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2017-08-30 明治のワーグナー・ブーム 近代日本の音楽移転 このエントリーを含むブックマーク


明治のワーグナー・ブーム 近代日本の音楽移転 (中公叢書)

作者: 竹中亨

メーカー/出版社: 中央公論新社

発売日: 2016/04/19

|本| Amazon.co.jp

明治のワグネリアン

 時期はだいたい明治30年代の半ばあたりである。ワーグナーの魅力の虜になり、楽劇に熱狂した人々が俄然、多数現れた。彼らは熱に浮かされるように、この新しい総合芸術の崇高さを語ったのである。その広がりと熱度は、中村洪介は「ヴァーグネリアン・ペスト(略)が猖獗を極めた」と評するくらいである。

 今、中村にしたがって、このペストに罹った文人の名を挙げてみるなら、島崎藤村、上田敏、永井荷風、石川啄木、北原白秋、高山樗牛、島村抱月などとなる。

(略)

 彼らはどんなふうにワーグナーに熱中したのだろうか。好例は石川啄木である。早熟な啄木がワーグナーに熱中し出したのは17歳のときであった。当時彼にとって、ワーグナーは、「空前の模範と、人類の帰趨に対する宏大な予言、教理とを遺して逝いた偉人で」あった。この偉人に心酔するあまり、少年啄木は気宇壮大な計画を立てる。ワーグナーの思想を受けついで自ら発展させ、一箇の文明論を執筆しようというのである。

 この計画は、結局は実現しないままに終わるが、啄木のワーグナーヘの傾倒は、音楽や芸術という領域をはるかに越えた、全面的なものだったことが分かる。またその熱中ぶりはほとんど拝跪に近いものであった。実際、啄木は、ワーグナーの写真を自室の床の間に掛けていた。(略)

永井荷風は下町趣味で名高いが、実は若き日の欧米滞在時にクラシック音楽にかなりのめり込んだ。(略)

[NY滞在中の1906年]「トリスタンとイゾルデ」を観る。そして次のように日記に記す。「余は深き感動に打たれ詩歌の極美は音楽なりてふワグネルが深遠なる理想の幾分をも稍々窺得たるが如き心地し無限の幸福と希望に包まれて寓居に帰りぬ」

姉崎嘲風

姉崎こそ、ワーグナー・ブームの火付け役というべき人物(略)

宗教学者である。東京帝国大学の教授を長く務め、日本の宗教学の基礎を築いた。(略)学生時代の親友に高山樗牛がいる。姉崎は樗牛が早世するまで、ずっと密な交友を保った。

 姉崎は三高時代からドイツに強く傾倒し、ドイツ語を熱心に学習した。熱が昂じるあまり、ついには「夢伯林士」と号したくらいである。今日なら定めし「ベルリン・ドリーマー」とでもいうところか。(略)

[1900年から三年間ドイツ留学、ベルリンで「ラインの黄金」を観て、ワグネリアンと化す。その興奮を樗牛に宛てた公開書簡の形で『太陽』に掲載]

 樗牛は当時、文壇の寵児であり、とりわけ若い世代に絶大な影響力を誇っていた。彼の著作は必読書扱いであり、「青年学徒の必ず通過する人生鉄路の停車場」のごとき観があった。こうして、ワーグナー熱が一気に燃えさかった。

(略)

しかしある一点において、明治のブームには、今日と異なる、きわめて奇妙なところがあった。(略)

 それは、明治のワグネリアンのなかで、ワーグナーの楽劇の舞台をわが目で観たことのある者はほとんどいなかったという点である。

(略)

上演の場となる劇場もなければ、舞台を作る演出、舞台美術、照明技術などもなかった。ソリストも足りなければ、合唱もオーケストラも満足に揃わなかった。つまり、何もかもがないない尽くし、だったのである。

(略)

 では、明治のワーグナー・ファンはいったいいかにして楽劇を経験したのだろうか。念を押しておきたいが、彼らが渇仰したのは楽劇なのである。ワーグナーの音楽なら何でもよかったのではない。それは、先に紹介した幾多の崇拝の言を見ればわかろう。

 なるほど、蓄音機はあるにはあった。だが、録音技術が幼稚きわまる段階であって、楽劇のような複雑で長時間の楽曲は完全に論外である。そもそも、洋楽のレコードは明治末年でもまだ発売されたことがなかった。といって、在外経験のあった者は鴎外や荷風など、一握りにかぎられる。とすれば、ワグネリアンの圧倒的大多数には、楽劇を観る術がなかったという結論にいたらざるをえない。

(略)

中村洪介が「ヴァーグナー聴かずのヴァーグナー論者を多数生み出」したと言うのは、まさにそのとおりなのである。

近代日本の音楽移転

音楽移転がこれほどのスピードと深さで進行した例は、他にほとんどないといってよい。洋楽が日本にもちこまれたのは幕末の開国期のことである。それから100年もしないうちに、日本の音楽文化は――むろん、日本風にアレンジを加えた面が多々あるが――すっかり西洋風に変わった。

浄瑠璃の家元が洋楽を学ぶ

 明治の初年、東京上野の山上に音楽取調掛なるものがあった。役所のような名前だが、実は当時はここで洋楽が教えられていたのである。(略)

 さて、ここで学ぶ生徒のなかに、すでに50歳も過ぎた禿頭の男性がいた。(略)この老人、実は四世豊前太夫と名乗る富本節の家元であった。(略)

 浄瑠璃の家元が洋楽を学ぶとは奇妙な話である。しかも、事典の類によると、四世は富本流中興の祖といわれたほどの名人だったらしい。(略)

 彼の意図はともかくとして、この師匠、取調掛の教室では奇癖をもって始終、教師を悩ませていた。というのも、唱歌を習っている最中、メロディーが一息つく箇所になると決まって、師匠は「ヤーホイ」とか「ヤッ」と合いの手を発するのである。教師は再三、これをたしなめるのだが、何せ幼いころからの習い性である。考える前に口が動いてしまう。結局、豊前太夫はこの癖を直せないまま卒業したという。

 いささか滑稽な光景ではある。同時に、舶来の響きを懸命に学ぼうとする当時の日本人の姿には、一種の健気さすら漂う。ただ、それはそれとして、豊前大夫には定めし勉強は大変だったろうと思わざるをえない。(略)

 まず、音程のとり方が彼には容易ではなかったはずである。西洋音楽で使用する平均律の音階は、日本の在来音楽のものと音高が異なる。(略)

[さらに]師匠のなじんできた邦楽では、そもそも和声という観念がない(略)[邦楽では]めいめいに音を出すだけで、互いに共鳴させることはない。

 リズムという洋楽の拍も戸惑いである。曲があのように規則的に、しかも強弱の拍を打つなど、師匠の知らない世界である。(略)[邦楽なら]「間」であろうか。しかし、間は音の長さの加減で生じるものであって、強弱ではない。

日本人にとっての西洋音楽

洋楽に当惑したのは豊前太夫ひとりではなかった。西洋音楽の響きは当時、だれにもまったく耳新しかったからである。(略)

[1860年幕府の使節団がハワイに到着]

一行は国王に謁見し、その後夜会に招かれた。夜会では当然、社交ダンスがある。生まれて初めて見るダンスであり、初めて聴く西洋音楽である。一行はどう感じたか。「其様唯飛廻るか如くにして更に面白からず、鼓の音騒々たるのみ」というのがその感想であった。ただ、男女が跳ね回っているだけで、何が面白いのか分からないし、ただドラムがうるさいだけだ、というのである。

 一行はさらに、あるアメリカ人の家庭に招持された。遠来の客のもてなしにと、その家の主人が娘にピアノと歌を披露させた。(略)

 若い娘だけに、ソプラノの高い声だったのだろうが、使節団副使の村垣淡路守範正の耳にはどうしても、夜中に夢うつつに聞く犬の遠吠えとしか聞こえなかった。歌い方もいかにも苦しげだし、ともかくすべてが滑稽千万である。というわけで、彼は失笑を抑えるのに一苦労だった

(略)

 時代が明治に変わってからも、洋楽の受けとめ方は大して変わらなかった。

西洋人の耳に響いた邦楽

[東洋研究家フィッシャーは謡曲を耳にし]

「われわれヨーロッパ人の神経を苦しめるこうしたすすり泣き、喉音、吼え声は、そもそも音楽と言えるのだろうか。(略)わたしが現地で聞いたすべての異国音楽のなかで、日本の音楽ほどわたしに苦痛を与えたものはなかった」

(略)

[日本に30年住んだ医師のベルツは当時随一の知日家だが]

とりわけ彼を閉口させたのが、座敷での音曲である。芸者の唄は「ネズミの鳴くような不快な声」にしか聞こえないし、三味線にいたっては、これがいったい音楽なのかと問わずにはいられなかった。

(略)

 ミヒャエーリスは生来音楽好きで、居留地仲間の素人楽団に加わっては、合唱などを楽しんでいた。

 それにもかかわらず――あるいは、むしろそれゆえにこそ、かもしれないが――、彼は日本音楽にうんざりしどおしだった。まず何より、旋律が「際だって退屈で単調」である。加えて、歌い方がこれまたひどい。「日本の歌い方というのは、われわれの方法とは正反対である」。西洋では、胸郭を広げて発声するのに対して、「当地では声を押しつぶすようにする。まるで歌い手は気分が悪いかのように」。

(略)

[イザベラ・バード]の旅行記からは、彼女が日本の事物に積極的な関心を示したことがうかがえるが、音楽だけは別だった。謡曲を聴いたバードは、「苦悶の叫び声(略)蛮風の精髄ともいうべき響き」でしかなかったと書き残していいる。

(略)

 幕末の外交官のアーネスト・サトウ(略)は日本事情に精通しており、また日本語に堪能であった。芝居小屋にも出入りし、その際、木戸番の理不尽な言動をやりこめることすらできたくらいである。ところが、そのサトウの耳にも、日本の調べは「音調の十中の九までが調子はずれ」にしか聞こえなかった。だから彼は、日本音楽はとうてい鑑賞に湛えないと断じる。

 このように、西洋人の側は日本音楽にほとんど全否定の体であった。実際、好感をもった人物はほとんど思いあたらない。あえて言えば、アメリカ人の動物学者モースくらいだろうか。日本の事物に多面的な関心を示した彼は、音楽にも手を伸ばし、ついには梅若某という観世流の師匠について謡曲を習うにいたった。

 ただ、そのモースにしても、当初から邦楽のファンだったわけではない。三味線の演奏に接した当初は、「私が生れて初めて聞いたような、変な、そしてまるで底知れぬ音楽」だと、かなり否定的な印象をもったのである。

開拓者伊沢修二

 こうした音楽取調掛の活動を先頭に立ってリードしたのが伊沢修二である。もっとも、彼は元来、音楽家ではない。後年には、自ら簡単な作曲も手がけるくらいになったが、歴とした文部官僚である。(略)

 この経歴が示すように、伊沢は維新エリートの典型といってよい。軽輩の身分と貧困からの脱出を目ざして刻苦勉励し、新時代の教育たる洋学をてこに立身をはかった。(略)

 伊沢がアメリカ滞在中に唱歌教育の導入を具申したのは先述のとおりである。それを受けて設立されたのが音楽取調掛である。(略)音楽教育に取り組むかたわら、伊沢は文部省内で、編輯局長として教科書編纂事業や体育教育などにも携わっている。後述のとおり、音楽取調掛は1887年に改組されて東京音楽学校となるが、伊沢はその初代校長にも就任する。

(略)

伊沢は元来、音楽と接点のあった人間ではない。(略)初めて洋楽にまともにふれたのは、先にも述べた留学先のボストンにおいてであった。しかも、その留学ももともと、音楽を目的としたものではない。本来の使命は、アメリカにおける師範教育の研究調査であった。(略)

[マサチューセッツの師範学校の音楽の授業にまったくついていけない伊沢に校長は免除を提案したが]

伊沢は憤然としてこの申し出を断る。せっかく笈を異国に負いながら、「一科でも二科でも除いた以上は、片輪修業になって、師範学科取調の趣意にも叶はぬ」から、というのである。

 大した気概である。といって、気概だけではどうにもならない。

[そこで個人教授を受けたのがL・W・メーソン](略)

 こうした伊沢だったから、唱歌教育導入の責任者に任せられたといっても、それを自ら推し進める知識も技能もなかった。(略)そこで白羽の矢が立ったのが、伊沢がボストンで世話になったメーソンである。(略)文部省ルートでの最初の「お雇い」外国人音楽教師である。

 唱歌教育の大枠を定めたのは、このメーソンであった。彼は、歌唱や演奏を指導する一方、和声学などの講義も担当した。(略)『小学唱歌集』の編纂にも中心的な役割を果たした。実際、唱歌集には讃美歌からの借用が多いなど、メーソンの影響が色濃く表れていることが知られている。それ以外に、楽器や楽譜の手配、その調律・修理にいたるまで、文字どおり、洋楽のドレミの段階にあった明治日本を手取り足取り教えたのである。

「国策」という考え方

 以上のような経緯を経て、音楽取調掛は始動した。(略)

ただ注意したいのは、当の伊沢は別段、モーツァルトやベートーヴェンやらを日本に根づかせたいと考えたわけではない、という点である。(略)

 洋楽を取りいれた後、それを日本在来の音楽と融合させ、そこから新生明治日本にふさわしい新たな音楽を作り出す――これが彼のねらいであった。伊沢はこの新たな音楽を「国楽」とよぶ。(略)

洋楽はあくまでも、「国楽」を作りあげるうえで、素材を提供するだけのものにすぎなかったのである。

 以上のねらいについて、伊沢は明快な意識をもっていた。あるとき伊沢は、この点を音楽教師メーソンに向かって次のように明言したことがある。「われわれのめざすところは、欧米の音楽を全面導入することではありません。新しい日本の音楽を作りあげることなのです」と。

 伊沢にとっては、音楽取調掛はこの国楽理念を実践する場なのであった。それで、先述の伝習人の経歴の奇妙さも合点がいこう。生徒が身につけた邦楽の素養にメーソンがもたらした洋楽を加えて、両者の融合をはかるというわけである。

(略)

伊沢が音楽に期持したのは、それが生む実際的な効用であった。

音楽の効用、「国楽」

 まずは精神面の効用である。伊沢は、教室で快活明朗な旋律を繰り返し歌わせれば、子供は知らず知らずのうちに進取の気性を発展させるだろうと考える。だから、唱歌の旋律には、悲しげな短調ではなく、気分を高揚させる長調がふさわしいと彼は考える。(略)

 身体を強健にするという作用もある。正しく歌うことで、肺の機能が鍛錬され、体格がよくなる。(略)

 以上に加えて伊沢にとってとくに重要だったのが、忠良な臣民を育てるという効用である。歌詞のなかで忠君愛国を謳いあげておくなら、子供たちは、歌とともにそれを吸い込み、無意識のうちにこの道徳を身につけるだろうという算段である。

(略)

もっとも、音楽なら何でもよいわけではない。伊沢はこの点、日本の在来音楽は完全に失格だという。雅楽や能では高踏的すぎて、人々に親しまれるものにはならない。といって、端唄や小唄なども困る。お座敷芸として発達しただけに、低俗野卑で、社会の風俗を害するだけの代物である。(略)

 では、西洋から音楽を借用すればいいではないか。維新以来、舶来の制度文物を取りいれ、珍重してきたのだから、音楽もそうしてもかまうまい。ところが、伊沢はこれにも肯かない。彼に言わせれば、音楽とは風土と国民性の産物である。文化的土壌の異なる西洋から歌を直輸入しても、日本人の間に根づこうはずがない。(略)

結局、新たに作るしかない道理である。こうして伊沢は、文明的かつ健全で、しかも日本人の感覚に合った音楽を創造することをぶちあげる。それが「国楽」である。

洋楽流入ルート

 幕末維新期の洋楽流入のルートとしては(略)文部省ルート[音楽取調掛]はむしろ後発に属する。もっとも早かったのが軍楽隊である。(略)

 薩摩は、軍制の洋式化を進めるなか、調練の一端として軍楽による行進訓練を取りいれた。指導を請われたのが、当時横浜に駐屯していたイギリス軍の軍楽隊楽長フェントンという人物であった。彼の下で薩摩藩士の伝習生は洋楽を一から勉強し、翌年には吹奏楽演奏を行うようになった。最初に演奏した曲は、イギリスの国歌「ゴッド・セイヴ・ザ・クィーン」だったという。

[維新後、海軍軍楽隊を指導したのが「君が代」に和声をつけたドイツ人のF・エッケルト。遅れて軍楽隊を組織した陸軍はフランス人のダグロンとルルーが指導]

(略)

 もう一つのルートは宮中の雅楽師であった。(略)

[欧化政策の一環として宮中儀式にも洋風が一部導入されたため]

 宮中の洋風化に熱心だったのは伊藤博文である。

「お雇い」外国人ディトリヒ

1888年、東京音楽学校への改組に前後して雇われたのが、オーストリア人のR・ディトリヒであった。彼は、1894年まで六年間、音楽学校で指導することになる。(略)

この人事には、設立されたばかりの東京音楽学校がいったい何を目ざすのかという、将来像が明白に反映されていた(略)

 歴代の外国人教員を見ると、まず初代のメーソンは音楽家というより、むしろ音楽教育家であった。だから音楽の実技となると、はなはだ不十分で、ピアノとヴァイオリンが少々できる程度だったらしい。これに対して、次のエッケルトは、ドレスデンなどの音楽学校で正規の教育を受けた人物である。ただ、学生時代の専攻はオーボエで、しかもその後軍楽隊で経歴を積んだ(略)ため、彼は管楽器には十分精通していたけれども、鍵盤楽器や弦楽器の演奏能力となると、どうしても見劣りがした。(略)

[次のソーヴレーにも日本側は満足しておらず、在任三年だった]

たしかに技能の点では不足はなかったものの、芸風に難があった。彼はそもそも、出稼ぎ興行で各国を転々とする歌劇団の指揮者兼ピアノ伴奏者として来日した人物である。したがって、大向こうの受けをねらう派手さの一方、音楽教育を託するだけの堅実さには欠けていた。ソーヴレーのこういう側面を、彼から教えを受けた幸田延は、「専門家ではありませんでしたが大変器用」だったと、いささか手厳しい語で回想している。というわけで、日本側はもっとアカデミックなスタイルをもった音楽家を望んだのである。

