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2017-03-30 ポピュリズム化する世界・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


ポピュリズム化する世界 ―なぜポピュリストは物事に白黒をつけたがるのか?

作者: 国末憲人

メーカー/出版社: プレジデント社

発売日: 2016/09/29

|本| Amazon.co.jp

ポピュリズム

[政治学者・水島治郎談]

「(略)一言で表現すると、『富の再配分が足りない』と訴えるのが左翼ポピュリズムであり、『富を再配分しすぎだ』と訴えるのが右翼ポピュリズムです」

 南北アメリカ大陸は、欧州に比べ所得の格差が激しい地域である。(略)[富の再配分が]大衆の広い支持を得る。ここから、左翼ポピュリズムが台頭する。

 ところが欧州では一般的に福祉国家がすでに実現しており、富がある程度再配分されている。そこで持ち上がるのが、「福祉を不当に受益する人々がいるのでは」といった疑念である。その一番の矛先は移民だ。

(略)

 欧州型ポピュリズムはナショナリズムと結びつくことが多く、特定のスケープゴートを攻撃しがちだ。「排外」「少数者排除」を伴い、内に閉じこもる性格をしばしば帯びる。これに対し、南米型ポピュリズムは巨大な権力に立ち向かうべく、できるだけ多様な集団や勢力を結集し包含しようとする。外に開かれた性格が特徴といえる。

 ただ、南米型ポピュリズムがそのまま、スペインやギリシャに輸入されたわけではない。南米型をいったん理論化し、応用可能な思想に転換した人物がいる。アルゼンチン出身の政治思想家エルネスト・ラクラウである。

 ラクラウは、母国でファン・ペロンのポピュリスト政治を経験し、軍事政権時に英国に亡命した後、エセックス大学教授などを務めた。その思想は、イタリアの思想家アントニオ・グラムシらの影響を受けたポスト・マルクス主義と位置づけられる。彼が、パートナーの政治学者シャンタル・ムフとともに発展させたラディカル・デモクラシー論は(略)南欧諸国で現実政治の指南書としても使われている。(略)

 ラクラウは、既存の勢力が支配する政治空間で、新たな集合的アイデンティティーをつくり上げるための論理を「ポピュリズム」と呼ぶ。(略)[よりどころを失って]浮遊する人々それぞれは社会的経済的に多様で、特定のイデオロギーの下に集まることは難しい。従って、こうした人々を引き付けるスローガンは、多くの人が集まるほど無内容になっていくのである。

(略)

 しかし、ラクラウはそこに可能性を見いだしている。彼は、この営みを「節合」と呼ぶ。特定の政治理念や思想を持たず、それだけだとふらふらと浮遊する不安や不満を節合し、何者かと敵対する存在として意味づけてこそ、現代政治の将来が開けると考える。

 彼のこのような考えの背後に、政治に対する強い危機感があるのは間違いない。

 先進国で既成の政治の枠組みが硬直化し、一部の指導層やエリートが政治を支配するようになって久しい。

(略)

[一時注目されたデモや集会、市民団体・NGOといった「参加型デモクラシー」は参加するのが意識的・積極的な人々に限られ、大衆がついてこない。「緑の党」もそれで失速した。]

 そこに、ポピュリズムの出番がある。さほど政治意識を持たない人も、内気な人も、空虚なスローガンによって動員される大衆の一人として、政治に参加できるからだ。

(略)

[『不審者のデモクラシー――ラクラウの政治思想』の著者・山本圭談]

 浮遊する人々がとらわれているのは、現状に対する怒り、不安、不満と言ったネガティブな意識である。

 「それが大事なのです。何かを否定するからこそ、人々は繋がることができるのですから」(略)

 参加型デモクラシーに象徴されるような「何か新しいものを作ろう」といったポジティブで積極的な政治意識だと、ついていけない多くの人が積み残される。そうではなく、「今のものはだめだ」といったネガティブで消極的な意識を持つ多くの人々を集め、そこに意味づけをすることによって、新たな政治の流れを作れないか、それがポピュリズム本来の営みだというのである。(略)

[そうしていたのが]主に右翼ポピュリズムだった。そうではないポピュリズムが、このような力を取り込んで新たな流れをつくれないか。そこに、ラクラウの問題意識があった。

[彼の思想が注目されたのは、その理論に依拠するスペインの「ポデモス」が、彼の死の一ヶ月後に躍進したから]


不審者のデモクラシー――ラクラウの政治思想

作者: 山本圭

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2016/05/19

|本| Amazon.co.jp

キャメロンの火遊びが招いた悲劇

[2009年]頃まで、英国でナショナル・ポピュリズム政党というと、ユーキップではなく、英国国民党を思い浮かべる人が多かった。

 ただ、英国国民党は元極右だけあって差別意識が抜けず、大衆政党としては広がりに限界があった。一方、ユーキップは明るく柔軟なポピュリズム政党としてのイメージを前面に打ち出した。(略)

 「ファラージは、ユーキップから移民排斥のイメージを排除し、『反EU』に集中させようと気遣いました。この作戦が英国国民党支持者の中で相対的に穏健な層を引き付けることにつながった。2010年以降、英国国民党はユーキップにすっかり食われてしまったのです」

(略)

[だが実際には支持者はEUよりも、移民問題に関心があり、ユーキップは偏見や差別のエネルギーを]

国民投票の過程を通じて「反EU」というある意味でより健全な政治主張にうまく誘導したといえる。(略)

[支持層が重なる保守党はユーキップの伸長に神経を尖らせていたが、それでも右翼と同一視されるユーキップはまだ政治の表舞台には立てなかった。キャメロンはユーキップ支持層切り崩しと党内不満鎮静化を狙い「EU離脱カード」を使った]

 狙いは当初、まんまと当たったように見えた。総選挙で、保守党は予想外の大勝(略)

[だが]もともとの計画は、マッチポンプである。いったん付けた火を、今度は消しにかからなければならない。そのために、政権は極めて複雑な論法を組み立てた。

【1】現在のEUには問題が多いと指摘する。その方針に沿ってEUと交渉を重ね、改革を促す。

【2】EUが改革を受け入れたら、それを成果として掲げて国民投票を実施する。改革が実現したEUは評価に値するとして、英政府は残留を訴える。(略)

[2015年秋]「政治統合への英国の不参加を認める」「福祉を受けるために英国に流入する移民を制限する」など四点の改革を求めた。(略)

[離脱されては困ると概ね要求が通り、キャメロンはこれを成果とし、残留を選択するよう呼びかけ国民投票を実施]

 当時、英国の政権や官僚たちがどれほど楽天的だったかは(略)

[駐英大使の会見からもわかる]

 「英国はEU内での特別な地位を得ます。実にユニークな地位、全世界で最良です。英国は加盟国として自国の権益を守りながらも、政治統合、ユーロ、シェンゲン協定から永久免除されるのです」

 権利だけ得て義務はなし。英国は大いに得をした。それを、とうとうと自慢して恥じることがない。この改革が欧州の将来にどのような影響を及ぼすのか。それがグローバル世界の中でどのような意味を持つのか。全く触れることなく、すべてを自国の損得勘定に還元していたのである。

 ただ、この成果は英国市民の間でほとんど共有されていなかった。市民の多くは一連の経緯に関心を持たず、キャメロンがEUと交渉していたことさえほとんど知らなかった。

 政権がわざわざ国民投票を実施して、しかも現状維持を訴えるという摩訶不思議な状況は、こうして生まれた。本来だと、EU残留を望むなら、最初から国民投票などしなければいいのである。キャメロン自らが国民を説得すれば、それで済んだ話だった。なのになぜ、わざわざ実施するのか。政権は「EUとの交渉の結果、ああなってこうなって」と説明したつもりだったが、市民は全然理解していない。

 これでは、火消しになっていない。

(略)

 実際、市民の意識を支配しているのは、残留派が主張するような「儲かるかどうか」といったのんきな話ではなかった。自分たちが感じている不安と不満こそが問題なのだ。EUの規制が自分たちの仕事を妨げているのではないか。移民が職を奪うのではないか。インテリやエリートばかりが恩恵を受けているのではないか――。そのような疑問に比べれば、貿易や経済成長に伴う損得勘定などどうでもいいのである。

 彼らが感じる不安や不満は、必ずしも現実のものではない。しかし、離脱派のポピュリストたちが付け入る隙はそこにあった。

 国民投票を実施すること自体、ユーキップのファラージにとって願ってもないチャンスだった。大して期待もせず落とし穴を掘っていたら、向こうから飛び込んできたのである。これを利用しない手はない。ポピュリストたちは、人々の不安しきりにあおった。離脱派キャンペーンの中心はユーキップだが、保守党内や労働党内の離脱支持者たちがそれに乗る形となった。(略)

[離脱で浮いた金を医療サービスに回せるetc]ウソやハッタリは、ポピュリストの戦術の常道である。(略)

大英帝国時代のノスタルジーに訴えるなど、戦略の巧みさは残留派よりも離脱派の方が数段上だった。(略)

[さらにキャメロンのタックスヘイブン・スキャンダルで残留派は投票に行く気を無くした]

 英国が失ったのは、カネではないのだ。もっと大きな「英国」というブランドを損ねてしまったのである。

(略)

EUの弱体化は避けられないだろう。英国に見習って、自国さえ良ければいいというエゴが大手を振るようにもなりかねない。(略)

 それ以上に懸念されるのは、「ポピュリストが混乱を生み出せる」という英国の経験が、各国に伝播することだ。(略)各国のポピュリストたちはその様子を目の当たりにして、気合を入れ直しただろう。「英国が孤立化するなら、米国だって壁をつくるぞ」「フランスでも国民投票を」などといった主張が、説得力を持つ。そのうちのいくつかの試みは実現するかもしれない。

右翼ポピュリズム政党の手本となるプーチン

 プーチン政権は多くの右翼ポピュリズム政党の目に、理想的な統治システムを築いていると映っている。指導者に権力が集中する権威的政治制度、強大な力の誇示、基本的な自由の制限、戦略的部門への国家介入、市場メカニズムに対して国益の重要性を常に強調すること、などである。これらの特徴が自分たちの将来のモデルになると、右翼側は考えている。

 なかでも重視するのは、プーチン政権が見せる市民社会との付き合い方だという。ロシアは近年、NGOの活動制限やメディア統制によって市民社会を抑え込んでいるだけでない。ロシアの利益を主張する若者グループやシンクタンクを組織し、積極的に政権支持の世論をつくり出す姿勢を顕著にしている。

(略)

[NGOを拠点とした民主化を求める世論形成で東欧の]親ロ政権を次々と失ったロシアのプーチン政権は、その教訓から新たな戦略を身につけた。

 それを、今度は欧州の右翼が見習おうとしているのである。権力に追随する市民団体をどう組織するか、当局に好意的なメディアをいかに育成してプロパガンダを広めるか、などに関してロシアは右翼の先生なのだ。

 欧州右翼との連携は、ロシア側にとっても魅力的だ。何より、ウクライナ危機を巡って今や敵対する欧州連合の内部に、自らの立場を理解する勢力を築くことができるのである。

 もちろん、クリミア半島でしたように傀儡勢力を利用して乗っ取るには、EUは大きすぎる。欧州の右翼ポピュリズム政党も、完全なロシアの言いなりとはならないだろう。ただ、たとえばEUが対ロ制裁を強めようとする際、右翼はきっと妨害してくれると、ロシア側は期待している。

(略)

 プーチンが2000年に政権に就いて真っ先に手がけたのも、メディア統制だった。当時調査報道で名を上げていた民間テレビNTVに治安当局が乗り込み、詐欺などの疑いで書類を押収し、オーナーを拘束した。このテレビ局は政府系メディアグループの傘下に収められた。

 現在、ロシアのほとんどのテレビはプーチンの息のかかった人物に支配され、内容に関する締め付けも厳しい。

(略)

[ユーゴ紛争で情報戦に敗れ]「か弱いボスニアをいじめる乱暴者セルビアとロシア」のイメージ定着を許した。

[これに懲り、グルジア紛争では欧米コンサルタント会社を使い宣伝を展開](略)

「先に攻撃を仕掛けたのはグルジア」「ロシアは応じただけ」といった見方をうまく定着させたのである。

2016年2月、エール大学教授ティモシー・スナイダー談

 「『マリーヌ・ルペンやドナルド・トランプがファシストになる』と言いたい訳ではありません。ナショナル・ポピュリズムとファシズムは別のものです。ただ、もしこの二人がフランスや米国の大統領になれば、ファシズムを想起させるような何かをするでしょう。それは、一つの兆候です。ファシズムが到来したことを示す印ではなく、ファシズムが到来し得ることを示す印なのです。彼らの次に、もう一つ別のステップがあるでしょう。ポピュリズムの先に、ファシズムを含むもっと悪いものが待っているかもしれません」

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2017-03-28 ポピュリズム化する世界 国末憲人 ルペン父娘 このエントリーを含むブックマーク


ポピュリズム化する世界 ―なぜポピュリストは物事に白黒をつけたがるのか?

作者: 国末憲人

メーカー/出版社: プレジデント社

発売日: 2016/09/29

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国民戦線、ルペン父娘

[ルペンの「国民戦線」と思われているが]

 結党にあたって実際に中心となったのは、ネオ・ファシスト的傾向の強い極右指導者フランソワ・デュプラが率いる団体「新秩序」(オルドル・ヌーヴォー)だった。ただ、組織の暴力的な側面をカムフラージュするために、国民議会議員(下院議員)の経験を持つ右翼志向の男を見つけてきて、党首に据えた。彼は、有力な支持基盤を持たなかったが、なかなか演説がうまく、名目上のトップとして座りがよさそうだった。

 その男がジャン=マリー・ルペンである。

(略)

 しかし、いったん党首の地位を手に入れると、ルペンは巧みに立ち回った。「新秩序」の力を削ぎ、党内の各潮流を競わせ、自らを標的としたテロをかわして生き延びつつ、主導権を確立した。

(略)

[80年代、左翼の退潮で一気に伸長したが、87年のガス室発言の]

反発は極めて大きく、国民戦線に擦り寄りかけていた右派は一気に離れてしまった。以後二十年以上にわたって、国民戦線は他の政党から徹底的なボイコットを受けることになった。(略)

[88年の]総選挙で、孤立した国民戦線はすべての議席を失った。

 以後、行き詰まりの打開を図る改革派の活動が党内で目立ち始めた。その役割を担ったのが、党内の新右翼団体「大時計クラブ」と、中心人物のブルノ・メグレである。低所得低学歴が争い国民戦線の中にあって、メグレは[名門校出の高級官僚、入党したのは88年だったが、瞬く間にNo2に](略)彼の周囲には、右翼に近いエリート官僚らが結集した。

 彼らは、右翼思想家団体「欧州文明調査研究集団」(GRECE)の影響を受けていた。(略)

[GRECEは学者組織で]「右翼グラムシ主義」を標榜し、政治的なヘゲモニーを握るにはまず自分たちの思想や文化を普及させる必要がある、などといった戦略論を展開した。(略)

[略称のとおり]ギリシャ文明に端を発するヘレニズムのうち、ヘブライズムを排してヘレニズムに特化するべきだと考えた。そのうえで、世界各地の文明が持つアイデンティティーとその多様性を重視する理論を構築した。それまでの右翼には、「優秀な欧州が他の地域を指導してやる」といった植民地主義譲りの優越感、差別意識が露骨だった。GRECEはそうでなく、「欧州には欧州の、中東には中東の、アフリカにはアフリカの文明があって平等だ」との立場を取った。

 これは一見、開明的で、あまり右翼らしくない。その実は、「欧州は自分たちでやるから、そっちはそっちでやってくれ」という突き放しの論理である。

(略)

[右翼の枠にこだわらず右派政党と連携をはかるメグレらはルペンと対立、98年分裂。だがエリートのメグレらの新党はすぐにポシャり、若手たちはは国民戦線に出戻った。「裏切り者」と罵られながら雑巾がけしていたが、右翼でもなく単に法律顧問として出入りしていただけのルペンの娘に目をつけた]

理論家ぞろいの彼らの支援を受けて、マリーヌは党内改革派としてのイメージを確立した。急速に高まった人気を背景に、2011年の党首選で勝利を収め、第二代党首に就任した。

 新党首マリーヌとその取り巻きは、新右翼の理念に沿って差別的な言説や極右的行動を排除した。「反移民」一辺倒だった方針を改め、経済や外交、福祉など多岐の分野にわたる政策を練った。メグレの元スタッフらがマリーヌの名の下で進める改革は「メグレのレシピにルペンという名のスタンプを押している」などと揶揄された。(略)

不寛容な右翼政党は、より普遍的な理念とより広い支持を備えるポピュリズム政党に成長したのだった。

(略)

[2015年、過去のガス室発言やペタンを擁護した父を娘が除名。これがマリーヌの開明的なイメージアップに。代わって登場したのがルペンの孫でマリーヌの姪、右翼思想を体現し、強硬派から期待を集めるマリオン。]

[マリーヌの下でNo2となったのが30歳の]フロリアン・フィリポである。官僚養成機関「国立行政学院」(ENA)を出たエリートで、もともとは左翼に近く、社会党内閣で国防相や内相を務めた左派の大物政治家ジャン=ピエール・シュヴェヌマンの選挙運動に携わったこともある。シュヴェヌマンは左派ながらナショナリスト的な傾向が強く、グローバル化阻止と国家による保護主義を主張し、欧州統合にも懐疑的だ。フィリポはその精神を受け継ぎつつも、自らの理想を左翼では実現でさないと考え、国民戦線に可能性を求めて入党したのである。(略)

[父ルペンは自由貿易を重視していたが、フィリポはマリーヌを説得]

保護主義と反グローバル化を党の方針の中心に据えた(略)

「ガス室」発言を巡って父と娘が対立した際、双方の手打ちを試みる古参幹部らに反対して「父ルペンは党を出るべきだ」と強く主張したのがフィリポだったという。父ルペンが持つ差別体質を払拭し、国民戦線を反グローバル化政党につくり替え

(略)

[カトリック強硬派が主流だったが、マリーヌは政教分離に方針転換。不寛容なイスラム教に蹂躙されるのではと不安に思う層を狙い]

「自由や平等といった理念をイスラム過激派から守れ」と主張し、支持を拡大した。

 その結果、やや奇妙な状況が出現した。かつて差別的で偏見に満ちていたはずの右翼ポピュリズムが、こともあろうか人権や民主主義、法秩序といった欧州の基本理念を擁護する存在として立ち現れてきたのである。

 彼らはおおむね、以下のような論理を展開した。

  • イスラム主義は自由や人権を軽視し、民主主義を尊重しない。これらの理念を守るのが愛国者の責務だ
  • イスラム過激派は、政教一致の社会を築こうと狙っている。これを阻止して政教分離を明確にすべきだ
  • イスラム教は女性の権利を認めない。我々はこれを守る

(略)

[マリーヌはインタビューで]

 「国籍へのもっと厳しい条件を課さなければなりません。ハードルが低すぎるから、移民も殺到し、フランス人から雇用などの権利を奪うようになる。二重国籍も廃止すべきです。祖国は一つしかあり得ない。どちらか選ばなければなりません(略)

生地主義の廃止です。フランス人は、フランス人の親から生まれるか、フランスに帰化するかだけに限るべきです。帰化自体は否定しませんが、そのためには罪を犯さず、規則と価値観を尊重し、フランス文化を共有し、運命をともにする意思を持つ必要があります」

 興昧深かったのは、内と外、味方と敵、「我々」と「彼ら」を明確に分けるポピュリスト特有の発想を彼女は正当化する一方で、その区別が人種や民族、宗教によるものであってはならない、との原則を述べたことだった。

 「私たちの活動の基本は愛国主義です。だから、『私たち』と『彼ら』を分けるのです。ただ、『私たち』の中身は多様です。肌の色や宗教がどうであろうとも、フランス人はフランス人であり、私たちが守る対象です」

 つまり、フランス人であることが重要なのであって、キリスト教徒だとかイスラム教徒だとか無神論者だとかは重要でない。イスラム教徒であっても、宗教を盾に共和国の理念に立ち向かわない限り問題にしない。これは、「肌の色や宗教」によって露骨な差別を続けてきたかつての右翼の発想との決別を掲げたといえる。(略)

 ただ、彼女が「フランス人」と考えるのが本当にすべてのフランス人なのかは、気にかかる。(略)

いいフランス人ならいいが、悪い人はフランス人でないと考えているように見える。

 これはやはり、「結集」よりも「分断」なのではないか(略)差別の基準を[肌の色や宗教から]「よきフランス人」と「悪人」とに変えただけではないだろうか。

(略)

パリ政治学院教授のパスカル・ペリノーは、国民戦線の現状をこう語る。

 「父ルペンは政権獲得を本気に考えず、抵抗者としての地位に満足していました。娘は違います。抵抗者であることに満足せず、権力を視野に入れ、フィリポをはじめとする若い世代の支えを受けつつ、党の悪評判を払拭しようと努めてきました。抵抗者の地位から脱しようとする意図は、欧州各国の右翼政党に共通しています」

(略)

[オーストリアの自由党の主張は]フランスの国民戦線やオランダの自由党と重なっている。すなわち、自分たちこそ女性や性的少数者の権利、言論の自由、政教分離といった西欧文明の守り手であり、これらの概念を受け入れないイスラム教と対峙するのだ、といった意識である。

 こうした発想は、欧州社会で広く共有されつつある。欧州は、米国に比べ自由よりも規律や秩序を重んじる傾向が強く、多くの市民は「不寛容を認める寛容さは必要ない」と考えているからだ。

 これは、「自由を制限する自由は認められるか」といった、普遍的な問いかけとも結びつく。認めるのが米国流であり、認めないのが欧州流である。たとえば、暴力的なカルト集団を、米国では信教の自由の一環として認める場合が多い。欧州はこれを厳しく規制する。原理主義的なイスラム教についても、米欧で対応が異なるのは同様である。

 ただ、では実際にイスラム教徒はそれほど不寛容なのか、疑問は拭えない。もちろん、テロリストや過激派は論外だが、難民もそうなのか。むしろ、欧州の寛容さに憧れて海を渡ってきたのでないか。それに右翼側が過敏に反応して、単なるスローガンとして「反イスラム」を打ち上げているだけではないか。

次回に続く。

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2017-03-26 ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇 このエントリーを含むブックマーク


ユーゴ紛争―多民族・モザイク国家の悲劇 (講談社現代新書)

作者: 千田善

メーカー/出版社: 講談社

発売日: 1993/10

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22歳のヘラクは

どのような刑が自分にふさわしいと思うかと裁判長からたずねられ、静かに言った。

「死刑にしてください」(略)

