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2017-07-29 資本主義後の世界のために D・グレーバー+矢部史郎 このエントリーを含むブックマーク


資本主義後の世界のために (新しいアナーキズムの視座)

作者: デヴィッドグレーバー, 高祖岩三郎

メーカー/出版社: 以文社

発売日: 2009/03/30

|本| Amazon.co.jp

D・グレーバー+矢部史郎/対話  資本主義づくりをやめる

矢部 グレーバーさんは、アナーキズムとマルクス主義を対立的に捉えるのではなく、その間で思考されています。だからアナーキストからはマルクス主義者ではないか、マルクス主義者からはアナーキストではないかと見なされたりもする。そのポジションが自分とよく似ているので、とても親近感をもちました。

(略)

 アントニオ・ネグリを評価している一方で、彼が新しい革命主体に「マルチチュード」という呼び名を与えることにグレーバーさんは反対している。そこに特に感銘を受けました。

(略)

グレーバー 私はマルチチュードという概念の批判の延長として、「構成的権力」の代わりに、「脱構成的趨勢」という概念を考えようとしています。(略)

「構成的権力」の概念の場合、現実にそれを経験する人びとが、ある種の国民的な統合や形式に向かわざるを得ないといった宿命的なニュアンスを持っているのに対し、「脱構成的趨勢」は、そうではない遠心力のようなものの可能性、つまりある種の形成性、集合性を持ちながらも、国民的な統合といったものとは異なる方向があるのではないかといった捉え方です。ネグリの考えの中のパラドキシカルな側面は、近代的な国民国家を形成する制度を肯定する人びとにとって、その形成のきっかけに暴力がなくてはならないと認識している点です。つまり、合法的な制度をつくるためには暴力が必要とされているという逆説を、ネグリの議論は孕んでいる。

 それに対して、アナーキストのスタンスはそういったパラドキシカルな思考はしない。そのパラドクス自体、国民国家が宿命的に存在しているという思考ですから。そういった議論を含む「構成的権力」に感じる問題点を考えたとき、アナーキストは、創造的な力の噴出というものをどのようにしたら国家的な制度に取り込まれないで誇示することができるかというところに向かわざるを得ない、それが「脱構成的趨勢」という概念のポイントだと思います。宿命的に国家経済に取り込まれることを想定する「構成的権力」との差異として考えると、「脱構成的趨勢」の特徴は、何らかのきっかけがあると、常に創造的な力が噴出するという点にあります。例えばニューオリンズの台風被害の際や、地震などの自然災害が起こったとき、民衆の創造的な力が噴出する状況に力点を置いて考える。災害などによって、行政機構が崩壊した隙間から共同体が形成されたり、さまざまな新しい生活が生まれる、そういったものが噴出する状況について考えようということなんです。

矢部 生きた労働ですね。

グレーバー マルチチュード概念は、コミュニズムがすぐそこに迫っている、もしくは現存している共産主義という考えの下に考察されているところがあります。(略)

マルチチュード概念には「前衛主義」が控えています。宿命的に国家というフレームワークを設定していて、それに対し、前衛という存在も想定されている。そこに問題を感じています。

矢部 前衛主義を擁護するわけではないですが、僕はそうではない面もあったのではないかと考えています。それは、ある種のレーニン主義的な、「国家権力の奪取」を目指す革命理論から脱出するための理論ではあったのではないか。国家というものはどうせ存在するものだから、それはそれであればいいんだ、と。国家があろうがなかろうが、共産主義はあるし、共産主義運動もある。国家権力を奪取できようができまいが、そのことは自分たちの運動とはあまり関係がない。それは、よい意味でのシニシズムではないかと思う。そこに既に存在する運動を共産主義として認め、運動に力点を置いて拡大するということが必要だと思うんです。

(略)

グレーバー 最終的に左翼と右翼を区別するのは、政治的な存在論の問題として何が「現実」かということに対する考え方なのではないでしょうか。

 右翼は暴力の政治的存在論を強調するでしょう。国際関係の政治学の中で、右翼の思想家は、国民国家はその利益を追求するためには何でもするであろうという論理を強調する。しかし国民国家自身が物質的な現実というよりは幻想的な現実なのです。むしろ事実はこうではないでしょうか。

(略)

フランスというものが存在しないにもかかわらず、フランスはあなたを殺すことができる。軍事機構があって、それはフランスを代表するということになってしまっている。つまり、フランス自身は現実ではなくても、軍隊は現実だということです。そのときの理屈というものは、あなたを殺すことができるから、それが現実だ、ということです。それが右派の政治的存在論の本質だと考えています。

 それに対して左翼は、歴史的に常に想像力と創造力を持った政治的な存在論について思考してきたのではないでしょうか。マルクスも、人間をどう解き放つかというときに、人間はまず事物を創造するから人間である、と言っています。だから最終的な現実というものは生産力である、と。われわれの間で広く読まれている『権力を取らずに世界を変える』という本を書いたジョン・ホロウェイはいま『資本主義をつくるのをやめる』という題の本を書いています。そのような思考法こそが左翼の政治思考の本質だったのではないかと。つまり世界は現実的にはみんなが集合的につくっているものなのに、誰も幸せになれない。どういう世界がいいかと想像したときに、それはこんな世界ではないということでしょう。しかし、瞬間的な傾向として多くの人が右翼の政治的なオントロジーに向かう傾向があるのは事実です。だから、正にその瞬間に矢部さんが言った愛というものを強調することが重要になるのではないかと思います。あらゆる行為の土台には愛がある。そもそも暴力でさえ愛がないと形成しえないものであると(笑)。常に愛の行為というものが先行するということです。

(略)

アメリカでは現実の運動が収斂していくプロセスで、多くの学者は、現実には単なるリベラルでしかないにしても、意識だけはラディカルとして残り続けようとしました。さらに問題なのは、フランス現代思想の導入によって、彼らの存在が、正に現実に存在するラディカルのように見えてしまったことです。国家と資本主義に対抗するのではなくても、さまざまな個人的存在についてのマイナー性に訴えること、そういった個人の闘争がよりラディカルである、国家と資本主義に対抗するよりもラディカルである、というような雰囲気になってしまった。

(略)

しかし労働者階級が嫌っているのは、本当のラディカリズムではなくて、ニセのラディカリズムが新自由主義に対抗しようとする仕草であって、本当のラディカリズムを嫌うわけがないと思います。

(略)

一つ考えなくてはいけないのは、世界中にはさまざまなタイプの自律空間が存在しているということです。(略)

 政治的な問題意識としてまだ誰も提起していないのは、それらの違ったタイプの自律空間というものが、どうしたら自律しながらお互いが協力し合えるような構造に持っていけるかということです。(略)

研究者や知識人にできるのは、いままで語られたことがないような自律空間について研究し、考え、それを世界に知らせることではないでしょうか。現実に存在する権力がどうしようもないということを教える必要はないのです。そんなことはみんな知っている、知りすぎていると思いますね(笑)。人びとを説得するのが難しいのは、本当のオルタナティヴが可能だということです。そしてそこに向かうために、状況を今よりも酷くする必要はないということが重要です。

(略)

私は、人間の第一次的、原初的な生産というのは人間関係の生産であり、人びと、民衆の生産であり、関係の生産であると考えています。それが最も重要なことです。

矢部 それこそが「低理論」だと思いますね。新自由主義は、市場原理主義という捉え方でも語られますが、実は彼らは市場のおもしろさを本当は知らない。つまり市場というものが持っている「表現」という側面を知らないんです。

グレーバー 商品や生産物の生産は、人びとの生産に対する二次的なものでしかない。しかし資本主義は、それに転倒した像を与える。マルクスの重要な貢献というのは、物の生産が大事であるかのような見せかけの機構を指摘したことです。多くのマルクス主義者はその重要性を誤解しているのではないでしょうか。われわれがそこで強調しなくてはいけないのは、右翼が、ニセのマルクス主義として現れてくるということです。むしろ右翼の理論家が、物の生産が重要であるという論点を導入し、資本主義は不可避的だという主張としてそれを表した。しかしそれは単純化されたタイプのマルクス主義の話です(笑)。

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2017-07-27 イタリア・ファシズムを生きた思想家たち このエントリーを含むブックマーク


イタリア・ファシズムを生きた思想家たち――クローチェと批判的継承者

作者: 倉科岳志

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2017/02/23

|本| Amazon.co.jp

国民概念とファシズム

 ファシズムの発生は第一次世界大戦後だが、その思想的起源はもっと以前に遡ることができる。未来主義、ナショナリズム、革命的サンディカリズムといったファシズムに合流していく思想は20世紀前半に出そろっていた。(略)

急進的なナショナリズムがファシズムの中核をなすようになるのだが、注目したいのは、この思想をさらに遡れば、19世紀のジャコバン主義やロマン主義にまで辿り着くということである。つまり、ファシズムは国家統一期にまで根を持つ国民概念を、自らの原理のなかに包摂したのである。ファシズム・イデオロギーの威力の秘密はここにある。

 この国民概念自体は、その象徴体系のなかに人間にとって切り離すことの難しい要素を含んでいたため、強力な動員力を発揮することができた。(略)

イタリア国民とは共通の母をもつ兄弟の絆で結ばれた虚構の血縁集団と観念される。男性は、女性の純潔を守り共同体の境界線を軍事的才能によって管理することが、女性は純潔を守ることが、名誉を維持することと同義とみなされる。共同体のために戦って命を失ったものは殉教者として記憶される。国民言説を形成した人々のなかでも、この宗教的側面を強調したのがイタリア統一運動における民主派の思想的中核を形作った文筆家にして革命家のジュゼッペ・マッツィーニであり、かれは、イタリア国民には神が与えた文明的な使命があるとさえ述べる。

20世紀における国民概念の変更

そもそも国民概念はオーストリアに対するイタリアの革命の主体として形成されていた。ところが、ムッソリーニの時代にはG・ソレルの『暴力論』をはじめとしたサンディカリズムやV・パレートのエリート論を根拠に、「国民」は議会に対して革命を起こす少数派を指す概念とされる。(略)

プロレタリアートが、政治の実権を握るブルジョアジーに対して革命を起こすことではなく、イタリアの現状に満足し、権力に寄生している集団に対して、生産しながらも政治的な声を権力に届けることできない人々が憎しみを抱くことこそが重要とされた。この人々にはブルジョアジー出身者もいれば、プロレタリアート出身者もいる。かれらこそが新しいイタリアを求めて結集すべきであると訴えられた。こうして敵と味方の区分は階層的で水平な区分から、階級が混在している垂直な区分に転換される。ジェネラル・ストライキを思想的中核に据えたサンディカリズムの経済的な側面はもはや後景に追いやられ、暴力による権力の奪取という政治的側面が前面に押し出される。この反議会主義の主張が第一次世界大戦への参戦運動と結びつき、新たな「国民」は戦争を通じて形成されると訴えられる。

 大戦はムッソリーニにいくつかの恩恵をもたらした。そのーつが街頭による示威行動の成功体験である。また、政治集団として組織可能な帰還兵たちを供給した。かれらは戦争体験を通じて強い絆で結ばれ、戦前とは比べ物にならない国民意識を身に付けていた。帰還兵のなかでもアルディーティ(決死隊に属した人々)は特別に戦闘能力に優れていた。こうして、より暴力的な街頭運動を展開する条件が整う。しかも、この運動を結集原理として、ロシア革命後に階級闘争が激化するイタリアにおいて、社会主義でもなく保守反動でもない「第三の道」を目指すという提案は、ムッソリーニにとって魅力的でもあった。(略)

まず、「党」ではなく古代ローマ以来「権力」を象徴する「権標(ファッショ・リットーリオ)」(斧の柄に棒の束を縛り付けたもの)から「ファッシ」という表現を選択している。ここに既存の政党制から脱却しようとする意思表示が見て取れる。(略)

未来派による戦争や若者賛美のプロパガンダとともに、ファシストは反知性主義に傾いた。ファシストとその同盟者や支持者たちは人間の実践的な側面を強調し、言葉や論理ではなく暴力や直接行動を礼賛する。この反知性主義は国民概念の持つ宗教的要素を強調し、世俗宗教へ推し進めようとするファシストの意図と合致する。ここから歴史の修正や新文明・新人類の形成といった様々な主張への道が開かれる。

新国家設立

 帰還兵を支持基盤としながら自由主義イタリアに根本的な制度改革を迫ろうとするときに利用されたのが、講和条約への失望感である。(略)

ナショナリズムに眼をつけたムッソリーニは「国民」概念を乗っ取り、歴史を都合よく解釈していく。ただし、「右」といってもそれは純然たる反動を意味したわけではない。君主制を絶対的なものとして支持していたわけではないし、ボルシェビキに反発するといってもプロレタリアートの利益は守ろうとした。他方、ソヴィエトの混乱も見ることで経済構造としては資本主義を容認し、その中で生産者を中心にした国民的サンディカリズムを目指そうとする。国益のために大衆を国家に労働者として統合するということになる。

 1920年5月、ムッソリーニはミラノにおけるファシズム会議で共和主義と反教権主義を棄てる。翌年にファシズム運動は中間層を味方につけて躍進し、大衆的な運動へと変貌する。ムッソリーニの目標は、ファシズムを二大大衆政党であるカトリックと社会主義に対抗できる勢力まで持ち上げることだった。

(略)

国家とはムッソリーニにとって「ヒエラルキーの体制」であった。かれは、政治がなんびとによって動かされていようともその背後には必ず「ヒエラルキー」が隠されているとし、完全に平等な個人による国家など考えることは不可能だと論じる。「ヒエラルキー」とは人間的価値や責任や義務の等級であった。このヒエラルキーという言葉によりムッソリーニはファシズムに二重のイメージを与える。一つは秩序の回復者であり、もう一つは新しいヒエラルキーの提供者、すなわち革命の旗手というイメージである。こうして、ムッソリーニの訴える革命はもはや強制装置としての国家の消滅を目指すたぐいの社会主義的な革命ではなく、新しく別の国家を創設することを意味するようになったのである。この革命の主軸が国民ファシスト党に他ならない。この党は民主的な幻想に縛られることなく被支配者に明示的に「ヒエラルキー」を課す存在であり、統治能力の限界に達していた自由主義国家に取って代わり得る新国家へ変容していくべき集団であった。(略)

国民ファシスト党はムッソリーニの自在に操れる組織となり、ファシズム体制期においてはヒエラルキーと規律を旨とする「軍隊政党」あるいは「市民の軍隊」として、大衆を政治的に従順な人間に育てるという役割を担う。政党化によって農村ファシズムを抑えたムッソリーニは、いよいよ政権奪取へ向かう。

ムッソリーニのファシズム観

 『イタリア百科事典』の項目「ファシズム」は部分的にはジェンティーレが書いたものではあるが、ムッソリーニが最終的に署名しているので、ここではその内容への同意があるとみて、ムッソリーニの思想として扱うことにする。そこではまずファシズムとは思想と行動の混然一体としたものであることが語られ、これに適した人間像が示される。それは個々の特殊利益を犠牲にして公益に貢献することを優先する人間である。ここでいう公益とは「上位の法」にして、「客観的な意思」であり、宗教的な概念とされる。ファシズムの考えでは、国家の自由と、国家内における個人の自由が本質的なものと考えられ、国家の外には価値のあるものは何もないとされる。このような意味でファシズムは「全体的」であり、国家はあらゆる価値の総合として存在し、人民の全生活を理解し、発展させ、強化する存在であると規定される。

 19世紀における国民国家の作家たちが依拠していた古臭い自然主義的概念が述べるように国民が国家を生じさせるのではない。むしろ、国民は国家によって創られるのだ。国家は精神的な統一体として意識している人々に、一つの意思を、つまりは、実際上の存在を与えるのだ。

(略)

 この国家は人種や地域によって特定されるのではなく、一つの観念に結集した人々によって創られる。(略)

そして、真の民主主義は道徳的で一貫したものとして、一人の人物のなかに実現されるものであるというのである。

(略)

ファシズムがその力の源として根拠を置くのは経済的な動機とはかかわりのない人間の行動であり、その神聖さやヒロイズムであった。ただし、ファシズムはロベスピエールのしたように新しい信仰を急に創設したりはしないし、かといって社会主義の行ったように信仰心を消し去るようなこともしない。ファシスト国家は人々の信仰対象を否定しないし、神にも敬意を払う。ファシスト国家が持つのは神学ではなく、道徳であり、ファシストにとって宗教とは精神の最も深い表出であるとされる。

(略)

党が国民を全体的に統治すること、これこそが史上初めての出来事であるというのである。(略)

たとえ個人は死んでも国家は人々の精神を継承し、言語、習慣、信仰を保持し続ける。(略)

帝国とは、生命性の表出であり、単なる地政学的、軍事的な意味での帝国を意味するのではなく、精神的な帝国という意味も含む。すなわち、たとえ広大な領地を征服せずとも、一つの国民が直接・間接に他の国民を指導することは可能であるということである。

クローチェ

 論考「世界の危機としてのファシズム」において、クローチェはファシズムの起源を分析している。かれによれば、第一次世界大戦後のイタリアでは、比例代表制の導入により議会に新たな政治階級が登場するが、同時に個人の選出が困難となったため、政治的能力の劣った人物が選出されるようになった。結束の強かった社会党は政府への協力を拒否し続け、人民党は政府に参加するが教皇庁の意向を無視することはできなかった。こうした状況下に、ファシストたちは大衆操作によって人気を獲得していく。国王はかれらの大衆運動を戒厳令で抑えることを拒否したばかりか、ムッソリーニを首相に指名することで、街頭での運動に法的な後ろ盾を与えた。では、自由主義的かつ民主的であったイタリアの間違いはどこにあったのか。別の論考「自由と力」で語っているように、自由主義国家の間違いは暴力的な措置を可能な限り避け続けた末に、自由そのものが奪われつつあるというときに暴力を使う決断をすることができなかったところにあった。そればかりか、自由主義国家を支えてきた右派の中からも当の自由主義体制を否定する人々をも輩出してしまった。ファシズムはもともと、イデオロギー的には空虚な存在であった。事実、かれらはローマに到達するまでは大衆を可能な限り政治的枠組みに取り込もうとする超民主主義的な思想を掲げていたが、権力を獲得するやエリート主義を内包していたナショナリズムを結集原理として採用する。その後は思想的には時宜に応じて態度を変え、あらゆる勢力を「騙し、買収することで権力を維持」した。毎日新しい何かを実行するか、もしくは既存のものを破壊しなければならなかった。

(略)

クローチェはすでに『ヨーロッパ史』で、イタリアにおけるファシズムの起源は「頽廃」、「病的なロマン主義」にあるとしていた。この前提に立ちながら、晩年のクローチェはより広い意味で、ファシズムとは人間が合理的な自由主義にもマルクス主義にも信ずべきものを見出せない時に生じる「病気」と捉えた。(略)

ファシズム支持者の多くが中間層であった側面は否定できないが、クローチェが注目するのは、ファシズムも反ファシズムもあらゆる階級から構成されていたという事実である。この観点に立てば、ファシズムの危険性は単に中間層のルサンチマンを満足させれば解決するような問題ではない。だからこそ、クローチェはファシズムの敗色が濃厚になってなお(略)ファシズムという経験を背負い、乗り越えたイタリアを再びヨーロッパの一員として構成するよう、訴えたのである。

 イタリアはファシズムという「感染症」から解放されたが、果たして、この病原菌は完全に現代社会からなくなったのであろうか。これが、クローチェが再びファシズム論に立ち返った理由である。

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2017-07-25 生命に部分はない アンドリュー・キンブレル このエントリーを含むブックマーク

1995年に『ヒューマン ボディ ショップ』、2011年に『すばらしい人間部品産業』と改題されて出版された本の改訂版。


生命に部分はない (講談社現代新書)

作者: アンドリュー・キンブレル, 福岡伸一

メーカー/出版社: 講談社

発売日: 2017/06/14

|本| Amazon.co.jp

まえがき

 これまで人間は500年にわたってこの地球上のあらゆるものを囲い込み私有化し商品化してきたが、その最終局面として「人体」をテクノロジーの対象とし商品化するにいたったのである。われわれはこの惑星のかなりの土地を私物化し、生態系をまるごと商業的な財産に転化してきた。海洋資源についても同様である。大気すらこれをとらえて通気管を通して運び、売買したりリースしたりする市場ができている。そしていまや、人体そのものに手をつけ商品化しつつある。

(略)

[著者]は非常に詳細な記述によって、個々の新しい技術とそれに付随する金もうけのからくりを解説しつつ、市場が着実に人体を侵しつつあることをみせてくれる。いまこうしているあいだにも、いくつもの巨大企業が人体に群がって、利用できるありとあらゆる臓器、組織そして遺伝子をことごとく地上げしつつあるのだ。

 人体そのものを植民地化したということは、近代資本主義の歴史における一つの偉業であり、人間の精神のなかのタブーを解体する過程における終章であるということなのだ。

はじめに

かつてない影響力を有しているにもかかわらず、バイオテクノロジーに関する政策立案者たちは、正式な選挙で選ばれたわけでもなければ、一般市民を代表しているわけでもない。技術をめぐる問題を左右するのは、民主的な政策決定プロセスでも市民の投票でもない。むしろ、生物学革命を操っているのは、研究者や官僚、医師、ビジネスマン、科学者、判事などで構成される、無計画に組織されたグループである。たいていの場合、彼らの決定は、不可解なお役所的規制や、ほとんど市民には説明されぬままに進められる企業や取締役会の判断、あるいは、地方裁判所や連邦裁判所の意見から導きだされている。

(略)

新時代の生物学を規制し、制約を設けるべき今日の政策立案者たちは、広がりつづける生物学革命を適度に制限する方向へと社会を導けていないし、導こうとも考えていない。バイオテクノロジーの最前線にいる人びとは、その技術が社会にもたらす事態に正面から対応すべき確固たる見通しをもちあわせてはいない。

(略)

 いわゆるバイオエシックス(生命倫理)を標榜する人たちでさえ、多くは生命の操作や売買の新展開に対して、それがどれほど疑わしいものであっても、ノーといえる強さをもちあわせていないように思える。そうした倫理信奉者たちは、ヒトの胚のクローン化や、ヒト遺伝子の動物への無制限の導入、胎児組織の規制なき利用といった、議論の余地がきわめて大きい先進技術にさえも賛成している。