(略)

[ディトリヒは]このとき27歳、ウィーン音楽院でヘルメスベルガーやブルックナーの下で学んだ若手の俊秀であった。彼は在学中から成績優等で表彰されたほどで、卒業後もウィーンの音楽界で活躍した。本来の専門はオルガンだが、多面的な才能に恵まれており、ピアノ独奏や伴奏でもコンサートに登場していた。さらに弦楽器もよくし、恩師の主宰する著名な弦楽四重奏団「ヘルメスベルガー四重奏団」でヴィオラを担当していた。

 以上の経歴からだけでも、彼の水準の高さはうかがえるが、その後の経歴を見ればいっそう明らかとなる。日本での滞在を終えた後、彼は故国に戻り、ウィーンで1901年に宮廷オルガニストに就任した。さらに1906年には、母校ウィーン音楽院から声がかかり、オルガン部門の教授に就いたのである。世紀転換期のウィーンではオルガン・ルネッサンスとでもいうべき、オルガン楽曲の流行があったが、その中心にいたのがディトリヒであった。つまり、ディトリヒはウィーンの楽壇で通用する第一級の芸術音楽家だったことがよくわかる。

 実際、彼の招聘は、明治の洋楽史で大きな節目をなしていた。というのもこれ以後、外国人教師の質が決定的に向上したからである。

次回に続く。

2017-08-28 マルセル・デュシャンとチェス 中尾拓哉 このエントリーを含むブックマーク


マルセル・デュシャンとチェス

作者: 中尾拓哉

メーカー/出版社: 平凡社

発売日: 2017/07/27

|本| Amazon.co.jp

「絵画」と「チェス」

彼は1955年にフィラデルフィア美術館の一室に集められ展示された、それまで自身が制作してきた大部分の作品を前にし、肩肘張らずに、平易な言葉で「絵画」と「チェス」には類似点があると、次のように明かしている。

私は、絵画は表現手段であって目的ではないと思います。他の多くの中の一つの表現手段であって、人生を満たすべき目的ではありません。(略)私は自分を狭い枠に閉じ込めようとは決してしませんでしたし、可能なかぎり普遍的になろうといつも努めてきましたから。ですからたとえば、私はチェスに興じ始めました。(略)チェスには大変真剣に取り組み、楽しみました。絵画とチェスにいくつかの類似点を見つけたからです。事実、チェスをやっているときは、まるでデッサンをしているかのようになるし、あるいは機械仕掛けを構成しているかのようですよ、この機械仕掛けの構成具合によって勝ったり負けたりするんです。その競技の側面は少しも重要ではありませんが、ゲームそのものは非常に、非常に造形的でして、おそらくそれが私を魅了したものです。

(略)

彼は一つの表現手段にとどまらず、「絵画」と「チェス」の双方に潜む、より普遍的な「造形性」を希求していた。(略)彼が「芸術」という制度にとらわれず、普遍的であろうと求めた結果、すなわち「チェスは造形的である」というように、そのどちらの枠組みをもすり抜けてしまう帰結だったのである。

《チェスプレイヤーの肖像のための習作》

何より見落としてはならないのが、この二つの習作がトリプティック(三連祭壇画)のようになっていることである。(略)

トリプティックの配置をよく見ればわかるように、両端に分かれている小さな枠内には頭部だけが、そして中央の枠内には駒やチェッカー柄が頭部とともに配置されているのである。このことから、それがプレイヤーにはさまれたチェス盤の位置にあって、ゲームそのものを表していることがはっきりとわかる。デュシャンはプレイヤーを別の枠へと移すことで、中央の矩形がチェス盤であり、チェスのゲーム空間そのものであるとして区別しようとしている。

(略)

 デュシャンは、キュビスムの空間構成とチェスのゲーム構成が一つとなる、脳内で引き起こされている仮想空間を描こうと試みていたように見える。それは、当時のキュビスムと同様の、物体を多視点から把握し、画面内にその全方位像を再構成するという方法に、脳内で引き起こされている思考の展開、つまり際限なく起こりうる局面をシミュレートしている脳活動のレンダリングを含ませることである。それゆえ、これらの習作の重要性とは、描画行為にデュシャンのチェス・プレイヤーとしての体感が大きく入り込み、絵画空間とゲーム空間の構成を混合していることにある。それは現実空間を多視点あるいは同時性によって絵画空間に再構成しようとするよりも、むしろチェスのゲームによって、絵画空間に脳内で展開される仮想空間を構成しようとする試みに他ならない。

 これらの六枚の習作をもとに11月から12月にかけて《チェス・プレイヤー》が仕上げられる。完成作では、テーブルや静物、そして背景まですべてがキュビスムに準じるように、多角的な視点によって分解されながら、習作群と同様に空間内に散らばったチェス駒が、ゲーム空間を表しているように見える。

倦怠

 絵画を十年続けたのち、私はうんざりしてしまったのだ。――事実、何か新しいものに向かって目が開かれる感覚のあったごくはじめのうちを除けば、私は描いている時ですらいつもうんざりしていた。

 しかし、例えばこの絵画制作にたいする「倦怠」の訴えの中に、デュシャンの望みもまた含まれていよう。それは「何か新しいものに向かって目が開かれる感覚のあったごくはじめのうち」の記憶である。彼は「実をいえば、私は絵画をやめたいという願望を口にしたことは一度もない………やめようと決意したことさえ一度もないのだ。私がやめたのはなかば怠惰のため、なかばアイディアの欠如のためだ」とし、何か新しいことができると思えば、自分はまた明日にでも絵画をはじめるだろうと吐露してもいた。

まとめ

 チェスには偶然――はじめはなんのことだかわからないが――と、必然――説明されればしごく当たり前――の対立を生じさせる、生成と消滅から成る遊びがあり、その間にのみゲームは成立することになる。デュシャンの生涯において「芸術の放棄」と呼ばれたのは、実のところ「芸術」と「チェス」の二つの態度の対立の中にあって、チェスにあるスリリングな造形の展開と崩壊の瞬間にその身を投じることであったのではないか。そのときチェスは、常に新しい造形の誕生に関与する体感として、彼に歓びを与えていたはずである。

 このようなプロセスをたどり、永遠に組み換えられるだけのチェスに、新しいフォルム、新しいパターンが生まれ、造形が現れては消えていく。絵画のモノローグからチェスのダイアローグヘと至った対立の創造過程、そのプロセスの射程は、造形とひらめきを直結させる場へと向けられている。

 その射程が、つながりをもたない論理、あるいはつながりを見分けることのできない論理を引き寄せ、「芸術」における「表現されなかったが、計画していたもの」と「意図せず表現されたもの」、および「チェス」における「表現されなかったが、計画していたもの」と「意図せず表現されたもの」との結び目をつくり出すのである。二つの活動は何らかのかたちで交わりうる。そこにこそ、デュシャンが追い求めた「完全なかたち」が見え隠れするのだ。

 デュシャンが「チェスは描いていない時間を満たしてくれるのです」と話したように、チェスは「デッサン」そして「機械仕掛け」となって、さらに「エロティスム」そして「ショック」となって、「裸体」を引き出していた。そこで探索し切ることのできない、際限なく絡み合うプロセスこそが、制作以前にあるものを満たし、取り結んでいたのである。

 マルセル・デュシャンとチェス、それは「芸術の放棄」として語られたものである。そのとき「芸術」という語によって、失われた何かがあるとしたら。デュシャンの絶え間ない二つの行為は、「創造行為」の連鎖、その環が互いに解かれる中で、「芸術係数」のもと、一つの「創造行為」となるのである。

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2017-08-25 なぜ科学を語ってすれ違うのか・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて

作者: ジェームズ・ロバート・ブラウン, 青木薫

メーカー/出版社: みすず書房

発売日: 2010/11/20

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「ハンチントン」たち

マリオ・ブンゲが大ぼら吹きとよぶ人間の一人に、サミュエル・ハンチントンがいる。ハンチントンは、発展途上国を近代化するための「方程式」について著作をものしているが、その方程式なるものは、悪質な右翼の社会政策を擁護するためにでっちあげられたでたらめにすぎない(ハンチントンによれば、アパルトヘイト下の南アフリカは、「満たされた」社会だった)。

 量子力学やカオスにふりまわされるポストモダン主義者は愚かではあるにせよ、実害はほとんどないに等しい(略)。

一方、世の「ハンチントン」たちは、著作やコンサルティングを介して、絶大な権力と影響力をふるっている(ハンチントンはヴェトナム戦争中に、戦略村政策について合衆国政府に助言をしている)。ブンゲはその恵まれた才能を、せいぜいばかなことをいうぐらいのひと握りのポストモダン主義者を「追放」しようとすることよりも、世に掃いて捨てるほどいる「ハンチントン」たちの悪質な仕事を効果的に曝くために使ってはどうだろうか。

「スコープス裁判」

 歴史はウィリアム・ジェニングズ・ブライアンに冷たかった。彼は聖書至上主義の愚かな男として描きだされてきたのだ。しかしブライアンは(略)頭の固いわからずやではけっしてなかった。(略)

[1925年「スコープス裁判」で]ブライアンは、公教育の場でダーウィンの進化論を教えることの是非をめぐり、クラレンス・ダローと対決することになった。(略)

[この裁判を基にした劇や映画で]描かれるブライアンは、考えるということをしないキリスト教信仰の虜となり、偉そうに知ったかぶりのご託をならべたあげく、あっさりとダローにやりこめられてしまう愚か者だ。しかし現実のブライアンは、もっと知的で、人間的な魅力をそなえた重要な人物だった。

(略)

彼は人民主義[ポピュリズム]の指導的政治家で、三度にわたり民主党の大統領候補にもなっている。ブライアンは、歯止めのない資本主義に強く反対し、進歩主義的な社会改革のために、激しく、かつ効果的に戦った。たとえば、女性参政権や累進課税、アメリカの労働者階級にとって大きな重荷になっていた金本位制の廃止などが、彼の掲げた政治目標だ。

(略)

彼がダーウィニズムとの聖戦に立ちあがったのは、社会運動にかんする積極行動主義のためだった。ブライアンは、当時の労働者が耐えねばならなかった悲惨な社会状況にひどく心を痛めていた。しかし、カーネギーやロックフェラーといった人たちは、そういう社会状況はダーウィンの進化論からすれば正しいと主張していたのだ。しばしば「社会ダーウィニズム」とよばれるこの思想は、勝者ひとり占めの資本主義を批判から守るために利用されていた。多くの者が落伍するのなら、それはまったくもって正しい。なぜなら、人生とは生き残るための戦いにほかならず、生き延びるのは――そして生き延びるべきなのは――適者だけだからである。(略)

ブライアンがこの学説を唾棄すべきものと考えたのは当然のことだった。(略)

ブライアンの見るところ、優生運動と第一次世界大戦はダーウィンの遺産と結びついていた。ダーウィンの息子のレナード・ダーウィンは優生学教育教会の会長を務めていたし、優れた統計学者で進化生物学者のロナルド・フィッシャーも熱烈な優生主義者だった。第一次大戦についていえば、ドイツの戦争指導者たちのイデオロギーについては信頼できる一次資料が多数あり、それによればドイツの戦争指導者たちは、「生命とは適者生存の戦いにほかならない」という事実に照らして、自分たちの攻撃行動は正しいと主張していたのだ。

(略)

 ダローとブライアンの有名な法廷対決では、ブライアンは進化論について救いがたいほど無知であることが暴露された。彼は科学は得意ではなかったのだ。しかも、ダローが暴露したのはブライアンの科学的無知だけではなかった。聖書の記述について突っこんだ質問をされると、ブライアンはしどろもどになった。(略)

彼がこの騒動に踏みこんだおもな理由が、神学ではなく社会正義だったことを思えば、あまりにも気の毒ななりゆきだった。

(略)

もしもこのエピソードから引きだされるべき教訓があるとすれば、それはごく単純なことだろう。ブライアンのようなやりかたで社会正義のために戦ってはいけないということだ。

 生物学をとりまく神話のまやかしを暴くことにかけて、スティーヴン・ジェイ・グールドほど広く名を知られ、大きな影響力をもった人はいない。グールドは、社会ダーウィニズムであれ、社会生物学であれ、IQ研究であれ、いかなる生物学的決定論にも敢然と立ち向かい、きわめて効果的に戦った。

(略)

両者の違いは、ブライアンは生物学そのものをしりぞけたのにたいし(そのかわりに彼は聖書を支持した)、グールドは、ダーウィンの進化論と現代の遺伝学から社会ダーウィニズムが帰結するという主張をしりぞけたことだ。

(略)

 グールドは何に心を砕いたのだろうか?左派なら誰しもそうであるように、彼もまたアメリカ社会の階級構造と、それをとりまく人種差別主義を嫌悪した。その人種差別主義に一役買っているのが、IQ研究である。(略)

社会的保守主義者たちはしばしば、社会の底辺層にいる人たちは本来つまらない人間だからその階層にいるのだと主張する。

(略)

グールドは、[ハーンスタインとマレーの]『ベルカーブ』の論証が、いくつもの疑わしい仮定のうえになりたっていることに注意した。

(略)

ハーンスタインとマレーは、使える証拠を無視し、欠陥のある推論をし、疑わしい仮定を置いた。それを批判するのは、科学を告発することではなく、二人のお粗末な科学者を告発することなのだ。

(略)

ブライアンはこう述べた。「科学のソヴィエトが、わたしたちの学校で何が教えられるべきかを命令しようとしている」。ブライアンにとって、これは政治方針にかかかる大問題だった。たとえ進化論について科学者たちの主張が正しくても(あるいは、社会階級とIQについて科学者の主張が正しくても)、そして、間違っているのは人びとの考えのほうだったとしても、支配するべきは多数派であり、科学エリートではない。科学が人びとに奉仕すべきなのであって、その逆ではない、とブライアンは力説した。

 今日、まともにものを考える人なら、進化論にかんするブライアンの考えを支持することはないだろう。しかし、IQ研究となれば、ブライアンに賛成したい気持ちに駆られる人は多いのではないだろうか。これは大きなジレンマだとわたしは思う。支配するべきは誰なのだろうか?ブライアンが奉じたような、単純な民主主義的解決策は魅力的だが、それは避けなければならない。

 ブライアンの民主主義的立場が抱える難点は、科学上の圧倒的コンセンサスに反するような多数派の意見は、いつまでも多数派の意見ではありえないということだ。創世記に固執してダーウィンの進化論をしりぞける人たちは、今日の地質学のほとんどすべてをしりぞけなければならない

ニセ科学

 政治的動機をもつ社会構成主義者たちの発言は、「わけのわからない戯言よりも、明晰な思考のほうが役にたつ」といった言葉とともに一蹴されることが多い。それがソーカルの見解でもある。わたし自身、過去においてしばしば似たようなことをいってきたし(ソーカルほど劇的にではないが)、その立場に与するにやぶさかではない。しかし、それだけでは足りない。わたしたちは社会をより良いものにするために行動できるし、行動すべきなのだ。科学者もそうだが、とくに科学哲学者は、社会の不平等を正当化するようなニセ科学を論駁できるという、社会貢献という観点から特別の位置に立っている。科学者と科学哲学者は、ほかの誰にもまして、悪い科学、とくに社会にとって有害な目的に奉仕する科学を暴露するために必要な力をもっているのである。

 もちろん、まずは事態を正しく把握しなければならない。ニセ科学といわれているものについては、それがたしかにニセ科学であることを示さなければならない。しかし、証明して終わりになるわけではない。証明して明らかになったことを、広く世間に知らせなければならない。スティーヴン・ジェイ・グールドほど、「人種とIQ研究」の多くはクズだということを明らかにするためにたくさんの仕事をした人はいない。しかし、人種と階層とIQにかんする『タイム』誌の特集号は、いつまでも歯科医の待合室に置かれて、グールドのたくさんの著作を全部あわせたよりも、もっと多くの読者の目に触れるかもしれない。ニセ科学の問題点を明らかにすることと、それを一般の人たちの目に効果的に曝すこととは、まったく別のことなのだ。わたしたちはあらゆる機会をとらえて公開の場にでていき、問題を指摘しなければならない。悪い科学にかかわりのある心理学者や経済学者や生物学者がいたら、それぞれの地域で公開討論会に引っぱりだそう。

(略)

 誰が支配するべきなのだろうか?もちろん大衆が支配するべきだ。ただし、大衆は情報に通じた声を聞く必要がある。もしもソーカル事件が、分析的思考力をもち、科学に共感する人たちを触発して、社会にとって建設的な行動をとらせるのであれば、それこそは彼の真の遺産となるだろう。

著者あとがき

科学にとって最大の脅威は(略)知識の営利化だろう。(略)

 大学が民営化されたりビジネスモデルがもちこまれたりすると、どうなるだろうか? 大学の運営が、ますます産業と寄付に依存することになる。たとえば、教育と研究の両面において、応用研究、つまり実用的なテーマの研究にまわされる資源が増えている。また、研究の結果として得られた知識の所有権にかんしては、秘密主義をとることによる商業的利益のほうが、知識を無料で広く共有することによる民衆の利益よりも重んじられる。さらには、産業や学生を客とみなし、学者をサービス提供者とみなすことによって、大学をひとつのビジネスとして経営しようと試みることにもなる。結果として、目先の必要性や、クライアントの需要ばかりが重んじられ、古いことわざにいうように、「お客様はいつも正しい」ことになってしまう。

 民営化がとくにおそるべき問題を引き起こすのは、公共の福祉にかかわる領域だ。カナダの研究社が(略)製薬会社と契約して研究をおこなっていたときのこと、ある薬品が有害であることを発見し、それを論文として発表した。これが契約違反とみなされ、研究者は解雇された。この一件はスキャンダルとなって、その研究者は復職することができた。今日、その大学と系列病院は、病院に勤務する研究者にたいして一種のテニュアのような身分保障を与え、私企業との契約研究にかんする新しいガイドラインを作成することにより、私企業から資金提供を受けた場合にも、研究結果を公表しやすいようにしている。これは稀に見る(そして不十分な)勝利であり、正しい方向への小さな一歩ではある。しかし、全体としての動向は、この例とは逆向きに進みつつある。利益追求を目的とする私企業から資金提供を受けようとすれば、研究者たちは、重要な情報を秘密にすることをしいられるばかりか、民衆の健康を危険にさらすような事実が発見されても、それを秘守することを契約によって義務づけられる場合が多いのだ。もちろん、わたしたちはこの問題について素朴すぎてはいけない。政府にしたって、愚かにも秘密主義をとることがある。イギリスの農漁業食料省はBSE(狂牛病)のときに、政府が助成した研究にかんして、まさに秘密主義をとった。そのせいで、当該のデータを他の研究者が検討し、問題は政府が主張している以上に深刻だと指摘することがむずかしくなった。