 戦争がはじまるまで、小学校卒(義務教育は八年制で、日本の中学二年相当)のヘラクはサラエボ市内の繊維工場で台車を押す労働者だった。友人の中にはムスリム人も多く、民族(宗教)が違うという理由でトラブルがあったためしはない。断食明け(バイラム)などイスラム教のお祝いの時にはムスリム人の家に招かれたし、セルビア正教のクリスマスには逆に彼らを自宅に呼んだものだった。

 他民族と仲が悪いどころか、姉のリュビンカはムスリム人のタクシー運転手のところに嫁いでいる。父方の祖母はクロアチア人だ。民族が入り混じって共存するボスニアの多くの人間同様、ヘラクも「純粋のセルビア人」ではない。戦争がはじまった後もへラクは(略)ムスリム人やクロアチア人と一緒に、サラエボ防衛のための自警団パトロールに参加していた。

 ヘラクがセルビア側兵士になろうと決心したのは、しつこく誘う伯父の「来なければ民族の裏切り者になる」というひとことだった。「セルビア軍に志願すれば、家もテレビも、それに給料ももらえる」というのも魅力だった。(略)

それに伯父は「サラエボに残っていれば、ムスリム人に殺されることになる」とおどかした。

 セルビア側陣地では、元ボスニア内務省特殊部隊隊員のリスト・プスティブクという男から「特殊訓練」をほどこされた。旧ユーゴ海軍での兵役中に小銃の撃ち方ぐらいは心得ていたヘラクだったが、ナイフ一本での格闘訓練には驚いた。人間の代わりにブタが相手だった。あばれるブタを地面に押さえ込み、髪の代わりに耳を持って仰向けにさせ、首の動脈を切る。血しぶきが飛ぶ。血は生暖かい。……ブタ二頭をほふって、ヘラクは「セルビア民族の戦士」に変身した。

 その数日後、はじめて人間を殺した。サラエボ近くのドーニャ・ビオチャ村で捕虜にした六人のボスニア軍兵士だ。ヘラクは命じられて、三人をカラシニコフ銃で撃ち、残り三人は後ろ手に縛ったままナイフで殺した。オスマンという名の男は「たのむ、殺さないでくれ。おれには女房とまだ小さい子どもが二人いるんだ」と何度も叫んだ。ヘラクはだまってオスマンの首にナイフを当てた。上官から忠誠心を試されている、やらなければ自分がやられるとヘラクは思った。

 しばらくしてオスマンは、ヘラクの夢の中にあらわれるようになった。ヘラクは同じ夢を何十回も見た。そのたびに汗びっしょりになって目覚める。タバコをふかし、眠りに落ちると、またオスマンがあらわれるのだった。

(略)

 上官の命令は「アハトブツィはセルビア陣地の間にある戦略的な地域で、セルビアの村として浄化しなければならない。動くものはすべて殺せ。村はムスリム人とクロアチア人だけで、セルビア人はいない。家はすべて焼き払え。仮に生き残ったものがいても、戻れないようにするのだ」というものだった。実際には略奪も目的だ。月給10ドイツ・マルク(約700円)ほどの兵隊たちにとっては、割りのいい「副収入」になる。

 最初の家には子どもを含む五人がいた。タンス預金のドイツ・マルクや金などの装飾品を出させた後、全員を撃ち殺す。電化製品など目ぼしいものを集めていると、外にトラクターが到着した。戦利品を荷台に乗せ、次の家に向かう。ここでは500マルクを分捕った。主人夫婦が「セルビア人」と書かれた身分証明書を出したが、二人とも撃ち殺した。上官は村にセルビア人はいないといっていたし、テレビを持っているような金持ちは、たとえセルビア人でも殺してかまわない、とヘラクは思った。

 三軒目の家に入ると、地下室から話し声がした。降りて行くと女が二人いて「悪いね、うちには何もないよ」という。年取った方の頭をいきなりカラシニコフで吹き飛ばす。もう一人の中年の女はあわてて立ち上がり、タンスの下を示した。500マルク、金のブレスレット、イヤリング、指輪などが隠してあった。中年の女も射殺した。

 四番目の家では、子ども四人、女二人、男四人の十人が地下室に隠れていたのを見つけた。金目のものを出させた後、銃を突き付けながら、「こわがらなくていい。何もしないから、おとなしく壁の前に立て」と家のそばに並ばせた。一番小さい子どもは10歳ほどの女の子で、赤い洋服を着ていた。だれかが「撃て」と叫んだ。赤い洋服の女の子がおばあちゃんの陰に隠れようとするのが見えたときには、引き金を引いていた。(略)

 この「作戦」の後、ヘラクは近くのセルビア人の村で、念願のテレビを買った。テレビのほか、ビデオデッキと電気掃除機も買った。

 捕まるまでの半年弱でヘラクが戦闘以外で殺した人間の数は、少なくとも30人にのぼる。この中には二つの村での略奪・焼き打ちのほか、ボゴシュチャ町近くのカフェ「ソーニャ」で暴行し、殺したムスリム人女性が含まれる。

 カフェ「ソーニャ」は宿泊施設付きドライブインだったが、いつのまにか女性用監獄になった。「監獄」とは名ばかりで、15歳から30歳前後までのムスリム女性を連行してきてはセルビア人兵士たちの性的欲望の対象にする、レイプのための強制収容所だ。ヘラクはここに、多いときには三、四日に一回の割りで通った。

(略)

 「ソーニャ」では暗黙のうちに「用がすんだら連れ出して殺す」のがルールになっていた。山の中に生きたまま置き去りにしたこともあったが、ほとんどは射殺し、ヤブの中に捨てた。暴行し、殺した後も、「ソーニャ」にはたえず、どこからか新たな女たちが連れて来られていた。一方、「ソーニャ」から10キロ余りしか離れていないイリヤシュ町の「女性監獄」では、女たちを殺さなかった。「セルビア人の子どもを産ませる」のが目的だった。イリヤシュの兵隊たちは、そういう命令が出ているとヘラクに話していた。

(略)

 ある日、ヘラクの父親がムスリム兵に殺された、という知らせが届いた。悲しい知らせだったが、自分を誘った伯父やセルビア人幹部のいったとおりになった、とヘラクは思った。サラエボを捨てた自分の行動や「民族浄化」は間違っていなかった、と思った。

 ヘラクが接した「人間の死」は数えきれない。三台のバスにボスニア軍兵士が乗っているといわれて、対戦車砲や迫撃砲を撃ち込んで炎上させたら、乗っていたのは避難途中の女性と子どもだった。セルビア軍の「特殊捜査部隊」は、女や子どもを含むムスリム人捕虜を射殺したり、生き埋めにした。

 捕まったヘラクが驚いたのは、ムスリム人に殺されたはずの父親が無事だったことだ。おまけに、いさぎよく真実を話すようにと、ことづけまでしてきた。(略)

ヘラクの内部で何かが崩れ去った。何もかも話そう、と心に決めた。話してどうにかなるものでないことも、分かっていたけれど。

これが戦争というものなのだろうか?

[即席バリケードを突破しようとした兵員輸送車は民家の庭先に突っ込んで停止]

 まるで交通事故の現場のようだ。やじ馬の規制にあたる警官は、真新しいスロベニア警察の徽章をつけている。一昨日まで、警官の徽章はユーゴ全国共通の赤い星だった。(略)

 長い間ユーゴに暮らしていた私の実感として、警官も軍人も庶民にとっては同じ国家機関であり、一枚岩の協力・連携をしているように見えたものだ。しかしこの朝、連邦軍兵士とスロベニア警察官の表情は対照的だった。

 トルジン村の民家の前で、軍人は「事故」を恥と感じ、アジア人の新聞記者をにらみつけ、やり場のない怒りを持て余している。一方、警官は明らかに戸惑いながらも、素手同様で戦車を止め「してやったり」という表情でニヤリとしている。昨日まで同じ国の権力機関に属していたものたちが「独立宣言」を境に敵味方に分かれる。「独立」とはそういうものなのかと、不思議な感じがした。

(略)

 何の変哲もない農村、ふだんは退屈で眠たげであろうこの村に、ある朝早く、突然、戦車がやって来た。50年前のヒトラーと同じだと感じるのも無理はない。

 しかし、この時点で、トルジン村の住人たちも、わたしたちマスコミ関係者、そしておそらく連邦軍の兵士たちも、「戦争」というものを実感しかねていた。われわれの目の前にあるのは、「事故」を起こした戦車三両と大破した乗用車、トラック、観光バス。取り囲むやじ馬。これが戦争というものなのだろうか?(略)

[だが出発した直後、戦闘が起きた]

立ち往生する戦車と兵士を救出するため、連邦軍ヘリコプターが降下作戦を決行した。スロベニア軍との間で銃撃戦(略)

わたしたちがトルジン村で見たものは、やはり本物の戦争、正確にはその序幕だったのだ。

投降した国境守備隊

[出動命令が出て国境の施設で警戒態勢に入った国境守備隊。夜が明け]

周囲が明るくなると、自分たちが武装した集団にぐるりと囲まれていることに気がついた。

 よく見ると、こちらに銃を向けているのは知った顔だ。連邦の指揮下にあるとはいえ、国境守備隊員の圧倒的多数は地元出身。スロベニア軍兵士と彼らは幼なじみなのだ。

 「おーい、お前たち、いったい何やってんだ」

 「お前こそ、何やってんだ」

(略)

「外敵が攻めてくるわけではない。連邦軍がスロベニアの独立をやめさせようと、戦車部隊まで出動させているのだ」と、同じスロベニア人から説明されると、守備隊員たちは「何だ、何だ、そういうことか」と、あっさり「投降」し、逆にスロベニア軍の兵士として、連邦軍と戦うことにした――。

自滅した連邦軍

 スロベニア戦争は連邦軍側の完敗に終わった。

 連邦軍の主力を占めるセルビア人たちは、勤勉だが性格の穏和なスロベニア人を「本質的弱虫民族」と、常日頃から馬鹿にしていた。そして、「戦車さえ出せば、驚いて独立を断念するだろう」と甘く見て、作戦ミスをおかした。(略)

[水も食料も持たずに出動し]

夜明けまでには国境線や空港を制圧できると考えていたのだろうが、思わぬ抵抗と反撃にあって驚いた。

 スロベニアがアルプスのふもとに位置し、丘陵・山岳地域が多いことも、戦車の作戦には不利だった。丘陵や森林を縫うように走る幹線道路がバスやトラックの即席バリケードで封鎖されると、戦車部隊は迂回できず、立ち往生させられた。運のよかった部隊は近所のスロベニア人から水を「さし入れ」てもらったが、飢えと渇きでどうにもならなくなった戦車兵が近くの商店を襲った例もある。

 各共和国に指揮権がある領土防衛隊(TO)の武器は90年の自由選挙前、連邦軍駐屯地に移され、本来スロベニアTO所有の戦車や大砲など重火器も「敵側」に保管されていた。このためスロベニア政府は、大量の自動小銃や対戦車砲などをひそかに密輸入し、独自の「準備」をしていた。連邦軍は、クロアチア軍には内偵部隊を潜入させ、武器購入現場を隠し撮りし、「クーデタ」も計画するなど警戒していたが、スロベニアには無警戒だった。連邦軍に残っていたスロベニア人将校などからの作戦情報を、スロベニア側が事前に入手していた形跡もある。

 相手をなめるなど情勢判断を誤り、情報戦にも最初から負けていた連邦軍は、自滅したといっていい。

(略)

 スロベニアを独立させ、旧ユーゴを崩壊させたのは結果的に、連邦軍の武力介入方針そのものだった。スロベニア側は「独立戦争」に勝ち、後戻りができなくなった。(略)

[スロベニアは]セルビア主導の中央集権強化を嫌い、旧ユーゴをゆるやかな「国家連合」に作り替えようと提案し、それが拒否されて「独立」を決定した。

自己申告制だった所属民族

 旧ユーゴでは、国勢調査などでの民族決定を、各個人の自己申告にまかせていた。自分で所属民族を決めることができたのだ。

 最新の国勢調査では数千人が「エジプト人」として登録された。マケドニアの一部地域の住民が、集団的に「自分たちはエジプト人だ」と申請をしたのだ。報道によると、彼らは日常的にはマケドニア語を話し、大多数はイスラム教の信者という。古い言い伝えに「祖先はエジプトからわたってきた」とあり、91年に初めて「素性を明かした」のだという。「エジプト民族」はエジプトにもいない(国民の多数はアラブ人だ)。

新しい民族、マケドニア人

 いまでもブルガリア政府は「マケドニア民族」の存在を断固として認めない。ブルガリア政府は「マケドニア共和国」を独立国として承認しているが、この背景には、セルビアの影響下からマケドニアが離れることを歓迎する、野心的な動機がある。マケドニア民族を承認したのではない。

 マケドニア人が「民族」と認められたのは第二次大戦中だ。「セルビア人」と扱われていたマケドニア人たちは初め、枢軸側のブルガリア軍侵攻を歓迎したが、すぐに「大セルビア」から「大ブルガリア」に支配者が交替したにすぎないことをさとった。マケドニア人を民族として認め、将来の連邦国家でマケドニアを共和国とすると約束するパルチザン抵抗運動が、しだいに支持を集めていく。

(略)

 一方、ギリシャ人にとっては、アレクサンドロス大王の王国の名前を勝手に使われるのは我慢がならない。旧ユーゴ時代にも、ギリシャの政治家は「マケドニア」と呼ばずに、「スコーピエ政権」と呼ぶならわしだった。現マケドニアの首都スコーピエは、古代マケドニアには含まれていなかった。(略)

[マケドニアの独立承認に反対し、ギリシャ北部で]数十万人が「マケドニア人とはオレたちのことだ」というプラカードを掲げてデモ行進した。

 マケドニア人たちの側でも、新独立国の国章と国旗を、よせばいいのに「日の沈むことのない大帝国」の象徴である古代マケドニアの国章(黄金の太陽)と定めた(国旗は赤地に黄色)。ギリシャ側は「スコーピエ政権は領土的野心がある」と猛反発(略)

 マケドニアは独立宣言から一年七ヵ月後の九三年四月、「旧ユーゴ・マケドニア共和国」という奇妙な、仮の国名で国連に加盟した。その後、事務総長が「新マケドニア共和国」と呼ぶように勧告したが、本書執筆段階では双方とも頑強に抵抗している。

ムスリム民族

 ムスリム人は71年の国勢調査で初めて「民族」として認められた。(略)

 旧ユーゴではムスリム人を「民族」として認める以外に、民族対立(とくにセルビアとクロアチアの対立)を緩和する方法はなかった。ボスニアのイゼトベゴビッチ幹部会議長(大統領)は、次のように語っている。

 「われわれムスリム人は、(セルビア中心の)ユーゴ王国時代、お前たちはセルビア人だといわれた。大戦中、ボスニアが『クロアチア独立国』の一部になると、おまえはクロアチア人だといわれた。真実はどちらでもない、ムスリム人なのだ」

 この「どちらでもない」という特徽こそが、旧ユーゴでムスリム人が「民族」となった重要な要因である。セルビア、クロアチア双方の民族主義は「ムスリム人はもともとセルビア人(クロアチア人)だ」と主張し、ボスニアを草刈り場として対立を繰り返してきた。これは現在のボスニア戦争にも共通している。

 ムスリム人も、もとはキリスト教徒だった。500年のオスマン帝国の支配下で、イスラム教を受け入れた人々の子孫だ。

(略)

 ボスニアの主要三民族は、自然人類学的外見はもちろん、言葉もまったく同じだ。宗教を除くと区別できない。彼らは昔から、宗教に付随する風俗習慣の違い(礼拝方法や断食その他)で、相手を「違う集団」と認識していたが、この意識を基礎に近代的な「民族」が形成された。特定の宗教の信者だけを「民族」としたのでないことは、かつての共産党員など「無神論者」も堂々と「ムスリム人」をなのっていたことでもわかる。

 前の項で述べたマケドニア人と同じように、ムスリム人も周辺の大民族主義の対立を背景に「どちらでもない」民族として認められた。

(略)

最近はにわかに、礼拝するムスリム人、女性のベール姿(以前はネッカチーフが主流だった)が目立つようになった。民族主義政党の対立で起こった戦争が、庶民レベルでの「民族」の自覚、つまり宗教回帰をうながしている。セルビアやクロアチアでも、信心深いと自慢するものが増えた。戦争と対立が、民族主義を拡大再生産している。

セルビア・クロアチア語

セルビア語とクロアチア語は方言の差はあるが、アメリカとイギリスの英語のようなものだ。文字はセルビアとモンテネグロでは主にロシア語に似たキリル文字、クロアチアではラテン文字を使う。民族が混在するボスニアの新聞は、ページごとに文字をかえて発行していた。

 このセルビア・クロアチア語は、建国から崩壊まで、旧ユーゴと運命をともにした。

 19世紀前半、セルビア人とクロアチア人は、国境の向こうに同じ言葉を語す人間がいることに気がついた。現在の表記方法を確立した国語改革の父、セルビアの言語学者ヴーク・カラジッチは「ウィーンの南はみんなセルビア人だ」と断言した。別のクロアチア人学者は「みんなクロアチア人だ」と主張した。こうしてユーゴスラビア建国をめざす、クロアチアとセルビアの統一運動が起こる。

 当初は知識人の言語文化運動として、まずクロアチアではじまった。

(略)

 皮肉なことに、いまではクロアチア人の側が執拗に、「クロアチア語とセルビア語とは違う言語だ」と主張している。

 旧ユーゴの崩壊とともに「セルビア・クロアチア語」を公用語とする国は、なくなってしまった。

(略)

 92年春、国連が「国連軍とは何か」というビラを作成、配布した。クロアチア人向けにはラテン文字で、セルビア人向けにはキリル文字で印刷されていたが、クロアチア政府はこれに「文字だけでなく、単語も変えなければ、『ラテン文字で表記したセルビア語』に過ぎず、正しいクロアチア語の文書とはいえない」と文句をつけた。

 クロアチア政府は現在、言葉の呼び方だけでなく、単語や文法まで変える「クロアチア語浄化運動」を進めている。「旧ユーゴ時代の70年余りもセルビア語の影響を押し付けられ、ゆがめられたクロアチア語をただす」ことが目的だ。

 十数年ぶりに帰国した出稼ぎ移民は、大統領のありがたい演説がよく分からない。イギリスに長く住むある女性は、「祖国」クロアチア代表団の通訳手伝いを志願したが、「クロアチア語」が分からず、「あなたの言葉はセルビア語だ」となじられた。

ミロシェビッチ

ミロシェビッチ本人は当時、民族主義を政争の道具と考えていたに違いない。セルビアで基礎を固めた後、「第二のチトー」あるいは「チトーを超えた指導者」として、旧ユーゴに君臨する計画でいたかもしれない。しかし、セルビアだけでなく、他の民族主義も眠りから覚まさせ、旧ユーゴは崩壊してしまう。

民族主義に塗りつぶされて

 セルビア共和国憲法が改定された89年当時、ベオグラードは官製の祝賀ムードでいっぱいだったが、わたしの観察では、好戦的・熱狂的なセルビア民族主義者は一部にすぎなかった。少なからぬ市民は縁故にしばられ、「民族の危機に立ち上がらぬものは何よりも卑怯、下劣だ」との伝統的な考え方の圧力を受け、受動的に賛同していた。しかし表面的には、セルビア指導部の強権発動と各地で繰り返される大集会は、セルビアを民族主義一色に塗りつぶして見せ、ユーゴ全土にはかりしれない衝撃を与えた。

 まずスロベニア、続いてクロアチアで、「次は自分たちが弾圧される」「ユーゴがセルビア中心の中央集権国家に再編される」という危機感が広がった。(略)

[スロベニアの集会で]セルビア当局を「野蛮」などと批判した。

 この翌日、ベオグラードでは30万人(公称は200万人)の集会が開かれ、スロベニア人を「スラブ民族の裏切り者」と非難した。同じ南スラブ民族なのだから、セルビアの味方をしろ、という論理だ。ベオグラードではスロベニア製品不買運動がはじまり、スロベニア企業のベオグラード支店もあいついで本店から「独立」した。

 この年の秋、ベルリンの壁が開き、冬にチャウシェスクが処刑された。(略)旧ユーゴは連邦はなだれをうつように崩壊に向かって行く。

マスコミと情報操作

 旧ユーゴではかなり前から各共和国の利害、主張が対立していたが、テレビやラジオの全国放送はなかった。全国紙は一紙だけ。各地の方言・言語で印刷され、内容もバラバラの六共和国二自治州の新聞全部を読まないと「本当のユーゴは分からない」といわれたが、わたしは四紙がやっとだった。

 ユーゴ紛争は80年代後半、民族主義をあおったこれらのマスコミが準備した。戦時下でも、軍隊並みかそれ以上に戦局を大きく左右した。各当局にとって、マスコミは国民を戦争に動員し、国際世論に訴える重要な武器だった。

 マスコミは相手側を「ウスタシャ」「チェトニク」「イスラム原理主義」と、黒一色に塗り潰し、自分の民族は共通して「被害者」「自分たちの権利を守っているだけ」と、天使・聖人のごとく描いた。テレビは死体の映像も、これでもかとばかりにたれ流す。ベオグラードでは一時期「ニュースを見ない運動」が呼びかけられた。

 どれも「大本営発表」だ。「敵軍隊が停戦合意を無視したので、反撃を余儀なくされた」という一方の報道を聞いたら、「敵部隊が迫撃砲で攻撃してきたが、挑発にはのらなかった」という他方の報道も聞く必要がある。慣れると「強力に反撃した」などの表現で「激戦があった」とわかる。しかし、どちらが優勢かなどは、早くても数日後、多くの場合は永久にわからない。

 テレビは、現代「情報戦争」の主力兵器として、各派ともとくに重視した。

(略)

24時間「戦争のために」という名の番組だけ。「進めクロアチア防衛隊」「わが祖国」などの愛国歌をはさんで、政府発表、各地の戦況、教養番組「クロアチア民族の歴史」などが続く。映画やアニメはない。スポーツ担当者まで戦場に送り、選挙レポートさせた。

ありがとう、ドイツよ

[92年1月]クロアチア国営テレビから「ダンケ・ドイチュラント(ありがとう、ドイツよ)」という歌が流れた。歌詞もドイツ語だった。(略)ECがクロアチアの独立を承認した当夜のことだ。

 消息筋によると「国家上層部の指示で、放送の三日前に急遽作詞作曲され、前日に録画された。(略)

ECの独立承認が、ドイツのごり押し工作の結果だったのは事実だが、クロアチア人の間でも「卑屈すぎる」という声が聞かれた。

(略)

 当時、数十万人のセルビア人が強制収容所などでウスタシャに虐殺された。彼らの目から見た統一ドイツは、ヒトラーの「第三帝国」に続く、まぎれもない「第四帝国」である。欧州制覇の野望をいだく大ドイツが、手初めにユーゴの分裂をねらい、ふたたびクロアチアを衛星国にした、とセルビア人たちは感じた。カディエビッチ連邦国防相は、ドイツが「(両世界大戦に続く)20世紀で三回目の、我が国への侵略を開始した」と激しく非難した。

