると幸福感を味わえるようにもっていくんだ。佐山が、その典型的な犠牲者だったよ。》

[佐山はフロリダの藤原夫妻宅に転がり込んだ]

新間は2500万で猪木の協力を得る。長州は2000万では安いと、維新軍団ごと、テレ朝と専属契約を結んでしまう。そこで佐山と和解。WWFのベルトを持って凱旋帰国したザ・タイガーをフジテレビで放映するという計画だったが、新日が契約があるとWWFに抗議し消滅。フジが降りる。結局、新間が集められたのは前田、木村、剛、浜田の四人。猪木に頼み、高田をシリーズ限定で、ヘビー級の外人を、なんと馬場に頼み、ファンク経由で二流レスラーが手配された。ダッチ・マンテルはヒールの仕事をそつなくこなすつもりで来たが、前田のフライング・ニールキックを顔面に食らって失神流血。

 俺は、このツアーがタフなものになることを覚悟した。

 しばらくすると、マエダが俺の控室にやってきた。何度も頭を下げて「ソーリー、ソーリー」と繰り返している。(略)人を散々な目に遭わせておいて、何がソーリーだ。このクソ野郎が。

 だが、結局俺はマエダの謝罪を受け容れた。これ以上ひどい目に遭いたくはなかったからだ。(略)

 俺はケーシーとスウィータンのふたりに聞いてみた。

 「日本人はどうやってワーク(試合を盛り上げる)すればいいのかわからないんじゃないのか?」

 ケーシーは、呆れ顔で言った。

 「バカ言ってるんじゃないよ。ヤツらには最初から試合を盛り上げるつもりなんかないのさ。ほとんどシュートグループじゃないか!」

このままじゃ駄目だと新日と提携しようとした新間に、あなたを信じて新日を退社したのにと、伊佐早敏男と上井文彦が離反。怒った新間はUWFを崩壊させるため前田らを全日に送ろうとしたが、浜田以外は従わず。レスラーとフロントの飲み会に呼ばれていたのがイラストレーターの更級四郎。自分だけ新日に戻れたのに仲間を思って残った前田に惚れて協力することに。まずターザンに「Uの記事は全部あなたに書いて欲しい」と依頼、杉山編集長は「ゴングを突き放すチャンス」だと口説いた。さらに伊佐早に

「ここが勝負だと思って、藤原喜明さんを引き抜いてくれ」(略)

『どうして藤原なんだろう?』と、みんなは疑問に思う。そこで週プロの山本さんが『藤原は新日本プロレスの道場主だ。UWFは新日本から精神的な支柱を引き抜いてしまった』と書く。みんなはなるほどと思うはずだよ。(略)

藤原さんには『一番強いアンタが必要だ』と引き抜いてくれ、僕は言った」(更級四郎)

(略)

 新日本プロレスでは番犬として低く見られ続けてきた自分を、UWFは主役として迎え入れたいと言ってくれた。『週刊プロレス』も大きく扱うと約束してくれた。

 既に35歳。男が勝負をかける最後のチャンスではないか。

《どうせ俺の人生はゴミよ。だが、そのゴミが35歳にして立ったんだ。11年間も新日本プロレスに世話になった。新日本は、俺の青春のすべてだった。これが酔わずにおれるか?(略)高田、本当にありがとう。お前には一生、俺は感謝してるぜ。俺がUWFに行くといったら「僕も行きます!」とすぐにいってくれた。俺はうれしかったぜ。UWFがつぶれたら、俺の財産は全部お前にやるからな。お前には絶対に苦労はさせん。(略)俺たちは“藤原組”だ (略)》

佐山、合流

現在のUWFはショーを見せるプロレス団体にすぎないが、将来はリアルファイトの新格闘技団体へと移行する。その時に活躍するのは(略)[自分や前田らではなく]自分が育てた選手たちになる。

 その第一歩として、ザ・タイガーはUWFのリングに上がる。

(略)

[「無限大記念日」初日前日、道場でリハーサル:前田証言]

 《(略)でも、これがうまくいかなかった。ロープに飛ばずグラウンドで相手と密着しての関節技の攻防を展開しようとしても、お互いに膠着状態が続いてしまう。(略)

 これでは、会場に足を運んでくれたファンに胸を張って見せられる攻防ではないと、みんなで頭を抱え込んだよ。

 特にショックを受けていたのは佐山さんだった。(略)いざ試合形式になると全くその[シューティング]技術が活かされないんだから。スパーリングが終わって茫然とたたずむ佐山さんの姿を今でもはっきりと思い出すことができる。

[そこで藤原が]ところどころに従来のプロレスのエッセンスを取り入れないとファンは納得しない」[と提案]》(略) 藤原は正しかった。翌日に行われたメインイベントは華やかでスピーディーなものになり、観客を熱狂させたからだ。

崩壊寸前でもUに残った前田へのスタッフの信頼は厚く、Uの中心は前田だった。だがゴッチは更科を呼び、『サヤマをエースにしないとダメ』だと進言。前田はエースから一歩引くことに。

スタンドからの関節技でフィニッシュするなど、これまでのプロレスでは決して見られないものだった。(略)だが、じつはこの試合には、別のフィニッシュが予定されていたのだ。

「あれは僕が佐山さんに伝えた筋書きとは違うんですよ」

と、更級四郎は言う。

 「キックでダウンした藤原さんはピクリとも動かず、試合続行不可能でレフェリーストップになるはずだったんです。本当は。

 佐山さんの談話も、あらかじめ用意しておきました。

 『これだけ蹴っても倒れない。僕のキックは藤原さんには効かないんじゃないか、と思っていたらようやくダウンしてくれた。藤原さんは凄い』

 ところが、藤原さんが立ち上がってきちゃったから佐山さんは困った。とっさに浮かんだのがチキンウィング・フェイスロック。このあたりが佐山さんの天才的なところです。(略)藤原さんも『ああ、ここで終わりなんだな』と思ってギブアップした」(略)

予定外のチキンウィング・フェイスロックは、以後、UWFを代表する技になっていった。

佐山が藤原の頭部と顔面に55発蹴りを入れ観客を震撼させた試合翌日、藤原の顔に腫れはない。フォロースルーのない、相手にダメージを与えない蹴りだからだ。残酷だという声に佐山は週プロ誌上で釈明。

何か誤解している人が多いので言っちゃいますけど、アレは単なるプロレスですよ。ある、格闘技の事を何も知らない週刊誌が、まるでケンカのルールでもやってるように“アレはなんだ”なんて書いてましたけど、アレはプロレスから3カウント(のルールを)とっただけの事ですよ。

(略)

だが、観客には何もわからなかった。

何もわからないまま、UWFがリアルファイトであり、新しいプロレス、未来のプロレスであると信じた。

その時だった。バキッ!!という鈍い音と、アウッ!!という悲鳴が館内に響いたのである。まさか…恐れていたことが…。(略)勝った藤原もリングに顔をうずめて肩をふるわせる。》(略)

 控室の藤原は「折ってやろう、とは思ってなかった。友達を傷つけるなんて」と涙にむせんだ。

 しかし、実際には佐山の左肩は脱臼などしていなかった。

「藤原さんも、やっぱり目立ちたいんです。だからこそ『友達の肩を折ってしまった』なんて言う(笑)」

(略)

「試合後まもなく、左肩をテーピングでグルグル巻きにした佐山さんが家に遊びにきた。理由を聞くと『だって藤原さんがヘンなこと言うんですもん。もうすぐ週プロに記事が出ますよ。肩が折れているはずの僕が、何の手当てもしないわけにはいかないじゃないですか』だって。(略)

[数日後の試合で、怪我で高田に負けたと言う佐山]

佐山さんにはそういうところがある。負ける時には、あらかじめ理由を作っておくんです。やっぱりスターですからね」(更級四郎)

 そんな佐山に、更級はリーグ戦を提案した。(略)Aリーグ最下位の選手はBリーグに落ちるという仕組みだ。(略)

 「ほかのレスラーにBリーグに落ちてくれなんて、僕からは言えません」と佐山に断られた更級は、自ら前田日明に会いに行った。

 「僕から前田さんに言いました。あなたや佐山さんが優勝したのでは誰も驚かない。でも、あなたや佐山さんが、意外にも1勝くらいしかできなくてBリーグに落ちれば、大変な話題を呼びますよ、って。

 前田さんは即答しました。Bリーグに落ちてもいい。UWFを存続させるためだったら何でもやります、と。この人はいいなあ、と思いました。UWFが一番苦しい時に、前田さんが自分を犠牲にして頑張ったことは忘れられるべきではないと思います。

 プロレスラーとしての才能は、佐山さんの方がずっと上。でも、前田さんには素朴で温かいところがあった。

社長逮捕、豊田商事問題、みな不安になるなか、道場に来ない佐山は孤立していく。伊佐早がリング上で佐山を制裁しろと前田を焚き付ける。

[星名治談]

前田さんも、佐山さんをつぶすつもりはなかったと思います。プロレスの試合として、なんとか成立させようとしていた。

 ただ、伊佐早さんたちに焚きつけられていたから、前田さんも何かをやらないといけない。でも、どうしたらいいかわからない。そんな感じでしたね」

UWF離脱後、佐山の談話をまとめたのは更科。『ケーフェイ』というタイトルと本文前後のコラムを書いたのがターザン。

  • アンドレ事件

気の置けない仲間たちと楽しい三週間を過ごすつもりで来たら、マエダが仲間に怪我させまくり。制裁してやるとアンドレ。

 この試合を目撃したマスクド・スーパースターは、前田日明は最悪のレスラーだと証言している。

 《正直に言おう。マエダはガッツがなく、自分のことしか考えないセルフィッシュなレスラーだ。私はマエダとは何度も戦っている。(略)マエダが私やマードックを傷つけることは決してない。シュートを仕掛けられたこともない。もしそんなことをすれば、必ず報復を受けることをマエダはよく知っているからだ。我々は決して許さないからね。

 だが、マエダは、スキルがなく、自分の動きについてこられない相手に対しては、徹底的に相手をつぶして自分を良く見せようとする。(略)

ケガを抱えていたアンドレの足を蹴って破壊した。

 アンドレはマエダをつかまえようとしたが、できなかった。身体のコンディションが悪く、うまく動けなかったからだ。当時、アンドレの健康状態は良くなかった。

 アンドレ戦以前から、私のマエダに対する印象は良くなかったが、試合後は最悪なものになった。》

次回に続く。

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2017-02-24 ウソのようなホントの英文法 佐久間治 このエントリーを含むブックマーク


ウソのようなホントの英文法

作者: 佐久間治

メーカー/出版社: 研究社

発売日: 2009/02/25

|本| Amazon.co.jp

1.layは自動詞「横たわる」?

自動詞(横たわる)lie lay lain

他動詞(横たえる)lay laid laid

He laid on the street「彼は路上で寝転んだ」

日本人はlaidではなくlayが正しいとする。大半のアメリカ人は問題ないとし、イギリス人は「彼が卵を産んだ」と取れると非難。イギリスとは違い、アメリカ英語では他動詞layが自動詞の領域を侵食。とある英語フォーラムで著者が入手した情報では、「ほんとどのアメリカ人は高校に入学するまでlieの存在を知らない」「学校で強制的に教えられるが、卒業すると忘れてしまう」。

onesefの用法がどんどん廃れており、lay oneself down(自身を横たえる)でoneselfを使うのが面倒になってlay downで済ますようになった。

3.drown oneselfは「入水自殺する」?

学校文法では get drowned、drown oneself、drownの3つを同意とするが、「彼は川で溺れて死んだ」のつもりで下記の文章をアメリカ人に見せると、2と3は違う意味にとる。

1) He drowned in the river.

2) He got drowned in the river.

誰かに沈められて殺された

3) He drowned himself in the river.

身投げした

[受動形の be drowned も]イギリス英語では他動詞「溺れさせる」の受身で「溺れる」を維持するが、アメリカ英語では「溺死させられる」と受け取られ、第三者の関与を匂わせる。(略)

drownは「死ぬ」を含意するので、単に「溺れる」は almost[nearly] drown で表現する。また drown to death は重複表現になる。

6.to不定詞の主語は古すぎる

To read this book is very hard.

「口語文ではありえない」とアメリカ人。

以下のように副詞的に使うのは口語でもあると回答。

To hear him speak English,you would take him for an Englishman.

しかし条件用法については下記の方を使うという見解

(By) hearing him speak English

イギリス人は「『まるで外国人のように話す』と言いたいなら」

If you hear…とか言ったほうがいいと。

To survive the hurricane……

のような目的用法でなら大半がまったく問題ないと回答。

12.分詞構文

Turning left at the next corner,you will find a tall building.

いくつか挙げた文の中で、特にこの文が不評。口を揃えて「When you turn left か Turn left…and you'll find」でいいと断言。

すでに彼らの頭の中に「条件」はないので、この構文を付帯状況ととらえて、予想を超える指摘をする者もいた。

(略)

「この文が変なのは、『角を曲がりながらその建物を見る』を暗示していることだ。曲がったあとで見るはずだ」

(略)

[別の回答者は]

 道を教えるくらいで、わざわざ分詞構文を引っ張り出してくるな、Whenを使え(略)

「まるでツアーガイドかガイドブックの解説のようだ」

14.分詞構文のルール

He picked up a rock and threw〜を Picking up a rock,he threw〜とするのがアリかナシかは外人でも意見分かれるてな話の後の最後に

そもそも、先のような状況で分詞構文を使おうとする発想がおかしいらしい。彼らの感覚には、どれが分詞(構文)で、どれが動名詞かなんていう区別がないから、質問自体が意表をつくものだったようだ。

Having fallen from the roof〜という文章について尋ねると

Even though とか After falling にするとイギリス人。

完了形の分詞構文で fall のような自動詞を使うのはきわめて稀、とアメリカ人。

19.shallは常用英語から消えた?

アメリカ人二人の見解

shall は、法的な契約書で主に使われる。日常会話で使われるのは稀だ。

普段の会話では誰も shall なんて使わない。ダンスをするとき以外は。

21.could は can の過去形?

試験に通ったというつもりでネイティブに I could pass my driving test. と言うと、

間違いなく仮定法と受け取られ、「私だったら合格するのに」か「(明日)は合格するかもしれない」と解釈される。

 その相手が親切だったら、 I was able to か、I passed と言うようにと教えてくれるだろう。(略)

文法書も英語の教師も could が過去時制を表すことはほとんどないことを強調して伝えるべきだろう。

(略)

 日本人が恒常的に犯すこういった誤りにはネイティブ・スピーカーも閉口していて、機会あるごとに「 on a particular occasion には could は使えない」と口を酸っぱくして言っている。 could が過去で使われる状況は、たとえば、主体(主語)に永続的な技能や能力が備わっているときだけである。(略)だから水泳や語学力など能力について述べる場合に限られる。しかも和訳は「〜できた」というよりは「〜する能力を持っていた」くらいにしかならない。カナダ人が could の実際の運用について名言を吐いている。(略)

could は可能性であって能力ではない。(略)

未来に対して could を使うのは構わないが、昨日の出来事に使うことはできない。 be able to はどちらも使える。

30.2者間でも最上級は可能?

[二人兄弟で自分が兄だと言う時、ネイティブは older を使わず I am the oldest child.とする]

 この件に関して、アメリカの文法学者の意見を参考にあげておく。最上級を好むネイティブ・スピーカーの微妙な心理がうかがえる。(略)

「比較級を使うか最上級を使うかの判断基準の1つは‘仲間'か‘仲間はずれ'かの違いによる。たとえば、‘トムはジョンより若い'とした場合、トムとジョンは明確に分離した存在になる。いっぽう、‘トムは少年たちの中で一番若い'とした場合、トムはグループ(たとえ2人であっても)の一員であることを暗示する」

 すなわち、比較級を用いると、AとBの対立が明らかになり、疎外感を与える。しかし、最上級を用いると、AはBやCやDの中の1人、仲間であることが暗示される、ということだ。

40.thatは人にも物にも使える?

 関係代名詞thatに関連して、動物愛護やgender(性別)に敏感になっている欧米人の心情を反映する証言を以下にあげておく。(略)

(アメリカ人回答者)

「『thatは人にも物にも使える』と教える文法書があるが、私は決してそんなことはしない」(略)

(イギリス人回答者)

「古い文法書は動物を指すときは that か which を使えと助言しているが、私の個人的意見では、こういう使い方は魂を持った動物たちに失礼だ」

 たしかに、我々は文法書や文法の授業で「 that は人にも物にも使える」と学んだ。しかし、もう時代に合わなくなってきている。少なくとも、「人にも物にも使える」ではなく、「物や動物にも使えることがある」と書き改めたほうがいい。百歩譲って、動物には that を使うことがあるが、人には使わないほうがいいとは断言できる。

(略)

New Fowler's Modern English Usage はここまで言っている。(略)

「人的先行詞には that は決して使ってはいけない」

(略)

You are the very person that we have been looking for.

「あなたこそ私たちが捜し求めていた人物です」

 これは日本の学校文法で最も強調される that の適用例のはずだが、that を削除するとか for whom にするなど、別の表現を薦めるネイティブ・スピーカーが圧倒的に多い。

20.I was like が大流行、みたいな〜

He was like,“I think you're beautiful and I really like you.”And I was like,“Oh,my gosh,I like you so much.”

「彼が言ったの…『君は美しい、好きだよ』って。だから私も言ったの、『えっ、私もあなたが大好き』って」

 He was like が He saidで、I was like が I said に相当する。どうやら (He)was speaking [talking]like…の省略形だと思うが、確証はない。口語で頻繁に使われる。(略)

(アメリカ人回答者)

「I was like なんて正しい言い方じゃないのはわかっているけど、みんなが使っているし、俺もしょっちゅう使っている」(略)

 今のところアメリカ英語が中心で、かつ口語に限られている。

(略)

 さらに驚いたことに、これと同じ意味で He's all とか I'm all がある。口語で多用され、アメリカ英語では重要表現である。

I went into this bar,and I was like ‘l need a drink.' And the bartender was all,‘No way,you're too young!'

「バーに入って行き、酒をくれって言ったんだ。するとバーテンが、だめだめ、お前は若すぎる、って言いやがった」

なぜ all を使うのか理由がわからないが、若者が好んで使っている。(略)

(アメリカ人回答者)

「少なくとも、若者のあいだでは I was all とか I was like のほうが I saidより頻繁に使われている」

not to say

次は A not to say B で使われる最も有名な例文である。

(1) She is pretty,not to say beautiful.

