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2017-04-29 夢遊病者たち 2 その2 最後通牒 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


夢遊病者たち 2――第一次世界大戦はいかにして始まったか

作者: クリストファー・クラーク, 小原淳

メーカー/出版社: みすず書房

発売日: 2017/01/26

|本| Amazon.co.jp

ドイツ

 ドイツの指導部は、オーストリアのセルビア攻撃がロシアの干渉をもたらし、同盟国への支援をドイツに余儀なくさせ、そして露仏同盟との戦争、つまりは大陸規模での戦争を引き起こすというリスクをどう評価していたのであろうか。幾人かの歴史家は、ヴィルヘルムとベートマン、そして彼らの軍事面での助言者たちは(略)

軍事的攻撃力のバランスが急激に三国同盟の側に不利に傾いており、ドイツにとって時は尽きつつあるという理由で、再三にわたり予防戦争を主張してきた。ここで戦争をすればまだ勝てるだろう。さもなくば、向こう五年間のうちに軍事力の差が拡大して、協商国の有利が揺るがし難いものになるだろう、と。(略)

[しかし]主要な政策決定者たちがロシアの干渉の可能性を信じておらず、ロシアを挑発したいと願ってもいなかった点が銘記されるべきである。(略)

[ヴィルヘルムが]七月後半になっても軍備を整えるのに乗り気でなかったことは、ドイツの危機への対応を特徴づけていた。これは(略)紛争をバルカンに封じ込めたいというドイツの指導部の願望を反映したものでもあった。(略)

 とりわけカイザーは、紛争を局地化できるという自信を抱き続けていた。(略)フォン・カペレ総督に、「ツァーリは今回は大逆者に肩入れしないだろうし、ロシアとフランスは戦争の準備が整っていないだろう」から、「軍事的な紛糾の種がさらに蒔かれるとは信じていない」と語った。(略)カイザーはかねてから、ロシアの軍備は進行しているが、あえて攻撃に踏み出そうとするまでには一定の時間がかかるだろうという意見であった。アルバニア危機の直後の一九一三年十月末、彼はセジェーニ大使に、「さしあたりロシアが懸念材料となることはない。これがら六年、この方面から恐れを感じる必要は一切ない」と語っていた。

(略)

オーストリア=ハンガリー政府がドイツ軍の力を甚だしく信頼しており、ドイツ軍は、まずはロシアに行動を思いとどまらせ、それに失敗したらロシアを倒すだけの力を持っていると信じていた

最後通牒

 ヴィーンの最後通牒が、セルビアはおそらくこれを甘受しないだろうという想定に基づいて作成されたものであったことは確かである。

(略)

パシッチはただ、ロシアが見解を明らかにするまではいかなる決定もすべきではないと決定しただけであった。(略)

摂政のアレクサンダルはツァーリに電報を送り、セルビアは「自らを守れない」こと、そしてベオグラード政府には「陛下[すなわちロシア皇帝]が受け入れるよう御助言なさるのであれば」、最後通牒のいかなる項目をも受け入れる用意があることを明言した。イタリアの歴史家ルチャーノ・マグリーニは(略)べオグラード政府は実際には最後通牒を受け入れ、戦争を避けようと決心したのだと結論づけている。「当時知られていた状態からして、セルビアは恐るべき脅迫に屈する他ないと考えられていた」。

(略)

 セルビアの背筋を叩き直してくれたのは、ロシアからの再保障であったのかもしれない。

(略)

スパライコヴィチは、ロシア外相が「オーストリア=ハンガリーの最後通牒をうんざりしながら非難し」、いかなる国家にとってもこのような要求を受け入れるのは「自殺行為を犯す」ようなものだと断言したと報告している。サゾーノフはスパライコヴィチに、セルビアは「ロシアの支援を非公式にあてにして」よいと保証した。しかし彼は、この支援がどのようなかたちをとるのかははっきりさせなかった。なんとなれば、これは「ツァーリが決定し、フランスと協議する」問題だからであった。その間、セルビアは不要な排発を避けるべきである。もし攻撃を受け、自衛できない時は、まず軍隊を国内の南東部へ後退させるべきである。その目的はオーストリアの占領を受け入れることにではなく、むしろセルビア軍をその後の配置に備えて維持することにあった。

(略)

セルビア大使館付武官はスパライコヴィチに、軍事評議会が「最大限の戦争準備」を行う姿勢を示し、「セルビアを守るために万策を講じる」と決議したと語った。とくにツァーリの決意の固さは皆を驚かせた。

(略)

七月二六日と二七日、ロシアが一七〇万の軍隊を動員しており、「オーストリア=ハンガリーがセルビアに襲いかかったら、直ちに強力な攻撃を開始する」計画だという知らせを告げる、歓喜の電報がスパライコヴィチから届いた。ツァーリはセルビアが「獅子のごとく戦い」、自国内の要塞から自力でオーストリアを叩きのめすであろうと確信している(略)

ドイツが争いに参加しなくても「オーストリア=ハンガリーの分割」を実現するチャンスが十分にあるとツァーリは信じていた。雲行きが怪しくなったらロシアは、「ドイツに対しても勝利を確実にすべく、フランスの軍事計画を実行する」だろう、と。

 セルビア外務省の元総務課長であったスパライコビッチは興奮し、政策の提言を始めている。「私見では、我々には、この出来事を賢明に利用してセルビア人の完全なる統一を達成する絶好の機会が与えられています。ゆえに、オーストリア=ハンガリーが我々を攻撃してくるのが望ましいのです。その時には、神の御名の下に前進!」(略)

パシッチは、セルビア人の統一は平時には達成されず、大戦争の炎のなかでこそ、そして強国の助けがあってこそ、それは鍛造されるのだと長らく信じてきた。(略)戦争への道はもう視界にあった。セルビアにしてみれば後戻りはありえなかったであろう。

(略)

[ついに皇帝フランツ・ヨーゼフは宣戦布告書の署名。その報せは]

当時58歳のジークムント・フロイトを熱狂させた。「この30年間で初めて、私はオーストリア人であると自覚し、このあまり望みのない帝国に今一度チャンスが与えられたかのように感じている。私のリビドーのすべてがオーストリア=ハンガリーに捧げられる」

小康状態

 確かに、平和的な結果に終わるのではないかというサゾーノフの考えが一時的に復活したように見えた瞬間もあった。既に確認したように、自分たちの戦争準備が現実味を帯びたことが、ベオグラードに土壇場での譲歩を促すだろうという期持をかけて、七月二五日に最後通牒をセルビアが受け取った後、オーストリアは小休止状態にあった。サゾーノフはこれを、ヴィーンが退却を模索しており、交渉による解決を申し出ようとしているサインだと読み違えた。「最後の最後まで、交渉の用意があること示すつもりです」と、彼はフランス大使に七月二六日に語った。(略)

いずれにせよ、最後通牒を提示した後のオーストリアの小康状態は、自分たちの方針の正しさに対する疑念にではなく、ベオグラードは最後には譲歩するだろうという期持に基づくものだったのである。ロシアの動員準備の知らせは当然ながら、こうした期持のよりどころを奪った。列車に乗るコサック兵の壮観に誰よりも興奮したのは、彼らの姿にセルビアの統一と自由のための最後の戦いの兆しを見出したミロスラフ・スパライコヴィチであった。(略)

サゾーノフはベオグラードに、イギリスの調停の申し出を受け入れないよう、はっきとした口調で助言していた。

(略)

ロシアとフランス、イギリスの世論を考えると、ロシアではなくオーストリアが攻撃者と見なされることも肝要であった。「我々はオーストリアが全面的に非のある立場に立つようにしなければなりません」と、サゾーノフはパレオログに七月二四日に語っている。

(略)

「戦争は既に決定事項となったのであって、ロシア政府とドイツ政府の間の電報の洪水はすべて、歴史的ドラマの舞台を整えるためのもの以外のなにものでもなかったのだ」[とドブロロリスキー将軍](略)

[それでもなおロシアとフランスは]平和政策について語り続けていた。

イギリスの介入はあるのか

[八月一日ベルリンが総動員令を発した数分後にロンドンから「フランスを攻撃しなければ、イギリスは中立を維持し、フランスの中立を保証する」というイギリス外相グレイとのやり取りが届く。動員をやめたい皇帝と参謀総長モルトケが激論]

「モルトケはとても興奮し、唇を震わせながら自らの立場を主張した。カイザーと宰相をはじめとする人たちは彼に嘆願したが、どうにもならなかった」。ドイツが動員中のフランスに背中を晒すのは自殺行為に等しい、とモルトケは論じた。(略)モルトケが、ドイツによる鉄道路線の支配が危うくなるという理由から、ルクセンブルク占領を邪魔しないようにと哀願すると、ヴィルヘルムはこう返答した。「別の路線を使えばいい!」。議論は膠着状態に達した。そのなかで、モルトケはほとんどヒステリー状態に陥った。エーリヒ・フォン・ファルケンハイン陸相との私的な会話で参謀総長は、「自分は完全なる敗者だ、カイザーによるこの決定は彼がまだ平和を望んでいることをはっきりさせたのだから」と、涙ながらに打ち明けた。

(略)

 それから間もなく、新たな電報がリヒノフスキから届いた。この間に、心待ちにしていた午後三時半からのグレイとの面会が行われたが、ドイツ大使を驚かせたことに、グレイはイギリス、あるいはフランスの中立を提案しなかっただけでなく、他の閣僚にこの問題をもちださなかったようであった。

(略)

 しかしながらその間に、フランスの中立というイギリス政府の提案を温かく受け入れたカイザーからの国王ジョージ五世への電報が到着し、ロンドンに仰天をもたらした。おそらくは、その日にグレイの言動が二転三転した理由は誰にも分かっておらず

(略)

[午前零時宮廷に戻ったモルトケにロンドンからの電報を見せながら皇帝は言った]

「ついに貴公はお望みのことをできるぞ」

(略)

[グレイは駐英フランス大使カンボンに、そちらは同盟により揉め事に巻き込まれるが、こちらには行動の自由があると語った]

「もしイギリス政府が今日にでもこの件全体に足を突っ込めば、平和は守られるでしょう」と[カンボンはジャーナリスト[に語った](略)

グレイとの会合で、彼は同様の議論をもちだした。「イギリスがはっきりとヨーロッパの戦争を傍観するとひとたび考えられるようになったら、平和維持の機会は極めて危うくなるでしょう」。ここには再び、平和か戦争かを決定する責任を他人に押しつけるという、あの反射の歪みが姿を現している。

(略)

カンボンにしてみれば、フランスは「ロシアが攻撃を受けた場合、助けるよう義務づけ」られているのだとグレイに泣きつくよりなかったが、さしあたり、オーストリアかドイツがロシアを攻撃しようとしている証拠はなかった。イギリスに介入の意思があるという宣言が中欧両大国に、イギリスに諮らずにやりだした政策を思いとどまらせる効果があるとはあまり思えなかった。

 この苦境の根本をなしていたのは、英仏協商の歴史に深く根差した視点の食い違いであった。カンボンはいつも期持まじりに、イギリスはフランスと同様に協商を、ドイツとの均衡を保ちドイツを抑制するための手段と見ていると推測していた。イギリスの政策決定者たちにとって協商はより複雑な目的を追求するためのものであったということを、彼は見落としていたのであった。協商は何より、大英帝国のばらばらの領土に害をなすのに最適の場所を占める国家、すなわちロシアによる脅威を逸らすための手段であった。

ドイツの失態

 八月一日にドイツの軍事動員の瞬間が迫った時、ベルリンの政策立案者たちはさらに二つのひどい失態を演じた。西部での配備計画の実行には、迅速かつ即時のベルギー侵攻が必要であった。(略)

[だがもしドイツが待てば、グレイの敵対者は、ドイツではなくロシアとフランスが事を先に進めていると指摘し]

イギリスの介入主義者たちは、最も効果的な論拠の一つを奪われることになったであろう。(略)

ティルピッツ提督は後に、腹立たしげに疑問を呈示している。「なぜ我々は待たなかったのか」、と。

 八月二日のベルギー政府への最後通牒の提出は、もう一つの破滅的な過ちであった。(略)

何もせずにベルギー領に侵入して横断し、責任者が自らの行為を詫び、後から賠償によって既成事実として処理した方がましだったであろう。これこそが、イギリス政府がドイツに対して予想していたことであった。(略)

戦略的要地に立ち入らなければ、イギリスはドイツ軍のベルギー通過を開戦事由と必ずしも見なさないという見解を、繰り返し表明していた。

 他方でドイツの文民の指導者たちは、最後通牒を、ブリュッセルとの何らかの取引を引き出し、それゆえイギリスを戦争の外にとどめることを可能にする唯一の方法だと思っていたため、これに代わる案はないと考えていた。

(略)

[しかしベルギーに]通牒を届けた瞬間から、すべてがドイツにとってひどく悪い方向へと進み始めた。モルトケがただベルギー南部を突き進んでいれば、軍事的な便宜上からの逸脱行為で済ませられたかもしれない。

(略)

報道の嵐がベルギーと協商国を襲い、至るところで憤激を巻き起こした。べルギーでは愛国的感情が爆発した。

(略)

 ドイツ人の多くが、徹底的に抗戦するというベルギーの決定に衝撃を受けた。(略)ベルギー駐在ドイツ大使館の外交官の一人は嘆息した。「おお、哀れな愚か者よ!なぜスチームローラーに道を譲らないんだ。彼らを痛めつける気はないが、我々の進む道からどかなければぺちゃんこになって地面に埋まってしまうだろう。おお、哀れな愚か者よ!」。

総括

オーストリアでは、青二才の無法者と国王殺しの国民が辛抱強い年長の隣人を際限なく挑発し刺激しているという物語が、ベオグラードとの関係をどのように維持していくのかについて冷静な評価を下す際の妨げとなった。その裏返しにセルビアでは、貪欲な全能のハプスブルク帝国に虐げられ抑圧されているという妄想が同じ役割を果たした。ドイツでは、将来の侵略と分割という暗い構想が一九一四年夏の意思決定に取り憑いていた。中欧両大国から繰り返し聡辱を受けてきたというロシアの物語には同様のインパクトがあり、過去を歪めると同時に現在を明確にした。なにより重要なのは、オーストリア=ハンガリーの没落は歴史的な必然なのだという、広く伝播した語りである。

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『夢遊病者たち 1――第一次世界大戦はいかにして始まったか』のつづき。第二巻。


夢遊病者たち 2――第一次世界大戦はいかにして始まったか

作者: クリストファー・クラーク, 小原淳

メーカー/出版社: みすず書房

発売日: 2017/01/26

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イタリアのリビア侵攻

 こんにちではほとんど忘れ去られているイタリア=トルコ戦争は、ヨーロッパの国際体制を著しく撹乱した。イタリアの進駐に対するリビアの闘争は、現代的なアラブ民族主義が出現するうえでの、初期の決定的な触媒となった。イタリアがこの大それた、不当な略奪行為をはたらくのを後押ししたのは協商国であり、これに対して、三国同盟をなしていたイタリアの同盟国は不承不承に黙認したに過ぎなかった。この布陣は何やら示唆的である。列強の干渉は三国同盟の脆弱さ、そして言うまでもなくその支離滅裂さを露見させた。(略)

 しかしこの時点では、後にイタリアが協商国へと鞍替えすることをはっきりと窺わせるものはなかった。(略)

リビア侵攻に乗り出した際、イタリアはヨーロッパの大部分から、多かれ少なかれ嫌々ながらではあったが支持された。このこと自体が注目すべき情勢であった。なぜなら、親オスマン的なヨーロッパ諸国の連合が全面的に崩壊したことが露呈されたからである。一八五〇年代には、ロシアによるオスマン帝国の略奪を牽制するために、各国の協調関係が作り出された――その結果がクリミア戦争である。この寄り集まりはかたちを変えて、露土戦争後の一八七八年のベルリン会議で再建され、一八八〇年代半ばのブルガリア危機の間に再結成された。しかし、今やこうした協調関係はどこにも存在していなかった。イタリアとの戦争の初期の段階で、オスマン帝国はイギリスとの同盟を求めたが、イタリアとの関係悪化を恐れたロンドンはこれに応じなかった。その後に続いた二度のバルカン戦争は、協調関係を修復の余地がないほどに破壊した。

 極めて重大の変化が生じつつあった。イギリスはオスマン帝国の統一を持続させることでロシアを黒海に閉じ込めようという、一世紀にわたる取り組みから次第に身を引いていった。

(略)

トルコ両海峡の守護者がイギリスからドイツへと徐々に変わっていったことには、極めて重要な意味があった。なぜなら、この変化はヨーロッパの二つの同盟ブロックへの分裂と表裏一体のものとして起こったからである。かつてはヨーロッパに協調関係を生み出すのに一役買っていたトルコ両海峡問題は今や、二極体制の反目にこれまで以上に深く巻き込まれることとなった。

焦るオーストリア

 オーストリア=ハンガリーにしてみると、二度のバルカン戦争はすべてを変えた。何より、二度の戦争はヴィーンがどれほど孤立しているか、そしてバルカンの諸事件についてのヴィーンの見解が、各国の外交機関からいかにわずかな理解しか得られていないのかを白日の下に晒した。サンクトペテルブルクがオーストリア=ハンガリー帝国に敵愾心を抱き、バルカン地域におけるヴィーンの利益を完全に無視しているのは言うまでもなかった。それよりも気ががりだったのは、他の国々の冷淡さであった。オーストリアが国の南方で根底から安全を脅かされたこと、そしてこの脅威に対して対抗措置をとる権利がオーストリアにあることを国際社会が認めたがらなかったのは、大きな態度の変化を反映していた。西欧列強は伝統的にオーストリアを中欧と東欧における安定の支柱と見なし、ゆえにいかかる犠牲を払っても保持されねばならない国家と見なしてきた。(略)

