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2017-05-30 ブルース・スプリングスティーン自伝・その3 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


ボーン・トゥ・ラン 上: ブルース・スプリングスティーン自伝

作者: ブルーススプリングスティーン, Bruce Springsteen, 鈴木恵, 加賀山卓朗

メーカー/出版社: 早川書房

発売日: 2016/09/27

|本| Amazon.co.jp

契約

プロとしておれにいろいろと力を貸す前に、保護してもらう必要がある、とマイク・アペルから説明された。つまり、契約だ。それまで契約書にサインしたことはなく、契約の“け”の字も知らず、とことんうさんくさいと思っていた。(略)

 弁護士などひとりも知らない。これまでずっとギャラは現金でもらい、所得税は1セントも払わず、アパートメントの賃貸契約もせず、おれを縛る書式にはいっさい記入したことがなかった。クレジットカードも小切手帳も持たず、ポケットでじゃらじゃらしているものしか持っていない。大学を出た友だちもいない。おれのアズベリー・パークは、社会に適応できないブルーカラーの田舎者が住む陸の孤島だった。

(略)

おれはマイクとジミーの会社、〈ローレル・キャニオン・プロダクションズ〉と契約を結び、先方はおれのレコードを制作し、大手レーベルに売る。(略)

ソングライターとして印税の半額をもらうが、出版の収益は1セントももらわない。(略)

問題は、全経費をおれの分で賄うことになっている点だった。

(略)

 つまるところ、おれはどうしてもチャンスをつかみたかったから、マイクが契約書ではなく自分のパンツを提示していたとしても、サインしていた。やりたかった本物の仕事に、あと少しで手が届く。指先が触れているのだ。(略)

[マイクの弁護士に]契約の基本条項を説明してもらったが、けっきょく、おれは「もう知らん」としか言えなかった。どうしても業界にはいりたいのだから、この無意味な紙切れにサインするしかないなら、するまでだ。負け犬になるなら、いくらサインしてもゼロにしかならないし、大成功を収めるなら、誰も気にしない。どうしてもやりたいのだから、付随することがらは勝手にどうにかなる。びくつきながら、ゆっくり、しぶしぶ、投げやりに、契約書一枚一枚にサインしていき、最後の一枚は、ある夜、ニューヨーク・シティの駐車場に駐めた車のボンネットでサインした。終わった。

ジョン・ハモンド

 最初のオーディションは〈アトランティック・レコード〉だった。オフィスに行って、誰かの前で弾いたことしか覚えていない。興味なしといった感じだった。次にマイクがせしめてきたのは、信じられないことに、ジョン・ハモンドのところのオーディションだった。ジョン・ハモンドだ!ディラン、アレサ・フランクリン、ビリー・ホリデイと契約している伝説のプロデューサー

(略)

ゆったりかまえて両手を頭の後ろにまわし、笑顔で「何か弾いてくれ」と言った。おれは真向かいに座り、「都会で聖者になるのはたいへんだ」をやった。終わると、顔を見あげた。さっきの笑顔がまだそこにあり、こう言うのが聞こえた。「〈コロムビア・レコード〉にぜひ来てもらわないとな」(略)

 ジョンはこうつづけた。「よかったよ。ちがう曲も聴かせてくれ」おれは「成長するってこと」につづき、「イフ・アイ・ワズ・ザ・プリースト」という曲をやった。ジョンは、カトリック的なイメージは気に入ったし、紋切り型の歌詞がないのがいいと感想を述べ、クライヴ・デイヴィスにも聴かせてやらないといけないから、そのつもりでいてほしいと言った。〈コロムビア〉との契約には、成功の事例も失敗の事例もあるし、最近はクライヴの意向がすべてだと。さらに、今夜、ライブでやるところも見せてくれないかと頼んできた。マイクとおれは、何曲かやらせてくれるクラブを探してみると言い、握手してオフィスを出た。

(略)

数週間後には、ジョンにクライヴ・デイヴィスのオフィスに案内され、温かく出迎えられた。そこでも何曲か弾き、おとなしめのファンファーレで、〈コロムビア・レコード〉傘下に加わるよう誘われた。ジョンに52番街のスタジオヘ案内され、彼のプロデュースでデモを作った。当時は50年代スタイルのレコーディング・スタジオ・システムの晩年だった。誰もがスーツとネクタイの恰好で、大人だった。エンジニア、アシスタント、みな熟練の昔かたぎの職人だった。消毒剤のにおいが充満する部屋の真ん中で、十数曲をマイクロフォンの前で歌った。そのほか、ピアノを弾きながら歌った曲も何曲かある。(略)今、当時のデモを聴くと、おれならあの若造にはあんな金をつぎこまないような気がするが、つぎこんでくれたジョンに感謝するしかない。

『アズベリー・パークからの挨拶』

 できあがったものを提出するとクライヴ・デイヴィスが少しあとで突き返し、こう言った。「ヒットはないな。ラジオでかかるようなものはひとつもない」おれはビーチに行き、「夜の精」を書き、家に帰って、押韻辞典を引っぱり出して、「光で目もくらみ」を書いた。この二つがアルバムで一、ニを争うヒット曲になった。

 おれは22歳になっても、酒を飲んだことがなかった……一滴も。(略)親父の姿を見てきたから、もうたくさんだった。酒を飲むと恐ろしい、すべてを巻きこむ存在になっていたから、おれは絶対にその道には踏み出さないと誓った。(略)

 子供のころ、おれは緊張してばかりで、まばたきが自分で止められなくなった。一分間に何百回もまばたきするのだ。学校では“マバタキー”という渾名がついた。夜も昼も両手の拳を吸って、皮膚が茶色く変色し、岩のように硬いビー玉ぐらいのたこができた。だめだ、酒は向いてない。だが、ファースト・アルバムも完成間近で、ロックンロール・ドリームが現実になると思うと、また不安になった。

(略)

[気持ちを察したビッグ・ダニーが言った]

「気分がすぐれないようだな。おまえに何が必要かはわかる。ついてきな」

(略)

[〈オスプレイ〉というバーへ。出演者はシュレルズ]

 ダニーが言った。「すすったり、味わったりしないで、一気に流しこむんだ」おれは言われたとおりにした。たいしたことはない。もう一杯やった。すると、ゆっくり何かがおれを包み、初めてハイになった。もう一杯飲むと、やがてこれまでの短い人生でいちばん素敵な夜を過ごしているような気分になった。いったい何を気にして、不安になっていたのか?ぜんぶいい、びっくりするくらいいい。メスカル酒の天使たちが頭上を旋回し、おれという存在を創っている。それ以外はぜんぶ嘘っぱちだ。ザ・シュレルズが登壇した。体にじかに描いたかのようなぴったりのスパンコールのロングドレスをまとい、歌もすばらしかった。おれも一緒に歌った。孤独のおれは、近くにいる人に誰かれかまわず話しかけるようになった。

『青春の叫び』

 「ロザリータ」は音楽によるおれの自叙伝だ。「明日なき暴走」の予告篇でもあり、“町を出ていこう”という姿をもっとユーモラスに描いている。十代のころ、ある女の子とつきあっていたのだが、おれの貧しい育ちと(田舎町にしては)不良じみた外見を理由に、うちの娘に近づいたら裁判所に差し止め命令を求めると母親から脅されたことがあった。ブロンドのかわいい娘で、おれがある日の午後、彼女の実家でどうにかこうにか童貞を捨てた相手だったと思う(略)

「ロザリータ」はこちらを仲間はずれにしたり、恥をかかせたり、見下したりする連中と縁を切るために書いた曲だ。

(略)

 『青春の叫び』を制作していたころ、まだ成功は手に入れていなかった。だから自分がどこへ向かっているのか不安になることもなかった。これから成功するのだと希望を抱いていた。少なくとも、世に出るのだ、と。(略)

「ロザリータ」の出だしのように期待に胸をはずませ、バンドに気合いを入れ、怖れも知らずロードに出る。不安に駆られるのはまだ先のことだ。

(略)

 ジョン・ハモンドが〈コロムビア〉を退職した。クライヴ・デイヴィスもいなくなった。(略)

[新たなA&Rの責任者チャールズ・コッペルマンから、このままではリリースできない、と言われ、それを拒否すると、それなら販促しない、君はこのアルバムとともに業界から消えると宣告される。テキサスのラジオ局では、おたくの営業がこのアルバムは流さなくていいと言ってたと知らされる]

[うっぷんが溜まり、ある大学の校内新聞で会社をこきおろすと、新社長アーウィン・シーゲルスタインの息子がそれを目にして、父親に見せた。新社長から会食の招待]

彼は実に誠実な人物で、おれたちが自社にとって価値があると気づき、関係を修復しようとした。

(略)

 このころ、幸先のいいことがほかにもあった。ボストンで、ある男が「ロックンロールの未来を見た」のだが、その未来とは……おれのことだった。[ボニー・レイットの前座で目撃した]ジョン・ランダウが、すっかり興奮して、バンドを存亡の危機から救う絶賛レビューを書いてくれたのだ。

(略)

[その一節は]いつも文脈を無視され、せっかくの繊細さが失われてしまった……だが、今さらどうでもいい。誰かがロックンロールの未来にならなければいけないのなら、それがおれで何が悪い?

 社長との会食とミスター・ジョン・ランダウの“予言”のあと、『青春の叫び』の広告が新聞や一流の音楽雑誌に掲載された。どれもこれも「私はロックンロールの未来を見た」と叫んでいて、おれの写真はなかなか見栄えがよかった。たった一日でこうも変わるものか。レコード会社の支援が戻り、二枚のアルバムの売り上げは上向き、その間おれたちはツアーをつづけ、夜ごとライブを成功させた。そろそろ新しいアルバムを出さなければならなかった。


明日なき暴走-30th Anniversarry Edition(完全生産限定盤)(2DVD付)

アーティスト: ブルース・スプリングスティーン

メーカー/出版社: SMJ

発売日: 2015/11/25

|CD| Amazon.co.jp

「明日なき暴走」

[書いたのは]50年代と60年代のロックンロールを集中的に聴いていた時期だ。(略)夜になれば明かりを消し、ロイ・オービソンやフィル・スペクター、デュアン・エディの曲を子守歌に眠りについた。(略)

愛、仕事、セックス、娯楽。スペクターとオービソンが描く悲観的なロマンスは、愛そのものを危険と考えるおれ自身の恋愛観に重なり合う気がした。(略)

デュアン・エディからは“おれたちみたいな宿なしは……”のギター・サウンドと、“ババ……ババ”という低音を響かせるトゥワンギーなフレーズを取り入れた。ロイ・オービソンからはオペラ歌手風の朗々とした唱法を取り入れ、限られた音域であこがれのヒーローをまねしようとする若造の歌い方をした。そしてフィル・スペクターからは、世界を揺るがす厚みのある音を作ろうという野心を受け継いだ。この世で最後の一枚のような音がするレコードを作りたかったのだ。最後に聴くような……聴かずにはいられないようなレコードを。輝かしいノイズと……啓示を。エルヴィスからは疾走感を、ディランからはもちろんイメージと、何かを語るだけでなくすべてを語るという着想を受け継いでいる。

(略)

「明日なき暴走」という曲名は、前にどこかで目にした言葉だったと思う。アズベリー・パーク周辺を流す車のボンネットに、シルバーのメタルフレーク塗装で吹きつけられていた文字だったのかもしれないし、60年代前半に夢中になった改造車が登場するB級映画で見かけたのかもしれない。(略)土曜の夜に“サーキット”と化すキングズリー・ストリートとオーシャン・アベニューで、潮風と一酸化炭素の充満した空気中に漂っていたのかもしれない。

(略)

 おれはベトナム戦争時代のアメリカの子であり、暗殺されたケネディ兄弟やキング牧師、マルコムXの子だった。(略)

政治的殺人、経済格差、日常化した人種差別が厳然と、残酷に存在していた。(略)不安が世の中に広がっていた。自分たちに対して抱いていた夢がどこか汚れ、未来は永遠に保証されていない。新たな状況だった。そのハイウェイに登場人物を置くのなら、これらの問題もすべて一緒に車に載せなければならない。それがやるべきことであり、時代の要請だった。

ジョン・ランダウ

マッスル・ショールズやモータウン、ビートルズの初期の録音からわかるのは、革命的な音楽というのは、リラックスしているが訓練されたスタジオのアプローチから生まれるということだ。それがおれたちの計画であり、おれたちの姿だった。

 ジョンとおれは共犯者めいた音楽ファンとして、何かを探し求める若者として、心を通わせた。ジョンは友人であり、助言者だった。俺の創造性をかきたてる情報や、おれが自分の音楽に取り入れたい真理の探求につながる情報を持っていた。

(略)

心を動かされることについて雑談し、思ったことを友だちとして語り合う。自分の世界を広げ、死ぬまで追いかけたくなることを深夜にしゃべり合うような仲だった。

 おれは最初の二枚のアルバムから離れ、新たな声を模索していた。抒情的なスタイルを削りはじめていた。(略)

[ジョンは]頭の切れるアレンジャーであり、編集者であり、曲の基盤となるベースとドラムスを形づくることに長けていた。演奏が過剰になることを防ぎ、無駄のないサウンドに導いてくれた。おれはいろいろな要素を自由に盛りこむことや、ストリートパーティーのような雰囲気を捨て、直感に訴えるタイトな音作りをしようという気になっていた。

(略)

[ジョンは]いちばん新しい父親役でもあった。おれが親父の代わりを探そうとするのは昔からのことだった。

1975年〈ハマースミス・オデオン〉

おれたちはステージに出ていく。観客の反応は鈍く、ぎこちない雰囲気が漂っている。おれの責任だ。身をゆだねたいという気分に観客を持っていかなければならない。彼らを安心させて、自由に自分を解放してもらう。探しにきたものを見つけ、なりたい自分になってもらう。この夜、おれは演奏中に自分を失ったり、取り戻したりして、それがどうにも心地悪い。心の中では、いくつもの人格がマイクを取り合い、“なにくそ”という気持ちになろうともがいている。頭を低くして、不安だろうとなんだろうとかまわず突っこんでいく、いつものすばらしい境地に達しなければならない。

 気にしすぎているのだとわかっている。考えすぎなのだ……自分の考えていることを。親友のJ・ガイルズ・バンドのフロントマン、ピーター・ウルフにこう言われたことがある。「ステージ上でやってしまういちばん奇妙なことは、自分のしていることを考えることだ」たしかにそうだ。そのいちばん奇妙なことを、おれは今やっている!ある瞬間には、生きるか死ぬかの心境になり、トランプの家のように恐る恐る組み立てた演奏用の“自我”、仮面、見せかけ、夢の自分がばらばらに崩れるように感じられるが、次の瞬間には気分が昂揚し、本来の自分にしっかりと戻り、バンドが作り出す音楽に乗って、観客の頭上高く舞いあがる。

 それらふたつの自己のちがいは、多くの場合、紙一重だ。だからこそ面白い。だからこそ金を払って見にくる観客がいて、ライブと呼ばれる。

(略)

ステージに出ていくと、疑わしそうな観客が集まっている。もうだめだと思う。ハゲタカが旋回し、自分たちの血のにおいがする。彼らは血の味を知っている。

 すると、おれの意志が、バンドの集団意志が、何がなんでもやると決めた誓いの気持ちが戻ってくる。気合いがはいり、この一日を乗りきるぞと思う。

(略)

[ショーも終盤]おれはぐいぐい攻める。攻めすぎたかもしれないが、とにかく終演だ。きつい夜だった。おれは自分の中の葛藤に気を取られすぎたことに落胆する。レコード会社の主催する“祝勝”パーティーに気まずい気分で顔を出したあと、ひとり重い足取りでホテルの部屋に戻り、イギリス人が大胆にもチーズバーガーと称するものを食べる。(略)

 このすべては、『明日なき暴走』ボックスセットにはいっている1975年〈ハマースミス・オデオン〉でのライブ映像で見られるが、すべてがわかるわけではない。一筋縄ではいかなかったが、なかなかすごいステージだった、ということしかわからないだろう。

Eストリート・バンド

 おれはソロのアーティストとして、制作と意思決定の権限を単独で保有したかったが、本物のロックンロール・バンドだけが生み出せる、やんちゃな不良グループのような活気も欲しかった。両方のいいところを取れない理由はないと思って、ソロアーティストとして契約し、つきあいの長い地元の仲間をおれのバンドとして雇った。バックバンドでも、ただのバンドでもなく、おれのバンドとして。

 そこにはちがいがある。特徴のないサイドメンの集まりではなく、それぞれが独自の個性を持つ、主役を張れる演奏者の集団なのだ。ジェイムズ・ブラウンにはメイシオがいたし、ボ・ディドリーには右腕の“ジェローム”のほかに、“ザ・ダッチェス”と“レディ・ボ”(ギターをさげたふたりの女性!)もいた。(略)

ボ・ディドリーはベーシストよりもマラカスを振るジェロームのほうが、自分の世界やサウンドには不可欠だと考えていた。彼のバンドにベーシストはいない。言っておくが、この50年間におれたちが聴いたレコードの99.9%にはベースがはいっている!なのにボはこう言った。「かまうもんか。ベースならおれの右手で事足りる。轟音を立ててギターをかき鴫らすこの手で。でも、うちのジェロームにマスカラを振ってもらわないと始まらない」(略)

おれが望んでいたのも、そういうことだ。(略)

ライブでは、共通するアイデンティティーと、おれの曲の登場人物を象徴するものが必要だった。シェイムズ・ブラウン&フェイマス・フレイムズであり、バディ・ホリー&ザ・クリケッツであり、この“&”が実に重要なのだ。パーティーがつづき、会合がひらかれ、仲間を連れてこいよ!と集会が呼びかけられているということだ。だから、ライブではブルース・スプリングスティーン&Eストリート・バンドでいく。このほうが刺激的な響きがするし、これがおれの見たい世界だ。

借金

 『明日なき暴走』の金で買ったものといえば、スタインウェイの小型グランドピアノと、クレーガーのホイールをはかせた60年式の[6000ドルで買った]シボレー・コルヴェットだけだった。(略)あとは請求書の山だった。スタジオ代、機材レンタル代など、マイクが(おれたちが?)バンドの活動のために払わずにいたあちこちの勘定。それに弁護士費用と、追徴課税と、厄介な闘い。国税局のやる気満々な若手あたりが、あの《タイム》と《ニューズウィーク》の表紙を見て、「この男は誰だ?」とても言ったのだろう。答え――生まれてこのかた所得税を1ペニーも払ったことのない男、仲間もあらかたそうだ。バン!………国税局がやってくる。

(略)

 払いきるまでには長いことかかった。『闇に吠える街』ツアーは毎晩、誰かに金を払うために演奏したようなものだ。(略)

おれがようやく借金を返済して金欠状態から脱するのは1982年、すなわちCBSと契約して10年後、数百万枚のレコードが売れたあとだ。

次回から下巻に突入。

2017-05-27 ブルース・スプリングスティーン自伝・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


ボーン・トゥ・ラン 上: ブルース・スプリングスティーン自伝

作者: ブルーススプリングスティーン, Bruce Springsteen, 鈴木恵, 加賀山卓朗

メーカー/出版社: 早川書房

発売日: 2016/09/27

|本| Amazon.co.jp

ドゥーワップの神

ついに、おれたちは〈I・B・クラブ〉に出演できることになった。南では有名なクラブで、グリーサーの楽園だ。最高のグループがそこで演奏した。ドゥーワップのヒット曲を出しているような本物のグループが。ニッキー・アディオはおれたちの地元ではドゥーワップの神だった。そのファルセットは多くの木綿のパンティを濡らし、悪魔の背筋を凍らせたはずだ。彼は本物であり、クラブに集まる保守派のキングだった。彼がキャディラックスの「グローリア」を歌うときには、グリーサーの教会の信徒が勢ぞろいしたものだ。ダンスフロアはいっぱいになり、聞こえるのは硬く盛りあがったシャークスキンの股間が安物のナイロンストッキングをこする音だけだった。(略)

“ブリティッシュ・インヴェイジョン”から数年後の1966年でさえ、グリーサーのあいだではあいかわらず、ドゥーワップが人気の音楽だったのだ。おれはサント&ジョニーの「ホワッツ・ユア・ネーム」と、ファイブ・サテンズの「イン・ザ・スティル・オブ・ザ・ナイト」を、それこそ何度も歌った。ルート9沿いで生き残るには、何曲かのドゥーワップ・ナンバーは不可欠だった。

ソウル、ソウル、ソウル

「トライ・ソウル・レビュー」では、初めて黒人だけの観客の前で、唯一の白人グループとして演奏した。

(略)

[前座&バックバンドをやった]エキサイターズは典型的な60年代初期のボーカル・グループで、「テル・ヒム」という大ヒットがあり、おれたちが初めて知り合った本物のレコーディング・アーティストだった。

 その晩の構成は、DJつきのレコードによるダンスパーティーと、ライブ音楽(おれたち)だ。(略)

エキサイターズはスケート場のロッカールームでおれたちと会い、ゴージャスな女性シンガーたちが目の前で裸になって、しなやかな金ラメのガウンに着替えた(坊やたちが心臓麻痺を起こすロックンロール天国!)。それからステージに出て、自分たちのレコードに合わせて口パクをやり、そのあと今度はダンスフロアで、キャスティールズをバックに同じヒット曲を生で歌った。

 おれたちはひたすらソウル、ソウル、ソウルで演奏を終えた。白人のヒッピー坊やたちをうさんくさげに見ていた黒人の観客を、それなりに味方にし、恥をかくこともなくエキサイターズのバックを務めた。その日の午後に、リーダーのハーブ・ルーニーに稽古をつけてもらったのだ。彼は楽譜も読めないティーンエージャーたちの腕前を見ながら、自分のグループのバックをいちおうできるようにしてしまった。その夜、家に帰ったおれたちは、またひとつ経験を積んでいた。

(略)

 [日本製のアンプ付きで69ドルの]おれのケントのギターはとうの昔に、エピフォンの青緑色のソリッドボディに座を明け渡していた。

スティーヴ・ヴァン・ザント

フラバルー・クラブはミドルタウンにあった。中にはいると、喉元から床にまで達する異様にでかい水玉模様のネクタイを巻いてステージに立っている男が目についた。シャドウズというバンドのリードボーカルで、タートルズの「ハッピー・トゥゲサー」を演奏しているところだった。何者かは知らないが、とにかくおかしくて、バンドも息が合っていた。カバーするアルバム選びが絶妙で、アレンジとハーモニーはオリジナルに忠実で正確だった。(略)

シャドウズの五分休憩のときに、フロントマンのスティーヴ・ヴァン・ザントに紹介された。そのころにはキャスティールズの名はけっこう知れていたので、向こうはこっちを知っていた。ちょっと話をして、気が合ったところで、あっちは次の演奏に戻った。こうして最高の腐れ縁が始まった。

 以来、何年にもわたって、たがいのライブに顔を出す仲になった。(略)

 おれたちは会員二名の“褒め合い協会”だった。(略)

こいつとならわかり合える、そう思えるやつだった。スティーヴとおれは、出会ったときから、心と心、魂と魂のつきあいだった。

グリニッチ・ヴィレッジ

 ニューヨーク・シティ………バンドが富と名声を得るところだ。そこに食いこむしかない。テックスが何本か電話をかけ、なんと、グリニッチ・ヴィレッジの〈カフェ・ホワッ?〉で、土曜昼のオーディションに出られることになった。

(略)

 夢は実現しなかった。だが、ヴィレッジでの経験はでかかった。そこにいたのは無名バンドばかりだったが、どこもおれたちよりうまかった。(略)

 ジミ・ヘンドリックスが〈ホワッ?〉で演奏してから、ほんの一、二年後、キャスティールズは、毎週土曜と日曜に、同じマクドゥーガル通りの隣の会場で連続公演中のファッグスと並んで演奏するようになっていた。マザーズ・オブ・インヴェンションは角を曲がった〈ウォーウィック・シアター〉でやっていた。スティーヴとおれは、ニール・ヤングが初めてのソロ・アルバムのプロモーションをしているのを見かけたこともある。ちっちゃなフェンダーのアンプに差したトレードマークの黒いギブソンが〈ザ・ビター・エンド〉の壁に鳴り響いていた。おれたちはたいして注目されなかったが、マンハッタンのはずれから来たローティーンの女の子たちだけは追っかけになって、よく顔を見せてくれた。1968年のグリニッチ・ヴィレッジは、広くて、自由な世界だった。

ミラクル・ギブソンの正体

[1968年]長くて濃密なブルーズどっぷりのジャムが当時のはやりで、おれはこんな時代を待ち望んでいた。テックスの海兵隊あがりの友だちが(略)[使っていない]ホロウボディのギブソンをさっそく出してきた。見たこともないほど長いネックだった。

 おれはそれを家に持ち帰り、きれいに掃除して、弦を張った。不思議なギターだ。だいぶ離れたところに特大のペグがあって、弦を巻くのもやっとだった。ダンエレクトロのアンプにつなぐと、すごい!……エリック・クラプトンのサイケデリック・ペイントSGと同じ、厚みのあるどっしりとした音を吐き出した。「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」のギター・サウンドが狭い練習部屋にあふれ、おれは別次元に運ばれていった。このニュージャージーでは、誰も……誰もこんな音は出せない。

(略)

ある夜、ギターに詳しいどこかの若いやつが、おれの“ミラクル”・ギブソンの“奇跡”の正体を明かした。そいつはつかつかと近づいてきて、ギブソンの古い六弦ベースにギターの弦を張ってソロで使うなんて、すごいことを思いついたねと褒めた。おれはクールにうなずいたが、嘘だろ……六弦のベースだったのかよ!と思っていた。(略)どうりで音は濃厚だし、指板がありえないところについているわけだ。結果オーライ!