 これを日本の学生に訳させると、100人中100人が迷わず「彼女は美しいとは言わないまでも、かわいい」と訳す。辞書の定義にもそうあるし、学校でもそのように習う。だが、ネイティブ・スピーカーはそうは受け取らない。彼らは「彼女はかわいいばかりでなく、実に美しい」と解釈する。

 つまり、彼らにとってA not to say B は「Bと言わないまでもA」ではなく、「AというよりむしろB」、あるいは「A、それに加えてB」であり、我々が期待する内容のほぼ逆である。

(略)

「彼女はかわいい。もっと言わせてもらえれば、美人だ!でも、言わないけどね」(略)

 この「言わないけどね」の部分が(I'm)not to say に対応すると考えるといい。

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2017-02-22 自由と平等の昭和史・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


自由と平等の昭和史 一九三〇年代の日本政治 (講談社選書メチエ)

作者: 坂野潤治

メーカー/出版社: 講談社

発売日: 2009/12/11

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第2章『民政党の2つの民主主義――永井柳太郎と斎藤隆夫』田村裕美

植民地獲得の戦争は、当時「悪」ではなかった。(略)

 永井は自由主義政党民政党の幹部の一人でありながら、「平等」という価値にも強く惹かれていた。永井にとっては、遅れてきた日本帝国主義の欧米に対する「自由」だけではなく、眼前の日本の労働者の貧困を救うという「平等」のためにも、植民地獲得は必要であった。

(略)

[1931年]馬場恒吾は、『国民新聞』の「明日の人、永井柳太郎氏」でこう評している。

「彼の根底の信念は、今もなお彼が学生の時の演説そのままである。即ち、彼の目的は、一般民衆の生活の向上という所におかれる。然るに、日本のように領土が狭くて物資が乏しい国においては、国民の生活を豊かにするために、眼を海外に注がねばならぬ。彼の外国留学は、植民政策を研究するためであった。そして、それが一歩進んで外交に興味をもつようになった。外交官の服を着ているが、実質は社会運動家という格好である。

 その腹の底には、日本人の生活を豊かにしたいという欲求がある。だから、普通の社会運動家の如く一足飛びに国際主義になり得ない。(略)」

 しかし他方で永井は、中国で共産党の勢力が大きくなり、日本がその思想に汚染されることをなによりも心配していた。共産党の思想が生活難に喘ぐ層にとって、又、これを救済しようとする者にとっては、大変魅力的であることをよく知っていたからである。

 共産党の思想に汚染されず、しかもブルジョア政党でない政党とは何か。

(略)

 国家主義大衆党とはどういう党なのか、どうやって国家主義大衆党をつくるのだろうか。

(略)

産業は原則として民営に委せるが、国家がこれを統制しながら、ラージスケール・プロダクションを実現して、他方で労資両者間の分配の公正を実現する。

 また、独占的性質を持つ産業は、不労利益の増大の原因になるので、これを国家管理又は国家統制の下に置く。このようにして、「経済組織の非合理性並びに非社会性に発する階級闘争をその根底から防止せんとする」。

 けれども「吾人は原則として自由を尊重する」。なぜなら、「吾人をして最大限度に独創発意の機会を得せしめ、以て天賦の能力を最高度に発揮せしむることが、即ち社会進化の要諦である。従って、吾人は決して公正なる競争を抑圧せんとする者ではない」。

 「併し、吾人は真に公正なる競争を尊重するが故に、公正なる競争と両立せざる特殊産業の国家管理又は国家統制を唱え、公正なる競争に対する最大限の機会を保障せんと欲する」

 ここまで来ると、どう考えてもちょっと苦しい弁明ではないか。しかし、永井の使命感は強引だった。白黒つけるのはこの時期を乗り越えてからでよい。今は目前の危機をなんとか脱するのだ。それが危機に直面した政治家の役割なのだ。

(略)

 「日本並びに日本と経済同盟の関係にある地域の資源、資本、技術及び労力を総動員して、国家の指導統制及び保護の下に、東亜ブロック経済の新機構を確立し、生産の増大、分配の公正によって階級闘争を根絶し、以て、国家更生の大本を確立しなくてはならぬ。国家主義大衆党の使命がそれである」

第3章『「革命」と「転向者」たちの昭和――野上彌生子を読む』北村公子

[事件当時の彌生子の]日記に展開されている独特の理論はわかりにくいが、まとめると次のようになるだろう。(1)二・二六事件は「空前の武力革命」のように見えるが、実は「序曲」にすぎない。(2)なぜなら、先の総選挙の社会主義政党の躍進からわかるように「民衆は軍部のバッコやファッショの台頭」を批判しているのだから「真崎派の仕業」つまり、二・二六事件を認めるわけがない。(3)それでもなお軍部が好き勝手を続け「民のこころを強力で無理に歪めたら」その時こそ民衆が立ち上がり本当の革命が起こり民主主義が実現する。(4)だから今はひたすら我慢して軍部のやりたい放題の末の自滅を待とう。

 しかし、この激しい思いをストレートに作品に反映させないところが、先に中条百合子が指摘したように、彌生子独特の「一種のグツド・センス」である。発売禁止になったりせぬよう細心の注意を払って、「迷路」では次のような表現になる。

(略)

 以上、長々と引用したのは、彌生子の日記と「迷路」とでは、すっかり違っているからだ。日記では軍の暴挙は民衆の反抗(革命)を起こす呼び水になるだろうと書いていたのに、「迷路」では省三が自分が体験した学生左翼運動と重ねながら二・二六事件を分析する形になっている。もちろん当日思いつくままにペンを走らせた日記と、事件後一年近くたってから、人に読んでもらうために小説に書くのとでは、違ってくるのは当然だろう。

(略)

 注目したいのは、彌生子は今度の二・二六事件と先に「黒い行列」で描いた学生の左翼運動とは、理論・目的は異なっていても、由来する根っこの部分には同じ認識があると主張していることである。その認識とは素朴に世の中を変えたいと思うこと、素朴に「革命」をめざすことである。「黒い行列」では平等と自由を求めて、二・二六事件では天皇中心主義を求めて。

 二・二六事件から二日後、省三と小田は兵士が立て龍もっている現場を見に行く(略)

上等兵が出てきて群集に向かって親しげな態度で「此度のことは皆さんに迷惑をかける積りは微塵もない」と、演説するが、群集と兵士の間には「冷やかな無関心がつくる以上の空虚」があった。演説の内容は、二等兵の心情として間接的に表現されるけれども、伏字だらけでわからない。上等兵の演説を誇らしげに見守る幼椎っぽい二等兵を眺めているうちに省三は不愉快になってくる。妄信と忠誠をありありと示し、すっかり軍隊色に染まった二等兵にどうしようもない救いのなさを感じたからだ。しかし、その救いのなさはそのまま自分にもあてはまると省三は気づく。

 社会の表と裏をつぶさに知った木津は、踏みつけにされながら生きて行く陣営に自分がいることを以前にもまして痛感している。株屋にでもなって大金を儲けて世の中を見返してやりたいと思う。が、社会に飲み込まれてしまいそうになりながら次のように言う。(略)

[現在の資本主義的機構は]腐ったり、虫が喰ったりで、部分的にはぼろぼろしてゐる筈のものが、それでがっちり形態を保ってゐる。その巧妙さはとても叶はんと思ふほどで、それにつけても学校の時分、今にも自分らの手で新世界を現出させられる気でゐたのが可愛らしいほど幼稚だった気がするよ。

(略)

軍部からの挑戦である宇垣内閣流産事件について、彌生子はつぎのように記す。

一月二十九日〔昭和十二年〕

 二十五日から今日まで粘ってゐた宇垣氏の組閣が陸軍の反対で陸軍大臣をえられず、終に流産した。(略)数年まへなら宇垣なんぞ出られてはたまらないとかんじてゐた民衆が、その宇垣の出馬でほつと息をついた有様であつたといふのは、いかに日本の状態が急変してゐるかを語るものである。しかるにそれが流産したのである。今後の日本は一歩々々怖ろしい崖つぷちに追ひつめられて行くのである(略)林大将に組閣の命が下つた。

(略)

人気のある近衛が首相となって、国民はかなり期待を抱いたようである。しかし彌生子の見方は異なっていた。

(略)

近衛公が死を覚悟するか、軍部が思ひきつた譲歩をするかしない以上、決して光明は来ない。近衛公も出た以上それ位の事はやらなければたゞ箔を落すために簾から現はれた事になるであらう。

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2017-02-20 自由と平等の昭和史 一九三〇年代の日本政治 坂野潤治 このエントリーを含むブックマーク


自由と平等の昭和史 一九三〇年代の日本政治 (講談社選書メチエ)

作者: 坂野潤治

メーカー/出版社: 講談社

発売日: 2009/12/11

|本| Amazon.co.jp

はじめに――忘れられてきた「対立相克」 坂野潤治

社会的、経済的な「不平等」が全く改められないで、「政治的平等」だけが与えられた時、労働者や小作人や零細企業者はどうするであろうか。1925年に選挙権を与えられた約900万人の新有権者は、選挙を通じて議会変え、議会を通じて政府を動かし、社会的、経済的不平等の是正を図ると考えるのが普通であろう。当時の進歩的な知識人も、言論界も、そう思っていた。[しかし結果は、既成政党が無産政党に圧勝](略)

これ以後「既成政党」はもちろん言論界も、普通選挙制の導入による政治構造の変化という恐怖もしくは期待を完全に忘却(略)

軍ファシズムによる「既成政党」の衰退の方に関心を集中した。

(略)

[戦後の日本史学は]「自由主義」を攻撃する「社会主義」を、「ファシズム」の味方と位置付けたのである。こうなれば、たとえば社会的経済的不平等に無関心だった斎藤隆夫は、左右のファシズムに反対した唯一の「自由主義者」になる。不幸なことに、ファシストの前身は、ヒットラーもムッソリーニも「社会主義者」であった。こうして1936、37年の社会主義者[社会大衆党]は、真中の「自由主義者」を飛び越えて、最右翼の軍ファシズムの同調者として片付けられてきた。

(略)

「社会主義」陣営において、「自由」よりも「平等」を重視しつづけ、その観点から「既成政党」との対決を最優先したのは、社会大衆党の主流派であり、彼らはそのためには陸軍内の同様のグループに接近することも厭わなかった。彼らの立場は、「自由」よりも「平等」を基準とする点で、「社会民主主義」と言うよりは、「国家社会主義」と呼んだ方がいい場合もあった。しかし、このグループをその「国家社会主義」的側面から「ファシスト」と決めつけてしまっては、普通選挙下での社会的経済的不平等を求める中下層国民の健全な姿を見失うことになる。(略)

「反ファシズム」の掛け声の下に、旧来の資本家と地主を基盤とする政党政治の復権を求める者と、たとえ「親ファシズム」と呼ばれる危険を冒しても、社会的経済的不平等の是正を普通選挙下の政治に求めようとした者たちの対立は、軍ファシズムと自由主義者の対立と同程度の激しさを持っていたのである。

(略)

われわれが「自由」中心型の政治家や思想家の代表格として選んだのは、評論家馬場恒吾である。(略)

自由を中心に1930年代のデモクラシーを考えていた馬場恒吾に対し、同じ昭和のデモクラシーを「平等」を軸に考えていたのは、吉野作造の弟子筋にあたる行政学者蝋山政道だった。彼は新興の社会大衆党の成長の中に、既得権にこだわる自由主義者の限界を乗り越える、「政治」の可能性を見出していたのである。

(略)

 常識的に考えれば、1936年2月の青年将校の反乱は、その六日前の総選挙での民政党の増大と社会大衆党の躍進とに、真向から対立するものであった。「自由」と「平等」が「テロ」によって脅かされたのである。しかし、野上彌生子の小説の主人公たちが昭和の初年に最重視したのは、「自由」でも「平等」でもなく、「革命」であった。彼らは「転向」後にも、この「革命」幻想を捨て切れなかった。

 このような観点から、彼ら転向者は、青年将校のテロを、「自由と平等」の敵と簡単には片付けられなかった。彼らは、方向は正反対なことは十分に知りながらも、二・二六事件の中に、かつて自分たちがめざした「革命」の夢の一端を見出していたのである。少なくとも彌生子は、小説の中で、このような転向左翼のねじれた心情を描いている。

第一章 『反ファッショか格差是正か ――馬場恒吾と蝋山政道』 坂野潤治

1937年1月に、天皇の組閣の大命を受けながら陸軍の反対で宇垣一成が組閣を断念(略)

[戦後、10年前の組閣失敗について宇垣は]

[訪ねてきた人から]世相を聴くと、『どうも陸軍一部の動きが変だ。近い中に何か外に対して事を始めるのぢやないか。それはロシアに対してやるのか支那に対してやるのか、その二つの中何れかに対して事を始めようといふ企てがある。何かやるに違ひない。』、斯ういふことであつた。

 そこで私は考へた。『これはどうも大変な事だ、その当時の日本の勢といふものは産業も着々と興り、貿易では世界を圧倒する。(略)英国を始め合衆国ですら悲鳴をあげてゐる。(略)[安い]日本品とは競争が出来ぬ、といふことになつて来かけてをる時である。この調子をもう五年か八年続けて行つたならば、日本は名実共に世界第一等国になれる。……だから今下手に戦などを始めてはいかぬ。(略)併し戦争をさせぬやうに抑へて行くには凝つと政界を視渡してをつても、これがやれさうな人は見へぬ。殊に震源地が陸軍にある、問題の中心が陸軍にある。その陸軍育ちの人間としては自分が自惚れではないけれども年の甲を積み相当に重きをなして来てをるのだからやはり我輩がもう一度犠牲となつても之を脱線させぬやうにやる為に出なければならぬ』と考へた」『宇垣一成日記』

 ここで宇垣が回想しているのは、対ソ、対中戦争を回避して経済大国化路線を続けるために陸軍の長老たる自分が出馬を決意した、ということである。(略)

ここで重要なのは、第一に宇垣は戦争回避だけではなく、「憲政とフアツシヨの流の分岐点」にあって「憲政最後の防波堤」たらんとしたという点である。1937年1月に宇垣は、戦争か平和か、ファッショか憲政かの「分岐点」を見出していたのである。

 第二に、宇垣は自己の組閣を阻止する陸軍に対して、政友会や民政党が一斉に反撃することを期待していた点である。戦争とファッショに対して、いわゆる「既成政党」が一大反撃に出ることを、宇垣は信じていたのである。

 たしかに太平洋戦争を経験した戦後の日本人の目からすれば、穏健な陸軍長老を首相にして、全議席の約八割を握る政・民両党が結束して戦争と軍ファシズムを阻止するという構図は、文句のないシナリオに映るであろう。

 しかし、このシナリオが最善に見えるのは、八年後の敗戦時から振り返るからである。(略)

[普通選挙から12年、政治的平等だけでは満足できなくなっていた]

 そのような時に、「大正デモクラシー」の成果の上に10年以上もあぐらをかいてきた政友会と民政党に、反戦反ファッショのために我々の連立内閣を支持せよと言われても、漸く上昇気流に乗りつつあった社会大衆党が首を縦に振るとは限らなかった。彼らにとっては、宇垣内閣の流産は、特に悲しむべきものではなかったかも知れないのである。

(略)

「既成政党」が反軍反ファッショの声を挙げ、躍進する新興の社会主義政党がその「既成政党」を攻撃するという民主勢力間の“ねじれ”を、知識人たちがどう見ていたのか

(略)

[37年5月中央公論主催の座談会における、馬場恒吾、清沢洌]二人の自由主義者の観点は100%戦後の「昭和史」理解に受継がれてきたものである。戦争とファシズムという対外対内の危機を前にして、農村地主と財界を基盤とする「既成政党」を守れ、という主張である。

(略)

[一方]蝋山は「既成政党」の方こそ、労働者、小作農、中小企業者らの不満を背景に躍進を続ける社会大衆党に歩み寄れ、と反論

(略)

[ロンドン軍縮会議において、日本は不当に譲歩した、浜口首相は天皇大権を干犯したと主張する政友会]

五・一五事件で倒された政友会の不人気は、その腐敗性にあるのではなく、そのファッショ性に原因するというのは卓見である。しかし衆議院に過半数を占める政党を政権につけないという二大政党制論があり得るであろうか。

 ファッショ的な政友会を嫌悪し、微弱すぎる新興の社会民主主義政党(社会大衆党)にも期待できないとなれば、馬場としては「既成政党」の第二党である民政党に頑張ってもらう以外にはなくなる。

(略)

しかし、馬場は皇道派や政友会のような日本主義的なファッショだけではなく、陸軍統制派と政治化した官僚(新官僚)と社会大衆党が結んだ「合法フアツシヨ」に対しても、強い警戒心を抱いていた。

(略)

しかし、1932年2月の第18回総選挙で466議席中のわずか146議席(政友会は301議席)にまで凋落した民政党一党だけに頼って、他の全ての勢力を「フアツシヨ」もしくはその同調者と位置づける、馬場の議論は、著しく現実味を欠く。

 この弱点を補うため馬場は二大政党制論にしがみつく。たとえファッショ的でも政友会を二大政党制の一極として他の諸ファッショ勢力とは違って尊重するのである。(略)

以上のような馬場の主張は1936年2月の第19回総選挙において実現の寸前にまで至った、政友会が71議席を減らしたのに対して民政党は78議席を増加させた。[民政党:250、政友会:171、社会大衆党:18](略)

二大政党の間では平和外交で自由主義の民政党が優位に立つ、これが1936年2月20日の総選挙までの馬場恒吾の自由主義だったのである。

[一方、蝋山は社会民主主義者として既成政党と社会大衆党との二大政党論者だった]

馬場の「立憲独裁」への転換

「立憲的独裁」という概念で眼前の政党政治の衰退を分析したのは日本では、蝋山政道が最初であろう。彼のすごいところは1932年の五・一五事件による政党内閣の崩壊の後で、「立憲的独裁」の到来を自覚したのではない点にある。それより4ヶ月に前に(略)彼は「憲政常道と立憲的独裁」と第する短文を発表している。(略)

[第二次大戦]後の民主主義体制への復帰を知っていた、ロシターにとっては「立憲独裁」とは、危機が克服されたら再び民主主義体制に戻るという約束のもとに行われた、いわば期間限定的な独裁だった。(略)

[蝋山は]ロシターよりもはるか以前に、ファシズムでもスターリン独裁でもない危機克服体制として「立憲独裁」を考えていたのである。

(略)

[二・二六事件を境に馬場も蝋山も微妙に変化]

執拗なまでに、既成ニ党による二大政党制を主張してきた馬場は、二・二六事件を機として、政民連携論に立場を変えた。陸軍内の穏健派と、政民両既成政党の協力による議会政治の復活、という主張に変わってきたのである。これは数年前の大恐慌時に蝋山が一旦は覚悟した「立憲独裁」論への馬場の転換である。

 他方蝋山の方も、社会大衆党を軸としながらも、かつての「立憲独裁」論に回帰しようとしていた。

(略)

「政党が連合した内閣が出来」るには、もう一つ条件が必要である、と馬場は説く。陸軍が国家社会主義的なイデオロギーから脱して、国防充実の一点に専念することである。馬場はこれを、「広義国防」から「狭義国防」への転換と呼んでいる。(略)社会大衆党などの主張の逆手を取ったものである。(略)

物分りの良くなった陸軍と、「既成政党」との協力による「狭義国防」の実現という馬場の構想は、近衛文麿の下に新政党を作って、国防と社会改造を実現しようという社会大衆党を孤立させようとするものであった(略)

ここで注目すべきことは、軍部が近衛を担ぐ新党運動から手を引くことが、「狭義国防」と同じことと位置づけられている点である。(略)馬場は社会大衆党が否定の対象として掲げた、「狭義国防」と「政民連合」のセットを、はっきりと選んだのである。(略)

それは戦後外交の用語を使えば、「抑止力」論とでも呼ぶべきものであった。すなわち陸軍の主張する対ソ戦準備の軍拡計画を容認しながら、「政民連合」の力で戦争の勃発自体は押さえるというもので、戦後の米ソ冷戦体制に酷似した構想だったのである。

(略)

 国内的には陸軍の合理主義者(たとえば石原莞爾)と政民連合の協調、対外的には「日ソ冷戦体制」の堅持、これが日中戦争直前の自由主義者の橋頭堡だったのである。(略)

[再度説明]

陸軍が両既成政党の意向を尊重するのだから、両党を通じて議会の意向をも尊重することになる。その点では、この体制は明らかに「立憲的」である。しかし他方で、衆議院の八割以上を占める両党が協力して陸軍の対ソ戦準備を支持することが、この体制における政党側の譲歩である。そうだとすれば、国民の側には、あるいは議会の側には、これ以外の政策、これ以外の体制を選択する余地はない。(略)

この点で馬場構想は明らかに「独裁的」だったのである。馬場構想は、「立憲的」であると同時に、「独裁的」だったのである。

「粛軍演説」を「旧潮流」とした蝋山

 当時の論壇でも今日の学会でも、二・二六事件に正面から対抗した者といえば、必ず民政党の斎藤隆夫の名前があがる。(略)有名な「粛軍演説」がそれである。

 しかるに蝋山は、この斎藤演説を「旧潮流」の典型として切って捨てる。(略)

斎藤の「極めてエレメンタルな立憲主義論」が大受けした理由は、二・二六事件により「立憲主義」が脅威にさらされたためである。しかし、単なる「立憲主義」の再確認だけで、議会政治は復権できるであろうか。蝋山の答えはノーである。(略)

彼は斎藤隆夫の立憲主義を「旧潮流」と呼び、自分の「憲法の範囲内」での「革新」を「新潮流」と位置付けているのである。[それはどんなものか?](略)

何らかの形での政民両政党内の改革派の台頭に期待する蝋山は、その勢力と躍進する社会大衆党との提携を求めていた。(略)

 改革された「行政機構」と無力化した「議会」をセットにした上で、蝋山はどうやって「国民大衆との関係を改善」するつもりだったのであろうか。もし議会における社会大衆党と政民反主流派の勢力増大が可能ならば、「行政機構改革」は「議会改革」を通じて「国民大衆」との関係を再構築できる。この場合には、馬場とは別の意味での「立憲独裁」が成立する。(略)

要するに自由主義者馬場恒吾は、政民主流派に片足を置いた「立憲独裁」を、社会民主主義者蝋山政道は、社会大衆党と政民反主流派に軸足を置いた「立憲独裁」を唱えていたのである。

二人の時代の終焉

日中戦争が本格化し長期化するに従い、両者[馬場、蝋山]の路線対立そのものの意味がなくなっていくのである。

 馬場について言えば、言論を通じて議会・政党に影響を与える自由がなくなり、反対に言論の自由が唯一与えられている議会の言論を読者に伝達するのが精一杯になってくる。しかもその議会・政党そのものが政府批判を口にしなくなれば、馬場には言論人としての仕事がなくなる。(略)[日中戦争が本格化する中]馬場は言論の不自由と議会の職責放棄を厳しく批判している。

 彼によれば、言論界は自国の立場と内情を世界に伝える一種の外交機関でもある。しかるに「日本の言論機関も近年必ずしも自由と云へない。従ってそれが如何なる程度に日本を外国に諒解せしめ得たかゞ不明である」。しかし日本には議会がある。「議会政治がまだその機能を失はない国に於ては、その国の政府の真意が何処にあるかは、大抵議会に於ける質疑応答に依って明かになる」。しかるに今日では、「日本の議会は国策の決定に対して、国民の代表機関たる職責を充分に尽くしてゐるか否かゞ疑問である。……議会の方針は政府を後援するにありと云ふのは、われわれ門外漢の俯に落ちないとする所である」。言論界と議会を日中戦争に奪われた時、馬場の時代は終わったのである。