[1907年以降急速に浸透した同盟ブロックによりその重要性は減少し、オスマン帝国に続く]

「ヨーロッパの第二の重病人」とする見方が広まったことで、この傾向は強まった。

 とりわけ不安を抱かせたのは、ドイツの支援が本質的に不熱心だったことであった。

緊張緩和と危機

 「外務省に入省して以来」と、一九一四年五月初頭にアーサー・ニコルソンは書いている、「こんな静穏にはお目にかかったことがない」。ニコルソンの述懐からは、第一次世界大戦前の二年間の最も奇妙な特徴の一つに気づかされる。すなわち、軍拡に弾みがつき、文武双方の指導者たちがますます軍国主義にのめり込んでいった当特にあってなお、ヨーロッパの国際体制は全体として、驚くべき危機管理とデタントの能力を誇っていたのである。これは、開戦前の一年半の間、大戦争の可能性が減じつつあったことを意味しているのであろうか。それとも、デタントの兆しは、同盟ブロック同士の構造的な対立の深まりという現実を覆う隠れ蓑に過ぎなかったのであろうか。

各国の思惑

[サゾーノフからパシッチへ伝えられた手紙の中で]

セルビアの約束の地はこんにちのオーストリア=ハンガリー領に横たわっているのであり、最近貴国が追い求めているような、ブルガリアが道をふさいでる方向にはありません。

(略)

避け難きオーストリアの衰退についてのこうした語り口は、協商国の政治家たちの論理の中で繰り返し出会うもので(略)

セルビアは二重君主国という時代遅れな機構を一掃すべくあらかじめ運命づけられた、近代性の先駆者として姿を現した。

(略)

[三年兵役制による増強でも]フランス軍は、指揮官たちがドイツの脅威に単独で立ち向かうのに必要だと信じる兵員数には達しなかった。(略)ベルギーを通過して急襲をかけることで、厳重に要塞化されたアルザス=ロレーヌ地域を迂回可能になる[がベルギーの中立侵犯は西部戦線のイギリス派遣部隊の支援を失う。だが来るべき戦時にイギリスが腰を上げるかは定かではない]

(略)

ベルギー大使が一九一三年春に記したところでは、イギリスとの友好関係が「強固さや有効さ」を減じるにつれて、フランスの戦略家はロシアとの同盟の紐帯を「強める」必要をますます感じるようになった。(略)

それは事実上、ロシアの手中に主導権を引き渡すという、譲歩を意味するものであった。フランスにはこの危険を引き受けるつもりがあった。なぜなら、彼らが何より危惧していたのは、ロシアが危険なほどの速さで行動することではなく、むしろまったく動こうとしないことであり(略)「第一の敵」たるドイツよりもオーストリアを打ち負かすのに精力を注ぐようになることだったからである。

(略)

イギリスの政策決定者たちは(略)然るべく引き金が引かれればバルカンでの揉め事がヨーロッパ規模での戦争に転換されるようなメカニズムが作り出されてしまったことを十分明確に認識していた。そして彼らはこの可能性を(略)両義的に捉えていた。

(略)

 大戦勃発前の数年間、二つの問題がドイツの戦略家や政策決定者たちの心中を支配していた。第一は先に論じたように、もしも戦争が起こるのだとしたら、ドイツはどれだけの間、敵を撃退するのに十分な相対的強さを保持し続けると期持できるかという問題であった。第二の問題は、ロンアの意図に関係していた。すなわち、ロシアの指導部はドイツに対する予防戦争を積極的に準備しているのかという問題である。この二つの問題は組み合わさっていた。それと言うのも、ロシアは本当にドイツとの戦争を求めているという結論が出た場合、高くつく政治的譲歩によって今は戦争を避けようという議論はかなり根拠薄弱に思えたからである。もし戦争の回避ではなく延期こそが問題なのであれば、同じ筋書きが後ではるかに不利な状況で繰り返されるのを待つよりも、敵がふっかけてきた戦争を今のうちに受けて立った方が有効であった。サライェヴオでの暗殺事件に続く危機の間、こうした思考がドイツの政策決定者たちに重くのしかかった。

暗殺決行

周囲で歓声が上がると、彼は雷管に点火し爆弾を投げる準備をした。緊張の瞬間であった。爆弾の雷管が音を立てたら(略)後戻りはできず、爆弾を投じなければならなかったからである。メフメドパシッチは爆弾を何とか包みから出そうとしたが、土壇場になって誰か――おそらく警官――が後ろから駆け寄ってきたように思い、恐怖のあまり動けなくなった。この時の彼は、一九一四年一月に鉄道の車中でのオスカル・ポチョレック殺害計画を中断とした時とまったく同じであった。車は通り過ぎた。次の暗殺者[ネデリコ・チャブリノヴィチが](略)雷管を街灯柱に打ちつけた。雷管の鋭い爆発音を聞いて、大公の警護役であったハラハ伯はタイヤがパンクしたと思ったが、運転手は爆弾が車めがけて飛んでくるのを目にして、アクセルを踏んだ。大公自身が爆弾を見咎めて手で払い落とそうとしたのか、あるいは爆弾が座席後方に折り畳まれた屋根を跳ねただけだったのかは定かではない。ともかくも爆弾は狙いを逸れて地面に落下し、後続車の近くで爆発し、車内にいた数名の将校が負傷して、道路に穴があいた。

 この災難に、大公は驚くほどの平静さをもって応じた。

(略)

[チャブリノヴィチは青酸カリを飲み川へ身を投げたが、毒は質が悪く喉と胃袋を焼いたのみ、夏場の暑さで水位が下がった川で警察官たちに直ちに捕らえられた]

 大公は危険地帯を直ちに立ち去ろうとせず、負傷者への処置を見届け、市の中心部にある市庁舎への行列を続けてから、自分たち夫妻が病院に負傷者を見舞えるように[命じた](略)「さあ行こう」と彼は言った、「この者はどう見ても正気ではない。式次第を進行させようではないか」。

(略)

最年少のヴァソ・チュブリロヴィチは(略)夫の脇に座る大公妃の姿を思いもかけず目にして、戦意を失った。(略)「彼女が気の毒になったのです」。クヴジェトコ・ポポヴィチもまた、恐怖に駆られて手を出せなかった。(略)

 ガヴリロ・プリンツィプは最初、虚をつかれた。爆発音を聞いた彼は、計画が既に成功したのだと思い込んだ。彼はチャブリノヴィチの持ち場に走り寄ったが、そこで目撃したのはまさに、捕らわれたチャブリノヴィチが毒に喉を焼かれて苦しみに身をよじる姿であった。(略)[しくじった同志を射殺しようとした瞬間、大公の車列が通過]

車はスピードが出ており、確実に射撃できそうになかった。(略)夫妻がすぐに戻ってくることを理解した彼は[再度待ち伏せることに]

(略)

[大公は市庁舎に到着。「市民は衷心より、満腔の歓喜をもって奉迎つかまつる所存であります……」という市長の演説は大公の怒りで遮られた]

「私は貴君の客人としてここに来たが、貴君らは爆弾でもって奉迎つかまつったのだぞ!」。[妻のとりなしで大公は落ち着きを取り戻し](略)

「よろしい、続けてくれたまえ」。市長が何とか演説を最後まで行うと、再び沈黙が訪れた。フランツ・フェルディナント自身が用意していた数枚の答礼演説の原稿が、第三車両で負傷した将校の血に染まっていたのである。フランツ・フェルディナントは優美な演説を行い、機転を利かせて朝の事件に言及した。「民衆が私と妻を迎えてくれた声高らかな歓迎のことで、私は市長に心より感謝している。喝采に、暗殺の試みの失敗に対する歓喜の表現を見出したのだからなおさらだ」。

(略)

[予定をとりやめ駅に向かうよう勧められたが、大公は病院の副官を慰問することを希望]

 ガヴリロ・プリンツィプ、一世一代の瞬間であった。(略)車がほとんど止まっているくらいゆっくりと動いているのを視界に捉えた。腰に結ばれた爆弾を外せるだけの時間はなく、その代わりに彼はリボルバーを抜き(略)直射距離から二発の銃弾を放った。(略)時間がゆっくり流れているように思えた。大公妃の姿が彼を一瞬立ち止まらせた。「彼の横に座っている夫人を見て、ほんの少しの間、撃つべきかどうか悩みました。同時に妙な気分になりました……」。(略)

一発目の銃弾は車のドアを貫通して大公妃の腹部に命中し、胃の動脈を断った。二発目は大公の首に当たり、頸動脈を切り裂いた。(略)

 自動車が去った後方では、群衆がガヴリロ・プリンツィプを取り囲んだ。彼がリボルバーをこめかみに当て自らの命を絶とうとすると、銃はその手から奪い取られた。青酸カリの包みを飲み込むことも叶わなかった。彼は周囲の群衆に殴られ、蹴られ、杖で叩かれた。警察が留置場に引っ張っていかなければ、彼はその場でリンチされて殺されていたであろう。

 コナク宮殿に到着した時にはゾフィーは既に息絶えており(略)フランツ・フェルディナントは昏睡状態にあった。(略)近侍のモルザイ伯は、制服の前部を切って呼吸を楽にしてやろうとした。血が噴き出し、侍従の制服の黄色のカフスに染みをつけた。

死後

フランツ・フェルディナントは大衆受けしなかった。彼はカリスマ性に乏しく、怒りっぽく、癇癪持ちであった。小太りで鈍重な風采は、家族や親友たちと一緒の時にはどんなに彼の表情が生き生きとし、真っ青な目を輝かせるのかを知らない人たちには好かれなかった。(略)

彼は受けた仇を決して忘れない「憎み上手な人物」であった。彼の激怒は恐怖の的であり、大臣や高官たちが「心臓をどきどきさせずに彼を待っていることは滅多になかった」。真の友と呼べる相手はほとんどいなかった。他人と接する際には、不信が感情を支配していた。「初めて会った人間は誰でも下品な悪漢だと見なす」と、彼は一度語ったことがある。

(略)

暗殺の日に書かれた日記の中で劇作家のアルトゥア・シュニッツラーは、暗殺の「最初の衝撃」がいかに早く消え去り、大公の「ひどい不人気」の記憶によって掻き消されていったのかを記している。

(略)

 いずれにせよ、フランツ・フェルディナントの評判はその死に方ゆえに変化した。その過程は、とりわけ印刷メディアによって、信じられない速さで現実化された。(略)

新聞報道は、この事件にふさわしい圧倒的な感情を引き起こした。(略)

亡き大公の活力と政治に関する先見の明や、愛ある結婚生活の暴力的な結末、三人の遺児たちの悲嘆(略)老帝の諦念と意気阻喪を、詳細に書き連ねた。

 さらに、大公の私的な人柄や家庭生活が初めて世間の目に晒され(略)現実味のある感情を生み出した。

セルビアの反応

オーストリアにおいて特に強く注意が向けられたのは、犯行に対するセルビアの反応であった。ベオグラード政府は然るべき礼節を守ろうと努力したが、オーストリアの目には最初から、公的な弔詞の表現と、セルビア人の大半が感じそして表明したお祭り気分との間に大きな落差があることがはっきり見て取れた。

(略)

サライェヴォのニュースは「熱狂した民衆」に歓呼で迎えられ、「獣的としか書き表せない」狂喜乱舞が繰り広げられた。(略)通りやコーヒーハウスがハプスブルク家への一撃を慶するセルビア愛国者で埋め尽くされていた

(略)

 オーストリアの疑念は、セルビアの国粋主義的新聞の鳴りやまぬ罵声によってさらに強められた。(略)

殺害の責任はオーストリア自体にあると責め立て、ヴィーン政府はセルビアの関与という「嘘」が喧伝される状況を操っていると非難した。別の記事は暗殺者を、「立派な、誇るべき青年たち」と称賛していた。(沢山あった)この手の記事は定期的に翻訳されてオーストリア=ハンガリーの新聞に抄録され、大衆の復讐心を駆り立てるのに一役買った。とりわけ――一片の真実が含まれていたために――危険だったのは、ベオグラード政府は大公に対する陰謀についてヴィーンにあらかじめ正式に警告していたのだと主張する記事であった。(略)一方でオーストリアが怠慢であったことと、他方でセルビア政府が予め知っていたことを仄めかすという二つの傾向をもつこの主張は、一片の真実を有していた。

(略)

 さらに、もっと簡単に回避できたはずの過失もあった。(略)[駐ロ大使はロシア紙に]ボスニアにおける反ヴィーン扇動を正当化し、失地回復主義グループヘの関与を疑われていたセルビア臣民に対するオーストリアの措置を非難する声明を出した。

(略)

 パシッチもまた虚勢を張るという誤った判断をとって、事態を泥沼化させた。(略)[演説で]もしオーストリアが「痛ましい出来事」を政治的に利用してセルビアに対抗しようとするなら、セルビアは「自らを守り、己の使命を果たすことに躊躇しないでしょう」と警告した。事件が呼び起こす感情がまだ生々しかった当時にあって、これは度を越したジェスチャーであった。

(略)

[こういった意見が]オーストリアを激怒させるのは必定であった。オーストリアがそこに見出したのは無礼と狡猾、欺瞞に他ならず

次回に続く。

2017-04-23 よくわかる人工知能 清水亮 ディープラーニング このエントリーを含むブックマーク


よくわかる人工知能 最先端の人だけが知っているディープラーニングのひみつ

作者: 清水亮

メーカー/出版社: KADOKAWA

発売日: 2016/10/17

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  • 第四章 人工知能は意識を持つのか?

対談 前野隆司

前野 [茂木健一郎がクオリアでブレイクした時、クオリアという意識の司令塔みたいなものが何のためにあるかが世界最大の謎だと言ってて]

すごく間違ってると思った(略)そもそも自律分散的なもので脳は成り立っているはずだ、司令塔みたいなものがあると思うからものすごい謎のように思えるのであって、そもそも司令塔なんてないと思えばもともと謎なんかない[と直感して本を書き出し](略)“受動意識仮説”を思いついた

(略)

清水 [意識は圧縮装置なのではないか]今この瞬間、生きてる瞬間って、ものすごくたくさんの情報が入ってきて(略)全部覚えていたら、脳がいくらあっても足りないので、その中で選択的に起きたことを長期的に記憶するように記号化する、それが実は“意識”の役割なんじゃないか

(略)

前野 僕も本に書きましたけど、まったく同じですよ。圧縮装置じゃなくて、並列を直列に変換する装置と書いた。並列的な情報だと覚えられないので、情報を直列化して、ストーリーとして覚えるための装置だと思っています。

(略)

僕は完全に機械論者っていうか(略)魂も幻想だと思っているんですよ。(略)

“意識”っていう存在が、豊かなように感じるようにできているだけであって、実際は相当プリミティブなロボットみたいなものなんじゃないか

(略)

ガザニガ先生の研究で、左脳と右脳が分離した“分離脳患者”の人に、右脳に向かって「前に歩きなさい」って言う実験があるんです。すると、左耳(右脳側)からの指令に従って、その人は歩くんですよ。その人の左脳に「あなたは、どうして歩いているんですか?」って聞いたら、(左脳と右脳が分離しているので)本当は歩く理由がわからないわけじゃないですか。それなのに「そこに自動販売機があるから、ジュースを買おうと思って歩いてるんですよ」って答えたそうです。人間はうその自由意志でさえも一瞬のうちに作り上げられるということです。だから、我々が深く考えているように思えるのも全部、辻棲合わせ。ストーリーのように見える辻棲合わせを延々とやり続けてる。

(略)

[意識は能動的という仮説の矛盾]

“意識”が司令塔だとすると、この司令塔はものすごく賢くなきゃいけない。部分、部分は賢くなくていいっていうのが自律分散システムの説明だったのに、司令塔を置いた瞬間に、司令塔は、すべてを理解できなきゃいけないですから、そのためにはものすごく賢くなきゃいけないっていうことになってしまう。すると、今まで自律分散システムの役割分担、ということで説明できそうだったことが、ぜんぶひっくり返る。(略)

だけど、“意識”も全部、受動的だったら、サブモジュールがやった結果を、ちょっと直列化というか、圧縮して、それを記憶に持っていくだけですから、全体把握システムではなく、単なる部分的サブモジュールに過ぎません。そうだとすると、作ることも容易に想像できますよね。


脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

作者: 前野隆司

メーカー/出版社: 筑摩書房

発売日: 2010/11/12

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  • 第五章 ディープラーニングの先にあるもの

対談 山川宏

清水 今、人工知能学会と言われている世界のメインストリームは、パターン認識じゃなくて記号処理ですよね。記号処理って、こんな数式があったら、こう解けるとか、こういう言葉は品詞分解したら、こんな風に自然言語を解釈できるっていうもの。以前は人間がメッチャ頭使って、知性とはこのようなものであると定義して、その定義のもとでプログラムを書くから、やることはたくさんあった。ところがディープラーニングの場合、なんとなく脳っぽいものを作って、なんとなく学習を繰り返していくと、「あっ、なんかできちゃった」って。