 このころ、アコースティックな曲も書き始めていた。〈オベーション〉の12弦アコースティックギターを買い、ドノバンやディランに影響を受けた“進歩的[プログレッシブ]”な曲調のオリジナル曲を書き、地元のコーヒーハウスで歌ったりしていた。別の場所ではギターを轟かせてブルーズをやっていたわけだ。

徴兵回避

[ついに召集令状が……]

1968年には、徴兵回避の情報が巷にあふれていた。(略)

 手順はこうだ――

 ステップ1 書式にぐちゃぐちゃに記入しろ。陸軍入隊の書式に自分の名前さえまともに書けない薬中、ゲイ、おねしょが治らない心神喪失者の気がぜんぶあるふりをしろ。

 ステップ2 相手を信じさせろ。ぶつぶつ言い、けつまずき、柳腰をしならせ、指示は聞かない。STPでもLSDでも、手当たりしだいやりまくる危ないやつで、ヒッピーのつまはじきになりきれ。部隊の士気をぶち壊し、規律を腐らせそうだから、役に立つどころか足を引っぱるのが関の山だ。こんなのを入隊させるなんて冗談にもならんから、とっとと帰れと言わせろ。

 ステップ3 前もって、そこそこのバイク事故を起こし、実際に脳をぐらぐらに揺らしておき、医学的な危険があるから出征できないと主張しろ。その点だけは書式に正直に書き、家に帰って“4F”――不合格――の通知を待て(おれは三つぜんぶ試し、けっきょく、思惑どおりの評価をもらった)。

 その日の朝、おれたちはほとんど黒人の若者ばかりでいっぱいのバスに乗り、アズベリー・パークからニューアークヘやってきた。ほとんど誰もが徴兵逃れの策を持っていた。(略)

 徴兵検査が終わり、陸軍をさんざんばかにしたあと、長い殺風景な廊下の突き当たりに小さなテーブルが置いてあった。そこに退屈顔の若い兵士が座っていて、人生最悪の告知をする。「残念ですが、あなたは兵役には不適格と判定されました」

(略)

 その後、一枚のチケットを渡される。言うことを聞いてここまで足を運んだ謝礼として、通りの二ブロック先のレストランでただで食事ができるわけだ。おれたちはスキップをしてそこへ行った。(略)

かび臭い硬材の長いテーブルにつき、臆病者どうし、人生でいちばんまずくて、最高の食事を食べた。

(略)

わが家のキッチンのドアをあけ、親父の前に行った。おふくろを呼んでから、どこにいたのかを言った。心配させるといけないし(略)今まで隠していたのだと。徴兵検査に落ちたことも伝えた。親父はよく「陸軍がおまえを連れてってくれる日が待ち遠しい」と軽口をたたいていたが、このときはキッチン・テーブルにつき、煙草の灰をぽんと落とし、ひと口吸い、口からゆっくり煙を吐くと、ぼそりと言った。「よかったな」

 年を重ねるにつれ、ときどき、おれの代わりに誰が行ったのだろうかと思うようになった。誰かが行ったのは確かだ。そいつはどうなったのか?生きているのか?おれには知る由もない。あとになって、『7月4日に生まれて』の著者、ロン・コーヴィックや、ベトナム戦争退役軍人会の創設者のひとり、ボビー・ミューラーに会った。ふたりとも身を挺して戦い、車椅子で戦地から帰還したのち、熱心な反戦活動家になったわけだが、おれはそのふたりに義務感と連帯感のようなものを感じた。それは生き残った者が抱くやましさのひとつの形なのかもしれないし、全国民の感情を揺さぶる戦争時代を駆け抜けた世代に共通する経験なのかもしれない。

スティール・ミル

“チャイルド”の名前が別のバンドに使われているとわかり(略)新しいバンド名を考えることになった。(略)

スティール・ミル(製鋼工場)を押したのは、たしかマッド・ドッグだったと思う。おれたちの方向性と合っていた。ブルーカラー、重厚な音楽、やかましいギター、南部の影響を受けたロックサウンド。それらを混ぜ合わせて、プログレッシブを少々加えてオリジナル曲を作れば、スティール・ミルのできあがり(略)レッド(鉛)ツェッペリンのように……原始メタルを基本にして、胸をはだけてやる原始ロックだ。

 おれたちはそのバンド名で、ディストーションを駆使したコンサートを始め、しだいに多くの客を集められるようになった。(略)

リッチモンドで大いに名前が売れ、バンド名がついたアルバムは一枚もないのに、南部でやったコンサートでは三千人を集めた。(略)二都市で四半期ごとに演奏し、入口で一ドルの入場料を取って何千ドルも家に持ち帰れる

(略)

[70年LAで勝負してみることに。トラックとステーションワゴンで大陸横断。無免のブルースも交代して運転]

〈マトリックス〉というクラブでオーディションを受け、今度は仕事をもらった。ボズ・スキャッグス、エルヴィン・ビショップ、チャーリー・マッスルホワイトの前座をやり、《サンフランシスコ・エグザミナー》紙で音楽評論家フィリップ・エルウッドから、正真正銘の激賞をいただいた。(略)「無名のバンドにこれほど圧倒されたことはない」

(略)

[次にステージにあがったのは]

グリンというバンドで、リードギターのニルス・ロフグレンがハモンド・オルガン用のレスリー・スピーカーを通してギターをかき鳴らし

(略)

ビル・グレアムのフィルモア・スタジオでデモ・レコーディングをしないかと持ちかけられた。(略)

俺たちはデモまでしか進めなかった。契約にこぎつけられなかった。

[うまいやつが沢山いるLAでは食えないと、再度、地元に帰ることに]

勝手知ったる土地に戻ってほっとした。おれたちは演奏し、金をもらった。なんて心地いいのか。トラックでニュージャージーに戻り、勝ち誇る英雄のように演奏した。勝利の証拠は……おれたちの……おれたちの……レビューだ!ニュージャージーのワルどもが西海岸の意気地なしにロックの何たるかを教えてやったと、大手紙の音楽批評家も書いているとおり、全国に名が知れ渡ったのだ?信じないなら、《アズベリー・パーク・プレス》にも載ったから読めばいい。イサカに帰還したオデュッセウスのようだと書いている。(略)

そして、腰を据えてバンドの改造を考えた。(略)

 今こそ同胞のスティーヴ・ヴァン・ザントに声をかけるときだ。仲は良かったが、ふたりともバンドのリーダー兼リードギタリストだから、同じバンドで演奏したことはなかった。スティール・ミルはそこそこ名をあげていたから、しばらくベースを弾いてやってもいいと思ったのだろう。おれたちはふたりで北の楽器店に車で行き、スティーヴはアンペグの“シースルー”・ベースとアンプを買った。(略)

スティーヴがベースを弾きはじめると、独特の弾き方と古くからの友情がバンドに新しいスピリットをもたらした。

 おれたちは元のどさまわりの日々に戻った。AからBへ、ニュージャージーからリッチモンドへ、それを繰り返す。

(略)

[スティーヴは]ボーカルとしても、心地よいハーモニーをつけてくれた。おれはずっと歌に自信がなかった。あまりいい声でもないし、音域も足りないと思っていた。

(略)

 スタイルの面では、おれはスティール・ミルのヘビー・ロック、ルーツンブギーの枠に収まりきらなくなっていた、ヴァン・モリソン、ジョー・コッカーの『マッド・ドッグス&イングリッシュメン』などを聴いていて、ソウル・ルーツに戻ろうかと考えていた。マッド・ドッグとスティーヴに、おれと一緒にまったくちがう領域に進まないかと話してみた。管楽器とシンガー合わせて10人編成の拡大ロックンロール・バンドを組み、オリジナルの新曲だけをやろうぜ。

善意の独裁体制

 おれたちはブルース・スプリングスティーン・バンドのシンガーのオーディションをひらいた。(略)

 高校生のパティ・スキャルファという応募者とも電話で話し、今回は巡業になるし、若いレディーは学校を休んじゃいけないなんて父親じみた忠告までした。

(略)

 おれは民主制とバンド名はスティール・ミルとともに死んだと宣言した。おれがバンドを率い、演奏し、歌い、バンドが演る曲をぜんぶ書く。それだけの仕事と責任を背負うなら、実権を握っても罰は当たらない。意思決定をめぐって言い争うのも、誰がおれの音楽の方向性を決めるのかといった点でごたごたするのもごめんだ。よけいないさかいを避けて、“霊感[ミューズ]”に従う自由が欲しかった。今後は責任を人にまわさない。金がまわってくるかどうかは知らないが。

(略)

 おれは善意の独裁体制を布き、創作の意見はおれが定めた枠組みの範囲内にかぎり歓迎されるが、契約書の署名欄に書くのも、レコードに記されるのもおれの名前だ。あとになって揉め事が出てくれば、ぜんぶおれのところにやってくる。だから、最後の決断はおれがする。

ボブ・ディラン

ボブ・ディランは“建国の父”だ。『追憶のハイウェイ61』、『ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム』はすごいだけのレコードではない。おれが住んでいるところの真の姿を、初めてまざまざと見せてくれた。幻想と偽りのベールをはぎ取り、闇も光もこめられている。腐敗と腐食をおおい隠すつまらない礼儀や決まりきった日常に、ディランはブーツを突っこむ。ディランの表現する世界は、おれの小さな街にもすべてあり、孤独な家庭に光を投げかけるテレビにも広がっているが、解説もなく静かに流れている。ディランはおれを鼓舞し、希望をあたえる。ほかのものが怖くて口にさえできない疑問を、15歳の少年少女にはなおさら怖い疑問を投げかける。「どんな気持ちだ……ひとりきりでいるのは?」地割れのようなギャップが世代間にあき、みんな不意に孤独を感じ、脈々とつづいてきた歴史の中に見捨てられ、羅針がくるくる回転し、心が宿なしになったような気がしている。だが、ディランは真北を指し示し、灯台になり、荒地となったこのアメリカで進むべき針路を教えてくれる。

(略)

 ボブがケネディ・センター名誉賞を受賞したとき、ボブのために「時代は変る」を歌う機会があった。その後、ふたりきりで裏の階段をおりているときに、来てくれた礼につづいて、ボブはこんな言葉をかけてくれた。「おれにできることがあれば何でも言ってくれ……」おれは考えて、こう答えた。「冗談はよしてくれ。もうしてもらった」若いミュージシャンだったおれはそういう境地を目指していたのだ。経験、そして自分が暮らしている世界を映し出す声になりたかったのだ。

次回に続く。

2017-05-25 ブルース・スプリングスティーン自伝 このエントリーを含むブックマーク


ボーン・トゥ・ラン 上: ブルース・スプリングスティーン自伝

作者: ブルーススプリングスティーン, Bruce Springsteen, 鈴木恵, 加賀山卓朗

メーカー/出版社: 早川書房

発売日: 2016/09/27

|本| Amazon.co.jp

ラジオマン

 今夜は木曜の夜、ゴミあさりの夜だ。おれたちは動員されて出動態勢を整えている。祖父の1940年式のセダンに乗りこみ、わが町の歩道にあふれるゴミの山をひとつ残らずあさりにいくのを待っている。まっさきに向かうのは、ブリンカーホフ・アベニュー。金持ちの通りで、ゴミも最上だ。狙うのはラジオ、どんな状態でもいいからとにかくラジオ。(略)

コードや真空管でいっぱいのこの“部屋”で、おれは祖父の横にじっと座る。祖父が配線し、はんだづけをし、だめな真空管を取り替えるあいだ、祖父と同じ瞬間をひたすら待つ。ゴミの山から拾ってきたラジオの死骸に電気のささやきが、ブーンという美しい空電音が、温かい夕焼けの光が、祖父とおれの血が、ふたたび流れだす瞬間を。(略)

遠くの日曜説教師の声や、ぺらぺらしゃべるコマーシャル、ビッグバンドの音楽、初期のロックンロール、連続ドラマ、そういうもののガリガリした音で満たされる。(略)

 よみがえったラジオはどれも、夏になると町はずれのあちこちの畑に出現する季節労働者のキャンプで、一台五ドルで売られる。ラジオマン。南部の黒人を主体とする季節労働者のあいだで、祖父はそう呼ばれていた。(略)

わが家はここからの上がりでどうにかやりくりしていた。

 うちはかなり貧乏だったが、おれはとくにそう思ったことはない。服も、食べるものも、家もあった。もっと貧しい友だちは、白人にも黒人にもいた。両親には職があり、母は法律事務所の秘書を、父はフォードの工員をしていた。

カトリック・スクール

 50年代のセント・ローズの修道女たちは相当に手荒なまねをした。おれは一度、何かの罰として、八年生から一年生に落とされたことがある。一年生の机の後ろに座らされ、じっくり反省させられた。勉強から解放されて喜んでいると、誰かのカフスボタンが壁に日射しを反射しているのに気づいた。その光が天井へ這いあがるのをうっとりながめていると、担任の修道女が、最前列中央に座っている肉づきのいい生徒にこう言った。「このクラスで先生の話を聞いていないとどういう目に遭うか、お客さんに教えてあげなさい」その一年坊主は無表情な顔でおれのところへやってくると、瞬きをする暇をあたえずパシンと、おれの顔を思いきりひっぱたいた。おれは今起こったことが信じられなかった。愕然とし、まっ赤になり、屈辱感でいっぱいになった。

 グラマースクールを卒業するまでには、いろんな目に遭った。手の甲を物差しでひっぱたかれたり、息ができなくなるまでネクタイを引っぱられたり、頭を殴られたり、暗い物置に閉じこめられたり、そこがおまえにふさわしい場所だとゴミ箱に押しこまれたり。50年代のカトリック・スクールでは、どれもふつうのことだったが、嫌な後味が残った。おかげでおれは、自分の宗教から永久にはぐれてしまった。

(略)

 セント・ローズの生徒だったあいだじゅう、心身ともにカトリシズムの重圧を感じていた。八年生の卒業の日、そのすべてをあとにした。終わった、二度とごめんだ、自由だ、自由だ、とうとう自由になったと、そう思った……そう信じた……かなりのあいだ。しかし歳を取るにつれて、自分の考え方や反応のしかた、ふるまい方に、そういうものが現われてきた。“いったんカトリックになったら、いつまでもカトリック”なのだと、呆然として、しょんぼりと悟った。それで自分をごまかすのをやめた。おれは自分の宗教にはあまり関わらないが、どこかでは………心の奥では、まだその一員なのだとわかっている。

 これがおれの歌の端緒になった世界だ。カトリックの教義には、おれの想像力と内面を反映する詩と危険と闇があった。すばらしいけれど厳しい美の国、空想的な物語の国、想像を絶する罰と限りない報いの国、それをおれは発見した。それはおれが“形づくられ”たとも、“はめこまれ”たとも言える、輝かしくも痛ましい場所だ。その国は白昼夢となってこれまでずっと、おれの横を一緒に歩いてきた。

ダッチマン

 おれの曾祖父は、ダッチマンと呼ばれていたから(略)ニューアムステルダム(現在のニューヨーク)から南下してきた、迷えるオランダ人の子孫だろう。だから、うちはオランダ起源のスプリングスティーンという姓を名乗っているが、ここは断然、アイルランド系とイタリア系の血が出会うところだ。(略)

 最近おれはおふくろに、どうして三人ともアイルランド人と一緒になったのさ、と尋ねた。するとおふくろはこう答えた。「イタリアの男はやたらと威張るから。そういうのはもうたくさんだったの。あたしたちは男に威張りちらされたくなかったわけ」それはそうだろう。威張りちらしたことがあるとすれば、それはむしろ、いくぶん人目を忍びながらではあれ、ゼリッリ家の三姉妹のほうだったのだから。

親父

 おれは親父のお気に入りではなかった。男というのはそういうものだと、子供心に思っていた。よそよそしくて、打ち解けず、大人の世界のことで忙しいのだと。(略)

無視されるなら、存在していないのだ。(略)

もしかしたらもっとタフに、もっと強く、もっと運動や勉強ができるようにならなくてはいけないのかもしれない。もっとましな人間に……だが、それは誰にもわからない。

 ある晩、親父がリビングでちょっとボクシングを教えてくれたことがある。おれは親父が関心を示してくれたことがうれしくて、熱心に習った。最初は順調だった。だがやがて、親父がおれの顔に平手でパンチを何発か入れ、それが少しばかりきつく当たった。ひりひりしたぐらいで怪我はしなかったが、それは一線を越えていた。何かを伝えられているのがわかった。おれたちは親子という関係を超えた暗い冥界に踏みこんでいた。おまえは侵入者だ、よそ者だ、そう言われているのを感じた。家庭内の競争相手だ、とんでもない失望のもとだと。おれは悲しくなり、へたりこんだ。親父は愛想をつかして離れていった。(略)

[ボビー・ダンガンは]土曜日の晩は父親と一緒に、〈ウォール・スタジアム〉へストックカー・レースを見にいっていた。(略)

タイヤがけたたましい悲鳴をあげる、あのハイオクタンのパラダイスヘ。

 そこではガレージで造ったアメリカ車に乗る地元の狂人たちが、ひたすら轟々とサーキットをまわるか、はたまたフィールドの中央でたがいの車をめちゃめちゃにぶつけあう。そしてそれを見ながら家族が絆を深めるのだ。

(略)

ゴムが焦げる、あの愛のサーキット。(略)おれは親父の愛とホットロッドの天国の、どちらからも追放されていたのだ!