 それにひきかえ、蝋山政道の方は、近衛内閣のブレインの一人として活動の幅を広めていった。しかし、昭和研究会を率いて近衛首相の一種のシンク・タンクの中心メンバーとなってからの蝋山の言論には、議会や政党を「下から」変革しようとしていた日中戦争以前の活気が全く感じられない。(略)

馬場とは別の意味で、蝋山の時代も終わったのである。

(略)

[戦争とテロの1930年代だったが]

本章で明らかにしたように、この八年の間、自由主義者馬場恒吾も社会民主主義者蝋山政道も、自己の政治的主張を実にいきいきと公表している。筆者が「大正デモクラシー」ならぬ「昭和デモクラシー」という言葉で1930年代を語りたいと思ったのは、彼らの堂々とした言論活動に感動したからである。

 それならば何故に彼らは、侵略戦争とテロと天皇制の強化を抑えられなかったのか、と人は問うであろう。この問いに対する答は、もちろん多様である。その中で、本章が明らかにしたのは、悲しいまでの「自由」と「平等」の正面衝突である。馬場は「自由」の旗手であったが、「平等」については驚くほど無関心であった。他方、蝋山が「自由」を嫌ったとまでは言わないが、彼は金持の「自由」よりは貧窮する大衆のための「平等」の方をはるかに重視した。(略)

馬場恒吾と蝋山政道が、あるいは政民両既成政党と社会大衆党とが一つになれば、議会は「自由」と「平等」の合法的機関となり、侵略戦争とファシズムを、ある線までで止められたに違いない。しかし、今日にあっても、「構造改革」と「格差是正」の声が一つになる可能性はない。そしてそれが一つにならないかぎり、「自由と平等」がこの日本を支配することはできないであろう。1930年代の日本の知識人が「自由」のために、また「平等」のために努力しなかった訳ではない。彼らは今日のわれわれと同じように、「自由」と「平等」の両立に失敗しただけなのである。

次回に続く。


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2017-02-16 文化系のためのヒップホップ入門 長谷川町蔵 大和田俊之 このエントリーを含むブックマーク


文化系のためのヒップホップ入門 (いりぐちアルテス002)

作者: 長谷川町蔵, 大和田俊之

メーカー/出版社: アルテスパブリッシング

発売日: 2011/10/07

|本| Amazon.co.jp

大和田俊之はいかにしてヒップホップにはまったか

大和田 僕はあれ[アシッド・ジャズ]がぜんぜんダメだったんです。でも、そのダメというのはわからないという意味ではなくて、逆にわかりすぎてしまうというか、70年代ソウルを何も考えずに今やるとこうなっちゃうよね、みたいな気持ちが強かった。これだとサウンドがあまりに殺菌されていてつまらないなあ、と。だから、あのとき全力でヒップホップに行くべきだと直感的に確信して、何度か試したんですよ。デ・ラ・ソウル[etcで](略)

これでリアルタイムの黒人音楽にハマれるかもしれない、と一瞬盛り上がった。そしたらギャングスタ・ラップが出てきたんです(笑)。あれには完全にお手上げでしたね。(略)

[ドクター・ドレーとかは]これなら僕はおとなしく[元ネタの]Pファンクのアルバムを聴いてます、という感じでした。

 それ以来、ヒップホップ音楽がどのような広がりを持ったジャンルなのか見えないまま、何度かトライしては挫折するっていう、その繰り返しで。(略)使われている元ネタはわかる。(略)

それなのに、彼らがやろうとしている音楽がどうしてもわからない。わからないというか、だったらオリジナルのソウルやジャズの曲を聴いてた方がいいじゃないかってずっと思っていたわけです。それがですね

[5年前フジロックではしゃいで全治4ヶ月の骨折をして入院中にゲームのデビューアルバム『Documentary』を聴いてはまった]


Documentary

アーティスト: Game

メーカー/出版社: Aftermath

発売日: 2005/01/18

|CD| Amazon.co.jp

ジャマイカとヒップホップ

長谷川 (略)[レゲエができた]この時期、ジャマイカからアメリカへの移住が激増するんです。その多くはニューヨーク市に流れ込みました。67年に10代前半だったクライヴ・キャンベル――のちにヒップホップを発明する人なわけですけど――彼の一家が向かったのはマンハッタンの北にあるブロンクスでした。

(略)

[サウス・ブロンクスの少年ギャング団にはニュー・ソウルやフィリー・ソウルは洗練され過ぎで、JBとかのファンクを持ち寄って“ブロック・パーティ”をやるように]

で、ここでクライヴ・キャンベルの出番なんですけど、彼は自分の身を守るために体をきたえたらムキムキになって「ハーキュリー→ハーク」と呼ばれるようになって、自ら「格好いいハーキュリー=クール・ハーク」を名乗るようになります。まあ、ジャイアンみたいな感じですね。その彼が、故郷ジャマイカのサウンド・システムをブロック・パーティに持ち込んだ。巨大なスピーカーで重低音をバンバン利かせて客を圧倒したそうです。これが73年8月のことで、ヒップホップ誕生の瞬間と言われています。パーティの目的は、ハークの妹が新学期に着る洋服代を稼ぐためだったそうで、ヒップホップはジャイアンのジャイ子への愛から始まったんですよ。

(略)

[やがて他の連中も真似するように]

ブラック・スペーズの大幹部に10代半ばでなったアフリカ・バンバータっていう伝説の番長です。彼はハークのDJプレイに非常に感動して、俺もやると。バンバータは番長なんだけど同時に音楽マニアで。(略)

彼もジャマイカ移民とバルバドス移民の息子みたいです。

(略)

音楽を評価する基準も変わってしまいます。DJたちにとってはニール・ヤングよりもスティーヴン・スティルスの方が遥かに偉いんです。理由はレコードに良いドラムブレイクが入っているから。

本歌取り

長谷川 (略)ブロック・パーティ時代に作られたラップのフレーズやパンチライン、発見されたブレイクビーツって(略)「万葉集」なんですよ。作者のわからない詠み人知らずが多い(笑)。ヒップホップっていうのは要するに「新古今和歌集」であって、「万葉集」時代に蓄積されたものをどう発展させていくかっていうゲームなんですよ。

大和田 本歌取りですね。

長谷川 日本人はよく、なんで同じ音楽ばかりサンプリングして、新しい音楽を使わないんだって批判しますけど、それは完全に筋違いなんです。

大和田 それは本当にそのとおりで、あえて図式的にいうと西洋文化にオリジナリティ信仰があるとすると、黒人文化はむしろ本歌取りと同じで、同じ言葉に違う意味を与えて歌ったり、逆に同じ意味を違う言葉で歌ったり、変奏やバリエーションが特徴だといえます。それこそが先ほどいった「シグニファイング」の意味するところで、ひとつの元ネタをいかに変奏するかに面白みを見いだしているんですね。

長谷川 最初はジャズもブルースも同じテーマを変奏していたのに、どこかでオリジナル信仰に取って変わられてしまった。でもヒップホップには未だにそれが残っているんです。

ヒップホップとニューウェーブの蜜月期

大和田 [著作権で揉めた]ナイル・ロジャーズが<Rapper's Delight>のことを聞きつけたのはブロンディ経由だったそうですね。

(略)

長谷川 すでにグラフィティはダウンタウンのアート・シーンに受け入れられていたわけです。そこで人気者になっていたファブ・5・フレディってブルックリン出身のグラフィティ・ライターが仲介役になって、ダウンタウンの「ネグリル」や「ロキシー」ってクラブがバンバータやハークをDJに呼ぶようになっていく。そこでブロンディやトーキング・ヘッズのメンバーとの交流が生まれて、ザ・クラッシュがニューヨーク公演の前座にグランドマスター・フラッシュを起用したり、逆にラッパーたちが99レコーズっていうニューウェーヴ・ファンクのレーベルのレコードを引用したりと相互に影響を与え合った。81年にはアーサー・ラッセルがスリーピングバッグ・レコードを設立して、ヒップホップをリリースし始めます。周辺にはジャン=ミシェル・バスキアやヴィンセント・ギャロみたいな連中がフラフラしてて……。

オールド・スクール・ヒップホップの衰退

大和田 オールド・スクール・ヒップホップは今聴くと音がだいぶ不自然ですね。

長谷川 ご指摘の通りで、オールド・スクール・ラップが衰退した原因としては、すでに80年代に入っているのにオケがディスコ・ノリのファンクで、当時としても古かったっていうのがあると思います。音もあまりにツルツルしていて、ブロック・パーティの粗っぽいノリがないし。


Jungle Music

アーティスト: Walter Gibbons

メーカー/出版社: Strut Records

発売日: 2010/07/20

Amazon.co.jp

ヒップホップとハウスとの関係

長谷川 ハウスDJの始祖と言われるデヴィッド・マンキューゾやラリー・レヴァンの初期のセットリストを見ると、ハークやバンバータとあんまり変わらないんですよ。ウォルター・ギボンズはビート部分を2枚がけしてDJをやっていたそうだし。でもだんだんバスドラムの4つ打ちにビートが均一化していきます。ヒップホップはディスコから影響を受けながらもアンチ・ディスコの側面も強いんですけど、対してハウスはディスコ原理主義ですからね。バスドラ4つ打ちを媒介にすべての要素を仲良く融合しようとする。かつディスコ文化を支えたゲイ・カルチャーに寄り添った音楽ですよね。

(略)

大和田 ヒップホップとハウスは両方ともディスコをそのルーツのひとつとしながら、片方は女性蔑視的な性格を帯びつつ、もう片方はゲイ・カルチャーを継承するわけですよね。(略)

長谷川 でもそれはブルースとゴスペルの関係に近いのかもしれませんよ。ヒップホップの歌詞が具体名を細かく語っているのに対して、ハウスの歌詞って抽象的なんですよ、「今夜は大丈夫!」とか。異常にポジティブで「土曜の夜のゴスペル・ソング」みたいなところがある。

(略)

ハウスもテクノもループ主体の音楽なのに、ヒップホップほど商業的に大きくならなかったのは、ディスコから受け継いだ匿名性や、音楽の中にある超越性のせいなのかもしれません。

ユダヤ人とヒップホップ

[ビースティもリック・ルービンもユダヤ人という話から]

大和田 そもそもアメリカのエンタテインメント産業には最初からユダヤ人が数多く関わっていますが、ユダヤ人と黒人の関係はすごく込み入ってるんです。古い例では、戦前のアメリカでもっとも人気のあった歌手アル・ジョルソンもユダヤ人で(略)

[顔を黒塗りにする芸は]ヨーロッパでは15、16世紀にもみられますが、アメリカでは19世紀(略)白人が顔を黒く塗って黒人のモノマネをするミンストレル・ショーが当時の観客に熱狂的に支持されたわけです。(略)

『ジャズ・シンガー』は主人公[のアル・ジョルソン]がユダヤ教のラビである父親に反発してジャズ・シンガーになる話ですが、背景にはそういうことがあって。要するに、主人公がブラックフェイスにして「黒人をマネる」ことでユダヤ人としてのアイデンティティを隠す、というのがこの作品の隠れたテーマになっているわけです。

(略)

観客は目の前の芸人は「黒人」のふりをした「白人」であると思ってるわけです。すると、アル・ジョルソンが黒塗りにした瞬間に彼は「ユダヤ人」ではなく「白人」としてのアイデンティティを獲得して、相対的な階級上昇が可能になる。これは逆にいえば、黒人の背後でじつはユダヤ人が……

長谷川 すべてを操っている、と。

大和田 そういうふうにイメージを操作しているというか、ステージに立つのは黒人でじつは背後にユダヤ人がいる、そういう構図はアメリカの音楽産業でそれこそ100年以上にわたって続いてます。そもそも20世紀初頭のティンパンアレーの音楽もそうだったともいえるし。(略)

当時のヒット曲で「ジャズ」や「ラグタイム」といった言葉がつく曲の多くはユダヤ人が作曲したものです。彼らはとくに黒人文化を熱心に研究したわけではなく、人々が持つ漠然とした「黒人のイメージ」にあわせてヒット曲を量産しました(略)

[<ホワイト・クリスマス>のアーヴィング・バーリンも]

ユダヤ人なのにクリスマスですからね(笑)

(略)

僕らがいま黒人音楽に抱く「黒人らしさ」のイメージはユダヤ人が作り出してきたという言い方もできると思います。じつは、アメリカの黒人が外の世界から隔絶して純粋な「黒人音楽」を作り出したことは一度もないんですよ。それは常に白人やユダヤ人の先入観に晒されるし、黒人自身がそうしたステレオタイプを内面化することもあります。

(略)

要するにそうした人種間のイメージが絶えず交換されながら半ば虚構としての「黒人音楽」が立ち上がる、そういう風に考えた方がいいのではないかと

ドクター・ドレー<Let Me Ride>

[NWA脱退後のソロ、ドクター・ドレー『The Chronic』]

長谷川 いかに車で気持ちよく響くかを考えた結果、サンプリングの音はモコモコしているから生演奏に差し替えようって判断になったんでしょうね。(略)

それとBPMが遅い。NWA時代の曲は110前後の曲が多いけど、このアルバムは90前後なんじゃないかな。最初に聴いたときはぜんぜんピンとこなかったんですけど、偶然カーステで聴いて、これは車で聴くための音楽なんだって分かったんです。港北ニュータウンの片道が3車線くらいある、まったく人気のない場所をダーッと走っていた時にこの曲を聴いて、ゾワゾワッと鳥肌が立った記憶があります。

大和田 それはよくわかります。あのあたりはだだっ広いところに立体交差が突然現れて、夕暮れ時に走ると近未来的な雰囲気がありますよね。しかも郊外の殺伐とした感じもあるし、車は走っているのに時間が止まったような感覚もある。ポストモダンの特徴は時間の感覚が希薄になって空間が前景化するという言い方をする人がいますが、あのあたりはまさにそう。逆にいうと、パーラメントだとサウンドが人間的/肉体的すぎるのかもしれない。ドレーは生演奏だけど無機質で、それこそ人口密度が低い感じを出したかったのでは? それにしても『クロニック』の低音は本当にかっこいいなあ。

長谷川 このアルバムって全曲カラオケ大会かってくらい原曲をそのまま使っているんですよ。Pファンクとか……

大和田 ダニー・ハサウェイの〈リトル・ゲットー・ボーイ〉もまんま使ってます。

長谷川 でもダニーヘのオマージュというより、自分たちの音楽として鳴らしているんですよ。ヒップホップの世界は僕らとは著作権の考え方が違っていて、世に出てみんなに愛されたらそれはコミュニティの財産。だから、みんなに喜んでもらうために共有財産をストレートに使うという発想がでてくる。ドレーっていわゆるミュージシャン・エゴが欠落しているんですよ。サウンドのクオリティの追求に関しては完全にパラノイアなんですけど、それはあくまで、コミュニティの日常を彩るツールとしての機能を上げんがためなんですよ。でも、もしかするとドレーだけじゃなくて、ヒップホップ自体が自己表現するための音楽ではなかったんじゃないかって思い始めたら、オセロの石がバーっと白から黒にひっくり返るようにヒップホップの聴き方が変わってしまったんです。(略)

[ニューウェーヴ的な価値観から解放されて]

ようやくヒップホップが分かったような気がした。ヒップホップは「新しい/古い」ではなく、自分たちが「今」いる「この」場所のドキュメントなんですよ。リリックもそうで、ギャングスタ・ラップって常に内容が批判されるじゃないですか。でもキワどい話って仲間うちでは共有されているもので、一種のフォークロアですからね。


2001

アーティスト: ドクター・ドレー

メーカー/出版社: ユニバーサル ミュージック

発売日: 2016/01/06

Amazon.co.jp

究極の音響系=ドクター・ドレー

[『2001』収録<Next Episode>]

大和田 このアルバムも聴けば聴くほど、サウンド・プロダクションがすごいな。

長谷川 この頃、トータスが「音響系」と呼ばれてもてはやされていたけど、ドレーこそが究極の音響系ですよ。彼がこのアルバムで何をやったかというと、既存曲のサンプリングをほとんどやめてしまった。生のプレーヤーにジャム・セッションさせて、そこから最小限のパーツをつまんで曲を作ってます。ブロック・パーティ以来、ダンサーが求め続けて、トラックメイカーが既存のレコードから探し続けてきた、ループの快楽のコアの部分だけ提示しちゃった。

大和田 実際にミュージシャンにプレイさせて、パーツだけ切り取って組み合わせる手法はスティーリー・ダンの『ガウチョ』を彷彿させますよね。人間的なグループをストイックに抑圧することで無機質なノリが倒錯的に響いてくるというか。


ハートビート+2(紙ジャケット仕様)

アーティスト: カーティス・メイフィールド

メーカー/出版社: ビクターエンタテインメント

発売日: 2009/03/25

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メアリー・J・ブライジ

長谷川 (略)彼女以前と以降ではR&Bがまったく違った音楽になってしまったんです。(略)

[メアリーの<Be Happy>はカーティス・メイフィールド『ハートビート』の<You're So Good to Me>]のイントロのループに違うメロディと歌詞を乗せているんです。

大和田 ラップを乗せたのではなく、別のメロディで歌っているわけですね。

長谷川 メロディが原曲より不明瞭ですよね?ホーンのソロ・パートみたいにウネウネしている感じ。ブランフォード・マルサリスがインタビューで「メアリーのフレージングに影響された」って語っているくらいで。彼女自身は明快なサビメロを歌わないんですよ。サビ自体はバックコーラスに任せて、彼女は合いの手とかフェイクを入れる。つまりスタンスがラッパーと同じなんです。

大和田 なるほどそうか!メロディなんだけど発想としてはジャズのインプロヴィゼーションに近いわけか。同じコード進行の上で、違うメロディを作曲するという意味でビバップ的でもある。しかもループが続くということは原理的にサビがないということですよね。

(略)

長谷川 ニュー・ジャック・スウィング世代のアーティストって、ヒップホップ・ソウルがもたらしたこの劇的な変化に気付かずに、徐々に落ち目になっていくんですけど、R・ケリーという人だけは違いました。これは初期のヒット曲の<She's Got That Vibe>(1992)です。(略)

この時点ではメロディとコードから曲が作られています。でもケリーは変化に対応するためにこうした曲の作り方を止めてしまうんです。歌に感情をこめるというより、いかに歌をビートに気持ちよく乗せられるか、つまりフロー重視になる。歌詞は韻を踏みまくって、トラックもループ状にして、曲の構造を完全にヒップホップにしてしまった。これは03年の<Ignition>という曲です。

大和田 おお、たしかに聴きくらべるとぜんぜん違う!