 セルビアの国営ベオグラード放送は、「ダンケ」の歌を繰り返し放送した。クロアチア人の卑屈さを笑いものにし、同時に「ドイツの侵略」の危険を国民に警告するためだ。

 クロアチア独立承認はドイツの支援なしには不可能だった。コール政権の中でもとくにゲンシャー外相が積極的で、独立承認によってクロアチア戦争をやめさせられる、また後には、ボスニアヘの拡大を阻止できると主張した。

 ゲンシャーは91年夏以降、たびたび「戦闘が続けば、クロアチア独立を承認する」と述べた。セルビア側や連邦軍を牽制し、圧力をかけるためだったが、クロアチア政府はこれを逆手にとって「承認のためには戦闘を続ければいい」と停戦違反の攻撃をくりかえし、戦況を悪化させた。

 早期承認論にはイギリスやフランスが抵抗するが、ドイツは(略)単独承認を決定し(略)

EC諸国は市場統合を一年後に控え、紛争解決より「加盟国の一致」を優先させたい事情もあった。ドイツの強引な圧力の勝利だった。

 この背景には、ドイツが統合ECの内部で主導権を握るとともに、旧ソ連の勢力圏から離れた東欧諸国という広大な市場にまで、ドイツの影響力を拡大・強化しようという衝動があったことは、間違いないだろう。

(略)

[ドイツは経済で欧州制覇できたのに、なぜユーゴを分裂させたか。クロアチアからの出稼ぎ・移民が多く]

一説には60万人というクロアチア系移民組織は、「祖国支援」をドイツ国内で訴えた。

 すでに「統一」の悲願を達成していたドイツ国民は、自分たちと同様に「民族自決」を求めるクロアチア人の訴えに(同時に、これを報じる自国のマスコミに)、心を動かされた。しかもドイツ国民の目からは、クロアチアの独立を妨げるセルビアのミロシェビッチ大統領が(略)[ソ連や東独の]「共産主義の独裁者」として二重写しになって見えた。

 外相を18年間もつとめた「歩く西ドイツ外交」のハンス・ディートリッヒ・ゲンシャーまでが、「民族感情」のとりこになったようだ。(略)ドイツ政府のある高官は「理性より感情的要素が強かった」と述懐している。

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2017-03-22 内村剛介インタビュー・その2 ロシアのヤクザ このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


内村剛介ロングインタビュー―生き急ぎ、感じせくー私の二十世紀

作者: 内村剛介, 陶山幾朗

メーカー/出版社: 恵雅堂出版

発売日: 2008/07

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「ブラトノイ」とは

[「ブラトノイ」は普通日本風に「ヤクザ」と訳されているが]

先ず語源的に言いますと、「ブラート」、いわゆる「袖の下」ということから来ています。(略)賄賂ですね。もともとの起こりはそこからなんで、「ブラトノイ」とは、したがって、「非合法な力によるところの絡めとり」と言いますか、「非合法な手段でもって権力を手に入れる」ということを意味しています。しかしながら、そこに篭められた彼らの意図というのは、最終的に麗しい世の中を作りたい、アナーキックな世界を実現したいという願いであって、「ブラトノイ」とはだからこの手段と意図とをいわばドッキングした存在にほかならないと言えると思います。つまり、権力に向かってはたしかにそれを「絡めとる」「掠めとる」わけですが、しかし、その後に目指すところのものは権力の無い世界であるということですね。(略)ここに見られる無頼性、そのアナーキズム的性格というものは、広くロシアの芸術や政治とも密接に繋がっていると言えるわけです。(略)

このロシア的無頼性というやつはどこから来たかと言いますと、そもそもロシアのように余りにも広大な土地に対して、人間の数が極めて少ない(略)

[強力なパワーによる]強制的な力をもってして人間を狩り集め[労働させるという発想になる](略)

中央集権的な力によって、その広い土地と人間とをドッキングさせるというのが唯一の方法だったわけです。

(略)

[16世紀ロシアでエンクロージャーが始まり権力者が「ここは俺の土地だ」と宣言した時に大人しく降伏したのが「クレポスノイ」(農奴)、それは我慢できん、ここを出て新しい土地を探すと逃亡したのが「コザック」]

こうして彼らは山野を開拓してそこに定着していくわけですが(略)そうすると、今度は彼らコザックの内部で「階級化現象」が生じてくるんですね。そして、この階級化したコザック社会のリーダーたちは、やがて寝返りを打ってモスクワの皇帝権力と癒着を始めるのです。(略)

すると、また息苦しくなった「コザック」の本流は、再びそこを逃げ出して外へ向かうんですよ。(略)

こうして彼ら不満分子が外へ向かって逃亡すればするほど、彼ら逃亡者によって開拓された土地、フロンティアは、最終的には全部ツァーリの財産として追認、回収されて、結果として帝政ロシアの領土が広がっていくという、非常によくできた円環的システムになっているわけですね。

(略)

 そして最後に第三の対応があります。つまり「ここは俺の土地だ。それを認めよ。いやならここから出ていけ」という強者の命令に対して、「そんなことは嫌だね。俺は頭を下げないし、逃亡もしない。俺は一匹狼で暮らすよ」と宣言し、これを実行した者たちです。つまり、屈服して土地に止まったような農奴にもならないし、また生まれ故郷を捨て、徒党を組んで外へ出て行ったコザックの道をも選択しない。しかし、そうかといって新しい領主にも従わない。自分はあくまでここに止まり、独りの力で立って見せるという誇り高い立場ですね。これがつまり「ブラトノイ」であって、いわゆるロシア・ヤクザの系譜の始まりもここにあると言われています。

「ロシア地理学協会」

ロシアにおける民俗学研究は、そもそも1840年代から60年代にいたる20年間くらいがその勃興期で、前にも話しましたが、そのときに「ロシア地理学協会」というのが出来ます。そして、この協会はロシア全土の地理や民情を調査するわけですが、中でも遠い辺境を調査するということは、中央権力の膨張政策という政治上の要請がその裏側にあったわけですね。しかし、そういう現場を具体的に調査することは、これは「官」ではなく、やはり「民」でもってやらなきゃならんのですよ。でも、当時そういうサーヴェイを担う民間組織などなかったのです。そして、どうしたか。これがいかにもロシアらしいんですが、実際にその仕事を進めたのは囚人なんてすね。囚人と言いましても、要するにインテリの囚人。

 ――流刑囚ですね。それからアナキストクロポトキンなんかも、彼の『自伝』を読みますと若い頃この地理学協会の会員であって、相当な学問的貢献を果たしています。

 遠い辺境に追放になっているインテリ、学者囚人たちが、ひたすら自分の学問的関心から発してその仕事を積極的に行ったわけで、彼らは率先して地図など未だ無い奥地へ入って行き、その調査結果は書きものとして定期的に集約されていったのです。そして、この「果実」は地理学協会によって吸い上げられ、それがさらに政府の政策決定に影響を与えて行ったという構図があるわけです。要するに、権力は、自分が弾圧した連中を使って辺境調査を積み上げ、その支配と拡張のために役立てた(略)

学問的良心に従い、民衆のためにということで推進されたサーヴェイが、回りまわって今度は民衆弾圧の道具にされるというパラドックスがここにあるわけです。このロシア民俗学における逆説は、ソ連邦という政治体制が完成する以前に、すでに19世紀の半ばに出来上がっていたということになります。この地理学協会は地方にそれぞれ各支部を持っていましたから非常に大きな力がありました。今でもその伝統はロシアに生きています。

(略)

例えば日露戦争の前、ウイッテは北満調査団を派遣し、膨大な実地調査を敢行しています。例えば、何故ハルビンに満洲の拠点を置くか。それを決める前に全部ちゃんと学問的サーヴェイを行っています。もちろん武力をもって入って来たという事実は明らかなんてすが、その前にちゃんと学問的な裏づけを行っているわけで、しかもそれには民間の力が大いにあずかっていて、車の両輪のように並行していたわけです。

(略)

 こうしたロシアのやり方を知った初代満鉄総裁の後藤新平が言い出したことがあるんですよ。彼曰く。図書館は大学に付けるな、と。図書館を大学附属としてしまっては使い物にならん。そうではなく、調査機関にこそ図書館を設置し、有効に活用させるべしと。つまり、図書館をもっと調査の現場に直結させろ、そしてアカデミーはアカデミーの仕事をやれと言ったのです。だから満鉄調査部の図書館というのは、建物が調査部と並行して隣り合わせにありました。それが一番大きな図書館で、その点はやっぱり卓抜だったと思いますね。これはやっぱりロシア的な伝統を真似していると思うんですよ。

逃亡は美徳である

この巨大な、無制限の、何ものにも制約されないところの権限とは――これは「権限」というよりももう「暴力」そのものですが――およそ制御というものを受けない力なんだから、それは民衆の側からすれば何処へどういう風に向かってくるかもう見当がつかないわけですね。しかもその圧力をまともに受けたら、自分の方が吹っ飛んでしまうしかない。ですからその暴風を受ける側に立ってみれば、ここは理屈を言わず、「いかにしてこの暴虐な権力から逃げるか」という発想になります。勇者なるが故に圧制から逃亡する。つまり、圧制から逃亡する者は、なべて「勇者」なんですね。だからそれに対しては敬意を払うというのがロシアです。ロシア語で「ベジャーチ」と言いまして、これは「逃げる」ということ、「走り去る」ということです。日本では「逃亡兵」とか「敗残兵」とかいうのは不名誉ですが、ロシアでは「英雄」なんですよ。(略)

 つまり、真正面に反抗できないような強大な権力と対峙したとき、それに反抗は出来ないとしても、しかし自分は「逃げる力」だけはもっていると。そこで、彼は断固として決断し、そこから逃亡する。つまり、権力に背を向けて走る。権力のない世界を求めて走るわけです。これは言わばアナーキズム、しかもアナーキズムの権化です。極端な無制限な権力の集中に対する、無制限な権力からの解放です。したがって、「逃亡する」とは、自分の自由を守るための英雄的な行為なんですよ。ロシアでは今でも「逃亡した」というのは肯定的な意味に使われています。

(略)

 要するにロシアでは「逃亡は美徳」であり、その伝統はロシアの精神的背骨であったということ。そして、その源泉は「ブラトノイ」にあったことをはっきりさせておこうということです。だから、自分の力以外は何ものも信じないという人間――ただし、それは「集団」とはならない――そういう人間たちが、ソビエト時代をも通じてロシアには一貫してあったということです。

ブラトノイ「働く奴は食うべからず」

「ブラトノイ」は仲間を作りますけれども、本来は一匹狼だから団体的な行動はしないわけです。だから彼らはあくまで一人で事に処し、「ヴォール・ヴ・ザコーネ」と称されてきました。この呼び名は要するに「律法に則ったところの」「正統派の」ブラトノイという意味です。「律法(ザコン)」とは彼らの「掟」ということですが、これは、仲間を決して裏切らないことをはじめとして、国家権力を認めず、したがってその法にも従わないところの自分たちだけが「人間(ヴォール)」であるという、彼らなりのあり方を不文律として示したものです。

(略)

 ですから、彼らはラーゲリや監獄の中でも決して働かないし、まして兵隊にも行きません。あの独ソ戦のときでも、「お前たち共産主義者は、労働者は祖国を持たない、と常日頃言ってるじゃないか。だったら『大祖国戦争』なんて嘘っぱちじゃないか。ソ連邦が祖国であるならば、それは共産主義じゃない。そんなウソで固めたロクでもない『祖国』に、なんでこの俺様が仕えなきゃならんのだ」というのが彼らの言い分でした。

(略)

[ブラトノイが「一家」なさない理由]

「一家」を成した途端、今度はそれに縛られるわけだから。したがって、彼らは決して〈家〉をなさないし、また妻もなく子も持たないんです。そこが日本ヤクザと原理的に違いますね。(略)

彼ら「ブラトノイ」は何人であっても決して集団を成しません。しかも生涯独身を貫いて、絶対に結婚はしない。女はすべて軽蔑し、自分の生理的要求を満たせばあとは踏み潰していいという考えです。ただし、母親だけは別で、これを神のように崇拝しています。(略)

 そして彼らの場合、「働かざる者は食うべからず」じゃなくて、「働く奴は食うべからず」なんです。そもそも「働く」ということは権力におべっかを使っていることだから、そんな奴は生きてる資格はない――という、そういう論理ですね。じゃあ彼らはどうやって食っていくのか。だって、彼らは働かないんですから。そこで、ラーゲリでは「おい、そいつを寄越せ」と。つまり、彼ら以外の連中が働いたものを掠め取って食う、ということになるわけです。こうして自分たち仲間以外の連中の上前をはね、同様に娑婆に出ればもっぱら一般人から脅し取ることで生きのびるわけです。(略)

「ブラトノイ」の世界では彼ら自由人(娑婆の人間)は、いくらでも絞り取っていい相手となるわけなんです。日本語で言えば「トーシロー」です。(略)要するに、収奪されっ放しの人間ということになるんです。甘っちょろい、素寒貧のトーシローは「ブラトノイ」にとって人間じゃないんですよ。

(略)

彼らにはもうひとつ別な敵対するグループがありました。これを「スーカ」と言いまして、直訳すると「雌犬」という意味で、権力と通謀した連中のことです。つまり「裏切り者」、「崩れブラトノイ」です。この「スーカ」の後ろには権力が付いているわけで、彼らは正統派を叩きのめし、それを引っ下げてますます権力におべっかを使うようになっていったわけです。ですから「掟」に生きる「真のブラトノイ」にとってはもう彼らが憎くてたまらない。両者は不倶戴天の敵同士ですから、会えば直ぐ殺し合いを始めるわけです。

 しかし、その後の状況としては「スーカ」側が圧倒的に優勢になっていくんですね。すなわち、ソ連が対ドイツ戦争に勝利していきますと、権力と通謀した「スーカ」もまた勝ち戦の勢いに乗じてその勢力を伸ばしていくわけです。そして、権力と手を組んで、猛烈な「ブラトノイ」征伐にかかり、その結果、ほぼそれを達成するんですね。ですから、ラーゲリに生き延びていたところの、16世紀以来の一匹狼の伝統はここに消滅したわけです。

 こうして、「ブラトノイ」は滅び、今やまさにマフィア――これは「スーカ」の流れを汲んでいます――ロシアン・マフィア全盛の時代になったというわけです。

2017-03-20 内村剛介インタビュー シベリア抑留「脱欧・入亜」 このエントリーを含むブックマーク


内村剛介ロングインタビュー―生き急ぎ、感じせくー私の二十世紀

作者: 内村剛介, 陶山幾朗

メーカー/出版社: 恵雅堂出版

発売日: 2008/07

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ハルビン学院における「五族協和

李明旭は、日本人・中国人全員の中の最年少の大秀才で授業中も全くノートをとらない。「何故ノートをとらないんだ?」と訊くと、「そうすると紙に頼るようになっちもうからよ」ときた。(略)「聞いていて忘れるとすれば、それは俺に縁がなかったのさ。(略)」と平然としている。(略)

[卒業間近、物産に就職するというので、外交官合格間違いなしなのに何故と訊くと]


李 ああ、俺は役人というやつが嫌いなんだよ、簡単に言っちもうとそういうわけ。でも、もっと言えばだな、ナイトウ(内村氏の本名、内藤操)よ。俺は中国人ってやつがわからないんだ。俺自身が中国人ってことになっているけど、中国は知れば知るほどわからなくなる。それが中国ってもんだ。(略)

だから、俺は日本を選んだんだ。(略)

だって、お前ら、単純明快、底まで分かるからだよ。


これを聞いて、本当にがっくりきましたね(笑い)。お前らジャパニーズは単純明快である。だから死ぬんなら、この単純さの中で死にたい。不可解の中では死にたくない(略)これはとても正直な態度表明だったと思います。というのはどういうことかというと、われわれは四年間を共に暮らして、それくらい日本人・中国人ということの差が無くなっていたということの証拠でもあるのです。当時、もし少しでもそんなこと喋ったのを聞かれたら、もういっぺんに憲兵に連れて行かれます。つまり、お互いに絶対に裏切らないと思っているからこそ本音を喋っているわけですね。

 というわけで、あなたの言った「五族協和」といった理念を当時の学院生がどう捉えていたのかという問題は、具体的な側面に即していくと、そういうお題目はそれとして、われわれ自身はそんなスローガンを突き抜けて、あくまで一対一で付き合っていたということです。

リベラリズム

ロシア語ではリベラールヌイ(リベラル的な)と言って、これまで蔑称的な意味でしか使われてこなかったんです。そこで「リベラリズム」という言葉を復権させるために、ソルジェニーツィンはアメリカヘ行ってから、ロシアにおけるリベラリズムの伝統を、十九世紀思想史の中から見つけようとリベラリズムに関連した文献を発掘し始めたんです。(略)

 僕は今それを踏まえつつ敢えてその用語を使っているわけですが

(略)

あの戦時下における哈爾濱学院のリベラリズムとはいったい何だったのか。それは、明らかに一方においてボルシェヴィズムの台頭を見ながら、他方において日本右翼の突出をも睨んでいた。当時、日本左翼はそれほど問題でなく、われわれの現実に打撃を与えるのはやはりボルシェヴィズムであり、右翼だと思われていました。

[右翼は玄洋社中野正剛が学院に生徒を送り込んでいた](略)

日本の知識人は大正デモクラシー以降、ロシアのボルシェヴィズムにイカレて、このリベラル左派という存在を馬鹿にしてきた歴史がありますが、しかし果たしてリベラル左派以外に残るものがあるのか、という問題ですね。右翼は駄目、ファナチックな左翼も嫌だとすると、結局、自分一個の人間存在として歴史と向かい合うほかない。「歴史」という言い方が大袈裟だとすれば、時代と向かい合うんですよ。(略)そういう精神としてのリベラリズムという位相があると思う。

哈爾濱学院では軍人までがリベラルでした

[さすがに配属将校ではないが、教練を担当した副官の予備将校はノモンハン事件の生き残り]

匍匐前進の訓練で、「一木一草と言えども身を隠すところがあればこれに隠れつつ前進すべし」という陸軍の野外教練マニュアル(略)は間違っていると言うのです。何故か。(略)

 敵と対峙した場合、一木一草というのはこちらから見れば確かに身を隠すものかも知れないが、しかしそれは向こう(敵側)からもはっきり捉えられ、暗記すらされているものである。(略)

しかも、敵側は狙撃兵が銃を構えて待っている。狙撃兵の仕事とは何か。何よりも先ず相手の指揮官を倒すことである。その次に兵たちが倒される。ここで突撃を敢行しようとする場合、我が陸軍のマニュアルにはどう書かれているか。隊長の「突撃ニ――前ヘ!」という二段構えの号令によって律せられる。先ず最初の第一段「突撃ニ」で隊長はやおら軍刀を抜いて構え、次の「前ヘ!」で立ち上がって前方に突進することになっている。兵たち全員がそれに続く。だから相手もその流れを熟知した上でタイミングよくダダダッと撃ってくる。結果、判で押したように先ず隊長が殺られ、次に兵が殺られてしまう。だから、どうするか?お前たちももうすぐ戦場へ行くのだから、よく覚えておけ。俺はこうやって生き残った。つまり、先ず、最初の「突撃ニ」の号令を耳にしたらもう単身で走り出す。そして、次の号令「前へ!」の時にはすでに身を伏せている。突進の構えの時に一人で走り出し、全軍が動き出した時はもう伏せる。狙撃兵は何が起こったのか分からず、指揮官を見失って混乱する。だいたい向こうの装備はチェコ製のマンドリン銃、こららは明治38年製のいわゆる三八銃。つまり、刀でもって種子島と闘うようなもの。負けるに決まっているじゃないか――。

 彼の日本陸軍批判はさらに延々と続きました。僕はこんな教訓に満ちた授業は日本のどこにも当時なかったと思っています。

(略)

で、何故そんなことが言えたのかというと(略)

関東軍が裏から満洲国をギュッと押さえていたわけで、哈爾濱学院はその内部に取り込まれてしまっていたのです。したがって、院長自身も軍から送られてきていたんですが、しかし、それはあくまで建前なんてあって、逆に言えば、哈爾濱学院は軍司令部の掌中にある以上、そのへんのチンピラ軍人は口出し出来ない存在になっていた。関東軍の懐の中でこそ存分にリベラルなことが出来たという逆説がここに成立する。

 ――たしか、最後の渋谷院長は、二・二六事件で決起した近衛師団の連隊長だった人ですね。

そうです。彼は部下が反乱を起こしたので、責任をとろうとして死に場所を求めていたが、監視がきつくて死ねなかった。反乱部隊は満洲へ送られますが、彼自身も満洲へ移動となり、満洲国治安部の次長(事実上の大臣)を務めます。その後、昭和十八年、僕が三年生の時に哈爾濱学院の院長として赴任して来たのです。(略)

[赴任の訓示で]

「自分は陸軍幼年学校以降、いわば変則的な教育を受けた人間である。そういう者が教育者として振る舞っていいのかどうかをよく考えてみた。そして、考えた末にここへ来たのは、自分の変則的なものを正すという効果があるんじゃないか」という演説をしたわけですよ。われわれは感動しましたね。こりゃあ凄いのがきたなあ、と。事実、彼はわれわれ学生には非常に優しかったです。まあ、そういう大物が院長だったわけですから、配属将校なんか小さくなっているわけです。

「革命ロシア」をどう見たか

われわれは「革命ロシア」をどう見ておったか――と言えば、先ず、われわれの周辺にいたのは、学院の先生たちも含めていわゆる白系ロシア人たちでした。つまり、彼らは革命を逃れて、あるいは祖国を追われて来た連中でしたから、革命に対してそれは極めて批判的ですね。革命派は国を売った、われわれロシア人を裏切ったという受け止め方が圧倒的でした。学生たちは彼らに教わるわけですから、どうしてもその影響を受けざるをえない。そんな中で竹内さんとか、一部そういうリベラリストがいて、必ずしも革命を全面肯定はしないんだけれども、しかしそれを受け入れようとした立場の人もまたいたわけです。

 だから結局、われわれは半々で両方を見ていた。どっちにも与しない。俺たちは俺たちだということであったような気がします。確かなことは「革命ロシア」という場合、その革命というやつにロマンを全然感じなかったということです。それは哈爾濱学院の特徴でしょうね。

プロレタリア文学、「わだつみ」批判

駄目でしたね。あの左翼の一方的な自己主張――つまり、自分たちだけが真理を握っているんだという、あれが何とも僕は我慢できなかった。(略)自分たちは歴史の長者である、歴史から最も溺愛されているのがコミュニストである、と彼らは宣伝これ努めているわけです。しかし、そんなことは関係ない、歴史はもっと冷酷に君たちを裁くだろうという風に僕は思っていました。(略)その意味ではリベラル派の方に与していました。