(略)

おれの中にいやというほど、自分の姿を見てもいた。雄牛のような体をして、いつも作業着を着ているので、たしかに肉体的には強かった。晩年には何度も死を撃退している。だが、心の内には怒りだけでなく、やさしさや、臆病さ、内気さ、夢見がちな不安定さも秘めていた。それはどれもおれの外面に表われている性質で、親父は息子のそういう自分そっくりな点が気にくわなかった。腹立たしかった。そういうやつは“やわ”だった。親父は“やわ”が大嫌いだった。もちろん自分も“やわ”に育ったのだが。おれと同じでママっ子なのだから。

(略)

 ある日おれが学校から帰ってくると、親父はキッチンのテーブルで泣きだした。話を聞いてくれる相手が欲しい。自分には誰もいない、というのだ。たしかに、45歳で友人のひとりもなく、親父の不安定さのせいで、うちにはおれしか男がいなかった。親父はおれに心の中をぶちまけた。おれはショックを受け、いたたまれなくなったが、妙にいい気分でもあった。親父はおれに自分をさらけ出した。めちゃめちゃな自分を。

ザ・リバー

 妹のヴァージニアは17歳で妊娠し、六ヵ月になるまで誰もそれに気づかなかった。高校を最上級年で中退して家で勉強し、赤ん坊の父親でボーイフレンドのミッキー・シェイヴと結婚した。(略)革ジャンを着た、雄牛乗りをやる、レイクウッドの喧嘩っ早いグリース族だった。60年代の終わりには競技ロデオに参加して、ニュージャージーからテキサスまで転戦した(略)

動じない妹は、ごたごたが片づいたあと南のレイクウッドヘ引っ越していき、かわいい男の子を産み、両親と同じ労働者階級の生活を始めた。

 ヴァージニアはそれまで湯を沸かしたことも、皿を洗ったことも、床を掃除したこともなかったが、このうえなくタフな女になった。(略)ミッキーは建築の仕事に就いたが、70年代終わりの不景気でジャージー中部の仕事がなくなって職を失い、地元の高校の校務員になった。妹は〈Kマート〉の店員として働いた。ふたりは立派な若者をふたりと、美人の娘をひとり育て、今ではたくさんの孫がいる。(略)

「ザ・リバー」はその妹と義弟のために書いた曲だ。

おふくろ

 おふくろは仕事へ行く。一日たりとも休まない。病気になることもない。嫌になることもないし、愚痴もこぼさない。おふくろにとって仕事は重荷ではなく、元気の源であり、喜びなのだ。

(略)

 正直さ、一貫性、プロ意識、親切、思いやり、礼儀、気配り、自負、名誉、愛、家族を信頼し大切にすること、社会参加、自分の仕事への喜び、生きることへの不屈の欲求。そういうことをおふくろはおれに教えてくれ、おれはそれに応えられるように努力してきた。

(略)

おふくろは謎だった。わりと裕福な家庭に生まれて、いろんな贅沢に慣れていたのに、結婚してすっかり貧乏になり、奴隷のような身分になったのだから。

 伯母たちに聞いた話だと、ひどく甘やかされていたので、幼いころは“お姫さま”と呼ばれていたらしい。指一本持ちあげることもしなかったという。はあ?おれたちの話してるのは同じ人物のこと?だとすると、それはおれの会ったことのない人だ。親父の家族はおふくろを使用人のようにあつかった。

(略)

 わが家にはデートもレストランもなく、夜に街へ出ることもなかった。親父にはふつうの家庭持ちのような社交生活をする意欲も、金も、健康もなかった。(略)

おふくろはよくロマンス小説を読み、ラジオの最新ヒット曲に夢中になった。親父のほうは、ラジオのラブソングなんてのは人を結婚させて税金を払わせるための政府の策略だ、とまで言った。おふくろもふたりの姉も、人間というものをどこまでも信頼していて、箒の柄とでも愉快に会話できるほど社交的だ。親父は人嫌いで、たいていの人間を避けていた。酒場ではよく、カウンターの端にひとりでぽつんと座っていた。自分が信じるのはけちな金を狙うペテン師だらけの世界だ、と言った。「善人なんかいやしないし、いたからってなんだというんだ」

ドライブ

 あのころ、金がなかったら家族の娯楽はひとつしかない。“ドライブ”だ。ガソリンは安かった。1ガロン26セント。だから毎晩、祖父母とおふくろと妹とおれは、町はずれまで通りを流した。それはわが家の夜ごとの楽しみであり、習慣だった。暑い晩には大型のセダンの窓を大きくあけたまま、まずメイン・ストリートを走り、それから町の南西のはずれのハイウェイ33号線のきわまで行き、そこで予定どおり〈ジャージー・フリーズ〉のアイスクリームスタンドに立ち寄る。

(略)

妹とおれは車のボンネットに座って幸せのあまり黙りこみ、物音はすべてジャージーの湿気に包まれ、そばの森で嗚くコオロギの声しか聞こえない。黄色い屋外照明はネオンの炎の役割を果たし、何百もの夏の虫がひらひらくるくる飛びまわる。

(略)

北のはずれまで行くと(略)町の電波塔がそびえている。[明るい赤色の航空標識灯が縦に三つ](略)

車のラジオが50年代末の浮世離れしたドゥーワップのサウンドで輝くと、おふくろはよくこう説明してくれた。(略)

縦に並んだ三つの光は、巨人の上着についている赤い“ボタン”が光っているだけなのよと。(略)

アメリカのポピュラーソングの美しいサウンド。ケネディ暗殺という嵐の前の平和。静かなアメリカ、恋人を失った悲しみが電波に乗って漂うアメリカ。

(略)

 もう少し大きくなると、東へ突き出して夜の海に消えている暗いマナスカン突堤の石積みの上を歩いていった。突端からまっ暗な大西洋を見渡しても、遠くできらめく夜釣りの船の明かりが水平線のありかを示しているばかりだった。耳を澄ませば、はるか後ろの海岸で波がリズミカルに砕け、石積みに打ち寄せる海水が砂だらけの素足にかかる。モールス信号が聞こえた。暗く広大なその海のかなたから届く福音が。夜空には星々が明るく燃え、それがひしひしと伝わってきた……何かがイギリスからやってくるのが。

ビートルズ

最初に見つけたのは、トニー・シェリダン・アンド・ザ・ビートルズとかいう代物だった。まがいものだ。ビートルズは、おれの聞いたこともない歌手の歌う「マイ・ボニー」のバックをやっていた。おれはそれを買って聴いた。すばらしくはなかったが、しかたなかった。

 毎日のようにそこへ通ううちに、ようやくそれを目にした。その“アルバム”のジャケットを。古今を通じて最高のアルバム・ジャケット(『追憶のハイウェイ61』と互角)。そこには『ビートルズに会おう』としか書かれていない。それこそおれの望んでいたことだ。半分影になったその四つの顔、ロックンロールのラシュモア山……そしてその髪型……髪型。これはいったいなんなのか?驚きだった。衝撃だった。ラジオではわからなかった。(略)

そんな髪型をするには、尻をひっぱたかれたり、侮辱されたり、危ない目に遭ったり、拒絶されたり、のけ者にされたりするのを覚悟する必要があった。(略)

おれは侮辱は無視し、肉体的な対立はなるべく避け、せざるをえないことはした。仲間は少なく、高校じゅうで二、三人ぐらいだった。(略)

親父の最初の反応は笑いだった。(略)次は、腹を立てた。そして最後に、いきなりこう訊いてきた。「ブルース、おまえゲイか?」

(略)

すべてのビートルズのレコードのために生きていた。(略)[雑誌の写真を見て、それが]自分だと夢想した。自分のイタリア系の癖毛が奇跡のようにまっすぐになり、顔のにきびが消え、あの銀色のぴかぴかのネールスーツに身を包んでいるところを。(略)

まもなくわかった。おれはビートルズに会いたいんじゃない。ビートルズになりたいんだ。

ダンス、初めてのキス

わが家からほんの50歩のところにあるYMCAで、金曜の晩のキャンティーン(10代向けの社交の集まり)にも参加していた。これは学校の修道女たちのお達しにより厳禁されている行為だったから、異教徒に交じって金曜の夜の悪魔の儀式に参加したのがばれると、月曜の朝は、いい子ぶった八年生のクラスの前で、ひどい目に遭わされたものだ。

 このYMCAの薄暗い観覧席の上のほうで、おれは初めてのキス(マリア・エスピノーサ!)と、初めてのダンスフロアでの勃起

(略)

うまくいった晩には、町の反対側にあるセント・ローズのライバル中学(ああ!公立!)の見知らぬ女の子たちと、ずっと踊って過ごしたものだ。あのスモーキーな化粧をした、タイトスカートの女の子たちは誰だったのだろう?

(略)

 ここでおれは初めて人前でダンスをし、ウールのスカートとの接近遭遇のあとのうずくタマを抱え、家までの50歩をひょこひょこ歩いて帰った。お目付役たちは観覧席で目を光らせていて、スローなダンスのあいだは、少しでもくっつきすぎだと思えば、持っている懐中電灯でこちらを照らした。だが、できるのはそれぐらいだった。一千年の性的渇望が、懐中電灯一本で阻止できるはずもない。最後にポールとポーラの「ヘイ・ポーラ」が、どうしようもなく性能の悪い体育館のサウンドシステムから流れるころには、男も女もみんなダンスフロアに出て、自分にもたれてくる体ならどんな体でもまさぐった。

(略)

金曜日が来ると、おれはぴちぴちの黒いジーンズをはき、赤いボタンダウンのシャツと、赤い靴下、爪先の細くとがった黒のブーツを身につける。あらかじめおふくろのヘアピンをちょろまかして、きっちり押さえつけて寝ているから、前髪はブライアン・ジョーンズの髪のようにまっすぐになっている。

Honky-Tonk Bill Doggett - Live 1972 France

D


ホンキー・トンク・ア・ラ・モッド!

アーティスト: ビル・ドゲット

メーカー/出版社: ワーナーミュージック・ジャパン

発売日: 2014/07/09

|CD| Amazon.co.jp

バンド

 当時ギターをやろうとするやつがこぞってマスターしようとしたのが、ビル・ドゲットの「ホンキー・トンク」だ。信じられないほど初歩的で、理論上はどんなばかでも理解できるはずで、しかもヒット曲!ツー・ストリングのブルーズ協奏曲、泥くさくダーティなストリップの名曲で、今聞いてもかっこいい。それをドニーが教えてくれ、おれたちはふたりして斧をふるう殺人鬼のようにそれをずたずたにした。ホワイト・ストライプスよりはるか昔に、ふたりでそのブルーズをこてんぱんにした。歌う?……何に?何て?おれたちはマイクも声も持っていなかった。

(略)

1964年のニュージャージーの小さな町では、誰も歌わなかった。バックバンドを持つボーカルグループはあったし、ベンチャーズを手本に楽器だけを演奏する、ボーカルのいないバンドもあった。だが、自分たちが演奏して歌うコンボはなかった。それはビートルズがアメリカに来た際にもたらした革命のひとつだ。(略)

それ以前、典型的な地元バンドのセットリストといえば、シャンテイズの「パイプライン」、サント&ジョニーの「スリープ・ウォーク」のほかシャドウズの「アパッチ」、ベンチャーズの「アウト・オブ・リミッツ」、ピラミッズの「ペネトレーション」、キングスメンの「ホーンテッド・キャッスル」など、純粋なインストルメンタル曲ばかりだった。60年代初期の高校のダンスパーティーでは、シェヴェルズのような地元のトップバンドがマイクなしでひと晩じゅう、狂ったように踊る観客にひとことも語らずに、演奏したものだ。

「ワイプ・アウト」

 バート・ヘインズはおれたちのむちゃくちゃなドラマーで、手に負えないやつだった。(略)頼もしいドラマーなのだが、ひとつ妙な弱点があった。「ワイプ・アウト」のドラムビートがたたけないのだ。

(略)

あのころは……早い話が、ドラマーは無事に家に帰りたければ、その晩のどこかで「ワイプ・アウト」をたたかざるをえなかった。パートはそれができなかった。何をしても、いくら努力しようと、彼の手首はその初歩的なリズムをたたくのを拒んだ。(略)

 夜が更けるにつれ、観客の後ろからライバルのドラマーたちが、にやにやしながら声をかけてくる。

 「『ワイプ・アウト』をやれよ」最初は無視しているが、そのうちバートは小声で“うるせえな”と言い返すようになる。(略)「黙れ……黙れ……」そしてついに、「やってやろうじゃねえか」と言う。そこでおれたちは演奏する。で、あの華麗なドラム・ブレイクがやってきた瞬間……バートは失敗する……毎回。スティックどうしがぶつかり、単純なリズムがごちゃごちゃになり、ついにスティックを落っことす。顔がまっ赤になり、ショーは終わる。

 「くそったれどもめ!」

 まもなくバートはドラムスをやめて海兵隊にはいった。ある日の午後、駆けこんできてにやにやしながら、ベトナムヘ行くことになった、とおれたちに伝えた。ベトナムがどこにあるかも知らない、と言って笑いながら。出発の数日前、最後にもう一度だけ、マリオンとテックスのダイニングルームにやってきて、青い制服姿でドラムの前に座り、「ワイプ・アウト」に挑戦した。そのあと、ベトナムのクアンチ省で迫撃砲にやられて戦死した。ベトナム戦争で死んだフリーホールドで最初の兵隊だ。

次回に続く。

2017-05-23 モンティ・パイソンができるまで―ジョン・クリーズ自伝 このエントリーを含むブックマーク


モンティ・パイソンができるまで―ジョン・クリーズ自伝―

作者: ジョン・クリーズ, 安原和見

メーカー/出版社: 早川書房

発売日: 2016/12/20

|本| Amazon.co.jp

駆け落ちした両親

 そうするしかなかった。階級がちがう家の出だったからである。マーウッド・クロスには、身分の低い男との結婚を認める気はさらさらなかった。(略)

ミュリエル・クロスと、このうさんくさくて刺青入りで労働者階級のくせにのらくらしている馬の骨とでは、身分の差はとうてい越えがたかったのだ。なにしろ、父はせいぜい中流の下の中クラスの家の出だ。厳密に言えば中流の下の中の中である。いっぼうミュリエル・クロスは、マーウッド・クロスという傑出した競売人の家の娘であり、クロス家はほとんど中流の中クラスなのだ。ぎりぎり最低に見ても、その階級は中流の下の上の上である。

《ザ・グーン・ショー》

 私はこの番組の大ファンで、あまりに好きすぎて分析もできないぐらいだ。たんに、すばらしく面白かったというだけではない。寝室のラジオで聴き、二日後には意を決して再放送を聴く――ベッドにラジオを寝かせて片方の耳を押し当て、もう片方の耳は枕でふさいで、本放送のとき聴き逃した五つのジョーク(聴衆の笑い声のせいで)をなんとか聴き取ろうとしたものだ。それだけではなく、私と友人たちを結びつけるよすがにもなった。私たちはあの番組を崇拝し、それについて話し、出てきたジョークを言い交わし、そうすることで生きる喜びを感じていた。ある意味でカタルシスを得ていたのだ。欲求不満と退屈の毎日から引っぱりあげられ、活気づけられた。周囲で展開する、この「人生」という奇妙な事象から解放されて、はたから眺める視点を与えられたのだ。そして何年ものち、《モンティ・パイソン》の頭のおかしい一部のファンに当惑させられたとき、私ははたと気づいた。私があれほど《グーン》に夢中になった、あのときとまったく同じ感情をかれらはいま経験しているのだ。そうと気づいたら腹も立たなくなった。

 そういうわけで、《グーン》の三人に乾杯しよう。ピーター・セラーズは、あらゆる時代を通じて最高の「声優」だ。尊敬すべきハリー・シーカムは、周囲で物語が展開しているのも気にせず、ずっと野次を飛ばす馬鹿者を演じていた。スパイク・ミリガンは、あらゆる時代を通じて最高のラジオコメディの台本を書いた天才だ。敬礼!

カミングアウト

 こんなにやんちゃな気分だったのは、全員がこれから休暇に出るところだったせいだ。グレアムがミコノス島でひと月過ごすと言うので、私たちはいささか驚いた。1967年当時ですら、この島は同性愛が盛んなことで有名で、彼が行きそうな場所には思えなかったからだ。

(略)

ギリシアから戻ってくると、彼はハムステッドでパーティを開き、ピッパと私も招持された。行ってみたら大変な人だったので、全員挨拶をかわしたあと、私はほかの友人たちと抜け出して、手に汗にぎるサッカーの試合をテレビで観戦していた。それが終わってみたら、ピッパがそこに立っていた。

「グレアムは出かけちゃった」

「ああそう、でも月曜には会うから」

「あなたと話をしたがってたわ」

「へえ、なんだろう」

「タクシーのなかで話してあげる」

(タクシーのなかで)

「もう出かけなくちゃならないから、あなたに伝えてくれって頼まれたの。彼、カミングアウトしたのよ」

「出ていったり[カミングアウト]してないよ。ハムステッドに住んでるんだから」

「そうじゃなくて、つまり……つまり、自分はゲイだっていうの」

「えっ?」

「同性愛者なのよ」

「だれが同性愛者だって?」

「グレアムよ!」

「どこのグレアム?」

「グレアム・チャップマンよ!」

「それはわかってるよ!だれがゲイだってグレアムは言ってるの」

「自分がよ!」

「……ごめん、よくわからないんだけど……」

「グレアム・チャップマンがね……」

「うん」

「自分は同性愛者だって気がついたんですって。それをあなたに言っときたいって言うの、ボーイフレンドがいるんですって」

「なにこれ、なんの冗談?」

「ほんとなのよ!」

「だけどグレアムのやつ、なんでぼくを担ごうとするんだろう」

「そうじゃないんだってば!」

「賭けでもしてるわけ?」

[帰りの長い時間でようやく、ミコノス島で会ったスウェーデン人に勧められ告白を決心したことを理解]

(略)

 タクシーを降りたとき、ピッパは言った。

「グレアムがね、あなたからマーティに伝えてほしいんですって」

 そこで私はマーティに電話をかけ、まったく同じやりとりが始まった。ただし、今回はピッパのせりふを言うのは私で、私のせりふを言うのはマーティだった。唯一の違いは、マーティがかなりいらいらしていたことだ。

「ジョン、もう11時だぞ。なんで電話してきたんだよ」

「いま言ったじゃないか」

「頼むからもういい加減にしてくれよ。ちっとも面白くないぞ……」

 グレアムは常づね、彼のカミングアウトに私がショックを受けていたと言っていた。それだと倫理的な反感を覚えたという含みがないではないが、それはちがう。私は「ショックを受けた」のではなく、とても、とても、とても、とても、とても、とても、とても、とても、とても、とても、とても驚いただけだ。

 グレアムと知りあってもう五年以上たっていたが、彼はいつも短靴を履き、コーデュロイのズボンに、革の肘当てつきのスポーツジャケットを着ていた。ビールを飲み、パイプを吸い、ラグビーに興じる医学生だった。60年代には、だれかを同性愛者ではないかと考える場合に、こういう習慣は決定的な証拠とは見なされていなかった。

(略)

 こうしてグレアムはカミングアウト・パーティを開き、グレアムの友人はそろって[恋人の]デイヴィッドに会い、みんなで楽しいひとときを過ごした。いまふりかえってみると、なにより驚きだったのは(最初のニュースはべつとして)、実際にはほとんどなにも変化がなかったことだ。

収入

[コニーと結婚の約束をした際に現実的な金銭の話が出て]

コニーはかなり余裕があると言い、いっぽう私はそうは言えないことを白状しなくてはならなかった。アメリカならテレビに出ていればけっこうな稼ぎになったが、BBCで働くのは清貧の誓いを立てるようなものであり、《フロスト・レポート》で私が受け取った報酬は全シリーズを通してしめて約1400ポンドで、おまけにそこから83%の所得税を取られていた。(略)([2年後アメリカのテレビで]仕事をしている男に《モンティ・パイソン》で私が一回いくらもらってるか話したら、大笑いしてソファから滑り落ちてしまったほどだ)。

「死んだオウム」

もともとはマイケルに自動車を販売した[苦情をのらりくらりかわす]修理工場の主人の話だった。(略)

マイケルに、ギアボックスが「ちょっと固い」のは自動車が新しいからで(略)じつは高品質自動車の特徴だと説明した――それどころか、それで「欠陥車」を売りつけられたのでないことが確実にわかるというのである。その後ブレーキにも問題が出てきたが、ミスター・ギボンズはこれまた自動車が新しいからだと説明し、しかしもしブレーキに不具合が出てきたら修理に持ってきてくださいと言った。マイケルがいま不具合が出ているのだと指摘し、だから修理してもらいに持ってきてるじゃないかと言うと、ミスター・ギボンズはこう言い返した。「そうですか、ではもっと問題が出てきたら修理に持ってきてくださいね」。グレアムと私は、この人物の精神構造にすっかりほれ込んでしまった。

(略)

 《モンティ・パイソン》のファンのあいだではよく知られているが、この作品はのちに書き直されて「死んだオウム」のコントになる。そのいきさつはこうだ。《人をいらいらさせる方法》は、英国内で放送される予定はなかった。だから《モンティ・パイソン》が始まったとき、しまい込んであった台本が見つかった

(略)

しかし、自動車の販売員という設定はあまりに月並みだと思った。それで、彼にふさわしいほかの舞台を探すうちに、ペットショップという案が湧いて出た。(略)

しかし動物はなににしようか。猫はどうか。いや、子猫の死体が出てきては笑えない。ネズミはどうか。それはだめだろう。小さすぎるし、ひ弱すぎる。もっと大きいものというと、犬はどうだろうか。悪くはないが、人は犬が好きだ。目を覚まさせようと、犬の死骸をカウンターに叩きつけたりしたら――リンチされかねない。それじゃオウムは……?それだ!オウムのような漫画的な動物なら、死んでもショックを受けはしないだろう(略)

 そこで登場するのが『ロジェのシソーラス(定番の類語辞典)』(略)

これを駆使して「死んでいる」の同義語を片っ端から拾い、それでコントを書いたわけだ。(略)

[1969年の初演では]スタジオの観客の反応はぱっとしなかった。あれが魔法のように「名作」に変身したのは、五年ほど経ってからだったと思う。


Songs for Swingin Sellers

アーティスト: Peter Sellers

メーカー/出版社: Hallmark UK

発売日: 2010/04/19

|CD| Amazon.co.jp

ピーター・セラーズ

[63年から64年にかけ『ピンクの豹』『博士の異常な愛情』で]ピーターは、世界有数の喜劇役者になっていた。

(略)

同じ時期、かつて制作された最高のコメディ・アルバムをも三枚生み出している。プロデューサーはジョージ・マーティン、なかでも最高傑作は『ソングズ・フォー・スウィンギン・セラーズ』だ。また、『ピーター・セラーズの労働組合宣言』ではフレッド・カイトという労働組合員を演じて、まじめな俳優としても立派に通用することを証明してみせた。しかし、これは認めざるをえないが、1969年春にグレアムと私が会いに行ったころには、彼は気むずかしいという評判が聞こえはじめていた((略)『007/カジノロワイヤル』の撮影中、オーソン・ウェルズと同じ日にクローズアップの撮影はしたくないとピーターは言ったそうだ。オーソンのクローズアップをラッシュで見るまで待って、それを「しのぐ」方法を研究してから自分のショットを撮りたいというのである)。

 しかし、グレアムと私が会ったピーターは、これ以上はないほど親しみやすかった。私たちが自作のコントをいくつか披露すると、うれしいことに大笑いしてくれた。笑うとなると、彼は本気で腹を抱え、ひっくり返ってヒーヒー言って笑う。目の前で、いきなり輝くような笑いのエネルギーが噴き出して活気づくのだ。

(略)

[最初にアメリカの「特別番組」用のコントの仕事をくれ、それが気に入ると、『マジック・クリスチャン』の新たな草案を依頼してきた]

(略)

やすやすと別人を「演る」彼の能力は、じかに見るとまさに驚きだった。ほんの数分話すのを聞いているだけで、完璧にその人物になりきることができる。それどころか、彼の最も有名な「声」の多くは、まったくの行きずりの人物からヒントを得たものだった。

 たとえばあるとき、劇場でのショーが終わったあとで、彼はひどく退屈なファンに呼び止められた。ボーイスカウトの団長の装備で全身を固めていたのだ。なんとか逃げようとしていたら、そこでその男の話し声が耳に入った。すぐに楽屋に招き入れて、酒を勧めて話を続けさせた。彼はこうして、《グーン・ショー》の名物キャラクター、ブルーボトルの完璧な声を見つけたのだ。(略)

しかし、最高に面白い話をしてくれたのはジョージ・マーティンだった。『ソングズ・フォー・スウィンギン・セラーズ』のアルバムを制作していたとき、ジョージはコントのひとつがとくべつ好きになった。老いたシェイクスピア俳優のオーディションをしながら、薄情なエージェントが電話でしゃべっているというコントで(略)

ジョージは尋ねた。「このろくでなしのエージェントのコントだけどさ、こいつの声になんだか聞き憶えがあるんだよ。だれの声?」ピーターは答えた。「きみだよ」

(略)

[ある日、彼のフラットを訪ねるとまだ寝ていて、やがてガウン姿で現れ]

待たせて悪かったと詫びを言ったのだが、その声がふだんとまるでちがっていた。それから数秒後には、かなり鷹揚な上流階級ふうの話しかたに変わり、と思ったら今度は明らかにロンドンの下町なまりに変わった。彼は向かいのソファに腰をおろしたが、それから10秒ほどは耳慣れない東欧ふうの訛りでしゃべっていて、その後やっといつもの話しかたに戻った。(略)