長谷川 R&Bシンガーとしてのテクニックやプライドをあっさり捨てたってことが、すごい。本当はもっと歌える人なのに敢えて上手く歌わないんです。歌いこむとノリが悪くなっちゃうから。(略)

本人もラップ・シンギングって言っています。これでR・ケリーはR&B界のキングみたいな存在になりました。今の若手はみんなケリーの影響を受けていますね。で、この流れがTペインまで繋がっていると思うんです。

大和田 (略)ざっくりまとめると、ニュー・ジャック・スウィングがヒップホップとR&Bの融合だといっても、それはあくまでもR&Bの土台のうえにラップが乗っただけだった。ところがメアリー・J・ブライジや今聴いたR・ケリーはそもそもの基礎がヒップホップになっていて、そこに歌が乗っている。そしてこのふたつのジャンルは似ているようで決定的に違う――といったとこでしょうか。

長谷川 だからR・ケリーっていわゆるソウル評論家には手放しに褒められることがないんですよ。逆に時代に乗り遅れたキース・スウェットの方が絶賛されたりするんです。(略)

大和田 (略)じつは別の視点から同じようなことを考えていました。つまり100年以上に及ぶアメリカ黒人音楽史の重心をどこに置くかと考えたとき、R&Bやソウル(略)の流れはむしろ傍流なのではないか、と。本流はあくまでもブルース、ジャズ、ファンク、そしてヒップホップなんですよ。(略)

後者の流れは突きつめればループ、いわゆる反復音楽です。それに対してR&Bやソウルは反復音楽ではないですよね。つまり、楽曲に〈構造〉があるということです。(略)むしろクラシック音楽やポップスに近いんです。(略)

でも先ほどいったように反復音楽にはサビはありません。言い換えれば、クライマックスが常に先送りにされる宙づり状態が延々と続いているともいえます。

(略)

黒人音楽の歴史を俯瞰してみたときに、R&Bやソウルのほうがむしろ例外なのではないか、ということです。

ヒップホップとロック

長谷川 (略)[ロックは]「資本主義社会の中核を担う中産階級からのドロップアウト」ですよね。(略)

でもヒップホップは反対なんです。資本主義から締め出されちゃっている人が、資本主義に参入していくための手段として始める音楽だから、「ドロップアウト」ではなく「イン」なんです。(略)

人気者になると彼らが夢見ていた資本主義社会の成功者になるわけです。(略)

[高級車や宝石を買うことに]自己矛盾はまったく無いんです。


Chocolate Factory

アーティスト: R Kelly

メーカー/出版社: Jive

発売日: 2003/02/18

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2017-02-14 ダーク・ドゥルーズ アンドリュー・カルプ 小泉義之 このエントリーを含むブックマーク


ダーク・ドゥルーズ

作者: アンドリューカルプ, Andrew Culp, 大山載吉

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2016/11/28

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主体――寄せ集めではなく、非-生産

 主体性は恥ずべきものである(略)

主体性は、時代と妥協することで醸成された「混成的な感情」の種から成長してきた。生き残って今もおめおめと生きているという恥、それが他者の身の上に降りかかってしまったという恥、他者がそんなことをなしてしまったという恥、そしてそれを防ぐことができなかったという恥…。こうした幾つもの感情が積み重なって、主体性は大きくなってきたのだ。主体としての現存は災禍の結果であり、それが私たちについて語ることはあまりにも少ない。

(略)

だから、ドゥルーズはアイデンティティ・ポリティクスに対してはただ嘲笑するだけなのだ――「いまだに「私はかくかくしかじかの者だ」と思い込んでいる人たちに対抗しなければならない…。とっておきの体験とかいう論旨は劣悪な反動の論旨なんだよ」。しかし、クィアの理論家たちが私たちに喚起するのは、恥辱とはこのように自己の特権性を主張する人々に対する防御策であり、それをあえて連中に対する武器として働かさねばならないということである。要は、主体をアイデンティティに縛りつけようとするありとあらゆる勢力を脱臼させる情動として、当の恥辱を武器として使おうということである。

(略)

 ある者たちにとっては、世界は寄せ集め[アッサンブラージュ]でできていて、全ての寄せ集めはそれぞれが主体である。

(略)

寄せ集めの思考に従えば、主体性は、一つの身体が有する諸々の力能の総量を確定させるための単なる名前にまで切り下げられてしまうということである。寄せ集めの思考は、身体が持つ多くの属性を作り上げるネットワーク一覧を作成することによって、無血の世界を神聖化しているというわけだ。それゆえに、寄せ集めによるモデル化は、資本主義が「プレル・シャンプーやフォードカーを生産するのと同じように」、主体性を生産する世界と完璧に適合するのである。

(略)

哲学はあまりにも容易に、精神の自己−中心的な習慣が打ち立てる個人的アイデンティティの経験を通じて、超越の錯覚に投げ戻されてしまうからである。ありふれた経験論者たちが嵌まる罠とは、彼らが主体のパースペクティブから身をかわして進むといった最善のシナリオにおいてさえも、依然として現存を再生産の条件に切り詰め、あるものの「自由の度合い」をチャート化してしまうことである。私たちにとっては、主体は一つの身体が有する諸々の習慣の単なる総量として軽蔑をもって語られるべきものである。これら習慣の殆どは思考を避けるように組織されているのだから。

 主体を私たちが望む破滅へと導くのは、非−生成である。ドゥルーズは主体に対する賞賛を抑制しているが、それに場所を与えないわけではなく、この点において「主体なき主体性」を理論化したアルチュセールとは異なる。しかし、いずれにせよ主体が興味深いものになるのは、主体が「〈外〉へ通ずる線」を投擲するときである――つまりは、主体が主体であることをやめるときである

(略)

フーコーの主体化は、主体を助けるために主体性に「回帰」するものではなく、主体を分裂させるものであった。主体は蒸発して、人格もアイデンティティも生き残ることのない力の領野に消失していくからである。これが生成の秘伝というものだ。というのも、生成は「自己自身を超えたものに発展していく主体」とは無関係であるからだ。本当のところを言ってしまえば、生成は非−生成のプロセスなのだ。(略)

これは、「アイデンティティ、知識、場所、そして存在の安定性を破滅させる」プロセスのことだ。

(略)

破滅は、この世界に対する憎悪を滾らせるといういっそう高次の目的を達成できるのだ。破滅を通じて、自らの〈外〉にある耐え難きものを特定したときに初めて、私たちは「恥辱の外側に跳び出し」、「[私たちの]哀れな計画を抵抗や解放のための戦争に転換する」のである。

民主主義

ドゥルーズ=ガタリが出す結論は、自分たちが求めるユートピアの「新たな民衆と新たな大地は、私たちのどの民主主義のうちにも見出せないだろう」というものであった。(略)

民主主義はどれほど完璧であっても、それはいつも暴力の脅威によって裏打ちされた統治者の超越的な裁きに基づいている

世界を破壊する理由

「この世界を信じるべき何かを見つける」という大義の下で、与えられたものを肯定する生産主義者など批判されてしかるべきだ。世界がこんなに悲惨にもかかわらず、もっと良い世界になるための材料がここに予め全て含まれているかのように思い込んでいるほどおめでたい連中なのだ。こうした輩は、結局のところ、破壊の力を放棄したがゆえに、蓄積と再生産の論理を通じてしか、生産を利用=資本化することができないのだと私はよく分かった。しかし、古いものを条件にして新しい世界を創設したとしても、そんな世界の地平が既存のものを超えて広がることはない。これに対して私が提案する別の選択肢は、世界を破壊する理由を見つけ出すことである。

共謀

 暗黒は秘密を促進する。それは、リベラル派の透明性という強迫反復にとって代わる。フーコーは、「警察の科学」におけるこうした透明性の役割を鮮やかに見抜いている。それは、警察国家というドイツの観念においてリベラリズムが始まったときから、現代の生政治に至るまで連綿と続いてきた、国家と資本の結託による治安維持という任務で用いられるということである。これに対して、共謀は全てをしかるべき場所に配置する一貫性に対抗するものである。それゆえ、共謀が推進する秘密とは、見える通りに在るものなど何もないという事実のことなのだ。とはいえ、共謀は神聖なものや崇高なものの追求ではない。それは秘儀的でもなければ、神秘的でもないからだ。それは、ただ開かれた秘密として循環する。開かれた秘密が秘密のままであるのは、選択的関与という原理を通して、繋がり至上主義に抗いながら秘密が作動する場合だけである。そこから受けるべき教えは、「私たちはみな二重の生を生きなければならない」ということであろう。すなわち、一つは、私たちが現在と結ぶ様々な妥協に満ちた生であり、いま一つは、そうした妥協を無効にしようと企てる生である。

[巻末の訳者解説とドゥルージアン4名の応答から]

応答2 反戦運動の破綻の後に 小泉義之

カルプは、正義の戦争と自称した対イラク戦争において、米国政府高官がしきりに「米軍は解放者であって占領者ではない」との発言を繰り返してきたことに注意している。(略)

カルプの指摘するところでは、この類の発言が系統的に押し隠していることがある。すなわち、ハーグ陸戦条約とジュネーヴ四条約では、占領者に対しては国内秩序を回復することと住民の福利を保証することが責務として課されているのであるが、米国は、そのような責務を回避するためにひたすら解放者を自称し続けているのである。専制者の首を刎ねさえすれば頭部なき身体は自己回復するというわけである。大量の兵士と市民を殺害し大量の民衆を難民化させ、しかも内戦化の過程を拱手傍観しながら、そのようにして徹底的に毀損された非白色のイスラム化された身体であっても、自己組織化して自己統治する能力を残していると言い立て続けているのである。

(略)

[2003年の]反イラク戦争の一斉行動は最大の動員数を誇ったものであったが、「米国が戦争へ突き進むことに対して何の影響も及ばさなかった」し、そのことによって「リベラルな抗議」の限界が顕わにされた。そのリベラルな反戦運動には二つの極があるが、カルプの語法によるなら、一つは「リベラルで官僚的な」極、もう一つは「ファシスト的でカリスマ的な」極である。

(略)

「リベラルで官僚的な抗議団体では、絶えずニュースや立法作業を追いかけては、次第に議会のスタッフ以上のエキスパートになっていくような個人が増えていくのである」。実際、リベラルで官僚的な主体は、自分はゲームのルールを分かっていると威張り、報道や政治家を活用していると胸を張り、一種のインサイダーになっていくわけであるが、同時にそのようにして大衆社会のアウトサイダーになっていくのである。詰まるところ、リベラルで官僚的な諸団体は、大衆を国家へと回収していく通路にすぎない。では、もう一つの「ファシスト的でカリスマ的な」諸団体はどうであろうか。

(略)

あたかも権力がおのれの為していることを知らないかのように想定してその権力に対して自分は真理を告げていると思い込むこと、おのれが真理を摑んでいることの証しとして何かシンボル的なものを身につけること、米軍の一部による拷問だけに批判の焦点をあてることによって米国帝国主義の暴力的な総体を覆い隠すことなどである。そして、カルプによる鋭利な批判を通して浮かび上がってくるのは、現在、戦争を遂行する側も戦争を批判する側も、ほとんど同じ語彙と語法を使用しているということである。ともに人権、自由、民主化、自己統治、内政不干渉、自国の兵士を犠牲にしないこと、内戦に対する対処は難民保護だけであるとすること、人種や宗教を持ちだすことをタブー化すること、人種や宗教に言及するのは偏見を批判する文脈においてしか許されないと見なすこと、等々を共有しているのである。

(略)

現在の市民は、主権や政府や法に自己の意志でもって従属するような法権利の主体でも、何ものかに対して憎悪感情をたぎらせたり愛情を募らせたりしながらそれを馴致されて服従する主体なのでもない。そうではなくて、凡庸なレトリックを浴びながら、退屈なスクリーンに曝されながら、機械の歯車に甘んじるように誘導されている奴隷なのである。

(略)

 カルプが『ダーク・ドゥルーズ』で指し示す方向の一つは、ドゥルーズのいう「堪え難いもの」に対して、憎悪を募らせることである。繋がりをめぐる凡庸な物言いの数々、例えば、SNSは孤を保ちながら繋がることであるとか、グローバルな繋がりが何か新たなものを生み出すとか、専門職間の繋がりが孤独を癒してあげられるとか、繋がりの蓄積は資産であるとか、その類の物言いの退屈さを拒絶するだけでなく、繋がりそのものを増むことである。いまや社会関係やら共同主観性やらは憎むべきものなのである。そのようにして、神の死、人間の死に引き続く第三の死、すなわち世界の死を招来すること、それこそが、ドゥルーズの言い方では、「ユートピア」へ向かう「脱領土化」であり、カルプがしばしば援用するフーコーの言い方では、「陰気で暗い言説」であるものの「最も気違いじみた希望の言説」なのである。

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2017-02-12 村上春樹と私 ジェイ・ルービン このエントリーを含むブックマーク


村上春樹と私

作者: ジェイルービン, Jay Rubin

メーカー/出版社: 東洋経済新報社

発売日: 2016/11/11

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夏目漱石『坑夫』を推す春樹

『海辺のカフカ』で言及されるまで、『坑夫』は日本でもほとんど忘れられた作品だった。漱石の小説の中で一番不評の作品である。(略)[『海辺のカフカ』でも大島が]「あれはあまり漱石らしくない内容だし、文体もかなり粗いし、一般的に言えば漱石の作品の中ではもっとも評判がよくないもののひとつみたいだけれど……」と。

 それでも、村上さんは、2015年9月に出版された私の『坑夫』の改訳の前書きで漱石の全小説の中で『坑夫』が一番好きな作品だと言った。『海辺のカフカ』では、カフカ君がこんなことを言う――「本を読み終わってなんだか不思議な気持ちがしました。この小説はいったいなにを言いたいんだろうって。でもなんていうのかな、そういう『なにを言いたいのかわからない』という部分が不思議に心に残るんだ」と。

 改訳の序文では、村上さんはもう少し詳しくこの小説の読者のいわゆる「読後の空白感」について、こんなことを言っている。

 「そこにはまるで良質のポストモダン小説を読んだときと同じ種類の、ざらりとした渇きに似た感触がある。意味を欠くことによって生じる意味、とでも言えばいいのだろうか?」

(略)

 実を言うと、『坑夫』を初めて翻訳したのは1988年だった。そして1993年から2年間私は村上さんと同じケンブリッジに住んでいたころ、二人で『坑夫』の話をした記憶がある。

 その時、村上さんはもちろん『坑夫』を読んでいたが、詳しく覚えていなかった。私が一生懸命に勧めたので、彼はすぐ読んで、主人公がいろいろな辛いことを経験しても全然変わらないというところが一番好きだと言った。その後、『坑夫』の話をしなかったが、2002年になって、『海辺のカフカ』を読んでみて、こんな言葉に出合った。

 「主人公がそういった体験からなにか教訓を得たとか、そこで生き方が変わったとか、人生について深く考えたとか、社会のありかたに疑問をもったとか、そういうことはとくには書かれていない。彼が人間として成長したという手ごたえみたいなのもあまりありません」と。

二人の翻訳者の違い

村上作品の国際的な人気はアルフレッド・バーンバウムという翻訳者に負うところが大変大きい。(略)

 バーンバウム氏の英訳を通じてアメリカの出版社が村上作品に興味を持つようにならなければ、私は永遠に村上さんの作品を読まなかったかもしれない。(略)

当時、バーンバウム氏は村上さんのすべての長編小説を翻訳していたが、短編の翻訳は少数だったから、私は他の短編の翻訳の許可をもらって、『象の消滅』や『パン屋再襲撃』や『眠り』を翻訳し始めた。

 以後は、好きな作品に出合って翻訳したくなると村上さんに直接頼むのが習慣になったが、不思議なことに、「それはバーンバウムさんがやった」という答えが返ってきた例は一度しかなかった(『トニー滝谷』)。村上さんの話によると、バーンバウム氏にも「それはもうルービンがやった」と答える羽目には一度もならなかったそうだ。このことは、二人の翻訳者がそれぞれ熱烈な村上作品の愛読者でありながら、志向はまったく違うということを証明している。しかし、この話はそこでは終わらない。

 そのころアメリカの一流出版社であるクノップ社から村上さんの短編集を出す話が持ち上がった。(略)編集者はバーンバウム訳9作とルービン訳8作を選んだ(略)

 いよいよ本が出て、書評が新聞や雑誌に現れはじめると、批評家たちは全部が全部と言っていいほど、バーンバウム氏のものだけに言及するか、私のものだけに言及するかで、両方にふれた評はなかったのである。彼らもまた、二人の翻訳者の志向の違いを、無意識のうちに反映していたに違いない。

質問攻めされ「どうせ小説というのはいい加減なものだ」と春樹

[たまたま日本にいたので質問リストを携え参上し質問責め]

 その酷い一日に村上さんにした質問は次のようなものだった。

1.『ねじまき鳥クロニクル』では水のイメージが大事だが、第1部3章で主人公の岡田亨のネクタイのパターンが「水玉のネクタイ」と形容されているところは、作家がわざと水玉の水を強調しているなら、「水玉の」の普通の英訳の「polka-dot」には水のイメージが現れないので「polka-dot」の代わりに「water-drop pattern」として翻訳した方がいいと村上さんは思いますか。

  村上さんは普通の「polka-dot」を使った方がいいと答えた。

2.第2部2章に出てくる「塀」は石や煉瓦でできた「wall」とも、板でできた「fence」とも翻訳できるが、村上さんはどちらのイメージがいいですか。

  村上さん「fence」だと答えた。

3.第2部7章に出てくるフォークシンガーは「茶色のプラスティックの縁の眼鏡をかけていた」が、同じ人物が第2部17章に出てくると「黒いプラスティックの縁の眼鏡をかけて」いる。作家がわざと色を変えたのですか。

  村上さんは両方とも「black」にするべきだと答えた。

(略)

 一日中こういう些細な問題と取り組んでうんざりした村上さんは「どうせ小説というのはいい加減なものだ」と溜息を漏らした。

(略)

その時期村上さんが自分の小説の翻訳を評価する方法は、両方のテキストを綿密に読み比べるのではなく、ただ、英文を読んで、英文の小説として面白いかどうかを判断することだけだった。原作者からのうるさい指摘どころか、簡単な「面白かった」という反応だったのは私にして見ればいささか不満でさえあった。これはフランス語の小説を翻訳して、しょっちゅう原作者と言葉遣いについて激しく議論する友だちの経験とは極端に違っていた。村上さんは自分の作品を読み直すのが嫌いだと言う。なぜかというと欠点ばかりに気が付くからだと。違う国語に翻訳された自分の作品は他人の書いた作品を読むようで、単純に楽しむことができるとのことである。

 しかし、記録的な大ヒットの『ノルウェイの森』を英訳した時は、事情が一変した。なぜなら、日本であまりにもすごいベストセラーだった『ノルウェイの森』が西洋でもそのスケールになり得る可能性に村上さんは気が付いたのだろう。なるべく間違いがないように自分も責任を取るべきだと思ったに違いなかった。それで初めて英訳のテキストと原文のテキストを比べ、いくつかの誤訳に気が付かれた。

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2017-02-10 犯罪・捜査・メディア・その2「居心地のよい」監獄 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


犯罪・捜査・メディア: 19世紀フランスの治安と文化 (叢書・ウニベルシタス)

作者: ドミニク・カリファ, 梅澤礼

メーカー/出版社: 法政大学出版局

発売日: 2016/10/25

|本| Amazon.co.jp

「居心地のよい」監獄

王政復古期の末期から執拗に見られるようになってきたこのような主題は、宮殿のような監獄と「見せかけの博愛主義」に対して声をあげたトックヴィルの省察(略)

「越冬」監獄(天候のよくない季節、浮浪者や軽犯罪の再犯者を威嚇するかわりに、その陣営から入所希望者を集めてしまう、快適すぎる監獄)というヴァリアントの中に同じ主題は見られた。(略)

憤りと愁訴のスタイルを結束させたこの監獄のイメージは、1885年から1914年にかけての大量発行新聞のとてつもない普及によって増幅され、大幅に飛躍した。ぜいたくな独房、豊かな食事、ぬくぬくと暮らす囚人、懲罰なき刑罰といった伝統的なモチーフに、社会に対する罪を犯して罰を受けている悪人たちが、監禁の間、善良な市民が享受しているものよりも上等な生活状況に恵まれているという、民主主義制のもとで独自の深みを持つことになるひとつの論拠が加わったのである。

(略)

 こうした話題は、1895年以降、フレーヌ監獄が開かれたことによって非常に強く支持されることになる。(略)

「われわれは、宮殿に似た監獄を建てるという、このいまわしい道を進んでしまったわけです。その監獄には、パリの人々の多くが、裕福な人々でさえ自宅に持っていないような、とても豪華な浴槽があるのです」。二年後にはロリオ議員も、囚人は兵士よりもよく扱われているのではないかと推測している(略)

1901年、医師のルジュンヌも、「フレーヌ監獄は物質的に兵舎よりも住みよいのだ」と言っている。「殴られる以外にないはずの」悪党や無頼漢が、祖国の防衛のためにみずからを犠牲にしている徴兵された若者や兵士以上の快適さ、制度、ぜいたくを享受しているというのは、新聞にとって、飽くことなく告発されるべき、許しがたいスキャンダルだった。

(略)

 囚人たちは、朝は肉の入っていないスープを、夜は野菜たっぷりの料理を食べている。木曜と日曜には、骨を抜いた百グラムの肉が与えられる。ここまで健康的で豊富な食養生を、囚人百人のうち八〇人は自宅で受けられない。そのため囚人の多くは、天候のよくない季節は安心してここに過ごしに来るのだ。食事が十分でないと思う者は、労働の収益で献立をよりよくすることさえできる。

(略)

 監獄という環境が犯罪の原因になるのだという恒例の論拠に、やがて、犯罪増加の直接的な責任は監獄にあるのだという論拠が加わった。

(略)

アパッチひとりを養うのに一日ニフランがかかる(略)「連中はなにもせずに肥えてゆくのだ」。監獄が、「犯罪者が仕事の疲れを癒す快適な宿屋」になってしまったという考えは一般的なものとなり、広告のうたい文句にまでなるほどだったが、それは言葉が急速に大衆化したことを示していた。

フレーヌ監獄では、ペテン師たちのために、

あらゆる配慮とぜいたくが君臨しています。

律儀な人々が生地をこね、ひもじいと叫ぶとき、

あちらの独房にはパン・デュ・コンゴ〔ココナツ菓子〕があるのです。

(略)

こうして、処罰権と処罰義務の表明として捉えられたこのメディアによる懲罰監獄という主題への没頭は、1885年に実現された監獄教育の支持者と、見せしめとしての刑罰ないしは「厄介払い」政策の支持者との間の弱々しい平衡状態にひびを入れたのだった。

ロマン主義の監獄

 読者が視線を新聞の下のほうへ、日刊の連載小説が栄えるあの一階へと滑らせていったときに見出すのは、これとはまったく別の監獄だった。

(略)

 こうした小説が広めた監獄の表象は、とりわけ新聞が吹聴する表象とはかなり異なるものだった。多くの場合これらの物語は、監獄を悲痛な場所として紹介する。監獄は絶対的な規則の場所なのだ。(略)囚人はあらゆる規範、形式、際限のない命令によって枷をはめられた存在なのだ。(略)