 その嫌悪感を僕たちにうまく伝えていたのは、当時唯一小林秀雄だけだったんじゃないかな。

(略)

 ――最近『きけわだつみのこえ』の改鼠問題が話題になったりしていますが、内村さんは当時の「学徒出陣」に関して、かなり早い時期に所謂「わだつみ」の連中に対して批判を提出されています。特権的に学問をさせて貰っていて、それが戦争で痛めつけられたからといって彼らだけが特別に哀悼される何のいわれもない、戦後の風潮に乗って「わだつみ」を栄光化しようとする視点そのものがおかしいのじゃないか、と。

 ええ。僕が若いとき、満鉄社員に感じた疑問――満鉄のエリート社員が左翼がかった本を読み、左翼がかった言辞を弄しているのを見て、何かおかしいと思ったことと理屈は同じです。それはあんたたちが云々すべきことじゃないんだ、あんたたちは所詮階級のよそ者なんだ。それを言うなら俺にこそ資格があるということです。僕の故郷・栃木県の田舎から出征した兵士はブーゲンビルとガダルカナルで全滅しています。村では父親か息子が兵隊に取られて戦死すれば家族は壊滅ですよ。彼らは何も言わないじゃないですか。自分はいい飯食って将校待遇を受けながら、それでいて被害者面をしているという傲慢。それが僕の反発の根拠でした。戦後、それが反戦ムードに利用されているわけですが、それがおかしい。最近言われ出している改鼠騒ぎも当然のことだと思います。それはそうですよ。これはいい加減なものだと、僕は昔から感じてきました。

(略)

[哈爾濱学院は「スパイ学校」という中傷はどこから]

ソ連側からですね。

 ――日本のジャーナリズムの側もそう受け止めたということですか。

 そうですね。戦後ジャーナリズムはそうだったですね。(略)敗戦日本は戦勝者ソ連の言いぐさを真に受けたわけです。極東裁判と同じレベルの発想なんてすね。戦勝者による断罪です。スパイ養成のための学校であると。むろんそんな学校じゃないわけです。そういう学校ならばすでに軍にあり、軍は軍でちゃんと別の部隊をもって哈爾濱のロシア語教育をやっていました。また、それよりも大事なことは中野学校が存在していました。

脱亜入欧」、後藤新平

われわれは確かに「入欧」はしたんですよ。しかし「脱亜」の方は本当に成功したんだろうかということです。しないんですね、これが。この失敗のツケこそが、その後大東亜戦争への突入とその敗北(略)

あの「脱亜入欧」こそ終わりの始まりだったのではないか、という風に僕は考えるわけです。

 そういう中でじゃあ後藤新平はどうだったかと見ていくと、彼が原敬など同時代の他の人と違うところは、先ず「反米」を貫いていることです。(略)

[1924年、排日移民法案で日本人移民は入国禁止]

アメリカに門戸を閉じられた日本人はどこへ行ったらいいんだということですね。われわれは満洲に行くほかないではないかというわけです。しかし、満洲へ出ようとすれば今度はロシアとぶつかってしまう。だからロシアとは仲良くしなきゃいかん――というのが彼の論理です。

 つまり、たしかにわれわれはお互いに喧嘩(日露戦争)はしたが、しかし喧嘩が終わったらすぐ仲直りしようと。これが彼の一貫する発想法です。(略)

[それはリアルポリティックスというより彼自身の固着概念で、ロシア革命も冷静に評価できず]

この国の看板はたしかに社会主義なるものに変わったけれども、しかしそれは建前じゃないか、ロシアは結局これまで通りロシアだろうという風にしか彼には考えられなかった。

(略)

[トロツキーは追われ、スターリン体制に]

ロシア革命がこのたった十年で変質するのを見て敗戦ドイツがヒトラーの名で対抗するわけ。(略)

[それが]後藤には見えていない。そして相変わらず、日本の膨張する力の捌け口としては満洲しかない。それゆえロシアとの宥和提携は絶対必要である、という考えにのみ凝り固まっている。しかし当のロシアの方は変質して国境を閉じてしまうわけですから、哈爾濱学院生は行くところがない。

(略)

先の大戦の敗北によって、われわれは「脱亜」も「入欧」も両方ともしくじったんだということです。したがって、これからは、かつてわれわれが棄てたところのアジア、これとどのように一緒に生きていくかという道を見つける以外に僕らの生きようはないと思います。(略)

 そこで思い出すんですが、日米戦争が始まったときの学院でのシーンです。(略)

[授業で教授がニュースを聞いたと言ったが]

勝ったのか負けたのかさっぱりわからんわけですね。ともかく戦争が始まったということだけです。で、そのとき教室の誰一人として頭を上げる者はいなかっかです。誰も声を上げなかった。

 ――その沈黙とは皆が対米戦を予期していたからですか。

いや、予期していたというんじゃなく、日本はおそらくこの戦争には勝てないだろうという直観ですね。日本は敗けるであろうというのが教室全体の判断でした。それが夕方になって真珠湾で勝ったという報せが入り、わーっと情況が一変するんですけれども。ともかく始めは教室では誰もがしゅーんとなって頭も上げなかったというのが現実でした。

 ――とうとう始まってしまったか、という悲痛な感じだったわけですね。

そうそう。とうとうやっちゃったなという。

ソ連軍侵攻情報を握り潰した関東軍

満州にソ連軍が入ってきたらどうなるかということについて関東軍は常に備えていた筈ですが、アメリカ軍が南方から攻め上がってくるにつれて、満洲国にいた日本の高級官僚たちは家族を満洲に呼びました。信じられないかも知れませんが、ここ満洲の方がむしろ安全だと思っていたという証拠ですね。

 ――いかにソ連を知らなかったかということでしょうか。

知らなかったんじゃない。もっと卑怯です。彼らは結局ソ連の参戦という事態を考えたくない、見たくなかったんです。思考における頽廃と指導部としての責任放棄以外の何物でもありません。(略)

[6月頃将校会報から戻ってきた大尉が激怒]

聞けば、われわれ二課(情報)が出していたところの重要情報――ソ連軍が「後方の準備」をせずに侵攻してくるなら八月初め。「後方」を伴ってくるならば九月初め――について参謀本部から返電があり、「これ以上天皇陛下をなやませ奉るのは余りに畏れ多いことゆえ、陛下のお耳には入れなかった」と。要するに、握り潰したということですね。したがって、それに対する対策も何ら講じられないということを彼は聞いてきたのです。ソ連軍が八月に入ってくる可能性があるということは十分わかっていたわけです。

捕虜する民族・ロシア

昔からロシアという国は、常に労働力として人間をその内部に取り込んできたのです。(略)

この脈絡の上に今度の敗戦後の「シベリア捕虜」という事態も起きているのであって、ですからこれは決して「抑留」じゃないんです。彼らにとっては、むしろ取り込んで当たり前。れっきとした労働力なんですよ。もっぱら労働力の不足を捕うために取り込むんであって、理由はなんでもいい。それが伝統的なロシアの発想ですから。(略)

 ロシア語で「ブレンヌイ」と言いますが、これは「無傷の」ということです。「丸ごと」「きずものにしないで」、つまり「キズ物でない状態で捕まえる」ということですね。フルネス、フルであること、つまり「労働力としてキズものでないこと」を意味します。(略)

剥き出しの欲望がそこに入っているわけです。それは「抑留」なんてちゃちなものじゃない。(略)

その代わり捕虜になったからといって、ロシアではその人間が市民として一級下になったというような受けとり方は全然ありません。人間として「位」が下がるということはないんですね。外国人を捕まえて、俺のところの娘を嫁に貰ってくれと言ってくるケースが昔からたくさんあります。だから、捕虜というのは彼らロシア人にとっては決して蔑称じゃないんですよ。

(略)

 ――昔から捕虜を運用する機構が出来上がっていて、全土に鉄道網が張り巡らされており、いつでも捕虜、囚人を運搬できるシステムとして完備している。

 それはスターリン時代には実に精密なインフラとして完成していたわけですよ。囚人労働力の移動もまことに立派なもので郵便と同じです(笑い)。つまり、郵便列車と同じなんで、郵便列車の走るところ必ず囚人列車が連結されている。見事なものですよ。だから彼らにとっては、例えば北海道の全住民ぐらいを一度に動かすことなど平気です。あっという間にシベリアに持っていくことくらいやりかねません。

(略)

 ――(略)同じ敗戦国であるドイツは、戦後、当時のアデナウアー首相がソ連へ飛んでフルシチョフと掛け合い、絶対引かぬ態度で談判して自国の捕虜を連れて帰りますが(略)この差は何によるのか。

(略)

ロシアには二百年近いドイツ文化の影響の下、ドイツに学ぶという長い伝統があるわけです。ドイツが先輩なんです。

(略)

この優位な立場というものは一回や二回の戦争で負けたからといって揺らぐようなものじゃないので、勝っても負けてもドイツの方が上ということはロシア人の頭には固着してるわけですね。負けた?それがどうしたんだ、というわけです。「まあ負けることもあるさ」程度の受け取り方です(略)

アデナウアーはドイツからモスクワに自分の専用列車でやって来るなり、交渉はここでしようと告げて、そこから動かなかったそうです。それをソ連側は拝み倒してやっとホテルヘ移ったらしい。交渉ごとでは万事「お願いします」と頼んだ方が負けです。彼は「じゃあ移ってやろうか」と言いながら、後はその調子で押しまくったのです。全部計算づくで、ロシア人の心理を始めから読んでいる。とても松葉杖をついてヨタヨタしてる日本の全権とは比較になりません。

(略)

 ――ドイツ人捕庸たちは、ラーゲリでも日本人がやったような迎合的な「民主化運動」などには決して加わらなかったと聞いていますが。

 そう。彼らはそんなオセンチなことはしなかった。のっけからロシアを呑み込んでいて、和風感傷思想なんかの入り込む余地はない。われわれより遥かに後から来て、さーっと先に帰っていったのは当然です。日本人はやはり大正デモクラシーを通過して、それなりにロシアにオセンチな借りがあるからでしょうね。

満洲とは一体何であったか

という問題をわれわれはまともに考えてみなきゃいけない。何故なら満洲という問題こそ、明治以降、日本が開国した時点から必然的に絡まってきた巨大な問題だと思うからです。(略)

[軍による「日本の生命線」という]位置づけではなくて、満洲とは中国人にとって何であったかということ、そして日本人にとって何であったかということを素直に考えるべきだと思うんです。

 先ず孫文は満洲をどう見ていたか。彼の政治スローガンは「反満興漢」でした。漢族が民族的な復讐を満洲族に対して行うというのが辛亥革命でしょう。若き日の蒋介石はその在日学習時代に、孫文の指示で満洲を視察に行っている筈ですが、僕の記憶では明らかに彼は密行して行っています。(略)

[漢族]男子は長城を越えてはいけないというのが清朝の禁令であり、それが解けたのはやっと明治11年です。だからそれまで満洲にいたのは清朝が認めない逃亡者の集団だったわけです。要するに満洲に入った中国人は皆密行者なんで、その連中が満洲で権益を拡張していく。その権益をめぐって、それを守るために匪族・馬族が生まれるのであって、それが張作霖政権です。

(略)

朝鮮を確保し、満洲も専有した後、さてこれから日本プロパーの政策はどうなるんだと問われる、ちょうどその時点で明治天皇が没します。(略)[崩御の衝撃と]同時に満洲問題というのは彼らの目の前にあったのであって、おそらく鴎外や漱石は、この問題を日本は処理できないのではないかと危惧していたと思います。

 やがてロシアに革命が起こります。そしてその煽りをくらって中国にも共産党が生まれる。これにどう対応すべきか。日本は周章狼狽して右往左往します。「革命」というものが分からないわけですね。帝国主義は分かったんですよ。しかし、帝国主義に反対するその革命というものが日本人には分からなかった。その一人が後藤新平であったわけです。

(略)

哈爾濱学院の場合、五族協和というスローガンの建前上、漢・満・蒙・日・朝の誰でもいらっしゃいと言わざるを得なかった。そして、事実彼らは入学して来ました。しかし、いったん入学すれば、学生たちは、スローガンがそうだから、あるいは軍が言うことだから仲良くしましょう、といったそんなものじゃないわけで、入学後一年も経たないうちに、いわゆる支配する民族、支配される民族というようなものは完全に吹っ飛んでいましたね。前回、李明旭君の例を話しましたが、日本人であろうが中国人であろうが、出来る奴は出来るし出来ない奴は出来ない。要するに哈爾濱学院の学生であるという一点で全く同等だったと断言できます。これはフィクションじゃなく現実でした。

 こういうことが戦後デモクラシーの諸君には全然見えないわけですよ。お互いにアジアのことは分かるということ。ここに僕は「入亜」へのチャンスがあると思います。それが一つ。

 もう一つは営口から来た級友劉丕坤の例を挙げましょう。彼は学院三年生のとき突然学校から消えていなくなっちゃうんです。[延安系列の組織に関係し]日本の憲兵隊に追われて逃げたらしい(略)

[十数年後北京で会うと]

別れ際にこう言って私を驚かせました。「ナイトウよ、頼みがある。俺も文革では日本関係者ということでひどい目にあったが、実は伜も苦労してきた。伜は下放されて雲南省にいたが、北京に帰って清華大学に入り、今三年生だ。いろいろ考えたけれどもやっぱり日本で勉強させるのが一番いいと思う。日本の東工大なんかに入れる方法はないだろうか。お前に伜を預けたいんだ。金はないよ。どこか養ってくれるところがあるならば何とか引き受けてほしい」と、ぽつりと言ったんです。(略)

僕らクラスメートに対する彼の信頼はちっとも狂っていないんです。たしかにいろんなことがあった。僕は11年シベリアヘ行って帰ってきたんだし、彼は彼で文革の渦中さんざん苦難を嘗めた。それでいて、十数年後会ったとき「俺の伜を預かってくれんか」と、ふいっといきなり言う。これはいったい何だということ。ここに僕は、かつて一日本人と一中国人とが全く対等に付き合った空間があって、そこに出来た信頼関係は揺るがなかった事実を見るのです。つまり、これこそ五族協和そのもの、国を超えた「協和」そのものじゃないかと。(略)

たとえ政府が何と言おうと、われわれは事と次第によっては一緒に組んでやれるのであり、したがって「入亜」するチャンスは十分にある。

(略)

日本の戦略は、ヨーロッパと戦うために先ずアジアを固めるというものでしたが、結局アジアも失ったしヨーロッパも失った。ただ、この敗戦処理においてじゃあ本当にアメリカが「勝った」のかどうか、僕には極めて疑問だということです。これからの世界戦略という長期的スパンからアジアの運命、ヨーロッパの運命を考えたときに、あの東京裁判というのは果たしてアメリカにとってプラスだったのか。後世史家は徹底的なマイナスと言うのではないだろうか。アメリカは日本に勝ってあの東京裁判に負けたということになるのではないかと僕は思います。(略)

 明治維新以後、「脱亜入欧」の昇り坂において日本が凱歌を奏したということが日本の「終わりの始まり」であったという論法で言うならば、東京裁判において凱歌を奏したということがアメリカにとっての「終わりの始まり」なのではないか。そのことを尻目に見ながら、われわれは「脱欧・入亜」という風にターンニングが出来るんじゃないかということです。それは決して空想の産物ではなく、実体として実在としてあったものだし、これからもありうると思います。そういう風に僕は満洲を考えたいと思っているんです。

日本人の自治区を作るべきだった

――これは満洲の問題とも関連するんですが、日本人はいったんコトがあると直ぐ逃げ帰って来るということへの疑問について以前お伺いしたことがあります。日本人はもともと日本以外の土地には土着しにくいんでしょうか。

(略)

 僕は、敗戦時、何故今日本人が大陸にいるかをまともに考え、かつその志を正当に継承しようとする覚悟であるならば、たとえどんなに苛められ、さげすまれようが石に噛り付いてでも大陸に残って、少数民族として日本人の自治区を今から作るというのがこの戦争の論理的帰結じゃないのかと思っていました。つまり、どれほど卑しめられとしても、ただ敗走するのではなく、少数民族としての自治区をここに作るという選択もありうるのではないか、ということですね(笑い)。まあ今考えてみて、これはそれほど滑稽な妄想でもないような気がしますけれどもね。

 例えばもしこれが朝鮮人だったら、彼らはどこへ行っても必ずちゃんとした自分たちの集落を形成してそこへ根づきます。彼ら大陸の民族は、引き揚げを命じられても帰らないんです。ゆえあっていったん故郷を出たからには死すとも帰らず、というのが彼らの決意ですよ。満州でもロシアでも、どこへ行っても彼らは残りました。あれは力ですね。ですから、そういう意味での日本人集落として残る方法を選ぶのなら話は分かると。要するに帰らないということです。それが敗戦前と敗戦後の日本人の経験を結ぶ唯一の方法ではないかと考えていたわけです。

次回に続く。

2017-03-17 ハイジが生まれた日―テレビアニメの金字塔を築いた人々 このエントリーを含むブックマーク

生みの親・高橋茂人の話を中心に展開。

登山をしていた高橋は山に関係する物語だからと野上彌生子訳の『アルプスの山の娘』を読んだ。


ハイジが生まれた日――テレビアニメの金字塔を築いた人々

作者: ちばかおり

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2017/01/27

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原作

 ヨハンナは、牧師の娘で有名な詩人でもあったメタと、医師ヤーコプの間の四番目の子どもとして、1827年チューリヒ郊外のヒルツェルで生まれた。ヒルツェルはうねうねと緩やかな丘が連なる酪農地帯だが、先進的な経済の都チューリヒに近いこともあって、彼らの家庭は多くの知識人が出入りするちょっとした文化サロンといった趣があった。ヨハンナはアルプスを望む丘の上でのびのびと自然の中で遊び、かつ最先端の文化を享受する環境で成長していく。

 やがてヨハンナは家に出入りしていたシュピーリ青年と結ばれるが、後に彼はチューリヒ市の書記官となり、政治の世界で重要な地位を占めるようになる。しかしチューリヒでの新生活と都会の社交生活になじめないヨハンナは、次第にハイジ同様心を病んでいく。二人の間に生まれたただ一人の男の子は身体も弱く、ヨハンナは自身の療養もかねて息子を連れてスイス東部の保養地ラガーツ温泉などに逗留する。ラガーツに近いイエニンスという村の友人の家に滞在した際、ヨハンナは周辺で見聞きした自然や村人の暮らしから『ハイジ』の物語を構想する。ラガーツでの療養も後に『ハイジ』でクララが療養する設定に使われている。

柳瀬自動車の梁瀬次郎がこれからはテレビの時代だとつくったCM制作会社「日本テレビジョン(TCJ)」に入社した高橋。初期のCMにアメニが多用されTCJ制作の9割がアニメ。芦田巌とそのスタッフを招聘し体制作り。

手塚治虫、アニメーターに応募する

[1946年芦田漫画映画製作所]のアニメーター募集の面接で手塚の三人後ろに並んでいたのが、後日TCJでアニメの制作室長を任される西島行雄だった。「手塚さんは学生服でした。その頃彼は大阪の医学生で、まだ卒業前だったんじゃないでしょうか」と当時を振り返る。二百人もの応募者の中で、採用されたのは結局西島だけだった。自分の作品を並べ、熱心に頼み込む手塚に対しては「あんたはマンガ映画は向いとらん」とにべもなかった。

 主宰者として面接を行った芦田巌はアニメーションという仕事を熟知していた。手塚の絵のうまさはすぐに見抜いたが、それだけでアニメができるとは言えない。アニメと漫画は違う。絵もストーリーも自分一人で完結できる漫画はあくまで個人作業である。すでに漫画家としてデビューをしていた手塚に、チームワーク重視で時に個性を消し、延々と地味な共同作業が続くアニメ制作は向かないと直感したのだろう。だが手塚はよほどアニメ制作への思いが捨てがたかったのか、人気漫画家になった後も自分の絵を動かす夢を諦めきれず、その後もう一度芦田の元を訪れて、アニメをやらせてくれと頼んでいる。だがこのときも芦田は、「甘い」「十年の年季奉公をしてやっと一人前になれる世界だ」と再び手塚を突き返した。

 芦田からは門前払いを食ったものの「狂うほど動画作りに意欲を燃やして」いたという手塚は(略)

『西遊記』で念願のアニメ界ヘデビューを果たす。(略)

自分のスタジオが必要だ。そう考えた手塚はある日スタジオ作りの参考に見学させてほしいとTCJを訪ねている。スタジオを案内したのは、かつて手塚と同じ日に芦田漫画を受験した西島だった。(略)

「『アトム』をテレビでやりたいんです!」と熱っぽく話す手塚に、西島は「おやめになった方がいい。アニメはこんなに手間がかかるから」と諭しながら、作業風景を見せて回った。後日手塚は、TCJで見た作業机をそっくりそのまま自身のプロダクション(虫プロ)に再現したという。

著作権の重要性

[ヒット作が出ているのに赤字のアニメ部門の立て直しを命じられた高橋]

『鉄人28号』も『エイトマン』も著作権はTCJにはない。いくらヒット作を生み出しても所詮下請けで、制作費をもらって納品したらそれで終わりだった。「プロダクションは作品を作る商売。財産は著作権しかない」。高橋はこの異動をきっかけに著作権の重要性について考えるようになる。(略)

[そこで長年愛着のあった『ハイジ』のパイロット版を制作。しかしそのデキにがっかりし、一旦断念。その後も『スーパージェッター』『ソラン』とヒットは出たがアニメは利益が出ず、梁瀬はアニメ部門を子会社として切り離すことに]

ムーミン

[アニメ部門のTCJから独立[のちのエイケン]を機に退社し「瑞鷹エンタープライズ」を設立、海外渡航が大変な時代に、以前から関心のあった『ムーミン』のためにトーベ・ヤンソンと直接交渉。たまたま機内で隣に座っていた少年が『Gigantor』(鉄人28号)が面白かったと言い、「アニメは男が一生をかける仕事だ」と自信を持つ。トーベの許可は取れたが]

日本とフィンランドでは生活も風習も違う。例えば日本ではチョウを捕まえるのが遊びだが、トーベに言わせるとチョウを追いかける行為そのものが遊びなのだ。それがフィンランド流の考え方なのだという。

[「カルピスまんが劇場」枠、『どろろ』が視聴率低迷。フジはアニメ枠をやめようとしたが、スポンサーのカルピスが業績好調で継続を希望。候補は『ムーミン』と『ハレンチ学園』だったが、企業イメージに合う『ムーミン』に決定。演出のおおすみ正秋は同じ姿のムーミンに区別をつけるため]

パパのシルクハットやママのエプロンなど、原作の挿絵で彼らが身につけたことがあるデザインを参考に、キャラクターを描き分けることにした。ムーミン独特の丸みは大塚康生が動きで再現した。(略)