 最近の研究で明らかになったところでは、マサチューセッツ大学の科学者たちが最近発表した論文の三分の一以上で、著者のなかに、その論文から利益を得ると思われる人物が一人またはそれ以上含まれている。そういう研究者は、当人が特許をもっているか、または研究結果から利益を得るとみられる会社と関係があった(たとえば会社の重役であるなど)。こういう著者たちの経済的な利害関係については、発表された論文には何も触れられていなかった。公共の知識を守るために特許が必要なら、公共の資金を使って特許を得た者には、その特許をパブリック・ドメインに置かせるか、あるいは特許使用料を無料にさせればよい。

(略)

 ハーバード大学の学長だったデレク・ボックは、商業主義の利害の浸食作用から研究目的を守るためには、大学に強いリーダーシップが必要だと警鐘を鳴らした。警鐘を鳴らすという点ではたしかにボックは正しかったが、大学には強いリーダーシップだけでなく、もっとずっとたくさんのものが必要だ。まず、公共的な知にたいし、政府による強力な保護と奨励を与えなければならない。たとえば特許法は、公益の私物化を許してはならない。大学の研究資金については、圧倒的に多くの部分を、公共財からだすようにしなければならない。そして研究の結果として得られた知識は、大衆が所有するのでなければならない――企業や個々の科学者(さらには秘密主義の政府)が所有するのではなく。

 この目標を達成するために、学問で飯を食っている者は、敢然と闘わなければならない。もしも大学の研究者が組織化され、力をあわせて努力すれば、現在の商業主義の流れを食い止めることができるだろう。では、科学者には何ができるだろうか?まず個人レベルでは、研究結果の公開を禁ずるような契約研究を拒否し、研究によって得られる知識は公表すべきだということを強く訴えていこう。大学レベルでは、科学者は大学経営陣にたいし、民間(企業であれ慈善団体であれ)の利害から意志決定権をとり返すよう働きかけよう。政治レベルでは、政府の指導層にたいし、研究と教育は公益の一部であることを今後とも位置づけていくよう圧力をかけよう。

(略)

 科学者は象牙の塔にこもり、世間から遮断されて生きるべきだなどとは、わたしはこれっぽっちも思っていない、考えるべきは、科学者は誰にたいして責任を負っているかだ。民営化論者の好む表現を用いれば、この問いにたいする答えは簡単だ。科学者は大衆にたいして責任を負っているのである。科学者は、知識をすべての人にたいして無料で提供する責任を、大衆にたいして負うているのだ。

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2017-08-23 なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて このエントリーを含むブックマーク


なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて

作者: ジェームズ・ロバート・ブラウン, 青木薫

メーカー/出版社: みすず書房

発売日: 2010/11/20

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まず、訳者あとがきから

 ソーカル事件に対するおもな反応をひとことでいえば、「やっぱり!」だろう。そう思った人たちは、二つのグループに分けることができる。

1.右派が思った。「脱構築とか言っているやつらは、やっぱりたわごとを言っていたのだ」

2.科学者が思った。「人文・思想系の人たちの言うことはわけがわからんと思っていたが、わけがわからんのは当然だったのだ」

 ソーカルが直接的に攻撃対象としたのは、政治的にはリベラルで、学問的には構成主義のなかでもいわゆるポストモダン派として括られる人たちだった。この人たちは、物理や数学をいいかげんに援用したり、言葉づかいにやけにこだわったりするせいで反発を買いやすく、物理学者ソーカルがやり玉にあげるのにはもってこいだったのだ。

 ところが、ソーカルが攻撃したのは科学の内容について無防備なことを言う一部の人たちだったにもかかわらず、その一件ののち、二十世紀の人文系の学問が積み上げてきたことを、一切合切ご破算にして、屑カゴに投げ捨てるような発言がさかんになされた。

 ソーカルはなぜ、現代思想を相手にちゃぶ台をひっくり返すようなことをしでかしたのだろうか? ソーカル自身は、「脱構築がいったいどうすれば労働者階級の力になるのかわからない」と言い、人文系の人たちが科学について何を言おうと構わないが、そんなわけのわからないことを言っていたのでは、左派として人びとのために戦うことはできないという考えを示している。この件の政治的な面については、このあとがきの最後のほうであらためて立ち返るとして、まずは、人文系の人たちが科学について何か言っているという状況に注目しよう。ソーカルの行為の背景には、論文でっちあげ事件と期を同じくして「サイエンス・ウォーズ」と名づけられることになった、科学的な知識の性質をめぐる論争――科学的知識は、はたしてそれほど客観的、合理的、普遍的、特権的なものなのだろうかという問いかけをめぐる論争――があった。科学者にとってみれば、現代思想が科学について語る内容や、その客観性に疑いをさしはさむことは、科学についての無知に出来する勘違いとしか思えないようなものだった。一方、思想サイドの人からすれば、科学は権力であり、抑圧の代名詞だったのだ。

 しかし、なぜ現代思想はそれほどまでに科学を相対化しようとするのだろうか?大ざっぱにいって、十九世紀末から二十世紀の現代哲学は、絶対、客観、本質、普遍といった、それまで哲学自身が追い求めてきたものを問いなおすとともに、それらによってもたらされる、さまざまなかたちでの抑圧の問題に取り組んできた。宗教や道徳や封建主義など、人間にとって抑圧的に機能してきたものの正当性を問いなおすという、困難で重たい試みがおこなわれてきたのである。その過程で、かつては疑問視されなかったものも検討課題に上がってきた。そのなかから、とくに科学に関係する例をいくつか挙げてみよう。

1.フランス革命はきわめて啓蒙主義的だったが、その行き着いた先はギロチンだった。啓蒙という考えかたの基礎には、「目を開いてはっきりと知るべき、正しい知識というものが存在する」という思想がある。(その思想は、科学という営みの基礎でもある。)

2.マルクス主義は、そのものずばり、科学的社会主義を謳っていた。旧ソ連においてその行き着く先がどんなに悲惨で抑圧的なものであったかは、まだ記憶に新しい。

3.ナチスの優生主義。多くの科学者が、劣等人種や劣等な個人という考えを科学的事実として裏づけるような発言をした。

4.アメリカにおける社会進化論。弱肉強食を正当化するために、ダーウィンの進化論が利用された。

 このように、近現代史においては、科学の権威が猛威をふるうということがたびたび起こった。しかも、(のちほど取り上げるように)これはけっして過去のことではなく、かたちとテーマを変えて、いまもくりかえし起こっていることなのである。当然、かくも権力的に機能する科学的知識とは、いったいどういったものなのかという問いがその都度もちあがり、科学の絶対性に対する反省や疑問が強まってきたのだった。

 絶対的・抑圧的に作用するもの――とりわけ、それまで疑うことさえされなかったもの――に立ち向かうという、二十世紀の哲学・思想の取り組みの意義は大きい。それを認めることなしには、「ソーカル事件を超え」なければならない理由もわからないだろう。

 本書の著者であるカナダの科学哲学者、ジェームズ・ロバート・ブラウンは、ソーカル事件のうわべだけを見て、現代思想が積み上げてきたことをご破算にするのではなく、この事件を教訓として、科学的知識がいかにして得られるのか、その妥当性はどのように根拠づけられるのかに関する理解(認識論)を深め、より良い社会をつくるために役立てたいと考える。とりわけ政治的な問題を見据えていることが、ブラウンとソーカルの大きな共通点だと言えよう。なお、ここで注意を要するのは、ブラウンの狙いは、社会的目標に科学を直接的に奉仕させるといったことではないという点だ。より良い社会を目指すことと、より良い知識を得るための方策を探るという目標とが結びつくのは、どちらにとってもプラスになる、というのが彼の考えなのである。

(略)

 ブラウンの言う、戦うべき状況について、もう少し具体的に考えてみよう。身の回りを眺めていても、科学的な知識だと言われているものが、じつは暗黙のうちに欠陥のある形而上学に乗っかっていたり、それをさらに薄めた安っぽい思想と結びついていることはめずらしくもない。DNAなり、脳なりのことがわかると、その都度、これで人間のことはわかった、もう哲学は要らない、哲学の役割は済んだ、といった主張をする科学者がでてくる。あるいは、あれこれの社会現象を科学的に説明できたと称する科学者がでてくる。しかしそういう科学者が描きだすものは、科学者本人がもっている安っぽい人間観・男女観・社会観などを、そのときどきに発見された科学的知識と結びつけているだけにすぎないことがあまりにも多い(男脳・女脳、○○する脳、貧乏人の遺伝子、人種的に劣ったIQ……)。科学の権威のもとで説かれる人間理解が、じつは、安っぽい思想を取りこんでいるだけだとしたら?それが広く人気を得て、政策にまでも影響を及ぼすとしたら?

(略)

第一章のなかほどにまとめられている正統的科学観や、第二章に描出される科学者の経験、そしてケプラーのエピソードに見られるような、科学研究に課される厳しいスタンダードは、科学的知識の力の根幹であり、ブラウンはそれを支持している。科学者個人はそういう科学の方法論に忠実であろうと努めなければならない。そのうえでなお、「科学理論は自然に対してだけでなく、対抗理論に対して検証される」という相対評価の観点から、科学において価値は積極的な役割を果たしうる、とブラウンは言っているのである。

  • 第四章

ポストモダンの言葉づかい

 ポストモダン主義者たちは、言葉の使いかたをきびしく批判されてきた。よくある苦情は、彼らの使う言葉はひどくあいまいだというものだ。(略)

 一般に、どんな学問領域にも専門用語はあるし、その分野に特有の概念を表すためにひじょうに役立つのはたしかだ。(略)

たしかに、くりかえしでてくる専門用語には慣れるしかないものが多い。「差異」「言説」「本質主義」「断片化されたアイデンティティー」といった専門用語は、古典電気力学を理解するために必要な「ベクトル場の発散」などと同様、勉強して理解するしかない。ポストモダン主義者たちがこういう専門用語を使っても、非難されるべきではない。もしもこういう点で彼らが批判されているなら、それはアンフェアというものだ。

 だが、ふつうの読者がいらだちを覚えるのは、こうしたジャーゴンにたいしてだけではない。ポストモダン主義者が書いたものを読むと、言語の使いかたに過剰なまでに意識的だという印象を受ける。(略)

科学者たちが専門用語を使うのは、正確さと経済性のためだが、ポストモダン主義者たちは、言葉そのものに注意を向けさせようとするのだ。そうすることに価値がある場合もあるだろう。(略)

その目的は、あたりまえのように受けいれられている概念について、あらゆる思いこみに揺さぶりをかけることだ。(略)

決まりきった直観的で具象的な考えかたに、読む者の頭を安住させないように書かれているのである。

(略)

 しかし、それが問題のすべてなのだろうか?(略)[その目的を考慮しても]彼らの書いたものは、実質的な中身のわりに、饒舌すぎるケースが少なくない。

偶像破壊者ファイヤアーベント

 ニヒリスト陣営に属する人たちのほとんどは、科学の訓練はほとんど受けたことがなく、科学の理解となるとさらに乏しい。しかし、何人か重要な例外がいる。第一級の偶像破壊者パウル・ファイヤアーベントもその一人である。

(略)

 ファイヤアーベントとクーンは、1960年代のバークレー時代には仲のいい同僚だった。二人は数かぎりなく対話を重ねるなかで、広く受けいれられた科学観にたいし、よく似た懐疑的な見解を育んでいった。当然のなりゆきとして、クーンはこの時期に、かの有名な著書を執筆することになった。クーンの著作ほど有名ではないものの、質のうえではけっしてそれに引けをとらないのが、ファイヤアーベントがこの時期に著した論文「説明、還元、経験主義」である。彼には優れた論考がたくさんあるが、とくにこの作品には、「証拠」という概念が、いかに油断のならないものであるかが示されている。

 あなたがガンにかんする理論をつくったとしよう。それは、ガン細胞がいかに発生し、どのように腫瘍が大きくなり、どうすればそれを破壊できるかにかんする理論である。さてそこで、わたしがこんなことをいったとしたらどうだろう。「しかしあなたの理論では、空が青い理由も、昨日株式市場が急落した理由も説明できないではないか」。あなたはわたしのばかばかしい発言に腹を立てるかもしれない。なぜなら、わたしがあなたの理論に要求していることは、その理論があつかっている問題とはまったく関係がないからだ。(略)

 これはまったくもっともな反応だ。

(略)

[しかし]ファイヤアーベントはその才能を発揮して、ここで説明した「関係がある証拠」という考えかたは、じつは大間違いであることを示したのだ。彼がとりあげた例は、古典熱力学と、物質と熱にかんする気体分子運動論との対立関係だった。その例は、ぜひともここでくわしく見ておきたい。

 古典熱力学では、圧力、体積、温度などの概念が必要とされる。これらはすべて多かれ少なかれ観測可能な量である

(略)

 対する分子運動論は、小さな物質粒子からなる目に見えない世界があるものと仮定する。(略)

古典熱力学の支持者にしてみれば、絶対に破られてはならないように思われる熱力学第二法則を近似的にしか説明できないのだから、完璧な理論を捨てて、この新理論に乗りかえる理由はなかった。

 十九世紀のはじめ、スコットランドの生物学者ロバート・ブラウンが驚くべき現象に気づいた。

(略)

 古典熱力学を支持する人たちは、ブラウン運動のことで頭を痛めるべきだったのだろうか? 彼らがブラウン運動について考えなかったのは、株式市場の動向や、オーストラリアのウサギの個体数について考えないのと同じことだった。もちろん、ブラウン運動は興味深い現象だから、古典熱力学の支持者たちとしても、その連動のメカニズムが解明されれば喜んだだろうが、この現象が自分たちに関係があると考える理由はなかった。ブラウン運動は、古典力学の世界の話ではなかったのだ。

 しかし二十世紀に入り、状況は大きく変わった。アインシュタインが――1905年の時点では、彼はブラウン運動のことを知らなかった――気体分子運動論によれば、観測可能なサイズをもつ小粒子が、猛スピードで動きまわる多数の分子に衝突された結果として、ランダムな運動をすることになり、その運動径路は見て取れるはずだと指摘したのだ。すぐさま何人かの人たちが、アインシュタインが予測した現象は、まさしくブラウン運動にほかならないことに気がついた。その後、ペランらの仕事により、気体分子運動論による予測はきわめて正確であることが示された。(略)

[古典熱力学の支持者たちも]こうなっては、この現象を無視するわけにはいかなくなった。突如としてブラウン運動は熱力学によって説明されるべき課題となり、「明らかに無関係な現象」から、「ひじょうに関係の深い現象」になったのだ。

 ここから引きだされる哲学的教訓は明快だ。すなわち、理論の検証は相対的だということだ。ある理論が正しいかどうかを検証するとき、わたしたちはその理論を直接自然と比較するのではなく、自然とライバル理論の両方に目を向ける。なんらかの現象がはっきりと理論に関係してくるのは、ライバル理論がその現象を説明したときなのだ。

 ポパーらの説との違いは明白だろう。ポパーによれば、理論の検証にどんな証拠が関係するかを教えてくれるのは、理論それ自体である。

(略)

ファイヤアーベントがその第二の教訓を力説するようになるのは、後年になってからのことだった。その教訓とは、多元論の重要性である。つまり、わたしたちはライバル理論の育成に努めなければならないということだ。なぜなら、ライバル理論が登場すれば、最初の理論に関係のある証拠が増えるからだ。気体分子運動論が登場しなかったなら、古典熱力学の弱点に気づくことはできなかったろう。古典熱力学の問題点を明らかにするためには、直接的な検証を積み重ねるだけではだめなのだ。ふつう、科学研究のプロセスは次のようなものとイメージされている。「自分の理論の間違いに気づいたなら、はじめからやりなおせ」。しかし、このルールは逆転させたほうがいいのかもしれない。「自分の理論がどれほど成功しているように見えても、はじめからやりなおして代替理論をつくりだせ」。はじめの理論の間違いに気づくためには、そうするしかないのかもしれないからだ。

 ファイヤアーベントがこの例で示した分析は(彼がそこから引きだした教訓まで含めて)、科学哲学における最高の仕事のひとつである。それはまた、彼が過激な方向に進むための大きな一歩ともなった。

(略)

 さて、1970年代にはいるころには、ファイヤアーベントはかなり過激になっていた。彼の過激さは、いま示した彼の説に暗に含まれていた多元主義から芽生えたものだった。彼は、「認識論的無政府主義者」や「ダダイスト」を自称するようになり、科学的方法にかんするかぎりは、「なんでもあり」だと宣言した。ファイヤアーベントは、科学的方法は(それはあらかじめ与えられたルールの集合である)、科学の発展にとってはせいぜいよくて不毛であり、あからさまに有害であることも多いと考えるようになった。そして彼は、偉大な科学研究はしばしばルール破りをしているという歴史上の例を挙げ、ガリレオらは修辞的に優れていた――つまり嘘つきの詐欺師だった――といった。しかしファイヤアーベントは、それを咎めているのではなく、良い科学にはそれが不可欠だというのである。厳密な方法を用いるのは、創造的な科学研究を妨げることだという理由により、彼は無政府主義をとるのだ――そんな彼の立場は、もっとも有名な著作である『方法への挑戦』のタイトルにも反映されている。

 ファイヤアーベントは多元主義から性急に政治的教訓を引きだした。「自由な社会とは、すべての伝統が、権力中枢にたいして、同等の権利と機会を有するものである」。後年の著作では、これがメインテーマになっていく。ファイヤアーベントは、競合する理論は、正統的科学(たとえばふつうの古典力学)から生じたものであれ、いわゆるニセ科学の流れ(たとえば占星術)から生じたものであれ、人びとの暮らしを豊かにし、自らの見解に疑問を投げかけるという健全な行為のために役だつと信じた。真に重要なのは、「真理」という思いあがった概念ではなく、人間の幸福だ、と。