 このように息の詰まる場所に閉じ込められ、囚人はほどなく沈黙と落胆という苦しみに陥ってしまう。監獄に押しつぶされずにすむ者は稀である。犯罪文学の中で少しずつ頭角を現してゆく犯罪の天才の典型である元徒刑囚のロカンボルもまた、はじめはコンシェルジュリー監獄、次にマザス監獄で、監獄の印象に打撃を受けている。「彼の独房に不意に入る者があったならば、きっと彼の青白さと衰弱とに驚いたことだろう。……彼は神経をやられており、泣いてさえいたのだ」。(略)「独房制度はおそらくあらゆる監獄制度の中でもっとも恐ろしいものにちがいない。つねに一人でいることで、この囚人はほどなく精神の力と肉体の力とを失ってしまったのだ。予審にたどり着いたときには、すでに半分負けてしまっていた」。ロカンボルに続く犯罪の超人たちも、概して同じ苦しい経験をした。(略)

「非凡で、天才的で、人の目に見えないあの人物が、遅かれ早かれ対抗する障害を打ち破り敵の仕事を打ち砕くことになる正義という途方もない力によって逆に打ちひしがれ、ほかの人間たちと同じように、独房の四つの壁の中でうなだれていた」。(略)

監獄の印象はきわめて重くのしかかってくる。ファントマのような、もっとも強い者さえも打ちのめしてしまう。

(略)

ロマン主義の周縁で生まれた連載小説は、生まれてすぐに受け継いだイメージを乗り越えるのに苦労していた。それがどのようなジャンルであれ、監獄は新聞の下方に居場所を持つ文学にとって、ロマン主義的イマジネールから遺贈された墓の比喩であり続けたのだ。ゴシック文学であれ熱狂文学であれ、暗黒小説がどれだけ監獄を、荒れ地や朽ち果てた城館とともに物語を取り巻く環境の主要なモチーフのひとつにしたかは知られており、その名残はユゴー、ネルヴァル、ボレルの中に長いこと見られた。ロマン主義と歴史小説の君主、ウォルター・スコットもこの鉱脈をたどっており、そのようすはよく知られた『エジンバラの監獄』に表れている。その足を社会的ロマン主義がつなぎとめた。死刑囚の密房、地下牢、ないしは独房としての監獄は、社会がみずからの周縁と向かい合い、義務と権利、権力と反抗、道徳と法律といった数々の主要な軋轢が表れているのを目の当たりにする、問題だらけの空間となったのだ。よって、償いや更生や贖罪が実現されるべきなのも、監獄の壁の中ということになる。

『死刑囚最後の目』に始まり、『マリー・チュドール』もしくは『リュクレス・ボルジア』に至るまで、監獄はユゴーの描く悲劇の中でも特権的な場所のひとつとして現れる。

(略)

20世紀初頭の一大作品群では、監獄はもともとの使命から努めて引き離されている。たとえばアルセーヌ・ルパンはサンテ監獄の独房から「新聞のキャンペーンを率い、卓越した腕を見せ」たし(略)

ファントマがみずからの独房を一種の風車小屋にし、以下のようにたびたび利用していたのも同じ目的からである。「彼にとって監獄は、好きなように出て行って活動に励んでは、自由が必要なくなると戻ってくる、宿屋のようなものだった」。隔離を打ち破り、監視の裏をかき、推理小説の主人公たちは制度を愚弄してみずからの自由を主張する。その点で彼らは、そのころ新聞で花開いていた議論に、面白い方法で近づいていたことになる。ほどなく脱獄は、監獄に期待できる唯一のこととなった。「アルセーヌ・ルパンは脱獄するはずだった。それは避けられない、必然的なことだった。なかなか脱獄しないので驚かれるほどだった」(略)監獄は一時的な場所でしかなく、脱獄の前の一種の待合室のようなものだったのだ。

(略)

脱獄が不可能なときには、処刑台が物語を展開させることになる。なぜなら脱獄できるのは主人公だけだからだ。そのほかの手先やいかさま師や下っ端は、早朝、薄明るい空のもと、独房から出てゆく。もうひとつの見せどころである処刑の話もまた、社会的ロマン主義のステレオタイプと関係回復させてくれるものだった。(略)

監獄のロマン主義的表象にうんざりした読者は、別のものを要求していた。独房の藁が持つ湿気よりも、脱獄の興奮や処刑の戦慄を好んだのだ。

2017-02-08 犯罪・捜査・メディア: 19世紀フランスの治安と文化 このエントリーを含むブックマーク

時間がないのでチラ読み。


犯罪・捜査・メディア: 19世紀フランスの治安と文化 (叢書・ウニベルシタス)

作者: ドミニク・カリファ, 梅澤礼

メーカー/出版社: 法政大学出版局

発売日: 2016/10/25

|本| Amazon.co.jp

フランス人にとってのアパッチ族

1848年の直後に移民たちをひきつけたカリフォルニアの金の輝きと、メキシコのフランスという帝国の夢、そして中央アメリカ地峡の運河貫通計画にはさまれて、19世紀の真ん中、大陸へのフランス人入植の最後の試みを示すある局面が生まれた。(略)

ガブリエル・フェリー、ポール・デュプレシス、ギュスターヴ・エマールのような旅行者たちの多くが、メキシコ遠征の「上官」となるだけでなく、アメリカ西部に関するフランス小説の先駆者ともなったのだった。(略)

定期刊行物は、フランスの介入を正当化すべく、とくに北メキシコの空白地帯の治安の悪さや、アパッチ族の残忍性や、メキシコ当局がアパッチを支配できないことを強調して記事を増やした。(略)

ソノラとパナマ、北はリオ・グランデ、南はダリエンの森に広がる、いわば中央アメリカにおける巨大なラテン帝国としての、新たなフランス・アメリカの夢である。(略)

「アパッチ族は生まれながらに乱暴で傲慢で残忍で気まぐれである」。アパッチ族とは、たとえば飽食のように、自ら抑制することのできない快楽や熱情に導かれてさまよう人間なのだ。「アパッチ族の最大の快楽とは、踊りである」。(略)敵は拷問され、女性は虐待され、老人は捨てられる

(略)

 こうして第二帝政の末期には、アパッチ族のフランス輸入の準備はすべて整っていた。大量に普及したこれらの物語によって広まった、文明の屑や障害としてのアパッチ族の姿は、自由主義の帝国が、次いで若き共和国が促進しようとした「下流」階級の統合の新しい戦略ともよく合致するものだったのだ。労働者の脅威を罪のないものとするためには、いまや道徳化され近代社会の価値と規範とに賛同するようになった労働者全体から、反逆し、社会復帰できず、ほどなく徒刑場や処刑台によって排除するほかないこれらの部族を切り離し、ばらばらにするに勝ることはなかったのだ。

(略)

さまよい、餓え、喉を乾かせた民族(略)辛抱強く狡猾で興奮しやすい民族(略)アパッチ族、この狼のような人間たちは、きっと狼のような運命にあるのだろう(略)

 文明の、さらには人類の屑としてのアパッチ族の表象がこのように強化されていったのと同じころ、インディアンと不良たちとをはっきりと結びつける、もしくは部族たちのアメリカとどん底のパリとを巧みにつなぐ物語が増えてゆくようすが見られた。(略)

[あさましい相続事件の渦中に登場するチェロキー族族長、「酋長」を殺した者たちを追いパリの道々で追跡をするパウニー族etc]

こうした連中はパリのインディアンなのである」。こうした言葉の使い方は、あらゆる脅威的な人間や規範外の人間を示すものともなった。(略)10年後、あるパリの医師によって、若い不良たちは「手に負えない野生児たち」と表現された。1884年になっても、従兄弟を殺したとして起訴された男が、「つま先から頭まで本物の未開人のように刺青をしていた」という理由で、司法官によって「正真正銘のアパッチ」として描かれている。

(略)

 次第にわかりやすくなってゆくこうした相関関係に、アメリカが現代化した表象をもたらした、森と狩猟の世界と新興の推理小説が持つ構造との、これまた古典的な類似が加わる。探偵を犬に、犯罪者を猛獣にという行為項の動物化は、推理小説の本質的な要素のひとつだからである。(略)

デュマは「アメリカの原始林もパリの原始林ほど危険ではない」と書いていたが、フェヴァルは『黒服たち』の章に「パリの森」という題をつけている。

(略)

ベル・エポック期のフランス人は、イロコイ族とシャイアン族、シュー族とコマンチェ族の区別を熟知していた。つまりアパッチ族を選ぶというのは明確な動機によるものだった。若い不良たちにとって、それは彼らが感じている断絶の論理をとてもよく表していた。社会の植民地化の前線の隅で保護区に閉じ込められた、おとなしくなったインディアンであるほかのプロレタリアたちとは反対に、彼らは武器を捨てることを拒否していたのだ。次第に規準が確立されてゆく文明の前進堡から追いやられ、労働や工業時代の幻想を拒絶し、出し惜しみされる娯楽を味わえるのかどうかが気になっていた彼らは、高慢で束縛のない自由を渇望していたのだ。残忍で反抗的な戦士である彼らは、文明の進歩を支持する者たちに報復攻撃を仕掛けていたが、その絶望した明晰さのなかで、自分たちの闘いに未来がないことを知っていた。

「ミゼラブル」

軽犯罪の世界の概念と表象も新たに整理される。それまでの、常識破りな人生であるとか個人のモラルとして捉えられた、閉ざされた、独特な、つまりは例外的な犯罪性という考えに基づく、潜入し囲いこみさえすれば無力化できた世界から、当時社会に起こっていた変動とも密接につながった、より拡散する、鈍い、うずくような「社会の傷」としての危険の認識へと移行したのだ。(略)統計学者や社会調査者、それに小説家たちは、ミゼールと犯罪の組み合わせという暗黙の前提を後ろ盾に、犯罪性の社会的な意味を示そうとする、ロマン主義的イマジネールに結びついた新しい描写のパラダイムを吹き込んだ。犯罪は、奇抜、異国的、反自然的の域を出て、堕落という社会的過程の行き着く先、「ミゼラブル」たちのみすぼらしくて悲壮な活動の場となったのである。労働社会が作り出すこの社会の沼地の中で、労働者たちは身の毛もよだつようなミゼールの苦悩に虐げられ、いつだって犯罪の中に沈んでしまいかねない。こうした描写は、新しく強力な普及方法に助けられ、いっそう効力を強めた。この時期は、小説が写実主義的に、すなわち社会派になり、文学的表現の特権的な形式として認められるようになった一大転換期と合致する。そしてその伝播は、同じころ起こった産業出版の考案、普及方法の改良、そして当然のことながら連載小説革命によってさらに活発化したのである。

ファントマとアパッチ

 周縁へと追いやられたうえ、庶民階級からますます切り離されてゆくせまい縁を割り当てられたこうした軽犯罪者たちは、犯罪の玄人となった。ファントマとアパッチたちの関係(略)

アパッチは、自分たちの利益のために行動できることはほとんどなく、自分たちを「協力者、いやむしろ友」にして必要次第で使うファントマのためだけに存在するのだ。なぜなら、とらえどころがなく、なかなか捕まえることのできないファントマは、彼自身はっきりと自白しているように、まさに犯罪の寓意だからである。「私は、世界中が探しているというのに、誰も見たことがなく、誰も見分けることのできない者なのだ!私は「犯罪」そのものだ!」。事実ファントマは、謎に包まれた知られざる雇い主、その場その場で採用したり解雇したりし、支払ったり……支払わないときもある、(略)安月給の軽犯罪者で、団結もまとまりもないアパッチたちは、従順な落伍者の、下働きの、手下の、「ファントマの雇われ」の集団でしかない。

(略)

 ファントマは、大衆小説からそのお涙頂戴の道徳主義を取り除き、写実主義的、さらには超現実主義的な残酷さの、より粗暴で機能的な表現を見せたわけであるが、その引き換えにミゼールと犯罪とは徹底的に分断されることとなった。

(略)

アパッチの大部分は経済発展により周縁へと追いやられたか、さもなくば新しい工業規律をしばしば不明瞭な方法で拒絶した労働者たちであったというのに、アパッチをプロレタリアとの結びつきから切り離し、「職業的犯罪者」や「悪」人たちの閉ざされた世界に帰すためのすべてがなされたのである。

三面記事

 「三面記事とは、小説ではないにしても、記者のすぐれた想像力による短編以外のなにものでもない。事件が起こるのを記者が待っていたら、新聞は二日後に出ることになるだろう」。バルザックも『幻滅』の中で、「パリ雑報が今ひとつ冴えないとき、ピリッとさせるためにでっちあげるまことしやかなガセネタニュースのこと」と書いているが、七月王政期の新聞界に「三面記事」という言葉が現れてからというもの、このような発言は三流新聞に対して長い間なされていたような評価に入れ替わって、何度も見られた。

(略)

情報を提供することに腐心するあまり、コラムは、メディア化の要求と、コラム自身を作る語り方との要求に捕らえられてしまう。というのも情報は、煩雑できわめて体系化された内部手続きに従って選別されるため、思いがけない事態や事件には最終的にほとんど場所が残らないからである。作り上げ、書き上げる手順についても同じで、かなりの場合において、それは職業上のしきたりや要請(速く書くこと、そしてそのために月並みな表現や描写を用いること)が課す、あらかじめ決められた下絵に従っているのだ。こうした性質は結局、現実を作ると同時に型通りで確実な語りの母胎のなかで崩壊させてしまう、既製品のような閉鎖的な言説を作り出す。この現象は、三面記事の記者たちに対して、ますます刺激が高まってゆく読者の気をそそるべく才能と「文学的」手腕とを発揮させながら、ますます速く書くようにも仕向けるという文化産業の矛盾した要求(出来事に密着し、競争相手の裏をかくために先手を打ちさえするというのは、1880年代以降新聞の主要な目的となる)によって、いっそう複雑なものとなる。ジャーナリズムのはしごの下の方で細々と暮らす三面記事の記者たちは、彼らにとっては昇進や栄誉に見えたこうしたコラムの「機能化」に、次第次第に誘惑されていった。

(略)

三面記事と犯罪小説はこうして、読者の日常は語られるに価することなのだと、月並みなことはじつは特別なことなのだと、日々読者に向かって繰り返すのである。

(略)

 「小説も詩人も、社会が作り出すものだ」。なかなか良いアイディアに恵まれない若い作家サルヴァトールの声を介して、デュマはこのように答えている。つまり小説を書くためには動きに身を委ねさえすればよいということであるが、その動きとは、まず社会に身を浸すという動きであり、次に満ち潮と引き潮の揺れのことである。(略)

こうしたテクストが用いた共通のディスクールを捉え、そこから社会的な意味を引き出すという、また別の段階の分析を促すものである。ここで重要なのは、演出されているテーマ群やモチーフというよりも、蓄積と並置によって最終的に意味をなす、テクストの建築、構成、構造である。

(略)

これらの物語が成していた巨大で大量の間テクスト性は、かなり深い構造上の変化があったことを示している。事実関係と犯罪事件を中心とした内的で独白的な従来の語りに、より複雑な記述と注目をし、捜査という別の「出来事」の流れを追うことに専念するようになった別の物語が徐々に代わってゆくのだ。

(略)

三面記事の場合、恐ろしさ、残酷さ、「状況の」詳細など、元来犯罪に、次いで訴訟と刑の執行に注目していた語りは、事実と責任とを体系的に復元する責任を持つ、まったく別の物語へと次第に変わっていった。新聞の見出しの窮屈な枠から逃れることのできたすべての報告にとって、捜査の進展(手がかり、仮説、推測によって区切られ、まず「新事実」の現れない公的な捜査、次に「私的」捜査)こそが物語の中心となったのだ。

時間がないので次回に続く。

2017-02-06 オルテガ―現代文明論の先駆者 色摩力夫 このエントリーを含むブックマーク


オルテガ―現代文明論の先駆者 (中公新書)

作者: 色摩力夫

メーカー/出版社: 中央公論社

発売日: 1988/09

|本| Amazon.co.jp

トインビー

 オルテガは、また、トインビーのナショナリズム攻撃の烈しさに閉口する。(略)オルテガは、国民国家形成のイデオロギーを、健全な生命力の所産として、その歴史的意義を高く評価する。しかし、いったん形成された国民国家の病理としてのナショナリズムには、批判する立場にある。「割拠主義」の病弊をもたらして、国民国家を分解するからである。つまり、ナショナルであることと、ナショナリズムは峻別されなければならない。然るに、トインビーは、ナショナリズムの名で両方を混同して、一律に弾劾する。オルテガによれば、トインビーは、戦後のイギリスが生んだ、はた迷惑な「国際主義者」または「国際人」の典型なのである。

宗教改革とイエズス会

 オランダの先進性とはいかなるものか。オルテガは、オランダが宗教的次元では最先端を代表していたものと見る。「中世的なものと、新しい生の態様との間に継続性を確立している」と評している。(略)

オランダにおいて、デヴェンテルの「共同生活の兄弟」と称する新しい宗教運動が起こる。彼岸ではなくてこの世のことであり、世俗的で、革新的な発想であった。これは、伝統的なカトリック教会の制度的な面への公然たる反乱であった。修道僧そして一般に聖職者に対する軽蔑であった。この運動はドイツとフランスに計り知れぬ影響を及ぼすこととなる。それは、次の16世紀に華々しく顕在化する宗教改革の萌芽となった。

(略)

カトリック教会内にも、これと対抗して戦うために、「伝統的なものの裏がえしの教団」が生れる。(略)「これは、近代的な最初の教団であり、此岸的な新しい生のすべての兆候をもたらす」のである。従来より、プロテスタンティズムの革新性とイエズス会の反動性の対比が強調されて来た。宗教改革と反宗教改革という、対立の構図である。しかし、オルテガはこのような見方を取らない。「その発想の方向は一致していた」のである。そこで、双方に共通する近代化の潮流を重視する。ルネッサンス期の危機の中に位置して、両者は全くパラレルであり、発想の中核においても、同一同質と見ている。相違があっても、それは周辺の二次的なものに過ぎない。

ベラスケス

[ベラスケスの作品の大部分をなす]肖像画は主流をなす画題ではなかったのである。イタリア絵画の主流をなすものは、伝統的に、宗教画であり、神話画であり、歴史画であり、要するに物語性のあるテーマであった。

(略)

ベラスケスの追求したものは、俗に言う「レアリズム」ではない。オルテガによれば、芸術は、対象の「非現実化作用」以外の何ものでもない。(略)

「触覚的要素」を徹底的に排除して、「視覚的要素」を極限まで追求しようとする。視覚ばかりで物体性がないのであれば、それは幻覚であり、亡霊であろう。亡霊の探究こそ芸術である。ベラスケスの絵画史上の業績は、「絵画の純粋な視覚性への帰結」と言うことが出来る。それは、通説のごとく、平板化ではない。彫刻的効果を意識的に放棄しただけである。つまり量感を避けたのである。その代り、画面を後方へと「凹形化」し、深さを追求した。これを実現するために、「色価の簡略化」「形体化の極端な縮小」そして、「ほとんどペーストを置かない」という技法を開発した。

 オルテガは、「デカルトが思考を合理性に帰したのと同様に、ベラスケスは絵画を視覚性に帰した。両者とも、文化の活動の焦点を直接の現実に合わせた。両者とも、現世の人間であり、未来を志向していた」と論じている。

絶望の様相

 ローマ帝国は、人間を「社会化」するという壮大な企図であった。もちろん、失敗した。社会の自発性を踏みにじっては、その社会は形骸化するほかはない。それにも拘らず、ローマ帝国は、形骸化する努力を意識的に行ったのである。まわりのすべてのものが失敗に帰するとき、われわれは、本当のところ、その何ものも真正な現実ではなく、重要なものでも、決定的なものでもないことに気がつく。こうしてすべてが雲散霧消したあとに残る唯一の現実は、個人的な生である。個別的で具体的な生命しか残らない。これがローマ社会の絶望の行きつく果てであった。そして、それは、キリスト教による解決に導く素地でもあった。

 それは、人間の中のただ一点を除いて、その生命のすべてを否定し、その一点を分離し、誇張し、激化すればよい。つまり、生の単純化である。犬儒派も、ストア派も、キリスト教徒も、カエサル派も、結局、単純化を要請することでは一致した。単純な理念は明快かつ明確であり、逆に、明快かつ明確なものは、つまり、確実なものは、単純なものである。

 イエス・キリストは、「極端に単純化する者」であった。律法も祭礼もすべて御破算とした。神を信ずることの一点に、すべてを単純化した。

 絶望に陥り、自分の文化に信を失った者は、確信をもって肯定する者、何にも動じないで確固としている者には、対抗する能力がない。それが真実であろうが、口先だけのことであろうが、あまり関係ない。すべて危機は「歴史的恐喝」の時代である。えせ予言者が現われたり、自称神様が出て来たり、新興宗教が花盛りとなっても、少しも不思議はない。