売血

M・D・ラボラトリーズ社は、血液中にお金になる抗体をもっている供血者を見つけようと広告を出しているわけである。こうした抗体は、受動ワクチンとして使われたり、病気の診断薬として利用できる。狼瘡やA型肝炎の抗体保持者には、M・D・ラボラトリーズ社から採血一回あたり50〜200ドルが支払われる。(略)

 非常にまれな血液供与者には、さらに好条件が待っている。有名な例はテッド・スラビンの血液である。スラビンは血友病患者で、1950年代の中頃B型肝炎を患った。(略)

検査の結果、彼の血液中には驚くべき高濃度のB型肝炎ウイルス抗体が検出されたのである。この検査結果の意味するところが、スラビンにはすぐに理解できた。自分の血は、B型肝炎の診断薬を血漿からつくっている企業にとって、また血液由来の病気を研究している人びとにとって、非常に貴重なものであると。彼は自分のこの珍しい血を売る商売をはじめた。営利企業には1パイントあたり6000ドルで、また非営利的な肝炎研究者には無償で供与した。ほどなくスラビンは血液企業家として、自分の血液をはじめとした珍しい血液を販売する会社、エッセンシャル・バイオロジカル社を設立するまでになった。(略)

 血液を集めて買い上げ、血液製剤を売る営利的な血液企業はアメリカだけで400社以上にのぼっている。

(略)

血液の商品化が進むにつれ、血液の法的定義、さらには人体そのものの法的定義に関して今後困った悲喜劇的な事態が出現することが予想できる。その好例として、1980年国税庁がマーガレット・クラマー・グリーンを相手取って争った訴訟事件がある。

[グリーン夫人は珍しい型の自分の血液を自宅から20マイル離れた会社で数年間で計95回供血、7000ドルを得たが、夫人はこのうち2355ドルは必要経費として控除されるべきと主張]

控除の内訳として、自分のからだの金属資源と抗体の損失、セロロジカル社への行き帰りの交通費、医療保険代、薬代、特別な食事代などがあげられた。(略)

審判所はまず第一に血液は物品であると裁定した。そしてグリーン夫人は事実上、彼女は生産物である血液の「工場」であり、かつ「貨物車」であるとした。そして夫人は雇用されていたのではなく、むしろ「販売業者へ製造者が生産物を売る、あるいは生産者から加工業者への通常の商売を行っていた、とみなされる。事実、実体をもつ売るべき商品がある価格で手渡され、パイントあたりの値段で支払いが行われていたのである」と、認定された。(略)

審判所は、「この件では(グリーン夫人が)ユニークな製造装置である」として高タンパク質の食事代にかかった経費を商品製造にかかわる必要経費であると認定した。[交通費も必要経費と認定された]

(略)

法律上でも人間のからだは単に、新しい、お金になる医学的生産品の「工場」、もしくは「容器」とみなされるようになってしまったのである。

臓器売買

反対論や禁止令にもかかわらず、何万もの臓器が世界中で売買されている。インド、アフリカ、ラテンアメリカ、東ヨーロッパなどでは臓器売買が許されている。食事や家、借金の返済、さらには大学の授業料を得るため、人びとは臓器を売るのである。1991年現在、エジプトでは臓器が一万から一万五〇〇〇ドル、もしくは同額の電気製品と引き換えに売られている。インドでは、生きた提供者からの腎臓は一五〇〇ドル、角膜は四〇〇〇ドル、皮膚一切れ五〇ドルが相場である。インドやパキスタンでは、腎臓病の患者で、近親に腎臓提供者がいない場合、新聞に最高四三〇〇ドルの買い値で「求腎」広告を出すことが許されている。

 近年の調査によると、インドで臓器を売る人の大部分が低所得者であり、彼らにとって臓器を売って得た金額は一生涯に稼ぐ額よりも大きくなるという。腎臓を売って中規模の喫茶店を聞いたある提供者は、「この額なら片方の眼か片腕だって売ってもいいです」と語った。夫が職を失ったので腎臓を売ることにした二児の母親は、「私に売れるものがそれしかなかったんです。いまでも自分の腎臓に感謝しています」と語った。(略)

ムンバイの臓器バザーは、「金持ちのアラブ人たちで混み合っており、彼らは腎臓をいくらであっても買って、近くの入院費一日二〇〇ドルの医院か病院でそれを移植してもらう」という。

(略)

 一九九六年には、中国からの亡命者がアメリカ議会の公聴会に証人として立ち、「中国政府が死刑囚の臓器を日常的に売っていた」と証言した。こうした臓器の移植を受けたのは、中国政府や軍の高官のほか、日本人やアメリカ人などの外国人や、香港在住者だったという。

 かつては中国公安局の一員で、現在はロンドンで亡命生活を送っている高培祺氏は、「中国では刑務所と病院が密接に連携していて、移植の必要にあわせて死刑執行の予定を組むことができる」と証言している。

(略)

臓器販売業者が特に熱心に利用しようとしているのが、自然災害である。

 たとえば、二〇〇四年のインド洋津波は、インドの不法臓器ビジネスにとっては夢が現実になった瞬間だった。多くの人が突如として家を失った結果、臓器ハンターたちは俄にありあまるほどの腎臓を手に入れられるようになったのである。そのうえ、政府は大災害への対応に忙しく、臓器ブローカーを効果的に取り締まることができなかった。

(略)

倫理学者ウイリアム・メイは次のように説明している。(略)

もし私が南北戦争のときに認められていたように徴兵免除を金で買えば、市民であることの意味を堕落させることになる。もし私が子供を買ったり、売ったりすれば、親であることの意味を堕落させることになる。もし私が自分自身を売れば、人間であることの意味を堕落させることになる。

生ける屍

脳の高次機能だけを失った患者の多くは、臓器の供給源として長期間そのままの状態を維持できるという利点がある。(略)

[自発呼吸ができ、脳死患者のように]人工呼吸装置もいらないので、ネオモートとしてずっと容易に保有できる。(略)

国内のあちこちの病院で息のある何千ものネオモートが、生きた臓器銀行として臓器供与や研究のために使われるといった未来の一場面に対して、多くの人が反対を表明している。

(略)

倫理学者デイビッド・ラムは次のように述べる。

 いまだ息がある死体と言う考え方は、倫理的に受容しがたい。たとえば、それをどう葬ればいいのか。

(略)

ある有名な移植専門家は次のように述べている。

 脳の高次機能の停止を死とする定義に私は反対である。というのもこれは危険な坂道に通ずる第一歩になるからだ。もし高次機能の喪失を死と同一とみなすなら、高次機能とはどの高次機能のことだろうか。いずれかの大脳半球の損傷をいうのか、両方をいうのか。もし半球の一つとするなら、言語をつかさどる優位なほうの半球をいうのか、それとも情感をつかさどるもう一方の半球をいうのか。

 新生児の専門家であるジャクリン・バーマン博士も、子供の死について同じような懸念をもっており、無脳症児が自然死する以前に臓器供給源として使われることに反対している。(略)もし短い寿命しかない赤ちゃんと脳に重度の障害をもつ赤ちゃんがすべて潜在的な臓器供給源とされるなら、水頭症、第四型脳内出血、第13、第18トリソミーなどの小児患者はすべて含まれてしまうと、バーマン博士は憂慮している。

卵子提供

大学の看護学生で、卵子提供者となった一人は次のように語っている。「もしお金がもらえないのなら他人のためにこんなこと絶対しないわ」。別の提供者で、自分が卵子を売ったことを「非常に信心深い」家族に隠しているある女性は、このように告白した。「勉強を続けるためにお金が必要だったのです」。

(略)

 お金につられて卵子提供プログラムに入ると、多くの卵子提供者たちは身体的搾取に直面することになる。(略)

当時、卵子提供者には採取につき1500ドルが支払われていた。ケイティは卵子提供に先立って必要な四週間のプログラムを開始したが、この操作で起こりうる危険を知らされることもなく、同意書にサインすることもなかった。このプログラムでは、毎日大量のホルモン剤パーゴナルとメトラディンを自分で注射して卵巣を刺激することになっていた。血液検査、骨盤検査、超音波診断なども、たびたび受けなければならなかった。

 三週間目まではすべてが順調であった。しかし四週間目に、病院の医師がケイティの卵巣に嚢腫が発生しているのを見つけた。先にも書いたように、嚢腫は大量のパーゴナル投与の副作用としてよく起こるものである。病院はケイティから15〜20個の卵子を採取して他の女性に移植しようと計画していたが、嚢腫が卵巣をふさいでしまった。嚢腫が見つかった後、ケイティはプログラムから外され、しかも一銭も支払われなかった。ケイティは落胆した。「私は彼らの言うことをすべて行ったあげくに、ゴミ捨て場に投げ捨てられたようなもの。不要になった実験用ラットのように扱われました」。

2017-07-23 [アルファの伝説] 村井邦彦の時代・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


[アルファの伝説] 音楽家 村井邦彦の時代

作者: 松木直也

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2016/08/20

|本| Amazon.co.jp

細野晴臣

[村井談]

「[ルー・アドラーが来日時]日本のさまざまな音楽を聴かせたら『このベースすごくいいよ』とハリー・ホソノを絶賛して、僕も同じ思いだったので、凄く嬉しかった。(略)

細野君の音楽の幅の広さと、独自のセンスがとても好きだったから、もっと自由にやって欲しいと思って、プロデューサーとしてアルファと契約しようと話した」

一方の誘いを受けた細野はこう語る

 「村井さんは英語で『I can do anything for you』と話してきた。当時プロデューサー契約というシステムは日本にはまだなくて、スタジオミュージシャンの僕らには、とても新鮮でした。そこでアドバンスで月いくらとか具体的な話をいただいて、僕はそのとき村井さんの視野はやっぱりアメリカなんだろうなと感じました。何より彼の尊敬するアーメット・アーティガンやジェリー・モスは僕も好きなアメリカのレコードプロデューサーですから、そういう方向なら音楽的には自分と同じだと思ったんです。村井さんはやることが早いから、年が明けたらアメリカで発売出来るレコードをつくろうと、そこからいろいろと始まったわけです」

(略)

[77年1月、細野は村井とともにLAへ。結婚を機に、荒井由実と松任谷正隆がアルファを離れ、次のヒットメイカーとして]

 その可能性と海外戦略を託されたのが細野だった。村井も細野もLAで新しいアルバムの構想を練りながらアルファの新たな方向性を模索していた。

(略)

[村井談]

「二人のあいだで約束したのは、ビジネスは僕で、音楽は細野君という役割分担だった。契約してはじめて細野君と話したことは『全世界で売れるものを一緒につくろう』というのがスタート。それが共通の思いでした」

YMO

エンジニアの吉沢典夫が当時を振り返る。

 「スタジオAでも電子音楽は使っていたけど、YMOではシンセサイザーがアコースティックと融合して、こんなに違和感がなくアコースティックの音と調和するのかとびっくりしました。

(略)

僕のなかで美しく煮詰められたのがチャンキーミュージック」や「川の流れに乗ってユートピアヘ行こう。川にはチャンキー・クルーズのイエロー・マジック号が君たちを待っている」という文章のプレスリリースが関係者に配られた。

 アルファの社員たちは、チャンキーミュージックは何となく理解できたが、YMOのレコーディングにまでは理解が及ばず、我が道をゆく細野の言動に付いていけないと感じる者も多かった。新しいことの知識が豊富な川添象郎でさえYMOのサウンドには「こりゃなんだ?」と戸惑いを見せている。

 周囲と同様に困惑を隠せない村井について、細野がこんなエピソードを話してくれた。

 「村井さんは、全部任せてくれたけど、最初は僕たちが何をやっているかわからなくて困ってたんですよ。スタジオに何度か見に来て、あるときは僕たちのレコーディングを中断させて、『フュージョンって、いいよね!』とか言って自分の好きなレコードをかけたりして、まあ、ある種のプレッシャーですよ(笑)。『そんなのやめてさあ』みたいなことも言っていましたから。最初のころ村井さんはイエロー・マジック・オーケストラってチンプンカンプンだった。そして僕らもよくわからないまま、まあやってみようかなっていうレベルで1枚つくったんです。そのころはテクノをやっているって意識はなかったし、そもそもまだテクノなんて言葉もないしね」

(略)

400人ほどの客席にトミー・リピューマとアル・シュミットが座った。ステージでは主役のニール・ラーセンより前にYMOが登場した。(略)

 「アルファレコードでの最初のお披露目ライブがフュージョン・フェスティバルというので、そうか自分たちもフュージョンなのかもしれないなと、そのくらいの気分で出ました。でも、今までにないことをやっていたので、演奏したら客席からは拍手じゃなくてどよめきが波のように伝わって来て、これは違う反応だなと、そのときにいけるんじゃないかなと僕は思った。(略)トミー・リピューマがえらく反応してくれて、僕たちの価値が急に上がっちゃったんです。(略)周りの環境が奇跡的に動いてくれてうまくいくことになっちゃったんですね」

シーナ&ザ・ロケッツ

[ロケッツがコステロの前座で出たら]

「あっ、鮎川君だ」と聞き覚えのある声(略)[前列に]高橋幸宏が座っていた。(略)

[5年ほど前、サンハウスはサディスティック・ミカ・バンドと共演していた]

その日は楽屋にも来てくれて『お茶でも飲もうよ』と誘ってくれて、初めてゆっくり話をしました。(略)

幸宏さんが僕らのことを細野さんに、おもしろいグループがいるよと伝えてくれたんです」

(略)

 鮎川は78年12月紀伊國屋ホールで行われた「アルファ・フュージョン・フェスティバル」の楽屋を訪ねた。

 「はっぴいえんどのころから細野さんは別格です。ドキドキしてたら、いきなり2週間後ぐらいに『六本木のピットインでYMOをやるからゲスト出演はどうか』と聞かれ、二つ返事やった。(略)

赤坂のスタジオでのリハーサルで、ギターに渡辺香津美さんがいて大巨匠の前ではビビったけど、ステージではそのころ夢中だったキース・リチャーズのレスポール5弦ギターで、『俺は行くぞ!』という気持ちで演奏しました。その日に細野さんが、アルファの契約担当の方に僕らをアルファに欲しいと言ってくれたんです」(略)

[演歌系のレコード会社・エルボンレコードでアルバム録音中]

 契約書も交わしていなかった鮎川が移籍をほのめかすと、アルバム制作費の一部を請求された。請求書を見るとその多額さに困惑し、鮎川は数日前に会ったアルファの契約担当者に相談の電話をかけた。

 すると「我が社ですべて対処しますので、すぐにこちらに入りませんか」という返答だった。「ぜひアルファで細野さんと自分たちのロックをつくりたい」と鮎川は願いを込めて受話器を置いた。

村井退社

 1985年。

 村井は自分が起こした会社とはいえ、アメリカの撤退の責任をとり退社することを決意した。それまで名曲の数々が染み込んだスタジオAに社員たちが集合すると、その前で「僕は、今日で会社を辞めます」と話した。そのときのことを、エンジニアの吉沢は、

 「僕らは結局村井さんが好きで仕事をしていたから、これで終わったと思った。編成会議で村井さんは、僕のカラーじゃないと言って、最初からやり直しとか、村井さんからのやり直しの指示は何度もあった。でもそれを僕らは求めていましたよね。そうじゃなきゃまわりも認めないし、ファンの期待も裏切ることになるから」

と語った。その場には居合わせなかったが細野はこういう

 「僕は30歳までに何か出来なかったら音楽を辞めようと思っていた。音楽を続けさせてくれたのはやっぱり村井さんですから、とにかく残念でしたね。アメリカの事業が失敗しちゃったなと、もうちょっと何か出来たかなという悔しい感じがありました」

[その2年後、マイケル・J・フォックス主演『ファミリータイズ』がきっかけで、ビリー&ザ・ビーターズのデビュー曲「もういちど…」が全米1位に]

「あと2年か3年続けられる資金があれば、もうちょっと様になっていたんですけどね」と[村井]

『朝まで待てない』

作詞家とのエピソードで今でも覚えているのは、モップスの『朝まで待てない』(略)僕と阿久悠さんが赤坂のホテルにカンヅメにされて、僕はメロディが出来て一足先にそこを逃げ出した。阿久さんは残って徹夜することになって、まさしくそのときのことを『朝まで待てない』って書いた(笑)。

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2017-07-21 [アルファの伝説] 音楽家 村井邦彦の時代 このエントリーを含むブックマーク


[アルファの伝説] 音楽家 村井邦彦の時代

作者: 松木直也

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2016/08/20

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慶應ビッグバンドサークル

[63年慶大入学]晴れてライト・ミュージック・ソサイエティに入部。

 レギュラーメンバーは17人。ジュニアバンドにはその倍の部員たちが控えるという環境のなか、厳しい切磋琢磨があった。村井はレギュラーに選ばれたものの、ライトには、日本の音楽史に名を残すシャズクラリネット奏者の北村英治、作曲家・ピアニストの三保敬太郎、同じく鈴木邦彦、ジャズピアニストの大野雄二、佐藤允彦らが在籍し、村井はその凄さから(略)上には上がいることを肌で感じていた。先輩からの指導は主に口伝で、村井は3学年上の大野雄二に教わる機会が多かったそうだ。サクソフォンばかりではなく、ピアノ演奏も身についた。(略)

活動は3年生までで、村井はその後アルバイトとはいえ、ミュージシャンとしてプロ並みの活動を開始した。先輩の大野雄二が(略)プロの道を歩み始めており、村井も赤坂にあった『ホテルニュージャパン』のラウンジでのピアノ演奏で高額なバイト料を稼いだ。川添ファミリーの後押しもあってキャンティシモでピアノ演奏をすることもあった。

コルトレーン死去

村井はちょうど1年前の初来日公演を観ており、まだその感動が残っていた。当時村井は、ジャズ好きが高じてTBSのラジオ番組のディスクジョッキーも引き受けている。(略)手持ちのレコードで追悼番組を企画した。マイクを前に解説する村井は、ファンという枠を超え、評論家も顔負けするほど経歴や表現方法に詳しかった。それには、高校生のときからコルトレーンを手本にサックスを学んでいたという思い入れがあるからだった。

荒井由実

六本本に『ザ・スピード』というライブ・スポットがあり、ここは川添兄弟が関係していることからヘアーに出演した小坂のエイプリル・フールやシー・ユー・チェンのザ・フィンガーズが演奏することもあった。ミュージシャンたちの溜まり場でもあり、そのなかにまだ中学生の荒井由実の姿もあった。(略)シー・ユーは、7歳年下の中学生ファンを妹のように接していた。(略)

 「ステージが終わって楽屋に戻ると、ボーイッシュな女の子がいるんです。そのころ、僕たちのバンドでは『青い影』のプロコル・ハルムの音楽が話題で、たまたまその女の子と話したらブロコル・ハルムの旋律のきれいなところの情景を一生懸命に説明してくれて、それが鋭いセンスだった。そんなことがきっかけで、バンドのメンバーもほかのファンとは違う目で見るようになった。僕たちにとっては唯一の知的な中学生ファンという存在で、レッド・ツェッペリンのレコードを渡されたこともあります」(略)

当時まわりからはすでに「ユーミン」と呼ばれていた。このニックネームは、「この子は必ず有名になる」という意味を含めシー・ユーがつけたものだ。

アルファミュージック誕生

[加橋かつみパリレコーディング。プロデューサーは28歳の川添象郎]

レコーディングは戦前からパリで人脈を広げた川添浩史の恩恵を十分に受けるものだった。古くからの友人、エディ・バークレー[バークレイ・レコード経営者:シャルル・アズナヴール、ダリダが所属]がすべて世話を焼いてくれた。(略)

[バークレイで「音楽出版の代理店をやる気はないか?」と聞かれ、村井は20曲聴いた中から4曲の日本での出版権を取得。個人との契約はできないと言われ、急遽社名を決めることに。村井がイプシロンを提案すると象郎がアルファを提案]

二人ともギリシャ文字のアルファのスペルが『ALPHA』ということに気がつかなくて、『ALFA』と書いてしまった。

(略)

 69年11月25日、アルファの原盤制作第一弾、フィフィ・ザ・フリーの「栄光の朝/戦争は知らない」が日本コロムビアから発売(略)

 アルファのような音楽出版社は、レコードプレスや配送機能、販売店を持たない。レコード店で売るためには、発売元となるレコード会社と契約しなければならない。この場合、原盤の制作費用はアルファが出資し、レコード売り上げの印税をレコード会社から受け取るシステムとなる。村井がコロムビアと契約したのは、当時、洋楽部長の金子秀への厚い信頼があるからだった。金子は、1950年代、ニューヨークのCBSレコードに駐在し、早くから国際的なビジネス感覚を身につけていた。村井が会社を起こすときに「レーベルをつくって自分の好きなレコードをつくってみろ」と勇気づけてくれたのが金子であり、それは力強い後押しだった。

 一方、バークレイから買った4曲のなか[の1曲に](略)ポール・アンカが「マイ・ウェイ」という詞をつけ、この年、アメリカでフランク・シナトラが歌い世界的な大ヒットとなった。その後アルファには問い合わせが相次ぎ、日本国内でこの曲が流れると使用科などが入ってきた。村井にとっては幸先のいいスタートだ。

アメリカ村

アメリカ村でいち早く生活を始めたのは、それまで東京の表参道で事務所を構える眞鍋立彦、中山泰、奥村靫正の三人によるデザイン集団『ワークショップMU!!』だった。

 桑沢デザイン研究所のグラフィックデザイン科の卒業生で、当時全員25歳。71年5月に引っ越し、一軒の米軍ハウスを三人のアトリエ兼住居にした。広い裏庭があり、隣同士の垣根もない広々した環境。基地周辺の古道具屋で軍人の家族らが残していった家具や電化製品ばかりではなく、雑貨や『Esquire』や『POST』などの雑誌などを買い集め、自由な発想でデザインワークをしていた。

 小坂と細野は、エイプリル・フールのときに桑沢デザイン研究所の学園祭に出演したことがある。そのときからMU!!のメンバーと付き合いが始まり、小坂と細野もアメリカ村へ引っ越した。(略)

 小坂と細野は隣家同志で、お互い窓越しに糸電話でやり取りをしたそうだ。

荒井由実デビュー

 デビュー曲は「返事はいらない」、「空と海の輝きに向けて」となった。社員たちはかまやつひろし(当時33歳)の主導でレコーディングが行われると思っていたが、その予測に反し、荒井由実(当時18歳)は、自分のビジョンをしっかりと確実にかまやつに伝えてきた。(略)