 無政府主義を擁護するファイヤアーベントの意見は、さまざまな考察にもとづいて導かれたものだった――しかしいずれの考察も、かなり脆弱だといわなければならない。彼は、ごくありふれた方法論的立場を例に挙げ、科学史上には、そういう立場から示されたルールを破った例が、いくらでも転がっているという。(略)

もしもガリレオやダーウィンやアインシュタインが正統的なルールにしがみついていたなら、わたしたちにとってはありがたくない結果になっていただろう、というのである。

 ファイヤアーベントの主張には多くの難点があるが、そのひとつは、彼が破られているルールとして選んだものは、方法論をあつかっているまともな研究者なら、どのみち問題にしそうにないルールだということだ。

(略)

 量子電気力学はうってつけの例になってくれる。この理論は、現在はともかく過去においては、間違いなく深刻な矛盾を抱えていた。電子の自己エネルギーとよばれる量を計算してみると、その値が無限大になってしまったのだ。しかしこの理論は、それ以外のいくつもの点で、いい線をいっているように見えた。そして最終的には、実際に遂行可能な修正方法(「くりこみ」とよばれるプロセス)が発見されて、論理的な問題がなくなり、今日ではQEDという名前で知られるこの理論は、みごとなサクセス・ストーリーになっている。当初QEDは、信じてはいけないような理論だった。しかし、この理論には見込みがあるから、もう少し頑張ってみようと考えることには十分意味があったのだ。この理論の抱える矛盾が、そのまま宇宙のありようを反映していると考えた者はいなかった(略)

したがって、「矛盾する理論を受けいれてはならない」というルールを捨てたとみなせる人間は、じつは一人もいなかったのだ。ファイヤアーベントには、科学者が矛盾を受けいれたかに見えるこうした話をして、人を誤解に導くようなところがある。

(略)

 後年のファイヤアーベントによる無政府主義的な考えは行きすぎだとしても、初期に彼が得た結論の多くは健全なものだった。そこから得られる教訓は、ファイヤアーベント自身が、「理論の多元主義」について引きだしている――「人多ければ楽しみ多し」と。

次回に続く。

2017-08-21 吉本隆明質疑応答集〈1〉宗教 このエントリーを含むブックマーク


吉本隆明質疑応答集〈1〉宗教

作者: 吉本隆明, 宮下和夫

メーカー/出版社: 論創社

発売日: 2017/06/23

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  • 『最後の親鸞』以後

僕は親鸞のどこが好きなのか。(略)宗教を信じている人にはいい子になりたいという気持ちがあるんですよ。そして僕自身にも、自分を偽ってでも正しいことをいいたいという気持ちがあると思うんです。ところが親鸞は、人間は正しいことをいうためになぜ自分を偽らなきゃいけないのか、ということを非常によく考えて、自分を偽ることと正しいことをいうことの間に橋を架けたような気がするんです。

 この二つの間に橋が架かっている宗教家、思想家はほとんどいません。たとえばマルクス主義者でも、「おまえ、いいこというじゃないの」というのと、「おまえ、インチキじゃないの」「おまえ、こういう悪いことしてるんじゃないの」ということの間にちゃんと橋が架かっている人はいません。これは国にかんしても同じです。

(略)

 これは僕の考えですけど、もしほんとうの思想がありうるとすれば、国家として共同体として組織として、あるいは自分として自分の内面に嘘をついているということと、正しいことをいうことの間に橋が架かっていなければいけないと思う。親鸞の思想には、橋が架かっている。橋が架かっていない思想を、僕は信じないわけですよ。そもそも僕は、正義なんて信じていない。理念的に正しいことをいうのはやさしいことです。人間は、そんなのは、ちょっとでも知識・教養があればできるんですよ。僕はそう確信します。しかし、そんなことはたいしたことじゃないと思います。

 自分に嘘をついていることと、正しい理念というものと、両方に橋が架かっているということが、非常にたいせつなことだと思います。それがなければ、思想はゼロに等しいというのが僕の考えです。

『新約聖書』と親鸞

僕が理解しているかぎりで、『新約聖書』からいちばん衝撃を受けたのは次のような思想です。精神において偉大であろうとするならば、現実には偉大であってはだめだ。つまり現実的には僕[しもべ]でなければならない。あるいは、現実で虐げられた時には観念のなかに入っていけば、そこには無限に救いの世界がある。これは非常に衝撃的な考え方ですが、親鸞もこれと非常によく似た考え方をしています。

  • 『変容論』講演後

「大衆の原像」と構造主義

大衆の像[イメージ]は、たえず変わってきています。僕がそのことを初めていったり書いたりした時と較べて、「大衆の原像」はまるでちがってきている。ですから、具体的にはたいへんちがったふうに考えていかなければいけないんですが、「大衆の原像」という考え方じたいは変わらない。大衆という概念と対応しながら、人間・主体という概念がどう変わってしまったのかということがたいへん問題なわけです。僕は構造主義の考え方はたいへんみごとなものだと思うんだけど、どうも自分はその場所には行けないような気がする。自分なりにさまざまな位置づけをするんですが、それとはちがうような気がするんです。

(略)

現在の段階では、主体・人間という概念も、人間主義という概念も、非常に危なっかしくなってきている。僕自身もそう思っているし、それについてはちっとも異論はない。しかし僕はその一方で、主体あるいは人間という概念がなくなっても、その骨格として、内容という概念が残るような気がするんです。内容がどうということではなく、とにかく内容じたいはなくならない。構造主義においては主体が飛んでしまうと考えるから、内容もまた飛んでしまうと理解しても一向にさしつかえないようになっている。社会主義への理解でもそうですね。しかし僕は、内容じたいはどうしてもなくならないような気がしてしようがないんです。内容はどこまでもつきまとう。内容の意味はみんなすっ飛ばされちゃうけれども、内容じたいはなくならないんじゃないか。そこにかんしては、どうしても構造主義的な考え方になじめないなと思ってるんですけどね。

 では内容じたいとはいったい何なのかということになりますが、主体という概念と同じようなところでそれを摑んだとしても何の意味もなさない。ただ、いくつかの構造の間の連関性を考えたばあい、内容という概念はある意味をつくるだろう。意味を発させる、与える、形成するなどいろいろな言い方があるでしょうけど、とにかくなにかしらの意味を生ずるだろう。しかしそうじゃないばあいには、主体という概念に意味がないのと同様に、内容という概念にも何の意味もなくなってしまう。

 内容という概念が連関のなかに入っていったばあい、ある意味を構成するだろう。僕のなかにはそういう考え方があって、それはちょっと捨てられない感じがしています。頭では理解しているんだけど、そこだけは構造主義に付いていかれないような気がするんですよね。これは最終的に、主体という概念にかかわる。もちろん、人間という概念は歴史的なものです。17世紀から人間という概念が出てきたわけですが、今後は危うくなって全部消えていっちゃうかもしれない。主体という概念の有効性はすでにあやしくなっているかもしれないけど、内容という概念だけは依然としてくっついて、なんらかの連関や系列のなかで意味をつくるということかありうるんじゃないかと。そしてある系列のなかでは、そこでつくられた意味が人間・主体という概念の代用をなすこともありうるんじゃないかと思うんですよね。すこぶる危なっかしいところのような気もしますけど。

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2017-08-19 デヴィッド・ボウイ──変幻するカルト・スター このエントリーを含むブックマーク


デヴィッド・ボウイ ──変幻するカルト・スター (ちくま新書)

作者: 野中モモ

メーカー/出版社: 筑摩書房

発売日: 2017/01/27

|本| Amazon.co.jp

父ヘイウッドの来歴にも少々触れておこう。デイヴィーが生まれてからは「慈善団体に雇用されている郊外家庭の父親」となっていたヘイウッドだが、戦前の若き日にはロンドン都心部の繁華街ソーホーでジャズ・クラブの経営に携わっていた時期があった。この事業はうまくいかず、ヘイウッドは相続した遺産を失う結果となった。また彼はこの頃に女優ヒルダ・サリヴァンと結婚しており(略)

 表面上は「郊外の典型的な核家族」に見えるかもしれないジョーンズ家だが、その歴史には入り組んだ人間関係があり、華やかなショウビジネスヘのあこがれと苦い挫折の記憶が積み重ねられていたわけだ。エンタテインメントの世界にどんどん惹きつけられていく息子を、両親、特に父親は、複雑な想いを抱きつつ静かに応援していたようにみえる。

1stアルバム、アンソニー・ニューリー

「あちこちにルーツがあるね、ロックにヴォードヴィルにミュージック・ホール。自分がマックス・ミラーなのかエルヴィス・プレスリーなのかわかっていなかった」と振り返っている。マックス・ミラーは30年代から40年代に映画や舞台やラジオで大人気を博したイギリスのスタンダップ・コメディアン

(略)

このアルバムではロック以前、テレビ以前の時代に人々を夢中にさせたエンタテインメントの型を借りたひとくせあるポップスを聴かせている。(略)

 なにしろ一曲目から「32歳になってもマンガが好きで『バットマン』を読んでいるマザコンのおじさん」の歌である(「アンクル・アーサー」)。

(略)

全体の芝居がかった歌唱と語りのスタイルには、アンソニー・ニューリーからの影響が指摘されている。(略)

歌って踊ってお笑いもこなすマルチタレントであり大スターだった。音楽評論家のポール・モーリーは50年代末から放映されていた彼のテレビ番組について、「ジャック・タチ的かつカフカ的」「フィリップ・K・ディック脚本のディック・ヴァン・ダイク・ショウ」「テレビであんなふうにリアリティを歪ませたものはその後『ツイン・ピークス』まで出なかった」と評している。

『世界を売った男』

 このアルバムを覆う圧迫感や不安感は、ドラッグとセックスを過剰摂取する生活に加え、兄テリー・バーンズにまつわる苦悩に起因するものと言われている。少年時代のデヴィッドにジャズやビートを教えた10歳年上の兄はいつしか心を病み、60年代後半から精神病院に入っていた。この時期、テリーは時折、病院からハドン・ホールを訪れて過ごすこともあったという。デヴィッドは変わってしまった兄を見て、自分もいつか自分でなくなるのではないかと不安を覚えた。70年11月にマーキュリーからリリースされたアメリカ盤のジャケットには、テリーが入院していたケイン・ヒル精神病院の前にカウボーイが立っているイラストが使用されている。しかしデヴィッドは、イギリス盤のジャケットには別のイメージを用意することにした。

「ライフ・オン・マーズ?」

この曲はフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」に似たコード進行で、歌唱も[シナトラ・スタイル](略)

これには因縁がある。「マイ・ウェイ」はフランスの大スター、クロード・フランソワの「いつものように」にポール・アンカが英語詞をつけた曲なのだが、実はデヴィッドもソングライターとしてこまごまとした仕事を手掛けていた68年頃に英語詞を提出していたのだ。彼はコンペには敗れたものの、数年の時を経て「マイ・ウェイ」を下敷きに「ライフ・オン・マーズ?」を生んだ。

ジギー・スターダスト

 ジギー・スターダストというキャラクターを考案するにあたってデヴィッドの頭の中にあったのは、50年代に活躍していたロカビリー歌手ヴィンス・テイラーの存在だ。デヴィッドは60年代半ば、ドラッグとアルコールの影響で精神に不調をきたし、UFOやエイリアンの話をしながらソーホーあたりをうろついていたヴィンスを見かけていた。ヴィンスは自分が異星の救世主だと信じ込んでいたという。

 加えて、「スターダスト」の姓は、テキサス出身のノーマン・カール・オダム、別名ザ・レジェンダリー・スターダスト・カウボーイがヒントになった。デヴィッドは70年にアメリカを訪れた際、シカゴで彼の68年のシングル「パラライズド」を入手し、この宇宙を夢見るワイルドな(支離滅裂とも言う)カウボーイの大騒ぎにおおいに刺激を受けていた。オダムは90年代に「アウトサイダー・ミュージック」の文脈で再評価されたりもしている。そしてもちろん、「ジギー」の名にはイギー・ポップの「イギー」が埋め込まれている。


Jet Black Leather Machine

アーティスト: VINCE TAYLOR

メーカー/出版社: ACE

発売日: 2009/01/27

|CD| Amazon.co.jp


PARALYZED! His Vintage Recordings 1968-81

アーティスト: The Legendary Stardust Cowboy

メーカー/出版社: EM RECORDS

発売日: 2006/10/15

|CD| Amazon.co.jp

ナイル・ロジャース

[シックやプロデュースで大成功していたが]

82年には彼曰く「世界でいちばんクールな男だったのが電話を折り返してすらもらえなくなっていた」。つまり、よく「ボウイは売れ線を狙ってロジャースを起用した」と言われているのは確かにその通りなのだが、彼に決めた時点では、その選択はボウイにとっても賭けに違いなかったのだ。

 ふたりは82年の秋のある日、ニューヨークのクラブ、ザ・コンチネンタルで偶然に顔を合わせた。ロジャースの連れのビリー・アイドルが、デヴィッドがいることに最初に気づいた。酔いつぶれたビリーをよそにデヴィッドとロジャースは古いジャズの話で意気投合し、後日改めてホテル・カーライルのバーで会うことにした。このとき、待ち合わせの相手が隣にいながらも20分間お互いに気がつかなかったというエピソードは、彼らの「ちっともグラマラスじゃない」普段の姿が偲ばれてほほえましい。

 デヴィッドは『戦場のメリークリスマス』の撮影に入る前の休暇に、50年代から60年代の古いR&B、ジャズ、ブルース、ロックンロールのテープを持って行って聴き込んでいた。社会の周縁にある者の痛みが根底に流れてはいるものの、基本的には元気いっぱい跳ねるような、楽しい時間を過ごすための音楽。表面上の響きはまったく異なるが、その精神は今日のディスコにも一直線に通じている。(略)

 デヴィッドとロジャースは新作をどんなふうにするべきか、二週間ほどニューヨークの図書館やレコード店を回りながら話し合った。そんなある日のこと、デヴィッドが「次のレコードはこれで決まり!」と一枚の写真をロジャースに見せた。赤いスーツで赤いキャデラックに乗ったリトル・リチャードだった。単純に「リトル・リチャード風」という話ではないと、ロジャースにはすぐにピンときた。「どう見ても50年代から60年代はじめの写真なんだけど、それはモダンに見えた。キャデラックは宇宙船みたいでリトル・リチャードは全身真っ赤の格好。それが後に全身黄色で黄色い髪のデヴィッド・ボウイになるんだ」。ロックンロールを基盤に、白と黒が混ざり合って目が覚めるような色彩を発するのだ。

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2017-08-17 デヴィッド・ボウイ――気高きアーティストの軌跡 このエントリーを含むブックマーク

「気高きアーティストの軌跡」という副題の割に、著者の主な興味はセレブゴシップにあるようで、音楽本として読むと肩透かしを食います。そういう視点だからこそわかる、ボウイの交友関係というのもあるし、下記のような描写は音楽本では出てこないから、それはそれで意味があるのかもしれないが、音楽そっちのけで延々そんな話ばかりだと……。それにしてもニーナ・シモン、ティナ・ターナー、ルル、ロニー・スペクターから友人の女(マリアンヌ・フェイスフル、ビアンカ・ジャガー)と華麗な性遍歴。男女問わず、手当たり次第で、リンゼイ・ケンプとその舞台装置衣装デザイナーのナターシャ・コルニロフ、両方とできちゃって、二人を自殺未遂に追い込んだり。

[チェリー・ヴァニラ回想]

 「彼はいつでも気のあるようなそぶりを見せていたわ。目をまっすぐに見つめてくるんだけど、決して押し付けがましくはないのよ。彼の女性の扱いは、男性に対するものと完全に同等だった。そして、その人のセクシュアリティだけでなく、知性も見ていたの。(略)

彼が服を脱ぎ始めた。わたしはなんてきれいなんだろうと思ったわ。まるでサテュロスみたいだった。彼の体は、上の方がかなり痩せっぽちで、上半身や腕、胸は細いのに、脚だけは筋肉ががっしりしていた。お尻から太ももにかけてが大きくて、まるでギリシャ彫刻みたいだったわ。(略)

セックスは普通に、いやらしくて荒っぽくて、激しかった。だけど単にセックスしてるだけっていう気持ちにはまったくならないの。本当に、愛の営みをしているんだって感じがしたわ(略)

キスが本当に上手で、いっぱいキスしてくれた。全身にそっと触れたり、首筋に息を吹きかけたりしてくれて、すごく優しいの。しかも彼、すごく男らしくてたくましくて、ずっと立ちっぱなしでいられるのよ。あの瞬間は、いかにも愛しあってるって感じがしたわ。


デヴィッド・ボウイ――気高きアーティストの軌跡

作者: ウェンディ・リー, 江上泉

メーカー/出版社: ヤマハミュージックメディア

発売日: 2016/12/23

|本| Amazon.co.jp

 ペギーはいつも、勇敢で恐れを知らないパイオニアであった。1940年代のイギリスで、ズボンが女性の服装として受け入れられるずっと前からそれを履いていたような人だ。(略)

婚姻関係のない男性との間に子どもをひとりでも産もうものなら村八分にされたような時代に、デヴィッド含む3人の非嫡出子をもうけている。彼女はわが道を突き進み、決して恐れなかったのだ。(略)

 ペギーは、短期間ながら、オズワルド・モズレー率いるイギリス・ファシスト連合に入れ込んでいた。

(略)

だがそれから10年もしないうちに、ペギーは裕福なユダヤ人毛皮商の息子ジャック・アイザック・ローゼンバーグと関係を持ち、彼との間に息子のテリーをもうけている。デヴィッドの9歳上の義兄である。

(略)

[ペギーは読書家で、死ぬまでずっと凝った内省的な詩を書き、息子を抱くこともキスすることもなかった]

息子との親密な関係を構築する能力の欠如から判断するに、彼女にも妹のウナ、ノラ、ヴィヴィエンヌも患った統合失調症の兆候がわずかに現れていた可能性が非常に高い。

[ボウイの発狂への恐怖の防波堤となったのはレイン『引き裂かれた自己』であった。一方、父の方はステージパパとしてボウイのデビューのために奔走]

門番・ココ

親友であり、1974年から公私あらゆる側面にわたって彼に仕えてきた忠実な従者でもある彼女の名は、コリーン・“ココ”・シュワブ。(略)

彼の門番として、また庇護者としてのココは、伝説に残るすさまじさであった。デヴィッドの先妻アンジーを含め、彼女が望ましくないと考えるあらゆる人間を彼の領域から追い出し、自分自身の生活や存在を犠牲にしてまで24時間休みなく彼を保護するのである。デヴィッドに対するココの献身ぶりは、彼が麻薬に溺れた時期をはじめ、アンジーとの離婚を経て2013年に至るまで常に完璧であった。この年、英国でもっとも栄誉あるミュージック・アワードと言われるマーキュリー・プライズの受賞式で初披露された「Love is Lost」のプロモーション・ビデオを制作する際も、ココがそばに控えてサポートに徹している。

(略)

 高僧の用命に応ずるウェスタの処女だったのか?それとも彼を欲する生身の女性だったのか?