 危機における「単純化」運動の一つの態様として、復古主義がある。いにしえに帰れ、自然に帰れ、などはその典型的な表現である。しかし、これは想像力の貪困であり、「展望の誤り」から来る。われわれが既に取得した文明は、取り消す必要もなく、取り消し得るものでもない。少くとも上澄みとして保存すべきものである。人間は、常に、未来に向かって決断を迫られ、何らかのプロジェクトの実現に乗り出さざるを得ない。それは、人間の宿命である。ただし、何もしない、何でも放棄するというプロジェクトもあり得る。そして、それも未来に向っての決断の一つである。

(略)

 危機に陥っている人間にとっては、確信をもって一定の視点を取ることは出来ないであろう。自信がないので、視点も序列も展望も、漠としてぼやけているのは已むを得ない。しかし、一つはっきりしていることは、未来の方向を向いていなければならないことである。その方向を模索するために、手段として、過去を探るのは結構である。また、過去にしか考える材料のないことも事実である。あまりに複雑で混乱しているので、一つの戦術として、単純化の手法を使ってみることも必要であろう。しかし、それは過去に帰ることではない。過去の再現を計ることは、視点そのものを過去の方向にねじまげることであって、展望の誤りにほかならない。

ローマ市民の「信念の体系」

[王を追放した]ローマ共和制は、独自の確固とした正統性の信念を生み出す。ローマ市民の「信念の体系」である。(略)

その暗黙の前提が、君主制否定、即ち、「一人の人間の意思」には絶対服することはない、という信念であった。つまり、これが、ローマ市民の信念の体系の核心であった。(略)そこには、人間的なものに対する深刻な絶望がある。しかし(略)[君主制反対という]否定的な表現だけで、現実は動くものではない。(略)[肯定的実体が必要]それは何か。オルテガは、それは「法に対する情熱」であったと言う。

 ローマにおける法は、仮借なきもの、硬直したものであった。また、そうであるからこそ、ローマ市民は法の前に平等であった。もちろん、位階につき、地位につき、権利義務につき、差別を立法することは可能である。しかし、それらはすべて、「法」から流れ出るものであって、いかなる人間から出るものでもない。

(略)

 しかし、このような法に対する情熱は、われわれ現代人にとっては、理解を超えるところである。オルテガは言う。「多分それは、われわれが法の何たるかをよく理解していないからであろう。われわれは、すべて法を、《正義》と称される法律外的な鉄槌で粉々にしてしまった時代に生きているのである。われわれは、不器用にも、法は、それが正しいがゆえに法であると信じている。これに対して、純朴なローマ人は、その反対に、正しいことは、それが法であるがゆえに正しいと考えていたのである。」(「ローマ帝国について」)

正統性

ローマ帝国は誕生の時点で、正統性を持っていなかった。アウグストゥスは、ローマ共和制の制度とむりやり関連づけようとしたが、当然のことながら失敗した。ローマ共和制の正統性を継承することは、どう見ても無理であった。

(略)

ローマ帝国には、元首をきめる原則が全く存在していなかった。帝位継承法がないのである。(略)それゆえ、ローマ帝国を通じて、特に末期は、軍隊による皇帝の改廃が相次いだ。これは、クーデターではない。非合法な帝位継承ではない。第一、帝位継承に法的ルールがない。それに、ローマ帝国が非正統的であり、皇帝という制度そのものが本質的に非正統的であった。歴代の皇帝は、非合法的ではなくて非正統的手続により、非正統的地位についたのである。これが、「非正統性の原則」である。

(略)

 ローマ人は、カエサル以来ローマ帝国の末に至るまで、非正統性の中に生きているという意識から逃れられなかった。これが、ローマ人の非正統性コンプレクスである。(略)

「(略)帝国に慣れ親しんだ者は、むしろ征服された他の諸国民であった。彼らはその永遠性――《永遠なるローマ》――を信じ、そして、その現実を、あるいは少くとも、帝国の理念を、16世紀までは追いつめようとはしなかったのである。」(「ローマ帝国について」)(略)

 正統性は、そもそも非合理な概念である。正統性とは、誰が統治すべきかの問題に関する明確な信念を言う。いかなる政治権力も、初めから正統性を持つことは困難である。正統性を確立していた政権から、問題なく継承でもしない限り不可能である。ゼロから出発した場合は、当初は、正統性を持ち得ない。唯一可能なのは、いったん確立してから長期間平穏裡に統治権を行使した後に、生れるかも知れないものである。(略)

社会一般が何となく正統性があると思いこめば、それだけで必要にして十分である。(略)

民衆レベルに、支配と服従という心理的メカニズムが確保されていなければ実らない。

(略)

 正統性と合法性を混同してはいけない。それは次元の異なるものである。法も一つの慣習である。しかし、人間の生そのものに深く入りこんだものではない。むしろ、合理的なもので、純粋理性の領域で作用するものである。論理の世界と言ってもよい。これに反して、正統性は、すべて人間の生のより深い層から発するものである。それゆえ、純粋理性から見れば非合理である。生の理性、歴史的理性の領域で理解しないと何のことやら分らない。それゆえ、オルテガは指摘する。「法的フォーミュラを介して正統性を定義しようと主張することは、その現実を理解することを欲しないというだけのことである。」もっとも、法も究極的には、法的なものの領域を超えて、やはり正統性と同様に、人間の「集団的生のある種の全体的状況」の中にその基礎を求めねばならない。オルテガは、この意味でケルゼンを批判する。法について、法的な何ものかの中にその基礎を求めるのは、ナンセンスであると言うのである。「それは、科学が究極的に科学的な何ものかに基づくものではないことと同様である。」(略)

 正統性は、公権力が持ち得る幸運な付加的属性であるが、常に崩壊の可能性にさらされているものである。非正統性の萌芽は常にあり得る。そして、いったん崩れるととめどもなく進行する。非正統性の存在は、必然的に国家の衰亡の兆候であるとは限らない。しかし、逆に、文明や国家の衰亡するときには、必ず非正続性の問題が存在する。

 正統性は、国家権力の強力な支えとなる。国家権力が、所詮、真正な正統性を持ち得ないと気がついたとき、それに代る何らかの精神的支柱を求めても不思議はない。それは「疑似正統性」とも言うべきものである。

(略)

キリスト教を公式の宗教に採用して、ローマ帝国のために、これを「疑似正統性」の基礎としたのである。

大衆人、無知の賢者

19世紀の末には、史上かつてない科学者のタイプが登場した。それは、科学の特定の部門、しかもその中の小部分の研究に集中的に従事する科学者である。(略)[問題は]「その他の分野について知らないことを美徳と宣言し、知識の総体にかかわる好奇心を、《ディレッタンティズム》と呼ぶに至った」ことである。

 オルテガは、このような現代の科学者を「サビオ・イグノランテ」(無知の賢者)と呼ぶ。彼らは(略)[自身の専門分野での]自信によって、専門外の分野にも介入し、現代社会のあらゆる問題に、権威ある者のごとく発言する。いわゆる「識者の意見」である。これは、奇妙な錯覚である。空前の無責任現象である。しかし、科学者自身は、少しも矛盾を感じない。社会一般も、あやしまないどころか、当然のごとく受諾する。(略)

 科学者は、この専門化現象によって、自分以外の権威を認めなくなる。上級の審判に服する用意が全くない。上級の規範を求める習性を失う。(略)

正に、これは大衆人の典型的な特徴である。(略)

 大衆人は愚鈍ではない。その反対である。いかなる時代の大衆よりも、現代の大衆人は怜悧であり、相等の知的能力を持つ。しかし、その能力は、あまり役に立たない。なぜならば、そのゆえに自分の中に閉じこもったまま、正当に使用しないからである。ただ、きまり文句、偏見、アイディアの端くれ、空虚な言葉をもって、至るところに介入して来るだけである。それは「通俗性の権利」の宣言である。

(略)

すべての規範を無効とし、われわれの意図とその実施との間の中間物をすべて廃止しようとするものである。大衆人の行動様式である。オルテガは言う。「文明とは、何よりも、共同生活の意思である。」「野蛮は、解体への傾向である。」

 オルテガは、西欧における「自由民主主義」を、必ずしも理想的政治形態であるとは考えない。しかし、今まで考案された種々の政治形態の中では、もっとも無難なものとして認めている。特に、「自由主義」と「民主主義」とは、必ずしも両立するとは限らぬものでありながら、絶妙の調和を得て機能していることには、十分敬意を表している。

 自由民主主義は、隣人への依存を極端まで推進した体系である。「それは《間接行動》の原型である。」議論をする。説得の努力がある。決定のルールがある。行動のチェックがある。平穏な交代がある。

「国家」と「国民社会」

 オルテガは、「国家」と「国民社会」との峻別を説く。(略)

「国家のための国民社会」ではなくて、「国民社会のための国家」である(「古くて新しい政治」)。「政治とは、国民社会の中で、国家の見地から何をなすべきかについて、明確な理念を持つことである。」「実際の歴史的現実は、国民社会であって国家ではない。」(『ミラボー即ち政治家』)

 オルテガの国家論は、社会の本質から出発するものであるが、社会と国家との中間項に、国民社会があると理解してよい。(略)

「社会」は、抽象的な社会学的概念であるが、「国民社会」は、特定の歴史的経緯をふまえた文明史的概念である。そして、「国家」は、歴史を超えて一般的に妥当する法的概念である。

世論

オルテガの「国民社会」は、人種概念でもなく、国家を構成する人的要素でもない。特定の歴史的現実を背負った国民とその領域との総合概念である。自発的生命力を期待し得る現実は、国民社会であって国家ではない。国家は、国民社会の上に構築された一つの制度である。政治の究極の目的は、国家という制度を操作することによって、国民社会の自発的生命力を維持発展せしめることである。

 政治は、その発想の源泉を国民社会に求めなければならない。国家の要請に基づく、国家のための政治ではない。つまり、世論から出発するということである。具体的に一つの国民社会がある限り、世論は常にそこにあるものである。もし、万一欠けているなら作り上げなければならない。世論とは、慣習と化した意見(思いこみ)である。個人の意見の総計ではない。

 オルテガによれば、世論は多数派の意見ではない。そもそも、マジョリティとは法的な擬制に過ぎない。「私の理解するところでは、多数派と少数派との個別の意見を原初的なものと考え、世論とはその結果として形成されるものと想定するのであれば、それは誤謬である。それどころか、個別の意見は世論を前提とした事後的なものであると考える。即ち、世論が原初的なものであって、個別の意見は、その変種なのである。」「世論は、個別の意見が互いにいかに相違していようとも、その蔭に潜在的にひそむ唯一の意見である。」従って、それは「皆の意見である。」結局、「世論は、一つの時代のすべての意見を包含し調子づける霧であり、基調音である。そして、個人の中においては、われわれが形成して行く個人的判断をも調整する。」(「地の扉」)

 しかし、世論は明快な形でそこにあるものではない。「世論は、巫女の言葉のように常に謎である。解釈する技術が必要である。」(「共和国万歳」)それは、真の政治家によって発見され、解釈され、表現され、白日の下にさらされて勝利する。勝利するのは、その政治家ではなくて、世論そのものである。


大衆の反逆 (中公クラシックス)

作者: オルテガ, Jos´e Ortega y Gasset, 寺田和夫

メーカー/出版社: 中央公論新社

発売日: 2002/02

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2017-02-03 マイルス・デイヴィスが語った〜・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと マイルス・スピークス

作者: 小川隆夫

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2016/10/20

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バード

バードがつき合うのはいつも白人女だった。あれは執着心といってもいいほど異常だった。彼ほど黒人コンプレックスが強い人間を知らない。(略)その反動が、バードの場合は白人女だった。となりにはいつも白人女がいた。(略)

ヤクほしさの女がバードには群がっていた。(略)

男の取り巻きもくっついていた。コイツらともバードはヤッテたはずだ。両刀使いだったから、オレも狙われたことがある。そんなときはいつも『その気はないから』といって断ったが、危ない目に遭ったこともある

(略)

感心したのは、同じフレーズは二回と繰り返さなかったことだ。あれだけたくさんのブルースを演奏したのに、毎回、毎コーラス違うフレーズを吹いていた。いくらでもメロディが湧き出てくるんだろう。しかも、無駄なものがひとつもない。それを、オレも身につけたかった。ヤクでボロボロになっているときでも、このことだけは平然とやってのけていた。

(略)

バードはいつもワーキング・バンドにこだわっていた。(略)

[妻から扶養義務不履行で訴えられ三日間]

ライカーズ島の刑務所にぶち込まれていた。そのときにバードの死を知らされた。途方に暮れたね。(略)

だけど、隔絶されていたから冷静に物事を考えることもできた。(略)

今度はオレがワーキング・バンドを組む番だと、強く自覚した。

こうしてレギュラー・クインテット結成

 不思議なのは、ビバップのソロ合戦に強い抵抗を感じていたマイルスが、グループのサウンドを追求しようとしてレギュラー・クインテットを旗揚げしたにもかかわらず、結成したとたんにブローイング・セッション中心の演奏を始めたことだ。

 遠慮しがちにそのことを聞いてみた。

 「(オマエとは)解釈の違いだな。コルトレーンとオレのプレイが最高のコントラストを描いていたじゃないか。あれはベスト・コンビネーションだった。それをグループ・サウンドといわなかったら、いったいどう呼べばいい?」

キャノンボール・アダレイ

[『死刑合のエレベーター』]がモード・イディオムを追求するきっかけとなった。

「新しい音楽が創れると確信したのがこのときだ。(略)

もっとシンプルで自由な音楽がやりたかった。コード進行でがんじ絡めになった演奏なんかやっても面白くない。それが可能性を制限していた。キャノンボールを加えることで、それまでのハーモニーとは違うものが出せるし、この六人ならプリミティヴではあってもクリエイティヴな音楽が演奏できる」

 このコメントは重要だ。(略)同僚のコルトレーンに比べると、彼はモード・ジャズをそれほど理解していない――これが一般的な意見である。しかし、マイルスには思惑があった。そのことを伝えているのがこの言葉だ。

「オレの音楽で重要なのがコントラストだ。クインテット時代はオレとトレーンのコントラスト、このセクステットではトレーンとキャノンボールのコントラストだ」

 のちのフリー・ジャズにも通じる奔放なコルトレーンのプレイに対し、キャノンボールはジャズのルーツともいえるブルースに根ざすプレイをしていた。最先端と原点。このコントラストに自分のプレイを重ねることで、マイルスはこれまでになかったヴォイシングを獲得しようと考えたのだろう。ここで、要点をそっとメモした。

 しかし次の瞬間、ぼくは凍りついてしまった。マイルスがメモ帳を凝視しているではないか。クレームをつけられるのか。息を潜めて固まったぼくに、次のひとことが放たれた。

 「そのメモ帳を寄越せ」

 逃げようがない。仕方なく、メモ帳を渡す。すると、なにも書かれていないページをめくり、そこに手元のボールペンで絵を描き始めたではないか。いつもの絵とは異なり、美しい眼をした女性の横顔だ。口からは、ストローか花の柄のような細い線が一本伸びている。時間にしたら一分かそこいら。描き終わると、黙ってメモ帳を返してくれた。

 このときの気持ちをどう表現したらいいだろう。ホッとしたのは当然だが、その絵ももらえて、ぼくは安堵と嬉しさのない交ぜになった気分を味わっていた。


サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム+2

アーティスト: マイルス・デイビス

メーカー/出版社: SMJ

発売日: 2013/09/11

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フランシス・テイラー

「あのレコード(『サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム』)で一番大切なのがなにかわかるか?」(略)

[突然で戸惑っていると]

いつものニヤリとした笑みを浮かべ、教えてくれた。

「ジャケットにフランが写っているだろ」(略)

新婚ホヤホヤだった。「彼女をジャケットに使おうと考えたが、コロムビアが黒人女の写真に難色を示してきた。『それならアルバムは発表しない』といったら、渋々ながらOKが出た。だけど癪だから、その後もフランやそのあとのガールフレンドの写真もジャケットに使ってやった」

ウエイン・ショーター

ウエインが加わって、バンドのサウンドが俄然フリーになった。初日の一曲目からそうだった。オレが〈ジョシュア〉のワン・フレーズを吹いたとたん、ヤツが絡んできた。その瞬間、リズム・セクションが爆発した。ゾクゾクするほどの興奮だった。一度もリハーサルなんかやっていないのに、ウエインは演奏のツボを心得ていた。ハービーもロンもトニーも、それ以前にレコーディングやセッションで何度もウエインと共演していたから、ヤツの出方がわかっていたんだろう。オレだけが知らなかった。けれど、それがオレに火をつけた。こんなヤツとこれから毎日演奏できるのかと思うと、すっかり有頂天になってしまった

(略)

あのクインテットは、望む演奏ならどんなことだってできた。以心伝心があれほどスムーズにできたグループはなかった。ウエインはその点でトレーン以上だ

(略)

[64年の初来日に話が戻り]

あのころからリズム・セクションがすごいことになったんだ。オレのソロが終わって、サムのソロになる。すると、オレのときよりフリーなビートで演奏してるじゃないか。それで、トニーにいってやった。『オレのときも同じようにやれ』とな

(略)

サムは期待以上だった。最初から二ヵ月くらいの約束でバンドに入れたが、ウエインがダメならヤツをなんとしても残そうと考えていた(略)

[ところが帰国後急転直下でショーターが参加]

ウエインが入って、バンドはフリー・フォームに接近した。予兆はサムが参加したときからあったが、決定的になったのがウエインの参加だ

(略)

あのころはトレーンやオーネットのやっていたことに興味があった。ただし、ヤツらは音楽の発展のさせ方に問題があった。(略)ビートが出鱈目だからだ。理屈はあるだろうが、オレから見たら出鱈目だ。それよりは、トニーが叩き出すビートのほうがずっと触発的だった。だから、連中の音楽をオレのスタイルでやりたかった。そこにウエインがいた。ヤツこそ、考えているサウンドにピッタリのテナーマンだ。(略)そして、思った通りになった。ジャズ・メッセンジャーズは、ウエインを使いこなせていなかったしな(略)

[絵を描いていたペンでいくつかビートを刻み、どれがクールかと出題。二番目を選ぶと]

オマエは妙なものが好きだな。教えてやろうか。これはシュガー・レイ(ロビンソン)のフットワークをイメージして叩いたんだ。ボクシングを見たり、自分でスパーリングしたりしながら、オレはリズムを考えてきた。そのひとつがこれだ

[父のいとこが二階級で東洋チャンピオンだったと話すと、マイルスから羨ましがられる]

(略)

様式内でのフリーならオレは認める。そこが様式まで無視してしまったオーネットやトレーンと、様式内で可能性を極限まで追求してみせたウエインとの違いだ」

 「それでは、この様式内の実験が『ESP』の本質ですか?」

「なんともいえない。そんなことは意識してないからな」(略)

[〈エイティ・ワン〉のビートは?]

「オレだ。メロディをロンが持ってきたので、最初は4ビートで演奏してみた。しかしどうもしっくりこない。それで、トニーにいろいろなフィギュアを試させた。その中で一番気に入ったのがあれだ。そのビートにフィットさせるため、オレがメロディに少し手を加えた」

 マイルスは細かいことまでよく覚えている。しかも、言葉がスラスラ出てくることに驚かされた。(略)

 「曲を書かなくなった理由は?」

 「書く気がなかった。メロディより、リズムに興味があったからだ。メロディを書く時間があれば、もっとリズムのことを考えていたかった。それに、メンバーが次から次にいい曲を持ってくるじゃないか。それを使わない手はない。ウエインの〈フットプリンツ〉やハービーの〈ライオット〉なんか、オレが表現したい要素を持っていた」

[と『ESP』以外の曲の話に]


E.S.P.