 「ユーミンとはじめて会ったのは69年ごろだと思うけど、このころの若いミュージシャンの多くがウッドストックの影響を受け、それが時代の大きなムーブメントでした。哲学的にものを考える時代で、ユーミンには精神的にも純粋培養されて育ってきたような印象を受けましたね。彼女は僕たちでも聴いていないロックのレコードを聴き、単なるロックファンではなかった。子どものようなきれいな顔をして口数も少なくガラス細工みたいで(略)

[僕たちの世界は]アバウトのところが多かったけど、彼女にはまったく通用しないんです。自分自身で納得しないと、こっちが面倒くさいと思っていても、あらゆる角度から突っ込んでくる。ユーミンは妥協するっていうことが、そのころからないんだよね(笑)。僕はもう、大変な人を引き受けてしまった。村井さんには悪いけど、正直、早く終わって欲しいと思ったし、このときは打ち解けないまま終わりました」

(略)

 「返事はいらない」は、わずか300枚の売り上げとも言われているが、村井はそれまで人前で歌うことに抵抗感をもっていた本人がレコーディングの経験で少しでも歌うことの苦手意識が和らげばいいと、この結果をまったく気にしなかった。

山上路夫

[村井作品の半数を作詞した山上路夫が、赤い鳥の7thアルバム]『美しい星』がリリースされたころ、アルファの役員を辞任して作詞に専念することになった。

(略)

 「当初は、クニとずっと一緒にやっていこうと思っていたんですけど、彼は何をやるにも早いですからね。彼がレコード会社なんかを作っていくうちに、僕がそのペースについていけなくなったのと、それらに対して僕がどこまで責任を負ったらいいのかが判らなくなったんです。つまり、彼の足の早さに追いつかなくなって、その結果、僕は作品を書くことに専念するからクニはクニのやり方でやってくれということで。だから、たもとを分かったわけじゃないんです。(略)『ガミさんは言い出すときかないからなあ』なんて感じで結構あっさりしたものでしたよ(笑)」

『ひこうき雲』

「恋のスーパーパラシューター」は、ジミ・ヘンドリックスが米軍のパラシュート部隊として戦争へ行ったことを知ってつくられたもので、「ベルベット・イースター」は、ミッション系のスクールでのイースター復活祭や横田基地で体験したハロウィンパーティなどが下地になっている

ガロは田辺エージェンシーに頼んでうまくいったが、ユーミンは芸能界気質には馴染めないのではないとか案じた村井は文学座の制作部長をしていた阿部義弘に相談。荒井呉服店は杉村春子の公演チケットを毎回まとめ買いしていた上客で、ユーミンのことは子供の頃から知っていた。

[阿部談]

「お引き受けしてから、八王子へ挨拶に行くと、奥さまが娘の芸能界入りをとても心配なさっていて、ためらいを感じました。(略)

私は『ひこうき雲』の清冽な詞には胸を打たれましたが、正直なところ、そのときは由美さんの才能を見通すことはとても出来ず、奥さまには助言できる立場ではありませんでした。

赤い鳥解散

[72年大村憲司と村上ポンタ秀一が加入。岩手のコンサートで村井が見たのは]

リハーサル後の休憩時間に、村上君と大村君が大音量で延々とブルースを二人だけで演奏していた」

(略)

[後藤悦治郎談]

 「そのころステージのPA装置が開発されて、演奏者が音の出し合いみたいな感じになってしまった。僕らはそれまで、1本か2本のマイクでぐっとかたまってコーラスをとっていましたが、8チャンネルから16チャンネルとマルチにどんどん広がり一人一人にマイクがつくようになった。すると後ろの音が大きくて、これだとコーラスで重要なピアノ・フォルテを自在に表現できなくなり歌がバラバラになった。ですから、音楽的な違いということではなく、赤い鳥にしてみたらあの二人の音が大き過ぎたんです。大村君がアコースティックギターに持ち替えたりすると、僕らにはもの凄く良かった」

荒井由実デビューコンサートに勝新

[荒井由実のデビューコンサート、地方興行に詳しい阿部は京都『シルクホール』を選択。荒井呉服店なら京都にコネがあり招待客が見込めるという計算だった。村井は勝新太郎に声をかけた。]

電話をすると「よしわかった、心配するな。何十人でも連れていくから、俺に任せておけ」という豪快な声が返って来た。

(略)

開演前から並ぶ若者たちのなかに着物姿の年配者の姿が目立ち(略)

スタッフの一人が「今日集まった客たちは、ユーミンの本当のファンが少ないよ」と、阿部の痛いところを突いた。

(略)

 勝新太郎は、約束どおり祇園の芸妓や映画仲間を大勢連れて来た。

 勝は村井より14歳年上で当時43歳(略)コンサートが中盤になるころ、勝は薄暗いなかごそごそと動き、席から離れ村井を探した。村井も勝を気にしていたので、すぐに追いかけると真剣な目つきで「俺も歌った方がいいんじゃないか。何なら歌おうか」と、本気でステージに向かおうとしたのである。(略)

「勝さん、そのお気持ちはとても嬉しいけど……」と「初めてのリサイタルなので本人に任せておきましょうよ」と丁寧に断ると、勝は「そうだよな」と何もなかったように度に戻った。(略)

[『ヤクルトホール』での東京デビューコンサートは]売れ行きに苦戦し、村井たちは急いでラジオ局を中心としたプロモーションを組んだ。切り札は、荒井由実の曲を毎週流してくれるTBS、林美雄『金曜パック』だ。深夜の3時過ぎ、本人がゲスト出演すると、林が熱のこもった声で、「荒井由実の東京のデビューコンサートヘみんなで行こう!」と、高校生や大学生のリスナーヘ訴えた。その一言が効いたのか、当日悪天候だったが客席には男子学生の姿が目立った。

 林はこのあと8月の番組編成により、やむなく降板したのだが、荒井由実はこのとき「旅立つ秋」という曲を林に贈り、これは『MISSLIM』に収録されている。

「ファースト&ラストコンサート」

 ツアーには(略)ハックルバック(ベース田中章弘、ドラム林敏明、キーボード佐藤博)、元ゴールデン・カップスのジョン・山崎、吉田美奈子、パーカッション浜口茂外也が参加している。

 この画期的なツアーが実現したのは、鈴木が初のソロアルバム『BAND WAGON』と細野の2枚目の『トロピカル・ダンディー』がクラウンから発売が決まり、小坂の『HORO』の発売元のコロムビアを含め、アルファ&アソシエイツと各レコード会社との協力による(略)当時としてはそれまでに例のない大規模なロックツアーとなった。

 出演者は総勢11名、細野の28歳を最年長に田中が21歳(略)所属事務所もそれぞれで意見の食い違いも生じた。ツアー中ミュージシャンに「お前なんか絶対に干してやる」と暴言を吐くマネージャーがいたそうだ。

 小坂忠は著書『まだ夢のつづき』で、こんなことを書いている。

 「長いツアーは消耗も激しかった。人間関係が次第に崩れていった。日本のロック史における重要性は別にして、僕にとってはファースト&ラストツアーは最悪だった。ステージに立つことが嫌でたまらなかった。メンバーの誰とも心を開けない。会話ができない。頭の中で思い巡らすことは、すべてが悪いことだった。もう自分のことを誰も相手にしてくれない。誰からも必要とされていないという思いしか浮かんでこなかった。音楽を楽しめないのが一番嫌だった。自分の歌に自信が持てないのはもっと嫌だった。そんな気持ちをミュージシャンにもスタッフにも話せなかった。僕は完全に孤立してしまったのだ」(略)

小坂のプロデューサーであったミッキー・カーチスがトリオレコードに移籍(略)

 「村井さんと三田のイタリアンレストランで食事をしながら、『僕もトリオに移りたい』っていう話をしました。その話を切り出したら、村井さんがスパゲッティを巻いたフォークを落とした。これは忘れられない。そのころは村井さん側のことを想像できなかったんですね。悪いことをしました」

次回に続く。


ほうろう 40th Anniversary Package

アーティスト: 小坂忠

メーカー/出版社: ソニー・ミュージックダイレクト

発売日: 2015/08/12

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2017-07-18 路地の子 上原善広  このエントリーを含むブックマーク


路地の子

作者: 上原善広

メーカー/出版社: 新潮社

発売日: 2017/06/16

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屠殺

 牛が引きずり出されると同時に、為野はいつものように、何のためらいもなく勢いよくハンマーを眉間に叩きこんだ。

 「ここで可哀そうや、思たらアカンで。動物やから、牛もそれがわかってすがってくる。そうなったら手元が狂って打ち損じる。その方が余計に可哀そうや。だから一発で極めたらなアカン」(略)

一瞬のためらいは、失敗したときに牛が猛烈に暴れる結果を招く。だからノッキングは、とばの中でも経験豊富な職人に任される。

(略)

 檻に入れられた牛の中には、最初から嫌々とクビを振り、興奮しているのがいる。そういうとき為野は、牛の頭をよくなでて、自らの手を舌で好きなようになめさせてなだめる。そして静かに牛の目に手をやってつぶらせると、不意にハンマーを打ちおろす。

 もろに眉間を打たれた牛は、一瞬で失神し、脚を宙に浮かせドッと崩れ落ちる。途端に左側面の檻状の扉が開けられ、倒れた牛はザーッと音を立てながら職人たちが待つ解体場へと滑り落ちていく。

(略)

第一工程の職人が、ノッキングで開けた眉間の穴へ、ニメートル以上ある籐の棒を刺し込んでいく。こうして脊髄の神経を破壊すると、牛はもう大きくは動かなくなる。(略)

 籐で神経を切り、脚の動きが止まるか止まらないかのうちに、次の職人が首の動脈を素早く切り開く。

(略)

 牛が吊り下げられると、次の職人が駆け寄り、頚椎を探りながら皮一枚残して頭部を切断する。

(略)

牛はようやく完全な肉塊となる。(略)

巨大なノコギリを持った職人二人によって、背骨を真ッ二つ、縦半分に切断された肉塊は、さらに真横に切断して四等分される。

 とばの作業というと、最初のノッキングや、皮剥ぎの見事さがよく引き合いに出される。

 確かにこの二つはベテランが担当し、とりわけ皮剥ぎの見事さは素人衆からも感嘆される、花形の持ち場といってよい。しかし当時は、この手作業による背割りもかなりの技術が必要だった。

骨粉工場

路地ではただ「骨屋」と呼ばれていた。

 工場の仕事は、前日までに集めておいた牛、豚などの骨を処理するところから始まる。昼過ぎになると、作業を中断してとばなどに出向き、その日に割られた牛の頭蓋骨などを引き取るのである。(略)

 無造作に木箱に放りこまれた骨や脂身は、まだ新鮮だから、えもいわれぬ美しい純白だった。

(略)

 工場に戻ると、骨に付いた肉をナイフで削ぎ落としていく。きれいに掃除すると、ボイラーに骨を放り込んで焼きを入れていく。

 集荷した骨や脂身は、できるだけその日のうちに処理するが、量は何十トンとあり、集荷は日曜を除いて毎日なので、処理が追いつかなくなることも珍しくない。

 夏場は、骨に付いた肉がすぐに腐りはじめ、アンモニアのような臭気が立ち込め、作業員の目が痛くなるほどだった。そのうえ雨が降ると、骨に付着した肉が腐り、腐った脳みそが頭蓋骨から漏れてウジがわく。その腐臭は1キロ離れていてもわかるほどだった。

[悪臭と重労働で]当時「骨屋で三ヵ月もてば、どんな仕事もできる」と言われたほどだ。(略)

[だが骨屋は儲かった。骨粉の需要が高まり、脂身や骨からの油は石鹸の原料になった]

だからこの骨を集める権利も、路地の特権の一つであった。

「人権が金になる」、更池と向野

 戦前から更池では他の路地よりも肉商売が盛んで、学歴がなくても食うに困らなかったため解放運動が遅れたが、逆に、向野は商売で遅れをとっていたがゆえに、水平社運動に積極的に取り組んだといえる。(略)

 水平社運動以来、「人権が金になる」と思った者は、少数ながら存在したことを思えば、向野には“先見の明”があった。商売で出遅れていたからこそ、「人権の季節」という時代の波にうまく来ることができたのだ。

 それゆえ大阪の路地では、向野にだけカワナンなどの全国レベルの企業が出ることになる。(略)

 更他の住民が「運動が金になる」と気づいたときには、すでに遅かった。

独立して店を構えることにした上原龍造[著者の父]は同和対策による無利子の融資を市役所に申し込んだが、解放同盟を通してくれと言われる。だがそこを仕切っていたのは中学の時に牛刀で殺そうとした武田剛三、アイツにだけは頭は下げたくない。

老廃牛をヤミで関東方面に売りさばいた時は、現地でバレて神奈川県警が大阪まで事情聴取に来たこともあったが、しらばっくれてやり過ごした。しかしこうしたセコイ商売は先がないし、信用を失いかねない。

(略)

利にさとい龍造は解放同盟が押さえている行政の窓口にこそ、さらなる飛躍のきっかけがあると見抜いていた。つまり同和利権をとることこそ、さらに店を大きくする必須の条件だと感じていたのだ。

[解放同盟分裂時に共産党入りした味野友映が龍造に近づく]

(略)

「龍ちゃん、更池にな、他にも解同に入ってない奴おるやろ」

「でもそれは、オレのほかには創価学会の連中くらいなもんでっせ」(略)

「学会員でも何でもええねん。そいつらまとめて、組合つくるんや」

(略)

[味野は同和利権の温床、輸入牛肉割当に狙いをつけた。国の役所を動かすには右翼が一番、誰ぞ知ってるか]

「福岡に皇国社いうのがあんねんけど(略)

「それやッ。そこは明治からある古い右翼や。その人、すぐに呼べるか」

「旅費出すからて頼んだら、来てもらえると思いまっけど……」

(略)

[味野から資金を借り]組合を結成すると、そのまま東京の農林省に出向くことになった。上京した右翼とは東京で落ち合い、総勢六人になった。味野は来なかった。

 普通なら門前払いだが、そこは味野が手をまわして共産党の代議士に頼んであったので、すぐに役人と面会することができた。そこで組合と皇国社の名刺を差し出すと、すんなり輸入牛肉の割当が決まってしまった。

(略)

[大阪に戻ると味野は龍造を右翼系極道「新同和会」の杉本昇に紹介]

「キタの事務所って、極道でっか」

「違うがな。ワシがそんなとこ連れていくかいな。これから新同和会の杉本さんを紹介するから」(略)

味野は「極道ではない」と言うが、扉には「新同和会」と、金色の文字に菊の紋が入った表札が掛かっている。

 龍造はそれを見て「共産党が右翼に行くって、極道とこ行くよりおかしいやないか」と思った

(略)

「今は、解同が窓口一本化しとる。これをワシら潰そうと思うて、味野さんとも共闘しとるんや」

カワナン

[杉本は龍造に「グリーンビーフ事件」による]「カワナンと農林とのつながり」を説明し始めた。(略)

昭和48年、畜産振興事業団の判断ミスで、輸入した大量の牛肉が大阪南港に陸揚げされたままグリーンビーフ、つまり腐って緑色に変色してしまった事件である。(略)

カワナンはすべてを買い取ることで、農林省に恩を売った。こうして役所とのつながりができたカワナンは、輸入牛肉を優先的に回されるようになったのだ。損して得とれの典型的な手法だった。

 杉本は「これは最初からカワナンが仕組んだこと、というのがワシの見立てや」と言う。

 「農林をつついて、大量に輸入させた張本人は川田萬や。つまりマッチポンプやな。証拠はないけど、カワナンやったらそれくらいやるやろ」(略)

 そしてこの夜、杉本は、龍造に新同和会への加入を勧めた。

 「上原さんが入ってくれたら、新同和の南大阪支部長まかせたい思うてます。一緒に窓ロ一本化、つぶしましょうや」

(略)

[川田萬から会いたいと言われ]

「もしかして、まだ武田剛三のこと、根に持っとんのか」(略)

「ワシが剛三と豊さんに話とおすから、もうちっと我慢でけへんか」

「ニイさんがそう言ってくれるのは嬉しいんです。オレさえ頭下げとったらすむ話やいうのもわかってます。せやけど、こればっかりは更池の問題でっさかい」

「ワシが言うても、我慢でけんか」

「オレかて、もう後には引けませんねや」

「そうか。しかし、この絵かいとんのは共産党の味野やろ」

(略)

「共産党と右翼か。あんたらしい言うたら、あんたらしいけどな。まあ、ええわ。味野とはどうせ一戦交えなアカンことやしな。せやけど龍ちゃん。自分で操っとる思うても、逆に操られとることもあるんやで。それだけは気ぃつけや」

[味野は「窓口一本化は法律違反」と市議会に圧力をかける。杉本に呼び出された川田萬、ただの利権屋と見くびり手ぶらで出かけると、杉本は山口組武闘派黒澤組の若い衆を引き連れていた。拳銃を出した杉本は市議会での窓口一本化糾弾に「おたくと解同が一切、口出せへんていう言質が欲しいんですわ」と脅す。要求をのむしかない川田]

(略)

 屈辱に耐えた川田は[極道にしておいた弟を連れ](略)数日後には神戸に向かった。(略)

 やがて山口組五代目組長となる渡辺芳則と川田萬が「まんちゃん」「ナベちゃん」と呼び合う仲だという噂が広まる(略)

建設業などあらゆる業種に進出し「川田コンツェルン」と揶揄され(略)全国で事業を展開する川田は、これからも各地で同様のトラブルが起こるであろうことを想定した。そうなると日本最大の極道である山口組のトップこそ、自分に相応しい。(略)

 こうしてカワナンは山口組トップのパトロンとなり、以降、川田萬に直談判できる者はいなくなった。表向きは同対法という国の法律、裏では山口組という裏社会のトップがついたことで、警察や検察でさえ川田には手を出しかねるようになったのだ。

平成3年頃からバブルがはじけ、牛肉の消費が落ち込み、あっという間に上原商店は傾く。カワナンも苦しいなか男気で1億5千万貸してくれた。だが苦難はつづく。狂牛病が業界を襲い、さらに時限立法だった同和対策法が平成14年で失効。国からの支援がなくなり、税務調査が入るように。BSEの渦中でカワナンは勝負に出る。輸入牛肉を国産と偽り補助金を詐取。

[同対法失効による]金の切れ目が縁の切れ目である。(略)利権にまつわるありとあらゆる情報が役人などから漏れだし、批判報道が相次ぐことになる。

 その中心となったのが、カワナンの川田萬の同和スキャンダルだった。

 カワナンによる牛肉偽装が発覚し、川田が逮捕されると、世間の非難は川田に集中する。

 実際は大手の業者も同様のことをやっていたのだが、ターゲットは川田に絞られた。同和利権を快く思っていなかった役人などのリークが相次ぎ(略)[メディアによる批判の中心にいたのは共産党の重鎮であった味野友映]

味野は宿敵の写真をざっと並べて言い放った。

「どれでもええから持っていってや。一番人相が悪いの、選んだってやッ」

ここにきて時代は大きく変わった。同和タブーの崩壊である。

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2017-07-15 無くならない アートとデザインの間 その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


無くならない: アートとデザインの間

作者: 佐藤直樹

メーカー/出版社: 晶文社

発売日: 2017/04/26

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  • 小崎哲哉との対話

サヴァン症候群

小崎 で、三つ目の仮説はサヴァン症候群です。ナディアって少女の話は知っているでしょう。幼児期に、話はできないけど、異常なリアリズムの絵を描いた女の子。(略)信じられないぐらい上手な馬の絵なんですよ。普通「馬の絵を描け」と言われるとほとんどの子供は横向きに描くけど、彼女は正面から馬を描いている。(略)

平面作品なんだけど、あたかも動いているかのように見える。洞窟壁画のなかにある動物の絵に、ちょっと通ずるところがあります。(略)

だけど、その後、その子は教育を受けて、言語を習得するに従って、まず絵に関心を示さなくなり、描かせてみたら、普通の子供の絵しか描けなくなった。

佐藤 (略)褒められれば図に乗ってまたどんどん描いてました。(略)そのときのことは、いまだに、どこかに記録が残っているというより、しょっちゅう思い出すことで、しかもずっと未解決なままなので、何らか普遍的な問いがあると思うんです。

 その後、絵ばかり描いていた幼稚園のときに、針田君といって、いまでも名前を覚えてますが、異様にリアルな絵が描ける子に会った。(略)素でスラスラと電車とか描くんだけど、下の機械類が全部正確に描けているんです。(略)

[図鑑とかは参照]してません。見てないんです。頭のなかにはいっている。記号表記までしてある。もう全部この人のなかに入っているんだと。(略)

目の前でサラサラと電車ができあがっていくんです。何か訓練して到達するようなレベルではまったくなくて、そういう人はいるんだっていうことなんです。やっぱりちょっと悔しいから、自分は見ながら描くんだけど、見ないで描いている針田君のほうが速い(笑)。描けるってこういうことなんだなと思った最初の鮮明な記憶です。

平面作品の行き詰まり

小崎 (略)たとえばいま、アールブリュットが世界的ブームですよね。それは、現代アートがあまりに空疎になったと感じている人が、アート業界のなかにも出てきているから。(略)

でも現代アートのアンチとしてアウトサイダーアートをもってくるのは、違っているような気もする。アンチじゃない、地続きだろうと。

 佐藤さんがやっていることを見ると、原点を考えさせてくれて、すごいなと思うんだよね。一方で、現代アートが見る人を必要としているようには、佐藤さんは観客を必要としてないんじゃないかなっていう気がしたの。

佐藤 描いているときは、見られることはまったく想定していないですよね。描くことを確かめているし、描くことそのもののなかに答えがあるはずだから、そこで嘘をつかないことを確かめているんだと思うんですよね。(略)

意外といま、しゃべって考えているほうの僕がいろいろと解釈しようとするわけですよ。(略)

でも描く側からしてみると、言語に置き換えて「この線をなぜ選んだかというとね」と説明した時点で、もうそれは何かが違っちゃってるんです。(略)

[描きながら展示をした時]

「よくあんなに人が来るところで、雑念まみれになって絵なんか描けるね」と言われるんだけど、そもそも集中して描いているわけではないので逆に集中して描いたら駄目なんです。重ねて描いている絵っていうのは、僕からすると駄目な絵なんです。美術史上にある立派な絵のなかにもそういうものがたくさんあるけれど、そこに魅力は感じない。僕からすると、そういうのは絵じゃないんです。(略)