[おおすみは当時流行のヒッピー思想をヒントに、ムーミンたちの暮らしを理想社会に置き換えた。だがトーベからクレーム]

 高橋は企画当初、日本だけでなくヨーロッパ市場も視野に入れていた。ムーミンの絵柄も何種類か用意したデザインの中からトーベに選んでもらったほどで、原作者の意見を尊重しようという思いは強かった。「『ムーミン』はノーマネー、ノーカー、ノーファイトの世界。内容もなるべく原作に近いものを作りたい」。だが原作の世界観そのままでは日本の子どもたちに理解できないだろうとも感じていた。日本でアニメ化する以上、ある程度の妥協もやむを得ないだろう。

 トーベの訴えは、原作者としてもっともな内容だった。本来の『ムーミン』はこういうものですと、彼女は原作者として当然の主張をしたのである。後に「日本の子どもたちが喜ぶならそれはそれでかまわない」とも言ったという。(略)

[『ムーミン』の人気でカルピスは一年の延長を希望したが、制作の東京ムービーは『ルパン三世』が決定しており、続けたいフジは虫プロに依頼。現在、高橋の『ムーミン』が放送されないのはトーベのクレームのせいという風説があるが]

トーベと高橋の交流は終生続くほどだった。実際は制作会社の変更による混乱を収拾するために「クレーム」が理由として使われたというのが本当のところのようだ。高橋の『ムーミン』が放映されない理由は、ある時期から本国フィンランドで、トーベ自身のキャラクターのみが公式とされ再放送できなくなったことによる。

高畑勲の葛藤

[73年、高橋は森やすじの絵で再度ハイジのパイロットを作って局に見せたが「女の子が主人公で当たったことがない」と相手にされず。それでもカルピスとの信頼関係で制作決定。演出を依頼された高畑は、実写でやるべき作品ではないか、アニメでやる意義が見出だせないと躊躇]

 もう一つ高畑をためらわせていたのは『ハイジ』という作品そのものでもあった。アニメ作品として、子どもを教化しようとする傾向が強い十九世紀の児童文学を取り上げることに疑問を感じたのだ。もし扱うのなら『長くつ下のピッピ』のように、子どもの心を解放するような作品を選ぶ方がよいのではないか。それもできればファンタジーがいい。とはいえ、高畑自身『ハイジ』をやりたいという気持ちもあった。子どもの頃から好きな物語の一つだった。つまりは原作を愛する故の葛藤だったのだ。そうして慎重に読み返して準備作業を進めるうちに、次第にアニメにする意義と可能性が見えてきたという。登場人物の心の動きを丁寧に描き、視聴者に主体的に観てもらえるよう演出し、何が起こるかを自分で発見してもらおう。よく考えて工夫すれば、アニメでこそ可能な表現があるはずだ。高畑は演出を引き受ける以上、テレビアニメだからといって一切妥協をするつもりはなかった。

[キリスト教による魂の救済をどう描くか、高橋と脚本の松木功は三本の大きな樅の木をハイジの心の支えとすることに]

ロケハン

フランクフルトでは、高畑の提案でゲーテの生家「ゲーテハウス」を訪ね、クララが暮らすゼーゼマン家のモデルにした。原作者シュピーリが敬愛してやまなかったというゲーテは、代々フランクフルト市の高官を務めた名家の出で、一族が住んだ大きな屋敷はお金持ちのゼーゼマン家のモデルにふさわしい堂々とした佇まいであった。(略)

クララのおばあさまがハイジを連れて入った絵が飾られた秘密の部屋や、クララの勉強部屋、メインホールの階段など、ゼーゼマン家のイメージとしてほぼそのままアニメで使用している。また、一階には当時の台所を再現した部屋があり、そこによくわからない形のポンプ式の器具があった。「水道じゃないかな」と言う小田部に、宮崎は「そんなばかな」と返すが、それが確かにポンプだと納得した彼は、後日ハイジがゼーゼマンに頼まれて水を汲みに行く場面で、しっかりとポンプ式水道を描き入れていた。

 また、高畑らは十九世紀の面影を残すフランクフルトの旧市街を歩き回り、ハイジが登った教会の塔のモデルには、同じくゲーテが洗礼を受けたカタリーナ教会を選んだ。

渡辺岳夫

[売れっ子だった渡辺]

「私は疲れ果てて座っていた。皮膚はカサカサでどす黒くなり、目は死んだ魚のように赤くよどんでいて我ながら情けない姿であった」。スイスヘ向かう飛行機は自分を運ぶ救急車のようだったと、後に渡辺は記している。

 アルプスに抱かれたマイエンフェルトの宿で荷をほどいた渡辺の耳に、カランコロンと牛の鈴(カウベル)の音が届いた。外に出て草の上に寝転んでゆっくり流れる雲を眺めているうちに、渡辺の目から自然と涙があふれてきた。風がほほをなで、牛や小鳥の声がする。「……ここに音楽があった。ここに素晴らしい音楽が演奏されていたのだ。私はアルプス交響楽団の演奏会に招待されていた」。渡辺の心は長いトンネルを抜け、自身の作曲心を取り戻していた。

 高畑勲は、マインフェルトで渡辺が目の前の景色を見ながら「ドミソの音楽だなあ」と言ったことを印象深く覚えている。(略)

素朴でのびやかな明るい世界だ。『ハイジ』で書くべきは、このような生きる喜びに満ちた音楽だろう。渡辺は「ハイジのそばにすっと寄り添う」音楽を作ろうと決めた。できあがった主題歌「おしえて」は、音域が高く子どもが簡単に歌えるものではない。だが、渡辺はどうしてもこれで行きたいと思っていた。注文されて作った音楽ではなく、作曲家として自分が惚れ込んで自己主張して書いた曲だ。

(略)

[第一話のセル画が八千枚と知り発奮した渡辺はありものの「録り溜め」は使いたくないと、放映数日前に完成した映像に合わせて作曲]

スクリーンに映る完成したばかりの映像を見ながら、絵に合わせて指揮棒を振った。(略)

第二話以降は通常の「録り溜め」に戻るが、渡辺らの意気込みが伝わるエピソードである。

キャラデザイン

[小田部のキャラにOKを出さない高畑、悩む彼に]高畑はある日、「おじいさんをまっすぐひたと見つめる顔を」と注文を出した。(略)

ほっぺたの丸は何げなく入れたほほの赤みであった。スケッチの中から特にまん丸に描いたのを高畑が気に入り、これでいこうと決まった。

 皆に意見をもらおうと、小田部がキャラクターを描いた紙を璧に貼っていた時、高橋茂人が通りかかった。高橋は家政婦長として登場するロッテンマイヤーの絵を一目見るなり「僕はロッテンマイヤーさんは美人だと思うよ」と言った。(略)小田部が描いていたのは意地悪そうなおばあさんの絵だった。

宮粼駿のレイアウト

 宮崎がまず着手したのは、ハイジを取り巻く世界づくりだった。マイエンフェルトからデルフリを経てアルムの山小屋までのほぼ全行程は急斜面の山道である。さらにその上に牧場があり、牧場の先には“山の上の湖”がある。宮崎は下から上へ明確な地形の変化をダイナミックに設計し、ロケハンで実際に見たマイエンフェルト近郊やベルナーオーバーラントの風景を取り込みながら、ハイジの暮らす舞台を構築した。宮崎の仕事は本来レイアウト担当の範疇ではなかった建物や小道具の設定にまで及んだ。

 「アルムの山小屋の設定を見たときにびっくりしたのは、宮崎さんの図面だったら本当に家が建つということです」。こう話すのは背景を担当した川本征平である。高校の建築科を出て建築の実務経験もある川本

高畑のカメラワーク

[撮影監督・黒木敬七談]

 黒木は元々コマーシャル制作会社出身で実写の撮影をしていた。(略)

黒木は高畑のことを「映画屋さん」だと評した。高畑の演出は、撮影フレームやポジションがしっかり計算されているのだ。例えばハイジとペーターが山を登る場面では、手前と奥の背景を少しずつずらして撮影する“密着マルチ”が使われた。カメラが次第に上がり、ハイジたちの背後にある麓の村が徐々に視界に現れることで、山の高さと雄大な空気感が表現された場面がある。まるでクレーンを使った撮影のような効果が得られるその技法は、重ねる素材の移動値で距離感を作っていくが、高畑のカメラワークの指示には少しの狂いもなかったという。

 『ハイジ』にはカメラを固定したまま周囲の風景をぐるっと見せたり、下から上にフレームを動かすといった“パン”という技法が多く使われた。高畑の演出指示に応えるため、黒木はアニメで初めての試みとして従来のタングステンタイプの電球ではなく色温度の違うデイライトタイプを撮影に使用してみたり、特殊フィルタを手作りしたりするなど、様々な技法に挑戦したという。

オープニングのダンスのモデルは小田部と宮崎

 『ハイジ』の準備が佳境に入るころ、森やすじは長年目を酷使していたことから失明寸前まで追い込まれていた。もう第一線でアニメーターを務めるのは難しいと自ら身を引きながら、それでも『山ねずみロッキーチャック』の仕事の合間を縫って、『ハイジ』のパイロットフィルムやキャラクター原案などに関わってきた。

 クレジットこそされていないが、森は『ハイジ』のオープニングの作画に参加している。冒頭のハイジとヤギのユキちゃんがスキップするところと、ハイジとペーターが手をつないで踊る場面がそうだ。ハイジとペーターのダンスのモデルを務めたのは、小田部羊一と宮崎駿だった。旧スタジオ横の駐車場で小田部がハイジ役、宮崎がペーター役になり手をつないで踊る。それを8ミリで撮ったのを参考に森が原画を描いた。微妙なスキップの感じを出せるよう、小田部らだけでなく、松土と事務の女性もダンスのモデルになったという。

裏の『ヤマト』

[74年4月テレビ局に、秋から裏で始まる『ヤマト』対策はできてるいるかと問われた中島]

西崎義展は前年まで高橋茂人のもとで、ズイヨーのスタッフとして『山ねずみロッキーチャック』の制作部長を務めた人物だった。『ロッキーチャック』終了後、自分の作品をやりたいとズイヨーを飛び出したが、まさか『ハイジ』の裏に『ヤマト』をぶつけてくるとは、と高橋は驚き呆れた。[だが『ヤマト』はふるわず打ち切り]

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2017-03-15 科学報道の真相: ジャーナリズムとマスメディア共同体 このエントリーを含むブックマーク


科学報道の真相: ジャーナリズムとマスメディア共同体 (ちくま新書1231)

作者: 瀬川至朗

メーカー/出版社: 筑摩書房

発売日: 2017/01/05

|本| Amazon.co.jp

福島第一原発事故は「想定外」の事故ではなかった

[「解題「吉田調書」ないがしろにされた手順書(『世界』掲載)」で田辺文也は]

福島第一原発事故は「想定内」の事故であり、

(略)

東京電力は「想定外」と言っているが、田辺によれば、1号機、2号機は「全交流電源喪失」がおきてから直流電源も失い「水位不明」の徴候が出たところで「徴候ベース」手順書の対象となっている。3号機も「全交流電源喪失」のあとに「ドライウェル圧力高」の徴候が出て「徴候ベース」手順書の対象となっている。(略)「徴候ベース」の場合は、たとえば「水位不明」の原因は問わない。原因が全電源喪失であろうとなかろうと、「水位不明」となれば「徴候ベース」手順書で対応できる。このように「徴候ベース」手順書が使われるべき事態だったのにもかかわらず、東京電力は事故対応において「徴候ベース」手順書を参照しなかった。(略)

[吉田調書から]

全交流電源が喪失した時点でこれはシビアアクシデント事象に該当し得ると判断しておりますので、いちいちこういうような手順書間の移行の議論というのは私の頭の中では飛んでいますね。

吉田所長のこうした発言などから、東京電力は実際の事故対応に「徴候ベース」手順書を使っていないことが分かる。「徴候ベース」手順書を参照して操作をしていれば少なくとも2号と3号機の炉心溶融は回避できた可能性が高かった、と田辺は指摘する。

 2号機と3号機は、原子炉圧力容器の圧力逃し弁(SRV)をひらいて圧力容器内の圧力を減圧しつつ、低圧で作動する注水装置(あるいは消防ポンプなどの代替注入装置)を使って原子炉内に注水することで、炉心燃料の冷却を確保できたと考えている。1号機も同様の方法でやっていれば、炉心溶融は防げなかったとしても、圧力容器の底の部分が損傷して放射性物質が格納容器に漏洩する事態にはならず、事態の深刻化を防げた可能性があるというのである。

(略)

[田辺へのインタビュー]

東京電力の対応のどこが問題だったと考えますか。

 田辺 2号機で原子炉圧力容器を減圧して注水するという話がでてきたのは3月14日の夕方ごろからですね。2号機は全電源喪失になったものの、幸い、原子炉隔離時冷却系(非常用の炉心冷却装置)が動いていて、現揚は格納容器のベントを優先していました。この時点ではベントよりも、圧力容器の減圧と低圧注水を優先すべきでした。

 圧力容器の圧力逃し弁(SRV)をあけるには125ボルトの直流バッテリーが必要ですが、車10台のバッテリーを外して直列につなぎ125ボルトのバッテリーを使える態勢は13日夕方にはできていたので、態勢が整った時点で圧力容器の減圧と消防車のポンプによる低圧注水に移行すべきでした。減圧と低圧注水をしているあいだに、外部からの交流電源の回復を待つというやり方です。そうすれば2号機の炉心溶融を防げた可能性が高いと思います。

(略)

1号機の炉心溶融を防ぐ方法はあったのでしょうか。

 田辺 私の計算では1号機は3月11日夜8時には炉心が溶けています。炉心溶融を防ぐのは難しかったと思います。ただ、車のバッテリーなどを集めて代替の直流バッテリーをつくり、それで原子炉圧力容器の圧力逃し弁(SRV)をひらき、ディーゼル駆動消火ポンプによる低圧注水をやっていれば、溶けて圧力容器下部に落下した溶融燃料がさらに格納容器に落下するのは防げたのではないかと思います。

 ――全体的に言えることは何でしょうか。

 田辺 事故対応として、原子炉の燃料の冷却に力を入れるべきときに、吉田所長らは格納容器ベントを優先しているという問題があります。ベントは炉心溶融がおきた後にすべき対応です。東京テレビ会議の記録を読むと、吉田所長が、格納容器ベントについて誤解していたのではと思われる箇所があります。格納容器のベントをすれば圧力容器の減圧ができるという誤解です。

 やるべきだったのは、3月11日の夕方から至急で直流バッテリーを手配することです。圧力容器の圧力逃し弁(SRV)の弁を手動であけるには直流バッテリーが必要です。車のバッテリーをたくさん集めてくればいいので、現実的に可能だったと思います。自衛隊のヘリコプターで輸送してもらう最優先の資材だったのです。

 田辺の理路整然とした説明からは、当時の東京電力の原発事故対応がいかに行き当たりばったりのものだったかがみえてくる。(略)核燃料の冷却よりも格納容器ベントを優先したのはなぜなのか、真相を知りたいところである。(略)

田辺は、[四つの調査報告委員会の]こうした報告書は「『想定外』という言葉のレトリックの罠」にはまっていると指摘する。


メルトダウン――放射能放出はこうして起こった (叢書 震災と社会)

作者: 田辺文也

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2012/12/27

|本| Amazon.co.jp

STAP細胞報道

 理化学研究所などが、まったく新しい「万能細胞」の作製に成功した。マウスの体の細胞を、弱酸性の液体で刺激するだけで、どんな細胞にもなれる万能細胞に変化する。いったん役割が定まった体の細胞が、この程度の刺激で万能細胞に変わることはありえないとされていた。生命科学の常識を覆す画期的な成果だ。29日、英科学誌ネイチャー電子版のトップ記事として掲載された。

 この記事は、科学研究、とりわけ新しい科学的知見にかかわる発表報道の場合に、一般的に、してはいけない書き方をしている。それは、冒頭の「理化学研究所などが……作製に成功した」という記述に象徴される。つまり、本来であれば、「作製に成功した、と発表した」とすべき性質のものを、「成功した」と断定している点である。記事のトーンは強まるが、その断定は朝日新聞が責任をもってしたことになる。後につづく「万能細胞に変化する」「生命科学の常識を覆す画期的な成果だ」という断定も、同じように、朝日新聞の判断として記述している。責任をもっての断定であればかまわないのだが、そうでないのであれば、「作製に成功したという研究成果を、ネイチャー電子版に掲載した」といった事実描写に徹すべきだったと思う。

学術誌のエンバーゴシステム

[発表まで再生医学の専門家においても小保方を知る人は少なかった]

 背景には、最前線の科学研究を公式に発表する場が一流の学術誌に集中している現実がある。(略)

 ネイチャーは毎週木曜日に発行される週刊誌である。ネイチャーのHPに記されたエンバーゴポリシーによると、ネイチャー誌に投稿された論文については、メディア関係者といっさい話をしてはいけないことになっている。もし、研究者が禁を破ってメディア関係者と話をした場合は、ネイチャー編集部には、当該論文の検討や掲載を取り止める権利があると明記している。かなり強い調子である。

 メディアは研究論文や研究者へのアクセスを制約されるが、その代わり、ネイチャー誌はメディアヘの広報として、次週の号に掲載予定の主要論文のサマリーを一週間前にプレスリリースしている。ジャーナリストは論文のゲラとともに取材対象となる研究者のアクセス情報を得ることができる。ジャーナリストは発行前に論文を読み、研究者に取材をして記事を準備できる。記事にはエンバーゴがつく。解禁時間はグリニッジ標準時で出版前日の水曜日午後六時、日本時間だと木曜日午前三時になる。

 学術誌のエンバーゴシステムは、研究者、学術誌、科学ジャーナリストの三者による効率的な科学情報発信という点で、グローバルなエコシステムとなっている。互いに利益を享受しあい、仲間意識の源泉となる構造である。この三者では、学術誌がもっとも強い立場にある。研究者は一流の学術誌に載ることが研究実績の指標になるため、競って学術誌に投稿する。科学ジャーナリストは日常的に研究者に会って取材をしたりしているが、最先端の研究成果は、エンバーゴシステムにより、学術誌への掲載というタイミングでしか取材・報道することができなくなっている。(略)

科学ジャーナリストはその仕組のなかで、受け身の報道に流されがちである。

(略)

STAP細胞の真偽が組織内でもベールに包まれたまま、ネイチャー誌掲載の記者会見というかたちで、いきなりクライマックスを迎え、そして瞬く間に崩壊した。

編集局の権力構造は社会の縮図

 指摘しておかねばいけないのは、個々のマスメディア組織内部の権力構造である。

 新聞・テレビの編集局や報道局では政治部と政治家、社会部と捜査当局といったカップリングが生じ、ニュース生産そのものが縦割りの構造ですすんでいる。その結果、政治部が政治家の代弁をし、社会部が捜査当局の代弁に力をいれたりする。編集局内での各取材セクションの議論は、社会におけるアクター同士の「代理戦争」になりやすい。

 編集局内での議論には、各取材セクション同士の力関係が色濃く反映することを忘れてはいけない。

 一般的に発言権の強い取材セクションは、政治部、社会部、経済部、国際部などである。(略)

 編集局の権力構造は、現実の社会において、政府・官庁、捜査当局、経済界といったアクターが有する権力構造をそののまま縮図のように反映している。

日々主義とニュースの断片化

 ニュースの断片化も、マスメディアのニュース生産過程が構造的に生み出す特徴である。ジャーナリズムは日々主義だと喝破したのは、戦前の物理学者、寺田寅彦だった。

 ジャーナリズムの直訳は日々主義であり、その日その日主義である。けさ起こった事件を昼過ぎまでにできるだけ正確に詳細に報告しようという注文もここから出てくる。この注文は本来はなはだしく無理な注文である。たとえば一つの殺人事件があったとする(略)それを僅々数時間あるいはむしろ数分間の調査の結果から、さもさももっともらしく一部始終の顛末を記述し関係人物の心理にまで立ち入って描写しなければならないという、実に恐ろしく無理な要求である。その無理な不可能な要求をどうでも満たそうとするところから、ジャーナリズムの一つの特異な相が発達して来るのである。

寺田は、ジャーナリズムが、無理な要求である日々主義を何とか実践するために採用した手法の一つとして「差分報道」というべきものを取りあげている。締め切り時間ごとに、それまでに起きた出来事は旧聞とし、次の締め切りまでに発生した事象を新情報(新聞)として取材し、報道していくやり方である。

(略)

[当の記者たちはどうなのか]

 毎日のように特定のテーマを取材していると、取材データが多面的に集積され、事実と事実の関係性や文脈が徐々に明らかになり、全体像がみえてくるようになる。(略)

 記者として、所属するメディアのために仕事をして日々の記事を書きながらも、自分のなかに、末発表の取材データがたまり、全体像が構築されていく。立花隆のいう「職業的懐疑精神」や「職業的批判精神」を強くもった記者であれば、自分のなかに集積された、そうした取材データを活用して、より長文の原稿やルボを書きたいという「個人」としての気持ちが芽生えるのは自然である。

客観性を装う発表報道

発表報道が主流になる背景には、マスメディアのニュース生産過程における効率と責任の問題が関係している。発表報道は、相手の発表を待って、その情報にもとづき行動する。発表スケジュールは事前に知らされているので、マスメディアは少ない人数で多くのニュースを発信することができる。また、「信頼できる情報源が発表した」ということ自体は、客観的な事実である。発表内容の真偽は、信頼できる情報源だから大丈夫であろうという推定にもとづくが、もし、発表内容が間違っていたとしても、間違った情報源に責任を転嫁することが可能である。

(略)

発表報道が横行する結果、じつは新聞紙面には、政治家たちの主観的な意見があふれている。(略)

権力を持つ政治家が発言したのだから、という客観報道である。記者の主観を排除することを意図した客観報道記事に、政治家の主観的な発言が事実として記述されるのは皮肉なことである。

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2017-03-12 2トーン・ストーリー スペシャルズ このエントリーを含むブックマーク


2トーン・ストーリー―スペシャルズ―炎に包まれたポスト・パンク・ジェネレーション

作者: デイヴトンプソン, 中島英述

メーカー/出版社: シンコーミュージックエンタテイメント

発売日: 2005/03/01

|本| Amazon.co.jp

クラッシュとリー・ペリー

[ジュニア・マーヴィンの「ポリスとコソ泥」をカヴァーした]ザ・クラッシュはこのふたつの文化を衝突させた最初のパンク・グループだった。(略)

[数年後ストラマーは]「今は思うんだ。なんて厚かましい曲をカヴァーしたんだろうってね。でも、やってよかったと思ってる……だって、後になってリー・ペリーやボブ・マーリィなんかが、俺たちのカヴァーを耳にするなんていうグレイトな状況が生まれたんだからね。(略)

