1984年のUWF・その2 柳澤健

前回の続き。

1984年のUWF

1984年のUWF

 

新日を追放された前田。プロレスファンのマザーエンタープライズ福田社長から興行のノウハウを教えると言われた神新ニは旗揚げを決意。協力を要請されたターザンは「チケットを1枚下さい」と一言、そしてそれを配置し「わずか15分で完売」のキャッチコピーというインパクトのある天才的表紙に。だが、これに

長州が激怒。

「山本、お前はどうしてUWFを応援するんだ?お前だってわかっているんだろう?UWFはこっちなのかあっちなのか、言ってみろ(略)
UWFはプロレスなのか格闘技なのか言ってみろ、と長州に問いつめられた僕は、こっちです、と言った。UWFはプロレスです、と。
 そうだろう、UWFはプロレス以外のものではないのに、どうして真剣勝負の格闘技のように見せかけているんだ、と長州は僕に文句言った。(略)(ターザン山本
(略)
 「ファンは青春についていくもの。若者たちが巨大な組織に立ち向かう姿を見たいんです。新しいことをやろうと、古株とか組織とか体制に反抗する。UWFは青春の表現の一形態。前田日明こそがそのシンボルだった」
 「答えはファンが持っている。山本さんはいつもそう言っていました」
 と証言するのは[鈴木健](略)
 「主体はファンにある。団体でもレスラーでも、もちろんマスコミでもない。プロレスで起こるあらゆる出来事の是非を判断するのはファンであって、提供する俺たちではない。どんなにすごい記事を書いても、ファンに受け容れられなければ、正しいことにはならない。俺たちはファンの欲望、あるいは希望に沿ってプロレス雑誌を作るべきだ。このことは、山本さんから何度も教えられたことです。

[当時、太宰や論語を語る前田は文化人的にもてはやされたわけで(ターザンも含む)、典型的プロレスラーと片付けるのはどうなのだろう。ハイプして儲けた自分の罪を誤魔化そうとしているのじゃないかターザン:引用者の感想]

シューティング・ルール

新生UWFは、佐山が作ったシューティング・ルールをほぼそのまま採用した。
 ユニバーサル末期の前田は、試合数を減らすべきだと主張した佐山を厳しく批判していた。(略)
[しかし、新生UWFの試合間隔はさらに長くなり、佐山考案のシューティング・レガースとシューズを使用]
「佐山の思想を前田がパクリ、簒奪したということ」と、作家の亀和田武は断言する。(略)
新生UWFはハードカバーのルールブックを作って売り、ファンは争って買った。借り物の思想をきれいにパッケージして大儲けする。
(略)
「新生UWFのレスターたちに思想などなかった」
と語るのはターザン山本である。
「前田たちは典型的なプロレスラー。金と女とクルマにしか興味のない人間。UWFとは何か、UWFがどうあるべきか、UWFはどうあらねばならないか。そんなことを真剣に考えている人間は、新生UWFにはひとりもいなかった。新生UWFは、神社長が主導する芸能プロダクションのようなもの。前田以下のレスラーたちは、神社長が作ったプランに乗っかり、佐山が作ったルールやレガースやシューズを借りてきただけ。
 ところが、ファンはUWFの思想を全面的に100%信じて、経済的基盤のない新生UWFを自分たちが支えようとした。UWFという幻想、空想がひとり歩きしていたんです。

格闘技通信

 前田日明がプロレスラーである以上、「俺たちUWFは本物で、新日本プロレスその他はインチキ」と広言するわけにはいかない。そう書けば、新日本プロレス全日本プロレスのレスラーから嘘つき呼ばわりされることは、火を見るよりも明らかだからだ。
 しかし、その一方で、この手記が読者を一定の方向に誘導していることは間違いない。
 「誰もが納得して見てくれる」「偽りのない本物のプロレス」「総合格闘技」。これらの言葉を文章にちりばめることによって、「UWFは真剣勝負をやっている」という印象を読者に与えようとしているのだ。
 さらに、この手記が『格闘技通信』に掲載されたことは極めて重要だ。
(略)
[UWFを格闘技の範疇に入れたい前田とUWF人気を利用して雑誌の売り上げを伸ばしたい]
 両者の思惑は一致し、『格闘技通信』の誌面では「UWFは真剣勝負の格闘技」として扱われることになった。
 杉山は『週刊プロレス』の創刊編集長であり、当然、UWFのすべてを知る立場にある。UWFが結末の決まったショーであることを知りながら、格闘技であるという虚偽を格闘技雑誌で報道し、読者を欺いたことの責任は重い。