[重ねて描くとは]自分で考えてることと、描くことを重ねる行為です。ちゃんと自分で設計して、それに自分の手足を従わせる。

小崎 それは現代アートそのものですね。現代アートは、コンセプトから始めなくちゃいけない。そのコンセプトにどれぐらいレイヤーを重ねていくかっていう作業をしていく。

(略)

佐藤 (略)それでみんなが驚嘆するレベルまで行けば、それが一つ何かを示したことになると思うし、それはそれで単純にすごいなと思うんだけど、自分のなかから、そういうふうに出てくる感じはまったくしないわけです。そういうことをしても、ろくなものにならないっていうふうにしか思わない。

 だから、デザインを選んだときも、これは自分が決めるんじゃなくて、状況が決めることに応じてるだけだから、そのほうがまだ間違えないっていう感覚があったわけです。基本、自分で意志を働かしたら間違えると思っているんです。だけと、その結果、デザインやイラストレーションは、その時代にウケるものじゃないと機能しない。ある時期のイラストレーションは、ファインアートのペインティングなんかより全然よかった。商業的なものにまみれて、自ずと出てくる要求に対しても応えているもののほうが、気づかせてくれることも多かった。(略)

80年代以降のサブカルチャーやセゾンがやっていたことなんかは、70年代までのドロドロした情念にまみれたものをスッパリ切った、資本主義的なものに対する期待の現れでもあったと思うんですね。

(略)

小崎 (略)つい20年ぐらい前まで、荒木経惟や森山大道は、「何言ってんだよ、写真は写真だよ」「アートなんて変なものじゃねーよ」って言ってたわけですよ。それが、サインをしてリミテッドエディションにすると、何十万何百万で売れるっていうのがわかった途端に変わっちゃった。でも、写真は写真でいいじゃないですか。

 僕は荒木さんの写真も大道さんの写真も好きだけど、それが現代アートとしての要件を満たしているかって言ったら、結構点数低いと思う。それは、平面でやれることがかなりやり尽くされて、相当行き詰まっていることにも関わっています。絵画の世界では、新しいことってほとんどないでしょう。(略)

そうすると、いま、見るべき作品ってインスタレーションなんだよね。空間を設計する。画家が展覧会やるときも、空間設計に相当気を使ってるはずです。それは時代の要請もあるけど、端的に空間にするほうが、要素が掛け算で増えていくからでしょう。一枚の絵だけじゃなくて、これとこれを組み合わせて、こんなふうに置いてみたら、違うものになる。それが大きい。

佐藤 80年代に、ちょっと停滞気味に見えていた平面表現活動に対して、コマーシャルなものがものすごく動きが出てきたように見えたのは、その状況自体が要素だったんだと思うんですよ。

(略)

小崎 コマーシャリズムに入っていくこと自体が、なんかべつの可能性に思えたのかもしれない。

佐藤 湯村輝彦さんは「アートなんかといっしょにすんな」って言い方をはっきりとしています。荒木さんだってそういう文脈でした。荒木さんはコマーシャリズムのなかから出てきて、そこで成功していることにも誇りをもってきたはずです。広がりのある場所に出てこれないで、仲間内だけでごちゃごちゃやって、何か成立してるつもりになってるなんて、ちゃんちゃらおかしいぜと思ってたはずなんです。ところがいまは、その商業的なものに乗っかって成功するってことがどれだけ価値があるのかわからなくなってしまった。ここも行き詰っちゃったわけです。

小崎 日本の場合、欧米と決定的に違うのは、ファインアートとサブカルチャーの区別が、プロですらきちんとついていないことですね。芸術大学でもほとんど教えられていないし、事実上無視されている。でも、違いを知った上で無視しないと駄目だと思うんだよね。習わずに、そんなものがないかのようになっているというのは、あんまり健全じゃない。

(略)

小崎 批評家のなかには「[会田誠の]『電信柱、カラス、その他』は[長谷川等伯の]『松林図屏風』を参照している」と言う人もいます。プロだから、そういう言い方をするんですよ。現代アートは、必ずアート史に参照物を見つけなければいけないってことになっているから。(略)

 ちょっと前まではそれでよかったかもしれないけど、僕はいま、少し違ってきているんじゃないかと思っています。1989年に世界が決定的に変わった。世界情勢が変わり(略)インターネットが普及し(略)

世界中でみんなが写メして、ネットにあげている。(略)CGをはじめ、視聴覚に関わるあらゆるテクノロジーがこれだけ進歩してくると(略)

過去のアート史、つまり縦軸を参照するよりも、同時代の事象、つまり横軸を参照することのほうが、つくり手にも受け手にも求められているんではないか。

(略)

佐藤 ショーヴェの壁画の動物の曲線とかを見ると、あれが描けるようになっている状況が想像できて、すごく共振するんです。訓練もしていると思うんだけど。(略)

うまいですよね。だけど、あの絵、一発で描いてるじゃないですか。修正してないんですよ。描ける状態になってて、ただそこに向かい合ってるんですよ。訓練していたとしてもべつのところでしていたと考えるしかないんです。それがすごくおもしろくて。地面の土の上にでも描いていたのか、中空で手だけ動かしていたのか。いまの美術の世界にはそういう身体性は求められていない。痕跡を残す技術的な訓練だけやっている。いわゆるパクリが生まれてしまうのも痕跡さえ同じならいいという考え方があるからです。記録に残る結果だけが問題になっている。たとえば、古武術の訓練と近代スポーツとしての格闘技の訓練はまったく違います。

(略)

肉体的なものとしての、絵が描けるようになっていた状態からすると、僕らは描けなくなっているんです。どの時代と比べても、もっとも絵が描けなくなっているんですよ。

 美大受験の設定にしても選抜目的ですから、規律訓練でしかなくて、そこを通過しても絵が描けるようになるわけではない。近代スポーツのトレーニングに似ています。そうでありながらそのルールがよくわからない。学校体育レベルってことになるのかな。自然を取りこんで自分のなかにたっぷりと貯まった情景があれば、そこから自在に取り出してきて、絵はできあがっていったんだと思うんです。だから、美大ができる前の画塾ではそれに連なるようなことをやっていたはずです。

  • 岸野雄一、細馬宏通との対話

自己の希薄化

細馬 たとえば、いま植物を描いているとして、その絵は、その前の絵と比べて、バラエティがあったほうがいいなぐらいの感じはあるんですか。

佐藤 どのみち何らか選択的な抽出にはなるわけですよね。でも、バラエティをことさら意識し出したら、科学と比べてもエンターテインメントと比べても中途半端なものにしかならないです。さりとて、これは創作活動で、俺は作者だから俺が決めればいいんだ、というふうにも思えない。そう思えたら楽なんでしょうが。でも、僕の場合はそれは人が決めることだからと思ってしまうんです。(略)

個が何かを描く。それはそうだとしても、作者とか自己とかいった考え方はかなり新しいものじゃないですか。たとえば印象派みたいな時代の、生き生きしたものに対するシンパシーはあります。近代に特有の自意識のようなものが発生しなかったら印象派なんて存在しなかったでしょう。ただ、それというのは、そのときにはじめてのことをしていたからということが大きい。でも、絵画の様式が変わっても作者とか自己とかいうところだけはずっと温存され続けています。絵画における作者とか自己とかいった概念は本当に意味がない。というかネックになってしまっているんじゃないでしょうか。

 現代のマンガ家は観察者としての力量が問われるので、かつての印象派の画家たちに近い感じがします。作者も自己も変化していく。

(略)

[シャーマンと]いま僕らが個人で責任をもちますというのは、明らかに違います。ただ(略)

個がどういうかたちであろうがなかろうが、「描いているという状態」だけは確実に起こせる。その状態は、そこで生えているという状態とかなり近い感じがするんですよ。

 誰がとかではなくて、述語だけがある。その感じにすごく確信があって、主語が自分ではない。お前が描いたんだろう、と言われたらそうなんだけど、強い自己をもった作家やアーティストになったら、自分というものに定点としての主体を置かなければいけなくなるじゃないですか。そのことに対してものすごく抵抗があるんです。

(略)

 アウトサイダーアートとかアールブリュットとか言われるものと、僕がやっていることの間には、同じような部分もあれば違う部分もあるような気がしています。グラデーションがかかっているというか、境界が複雑に入り組んでいてきれいな繰が引けないというか。

岸野 (略)作業所に通って毎日一時間か二時間絵を描いていく。その描き方も奇天烈な絵を描くというものではなくて、あるエリアの端から一つ一つ塗っていきます。塗るのも僕らよりもずっと丁寧で、絵の具を盛大に使って、とにかく完璧に塗り続けます。そして一日の作業が終わる。また翌日来て、作業をする。そういうことを、ずっとやっているという人が結構いるんです。最初は塗り絵みたいなもんだなと思っているけど、毎日完璧にやるということを繰り返して、それが積分されると一枚の絵になったときに、これは牛ですと言われて、えーっと驚く。そういうタイプの人の絵はおもしろい。

佐藤 作品づくりではないんですよね。どちらかというと行為なんです。音楽だったら、時間軸をもった行為なんです。僕が興味があるのは、どうしてその行為に及ぶのかというところ。行為の残った痕跡を絵画と呼んでいる。音楽も記録媒体に収められたものは行為の痕跡てすよね。ただ、絵は痕跡を確認しながら進んでいる。わざわざ残そうと行為に及ぶことのほうが多い。つまり作為性が強い。

 ある線を引けるようになるというということは、身体的なもので、受け取り手から見たら痕跡としての線が存在するようになったということだけと、それができる状態にあるということ、そこが大きいんです。ショーヴェの壁画は「それができる状態にある」人の絵です。僕らにはそういう意味での身体性がかなり失われてしまっている。描けるようになるといっても、様式であったり道具であったり訓練の仕方であったりのほうの力が大きくて、痕跡さえ残せればいいというものになっている。だから最終的には描かなくてもいいというところに行き着く。自由自在に描けるようになるのではなく、特定のものが再現できるように、機械的な意味で同じ動きができるようになっているにすぎない。

 そこをもう少しはっきりとさせたいと思うことがあります。アートとかデザインとかの制度を批判してすむ問題ではなくて、言語化しにくいところなんてすが。今度の展覧会では、その境目が少しても見えてきたらいいなと思っています。

(略)

細馬 何だろう。同じ筆を動かす行為でも、署名感のある行為とそうでない行為とがあると思うんです。たとえば、壁に落書きをするときって、何か独特の署名感が出ますよね。ただ無名の絵を残すんじゃなくて、自分の名前を刻むみたいな。でも、同じ壁に対して筆を動かすのでも、壁を塗るときには署名感がない。

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2017-07-13 無くならない アートとデザインの間 佐藤直樹 このエントリーを含むブックマーク


無くならない: アートとデザインの間

作者: 佐藤直樹

メーカー/出版社: 晶文社

発売日: 2017/04/26

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美学校

赤瀬川原平さんの活動などで知られた美学校という私塾でした。1986年、25歳のときです。美学校はアートもデザインもごちゃごちゃのまま渾然一体となっている場所でした。別の言い方をすれば、そのように思えた唯一の場所が美学校だったということです。(略)

 美学校でのエピソードはたくさんあってどれもおもしろいのですが、なかでも印象的だったのが、校長の電話対応です。有名なイラストレーターなども輩出していたので、「イラストレーター向けのクラスはないのですか?」といった問い合わせがあったのですけれど、「そんなコースはありません」「そんなものは教えていません」「ただ勝手になっただけです」などと校長自らが電話を切っていたのを目撃したのです。それでものすごく貧乏そうだった。バブル真っ盛りの時代にです。これはちょっと凄いな、と思ったのでした。

アキ・カウリスマキ

アキ・カウリスマキ監督は2014年のインタビューで(略)「1986年以降、新作映画は観るのはやめた」と答えています。いまは主に1920〜30年代の映画を観ており、それである賭けに出ているのだと。

小津安二郎、溝口健二、黒澤明の名を挙げて、この人たちのフィルムは、人が社会に対して張りめぐらしているバリアのようなものをすり抜けて、心の奥底に深く入り込んでくる、とも語っています。

「アート」と「デザイン」

 現在の「アート」は、それ自体の定義づけを拒んでいるものと言ってよく、そうなるとアートならざるものに対する否定的な見解とともに説明するしかなくなります。しかしこれは一種の他者依存で、自立や自律を旨としていたはずの存在が、結果として自家撞着に陥ります。

 「デザイン」は利用者の存在を前提にしていますから、そのような矛盾が露呈することはあまりありません。が、それも少し前までの話で、いまでは新たな問題を抱えています。経済的基盤が崩れ、何らかのプログラムとセットでなければ回らなくなっている。すると独立した「デザイン」は空回りを始めます。そこから「アート」を語り始めたりもする。それを避け、かつ他者依存もしないと決意するなら、基盤そのものに関与するしかない。

 個々の営みを存続させるためには、「アート」や「デザイン」といった大括りな業界に属することをよしとせず、そのような概念自体を疑い、個別に具体的な立ち位置を明確化するしかない。インデペンデントであり続けるしかないのです。

 わたしはいま、木炭を使って板に植物などを描くことを、延々と続けているわけですが、いったい何をやっているのか、うまく説明することができません。けれども、絶対に必要なこととしてやっています。何かどう絶対に必要なのかは描かれたものに証明してもらうしかなく、証明は死ぬまで続けるしかありません。描くことというのは他の何かでは代替されえない行為であり、何の目的もなく始まったことであり、すべての目的は後付けである。現時点で言えることはそれだけです。

 何の目的もないのなら、なぜ意味性を帯びてしまうような造形を描くのか。抽象造形の世界を彷徨い続けないのはなぜなのか。

(略)

 「アート」も「デザイン」も西洋的・歴史的な概念にすぎませんし、今後もどんどん変化を重ねて、いずれわたしたちが想像し得るようなものとはまったく異なった姿になっていくでしょう。そんなことを思いつつ日々描く作業を続けているわけですが、アートなりデザインなりの概念がどうなろうとも、それを越えていくだけのものがそのなかにあるのかどうか、それだけが最後に残された「大事なこと」だと思うようになっています。

「絵画作品」はいつから自明なのか

正直なところ、「絵画作品」というかたちで昨今発表されている絵画然とした絵画のなかに、わたし自身が強く心惹かれるものは多くありません。まず「作品」というこの考え方自体にどうしても怪しさを感じてしまう。(略)

「作品」と言いさえすれば「作品」ということだと、そこを自明化してしまった瞬間から、大事な部分が蒸発してしまう、生気が失われてしまう、そんなふうに感じられるのです。

 それは「生命」ではなく「死」ですらありません。そこから目を背けさせる何か。そこまで言ったら言いすぎでしょうか。しかし自明なものをただ自明なものとして疑わない態度というのはときに暴力的です。「作品」という概念は明らかに何かを隠蔽しています。美術史を繙けば浮かびあがることが多々ありますが、「自明性そのものを問う作品」(現代美術作品)の登場は必然的な帰結であったとも思います。ただやはりそれでも、わたしの心を離さずにいるのは、そのもとのところに存在したであろう「絵画」なるもののほうなのです。「生命」や「死」に寄り添いながら「自由」を運んで来てくれる「絵画」をどうしても希求してしまうのです。

長新太

 あらためて「絵画」に「入門」しようとしている自分が、なぜ長さんのことを考えているのか。書くべきことは限りなくあるのですが、ここではまず色の話からします。長さんの「作品」(あえてそう呼びます)は、ほとんどの場合、印刷物としてわたしたちのもとに届きます。絵本の形態が多いからですが、印刷された色が、とにかく独特なのです。廉価で普及させることを念頭に置いた通常のカラー印刷なので、シアン・マゼンダ・イエロー・ブラックの四色の掛け合わせで構成されています。その条件は他のみなと同じなのに、長さんにしか出せない色がいつも出ているのです。そしてここがとても大事なところですが、その色でなければできあがらない世界が描かれている。ファンタジックと言えば言えますが、たとえば『ちへいせんのみえるところ』(1978年)の空の色などは、ものすごくリアルに響きます。(略)

イラストレーターは「複製された状態」をこそベストな状態にする仕事と言えます。「原画はもっといいんですけどねえ」などと言ってはいられません。ですから印刷であれモニター表示であれ、複製の場所ではじめて完成する絵というものも登場します。これはもっと言うと、受け手の脳内で完成することを目指した絵であるとも言えます。「描く」行為が完成するのは、見ている人間の脳内においてである。長さんの「作品」に接するたびにそのことが思い起こされます。

 しかし考えてみれば「絵画」とは元来そういうものであるはずです。長さんの絵は原画も素晴らしく、その前でいつまでも眺めていられる美しさを有しています。原画か複製かのどちらかに重点が置かれているのが普通ですから、これはなかなかに希有なことではないかと思っています。


ちへいせんのみえるところ

作者: 長新太

メーカー/出版社: ビリケン出版

発売日: 1998/10

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赤瀬川原平

 デザインは完全に経済成長とともにあろうと舵切りをしていきますが、赤瀬川さんと同学年の横尾忠則さんがイラストレーションを駆使するデザイナーとしてデビューしています。その横尾さんが82年に画家宣言したことは非常におもしろい問題を浮かび上がらせています。赤瀬川さんが尾辻克彦として純文学作家デビューしていた時期で、赤瀬川原平としてのイラストレーションの画風も大きく変化しています。ジャンルとしては完全に分かれて整備されてしまっているものの、おそらくは無意識の、それぞれの行き来とそのクロスが見てとれます。

 2010年にわたしは「本当はただ絵を描いていたいだけなんじゃないですか?」という不躾な質問を赤瀬川さんにしました。その直後の複雑で優しい表情を忘れることは一生涯ないでしょう。その表情を見て「赤瀬川さんの絵であればどんな絵でも見たいです」と重ねましたが、その答えは「いまは何を描いてもイラストになっちゃうんだよ」というものでした。

 赤瀬川さんは死の直前まで「絵」が描きたいと願っていたはずです。しかし結局それは叶わないことでもあったのです。横尾さんにしても、まだ何も達成できていないと考えているはずです。

秋岡芳夫

 わたしは、戦争から戻った20代の秋岡芳夫さんの最初の活動拠点が「童画」だったことに注目したいのです。自己表現という観点だけでも、クライアントワークという観点だけでも、成立しないのが「童画」です。それからの10年間を追うと、装丁もやり、工芸指導所の仕事にも参画し、椅子をはじめとする家具のスケッチなども描き、新しい玩具をつくり、版画をやり、アマチュア無線にのめりこみ、そこからラジオキャビネットをデザインすることになり……そのラジオにしても、自ら文字盤もつくれば、真空管のレイアウトもし、回路の設計からパッケージまでやり、日本の近代工業デザイン史に残る数々の露出計やカメラ、バイクをデザインし、かと思えば学研『科学』付録を教材へと劇的に変え、二次元から三次元を立ち上げる紙工作に没頭し……といった具合です。(略)

 「口紅から機関車まで」の言葉で語られてきたレイモンド・ローウィとのもっとも大きな相違は、大衆を購買者・消費者としてではなく、共同生産者として見出そうとしていた点にあったんじゃないか。僕が秋岡さんを「20世紀のど真ん中を生きた人」だと思うのは、文字通りその期間を生き抜いたからでもあるわけですが、最初期の「アバンギャルド」と「モダン」がもっていた最良の部分を受け継いでいるように感じるからです。

 つくる人間とつくらない人間がいるのではない、そもそも人というのは皆つくるもので、つくらなくなっているとすれば、そのような生活こそがつくられたものであり、それは歪な様式なのだから、そこを脱し、誰もが楽しんでつくることのできる状況を取り戻そう、と。そんな考えからさまざまな地域に足を運び実践を重ねて行ったように思えます。

「デザインならざるもの」

 「いやそういう専門家ではなくわたしはあらゆるところに存在するトータルな意味でのデザインの専門家でありたい」という考え方をする人もいるでしょう。ただ「ありたい」のは自由ですが、そういうことばかり言っていると、どうしてもだんだんとどこか詐欺師っぽい感じになっていきます。かつての「ハイパーメディアクリエイター」のような。「マルチタレント」のような。「アートディレクター」にしてもそろそろ怪しくなってきていると思います。

 そういう危うさが漂ってきたら「なぜそんなことを言わなければならないのか」「なぜそんな人間が必要になっているのか」を考えてみればいいのです。情報の独占がなくなれば基本的にはすべての人間に開かれていくことになるわけで、誰かに先導してもらう必要もなくなるはずです。しかしやはりどうしても維持したい秩序というものもある。それが限定的であるうちはいいのですが、あらゆる局面に拡大されてしまうと社会的なヒエラルキーに転化してしまう。そしてそれは端的にグローバルな経済と結びついていきます。

 しかしわたしたちにはもっと切実なことがあります。それぞれの現場で創意工夫するということです。それぞれの必然性をもって答えを探すということです。実際に試しながら考えるということです。

 最近では学校でも「ものづくり」の時間が縮小されており、家庭科などでも裁縫や刺繍などの機会をなくし、コーディネートを覚えさせたりしているようです。「賢い消費者になってもらうため」だそうですが、本当に酷い発想です。人を消費の奴隷にすることしか考えていないのかとクラクラしました。(略)

 こういうところに象徴的に現れていると思うのですが、要するに経済を中心にしすぎているのです。デザインもずっとそんな経済と並走してきて、いまになってコミュニケーションだソーシャルだサスティナブルだと言い出している。しかしそれらはデザインとはまた異なる側面の話です。別の価値をもった話をもってきて「デザインそれ自体」を救い出そうとすることはやめたほうがいい。それは無意味な延命にすぎません。

 いまは「デザインならざるもの」のほうが圧倒的におもしろく見える時期だと思うのです。

東京五輪エンブレム騒動

 感覚に対して直接的に働きかけるデザインのプロセスにおいては必ず「職人的な知」が介在しているはずです。つまり「言語化しようがないもの」のことです。(略)

「言葉を介在させない直接性」が最重要であるような領域。それが「できた」ときにだけ直接やってくる感覚の在処。

(略)

[東京五輪エンブレム騒動]

 確かに似てはいます。(略)

しかし盗用ではなく、また見たことすらなかったのだとしても、両者が「まったく似ていない」ことにはなりません。ここに、ある深刻な、感覚のズレがすでにして浮かび上がっていたようにわたしには思えました。では佐野氏はどのような意味で「まったく似ていない」とまで言ったのでしょう。またこのときに「自分はゼロからつくった」とも語っています。この言葉の意味も重要です。五輪組織委員会の人の発言で「彼独自の発想で」「独自の制作意図を持って」「オリジナルな作品である」という説明もなされていました。