 だから、既存の学者先生たちから見ると、すごくズルしているようにも見えるし、これは研究対象にならないって言うわけですよ。極端に言えばサイコロを振る機械を研究してどうするんだ、と。ゲームでたとえるなら、既存の先生方がドメスティックなプレイステーションの大作RPGみたいなゲームに取り組んでる一方、深層学習はスマホゲームの『ねこあつめ』ってくらい、ハッキリ分かれてる。

(略)

第二次世界大戦の頃、イギリス政府がエニグマ暗号を解くために集めた人たちっていうのは、言語学者とかなんですよ。ドイツの暗号だから。ドイツ語に詳しい学者とか、そういう人をたくさん集めた。けどぜんぜん解けないわけです。アラン・チューリングはドイツ語ができなかったわけ。「ドイツ語もできないで、どうやってドイツ語の暗号を解読するんだ」って言われて、「いえ、私はパズルを解くだけです」みたいなことを言うんだけど、まさにそれ。今の人工知能学会って結局、言語学者的な人たちが、すごく多いですよね。

(略)

山川 (略)膨大なハイパーパラメータ探索みたいなところの重要性が高まってきているので、むしろ研究者というよりもノリノリのエンジニアがバンバン作った方が結果が出やすくなってきてる部分が生じてきているのです。つまり、「原理はよくわかんないけど、作ったら、だんだんデキてきちゃった」みたいな

(略)

清水 実を言うと僕も、本格的にディープラーニングを触り始めたときに思ったことがあって。「あっ、これ、すごく賢い人達がJPEGを作ったくらいのインパクトがあるぞ」と。JPEGって理論はすごく難しいんだけど、今はそれこそ小学生でも扱えますよね。内容を理解しなくても深層学習は使えるなあって思ったんですね。(略)

もうぜんぜん素人に近い人が、「とりあえずこのデータを突っ込んだら、なにが起きるのかな」というのをバンバン試してみて、試した結果「あっ、こういうことができるんなら、面白いじゃん」っていう世界を、いかに早くつくるかがこれから重要になるなと思ったわけです。

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2017-04-20 徹底検証 日本の右傾化 創価学会 このエントリーを含むブックマーク


徹底検証 日本の右傾化 (筑摩選書)

作者: 塚田穂高

メーカー/出版社: 筑摩書房

発売日: 2017/03/14

|本| Amazon.co.jp

  • 第18章 創価学会・公明党の自民党「内棲」化 藤田庄市

2014年の総選挙小選挙区の半数で学会票が自民を当選させている。その見返りに公明は9議席の割譲と比例区での議席増。

藤原弘達『創価学会を斬る』の出版妨害で池田大作が国会喚問要求されたのを、田中角栄幹事長と佐藤栄作首相がかばいきったのがそもそもの自民・公明連立の縁。それでも学会は深手を負い、池田は学会と党の政教分離を宣言。しかも借りができた角栄から選挙のたびに、落選危機候補に学会票注入のお願い。公明が出ている選挙区の時もあった。

93年の非自民連立政権後、自社さ連立で政権復帰すると、自民は学会・公明の政教一致が憲法違反だと激しい批判を繰り広げる。それにも屈せず95年夏の参院選で新進党は躍進、学会パワーを見せつけた。

 自民党が受けた衝撃と危機感の大きさは尋常ではなかった。折しも同年のオウム真理教事件は、秋の臨時国会で宗教法人法改正を最大のテーマにさせた。好機とばかり、自民党は同事件の教訓どころか、創価学会の政教一致を標的に据えた。彼ら独自の「政教分離法」案まで振りかざし、池田の国会招致を強く主張、新進党と激突した。(略)

結局、池田招致は「先送り」とされ、秋谷栄之前会長が出席した。(略)

 池田の国会招致には失敗したが、自民党は創価学会攻撃の手をゆるめず、1996年には機関紙『自由新報』を使って池田スキャンダルの大キャンペーンを行った。同時に、野中ら多くの自民党幹部がそれぞれのルートで学会側に対し、「新進党から離れて元の公明党に戻り、自民党に協力してくれれば学会攻撃は終わる」と囁き続けた。(略)

[97年新進党解党、98年公明党が復活]

99年に「国旗国歌法案」「通信傍受法案」など右傾化を促す諸法案に賛成。自民党への協力姿勢を示しながら10月に自自公連立政権に参画した。あっという間だった。(略)

[どうやってパイプをつくったと問われた野中広務はこう答えた]

「叩きに叩いたら、向こうからすり寄ってきたんや」。権力政党の底知れぬ怖さを、創価学会・公明党は思い知ったにちがいない。

(略)

「「比例は公明党、小選挙区は自民党の私」と言うのはいやだと言ったら、そんなことは長続きしない。自分の本当の親衛隊がいるだろう。そういう人たちだけは公明党に入れておけ。ある程度の票を出してくれ」というやり方を僕は指導したんです。(略)

 票のバーター取引の端緒と実態が赤裸々に語られている。野中の凄みは党本部同士の協定とその指示という並のやり方にとどまらず、選挙協力の永続的な体制を構築したところにあった。(略)[どれだけ比例票をとったか点検される公明党議員の]手柄になるような方法、すなわち後援会の名簿の提供まで自分から率先して行なったのである。

(略)

[2014年集団的自衛権容認をなぜ公明党は了承したか。内閣官房の知恵袋、飯島勲が講演で]

「集団的自衛権が話題になっている。(略)[公明党と創価学会の関係は]長い間「政教一致」と騒がれてきた。内閣法制局の発言を担保に、その積み重ねで「政教分離」ということに現在なっている。公明党、創価学会の幹部の心理を推測すると、そのことを一番気にしているのではないか」

そして核心に入る。

「もし内閣によって内閣法制局の発言、答弁が今まで積み重ねてきた事案を一気に変えることになった場合、「政教一致」が出てきてもおかしくない。単なる安全保障問題とは限らず、そういう弊害が出ておたおたする可能性もありうる。そういうことがない状態で着地点を見いだせば、きちんと収まるだろう」

 新進党時代の強烈な創価学会攻撃の悪夢を思い起こさせる、忽れぼれするほどみごとな「恫喝」である。与党として生き残るどころか、組織としての生命が惜しければ九条の解釈改憲に異を唱えるなとばかりの勢いだ。

(略)

近未来、日本の右傾化が続いた場合、創価学会・公明党は、どう変容するだろうか。(略)

この参院選において公明党所属でありながら「安倍チルドレン」と称される新人議員が誕生したことだ。(略)

「内棲」化の進化・深化によって自民党との運命共同体議員が出現したのである。(略)

創価学会・公明党のDNAにはじつは全体主義的要素がたっぷりあるのだ。「内棲」のなかで存在感を示すには、右傾化の先頭を突っ走ることである。(略)カリスマ願望も根深くDNAにある。(略)池田に代わるカリスマ指導者が出現し、創価学会が右派政権の投票基盤にとどまらず、そうした社会への積極的牽引勢力にならないとも限らない。

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2017-04-18 高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ このエントリーを含むブックマーク

半分高橋源一郎ゼミの発表会なので、ハッキリ言って……。結局、生身の話より、本の方が面白いのだなあ。


読んじゃいなよ!――明治学院大学国際学部高橋源一郎ゼミで岩波新書をよむ

作者: 高橋源一郎, 鷲田清一, 長谷部恭男, 伊藤比呂美

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2016/11/30

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  • 長谷部恭男 憲法教室

憲法九条

憲法九条は、特に第二項を文字通り普通の日本語として受け取りますと、今の自衛隊は憲法違反です。自衛のための武力を持ってはいけません。外国に武力で攻撃されたら、そのまま攻撃され放題ということを言っているかのように見えますね。それで本当にいいのかということです。

(略)

[自衛すらしないという]決断が仮に正当化出来る、支える理由付けがあるとすると、それはそういう生き方が人としての唯一正しい生き方だからという、そういう想定しかあり得ないのではないかと私は考えるわけです。それはまさに特定の価値観・世界観を、そういう価値観を信じない人も含めて、全ての国民に押しつけていることになるのではないかということで、そうだとすると、ここはテクストの解釈が必要だということになる。(略)

 解釈が必要になってくる条文は、憲法九条だけではありません。憲法の第三章の、「国民の権利及び義務」に並んでいる条項は大体そうです。例えば憲法二一条。表現の自由を保障すると。(略)だとすると人の名誉を毀損するのもやり放題。わいせつ表現もし放題。人のプライバシーも暴き放題ということに本当になっているのか。そうはなっていないわけです。(略)

[これらを取り締まる法律が憲法違反だと言われないのは、テクスト通りではなく解釈が必要だとみな分かっているから]

それと同じことが憲法九条についても言えるであろうと。これは私がそう言っているという話です。個別的自衛権はあるはずです。(略)

そういう解釈が必要になってくるのではないかということです。

(略)

憲法学者の中には、日本語の普通の言葉の意味通りに受け取るべきだと言っている人たちが結構います。(略)

ですから、自衛隊は憲法違反ですということなのですが

(略)

普通の条文の意味通りに実現できないのなら九条を憲法から削除するべきだと言う人もいますが、そういう人たちは、道路交通法や手形・小切手法のような、日々の日常的な活動を規律する法律と憲法の区別が分かっていないのでしょう。(略)

戦力(war potential)と言えるようなものを持つべきではないという、そういう普遍性はあると思います。一項が言っている戦争なんてそもそもすべきではないし、武力の行使だって、これは国連憲章にもそう書いてありますが、武力の行使は原則禁止だと。それは正しい普遍性のある議論だと思います。

(略)

そもそも憲法とは一体何かということになると思うのです。憲法は何のために必要かというと、民法とか刑法とか、皆さんが日常生活で触れるはずの、日常生活を支えているはずのいろいろな法令があります。で、普通はそれで十分なんです。そういう法令さえあれば。憲法なんてよく分からないものがなくても。特に憲法の中でも、基本権条項ですよね。国民の権利及び義務に関する条項とか。何のために必要なのかというと、そういう通常の法令通りに裁判所に来た紛争を解決していると、良識に反する結論になってしまう時とか、どう考えてもこれはおかしいという結果になってしまうという時に、初めて出番が来るのが憲法です。

 何のために出番があるかというと、良識に戻れというためです。

(略)

だとすると、憲法九条についても同じではないとおかしい。良識に反する答えで良いのだ、憲法のテクスト通りなのだから、というのは、おかしいのではないかという話です。

解釈改憲

私の見方は、自衛隊の存在を認めることは解釈改憲しているんじゃない。というのは、自衛隊の存在を認めないこと自体が、日本国憲法の基本原理たる立憲主義に反しているから。これこそがまっとうな憲法九条の解釈だと私は思っています。改憲はしていない。日本国憲法の基本原理に忠実に考えているだけで。

(略)

ちょっと別のレベルでよく言われるのが、政府は憲法九条の下で、解釈改憲を繰り返すことによって自衛隊の活動範囲を広げてきたと言われることがありますが、これは私は、事実の認識として間違っていると思います。というのは政府は二〇一四年の七月の例の集団的自衛権行使容認の時点に至るまでは、ということですが、解釈は変えていないんですね。個別的自衛権は行使出来ますと。必要最低限で。集団的自衛権は行使出来ません。(略)

[行使するなら憲法改正が必要と一貫して言い続けている。じゃあPKO法とかはなんなのか、それには別の理由がある]

憲法九条があるということは、自衛隊の活動範囲の出発点はゼロです。出発点がゼロなので、自衛隊を置きますということについても、自衛隊はこういうことが出来ますということについても、一つひとつポジティブリストで法律を特別に作らないことには自衛隊は活動が出来ない。

(略)

でも憲法の解釈としては、個別的自衛権の範囲内でしか武力は行使出来ません。個別的自衛権としての武力の行使しか出来ないのであって、集団的自衛権の行使は出来ませんという外側の枠の解釈は変わっていない。首尾一貫して変わっていません。そういう意味では政府が解釈改憲を今まで繰り返してきたことはないと。(略)

[それが今回]

二〇一四年の七月に、いきなり違うことをしてしまったということです。

どーでもいいけど、長谷部恭男が「掟上今日子の備忘録」と「ドS刑事」を観て、学生時代はベース担当で、ドゥービーズやスティーリー・ダンのコピバンをやっていたというのが意外w

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2017-04-15 憲法改正とは何か: アメリカ改憲史から考える このエントリーを含むブックマーク

著者のスタンスは「根拠もなく憲法を神聖視するのはほどほどにして、精神的な改憲論や感情的な護憲論を慎み」というもので、この本(安全保障を問いなおす―「九条-安保体制」を越えて - 本と奇妙な煙)同様、9条だけ変えて、他のカビ臭い愛国改憲はやるなということなのだろう。

ただ冒頭いきなり、改正の内容と時期を理解している著者が、アメリカは27回改正してると書くのは、ちょっと意識的に誤読を誘ってる気がする。この本にも書かれているけど、ここ(「アメリカ合衆国憲法に追加され またはこれを修正する条項」)にあるように1920年の女性参政権以降の改正は、下記の通り、著者も「比較的地味な内容」と書いているもの。1920年以降は重要な改正はないと知っていながら、アメリカは27回ですよと、戦後できた日本国憲法と比較するのはなんか少しアレな気もする。

[正副大統領と連邦議員の任期] [1933 年成立]

[禁酒修正条項の廃止] [1933 年成立]

[大統領の三選禁止] [1951 年成立]

[コロンビア地区の大統領選挙人] [1961 年成立]

[選挙権にかかわる人頭税の禁止] [1964 年成立]

[大統領の地位の継承] [1967 年成立]

[投票年齢の引下げ] [1971 年成立]

[連邦議員報酬の変更] [1992 年成立]


憲法改正とは何か: アメリカ改憲史から考える (新潮選書)

作者: 阿川尚之

メーカー/出版社: 新潮社

発売日: 2016/05/27

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いつでも「憲法の改正」できるから、とりあえずこの憲法を認めてくれ

 さて共和制の思想にもとづき新しい邦憲法が制定されたものの、各邦での共和制の試みがうまくいったわけでは必ずしもない。共和政体の担い手たる議会に多大な権限を与えた邦憲法が、実際には一部の邦で衆愚政治を引き起こす。総督という対抗軸をなくした多くの議会が、権力の濫用に走った。

 たとえば議会は司法の領域に介入し、裁判所の判決を変更し、くつがえし、裁判をやり直させた。無制限に紙幣を発行し、債務を取り消し、それにより債権者の権利を無視し、権利の行使を妨害した。法律を制定したと思ったら、1年後にはもう廃止する。共和政治への信頼性は著しく損なわれた。革命の結果生まれた政治体制が機能しない。事態は深刻であり、放っておけなかった。こうした各邦における政治的な混乱は、新しい国のかたちとそれを表わす憲法を必要とする大きな理由の1つになる。

(略)

独立を達成したアメリカの国のかたちが邦憲法と連合規約だけでは不十分であったがゆえに、アメリカ憲法が制定され、新しい連合、すなわちアメリカ合衆国が誕生した。

(略)

採択された憲法草案を吟味した反対派はこれらの事実を取り上げ、新憲法は違法であり正統性がないと主張した。彼らの主張は形式的にはまったく正しい。そう言われても仕方ない。しかしそうだとしたら新憲法の正統性は本当にないのだろうか。(略)

 マディソンはじめ憲法の制定を推進する人々は、新しい憲法案の採択と憲法案が定める批准手続きが連合議会の指示に反し連合規約の規定に違反することを、実はよく認識していた。それどころかむしろこうした違反を恐れず、まったく新しい手続きに沿って憲法を制定せねばならない。そう確信していた。(略)

連合規約に内在する様々な欠点を乗り越えるためには、その規定を部分的に改定するだけではだめだ。まったく新しい憲法を、その正統性を担保しつつ制定せねばならない。

(略)

フェデラリストは憲法草案の修正についてアンチ・フェデラリストと妥協をはかった。(略)

今はこの憲法案を変更せず、そのまま批准してほしい。新憲法が発効して連邦政府が発足したら、反対派の求める憲法の改正を手がける。そういう暗黙の了解がなされた。

 この妥協を可能にしたのが、憲法草案第5条の改正に関わる規定である。この改正手続きにしたがえば憲法制定後の改正が可能であること。そして制定後の改正のほうが草案修正よりも容易であること。フェデラリストはこの点を強調して各邦での一括無修正での批准を求め、それが結局各邦の批准会議で受け入れられる。最終的に憲法制定を可能にしたのは、すでに草案に盛りこまれていた憲法の改正条項であったとさえ言えよう。

それほど簡単に改正できないようにしておくのが、マディソンをはじめとする起草者の意図であった。憲法第5条が、改正の提案に連邦議会両院の議員の3分の2、批准には全州議会の4分の3の賛成を必要とすると定め、全会一致、単純多数決のいずれも採用しなかったのは、その微妙なバランス感覚の表れであろう。彼らは、あまりに頻繁な改正は憲法の正統性を損なうと考えていた。また憲法が一般法と同じように単純多数決で変更できるのでは、基本法である意味がなくなってしまうと理解していた。そもそも、憲法のもとで誕生した合衆国政府は、建国初期から南北戦争に至るまで、存外脆弱であった。憲法改正によって合衆国政府が骨抜きにされるのは、防がねばならなかった。