ピーター・セラーズは、毎朝自分の声を見つけなくてはならないのだ。

(略)

私たちに対してはピーターはつねに親切で寛大だった。彼の下で働くのは楽しかったし、彼に暗い一面があるのに気づいてはいたが、私自身はそれをかいま見たことはない。

アドリブ

グレアムと私もそうだったが、マイケルとテリーも、またエリックも、基本的に脚本家であって演技者ではなかったということだ。だから、配役について議論になったことはない。私たちがその根っこのところで役者だったら、とうぜんいちばんいい役を求めて争っていただろう。しかし、そんな争いは起きたことがない。あるコントについてこれでよしとなったら、脚本家である私たちにとって配役は自明だった。どの役をだれがやれば、そのよさを最大限に引き出せるか、言い換えれば、だれなら台無しにせずにすみそうかということだ。

(略)

 ファンにアドリブがあったかどうか尋ねられると、私はいつも驚いていた。というのも、私たちは脚本家で即興には興味がなかったからだ。(略)

[ただ]執筆をしながらグレアムと私がやっていたことは、厳密に言えば、たしかにべつのせりふを即興で作ることだった(うまく行く組み合わせが見つかるまで)。そして当然ながら、稽古中に新しいせりふを思いついたときは試しにやってみたりもしていた。しかし、実際に番組を収録するさいに、アドリブを入れなかった理由はもうひとつある。単純に時間が足りなかったのだ。私たちは、だいたい300人の観客――観客が200人以下だと、ちゃんと笑いがとれないという不文律があった――の前で番組を収録しており(略)

収録が始まるのは8時で、10時きっかりに終了だった。午後10時を過ぎたら収録は許されなかった――なぜなのかさっぱりわからなかったが――ので、ちょうど二時間ですべてを終えなくてはならなかった。セットや衣装は変えなくてはならないし、演技や技術でミスがあればリテイクも必要だから、いつでも時間的なプレッシャーにさらされていたわけだ。(略)そんなわけで一分一秒が貴重だったから、稽古で試していないことを新たにやってみるような、そんな危険を冒すわけにはいかなかったのだ。

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2017-05-19 ボブ・ディランの生涯・その3 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


ダウン・ザ・ハイウェイ---ボブ・ディランの生涯

作者: ハワード・スーンズ, 菅野ヘッケル

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2016/11/19

|本| Amazon.co.jp

レナード・コーエン

[『セルフ・ポートレイト』が酷評され]

 ボブ・ジョンストンはディランのプロデューサーを下ろされた。ボブは何も理由を言わなかったが、ジョンストンがレナード・コーエンのツアーにヨーロッパに同行したころから溝ができていたらしい。(略)

ジョンストンはロン・コーネリアスとチャーリー・ダニエルズをバックバンドに使って、レナード・コーエンとアルバムを二作つくった。コーネリアスはディランとコーエンにはたがいにライバル意識があったのだと信じている。ふたりともユダヤ人の詩人ソングライターで、おなじような層をターゲットにしていて、コロンビア所属だった。その夏、ボブがフォレストヒルズでおこなわれたコーエンのコンサートを見にいったとき、彼らのライバル関係があきらかになった。その日はひどい雨降りで、屋外でのショーはうまくいかないと思ったコーエンはむっつりしていた。ボブが見に来ていると言われたコーエンは「だから何?」と応じた。ボブは楽屋を訪ね、ふたりはぎこちない会話を交わした。「まるで毛を逆立てた二匹の猫みたいだった」とコーネリアス。「『何だってんだよ』と片方が言うと、『だれだってどこかにいないわけにはいかないからな』『おや、そうかい?お前はどこにいるんだい?』てな具合だ」。コーネリアスはボブが、どちらのアーティストとやっていくのか、プロデューサーとバックミュージシャンたちに選ばせたがっていると感じた。(略)

彼とチャーリー・ダニエルズは話し合って、コーエンとのツアーを選んだ。彼らふたりも、ボブ・ジョンストンも二度とディランと働くことはなかったが、それはおそらく単なる偶然ではないだろう

(略)

 アル・クーパーが『新しい夜明け』を完成させるべく、自分のバンドメンバーをつれてプロデューサーとして乗り込み、アップビートな歌詞とタイトルにマッチした軽さをアルバムに与えた。

『ラスト・ワルツ』

 ザ・ローリング・サンダー・レヴューのように、『ザ・ラスト・ワルツ』もコカインで動いていた。「根深くどっぷりつかっていた」とコンサートの一部で詩を朗読したマイケル・マクルーアは言う。(略)楽屋にはコカイン吸引用の白い部屋があり(略)ニール・ヤングは鼻から白い塊をぶら下げたまま「ヘルプレス」を歌いに舞台に出てしまった。プロデューサーたちはハリウッドの光学会社に頼んで、あとでフィルムの映像からその白い塊を取り除いてもらわなければならなかった。

 舞台に上がる直前になって、ボブはプロデューサーに自分を撮影しないようにと告げた。実際、七台のカメラ全部を舞台とは反対の方向へ向けろと言った。そう要求したのは、自分のフィルム[『レナルド・アンド・クララ』]がまもなく公開されるからだった。マーティン・スコセッシはあやうく心臓マヒを起こすところだった。ボブなしでは、映画は成り立たない。何人もが列をなしてボブの楽屋に哀願しに来た。(略)

映画のためにではなく、ザ・バンドのために考えなおしてほしいと、代表団はボブにすがった。とうとうボブは演奏予定の四曲のうち、二曲だけを撮影していいと許可し、自分の要求がちゃんと守られているかどうか、舞台に人を配して監視させることにした。

 「ルイス(ケンプ)はぼくの隣に、マーティン(スコセッシ)にはビル・グレアムがつけられた。いつ撮影していいか、いつがだめかを舞台上で監視するために、だ」と『ザ・ラスト・ワルツ』のプロデューサー、ジョナサン・タプリンは言う。ボブは、オープニングナンバーの撮影許可を出していなかった。それで、映画にはボブが舞台に登場するシーンが写っていない。撮影は「いつまでも若く」からはじまった。それから気まぐれにボブが一曲目の「連れてってよ」を弾きはじめた。タプリンによると、ルイス・ケンプはどうしてよいかわからず、「ヘッドライトに立ちすくむシカ」のように凍りついてしまったという。「彼はぼくを見て言った。『カメラを止めろ!カメラを止めろ!』。ビル・グレアムが彼の上着をつかんで怒鳴った。『黙れ、出て行け』とマーティンが叫んだ。『撮りつづけろ!つづけるんだ』」。こうした混乱のなかから、最高の音楽ドキュメンタリーが生まれたのだった。

金のために世界ツアー

[125万ドルを注ぎ込んだ映画は公開即打ち切り]

『ロサンゼルス・タイムズ』紙上で、ボブは素直に語っている。「かなりの借金がある。この二、三年はよくない年だった。映画にたくさんの金を注ぎこみ、大きな家を建てて……離婚もした。カリフォルニアで離婚するには莫大な金がかかる」

 損失を埋めるため、ボブはジェリー・ワイントローブのマネジメント・スリー社(略)と契約して、利益の大きいワールドツアーをはじめた。そして日本を皮切りにオーストラリア、ヨーロッパ、アメリカ国内をまわり、78年のうちに114回のコンサートをおこない、二百万人近い観客を集めて、二千万ドルを売りあげた。「事実上、魂を売り渡すことに同意したのだ」と[ツアーの制作監督]パトリック・スタンスフィールドは言う

(略)

1978年のツアーは、基本的にはなつかしのヒット・ショーになった。日本のプロモーターが希望する演奏曲目を書いてテレックスで送ってきたのだ。ボブは、ギターテクのジョエル・バーンスタインに命じて、書店で『ボブ・ディラン全詩集』を買って来させた。「それを見ながら、長いあいだやってなかった曲を演奏した」とバーンスタインは言う。

改宗

 1978年後期のツアー中に、ボブがイエス・キリストへの信仰に熱を入れだした兆しが見えていた。(略)

ボブはファンが投げてよこした十字架を拾い、それを首にかけるようになる。それからすこしして、ボブは、彼がのちに「特別の洞察と感覚」と呼んだものを得る。ひとつ部屋のなかに、たしかにイエス・キリストがいると感じる経験をしたのだ。バスのなかで、隣の席に座っていたビリー・クロスがのぞくと、ボブはスピリチュアルソングらしい曲――「スロー・トレイン」だった――を書きつけていた。(略)

本格的にキリスト教に改宗するきっかけをつくったのは、いっときガールフレンドだったメアリ・アリス・アーテスのようだ。

(略)

新曲はどれも宗教色の濃いもので、ボブは最初、それをキャロリン・デニスに歌わせて録音するつもりでいたが、自分でレコード化することにした。(略)

プロデューサー、ジェリー・ウェクスラーは歌詞の宗教的内容に驚き、彼にも聖書の教えを説こうとするボブに困惑した。そして「きみが相手にしているのは、62歳のユダヤ人で、しかも確信的な無神論者たぞ。さっさとアルバムにとりかかろう」とたしなめた。

(略)

[ボブは]野次を気にとめていないようだった。彼は、特別な音楽につき動かされていた。シンガーたちはすすり泣くような声をあげていた。(略)

「音楽的に、ボブが高く昇っていくことが何度もあった……この世ではないところにね」とジム・ケルトナーは言う。二曲目の「アイ・ビリーヴ・イン・ユー」に入ったとき、ケルトナーは自分が泣いているのに気がついた。

(略)

 ボブのスピリチュアル・コンサートに対する批判は、初めてのエレクトリックツアーの狂乱の日々よりもすさまじかった。エレクトリックサウンドはフォーク純粋主義者を怒らせたが、宗教はすべての人の気にさわった。ボブは「それまでライヴで演奏したことのある曲はひとつも演奏しないツアーをした。それはかなりすごいことだと思った。ほかに、そういうことをしたアーティストはいないと思う」と言っている。たしかにそのとおりだったが、評論家の多くは彼をあざけりの対象にした。

(略)

 一部の人間は、ボブのキリスト教信仰は、商業上の理由からだと考えた。たとえば、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズは、ボブを「利潤[プロフィット]の預言者[プロフェット]」と呼んだ。また[ボブと会った]ロニー・ホーキンズは(略)「このレコードを売ったあとは、無神論者に変身して、何も信じちゃいない連中にレコードを売る気なんだな」。ホーキンズはしわがれ声で笑いながら、ボブにそう言った。ボブは喜ばなかった。「やつは笑わなかったよ。ただおれを見ただけでね。だが、やつのつもりはわかっていた。むこうだって、おれがそれを見抜いているのはわかっているさ。やつはレコードを売っていた。それが商売なんだ」

 しかし、ホーキンズの醒めた見方が正しいとは思えない。自分が歌う内容をボブが心から信じているのを、あらゆる徴候が示していた。(略)

『セイヴド』が売れなかった[64年以来の低ランク]だけでなく、ツアーのチケットも売れなくなりはじめた。

 コンサートに来た者は、テレビ伝道師のように説教をするディランを見せられた。(略)

売れ行き不振のため、ツアーの最終日のコンサートはキャンセルされた(略)

[ボブはジェニファー・ウォーンズを録音に誘った]

ボブのキリスト教改宗が公になったころ、ウォーンズはレナード・コーエンとつきあっていた。「レナードは家のなかを歩きまわって、手をもみながら言っていたの。『わからない。こんなこと理解できない。どうしてあの歳になってイエスのほうに行ってしまうんだ?………イエスに行くなんて理解できない』って。レナードは、ボブとのあいだに一種の同朋意識を抱いていたの。(略)ボブがクリスチャンになったことは、レナードの世界を大きく揺さぶったと思う」。ウォーンズはボブの誘いに応じ、ランダウン・スタジオで新曲を聞くことにした。

(略)

 「エヴリ・グレイン・オブ・サンド」の歌詞は、ボブの信仰がおだやかなものになったことを示していた。(略)

[秋のツアーに]ボブは、ファンが聞きたがっているだろう曲を演奏曲目に入れた。しかし、それでもコンサートの評判は改善せず(略)

ボブはこの古い友人[ゲスト参加したマイク・ブルームフィールド]がとても気に入って、バンドヘの参加を求めた。ブルームフィールドは「二週間ほしい。身辺をきれいにしてツアーに参加をする」と返事した。悲しいことにブルームフィールドは、ツアーに出られる状態まで立ちなおることなく、三ヵ月後にドラッグの過剰摂取で他界した。

[さらにジョン・レノンが凶弾に倒れ、ボブは次に、自分とミック・ジャガーがやられると考えた]


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『ショット・オブ・ラヴ』

デイヴィッド・ゲフィンはボブに、[スプリングスティーンを手がけていた]チャック・プロトキンを使ったらどうかとすすめた。(略)

ボブは当然、ライブレコーディングを好んだ。しかし、その方法をとるほかのミュージシャン(略)とちがい、ボブはへッドフォンをしない。したがって、ボブが自分の声を聞けるようにスタジオのなかにモニターを置かなくてはならない。するとフィードバックの問題が起こってくる。またボブはとんでもない時間に仕事をした。「ハート・オブ・マイン」の最初の録音は午前四時におこなわれた。「ふたりが帰り、ひとりは眠っていた。午前四時にそんなことをしているなんて、だれが考える?」。ボブはひとつの曲を二、三回演奏しただけで飽きてしまうことが多かったし、自分のヴォーカルに満足すると録音がうまくいっているかどうかに関係なく、それで終わりにしてしまうことが多かった。おかげでプロデューサーは全体のサウンドを修正するためリミックスの問題を抱えることになり、しかもボブはもとのトラックに変更を加えるのを嫌った。自然なサウンドを求めていたのだ。オーヴァーダブもいやがった。ボブが前触れもなく、楽器をピアノに替えて「エヴリィ・グレイン・オブ・サンド」をはじめたとき、プロトキンはヴォーカルのマイクが立っていないのに気がついた。この重要曲を録音する唯一のチャンスかもしれないのがわかっていたから、プロトキンは急いでそばに行き、ボブが歌うあいだずっとマイクをボブの口の前に差しだしていた。結局、それがただひとつのテイクとなり、アルバムに収められた。

 ボブの奇妙な癖がミュージシャンたちを困らせることもあった。どのセッションミュージシャンよりも多くボブのレコーディングに参加しているジム・ケルトナーも、そういう経験をしている。ボブは、まるで歌をビートからひきはなそうとするように、ギターをわざとドラムからはずして弾き、戦いを挑むかのようにケルトナーをにらみつけた。「ボブは昔からずっと、ギターとドラムの拮抗を意識していた。緊張をつくりだそうとしていたんだ」とケルトナーは言う。このこともまた、荒々しさや鋭さというボブが好む要素を音楽につけくわえた。

(略)

リンゴとのセッションにも、ボブは何時間も遅れてやってきた。そして彼が着いたころには、リンゴがロニー・ウッドやほかのミュージシャンといっしょにジャムをしていて、スタジオはパーティのような雰囲気になっていた。ボブはそのまま仲間に入って歌い、そしてくだけたヴァージョンの「ハート・オブ・マイン」が録音された。

(略)

プロトキンがいちばん手こずったのがミキシングだった。彼は昼夜を徹して、曲を鮮明にするミキシングをして、できるかぎりよい音のレコードをつくろうとした。しかし、それはボブが求めるものではなかった。「ミックスについて、ひとこと言わせてくれ。きみは音をきれいにしすぎる。これではドゥービー・ブラザーズみたいな音になっている」とボブは言った。プロトキンはボブに、『スロー・トレイン・カミング』はよくできたレコードだったじゃないかと話した。(略)ボブは「ああいうレコードはつくりたくなかった」と言った。その結果、『ショット・オブ・ラヴ』は、基本的にはラフミックスを集めただけのものとなった。

(略)

ボブが理由をあきらかにしないまま、これらの曲[「アンジェリーナ」「カリビアン・ウィンド」]の除外を決めたせいで、『ショット・オブ・ラヴ』はすぐれたアルバムになりそこねたのだった。

グレイトフル・デッド

 グレイトフル・デッドはボブの音楽を愛していた。(略)したがって1987年夏、ボブといっしょに短期間のスタジアムツアーをすることが決まったとき、メンバーたちは大喜びした。しかし、事態は思ったようにはいかなかった。

(略)

[たっぷり時間をかけ何百曲とリハーサルをしたが]

ツアーの幕が開いたときには、うまくいかなかった。「まったくリハーサルをしていないのもおなじだった。ボブがつくった曲目リストには、リハーサルでやった曲はほとんど入っていなかった」とウィアは言う。おまけにボブはキーをまちがえて演奏したし、自分のつくった歌詞を忘れているようでもあった。表向きには、背中が痛んで体調が悪いとされていた。(略)酒を飲みすぎているという噂もあった。(略)

[デキのよかった7/12の録音をライヴ・アルバムに収録したかったがボブが拒否]

かわりに、それより演奏のよくないコンサートから曲が選ばれた。ジェリー・ガルシアはアルバムのミキシングの打ちあわせのためにポイントデュームヘ行き、ボブが安物のラジカセでテープを聞いているのを知って驚いた。ミキシングについて、ボブは自分の声が高すぎると言った。「どうしろって言うんだ。撃ってやろうかと思ったよ」、ガルシアは仲間たちの前でそう怒った。結果的に、ボブの声は小さく抑えられ、そのせいで歌詞が音楽に飲みこまれて、もぐもぐ言っている印象が強くなった。(略)

[二年後デッドのコンサートに登場]

デッドの曲しか演奏しないと言い張った。しかし具合の悪いことに、ボブはデッドの曲の歌詞を知らず、散々な状態で5曲やったあと、メンバーに説得されて自分の曲を歌った。ステージを下りるとき、デッドのメンバーのひとりは「いったい何しに来たんだ?」と怒っていた。

 しかし、ボブは大いに楽しんでいた。そしてつぎの日、グレイトフル・デッドのオフィスに電話をかけ、バンドに入れてくれと言ってきた。彼が本気であることを強調したので、バンドは投票をした。ウィアはつぎのように言う。「ぼくは賛成したが、彼のことがあまり好きでないメンバーがひとりいた。あいつがいなければ、バンドに入れていたと思うよ。きっと一時的なメンバーとして入れていた」。グレイトフル・デッドのような既存のバンドヘの加入まで考えたことからも、ボブがソロアーティストとして成功を維持することのプレッシャーに耐えかねていたのがわかる。

(略)

[95年のジェリー・ガルシアの死に]

ボブはショックを受けた。そしてガルシアの葬儀に参列し――ほかの故人となった友人たちに対しては、したことがないことだった――、広報担当者を通じて追悼の辞を発表した。

(略)

[99年フィル・レッシュとジョイント・ツアー]

皮肉なことに、ボブ・ウィアによれば、1989年、ボブの加入に反対票を投じたのはレッシュだった。


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『アンダー・ザ・レッド・スカイ』

アル・クーパーはこのアルバムを「フード・アルバム」と呼ぶ。ボブが毎日、いつものフードつきスエットを着て現れ、セッションのあいだもフードをかぶったままでいたからだ。もともとレコーディングセッションであまり話をしないボブとのコミュニケーションがますますむずかしくなった。ボブの置かれた状況に悲哀を感じたデイヴィッド・ワズは「彼はくたびれきっているように見えた。それで彼への思いがいっそう強くなった。レコーディングをしているとき、彼が身動きをとれずにいるのだと感じたことがある。これだけ長いあいだやってきて、ずっと『ボブ・ディラン』でいなくてはならないのは重荷だろうと思ったよ」。しかし、ボブは、ボブ・ディランであることをやめるわけにはいかない。ほかのバンドの陰に隠れようとして、それに失敗したあとは、自分ひとりで深い穴からぬけださなくてはならなかった。

(略)

 『アンダー・ザ・レッド・スカイ』は酷評され、売れ行きも悪かったため、ボブはこのあと七年間、自作曲のスタジオアルバムをつくらなくなる。

(略)

 ボブの生活の核心にあるのは、孤独だった。二度目の結婚も、親しくそばにいてくれる人をもたらしてはくれなかった。バックシンガーの役目がなくなってしまえば、キャロリンにはもう、ツアーバスに隠れてホテルに忍びこみ、世界中を彼についてまわる理由がなかった。だから彼女は娘とともにターザナの家に残った。(略)

 ボブは非常に親しい友人にも、二度目の結婚についてほとんど話したことがない。そのため、それが短命[4年]に終わった事実を、彼がどう考えたかについては、知りようがない。しかし、失望と悲しみをもたらしたことにちがいはないだろう。弁護士がその問題を事務的に片づけるなか、彼はひたすらツアーをつづけた。(略)

[78年の豪華な世界ツアーとはちがい]

コンサートはほとんどが小さな会場でおこなわれ、夜のバス移動で体はくたくたになった。自家用飛行機など、あるはずもなかった。(略)

「ボブは街はずれの小さなモーテルを好んでいた。それで、おれたちはとんでもなくへんぴな場所に閉じこめられた」とイアン・ウォーレスは言う。(略)

[ホテル選択の]基準は変わっている。まず犬を入れてくれるところでなくてはならない。というのも、彼は愛犬のマスティフをつれて旅をするのを好むからだ。もうひとつ、部屋の窓を開けられるところでなくてはならない。エアコンがきらいだからだ。それ以外は、どこにいようと気にかけない。(略)

 いちばん重要なのは、どこへ行こうと追いかけてくる狂信的なファンを避けられるホテルに宿をとることだった。

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2017-05-17 ボブ・ディランの生涯・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


ダウン・ザ・ハイウェイ---ボブ・ディランの生涯

作者: ハワード・スーンズ, 菅野ヘッケル

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2016/11/19

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英国ツアー、『ドント・ルック・バック』

サラのことはまだ知られておらず、マスコミやファンはバエズがボブの恋人であると思っていた。しかし、ディランとバエズの関係はすでに終わっていた。バエズがボブに同行した理由のひとつは[かつて彼女がしたように、ボブが彼女を紹介してくれると思ったから](略)

しかしイギリスに着いてみると、ボブはバエズにそばにいてほしくはないようだった。イギリスでは、ほかの人がステージに出る必要がないくらい人気があるの気がついたのかもしれない。

(略)

 いちばんの悪ふざけ屋は、ボビー・ニューワースだった。(略)バエズが透けるブラウスを着ていたとき、ニューワースはボブがそれに関心を示さないのに目をつける(カメラに映っているかぎりでは、ボブはほとんどバエズを見ることも話をすることもせず、そばにいたい素振りも見せなかった)。ニューワースは、透けるブラウスを指して、意地悪く「見たくもないシースルーのブラウス」と言う。バエズは強がりにしか思えない笑い声をあげ、眠くてへばってしまいそうと言う。ニューワースは「言わせてもらうけど、あんたはずっと前からへばってるよ。自分でへばりそうなんて思う前に、とっくにへばってる」といやみを言う。カメラに映らないところで、バエズは泣いていた。妹のミミはつぎのように言う。「ジョーンは思いやりから、ボブをステージに出して世のなかに紹介したのよ。それが彼のよい足がかりとなったのに、彼はそれを踏み台にしてひとりで行ってしまったの。だから、いつもいやな気持ちがしていた。