 このエンブレムはコンペ後に修正されたものだったという話ですから、その独自性において「デザインに対する考え方」も修正前後では変化がなかったことになります。では貫かれていた「考え方」とは何でしょうか。似た商標が見つかったために修正が行われたとも説明されていますが、それが誰のどんな判断かは不明なままです。専門家として問題視すべき点があるとしたらこの部分で、ここを不問にして成立する「独自性」「オリジナル」とは何なのかが問われなければなりませんでした。その説明がきちんとなされなければ、人に紐づいた話になってしまいます。

 何がデザインされているかではなく誰がデザインしているかが問題になってしまう。そして炙り出されていたのはまさにここでした。選考理由として「拡張性や展開力で優れていた」という話が出てはいます。だとするとそもそもこのコンペの焦点はエンブレムそのものではなかったとも言えてしまうのではないか。

(略)

 エンブレム問題の問題性は、この「どこまで行ってもすべての立場がフラットになることはない」という原理に対して、誰も解答を用意していないことに尽きます。(略)

 では、グラフィックデザインの専門性とはそもそも何なのか。商業意匠や工業意匠が画家や技術者の副産物のような位置づけでしかなかった時代に「それ自体が独自の価値をもつもの」という意識をもち、そこに専念することによって他を寄せつけない成果物を次々と世に送り出して行った。その代表が、1964年の東京五輪のシンボルを考案した亀倉雄策さんだったのだと思います。

 しかし、その路線で立派なレールが敷かれてしまうと、そこから人心が離れてもなお「それ自体が独自の価値をもつもの」と言い続けなければならなくなるわけで、これは大変に不幸な事態です。「現在の亀倉雄策」というべき存在があるとしたら、「亀倉雄策のように、華々しくデザインする人」ではなく、「亀倉雄策のように、認められていない価値を認めさせる人」ではないのか

(略)

[野老朝雄によるエンブレムが]これまでのグラフィックデザインの追求とは異なった価値軸を示していることについて、日本のいわゆる「グラフィックデザイン界」で議論らしい議論が起こっていないことについて、かなり驚いています。

 「グラフィックデザイン界」などもともとなかったものですから、ここまで駄目だとまたもとに戻るだけなのかなという気もします。

(略)

 グラフィックデザインという呼び方がまだ聞き慣れなかったころ、この言葉こそがまさにそういうものを総称していました。このよさはいったい何だ!これがグラフィックデザインってやつか?と。そのことに気づいた瞬間、本当に震えるほどわくわくしたのです。世の中にはこんなにも素晴らしいものがあるのかと。こんなにも新鮮で、喜びに溢れ、どうにかなってしまいそうな感覚、それがグラフィックデザインでした。少なくとも、ある時期までの自分にとってはそうでした。

 しかし、認められていなかった価値を見出し称揚することから、それを業界の確実な道筋に据えてしまったあたりで、何かが変わったのだと思います。正直、現在の「グラフィックデザイン界」でよしとされているもののそのよさがわたしにはイマイチよくわかりません。JAGDAにしろADCにしろTDCにしろ(つまりその受賞歴が最初のオリンピックエンブレムの応募資格となった国内団体ですが)、独特の感覚の人々の集まりとしか言いようがないと思っています。独特な人々がサロン活動を通してお互いの感覚を誉め称え合うこと自体は悪いことではないと思います。が、そこは率直に認めたほうがいいでしょう。あくまで趣味の集まりであってけっして何かが優れているというような話ではないのだと。

(略)

 わたし自信、最初は見抜けなかったので、偉そうなことは言えませんが、新しいものというのはどこから出て来るかわからないものです。野老さんは独特の感覚をもった、幾何学の世界の住人であり、ひたすらそのなかで遊び倒してきた人と言っていいでしょう。

(略)

それは「計算づくでやった」ということとはまったく違います。誤解を恐れずに言えば、一種のアウトサイダーアートではないかと思うほどです。

次回に続く。


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2017-07-11 砂の果実 売野雅勇 80年代歌謡曲黄金時代 このエントリーを含むブックマーク


砂の果実 80年代歌謡曲黄金時代疾走の日々

作者: 売野雅勇

メーカー/出版社: 朝日新聞出版

発売日: 2016/09/07

|本| Amazon.co.jp

EPIC・ソニー

[80年夏、制作ディレクター目黒育郎から、作詞経験のない著者に作詞の依頼]

 EPIC・ソニーは、二年前の1978年に、CBS・ソニーから独立してできたばかりのレーベルで、たしかロック・カンパニーといったようなスローガンというか、キャッチフレーズがついていた。つまらない歌謡曲なんてつくらないぜ、という気持ちが、大袈裟じゃなくて、社員の人たちの歩き方にまで出ていた。すごく素敵な会社にはまちがいなかった。ともかくやることにもスピードと勢いとスマイルがあって、みんながワクワクしているのが伝わってきそうな会社だった。(略)

偉い人からお茶を出してくれる若い女の子まで、みんなそろって品があって、とても居心地がよかった。その分、意地汚い人とか、がつがつした下品な人の居場所がなかった気がする。会社の雰囲気って、そういうものなのじゃないかな。インテリアが特別素晴らしいとか、そういうことじゃなくて、創設者の丸山茂雄さんの人柄がそのまま表現されているみたいな、アメリカの西海岸から風が吹いてくる感じの会社だった。

(略)

 ぼくは、東急エージェンシーインターナショナル(通称、東急インター)という、赤坂の広告会社に、嘱託社員として籍をおいて、EPIC・ソニーから出るすべてのレコードのコピーを書いていた。

(略)

 そのころは、本当に楽しい時代のはじまり、という気配が東京中にあふれていた。「TOKIO」は、その象徴的な歌謡バージョンという感じだった。阿久悠さんという本格的な作詞家から[糸井重里という]コピーライターに変わったキャスティングは、ある種の軽さが求められていたことへの答えだったのだと思う。軽さとは、この場合、お酒落とか、ウキウキするようなホップな感覚ということだ。そういう時代の空気を、みんなが呼吸していた。もちろん、目黒さんも、ぼくも。

[うわー、半端ねえ美人感]

[96年高橋睦郎宅での花見の会にて高橋から、ちょうど読んだばかりの、背の高い、柔らかな雰囲気の小説家を紹介された]

彼女は、居間の隅においてある華奢なデザインの木製の長椅子に、スリッパを脱ぎ長い脚を折り曲げて横座りしていた。

 「『文學界』読みましたよ」と(略)ぼくが言ったら、「本当に?」と、とても驚いた様子で、目を輝かせて微笑った。(略)

 「ぜんぜん、つまらなかったでしょう?」

 「すごく面白かった、お世辞じゃなくて、本当に素敵な小説だった」

 「ありがとう」と、素直な声で彼女は言った。

 「タイトルは、『虹を踏む』だっけ?」と、ぼくが言うと、彼女は困ったような顔をして微笑み、それから、がまんできなくなったみたいに、声をたてて笑った。

 「蛇、なんだけど、『蛇を踏む』」

 小説は、その年の芥川賞を受賞した。川上弘美という名前を新聞で読んで、ぼくは、その長い脚をおおっていたオリーブ色の長いスカートと、清楚な感じのする白いブラウスと、ごく淡いシトラスの香水を思い出した。

大瀧詠一

[仕事とは別に「LA VIE」というインディー男性ファッション誌を作っていた著者。創刊号では高橋幸宏が音楽ページに寄稿。公称、三千から五千部、実売はその半分以下。第三号で大瀧に「夏の日の桃太郎」を寄稿してもらった]

 [福生の大瀧宅]

玄関先に立つと、ドアが開いていた。「ごめんください」と声をかけると、のそりとした感じで、ジーンズに白いタンクトップを着た大瀧さんが出てきた。そして、

 「どうして、オレのこと知ってるの?」と、開ロ一番、表情も変えずに、ぼそっと言った。

 ぼくは、質問に面食らって、答えにつまった。

「大瀧さんは有名ですから、誰でも知ってますよ」と、口ごもりながら答えた。

「もう、みんな、ぼくのことなんて、忘れちゃってるよ」と、大瀧さんはぼそぼそ声で言って、ソファを指差した。

 「まあ、座って」(略)

[大瀧さんは]ふーむ、と唸ったまま、ぼくが持っていった「LA VIE」のページをぱらぱらとめくりはじめた。そして、しばらくしてから、

 「もう、ずっと、人に会ってないなあ」と、またぼそりとした声で言った。「久しふりだな、人と会うのも」

(略)

[帰り際、大瀧は]

「来てくれて、ありがとう。たまに、人に会うのも面白いよ」

(略)

[4年後、大瀧プロデュースのラッツ&スター『SOUL VACATION』にて作詞家として再会]

「ぼくは、あなたが、詞を書き始めたころから、注目していたんだよ」と大瀧さん(略)

「最初は、河合夕子だろ。もう、そのときから知ってるよ。そりゃ、何だって、オレは見てるんだよ。(略)

これから出て来る作詞家のダークホースに、あなたの名前をあげて、みんなにファックスを回したんだ。嘘だと思ったら、聞いてごらん」(略)

メールのない時代で、ナイアガラ一家のファクシミリ通信は、音楽業界ではわりと有名な存在だった。

(略)

[90年代に入り、交流する機会が増え、市川右近のスーパー歌舞伎を観た帰りに「どんな女性がタイプ?」と訊かれ、「昔は、真山知子」と答えると]

真山知子でわかったよ。つかめたよ」(略)

「だから、坂本と、ピッタリくるんだな、やっと、わかったよ」

 ちょうど、坂本龍一さんと、ゲイシャガールズや中谷美紀さん、それから坂本さん自身の歌詞を書いていたころだ。

(略)

 「まあ、簡単にひと言でいうと、それ、サイケってことなんだよ(略)おサイケなんだよ、ふたりとも」

 このときの大瀧さんの言葉をよく思い出す。サイケデリックとは、ぶっ飛んでいるといったくらいの意味なのだろうか。

山下達郎

[萬年社在籍時、ロッテCMの音楽制作で目撃]

ムスっと黙ったまま、誰とも口をきかず、ひとり黙々と、多重録音を何度も繰り返す山下さんの生態を、ガラスのこちら側から観察しているような気分だった。(略)

[達郎と会ったのは実は二度目。大学時代FUNKという三人だけの映画クラブをつくり]

中村幸夫くんが、いまから思うとすごいことなんだけれど、シュガー・ベイブに惚れ込んで、彼らのプロモーションフィルムを八ミリカメラで撮影していたのだ。

 そのころには、三人とも大学を卒業していて(略)

 中村くんは、会社の休みのときにシュガー・ベイブを追いかけて、こつこつと彼らの活動をフィルムに収めていた。おそらく、『ビートルズがやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!』のリチャード・レスターを意識していたのだろう。(略)

1973年11月のある日、どうしても人手が必要だったのだろう、撮影を手伝ってくれと言われて、もうひとりのFUNKのメンバー加藤正志くんとつれだって、埼玉県新座市の跡見学園女子大学まで行ったことがある。(略)

 コンサートの最中はもちろん、コンサート終了後も、学園のキャンパスで撮影が続いた。だんだん日が暮れてくる中で、山下達郎さんや大貫妙子さん、村松邦男さんなどメンバーの人たちに馬跳びをさせたり、子供のような遊びをさせたり、かなりはらはらするようなことをやってもらっていた。ぼくと加藤くんは手製のかなり粗末なレフを持たされたまま、中村くんが撮影するのを眺めていた。(略)

 その撮影現場に、彼らのマネージャーだった長門芳郎さんがいたはずだが、挨拶をした記億はまるでない。

ナガトさん

[長門芳郎に「LA VIE」の執筆を依頼したくて、スガヌマ社長に頼んでツテをたどって訪ねると]

「この雑誌で、広告収入ってどれくらいあるの?」(略)

「やっぱり大変だね。軌道に乗るまでは、なんだってそうだよ。ぼくは作曲もやるし、編曲もできるし、詞も書いたりするんだ。ディレクターだってできるしね。なんでもやってみるんだ。最低どれかひとつくらいは、一流になれる気がするからね」(略)

「ラヴィン・スプーンフルも、ビーチ・ボーイズもちろん好きだけど、他に書きたいこともあるんだよね、」(略)

「最近、ディスコを研究してるんだよ」

「ディスコですか!?」ぼくはびっくりして言った。(略)

「ダンスものは、ヒットの確率が高いんだよ、ほら、こんなのも、こんなのも、つくっちゃってるのよ」(略)

「はははは、この、デザインも、オレ」(略)

「そう、何から何まで、なんでも、やるんだ」(略)

「ディスコ・ドラキュラ」とか、「ディスコ・モンスター」とか、いわゆる企画ものと呼ばれる、色物レコードだった。歌手の名前も知らなかった。

 もしかして、これって、人違い?

(略)

 ぼくは、人違いだったからといって、原稿の依頼をやめようとは思わなかった。多分、ナガトさんが、話は面白いし、気さくで憎めない性格だったからだと思う。よく考えたら、ちょっと変わってるけれと、かなりチャーミングな男だ。

(略)

 ぼくは、何と言おうか迷ったが、言い繕うのもかっこ悪いので、正直に、パイド・パイパー・ハウスの長門芳郎さんと間違ってました、と謝った。すると、ナガトさんは、「そんなの、気にすることないよ、偶然ってのは意味があるんだよ。きみと、こんなかたちで出逢ったことにも、意味があるんだ。ぼくは、そう信じてるから、電車で、偶然、何度も出逢うやつなんか、絶対、会社に入れてしまうからね。その偶然には、何かある、って考えるタイプなんだよ」

(略)

「また、偶然、どこかで」

名刺には、「ビーイング 長戸大幸」とあった。(略)

[そして一年後]WHYのリードヴォーカル織田哲郎さんと一緒に現れた事務所の社長が、長戸大幸さんだった。

井上大輔

 ペンネームを麻生麗二とした。(略)ブライアン・フェリーのイメージを、漢字に翻訳したつもりの変名だった。(略)

[井上大輔のマネージャーからコンタクトがあり]

「井上が、どうしても『星くずのダンス・ホール』を書いた麻生麗二を探してこいというものですから、がんばって探しました(略)時間がかかったんですよ、麻生さんにたどりつくまで」

「探してくれたんだ」

「ひと月」(略)

「なかなか、誰も、麻生さんのことを教えてくれなくて、困りました」

「それで、どうやって、ここがわかったの?」

「なかには、人のいい人も、口の軽い人もいますから」と言って、彼は悪戯っぽく笑った。(略)

 シャネルズの歌詞を読んで、井上大輔さんが気に入ってくれたことが、何よりもうれしかった。

(略)

[後日井上の事務所を訪問]

オフィス・トゥー・ワンという、かつて放送作家だった作詞家の阿久悠さんと、社長の海老名俊則さんがつくった会社がある。[社長の]斎藤正毅さんはここから独立し、井上大輔さんと一緒にやっているみたいだった。

 「マッドキャップは、阿久さんも株主だし、オフィス・トゥー・ワンの子会社みたいなもんだよ」と、斎藤さんが言った。

 所属している作家は、井上さんの他に、沢田研二さんのヒット曲を何曲も書いた大野克夫さん、NHKの歌番組「ステージ101」出身の惣領泰則さんや芹澤廣明さん、かつて六文銭にいたフォークシンガーの及川恒平さんなどがいた。(略)

作詞家の森雪之丞さんや岡田冨美子さんも、数年前まで在籍していたと最後に言った。

[誘われて、マッドキャップ所属に]

富野由悠季、『機動戦士ガンダムIII』

[81年夏、キングでの会議、富野がテーマ、フィロソフィー、込められた想いを説明した後、ひらめいたように井上が「サビだけ詞先で書いてくれる?」]

[音羽スタジオでの録音]

打ち合わせのときとは別人のように、富野さんはとても気さくでおしゃべり好きな人だった。(略)

 「大ちゃんとはね、日芸の同級生なんだよ」(略)

 「卒業してすぐにブルー・コメッツでしょ、あっと言う間に大スターになって、アメリカ行って、エド・サリバン・ショーにも出たしね。ぼくなんか、遥か遠くの方から見上げてましたよ。(略)

やっと、前作のときに、主題歌の相談に行ったんだよ、大ちゃんのところへ。ちゃんとした作品にしたかったからね。彼は、フロントに立つことへの執着がすごくあって、なり振りかまわない、その凄まじさはね、もう尋常じゃなくて感動さえしたねえ。彼はやっぱりスターなんだよ」

「少女A」

[沢田研二のために詞先で『ベニスに死す』に想を得た「ロリータ」を作詞]

避暑地のプールサイドで、中年にさしかかったジュリーが、美少女に恋をして、その美貌に思い焦がれる物語だ。

[だが力不足で中途半端になりボツに]

(略)

「ちょっとHな美新人っ娘」という、キャッチフレーズ(略)Hというところに目がいって、セクシュアルなムードがあってもいいのかもしれないと、勝手に想像した。(略)セクシャルで十六歳。自分の高校のころの、まわりにいた女の子たちを想像した。同時にシノハラヨウコという、十六ではなく、浅黒い肌をした早熟な十四歳の美少女を思い出した。(略)ぼくは、十四歳のシノハラに一度だけ誘惑されたことがあった。そして、恥ずかしいことに、それだけで下着の中に射精してしまった。

 「少女A」、シノハラがそんな記号で、ニュースになる可能性があることを、彼女のあやうさで、ぼくは知っていた。

 タイトルは決まった。(略)

[だが、ストーリーがまるで浮かばず、締め切りが迫り、視点を少女側に変更して「ロリータ」の設定を使うことに。歌入れ直前、一部手直しを求められる]

不良っぽ過ぎるという理由だった。関係者がビビリ出したのが、手に取るようにわかった。明菜さんの誕生日が過ぎるので[十七歳に変更](略)「少女A」の後についていた「(16)」という表記を、タイトルから削らせてほしいとも言われた。

(略)

 後年、中森明菜の当時のマネージャー、研音の角津徳五郎さんが教えてくれたのだが、その日偶然早起きしちゃって、偶然ワーナー・パイオニアの制作部に、何の用事もないのに立ち寄る気になり、島田雄三さんの机の上の「少女A」とタイトルが太いマジックで書かれたぼくの原稿を、偶然見つけたそうだ。タイトルに衝撃を受けて、島田さんを呼び出し、オケを聴かせろということになり、オケも最高だったので、「これが売れなくて、何が売れるんだ!」と、ほぼ決まりかけていた来生姉弟の「あなたのポートレート」という楽曲をひっくり返して、「少女A」をセカンド・シングルに決めたらしい。

 しかし、中森明菜が歌いたがらず、角津さんは、

 「じゃ、レコーディングで一回歌うだけでいいよ、あとは歌わなくていいから」とむりやり説得し[録音](略)

「そのふてくされた感じが、歌にぴったりだったんだね」

「夏のクラクション」「涙のリクエスト」

[最初に伊藤銀次にこのタイトルで書いたがボツ]

木崎賢治さんが、

「ぼくは、このタイトルが好きだよ。今度、デビューする新人の曲に使わせてくれないかな?吉川晃司って男の子なんだ」と言ってくれた。

[だが筒美京平から詞先で依頼された稲垣潤一の締め切りに追われ、使ってしまう。『アメリカン・グラフィティ』のラストシーンからストーリーを浮かべ]

白いクーペ、まぼろしの天使のシンボルとしての女性、無垢なる夏の終わり。遠ざかるクラクションの響きが、ガラス窓に遮られて聴こえない世界の始まり。(略)

 京平先生が、「何て音楽的な詞なんだ!って思った。音楽が聴こえてくるから、そのままメロディを書けばよかった。(略)」とほめてくださった。

(略)

[翌日、チェッカーズの詞に着手]

 萩原さんとの打ち合わせで、グループのテーマは、「80年代のオールディーズ、サウンドはポリス」と聞かされていた。だから、ひとつ目の詞は、四日前に書いた「テレヴィジョン・ベイビーズ」という、バグルスとかブロンディみたいなニューウェイヴの雰囲気を出そうとした詞だった。

 でも、もともとドゥワップのバンドだから、似合わない可能性も考え、「涙の〜」とか「恋しき〜」とか、六十年代風のロカビリーの匂いのするタイトルで書こうと思っていた。

 それで、当然、ふたたび『アメリカン・グラフィティ』を思い出した。[少年がDJにリクエストする設定を使い、「涙のリクエスト」を書く]

(略)

[「ギザギザ〜」は不発]

[83年11月]チェッカーズ担当の制作ディレクター、吉田就彦さんの結婚式の披露宴の会場で、チェッカーズのメンバーたちに会った。元気がなさそうに見えた。キャニオンが新人にしては破格の予算を掛けて売り出しているというのに、チャートがあがらないので、不安になるのも無理はなかった。(略)

 「デビューしたのはいいんですけど、これから、どうなっちゃうんでしょうね?」と、享くんがため息まじりに言った。

「三曲録ってあるんだから、悲観しなくてもいいんじゃない」(略)

「次のシングルは、売れるんでしょうか?」と、政治くんが不安そうな目付きをして訊いた。「オレたち、売れないと、久留米に帰らなくちゃならないんです。働かなくちゃいけないし、ぼくんちは八百屋だから、八百屋にならなきゃなんです」

(略)

「チェッカーズが売れるのだったら、オレは『涙のリクエスト』だと思うよ」と、ぼく。

[ビートルズも売れたのはセカンド・シングルだよ。明菜もそうだしと励ます]

「ビートルズだと話がデカ過ぎますけど、中森明菜だと、説得力ありますね」[と亨]

(略)

余談になるけれど、『涙のリクエスト』でブレイクしたチェッカーズを、いちばん冷静に、分析的に、そして貪欲に、観察していたのは(略)ビーイングの長戸大幸さんではないかと思う。

 『ザ・ベストテン』で一位になると同時くらいに、電話がかかってきて、「チェッカーズについて取材させてくれ」と頼まれた。約束の時間に指定されたキャピトル東急の部屋を訪ねると、取材記者の女性と長戸さんがいた。窓辺の椅子に座るように言われた。正面にビデオカメラが三脚にセットされていた。(略)「記録用に撮らせてもらうだけで、他には使わないから、ご心配なく」と言われた。

 女性と長戸さんが、交互に質問して「涙のリクエスト」誕生までのプロセスを、歌詞の発想から歌詞の完成までに分けて、細かに質問された。精神分析でもされているような気分だった。

 曲については、ほとんど問われることはなかった。ひとつだけ、「あれは、『ポエトリー』[ジョニー・ティロットソンのヒット曲]だよね」と、長戸さんに言われた。

[『ポエトリー』の日本の担当ディレクターは社員時代の筒美京平、そして筒美の企画した「涙くんさよなら」が大ヒット](略)

 いまから振り返ってみると、長戸さんは、必死で第二の、第三のチェッカーズを作ろうと、研究を続けていたのではないかと思う。(略)

[帰り際]長戸さんが、

 「どうして、『涙のリクエスト』はヒットしたと思う?」と訊いた。

 「詞と曲と歌い手が三位一体になっているからじゃないかな?」と、答えると、長戸さんはニヤリとして、ワープロ打ちされた歌詞カードを広げ、歌詞の一行を指差した。

「ここだよ!」[それは「夜中の街を〜」という一行]

 長戸大幸さんの自信に満ちた声が、部屋に響いた。

「この一行に、しびれたんだよ。日本全国の小中高の女の子たちが」

(略)

「ぼくは、誰よりも、この歌を知っているんだよ。作者よりもね」と、長戸さんが言った。

ちょっと迫力のある声だった。

矢沢永吉

[作詞家になって以来、ずっと依頼を待っていたが、声はかからず。ついに方針を変え、ディレクターの桃井良直に売り込みに行くと、ツア中ーの矢沢にその気持を伝えるので手紙を書いてくれと言われる。書き終えると24枚になっていた。矢沢からライヴを観てくれと伝言があり、小倉へ。楽屋を訪ねると]

矢沢さんは、

「今日は、ぼくは、売野さんのために歌いますから」と言った。

(略)

[会場に向かう途中]

「ね、売野さん、最高でしょ?」(略)桃井さんが興奮した口振りで早口になって言った。「あんな人、どこにもいないでしょ?カッコいいでしょ、カッコいい男なんですよ。ね、ね、売野さん、ハート、ガシッ!とつかまれたでしょ!?