 それでも、時には憲法の改正が必要とされる事態が起きる。厳しい要件を乗り越えて憲法改正が実現するのは、どんなときだろうか。

 まず提案された改正の内容が、党派を超えて合意できるものである場合が考えられる。国民が一致して支持する内容の改正案は、比較的厳しい要件にもかかわらず、スムーズに提案がなされることが多い。

(略)

アメリカの憲法史を見ると、改正が立て続けに行われる時期と、まれにしか行われない時期がある。(略)

 このうち、変革の時、改正の季節は、いつだろうか。(略)独立を勝ちとり、イギリス不文憲法の秩序から脱した1775年から1783年までの約8年間。「より完全な連合」を実現するため(略)合衆国憲法を制定した1781年から1791年までの10年間。(略)[南北戦争後]新しい国の形を模索するなかで3つの修正条項が採択された1861年から1870年までの9年間。進歩主義の思想が高まり、それにともなって4つの進歩的改正が実現した20世紀はじめの約20年間。

(略)

[安定期は]権利章典と呼ばれる最初の10の改正が行われた後、南北戦争終結までの74年間。この時期には、修正第11条と修正第12条の2つの技術的な改正しかなされなかった。次に南北戦争集結直後の5年間に3回も重要な改憲が実現した後、1913年に修正第16条が誕生するまで1回も改正がなかった43年間。さらに1913年から1920年までの4つの進歩的改正の後今日までのほぼ100年間。

初めての憲法改正

 実はいったん憲法が発効し連邦政府が発足すると、権利章典を具体化する熱意は急速に冷めた。(略)

 そもそもハミルトンやジェームズ・ウィルソンを筆頭とするフェデラリストの論客は、合衆国憲法に権利章典を盛りこむ必要はないと考えていた。その最大の理由は、新しい憲法のもとで連邦政府、特に連邦議会に与えられるのは第1条8節に「列挙された権限」であって、そこに記した以外の権限は行使できない。であれば、連邦政府が国民の有する基本的権利を侵害できるはずがない。憲法上、連邦政府がしてはならないことは明白であって、権利章典を付け加える意味はない。しかも権利章典に特定の権利を列挙すれば、却って列挙された権利以外の国民の権利を連邦政府が侵害できるように解釈されてしまう危険さえあるではないか。本音を言えば連邦政府の権限をこれ以上制限されたくないフェデラリストたちは、こう反論し、権利章典は必要ないと主張した。

 皮肉なことに、アンチ・フェデラリストもまた最初の議会で憲法改正の動きが具体化すると、それに反対する。権利章典が実現すれば、憲法は必要な条項をほぼすべてそろえることになる。そうなれば彼らがまだあきらめていない、第2憲法制定会議開催の可能性が消えてしまう。そう恐れたらしい。そんなわけで最初の議会では、フェデラリストもアンチ・フェデラリストも憲法改正にそれほど熱心でなかった。

 しかし、憲法の制定にあたって他の誰よりも勤勉に働き、他の誰よりも深い思索を行ったマディソンは、やはり最初の連邦議会で権利章典を憲法に加えるべきだという結論に達する。(略)

 実はマディソンもまた、権利章典の意味と効力について懐疑的[だった](略)権利章典追加を唱える人たちは、イギリス名誉革命の(略)「権利の章典」を念頭に置いている。確かに君主制のもとでは、主権を有する君主の恣意的な権力濫用に歯止めをかける意味で、権利章典は意味がある。

 しかし人民主権にもとづく共和政体を採用したアメリカ合衆国では、連邦政府の権限は憲法に個別具体的に規定されたものに限られている。権力の無制限な濫用は考えにくい。人々の権利を侵害するのは、むしろ州の政府であろう。もしそうなら、連邦政府の権力濫用を恐れて連邦政府を対象とした権利章典を定めても、効果がない。さらに言えば、『ザ・フェデラリスト』第10篇でマディソン自身が雄弁に論じたように、共和国において恐れるべきは政府による権力濫用ではなく、むしろ主権を有する人民の多数による権力の濫用である。そして本当に悪質な権力の濫用が起きた場合には、ただ国民の権利を並べ宣言するだけでは効果がない。マディソンは冷静にそう考えていた。

 それでもマディソンが、最初の連邦議会に権利章典の草案を提出したのはなぜか。1つには批准の際に憲法発効後その改正を検討すると約束した手前、たとえ権利章典を採択する法的義務はないとはいえ信義条上の義務を感じたのかもしれない。マディソンはそういう人物であった。

(略)

[それ以上に国民が憲法を最高法規とし、自分たちが合衆国市民であることを自覚するために必要だと]憲法制定の過程をつぶさに観察してきたマディソンは、そう確信したようだ。実質的な効果はなくても、守るべき国民の基本的権利を憲法に列挙することによって、新しく発足する連邦政府の立法、行政、司法の各部門、さらには各州政府もまた、それを1つの高い基準として仰ぎ見て、その維持に努めるだろう。国民もまた、新しくできた連邦政府が権利章典に列挙された権利を守ることを期待し信頼を寄せるだろう。彼は権利章典がこうして政府と国民に対し、いわば「教育的効果」を持つことを望んだのである。

(略)

 連合規約第13条の規定によらず、連合議会の指示に背いて起草され批准された憲法はそもそも違法であると考えるアンチ・フェデラリストは、その違法性を正すにはもう一度憲法草案をまったく新しく起草するところから始めるしかないと信じていた。こうしたの動きを封じるには(略)憲法が改正を重ねることによってより良きものに改善しうることを示すのが、最も効果的である。(略)

だからこそマディソンは第1回の議会で改正案を起草し提案することにこだわった。改正案が批准発効すると、それ以降再度憲法制定会議を開催しようという動きは急速にしぼむ。(略)

起草以来違法性を指摘され続け[た](略)アメリカ合衆国憲法は、最初の修正10条が発効して初めて独り立ちしたと言えそうである。

ロー判決

[妊娠中絶の権利を生み出した1973年のロー判決]

 これに対し、厳格解釈主義、原意主義の立場に立つ判事や憲法学者は、一般に進歩派と分類される一部の人々も含めて大きな危機感を抱いた。憲法に明確な規定のない妊娠中絶の権利を、最高裁の判事多数が自らの価値観と過去の判決が生み出した理論上の権利にもとづいて認めるのは、大方のことは多数決にもとづいて決めるという民主主義の原則に反し、彼らの権限を越えている。それを許せば、さらに新しい権利が司法の判断で次々に憲法上の権利として認められかねない。司法には憲法を変える権限はない。したがって許すべきでない。彼らはこう主張した。

(略)

「プロライフ」の運動家たちは、同判決をくつがえすことを目指して運動を繰り広げる。(略)そのためにはロー判決を否定する最高裁判事を最高裁に送りこまねばならない。(略)

[実際、レーガン、ブッシュ]と12年間続いた共和党政権の時代、最高裁判事が退職するたびに新しい保守的な判事が任命され、ロー判決がくつがえされるのは時間の問題だと思われていた時期もあった。しかしそれにもかかわらず、現在まで最高裁は、結局ロー判決の中核部分を否定していない。最高裁は1992年に下された南東ペンシルバニア家族計画協会対ケイシー事件判決において、5対4の僅差でロー判決の内容を相当変更したものの、その基本的中味、すなわち一定条件が満たされる場合には女性はなお妊娠中絶を行う憲法上の権利があるという部分をそのままにした。その理由として、法廷意見はロー判決から19年が経過し、その間に多くの女性がロー判決に依拠して人生設計を行っている現実を挙げた。(略)

 ケイシー事件判決が下ってから今日までさらに24年、ロー事件判決が下ってから43年経ち、憲法上の妊娠中絶を行う女性の権利は今でも生きている。憲法に規定のないこの新しい権利はどうやら定着し、法的に安定しているように思える。ロー判決が下されたあとも、最高裁は死ぬ権利、同性愛の権利、さらには同性婚の権利など、憲法に規定のない新しい権利をさらにいくつか認めてきた。そうした最高裁の憲法解釈にはいまだに根強い反対がある。

憲法解釈による実質的な改憲

過去の例を見ると司法による憲法解釈によって実質的な改憲がなされたと判断しうる例がある。わかりやすいのは、正式な手続きにしたがって試みた改憲が失敗したのに、同じ結果が最高裁の判決を通じてもたらされた例であろう。(略)

[1918年保守的な最高裁は児童労働を禁ずる連邦法を違憲とした。1924年に連邦議会は児童労働を禁じる憲法改正を提案、改正案を批准したのは6州、それ以来、改憲は実現しないままに。しかし17年後の1941年最高裁の]

新しい憲法解釈によって、改憲では不可能だった児童労働の禁止が実現した。これほど明確な司法による実質的改憲はないだろう。(略)

[同様に男女平等も改正案が出たのが1923年、両院可決され各州議会による批准に回されたのが1972年、期間内に批准が完了せず]改憲の試みは1982年失敗に終わる。ところがその間、最高裁は1970年代に下した一連の判決を通じて、女性差別は憲法修正第14条の定める法の平等保護原則に反するという新しい解釈をうちだした。これによってERAが目指したものと同じ結果が得られた。これもまた改憲では達成できなかった憲法上の両性の平等保障が、司法による新しい憲法解釈によって実現した例である。実質的改憲と言えよう。

 司法による実質的改憲が一気にではなく、段階を踏み、長い時間を経て実現する場合もある。(略)

[1791年の権利章典は基本的人権を連邦政府が侵害するのを禁止したもので州には適用されない]

ところが1920年代になって、最高裁は権利章典を州に適用しはじめる。(略)

 この背景には、特に南部の多くの州で黒人の刑事事件被疑者が、偏見と差別に満ちた司法手続きにさらされていたという事実がある。ウォーレン・コートは、権利章典を州に適用することによって、こうした状況を打開しようとした。ウォーレン・コートの一連の判決は、憲法の本来の意図にそぐわない拡大解釈だとして批判も多い。しかし、組み込みの法理によって権利章典の規定を修正14条のデュープロセス条項を通じて州に適用し、逆に修正14条の平等保護条項を修正第5条のデュープロセス条項を通じて連邦政府に適用する(これを逆組み込みという)のは、今日では憲法の解釈手法としてすっかり定着している。こうして、20世紀初頭にはっきりした理由を示さぬまま行われた憲法解釈の部分的変更が、それから半世紀近く経って憲法の内容の大きな変化につながった。ここでも司法によって実質的改憲がなされたのである。

 さらに正規の手続きによって実現した改憲が、「現状変更」型の司法審査によって初めて効力を発揮する例もある。たとえば南北戦争後に制定された人種や皮膚の色によって市民の投票権が否定されることなしと定めた修正第15条は、南部の改革が挫折したあと南部諸州によって完全に無視された。(略)

しかし1960年代になって、最高裁は修正第14条の平等保護条項を根拠に黒人の投票を制限する南部のさまざまな法律を違憲と判断しはじめる。これによって初めて、修正第15条は効果を発揮した。憲法の文言の変更のみでは、改正の意図は実現せず、実際にそれが司法によって後押しされなければ効力を発揮しない、その代表的な例であろう。

法律の合憲性

 忘れてならないのは、憲法第6条3項の規定のもとで、大統領、連邦裁判所の裁判官とともに、連邦議会議員もまた合衆国憲法の遵守を義務づけられていることである。(略)

 それでも時には議会が合憲性について多少とも議論の余地のある法案を可決し、その法案が大統領の署名を得て法律として施行されることがある。その場合には何が起こるのだろうか。おそらくもっとも一般的な答えは、「何も起こらない」である。(略)

 かつて日本の雑誌に頼まれてインタビューしたスカリア最高裁判事は、「議会が制定する法律のなかには、その合憲性があやしいものもあるけれども、最高裁は一々それに文句を言ったりはしない」と、笑って語っていた。そもそも裁判所は訴訟が提訴されないかぎり、法律の合憲性を審査しない。個々の法律の合憲性は、第一義的に議会が検討すべきものである。スカリア判事は、合憲性の判断は連邦司法のみが行うものではないことを強調した。

 それでも毎年制定される多くの法律のなかには議会の思い切った憲法解釈を反映していて、その合憲性が議論となるものが、ときたまある。たとえば1973年、連邦議会はニクソン大統領の拒否権発動を乗り越え、戦争権限法という法律を[制定](略)大統領が宣戦布告もしくは議会の承認なしに海外で軍事力を行使する場合には、それから48時間以内に議会へ通知を行い、その後議会の承認を得ないかぎり60日以内に軍事力行使を停止して90日以内に部隊を撤収させねばならない。(略)

ニクソン政権は、憲法上大統領に与えられている戦争権限を同法が不当に制限するものであるとして議会を激しく非難した。それ以来、共和党・民主党を問わず歴代の政権は、この法律は違憲かつ無効との立場を取っている。しかし最高裁は同法の合憲性について一度も判断を示しておらず、法律は今でも有効なままである。そして海外で米軍が武力行使に踏み切るたびに、大統領はこの法律に従わなくていいのかという論争が起こる。

違憲判決

議会も大統領も、おおかたの違憲判決には素直にしたがう。(略)

[それでも]どうしても司法の憲法判断に納得できない場合には、まだ取りうる道が2つある。

 1つは判決をよく検討し、違憲にならないように文言を変えたうえで法律をもう一度制定する道である。

(略)一連のニューディール関連法が1935年から36年にかけて最高裁で次々に違憲とされたとき、ローズヴェルト政権ならびに大統領と同じ民主党が多数を占める議会は判決に屈せず、違憲と判断されないように工夫した新しい法律を制定して最高裁の憲法解釈に挑戦した。最高裁は違憲判決を下し続けたものの、ほどなくこうした新しい法律を合憲と解釈するようになる。これは実質的には憲法改正と考えるしかないほどの、革命的な憲法解釈の変更であった。議会と大統領が一致協力して最高裁の憲法解釈に抵抗して勝利を収めた珍しい例である。この背景には大恐慌という国家の危機があり、大胆なニューディール政策を支持する世論があった。

政治問題化した最高裁判事任命

 実は20世紀前半まで、連邦判事の任命は基本的に大統領が決めることがらであり、議会上院はそれを追認するだけという暗黙の了解があった。最高裁判事の候補についてさえそれほど厳しい審理はなされなかった。(略)

 ところが20世紀半ば以降、たとえばブラウン事件判決のように最高裁の憲法解釈と判決が大きな政治的影響を及ぼすにしたがって、判事の任命過程は政治的色彩を濃くする。特に1980年代に入ってレーガン大統領が登場し司法の保守化を公然と目指すようになると、様子は一変した。先に述べたとおり、レーガン政権は妊娠中絶を合憲化したロー事件判決をくつがえすことを公約にしていた。ロー事件判決を支持する民主党議員たちは警戒感を強め、上院司法委員会の公聴会での判事候補審問は長く厳しいものとなった。(略)

[厳格な憲法解釈を唱えるボーク判事が]指名されるや、前年の選挙で上院の多数を奪い返した民主党は猛烈な反対運動を展開した。その結果ロー事件判決を間違っていると言い切るボークの任命は議会上院によって否決される。最高裁人事が完全に政治問題化した結果であった。これ以後最高裁判事の候補は上院での公聴会で、法律家としての見識や能力だけでなく、その政治的信条、私生活における問題さえをも、微に入り細に入り検討されるようになった。(略)

いったん任命されてしまえば、連邦裁判所の判事は他の二権には見られない高度の独立性を与えられるため、判事が下す判決に介入したり指示したりできない。だからこそ任命のときの審理と決定が重要である。実際ボーク判事の任命を阻止していなかったら、その後最高裁がロー事件判決を完全にくつがえしていた可能性が大いにある。(略)

最高裁判事の任命が政治的にきわめて重要であり、議会上院の判事任命拒否権が重いものであることがわかる。

大統領が憲法に挑戦するとき

南北戦争の開始時に議会が実際には何もできなかったと同様、司法も戦争が始まるときにわざわざ開戦に反対する訴訟を取り上げて違憲性を問うようなことは、通常しない。(略)問題が高度に政治的な性質のものであるゆえに、司法は判断できないし、すべきでもない。そう考える。

 それでもなお、戦争を行うにあたって大統領が憲法に違反していると主張する訴訟を取り上げ判断を示した例は、憲法史上少なくない。そのなかでもっとも重要ないくつかの判決は、南北戦争のさなか、もしくは直後に下された。

(略)

[開戦後リンカーンは南部諸港を封鎖。その際拿捕され積荷を競売された中立国の船舶所有者が、議会の宣戦布告がないままの封鎖は憲法と国際法に違反していると訴えた]

 ところがリンカーン大統領は、南部との戦いを国際法上の戦争とは認めず、南部による叛乱の鎮圧だとの立場をとっていた。戦争と認めれば交戦権を与えねばならず、南部連合が列強の承認を得て国家として独立することにつながりかねない。したがって大統領は議会の宣戦布告なしで戦いを始め、これは戦争ではないと主張しつづける。

 しかしもしこれが単なる叛乱であったら、封鎖は国際法上効力をもたない。戦争でもないのに捕獲された商船や積荷の所有者たちが自分たちの所有物を奪われるのは、憲法修正第5条が定める「何人も、配当な補償なしに、私有財産を公共の用のために収用されることはない」というルールに反し、違憲無効である。彼らはそう主張した。