(略)

 真実がどうあれ、ココは40年にもわたってデヴィッドの人生に存在している。1987年にデヴィッドが書いた「ネヴァー・レット・ミー・ダウン」は、ココの彼に対する友情や忠誠心にインスピレーションを得た歌である。また、ココの60歳の誕生日には、バラ色のダイヤモンドがちりばめられた指輪を贈り、彼女の並々ならぬ尽力を称えている。

 しかしながら、ココの忠誠心はときに、他人からは威圧的とも感じられるような猛烈さにつながってしまうことがある。よくボウイと一緒に仕事をしていた人物が明かすところでは、もう数十年にわたってボウイの広報分野で中心的役割を果たしている尊敬すべきイギリス人広報マン、アラン・エドワーズでさえ、ココがロンドン入りするといまだに恐れをなすのだという。そして、彼女に応対するすべての人間に「間違ってもココを怒らせるなよ……」と念を押すのだそうだ。

リトル・リチャード、サックス

[他の子供とは違い]デヴィッドには幸運にも、無料で手に入れられる特権があった。父親がドクター・バーナード・ホームの広報主任だったため、支援者たちが寄付してくれた最新のレコードを定期的に持ち帰っていたからである。

(略)

 「子どものころは熱狂的なアメリカファンだった」とデヴィッドは言う。

 「でもぼくは、アメリカが拒絶するものばかり好きだったんだ。ブラック・ミュージックとか、ビート・ジェネレーションの詩人とか(略)

 リトル・リチャードのレコード盤をはじめて父親から与えられて以来、アメリカはデヴィッドの夢のふるさとになった。そしてそのころから、夜になると布団にもぐりこんで、AFNラジオでレコードのトップテンや、アメリカのスプリングタウンを舞台にした放送劇を聞くようになった。

 「ぼくは登場人物のひとりになって、そこで生活しているところを空想していたんだ。ソーダを飲んだり、キャデラックを運耘したり、リトル・リチャードのバンドでサクソフォンを吹いたりしてね」(略)

中途半端が嫌いだったデヴィッドは、サクソフォンの演奏もしていたリチャードの足跡をたどることにした。

(略)

[地元のサクソフォン奏者ロニー・ロスから毎週土曜三ヶ月間レッスンを受けた]

[のちにルー・リード『ワイルド・サイドを歩け』でサックスが欲しくなり]

ロニー・ロスを押さえてもらったんだよ」

 ロニーはたった1回のテイクでソロパートを完璧にきめた。親切にしてもらった恩を忘れることのないデヴィッドは、にっこり笑って言った。

 「ありがとう、ロン。土曜の朝、ご自宅に伺いましょうか」

 「おいまさか、ウソだろう?」

ロニー・ロスは驚きの声を上げた。

ミック・ジャガー

 「オリバー!」の製作者でミュージカル界の巨匠、ライオネル・バートもデヴィッドに惹かれたひとりである。(略)

[だが彼の美少年好きを利用していたのはボウイだけではない]

ほかならぬミック・ジャガーも、ロック界のスーパースターに上り詰める過程でバートと親密な関係を築いていたらしいからだ。(略)

[65年住む家がなかったミックとそのガールフレンド・クリッシーを自宅アパートに置いてやっている]

「クリッシーは、ミックが引き寄せるほかの新しい友人たちに悩まされるようになった。(略)

アパートのあちこちに潤滑ゼリーのチューブが堂々と置かれており、純真なクリッシーがヘアジェルと勘違いしていた」

ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、巨根

 ファーストアルバムのリリースから10日後、デヴィッドは重大な決定を下した。実家を出て、ロンドンのエレガントなマンチェスター・スクエアにある、本で埋め尽くされたケン・ピットの4階建てアパートに引っ越したのである。

(略)

[ピットはアメリカから持ち帰ったVU1stのデモテープを]「悪趣味なアルバムだけど、たぶんこういうの好きだと思うよ」と言ってデヴィッドに渡した。デヴィッドは語る。

 「ぼくはそれがものすごく気に入った。そして、これがおかしな話でね、そのアルバムの何曲かを、ステージでやり始めた。つまりぼくは、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの曲を、アルバムが出る前にカバーしていたんだよ」

(略)

[ケン・ピット証言]

 「時々、部屋の中を裸で小走りしているときなど、彼の長くて重そうなペニスが振り子時計の振り子のように右へ左へと揺れていた」

 デヴィッドはその立派な生まれ持っての恵みに気後れするどころか、ことあるごとに嬉々としてひけらかした。

(略)

リサ・ロビンソンは、雑誌『After Dark』で「彼の顔以上に浮世離れしているのは股の部分だ。けたはずれに大きくて、およそ人間のものとは思えない」とコメントしている。

バイセクシャル

[トニー・ザネッタ談]

 デヴィッドがゲイではないのは確かだね。ゲイの世界ってのが好きなんだよ。一緒にベッドにいるときの彼は、ますますみだらでナルシスト的だった。彼は崇拝されればそれでいいんだ。本当のところはバイセクシャルだと思うよ。彼にとって性別なんてたいして重要なことではないんじゃないかな。

 でも、ぼくたちは一夜を共にしたことで、ある種ほんものの一体感を築くことができた。そしてぼくは、ぼくたちの間には特別な何かがあると感じたんだ。デヴィッドは根っからの色男だよ。まるで、彼の宇宙の中心に、自分ひとりだけが存在しているような気分にさせられるんだ。そうなったらもう、いわば彼の独檀場さ。でもそのあとで、もう一歩関係を進めるんだよ」

 翌晩も、デヴィッドはトニーのまわりに甘い網を張りめぐらせ、アンジーも入れて寝てみるのはどうかと提案してきた。

 「ハードコアなセックスではなくて、むしろロマンティックなものだった」と、トニーは言う。「抱き合ったり、ひたすら舌を使ったりという感じだったね。だけどそしたらアンジーがむくれちゃって、不機嫌になってしまったんだ。嫉妬したのかなんなのか、わからないんだが」

 メインマンのオフィスマネージャー兼広報担当となったチェリー・ヴァニラは、「アンジーは、セックスとワイルドさに関しては口だけなのよ」と言う。

ミック・ジャガー・その2

[デヴィッドと関係があったアマンダ・レアは]デヴィッドとミックの関係は性的なものではないと断固主張していたが、あとになってミックの伝記作家であるローラ・ジャクソンに「わたしが知っている時期について言えば、デヴィッドはジャガーにぞっこんだったと思う」と話している。(略)

「デヴィッドは、何かというとミックの真似ばかりしていたわ」とアマンダ・レアは言う。(略)

 ミックに対するデヴィッドのライバル心があからさまに頭をもたげた例としては、こんな顕著な出来事がある。ミックを訪問中、デヴィッドはミックが次作アルバムのジャケットのデザインを、ベルギー人のデザイナー、ガイ・ピラートに任せる予定であることを知った。デヴィッドはさっそく受話器を取り上げると、自身のアルバム『ダイヤモンドの犬』のジャケットデザインもガイに依頼した。

 「ミックがばかだったんだよ」後にデヴィッドが話している。

 「ぼくに新しいものを見せたりしちゃいけないってことさ。もうこりごりだろうね。この業界では嫌なやつでなくちゃやっていけないんだよ」

デヴィッドは少し得意げに、ミックは今では新しいアイデアがあるときは怖くて一緒の部屋に入ってこないのだと付け加えた。なぜなら「ぼくがそれを盗むって知っているから」だ。

 後にミック自身も、わざわざコメントを発表しているようだ。

 「デヴィッドがいるときは、履いている靴に気をつけることだ。次に会ったとき、あいつは同じものを履いているはずさ。しかもあいつの方がかっこよく履きこなしてるときた!」

 しかし、ミックとデヴィッドは明らかにお互いの素性を知っていたにもかかわらず、長年の間、ずっと不思議な縁でつながっていて、ハリウッドの男の友情を描いた映画『ペテン師とサギ師/だまされてリビエラ』や『イシュタール』のオーディションを一緒に受けに行き、どちらも不合格に終わっている。

(略)

 ブライアン・フェリーが『愚かなり、わが恋』という全曲オールディーズをカバーしたソロアルバムのレコーディングを控えていることを知ると、デヴィッドはすぐにこれに倣い、60年代オールディーズのカバー・アルバム『ピンナップス』を作ることにした。これはブライアン・フェリーもおもしろくなかったようだ。将来的に、彼らはアマンダ・レアという恋人を共有し(ただし同時期ではない)、またデヴィッドと同じく、ブライアンもコカイン問題に悩まされることになる。

グレン・ヒューズ

ディープパープルのグレン・ヒューズが、デヴィッドの薬物はびこる幸薄き世界に足を踏み入れることになった。(略)

 「デヴィッドがぼくを誘ってくることはいちどもなかった。でもぼくはいつも、ぼくたちって一体何がどうなっているんだろうと思っていたものさ。彼とアンジーはかなりオープンな結婚生活を送っていた。(略)

 突然、デヴィッドがぼくに、アンジーと一緒にプラザ・ホテルに帰ったら、と持ちかけてきた。(略)

 いろいろとあって、気づくと彼女がぼくの上に乗っていた。ぼくはただ、なされるがままだった。すごく悲しくて腹立たしくて、もう少しで泣き出してしまいそうだった。デヴィッドはこうなってほしかったわけだけど、ぼくは彼を裏切っているのが申し訳なくてね」

 だがアンジーと夜をともにしたあとも、グレンはデヴィッドと過ごし、一緒にコカインをやった。

 「コカインに強かったのはぼくより彼の方だよ」とグレンは言う。

 「だって、ナチスのことやなんかを考えたり長々と話したりできたんだからね。だけど、デヴィッドはぼくのガールフレンドや、そのあとはぼくの妻にも目をつけていたんだ。何かあったかどうかは知らないけど、とにかくコカインを中心に生活が回っていたね」

(略)

「わたしは、コカインをやっているときの彼を愛していたの。彼は本当におもしろかった。魔術とか幻想の話をよくしていたわ。それから、陰謀説とかまともとは思えない持論もよく展開してた。トニー・デフリーズはヒトラーの、ルー・リードは悪魔の生まれ変わりで、やつらは一緒になってぼくをやっつけようとしているんだ、とかね」とチェリー・ヴァニラは言う。(略)

「ミック・ジャガーがわたしの家までやって来て、デヴィッドとわたしがベッドルームでセックスしている間、リビングで音楽を聴いてたってことも一回あったな。

『地球に落ちて来た男』、8歳のスラッシュ

ドキュメンタリー番組『Cracked Actor』がデヴィッドを特集し、BBCで75年1月に放送されたときの印象はさらに強烈だった。彼は見るからに薬のせいで判断力が低下しており、まさに綱渡りという状態だった。(略)

痛々しいほどにやせ細り、頬骨とあごはナイフの刃のようにとがり、やつれて疲れきった顔をしている。そして、直近にやったコカインの名残だろうか、本番中もしきりに鼻をすすっているのである。

(略)

彼がドラッグに溺れていることは世間に知れ渡ってしまったが(略)この番組をきっかけに、彼は『地球に落ちて来た男』の役を得たのである。

(略)

ピーター・オトゥールが別の映画の撮影中であることを知らされ、そこで名前が挙がったのがミック・ジャガーだった。だがニコラス・ローグ監督が彼では強すぎると判断する。

 「ニックが言ったの。『弱々しくて、細身で、青白い感じの役者が欲しいんだよ。まるで骨がないぐらいに見えなくちゃいけないんだ』って」

 このことばを聞いたマギー・アボットは、デヴィット・ボウイはどうかと口を挟んでみた。(略)

 ところが、ニックとドナルドは、ふたりともデヴィッド・ボウイが何者なのかを知らなかった。そこでマギーは(略)[BBCの]映像を見せた。それを見た瞬間、ドナルドとニックは探し求めていたトーマス・ジェローム・ニュートン、すなわち地球に落ちて来た男を見つけたことを即座に確信

(略)

[ボウイは]撮影の合間の多くを、無声映画スターのバスター・キートンの伝記を読んで過ごした。(略)

衣装デザイナー兼モデルをしていたオラ・ハドソンという美しい黒人女性と情事を重ねていた。彼女の息子は、のちのガンズ・アンド・ローゼズのスラッシュである。

 スラッシュが、自宅の部屋に入り、そこにデヴィッドが自分の母親と素っ裸でいるところを目撃したのは、8歳のときだった。

シン・ホワイト・デューク

[このころのボウイは]自身最後のペルソナとなる“シン・ホワイト・デューク”の役に入りきっているところだった。これは明らかにコカインによる妄想症から生まれたものだ。(略)

凍てつくような不安感としゃれ男の冷笑(略)薬物乱用と無関係とはいえない極度の自己嫌悪も手伝って、彼はシン・ホワイト・デュークを「まさにアーリア人的ファシストタイプ。感情をいっさい持たない似非ロマンチスト」とみなしていた。

(略)

 「80年代半ばまで、完全にはやめられなかったね。ぼくは中毒になりやすい性格で、それがぼくの人生を支配していたんだ。今は、よかったとも悪かったとも言い切れないな。あんな思いを味わうことになるなんて、ただごとじゃないよ。またあの経験をしたいとはまったく思わないけど、経験しておいてよかったんじゃないかとは思うよ」

[キャメロン・クロウはこの時期にしばしば取材しており](略)

 「(デヴィッドが)あるとき寝室のシェードを引き下ろしたら、妙な記号が書いてあった。自分の尿を瓶に保存していた時期もある」

 「妙な信念体系を持っていた――白魔術みたいなものに取り組んでいた」とクロウは記している。

 30年後、デヴィッドはクロウの記事を読もうとしたものの、とても最後まで読むことができなかったという。

 「たぶん、ぼくの人生で最悪な時期のひとつだね」と彼は言う。

イギー・ポップ、デボラ・ハリー

[77年、イギーのソロのバックを目立たぬように務めたが]

一部のハードコア・パンクのファンにはこれがおもしろくなかった。ジョニー・サンダースなどは、「ジム[イギーの本名はジェイムズ]なんか、いまやただのボウイの女じゃないか」ととげのある言い方をした。

(略)

[イディオット・ツアーに途中参加したデボラ・ハリーをイギーとデヴィッドは口説いたが]

「全然なびかなかったよ。彼女、さらりとかわすのが上手でね。いつも、『そうねえ、またこんど、クリスがいないときにね』って感じで、クールにあしらわれちまうんだよ」[とイギー]

『ワンダーウーマン』

[アンジーはTVドラマのオーディションを受けたが]

ブラジャー姿での出演を断固拒否したために、結果的にその配役につくことはできなかった。

ベルリン

彼が住んでいたのは、ナチスドイツの生存者や東ドイツからの亡命者など、愛する者から引き離された者たちが暮らす町だった。こういったことすべてが(略)厭世観につながっていった。それによってデヴィッドがベルリンで極限状態まで追い詰められていったことは驚くにあたらない。彼はそれまでよりも、わざと自滅的な行動をとるようになる。“誰か”と言い争ったあと、ガレージから自分の車を出してきて、地下駐車場をぐるぐると回り続け(略)

 「ぼくはコーナーを回りながら、時速40マイルから50マイルぐらいまでスピードを上げていった。ダッシュボードを見ながら『ちくしょう!まだ衝突しないのか?』って考えてたのを覚えているよ」と彼は言う。

(略)

 ただ一方で、ベルリンに住んでいたことによって、常にクラフトワークのテクノロックを耳にすることになり、彼のクリエイティビティはたきつけられた。

ちょっといい話

 マーク・ボランが亡くなったのは、彼の息子ローランの誕生日の直前だった。マークはローランの母親にあたる女性と籍を入れていなかったため、少年は路頭に迷うことになってしまった。しかしローランの名付け親だったデヴィッドが、彼の学費やその他の費用を支払い続けたのである。

 「懐の深いデヴィッドのおかげで、ぼくと母親は生きていくことができたんだ」ローラン・ボランは言う。

 「経済的な支援だけじゃない。時間も使ってくれたし親身にもなってくれた。彼はしょっちゅう電話で連絡してきて、そのたびに、最初と最後に『ぼくにできることがあったら遠慮せずに連絡してくれ』って言ってくれたんだ。ぼくたちが感謝しても、盟友の家族のためならこのくらいなんでもないよ、ってさらりと流されたものさ」

インターネット

[1999年のインタビュー]

 「オンラインで音楽が聴けるとなると、配信システムにも影響を及ぼしうるところが楽しみだね。消費者にとってもよいニュースになるはずだよ。個別に曲を選ぶもよし、いろいろなアーティストのコンピレーションを作るもよし。ある意味、プロデューサーになるってことさ

(略)

レコード会社はぎりぎりのところに追い込まれるまでウェブに抵抗するかもしれない。(略)

もし、今ぼくが音楽の仕事を始めるとしたら、ロックはもう新鮮味のない退屈な形式だとみなすと思う。でも、インターネットはこれからを感じさせるものだよ」

  • 遺産

1億ドルの遺産をイマン、ダンカン、レクシーが相続したが、ボウイはダンカンの乳母だったマリオン・スキーンに100万ドル、忠実なるココに200万ドルを残している

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2017-08-15 トランプショックに揺れる世界  『世界』 別冊 このエントリーを含むブックマーク


トランプショックに揺れる世界 2017年 04 月号 [雑誌]: 世界 別冊

作者: 岩波書店

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2017/03/24

|本| Amazon.co.jp

  • 『トランプ症候群――アメリカの病根』赤木昭夫

トランプはいつ出馬を計画したか

 1987年の意見広告以降、トランプは数度にわたって出馬をうかがいつつも、支持を得られず党の候補になれないまま、断念していました。2000年には「改革党」の党大会で一万五〇〇〇票を得たのですが、出馬を辞退しました。