(略)

 何度もデモテープを聴いて、サビの頭のフレーズは「Somebody's Night」以外にないと確信した。誰かの夜。これが何を意味するか。それが、この歌詞の生命線だ。ぼくは、それを考えることだけに集中した。言葉の中に発見されるのを待ちながら、物語が、息を潜めている気配がした。矢沢さんの声と息づかいの間からそれが漂っていた。(略)

 最初の二日間は、メロディを身体に染み込ませるように繰り返し聴き、こころを横切っていく言葉を原稿用紙にメモしながら、Somebody's Nightというひと言が象徴する意味を、謎を解くみたいに追いかけることに費やした。

 物語の主人公は自分でありながら、他人の夜を過ごす。それだけでもサスペンス映画のようで、きらきらと魅惑の光線をぼくに送ってくる。

 あ、「偽名」 か……。

(略)カチリと錠が外れる音がして、開いたドアの向こうに、まだ誰も知らない世界がきらきらと甘い香りのする光線を放っているのが見えた。そんな感じだった。

偽名のサインが〜(略)

この一行が、決定的だった。

(略)

[はじめて買った邦楽シングルが「時間よとまれ」。キーボード坂本龍一、ドラム高橋幸宏]

「矢沢さんって、幸宏さんから見るとどういうミュージシャンなんですか」と質問をした。

「あの人はすごいよ(略)ミュージシャンが全員、あの人と演ると乗りが変わっちゃうんだよ。すごい乗せ方なんだ、ともかく、音楽が変わっちゃうんだから」

坂本龍一「美貌の青空」

詞を書いている途中から、その内容やムードに金子國義さんの絵との親和性を見つけてしまい、金子画伯の「美貌の青空」というタイトル以外に考えられなくなってしまった(略)

[事後承諾にして「美貌の青空」というタイトルで坂本龍一に送る]

「タイトルおよび、使われている言葉、すべて気に入っています。このタイトルと、それから、現在書かれている言葉を変えないで、別の歌詞を作ってください」といった内容だった。

 それが可能だと思っているところに、ぼくは感動した。(略)

自分がその原稿の下絵に、ホモセクシュアルな匂いを入れていることを思い出した。

 その匂いを、本能的に感じとって、全部好きなのに、どこかが嫌いという結果になったのではないか、と思い当たった。あるいは、それがホモセクシュアルな歌詞だと直感したか。どちらかだった。

 どちらにしても、坂本さんの直感の精確さと強烈な本能に、ぼくは感動させられていた。

 ぼくは、同じタイトルで、同じ言葉を使って、別の物語を書いた。(略)

 トラック・ダウンが済んだ「美貌の青空」をカセットに入れて、毎日クルマで聴いていた。イントロからデモニッシュでエロチックな世界が目の前に出現するスリルにぼくは酔った。何てすごい楽曲なのだろうと、果てしなくため息が出る想いがした。当然、クルマに乗ってくる友人たちは、それを聴かされた。

 音楽に携わっている人たちは、一様に感嘆の声をあげた。特に面白い反応をしたのは、荻野目洋子さんで、クルマの後部座席から身を乗り出して、

 「売野さん、これ、どうしちゃったの!?誰?誰?誰なの?」と、デモニッシュなムードに感化されたように、突如騒ぎだしたりした。

(略)

[発売後]雑誌で鈴木慶一さんが(略)この歌詞は、90年代で最高の作品と早くも断言できる」といったことを書いてくださった。

(略)

[後日、金子に拝借を報告すると「そのタイトルなら、ぼくも、使ったことがあるわよ」という謎の回答。数ヶ月後、坂本に会うと、NYの書店で見つけて買ったよ、土方巽でしょ、と言われ、びっくり]

土方巽全集 1 『病める舞姫』『美貌の青空』 - 本と奇妙な煙

大友柳太朗

[「LA VIE」の撮影で]お迎えにあがったときは、駐車の仕方でマンションの管理人に理不尽な𠮟られ方をした。ワーゲンに乗り込んだ大友さんは、一部始終をインターフォンで聴いていたようで、「あの管理人は、草深き北海道の片田舎から出て来たばかりの者ですので、どうぞお許しください」と、両手を腿の上に置き、まっすぐ前を向いたまま深々と頭を下げた。

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2017-07-08 ラップは何を映しているのか 大和田俊之 このエントリーを含むブックマーク


ラップは何を映しているのか――「日本語ラップ」から「トランプ後の世界」まで

作者: 大和田俊之, 磯部涼, 吉田雅史

メーカー/出版社: 毎日新聞出版

発売日: 2017/03/27

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ラップの非政治化

磯部涼 トランプの勝利確定直後の混乱状態においては、「これは白人労働者階級の革命だ」なんてことが言われましたが、だんだんデータが出揃ってくる中で、トランプを勝たせたのは、むしろ、「アフリカ系やヒスパニックのようなマイノリティだ」という見方も出てきていますね。(略)

BLM[Black Lives Matter]を通して広まった、怒れるアフリカ系というカウンター・カルチャー的なイメージとはまた違った姿が、現実には存在しているということをあらためて突きつけられた。エイサップ・ロッキーの「ファーガソンの事件については話したくない。なぜなら、オレはソーホーとビバリーヒルズに住んでいるからだ」や、リル・ウェインの「BLMとはつながりを感じない。オレはヤング・ブラック・リッチ・マザーファッカーだからだ」、あるいは、カニエ・ウェストの「自分は投票に行かなかったけど、もし行っていたらトランプに投票していた」といった発言にも、「ラップ・ミュージック=政治的」という見方がいかにステレオタイプかということを思い知らされました。

(略)

選挙戦後のチャンス・ザ・ラッパーの「政治の話はしたくない」というような発言にも象徴される、ラップ・ミュージックの非政治化

(略)

[トランプの勝利を後押ししたのはカントリー・ミュージックのスターだという話もあるが]

『ザ・ガーディアン』によると、実際にはカントリーにおいても政治的な発言は避けられる傾向にある。それどころか、2016年の「カントリーミュージック協会賞」ではビヨンセを呼んでバランスをとりましたよね。

 全体的に見れば、ラップ・ミュージックもまた同様だと思います。つまり、アメリカの分断が深まる中、ポップ・ミュージックはそれを無難なかたちで避けようとしている。(略)

大文字の政治という意味では、「いま」を映さなくなってきたとも言えるのではないかと、あるいは、それこそが「いま」なのかもしれません。

政治的なラップ

吉田雅史 (略)個人的なリスニング体験としては、「ラップというのは政治的だ」というところから入ったんです。しかし、その後いろいろと聴くうちに、パブリック・エネミーのように啓蒙的にアジるだけではなく、ただ目の前に見える風景を描写するようなもののほうにこそ考えさせられることが多かったりもして。(略)

パブリック・エネミーの場合は、ネルソン・ジョージも指摘しているように、政治的なものが“カッコイイ”んだという見せ方が商業的に成功した。パリスにしても、見た目からしてかっこよく見えた。

磯部 ブラック・パンサーみたいな黒ずくめの。

吉田 そういうイメージも上手く活用しながら商業的に成功したものが歴史を作っている側面も大きい、ということだと思います。

大和田俊之 いや、それでもアメリカでは基本的に「ラップは政治的であるべきだ」という評価がいまでも主流だと思います。というか、そのあたりの言い方が難しくて、実際にサウスを中心とするメジャー・シーンはあるんですが、やっぱり多くの評論家はいまでも政治的なラップを評価したいと思っている。

磯部 そこでいう「政治的なラップ」とは?

大和田 ブラック・コミュニティの地位向上に貢献する、ケンドリック・ラマーを代表とするようなラップですね。

(略)

黒人だけでなく、むしろ白人が黒人音楽に政治性を求めてきた歴史がどうしても目立つんですよ。彼ら彼女たちは例外なくリベラルで良心的であって、黒人文化の評価という意味ではその功績も計り知れないわけですが、それがどうしても行きすぎてしまう。すると、政治的な黒人音楽は評価するけど、政治的でない黒人音楽は評価しない、というようになる。つまり、彼らにとって「正しい」黒人音楽と「正しくない」黒人音楽という価値基準ができるわけで、それは彼らがリベラルな価値観をマイノリティのカルチャーに投影してしまうからです。そしてそれは、日本の多くの音楽評論家にも共有されていた価値観だと思います。

コンシャス・ラップ

吉田 コンシャス・ラップと言う時、ジェフ・チャンによればそれはポリティカル・ラップに比較して「牙を抜かれた」ような存在であると。面白いのは、タリブ・クウェリが、コンシャス・ラッパーとレッテル貼りされてしまうと自身を狭めてしまうと言っていることです。

磯部 日本で言う「意識高い系」みたいなものだ(笑)。

吉田 まさにそうですね。コンシャス・ラッパーと名指されることは「死の罠」であり、いわゆるサブジャンルとしてのコンシャス・ラップが好きな層にしか聴いてもらえなくなると。現にタリブはロウカスからデビューした当初は、早口で非常にコンシャスなラップスタイルでしたが、次第にオンビートなラップスタイルでポップなほうへと移行してゆく。ここ最近では世の中の動きもあってまた政治的な方向へと戻っていますが、アメリカではケンドリックに代表されるポリティカルな方向性が戻ってくるまでの空白期間が長かった印象ですよね。


ヒップホップ・ジェネレーション[新装版]

作者: ジェフ・チャン, DJクール・ハーク, 押野素子

メーカー/出版社: リットーミュージック

発売日: 2016/09/16

|本| Amazon.co.jp

KRS・ワン

吉田 コンシャス・ラップというものを考えたときに、やはりKRS・ワンの存在は大きいですよね。彼はティーチャーと言われていますが、「ストップ・ザ・ヴァイオレンス」と言いながらもP・M・ドーンのことを公衆の面前で殴ったり、イェールやハーバードで授業を受け持つ機会があったりしつつも、黒人の生徒たちに、白人の作り上げた教育システムで学ぶことはないとか、黒人である以上まともな仕事に就ける保証などないと発言して、彼らを絶望させたりしてしまうんですね。そのような矛盾が言動に表れているんです。

 KRS・ワンは貧しい出自で、その底辺から自分を救ってくれたスコット・ラ・ロックという音楽パートナーであり命の恩人が殺されてしまったりということもあって、何も信用できない、キレイごとなんて言っていられないというところがあると思うんですが、まさにそのような矛盾がヒップホップにおいて「正しさ」とは何かを考える上で重要だと思うんです。

「The Message」(1982年)再考

磯部 ポリティカル・ラップについてということになると、やはり、グランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブの「The Message」の話をすべきだと思いますが、これはいわゆるアメリカのゲットーを描いた最初のラップだと言われています。ラップの内容も、この街はまるでジャングルみたいだ、どこに行ってもガラスが割れていて……。

吉田 ゴキブリがいて、ネズミもいて、外をバットを持ったジャンキーがうろついているぜという(笑)。

磯部 で、フックは、「押すなよ、オレは崖っぷちにいるんだから。必死で気が狂わないようにしているんだ」と。

(略)

70年代のラップ・ミュージックは政治的というよりは、政治から逃避するための音楽だった。世の中は酷いことばかりだからせめて楽しいことをしようという、要するにパーティ・ミュージックだったわけですよね。

(略)

吉田 (略)当時、ラップのバックトラックは、ディスコ・ミュージックの延長線上で、ディスコ・ラップとも言われていました。それに対して「The message」のサウンドはBPMも遅く、ディスコ・ラップからは完全に抜け出している。さらに、ラップをしているメリー・メルの最初のフックの入り方やセカンドヴァースなんかは非常にテンションを抑えていて。パーティ・ラップはその内容もさることながら、ラップの仕方もテンション高めでそれこそアゲアゲだったのに対して、「The message」のシリアスな語り口はその内容と呼応しているように見える。

磯部 ただ、それは結果的にそうなったという話で、重要なのは、この曲にはグランドマスター・フラッシュを始め、メンバーがほとんど関わっていないということですよね。もともとは、デューク・ブーティというパーカッショニストがデモ・テープを作って、それをシュガーヒル・レコーズ社長のシルヴィア・ロビンソンがグランドマスター・フラッシュ&ザ・フューリアス・ファイブに歌わせようとしたものの、彼らは、「こんな曲、パーティで受けない」と言ってやりたがらなかった。ちなみに、ヒットしたラップ・ソングの第一号であるシュガーヒル・ギャングの「Rapper's Delight」でも、シルヴィアがほぼ素人の若者を寄せ集めて、パクった歌詞をラップさせたという。そういった楽曲たちがラップ・ミュージックの歴史を変えてしまうんだから、皮肉ですよね。

吉田 それで、「The message」ではメリー・メルだけがしょうがないなとしぶしぶ歌って、他のメンバーは最後に寸劇みたいなもので参加して、MVでは口パクしている(笑)。(略)

要は、シリアスな楽曲がうけるんじゃないかというマーケティングの産物ということなんでしょうか。

大和田 前年の1981年にレーガン政権が誕生していますが、70年代以降のいわゆるポスト・インダストリアルな世界がとりわけニューヨークでわかりやすく可視化されていましたよね。つまり、黒人コミュニティ側に「The message」を発信するモチベーションもあったし、スラム化する都市の風景を問題化したいメディアにとってもタイミングがよかったということだと思います。

磯部 70年代末、ヒップホップはサウス・ブロンクスではすでに時代遅れのものになりつつあったそうなんてすね。(略)グランド・マスターフラッシュのところでさえ人が入らなくなっていた。それが「Rapper's Delight」のヒットで盛り返す。「The message」にしても、メンバーたちが「こんな曲、パーティでウケない」と言ったというのは、彼らの感性が古くなっていたということで、レーベルのほうが「いま」を的確に読めていたというのは興味ぶかいです。

吉田 そういう意味で売れたものが歴史を作っていくというのは妥当性があるわけですよね。アーティストだけに委ねているとシュリンクしてしまう可能性がある。


Pillow Talk: Very Best of

アーティスト: Sylvia

メーカー/出版社: Collectables

発売日: 1998/08/11

|CD| Amazon.co.jp

ギャングスタ・ラップ

磯部 (略)N.W.A.にしても、「暴力的で性的な黒人のステレオ・タイプ」を演じているという批判がブラック・コミュニティの内部からあったわけです。実際、歌詞を書いていたアイス・キューブはコンプトンの出身ではなく、大学にも通っていて、言わば外部の視線でもってギャングを描き、イージー・Eに演じさせた。だからこそフィクションとしてクオリティが高いものになって、白人にも受けたと思うんですが、ギャングスタ・ラップの元祖と言われるスクーリー・Dの「P.S.K. What Does It Mean?」なんかはギャングが自発的に、コミュニティを楽しませるために作っていたという側面が強いんじゃないでしょうか。(略)

吉田 最近話題の『ラップ・イヤー・ブック』の前書きをアイス・Tが書いているんですが、彼はスクーリー・Dの「P.S.K.」を聞いて、このような表現ができるのかとラップを始めたと言っています。(略)

さらに、1988に「ドープ・ジャム・ツアー」というエリック・B&ラキムやブギ・ダウン・プロダクションズなどの大御所とのパッケージ・ツアーで国を横断して、初めてファンの存在を認識したという。つまり、それまでネイバーフッド内の近視眼的な環境下で作っていたものだったと。

(略)

大和田 あと、ギャングスタ・ラップのイメージでいうと、映画『スカーフェイス』(1983年)が重要だと思うんですよ。(略)

 あの映画がウケたのは、舞台がマイアミに設定されているからだと思います。従来のギャング映画はシカゴやニューヨークなど都市の暗い路地でストーリーが展開する。(略)

都市の暗がりとは真逆の太陽が燦々と照りつけるマイアミで、コカインをめぐる暴力的でホモソーシャルなギャング間の抗争が描かれる。(略)それがまさに西海岸の風景と合致した。都市の路地裏ではなく、開放的なビーチ。ダーク・レディではなく、ビキニの女性たち。しかも、それまでのギャング映画がイタリア系移民中心だったのに対して、トニー・モンタナはキューバ移民、つまりヒスパニックという設定です。『スカーフェイス』のイメージこそがギャングスタ・ラップを準備したともいえると思います。


ラップ・イヤー・ブック イラスト図解 ヒップホップの歴史を変えたこの年この曲

作者: アイスT(序文), シェイ・セラーノ, アルトゥーロ・トレス, 小林雅明

メーカー/出版社: DU BOOKS

発売日: 2017/01/06

|本| Amazon.co.jp

ポスト・ソウル世代

大和田 (略)ライターのグレッグ・テイトが80年代の終わり頃に『ヴィレッジ・ヴォイス』に書いた記事が最初と言われてますが、要するに90年代以降、黒人コミュニティやその文化は「ポスト・ソウル」の時代に突入したというわけです。(略)

公民権運動やブラック・ナショナリズム運動が一段落したあとに成人した黒人を指しますが、彼らの考え方が、それ以前の世代とはまったく違うということなんですよね。

磯部 ノンポリになったということですか?