 1863年、最高裁はプライズ事件判決を下し、5対4の僅差で南部諸港の封鎖を合憲であり有効と判断した。確かに大統領は憲法の規定上、議会の宣戦布告なしに戦争を始めることを許されていない。しかし同時に国軍の最高司令官として、正式の宣戦布告なしに始まる叛乱を鎮圧し、治安を維持し、国民の安全を保障する義務と権限がある。そしてどうやってそれを実現するかを決めるのは大統領である。その大統領が封鎖の実施を選んだのであり、封鎖宣言そのものが実質的に戦争状態にあることを認めたに他ならない。したがってこの封鎖は合憲であり、有効である。法廷意見を著したロバート・ダリア判事はこう説明した。

 法廷意見の論理は、あまり明確でない。単純化して言えば、現在続いている南部との戦いにおいて大統領が封鎖を選んだ以上、それを違憲とすることはできない。国家の存亡がかかった戦いにおいては、司法も大統領の憲法解釈に異議を唱えることはできない。このような状況では憲法の枠組を厳格に守ることにそれほど意味がない。司法は口を出さない。そう言っているに近い。

 プライズ事件でもメリーマン事件でも、リンカーン大統領は連邦分裂の危機を理由に、憲法の枠組を超えたと言わざるをえないような強引な政策を採用、実行した。この結果、憲法の枠組と国のかたちは変化したのだろうか。実質的な憲法改正がもたらされたのだろうか。

 もちろん大統領は、国難に直面した場合に緊急措置として議会の承認のない軍事行動を起こすことを、憲法が許すという立場を取っている。ところがプライズ事件判決の結果、議会による宣戦布告を待たなくても大統領は時と場合によって実質的な戦争を戦うことができるという、新しい憲法の有力な解釈が生まれた。実際、第2次世界大戦を最後に、アメリカは朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガン・イラク戦争のいずれにおいても、正式な宣戦布告をしていない。

 またメリーマン事件判決の結果、大統領は侵略や叛乱などの危機に際して独自に人身保護令状を停止し、令状なしで不穏分子を逮捕して無期限に拘束することができるようになった。メリーマン事件のあと議会は新しい法律を通して、大統領による人身保護令状停止を認めている。

 もちろんこうした措置は南北戦争という国家的危機に際して取られたものであり、平時には許されない。そのことはリンカーン大統領もよく理解していた。それでもなお、南北戦争のあともアメリカが戦争を行う、あるいは戦争に巻きこまれるたびに、大統領はその党派を問わず憲法上の戦争権限を根拠に大胆な政策を採用し実行するようになる。リンカーン大統領が取った戦時の政策は、こうして後の大統領にとって前例とされ、政策正当化の材料になった。それは憲法制定者が考えていた比較的無力な連邦行政府を前提とする国のかたちや仕組みとは、明らかに異なるものである。危機において大統領の権限をしばるのを嫌ったハミルトンさえ考えていなかったほど大きな権限が、一時的とはいえ大統領に集中する。その意味で南北戦争以降、少なくとも戦時における大統領の権限は著しく拡大し、憲法の内容が、さらには国のかたちが、大きく変わった。

 リンカーン大統領が行った連邦行政府の権限拡大は、しかし南北戦争が終わるとおおむね元に戻る。後任のジョンソン大統領はじめ、比較的弱い大統領が続くのを横目に、むしろ連邦議会が権限を大幅に強化した。(略)

[しかし]ウッドロー・ウィルソン大統領は、第1次世界大戦に参戦するにあたって、それまでにない大きな権限を連邦政府に集中し、時には個別の法律による議会の承認を得ないまま、国民総動員体制、戦時経済体制を確立する。(略)

[この流れに乗り権限を拡大し新しい憲法秩序を築いたフランクリン・ローズヴェルト大統領]

彼がしたことは実質的な憲法改正であり、憲法革命とさえ呼べるものであった。きっかけとなったのは、南北戦争と並んでアメリカ史上最大の国難の1つである大恐慌である。

アメリカと日本の違い

アメリカの憲法史を振りかえると、どちらかといえば進歩派の掲げる目標を実現する手段として、正式な手続きにもとづく改憲もしくは最高裁による憲法解釈を通しての実質的改憲がしばしば行われてきた。たとえば前者によって奴隷解放、婦人参政権が実現し、後者によって両性の平等、妊娠中絶や同性婚の権利が憲法に組みこまれた。そして憲法改正ないし実質的改憲を目指すのは、どちらかといえば進歩派であり、解釈改憲が安易になされる傾向を嘆き防ごうとするのは、主として保守派である。この背景には、もともとアメリカの憲法が保守的な性格を有しており、特定の価値観を憲法の条文として盛りこむのを排しているという事情があるのかもしれない。たとえば奴隷制の是非について、当初憲法は何も述べていなかった。

 これに対し日本では、これまで憲法改正に熱心なのはもっぱら保守派であり、進歩派は概して改憲に反対もしくは慎重である。解釈改憲に対しても否定的であるようだ。

(略)

[日本国憲法には第25〜28条などの]新しい権利が盛り込まれている。人権に関する委員会の3人の委員が起草した同章の原案は、社会保険制度の保証、レクリエーションの権利、ストライキ権などを含み、さらに進歩的な内容であった。

 これらの規定の多くはワイマール憲法の影響を強く受けたもので、そうしたヨーロッパの思想に強く共感するアメリカ人起草者の手を経て、日本国憲法は進歩的かつ大きな政府の手による福祉国家的価値観を強く打ち出すものとなった。そうした性格を有する日本国憲法の専門家である憲法学者の多くが、憲法の統治機構に関する規定より基本的人権に関する規定を好み、もっぱら研究する傾向があるのは、自然な成り行きであったかもしれない。

(略)

 対照的に18世紀末に制定されたアメリカ憲法は、特定の価値観を憲法に盛りこむのを極力排し、もっぱら憲法学者が統治機構と呼ぶ国家の仕組みを構築することに重点を置いた。したがって当時の価値観を反映する規定はほとんどない。それを物足りなく思うアメリカの進歩主義勢力は、19世紀の末から20世紀にかけて労働者、女性、少数民族の権利を、改憲あるいは実質的改憲を通じて憲法に盛りこむ運動を展開し、現在に至っている。

 しかし制定から約230年経っても当初の憲法典が、改正や解釈を通じてそのかたちを少しずつ変えながらもそのまま機能しているのは、憲法典が時代の価値観を盛りこまなかった点に負うと考える学者も多い。

アメリカと日本で明らかに異なるのは、憲法をめぐる国家的論争における司法の役割である。建国当初は弱体で明確な役割がなく、三権のうちでもっとも危険が少ないと言われたアメリカの連邦司法、特に最高裁は、マーベリー事件判決で獲得した司法審査の権限を用いて国政に対し大きな影響力を発揮するようになった。そして最高裁はみずからの憲法解釈によって憲法の内容まで変え、解釈改憲も行うようにさえなった。

 その劇的な例は、2000年に下されたブッシュ対ゴア事件の判決である。この判決で連邦最高裁は憲法解釈を通じて、大統領選挙の勝者を事実上決定した。本来国民の投票によって決めるべき大統領選挙の結果を、司法が憲法の解釈によって決めていいのか。当時大きな論争があったけれど、この判決にしたがってブッシュ大統領が誕生し、8年間その地位にあったのである。(略)

 それに対して、日本の最高裁判所は、直接国政に影響を与えるような違憲判決を下さない。まして憲法解釈によって憲法の内容を変えよう、実質的改憲をめざそうなどとはまったく考えもしない。

 そもそも違憲判決がそれほど多くない。(略)法令違憲とした判決が10件、適用違憲とした判決が12件あるだけである。(略)国政に大きく関わるような違憲判決は、議員定数に関する2つの事件ぐらいしかなく、その他の判決の多くは個人の基本的人権に関わるものである。(略)

特に憲法9条のもとで自衛隊の合憲性を争う訴訟が提起されるときには、統治行為論などを用いて極力憲法解釈を避けてきた。

(略)

皮肉なのは日本国憲法が世界で恐らく初めて、司法審査の制度を明示に規定した成文憲法であるという事実である。アメリカでは司法審査の権限が判例によって確立されたので、憲法そのものには規定がない。この権限をGHQ民政局の起草者たちは、日本国憲法に世界で初めて盛りこんだ。背景には、司法審査が国民の権利を守るうえで有効だと考えたGHQの意向がある。(略)

 ただし彼ら起草者たちは、ニューディール期のローズヴェルト大統領と最高裁のあいだの憲法解釈に関する対立をよく記憶していて、強すぎる司法が民主政治にとって害になりうるとも考えていた。そこで最高裁判事の定年制、国民審査の制度などを憲法に盛りこみ、司法の力を抑制しようともした。これに日本独自の法文化や裁判所の伝統に起因する理由が重なって、日本の最高裁はアメリカの最高裁のごとく積極的に司法審査権を行使するようにはならなかった。

 しかし日本の司法がアメリカの司法と比較して、憲法解釈について非常に抑制的かつ慎重であることは、必ずしも悪いことではない。安易な解釈改憲を目指さないのは、きわめて健全である。

(略)

 それにアメリカのように司法審査が活発に行われれば、国政を左右する難しい憲法問題がよりよく解決されるかどうかもわからない。アメリカの裁判所には、イギリスから継承した衡平法の伝統があり、たとえば違憲とされた選挙区の区割りの新しい線引きを自ら実施する裁量権さえ有している。そうした権限を持たない日本の裁判所が、単に違憲判決を出しただけでどこまで行政や立法に影響を与えられるかは難しいところだ。

(略)

 ただ日本の最高裁が憲法間題の判断に慎重であることは、アメリカと比較して2つ残念な結果を生んでいると感じる。その1つは、憲法判例が少ないために、憲法解釈が内閣法制局と憲法学者という憲法の専門家集団にもっぱら委ねられ、抽象的、学問的になりがちな点である。彼らはいわば学説の世界に生きている。

(略)

彼ら自身が自らの解釈の変更によって時に事実上解釈改憲を行ってきたとさえ言えよう。

(略)

 もう1つは、憲法の解釈に慎重であるために、司法が憲法問題に関する国民的論争に積極的には加わっていないことがある。

(略)

アメリカでは連邦最高裁の下す憲法判例が、全国的反響を呼び、論争を巻き起こし、賞賛と非難の両方を浴び、学者によって分析され、場合によっては大統領や議会さえも敵に回し、その結果特定の憲法問題に関する議論がさらに深まる。そうした例が沢山ある。日本の最高裁も論争を引き起こすのを恐れず、憲法の内容を多少変えているのではないかと思わせるような判決をもう少し頻繁に下してくれたら、国民の憲法に対する関心ももう少し高まるのではないか。

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前回の続き。


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君主たちの影響

 大戦前のヨーロッパを統治していた君主たちの寄り合いの中心にいたのは、それぞれに帝国に君臨していた三人の従兄弟、すなわちロシア皇帝ニコライ二世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム二世、そしてジョージ五世であった。二〇世紀になる頃には、ヨーロッパを統べる王侯の血統上の繋がりはほとんど融合の域にまで達していた。ヴィルヘルム二世とジョージ五世は、ともにヴィクトリア女王の孫であった。ニコライ二世の妻(略)はヴィクトリアの孫娘であった。ジョージ五世の母とニコライ二世の母はデンマーク王家の姉妹であった。(略)

こうした観点からすれば、1914年の戦争勃発は家族内の不和の総決算のようにさえ見える。

 これらの君主がそれぞれの執行機関に対して、あるいはその内部でどれほどの影響をふるっていたのかを評価するのは難しい。(略)

ロシアの政体は少なくとも理論的には独裁であり(略)エドワード七世とジョージ五世は立憲議会制のなかの君主であり、権力を直接操ることはできなかった。皇帝ヴィルヘルム二世はその中間的存在であった

(略)

エドワード七世は外交に一家言もっており、事情に精通していることを誇りにしていた。彼の態度は帝国主義的な「好戦的愛国主義者」のそれであり(略)アフガン戦争に自由党が反対したのに激怒し[こう語った](略)「余であれば、アフガニスタン全土を手に入れ、守り抜くまで満足しないだろう」。(略)

彼は成人して以来、ドイツに対して強烈な敵意を抱き続けてきた。この反感の一部は、母親であるヴィクトリア女王ヘの反発に根差していたと思われる。彼は母のことを、プロイセンに好意的過ぎると見なしてした。反感の別の一部は(略)[少年時代のドイツ人教師への]恐怖と憎悪に根差していたようである。(略)

1903年、彼はパリを公式訪問し(略)ライバル関係にあった二つの帝国主義国家が協商締結に向かう道を整えることとなった。フランスがボーア戦争に憤激していたために、西欧の二つの帝国主義国家の関係は当時なお険悪であった。他ならぬエドワードの主導で実現したこの訪問は、目覚ましい宣伝効果を発揮し、わだかまりを一掃するのに大いに貢献した。協商が調印された後、エドワードはロシアとの合意を目指して尽力し続けた。

(略)

 ジョージ五世はまったく違った。1910年に王位に就くまで、彼は外交にほとんど関心がなく、イギリスと他国の関係をごく表面的に理解していたに過ぎなかった。(略)

ジョージは父の人脈に対立するような人間関係を決して築こうとせず、裏で陰謀を企てるのを自制し、大臣たちの明確な承認なしに政策を口にするのを避けた。彼は多かれ少なかれ常にエドワード・グレイと対話し続け、ロンドンにいる時はいつも、外務大臣を頻繁に引見した。(略)

かくして、二人の君主は国制上まったく同じ権力を有していたにもかかわらず、ジョージの即位によって、外交の基本方針に対する国王の影響力は著しく低下することとなった。

(略)

[ヴィルヘルム二世は]「外務省だと?それがどうした、余が外務省だ!」と豪語した。イギリス王太子(後のエドワード七世)への手紙では、「私はドイツの政策のただ一人の主人です」とうそぶいたものである。「そして我が国は私の行くところどこにでも付き従わねばならないのです」、と。(略)

[1906年アメリカ大使館での晩餐会で]皇帝はドイツ人口の急激な増大に対応するためにはさらなる空間の確保が必要だと言い出した。(略)

フランスのかなりの地域では住民が少な過ぎて開発が必要と思われる。ドイツの人口過剰に対応して、国境を西方に後退させる気があるかどうか、フランス政府に問い質すべきではなかろうか、と。(略)

もう一つの例は、アメリカ合衆国と日本との間で戦争が起こるのではという臆測が広く報道された1908年11月のものである。この予測に興奮し、また大西洋の強国アメリカの歓心を懸命に買おうとして、皇帝はローズヴェルト大統領に手紙を送りつけ、――今度は大真面目で――プロイセンの軍団をカリフォルニア沿岸に派遣しようと申し出た。

(略)

1890年代後半、皇帝はブラジルに「新ドイツ」を建設するという計画に執心し、この地域への移民を可及的速やかに奨励し促進するよう、「苛立ちながら要求した」(略)

1899年、彼はセシル・ローズに、「メソポタミア」をドイツの植民地として確保することが自らの意志だと伝えた。義和団の乱があった1900年には、彼が中国分割を視野に入れつつ、ドイツ全軍を中国に派遣するよう提案していたことを確認できる。1903年、彼は再び「ラテンアメリカが我々の標的だ!」と宣言

(略)

 カイザーはあれこれの案を打ち出しては熱狂し、飽きるか失望するかしては捨て去った。カイザーはある週にはロシア皇帝に怒り出し、翌週には彼にのぼせ上がっていた。同盟の計画は無数にあった。例えば、露仏と結んで日英に対抗し、あるいは露英仏と和してアメリカ合衆国に立ち向かい、あるいは米中と組んで日本と三国協商に対峙し、あるいは日本とアメリカ合衆国と結んで三国協商に抗する等々。トランスヴァールの地位をめぐる緊張の後に英独の関係が冷却化した1896年の秋、皇帝は仏露と大陸連合を結び、イギリスに対抗して植民地を共同で防衛するという提案を行った。しかしながら、これとほぼ同時期に彼は、シンプルに東アフリカを除くドイツの全植民地を手放して、イギリスとの確執の原因を除去するという思いつきを弄んでいた。しかし1897年の春には、ヴィルヘルムはこの案を捨て、ドイツはフランスと緊密な関係を結ぶべきだと提案していた。

 覚書や端書きを大臣たちに矢継ぎ早に送りつけるだけでは飽き足らず、ヴィルヘルムは外国の代表者に直接、自分のアイデアを持ちかけもした。

(略)

[ロシアとの条約の草案を勝手に書き換え、宰相に激怒され]

蚊帳の外に置かれたこと、重要な外交文書に触れるのを拒まれたことに、皇帝は絶えず不平を鳴らし続けた。

(略)

ヴィルヘルムの妄想に火がついたのは、自らが無力で、真の権力の舵取りから遮断されているという意識が深まったがゆえだったのかもしれない。(略)

実際に紛争が差し迫っているような場合にはいつも、ヴィルヘルムは控えめな態度をとり、ドイツがどうしても戦争に乗り出せない理由をすぐに探し出した。フランスとの緊張が頂点に達した1905年末、ヴィルヘルムは恐怖に取り憑かれて、宰相ビューロに、国内での社会主義者のアジテーションが海外での攻撃的行動をまったく不可能にしていると伝えた。翌年、国王エドワード七世が失脚したフランス外相、テオフィル・デルカッセの元を訪れて予定外の会談を行ったという知らせに焦った彼は、宰相に、ドイツの砲兵隊と海軍は紛争に耐えられる状態にはないと警告した。ヴィルヘルムは口は達者でも、危機が迫ると踵を返して及び腰になりがちであった。