アーティスト: マイルス・デイヴィス, ロン・カーター, ハービー・ハンコック, ウェイン・ショーター, トニー・ウイリアムス

メーカー/出版社: ソニー・ミュージックレコーズ

発売日: 2000/10/12

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批評家

批評家と名乗るヤツはほとんど信用していない。例外はレナード・フェザーとナット・ヘントフだ。アイツらはいつだってミュージシャンと同じ感覚でものを書いているからな

絵を描きながら『クールの誕生』を語る

「ポイントは躍動感だ。筋肉の動きにすべてが集約されている。ダンスしている女の尻を見るのが好きだ。それで、その筋肉がどう動くかが問題になる。絵と同じで、音楽もどれだけ躍動しているかだ。オレの演奏を〈リリカル〉というヤツもいるが、本質はそんなところにあるんじゃない。穏やかな中にも躍動感は表現できる。穏やかな音楽を穏やかに演奏したってしょうがない。いい例が『クールの誕生』だ。あの作品では、たしかにクールなサウンドを求めた。ただし、それはホットな演奏に対するクールということで、文字通りのクールな演奏をしたかったんじゃない。クールな中にもホットな躍動感がなくちゃダメだ」

 この言葉には感心した。マイルスは絵を描きながら絵についての話をし、それを先ほどの批評家不要論と結びつけ、さらには自分の音楽にもたとえてみせたのである。

(略)

「ラインや色使いに関心がある。ラインはフレーズと同じだし、色を重ねるのはコードと同じじゃないか。いい絵からはいい音楽が聴こえてくる。だからオレの絵はオレの音楽と同じで、誰の絵とも違う」(略)

「音楽もそうだが、絵も描き出したらきりがない。いくらでもラインは描けるし、色を重ねることもできる。だからといってやりすぎはダメだ。どこでストップさせるか、それがわかってないヤツが多すぎる」

[ルームサービスが届くまでプリンスのアルバム『パープル・レイン』をずっと聴き、「ツアーは中止になった」とポツリ。食事後、上下総入れ歯をグラスに入れるのを見てドッキリ]

ブランフォード・マルサリス

[初めて聴いたのはハービー・ハンコックのバンドで]

コルトレーンをモダンにしたようなプレイをしているんで、すっかり気に入ってしまった。そのときに、『コルトレーンみたいに吹けるか?』って聞いたら、『そんなにうまくは吹けない』と答えやがった。ちょっとからかってやろうと思って、『それじゃ、ダメだな』といったんだ。すると、なんて答えたと思う?『コルトレーンの次ぐらいにはうまく吹いてみせますよ』ときたもんだ。(略)その答えが気に入った。(略)

[レコーディングに呼んで]プレイが気に入った。それで、バンドに入らないかと誘った。ところが、ウイントンのバンドでスケジュールが詰まっているから無理だと断られた。なんてヤツだ

(略)

80年代になって、ジャズはつまらなくなっていた。聴きたいと思う演奏はほとんどなかったが、ブランフォードやウイントンみたいな若者が出てきたのは救いだった。ただし、やってることがコンサヴァティヴすぎる。才能の無駄遣いほどもったいないことはない。見どころがあったのはブランフォードだから、ヤツをバンドに入れたら面白いことができるんじゃないかと期待した。

ノネット、ギル・エヴァンス

 「アレンジに興味があったから、ギルに教えてもらうことにした。ヤツのアパートにはそういう連中がいつも集まっていた。ジェリー・マリガン、リー・コニッツ、ジョン・ルイスなんかが常連だ。その仲間に入れたことが嬉しかった」

 「そこではどんなことをやっていたんですか?」

 「持ち寄った譜面をみんなが演奏するワークショップのようなものだ。それを聴いて、ギルがアドヴァイスをする。よく覚えているのは、オレが書いたブルースを、ギルがまったく違うサウンドにしてしまったことだ。フラッテッド・セヴンを全部書き換えたら、ブルースのフィーリングが綺麗さっぱりなくなって、いかにもギルらしい響きになった」

(略)

 「そういうことから発展したのがノネットだ。メンバーは、ギルのアパートに集まっていた連中から選べばよかった」

 このあたりの話は、まったく耳にしたことがなかった。まさに、当人の口から歴史が語られている。ゾクゾクするではないか。横にいる[息子の]エリンも興味深そうに耳を傾けている。

 「ギルのアパートにはバードも入り漫りだった。(略)最初はノネットにバードを入れる考えもあった。ところが、彼はオレたちの音楽を聴こうともしない。だから、ソニー・スティットを候補に考えた」

 「新しいことをやるつもりでいたが、オレはどこかでビバップも引きずっていた。そのことに反対したのがジェリー(マリガン)だ。『新しいことをやるなら、違うタイプのアルト奏者を使え』。それで、リー(コニッツ)を仲間に入れた」(略)

[リズム隊と]マイルスはビバップ派である。そこにパーカーもしくはスティットが加われば、パーカー・クインテットがバンドの基本になってしまう。それでは新しい音楽は生まれない。マリガンは、そのことを見越して進言したのだろう。

(略)

 「ノネットの音楽はクールだとかなんだとかいわれているが、オレにそんな意識はなかった。そこのところはきちんと書いておけよ

(略)

ソーンヒル楽団の小型版だが、そもそもはデューク(エリントン)とフレッチャー・ヘンダーソンの音楽が手本になっている。ギルは、デュークとヤツのバンドのアレンジをしていたビリー・ストレイホーンの大ファンだった。ビリーの得意技は、高音部をいくつかの楽器で重複させることだ。そこからヒントを得て、ギルは低音部も重複させていた。だから、分厚い音が出せた。それをソーンヒル楽団で試したらうまくいったから、ノネットでもやってみた」

(略)

音楽的に満足できたが、金にはならなかった。メンバーが多くて、ひとりの取り分が週で70ドルぐらいだった。それでも仕事が続けばなんとかなったが、たまにしかない。だからレコーディングと数回のギグでやめることにした」

 少々悔しそうな口ぶりのマイルス。「70ドル」と金額まで教えてくれたのは意外だった。プライドが高い彼だから、そんなに安い金額で演奏していたことを、普通ならひとに話さないだろう。

モード・ジャズ

「(略)あれは下手をするとワン・パターンの演奏になるから、却って難しい。自由に演奏できるというヤツもいるが、同じようなフレーズの羅列で終わっているのが大半だ。わかるか?」(略)

 「Cを起点にしたフリジアン・モードではEから始める。ところが、最初のころはFから始めるヤツが多かった。Fは半音下げなきゃいけないのに、そうしない。半音下げることでマイナーな雰囲気が出せるのにそうしないから、『いかにもメジャーで演奏してる』感じになってしまう。誰もわかっていなかった」

 モード・ジャズのパイオニアが、自分のことを振り返りながら、理論について教えてくれる。信じられないことだ。

コルトレーン

トレーンがソプラノ・サックスを吹くようになったのは、オレがプレゼントしたからだ。ヤツがグループから独立しようとしてたんで、思いとどまらせるため、前からほしがっていたソプラノ・サックスをプレゼントした。セルマーで最高のヤツをな

ウエスト・コースト・ジャズ

 「ウエスト・コースト・ジャズという言葉は知っているが、オレには関係ない。ショーティ・ロジャースにはオレを真似しているところがあるな。(略)でも、ハートがまったく違う。音楽はハートでやるものだ、わかるか?(略)

オレはバド・シャンクなんかと演奏する気になれない。だから、ああいう音楽はやらない」

 「文句をいいたいのは、ノネットの音楽からヒントを得たチェット・ベイカーやスタン・ゲッツやデイヴ・ブルーベックなんかが〈クール・ジャズ〉の代表格みたいにいわれてることだ。オレはブラックで、ヤツらはホワイトだ。ホワイト・イコール・クール・ジャズ。批評家の連中にはこんな短絡思考しかない。オレの作った音楽が、ホワイトのものになってしまった。これだけは、はっきり書いておけよ」

 マイルスが、これまでにない語気の強さで迫ってきた。その気迫に縮み上がってしまった

『クールの誕生』

もっと繊細な音楽がやりたかった。キチッとした規範を持って、その中で自由に演奏する――そんな音楽がやりたくなっていた。バンドスタンドで、他のプレイヤーと火花を散らすようなことは卒業したかった。もっと繊細で、サウンド的にも十分に練られた音楽をやってみたかった。そんなことを考えていたときに、ギルと出会った

(略)

ジョン(ルイス)とは、バードのグループで仲よくなった。ヤツはクラシックに興味を持っていて、質問にはなんでも答えてくれた。ギルに勝るとも劣らない知識と理論の持ち主がジョンだ。それでいて本物のブルースが弾けたから、オレがなにかをやるときは絶対ヤツに頼もうと思っていた。

(略)

 マイルスと彼のノネットは49年1月21日に第一回目のレコーディングに臨む。(略)

 「明確にあの日のことは覚えている。ジェリー(マリガン)とマックス(ローチ)をタクシーで拾い、スタジオに行った。レコーディングが始まる三時間くらい前だった。まだ、前のグループがレコーディングしていた。その連中が終わるやいなや、オレたちはレコーディングする曲目の最終的な打ち合わせを始めた。ジェリーとオレとで、ジェリーの書いたアレンジの細かいところをチェックして、マックスが脇で椅子をドラムに見立ててリズム・パターンをつけていく。このレコーディングで一番大切なのがリズムだ。ハーモニーじゃない。ハーモニーについては、ジェリーやギルがすでにオレの納得いくものを作っていた。だから、そこにいままで誰もやったことのないリズムを持ち込みたかった。(略)

オレがピアノを弾いて、ジェリーが同じピアノの低音部でベース・ノートを示し、マックスがリズムをつけていく。そうやって、オレが考えているリズムの最終確認をマックスとした」

(略)

 マイルスはノネットでなにをやりたかったのだろう?恐るおそる聞いてみた。

 「ロマンチックな音楽だ。エキサイティングなものにもロマンは感じるが、静かなところでガールフレンドを口説くイメージを、このときは追求したかった。ビバップのうるさいサウンドの中じゃ、甘い言葉を囁くわけにいかないだろ?」

形見

[突如食事に行くかと言われ、色々と恐れ多いので近所のデリに買い出しに。帰ろうとすると突然の大雨で雨宿り]

 すると五分が経つか経たないうちに、マイルスが傘を持って迎えに来てくれたのである。あのマイルスが、だ。しかも大雨の中を、である。

 こちらは緊張と恐縮のあまり、ひたすら謝ってしまった。すると彼は[照れ隠しで]ひとこと、こういい放った。

 「風邪を引かれて、それでオマエに訴えられたら堪ったもんじゃないからな」

(略)

そのときは、マイルスが傘を持っている、ということにも感動していた(しかもぼくの分もだ!)。(略)

偶像としてのマイルスと、彼も普通の人間であることを思わせる日常が交錯していた。これはこれで、絶対に忘れることができない体験であり、光景になった。

 この出来事にはおまけがある。部屋に戻ると、「いくらした?」とマイルス。「いいですよ」。すると、「ほら」といって、マネークリップごとお金を放ってくれた。必要なお金を取り、マネークリップを返すと、「それごと取っておけ」という。マイルスがこの世にいないいま、このマネークリップは、彼がくれた形見だと思っている。

49年パリ、サルトル、ジュリエット・グレコ

サンジェルマンのジャズ・クラブでは、サルトルと人生について語り明かした。オレは二十歳を出たばかりの若造だったのに、サルトル(43歳)ときたら、同じ歳の大人のように扱ってくれた。あれには感激したな。

(略)

ピカソには、もっぱらアメリカの黒人が置かれている立場について質問された。だから、『あんたは黒人の絵は描かないのか?』といったら、『肌の色は関係ない。白人と見るひともいれば、同じ絵を黒人と見るひともいる。見るひとの感覚でいい』みたいなことをいってたな。同感だった。同じように考えている人間がほかにもいるとわかって、楽しい気分だった

(略)

[そしてリハーサルを覗きに来たジュリエット・グレコと恋に落ちる]

どこに行くのも一緒だった。サルトルと会ったときにも、彼女がいた(略)

ニューヨークじゃ楽隊屋扱いだが、パリではアーティストだった。尊敬してもらえたし、演奏にも熱心に耳を傾けてくれた。(略)ジュリエットのこともあったから、そのまま住み続けたかった。実際にそうしたのが、ケニー・クラークだ。(略)心底、羨ましかった。だけどオレにはアイリーンがいたし、真剣に考えればパリに居場所がないことはわかっていた。だから、うしろ髪を引かれる思いでニューヨークに戻ってきた

プリンス、『TUTU』

ローマかどこかの飛行場で、ヒップな音楽が流れてきた。プリンスだった。ヤツが大ヒットを飛ばす前だ。でも、コイツがそのうちすごい大物になることはわかっていた。そのころはマイケル・ジャクソンが人気で、オレも興味を持っていたが、あんな音楽とは比べものにならなかった

(略)

プリンスは『TUTU』に自分の曲を提供したくて作曲もしていた。だが、オレたちが送ったテープを聴いて、自分の曲がレコードに合わないと判断したんだろう。プリンスも、オレと同じで音楽的にとても高い基準を持っている。それで、いつかなにか違うことを一緒にできるようにと、その曲を引っ込めた」


Perfect Miles Davis Collection (20 Albums)

アーティスト: Miles Davis

メーカー/出版社: Sony Import

発売日: 2011/09/30

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2017-02-01 マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと このエントリーを含むブックマーク

テープ録音など論外、終了後&トイレに行った隙に要点をメモるだけ。毎回出禁の恐怖に怯えながらマイルスの語りを拝聴するうち、こちらからも質問できるように。


マイルス・デイヴィスが語ったすべてのこと マイルス・スピークス

作者: 小川隆夫

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2016/10/20

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85年、インタビュー嫌いのマイルスから『ユーアー・アンダー・アレスト』のためのインタビュー話が来て半信半疑の著者。音源も届かないまま、NYへ。だが案の定キャンセルの報せ。ここまで来てるのだからと粘るとマリブの別荘にいるから来いとのこと。グリニッチ・ヴィレッジのバーで飲んでいたら隣の男がマイルスのジャケ撮影をしたと言う。家に来いと誘われるまま物騒なNYゆえ恐る恐るついて行くと高収入な住居。普段はロック系フォトグラファー。プリンスが推薦してマイルスを撮ることになったとか。

リクエストはたったひとこと。

「プリンスよりかっこいい写真じゃなかったらダメだぞ」

別荘はジョニ・ミッチェルがマイルスの当時の妻シシリー・タイソンに譲ったもの。

 「まずは、あなたが絵を描いているときの表情や手の動きを撮りたいんです」

 思い切ってそう切り出してみた。(略)

マイルスはそんな不躾なリクエストもまったく意に介していない様子だ。(略)

「よく見てろ」といわんばかりにこちらに目をやり、緑、赤、黒といった色のマーカーで女性をモチーフにした彼ならではのラインを描き始めた。マイルスの絵は、演奏同様、躍動的でリズム感があり、空間を効果的に利用している。

 「描きたいのはオンナのヒップとダンスをしているような脚だ。それと眼がポイントだ。だから、まずは眼を描いてみる。その出来映えでイメージが湧いてくる」

 そういいながらまたたく間に簡単な絵を三枚仕上げると、「持っていけ」といった態度で目の前に突きつけた。

 次に内山カメラマンが「ほかの部屋でも写真を撮りましょう」というと、それには答えず、すかさず「車が見たいだろ」と言葉が返ってくる。ガレージに案内され、無言でニューヨークから陸送してきた黄色のフェラーリのエンジンをかけた。

(略)

 車から降りると、「今度のレコーディングは最高だった。聴きたいか?」と右のポケットから一個のカセットテープを取り出す。こちらからいい出さなくても、マイルスは希望をかなえてくれる。

(略)

[新作はビル・ラズウェルProという噂があった]

 「オマエ、この演奏を聴いてビル・ラズウェルのことを考えただろ」

 このひとは千里眼の持ち主か? 考えが見透かされている。

 「ビルとレコーディングしたのはこっちのカセットに入っている」

 今度は左のポケットからカセットを取り出し、渡してくれる。このテープも聴いてみたい。ところが、このときはぼくの心を見透かしてくれなかった。

(略)

まだミックスダウンもしていない。このテープはラフ・ミックスだからな」

 それで、テープはレコード会社に届いていなかったのだ。(略)

 「オマエも聴いてないはずだ。レコード会社の連中にも聴かせちゃいないからな。アイツらは新作ができると発売前にばら撒いてしまう。そんなのはごめんだ。オレはいつだって連中を焦らせることにしてるんだ」

引き揚げる寸前、本職は整形外科医だと話すと手術後思わしくない股関節について相談を受け診察、リハビリのメニューを渡す。

4ヶ月後来日したマイルスをアポなしでホテルで待ち伏せ。同行の中山康樹副編がマイルス・ムック本を掲げるとそれが目に留まり取材できそうな気配。

「オマエ、あのときのドクターだろ?気がつかないか?(略)オマエのメニュー通りにやったんだ」

 脚を引きずるようにしていたマイルスがほとんど普通に歩いている。

(略)

[ルームサービスのチキンを食べながら]

 「バード(チャーリー・パーカー)はチキンが大好きだった。(略)[ハーレム・ベイカリーの]ロースト・チキンを丸々一羽ひとりで食べていた。バードがチキンを食べるんだよ。クックック。オレはハーフ・サイズでも食べられなかった。バードはクレイジーだったけど、いい兄貴分でもあった」

 そこまで話したところで、副編集長がバッグからさっき仕込んだテープレコーダーを取り出した。それを見咎め、マイルスがぴしゃりとひとこと。

 「録音はダメだ。これはインタヴューじゃないだろ。(略)オレの前で二度とテープレコーダーは出すな」

 これにはふたりとも縮み上がった。部屋から追い出されるのではないか?さっきまでの友好的な空気が一瞬にして凍りついてしまった。副編集長は素直にスウィッチを切ってテープレコーダーをバッグに戻し、ペコリと頭を下げた。すると、マイルスは何事もなかったかのように再び口を開いた。

 「バードは音楽かオンナか酒かクスリのことばかり考えていた。たいていはヘロヘロだ。だけど、サックスを手にしたら最高のアーティストになる。そんな姿に憧れていた」

(略)

 「オレはジュリアードで勉強したことを彼に教えた。びっくりしたのは、音楽的な理論はすべてわかっていたことだ。クラシックの理論までバードはわかっていた。いや、あれは本能かもな?

(略)

 「よく『間を生かしたフレーズを吹け』 っていわれた。そんなにテクニックがなかったから、ディズ(ディジー・ガレスピー)のように速いパッセージが吹けない。(略)

そしたらバードが、『真似をするぐらいなら、どうやれば自分の個性が表現できるかを考えろ』っていうじゃないか。『オマエはスペースを生かしたフレージングにいいものがあるから、それに磨きをかけるべきだ』ってな」(略)

バードにそういわれて、なんだかホッとしたな。あのころ、いつもつるんでいたのがフレディ・ウェブスターだ。コイツも速いパッセージが苦手で、ふたりしてはディズの演奏を聴いて、落ち込んでいた」

(略)

 「ジュリアードにいると、フレディがよく遊びに来て、練習室で一緒に吹いたもんだ。ヤツは前の日にディズやバードが吹いたフレーズのいくつかをメモしていて、それを一緒に吹くけど、どうしてもうまくいかない。ふたりでガックリしたもんだ」

(略)

 「そのころで驚いたのがセロニアス(モンク)だ。スペースの使い方と、不思議な響きのコード進行には心底参った。なんだこりゃ、いったいなにをやってるんだ?と思ったものだ。セロニアスのスペースの使い方は、オレのソロのスタイルに大きな影響を与えた」

(略)

ディジー、バード、セロニアス。この三人がオレにとって、スペースのマスターだ。ほかに誰がいる?いないだろ

(略)

バードとディズが金とヤクのことで大喧嘩をした。それで、ディズがバンドを辞めてしまった。そこでヤツの代わりにオレが雇われることになった。(略)

最初の一週間は無我夢中だった。なにをやってもへまばかり。いつクビをいい渡されるかビクビクしていた。ところが、必ず帰りしなに『明日もやるぞ』といわれる」(略)

 「でもバードのそのひとことがオレに勇気を与えた。そして一晩寝ると、『今日はやってやる』という気持ちが湧いてくる。ありがたかったのは、いつもフレディが一緒にいてくれたことだ。休憩時間になると、ヤツがアドヴァイスをしてくれる。それを聞いて、次のセットではそのことに注意しながら演奏をする。そうやって、少しずつ経験を積んでいった」 フレディ・ウェブスターは残された録音が少ないことから幻のトランペッター視されているが、この時代のマイルスにとっては親友のような存在だった。(略)

 「フレディはオレより十歳年上だから、ディズよりもバードよりも先輩だ。ところがまったく先輩風を吹かせない。だから、先輩というよりはブラザーだった。いつも一緒にいたし、実の兄弟より仲がよかった」(略)

 「バードと一緒にやっていて困ったのは、同じ曲でも毎回アプローチが違うことだった。事前の説明なんかいっさいないし、勝手に吹き始めて、あとは『オレについて来い』だ。

(略)

 「バードが忌み嫌っていたのは譜面を見ながら演奏するヤツだ。ジャズはインスピレーションが大事だから、譜面を見ていたら湧いてくるはずのインスピレーションも湧いてこない。生まれながらにして即興演奏家だったんだろうな。だけどほんとのことをいうと、彼は譜面がほとんど読めなかったし、書くこともできなかった。だからこそ、あれだけの演奏ができたんだろう」

(略)

[帰りしなメモを渡され夢心地]

「オマエはオレのドクターだ、マイ・ドク、いつでもこの番号に電話しろ。いいな、いつでも構わないぞ」

ドキドキで電話して三回目の訪問。脚を診てくれと言われ診察。部屋に流れているのはトーキング・ヘッズとおぼしき音楽。父親が医者だから医者になったと話すと、ウチは歯医者だったと幼少期の話をするマイルス。

 話し方はいつものようにぶっきら棒だが、言葉遣いは丁寧だ。英語がつたないぼくに対する思いやりだろう。イメージとはまったく違うマイルスが目の前にいる。「Please〜」とか「May I〜」とかを、ぼくに対しては使っているのだ。本書では、これまでに日本で築かれたイメージを尊重し、「オレ」「オマエ」などと表記しているが、実際に話をして思ったのは、「わたし」「君」といったニュアンスでマイルスが喋っていたことだ。

 「そういえば、オマエの名前、なんていったかな?」(略)