大和田 ノンポリにもなっているし、ブラック・アイデンティティをより流動的に、ハイブリッドなものとして捉えていると。アフリカ系アメリカ人のポストモダニズムという言い方をする人もいます。面白いのは、そのポスト・ソウルを象徴するヒップホップの曲として、アウトキャストの「Rosa Parks」が挙げられているんです。この曲、リリックもローザ・パークスとはほとんど関係ないというか、「バスの後ろにみんな行け」っていうラインがあるといえばあるんですが、基本的には「みんなで騒ごうぜ」としか言ってなくて(笑)、公民権運動の伝説的人物にあまりに無礼だということでローザ・パークス本人に訴えられるんですよ。

 ただ、多くの人がこの曲をポスト・ソウル世代の典型とみなすのは、その前の世代がどこまでも真面目にブラック・アイデンティティにこだわり、運動を繰り広げてきたのに対して、新しい世代はもう少し脱構築的にというか、わざとポピュラーでヴァルガーなかたちに落とし込むことで「Rosa Parks」という固有名を流通させる、そこにある種の戦略的可能性を見るからなんですね。

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2017-07-06 ジョン・レノン・その2 レイ・コールマン このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


ジョン・レノン

作者: レイ・コールマン, Ray Coleman, 岡山徹

メーカー/出版社: 音楽之友社

発売日: 2002/05/10

|本| Amazon.co.jp

ランチタイムのキャヴァーン

[ジョンは]やってくる“スーツ姿の男たち”をからかっていた。「黙れ、このスーツ野郎め」が彼の口癖で、近くの保険会社からお昼休みにやって来る、特にティーンエージャーに向かってそういう言葉を発していた。定職についているのをからかっていたのだ。

 [14歳の女学生]リズ・ヒューズは、(入場料が一シリングだった)キャヴァーンの昼休みに来る常連の一人だった。(略)

[彼女の]ような情熱と密度の濃さでその時期のほのぼのとした懐かしさにひたれる女性は、ビートルズの家族以外には、リヴァプールにはほとんどいない。

(略)

 「ジョンは常にこんな雰囲気を漂わせてました。万一、観客が死のうが、それは俺の知ったこっちゃないっていう印象をわたしたち子供に植えつけたんです。彼の態度はまるでこう言ってるようでした。『俺は気に入らなきゃやめるよ。自分がやりたいからここにいるんだ。お前らに見せてやってるんだぜ、金のためじゃないんだ』みたいな。

 彼はバイクから今降りてきたばかりというような格好でした。しわくちゃのズボンとかジーンズとか、それにタートルネックとか、いつも黒っぽい服を着てましたけど、決まってアイロンなんてかかってませんでしたね。(略)

ポールは別でした。いつも紳士で、きちんと小ぎれいな格好をしてて、どんな女の子でも自分の母親に紹介したくなるようなタイプでした。ポールはナイスガイの役をやってたんです。ところが、ジョンときたら、まるで野獣でした。女の子たちは彼からはちょっと引いて、怖がってました。何をしでかすか本当に分からなかったんです。

(略)

ジョージはすごく物静かでした。たいていの女の子が、彼はステージに上がるべきじゃないわねって言ってました。すごくアガってたからです」(略)

[楽屋で]ジョージが大切なブーツの先をいつまでも尖らせておくためにボール紙を入れているのが分かったりすると、彼女たちはくすくすと笑ったりした。(略)

ジョンは、さあ、おら入ってこいとせき立てておいて、さんざん自分が楽しむと、どうもありがと、じゃあバイバイって言うような人でした。女の子たちはみんな警戒心を持ってましたね。すごく怖そうな印象だったんです」

(略)

[ジョン]は曲の途中で、まったく歌と演奏をやめて、さしたる理由もないのにポールと話し始めたりした。そして、煙草に火をつけ、新しい曲の名前を言い、そして観客には一切説明せずにまた続けた。

 リズ・ヒューズはこう言っている。

 「まるで永遠に続くリハーサルでした。わたしの友達のディアダーは彼にお熱で、もし彼に話しかけられたりしたら、それこそ一マイルでも走り出したでしょう。(略)彼はどの女の子に対しても危険な存在で、だからこそすごく魅力的だったんです」

 「男の観客も彼には惹かれました。男の中の男という感じだったんです」とジム・ヒューズも認めている。「真似をしてた男も、何人かいましたよ。彼の足の構えや煙草の持ち方、股の開き方やら何から何まで真似ようとして、キャヴァーンの壁のあたりにたむろしてました」

(略)

苦渋の末に解散した、71年当時でさえ、ポールは自分の「最高のプレイはキャヴァーンの昼の部の演奏だった」と自ら告白している。

 「僕たちはチーズ・ロール一つと煙草を一本持ってステージに上がったけど、それでもあそこでは何かをやってるっていう感じがあった。アンプのヒューズが飛ぶと、そこでやめて、修理してもらってる間にサンブレスト・パンのコマーシャルを歌ったりね。寸劇もやった……

(略)

 レノンはほどなく、ランチタイムとなると毎日のようにステージを取り囲むようになった女学生の群れに“ビートルズ嬢[ビートレッツ]”というあだ名をつけていた。(略)叫び声を上げて曲のリクエストをしたり、彼らにコーラを持ってきたりしていた。

(略)

[ラリー・ウィリアムズ談]

 「わたしたちがまだ若過ぎて、お金をあまり持っていないのを分かってくれたのは、彼でした。ビートルズはそれぞれ一人だけはただで客をクラブに入れていい取り決めになっていて、わたしたちは最初から一緒にいたので無料入場券は君たちがもらうべきだとジョンが言ってくれたんです。それから、ある日のこと、彼は三ペンスでお茶を一杯ごちそうしてくれました。信じられませんでした。(略)みんな言いました。『あの男っぽいレノンが、あんたにお茶をおごってくれたって?どういう風の吹き回し?』ってね。『毎回来るお金がよく続くな?』ってジョンが言ってくれたからなんです。そりゃあもう大変で、その日のお昼もすっからかんだって答えました。そしたら彼が急に現われて、カップをわたしのそばに置いてくれたんです」

(略)

最大の問題はシンシア・パウエルだった。(略)彼女がキャヴァーンに入ってくるのをいざ目の当たりにすると、独占欲の強いビートルズ嬢たちは嫉妬と気恥かしさの入り混じった心持ちで女学生らしく真っ赤になったりした。

(略)

 シンシアがキャヴァーンに行くと、ジョンの態度はころっと変わった。

 「ステージで悪たれをつかなくなって、おとなしくなったんです。

スチュワートへの手紙

親友がドイツへ移住したような状態に、レノンはひどい孤独感を味わっていた。(略)

[こんな手紙を書いた]

何かを思い出すと必ず、悲しさがつきまとうんだ

自分でもほとんど気づかなかったぐらい奥にしまってた悲しみ

涙のおかげで自分自身の愚かさにやっと気づく深い悲しみだ

全部パクリだよ!

 私が知っていた頃のジョンが特に熱弁をふるっていたのは、ロックンロールあるいは彼とビートルズがやろうとしていた音楽にはオリジナリティは何もないということだった。「全部パクリだよ」と繰り返し言っていた。ジョンは音楽紙を読みながら、特にミュージシャンたちの突拍子もないカッコをつけたコメントを読みながら、その歌手やミュージシャンがオリジナリティを主張し出すと、突然、「こんなのはでたらめもいいとこだよ」と言い出したものだった。

 ジョンにとって、ロックンロールはまったくの模倣だったのだ。エルヴィス・プレスリー、バディ・ホリー、そしてもっと新しいサウンドのミラクルズやタムラ・モータウンこそ、本当の音楽だと言い続けていた。

 「僕たちはリスナーであって、それをイギリスの子供として解釈してただけなんだ。それがオリジナルだなんていうおためごかしは、お願いだから誰にも言わせないでくれ。ありゃあ全部パクリだよ!」

レコード人間

 ライブ演奏から何もスリルを得られなくなったのと同じように、ジョンは60年代には他のアーティストのステージにも興味を一切示さなくなった。(略)

「僕はレコード人間なんだ。レコードが好きなんだよ。好きなレコードの本人が実際に演奏するのを見ても、がっかりするだけなんだ。レコードと同じくらい良いライヴにはお目にかかったことはないね」

ファン

女の子たちは[ロールスロイスの]ドアや三角窓をどんどん叩いたり、道路をふさいだりもした。「ジョン、ジョン」と彼女たちは金切り声をあげた。ジョンは本を読み続け、一人の世界に閉じこもっていた。お抱え運転手が腹を立て、外に出て女の子たちをどけようとした。「放っとけよ」とジョンはぴしゃりと言った。「あの子たちが車を買ってくれたんだぞ。だから、彼女たちには壊す権利があるんだ」

僕たちは誰のコピーもしなかったんだよ

 ジョージ・メリーが黒人歌手の話題を出した時、ついにレノンとメリーはもう少しで殴り合いの喧嘩になるところだった。(略)

 「もちろん、同じ畑の人間だから僕と同じように感じてるだろうけど、マディ・ウォーターズやチャック・ベリーのような僕たちが歌ってるイディオムを発明した黒人歌手には足を向けて寝れないよな」

 ジョンは怒り狂った。彼はそういうたぐいの話は一切受け付けなかった。誰の影響も受けていないと言い張ったのだ。「連中を朝飯がわりにだって食えるさ……連中が作るものは、僕が作るものとは大違いだね」とジョンは酔った勢いで怒鳴った。(略)

[だが実際]ジョンは黒人と同じコンサートで歌う場合にはどこか複雑な心境だった。(略)

[64年のツアーにメアリー・ウェルズが同行した時]

ジョンは居心地が悪くなった。「黒人のアーティストが一緒に出てるっていうのに、〈ツイスト・アンド・シャウト〉を歌うのは嫌だよ」とジョンは私に言っていた。「何か違うっていう感じなんだ。あれは彼らの音楽だし、ちょっとバツが悪いよ。穴があったら入りたいね……こういう歌は彼らの方が数段うまいもの」

 ジョンに言わせれば「最後の一音まで僕たちの音楽アレンジをパクってる」他のビート・グループに対して、彼は容赦しなかった。(略)

 「ねえ、僕たちは誰のコピーもしなかったんだよ。僕は黒人じゃないから、黒人歌手のコピーはできない。生まれた時から聞いてきた音楽を土台にした僕たちだけのスタイルをバンドは持ってるし、僕たちが二年前にやってたサウンドのコピーをして便乗してるようなグループを見ると、腹が立つね。どうして僕たちがやったみたいに、独自のスタイルを作らないんだろ?ヘア・スタイルにしてもそうだよ。あるグループのプレイヤーなんか髪まで僕らとそっくりにしてる。

(略)

ビートルズと他のグループの違いは、僕たちはリヴァプールでうだうだやりながら、『いつかは有名になってやる』なんて言わなかったところだね。音楽は僕たちの人生の一部だったんだよ。やるのが好きだったからやってたんだ。単に金のためじゃないよ。他のグループと違って、僕たちは『見てくれ、俺たちはスターだ』なんて言いふらしたりしない。自分はちょっとばかし成功したリヴァプール出身の運のいいろくでなしだ、ぐらいに思ってるだけだ。

〈プリーズ・プリーズ・ミー〉

「メンローヴ・アヴェニューの伯母の家の寝室に座ってた時、ベッドの上にあったピンクのアイレット刺繍を覚えてる。ラジオでロイ・オービソンの〈オンリー・ザ・ロンリー〉をやってるのが、聞こえてきたんだ。僕はビング・クロスビーの歌で〈プリーズ〉という言葉を重ねて使ってるのが、おもしろいと思ってた。そこで、ビング・クロスビーとロイ・オービソンを組み合わせたんだ」

 ライターとしてのレノンは、他の歌の歌詞からある一節やフレーズをもぎとり、それを自分自身の曲で展開する名人だった。〈ラン・フォー・ユア・ライフ〉は、エルヴィスの〈ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス〉から来ているし、〈ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット〉は『白雪姫』からの一節だし、〈アイル・ビー・バック〉はデル・シャノンの歌のコード・バリエーションが基礎になっていた。

キリスト発言の経緯

モーリーン・クリーヴはジョンの友人で、何でも話せる親しい間柄だった。ジョンは彼女の知性を尊敬し、信頼し、ジャーナリストとして有能な彼女が、自分をポップ・ミュージックの範疇に収まらない、考え深い人間として扱うと、必ず何でも包み隠さずに話した。(略)

モーリーン・クリーヴはいつものようにレノンを思索家として扱い、ジョンがこう言うのを冷静にレポートしたのである。

 「キリスト教は消滅するよ。消えてしぼんじまう。議論の余地はないね。僕の言うのは正しいし、正しいと証明されるよ。今や僕たちはキリストより人気があるんだ。どっちが先に消えるか分からないけどね。ロックンロールが先かキリスト教が先か。キリストはいいんだ。だけど、弟子たちが愚鈍で、平凡なんだよ。僕から見ると、キリスト教を歪めてだめにしたのは、そういう連中だね」

 ジョンは宗教に関する本をよく読んでいると、彼女は報告した。霊験あらたかなるお言葉は、それでおしまいだった。

 四年間吹き荒れた過激なレノニズムにすっかり慣れっこになっていたイギリスは、この発言に反応を示さなかった。

(略)

発表され、忘れ去られてから丸四ヵ月が経って、「デイトブック」というアメリカの雑誌を通じてその記事が全米に配付された時、再びその問題が浮上してきた。

(略)

 アメリカからの警告の電話を受けて、ブライアン・エプスタインはすぐにニューヨークに飛んだ。直感的に彼は、ビートルズの安全を守るためにツアーをキャンセルしようと思った。しかし、もしジョンがアメリカで記者会見を行なって謝罪すれば、事態はおさまり、ツアーもできると言われた。ブライアンはウェイブリッジの自宅にいるジョンに電話した。ジョンの当初の反応はこうだった。「クソ食らえって、言ってやんなよ。謝る必要なんかないよ」。そして、ジョンはブライアンにツアーをキャンセルするように言った。「わざわざ出かけて行って、嘘をつくより、その方がましだな。僕が言ったことは本当だもの」

 反ビートルズ・キャンペーンの深刻さは、サリー州の自宅にこもっているジョンより、アメリカにいるブライアンには肌で感じられた。(略)

[このままでは]今度のツアーばかりでなく、永遠にアメリカでのビートルズの将来の見通しは暗いと、一歩も後に引かず、ジョンを丸めこみ、拝み倒した。(略)

 ブライアンも独自にニューヨークで記者会見を開き(略)記事の内容からまったくかけ離れて引用され、誤った解釈をされています[と弁明]

(略)

[ジョンが疲れきった顔でシカゴ到着]

 「ジョンが何を言うべきか、我々はかなり真剣に検討を重ねました。私の知る限り、ジョンは生まれて初めて、そしてたった一度だけ、喜んで謝るつもりでしたし、覚悟もできてました。それは珍しいことでした」

 しかし、プレッシャーのおかげで、ジョンは神経が参り、涙さえ流した。(略)

ブライアンはツアーの間にビートルズが暗殺されるのではないかと、それを恐れていた。

 ジョンはすぐに他の三人の安全を心配した。ジョンはうなだれ、両手で頭を抱えながら、声を出してすすり泣いた。「何でもするよ」と言った。「何でもさ。言わなきゃならないなら、何でも言うよ。このツアーが全部キャンセルになったら、他の三人に一体どんな顔をしたらいいんだい?僕一人のために、ただ僕が先走ったために。そんなつもりじゃなかったんだ」

(略)

 その夜、シカゴの記者会見でマイクを手にし、びくついたビートルズの臭いを嗅ぎつけて群がった報道陣を前にした時のジョンは、動揺しているようにも不安そうにも見えた。

 「もしテレビはキリストよりも人気があると言ったら、それですんでたはずだ」とまず切り出した。「でも、たまたまある友達と話してて、“ビートルズ”という言葉を、僕のイメージよりかけ離れたものとして言ったんだよ。他の人たちがイメージしてるような、違うビートルズとしてね。そのビートルズが、キリストも含めた他のものより、子供たちや何かに影響力を持ってると言っただけだよ。でも、言い方が悪かったんだね」

(略)

 それだけでは満足しないジャーナリストもいた。(略)

 ジョンは答えた。「まあ、元々僕は、イギリスについて事実を言ったんだ。イエスとか他の宗教よりも、僕たちは子供たちに影響力があるってね。宗教をけなしたり、こきおろすつもりじゃなかった。ただ事実を言っただけだよ。こっちよりむしろイギリスの事情についてね。僕の方が上だとか偉いと言ったんでもないし、人間としてのイエス・キリストとか、宗教としての神と比較するつもりで言ったんじゃないんだ。ただ思ったままを言っただけで、それが間違いだったんだ。あるいは、間違ってとられたんだ。つまり、そういうことだね」

 さっきブライアン・エプスタインとトニー・バロウと話し合った時に譲歩して言う予定になっていた謝罪は、はっきりとした形では出てこなかった。あるラジオ局のインタビュアーが核心に迫った。「要するに、あなたは謝罪する気があるんですか?」

 ジョンは自分ではそうしてきたつもりだった。困り果てて、顔は真っ赤になり、言い方はもっとはっきりしてきた。

「僕は神に反対でもないし、キリストにも、宗教にも反対じゃない。僕たちの方が偉いとか上だとか言ったんじゃないんだ。神の存在は信じてるけど、天上にいる男としてじゃない。いわゆる神は心の中にあるもんだと信じてる。だから、ビートルズの方が神やキリストより上と言おうとしたんじゃないんだよ。“ビートルズ”という言葉を使ったのは、その方が僕にとってはビートルズの話がしやすいからだよ」

 要するに、ジョンは謝ろうとしていたのだろうか?

 「世間に伝えられてる内容を僕は言おうとしてたんじゃないんだ。口にしてしまって、本当に申し訳ないと思ってる。ろくでもない反宗教的なことを言おうとしてたんじゃないんだよ。謝った方が、みんな喜ぶんなら謝るよ。いまだに自分が何をやったのか分ってないんだ。僕が実際何をしたのか説明しにきたんだけど、謝ってほしいんなら、その方がみんな喜ぶんなら、いいよ、僕が悪かった」

 マイクをがたがた言わせたり、新聞記者が電話に殺到するというお馴染みの光景の中で、記者会見は終わりを告げた。これまたお馴染みの流れとして質問攻めが続いたが、その中でジョンの例の舌鋒が再び顔を出したのをほとんどの人は大して気にとめなかった。ヴェトナム戦争へのアメリカの介入を、ジョンは非難した。(略)

[バッシングされている状況で]ヴェトナム問題に対する発言が目にとまらず、つけこまれずにすんだのは幸運だった。幸いにも、「レノンは謝罪した」というのが全般的なニュースの流れだった。こういうすったもんだを背景に、アメリカは抱きしめたくなるほどかわいらしく、耳あたりのいい、楽しいビートルズを再び受け入れた。

『サージェント・ペパーズ』

 エプスタインのパーティでのジョンは、やつれ、老けこみ、病的で、どうしようもないほど薬に溺れているように見えた。とろんとした目をして、話し方はのろく、はっきりしなかった。私はジョンと少し話をしてみたが、その時の彼は新しいアルバムが一般の好みから遠ざかり過ぎたのではないかと心配していた。

 「売れるかな?僕は気に入ってるし、みんなもまた一歩前進したと思ってるけど、売れるかな?」

 見るからにドラッグの影響下にあるジョンのまともさに、私はびっくりした。私たちは今の音楽状況について少し話をしたが、ジョンは頭から離れないドラッグのレコードがあるんだと言っていた。が、そのタイトルが思い出せなかった。ションは当時の他のポップ・ミュージックはすべて「くず」だと言っていた。「くず」はその頃のお気に入りの言葉だった。ジョンは食が細く、ヴェジタリアンのダイエットをしているとも言っていた。

(略)

 翌日、ジョンから電話があった。「帰ってからしょっちゅうかけているレコード思い出したよ。ほら、あのドラックのレコードさ、プロコル・ハルムの〈青い影〉だよ。ここしばらく聴いた中で最高の曲だね。エル(LSD)をやりながらかけると、もう、ふわーって感じなんだ」。この電話でいちばん驚いたのは、ジョンが前夜の会話をちゃんと覚えていた点だった。後にも実証するように、ドラッグをやっている時でも変わらない細かい部分に対する視覚や聴覚、そして記憶力は、注意散漫だと思っていた誰もを驚かせた。

2017-07-04 ジョン・レノン 伝記 レイ・コールマン このエントリーを含むブックマーク


ジョン・レノン

作者: レイ・コールマン, Ray Coleman, 岡山徹

メーカー/出版社: 音楽之友社

発売日: 2002/05/10

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アヴァンギャルド

[89-90年ワールド・ツアーのパンフでポールは]

「解散前の四、五年の間、くだらないアヴァンギャルドごっこを僕がやってたのをジョンは見てて、それをやっただけなんだ。彼はシンシアと離婚して、型にはまった生活を投げ捨てて、残念ながら、もうまったく手の届かないところへ行ってしまったんだ。ヘロインとか、そういうドラッグにはまって、もう正気の沙汰じゃなかったね。すごいドラッグを大量にやって、そしてある日突然、全部ぶちまけて、自分をむき出しにしたんだ。ジョンには、理解できない奇っ怪な一面があって、今までずっと心の中にしまってたものを、ある日突然、全部ぶちまけるようなところがあったね」

ゴールドマンのレノン伝記本への批判

イギリスの新聞で、この本の抜粋を読んだポールは、夏休みを返上して、本が発売される二週間前に声明を発表した。

 「ゴールドマンのような人間が、都合よく拡大解釈して、古くさいウソの山を積み上げているのに、恥も外聞もなく、その出版が許される状況にうんざりします。

 身近な親類を除けば、私は誰よりもジョンとのつき合いが長いのです。恐らく酔っ払って無防備な時に、ゴールドマンが言うような、同性愛者からの誘いがあったのかもしれない。しかし、ジョンに、その気はこれっぽっちもありませんでした。実際はその正反対で、ジョンは女性が大好きだったのですから。

 ヘロインについてですが、確かにジョンは、ドラッグにはまった暗い時期がありました。しかし、息子のショーンが生まれる頃までには、完全にドラッグとは縁を切って、他の人にもやめるように説得していたのです。

 私の言葉が、ショーン、ジュリアン、ヨーコ、ミミ伯母さん、その他親類の方々、そして世間の大多数のみなさんを安心させられるよう祈っています。

(略)

[シンシア談。インタビューを受けなかった理由は]

彼が書いたエルヴィス・プレスリーの伝記を読んで、この人には、執筆する対象への愛情はまったくなく、その人物の思い出をずたずたに切り裂くことしか頭にないのだなと気づきました。(略)そして、その通りになったのです。アルバート・ゴールドマンは、陰惨でグロテスクで悪い夢でも見ているような、人生の暗い部分を強調しているように見えます。わたしや多くの人たちが知っていた、また愛していたジョン・レノンがきちんと描かれていないような本に、わたしは加担したくありませんでした。

(略)

 ジョージ・マーティンはこう言っている。「死者を侮辱するような人間は最低だと思います。もしジョンが生きていたら、あんな本は出てこなかったでしょう。ウソの塊の本ですが、悲しいことに、ゴミにはハエがたかってしまうんです」そして、ゴールドマンの本は「便所紙」だと評した。

 そんなゴールドマンの本を支援したのは、メイ・パンだった。(略)

ゴールドマンの本は99%事実だと彼女は明言した。ジョンが骸骨のように痩せていたこと、コカインを常用していたこと。そしてヨーコが、彼を「世捨て人」に変えてしまったのだと非難した。

(略)

 作家のジョン・ウィーナーがまずゴールドマンの情報源をたどると、フレッド・シーマンとマーニー・ヘアーという二人の名前が上がってきた。シーマンは、かつてジョンとヨーコに雇われていた人物だが、ジョンのファイル、資料、個人的な日記、現金、ステレオ機器などを盗んだ重大窃盗犯だった。1983年、シーマンはその罪を認め、五年の保護観察処分を受けている。そんな人物が、信頼できる情報源となりうるだろうか? とウィーナーは問いかけた。同様に、マーニー・ヘアーも、ヨーコと法廷闘争を繰り広げてきたという経緯があった。

レノン本:いい本、悪い本

メイ・パンの『Loving John:The Untold Story(ジョンを愛した女/語られざる物語)』には、彼女がレノン家の秘書として働いていた頃と、後にジョンのパートナーとなった頃の経験が主に書かれている。ジョンとの交際は、本質的にヨーコによって導かれ、コントロールされ、終わりを告げたと、彼女は主張する。この本は、男女のセックスと人間のどろどろした部分を執拗に描きすぎている。

(略)

内容的に同一線上にあるのは、タロット占い師であるジョン・グリーンが書いた『ジョン・レノン最後の日々』だろう。この本でも、レノンは、過去に捕らわれて、芸術的才能に見放された男としてメロドラマ風に描かれ、「最後の六年間は、彼の人生で一番暗い時だった……曲を書くことさえおぼつかなかった」という扱い方をしている。

(略)

嬉しくも予想を裏切ってくれたのは、義理の妹ジュリア・ベアードのものだった。[邦訳『ジョン・レノン、マイ・ブラザー』](略)

ジュリアは、ジョンの思い出を、愛情を込めて振り返るだけではなく、正確に記録に残す必要があると決心したのだ。ゴールドマンの痛烈な攻撃の二週間後に発売されたジュリアの本は、ついにポール・マッカートニーの生きいきとした、世間を鼓舞するような序文まで引き出した。「すばらしい日々、すばらしい思い出、そのすべてを呼び戻そうではないか」とマッカートニーは書いている。

(略)