その年が終わるまでには、リー・ペリー自身が彼らの次のシングル「コンプリート・コントロール」をプロデュースしていた。そして、アルバムのプロデュースを終えるや否や、ペリーはすべてをボブ・マーリィーに興奮気味に話していた。そしてペリーとマーリィーのふたりは即座に彼ら自身の曲「パンキー・レゲエ・パーティ」を録音したのだ。


Dawning of a New Era

アーティスト: Coventry Automatics (Specials)

メーカー/出版社: Receiver

発売日: 1993/08/13

|CD| Amazon.co.jp

オートマティックス

 オートマティックスが初めてのショウを行なったのは、1977年の秋だった。ヴォーカリストのストリックランドは、次のように主張している。「俺は歌わせてもらえなかったんだ。でも俺も、歌詞を書いた紙を見ながらそいつを読み上げる(もちろん俺じゃなく、ダマーズが)のは、面白いしパンクだと考えてた。よく連中が楽器をプレイしている間、俺は床に座ってたもんさ。(略)

ローカル・バンド、ザ・スクワッドのヴォーカリストであったテリー・ホールは、初めてオートマティックスを聴き、彼らのことを「レゲエのオーヴァートーンが加えられたストラングラーズ」と評すほど感銘を受けた。(略)

12月になる頃、ダマーズは彼を交替させることを考え始めるのだった……テリー・ホールと。

 18歳のホールは、他のオートマティックスのメンバーよりもかなり若く、ストリックランドによれば、「俺なんかよりむちゃくちゃ歌が上手くて、俺と同じぐらい頑固で救い様のないやつ」とのことだった。そして、彼はもっとアクティヴな男だった。(略)

「(テリーには)まったく大笑いしたもんさ。あいつは客の中に飛び込んで、みんなに唾を吐きかけるんだぜ」。(略)

 テリー・ホールはそのようなカオスをオートマティックスに持ち込み、そのカオスによって、ストリックランドが今までに一度も生み出せなかったような興奮をもたらした。

(略)

 こうしてオートマティックスは急速に頭角を現わし、コヴェントリーでもっとも優れたパンキー・レゲエ・コンボとして自らを確立していった。(略)

[ネヴィル・ステイプルズ談。色んなバンドをサポートした]

「ロカルノにXTCがやって来たときも、ダムドが来たときも、それにティファニーズにウルトラヴォックスが来たときもね。

クラッシュのオープニング・アクト

[ピストルズを脱退したジョニー・ロットンに一緒にギグをやってもらおうと、ロンドンに向かったダマーズは取り巻きへの潜入を試み、コヴェントリー出身のクラッシュのローディーにテープを渡したが、結局バーニー・ローズに届き、バーミンガムでクラッシュの前座をやることに]

 オートマティックスにとって、クラッシュと共に過ごしたあらゆる瞬間がマジカルだった。「クラッシュは俺のオールタイム・フェイヴァリット・バンドなんだ!」ネヴィル・ステイプルズは興奮しながらそう話す。「クラッシュのパフォーマンスにはエネルギーが満ち溢れているんだ(略)サポートしたときは、毎晩欠かさず彼らのショウを見たもんさ。こいつは、他のバンドでは有り得ないことなんだ。(スペシャルズを除いて)今まで俺が一緒にやったバンドに関して言えば、過去も、現在も、俺のツアー時代のすべてにおいてもね」

〈ザ・スペシャルズ〉

[同名バンドがいることが判明し]

 彼らには急いで新しい名前を手に入れる必要があった。[クラッシュからのさらなる前座オファー](略)

 バーニー・ローズは1月に行なわれたバーミンガムでのショウ以来、オートマティックスに対し好意的な考えは持っていなかった。しかしその一方で、ジョー・ストラマーはすっかり熱くなっていたのである。「演奏はラフだった。でも、俺は彼らのエネルギーに本当に熱くなったんだ」彼は数年後、そう振返っている。(略)

当時、パンク・レゲエをプレイするバンドは他にもたくさんいた。俺たちも含めてね。でも、そういう連中はすごく真面目で、しかもルーツに則ってやっていたんだ。でもオートマティックスはまったく違ったアプローチを持っていた。(略)一番重要だったのはテリーの声なんだ。彼の声はレゲエ向きじゃない。それに、彼はレゲエみたいに歌おうともしてないんだ。彼はどう見たってイギリス人さ。そこが違いだったんだ」

 この驚きのハイブリッド・グループをもっと聴きたくなったストラマーは、オートマティックスを前座に組み込むよう強く望んだ。(略)

[ショウ数日前]

ダマーズは遂に新しいバンド名を公開した。それは、〈ザ・スペシャル・AKA・ジ・オートマティックス〉というもので、明らかに長すぎた。ショウが始まる4時間前、彼らはそれを〈ザ・スペシャル・AKA〉に短縮。ここで、多くの人々がさらにこの名前を短縮しているのに気付き、ついに〈ザ・スペシャルズ〉に落ち着いたのである。「あれは内輪のジョークみたいなもんさ。だって、俺たちはそのときはまだスペシャルじゃなかったからな」ラディエーションはそう言って笑った。

〈ギャングスターズ〉

[バーニー・ローズの傘下に入りパリへ送られるが、宿の女主人はダムドの未払いをスペシャルズに請求、担保としてギターを取り上げる]

[だが]クラブに着いてみると、もうギターも機材もそこに置かれていた。俺は思ったよ。『ワォ、こいつはすげえや。どうやってここまで運んだんだ?』って。つまり、彼らは拳銃を突き付けて、すべてのギターや機材を渡せって要求したんだ。ざまあ見やがれ!そんなわけで〈ギャングスターズ〉って曲ができたのさ!」(略)(俺が話してる間は邪魔するんじゃねえ。さもなきゃ、やつらにお前らのギターを差し押さえられちまうぞ)』。当時はまだ書かれていなかった歌詞の一節が、この事件を永遠のものにしている。

(略)

週30ポンドの魅力的な給料も、現在の状況に対するダマーズの落胆を軽減することはできなかった。契約書は作成された。しかし、彼はそれを断ったのである。「かなりもめたよ……でも、俺たちは結局契約書にサインしなかったんだ」

 さらにひどい言い争いが、グループ内でも起こっていた。彼らはほとんどカネを受け取っておらず、ついにドラマーのハッチンソンが我慢の限界に到達(略)コヴェントリーヘ帰ってしまった。(略)

[手持ちバンドのシャッフルが好きなローズはサブウェイ・セクトからヴィック・ゴダードを引き抜きブラック・アラブスに引き合わせたがうまくいかず、代わりにテリー・ホールを入れようとした]

[ロディ・ラディエーション談]

「彼はああやってバンドを組み立てるのが好きだった。つまりローズは俺たちをバラバラにしようとしていたんだ。でも、誰にもそんなことができるはずがないよ」

 1978年の初秋、スペシャルズはローズに何の未練もなく別れを告げ、コヴェントリーヘと戻った。彼らのカードの中には、もちろん解散という一枚も含まれていた。(略)

パンク的なレゲエ(あるいはレゲエ的なパンク)は刺激的ではないという現実に気付き始めただけであった。(略)

「俺たちの曲は一部がレゲエで、その次にロックヘ行って、またレゲエにって具合で、それが人を混乱させてしまったんだ」。ダマーズはそう振返った。


ベスト・オブ・2トーン

アーティスト: オムニバス, ローダ with ザ・スペシャルAKA

メーカー/出版社: ワーナーミュージック・ジャパン

発売日: 2014/10/22

|CD| Amazon.co.jp

2トーンの誕生

スペシャルズのサウンドは、終始熱狂的エネルギーに溢れるジャマイカのオリジナル・スカよりも、ザクザクと大股で歩くロックステディのテンポに近かった。(略)

カヴァー曲を選択する際も、彼らはダマーズが少年時代に心酔したジャマイカ音楽からの影響のみに立ち返り、再び60年代のロックステディと初期のレゲエ、つまり、ステイプルズの表現によれば、「何かを訴えている曲」にくさびを打ち込んでいった。

(略)

俺はレゲエのギターをプレイしていた。でも、ロディはロック・ギターだった。ホレスは言ってみればロック寄りのレゲエで、ブラッドはさらにロックが混ざったレゲエをプレイしていた。それが違いだったんだ。あの形が生まれた理由は、バンドのメンバーそのものにあるんだ。

(略)

[テリー・ホール談]

「俺たちには、スカを復活させようなんて気はさらさらなかった。新しい音楽を作るために、古い音楽の要素を使っただけさ。言ってみれば、あれはパンクの一種なんだ。俺たちはパンクから離れようとしたことなんかない。ただ何か違う方向性を示したかったんだ。前へ進むために、過去を振り返ってみる必要があったってわけさ」(略)

スペシャルズがバーニー・ローズの元にいたあの期間にダマーズが学びとった教訓、あるいは、彼の頭に叩き込まれたマントラの中で最大のものは、イメージの重要性であった。

(略)

 ダマーズにも同様の自信があった。(略)舞台裏で、60年代のモッズ服に身を包み、ポーク・パイ・ハットをかぶったポール・シムノンは、まさしく輝く存在だった。実際ダマーズがこの服装を見たのは、モッズ・ファッションが全盛を極めた10年前以来のことであった。しかし、彼はこのスタイルを直感的に「クールだ」と感じたのである。

[クラッシュとの巡業でスーサイドのアラン・ヴェガがスキンヘッズに暴行され血まみれに。2002年にダマーズは]

スペシャルズのコンセプトが生まれたのはまさにあの時だったと語っている。「あの時、強烈に思ったんだ。『俺たちはこういう連中を相手に音楽をやっていくんだ』ってね」。ダマーズ自身の青春期には、白人のスキンヘッズが楽しそうに黒人の音楽に合わせて踊っていた。あの平穏な日々を思い浮かべながら、ダマーズはそれを実現する方法を見つけたと確信したのである。「英国の、新しく一つになった音楽なんだ。白人がロックを演奏し、黒人は自分たちの音楽を演奏するんじゃなくてね。『俺たちの音楽』は、白と黒という二つの音楽の統合なんだ」

 ダマーズは古い新聞記事や写真、レコード・ジャケット、それに彼の十代の記憶など、あらゆる分野から手当たり次第にヒントとなるものを集めながら、まず自らが現代のスカ・バンドに不可欠だと信じるある種のイメージを系統立て、その後、自分たちに当てはめていった。そして彼は遂に、その完成品とも言えるスケッチを仲間たちに見せたのである。それは、四角張ったドクター・フーのようなポップ・アートだった。彼がウォルト・ジャバスコと名付けたそのキャラクターは、半分がジャマイカのルード・ボーイで(ダマーズがこのキャラクターの着想を得たのは、ザ・ウェイラーズのピーター・トッシュ1960年代中期の写真だった)、半分はロンドンのスキンヘッズであった。そして、彼は部分的にモッズであり、部分的にパンクでもあった。

(略)

サークルズやアロウズ、ポーク・パイ・ハット、2トーン・トニックとモヘヤーのジャケット、クロンビー、ハリントンズ、ベン・シャーマンズ、ドック・マーティンズなど、どれも10年前に半ば見捨てられた若者のファッションだった。ステイプルズは次のように解説している。「それまで、こういうスーツや装飾品を身に付けているのは、老人だけだったんだ。それを俺たちが変えたのさ。半分はもうどこでも作られていないようなものだったよ。俺たちは、黒人と白人をごちゃ混ぜにした服装を生み出した。そのうちに、また作られるようになったけど、俺たちが探してた頃には、古着屋にしか置いてなかったんだ」


One Step Beyond

アーティスト: Madness

メーカー/出版社: Salvo

発売日: 2010/09/14

|CD| Amazon.co.jp

マッドネス

[79年3月]スペシャルズがホープ・アンド・アンカーをを訪れた(略)最初の晩、ある地方のバンドから、3人の代表者がやってきた。マッドネス。それが、彼らのバンド名だった。

(略)

[UKレゲエ・グループのトライブスメンの前座をやったときにプリンス・バスターの「マッドネス」と「ワン・ステップ・ビヨンド」をやったらウケがよかった]

 インヴェイダーズのレパートリーがロックン・ロールからスカへシフトする上で、バルソーはとても重要な役割を果たした。初期のスペシャルズがそうであったように、バルソーのオルガン・サウンドがバンドを支配し、一風変わったカーニヴァル的空気をまとい、結果としてシンコペートされたダンス・ビートとうまく溶け合っていた。ダンス・フロアから沸きあがる熱狂に、すでに彼らも気付いていた。これがバンドを、新しい音楽的方向性の模索へ導いたのである。そして最終的に、彼らは自らのロックン・ロール時代にケリをつけた。いまやインヴェイダーズのレパートリーはスカ・サウンドで満たされていた。唯一の例外は、まったく新しい解釈によるスモーキー・ロビンソンのヒット曲「ティアーズ・オブ・ア・クラウン」や、イアン・デューリーのカヴァー曲「ラフ・キッズ」「ローデット・ソング」などだった。(略)

チャス・スミスは、次のように回想している。「俺たちはロキシー・ミュージックも好きだった。初期のロキシーさ。それとイアン・デューリーのバンド、キルバーン&ザ・ハイ・ローズもね。あとはアレックス・ハーヴェイ……キンクス……スカはこれらのほんの一部だったんだ」(略)

[同名バンドがいると知り、改名]

[自分たちとおなじ音楽性のスペシャルズに驚愕し]

 ショウが終了してすぐに、3人は自己紹介を行い、その後サッグスのアパートで夜まで話を続けた。

『モッド・リヴァイヴァル』

 モッドが体現するもの、つまり自由と平等のセクシャルな爆発こそが、このムーヴメントの根幹であった。(略)

 モッズは自分たちの収入、つまり労働者クラスの若者に棚ぼた式に舞い込んできたカネを、無制限に、際限なく、カネでしか手に入れられないすべての物に注ぎ込んだ。格好がよくてシャープな最新のストリート・ファッションに。「連中は1日4回ぐらい着替えるんだ」

(略)

[ピート・タウンゼント談]

「一人前のモッドでいるためには、髪を短くカットして、本当にスマートなスーツや良質な靴、それに格好いいシャツを買うだけの十分なお金を持っていなければならなかった。そして狂ったように踊れなきゃダメ。いつも大量のピルを懐に忍ばせて、キメてなくちゃいけない。スクーターには沢山のランプを装着して、乗る時は軍隊の防寒用フード付きジャケットを着るんだ」

 「モッズはまさに軍隊そのもので、移動手段をもったティーンエイジャーたちで構成された、強力で攻撃的な軍隊だったんだ。そうさ、彼らにはあのスクーターとお洒落の流儀があったんだ。(略)

必要なのは、そういうものを手に入れるために仕事に就くこと。そいつが唯一の条件だな。あれは信じられないような若者たちの反撃だった。言い表わせないほど影響を受けたよ。俺は今でも悩まされるんだ。自分が『いいか、若さなんていつまでも続きゃしないんだ』って考えるときにはいつでも、あのとき英国で起こっていた出来事を思い出す。あれは俺が今まで感じたなかで、一番愛国心に近い感情だな」

 もちろん、1979年という年には、仕事も金も十分ではなかった。(略)

「『モッド・リヴァイヴァル』という言葉は、それに関わりを持っている若者たちにとって、少しばかり悲しく、安っぽい表現だった」。ザ・ジャムのポール・ウェラーはそう鼻であしらうように言った。「労働者階級のキッズたちを取り巻く環境は、まさにガラガラと崩れ落ちそうな状況にあったんだ。なのに彼らがドレス・アップに夢中になって外見ばかり気にしている姿を見て、あまりに悲しいことに思えたよ」。

(略)

[78年のサード『オール・モッド・コンズ』は]

グループと彼らのオーディエンスに一つの新しい方向性を示した。それは彼がパンクを非難した時と同じように厳しく、これまでずっと否定してきたものであった。しかし、彼は今やその中に密かな誇りを感じずにいられなかったのである。そして爆発的な熱狂は揺らぎ、数百人の(いや誰も正確には数えていないが、恐らく数千人の)若者が、突如として以前に着ていた流行りの服を脱ぎ捨て、モッド・カルチャーの中に消えていった。

 ある者たちにとっては、ただフード付き防寒着のパーカーを手に入れ、それに英国国旗を縫い付けるだけで十分であった。(略)かつてスペシャルズやマッドネスが自分たちの服装を探していた店々にはモッズが押し寄せ、商品を根こそぎ買って行った。オリジナル・モッドの持ち物の中で最も輝いていたスクーターは、過去13年間の防虫剤漬けのお蔵入りから開放され、60年代中期の彼らの先輩たちのイメージに合わせ、アンテナをたくさん立て、鏡をつけ、鋭く尖ったシンボルをつけて、念入りに飾られたのである。(略)ぎっしりとすし詰め状態に並んだ、キラキラと銀色に輝く夢のマシーンがきれいに磨きあげられ、通りすがりの足を痛めたモッドたちから賛美のため息とせん望の眼差しで見られている光景を。

スペシャルズ、マッドネス、セレクター

 すし詰め状態で汗まみれの沸き立つ観衆を見渡しながら、たった1枚のシングルしかリリースしていない三つのグループが、ロンドンのど真ん中で3000人収容できる会場を埋め尽くした観衆を魅了できるとは、さすがのダマーズも想像してはいなかった。事実、このシングルに迫っていた運命も、彼の想像を越えるものだった。七月末にUKチャート入りしたシングル「ギャングスターズ」は、なんと3ヵ月もチャートに居座り、九月には最高6位にまで上り詰めた。そしてスペシャルズは、クリフ・リチャード、ロキシー・ミュージック、そしてアース・ウインド&ファイアーといった連中に、鼻を擦り合わせて挨拶したのである。しかし、少なくともテリー・ホールは気付いていた。自分の足が動かなくなっていることに。

 「俺は19歳で『トップ・オブ・ザ・ポップス』に出たんだ。あの時は完全にブルってたよ。倒れそうになっても、笑顔でいるように努めたんだ。だって、自分がどこにいるのかさえわかんないんだぜ……こんなつもりはなかったんだ。自分がシーナ・イーストンみたいになっちまうなんて」

(略)

 あのエレクトリック・ボールルームの熱狂を再び狙って、2ヵ月にも及ぶ派手なツアーが国中のステージで展開された。(略)マッドネスとセレクターがスペシャルズとともに出演し、ディキシーズ・ミッドナイト・ランナーズは、マッドネスが地味なアメリカ巡業のため短期間ツアーを抜けるときのために、ステージ袖で待機していた。(略)

[セレクターのチャーリー・アンドリューズ談]

「俺たちが目指すのは、音楽というファミリーなんだ。言ってみれば、コヴェントリー版スタックスさ。それが2トーンのすべてなんだ。俺たちは決して競い合うことを目的にしている訳じゃない。(略)

要は、それぞれのバンドの最高の姿を示すことが重要なんだよ」(略)

[マッドネスのチャス・スミス談]

「実に素晴らしかったよ。スペシャルズは、少しばかりパンク調が強くて激しいグループに思えたね。でも俺が思うに、バンドを動かしていたのは間違いなくジェリー・ダマーズだった。ダマーズは政治に対する考えをしっかり持っていたんだ。彼の父親はリベレイション・セオロジスト(開放神学派)の聖職者だったんで、その意味では彼にはかなり急進的なバックグラウンドがあったと思うんだ。そしてセレクターは、ダンスとの関連で言えばスペシャルズに比べてもっと楽しいバンドで、踊りやすかった。でも、彼らがかなりクレイジーだったことには変わりないね。キーボード・プレイヤーなんか、まるで精神分裂症患者さ。彼はまるで人の耳を食いちぎろうとでもしてるみたいにデカい音でプレイするんだ。(略)

2トーンは偉大だった。多文化的であることが大きな波の一部であるように感じたぐらいさ。踊りまくって楽しい時間を過ごす事ほど、素晴らしいことはないよ。2トーンのアイデアは尊敬に値した。そして進歩的かつクールだった。それに俺たちの友情も強力だった。長い間同じバスに乗ってる間に、三つのバンドでお互いの曲を演奏する機会も増えた。偉大な人気者たちさ。楽しくて仕方なかったよ」

「ゴースト・タウン」

 なんと皮肉な事であろうか。その後の3週間に起こる出来事によって、スペシャルズが目指し、体現し、そして象徴してきたすべてのものに、鉛色の照明が当てられることになるのだった。彼らがゆっくりと消えて行くのに合わせるように。(略)

[81年6月「ゴースト・タウン」リリース]

このレコーディング・セッションは、テリー・ホールによると「リハーサル・スタジオでの数ヵ月」を単にまとめたものであった。それは、口論、不和、そして露骨な拒絶などによって、彼らがひどく傷ついた期間であった。ダマーズ自身も、他の誰かから自分のアイデアが拒否されると、激怒して、何回となくリハーサルを放り出して歩き去った。

 情況は、音楽そのものの性格のため複雑になっていた。ラディエーションは言う。「ジェリーはすべてを、もう頭の中で組み立てていたんだ」。この点はダマーズも認めている。「〈ゴースト・タウン〉は自由なジャム・セッションなんかで生まれた曲じゃないよ」(略)「細かい部分まで計算して作られていたんだ」。ダマーズは「少なくとも」1年も前から「ゴースト・タウン」の歌詞を書き始め、スペシャルズがこれまでに作り上げた、あるいは作り上げようとしていたすべての要素を併せ持った作品を目指していたと主張している。ダマーズは、彼の何でも自分で決めてしまうやり方が、バンド仲間からどれほど強い反発を受けるのかも予想していた。(略)

ステイプルズはダマーズの要求に対し、皮肉たっぷりに「ハイ、御主人様!」と答える癖がついていた。ラディエーションも一度厳しい言葉で噛み付いたことがあった。「わかったよ、専制君主野郎!」。

(略)

 ダマーズは、この歌の悲痛な歌詞がいかにして生まれたかを、次のように説明している。「国がバラバラと崩れ落ちつつあったんだ。街から街を旅したけれど、そこで起こっていたことは最悪だった。リヴァプールでは店のシャッターがすべて下ろされ、すべてが完全に閉鎖されていた。マーガレット・サッチャーは明らかに気が狂っていて、あらゆる産業を一時的に閉鎖し、何百万人もの人間に失業手当を支給していたんだ。俺たちはあちこちを旅して、実際にそういう光景を目撃してきた。君だって、観衆の中に欲求不満と怒りが存在していることはわかるだろ?グラスゴーでは、小柄な老婦人たちが自分たちの所帯道具、コップや皿まで路上で売っていた。まったく信じられない光景だったよ。何かが大きく、大きく間違っていることは明らかだったんだ」

 最初、このレコードには何の反響もないように思われた。ラジオは最初からこのレコードを避けていた。(略)

[チャートインまで二週間を要したが]いったんチャートに登場すると、その勢いは誰にも止められなかった。

(略)