(略)

 二〇世紀初頭の君主たちを概観すると、彼らが不安定で、結局は比較的限定的な影響しか現実の政治的結果に及ぼしえながったことが窺える。

武官と文官

「[ヨーロッパの]情勢は異常です」と、エドワード・ハウス大佐は1914年5月のヨーロッパ旅行の後に、アメリカ合衆国大統領ウッドロー・ウィルソンに報告している。「まったくもって狂気じみた軍国主義が広がっています」。

(略)

高位の政治家、皇帝、国王は公の場に軍服を着て参列していた。入念に整えられた閲兵式は、国家の公的行事の欠くべからざる一部をなしていた。大量の電飾を施された軍艦をお披露目する式典が多数の群衆を引きつけ、絵入り雑誌の紙面を埋め尽くした。徴兵による軍隊は、男子国民の小宇宙とも言うべき規模に拡大していた。

(略)

 フランスでは1890年代の「ドレフェス事件」が第三共和政に関する文民と軍人の合意を破壊し、教権主義的で反動的意見の牙城と目されていた軍上層部を公衆、とくに共和主義を支持する反教権的な左派の疑惑の視線に晒すことになった。スキャンダルを受けて、相次いだ三つの急進派政府(略)が、軍隊を「共和主義化」するために攻撃的な改革案を追求した。軍隊への政府の統制が強められ、文民としての意識をもった陸軍省が正規の軍司令官に対して力を増し(略)

ドレフュス事件の時期の政治的に怪しげな「古代ローマの近衛兵風」の軍隊を、予備役の市民が戦時に国防にあたる「市民軍」へと改変しようという意図が伴っていた。

 フランスの軍部に有利な方向へと潮目が変わり始めたのは、ようやく戦争直前の数年間になってからである。(略)

1912〜4年、ポワンカレ内閣、そしてその後のポワンカレ大統領の下での親軍隊的な態度はフランスの政治と世論の複雑な再編成によって強化され、かつてなく再軍備に繋がりやすい環境が作られた。

(略)

 ドイツでも、古代ローマの近衛兵的な性格を体制が帯びていたことによって、軍部が策略をめぐらす自由をかなりまで確保することができた。参謀総長のような重要人物が明らかに政策決定を断続的に左右しており、とりわけ緊張が高まった時には影響力を行使した。軍司令官がどのような発言を行ったのかを確証するのは極めて容易である。これに対して、政府の政策決定において彼らの助言がどれだけの重みを有したのかを確認するのは一筋縄ではいかない。ロシアの大臣評議会のような合議制の決定機関が存在しない状況の下では、武官と文官とが公然と衝突する必要がなかったために、とくにそうである。

(略)

[1911年11月ロンドン駐在ドイツ海軍武官ヴィーデンマンの本国への報告では]

アガディール危機のあった夏の間にイギリスが「全艦隊を動員した」ことを、イギリスの海軍将校たちは今や公然と認めた。イギリスは「ドイツに襲いかかるために、後はフランスからの信号を待っていただけ」のように思われた。曰く、事態を悪化させたのは、「無節操で野心的で信用のおけない扇動家」たるウィンストン・チャーチルの新海軍大臣就任だ。それゆえドイツは、1807年にコペンハーゲンでイギリスがデンマーク艦隊を壊滅させた時のように、いわれのない攻撃を受ける覚悟をしなければならない。さらなる海軍増強が不可欠だ。「イギリスが心にとめるのはただ確固たる目標と、それを達成するための不屈の意志だけ」だからだ。この至急報はヴィルヘルム二世の手に渡ったが、彼はこの報告を嬉々とした書き込みで埋め尽くした。「そのとおり」、「そのとおり」、「素晴らしい」等々と。

(略)

[ヴィーデンマンが]パニックをばらまくのに苛立って、ベートマン=ホルヴェークはロンドン駐在大使のメッテルニヒ伯に、ヴィーデンマンの主張を論駁する至急報を提出するよう注文した。メッテルニヒ(略)曰く、「全イギリス」が1911年夏に「戦争の準備」をしていたのは事実だが、実のところ、これは攻撃行動の用意を意味してはいなかった。確かに、海軍には戦争を「厭わない」青年将校が多数いるが、これは他の国の軍人にも共通した態度であった。いずれにせよ、メッテルニヒは――皮肉を込めて――、イギリスではこうした問題が陸軍や海軍の将校、あるいは陸軍大臣でもなく、はたまた海軍大臣でもなく、議会に責任を負った大臣たちから成る内閣によって決定されていると述べている。

(略)

 この報告に接した皇帝は、今度は愉しげではなかった。「間違い」、「下らぬ」、「信じられぬナンセンス!」、「臆病者」。文書の余白を埋める殴り書きは叫んでいる、「余は大使の判断に同意せぬ!海軍駐在武官が正しい!」。

(略)

後年、ある高位の司令官が観察したように、ドイツでは「皇帝が一つの政策をこしらえ、宰相が別の政策をこしらえ、[そして]参謀本部も自分たちなりの答えで張り合っています」。

運命論的な戦争必要説の蔓延

ヨーロッパ中、とりわけ教養あるエリートの間で、おそらくは戦争の心構えが深まっていたことを確認できる。それは他国に対する暴力を唱える血に飢えた呼びかけのかたちではなく、むしろ、必ずしも歓迎してはいない戦争の可能性を意味する、「防衛的愛国主義」のかたちをとった。そしてこの見解は、紛争は国際政治の「生来の」特徴なのだという確信で補強されていた。英仏協商の立役者で、エドワード七世の親友にして助言者であったイーシャー子爵は、「長期的平和という考えは無為な夢想だ」と1910年に書いた。(略)

[オックスフォード大学軍事史教授]ヘンリ・スペンサー・ウィルキンソンは就任講義において、戦争は「人類の交渉の一様式」だと述べている。こうした運命論的な戦争必要説の容認は、論拠と論理の雑多な掻き集めによってもっともらしさを保っていた

(略)

 英独の双方においてかくのごとき見解を下支えしていたのが「犠牲のイデオロギー」であり、こうした考え方は、新聞や学齢期の少年たちの読み物に登場する、軍事衝突の肯定的な描写によって育まれた。(略)

国民兵役連盟によって出版されたパンフレットはすべての男子生徒に、「自分の母親や姉妹、恋人や女友達、そして出会ったすべての女性と、外国の侵略がもたらす想像も及ばぬほどの汚名との間に自分が立っている」ことを思い起こすよう勧めている。ボーイスカウト運動までもが(略)「戦争直前の数年間を通じて重視されていた強固に軍事的な特性」を有していた。

(略)

イギリスでも、防衛的、愛国主義的風潮の蔓延が立法府に爪痕を残した。1902年には国民兵役連盟を支持する庶民院議員はたった3名であったのに、1912年にはその数は180名に達したのである。

2017-04-10 第一次世界大戦はいかにして始まったか・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


夢遊病者たち 1――第一次世界大戦はいかにして始まったか

作者: クリストファー・クラーク, 小原淳

メーカー/出版社: みすず書房

発売日: 2017/01/26

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ボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合

今や、この地域での民族の絆に基づく同盟がトルコと力を合わせてオーストリアを追い出す危険があった。

 そうした紛糾の種に先手を打つために、[外相]エーレンタールは素早く併合の土台作りの準備に入った。オスマン側は莫大な補償金を得て、名ばかりの主権を売り渡した。これよりもはるかに重要だったのはロシアであり、同国が不本意ながらも首を縦に振ってくれるかどうかに計画全体の成否がかかっていた。(略)

[駐ロ大使時代の関係で]ロシア外相のアレクサンドル・イズヴォリスキーの同意を確保するのはたやすかった。(略)

実際、皇帝ニコライニ世の支持を得て、ボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合の代わりに、ロシアのトルコ両海峡への航行権の改善にオーストリアが支持を与えてくれるよう提案したのは、イズヴォリスキーであった。(略)

 こうして準備を整えていたにもかかわらず、エーレンタールが告知した1908年10月5日の併合はヨーロッパを襲う大きな危機の引き金となった。イズヴォリスキーはエーレンタールと何らかの合意に達したことを否定した。彼はその後、エーレンタールの意図についてあらかじめ説明を受けていたことさえ否定し、ボスニア=ヘルツェゴヴィナの地位を明確化するために国際会議を開催するよう要求した。

(略)

確かに、オーストリア外相の術策には外交の透明性が欠けていた。(略)

イズヴォリスキーにしてみれば、自分、そしてさらにはロシアは「抜け目ない」オーストリア外相にごまかされているのだと主張しやすくなった。しがしながら、自らの職と名声を守るべくイズヴォリスキーがこれ以上ないやり方で嘘をついたために、危機が向かうべき方向へと向かったことを示唆している証拠がある。ロシア外相は深刻な判断ミスを二つ犯した。第一に、彼は、トルコ両海峡をロシア艦隊に開放すべきだという自らの要求をロンドンが支持してくれるものと決めてかかっていた。彼はまた、併合がロシアの民族主義的な世論に与える衝撃をかなり過少評価してした。(略)

[併合]数日後のロンドン滞在中にイギリスが非協力的であることが明らかになり、サンクトペテルブルクの新聞の反応を目にしてからようやく、彼は自らの過ちに気づいて動揺し、エーレンタールの被害者を装い始めたのであった。

 エーレンタールのやり方が正しかったにせよ間違っていたにせよ、ボスニア併合の危機はバルカンの地政学的状況の転換点となった。オーストリアとロシアが、バルカン問題の解決に向けて進んで協力し合うための余地がまだ残っていたとすれば、併合危機はそれを破壊してしまった。(略)この危機は、オーストリアの隣国であり同盟国であったイタリア王国を遠ざけることにもなった。

(略)

イズヴォリスキーの誤導によって、またショービニスト的な大衆感情に焚きつけられて、ロシアの政府と世論は、併合を両国間の協調関係に対する手ひどい裏切り、許し難い恥辱、自らの死活に関わる領域での容認されざる挑発と受け止めた。ボスニア危機に続く数年間、ロシアは大規模な軍備拡張計画に乗り出し、これがヨーロッパの軍拡競争の引き金となった。

軍事国家に成長したセルビア

 二度のバルカン戦争は、バルカン半島におけるオーストリアの地位の安泰を崩し、これまでよりも大きく、強いセルビアを作り出した。王国の版図は80%以上拡大した。(略)

[セルビアの軍事的脅威について]ハプスブルク政府はしばしば軽蔑的な口調をとってきた。かつてエーレンタールは巧みな比喩を用いて、セルビアを、オーストリアの果樹園から林檎を盗み取る「悪童」に見立てたこともあった。こうした軽々しい判断はもはや許されなかった。(略)

[1912年]初頭から進められた鉄道網の発展、武器や装備の近代化、前線部隊の大幅な増強はいずれもフランスからの資金提供によるものであり、セルビアを恐るべき軍事国家に変革した。さらに、セルビアの軍事的強化が時とともにますます進展するのは間違いなかった。なんとなれば、二度のバルカン戦争でセルビアが支配下に収めた新領土には160万人が居住していたのである。

オーストリア参謀総長コンラート

[妻の死後の鬱を人妻ギーナとの不倫で癒やし、軍事・政治はほったらかし。醜聞を恐れ届けられない恋文を毎日何通も書き連ねる]

コンラートが信じていたところでは、勝利の栄光を帯びた益荒男たればこそ、離婚女性との衆目を集める結婚につきまとう社会的障害や醜聞を一蹴することができるのであった。彼はギーナへの手紙の中で、勝利の月桂樹に飾られて「バルカンでの戦争」から帰還し、豪胆さを示して彼女を娶るという夢想に興じた。(略)

外交上の挑戦に対する彼の答えは、ほとんど常に「戦争」であった。

[執拗かつ強硬にイタリアとの戦争を迫られ激怒したエーレンタールは皇帝に正式に苦情申し立て。だが皇帝の叱責にも臆さないコンラート]

前夜

1914年の春や夏には、オーストリアとセルビアの間で戦争が起こりそうには思われなかった。この年の春、二度のバルカン戦争後の消耗と厭戦気分を反映して、ベオグラードの雰囲気は比較的穏やかであった。(略)

 オーストリア側でも戦争を意識していることを示す徴候は何一つなかった。

露仏同盟

ビスマルク派が出現した。批判者たちは、なぜドイツがロシアからオーストリア=ハンガリーを、またオーストリア=ハンガリーからロシアを守る役を引き受けねばならないのかと問うた。他のどの国もそんなことはやっていないではないか。なぜドイツがいつも危機に配慮し、バランス取りをしなければならないのか。なぜ列強のなかでドイツだけが、国益を追い求めて独自の政策を行う権利を否定されねばならないのか。

(略)

 ドイツとロシアの再保障条約の不更新とともに、フランスとロシアが親善関係を樹立するための扉が開かれた。しかし、なおも多くの障害が横たわっていた。専制君主アレクサンドル三世は、共和主義的なフランスの政治エリートにしてみれば好ましくない政治的パートナーであった――そしてその逆もまた真なりであった。ロシアがフランスとの同盟から多くを得られるのかどうかも怪しかった。どのみち、ドイツと深刻に対立した場合には、ロシアはおそらくフランスの支援をあてにできるであろう。それならば、なぜフランスの支援を確保するために行動の自由を犠牲にしなければならないのか。

(略)

ロシアが例えば北アフリカにおけるフランスの目標を支持したとしても、見返りが得られるかどうかは疑わしく思われた。幾つかの問題に関して、ロシアとフランスの利害はまったく反していた。具体的に言えば、例えばトルコ両海峡に対するロシアの計画を阻止するというのがフランスの政策であった。ロシアの計画は、究極的には東地中海におけるフランスの影響力を低下させることになりかねなかったからである――この地域では、フランスはロシアよりもイギリスと共通の利害を有していた。

 なぜロシアがドイツとの良好な関係を悪化させなければならないのかを理解するのも難しかった。両帝国の間には緊張が定期的に訪れたし、ロシアからの輸入穀物にドイツが課した関税はそのなかでも最も重要な問題であったが、しかし直接の利害対立が生じることは少なかった。(略)

とくにバルカン政策に関わる領域では、サンクトペテルブルクとベルリンの良好な相互理解がヴィーンを牽制する効果をもちうるのではと期持されており、ドイツの国力という現実がまさに両隣国を繋ぎ止める論拠となっていたように思われる。(略)かくして、ドイツの中立はロシアにとって潜在的に、フランスの支持以上に有益であった。ロシアはこのことを長い間認識してきた(略)

[ならばなぜフランスの提案を受けたのか]

[平時軍事力を増員した]ドイツの穏当な陸軍法案も、条約不更新の直後に行われたために、サンクトペテルブルクに恐怖心を呼び起こす一囚となった。ビスマルクが辞職し、皇帝アレクサンドルが「悪辣なにやけ者の若造」と評した、激しやすい性格の皇帝ヴィルヘルムニ世がますます政治の頂点立つようになっていったことで、ドイツ外交の今後の針路に不安を抱かせるような疑問が投げかけられた。フランスから有利な条件で莫大な借款を望めるだろうという見通しも魅惑的であった。しかし決定的に作用したのは何をおいても、イギリスがまさに三国同盟に参加しようとしているのではという、ロシアの懸念であった。(略)

[1890年初頭英独は諸々のアフリカ領土を交換]

1891年夏に三国同盟の更新とドイツ皇帝のロンドン訪問がイギリスの新聞の親独感情を促進すると、ロシアの憂慮は高まった。(略)

極東と中央アジアで対立するイギリスが今まさに西の強力な隣国と、そしてさらにはバルカン半島でライバルであるオーストリアと勢力を結集しようとしているかのように思われた。

(略)

身に迫るこの脅威に抗って釣り合いを保つために、ロシアは胸中のためらいを脇に追いやって、フランスとの合意を公然と追求した。

(略)

ドイツを牽制するのがパリにとっての重要な案件であったのに対して、ロシアはバルカンにおいてオーストリア=ハンガリーを封じ込めることの方に関心を抱いていた。

イギリスとロシアの中国問題、日露戦争の影響

[ドイツ帝国創設後]ディズレーリは普仏戦争の世界史的意味を吟味した。(略)

「この戦争は、前世紀のフランス革命よりも重大な政治的事件、ドイツ革命を意味するもの」であった。(略)

「勢力均衡は完膚なきまでに破壊されたのであり、この変化に誰よりも苦しめられ最も影響を被るのはイギリスなのです」、と。

 ディズレーリの言葉はしばしば、来たるべきドイツとの闘争を予見したものとして語られてきた。しかし(略)このイギリスの政治家にとって、普仏戦争後に何より問題だったのはドイツの勃興ではなく、イギリスの宿敵たるロシアがクリミア戦争以降押しつけられてきた決定から解き放たれたことであった。(略)

[1856年のパリ条約は]

フランスの敗北によって破壊された。新たなフランス共和国はクリミア戦争後の協定を廃棄し、ロシアによる黒海の武装化に反対するのをやめた。イギリス一国のみでは黒海条項を強要できないことを知っていたロシアは、ついに黒海艦隊の建造を敢行した。

(略)

1894年から1905年までの間、イギリスの利害にとって「最も重大な、長期にわたる脅威」をもたらす存在はロシアであって、ドイツではなかった。当時のイギリスの政策決定者を煩わせた中国問題はその好例である。(略)

[中国北部へのロシアの伸長は日清戦争で頂点に達した]