この本[『ジョンがポールと出会った日』]は、アメリカの作家ジム・オドンネルが八年間の調査を重ね、完璧にディテールにこだわりながらドラマティックな小説風に書いたものだ。

ジョンがポールと出会った日 - 本と奇妙な煙


ジョン・レノン、マイ・ブラザー

作者: ジュリアベアード, ジェフリージウリアーノ, 松井孝三

メーカー/出版社: CBS・ソニー出版

発売日: 1988/11

|本| Amazon.co.jp

シンシア・パウエル

[シンシアは]一番の仲良しであるヘレン・アンダーソンが明らかにジョンの髪を撫でているのを見て、自分がジョン・レノンに夢中だと気づいた。(略)

 ジョンよりも一つ年上で、まじめでおカタい美術学生だったシンシア・パウエルは、他の学生から見れば、ジョンの相手にはどうにも似つかわしくなかった。(略)

シンシアにはジョンの心を惹きつける四つの大きな魅力があった。

 一つには、彼女にはジョンが好きでたまらないブリジット・バルドーのようになる可能性があったこと。(略)

ジョニ・クロスビーという女子学生は一番バルドーに似ていて、レノンは食堂で彼女に言い寄った。お茶の時間に、来る日も来る日も彼はヘレン・アンダーソンにこう言っていた。「ちくしょう、彼女はイカすな。ブリジット・バルドーそっくりだぜ」。二つ目は、シンシアが川向こうのウイロール地区に面した、お高くとまったホイレイク出身であり、彼女がスマートなお行儀のいい話し方をしたため、ウールトン出身の男にとっては高嶺の花に思えたこと。

 三番目はシンシアが見るからにこっちに夢中で、自分を喜ばせるためには、茶色の髪をブロンドに染めたり長く伸ばしたり、それこそ何でもしてくれたこと。そして四番目は、これが決め手なのだが、彼女が物静かだったことだ。(略)

大学の異端児レノンは、えらくクールで一味違っていたシンシアに心魅かれたのだ。

スチュアート・サトクリフ

 「彼はべっこう縁の眼鏡をかけたすごいニキビ面で、ジョンとまったく同じように、眼鏡の端をテープで留めていました。学生としては、ジョンとはまったく正反対でした。死ぬほど勉強熱心で、身も心も作品に俸げてました。ろくすっぽ食べないし、女の子たちともあまり付き合ってませんでした。彼にとっては作品が一番大事だったんです」

 スチュアートとジョンがだんだん仲良くなるにつれ、スチュアートはレノンにずばずば物を言うようになった。シンシアはこうも言っている。

 「ジョンはスチュアートをすごく必要としてました。トニー・キャリッカーとジェフ・モハメッドという二人と一緒に悪の道に入りこもうとしていた時も、馬鹿じゃないですから、ジョンは多分分かってやってたと思います。くだらないことばかりするのはやめて、もっと美術に身を入れろ、とジョンを説得したのはスチュアートでした。スチュアートの作品を見た時、ジョンはそれに触発されました。彼はもっとまじめに絵を描くようになり、大きなキャンパスに向かい出したんです。それまでの彼は小さな漫画とか、比較的小さい物ばっかり描いていたんです。(略)

ジョンもついに自分の進むべき道を教えてくれる相手を見つけたんです。大学が終わっても、スチュアートはジョンと一緒にいて、こんなことを言ってました。『悩まなくていいよ。あそこを少し、ここを少しと、ただ塗ったくってりゃいいんだ』。それまでのジョンは、つねに慎重で用心深くて、細かいことにこだわっていたのにです。スチュアートは絵が三度のご飯よりも好きだったし、二人の心はぴたっときたんですね。ジョンははた目にもスチュアートを尊敬してましたし、スチュアートもジョンを画家として育てようとしてたんです」

 しかし、興味の大部分を占めていた音楽というものからジョンを引き戻すには、もう手遅れだった。

読書、ラジオ、ジョージ伯父さん

 四歳半の時、ジョンは[伯父の]ジョージから読み書きを教わった。ジョージは膝の上にジョンを座らせ、毎晩「リヴァプール・エコー」紙を読ませたのだ。

 「単語の一音節ごとに、ジョージは読ませて、ちゃんと呑み込むまでやったんです。(略)

 ジョンが生涯を通じて、新聞をよく読んだのは、その時についた癖のせいかもしれない。新聞を読んではずいぶん歌詞のアイディアをもらった[とジョンは言っていた](略)

 ジョンの幼年時代は一切オモチャを与えられなかった。(略)

ジョンは本が大好きだった。特にお気に入りだったのはリチマル・クロンプトン作の『ウィリアム登場』のシリーズで、いたずらだがユーモラスな主人公の少年に自己を投影していた。『不思議の国のアリス』もお気に入りのひとつだった。彼はそれを何度も読み返して、ついに暗誦できるまでになっていた。ミミの話によると――

 「あの子はゲームやオモチャにまったく興味を示しませんでした。わたしは全二十冊の世界短篇傑作選を持ってましたし、二人とも本が大好きだったんです。ジョンは何度も何度も読み返してましたね。特にバルザックが好きでした。後年のあの子の歌詞の中にはずいぶんバルザックの影響があると思いましたね。ま、とにかく、あの子は十歳になるまでにほとんどの古典を読破してました。想像力がたくましくて、自分でお話を作っては、二人でその話をしたりしました」

(略)

「映画にも熱中しませんでした。小さい時のあの子は本当に手がかからなくて、あまりねだりませんでした。

(略)

 特にお気に入りの[ラジオ]番組は二つあって、毎晩六時十五分からやるスリラー・シリーズ『スペシャル・エージェント、ディック・バートン』と『ザ・グーン・ショー』だった。ミミは言っている。

 「ディック・バートンが窮地に追いつめられると、あの子の顔は死人みたいに真っ青になったもんです。心配でじっと座ってられなかったんですね。放送中は、ジョージもわたしも一言もしゃべってはいけなかったんです。それから、グーン・ショーの場合は、あの子はしょっちゅう彼らの訛りを物真似をしてました。『僕は有名なソロモンだ』とかなんとかジョンは言って、いろんな訛りを次々に物真似してみせて、もう気が変になりそうでしたよ。あの子は、そういう言葉のお遊びが大好きでした。

(略)

 幼児向けの郵便局セットで、ジョンはジョージ伯父さんによくこんな手紙を書いた。

「親愛なるジョージ、今晩はミミじゃなくて、あなたが僕を洗ってくれませんか?」

(略)

「ジョージはジョンが小さい頃、何でも言う通りにしてやってました。二人はとても仲良しでした。毎日のように、ジョージはあの子を寝かしつけてやってたんです」

リヴァプール訛り

「わたしはあの子の訛りを叱ったんです。(略)『あのリヴァプール訛りは何なの。ジョン?あんなしゃべり方をするように育ては覚えはありませんよ。ちゃんとしゃべれるくせに』って」

 ジョンはただじっとミミの顔を見て、指でお札をめくる格好をしながらこう答えた。「問題はお金だよ。ファンのほうがそういうしゃべり方をしてほしいと望んでるんだ」

ジョンからの手紙

 1967年、一人のクオリー・バンクの学生スティーヴン・ベイリーが、ジョンに手紙を出した。1967年といえば、ビートルズと麻薬服用に関する騒動がピークに達していた年であり、画期的ニュー・アルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』がリリースされた年だった。ほとんど返事を期待していなかったその少年は、そのアルバムの歌についていくつか質問をしたり(略)[ロシア語をカリキュラムに加えた母校の革新性などを伝えた]

(略)

親愛なるスティーヴン様

 クオリー・バンクはあまり高等な学校ではなかったので、変化があったとすればそれは結構なことです。その雑誌を一冊送ってもらえませんか?僕の書くものはすべて笑ったり楽しんだりするために、あるいは何のためにと勝手に言ってくれてもいいですが、いつもそのために書いてきました。僕はとりあえずそのために書くのです。人がそれを後になってどんな風に解釈しようと、それはそれで勝手ですし、必ずしも僕の思惑と一致する必要もないのです。これはどんな本や創作、絵、詩、歌についても言えることです。あらゆる形式の芸術にまつわる謎や嘘っぱちは、とにもかくにも打ちくだく必要があります。それは現代の風潮を見ても、きっと明らかでしょう。いやというほど言い尽くされたことです。

 “ミスター・カイト”の歌は、ヘンダーソン劇場のも含めて、古い劇場用ポスターからほとんど丸ごともらったものです。

 バートン氏[ジョンと折り合いのよかった進歩的な国語教師]はまだそこにいるんですか? もしいたら、よろしく言って下さい。彼は、僕を理解してくれて、また僕の方でも理解した最良の先生の一人でした。

 ロシア語ですって? 僕の頃にはありませんでした。変われば変わるもんですね。まさか経験と後学のために、先生は君たちをコールダー[よく遊びに行った隣りの女子高]にも行かせてくれたなんて言わないでしょうね。

(略)

僕を美術学校に入れてくれたボブジョイ氏にもね。あそこでも落第できたのは、彼のおかげです。彼にはいくら感謝しても感謝し足りません。

ロニー・ドネガン

 ジョンが立ち上がり、目立つためのファンファーレがプレスリーだったとしたら、ジョンが16歳だった1956年、同じように彼の人生の大いなる刺激剤になったのはロニー・ドネガンだった。(略)

ジャズ畑出身らしくスーツとネクタイという身だしなみのよいドネガンの存在を、誰も流行の先端とは考えなかった。鼻にかかった声でギターとバンジョーを弾く彼は、ウディ・ガスリーやハディ・“レッドベリー”・レッドベターといった偉大なアメリカのフォーク歌手の曲を妙なイギリス流に解釈して人々を魅了した。(略)

ドネガンの音楽はスキッフルと名付けられ、彼は〈ロック・アイランド・ライン〉というレコードで、イギリスの若者たちを熱狂させた。

 イギリスのポップ・ミュージックにおけるドネガンの影響は、計り知れないものがある。彼のスタイルは基本的なスリー・コードで、コピーしやすく(略)何十万という若者が自作の音楽を始める火付け役となった。サウンドは重要ではなかった。一番大事なのは、その手軽さだった。つまり、ギターは歌い手が役者になるための小道具だったのだ。こうして、多くの若者たちから手作りのロックンロールが生まれた。

クオリー・メン

 このニュースをマッカートニーに伝えたのは、ピート・ショットンだった。「ジョンが君をグループに欲しがってる」と、ある日、アラートンのゴルフコースでサイクリングをしながら、ショットンはマッカートニーに言った。マッカートニーは冷静だったが、喜んだ。それから二ヶ月後、彼はクオリー・メンに参加することになるのだが、その時はこう言うだけだった。

「これから、ボーイ・スカウトのキャンプに行くんだ」

〈ペギー・スー〉

ポールとジョージと合流した大学のお昼時のセッションが、一度だけ、際限なくふくれ上がる人だかりを作ったことがある。授業中はジョンを乱暴者と思っていた学生たちも、別人のような学食での彼の中から湧き出てくる音楽を聞いて、目を白黒させた。お決まりの曲目は、〈ペギー・スー〉〈グッド・ゴリー・ミス・モリー〉〈リップ・イット・アップ〉〈オール・アイ・ハフ・トゥ・ドゥ・イズ・ドリーム(夢を見るだけ)〉、そしてフィナーレは、いつもジョンがかん高いチンピラっぽい声で歌う〈ホエン・ユア・スマイリング〉だった。シンシアは言う。(略)

何人かの学生たちが、こう言ってたのをわたしは覚えてます。『驚いたなあ、あのジョン・レノンはまるで別人だぜ』。ぼろぼろのギターを抱えて歩き回ってた彼を、みんなは厄介者と思ってたんです。それが急に、ソフトでメロディアスな音楽を演奏してるところを見て、彼の奥の深さを知ったんですよ」

ドラッグ&乱交神話否定

[アストリッド談]

 「ジョンとはしょっちゅう一緒にいましたけれど」と彼女は言う。「誰にも自分の中には立ち入らせませんでした。薬を飲んだ時だけです、彼が自分をさらけ出したのは」。そしてドラッグに関する記録を正すために、こうも言っている。

 「ドラッグですって?ちゃんちゃらおかしいですよ。ビートルズがハンブルクに来てる間、彼らが薬漬けになってたなんて記事はでたらめもいいとこです。わたしたちはまだ子供だったんですよ。特にジョージなんか17歳の赤ん坊でしたよ。せいぜいビールを飲むぐらいが関の山で、それもビールが一番安かったからです。そんな時に、仲間の一人がプレルジンというあの小さな薬を見つけたんです。あれは覚醒剤で、飲むと空腹感が全然なくなるんです。わたしたちは痩せ薬と呼んでました。ビールといっしょに飲むと、最高にいい気分になるの発見したんですよ。(略)

一つ50ペニヒで、わたしの母がよく薬局から手に入れてきました。(略)

 一晩で一錠半飲んでました。7、8時間保つんですね。ジョンと一番よく話したのは、その覚醒剤を飲んだ時でした。(略)あの薬を飲むと気持ちがほぐれるんです。(略)

『僕の今の気持ちをすごく言いたいんだ。君も大好きだし、ステューも大好きなんだ』って。薬がないと、決してこんな風に正直にはなりませんでしたね。(略)

でも、ハンブルク時代でのジョンが薬でもってたなんていう言い方は、でたらめもいいとこです。もっと深い部分で頑張ってたんですから」とアストリートは力をこめて言っている。

 ビートルズ神話によると、ハンブルクヘの旅行中、五人の若者は乱交に明け暮れ(略)常に覚醒剤でラリって、売春婦を利用しながらリーパーバーンの危険区域を暴れ回る五人のリヴァプールの田舎者として描かれてきた。

(略)

「娼婦ですって!」彼女は笑い出した。「第一に、あの人たちは恐がって娼婦には近づこうとしなかったし、第二にそんなお金ありませんでしたよ。三番目は(略)そんなに不自由してなかったんです。(略)寝たがっている女の子たちが、クラブにたむろして待っていたんですからね。でも、乱交なんてものじゃありませんでした。

(略)

店の売り子とか、工員とか、わたしみたいな学生でした。

 ビートルズは五人のかわいらしい無邪気な若者で、女の子たちが自分たちに恋するのが信じられなかったんです。確かに時折浮いた話もありましたけど、彼らの行動に無謀なところなんて絶対ありませんでした」

次回に続く。


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2017-07-02 みみずくは黄昏に飛びたつ 村上春樹 このエントリーを含むブックマーク


みみずくは黄昏に飛びたつ

作者: 川上未映子, 村上春樹

メーカー/出版社: 新潮社

発売日: 2017/04/27

|本| Amazon.co.jp

比喩

昔、ある評論家が、きっと村上春樹はノートにいっぱい比喩を書きためているはずだ、って言ってたけど、そんなことはない(笑)。そんなノートありません。(略)

[ぱっと]出てきます。必要に応じて、向こうからやってくるみたいな感じで。(略)

ぱっと出てこない時は、比喩は使わない。無理に作ろうとすると、言葉に勢いがなくなっちゃうから。(略)

距離感が大事ですね。お互いにくっつきすぎても駄目だし、離れすぎても駄目だし。そういう風に論理的に考え出すとむずかしい。非論理的になるのがいちばんです。(略)

比喩に関しては、だいたいレイモンド・チャンドラーに学びました。(略)

比喩っていうのは、意味性を浮き彫りにするための落差であると。だからその落差のあるべき幅を、自分の中で感覚的にいったん設定しちゃえば、ここにこれがあってここから落差を逆算していって、だいたいこのへんだなあっていうのが、目分量でわかります。逆算するのがコツなんです。ここですとんとうまく落差を与えておけば、読者ははっとして目が覚めるだろうと。読者を眠らせるわけにはいきませんから。そろそろ読者の目を覚まさせようと思ったら、そこに適当な比喩を持ってくるわけ。文章にはそういうサプライズが必要なんです。

[僕も『多崎つくる』読んだ時に、村上作品のフェラってそういうことだったのかと思ったんだけど、聞き手の川上未映子のそこへのツッコミに対する春樹の反応が完全否定で、ちょっとコワイw]

――(略)村上さんの小説のおけるセックスというものは、何かしら儀式的な、精神的なものの入り口として機能している場合が多い。そこに男性、いよいよ男性がそこに登場した、みたいな驚きがありました。それについても、あんまり意識はせずに?

村上 全然意識はしなかったし、とくに何か違うところがあると僕は感じないんだけどね。何かありましたっけ?

――ありましたよ。つくるが、灰田さんの口の中に射精するんです。

村上 あったっけ? そんなの。夢で?(略)

――はい、夢を見るんです。シロとクロと呼ばれていた女の子と三人でセックスしている夢を。それで、最後の射精がなぜか灰田さんの口の中という。

村上 全然覚えてませんね、そんなこと。

――いま村上さんの無意識に仄かに触れたような感じもあるんですけれど(笑)。ともかく、そういうシーンがあったんですよ。そこで読者は、これまで女性がそういった何か無意識の領域で何かを導いたり、何かの入り口になったりしてきたことはあったけれど、今度は初めての男性相手で、もしかすると、自分自身の影みたいな存在に向かって放ったのではないかと。

村上 全然覚えてないな。だから、たぶん意識もしてなかったんだと思います。

僕が文章を書くときの基本方針

あのね、僕にとって文章をどう書けばいいのかという規範は基本的に二個しかないんです。ひとつはゴーリキーの『どん底』の中で、乞食だか巡礼だかが話してるんだけど、「おまえ、俺の話、ちゃんと聞いてんのか」って一人が言うと、もう一人が「俺はつんぼじゃねえや」と答える。(略)普通の会話だったら、「おまえ、俺の話聞こえてんのか」「聞こえてら」で済む会話ですよね。でもそれじゃドラマにならないわけ。「つんぼじゃねえや」と返すから、そのやりとりに動きが生まれる。単純だけど、すごく大事な基本です。でもこれができていない作家が世間にはたくさんいる。僕はいつもそのことを意識しています。(略)

もう一つは比喩のこと。(略)これは何度も言っていることだけど、もし「私にとって眠れない夜は稀である」だと、読者はとくに何も感じないですよね。(略)でも、[チャンドラーが]「私にとって眠れない夜は、太った郵便配達人と同じくらい珍しい」というと、「へぇ!」って思うじゃないですか。(略)それが生きた文章なんです。そこに反応が生まれる。動きが生まれる。

言葉の響き

言葉の響きって大事なんです。具体的なフィジカルな響き。たとえ声に出さなくても、目で見て響かなくちゃいけない。(略)

目で響きを聞き取れないとダメなんです、作家は。文章を書いていて、それを読み直して、声に出してではなく、目で響きを感じる、これがすごく大事です。だから、僕はいつも「音楽から文章の書き方を学んだ」というけど、それは本当のことで、目で見て、その響きを感じて、その響きを訂正していって、よりきれいな響きにしていくということを大事にしています。句点、読点もリズムじゃないですか。そういうのもすごく大事なんだ。

女の子に手を引かれた思い出

僕が中学校とか小学校高学年の頃、不思議にね、女の子に手を引かれた思い出があるんです。突然女の子がやってきて、僕の手を取って、どこかに連れていく。(略)

[付き合ってるとかじゃない]クラスの女の子。(略)わりにかわいい女の子。それが「村上くん、ちょっと」という感じで手を引いて、僕をどこかに連れていく。たぶんなにか用事があったと思うんだけど、それがどんな用事だったかよく覚えていない。そういうのが二、三回あったかな。(略)

僕の場合、とくに女の人にモテたとか、不特定多数の女子に人気があったとか、そういう経験はまったくない。自慢じゃないけどない。でもそういう、どこかの女の子に、手を引いてどこかに導かれていくという記憶だけはわりにしっかり残っているんです。(略)

[快/不快でいうと]わりにいい感じだと思う。今でもまだその女の子の手の感触は残っているから。そんなたいした体験じゃないんだけど。

――いえ、これは重要な体験ですよ。女性の存在の原型として、村上さんには導かれる体験があった。(略)書く段においては、基本的にそういう存在として、村上さんの中にあるわけです。

そう言われれば、女の子が突然現れて、僕の手を引いてすっとどこかに連れていくという感覚は、僕の中に残っているかもしれない。そういうことはあるんだという感覚が、原体験として。

自分の影に触れる

ジョセフ・コンラッドがどこかで書いていました。作家は、自分ではすごくリアリスティックに物語を書いているつもりでいて、いつの間にか幻想的な世界を書いてしまっていることがある、と。つまりそれはどういうことかというと、コンラッドにとって、「世界を幻想的に非論理的に神秘的に描くこと」と、「世界は神秘的で幻想的であると考えること」はまったく別のものなんだということなんです。そういう自生的な乖離がある。(略)

例えば僕は、「この世界が神秘的で幻想的な世界だ」とはとくに思ってはいません。超自然的な現象もとくに信じないし、怪談とかオバケとかそういうこともとくに信じない。(略)

でも、僕にとっての物語をどこまでもリアリスティックに描いていこうとすると、結果的にそういう非整合的な世界を描くことになってしまいます。わけのわからないものがどんどん登場してきます。それが、「世界を神秘的、幻想的と考える」ことと「世界を神秘的、幻想的に描いてしまう」ことは別の話だという発言の意味です。(略)

その乖離というか、落差みたいなものの中に、自分の影が存在しているんじゃないかと僕は思っています。だからこそ、乖離というものが僕にとってはとても大事な意味を持ちます。僕が小説を書くときにやっているのは、僕のまわりにある世界を少しでもリアリスティックに、写実的に描こうという、それだけのことです。(略)

[でもそうすると幻想的なものが出て来て、人によっては]おとぎ話みたいなものじゃないかと考えてしまうわけだけど、僕にとってはそれは、どこまでもマジにリアリスティックなものなんです。(略)

その乖離はどこからなぜ出てくるのか、それを知ることが、自分の影を見ることの手助けになるのではないかというふうに僕は思っています。

(略)

その意味は分析の中にあるのではなく、行為そのものの中にあるんです。(略)僕にとっては、行為総体が分折を含んでいなくてはならないんです。行為総体から切り離された分折は、根を引っこ抜かれた植物のようなものです。(略)

だからできるだけスタティックな分析には手をつけないようにしている。それよりは物語のダイナミズムの中で、できるだけ流動的にものごとを眺めようとしています。

(略)

現実の側だけから物語を解釈しちゃうと、ただの絵解きになっちゃいます。

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