[第2位になった]次の火曜日、250人の若者が、ウッド・グリーンの北ロンドン郊外で暴れ回った。商店の窓を破壊、警官隊と衝突。さらに同じ日、マージーサイドの警察署長ケネス・オックスフォードは、リヴァプールの黒人住民のほとんどは「白人娼婦と黒人水兵の密通の産物だ」と発言し、人種関係の悪化の火に油を注いだ。まさにそんな日に、「ゴースト・タウン」はチャートのトップに輝いたのである。そして物質的、精神的な意味において、近代英国が経験したこの悲惨な夏への欠かかすことの出来ないサウンドトラックになったのである。

(略)

 7月8日、あるひとりの黒人青年の逮捕の後、1000人を超える抗議者がトクステスと並ぶ危険地帯、マンチェスターのモス・サイドにある警察署に押し寄せ、二日間にわたる暴動の口火を切った。

(略)

 ルーディたちは暴動に走った。黒人も、白人も、アジア人も、すべての人々が。そして、この瞬間、同世代のあらゆる人々が、不満と憤激、そして怒りによってひとつになったのである。

(略)

 「ゴースト・タウン」がそこら中で流された。(略)

[政府はメディア管制を「お願い」したが]

警察が火炎瓶工場の捜索と称してブリクストンの数多くの場所を急襲したときも、まだ第1位に居座っていた。(略)

 この曲は、7月25日、ケジックのレイク・ディストリクト・パラダイスで警官と1000人からなるバイク集団が衝突したときにもプレイされていた。そして、ウィンドウが割られ、酒類販売店が略奪されたあのロイヤル・ウェディングのその日にも。今日、我々は「ゴースト・タウン」を、確かな知識の裏づけをもってこう振返ることができる。これほど正確に、そして徹底的に時代精神を強打したレコードは、後にも先にも存在しない。

(略)

スペシャルズが、ネズミたちに明け渡され、廃墟となったクラブや街、そして国全体のために書いたこの追悼歌は、3週間という長く熱い期間、英国チャートのトップに輝き続けた。そしてこの直後、スペシャルズは真の意味で解散した。なぜなら、彼らにはもう、これ以上作品を生み出すことができなかったからである。

 もう誰も、そして何もできなかった。


スペシャルズ<スペシャル・エディション>

アーティスト: ザ・スペシャルズ

メーカー/出版社: ワーナーミュージック・ジャパン

発売日: 2015/05/13

|CD| Amazon.co.jp


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2017-03-09 ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝 パンクの女王 このエントリーを含むブックマーク


VIVIENNE WESTWOOD ヴィヴィアン・ウエストウッド自伝

作者: ヴィヴィアン・ウエストウッド, イアン・ケリー, 桜井真砂美

メーカー/出版社: DU BOOKS

発売日: 2016/03/05

|本| Amazon.co.jp

マルコム・マクラーレン

マルコムに会って、わたしは恋に落ちた。すてきな人だと思った。そして、今もその気持ちは変わらない。(略)

彼はカリスマ性があって、才能豊かだった。本当に彼のことが好きだった。ハチャメチャなところがあったけれど、それでも彼のことをもっと知りたいと思っていた。――ヴィヴィアン・ウエストウッド

(略)

「こう見えて恋愛経験はあまりないの。本当に少ないのよ。恋人の数もこの手で数えられるくらい(略)

本当にあまり経験がないの。男性経験という意味よ。わたしは恋人がいるときは、いつだってその人一筋だから。(略)

マルコムは、わたしにとって、はじめての『知的な』男性だったと思う。それまではそういう人がわたしのまわりにいなかったの」

(略)

[マルコムの祖母は]女優を目指していたが、結局は劇場の女主人になり、けちな美術品詐欺師を経て、傍若無人なステージママならぬ、ステージおばあちゃんになった。さらに衝撃の事実(略)[母は親戚から「売春婦」呼ばわりされており、実際]「高級娼婦」という言葉が近かった。(略)

「マルコムは母親の愛情を知らずに育ったの。彼がもめごとを引き起こす原因はすべてそこにある(略)

そりゃそうだよ、実の母親からは拒絶されるし、おまけに、実の祖母は頭がおかしい人だったから」

(略)

[マルコムは]自信過剰のくせに誰よりも愛情を欲しているというかなり厄介な性格の持ち主だった。(略)人の目を幻惑させる花火を次々と仕掛けることで、完全に拒絶されることへの恐怖心に打ち勝ちたいという強い欲求があったことは疑いようもない。だからこそ、彼は、メディアを、自分の祖母を、ヴィヴィアンを次々と幻惑していった。

(略)

大口を叩く傾向があり、真実という概念の意識が希薄で、人々の注意を惹きたいという欲求がどこまでも強かった。これにはおそらく、ローズの影響が大きいのだろう。彼の祖母はいささか乱暴なほど型破りな性格だった。「良い子でいるのはつまらない。もし度胸があるなら、悪いことでもなんでもやればいい」というのがモットーで、働かなくてもビクビクするな、と口癖のように孫に言っていた。

(略)

「真っ白な顔に真っ赤な大きい穴が開いている。彼の口ってそんな感じだったのよ。口を開いたときは、なんとなくこわかった。でも、それと同時に、彼がはかなげで今にも壊れてしまいそうにもみえた。マルコムはしつこく私に言い寄ってきた。わたしにその気はなかったわ。(略)彼は活力があって、刺激的で、博識で、一緒にいてとても楽しい人だった。それに、同情の気持ちもあったわね。彼って自分で自分の面倒がみられないの。

(略)

[仮病でヴィヴィアンの気を引いたマルコム]

「もちろん、甘い言葉でだまして彼女のベッドに潜り込んでやろうと思ってね。(略)女教師のベッドに入ってみたらどんなふうに……。すべてはちょっとした出来心だったんだ」(略)

[当時3歳だった息子のベン談]

「(略)つまり自分がもし20歳で、3歳の子どもがいる25歳の女と同居するようになって、しかも、自分が童貞で、なんとなくいい雰囲気になって、そういうことをしたいと思っていたら、子どもにその辺をうろうろしていてほしいなんて思う?」(略)

[弟の]ゴードンは当時ショックを受けたようだ。「(略)だって実の姉と親友だよ。(略)マルコムにはそれまで彼女もいたことがなかったんだよ。(略)しばらく僕は姉と親友も両方を失ったんだ」

フェティシズム

「黒は虚飾の廃止宣言なのだ」とマルコムは主張していた。そして「虚無感。倦怠感。そして、空虚感……。ファッションに翻訳されたセックスは盲目的崇拝[フェティシズム]の対象となっていった。盲目的崇拝はまさに若さの化身なのだ」。マルコムが記したその言葉に対して「そうね」と、ヴィヴィアンが感慨深げに言った。「(略)『若さゆえの不道徳性に対する基本的な信頼』とは、『それが何度でも繰り返し主張されなくてはいけない』ということ……フェティシズムって、つまり、カミソリに欠かせない刃のようなものね。ぞくぞくするような生と死の境目。そう、たしかにそれはまちがいない。そこはわたしも声を大にして言うわ」

(略)

「最初は、テディ・ボーイとかロッカーとか、若者たちの反抗のスタイルに興味があってはじめたことだった。その既存のスタイルにわたしたちが性的な要素を持ち込んだの。それが、導火線に火をつけたのね」

ニューヨーク・ドールズ、リチャード・ヘル

[デボラ・ハリー談]

「当時わたしはニューヨーク・ドールズの追っかけをしていた。(略)

マルコム・マクラーレンが、借りていたステーション・ワゴンを止め、そのまま駐車してトランクを開けると、箱をいくつも出してきた。そして、彼のパートナーだったヴィヴィアンがデザインしたゴム製のすごい衣装をずらりと並べて売りはじめたの。奪い合いになってたわよ。まさに、服の争奪戦だった、しかも、西13丁目で!」

(略)

[マルコムは1974年にはファッションからは手を引きプロモーターになる決心]

ニューヨーク・ドールズは、ゴム製のファッションに身を包み、聖職者用のものではないドッグ・カラーをつけ、イギー・ボッブやルー・リードをはじめ、彼らの親衛隊である、クラブ通いのヘロイン中毒のティーンエイジャーたちを引き連れて歩いていた。(略)

当時はまだロックンロール路線であったヴィヴィアンとマルコムは衝撃を受けた。「あまりの大音量で、音が向こうの壁に衝突したみたいな気がした。とにかくスケールが大きくて……。これまでとは真逆の感性で、マルコムのポップス熱にまたしても火がついたの」(略)

[二人はドールズ経由でリチャード・ヘルを意識するように]

とにかくすごいやつだと思った……何もかもぶっ壊して、引き裂いていた。まるで排水溝の穴から這い出してきたみたいだった。(略)いつも破れたTシャツを着ている、くたびれてよれよれの傷だらけの汚い男。そういえば、当時安全ピンはをつけてたっけ?つけていたかもしれないな。とにかく、それがやつのイメージだ。短い髪を逆立てて、なにもかもそんな感じだった。それで、そのイメージをロンドンに持ち帰ったわけ。僕はすっかり感化され、それを真似てイギリス風にアレンジしたんだ

(略)

[ヴィヴィアンの安全ピン論争見解]

「ジョニーは耳に安全ピンをつけてた。シドはピンクのギャバジンのパンツをもっていて(略)[麻薬中毒者がシドの留守にそれを切り裂いたので]安全ピンで切れ切れになった布をつなげたらしい。それで、彼がそのパンツをはいて店に入ってきたの。トイレットペーパーをネクタイ代わりに首に巻いてたのも覚えているわ。

(略)

ジョニー・ロットンの目には、パンク・ファッションを確立したのはヴィヴィアンだと映っている。それに対してヴィヴィアンは、安全ピンを使ったファッションの元祖はロットンだと認識している。(略)

最も物議を醸したモチーフ、かぎ十字をヴィヴィアンとマルコムにもたらしたのはアメリカであり、ニューヨーク・ドールズであった。(略)

[ヨハンセンは高校時代から反抗心の表現としてスカルと同じ感覚でナチ党のマークをいたずら書きしていた]

「極悪非道であるかを世間に知らしめたいと思うと、こういうやり方になるんだ」[とヨハンセン](略)

[ヴィヴィアン談]

「マルコムは、とにかく世間をあっと言わせたいという気持ちが強かったの。(略)かぎ十字のことも、マルコムはユダヤ人だったから、そういう行動に出るには彼なりの理由があった。(略)タブー視されることに対する反発心もあったの」

セックス・ピストルズ

私のお気に入りはスティーヴ・ジョーンズよ。スティーヴのことは本当に好きだった。それから、シドとも仲が良かったわ。シドは本物のワルだった。彼は、とにかくやっていいことと悪いことの区別がつかなかったのよ。(略)でもすごく頭のいい人だった。とても華やかで好奇心旺盛。そして、興味を惹く存在だった。

(略)

「マルコムは族のリーダーにはなれても、独裁者の器ではなかった。本人はそうなりたいと思っていたけど。学生気分のままで、一緒に悪さをする子分がほしかったのね。(略)

で、とにかく彼はウォーリーをクビにしたの。スティーヴ・ジョーンズはヴォーカルよりギタリストが向いていると彼は判断した。スティーヴは歌うとき裏声を使っていて、なかなかすてきだったのよ、本当は。でも、彼らの最初のライヴは、「ハプニングにならないハプニング」になった。それでマルコムはようやくわかったの。リード・ヴォーカルはクリッシー・ハインドに頼むとほぼ決めてたくせに、土壇場でやめちゃった。結局、マルコムにとって、自分の「子分」は若僧でなければいけなかったのね。わかってもらいたいのは、あのときはなんの野望もなかったってこと。マルコムはひとつの状況を生み出して、それを強引に推し進める人だった。勝利するまで挑戦するタイプ。体制をぶち壊すまで挑戦を止めないの。(略)

ピストルズが満足な演奏をできないことは逆に市場戦略になるとマルコムは信じ込んでいた。ロットンに関しては、マルコムがいつも言っていたわ。僕の考えはあいつの中にある、って。彼とマルコムはふたりともいい加減だった。ダンスしようと誘ってくるくせに、いざ一緒にダンスをしたら追い払うタイプ。マルコムはロットンの生き方が大好きだった。はじめてのオーディションがあった日、マルコムは帰宅して言ったわ。緑の髪のガキにしたよ、って。ロットンの歌はとても聴けた代物ではなかったけれど、マルコムはそういうところも気に入っていたし、声が大きくて態度がふてぶてしいところも大好きだった。でも、実際にふたりの気が合うかと言えば、決してそうではなかった。自我と自我のぶつかり合いだったわね。こう言ってはなんだけど、ロットンは典型的なアイルランド人だった。友達とけんかをしては、仲直りに腕を組んで酒瓶を空けるという感じね。

ニュー・ロマンティック

「セックス・ピストルズとパンク・ロックにかかりきりの頃は、自分をデザイナーだと思ったことは一度もなかったわ」。しかし、その後、彼女はデザイナーとしての自覚をもつようになった。

 「経緯を話せばこういうことよ。セックス・ピストルズが終焉を迎えて、わたしたちは店を、つまり、セディショナリーズを閉めたの。賃貸契約が切れてしまって、わたしは継続するかやめるかの選択を迫られた。マルコムに言ったわ。『わたしがあなたの音楽事業を助けてもいいし、あなたがわたしのファッション事業を手伝ってくれてもいいのよ』って。そしたら、彼は言った。『どんなときでも、とにかくファッションだ』。そして、マルコムはわたしに今後の狙い目を教えてくれた。『これからはロマンティックの時代だよ』。正直驚いたわ。まさか彼の口からそんな言葉を聞くとは思わなかったから。以後、人に次の路線はなにかと訊かれるたびに、わたしはこう答えていた。『次はロマンティック路線よ』って。そのあとすぐ、例の連中が登場してきて、自分たちのことをいきなり『ニュー・ロマンティック』と呼びはじめたのよ。連中はフォックスのセールで舞台衣装を買ってた。中にはすごくかっこいい子もいたわよ。DJのジェレミー・ヒーリーなんかもそう。彼はすごくハンサム、で、スタイル抜群だった。髪を脱色してからグレーに染め直して、それを結んでおさげみたいに後ろに垂らしていたわね。(略)

彼がきっかけですべてがはじまったんだとわたしは思っている。まちがいないわ。それで、マルコムは彼を見て『ロマンティック』という発想が浮かんだんでしょうね。(略)

「その時期よ、アダム・アントが自分と、自分のバンド、ジ・アンツのマネージメントを引き受けてほしいとマルコムに頼んできたのは。マルコムがまず手はじめにやったことは、アダムを追い出して新たなヴォーカルを探すことだった。そして、最終的にドライ・クリーニング店で働いていたアナベラという若い女性を発掘し、バンド名をバウ・ワウ・ワウに改めたの」

 「わたしが心惹かれたスタイルは、教師をしていたときに生徒と一緒にたまたま目にした、フランス革命当時の服装や絵画、彫刻の類いだった。(略)

メルヴェイユと呼ばれる洒落女たちは、ア・ラ・ヴィクティムという髪型に短く刈り上げ、モスリンの長細いドレスを着て、バストの下を縛り、身体に密着するようにドレスを湿らせていた。ギリシア彫刻の衣装をイメージしていたのでしょうね。ちなみに、そのドレスはパイレーツ・コレクションでも登場したのよ。ただ、マルコムの指示で、あえてギリシア風スタイルにはしないでペイントしたナチスのヘルメットをコーディネートしたの。

(略)

 「その頃マルコムはわたしのそばにはいなかった。ミキシング・ミュージックにのめり込んでいた時期だったから。いろいろな人の曲をミックスして音楽をつくるの。無断借用だから、あれぞ海賊行為ね。彼はわたしに海賊ルックをつくってほしいと頼んできた。それで、わたしは歴史を振り返って、17世紀のマスケット銃兵スタイルに行き着いた。できる限り歴史に忠実にスタイルを真似たわ。自分の発見に胸が躍った。

ここらへんまでで半分、残りはブランドの成長物語。


NO FUTURE : A SEX PISTOLS FILM (スタンダード・エディション) [DVD]

メーカー/出版社: トランスフォーマー

発売日: 2009/06/05

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2017-03-06 土方巽全集 1 『病める舞姫』『美貌の青空』 このエントリーを含むブックマーク

土方巽の単行本『病める舞姫』『美貌の青空』『慈悲心鳥〜』を収録した全集の新装版。


土方巽全集 1

作者: 土方巽, 種村季弘, 鶴岡善久, 元藤〓子

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2016/01/21

|本| Amazon.co.jp

『病める舞姫』

私は魚の目玉に指を通したり、ゴムの鳩を抱いた少女に言い寄ったりして、それからそれと生きてきたが、いつも実のところ脈をとられているような気分で発育してきた。私は雪にしょっちゅう食べられかかっていたし、秋になればばったにも噛まれた。梅雨どきには鯰に切られ、春先にはざくらっと川に呑まれたりして、自然に視線が、そういうものに傾いていったのであろう。

(略)

梅雨どきの台所にある赤錆びた包丁の暗さを探っては、そういう所に立って、涙の拭き具合いを真剣に練習したりしていた。からだの中に単調で不安なものが乱入してくるから、からだに霞をかけて、かすかに事物を捏造する機会を狙っていたのかもしれない。

(略)

 それにしても、昔の電球はよく震えていた。その下で泣く女がどこにでも見受けられ、女のまわりに泣く物象も見受けられ、泣いている女がその物象を絞っているのではないかと案じられもした。脳はいつも私の頭から四センチばかり離れたところで浮いていたが、この脳は白魚や錆びた鼠取りを恐ろしがっていたのだ。道端には、頭や額に太い皺がたくさん寄っている力の強そうな馬鹿がいつも歩いていた。「しかし、相撲をとるとふにゃふにゃだそうだ。」と、大人は子供に語るように教えていた。

(略)

 人間、追いつめられれば、からだだけで密談するようになる。芥子菜のような物腰で口のなかから変わり玉を出したり、お尻の辺りから無臭の煙玉を手に載せて見せたりする婆さんが近所にいて、よく私はからかわれた。私が流しに立って、みみずを眺めているような子供だったからかもしれない。子供は誰でも、都合よく機会を逃したいという期待に綿々たる恋慕をもち、それにそった息遣いで生きているものだ。

(略)

 ある日、家の中で着物の着付けをしている女の人が(略)恐ろしい顔になって帯のうしろに手を廻し、きっとした目付きで私の方を睨んだことがあった。私はすうっと裏口から出て行って、もさっとした静かな家裏の廂に立て掛けてある変哲もない棒を見ていたことがあった。いつの間にか私は棒になって遊んでいた。

(略)

めりめり怒って飯を喰らう大人や、からだを道具にして骨身を削って働く人が多かったので、私は感情が哀れな陰影と化すような抽象的なところに棲みつくようになっていた。あんまり遠くへは行けないのだからという表情がそのなかに隠れていて、私に話しかけるような気配を感じさせるのだった。

(略)

からだは、いつも出てゆくようにして、からだに帰ってきていた。額はいつも開かれていたが、何も目に入らないかのようになっていた。

(略)

 塗り箸を齧っている少年の退屈さや、電気が通っているような髪の毛を逆立てて座敷に上がってくる女の人などに、私は不安と怖れを感じていた。みんな爆発のなかを通ってああなっていたのだろうか。

(略)

私は白く汚れて、もたっと泣いている子供達の方へいつも近づいて行った。喰えなくなるほど育った葱の方へも吼えに行った。私は何者かによってすでに踊らされてしまったような感じにとらわれた。

(略)

私は濡れた紙が黄ばんで乾き、その上に蝶々が止まっていたのを、小半時も眺めるようなところに立っていたのだ。そのゆえか、今でも私は鰻重を食べるときの箸の滑りを不安がるのだろう。夕方になると急に元気がなくなったり、元気が出たりする移ろい易い感情の行方は、私のからだに融け込んでしまって、捜すことも、精密にその行方をたどることも難しくなってしまっている。

(略)

 絹の糸を恐がらぬようになるまで私は長い年月をかけたし、水屋に立って荒い息を吐きながら、使いものにもならない二つの乳房をたらしていた女を、美しいものだと認めるのには、これもまた、さまざまな屈折を重ねてきたのである。

 いろいろなものが、輪郭をはずされたからだに纏いつき、それを剥がすと新しい風が印刷されるように感じられたが、風の方でもまちがいを起こし、私もまたあやまちを重ねただけにすぎなかったのだろう。

(略)

 石川五右衛門が出て来そうな空模様の下でコトコトと煮物の音が聞こえていた。むしろ、聞こえてほしいと願っていたのだろう。聞こえるには聞こえているが、畳の目にあまり目玉を貸しすぎて、考えの糸が切れていたのかもしれない。余りにも放って置かれたからだのことに、ついつい考えが及ぶようになっていた。私は恨んではいなかったが、よくもまあ、湯気ばっかり喰わせるものだと思っていた。

(略)

いまにして思えば、濡れ雑巾に刺さっている魚の骨を懐かしがっているようなところにしか、たどりつけぬ行方がひそんでいたのかもしれない。私だけが踊られてしまっていたのではなかった。ぼわっとした子供を眺める豚を、じっと見つめ返していたこともあるし、鶏が空を見上げているようなうすら寒い日の下に立ったこともある。そういうとき私は、柱に喘みついて歯形をつけたり、畑の苦い胡瓜のことなど忘れようとしたりしていた。家の中で皺くちゃな紙を延ばしている人から、誰も知らない音の中に棲んでいる生きものの姿が覗かれたであろうに、私の若いからだは無理もない方へ、つまり飴色のゴムの靴下止めを迂回したり、恐がったりしている方へ、堕ちていったのだ。

 日暮れまで表で遊んでいて、声帯が黒砂糖のように甘く潰れかかっていた。昼間のほてりが夕方になっても抜け落ちないほどに、上着のボタンも潰れていた。

(略)

泣いているものと溶けているものの区別がつかなくなり、「ああ、助けてくれーっ。」と叫んでいる子供の声も何かしら芝居じみて聞こえてきて、私は水底に降りていけなくなる。

(略)

喰いたい菓子や飴が本当に口に入らないということが解ると、平べったい犬や、紐のように延びた猫が頭のまわりに浮かんでくるのであった。犬も猫も飴なのだからというような奇妙な決め方をしていた。空に迅速な異変でも起こらぬ限り、このからだは、こうして喰われ続けていくのだろうということばかり考えていた。

 どこの家へ行ってもズタズタに引き裂かれた神様の一人や二人はいたし、どこの家の中にも魂の激情をもう抑えきれない人が坐っていて、あの懐かしい金火箸を握って金切声を出して叫んでいた。俯抜けになる寸前のありったけの精密さを味わっているこれらの人々を、私は理解できるような気がして、眺めていたのだろう。