 2003年からはテレビのレギュラー番組を持ち、顔を売り、政治資金の蓄積を続けました。(略)

 出馬が現実株を帯びるのは、2011年にスティーブン・バノンと親しくなってからです。バノンの紹介で右翼ラジオにも出演するようになりました。(略)

 元議員で選挙コンサルタントのデイヴィッド・キィーンの斡旋によって、2011年2月にはCPACで政見発表の機会をつかんだのです。そのときのスピーチ内容は現在の主張と同じです。

 そこでは好感触だったものの、支持は広がりませんでした。

(略)

これだけの年月をかけて周到に出馬準備をしたとも言えるでしょう。しかしその間を通じて、主張は変わっていない。だから、思い詰めた一念と言われるわけです。

バノンとは何者か――怪物の正体

 電子工学の学士号を得てから、海軍将校(中佐、副艦長、つまり艦長付きの参謀で退役)、ゴールドマン・サックスの分析屋、ドキュメンタリー映画のディレクター兼ライター、選挙屋で、合わせて四面相、アマチュアの域を出た(政治思想史)歴史家を加えると、五面相だから、ちょっとやそっとでは出会えない。道理でトランプが片時も離したがらないわけです。

(略)

[トランプ政権、第三の柱は、行政府の脱構築]

 「再編」などではなく、「脱構築」という哲学用語を使うのは、もったい付けるためもあるでしょうが、いったん解体して、従来の関係をひっくり返して、組み替えるという底意地を抱いているからです。閣僚の人選は、そうした脱構築を念頭に進められたと、バノンが語っています。

 それなりに言葉遣い(ワーディング)には、気をつかっています。もし「政治の脱構築」とか、「立法府の脱構築」とでも言おうものならば、たちまちファシズムと非難を浴びせられることを、バノンはよく承知しているようです。

(略)

[バノンはしばしばユリウス・エヴォラを紹介してきた]

彼の著書、英訳のタイトルは『レヴォルト・アゲインスト・ザ・モダン・ワールド(現代世界にたいする反逆)』(1934年刊)です。これをバノンは読み込んでいる。(略)

 内容を要約すると、進歩と平等は幻想だとする世界観、右翼的な宗教組織が奉ずる「トラディショナリズム」の思想を説いています。実はムッソリーニが率いるファシストの教典、ナチズムにおけるヒットラーの『わが闘争』に相当する問題の書なのです。(略)

 これと並んで売れているバノンの愛読書が、ウィリアム・シュトラウスとニール・ホウの共著『ザ・フォース・ターニング』(1997年刊)です。(略)

 内容は、書名の通りで、四番目の曲がり角です。いずれも概数だが80年おきにアメリカは大きな戦争を経験してきた、その間の四番目の20年間が戦争にさしかかる「四番目の曲がり角」というわけです。

 この前の大戦争が1945年に終わったので、つぎの大戦争は2025年前後に起こることになる。そうだとすると、2005年からは、戦争が起こるであろう「四番目の曲がり角」の只中にあることになります。

 バノンは、そのつぎの具体的な戦争として、米中戦争を口にするのも辞さないのです。


Revolt Against the Modern World

作者: Julius Evola

メーカー/出版社: Inner Traditions

発売日: 1995/10/01

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ニュー・レフトが衰退するにつれて、資本主義社会にかんする構造的な批判は消え、この国の特性であるりベラルな個人主義的思考が再び幅をきかせるようになり、「進歩主義者」や左翼を自称する人たちの情熱はいつの間にかしぼんでいった。

 しかしながら、勝敗を決定的なものにしたのは、この展開とネオリベラリズムの台頭の一致である。資本主義経済を自由化することしか頭にない政党は(略)能力主義的企業型フェミニズムに、その理想の相手を見つけたのである。

 その結果が、ずたずたにされた解放の理念と金融化の破滅的な形態とが混ざり合った「進歩主義ネオリベラリズム」だった。この混合こそが全体としてトランプ支持者たちに否定されたのである。この素晴らしきコスモポリタンな新世界に特に顕著にとり残されていたのが産業労働者だったことは間違いないが、経営者や小事業主、そしてラストベルト地域や南部の産業を頼りにしている全ての人びと、失業やドラッグによって荒廃した地方に住む人たちもまた、とり残されてしまったのだ。

 これらの人びとにとっては、産業の空洞化という損傷が、進歩主義的モラリズムによる侮辱のために一層悪化させられたのである。というのも、それはいつも決まってかれらを文化的に遅れた人たちとみなしていたのだから。

(略)

かれらから見れば、フェミニストとウォール・ストリートは同じ穴のむじなであり、ヒラリー・クリントンという人間において、それらは完璧に一体化していたのである。

 このような融合を可能にしたのは本物の左翼の不在である。(略)もう数十年もの間、合衆国には持続的な左翼が存在しない状態が続いていた。トランプ支持者たちのまっとうな不満を、一方で金融化への包括的な批判に、他方で反レイシズムや反セクシズム、反ヒエラルキーといった解放のヴィジョンヘと、それぞれ結び付けることのできる幅広い左派のナラティブも存在しなかったのである。

(略)

[トランプが]ライバルたちをやすやすと打ち負かしている間、サンダースの反乱は全く民主主義的ではない民主党によって効果的に抑制されていた。総選挙までには、左派のオルタナティブは鎮圧されてしまっていた。

 残ったのは、反動的ポピュリズムか進歩主義ネオリベラリズムかという、選択の余地のない選択だった。左翼と呼ばれる人たちがヒラリー・クリントン側の陣営を固めたとき、賽は投げられた。

(略)

 それでもなお、今この地点から、これは左派が拒まなければいけない選択である。解放と社会保障を対立させるような、政治家たちによって提示される条件を受け入れるのではない。むしろ、この現行の体制に対する巨大な、そして今も募り続けている社会的反感に基づいて、解放と社会保障の再定義に取り組まなくてはならないのだ。金融化とセットになった解放の側で社会保障と対立するのではなく、金融化に対抗するような、解放と社会保障の新たな連合を立ち上げていく必要がある。

  • 「アメリカ民主主義の防衛に残された時間は長くて一年」ティモシー・スナイダー

――バノン氏が「レーニン主義者」を自称するとき、米国人は彼が何を言っているのか分かっているのでしょうか。

いいえ、たいていは何も分かっていません。(略)

不正に対する反抗と、政治体制総体の廃絶――バノン氏が追求していると言うのはこれなのですが――、その違いを区別していないことがある。

 アメリカ革命は、実は英国由来の諸観念を守りました。なかでも法治がもっとも重要なわけです。アメリカ革命を正当化する完璧な理由は、英国が自らの原則を守っていない、自らのシステムの中にアメリカ人を含めていないということにあった。ざっくり言えば、それは市民権運動の論点でもありました。すなわち、体制はすべての市民に平等の権利を及ぼさなければ機能不全を起こすということです。そこで抵抗や、単なる破壊ではなく、基準を満たすことを目指す革命さえあり得るわけです。

 バノン氏がボリシェヴィキについて正しく述べているのは、ボリシェヴィキが旧体制の完全破壊を目標にしたということです。わたしたちは一方からもう片方へ、反抗の姿勢から体制の完全否認へ、いとも筒単に移行できてしまう。大方のアメリカ人は人生のほとんどの期間、法治国家に生きてきました。アフリカ系アメリカ人は例外です。だから、大方のアメリカ人はこれが永遠に続くと思っています。「破壊」が実は、彼らが当然視してきたことの多くを破壊しかねないということが分からないのです。国家を破壊するということが何を意味するか、法治がもはや存在しなくなったら、自分たちの生活がどうなるのか、まるで分かっていないのです。

 アメリカ国家の破壊を口にする面々がいまやアメリカ国家を預かっていることに、わたしは空恐ろしさを感じています。

(略)

――バノン氏が報道機関を主たる「野党」と呼ぶとき、だれしも懸念せずにはいられません。(略)

 報道機関が野党であると言うのは、米国の体制転換を主張していることになります。わたしが共和党員で、民主党は野党だと言えば、それはわたしたちの制度について語っていることになる。もしわたしが、政府は一つの党であり、報道機関は野党だと言えば、わたしは権威主義的国家を語っているのです。これは体制転換です。

――トランプ氏はデモ参加者を「暴漢」「金で雇われた抗議者」と呼びました。これは米憲法修正第一条で保障された権利に対する敬意を表していない。むしろプーチン・ロシア大統領の話しぶりに聞こえます。

 まさにロシア指導部と同じです。実際には、共和政体の核となる価値観を代表している人々を軽視する考えです。要は、共和政体を打倒するということなのです。そうした人々に同意しないのはいい。しかし、彼らには抗議する権利がないと言ったり、彼らについて嘘をつきはじめたりすると、事実上、「われわれはこれがもはや許されないような体制を望んでいるのだ」と言っていることになります。大統領がそう言えば、行政部門が法の支配なき一種の権威主義的体制に向けての体制転換に専心していることを意味します。人々をこの変化に慣れさせ、彼らに共和政体を守っている同胞市民を軽蔑するよう要求することで、人々をこのプロセスに巻き込んでいるのです。また、人々をインターネット上の果てしない虚偽言説の世界と、他者との体験から離れる道へ誘い込んでいるのです。

 抗議のために外へ出ること、これはリアルなことであり、愛国的なことだと言ってもいい。この新たな権威主義的統治の属性は、人々がリアリティと行動よりフィクションと無為を好むよう仕向けることです。人々は椅子に座り、ツイートを読み、こう常套句を繰り返すわけです。「自分の信念のために街頭に出るのは正常だ」ではなく、「そうだ、やつらは暴漢だ」と。トランプ氏は人々に新しい振る舞い方を教えているのです。すなわち、今いる場所にただ座り、わたしの言うことを読み、うなずけと。それは体制転換の心理です。

  • スティーブ・バノンはなぜ「行政国家」を崩そうとしているのか? カーティス・アトキンス

[バノンの]最も意味深な発言は、彼が何度も言及した「行政国家」にあるだろう。彼はトランプ内閣の全閣僚は「理由があって任命された……それは『行政国家』の解体だ」と述べた。(略)

 「行政国家」という言葉は、政治学と行政学の学者たち以外ではどこか曖昧な言葉だ。この曖昧さを利用してバノンは話の進行を勝手に決め、次のようにこの概念の自己流解釈を行った。

「我々が出会ったビジネス界の重鎮たちは、税制だけではなく規制にも言及した。民主党のやり方はこうだ。税制の法案が通過しなければ、何らかの規制を加える。それらの規制はすべて解体する。だからこの規制に関することはとても重要だ」

(略)

 こうした説明から受け取る「行政国家」のイメージは、選挙で選ばれたわけでもない単なるリベラル派の雇われ官僚が、無謀そして暴虐的に経済やアメリカ市民を支配するということだ。民主党が選挙で負けたり、法案が議会を通過することができなければ、彼らは官僚の権限を行使し、議題を規制に潜り込ませる。

 「行政国家」はどこか破壊的要素を持ち、非民主的とみなされる。リベラル派や進歩派が自分たちを支持しなかった人々に自らの政策を強いる方法だ。

 行政国家の本来の意味は、全くこの逆だ。

 大学教授でアメリカ政府物価統制官を務めたドワイト・ワルドーは、1948年に初めて行政国家という言葉を編み出した。彼は、役所幹部(略)からの命令に心なく従う官僚の本来のあり方は、実は民主主義とは相容れないと主張した。

 自分の頭で考えずに政策の歯車の一部として政策命令に従うというのではなく、ワルドーは、公務員は知識を持ち、人々の暮らしを改善するために変化をもたらし、民主的な参加を強調する積極的な役人であるべきだと信じた。

(略)

 官僚たちに課された責任は、政治家ではなく国民に仕えることだった。ワルドーは政治学の専門書において、国家は選挙で選ばれた権力者の単なる道具であると見なす政治と行政の二分化を拒否した。権力者たちが求める「能率」は、法の支配、裁判や行政の活動における法の適正手続きおよび透明性に優先されるべきではなかった。

 おそらく、ワルドーの最も重要な処世訓は、政府は企業のようになってはならないということだろう。民主主義、憲法および公共の利益は、収支決算に気を取られたり命令に従うのではなく、より高い規範の遵守が求められる。このため公務員は自らの頭で考え、政治家が決めた政策を実施するにあたり、その影響を考慮しなければならなかった。それはどのように人々の生活に影響を及ぼすのか?どのように実施されるべきか? というように。

(略)

[一方トランプ政権は]

 大統領の権限と各省長官や政権幹部に対する強い忠義心を求めるホワイトハウスは、アメリカ政府全体を独裁者が支配する道具と見なしているようだ。

 官僚が服従しないとしたら?彼らはお払い箱になる。裁判所が政府の決定を認可しなければ? それは「いわゆる判事」が統括しているからだ。バノンはこれらの官僚や機関を、極悪な「行政国家」の要素と一蹴した。

(略)

 職場環境の安全基準、公平な賃金、公害露出、環境保護、さらにトランスジェンダーたちが使うトイレなどをめぐる規制や公的支配は攻撃にさらされ、これらすべては簡素化され、「行政国家」と呼ばれる怪物に丸め込まれてしまう。

 規制を検討し施行する人々を、選挙を経ていないとか非民主的などと汚名を着せ、彼らが公益のために行ったことを非合法化する。それがバノンの言う「解体」の目的なのだ。

  • 「政治的イスラム」を超えて――グローバリズムとイスラム社会 タリク・ラマダン

シリアでは、アサド独裁体制は欧米諸国にメッセージを送りました。「あなたたちは、イスラム主義者ではなく私たちと取引すべきです。イスラム主義者はあなたたちの利益に反しており、また非常に危険です」。これはナセル、サダトおよびムバラクが欧米諸国に言ったことと同じです。彼らはイスラム教徒を拷問しておいて「彼らは私たちよりも危険です」と言い、欧米諸国はそれを受け入れました。アサドは、自らにとって、欧米諸国を非常に困った状況に置くための最善の策は、暴力的な過激派に活動の余地を与えることだと理解していました。

 ゲームの場に戻って来るために、アサドは政治的な計算をしていたのです。「私に逆らったら、借金を背負うことになるだろう」――今や彼がいなければ内戦の解決策を導き出すことはできません。少なくとも、彼に対応する必要があります。この賢いやり方は彼の父ハーフェズの経験から導き出されたものです。自分の存在を正当化するために、より暴力的な勢力の存在を利用する方法を知っている。

(略)

 私は1996年にフランスの新聞からビン・ラディンについて質問された時、「その男については知らない。だが、その男が地域内で行っている活動を見ると、まるでアメリカの密接な協力者のようだ」と答えましたが、彼は実際そうでした。そもそも誰がこの男をつくったのか? サウジアラビアも関与していました。だれが彼を支援していたのか? それにはアフガニスタンで何が起きたのかを知る必要があります。

 いつも不思議に思うのですが、これらの暴力的な過激主義者はなぜ、資源の豊富な所に落ち着くのでしょう?なぜ、どのようにして彼らはアフガニスタンに行きついたのか?

iPhoneのためにリチウムが非常に重要だからなのか?(略)そして彼らはそこに落ち着きます。まるでアメリカ人に彼らを追い出すよう求めているかのように。そんなにも多くの資源があるとどうやって知ったのでしょう?

(略)

 私がマリを訪れ、当時の大統領に会ったとき、フランスの進出の五年前のことでしたが、彼は私にこう言いました。「フランス人が何をしようとしているかは知らない。しかし、彼らが私の国でやろうとしていることは汚いゲームだ」

 その直後、一人の軍人が私のところへやってきました。「私は自分自身の道義心に問題を感じ、あなたに話さなくてはいけないと感じました」。彼はマリ軍の司令官でした。「我々はマリとフランス、両方の政府の支配の下にいます。彼らが我々に命令することは非常に奇妙です。私が武器を持たない男を逮捕し、連行しようとしたとき、その場で殺せと彼らは言いました。丸腰の人を私は撃てなかった。そこでバマコに逃がしました。三週間後、任務として、以前バマコに逃がしたのと同じ人物に違いない男を殺すよう命じられました。今度は殺しました」。司令官はそこでいったん言葉を止め、そして言いました。「まるで、私たちを使って彼らを原理主義化させたいかのようでした」

 つまり、人々を原理主義化させる――政治的プレゼンスを確立し、資源を手にするために過激派を作り出すという政治的な戦略がとられているのです。

世界をひっくり返したデータとは ハネス・グラセゲール、ミカエル・クロゲルス

ニックスは、ケンブリッジ・アナリティカのマーケティング戦略の成功は、三つの要素の組み合わせ、すなわち、OCEANモデルを使った行動科学、ビッグデータ解析、ターゲティング広告の組み合わせとする。

(略)

「我が社は、アメリカ合州国のすべての成人のパーソナリティ情報を割り出しました。二億二〇〇〇万人です」とニックスは誇る。(略)

地図上には、何十万もの小さな赤と青の点が打たれている。ニックスは、選択の幅を狭める。(略)

[「共和党員」、「投票先について心をまだ決めかねている」、「男性」]

最終的に残ったのは、一人の名前、そしてその人の年齢、住所、興味、パーソナリティ、および政治的思想だ。ここにいたり、ケンブリッジ・アナリティカはどのようにその人を狙い撃ちして適切な政治的メッセージを届けようか?