(略)

 イギリスツアーで、ボブがバエズをステージに呼ぶことはなかった。(略)

バエズはまだ、サラの存在を知らなかった。(略)

ボブがロンドンにもどり、軽い病気にかかってホテルの部屋にこもったとき、バエズが見舞いに行くとドアを開けたのがサラだった。バエズはやっと、長いあいだボブが隠れてつきあっていた女性の存在を知った。これがディランとバエズの関係の終わりだった。


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追憶のハイウェイ61

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「ライク・ア・ローリング・ストーン」発売

「おれはいままでに聞いたことがないほど、力強い声を聞いていると感じた」[と10代のスプリングスティーン](略)

[ジョンとポールは]ビートルズ用の曲を書こうと会った日に、この曲を聞いた。「永遠につづく感じがした。すごい歌だった」とマッカートニーは語る。「(ボブは)枠を超えられることを、ぼくたち全員に示してくれた」(略)

四日後、ボブはニューポート・フォークフェスティヴァルに出演した。(略)

マイク・ブルームフィールドをフィーチャーしたポール・バターフィールドのエレクトリック・ブルースバンドが、ブルースヴィル・ワークショップの一環として演奏した。司会を務めていたアラン・ロマックスは純粋主義者の立場から中流階級出身の白人の若者がブルースを演奏することに対して軽蔑心を抱いていたため、ステージでバンドのメンバーたちを皮肉を込めて紹介した。バンドをマネジメントしようと考えていたアルバート・グロスマンは、この紹介に激怒し[二人は取っ組み合って地面を転げ回った](略)

その光景を見たボブは、重大な決意をした。新しい歌をアンプを通したバンドといっしょに演奏しようと決めたのだ。おそらくロマックスにこの種の音楽を抑制すべきでないと教えるつもりだったのだろう。

(略)

[十分なリハーサルもないまま]

ボブは、黒い革ジャケットを着てステージに登場し、最先端のバンドをバックに大音響で「マギーズ・ファーム」を歌い出した。マイク・ブルームフィールドはギターにおおいかぶさるように前屈みの姿勢で、フィードバックを効かせた洪水のような演奏をした。サウンドミックスは最悪だった。バンドの音ははっきり聞き取れなかった。さらに「マギーズ・ファーム」のとちゅうから、ビートが合わなくなった。もはや、フォークロックという代物ではなくなってしまった。それは、大音響で鳴り響く大騒音でしかなかった。

フィル・オクス

[「窓からはい出せ」の]サウンドはビルの解体に使われる鉄球のように大きなうねりを生みだしていた。ボブはリムジンのなかで同乗していたフィル・オクスにこの曲を誇らしげに聞かせた。オクスがどちらかというと冷ややかな反応を示すと、ボブは運転手に車を停めるように命じた。「降りろ、オクス」とボブは告げた。「おまえは、フォークシンガーじゃない」。さらに急所を攻めたてて「おまえは、ただのジャーナリストだ」とつけ加えた。悪意に満ちたことばだったが、オクスはボブを尊敬していたので許すことにした。その後もふたりは、1976年にオクスが自殺するまで不安定な友情関係を持ちつづけた。

『雨の日の女』

ミュージシャンたちは、曲の長さがどれだけなのか、どういった方向に展開していくのかも知らされなかった。理由は、ボブがレコーディングではアドリブを重要視していたからだ。「即応できるように、いつも注意していなければいけなかった」とベーシストのヘンリー・スチェレッキは言う。「彼のタイミングを頼りに演奏した」

(略)

ボブは、「だれでもストーンするべきだ」とくりかえし歌う新曲があると言った。さらに「ストレートな人間とこの曲を録音する気はない。だれかに何かを買いに行かせよう」と言った。(略)

「すこし飲んだだけで腰が抜けるほどなのに、おれたちは大量に飲んだ」とウェイン・モスは言う。マリファナも用意された。

(略)

 ボブはマーチングバンドのようなサウンドにしたいが、型どおりな行進曲にはしたくないと言った。(略)

ほかのミュージシャンたちも楽器を交換して演奏してボブが望んでいたラフな行進曲風のサウンドを生みだした。モスはスチェレッキにベースを弾かせろと言った。「いいとも」と言ってスチェレッキはベースをモスに渡した。彼自身はクーパーのオルガンを演奏した。もっとも足でペダルを踏めなかったので、彼は床に寝転がり両手でペダルを押した。結果「ドン、ドン、ドン、ドドドン」というコミカルなサウンドが生まれた。クーパーはタンブリンを叩いた。ケニー・バトレーはドラムキットをばらし、向かい合わせに置いたいすの背もたれの上にバスドラムを載せた。(略)

「なめらかな演奏ができないのでラフな音が出せると思った」ので右手でハイハットを、左手でスネアドラムを叩いた。ドック・バトラーは「準備ができていなかったが」ニューオリンズ風にトロンボーンを吹き鳴らした。そしてボブが加わり、「だれでもストーンするべきだ」とくりかえし歌った。

 スチェレッキは床に寝転がっていたが、頭だけは上に上げてマイクに向かって笑い声を発していた。「おれは完全にハイな状態だったので、曲が終わるまでずっと笑いっぱなしたった。わかるだろう」。すぐにボブも含めた全員が笑い出した。ミュージシャンたちがクレイジーな状態になっているのを見ていたボブは、歌詞をつまずかせたりしながら歌った。「おれたちはすばらしい時をすごしたよ」とモスは言う。四分半後、全員が楽器をその場に置き、プレイバックを聞くためにコントロールルームに移動した。

(略)

[タイトルを訊かれ]

 「『雨の日の女』だ」。ボブは、ニコリともせずに答えた。さらに驚いたことに、いま録音したのはリハーサルでもなかった。いまのが完成だった。

[一ヶ月後に発売されチャート2位に]

[『ブロンド・オン・ブロンド』の]成功は、ナッシュヴィルのミュージックシーンを変えた。カントリーミュージックとは無縁だったアーティストが、ディランのサウンドをまねようとしてナッシュヴィルに押し寄せ、ディランとつきあったセッションミュージシャンは引っ張りだことなった。(略)

ディランがカントリーミュージック以外のアーティストもナッシュヴィルでレコーディングできるということを立証した(略)

ボブ・ジョンストンは言う。「彼は『サブタレニアン・ホームシック・ブルース』や『ライク・ア・ローリング・ストーン』でティン・パン・アレーを沈めた。さらに、彼はすべてを変えた。彼はカントリーミュージックも変えた。カントリーミュージックをポピュラーにした」

ザ・バンド

LSDを試したあと、ダンコーはボブにバックバンド以上のことをしたいと告げた。

(略)

ロバートソンはボブと親しくなっていたので、ザ・ホークスの残りのメンバーは彼をバーナクルマン[腰巾着]と呼んでいた。「彼はボブにぴったりくっついていた」とジョーンズは言う。「ボブが小便に行ったら、ロビーも行くほどだった」。

事故

[バイクで修理屋に向かうディランの後を、サラが車でついていったが、すぐにサラの車が戻ってきて]

「彼は、うめき声かうなり声のような音を立てていた」(略)

家まで歩いてきて、そのまま「玄関先のポーチでまるで寝るかのように横になった」(略)

出血していたわけでも、見ただけで怪我をしているとわかるほどではなかった

(略)

 あの朝、グロスマンの家からバイクに乗って出ていったディランに、いったい何か起きたのか正確なことは謎に包まれたままだ。(略)

もともと事故なんてなかったのではという説さえあった。こうした憶測が生まれた理由は、事故を起こしたタイミングがあまりにもボブにとって都合がよかったからだ。つまり、事故が事実なら、当時打ちのめされるほど脅威となっていた数多くの仕事から、ボブは逃れることができるというわけだ。

 実際、事故は起きた。(略)しかし、当時報道されたほど、深刻な事故ではなかった。いままで事故についてメディアにはひとことも話さなかった、またあの日の出来事の重要な目撃者でもあるサリー・グロスマンは(略)

「そんなに長い時間じゃなかったことはたしかよ。わたしが玄関ホールに立ってアルバートと電話で話をしているときに、ふたりは出ていったけど、彼らがもどってきたときにもわたしはまだ電話中だったのだから」(略)

ボブと親しい友人は、名前はあかさないでほしいと断ったうえ、事故はグロスマンの敷地(略)から急勾配で滑りやすいストリーベルロードに出たところで、バランスを失い、バイクから放り出されたと、のちに彼に語ったと言う。投げ出されたボブの上にバイクが落ちた。

(略)

 事故のあとの報道は、ボブは意識を失い、首を折り、危篤状態だったと伝えていた。しかしサリーの証言では、ボブは見た目には怪我もわからなかったし、意識もはっきりしていたという。さらに、ボブが重傷を負ったというのなら、近くの総合病院に急送されたはずだ。(略)

[しかし救急車は呼ばれず]

サラはボブを車に乗せて、グロスマンの敷地から五十マイルも離れたミドルタウンにあるセイラー医師の自宅兼診療所までボブを運んだ。これはいなかの道を一時間も走る過酷なドライヴであり、決してすぐに治療を必要とする怪我人がするようなドライヴではない。

(略)

いろいろな意味で、バイク事故は天恵だった。「事故に遭う前、ぼくはあっぷあっぷ状態にあった。あのままの状態で暮らしていたら、おそらく死んでいただろう」と、後に彼は語っている。(略)

ボブ自身によると、事故で脊柱を何本か折ったという。友人たちは彼がネックブレースをしばらくつけていて、超音波治療を受けていると言っていたことをおぼえている。彼は背中が痛むと言い、治療の一環としてふたたび泳ぎはじめた。だから彼が怪我をして、その後遺症にも苦しんでいたという証拠はあるのだが、そのいっぽう、集中的な治療を必要としなかったということでもある。

ビッグピンク

[リック・ダンコ談]

「正午をまわるとまるで時計のように規則正しく現れるんだ」。ボブはポット一杯分のコーヒーをつくると、タイプライターを叩きはじめる。「ザ・ホークスがまだ眠っていると、とくに大きな音をさせてね」とガース・ハドソン。「どうやってそんな時間にやってきて、タイプの前に座って歌詞を書いたりできたんだろう……さらに驚きだったのはそうやって生まれた歌がほとんどどれもおかしかったことだ」

 1967年2月から秋にかけてボブは30曲以上の曲をつくった。それらはハドソンが組み立てた2トラック・オープンリール・レコーダーに、数々のカバー曲とともにザ・ホークスとボブがいっしょに吹き込んだ。

(略)

 春から夏に季節が移ると、彼らはビッグピンクの窓を開けはなって風を通した。穏やかないなかの雰囲気が彼らが生み出す音楽にも影響を与えた(略)

ボブはロバートソンにトラディショナルフォークを紹介した。(略)

そのお返しに、ロバートソンはボブのロックンロールの知識を広げた。(略)

ダンコーの家族はオンタリオのいなかでカントリーミュージックを演奏していた。マニュエルは洗練されたブギウギピアニストで、ポップの感性も持ちあわせていた。ハドソンは英国国教会の音楽や管楽器演奏、アレクサンドル・スクリアビンのアバンギャルドなコンポジションにくわしかった。だれもがそれぞれお気に入りの音楽家やレコーディングを持っていた。それらの知識が彼らがともにつくった音楽を導き出した。

67年ガスリー55歳死去

「その午後遅く、事情を知りたがって電話をしてきた」[とガスリーのマネジャー](略)

「追悼コンサートをわたしが企画しているかどうかと訊き、そうならぜひ知らせてほしいと言った」(略)

ウディ・ガスリー追悼コンサートに1966年の夏以来初めて観客の前に現れた。(略)

ザ・ホークスと共にステージに現れたボブはウェスタンスタイルのスーツを着て、カウボーイブーツ姿だった。ドラムのうしろにいたリヴォン・ヘルムは、グロスマンが来ていたがボブとたがいに一言もことばを交わさなかったことに気づいた。ボブの事故と、ボブがツアーをしないことに決めて以来、ふたりの関係はぎくしゃくしていた。ボブとザ・ホークスはウディ自身のレコーディング以外では滅多に聞かれない三曲を演奏し、「アイ・エイント・ガット・ノー・ホーム」に情熱を注ぎ込んだ。ボブは本当に追い出されたかのようにリフレーンを絶唱した。歌詞に彼が注ぎ込んだ情熱は聴く者を総毛立たせ、彼がほとんどの時間隠遁して、牧歌的なカントリーホームに暮らしている事実にもかかわらず、怒りと情熱は彼のなかにまだたぎっていた。

プレスリー、ジョニー・キャッシュ

『セルフ・ポートレイト』収録のために呼び集められたミュージシャンたちはプレスリーのセッションのベテランたちだった。(略)

「彼はいわば洗練されていなかったわ」とデロレス・エッジン。「とても変わっていて、泥臭かった」。(略)

[ボブ・ジョンストンがプレスリーと共演の仲介をしようとしたがパーカー大佐が拒否]

もうひとりのヒーロー、ジェリー・リー・ルイスとのコラボレーションの試みも不調に終わった。(略)

[ボブ・ジョンストンが紹介すると]

 「それで?」

 「いつかごいっしょできるかもしれませんね」。礼儀正しくボブが申し出た。

 「とんでもない!」。ジェリー・リーは叫ぶと、怒ってピアノを叩いた。ボブとジョンストンは早々に退散した。

 南部を拠点とする音楽スターのなかでもボブと温かくつき合ってくれたのはジョニー・キャッシュだった。テレビヘの根強い嫌悪にもかかわらず、ボブがABCテレビのジョニー・キャッシュ・ショーの初回にゲスト出演したのはキャッシュヘの愛情の証だった。(略)

スタジオの観客たちは愛するキャッシュのファンばかりだ。番組はその夜のうちに収録してしまわなければならなかったから、そこでボブが失敗をやらかすわけにはいかない。(略)

(ガスリー追悼以来)初めてのライヴパフォーマンスだったんだ」とバックでドラムを叩いていたケニー・バトレーは言う。「彼は多かれ少なかれ気おくれしていた」。赤いライトが点くと、ボブは振り返ってすがるような目でバンドを見た。「ぼくはあれほどおびえた人間は見たことがない」

(略)

ショーはキャッシュにとって大きな成功のきっかけとなり、長寿番組として愛された。それに『ナッシュヴィル・スカイライン』の販売促進の助けにもなった。

次回に続く。

2017-05-14 ダウン・ザ・ハイウェイ ボブ・ディランの生涯 このエントリーを含むブックマーク


ダウン・ザ・ハイウェイ---ボブ・ディランの生涯

作者: ハワード・スーンズ, 菅野ヘッケル

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2016/11/19

|本| Amazon.co.jp

ヒビング

広大な森と湖でカナダと隔てられたヒビングは(略)

典型的な小都市で、独立記念日にはすべての建物に星条旗がかかげられ、だれもが顔見知りで、多くの場合はそれぞの親のことまで知っていた。(略)

松の森には熊が出たし、荒涼とした地平線の上にオーロラを見ることもあった。真冬は、吹き寄せた深雪をかいてからでないと車にたどりつけなかった。「冬は何もかもが静かで動かなかった。それが八ヵ月続く……何もしないで、ただ窓の外を見つめていると、幻覚を見そうになる」とボブは回想している。

ハンク・ウィリアムズ、ラジオ、ブルース、

ハンク・ウィリアムズはシンプルな曲をつくり、それを、とくに美しくもないし音楽的でもないが、説得力のある声で歌っていた。アラバマ州南部の奥地の赤貧の家庭に育ったウィリアムズは、不幸だったし、不健康なアルコール依存症でもあった。その歌の多くは、不実な女との恋に破れることを歌っていて、自身の結婚を反映しているらしかった。短い生涯の晩年、ウィリアムズは土曜の夜にナッシュヴィルから放送されていた番組、グランド・オール・オプリーのスターとなった。オプリーで「ラヴシック・ブルースの男」と紹介されていたウィリアムズを聞いて、ボブはその悲しい歌を心にしみこませた。ボブにとって、ハンク・ウィリアムズはこのころからアメリカでもっとも偉大なソングライターだった。

 深夜のラジオで、ボブはリトルロックやシカゴやはるかに遠いルイジアナ州シュリーヴポートからの放送を聞いた。こういったラジオが、とくにフランク・ブラザー・ゲイトマウス・ペイジの番組、『ノー・ネイム・ジャイヴ』が放送していたのは、主としてブルースだった。(略)「夜遅く、よくマディ・ウォーターズ、ジョン・リー・フッカー、ジミー・リード、ハウリン・ウルフがシュリーヴポートからがなり立てるのを聞いていた。夜中の二時、三時まで起きていて、そういう曲をたくさん聞いて知ろうとした。そして自分でも曲を弾くようになった」と。ロックンロールの大流行(略)の前に、ボブはアメリカ・ポピュラー音楽の基本形に出会っていた。ハンク・ウィリアムズのヒルビリー曲と失恋を歌う歌詞は、ボブに考えることを教えた。ジミー・リードやハウリン・ウルフの扇情的なリフは演奏することへの意欲をかきたてた。ことばとサウンドが合体して、すばらしいものをつくっていた。実際、それは人生を変えるほどの経験だった。「ぼくが音楽だけをやってきたのは、子供のころ、音楽にとても強く影響されたからだ。影響を受けたのは音楽だけだったんだ。音楽だけが真実だった。あのころ特別な音楽に出会えたことをうれしいと思う。あのとき音楽と出会わなかったら、自分がどうなっていたのかわからない」

リトル・リチャード

[ジェームズ・ディーンに憧れ『理由なき反抗』の台詞を暗記し友人と]ふたりで「十年後の答えなんてほしくない」「いま答えがほしいんだ」などと声に出して言いながら街を歩いた。ボブと友人たちは毎日のように、スティーヴンズ菓子店で映画雑誌をめくってディーンの記事を探した。ボブは、ディーンが着ていたような赤いバイカージャケットも手に入れた。(略)

 もうひとり、とてもわくわくさせる人物はエルヴィス・プレスリーだった。「初めてエルヴィスの声を聞いたとき、自分は人に使われるような仕事はやらないし、だれかの下で慟くこともしないだろうとわかった。牢獄から抜けだしたような気分だった」とボブは言っている。ボブが好んだのは、とても早い時期、1954年から55年にかけてメンフィスのサン・レコーズ[時代](略)

[エルヴィスが有名になり]

かわりに、お気に入りはリトル・リチャードになった。リトル・リチャードはテレビで見ておもしろかったし、その音楽はとてつもなく激しかった。一般社会規範の拒否者という点でも筋金入りであり、それがボブの心に強く訴えた。ボブはリチャードの躍動感溢れるピアノのリフをコピーして、家の小型グランドピアノを立ったままでひいた。(略)

ボブは髪を伸ばしはじめ、リトル・リチャードに似せた形にとかしていた。

(略)

1959年の卒業年鑑には、リトル・リチャードを思わせる髪型のボブの写真が載っていて(略)将来の夢は「リトル・リチャードの仲間になること」と書いてある。

(略)

 大学に入ったとき、ボブはまだロックンロール期にあり、刺繍入りのジョーカーズのベストを着こみ、髪をダックテイルにしていた。しかしディンキータウンでロックンロールは流行遅れだった。学生文化の洗礼を受けてボブも変わった。(略)学生たちはみんなビート文学を読み、左翼急進派の政治に入れ込み、音楽は(略)フォークだった。

ふたり目の重要なガールフレンド、ボニー・ジーン・ビーチャー

 ボニーは明るい色の髪を長く伸ばした、エレガントで美しい女性だった。頭がよく、本をたくさん読み、教養が豊かで、そしてボブとおなじぐらいブルースに詳しかった。ボブがのちに「盗まれた時間のなかの生活」のなかで書いている「女優の子」――ボニーは演劇の勉強をしていた――、彼が夢中になったがひどい仕打ちを受けたという女の子は、彼女のことだ。有名なラヴソング「北国の少女」を書いたときに思っていたのも、ボニーだったと思われる。

『アンソロジー・オブ・アメリカン・フォーク・ミュージック』

[ディランがパンケイクの家から勝手に持ち出した]

 『アンソロジー』を編集したハリー・スミスは風変わりな民俗音楽学者だった。1923年、オレゴン州ポートランドで、自分をロシアの皇后だと思いこんだ母親のもとに生まれたスミスは背骨が曲がっていたせいで、彼が言うところの「健全な」社会からのけものにされた。彼は自分自身について、さまざまな物語を考えだすのが好きで、自分は多重殺人者だと主張した。二十代の終りには、許可を求めることや著作権を明瞭にすることなどの手間をかけずに、20年代、30年代のブルースマンやヒルビリーグループがつくったフォークソング、スピリチュアル、ブルース、インストゥルメンタル曲などの78回転盤を集め、[48曲を選び、52年フォークウェイズからLP6枚組で発売]

(略)

それぞれ古風な装丁のふたつ折りジャケットに収められ、表紙にはスミスが天界の一弦琴と呼ぶ架空の楽器のエッチングがついていた。レコードセットには粗雑な印刷の小冊子が添えられていて、スミスの特徴である電報のような文体で、歌詞や主題が大まかに書いてあった。

ウディ・ガスリー

ハンティントン舞踏病という脳の病気におかされ(略)不屈の男だったガスリーは、48歳にして生きたむくろとなっていた。平衡感覚を失いかけているため、歩くときには首が前にたれさがり、ギターを弾くことはもうできなかった。(略)

 ガスリーは病気になる前、ハンガーを曲げたようなワイヤのホルダーを首にかけ、それにハーモニカを固定して吹いていた。(略)ランブリン・ジャックはその真似をし、ボブもおなじようにした。ボブは絵を描いてボニーにホルダーの形を教え、ボニーはスミス・ミュージック・カンパニーでそれを買ってプレゼントした。

(略)

1960年の冬、ボブは風邪をこじらせ(略)気管支炎を起こして声が変ってしまった。声は前よりざらついて、ボブの声として知られているものに近くなった。やがて病気は回復したが、ボニーは声に悪い影響が残ったのではないかと心配した。1969年の『ナッシュヴィル・スカイライン』のボブのなめらかな声を聞いて、ボニーは気管支炎になる前の声を思いだしたと言う。「若いころはああいう声をしていた」

 病気が治ってすぐのころ、オデッタが街にやってきた。(略)オデッタはボブが歌うのを聞いて、やっていけると明言した。(略)