この戦争に勝利した日本が、中国北部への影響力をめぐってロシアのライバルとして登場することとなった。(略)

[義和団の乱鎮圧で問題はさらに先鋭化。さらにボーア戦争で戦力を南アフリカに回したことで北インドをロシアから守れなくなった]

日本の手強い陸軍力によって中国との国境でロシアを脅かせば、北インドという大英帝国の周縁部における脆弱さが相殺されるであろう。日本海軍の急速な成長は、さらなる「ロシアと釣り合いを取る重り」を提供してくれる(略)

日英同盟は第一次世界大戦前の世界の国際体制の一部となった。

(略)

アフガニスタン国境へと向けられたロシアの鉄道建設の「凶暴なペース」は、状況が急速にイギリスの不利に展開していることを示していた。(略)

[日露戦争当初]ロシア陸海軍が日本に対して満足に力を発揮できなかったという事実は、イギリスの不安を少しも和らげはしなかった。キッチナー伯爵は、もしロシアが、インドを脅かすことで日本に対する敗北の帳尻合わせをしようという誘惑に駆られたらどうなるだろうかと警告した。(略)

ロシアに対する日本の勝利は、合意を目指す主張の追い風になった。(略)

新たな外務大臣となったエドワード・グレイは、「ロシアを再びヨーロッパの協議会の一員と見なす」決意を固めた。

(略)

 帝国主義的な再調整をめぐるこの錯綜した物語には、とくに強調すべき点が一つある。すなわち、イギリスの政策決定者たちにとって、フランスとの協商にせよロシアとの協定にせよ、いずれも反ドイツを第一の目的とした方策ではなかったという点である。ドイツがイギリスの構想のなかで一定の役割を演じている限りは、おおよそのところ、ドイツの位置づけはフランス、ロシアとの緊張から付随的に生じるものに過ぎなかった。

日露戦争のドイツへの影響

短期的に見れば、日露戦争はドイツに、露仏同盟と英仏協商から受けていた圧迫を抜け出す思いもよらぬ機会を提供したように思われた。より長期的にはしかし、戦争には正反対の効果があった。すなわち、日露戦争によって同盟システムは緊密化され、かつては周辺部で展開されていた緊張関係が大陸ヨーロッパの中にもちこまれ、ドイツから行動の自由を大幅に奪い去ったのである。この二つの側面が1914年の諸事件に影響を及ぼした

(略)

自国の孤立を克服する手段として東西で可能性を試そうというドイツ政府の試行錯誤は、かくして大失敗に終わった。モロッコでのドイツのフランスに対する挑戦によって、英仏協商は弱体化するどころか、むしろ強化された。(略)

[日露戦争によるチャンスも]1907年夏にイギリスとロシアが条約に調印して、ペルシャとアフガニスタン、チベットをめぐる意見対立をすべて解消したことにより、当面は潰えた。

(略)

[各国の]ドイツとの反目がドイツを孤立させる原因となっていたのではなく、むしろ新たなシステムそのものがドイツ帝国に敵意を向かわせ、そしてこの敵意を強化していた。例えばロシアの場合、東方で日本が勝利し、中央アジアをめぐるイギリスとの帝国主義的角逐が暫定的に解消されたことで、必然的に、唯一残っていた舞台に外交のスポットライトが再び当たることとなった。その舞台――オーストリア=ハンガリーとの紛争、そしてひいてはドイツとの紛争を回避するのが困難になりつつあったバルカン――においては、ロシアはなおも帝国主義の幻影を追い求めることができた。

次回に続く。

2017-04-07 夢遊病者たち―第一次世界大戦はいかにして始まったか このエントリーを含むブックマーク


夢遊病者たち 1――第一次世界大戦はいかにして始まったか

作者: クリストファー・クラーク, 小原淳

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1903年セルビア将校が王宮に乱入

国王の忠実な第一副官であったラザール・ペトロヴィチは交戦の末に武器を奪われて捕らえられ、暗闇の広間を通り抜けながらあらゆる扉口で国王の名前を呼ぶよう、暗殺者たちに強いられた。(略)

[ついに隠し扉が発見され]

ペトロヴィチは万事休すを悟り、国王に外に出てくるよう乞うことに同意した。羽目板の後ろから、国王は自分を呼ぶのは誰かと問い、副官はこれに答えた。「私です、あなたのラザです、あなたの将校たちに扉を開けてください!」、国王はこう返した。「余は将校たちの忠誠の誓いを信じてよいのだな」。陰謀者たちはそのとおりですと返答した。証言の一つによれば、締まりのない体つきで、眼鏡をかけ、不似合いな様子で赤い絹のシャツを着た国王は、王妃に手を回しながら姿を現した。国王夫妻は至近距離から雨あられのごとく弾丸を浴びせられ、蜂の巣にされた。隠し持っていたリボルバーで主人を守ろうと最後の絶望的な努力をした(と、少なくとも後に言われている)ペトロヴィチもまた殺された。無用な暴力の乱痴気が続いた。二人の死体は剣で突かれ、銃剣で切り裂かれ、内臓の一部が引きずり出されて見分けがつかなくなるまで斧でぶった切られた(略)

王妃の死体は寝室の窓の手すりに吊り上げられてから、ほとんど全裸のまま血まみれの状態で庭に投げ捨てられた。(略)

将校の一人が死体の拳をサーベルで叩き切り、死体はちぎり取られた何本かの指をばらばらとまき散らしながら地面に落下した。暗殺者たちがたばこを吸いながら自分たちの仕事の成果を点検するために庭に集まった頃、雨が降り始めた。

 1903年6月11日の事件はセルビア政治史に新たな展開を印すものであった。セルビアが近代における独立国家となってからの短い年月の大半を統治してきたオブレノヴィチ王家が、ついに断絶したのである。(略)

 なぜ、オブレノヴィチ王家はこれほどまでに惨たらしい目に遭わねばならなかったのであろうが。セルビアでは、君主政が安定した制度として存立したためしは一度としてなかった。根本的な問題の一端は、ライバル関係にある王家の併存状態にあった。オブレノヴィチ家とカラジョルジェヴィチ家という二大家門は、才スマンの支配からセルビアを解放するための戦いのなかで、傑出した役割を演じていた。

(略)

 敵対する二つの家門の組み合わせ、オスマン帝国とオーストリア帝国の狭間で危険に晒されるという地理、そして小規模な自作農に特徴づけられたひどくがさつな政治文化。こうした要素が混ざり合って、君主制度が絶えず厄介事を抱え続けている状況は揺るがし難いものになっていった。19世紀のセルビアの統治者のうちで在位中に自然死を迎えた者の少なさは際立っている。公国の創始者ミロシュ・オブレノヴィチ公は苛烈な独裁者であり、その治世は反乱の頻発に悩まされた。

(略)

 [孫の]アレクサンダルの治世下、オブレノヴィチ一族の歴史は最終局面に入った。(略)彼はセルビア憲法のうちの比較的リベラルな諸規定をないがしろにし、その代わりに新絶対主義的な統治形態を押しつけた。例えば、秘密投票制は撤回されたし、出版の自由は廃止され、幾つかの新聞が廃刊された。これに抗議した急進党の指導陣は、権力の場から締め出される羽目になった。アレクサンダルは安っぽい独裁者流のやり方で憲法を廃止したり、強要したり、停止したりした。彼は司法の独立に敬意を示さず、有力な政治家たちの命を狙うはかりごとさえ企てた。国王と王父ミランの二人三脚(略)による無謀な国家の舵取りには、王家の存立を危うくするだけの効果があったのである。

 しがない技師の未亡人であった素性の怪しい女と結婚するというアレクサンダルの決心は、状況を何ら好転させなかった。1897年、彼は当時母の女官を務めていたドラガ・マシーンと出会った。ドラガは王の12歳年上で、ベオグラードの社交界では評判が悪く、石女だと広く信じられており、数えきれぬほどの私通の噂をもって名を馳せていた。御前会議での白熱した議論の最中、王にマシーンとの結婚を思いとどまらせようと(略)内務大臣のジョルジェ・ゲンチッチは説得力のある議論をもちだした。「陛下、あの女を娶られてはなりません。彼女は誰とでも懇ろな仲なのです――私も含めて」。正直さの見返りに大臣が受けたのは、激しい平手打ちであった――ゲンチッチは後に国王殺しの陰謀集団に加担することとなる。(略)

 結婚に関する議論は、国王と父親の関係をも緊張させた。(略)

王父は常時監視下に置かれることとなり、やがてセルビアからの退去を迫られ、後には帰国を妨げられた。

パシッチ

外国支配からのセルビアの独立闘争に深く関わったのが、手始めであった。(略)

1880年代初頭、彼は急進党の近代化を指導し、同党は第一次世界大戦勃発までのセルビア政治における唯一無比の強力な勢力であり続けることとなった。

 急進党が代弁していたのは、リベラルな立憲思想と、セルビアの拡大およびバルカン半島の全セルビア人の領域的統一を求める呼びかけとを結合させた、折衷的な政策であった。(略)

[1883年のティモク反乱鎮圧後、亡命、欠席裁判で死刑判決を受けた。ロシアに亡命中コネクションを築き]

以降、彼の政策は常にロシアの政策と密接に結びつくことになる。1889年にミランが退位した後、亡命によって急進党の運動の英雄となっていたパシッチは恩赦を受けた。彼はベオグラードに帰還して民衆の拍手喝采に囲まれ、スクプシュティナ議長、さらには首都の市長に選出された。(略)

 1893年、摂政に対するクーデタの後、アレクサンダルはパシッチをセルビアの特別公使としてサンクトペテルブルクに派遣した。パシッチの政治的野望を満足させると同時に、彼をべオグラードから引き離すのがその目的であった。パシッチはロシアとセルビアの間にこれまで以上に深い関係を築くことに専心し、未来のセルビアの民族的解放は結局はロシアの助力にかかっているのだという信念を隠そうとしなかった。(略)

ミランとアレクサンダルの統治期間中、パシッチは厳しく監視され、権力から遠ざけられた。(略)

[出版物で禁固刑]1899年、王父に対する暗殺未遂事件により国中が衝撃を受けていた時も、パシッチはなおも獄中にあった。(略)

 統治体制の転換によって、パシッチの政治的経歴の黄全期が始まった。彼と彼の政党は今や、セルビアの公的領域における支配的勢力となった。(略)

 死刑宣告、長期の亡命生活、常時監視されて暮らしていたことからくる病的な猜疑心(略)注意深さや秘密主義、斜に構えたやり口が、彼の習い性であった。(略)自分の考えや決定を紙に記そうとしなかったし、それどころか口にしようとすらしなかった。パシッチには、公的なものにせよ私的なものにせよ、定期的に書類を燃やしてしまう習慣があった。彼は年経るにつれて、揉め事が起こりそうな状況では受け身の姿勢をとるのを好むようになり、最後の瞬間まで手の内を明かそうとしなくなっていった。彼は実利主義的で、敵対者たちの目にはまったくもって無原則な人間であるようにさえ映った。(略)

パシッチは国王殺しの陰謀が進行していると知らされていたが、秘密を守りつつも、実際の行動に巻き込まれるのは拒否した。宮廷襲撃の前日に作戦計画の詳細が自分のところに伝わってくると、いかにも彼らしいことに、パシッチは家族を連れて、当時はオーストリア領であったアドリア海沿岸に列車で向かい、成り行きを見守った。

テロリストたち

陰鬱で若々しく、理想に満ち満ちているが経験には乏しいという気質は、まさしく近現代のテロリスト運動の好餌であった。アルコールは好みではなかった。ロマンチックな気質ゆえに、異性愛者であったにもかかわらず、彼らは若い女性たちとの付き合いを求めなかった。彼らは民族主義者の詩作や、あるいは失地回復主義者の新聞や、パンフレットを読んだ。少年たちはセルビア民族の苦難に思いを馳せ、セルビア人以外のすべてにその責任を帰し、最底辺の同郷人が被った侮辱や屈辱をも、まるで自分たちが同じ目に遭ったかのごとく受け止めた。繰り返されたのは、オーストリア官憲によるボスニア農村住民の経済的零落という主題であった(略)犠牲が彼らの頭の中心を占め、ほとんど強迫観念になっていた。

(略)

暗殺者全員にとってベオグラードは、自分たちの政治性を急進化させ、セルビア統合の大義と結びつくためのるつぼであった。

(略)

コーヒーハウスという溜まり場は、ベオグラードに住むボスニア・セルビア人の青年たちに帰属意識を与えてくれた。(略)「どんぐりの花輪」や「緑の花輪」、「小さな金魚」といった店に足しげく通い(略)「あらゆる種類の会話」を耳にし、「学生や植字工」や「パルチザン」と、しかし何よりボスニア・セルビア人たちと交わった。若者たちはそこで腹を満たし、タバコをくゆらせ、政治談義をしたり(略)オーストリア皇位継承者の暗殺の可能性について[熟考した]

(略)

 暗殺の訓練はセルビアの首都で行われた。(略)

[自白などでベオグラードが指弾されぬよう]

指令では、暗殺を実行したら直ちに拳銃で、しくじったら青酸カリを飲んで自決することになっていた。(略)

自分たちの行動を殉死の行為と思っている少年たちには、こうしたことは満足のいくものであった。

パシッチ

[パシッチは暗殺の動きを知っていたが、それをオーストリアに伝えなかった]

 パシッチもまた、複雑な動機に基づいて行動していた。一方で彼は、明らかな裏切り行為と思われるに違いない行動をとったら、「統一か死か!」と手を結んでいるネットワークがどう出るかを懸念していた(略)

パシッチは彼らの行き過ぎを遺憾に思っていたかもしれないが、彼らを公然と否認はできなかった。実際のところ、彼らの行動に気づいていることを公表するだけでも危険であった。(略)

セルビアは過去に民族主義者のネットワークを必要としてきたが、パシッチの悲願であったボスニアとヘルツェゴヴィナを全セルビア人のために奪還する日が訪れた暁には、再びこれらのネットワークが頼りとなるはずだったのである。

(略)

彼が、とりわけ二度のバルカン戦争の惨事の後にセルビアが力を回復するためには、セルビアには平和が必要だと理解していたということである。新たに併合された地域の統合――本質的暴力とトラウマに満ちた過程であった――は、始まったばかりであった。実施せざるをえない選挙が目前に迫っていた。(略)

パシッチは平和を望んだが、セルビアの膨張の歴史の最終局面はきっと戦争なしでは達成されないだろうと信じてもいた――彼はこの信念を隠しはしなかった。列強を巻き込む大きな紛争がヨーロッパで起こればそれだけで、セルビアの「再統一」の前に立ちふさがる手強い障害が取り除かれるのに十分だろう、と。

(略)

秘密主義で、こそこそとしていて、うんざりするほど慎重。こうした特徴は(略)

テロリストたちがサライェヴォで自らの使命を果たした後にセルビアを飲み込んだ危機に対しては、危険なほどに不向きだったのである。

困ったパートナー・セルビア

[従順なパートナーであった]セルビア国王ミランは厄介なパートナーになりえた。1885年、国王は退位して、息子をオーストリアの学校に送り、自分の王国を帝国が併合するのを認めると言い出して、ヴィーンに混乱を巻き起こした。オーストリア側はこうした与太話には乗らなかった。(略)

[四ヶ月後]ミランは突如としてロシアの従属国である隣国、ブルガリアに侵攻した。その結果生じた紛争は、セルビア軍がたやすくブルガリア軍によって撃退されたためにすぐに片がついたが、この予期せぬ行動でオーストリアとロシアのデタントに波風が立たないようにするためには、精力的な列強外交が必要となったのであった。

 息子は父親よりもはるかに常軌を逸していることが明らかになった。アレクサンダルは自国に対するオーストリア=ハンガリーの支援を過大に誇り、1899年に、「セルビアの敵はオーストリア=ハンガリーの敵である」と口にしてはばからなかった――この失言にサンクトペテルブルクは目くじらを立て、ヴィーンは大いに困惑させられることとなった。しかし彼はさらに、親ロシア政策の利点に魅惑されてもいた。王父ミランが死去した後、1902年には、国王アレクサンダルは精力的にロシアの支援を請い求めるようになった。彼はサンクトペテルブルクでジャーナリストに向かって、ハプスブルク君主国は「セルビアの不倶戴天の敵」だとさえ公言している。かくして、ヴィーンの政治家たちは皆、国王一派を皆殺しにした蛮行に衝撃を受けたにもかかわらず、アレクサンダルの早世の報に接して、それほど残念には思わなかったのであった。(略)

ヴィーンの外務省は楽観的に、王位簒奪者のペータル・カラジョルジェヴィチを親オーストリア的な性質の持ち主と見なし、彼と早いこと懇ろになろうとしていた。(略)

[しかし]政治の舵取りは二重君主国への敵意を大っぴらに示す人々の手に移り、ヴィーンの政策決定者たちは、今や政府の規制から解政されたべオグラードの新聞が吐き出す民族主義的な言説をますます熱心に研究するようになった。

(略)

[セルビアとブルガリの「秘密の」関税同盟が発覚]

1906年初頭にヴィーンはこの同盟を撤回するようベオグラードに迫ったが、逆効果となった。この行為によってとりわけ、大部分のセルビア人にはどうでもいい問題であったブルガリアとの関税同盟が(略)セルビアの民族主義的世論の熱狂の的になってしまったのである。