(略)

「大いに心配性でまた良心的な人に対しては、家宅侵入盗賊の脅威と銃の保険制度について」――左側の画像には、窓を叩き割って侵入しようとする強盗の手が映される。一方、右側には、男と子供がそれぞれ銃を片手に夕焼けの野原で佇んでいる様子、つまり明らかにアヒル猟の様子が示される。「逆に、内向的で穏やかな人に対しては、このように。伝統、習慣、そして家族を大切にする人々ですから」

(略)

 「トランプが発する実質上すべてのメッセージはデータに基づいている」とアレクサンダー・ニックスは述懐する。

(略)

 たとえば、フロリダ州マイアミのリトル・ハイチ地区では、トランプの選挙チームは、ハイチの地震の後のクリントン財団による失態のニュースを住民に流し、住民がヒラリー・クリントンに投票しないように仕向けた。(略)

すなわち、潜在的にクリントンに投票しそうな人々(たとえば浮動票的な左派系の投票者、アフリカ系アメリカ人、若い女性などが含まれる)が投票所に足を運ばないよう仕向けることで(略)彼らの投票を「抑える」ことだ。(略)

アフリカ系アメリカ人に向けては、ヒラリー・クリントンが黒人を略奪者呼ばわりしているビデオを含める、などがある。

 ニックスはコンコルディア・サミットでの講演の締めくくりに、伝統的な一括広告の時代は終わった、と宣言した。

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2017-08-12 日本の近代とは何であったか・その2 三谷太一郎 このエントリーを含むブックマーク

日本の近代とは何であったか 教育勅語成立過程 - 本と奇妙な煙の追加。


日本の近代とは何であったか――問題史的考察 (岩波新書)

作者: 三谷太一郎

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2017/03/23

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 複数政党制の成立と発展は、世界的に見ても決して一般的な現象とはいえません。(略)特に反政党内閣的であるといわれた明治憲法の下で、なぜ現実に政党内閣が成立したのか。この問題は非常に重要です。

 さらにこのことは、なぜ日本に立憲主義が導入されたのかという問題にさかのぼって考えるべきでしょう。ここでいう立憲主義とは、近代憲法の実質を成す議会制、人権の保障、権力分立制のような政治権力の恣意的行使を抑止しうる制度的保障に基づく政治原理を意味しています。その点では、明治憲法もまた、程度の差はあれ、近代憲法に共通する実質を備えており、それに基づく立憲主義の根拠となっていました。現に明治憲法下においては、大正初頭に反政府運動として護憲運動が起こり、その正当性を理由付けていたのが、「宮中」と「府中」(政府)の別の遵守という意味での権力分立制の擁護を主張する立憲主義でした。当時政府批判のスローガンとして「非立憲」が叫ばれた所以です。その意味では、「立憲主義」は明治憲法下の体制原理であったのです。

幕藩体制の合議制

 なぜ日本に立憲主義が導入されたかを考える場合に、日本においてもそれなりの立憲主義を受け入れることを可能にした日本特有の歴史的条件があったと考えるべきでしょう。

(略)

 まず幕藩体制の政治的な特質として、一種の権力の相互的抑制均衡のメカニズムというべきものがそれなりに備わっており、それが明治維新後の新しい体制を準備していく非常に重要な要因になったことに注目すべきです。

 具体的にいえば、幕藩体制には政策決定のための重要な制度として合議制というべきものがありました。

(略)

 なぜ、この合議制というべきものが幕藩体制の中で準備されたのか。その理由は、おそらく将軍を補佐する特定の人格、または特定機関やそれを拠点とする特定勢カヘの権力の集中を抑えるためだったと考えられます。さらにこの合議制は、月番制、つまり勤務が一ヵ月ごとの短期のローテーションによって行われる制度と重なっていました。すなわち合議制および月番制によって権力の集中が抑制される仕組が幕府の政治的特質としてあったのです。

初代英国公使のラザフォード・オルコックは、有名な回想録『大君の都』において、この点に注目し、次のように書いています。幕藩体制においては「どの役職も二重になっている。各人がお互いに見張り役であり、見張っている。全行政機構が複数制(つまり合議制)であるばかりでなく、完全に是認されたマキアヴェリズムの原則に基づいて、人を牽制し、また反対に牽制されるという制度の最も入念な体制が当地では細かな点についても、精密かつ完全に発達している」と指摘しているのです。

 これは相互不信の制度化です。(略)

将軍ですらも、相互監視の対象であることを免れませんでした。将軍の寝所には将軍と寝所を共にする女性以外の第三の女性が入り、そこでの将軍の会話を逐一聴取することが公然の慣習とされていました。(略)幕藩体制においては、将軍もまた自由な人格ではなかったのです。

幕末の権力分立論

幕末の開国に伴う政治状況の根本的変化――体制的危機、つまり幕藩体制にとっての「立憲主義」の危機――に対応して、権力分立制がなぜ浮上したのか。(略)

[慶喜のブレーン、西周が建議書で提案したのが]一種の三権分立だったのです。(略)

全国的な立法権の主体は徳川宗家、つまり大君を含む全国一万石以上の大名から或る上院(略)

それに対して各藩代表一名から或る下院というものをも設ける。大君は下院についても可否同数の場合に三票の投票権を有し、かつ下院の解散権を有する。

 さらに、西は徳川宗家を大坂に置かれる公府、行政権の主体として想定しました。つまり立法権と行政権とを区別して、非幕府勢力を立法権の領域に封じ込める。そして大政奉還後の幕府の政治的生存を確保するというのが、徳川慶喜のブレーンとしての西が幕府のために描いた政治戦略でした。

(略)

[同様に浮上した議会制も]幕府の伝統的支配の解体に対応する、もう一つの政治戦略でした。幕府は根本法である鎖国を放棄し、体制の正当性の根拠を新たに問われる緊急事態に遭遇します。(略)

幕府の根本法である「祖法」を補完する、あるいはそれに代替する新しい体制原理を見出す必要に幕府は迫られたわけです。

 そこで幕府が考えたのは、一つはよく知られている「勅許」でした。伝統的支配から疎外されてきた朝廷の体制への編入ということを一方で考える。いいかえれば「権威」による「権力」の補強であり、「権威」と「権力」とを一体化させることです。

 もう一つが「衆議」でした。これが急速に幕藩体制の支配原理を補うものとして浮かび上がってきた。つまり従来幕府の政策決定のアウトサイダーであった大諸侯をはじめとする諸大名の意見が「衆議」として、新たに戦略的価値を帯びてきたのです。これはいってみれば、伝統的な合議制を拡充する意味をもつ具体的な方策であったというべきでしょう。そして、それに伴って幕府権力それ自体を意味する「公儀」の正当性の自明性が失われ、にわかにもう一つの「公議」が体制の安定のために必要となってくる。すなわち「公儀」から「公議」への支配の正当性の根拠の移行が幕末に急速に起こってくるのであり、これが議会制を受け入れる状況の変化であったのです。

明治憲法下の権力分立制

 そして、幕府的存在を排除するために最も有効なものとして考えられたのが、議会制とともに憲法上の制度として導入された他ならぬ権力分立制でした。権力分立制こそが天皇主権、特にその実質をなす天皇大権のメダルの裏側であったのです。つまり、明治憲法が想定した権力分立制というのは、幕府的存在の出現を防止することを目的とし、そのための制度的装置として王政復古の理念に適合すると考えられたのです。権力分立制の下では、いかなる国家機関も単独では天皇を代行しえません。要するにかつての幕府のような覇府たり得ない。このことが、明治憲法における権力分立制の政治的な意味であったのです。

 憲法起草責任者であった伊藤博文は特に議会について、議会こそまさに覇府であってはならないという点を強調しました。(略)

 この伊藤の覇府排斥論というものは、議会だけでなくて他の国家機関にも共通に適用されなければならないものでした。それは当然、軍部についても例外ではありません。要するに「統帥権の独立」というのは「司法権の独立」と同じように、あくまでも権力分立制のイデオロギーなのです。したがって、それは軍事政権というようなものが出現することを正当化するイデオロギーではありえなかったわけです。太平洋戦争中、東條内閣が東條幕府という名によって批判された所以はそこにありました。また、大政翼賛会が幕府的存在(あるいはソ連国家におけるボルシェヴィキに相当する組織)として当時の貴族院などにおいて指弾されたのも、やはり権力分立制の原則にそれが反すると考えられたからです。

藩閥

 明治憲法は表見的な集権主義的構成にもかかわらず、その特質はむしろ分権主義的でした。実はその意味するところは深刻でした。つまり、明治憲法が最終的に権力を統合する制度的な主体を欠いていたということを意味するからです。

(略)

制度上は独立して天皇に直結している個々の閣僚に対する統制力も弱く、したがって内閣全体の連帯責任は、制度的に保障されてはいませんでした。また閣外に対しても、現在の内閣総理大臣とは異なり、議会によって選出されていませんので、議会の支持も万全ではありませんでした。このことが明治憲法体制下の日本の政治の大きな特徴であったのです。

(略)

 いいかえると、天皇統治というのは一種の体制の神話でして、現実は権力分散でした。そういう体制の軌範的神話と政治的現実とを媒介する何らかの政治的な主体というものが不可欠だったのです。明治憲法は制度上は、覇府的な存在、要するに幕府的な存在というものを徹底して排除しながらも、憲法を統治の手段として有効に作動させるために、何らかの幕府的存在の役割を果たしうる非制度的な主体の存在を前提としなければならなかったわけです。

(略)

まず登場したのが、いわゆる藩閥、憲法制定権力の中核としての藩閥でした。(略)

この元老集団が分権性の強いさまざまな権力主体間の均衡をつくり出す、いわばバランサーの役割を果たしたのです。

 ところが、この藩閥の体制統合機能には非常に大きな弱点がありました。藩閥は分権的な体制の一つの分肢であるところの衆議院をどうしても掌握することができなかったのです。(略)

藩閥はそもそも反政党を標榜し、自ら政党たることを拒否した以上、選挙には勝てず、どうしても衆議院を支配することができないのです。衆議院を支配することができなければ、予算も通すことができないし、法律も成立させることができない。

(略)

 それでは、衆議院を支配する政党の方はどうかというと、これも克服し難い弱点を持っていました。つまり、明治憲法下では衆議院の多数というのほ、それだけでは権力の獲得を保障しなかったからです。(略)この現実を藩閥と政党の双方が認識した結果、双方からそれぞれの限界を打破するために相互接近が試みられます。これが大体、日清戦争後あたりから始まるのです。

 この藩閥と政党双方の相互接近の過程で、まず藩閥の組織の希薄化が進みます。要するに藩閥の組織の母体は旧藩ですから、これは時の経過とともに消滅していく。そして最終的に藩閥はその母体を失って政党化せざるをえなくなります。

(略)

このようにして貴衆両院が対峙する明治憲法下の議会制の中から、事実として複数政党制が出現したのです。

 これに伴って、藩閥が担ってきた体制統合の役割は漸次政党に移行していきます。。その意味で政党は藩閥化し、また藩閥は政党化する。いいかえれば、政党が幕府的存在化する。これが日本における政党制の成立の意味でした。

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2017-08-10 パイドパイパー・デイズ その2 長門芳郎 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


PIED PIPER DAYS パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989

作者: 長門芳郎

メーカー/出版社: リットーミュージック

発売日: 2016/07/15

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店頭での出来事

 80年代半ばの秋だったと思うが、閉店間際に山下くんが勢いよく飛び込んできて、

「生まれたよ!女の子」

とひと言だけ言って、すぐに外に出ていったことがあって、僕もひと言

「おめでとう!」

と返したのを憶えている。

来店した海外アーティスト

エルヴィス・コステロが再来日したときにパイドパイパーハウスを訪れ、店でかけていたヴァン・ダイク・パークスの「Discover America」に耳を止め、イタリア版の廃盤カセット・テープを買っていったのも印象深い出来事だった。その翌年だったか、彼がマネージャーとやっていたレーベル、ディーモン傘下のエドセルからヴァン・ダイク・パークスのワーナー時代のカタログがまとめて再発されたのは、きっとそのカセットがきっかけになったのではと勝手に思っている。このときは一緒にエヴァリー・ブラザーズの再発盤とマーシャ・ポールの新譜も買って帰った。

 ライ・クーダーとデヴィッド・リンドレーが別々にやってきて、店のなかで鉢合わせするなんてこともあった。リンドレーはアトランティック・ソウルの日本独自の復刻盤をまとめて買っていって、そのなかの曲を次のアルバムでカヴァーしていたから、そのときに買ったレコードがきっかけになったのは間違いないと思う。

 突然「トイレを貸してください」と入ってきたのは、デヴィッド・シルヴィアンだった。きっとアニエスbで洋服を買った帰りだったのだろう。マンハッタン・トランスファーのティム・ハウザーも雑誌の取材時に店の話をしたら、青山の洋服屋さん巡りの前後に立ち寄ってくれた。彼に聞いた話で好きなのは、10代前半の少年時代、地元、ニュージャージーの劇場にロックンロール・ショーを観に行ったとき、ボヤ騒ぎがあって、そのどさくさに楽屋通路に紛れ込んだら、フランキー・ライモンに声をかけられ、彼らの楽屋で、本番前のウォーミングアップのためアカペラでハモるティーンエイジャーズを見たという話。この体験がきっかけになり、その後の自分の道が決まったと言っていた。(略)

 来日するたびに訪ねてくれたヘンリー・カイザーはとても気さくな人で、よくカウンター越しにカントリー・ジャズ系のギタリストのことを話した記憶がある。(略)

あるとき、喜納昌吉の「ハイサイおじさん」をかけていたら、興味を持ったみたいで「何て歌っているんだ?」

 と尋ねてきた。歌詞を全部ローマ字で書き出し、大意を添えたメモを後日渡すと、それから数ヵ月後、その曲のカヴァーが収録されたアルバムがサンフランシスコから送られてきた。

 それは彼がフレッド・フリス、リチャード・トンプソン、キャプテン・ビーフハート・マジック・バンドのドランボことジョン・フレンチと組んだ、フレンチ・フリス・カイザー・トンプソンの『Live,Love,Larf&Loaf』というアルバムだった。「ハイサイおじさん」では歌とギターをトンプソン、ギターと三線をカイザーが弾いており、流暢な琉球語で歌われる見事な完コピ・カヴァーには驚いた。スペシャル・サンクスの欄にブライアン・ウィルソンと一緒に僕の名前が並んでいたのはうれしかった。


リヴ、ラヴ、ラーフ&ローフ

アーティスト: ジョン・フレンチ, フレッド・フリス, ヘンリー・カイザー, リチャード・トンプソン

メーカー/出版社: ライス・レコード

発売日: 2016/02/07

|CD| Amazon.co.jp

薬師丸ひろ子『シンシアリー・ユアーズ』

[選曲を担当したFM番組の打ち上げパーティの]

数日後、彼女がたったひとりでパイドパイパーハウスを訪ねてきたのだ。打ち上げのときに、今度レコードを買いに行きますねと言っていたので、ホントに来てくれたんだと思っていると、

 「ちょっとお時間いただけませんか?」

 と言われて、ドギマギしてしまった。

 近くのスパイラル・カフェに入って、終わってしまった番組のこと、パイドパイパーハウスのことなどを話していたが、突然、彼女が真剣な眼差しで僕を見て、

 「わたしの力になっていただけませんか?」

 と切り出した。

[立ち上げた個人事務所で音楽的ディレクションをして欲しいと言われ、快諾]

(略)

レコーディングには、彼女はだいたいいつもひとりでやってきた。これは意外だった。東京湾岸のスタジオテラでのレコーディングが夜中までかかったとき、帰りが同じ方向だということで、彼女が運転する車で僕の自宅まで送ってくれたこともあった。


ミスター・ドリームズヴィル 夢の旅人

アーティスト: ハース・マルティネス

メーカー/出版社: ドリームスヴィル・レコード

発売日: 1998/11/25

|CD| Amazon.co.jp

ハース・マルティネス

 90年代初めにジョン・サイモンに出会ったとき、真っ先に聞いたのが、ハースの消息だった。サイモンに彼の連絡先を教えてもらって、電話をかけたとき、受話器の向こうから聞こえてきた声がレコードそのままのあのダミ声だったので「ホンモノだ!」と感激した。

 以来、やりとりが始まり、彼はたびたび新曲を収録したデモ・テープを送ってきてくれるようになった。気がつけば、僕の手元には彼のデモ・カセットが何十本もたまっていた。歌入りのものもあれば、ギター演奏だけのものもあった。

 そのころの彼はロサンゼルスに住んでいて、主に地元のジャズ・クラブやレストランで演奏活動を行なっていた。でも、それは僕らが知っているシンガー・ソングライター、ハース・マルティネスとしての活動ではなく、ジャズやラテン・バンドの一員としての演奏であったり、よく知られたスタンダード曲の弾き語りがほとんどだった。

 一度、彼の仕事場に同行したことがある。車にギターを積み、ダウンタウンのエクセルシオール・カフェに行き、店の片隅でおもむろに演奏を始めたハース。ほとんどがジャズのスタンダード曲のギター・インストだった。彼は自分のことを常にジャズ・ギタリストだと言っていたが、そんな活動を続けながらもオリジナル曲を作ることを忘れていなかった。

(略)

[CM関連で作ったアルバムで彼のデモ曲を]

カヴァーすることが決定。ロサンゼルスでのレコーディングにはハースにもヴォーカルとギターで参加してもらった。

 そんな布石があり、新しいレーベルの立ち上げというタイミングで満を持してハースの新録アルバムを制作することになった。

(略)

 レコーディング中、ハースと僕は(略)ジョン・サイモンの家に泊めてもらった。ガース・ハドソンが参加するセッションの前日には、彼もサイモンの家に泊まり、居間でリハーサルをして、本番に備えた。

 翌朝、眠い目をこすって、階下の居間に下りていくと、3人はそれぞれ新聞を読んでいたり、ギターをつま弾いていたり、瞑想していたり。(略)サイモンの奥さんが用意してくれた朝食のテーブルには、僕が庭の菜園で朝摘みしたトマトも並んでいる。みんなで談笑しながら朝食を済ませ、昼前には4人でマンハッタンのスタジオヘと向かった。

 その日、レコーディングしたのは「All Things Possible」という曲。ガースのピアノ、ロン・カーターのウッドベース、ハースのギターというメキシカン風味のゆったりしたバラードで、天使のようなハーモニー・ヴォーカルはジェニ・マルダー。ジェニはジェフとマリア・マルダーの娘で、ハースは彼女がまだ子供のころ、彼女のために「Jenni」という曲も書いたことがあったそうだ。日曜日は仕事をしないというロン・カーターだったが、旧知のハース、ジョン・サイモンのために駆けつけてくれた。

(略)

 日本だけでなく、本国アメリカでのリリースの可能性を探り、動いたが、残念ながら手を挙げるレーベルは出てこなかった。それでも『夢の旅人』を聴いたハースの古い友人でもあるリビー・タイタスが、パートナーのドナルド・フェイゲンに聴かせたところ、ドナルドからハースにラブコールがあり、ふたりの共作が実現するという予期せぬ展開もあった。

カート・ベッチャー

 カート・ベッチャーは87年に亡くなっているのだが、僕は80年に日本でインタヴューしたことがある。それもある偶然が引き寄せたものだった。

[エリック・カルメン80年日本]ツアー・メンバーのリストを見て驚いた。バックグラウンド・シンガーのなかにカート・ベッチャーの名前があったからだ。(略)