ボブはヒビングに帰って今後のことを両親に話すことにした。

ガスリーの声

ガスリーは話をするときも歌うときも、生まれ故郷オクラホマの方言を使ったが、ピート・シーガーとおなじように明瞭に発音することを心がけていた。ふたりとも、歌詞を非常に重要なものと考えていたからだ。しかしボブが会ったころには、病気の影響で、ガスリーの発音は息の音がたくさん混じって、不明瞭に変わっていた。(略)

娘のノーラはこう言っている。「母は、若いミュージシャンたちがハンティントン舞踏病の初期症状を真似していると確信していたわ……音を伸ばしておいて、ふっと消えてしまうようなところよ。あれは、コントロールする力が弱くなっているせいだったの。でも、それが一種のスタイルになって、ディランもそこから出発したのよ」

ピート・シーガー

[ピート・シーガーが結成した]ウィーヴァーズはその極左的な姿勢のせいで、マッカーシーのブラックリストの対象となり、1951年には、事実上、活動ができなくなっていた。シーガーは1952年を休養の年としたが、翌年の1953年、大学に来て歌ってくれないかという学生の手紙を受けとった。そこには、出演料は出せないが、募金を集めるのでバス代は用意できるだろうと書いてあった。シーガーはその招きに応じ、やがて国中の大学をまわって歌うようになった。いまになってみれば、こうした大学の小規模なコンサートで若い世代がフォークソングに接し、それによってフォーク・リヴァイヴァルが拡散したのだということがわかる。ジョーン・バエズもトム・パクストンも、それぞれカリフォルニアとオクラホマで(略)ウィスコンシン州マディソンでは(略)ボブがそれを体験した。シーガーはこう語る。「わたしの仕事のなかでいちばん意味があるのは、なんと言っても、たくさんの大学をまわったことだろう。

(略)

いつものコンサートのようにシーガーがガスリーの話をし、その作品を歌うのを聞いて、ガスリーに会いたいというボブの気持ちは強まった。

スージー・ロトロ

スージーはまだ17歳のハイスクールの生徒で、ふたりがセックスの関係を持つことは法律に反していた。(略)

やがてボニー・ビーチャーのときとおなじように、結婚を口走るようになった。のちにボブが「十一のあらましな墓碑銘」で書いているように、スージーは彼の「森の子鹿」だった。

アルバート・グロスマン

グロスマンがマネジャーをしていたシカゴのミュージシャン、ニック・グレイヴナイツはつぎのように言う。「人を座らせて酒を飲ませれば、キャッシュレジスターに金が入る。アルバートが知っているのは、そのことだけだった。いい音楽とがらくたの区別もできなかった。だがキャッシュレジスターのことは知っていた。とてもよく知っていたよ」と。グロスマンがクラブ業をはじめたのは、ホットドッグの営業許可に興味があったからだ。「ホットドッグがよく売れるように、客を集める方法をみつけようとしていたんだ」とグレイヴナイツは言う。その過程で、グロスマンはひと財産をつくり、それをすべて失った。「成功するまでに二度、破産をしたと言っていたよ」

(略)

ゲイト・オブ・ホーンでプロとして仕事をはじめたジョーン・バエズと契約しようとしたが、断られた。その後、すでにスターだったオデッタと契約し、グロスマンは成功への第一歩を踏みだした。オデッタはつぎのように言う。「わたしは働きどおしだった。アルバートはわたしをいろいろなところに出演させて、そしてそういうところの人たちはそのことでアルバートに恩義を感じていた。アルバートは、わたしに乗っかって仕事をスタートしたのよ」

(略)

労働者の音楽で金儲けすることはいまわしいことだった。ミュージシャンの多くがグロスマンを嫌った。デイヴ・ヴァン・ロンクは、グロスマンが若いアーティストを堕落させることを喜びとし、だれにでも値段がついているという趣旨のブラックユーモア小説、テリー・サザーン著の『ブラック・クリスチャン』を愛読していたと言っている。めったに人をけなすことのないピート・シーガーは「彼といっしょに仕事をしなくてはならない人を気の毒に思う」と話している。

グロスマンによるハモンド排除

マネジャーとなったアルバート・グロスマンは、[ボブに十分な力を注いでいないと]コロンビア・レコーズとの戦闘を開始(略)

[ボブは契約署名時に21歳未満で契約は無効と主張]

ジョン・ハモンドは、自分の秘蔵っ子がこんなやりかたで文句をつけてくることに腹を立て、ボブをオフィスヘ呼び、すでに所定年齢に達した彼を説得して、従来の契約続行に同意する「契約再確認書」に署名させた。グロスマンとブラウンはこれに憤慨した。(略)

グロスマンは、ジョン・ハモンドを排除することにした。ふたりは、まったくの正反対の人物だった。ハモンドは典型的な白人支配者階級出身の芸術愛好家であり(略)

グロスマンはユダヤ系の起業家であり、薄暗い過去を持ち、大金持ちになるために何でもする気でいた。しかしハモンドを排除するのは生やさしいことではなかった。ハモンドはコロンビア・レコーズの伝説的なプロデューサーであり、彼の妻はコロンビア会長の娘だった。そこでグロスマンは、ハモンドが自分からやめたくなるように仕向けることにした。

(略)

[「ゴチャマゼの混乱」にディキシーランドスタイルのバンドを入れるよう提案]

ハモンドは、この故意のいやがらせに仰天したが、それでも何とかしようと試みた。しかしどうやってもうまくいかず、ハモンドはしだいに怒りだしてグロスマンのパートナーであるジョン・コートにスタジオを出ろと命令した。ボブもいらだってスタジオを出ていった。その後まもなくして、ハモンドは二枚目のアルバムから手をひいた。ジョン・ハモンド・ジュニアはつぎのように言う。「グロスマンは、ぼくの親父を嫌っていた。たぶん親父が大きな金儲けに興味を持っていなかったからだ。アルバートはそればかり考えていたからね」

スージー・ロトロとジョーン・バエズ

[イギリスでの]撮影終了後、ボブはローマに行き、オデッタのツアーに同行中のグロスマンに合流した。(略)

ボブは、前の年の夏からイタリアで暮らしているスージーのことばかり考えていた。ローマの郊外ですごすあいだに、ボブはスージーに捧げる重要なラヴソング「スペイン革のブーツ」をつくっている。しかし皮肉なことに、スージーはちょうどニューヨークにもどったところで、ボブが会う機会はなかった。(略)

スージーを慕ういっぽうで、ボブはほかの女性への興味を失ってはいなかった。(略)青年時代のボブは根っからのプレイボーイであり、その後もその傾向は変わらない。たとえばスージーと別れているあいだに、ボブはゴスペルグループ、ステイプル・シンガーズのメイヴィス・ステイプルズにプラトニックな思いを寄せた。

(略)

 1963年1月、スージーはボブのもとにもどった。そしてすぐに、一年半前に耐えられなくて逃げだしたはずの、プレッシャーのある関係にひきもどされた。しかもボブが有名になっていたため、前よりも自分の生活を保つことがむずかしくなっていた。スージーはつぎのように言う。「イタリアからもどったら、まわりに知らない人たちが大勢いて、わたしの個人的なことにまで口出ししてきたの。『いちばんたいせつなとき』にボブのそばにいてあげなかったと怒っている人たちが、ほんとうにいたのよ。わたしは『ボブを捨てた女』だったの」と。またあるクラブに行ったときには、シンガーがスージーに向けているとしか思えない熱っぽさで「くよくよするなよ」を歌うということもあった。

 スージーはボブが有名人になったことで押しつぶされそうになっていたが、それでも『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』のジャケット用写真を撮るときには、ボブといっしょにポーズをとった。冬の日の夕暮れ、ボブの肩に顔を寄せて、ブラウンストーンの建物が並ぶ雪におおわれたヴィレッジを歩くスージーの写真は、人々の記憶にいまもとどまる60年代のアルバムジャケットのひとつとなった。それは同時に、望ましくない関心をひきよせることにもなった。スージーは「あのジャケットがなければ、アルバムの歌が何を歌っているかが知れわたることもなかったでしょうね。わたしたちのことが歌のなかにあるの。ボブがわたしのことを書いた歌のなかにね。全部、そこにあるのよ」

(略)

 ボブはPPMといっしょにニューポート・フォークフェスティヴァルに出演し(略)

バックステージで、ボブは映画スターのようにサングラスをかけ、贈り物としてもらった鞭を鳴らしていた。鞭のせいで、話題のカップルのまわりの空気がぴりぴりし、またスージーもフェスティヴァルに来ていたので、公然の秘密である恋愛を巡っての興奮がいっそう高まった。バエズは日曜の夜の最後にステージで「くよくよするなよ」を歌ったが、歌う前に、この曲はずっと昔に終わった恋愛を歌ったものだと説明した。スージーは泣きだしそうになって、会場を出た。トム・パクストンは「あのフェスティヴァルはボブにとっては、重要な突破口となった。評判が急速に広まって、まるでボブとジョーンの戴冠式のようだった。フェスティヴァルの王様と女王様のね」と言う。

(略)

ボブがバエズのツアーに参加することを知ったあと、スージーは西四番ストリートのボブのアパートメントでガス栓をひねって自殺を試みたらしい。(略)

「ボビーはたいへんな傷を残していったわ。あのころのボビーは最低な男だった」[とカーラ・ロトロ]

(略)

 この中絶が、みじめな最終的な別れをもたらした。1964年3月のある夜、カーラが仕事から帰ると、スージーとボブがキッチンで口論をしていた。「ふたりは別れたの。別れることに決めたのよ。それなのにボブが帰ろうとしなかったの」(略)

ボブは帰ることを拒否した。カーラが彼の体を押すと、彼も押しかえしてきた。やがてふたりはほんとうに争っていた。(略)結局、友達が呼ばれ、ボブは無理やりに追いだされた。

 ボブは別離に動揺し、カーラに対して怒り、むきだしの感情をこめたことばを綴って、彼の作品のなかでもとくに自伝的要素の強い曲となった「Dのバラッド」をつくった。そこには、ふたりの姉妹が登場する。彼はブロンズのような肌をした妹を愛するが、恋は裸電球の灯る部屋の喧嘩で終わり、姉――寄生虫と表現されていた――は彼に出ていけと叫ぶ。(略)カーラは寄生虫ということばに怒り、部屋代を払うために働いていたのは自分だと言い、さらにボブとスージーの邪魔をしていたような言い方に異議を唱える。

(略)

最終的には、ボブはこの歌をつくったことに良心の呵責をおばえていたらしく、1985年の『バイオグラフ』のライナーノーツでそれを語っている。「ぼくは告白の歌はつくらない。ほんとうは一曲つくったことがあるが、よいできじゃなかった――レコードにしたのは失敗で後悔している……ずっと前、三枚目か四枚目ぐらいのアルバムだ」。特定することを避けた、この漠然とした発言だけが、ボブがこれまでにカーラやスージーに対して示したおおやけの形での謝罪だ。しかし『バイオグラフ』が発売されたころ、ボブはカーラに電話をかけて昔話をして、彼なりの不器用なやりかたで和解しようとした。しかし、もう遅すぎた。このころにはスーパースターの彼の人生は、昔の友人たちとはあまりにもかけ離れていて、カーラは知らない人と話しているような気がしたと言う。

(略)

スージーは、ボブとの関係については慎重な発言しかしない。(略)「全部の歌を聞けば、それ以上ないほどよくわかるわ。わたしたちふたりのこと、ふたりで暮らしたときのことが、はっきりと歌のなかに書いてあるの」と。その思い出は複雑だ。「とてもいい思い出よ。同時にとてもつらい思い出でもあるわ」。

次回に続く。


フリーホイーリン・ボブ・ディラン

アーティスト: ボブ・ディラン

出版社/メーカー: Sony Music Direct

発売日: 2005/08/24

|CD| Amazon.co.jp

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スージー・ロトロによる回想本

ディラン:グリニッチヴィレッジの青春 - 本と奇妙な煙

デイヴ・ヴァン・ロンク回想録

グリニッチ・ヴィレッジにフォークが響いていた頃 - 本と奇妙な煙

ボブ・ディラン自伝 ジョン・ハモンド、フレッド・ニール - 本と奇妙な煙

2017-05-11 ポール・マッカートニー 告白・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。

あの時、ライブをやりたくなくて逮捕されたのかあ。


ポール・マッカートニー 告白

作者: ポール・デュ・ノイヤー, 奥田祐士

メーカー/出版社: DU BOOKS

発売日: 2016/06/10

|本| Amazon.co.jp


Mccartney

アーティスト: Paul Mccartney

メーカー/出版社: Hear Music

発売日: 2011/06/14

|CD| Amazon.co.jp

1970年、ソロ・アルバム

 アルバムにするつもりはなかったと思う。レコーディングがしたくてしていただけで。(略)

 今のぼくにとっては、幸せだった時代の最高の思い出だ――リンダと一緒に暮らしはじめたころの。(略)彼女、家にギターとアンプが置いてあるのを見て、「あなたがギターを弾くなんて知らなかったわ!」と言ったんだ。それで、ああ、ちょっとしたブルース・ギターならお手のものさ、これもあれも弾いたのはぼくなんだ、〈タックスマン〉のギター・ソロとか、なんて話をしてね……

(略)

[ビジネス的問題で難しい時期]

家庭をスタートさせたことが逃げ道になってくれたんだ。ビートルズだけが人生じゃないのに気づいたと言うか。(略)とにかく逃げ出したい一心だったんだ。

 「一体どうしたら、あの重苦しいミーティングから脱け出せるんだろう?」と自問してね、「だったら、行かなきゃいいんじゃないか?」となったんだ。チーン!こいつはすばらしい計画だぞ!ボイコットしてやれ。世紀の名案って感じだった。

(略)

このレコードづくりは「そうだ、ぼくはこれが好きだったんじゃないか」って感じだった。それ以外は、外の世界はみんなクソだったからね。(略)でも家のなかに入ると、繭に包まれてるみたいだった。

(略)

[《レット・イット・ビー》]のために、ぼくの発売日を変えると言いだしたんだ。それで「バカ言うな!発売日はもう決まってるんだぞ!そんな真似ができるわけがないだろう?」となってね。あのときはかなり声を荒らげたよ。

(略)

ビートルズが内部で揉めまくっている最中のことだった。それでだれかにテープを燃やされないように、アップルの外で保管しておく必要があったんだ。スタジオは外のを使ったし、ジャケットもアップルには見せなかった。(略)

 あのころはぼくがなにをしても、アップルでは問題になっていた。「いや、どうだろう、それはちょっとマズいんじゃないかな」。勘弁してくれよ。ビートルズのころは、「決めたよ、《サージェント・ペパー》のジャケットはこんな感じにするから、この人たちを載せてくれ。だってクールだろ」と言うだけですんでいたのに。(略)

ぼくがアップルに行くたびに、重苦しい空気が流れていた。わらわらと人がわいて出てきて、「それはできない、この件については弁護士を呼ぶからちょっと待ってくれ、きみのしていることについて、専門家の意見を求めたい」。ぼくはそんなの一切お呼びじゃないと考えた。とにかくやってしまおう、とね。

ビートルズを訴えることになった理由

 悪夢だったよ。正直、その話はしたくないし、考えるだけでぞっとする。簡単に言うとこの男[アレン・クライン]はビートルズを奪い取りに来た。アメリカの某マネージャーが、ビートルズから盗みを働こうとしていたんだ。そしてぼくはその泥棒に目を留めた。ほかのみんなはだれも気づかなかった。むしろこの男を気に入り、嬉々として迎え入れていた。

 ぼくの選択肢はこの泥棒を追いはらうか、家からすべてを盗まれるままにするかのふたつにひとつだった。この男を追いはらわないと、手元にはなにも残らなくなってしまう。ぼくはみんなに、「わかった、じゃあぼくはこの男を訴える」と言った。すると「それは無理だ。どうにかしたいのなら、ビートルズを訴える以外にない」となって。そんな真似ができるわけがない。(略)そのあいだもあいつはずっとタンスを引っかきまわして、なんでもかんでも盗みまくっていたんだけど。

 結局、ぼくはどうにか訴えを起こした。でもそのおかげでぼくは、ほかのメンバーにひどく恨まれてしまったし、一般の人たちからも反感を買った。みんな、ビートルズを訴えるぼくを見ていたからだ。でも理由を説明するわけにはいかなかった。今ではみんな、わかってくれてると思う。

(略)

 そんなことをしたら、自分のイメージが地に落ちてしまうのはわかっていた。そしてぼくはいろんな意味で、20年間ずっとその落ちたイメージと闘ってきたと思う。そうなるのはわかっていたんだ。でも迷いはなかった

(略)

今はみんな、あの当時をふり返って「ありがとう。おまえがオレたちを救ってくれたんだ」と言ってくれる。もしあのままにしていたらアップルはなかっただろうし、《アンソロジー》や《1》も出ることはなかっただろう。みんな、ほかのだれかの懐に入ってたはずだ。

自分から逮捕されに行ったような気がした

 いわゆる日本での“エピソード”が、ウイングスの終わりだったと思う。あの時期はなんだか不思議な感じがする。ぼくはこのバンドで日本に行きたくなかった。リハーサル不足だと感じていたんだ。そしてぼくはその感じが気に入らなかった。普通なら、よし、これで最高のライブができるぞ、と思えるようになるまでリハーサルをするんだけど。そうすれば喜んで行く気になれる。ぼくらは東京でリハーサルをする予定になっていて、ぼくは、うん、ちょっと土壇場すぎるかな、と思っていた……だからそのせいで、けっこうパニックになっていたんだ。

 そしたらいきなり、ぼくは逮捕された。自分でもよくわからない、不思議な気分だった。まるで自分から逮捕されに行ったような気がしたんだ。ライブをやらなくてもすむように。正直、いまだに自分でもよくわからない。だれかが仕組んだんじゃないか? とも思うんだけど。ぼくを逮捕させるためにね。わからない。すごくサイコドラマっぽくて。いずれにせよぼくらはあそこに行き、ぼくはパクられ、そのとき本気で、このバンドはうまく行かない、このバンドでやるのは嫌だ、と思ったんだ。

『ロミオとジュリエット』

 フランコ・ゼフィレッリ老がロンドンにやって来て、ぼくに『ロミオとジュリエット』の主役をオファーしたんだ。ぼくは「ご冗談でしょう。ぼくはただのミュージシャンですよ。できるわけがありません」と答えた。(略)

 オリヴィア・ハッセーとはデートをした――これはリンダに会う前の話だ。ナイトクラブに連れて行ったんだけど、彼女のことはかなり気に入ったよ。長い黒髪で、すごくきれいだった。「きみは美しいジュリエットだ」と電報を打ったら、「あなたも最高のロミオになるわ」という返事が来て。あれはすごく……[ロマンテイックなため息]。やってたら今ごろ、吐きそうになってるんじゃないかな。子どもたちは信じてくれないだろう。「パパ、嘘でしょう?あんな映画に出てたなんて、嘘に決まってる!」って。

ジョン

ぼくとジョンの件で最高なのは、それがぼくとジョンだけの話だったことだ。「彼はこれをやった、あれをやった」と言うのはみんなの勝手だけど、すばらしいのはぼくに、おいおい待ってくれよ、あの小さな部屋にいたのは、ぼくとジョンのふたりだけなんだぜ、と言える資格があることなんだ。実際に曲を書いたのは、なんでも知ってるつもりでいるほかの連中じゃなくて、ぼくと彼だった。当然、ぼくのほうが連中よりよくわかってる。彼と同じ部屋にいたのはぼくだったのさ。ときどき、信じられなくなるんだけど。

(略)

みんなが彼のことを、強もてのする労働者階級の英雄あつかいしていた。でも知っての通り、彼はウールトンの中流家庭で育ったんだ。家からしてちがっていた。ぼくらのはみすぼらしかったけど、彼の家にはウィンストン・チャーチルの全集があった。知り合いでそんなものを持っていたのは彼だけだ。しかも彼はたしか、それをちゃんと読んでいたと思う。

 ジョンはすごくたくさんの型にはめられていた。ぼくがうれしく思うのは、ぼくらが結局、最後の何年かで仲直りできたことなんだ。これはぼくの人生で起こった、幸運な出来事のひとつだろう。本当にありがたく思っている。だってもし仲たがいしたままでああいうことになっていたら、ぼくは今ごろ、ボロボロになっていたはずだからだ。

(略)

こっちで[1978年11月に]パン屋のストがあったとき、「どうしてる?」って電話をしたんだ。

 そしたら「パンを焼いてるところだ」。「えっ!ぼくもちょうどパンを焼いてたんだ」。想像してくれよ、世間一般のイメージからすると、パンを焼く話をしているジョンとポールなんてありえないだろ。

(略)

 すごくうれしかった。ようやくあんなふうに彼と話せるようになれて、本当に心があったかくなった。まるで子ども時代に逆もどりしたような感じでね。ぼくらはまたどうでもいいことについて、話せるようになっていた。でもそれが本当に大事なことだったんだ。

エルヴィス・コステロとの共同作業

彼にはプレッシャーがあった。相当ね。ぼくは彼がいちばんジョンに近い存在だと感じたし、大勢のジャーナリストがその点をぼくに訊いてきた。

(略)

 ぼくらがふたりで書いた曲は、ぼくのいつもの曲とはちょっとちがっていて、言葉数がいくぶん多めだった。エルヴィスはすごく言葉に入れこんでる。彼はぼくのいい引き立て役だし、ぼくもかなりいい引きをて役だと思う。箔をつけるのがうまいんだよ[I foil fine]。ぼくがなにかを書くと、彼が一種の編集を加え、それでぼくがかまわないと思えばOKになる。

 時には彼がコードを使いすぎることもあった。ぼくからするとね。長年、曲を書いてきて気がついたのは、コードは半分にカットしたほうが、往々にしてクールだってことだ。メロディはシンプルにして、ゴテゴテ飾り立てないほうがいい。エルヴィスともそんな話をした。「どうだろう、ここは途中の経過コードを全部はぶいて、CからそのままAマイナーに行くのがベストなんじゃないかな」みたいな。

 だからそうやってずっと言い合ってたわけでね、うん、悪くなかったと思うよ。彼のことはすごく頑固だと思ったけど、べつに気にならなかった。すごく率直な男だからだ。

(略)

エルヴィスにはすごく皮肉っぽいところがあるし、性格的にもジョンに似ている――外面はキツいけど、内面はやさしい、という。だからエルヴィスはぜんぜん問題ないし、彼とパートナーが組めてよかったと思う。


 エルヴィスにとってはどうだったのだろう? わたしは1989年に彼の話を聞いた。「そりゃもちろん、信じられるか、ポール・マッカートニーだぞ、となる瞬間もあるにはあった」と彼は答えてくれた。「彼は有名な曲を山のように書いている。曲づくりに関してはすごく実際的だ――すごく型にこだわるんだよ、おかしなことにね。みんなは彼がなんの苦もなく曲を書いているように見えると言うけれど、それは実のところ、まちがっている。