次回に続く。

2017-04-04 〈階級〉の日本近代史 政治的平等と社会的不平等 このエントリーを含むブックマーク


〈階級〉の日本近代史 政治的平等と社会的不平等 (講談社選書メチエ)

作者: 坂野潤治

メーカー/出版社: 講談社

発売日: 2014/11/11

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はじめに

[戦後改革で]日本の左翼とリベラルは、「社会改革」という目標を見失ってしまった。

 彼は、「平和」と「自由」の擁護には熱心であった。(略)

 保守ではなく、左翼やリベラルが「国民の生活」に関心を持っていたならば、それは「平和」や「自由」と並んで「平等」の重視として表現されていたであろう。今日の言葉でいう「格差是正」である。(略)

 戦後改革と平和憲法のおかげで、「平和と自由」は守るだけでよかった。しかし、「平等」の方は、攻めが必要であった。戦後改革で貧農と労働者が解放されたとはいえ、それから今日までの約70年の間に、金持ちと貧乏人の間には新たな「格差」がたえず生まれてきた。新たな「格差」の是正に、「革新」の側はたえず努める必要があったのである。「平和と自由」という守りの二点セットだけでは不十分で、攻めの部分も含んだ「平和と自由と平等」の三点セットが必要だったのである。

 近年における「護憲」勢力の衰退は、「平和」だけではいつまでも国民を惹きつけられないことを示し、最近年における特定秘密保護法への反対運動の低調さは、「自由」だけでは国民の支持を拡大できないことを示した。

(略)

政党政治の下では選挙権を与えられただけの小作農が、1937年7月の日中戦争の勃発にはじまり、1945年8月の敗戦まで続く総力戦体制の下で、次第に副業が不要になり、ついには自作農になったのである。政党政治の下では政治的民主化しか与えられなかった小作農が総力戦体制の下で社会的民主化の恩恵に浴したのである。

 言うまでもなく、日中戦争と太平洋戦争の日本の内と外での犠牲を考えれば、その戦時体制の下で小作農が解放されたことを素直に喜ぶわけにはいかない。しかし、立憲政友会や立憲民政党、なかでも「平和と自由」を高唱してきた民政党が、戦時体制がはじまる1937年以前に、何故に小作農の解放に努めなかったのかは、今日のわれわれにも切実な疑問である。

 「護憲(平和)」と「言論の自由の擁護」だけが民主主義の課題だと思い込んできた「戦後民主主義」は、いま崩壊の寸前にある。しかし、戦前日本では、「民主主義」は実際に崩壊した。その最大の原因が、「平和と自由」だけで満足して「平等」という民主主義のもう一つの要素を無視した民主主義陣営の偏向にあったことは、先に紹介した戦時体制下における小作農の解放という一事によって示唆されている。

(略)

保守党の反軍国主義

 一九二〇年二月に、普通選挙法案に反対して議会を解散し、五月の総選挙で交通・通信の拡充(公共事業の拡充)を武器に圧勝した原敬の政友会は、戦後の自由民主党の原型ともいうべき保守政党であった。その保守政党の一党支配が、一九二五年五月の男子普通選拳法の成立によって終焉を迎えることが本節の主題である。しかし、原敬と高橋是清が率いたこの保守政党は、近年の自民党とは大きく異なり

[対外政策は協調的で反軍国主義](略)

 首相就任時から原敬は、第一次大戦後の世界ではイギリスやフランスやロシアなどの旧式の帝国主義から、アメリカを中心とする「アフター・インペリアリズム」ともいうべき世界に変わると考えていた(三谷太一郎『日本政党政治の形成』、入江昭『日本の外交』)。また彼は、参謀本部や海軍軍令部が内閣を飛び越えて直接に天皇と結びつく、いわゆる統帥権の独立についても、否定的な考えを持っていた。

(略)

高橋是清の参謀本部批判は、もっと強烈であった。彼は大蔵大臣在任中の一九二〇年九月に『内外国策私見』と題する小冊子を作り、そのなかで次のように論じている。

 「我国の制度として最も軍国主義なりとの印象を外国人に与ふるものは陸軍の参謀本部なり。(略)軍事上の機関が内閣と離れ行政官たる陸軍大臣にも属せず全然一国の政治圏外に特立して独立不羈の地位を占め、啻[ただ]に軍事上のみならず外交上に於ても経済上に於ても動[やや]もすれば特殊の機関たらんとす。(略)外は列国の誤解を招き、内は他の機関と扞格を来たすとせば寧ろ之を廃止して陸軍の行政を統一し外交上の刷新を期するに如かず」

 「内外国策」のうち「内」が参謀本部廃止論であったとすれば、「外」は対中国二一ヵ条の廃止であり

(略)

今日に至る迄欧米諸国に於て我国は火事場泥棒を働く軍国主義者なりと誤解せられ、支那に於ては依然日貨排斥の声を絶たず、唇歯輔車の両国が殆んど犬猿啻ならざる怨恨を生ずるに至りしもの、職として之れに存せずんば非ず。(略)今日の儘に放任せば、日支の関係は益々疎隔して到底円滑の道なく、英米諸国は動もすれば猜疑の眼を以て我を嫉視し、他日の禍害愈大ならんとす。是れ一大英断の必要なる所以なり」

 原敬と高橋是清の「積極政策」は戦後の自由民主党によっても踏襲されてきた。そして二〇一三年のアベノミクスの登場以降は、原よりも高橋の方が同党内の人気を集めている。しかし、その高橋は、同時に反軍国主義で反侵略主義でもあったのである。

軍部の地位の引き下げ

政界の三つ巴状況に第四の勢力が登場してきた。軍部である。

 明治維新以来、陸海軍は強大な政治勢力であり続けてきた。しかし、それは生まれながらの支配エリートの一翼としてであり、政友会や民政党や、ましてや社会民主主義勢力と競合する存在になり下がるとは、想像もしなかったに違いない。山県有朋桂太郎、寺内正毅、田中義一らを想起すれば、このことは自ら明らかになろう。桂や田中はたしかに「超然主義」を離脱して政党総裁となったけれど、政党の支配下に入ったわけではなかった。

(略)

公然と軍国主義批判を展開した美濃部達吉と、それに激しく反発して五・一五事件を準備した海軍中尉藤井斉については、再述しておきたい。それは海軍青年将校が、支配エリートとしてではなく、反体制エリートとして政治勢力化したことを示すものだからである。(略)

美濃部は浜口内閣が海軍軍令部の抵抗を押し切って軍縮条約に調印した直後に、総合雑誌『改造』誌上に、「我が国法に於ける軍部と政府との関係」と題する論文を発表した。(略)

[それまでの軍縮条約調印は]「統帥権の干犯」には当たらないという主張から一歩踏み出して、陸海軍大臣の「文官制」の必要を提唱した。この論文で彼は、むしろ従来の解釈改憲(「兵力量」の決定権は明治憲法第一二条によって内閣に与えられており、軍の作戦や用兵にかかわる第一一条の「統帥権」とは別物であるという解釈)の弱さに気づいている。

(略)

 明治末年(一九一二年)の『憲法講話』以来唱え続けてきた明治憲法の解釈、第一一条の統帥権と第一二条の編制権の相違の強調を、ここでは美濃部自ら、「理論上」の議論にすぎず「実際上」には役に立たない、と断じているのである。

 そして「実際上」に役立つ制度改革として美濃部がこの論文で提唱したのが、「軍部大臣の武官制を撤廃する」ことであった。(略)

[1913年の改正で予備役の将官でも任用可能になっていたが]

美濃部がこの論文を書いた一九三〇年までに、陸海軍大臣が現役の大将、中将以外から選ばれたことは、一度もなかった。美濃部はそれを一挙に改正して、現役でも退役の将官でもなく、普通の文官でも陸海軍大臣になれるようにすることを、提言しているのである。

 ここまでくれば、事はもはや軍縮条約による軍艦の数が日本の国防に十分か否かの問題を超え、政党内閣が陸海軍を完全な支配下に置けるか否かの問題になってくる。支配エリートとしての軍部の地位の引き下げを、美濃部は迫っているのである。

(略)

 浜口首相をはじめ、民政党内閣の閣僚は海軍軍縮の調印から批准にかけて、憲法解釈論争に巻き込まれるのを慎重に避けていた。浜口は「其の〔軍縮条約の〕決定に関し憲法第何条に因つたかと云ふ如き憲法上の学究的論議は、銘々の研究に委すべきもので吾々に其の暇はない」という態度を貫いていた。

 しかし、四月から六月にかけて新聞や総合雑誌に掲載された美濃部の憲法学からする条約調印の擁護を読んだ部外者たちは、美濃部の主張が浜口内閣のホンネだと思ったに違いない。自由主義的な政党内閣の狙いは、明治・大正の両時代に続いてきた陸海軍の支配エリートとしての地位の引き下げにあると、海軍青年将校たちは判断し[危機感を抱いた]

「統帥権の干犯」

 関東軍は満鉄沿線の守備のために駐留する現地軍であるから、その作戦用兵(「統帥」)に介入できるのは参謀総長だけである。「日本政府」が「満州の日本軍司令官」に直接命令することは、憲法第一一条の「統帥権の独立」を犯すことになる。先に紹介した憲法学者美濃部達吉に頼んでも、幣原外相の処置は守ってはくれなかったろう。

 しかし、金谷範三参謀総長は、あえてこの禁を破って、「外務大臣ニ対シ、今直ニ錦州ヲ攻撃スル意志ナシ」と確約している。この確約が幣原外相から駐日アメリカ大使に伝えられ、アメリカ大使がアメリカ国務長官に報告するところまでは、金谷にとっても想定内のことであったろう。しかし、それがアメリカの国務長官によって、事もあろうに記者会見の場で公表されてしまっては、金谷や幣原の立場は完全になくなってしまう。日本陸軍の「統帥権の独立」は、外務大臣によって無視され、その「作戦用兵」がアメリカ政府によって世界中に報じられてしまったからである。幣原外交の崩壊である。

 井上財政に統いて幣原外交も崩壊した民政党内閣は、一九三一年一二月に総辞職した。(略)

[後を受けたのは]保守政党と陸軍の連立内閣であった。(略)陸軍青年将校(「下級武士」)の信望の厚い荒木貞夫中将を陸相にして軍部を統制するという犬養政友会内閣の構想は、幕末の「公武合体」に似たものである。政友会内閣が議会を解散し、デフレ脱却を訴えて圧勝すれば、それは幕末の雄藩連合以上の正統性を得られる。(略)青年将校が、テロやクー・デターを避けて犬養内閣を支持すれば、幕末のように「尊王攘夷」に振り廻されることなしに軍備拡張に専念できる。「公武合体」による「富国強兵」の実現である。(略)

[しかし]海軍青年将校を中心とする急進派は「公武合体」運動を承知しながら、幕末の長州藩のような「尊王攘夷」路線に突き進んでいった。

(略)

[自由主義政党がデフレをもたらし、脱デフレを訴えた与党政友会に、労働者や小作農の大半が投票し、選挙は圧勝。要職についた陸軍革新派上層部は陸軍青年将校にクーデターを思いとどまらせたが、青年将校たちは、平沼騏一郎に内閣を作らせ、それを軍部圧力で辞職させ「陸軍独裁」を樹立させようとした。それはほぼ同時進行だったヒトラー内閣成立を想起させる]

五・一五事件

一九二五年の男子普通選挙制の導入は、地主・小作関係や資本・労働関係の社会的不平等を温存したままで政治的平等だけを与えたものであった。しかし、五・一五事件が総選挙で圧勝したばかりの政党内閣を倒したことによって、「政治的平等」自体が事実上機能不全に陥ってしまった。総選挙の可能性だけではなく、その意味も失われてしまったのである。

 理屈の上では、政友会の新総裁に組閣を命ずることは、天皇と元老西園寺公望には可能であった。(略)

 しかし、それでは海軍青年将校や陸軍士官学校生をいわば見殺しにした陸軍青年将校の立場がなくなる。彼らが五・一五事件に参加しなかったのは、「筋を通し犠牲を少くしてやる」ためであった。(略)政友会の政党内閣を存続させた場合には、陸軍青年将校を抑えきれなかったであろう。荒木貞夫陸相は元老西園寺を訪問して、「やはり政党内閣では困る」と述べている。(略)

 しかし、永田鉄山の言う「挙国一致」内閣の首相に、北一輝の考えていた「ブル・ファッショ](文民ファッショ)の平沼騏一郎枢密院副議長を持ってくることには、天皇が否定的態度を明らかにしていた。

(略)

「挙国一致内閣」では、普通選挙制により選挙権を得た1200万人の国民の意向の表出する回路がない。(略)

しかし、極端な独裁体制でないかぎり、民意の表出なしに四年間も国家を統治することは不可能である。しかも天皇は挙国一致内閣の成立に際して、元老西園寺に、「憲法は擁護せざるべからず。然らざれば明治天皇に相済まず」と伝えているから、極端な独裁体制は選択肢にはならない。

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2017-04-02 ヒトラー語録 このエントリーを含むブックマーク


ヒトラー語録

作者: アイバンホー・ブレダウ, 小松光昭

メーカー/出版社: 原書房

発売日: 2011/05/13

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序にかえて ルドルフ・ヘスの論文から

1921年、当時まだ学生であったルドルフ・ヘスは次のようなことを書いている。


 どんな才能を備えた人間が、ドイツの国をもう一度立派にたて直すのであろうか。(略)

 彼はその弁説によって、労働者達を徹底的な国家主義へと誘導する。国際的な社会主義であるマルクスの世界観を粉砕し、その代わりに国家社会主流の思想をうえつける。労働者たちを、いわゆるインテリに対するように教育する。つまり、自分の利益よりも全体の利益が優先する。まず国家があって次に個人があると。

 このように国家と社会とを一致させることが我々の時代の転換点となるのである。指導者たるものは時代の健全な精神指向を読みとって、これを燃えるような理念にねり上げ、これを再び大衆に投げ返さなければならない。

 独裁者が最初から広汎な大衆に深く根をおろしていればいるほど大衆を心理的に動かしやすい。

(略)

 国民を救うために独裁者はデマゴーグ、スローガン、デモ行進等、敵方の手段を利用することをも躊躇しない。

 緊急の場合は流血も辞さない。大きな問題はいつも血と鉄で解決されるものだ。独裁者の眼中にはひたすら目的達成があるのでありそのためには最も身近な友人すら踏み越える。(略)

バチカン

 ムッソリーニ自体は、奔放な男である。だが彼は譲歩をした。私と同じように、革命的な面に向った方が良かったろうに。私だったら、バチカンに兵を送りこの全組織を接収させる。そうしたあとで、「これは失礼しました。私は何も知りませんでした」と言うであろう。とにかくそれでこのバチカンというものは無くなってしまうのだから。

 [註]ヒトラーにとって、バチカンの法皇は極めて不快な存在であった。つねに、ヒトラーやムッソリーニの行なうことを妨害したので、ヒトラーは、法皇はいなくなった方がよいと考えていた。

日本

 我々は不運にも、持つ宗教を間違った。日本人が持っているような、祖国のために我が身を犠牲にすることを最善とする宗教を、我々はなぜ持たなかったのだろうか。

(略)

 小心な政治家の一派が勢力を得そうなときは、それに介入することが軍の義務であることを防衛軍は学ぶべきである。日本の軍隊がそれを行って見せたように。

マルキシズム

 解体の世界観としてのマルキシズムは、労働運動を、自分らが国家や人間社会に対し必殺の武器をもって攻撃をかける一つのチャンスであると鋭くも看破した。労働者を助けるためではない。この国際的な使徒にとって或る国の労働者が何の意味があろうか。全く問題にはならないのである。彼ら自身労働者ではないし、民衆とも関係のない文士であり、民衆と無縁の賤民である。

民主主義

 民主主義の世界では、首相や国防大臣というものは同時に多くの軍需会社の株主である。その利害関係は自らはっきりしている。

    ****

 民主主義の観点からすれば、英雄的行為や自己犠牲あるいは義務の履行などはむしろ個人を損なう重荷である。つまり、他人のため、多くの人間のため、あるいは全員のために危険をおかすなどということは愚かだというのである。だから民主主義の下で最も愚劣な機構は軍隊だということになる。他人のために我が身を銃弾にさらすという、狂ったことを考えついた人間の集まりが軍隊だからである。民主主義者の本来の姿は常に平和主義者である。愚かな他人が自分に代わってやってくれるであろうという期待のもとに、自分自身は一向に動く必要を感じない平和主義者である。そこで次のような状態が生れる。(代わりにやってくれる)愚かな者自体は必要で、それが犯罪者を捕える警察官であり兵士であるが、これらを従えている必要がある。この愚か者たちは、もちろん愚かであるが故に勇敢でなければならず、他人のために我が身を犠牲にしなければならない。そして政治の指導者は利口でなければならない。そしてこの利口な人間は臆病者である。利口な人たちは我が身を守って決して危険に近づかないから、真に利口な人たちは臆病になる。利口であればあるほど臆病になるわけで、かくて政治指導者は臆病者の極みとなる。

 このような状態は徹底的に拭い去らねばならない。(略)

 政治指導というものは個人的にも勇気ある人たちの手によって終始果敢に行なわれることが絶対に必要である。

ヒトラー自身

 私は戦場には出ない。負傷して生きてロシアの手に落ちることの危険は余りにも大きい。敵が私の肉体をいじくり廻すことも許されぬ。私が死んだら燃やす手筈となっている。

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