ジェラルド・ゴルドー

 最初のうちはリアルファイトという話だった。ところが、日本に向かう機中でヨハン・ボスが『お前は負けなくてはならない』と言い出した。『冗談じゃない。俺はマエダを殺すよ』と私は断った。日本に着いてからも、何度もボスから説得されたが、私にも名誉がある。『戦って負けるのは仕方がないが、最初から負けが決まっている試合はイヤだ』と突っぱねた。
 しかし、ボスは執拗だった。
 『日本との関係を深めるためだ。お前には相当な額の報酬が支払われる。仕事として負けるだけじゃないか。本物の試合じゃない』と説得されて、最終的に私は結末の決まった試合を受け容れた。ビジネスさ。
 前田と一緒に試合のリハーサルをやったのは、確か試合の前々日だったと思う。場所はマエダの道場だ。
 試合の結末は私が考えた。私の右のハイキックをマエダがキャッチして、サブミッションを極めるんだ。
 プロレスラーにフィニッシュを決めさせると、散々投げられて、まるで私がガキみたいに見える。ゴロゴロと転がされるような試合なんて、恥ずかしくてできない。だから私が決めた。私とマエダの両方が強く見えることが大切だと思ったから、私がミスを犯して負けた、という形をとった。
 コロシアムのリングに上がったマエダが、右目を負傷していたのを覚えているかい? あの傷は、私がリハーサルの時につけてやったんだ。本当に強いのはどちらかをわかってもらおうと、ちょっとマエダにレッスンしてやったのさ(笑)。
 『本番の試合中に、もしお前が寝技でヘンなことをやってきたら、俺はいつでも今と同じようにキックを入れてやるからな』
 私はマエダにそう念を押した」
(略)
 たとえば極真空手であれば、自分が攻撃すれば相手はこう返してくる、と予想がつく。ところがマエダは、リアルなスピードを持つ本物の打撃を知らない。だから、リハーサルでも本番でも、私のすべての攻撃が当たってしまう。これには困ったよ(笑)。マエダのディフェンスには一切期待できない。だからKOしたくなければ、自分がキックやパンチをストップする以外ない。空手では相手にしっかりと当ててから引くけれど、この試合では当てる前から引かないといけない。そんな経験は初めてで、とても難しかった。
 あの試合で決まっていたのはフィニッシュだけで、試合時間は決まっていなかったから、やっているファイターにも緊張感があった。
 プロレスは難しいから私も敬意を表するが、マエダには言いたいことがある。
 『俺はゴルドーをやっつけた。俺はゴルドーよりも強い』とマエダが言うのはおかしいじゃないか。ビジネスでやったフィックスト・マッチだった、と正直に言うべきだ。
 プロレスラーの中には、メンタルがついていかなくて、マンガみたいな状態で生きているヤツがたくさんいる。結末の決められた試合をしているくせに、自分はリアルで強いとマジで考えているんだ。UWFのレスラーたちも大いに勘違いしている。彼らは自分が強くないことを知らない。そこが彼らの問題なのさ。

クリス・ドールマン

 2試合契約。リアルファイトということだったが、契約後まもなくヤン・プラスから電話が入り、『お前が負けを受け容れない限り、試合はできない』と言われたんだ。
 リアルファイトを望んでいた私は不服だったが、仕方なくフィックスト・マッチを受け容れた。
 私はもう44歳になっていたし、UWFは良いギャランティを提示してくれた。ファイトではなく、ゲームをやったのさ。
 マエダとリハーサルをしたのは大会の数日前。オオサカのどこかだ。(略)
 試合はとても難しかった。マエダは私を蹴ってもいいが、私が蹴ってはいけない。特に頭部はダメだと言われていた。公平じゃないね(笑)。
 (キャプチュードからの膝十字固めという)フィニッシュだけはマエダが決めたけど、あとは試合内容も時間もすべて即興だった。 