 彼のうたっていることが気に入らないとか、おセンチすぎると言う人もいるけれど、そんなのはあくまでも個人的な意見にすぎない。彼の書いたすべての曲にそれが当てはまるとは思わないし、ふたりで曲を書いていたときも、彼はメソメソした部分をどんどんカットしていた。あれは興味深かったな。

 彼が曲を甘くしたとは思わない。彼には自制心といいメロディを聞き分ける耳があるし、もちろん、ベーシストとして演奏にも加わっている。音楽に聞しては、いい勘をしているわけだ。それにみんな、彼がだれなのか、なにをあらわしているのか、なにをしてきたのか、そしてこれからどうするのかといったことに気を取られすぎだと思う。そこまでハードルを高くするのは、だれに対しても理不尽だろう」

〈恋のスペースマン〉

「ヴィヴ・スタンシャルとポールはウマが合った」[とニール・イネス](略)

「ぼくらは〈恋のスペースマン〉をやりたかったんだけど、当時のマネージャーは1曲のレコーディングに2時間以上費やすのはまかりならん、という考えだった。で、ヴィヴがこのことをポールに嘆くと、だったらぼくがプロデュースしようと言ってくれたんだ。

 スタジオにあらわれた彼はウクレレを弾いた。ヴィヴはトランペットのマウスピースをつけたホースを持ち出し、頭の上でグルグルまわそうとした。で、それを見たエンジニアが『そんなの、レコーディングできません!』と言うと、ポールが『どうして?スタジオの四隅にマイクを立てればいいじゃないか』と言ってくれてね。しきたりをものともしない彼の姿勢はすばらしかった。

 でもぼくらはポールに『あなたの名前に頼るのは嫌なんです。アポロ・C・ヴァーマスという名前にしちゃってもいいですか?』と言ったんだ。ポールは『うん、いいんじゃない』と言ってくれたけど、マネージャーは『なんだと!?』となっていたよ」

 余談だが、実際にこのシングルを完成させたのは、ガス・ダッジョンという新進気鋭のプロデューサーで、彼は〈恋のスペースマン〉を皮切りに、外宇宙をテーマにしたヒット曲を全部で3曲手がけることになる。残りの2曲はデイヴィッド・ボウイの〈スペース・オディティ〉とエルトン・ジョンの〈ロケット・マン〉だった。

曲づくりはセラピー

[最初は他のバンドと曲がかぶるのが嫌でオリジナルを作り出したが]

そのうちに、それだけじゃないことがわかってくる。(略)セラピー的な効果があることだ。気分が落ち込んでいるときは、どこか秘密の場所に行くといい――家のなかで一番隅っこにある場所(略)誰も行かない場所に。曲書きにはそういう場所がいちばん適している。

 まず、自分にいろんな話をするんだ。ずっと考えていたネタを引っぱってきて、それをどこか、できれば自分の心とは別のところに置く。ずっとやってきてることなんだけど、これはすごく効果がある。実際のはなし、精神科医のセッションを受けるようなものなんだ。

(略)

 いろんなふくみを持たせて曲にすると、急にそれが夢みたいになる。自分の思いが額に入って、もっと見やすくなっているんだ――絵画とか写真のように、一歩離れて見ることができるし、曲という具体的なかたちもある。そこからはなにかが伝わってくるけど、それはそれまでにはなかったものを、自分かとらえたからなんだ。それがセラピーになるって意味さ。

曲の解釈のされ方について

[他人の解釈が自分の意図とは違っていても気にしないし、勉強になることもあるという話から]

――《レット・イット・ビー》に収録の〈トゥ・オブ・アス〉もそうですね。ジョンとあなたの友情をうたっていると解釈されることが多い曲ですが、リンダとの関係をうたっていると解釈することも十分可能なのでは?

 ぼくの曲は全部そうだ。よくやるんだけど、ひとつ以上のとらえ方ができる。ぼくはリンダと結婚し、彼女に恋をしていたけれど、[即興でうたう]「ぼくとリンダとで、ドライブに出かけた……」みたいな曲は、一度も書いたことがない。なんだかきまりが悪いし、うまく行くとも思えないからだ。ぼくとしては「ぼくたちふたり」と書くほうがすっきりするし、おかげでちょっとした謎も生まれる。「どのふたりのことを言ってたんですか?」

 リンダはロンドンの郊外にドライブして、そのまま道に迷ってしまうのが好きだった。ある日、西に向かって走ってると、ビルがなくなって、いつのまにか田園地帯に着いていたのを覚えている。ぼくらは車を駐めて、森や野原のなかに入っていった。ギターを抱えて車の上に座り、あの曲をうたっているぼくを撮ったリンダの写真ががあるんだ。だからぼくらふたりがあてどなく旅をするアイデアはそこから来ている。

(略)

 ジョンとぼくでうたったから、「ああ、このふたりのことなんだな」と思われるのは目に見えていた。基本的にはぼくとリンダの歌だけど、それをぼくがジョンとうたうと、ぼくとジョンの歌になるんだ。

 ぼくはそういうのが好きだ。たとえば「きみとこの部屋にいられてほんとにうれしい」という歌詞の曲を書いたとして、最高なのはそれが、この場ですごく意味を持つことなんだ。つまり、それを聞かされた相手は[うっとりした声で]「ほんとに愛してくれてるんだ……」となるだろうってことさ。この場でうたってもしっくりくるし、でもセッションの場に持ちこんで、ドラマーを見ながら「きみとこの部屋にいられてほんとにうれしい」とうたうことだってできる。最高なのはそこなんだ。曲って魔法みたいだなと思うのは、みんなが勝手に解釈できるからでね。で、そのCDをだれかが手に入れると、今度は家で恋人を見つめてるときに、「きみとこの部屋にいられてほんとにうれしい」と聞こえてきたりする。

 そうやって、いくらでも解釈できるところがいいんだ。まさしく魔法だよ。

パンク、時代遅れという危機感

連中はぼくらが10年か12年前にやってたことをくり返していた。それが連中に、ぼくらにもあった切れ味をもたらしたんだ。若さがね。それが最初の印象だった――まいったな、ぼくらももうお払い箱か。でもたとえば[ダムドの]ラット・スキャビーズみたいなドラマーを見てると、なんだ、ただのキース・ムーンじゃないか(略)となってね。ちょっと速いだけなんだ。連中のライブは20分で終わってたけど、考えてみたらそれだって、ビートルズのやっていたことだった。

(略)

[〈夢の旅人〉は]正直、からかってやれという気持ちもあった。だってスコットランドふうのワルツを、みんながやたらとツバを吐きまくってる時代にリリースしたんだぜ。それにいちばん上の娘のヘザーは、すっかりパンクに熱中していた。ぼくの好みからすると、あの子にはその手の知り合いが多すぎた。ビリー・アイドルとデートしてたりしてね。父親としてはもう、最高にありがたい話じゃないか!

(略)

 というわけであの曲は、どんなパンクのレコードよりも大ヒットした。それによく考えてみると、ぼくらだって〈ヘルター・スケルター〉をやってるんだ。〈アイム・ダウン〉だってやってるし。狂ったように絶叫する、リトル・リチャードっぽいやつだ。

(略)

キース・ムーンみたいな連中は、脅威を感じるというより単純に怒っていた。自分のドラム・スタイルをパクったやつらに、退屈なおいぼれ呼ばわりされてたからさ。向こうにあったのは怖いもの知らずの、若さだけだったのに。

 いや、いいことだったと思うよ。あれは箒みたいなもので、音楽シーンを掃き掃除してくれたんだ。あのころは全部がLAのロッド・スチュワートっぽくて、ちょっとデカダンな感じになっていた。でもなんだってそうだけど、行きすぎはよくない。ぼくのいちばんのお気に入りは〈プリティ・ヴェイカント〉だった。ダムドも悪くなかったかな。でもぼく的には短いブームだった。

(略)

[こりゃマズいという]感じがしたのは、あのときがはじめてじゃない――アリス・クーパーが出てきたときもそうだった。(略)。あの時点[1972年]でのアリス・クーパーは、ちょっとマズいんじゃないかという感じがした。暗黒面が忍び寄ってきたと言うか。もちろん実際に会ってみると、アリス・クーパーは最高にいいやつだったけど。単なるイメージの問題だよ。(略)

「ああ、なんてこった。世界はもしかすると、もっと暗くて、もっと暴力的な方向に舵を切ったのかもしれない……」。あのころは、一夜にしてそうなってしまいそうな感じがしていた。

 じゃあ、最後に本気でこれはマズいと思ったのはいつかって?そうだな、デイヴ・クラーク・ファイヴが出てきたときかな。でもみんな程度問題で、いずれは落ち着くところに落ち着く。それ以前だと?ああ、ジェリー&ザ・ペースメーカーズかな。あのときもかなりビビってた。でもそのうちに気がつくんだ。なんだ、ぼくらはそういうのを全部、生きのびてきたんじゃないか、だったら希望がないわけじゃないぞ、って。

ベース

《リボルバー》や《ラバー・ソウル》が終わったあたりから、オーバーダビングするようになってきた。ベースをね。問題は〈レット・イット・ビー〉みたいにピアノで書いた曲の場合、ジョンやジョージにそのフィーリングをピアノで伝えるのがむずかしかったことだ。こっちにはバッチリわかっているのに。だからジョージはよくぼくに腹を立てていたし、考えてみるとそれも、無理のない話だったと思う。でもぼくにはそれ以外の手が考えられなかった。曲を書いた楽器じゃないと、どうしても“フィーリング”が出せなかったから、まず最初にその楽器を弾いて、あとから手を入れるようにしてたんだ。

 でもそれはつまりぼくらがいろんな曲を、ベースぬきでレコーディングしていたということだし、そうするとサウンドに欠落感が出てしまうから、ギタリストには決してありがたい話じゃない。ベースの音を想像しなきゃならないし、そうなると最初から、いい音なんて出せるわけがないからだ。

〈ディア・ボーイ〉

〈ディア・ボーイ〉は、ジョン・レノンに対する当てこすりと解釈された。しかしポールの説明によると、この曲がうたっていたのはリンダの前夫、ジョーゼフ・メルヴィル・シーのことだった。「一度も彼には話さなかったけど。話さなくてよかったと思うよ。だって彼はその後、自殺してしまったんだ。〈ディア・ボーイ〉は『たぶんきみは自分がなにを取り逃したのか、まるでわかってないんだろう』という、ぼくからのコメントだった。なぜならぼくは本気で、なんてこった、こんなにすばらしい女性なのに、あの男にはそれがわからなかったのかと思っていたからだ」


ラム

アーティスト: ポール&リンダ・マッカートニー

メーカー/出版社: ユニバーサルクラシック

発売日: 2012/05/30

|CD| Amazon.co.jp

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2017-05-09 ポール・マッカートニー 告白 このエントリーを含むブックマーク


ポール・マッカートニー 告白

作者: ポール・デュ・ノイヤー, 奥田祐士

メーカー/出版社: DU BOOKS

発売日: 2016/06/10

|本| Amazon.co.jp

親たち

これは僕なりの見方なんだけど、ぼくらの親たち世代は、ようやく第二次世界対戦から立ち直ろうとしていた。リヴァプールじゃみんな、爆撃を受けていたからだ。だから彼らは今度こそ楽しんでやろうと思っていた。絶対に楽しむ決意でいたというか。そしてああいう前向きな歌にしがみついていた。どれだけ貧乏の家でも、たいていはピアノを工面していたからね。(略)戦争の思い出を消すために、みんな、前向きな曲を求めていた。そしてぼくは、そんななかで育ったんだ。

〈ペニー・レイン〉

全市にめぐらされたバス路線の終点から着想を得た、1967年の〈ペニー・レイン〉(略)

「実際にはバスに乗ろうと思ったら、もどっていかなきゃならなかった。バスはいつも満員だったからだ。だから停留所を10個ぐらい逆もどりしていた。(略)バスの始発が出るピアヘッドまで歩いていたんだ。ぼくは街を通りぬけながら、ありとあらゆるものに目を留めていた」

 〈ペニー・レイン〉を書く動機になったのは、そこからさほど遠くない、草木の生い茂る避難所を讃えたジョンの〈ストロベリー・フィールズ・フォーエバー〉を、下書きの状態で聞いたことだったのかもしれない、と彼は考えている。早くも1965年の段階で、ポールはこの通りの名前を曲のタイトル候補に考えていたが、それはジョンが〈イン・マイ・ライフ〉の初稿――ノスタルジックなリヴァプール紀行の形態を取っていた――に、この地名を使っているのを知ったことがきっかけだった。

父親の時代の曲

 「あれ[〈ホーム〉『キス・オン・ザ・ボトム』収録]は父親の時代の曲だけど、ビートルズをはじめるちょっと前に、よくインストゥルメンタルにして弾いていた。コードが好きでね

(略)

 そうさ、実際にぼくらが聞いて育ったのは、あの時代の曲なんだ。(略)

ぼくが知り合ったとき、ジョンがお気に入りだったのは、「瞳を閉じて、きみの頭をぼくの肩に乗せておくれ……」[〈クローズ・ユア・アイズ〉1933年]という、すごく30年代、40年代っぽい曲だった。それともうひとつは〈リトル・ホワイト・ライズ〉[1930年](略)

 それで彼と仲良くなりたいと思ったんだ。うん、ぼくもあの曲は好きだ、と思ってね。彼はよく「オレはこの曲が好きなんだ、あと、あの曲も」と言ってた。

(略)

[ロニー・ドネガンでスキッフル・ブーム]

ギターを手に入れたら、あとはコードをふたつぐらい覚えるぐらいでいい。やるのはブルースだったからだ。それとだれかがリズムを取る、洗濯板を調達しなきゃならなかった。それもできたら金属製の。ガラスのはあまり音がよくなかったからだ。おもしろかったよ。だって母親や年寄りのおばさんに、洗濯板持ってない?と訊いてまわったりしてたんだ。「ああ、そういえばエセルおばさんが持ってたわ。物置にあるはずよ」。それと茶箱のベース。だからすごく安くついた。

ジェリー・リー・ルイス、B面

ぼくらがジェリー・リーを好きだったのは、カントリー・パフォーマーのきわめつけって感じだったからだ。ぼくは〈陽気にやろうぜ〉が好きだったし、ぼくらはほかに、〈ユー・ウィン・アゲイン〉みたいなスローなカントリー調のB面曲も好きだった。(略)

物真似なら、ほかのバンドのほうがうまくやれる。(略)だったら裏口にまわってB面を覚えたほうがマシだろう、という話になったんだ。連中はB面なんて気にしてないから。

 これがだんだん、ビートルズの決まりみたいになってきた。[出番が先のバンドに自分たちのオハコをやられて嫌になり](略)

 それでぼくらは別のルートを探しはじめた。ベギー・リーの〈ティル・ゼア・ウォズ・ユー〉は、そうやって行き当たったレコードだ。とにかくメロディが気に入ってね。(略)

 ぼくらはボ・ディドリーの〈クラッキン・アップ〉とかチャック・ベリーの〈ハバナ・ムーン〉みたいなB面曲を探しはじめた。それとジェームズ・レイの〈イフ・ユー・ガッタ・メイク・ア・フール・オブ・サムバディ(恋の傷)〉――この曲はだれも知らなかったし、ロック・バンドがワルツをやりはじめたときの、連中の唖然とした表情はぜひ見ておいてほしかったな。音楽をやってるやつらはみんな、「ありゃなんだ?」となってたからね。

(略)

[ハンブルクでは時間稼ぎで]

適当に曲をでっち上げたり、〈テキーラ〉みたいな曲のばかばかしいバージョンをやって――「デ・デ・デ・デ・デッデ・デ、ニッカーズ〔*パンティ〕」――笑いを取ったりしていたんだ。

謎のスプーンおばさん

どこのタレント・コンテストに出ても、ぼくらは負けつづけた。とにかくぜんぜんダメだった。

 いつもてんでイケてない相手に負けてたんだ。毎度のように、スプーン鳴らしの芸をやる女に。これはリヴァプールでのことで、判定が下る11時半ごろになると、みんなすっかり酔っぱらって、「いけいけエドナ!」って感じになる。チンチリリン。いや、たいした女だったよ。ぼくらはいつも、このおばさんにボロ負けしていた。たぶん、あのロクデナシ女はぼくらのことをつけまわしてたんだと思う。「ビートルズは今週、どこに出るの? わたしが負かしてやるわ。向こうの手の内はわかってるから」ってね。

キャヴァーン

あそこはビートルズ初期のレパートリーを形づくる、培養地のような役割を果たしてくれたし、チーズロールをパクつき、コカコーラをがぶ飲みし、セメント・ミキサーズだのなんだのと名乗る常連客のために、〈ショップ・アラウンド〉とか〈サーチン〉とかの曲をリクエストする紙切れをステージに送ってくる客たちがいる、汗臭くて湿っぽい空気のなかで友人たちと一緒に過ごした日々のことを思うと、ぼくの心はいつも大きな愛でいっぱいになるんだ。

ジョンとヒッチハイクでパリ旅行

なにかギミックが必要だということになって――ふたつの小さな頭が空まわりしてるところを想像してほしい――ぼくらはレザージャケットに山高帽をかぶり、その格好でスーツケースやズタ袋を持ち歩いた。黒のレザージャケットに山高帽をかぶったふたりだよ!そのふたりなら、トラックの運ちゃんだって、どういうことなのか知りたくて車に乗せてくれるに決まっている。ぼくらはそうやってパリに行き着き、最高に楽しい時間を過ごした。

キンクス

キンクスと共演したこともある。ちょうど〈ユー・リアリー・ガット・ミー〉が出たばかりのころだ。つまり、歴史の現場に居合わせたってことさ。ヘンドリクスが登場したときと同じようにね。いやもう、すごく興奮したよ。あの曲はいまだに最高だし。観客に見つからないように、全員、頭を低くして最前列まで出て行ったのを覚えている。

最初からずっと大人っぽかったリンゴ

[映画ではコミカルなマスコット的存在として描かれているが]

最初はバーボンのセブンアップ割りだった。ぼくらのなかじゃいちばん世慣れたリンゴが飲んでいたからだ。彼はいつだってそうだった。ラークのたばこみたいなアメリカっぽいもののことは、なんだって知っていた。でっかい車も持っていたし。あの暮らしぶりからすると、リンゴはGIだったとしても不思議はない男だった。フォードのゼファー・ゾディアックに乗ってたんだ。信じられないよ。こっちはみんな、ちっぽけな車しか持ってなかったのに。

 リンゴは年上で、バトリンズで仕事をしたこともあった。ヒゲを生やしていたし、スーツも持っていた。すごく世慣れた感じがして、ジャック・ダニエルズとかのバーボンを飲んでいた。バーボンなんて聞いたこともなかったから、それでぼくも「同じのをもらうよ」と言ったんだ。バーボン&レモネードがお気に入りの飲みものになり、それがスコッチ&コークに変わった。たぶん、バーボンが飲めなかったときに。たしか、リンゴがオーダーするのを聞いたんだと思う――「バーボンがなければ、スコッチをもらおう」って。

 彼は大人だった。リンゴはね。最初からずっと大人っぽかった。もしかすると3歳ぐらいのころから、もう大人っぽかったんじゃないかと思うよ。(略)

 最初に吸ったのはピーター・ストイフェサント。これもやっぱりアメリカのたばこで、外見がとてもクールだった。「知らないのか?これはニューヨークを発見した男の名前なんだ」。ほんとに?「ああ」。すごく洗練されていて、二枚目っぽい感じがする。「きみも吸うかい?」

 で、たばこをポンと取り出す。知ってるかな、あのポップアップ式のたばこ?(略)

簡単に出せるんだ。全部がすごくアメリカっぽい。

 リンゴは女の子とたばこを吸っていると、2本いっぺんに火をつけるような男だった。そういう、手練手管の持ち主だったわけでね。チャーミングなロクデナシ野郎と言うか。

ビートルマニア

よく「怖くなったんですか、ほら、あの狂乱状態が?」と言われるけど、ぼくらはとくに怖がってなかったと思う。(略)

あれは好意的な狂乱状態だった。拍手喝来となにも変わらない。それに時には、そのおかげで助かることもあった――音をはずしてたり、あんまりうまくうたえてなかったりしても、問題にならなかったからだ。(略)

追いかけまわされて車から出たり入ったりするのも、とくに気にはならなかった――仕事の一環である限りは。でも私生活にまで入ってこられると、さすがに黙っていられなくなる。(略)

 そのせいで気分を害することもあったけど、そういうのはたぶん、きみが思ってる半分もないはずだ。基本的にぼくらはそれを、OKサインとして受け取っていた――みんな、ぼくらが好きなんだ!

メンバー同士のおちょくりについて

なにしろそれはポールにとって、亡母の神秘的なイメージを中心に据えた、もっとも思い入れの深い作品のひとつなのだ。だがアルバムでは彼がうたいだす前に、ジョンが北部なまりの甲高い声で、皮肉っぽく「ほらほら天使のお出ましだ!」と口をはさむ。そして曲が終わると、唐突に〈マギー・メイ〉(その主人公は、リヴァプールの水夫街を根城にしていた有名な娼婦だ)のいい加減なおふざけバージョンがスタートする。(略)〈レット・イット・ビー〉にふさわしくないのでは?「いや」と彼は明るく笑う。「ビートルズというグループにいると、そういう職業上の危険がつきものだからね……

 ぼくらはおたがいをおちょくることができた。きみの言いたいことはわかるけど、ぼくらはいつもそういうことをしていたんだ。(略)

それがビートルズの一部だったんだ。ぼくも〈ゲット・バック〉でひとつやってる。ジョンがあの見せ場のソロ、むちゃくちゃ最高のソロを弾いてるときに、「家に帰れ」と言ってるんだ。おちょくってたのさ。

(略)

ぼくらはそうやっておたがいが、いい気になりすぎないようにしていたんだ。いつもだれか、おちょくってくるやつがいて。だからべつに気にしなかった。それはただの……習慣だったのさ。

ヌレエフ

 これは誓って本当だと言える思い出話があるんだけど(略)ビートルズはマドリッドでヌレエフに会ってるんだ[彼らは1965年7月にバレエ・ダンサーのルドルフ・ヌレエフに会った]。

 ブライアンが彼を連れまわしていて、夜遅くのことだったから、ぼくらは“イモリなみに疲れはて”[へべれけに酔っぱらい]、退屈し、笑えるネタを探していた。で、ぼくら、頭に水着をかぶって彼に会ったんだ。「お会いできてうれしいです」。ムチャクチャだよ。と言ってもキツい感じじゃない。でもやっぱりちょっとシュールだった。ヌレエフ。水着を頭にかぶったぼくら。「会えてうれしいです!」

シェイ・スタジアム

何百万羽ものカモメたち、絶叫するアメリカの観衆だよ。ステージに立つと、今や伝説になったPAは野球用のシステムで、ぼくらがそれまでに使ったなかでも最悪のシロモノだった。ステージは小さく、風が少しあって、観客はみんな絶叫していた。自分たちの演奏が聞こえなくて、かなりキツい状況だった。

(略)

で、イギリスにもどったあと、実を言うと歌を全部入れ直したんだ。マイクはなにも拾えてなかったし、拾えててもひどい出来だったからね。今見直してみると、ぼくらは正直、いい仕事をしたと思う。ちゃんとライブっぽく見えるからだ。ぼくらはウェンブリーにあったスタジオに少なくとも2日入り、ボーカルやギターや、とにかくやり直す必要のあるものは全部やり直した。

(略)

 1966年のライブについては――「舞台裏は盛り上がってた。ヤング・ラスカルズみたいなニューヨークのバンドが訪ねてきたり、あと、ぼくらがファンだったラヴィン・スプーンフルも。それが60年代のよかったところでね、ぼくらはみんなおたがいのレコードが大好きだったんだ。みんなキャリアをスタートさせたばかりで、おたがいに感心し合ってたから、たとえばぼくらがジョン・セバスチャンに会うと、[感動の口調で]「ああ!」となってたのさ。だってぼくは彼の曲をもとにして、〈グッド・デイ・サンシャイン〉を書いたんだぜ。なんだっけ、あの明るい曲?」

――〈デイドリーム〉ですか?