 「タコア?タカオ?難しいな。ドクター・タカオか。いや、これはファースト・ネームだから、ファミリー・ネームをもう一度いってくれ。オガワ?こちらのほうがいいやすい。ドクター・オガワ。それにしても日本人の名前はなんていいづらいんだ。ヒノ(日野皓正)はいいやすいけど、アイツのファースト・ネームは覚えられなかった。たしかTから始まる。T・ヒノだ。あとはトシコ(秋吉敏子)。彼女もファミリー・ネームが難しい。オマエのはその逆だ。だけど、もう忘れている。クソッ、名前なんかどうでもいいか。ドクと呼べばいいからな」

「初めて買ったレコード?覚えてないが、ルイかデュークだった気がする。

(略)

[NY留学中となりのアパートにアート・ブレイキーやマルサリス兄弟が住んでいたと話すと]

「アートの隣人だったのか?一時期、ヤツとは親友だった。ギグもやったし、レコーディングもした。あんな愉快なヤツはいないぞ。

(略)

[三宅一生のオフィスに代わりに電話したあと]

「イッセイの服はクールだ。昔はブルックスブラザーズやピエール・カルダンの服を着ていたが、音楽が変わったらあんな堅苦しいものは似合わなくなった。それでアフリカやインド風の服を着るようになった。ロックの連中が着てただろ。オレは黒人意識丸出しで、アフリカのダシキとかのゆったりした服を着たっけな。イッセイの服を知ったのは数年前だ。国籍不明のところが気に入っている」(略)

 「アイドルはルイとディズだが、あのふたりが聴衆に媚を売っている姿だけはどうしても奸きになれなかった。どうして白人に愛嬌を振りまかなきゃいけない。演奏だけで十分じゃないか」

 こういうところはいかにもマイルスらしい。話が脈絡なく続いていく。

 「子供のころは自分が黒人とは考えたこともなかった。周りの人間は誰も黒人と白人を区別していなかったからだ。最初に自分を〈ニガー〉と認識したのは五歳のころだ。近所の友だちと遊んでいたら、見知らぬ白人の大人から、『なにをしている。ここはオマエたちのようなニガーの来るところじゃない』といわれ、こっぴどく殴られた。あれは怖かった。

[帰りしな、今日のコンサートが終わった後、楽屋に来いと言われる]

[東京で会ってから5ヶ月後、ダメ元でNYのマイルス宅訪問]

ウィントン・マルサリス

[若手では誰がいいと訊かれ名前を出すと]

「(略)アイツの音楽はオレが30年前にやったものとほとんど変わってないぞ」(略)

「オレがその歳[24歳]のころは、バードと別れて自分の音楽をやってたぞ(略)

アート(ブレイキー)と組んで、誰もやっていないビートを試していた」

[会話中、マリブの別荘でも迎えてくれた姉のドロシーがやって来た]

 前回同様、姉の前ではマイルスも形なしだ。(略)彼女から見れば、弟はいまも「マイルスちゃん」である。ドロシーはマイルスのことを「ジュニア」と呼ぶ。このときも「マイルスちゃん、なにやってるの?」みたいないい回しで、しきりと話しかけていた。そんなときのマイルスは、ぼくがいる手前、照れくさそうな顔つきだが、嫌がっているふうでもない。実に仲のいい姉弟だ。(略)

 「お客様にお水しか出してないの? ジュニアはダメねえ」

 そんな感じだ。ドロシーがコーヒーを用意しながら、昔話を聞かせてくれた。

 「この子、いつも偉そうなこといってるでしょ。でも、誤解しないでね。根は真面目で優しいのよ。子供のころは、わかしをいつも庇ってくれたの。学校の行き帰りに白人から嫌がらせをされるでしょ。そんなときに、ジュニアはいつも睨みを利かせてね

ジョー・ザヴィヌル

[インタビューしたことがあるかと訊かれイエスと答えると]

「『イン・ア・サイレント・ウェイ』は自分が作った音楽、といってなかったか?」

こうきたか。ザヴィヌルはたしかにそう話していた。

[ヤバイので<ディレクションズ>が好きです、と話をはぐらかす](略)

 「そうか? あれよりは〈イン・ア・サイレント・ウェイ〉のほうが出来はいいぞ。あのときはジョーに、『トーン・ポエムを書いてこい』とリクエストした。その前に持ってきた曲は、オレのイメージとは違っていた。発表しなかったのは、それが理由だ」

 これは〈ディレクションズ〉のことだ。

 「ジョーが書いた〈イン・ア・サイレント・ウェイ〉はコードが複雑に重なり合っていた。雰囲気はいいが、あれじゃトーン・ポエムにならない。だから『コードのことは忘れて、メロディに集中しろ』とみんなにいったんだ。ジョーはそれが気に食わなかったのかもしれない。でも、結果はよかっただろ?どう思う?」

 「あなたのプレイ、そしてトランペットのサウンドにあのメロディはピッタリでした。そのころのジャズとはまったく違う新しいサウンドで、それにも興奮したことを覚えています」

 ぼくはここでミスを犯した。すかさずマイルスが突っ込んでくる。

 「あの音楽は〈ジャズ〉じゃないぞ。ブランニュー・ミュージックだ。いつだって、ひとのやらないことをやるのが好きだからな」

(略)

 「オレはコードから離れたいと思っているのに、ほとんどのヤツがコードに縛られていた。ジョーもそうだ。ハーモニーは二の次にして、メロディとビートを強調しろといったんだ。そうやって吹き込んだのが『イン・ア・サイレント・ウェイ』だ。オレが書いた残りの二曲を聴けば、そのことがわかる」

(略)

 「トランペットでリズムやハーモニーを提示することはできない。一番いいのはオルガンだ。そこでジョーやチック(コリア)にそういうパートをやらせてみたが、所詮は他人だから、考えているものとは違ってしまう。いう通りにはできても、オレの気持ちや感覚が変わっていくことにまでは対応できない。それで、いつの間にか自分でオルガンを弾いて、そのときのフィーリングを伝えるようになった。あの時代、ベース・ノートやリズムを重視していたオレに、オルガンはギター以上に必要なものだった。

(略)

 「その少し前から、レコーディングではギターを使うようにした。それも同じ理由だ。メロディとビートを同時に作れるのはギターとエレクトリック・ピアノだ。

ジミ・ヘンドリックス

[ブルースから始まりJB、スライ、ジミヘンを聴くように]

少し前にモータウンがやっていたリズムが面白かった。

(略)

注目したのは連中の音楽の中にあるヴォイシングだ。それを自分の音楽で表現するにはギターが必要だった。(略)アンプを通して音を出すようになったのも、ワウ・ワウ・ペダルを使うようになったのも、オレ自身がギタリストになりたかったからだ

(略)

ありきたりのジャズにはまったく興味が湧かなかったし、白人のやってるロックも下らないものにしか思えなかった。ただし、ロックがどうしてあれだけ受けるのか、その点には興味があった。音楽的には絶対上なのに、人気の点ではおよばない。その仕組みや理由が知りたかった

(略)

ヤツの音楽はいい刺激になった。同じことをやろうとは毛ほども思わなかった。なにか新しいものをクリエイトしている人間は光り輝いている。ヤツがそうだった。そして、オレはいつも光り輝いていたかった」

 目をぎらつかせながらいっきにこう話したマイルス(略)

[73年のインタビューでは]

「誰がオレのレコードを買おうが、黒人に届きさえすれば構わない。そうすりゃ、死んでも名前が残るからな」と語っている。(略)

「ジミの音楽を聴けって盛んにいってたのが[当時の妻]ベティだ」

(略)

ロックのフェスティヴァルじゃ何十万人って集まるんだ。オレにだってそういうところで演奏できることを見せたかった。そのためには、音がでかくなくちゃダメだ。エレクトリック・サウンドにしたのはそれも理由だ」

 このひとことにはびっくりした。音楽的な志向が変わってきたために選んだのがエレクトリック路線とばかり思っていたからだ。ところが、理由はそれだけではなかった。(略)

 「クリエイティヴィティも大切だが、金も必要だった。服や車やオンナに金がかかるのはあたり前じゃないか。そこから次のアイディアも出てくる。そのためにはレコードが売れて、コンサートもいっぱいになって……とにかく、売れなきゃ話にならないだろ?」

「リズムのオーケストラ化」

 「あのころのモータウン・サウンドはベースとキーボードが鍵だった。あれでリズムのオーケストラ化が図れた」

(略)70年5月から、それまでのチック・コリアに加えてキース・ジャレットもキーボード奏者として加わり、マイルスのグループは二キーボード編成になっている。

 「キースを加えたことで低音部が強化された。ヤツのオルガンがベースとダブルでラインを弾く。オルガンとベースでは音の伸びや振幅が違う。その微妙なずれがオレを触発した」

 これが「リズムのオーケストラ化」だ。(略)

マイケル(ヘンダーソン)が加わったことで、バンドはそれまでにないファンクなグルーヴが獲得できた。そこで、ソロを重視するより、ビートを楽しんだり、アンサンブルでなにが表現できるかを考えていた」(略)

ヘンダーソンは、60年代後半にモータウンのスタジオ・ミュージシャンおよびスティービー・ワンダーのツアー・メンバーとして活躍した経歴の持ち主だ。

ワウ・ワウ・ベダル、自分の音楽

ワウ・ワウ・ペダルを使うようになったのは、ギターのようにトランペットが吹きたかったからだ。(略)

[バンドに入れたかったジョン・マクラフリンは自分のバンドを作ってしまったし、ジミヘンは死んでしまった]

だから、自分でそういうサウンドを出すしかなかった。ジミのヴォイシングに近いものがワウ・ワウで出せたから、ひところはワウ・ワウばかり使っていた

(略)

バンドのメンバーが次々と交代していったのは、結果であって、意図したものじゃない。望むサウンドを求めていったら、そうなったまでだ。自分の音楽がジャズと呼ばれるのにうんざりしていた。ロックと呼ばれるのもイヤだし、ファンクと呼ばれるのもイヤだった、オレはオレの音楽をやっていたから、他人にレッテルを貼られたくない。そうした思いが、自分の音楽を作るエネルギーになっていた。

(略)

ジャズのレコードなんか聴いてなかったし、ブラック・ミュージックやクラシックや現代音楽ばかり聴いてきた。新しいことをやってる意識もなかった。自分の音楽がやりたかっただけで、それはいつの時代もそうだ。オレの音楽がどういうものか、教えてやろうか。かっこいい音楽だ。それ以外になにがある。

アル・フォスター、『オン・ザ・コーナー』

出会ったドラマーの中で、アルはオレの音楽にちゃんとついてこれた数少ないひとりだ。トニーは天才だったが、アルは違う。不器用だ。その不器用さが好ましかった。妙なことをしないからな。その代わり、いわれたことはとことん追求する。ひとつのグルーヴをいつまでもキープできる。そんなドラマーは、ジミのところにいたバディ・マイルスぐらいしか知らない

(略)

バンドの中には三つの異なったグループがいた。ファンクをやるヤツ、アフロ・アメリカンの音楽を演奏するヤツ、それにインドからの音楽を持ち込んだヤツだ。それらが一度に別々のリズムを探り合う感じだな。オレは、リズムを聴きながら好き勝手にソロを吹けばいい。ヤツらに、『こんな感じのリズムを出してくれ』というだけでよかった。ベースやドラムにちょっとしたヒントを与えてやる。すると、ヤツらはそれを元にどんどん変化させていく。ピンボール・マシーンにボールを投げ込んでやるのと同じだ。あとは勝手に弾けていく。オレはテンポやスピードをコントロールしながら全体をひとつにまとめるだけでいい。コンダクターだな。そうすると、いままで誰も聴いたことのないリズムや音楽が出来上がる


オン・ザ・コーナー

アーティスト: マイルス・デイビス

メーカー/出版社: SMJ

発売日: 2013/10/09

Amazon.co.jp

バード

バードがオレを雇ったのは、たぶんディズみたいに吹いていなかったからだ。彼は、ディズとは違うサウンドがほしかったんだ。

(略)

バードが演奏する曲は、ほとんどが彼とディズの演奏用に書かれていた。だから滅茶苦茶なテンポのものが多い。オレのテイストじゃない。それでも、これができなきゃニューヨークではやっていけない。そう思っていたから、こっちは必死だ。あの体験がよかったんだろうな

(略)

バードのことで腹が立ったのは(略)クスリの売人に、『金はマイルスが払う』と嘘をついたことだ。それでオレのところに売人が押し寄せてきた。そのことがあって、一緒に住むのをやめたんだ

75年からの長期療養

[コロムビアのプロデューサー]ジョージ・バトラーは本気でカムバックについての計画を練っていた。だけど、こっちはその気にならなかったから、最初は無視してやった。(略)しかし、ヤツは諦めない。(略)

勝手にリハーサルまでセッティングしようとしたから追い出したこともある。(略)

あんまりヤツが熱心だったんで、しまいにはこちらもその気になってきた(略)」

[78年春先、頻繁にコンタクトを取るように]

ジョージは、それまでに知っていたレコード会社の連中とは違っていた。(略)

[しかし白人重役への反発があった]

ジョージは教養もあって、白人社会に受け入れられるタイプのブラックだった。だけど、ブラックはブラックだ。オレたちと同類の人間でもあった。だから、コロムビアとの橋渡しにはピッタリだった」(略)

あのころはドラッグにドップリと浸かっていた。あんなにドラッグをやったのは50年代の初め以来だ。はまったのは脚の痛みとイライラを和らげるためだ

[79年からシシリー・タイソンと頻繁に会うように]

マイルスが単なる女友だち以上のものを感じていた女性だ。彼にいわせるなら、シシリーは「スピリチュアルな繋がりがあった唯一のガールフレンド」ということになる。

 「それまでに結婚・離婚を繰り返して、もう結婚するのはこりごりと思っていた。しかし結婚するならシシリー以外にいないだろうと、なんとなく思っていた。彼女はオレの気持ちをいつも理解しようとしてくれたし、自分のことだけを訴えかけてくるような女じゃなかった。慎み深いし、知的で、いろいろなことをよく知っていた」(略)

 マイルスが気力を取り戻したのは彼女のおかげである。(略)

[67年の『ソーサラー』のジャケ以来]シシリーとだけはつかず離れずの関係を保っていた。マイルスは彼女のことを誰よりも大切に思っていた。

(略)

[バナナの皮をとなりにあるアイラー・ギトラーのタウンハウスの庭に捨てるマイルス。]

後日、ギトラーに聞いたところ、彼はこれを「マイルスなりの挨拶」と受け止めていた。庭にごみが落ちていることで、「マイルスが元気だとわかる」。そういうことなのだ。

菊地雅章

キクチはオレの音楽のことならなんでも知っていた。オレが望む通りのヴォイシングをオルガンで出せたんだ。アイツがいるなら、オレはトランペットを吹くしかない。ギル(エヴァンス)の音楽についてもよくわかっていたし、何度かリハーサルをして、レコーディングもした。オレはとても気持ちがよかった(略)

だけどな、バンドにオレはふたりいらない。ヤツが入ったらオレがふたりになってしまうだろ

サンタナ

 マイルスは話に疲れたのか、部屋の中を歩き回り、本棚から本を出してみたり、オーディオ装置をいじってみたりし始めた。そういえば、彼のアパートではあまり音楽がかからない。そのことに気がついた。

 そんな思いを察知したのか[サンタナのCDをかけるマイルス](略)

「サンタナはいいぞ。アイツはオレの音楽がわかっている。(略)

アイツがいいのは無駄な音を弾かないことだ。ジミ(ヘンドリックス)と一緒だ(略)

初めて会ったのは『ビッチズ・ブリュー』が出たころだ。

ブランニュー・ミュージック

[絵を描きながら]

新しい音楽をやるときはいつも興奮する。白紙で音楽に向かうんだ。きっかけがあれば、音楽はどんどん面白いものになっていく。この絵のようにな。

移籍

[『ユーアー・アンダー・アレスト』のスティングのギャラで自腹を切る羽目になったのでワーナーに移った。シシリーの黒人マネージャーに契約を任せたら]

ヤツがドジを踏んだ。契約金をできるだけ高くするために、オレの著作権までワーナーに渡してしまった。(略)

悔しいから、他人の曲ばかり録音してやった

プリンス

[87年「世界・食の祭典」出演のため来日。部屋のテーブルに設計図のようなもの]

 「プリンスがステージのデザインを送ってきた」

 びっくり仰天だ。(略)

マイルスが上手に設置された円柱に立ち、中央がプリンス、そして周りにバンドのメンバーが配置される構図だった。

(略)

「今年のクリスマス・シーズンに10回くらいやるはずだ」(略)

「プリンスがミネアボリスで一緒に新年を迎えようといってきた(略)この間の年末だ。行ったら、アイツがすごいスタジオを持っていた。話には聞いていたが、あれほどとは思っていなかった。設備も最新のものが揃っている。それで『やってみないか』と誘われて、何曲か録音した」

(略)

[どこが気に入ってる?]

「アイツはジェームス・ブラウンに影響されている。とくにリズムにな。そういうヤツが最近はいなくなっていたから、ヤツの音楽を聴いてびっくりした。話してみたら、デューク(エリントン)が大好きだっていうじゃないか。オレと同じだ。しかもオレが作ったレコードも全部知っていて、いろんなことを聞いてくる。そんな若造にはめったにお目にかかれない(略)

ソングライターとしての才能が感じられるのはマイケル・ジャクソンとプリンスのふたりだけだ。あとはキャメオのラリー・ブラックモンも悪くない(略)

アイツはいい曲も書くけど、演奏もたいしたもんだぞ。ジミ(ヘンドリックス)以来ギタリストで感心したヤツはいないが、プリンスは例外だ。それとダンスもうまい。アイツのダンスを見ていると、自分でもやってみたくなる

(略)

プリンスはオレと同じでシャイだ。オレたちは似通ってるな。だから意気投合した。音楽の好みも一緒だし、ファッションの好みは違うが、アイツはアイツで個性的だ。そういうところも気に入っている。大切なのは、アイツには自分のできることとできないこととがちゃんとわかってることだ。自分がわかってないヤツとは一緒に演奏できない」

[スクリッティ・ポリッティとの共演の話題から、ラリー・ブラックモンとも録音したと。若い頃通ったシュガー・レイのボクシング・ジムでコーチをやっていたのだラリーの父。TOTOからも話が来てやりたくなかったので1曲1万ドルと吹っかけたら通ってしまったetc]

ついに公認を貰う

この日はある覚悟をもってマイルスのアパートに行った。それは、メモ帳をこれ見よがしに持っていたことだ。

(略)

「そういえば、どうしてオマエはオレと会いたがるんだ?」(略)

「オレと会ってなにがしたい?」(略)

[意を決していずれ本を書きたいと正直に言うと]

「それなら誰にも書けない本を書けよ。オレのことは、ずいぶんと間違って伝えられてるからな。それと本ができたら、30冊、いや50冊寄越せ。みんなに配らなくちゃいけないからな。サインも忘れるなよ」

(略)

あとはどのタイミングでメモ帳を開き、何回ぐらいメモができるかだが、まだマイルスが認めてくれたかどうかはわからない。最初にメモをするときが勝負だ。

<喧嘩セッション>の真相

スタジオで〈ザ・マン・アイ・ラヴ〉をリハーサルしていたら、セロニアスが急に席を外した。それで、ヤツを抜いて練習したらしっくりいった。だから戻ったときに、『オレのバックではピアノを弾かないように』といったんだ。ヤツのピアノはホーン楽器、とくにトランペットとの相性が悪い。サウンド的に交わらないからな。オレとはシンコペーションの感覚が違う。だからバックでコードを弾かれるとスペースが埋められてしまったり、タイミングが狂ってしまったりする。ただし、セロニアスのピアノはある面で最高だ。あんなに独特なフレージングと間のとり方ができるヤツはいない。

(略)

誰が喧嘩したといったんだ。セロニアスがオレをどう思っていたかはわからない。少なくともオレはヤツを尊敬していたし、レコーディングの現場で喧嘩したことなんて一度もない。それが証拠に、次の年のニューポートでは一緒のステージに立ってるじゃないか

(略)

セロニアスとは、コールマン・ホーキンスのバンドで一緒だった(45年)(略)

オレがヤツの〈ラウンド・ミッドナイト〉を吹き始めたのもこのときからだ。曲を書いた本人に吹き方を教わったんだから、最高だろ?だけど、いつも『そうじゃない』っていわれたな。ヤツはオレ以上に音楽と真剣に取り組んでいた。だから尊敬してる。そんなヤツと喧嘩をするわけがないだろ

(略)

セロニアスの音楽には宗教的な響きもあった。小さなときに教会の聖歌隊でピアノを弾いていた、といってたからな。それの影響だ。あとは、西インド諸島の音楽にも通じていた。ソニー・ロリンズと同じだ。オレにはそういう要素がないから、新鮮だった。

(略)

セロニアスは最高にビューティフルな人間だった。友だちづき合いはしなかったから、先輩で先生といったところだな。親切にしてくれたので、強い親しみを覚えていた。

次回に続く。

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