リングスでのガチ

[ヴォルク・ハンが一夜のうちにファンの心を鷲掴みにしてしまった]リングス有明コロシアム大会では、さらに重要なことが起こった。(略)[マッチメイカーの治郎丸明穂が木村浩一郎にリアルファイトを指示](略)
俺はザザ戦後に前田さんから40分お説教(笑)。マジで。まさか次郎丸さんに言われたと言えないから、そこは黙ってて。だって前田さんの怒りは尋常ではなかったから。(略)
リングス初のリアルファイトは、前田日明のあずかり知らぬところで行われたのだ。
[第2試合の角田vsレンティング、セミの佐竹vsナイマンもガチ。](略)
リングスがリアルファイトの格闘技団体に変更したわけではまったくない。一部にリアルファイトが含まれていただけだ。
 「リングスでは、選手によってアップダウン(勝敗)の数が決められていた」と証言するのは、リングスで短期間プランナー兼マッチメイカーをつとめた若林太郎である。
 「たとえばヘルマン・レンティングなら、2回アップ(勝ち)で2回ダウン(負け)の勝率5割。でもクリス・ドールマンだと5勝1敗ペースという約束になっていた。オランダの選手が『今回はどうせ負けだからな』と、成田空港に着いた段階で相当不機嫌だったこともありましたね(笑)。僕は勝ち負けについては知らないことになっていたけど、カードを組むためにはその公式を知っておかないとどうにもならなかったんです」
(略)
 「佐竹と角田は、真剣勝負もプロレスも両方やっていました。だからリングスは面白かったんです」と、正道会館の総帥・石井和義は語る。(略)
 前田さんとは、ふたりきりでクルマに乗っている時に一度話をしました。
 『前田さん、リングスで真剣勝負をやったらどうですか? 8試合あるんやったら、1試合から7試合まで真剣勝負をやって、前田さんの試合だけプロレスをやればいい。みんなが求めているのはそれですよ』って。
 でも、前田さんは『うーん、田中正悟先生が反対するんだよね』と、空手の師匠の名前を出して返事をしませんでした」
(略)
[平直行刃牙のモデルとして人気が出て]リングスにも上がるようになった。
 「僕がリングスでやった試合は全部ガチです。前田さんには感謝しかない。外部は八百長だの何だのと言うけど、前田さんがプロレスで集客してくれたからこそ、僕たちは大勢のお客さんの前で格闘技の試合ができた。
 前田さんは格闘技が大好き。でも膝が悪くてガチはもう無理だった。だから、いずれ立場がなくなっちゃうだろうな、と。これからは全部こっち(リアルファイト)に変わるからです。リングスの若手にもガチをやるヤツとやらないヤツがいましたけど、やらないと残れないのにな、と内心思ってました」
(略)
 結末の決まったプロレスを行いつつ、リアルファイトの格闘技を標榜することが可能だったUWFの幸福な時代は、終焉を迎えようとしていた。

佐山の限界を見た中井祐樹

 中井祐樹は突如として出現したグレイシー柔術とUFCに大きな関心を抱いた。
 「(略)僕たちがやっていたシューティングでは、[グレイシーのように]自分に有利なポジションをキープし続けることは許されなかった。(略)プロフェッショナルである僕たちは、お客さんを沸かせるスペクタクルな勝ち方をしないといけなかった。落とす(相手を失神させる)とか腕や足を折るとかしないと、お客さんは喜んでくれないと、ずっと思っていました。
 顔面パンチ禁止、膠着が少し続けばブレークというルールがあるので、せっかく自分が有利なポジションをとっても、無理をしてサブミッションに行かないといけない。そうしなければ一本はとれないし、レフェリーにはブレークを命じられるし、お客さんも怒り出すからです。
 結局のところ、シューティングは、新日本プロレスに由来するクラシカルなサブミッション・レスリングの域を出ていなかったと思います」
(略)
[佐山が開催した「バーリ・トゥード・ジャパン・オープン94」でシューティング代表の二人は一方的に殴られて惨敗]
 「シューティングの公式戦では、パウンドは反則だった。パウンドの有無によって寝技の技術体系がまったく変わってしまうことに、当時は佐山先生も僕たちも気づいていなかったんです」
(略)
 「パウンドを導入することによって、非日常のバイオレンス感を出すことができる。お客さんも寝技の攻防を見て興奮できるようになる、ということです。僕らが関節技の取り合いをやっていた時『休んでるんじゃねえぞ』とヤジを飛ばされたことがあった。こんな状況を変えるには、バーリ・トゥードは追い風だった。排除している場合じゃなかったんです」

[関連記事]
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com
kingfish.hatenablog.com