 確かに、めざとく見つけ出したものなどは、こういう状態に較べれば、おおかたは破損され、型の亡骸でしかないものだろう。人間である根拠はもうまわりの方からも崩れていたから、私が考えなくてもいいことのように眺められたのだろう。

 茄子をもいでいる静かでひょろらっとした人や、ぶぁぶぁ飛んでいる蝶や、あの確かな太さを持っている醤油瓶や、豆炭の重さや金鎚の重さだって、寒いところから帰って来たような浴衣だって、みな人間の激情をそそのかしているものなのだった。こういうわずかばかりの道具類に接した解剖の場で、疑わしいような惑わされているような不透明なからだはヒステリーを起こしていたのだろう。

(略)

 寝たり起きたりの病弱な人が、家の中の暗いところでいつも唸っていた。畳にからだを魚のように放してやるような習慣は、この病弱な舞姫のレッスンから習い覚えたものと言えるだろう。彼女のからだは願いごとをしているような輪郭でできているかに眺められたが、それとてどこかで破裂して実ったもののような暗さに捉えられてしまうのだった。誰もが知らない向こう側の冥さ、この暗い甦りめいた始まりを覚えていなかっただろう。だから教わって習うなどできないようなところで、私も息をついて育っていったのである。

(略)

 ぐったりした心持ちにつながっていなければ、人の行き交いはつかめぬものかもしれない。鯰、泥鰌、寒鮒などを神品として大事にすることも、じゃらじゃら顔を撫でるようにして飴をくれる人を追っ駆けていって丁寧に頭を下げていた仕草も、ぼんやりした心のこの薄暗がりに放してやれるものだ。この暗がりのなかに隠れることを好んだり、そこで壊されたがったりしているものがなければ、どうして目をあけて視ることなどできるだろう。

 なんの音だろうと走り出ていくと、いかにも情がこもっているみたいな響きをたてて、棒が転がっていた。その棒をからかっているような笑い声は、もう消えてなかった。聞こえたものは、聴きわけていたものであったのか、自分の中に立て掛けていた棒だったのか、その内容はどのようにして語られればよいのか、私にはたどれなかったが、何かを憚るようなまわりの雰囲気が私を困らせてもいた。からだが吊り上げられ、運ばれ、置かれるところまで、目を閉じていたが、そんな記億のそばには、いろいろの物体が横になっていた。そこには尋ね求めるようなものはなかったし、死にたがらなかったり、もう死ぬしかないと決めるようなものも、棲息していなかった。椀ぎたての青いトマトにかぶりついた私は、心の使い方については少ししかもらっていないと気付いたりした。

(略)

 魔力が足りないものにはかまっていられない。もう人間なぞに害を与える暇がない、というような空模様の下で、半殺しの蛇を囲んでいる天童めいた奴らのところから毛のように逃げ帰って、首をかしげている私の化繊の小学服には、病気を重くしている狒狒のようなものも取り憑いていた。

(略)

 なんだか全体であることをやめたように寄りかかって、太陽を眩しがっているひしゃげた顔で、ぐちゃぐちゃと口の中で捩れ、絡み合っているものを掻き混ぜている私のガムは、泥の中をゆく荷車引きのふんばりを思い出させた。なるほどそれは合成された記憶のようなものであったろう。一ミリ程出ている小猫の桃色の舌から昇る薄い蒸気に、たぐり寄せられ、絡まり、引っ掻き廻されたあげく、宙吊りにされたような気分になりながら私はその蒸気を摘みとっていた。

(略)

からだに飛びついて来たものがすぐには解けない謎にはなっても、動けなくなるようなことはなかった。「わかっているぞ。」そう言いながら、耳という耳から指という指から棘を出して、蝶々がそこに成立している世界を掴まえようとしていたのだろう。(略)

明かるく死んだあとのエコーを掴まえようとしていたのか。いまいるところから始まっているとは誰も思えないような会釈が、そこいらに漂っていた。

(略)

 透けたハトロン紙に唇をあててビビッた音色を出していると、体毛がさあっと毛羽だってくるのだった。この懐かしさには、相当の歳月が後退し、秘められているはずであった。にらめっこや影踏みなどの衝突から離れたところに自分を隠しに行ったり、空地や野原で自分を作ったりして遊んでいた。木にぶら下がったり、それに飽きると垂れ下がって休息した。脛が落とした小空間を拾ったりするひまもないように垂れ下がったまま、やっていることが外側から見わけがつかないように、さらに足を伸ばしたりしていたのだ。

(略)

 私はたかだか影一匁なのだ。そう決めてしまうと、空を鉋で削るような気持ちにもなり力も形も鉋屑のように翻って気持ちも乾いてくるのだった。木槌で叩かれたように踝が急に軽くなって、表へ出ていっては飛ぶ影の練習をするのだった。いろいろなだぶった表情をぶら下げて、それを切断するように「飛ぶ影」などと言った呪文をとなえて、刃物の影に似せて飛んでいた。

 耳から入った音が、口から旅に出ていくようなことはなかった。浮かぶ女、飛ぶ男、ガラリと障子を開ける大人、こうしたいくらか予診めいた動作には、答えようもない質問が匂っているのだった。そんな人達には、あまりにも、やさしい皮膜がついていたから、視覚だけではとらえられないのだった。その人達はみんな、くるりと裏返しされたばかりの人で、裏返されたばかりの世界に住んでいたから、あのようにはっきりと配列されていたのかもしれない。欲していることが、抱きすくめられるような暗がりにさしかかって、ようやく動きが少なくなくなっていることに私は気付いた。この暗がりに、しぼしぼした老婆がもぐり込んできて「どこの兄ちゃかね。」と聞かれたりもするのだった。私のからだが、私と重なって模倣しているような、ちらちらしたサインにとらえられていた。そこでくびれた私はひとまず雲の形でそこに潜んでいた。

『美貌の青空』

「犬の静脈に嫉妬することから」

 五体が満足でありながら、しかも、不具者でありたい、いっそのこと俺は不具者に生まれついていた方が良かったのだ、という願いを持つようになりますと、ようやく舞踏の第一歩が始まります。

(略)

 犬に打ち負かされる人間の裸体を、私は見ることができます。これはやはり、舞踏の必須課目で、舞踏家は一体何の先祖なのかということに、それはつながってゆきます。

 わたくしはあばらの骨が大好きですが、それも犬の方が、わたくしのそれよりも勝っているように思われます。これも古い心象なのでしょうか。雨の降る日など、犬のあばらを見て敗北感を味わってしまうことがあります。それにわたくしの舞踏には、もともと邪魔な脂肪と曲線の過剰は必要ではないのです。骨と皮、それにぎりぎりの必要量の筋肉が理想です。もし犬に青い静脈が浮いているのなら、おなごの体など金輪際要らなくなると思います。

(略)

わたくしが、老人の枯木のような肉体や濡れた動物を大切にするのは、もしかしたら、そのような憧れに近付けると思うからなのです。わたくしの体には、バラバラにされて何処か寒い所に身を隠したいという願望があります。そこがやはりわたくしの帰る所であると思うのですが、そこでカチカチに凍って、今にも転倒しそうにまでなって、この目で見て来たものは、やはり、死ということを死に続けるものたちへの親近感に尽きることだ、と納得しているわけです。

(略)

かじかんで何の祖先かもわからなくなっている遠いわたくしを、近くに息づいているこのわたくしは、一個の童貞体として自覚させるでしょう。そこでわたくしが踊ることは経験の舞踏化でもなく、ましてや舞踏上の熟練でも、すでにないのです。尊厳な風景との間に、バシッと折れるような緊張関係を持って、ただ目を見開いている肉体にわたくしはなり、いたいと思うのです。その時わたくしは、わたくしの体を見ない方が優れているとは考えません。見てしまったという悔恨もかじかんで、不幸な肉の芽を吹き出すことは出来ません。

 舞踏が表現の手段であるところでは、常に嘆願や平伏の姿となっていますし、従順と嫉妬の全音階に基づいて熱い舞踏の形を整えているだけです。


土方巽 夏の嵐燔犠大踏鑑

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2017-03-03 ネルソン・マンデラ 未来を変える言葉 このエントリーを含むブックマーク


ネルソン・マンデラ 未来を変える言葉

作者: ネルソン・マンデラ, 長田雅子

メーカー/出版社: 明石書店

発売日: 2014/06/01

|本| Amazon.co.jp

人間は社会によってつくられる。

自分の良いところを認めてもらうことで、人はやる気になる。

私の人生の汚点を省略したかたちで、紹介してほしくない。

他の指導者同様、私も時々躓いた。

だから、自分ひとりが栄光の座で煌めくことを要求することはできない。

与えられたものではなく、持っているものから何を創り出すかによって、

人と人の違いが生まれる。

大切なのは何が起こったかということよりも、

それをどのように受け止めるかということだ。

自分を変革するのはとても困難だ。

社会を変革するより、ずっと難しい。

聖人とは絶え間なく努力する罪びとなのだということを、

決して忘れないように。

法律により、私は犯罪者の烙印を押された。

私の行為ではなく、私の信念、私の考え、私の良心のために。

人種差別を標榜する専制国家が

全国民を野獣以下の地位に引きずりおろそうとしているときに

沈黙を守るなんて、そんな道義に反することはできなかった 。

「刑務所に入っていないこと」と「自由」は同義ではない。

「戦争がない状態」と「平和」が同じことを意味しないように。

生まれてはじめて投票するまでに、70年以上待ちました。

(略)

この先何年も何年も投票したい。

たとえ死んで墓に入っても、目を覚まして投票しに来るつもりだ。

交渉する時は和解の精神をもってすべきだ。

最後通牒をつきつけるつもりで交渉はできない。

(略)

自分のほうが倫理的に優れていることを匂わすような態度を取ったら、

敵との話し合いは絶対にうまくいかない。

(略)

最も強力な武器は腰を降ろして話し合うことだ。

政治で成功するためには、

大衆を信頼して自分の考えを打ち明けなければならない。

自分の考えを非常に明快に、非常に礼儀正しく、非常に落ち着いて、

しかも率直に述べなければならないのだ。

かつて破滅を告げる予言者たちを驚かせたように、

皮肉と絶望を売り込む今日の商人たちに挑戦しよう。

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ネルソン・マンデラ 私自身との対話 - 本と奇妙な煙

2017-03-01 1984年のUWF・その2 柳澤健 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


1984年のUWF

作者: 柳澤健

メーカー/出版社: 文藝春秋

発売日: 2017/01/27

|本| Amazon.co.jp

新日を追放された前田。プロレスファンのマザーエンタープライズ福田社長から興行のノウハウを教えると言われた神新ニは旗揚げを決意。協力を要請されたターザンは「チケットを1枚下さい」と一言、そしてそれを配置し「わずか15分で完売」のキャッチコピーというインパクトのある天才的表紙に。だが、これに長州が激怒。

「山本、お前はどうしてUWFを応援するんだ?お前だってわかっているんだろう?UWFはこっちなのかあっちなのか、言ってみろ(略)

UWFはプロレスなのか格闘技なのか言ってみろ、と長州に問いつめられた僕は、こっちです、と言った。UWFはプロレスです、と。

 そうだろう、UWFはプロレス以外のものではないのに、どうして真剣勝負の格闘技のように見せかけているんだ、と長州は僕に文句言った。(略)(ターザン山本)

(略)

 「ファンは青春についていくもの。若者たちが巨大な組織に立ち向かう姿を見たいんです。新しいことをやろうと、古株とか組織とか体制に反抗する。UWFは青春の表現の一形態。前田日明こそがそのシンボルだった」

 「答えはファンが持っている。山本さんはいつもそう言っていました」

 と証言するのは[鈴木健](略)

 「主体はファンにある。団体でもレスラーでも、もちろんマスコミでもない。プロレスで起こるあらゆる出来事の是非を判断するのはファンであって、提供する俺たちではない。どんなにすごい記事を書いても、ファンに受け容れられなければ、正しいことにはならない。俺たちはファンの欲望、あるいは希望に沿ってプロレス雑誌を作るべきだ。このことは、山本さんから何度も教えられたことです。

[当時、太宰や論語を語る前田は文化人的にもてはやされたわけで(ターザンも含む)、典型的プロレスラーと片付けるのはどうなのだろう。ハイプして儲けた自分の罪を誤魔化そうとしているのじゃないかターザン:引用者の感想]

新生UWFは、佐山が作ったシューティング・ルールをほぼそのまま採用した。

 ユニバーサル末期の前田は、試合数を減らすべきだと主張した佐山を厳しく批判していた。(略)

[しかし、新生UWFの試合間隔はさらに長くなり、佐山考案のシューティング・レガースとシューズを使用]

「佐山の思想を前田がパクリ、簒奪したということ」と、作家の亀和田武は断言する。(略)

新生UWFはハードカバーのルールブックを作って売り、ファンは争って買った。借り物の思想をきれいにパッケージして大儲けする。

(略)

「新生UWFのレスターたちに思想などなかった」

と語るのはターザン山本である。

「前田たちは典型的なプロレスラー。金と女とクルマにしか興味のない人間。UWFとは何か、UWFがどうあるべきか、UWFはどうあらねばならないか。そんなことを真剣に考えている人間は、新生UWFにはひとりもいなかった。新生UWFは、神社長が主導する芸能プロダクションのようなもの。前田以下のレスラーたちは、神社長が作ったプランに乗っかり、佐山が作ったルールやレガースやシューズを借りてきただけ。

 ところが、ファンはUWFの思想を全面的に100%信じて、経済的基盤のない新生UWFを自分たちが支えようとした。UWFという幻想、空想がひとり歩きしていたんです。

『格闘技通信』

 前田日明がプロレスラーである以上、「俺たちUWFは本物で、新日本プロレスその他はインチキ」と広言するわけにはいかない。そう書けば、新日本プロレスや全日本プロレスのレスラーから嘘つき呼ばわりされることは、火を見るよりも明らかだからだ。

 しかし、その一方で、この手記が読者を一定の方向に誘導していることは間違いない。

 「誰もが納得して見てくれる」「偽りのない本物のプロレス」「総合格闘技」。これらの言葉を文章にちりばめることによって、「UWFは真剣勝負をやっている」という印象を読者に与えようとしているのだ。

 さらに、この手記が『格闘技通信』に掲載されたことは極めて重要だ。

(略)

[UWFを格闘技の範疇に入れたい前田とUWF人気を利用して雑誌の売り上げを伸ばしたい]

 両者の思惑は一致し、『格闘技通信』の誌面では「UWFは真剣勝負の格闘技」として扱われることになった。

 杉山は『週刊プロレス』の創刊編集長であり、当然、UWFのすべてを知る立場にある。UWFが結末の決まったショーであることを知りながら、格闘技であるという虚偽を格闘技雑誌で報道し、読者を欺いたことの責任は重い。

ジェラルド・ゴルドー

 最初のうちはリアルファイトという話だった。ところが、日本に向かう機中でヨハン・ボスが『お前は負けなくてはならない』と言い出した。『冗談じゃない。俺はマエダを殺すよ』と私は断った。日本に着いてからも、何度もボスから説得されたが、私にも名誉がある。『戦って負けるのは仕方がないが、最初から負けが決まっている試合はイヤだ』と突っぱねた。

 しかし、ボスは執拗だった。

 『日本との関係を深めるためだ。お前には相当な額の報酬が支払われる。仕事として負けるだけじゃないか。本物の試合じゃない』と説得されて、最終的に私は結末の決まった試合を受け容れた。ビジネスさ。

 前田と一緒に試合のリハーサルをやったのは、確か試合の前々日だったと思う。場所はマエダの道場だ。

 試合の結末は私が考えた。私の右のハイキックをマエダがキャッチして、サブミッションを極めるんだ。

 プロレスラーにフィニッシュを決めさせると、散々投げられて、まるで私がガキみたいに見える。ゴロゴロと転がされるような試合なんて、恥ずかしくてできない。だから私が決めた。私とマエダの両方が強く見えることが大切だと思ったから、私がミスを犯して負けた、という形をとった。

 コロシアムのリングに上がったマエダが、右目を負傷していたのを覚えているかい? あの傷は、私がリハーサルの時につけてやったんだ。本当に強いのはどちらかをわかってもらおうと、ちょっとマエダにレッスンしてやったのさ(笑)。

 『本番の試合中に、もしお前が寝技でヘンなことをやってきたら、俺はいつでも今と同じようにキックを入れてやるからな』

 私はマエダにそう念を押した」

(略)

 たとえば極真空手であれば、自分が攻撃すれば相手はこう返してくる、と予想がつく。ところがマエダは、リアルなスピードを持つ本物の打撃を知らない。だから、リハーサルでも本番でも、私のすべての攻撃が当たってしまう。これには困ったよ(笑)。マエダのディフェンスには一切期待できない。だからKOしたくなければ、自分がキックやパンチをストップする以外ない。空手では相手にしっかりと当ててから引くけれど、この試合では当てる前から引かないといけない。そんな経験は初めてで、とても難しかった。

 あの試合で決まっていたのはフィニッシュだけで、試合時間は決まっていなかったから、やっているファイターにも緊張感があった。

 プロレスは難しいから私も敬意を表するが、マエダには言いたいことがある。

 『俺はゴルドーをやっつけた。俺はゴルドーよりも強い』とマエダが言うのはおかしいじゃないか。ビジネスでやったフィックスト・マッチだった、と正直に言うべきだ。

 プロレスラーの中には、メンタルがついていかなくて、マンガみたいな状態で生きているヤツがたくさんいる。結末の決められた試合をしているくせに、自分はリアルで強いとマジで考えているんだ。UWFのレスラーたちも大いに勘違いしている。彼らは自分が強くないことを知らない。そこが彼らの問題なのさ。

クリス・ドールマン

 2試合契約。リアルファイトということだったが、契約後まもなくヤン・プラスから電話が入り、『お前が負けを受け容れない限り、試合はできない』と言われたんだ。

 リアルファイトを望んでいた私は不服だったが、仕方なくフィックスト・マッチを受け容れた。

 私はもう44歳になっていたし、UWFは良いギャランティを提示してくれた。ファイトではなく、ゲームをやったのさ。

 マエダとリハーサルをしたのは大会の数日前。オオサカのどこかだ。(略)

 試合はとても難しかった。マエダは私を蹴ってもいいが、私が蹴ってはいけない。特に頭部はダメだと言われていた。公平じゃないね(笑)。

 (キャプチュードからの膝十字固めという)フィニッシュだけはマエダが決めたけど、あとは試合内容も時間もすべて即興だった。 

リングスでのガチ

[ヴォルク・ハンが一夜のうちにファンの心を鷲掴みにしてしまった]リングス有明コロシアム大会では、さらに重要なことが起こった。(略)[マッチメイカーの治郎丸明穂が木村浩一郎にリアルファイトを指示](略)

俺はザザ戦後に前田さんから40分お説教(笑)。マジで。まさか次郎丸さんに言われたと言えないから、そこは黙ってて。だって前田さんの怒りは尋常ではなかったから。(略)

リングス初のリアルファイトは、前田日明のあずかり知らぬところで行われたのだ。

[第2試合の角田vsレンティング、セミの佐竹vsナイマンもガチ。](略)

リングスがリアルファイトの格闘技団体に変更したわけではまったくない。一部にリアルファイトが含まれていただけだ。

 「リングスでは、選手によってアップダウン(勝敗)の数が決められていた」と証言するのは、リングスで短期間プランナー兼マッチメイカーをつとめた若林太郎である。

 「たとえばヘルマン・レンティングなら、2回アップ(勝ち)で2回ダウン(負け)の勝率5割。でもクリス・ドールマンだと5勝1敗ペースという約束になっていた。オランダの選手が『今回はどうせ負けだからな』と、成田空港に着いた段階で相当不機嫌だったこともありましたね(笑)。僕は勝ち負けについては知らないことになっていたけど、カードを組むためにはその公式を知っておかないとどうにもならなかったんです」

(略)

 「佐竹と角田は、真剣勝負もプロレスも両方やっていました。だからリングスは面白かったんです」と、正道会館の総帥・石井和義は語る。(略)

 前田さんとは、ふたりきりでクルマに乗っている時に一度話をしました。

 『前田さん、リングスで真剣勝負をやったらどうですか? 8試合あるんやったら、1試合から7試合まで真剣勝負をやって、前田さんの試合だけプロレスをやればいい。みんなが求めているのはそれですよ』って。

 でも、前田さんは『うーん、田中正悟先生が反対するんだよね』と、空手の師匠の名前を出して返事をしませんでした」

(略)

[平直行は刃牙のモデルとして人気が出て]リングスにも上がるようになった。

 「僕がリングスでやった試合は全部ガチです。前田さんには感謝しかない。外部は八百長だの何だのと言うけど、前田さんがプロレスで集客してくれたからこそ、僕たちは大勢のお客さんの前で格闘技の試合ができた。

 前田さんは格闘技が大好き。でも膝が悪くてガチはもう無理だった。だから、いずれ立場がなくなっちゃうだろうな、と。これからは全部こっち(リアルファイト)に変わるからです。リングスの若手にもガチをやるヤツとやらないヤツがいましたけど、やらないと残れないのにな、と内心思ってました」

(略)

 結末の決まったプロレスを行いつつ、リアルファイトの格闘技を標榜することが可能だったUWFの幸福な時代は、終焉を迎えようとしていた。

佐山の限界を見た中井祐樹

 中井祐樹は突如として出現したグレイシー柔術とUFCに大きな関心を抱いた。

 「(略)僕たちがやっていたシューティングでは、[グレイシーのように]自分に有利なポジションをキープし続けることは許されなかった。(略)プロフェッショナルである僕たちは、お客さんを沸かせるスペクタクルな勝ち方をしないといけなかった。落とす(相手を失神させる)とか腕や足を折るとかしないと、お客さんは喜んでくれないと、ずっと思っていました。

 顔面パンチ禁止、膠着が少し続けばブレークというルールがあるので、せっかく自分が有利なポジションをとっても、無理をしてサブミッションに行かないといけない。そうしなければ一本はとれないし、レフェリーにはブレークを命じられるし、お客さんも怒り出すからです。

 結局のところ、シューティングは、新日本プロレスに由来するクラシカルなサブミッション・レスリングの域を出ていなかったと思います」

(略)

[佐山が開催した「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン94」でシューティング代表の二人は一方的に殴られて惨敗]

 「シューティングの公式戦では、パウンドは反則だった。パウンドの有無によって寝技の技術体系がまったく変わってしまうことに、当時は佐山先生も僕たちも気づいていなかったんです」

(略)

 「パウンドを導入することによって、非日常のバイオレンス感を出すことができる。お客さんも寝技の攻防を見て興奮できるようになる、ということです。僕らが関節技の取り合いをやっていた時『休んでるんじゃねえぞ』とヤジを飛ばされたことがあった。こんな状況を変えるには、バーリ・トゥードは追い風だった。排除している場合じゃなかったんです」

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