 「そうだ、『今日は昼間からすっかり夢見心地』。あれはぼくらにとって、まさしく夏を象徴する曲だったし、〈グッド・デイ・サンシャイン〉を書く動機にもなってる。だから彼みたいな男や、ああいったバンドに会えるのはうれしかった。舞台裏じゃ、そういうクールな出会いがいろいろあったんだ」


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マリファナ

 ――その夏、ビートルズは《リボルバー》をレコーディングしました。

 いちばん肝心なのは、みんながハイになっていたことだ。酒からマリファナに移ったのさ。(略)

ディランの影響がとても大きかった。(略)

[ポールによると、ディランは自分の客たちに「ジョイントをやろうぜ。酒はあんまり飲まないけど、ジョイントだったら吸えるから」と挨拶していた]。(略)

実のところあれは、酒の代用品だった。スコッチはちょっとキツすぎる感じがした(略)マリファナはもっと穏やかで、アイデアを剌激してくれた。

 それがみんなの心を大きく変化させたんだよ。「まさか、スコッチなんて飲んでないよね?」って、恥ずかしく思うようになったのさ。(略)それはぼく向きじゃないな、ワインか、マリファナをちょっとやるほうがいい、って感じの。

アートになったロック

[ディランに《サージェント・ペパー》を聞かせると]

「ああ、わかったぞ。きみたちはもうキュートでいたくないんだな」と言った。その言葉は、当時の状況をうまく要約していた。キュートな時代は終わったんだ。ぼくらはキュートな面を売りにしたアーティストだった。そうせざるを得なかったからだ。本音を言うとぼくらも、キュートなことはしたくなかったんだけど。でも「トップ・オブ・ザ・ポップス」に向かって「いや、衣裳はすごくタフな感じで行く。おたくの小屋をぶっ壊してやるぜ」なんてことを言うのは、いくらなんでも過激すぎた。まだそんな真似はしたくなかった。

 つまりなにがあったのかと言うと、ロックがアートになりはじめたんだ。ディランは歌詞に詩を持ちこみ、おかげでジョンは〈悲しみはぶっとばせ〉をうたうことになった

(略)

 ぼくらはおたがいに異種交配していた。彼が長いレコードを出すと、ぼくらも〈ヘイ・ジュード〉を長くしても大丈夫だ、となる。

『レット・イット・ビー』

[ある晩、初期バージョンを聞いていて]うん、こいつは挑戦的なスゴいアルバムだぞ、と思った。それは実際、なんの飾り気もないビートルズ、部屋にいる4人の男[+ビリー・プレストン]だけで演奏しているアルバムなんだ。(略)怖いと言えば怖かったよ。ぼくらはいつもダブル・トラックにしたり、ハーモニーを重ねたりしていたから。でもこれはある意味で、ライブ・アルバムと言ってよかった。

 からっぽのまっ白な部屋で――すごくミニマリストっぽい――このアルバムを聞いているうちに、ゾクゾクしてきたのを覚えている。すごく感動したし、スゴいと思った。これはきっと最高のアルバムになるぞ、って。でもそのあと、このアルバムは再プロデュースされ、言ってみれば売りやすいレコードに再構成されてしまった。そしてぼくは、それにはあまり乗れなかったってことさ。以上。

――つまりあなたが聞いていたのは、グリン・ジョンズのバージョンなんですね?

アップルの屋上でのセッション

――[あの時]人前でプレイするのはこれが最後になる、とはっきりわかっていたんでしょうか?

 いや。ぼくらがいちばん最後っぽくなったのは、マンチェスター・スクエアのEMIにもどっていって、あの写真[《プリーズ・プリーズ・ミー》の再現版]を撮ったときだ。みんな、ちょっとブルってたからね――「これはかなり最後っぽいぞ。これでふりだしにもどった。オレたちははじまって終わったんだ」。それ以外はみんな、「じゃあまた明日」って感じだった。あれはあくまでも映画用のコンサートだったのさ。

終焉

[撮影の]途中でグループは解散に向かいはじめた。(略)ぼくはとりわけ、ジョージの神経を逆なでしていた。(略)〈ヘイ・ジュード〉のときなんかがそうで、ぼくはこの曲をごくごくシンプルにスタートさせ、だんだん盛り上がっていく感じにしたかった。(略)でもリハーサルのときのジョージは[騒々しいギターのリフを弾きだし](略)「ジョージ、頼むから今のは弾かないでくれ。もしかしたらあとでソロを入れるかもしれないけど、いちいちフレーズに応えなくてもいい。それじゃすぐに面白味がなくなってしまうだろう」[すねた声で]「わかった、だったらもう弾かない」。そんなことがちょくちょくあったんだ。

 角と角を突き合わせるってやつさ。ふたりとも若いオスだったからね。(略)

[ある日ジョージがいなくなり]あわてて「ミーティングだ!クソッ、ぼくら、なにをしちゃったんだろう?」となってね。「いや、あいつは本気で気分を悪くしてたぜ。おまえはやりすぎた。あいつを小突きすぎたんだ。(略)

これはまさしくその通りで、ぼくには叱ってくれる人が必要だったんだと思う。

 ぼくらはジョンの家でミーティングを開いた。ジョンはすごく現実的だった――「だったらエリック・クラプトンを入れようぜ!」「いや、それはどうかな。ぼくらはビートルズなんだ。それはちょっとちがうと思う」。ぼくは思った。いや、ぼくがやりすぎてしまったせいだ、ジョージに謝らないと。だから実際にそうしたんだ。

 あれはすごく張りつめた時期だった。解散のはじまりと言うか。あのあとはちょっとやりにくくなった。全員が発言権をほしがったせいだ。それまではジョンとぼくがほとんどの曲を書いていて、ジョージの書く曲が1曲、そしてリンゴのために書く曲が1曲という感じだった。(略)

 ぼくらが解散した理由のひとつは、ビートルズの末期に、これからは「ポールの曲が4曲、ジョンの曲が4曲、ジョージの曲が4曲、リンゴの曲が4曲」というふうにしようとしたことだった。むろん、それじゃうまく行くわけがない。バランスが狂ってる。でもあのときはもう、民主的になること自体が目的と化していたんだ。

 映画にはぼくとジョンのあいだに、ピリピリした空気が流れる場面もある。でもふり返ってみると、あれでよかったと思うんだ。普通なら、あんな場面はOKにしないだろう。

(略)

 でも映画の題材としては、悪くなかったと思う。もちろん、意図してああいう映画にしたわけじゃないけど、実際にはすごくいいテーマだった。“劇中で解散する世界的に有名なグループ”どうだい、悪くないだろ?


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次回に続く。

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2017-05-06 法のデザイン 創造性とイノベーションは法によって加速する このエントリーを含むブックマーク


法のデザイン 創造性とイノベーションは法によって加速する

作者: 水野祐

メーカー/出版社: フィルムアート社

発売日: 2017/02/24

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 音楽がメロディと歌詞との組み立てではなく、抽象的な音の質感のタペストリーとして作曲され得るという考え方に対処できる確かな法体系はない。――ブライアン・イーノ「音楽の共有」[『A Year』所収]

(略)

イーノ自身の楽曲に存在するアンビエンスやアート・リンゼイのノーチューニングのギターノイズが、どこまで著作物として著作権により保護されるか?という問いに、現行の著作権法やこれまで蓄積されてきた裁判例は明快な解答を用意できない。ここで我々は、著作権という権利が、いかにメロディやコード、ハーモニーといった西洋音楽の構造を前提にしか機能しないかということに思い至るわけである。

この[音楽に関する権利の帰属や収益の配分に関する]見直しは、それぞれ実は、文化的な価値がどう作られるのか、異なる文化的な価値がどこからくるとわれわれが考えているのか、異なる文化的な価値の相互関係はどういうものなのかということに関する、新しい見方なのである。だからこれらは最終的には、「オレはいくらもらえるの?」とういうつまらない問いではないのだ。――ブライアン・イーノ「音楽の共有」


A year

作者: ブライアン・イーノ,山形浩生

出版社/メーカー: Parco

発売日: 1998/06

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[ヤン・イェリネックの]『Loop-finding-jazz-records』は、このサンプリングに関する問題を象徴するレコードである。このレコードは、さまざまなジャズのレコードのアンビエンス(具体的に言えば、サックスの吹き終わりに残る残響など)のみをサンプルして制作された、まさにタペストリーと言うべき美しいミニマル・ミュージックであった。しかし、一聴しても、このレコードのサンプリング元が往年のジャズのレコードなどということは到底わからない。このレコードは、先に挙げた2パターンである「権利が生じていない部分」を「細かく」サンプリングした、サンプリング・ミュージックの一つの到達点として評価できるとともに、著作権的な観点からみても、音楽制作の現代的変容を切り取った極めて批評的なものだったといえる。

 サンプリングに関しては、ともに2016年、マドンナが大ヒット曲「Vogue」に使われたホルンの音をめぐる裁判において勝訴したことや、クラフトワークが彼らの楽曲「Metal on Metal」から二秒間サンプルしたラッパーを訴えていた裁判で敗訴したことで、「一秒でも違法」という法的状況は変わりつつある。

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2017-05-04 宮藤官九郎の娘の「クセがすごい」 このエントリーを含むブックマーク


え、なんでまた? (文春文庫)

作者: 宮藤官九郎

メーカー/出版社: 文藝春秋

発売日: 2016/05/27

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 交番の隣の掲示板を指差して娘が叫びました。

「この人、マコトさんだよね」

 指名手配犯の写真が並んでいて、その中のオウム真理教の元幹部、平田信容疑者の顔の上にシールが貼ってある。

 「なんて書いてあるの?」と聞くので「『ご協力ありがとうございました』だよ」と答えると、したり顔で「あ〜あ、やっぱりね」と頷いた。あっ、またウソつくぞと、すぐ解りました。

(略)

お友達が鼻血をブーっと出して、たまたま空を飛んでいた飛行機に血がついたの〜など、大人の週刊誌に書くのは憚られるウソも多いのですが「マコトさん」には度肝を抜かれました。

 「幼稚園の前をマコトさんが通ったから警察に達絡したの、そしたらお巡りさんが来て『友達のフリして』って言うから、お巡りさんとお家ごっこして遊んだの。そのうち、マコトさんが走り出したので、お巡りさんが追いかけたの」

 これが本当だったら大変なお手柄です。

 「かんぱのおかげで捕まったんなら、感謝状とか貰える筈だよ」

 「うん、もらった」

 もはやウソになんの迷いもない。

 「お父さん見てないよ」

 「幼稚園のロッカーに入れてあるからね」

 「なんで?」

 「間違って友達が持って帰っちゃうでしょ?」

 娘にとって感謝状はピアニカや上履きと一緒みたいです。

ドイツからのファンレター

「私は何かを見つけた。ですか5今この手紙を書いている。ファンレターみたいだ。私には少し変ですけど書きたいんだ」

 独和辞典(?)と首っ引きで書いたんでしょう。その苦労に頭が下がります。「ら」が「5」になってるけど。

(略)

「二つの日本映画を見た。SHONEN-MERIKENSACKやINSTANT-NUMAと」

 僕の監督作と出演作ですね。ひょっとしたら『インスタント沼』も監督したと思われているかもしれないが違います。三木聡さん。とにかく「冬の寒さのため、私の仕事の忙しさのため、ちょっと疲れる感じがあった」そうですが「見たら気持ちよかっただ」。

 よかっただ?

 日本語って難しいんでしょうね。(略)

 「俳優たちの役は変だけど人好きのする役だ」(略)

 「音楽はPUNKROCKだった。素晴らしいだ」

 「だ」の使い方が難しいんだな。英語のTHEみたいに捉えているのかも知れない。不要なところにちょいちょい入って来る。そのわりに映画のテーマは意外と伝わっていたりする。

「話は速過ぎて全部の冗談は分からなかったが、好きな事があれば、友達がいれば、生活は素晴らしいことだ。かなー」

 ほぼその通りです!

 「ときどき好きな事は馬鹿な事だ。しかし、馬鹿なのに、好きだから成功する」(略)

 「わからない。ごめんなさい。ぺらぺらだ」

 ぺらぺらだ? そもそもハンブルクで僕の作品をどうやって見るんだろう。

 「公的図書館で借りる可能性がある。日本映画祭がある」

 そこで彼女は『GO』や『69』さらにドラマまで見てくれたそうで「大そんけいだ」と。

 嬉しいです。

時間が空いたのでサプライズで娘を迎えに行ったら

開口一番、

 「なんで来たの?」

 あ、あれ? 家だと3分おきに「お父しゃん大好き!」と叫ぶほど相思相愛なのに。さては照れてるな。良い方に考えながら娘を自転車に乗せる。

 「今日は? なにして遊んだ?」

 「遊んでなーい」

 「そうか、給食は?」

 「ぴかぴか(完食)」

 「おお、偉いなあ」

 「ていうか、お父しゃん、お迎えは来ないでくれる?」

 え!?思わずブレーキを握ってしまった。どうやら照れてるわけじゃなさそうだ。父が想像以上に打撃を受けたので慌ててフォローする娘。

「送りはいいよ、送りはね、送りは嬉しいんだけどぉ、お迎えは……お母さんがいいなあ」

 うわあ、やんわり拒絶された。同伴出勤はいいけどアフターは勘弁みたいな感じか。

「だってサ、よそのお父さんは昼間お仕事で来れないからサ、ちょっと恥ずかしいの」

 いや! いやいや! 俺もたまたま空いただけー! 夕方から打ち合わせなんですけど。

 「うそ、じゃあ今日も遅く帰って来るの? やーだ! お父さんと寝たい、お父さん大しゅき!」

 なんなんだよ。

 「家=プライベート」「幼稚園=社会」という線引きが、自我の芽生えに比例して明確かつ厳しくなってきてる。だから予告なしで来られると面食らう。同棲中の彼氏が突然お店に来ちゃったみたいな気まずさ? うーん、まだ良い方に考えようとしてますか? 単にウザがられてるだけですか? そんなのやだ!

「あまちゃん」の脚本を書き出した頃の話が「ゆとりですがなにか」に

[エッセイのネタに詰まって散歩中、地元の歓楽街に迷い込んだら]

呼び込みの男性が、なぜかキレ気味に叫んでいる。

「お兄さん、逆におっぱいなんじゃないスか!?」


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2017-05-02 ジブリの文学 鈴木敏夫 このエントリーを含むブックマーク


ジブリの文学

作者: 鈴木敏夫

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2017/03/29

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悲観論者

 宮崎駿は、一般の印象とは随分と違う人かもしれない。(略)

宮さんはぼくが出会った時から悲観論者だった。それも、並の悲観論者ではない。実際、悲観すると、肉体が壊れんばかりに支障を来す。眠れない夜が続き、挙句は目が腫れたり歩けなくなったりする人なのだ。『もののけ姫』に登場した乙事主の最期を思い出して欲しい。(略)齢五百歳の巨大イノシシの王だ。あれが、宮さんそのものなのだ。しかし、その悲観の深さが作品を生む。

『ナウシカ』のブルーレイ化

今回の話が持ち上がる前から、宮さんは、デジタル処理に関して、否定的な意見を吐いていた。過去の名作が、デジタル処理を施すことで、色にざらつきのある、品のない作品になってしまっている。ああだったはずがない。あれは、作った人に対する冒瀆ですよ。年数が経てば、作品が古ぼけて見えるのは当たり前。ぼくにしても、そうやって過去の名作を見てきた。それをいくら技術の進歩があったからといって、新品にしてしまう権利がだれにあるのか。それが宮さんの意見だった。

 それを整理すると、こうだった。基本は、公開時のものを尊重して欲しい。それ以上には綺麗にしない。プリントを焼く過程でついた傷は取る。色パカ(塗り残し)は、そのままにする等々。

宮崎駿の「自白」

[30年ほど前]C・W・ニコルさんと対談することになり、珍しく宮さんがぼくにビデオを貨してほしいと頼んできた。タイトルを聞いて驚いた。『わが谷は緑なりき』。ジョン・フォードの名作だ。

 なぜ驚いたかというと、この作品については、宮さんは事あるごとに人に語ってきたので、今さらなぜもう一度見るのかという疑問が湧いたからだ。(略)

 宮さんが言いにくそうに、小さな声で「自白」を始めた。「……いや、実は映画を見たことがない」。宮さんはあらぬ方を見ている。

 真相を確かめるべく問いただすと、宮さんが見たことがあったのは、『わが谷は緑なりき』のスチール一枚のみ。その一枚から、想像を膨らませ、映画の内容についてこういう映画に違いないと、勝手に決めていたのだ。

 たぶん、何度も話しているうちに、自分でも映画を見たと信じ込んでいたのだろう。で、これまでは何とかなってきたが、今回ばかりはそうはいかない。

 なにしろ、C・W・ニコルさんは、『わが谷は緑なりき』の舞台になったウェールズで生まれ育った人だ。

奥田誠治

[氏家により左遷された奥田誠治が『ポニョ』完成後のジブリを訪れた。二人で]

宮さんのアトリエを訪ねた。そして、事情を説明した。こういうときの宮さんは忍耐強くじ〜っと話を開く。聞き終わると、一切意見を口にしない。それが宮さんのやり方だ。

 そして、第一声を忘れない。

 「奥田さん、零戦の映画を作らない? 企画はぼくが考えるから」

 奥田さんは戦争に開する本や映画に詳しくて、宮さんと一緒によく雑談をしていた。(略)

[それから数ヶ月後宮崎は「風立ちぬ」の連載を開始]

(略)

 映画『風立ちぬ』の公開がスタートして一週間が過ぎたころ(略)ぼくがこの話題を持ち出した。奥田さんは、そのことを絶対、覚えてないに違いない。その確信の下に。案の定、奥田さんが表情を変えた。

 「あ、あのときの!」

 どうやら記憶がよみがえったらしい。零戦の漫画は、マニアの奥田さんも毎号、期待して読んでいたが、まったく気付かなかったそうだ。

(略)

 ちなみに、『千と千尋の神隠し』は、奥田一家のことをモデルにして作った映画だ。ジブリは、奥田さんに随分と世話になっている。

 あれから五年。氏家さんが亡くなった後、奥田さんは部長に復帰して元気に働いている。

宮崎駿はどういう人なのか?

テレビの映像だけでは、なかなか伝わらない。『風立ちぬ』に登場した主人公二郎の先輩技術者で黒川という人物を思い出してほしい。これが宮さんの自画像だ。

 短足胴長の典型的な日本人。そして、顔はベートーベン。宮さんは、こういう漫画っぽいキャラクターを描かせたら天下一品だが、今回は特別だ。挙措動作、しゃべり方、表情を含め、カリカチュア(誇張)はあるがすべてが宮さんそのものだった。

[メイの]「顔がでかくて悪かったなあ!」

 宮さんがなぜ、声を荒らげたのか? その理由について、その場に居合わせたぼくは、一瞬ですべてを理解した。でかい顔のメイちゃんのモデルは、誰あろう、宮さん本人だった。

 宮さんの顔は、横に長い。そのことを揶揄されたと宮さんは勝手に誤解した。(略)

 映画の企画段階で、宮さんは、サツキとメイのお父さんのキャラクターを二種類作った。ひとつは、実際に映画で使うことになる面長タイプ。もうひとつが、横に長い顔だ。そのふたつの絵を持って、宮さんはスタジオを回った。どっちがいいと思うのか、スタッフに聞いて回ったのだ。結果、面長タイプが圧倒的な支持を得て、そっちに決まった。そのときの宮さんの落胆ぶりをぼくはよーく憶えている。

引退撤回

[スタッフがモニターで『レッドタートル』をチェックしていたら、後ろで宮崎が見入っていた]

午前中にチェックしてOKを出した[『毛虫のボロ』の]カットの全リテークを指示した。

 『レッドタートル』が宮さんに火をつけた。刺激を受けた。スタッフの間に緊張が走った。『レッドタートル』は全編手描き。しかも、芝居が素晴らしい。同時にこうも思ったに違いない。『レッドタートル』がジブリの最後の作品として公開される、それは我慢がならない、と。

 数日後、ぼくとの雑談の中で宮さんが唐突にこう言い出した。

 「あのスタッフがいれば、長編を作ることが出来る」(略)

 「ヨーロッパ中の手描きのアニメーターが集まったんですよ。それをもう一度集めるのは至難の業です」

 むろん、宮さんは映画を見たとは口が裂けても言わない。ぼくにしても、いつ見たのかなどと野暮なことは口にしない。

(略)

 それから数ヶ月経った。宮さんが一冊の本をぼくに提示した。

 「読んでみて下さい」

 アイルランド人が書いた児童文学だった。(略)面白いと思ったし、いまこの時代に長編映画とするに相応しい内容だと判断した。翌朝、そのことを伝えると、宮さんは満足の表情だった。

 「しかし、どういう内容にするかが難しい。原作のままでは映画にならない」

 そして、付け加えた。

 「ジブリは映画を作るべきだ」

 それは正論だ。やれるものならやりたい。しかし、いったい、誰が作るのか。この時点で、宮さんにしても自分が作るとは言い出していない。

 季節は梅雨になった。宮さんが別の企画を持ち出した。今度も外国の児童書だった。ぼくは再び、一晩で読んだ。宮さんが質問してきた。

 「どちらをやるべきか」

 ぼくに迷いは無かった。

 「もちろん、最初の本でしょう」

七月に入ったばかりのころだった。宮さんが企画書を書いた。そこには三つのことが書かれていた。

一つ目。「引退宣言」の撤回。

二つ目。この本には刺激を受けたけど原作にはしない。オリジナルで作る。そして、舞台は日本にする。

三つ目。全編、手描きでやる。

 むろん、監督は宮さんだった。このあと、ふたりが交わした会話は、去年の秋に放映されたNHKスペシャルの「終わらない人 宮崎駿」に詳しい。

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