 プロモーターの了解を得て、カルメン一行が宿泊している白金の都ホテルを訪ね、ベッチャーヘのインタヴューを行なった。彼はまず、なぜ自分のことを知っているのかとても不思議がっていたが、ミレニウムの『Begin』は僕のフェイヴァリット・アルバムであり、『Pet Sounds』と並ぶ革新的作品だと思うと言うと、とてもうれしそうな表情を見せた。

 ミレニウムやエレクトラのソロ・アルバムのジャケット写真で想像していた繊細なイメージとは違い、口ひげをたくわえ、小柄ながらもマッチョな雰囲気に少々驚いた。さらに60年前後の2年間、父親の仕事の関係で米海軍、岩国基地内に住み、日本の高校にも通っていたことがあるということも判明。


アルゾ

アーティスト: アルゾ

メーカー/出版社: SMJ

発売日: 2015/07/29

|CD| Amazon.co.jp

アルゾ・フロンテ

[消息をいろいろ探ったがわからず]

 もはや打つ手なしと思っていたところに、突然朗報が飛び込んできた。(略)

[山達ファンのサイトに掲載されたレビューを]

たまたま目にしたアルゾの友人が、

 「日本でお前のCDが出ているぞ」

 と本人に伝えたらしい。

 驚いたアルゾが[メールしてきた]

(略)

 僕はアルゾのアドレスを教えてもらい、自己紹介と、あなたをずっと探していたということを書き、

「怪しいものではないので、電話番号を教えてください」

 とメールを打った。

 すると、ほどなく返信があり、すぐに電話をかけた。受話器の向こうのアルゾは聴き馴染んだ歌声よりも低い声で、なぜ自分を探していたのか、自分の音楽がどんなふうに受け止められているのか、矢継ぎ早に聞いてきた。何より30年以上前の自分のアルバムを、日本人が知っているということに驚いていた。僕も初めて彼のアルバムを聴いたときのこと、日本の若者にも人気があり、影響を受けたミュージシャンが何人もいることや、僕自身の長年の思いの丈を伝えた。すると彼は何度も「ビューティフル」を繰り返し、気づけば1時間以上も話していた。(略)

 2003年2月、ニューヨーク州ロングアイランドに住む彼に会いにいった。

(略)

 彼の家を訪ねると、『Alzo』のアルバム・カヴァーで見慣れたガラス窓のあの部屋に通された。アルバム発売当時、寝室だったその部屋は彼の書斎兼ミュージック・ルームになっていた。音楽界を引退した彼は、アンティークの椅子を扱う“ヴィレッジ・チェアーズ”の主人として暮らしていた。時折バーで歌ったりすることもあったそうだが、彼の過去を知る友人たち以外、たまたま居合わせた客にとっては、単なる無名のミュージシャンの演奏だった。

 滞在した3日間の多くの時間を、僕らふたりはその部屋で過ごすことになった。彼はジャケット写真で抱えていた12弦ギターやエレクトリック・ピアノを弾きながら、僕のために演奏してくれた。それは“彼のことを知る”たったひとりの観客のために開いてくれたコンサートだった。(略)

 僕は、アルゾにローラ・ニーロの『Live In Japan』のCDをプレゼントした。彼はとても喜んで、アルゾ&ウディーンのころ、彼らを気に入ったローラがプロデュースしたいという話があったが、なぜか実現しなかったというエピソードを教えてくれた。

 ミュージシャンとしてのアルゾの人生は不運の連続だった。71年にアンペックス・レコードからリリースされたデビュー・アルバム『Lookin' For You』がレーベル閉鎖ですぐ廃盤になり、権利を買い取ったベル・レコードがジャケットとタイトルを変更して『Alzo』として再リリースしたが、そのベルもまもなく消滅。73年にファーストと同じくボブ・ドロウのプロデュースで録音したセカンド・アルバムはテスト・プレスのみで結局お蔵入りとなってしまった。75年にはA&Mから1枚のシングルが出ているが、不発に終わっている。彼は失意のまま、家具屋を生業として生きていくことを決めたのだった。

 それでも自分の才能を信じていた彼は、

 「いつか誰かが自分のことを見つけてくれると信じていた」

 「それが君だったんだ」

 と言ってくれた。

 彼と会ったのはそのとき一度だけで、ほんの数日間のことだったが、もう何年も前から友人だったような気がしていた。吹雪舞うポート・ジェファーソン駅での別れ際、いつまでも手を振ってくれた彼の姿は忘れられない。

 その後、BMGとアルゾの間で契約を交わし、2003年のクリスマスの日、ついに『Alzo』が世界初CD化され、日の目を見ることになった。サンプル盤がクリスマス・イヴに届き、彼は最高のクリスマス・プレゼントだと言って、とても喜んだ。

 ヴィレッジ・チェアーズのウインドウには、ジャケットと一緒に「Congrats To Me」(自分におめでとう)と書いた紙が貼り出された。僕はその写真を見て、目頭が熱くなった。彼にとって、『Alzo』の再発は僕たちが想像する以上に重要な出来事だったのだ。

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2017-08-08 パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録 長門芳郎 このエントリーを含むブックマーク


PIED PIPER DAYS パイドパイパー・デイズ 私的音楽回想録1972-1989

作者: 長門芳郎

メーカー/出版社: リットーミュージック

発売日: 2016/07/15

|本| Amazon.co.jp

“ちぇるしぃ”

[ラヴィン・スプーンフルの]ファンクラブは東京の女子大生、石塚始子さんという方を中心に運営されていた。(略)

当時ラヴィン・スプーンフル同様、グラモフォンが後援していたビージーズのファンクラブがあり、大滝詠一さんもそこの会員だったそうだ。

 その縁で大滝さんが弾き語りで歌っていた店に、ビージーズやラヴィン・スプーンフルのファンクラブの女の子たちが観にいくことがあったという。そのときジョニ・ミッチェルの「Chelsea Morning」を歌う大滝さんに“ちぇるしぃ”というあだ名をつけたのが、石塚さんたちだった。大滝さんに初めて会ったとき、僕が高校時代にラヴィン・スプーンフル・ファンクラブの会員だったことを伝えると「そうかそうか」と顔をほころばせ、

 「石塚さんにラヴィン・スプーンフルのレコードを借りたことがあったな」

と懐かしんでいたのを思い出す。

山下達郎、シュガー・ベイブ

「ビーチ・ボーイズやヤングブラッズがかかってるちょっと変わった店が四谷にできたんだよ」[とバンド仲間教えられてやってきた山下とは](略)

 カウンター越しの初対面だったが、お互い60年代ポップスが大好きということで、すぐに意気投合した。自主制作盤『Add Some Music To Your Day』を持ってきたのは、たしか2回目ぐらいだったと思う。(略)たったの100枚しか作っていないということだったが、ディスク・チャートで5枚ほど預かり、壁に飾って1500円で売ることにした。山下くんとは、ラヴィン・スプーンフルのカマストラ・レーベルの話からトレイドウィンズやイノセンスの話をするうちに、彼のイノセンスと僕のソッピーズ・キャメルのLPを貸し借りする仲になっていった。

 そんなふうに交流が始まり、僕は練馬の山下くんの家にたびたび遊びに行くようになる。彼の実家はパン屋さんで、その2階に彼の部屋があった。はっきり憶えているのは、天井にベンチャーズと、ローラ・ニーロ初来日コンサートのポスターが貼ってあったこと。彼の部屋では、レコードを聴きながらお互いの好きなオールディーズの話をしたりした。そのときに聴かせてくれたのが、「黄色い部屋」というオリジナル曲(略)の弾き語りのデモ・テープ。ブライアン・ウィルソンが書くようなタイプのサーフ・バラード調の曲で、その甘い歌声に思わず聴き入った。『Add Some〜』はすべて洋楽カヴァーだったので、こんなに素敵なオリジナル曲を書ける才能もあるのかと、感心した。

(略)

リハーサルの帰り、電車のなかで山下くんが

 「マネージャーをやってくれないか?」

 と言ってきた。僕はふたつ返事で、

 「いいよ、やるよ」

 と返事をした。

 たぶん、そういうことだろうなと思っていた。バンド名はまだなく、次回のリハーサルまでの宿題になった。(略)

リハ当日を迎えた。成増に向かう電車のなかで、突然“シュガー・ベイブ”いう名前が閃いた。ミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『砂丘』の砂漠のシーンで印象的に使われていたヤングブラッズの曲名だ。山下くんもヤングブラッズが好きだし、最後に“S”がついてないし、絶対にこれしかないと思った僕は、一刻も早くみんなに伝えたくて成増の駅の公衆電話から並木さんの家に電話した。

 するとター坊が、

「あら、バンド名ならもう決まっちゃったわよ」

と言う。(略)

「シュガー・ベイブっていうの。山下くんが考えてきたんだけど」

 びっくりした。ふたりがまったく同じ名前を考えていたなんて。その後、マジカルな偶然に何度も遭遇していくことになる僕の人生の、最初の小さな奇跡だった。ほかにもラスカルズの曲名から取ったイージー・ローリンとか、フィフス・アヴェニュー・バンドにあやかった下赤塚5丁目バンドなども候補に挙がったという。

「DOWN TOWN」

 テイク・ワンが稼働するようになったころ、キングトーンズが15周年記念のアルバムを作るにあたり、若手のソングライターに曲をいくつか任せるという話が舞い込んできた。それで、山下くんと銀次が矢崎さんの事務所でデモ録音したのが「DOWN TOWN」だった。しかし結局、アルバムの企画自体が流れてしまう。

(略)

 レコーディングが始まった10月末、いざエレックのスタジオに行ってみると、天井は低いし、録音機材に差し押さえ予告書が貼ってあるし、嫌な予感がした。なんだか重苦しい雰囲気が漂うなか、最初にレコーディングしたのは新曲の「DOWN TOWN」。(略)[企画が流れ]シュガー・ベイブのレパートリーになったのだ。

 このときは野口のドラムがなかなか決まらなかった。ずっと叩き続けていた疲れもあり、ちょっとモタッてきたので、スタジオのなかに入って野口の前に立ち、僕がかぶっていたテンガロンハットをメトロノーム代わりに上下に振った。やっているうちに“野口がんばれ!”という熱い気持ちが湧き上がっていた。「DOWN TOWN」を聴くたびに、そのときの光景がつい昨日のことのように甦ってくる。

ティン・パン・アレー、坂本龍一

74年の秋、ティン・パン・アレーがクラウン・レコードと契約したことから、ティン・パン・アレーの専従スタッフとして僕に慟いてほしいというオファーがあった。最初はシュガー・ベイブをやっているので無理だと断っていたが、それでもティン・パン・アレーでの仕事は勉強になるし、そこで広がった人脈はシュガー・ベイブをやっていくうえでもメリットなのはたしかだった。そこで思いついたのが、シュガー・ベイブとティン・パン・アレーが合流して、新しいマネージメント形態でやっていくというアイディア。すでに音楽業界で地位を確立している日本最高のリズム・セクションと、最高のヴォーカリストを擁しコーラス・サウンドが売り物の新人バンドの組み合わせだ。

 思い切ってその構想を山下くんに話したが、彼の答えは「ノー」。僕にはシュガー・ベイブだけに集中してほしいという気持ちがあったのだと思う。(略)

山下くんたちにしてみれば、風都市での苦い経験もあり、小さい事務所だが自分たちの信頼の置けるテイク・ワンのスタッフとやっていきたいという気持ちが強かったのだろう。(略)

[結局]シュガー・ベイブのもとを去り、ティン・パン・アレーの仕事に専念することにした。苦渋の決断だった。(略)

 その決断が正しかったのかどうか、いまだにわからない。(略)シュガー・ベイブと一緒にいたら、バンドの未来は少しだけ違ったものになっていたかもしれない。当然、僕の未来も変わっていただろう。

 都内で仕事がないときは、ほとんど毎日荻窪ロフトに入り浸っていた。ライヴが終わったあとも深夜まで店にいて、そのまま平野さんの家に泊めてもらうこともたびたびだった。坂本龍一と出会ったのもそのころ。僕がブッキングを担当していた荻窪ロフトではなく、隣駅の西荻ロフトで友部正人のバックでピアノを弾いている姿を見たのが最初だった。けっして小綺麗とはいえない服装でヒッピー然とした風貌と、そこから繰り出されるハッとするような洗練されたフレーズとのギャップが印象的だったのを憶えている。

 後日、声をかけてきたのは、彼のほうからだった。閉店間際の荻窪ロフトに現われた彼は、予想外にフレンドリーな男だった。(略)

彼のインテリジェンスあふれるピアノ・プレイと気さくなキャラクターを気に入った僕は、山下くんに「面白いピアノ奏者がいるよ」と言って紹介した。その後、どういういきさつだったかよく憶えていないが、福生に連れて行き、大滝さんにも紹介することになる。

結婚式

 75年11月、細野さんは高田渡さんの『フィッシング・オン・サンデー』のプロデュースのため、渡米。僕のパスポートが間に合わず、同行できなかったのはつくづく残念だった。あのとき渡米していれば、ヴァン・ダイク・パークスにもっと早く会えていたはず。(略)

 翌76年の1月8日、僕は高校時代のガールフレンドと結婚。長崎の銀屋町教会で挙げた結婚式には、細野さんや山下くん、ター坊も来てくれた。披露宴では細野さんが「ろっかばいまいべいびい」を弾き語りで歌い、山下くんは落語を一席といって、たしか「湯屋番」をやってくれた。なぜか僕も歌う羽目になり、山下くんのギターを伴奏にシュガー・ベイブの「過ぎ去りし日々」を歌った。そして、結婚を機に上京してきた僕の奥さんは、開店間もないパイドパイパーハウスで働くことになった。

売り上げ

『バンド・ワゴン』(20697)、『トロピカル・ダンディー』(19111)、『キャラメル・ママ』(27356)――1976年4月というメモ書きが、当時の僕のノートに残っている。括弧のなかの数字は75年の発売から翌年4月までの売り上げ枚数だ。

小林旭

『泰安洋行』の発売からほどなくして[細野プロデュースによる小林旭アルバムの企画が](略)

クラウンの応接室で行われた顔合わせには、小林旭さん本人も作詞家の星野哲郎さんと一緒にご登場。あのときの旭さんが放つスターのオーラは本当にすごかった。(略)

 古い曲としては「北帰行」「ギターを持った渡り鳥」「旭のダンチョネ節」「オロロン慕情」「さすらい」など、また沖縄民謡「安里屋ユンタ」が候補曲として挙がった。新曲の作家として、クラウン・サイドからは佐渡山豊や三上寛、武田鉄矢の名前が挙がり、こちらからは大滝さんや南正人の名前を挙げた。細野さんが真っ先に声をかけたのはもちろん大滝さん。大滝さんも小林旭の大ファンだったことから大ノリで早速書き下ろしたのが「元気でチャチャチャ(ホルモン小唄)」だった。

 細野さんとふたりで日活の試写室に半日こもって、『渡り鳥』シリーズを立て続けに何本も観てモチベーションを上げ、プロジェクトに臨んだ。秋からスタートしたリズム録り、ホーンのダビングも順調に進み、年内に終了、翌年1月にはストリングスのかぶせも終わり、あとは小林旭さんの歌入れを残すのみだった。

 が、ここで思いがけないことが起きる。2年も前に出したシングル「昔の名前で出ています」がじわじわと売れてきて、ついには200万枚の売り上げを記録する大ヒットになったのだ。そのため、細野さんプロデュースのアルバム企画自体がお蔵入りになってしまった。そんなわけで「チュンガを踊ろう」「ギターを持った渡り鳥」「さすらい」などのリアレンジ曲と細野さんが書き下ろした「テーマ」(インスト)、「キャプテン・マンボウ」、大滝さんの「元気でチャチャチャ(ホルモン小唄)」など、歌のないバックトラックだけが残された。

ドクター・ジョン

 ドクター・ジョンに会うということで、大ファンである細野さんから彼宛の手紙も預かった。手紙の前半は、自己紹介に続いて、自分の音楽に多大な影響を与えてくれたドクター・ジョンヘの敬意あふれる言葉が綴られていた。続けて、トミー・リプーマのプロデュースでスタッフらと制作したドクター・ジョンの新作『City Lights』は素晴らしい出来ではあるが、あまりに洗練されたニューヨーク・サウンドで本来のあなたらしくない、やはりあなたはニューオーリンズのミュージシャンと一緒にやるべきだ。日本にもニューオーリンズ・ファンクを理解し、演奏できるミュージシャンが揃っているので、日本に来て一緒にレコードを作りませんか?といった内容だった。

 僕もドクター・ジョンの新作については細野さんと同じ印象を持っていたが、この手紙をそのまま翻訳して渡していいものか迷った挙げ句、相当気を遣って英訳し、タイプした手紙を持参した。

 最初はその醸し出すオーラに圧倒され緊張したが、いざインタヴューが始まると、ニューオーリンズ音楽についての初歩的な質問にも丁寧に答えてくれ、さすが大物は違うなと思ったもの。このあとニューオーリンズに行くのだと伝えると、いろいろとアドバイスをしてくれた。

(略)

 翌日、A&Mのオフィスで別の取材を終え、目の前にあるサンセット大通りとラブレア通りの交差点を渡ろうとしていると「長門〜!」と呼ぶ声が。(略)

車の窓から細野さんが顔を出し、手を振っている。(略)YMOのデビュー・アルバムのミックスをするため、急濾ロスに来て、これからスタジオのあるキャピトル・タワーに行くところだ、と。

 しかし広いロスの交差点、ホンの数秒違っていたら、お互い気づかずにすれ違っていたはず。僕の人生のなかで、あんな奇跡のような出来事はあとにも先にもありませんと、最近、細野さんに話したら、当人はまったく憶えていなかった……。翌日、僕と桑本さんはキャピトル・スタジオに細野さんを訪ね、アル・シュミットのミックス作業を少しだけ見学させてもらった。

 この年、ホライズンから出たドクター・ジョンの新作『Tango Palace』に収められた「Renegade」という曲は、ロニー・バロンがマリンバを叩き、どことなくチャンキー風味。これは網野さんの手紙と一緒に渡した『泰安洋行』や細野さんがプロデュースしたロニーの『スマイル・オブ・ライフ』に影響を受けたのではないかと僕は思っている。

(略)

[ロスのYMO公演にはドクター・ジョンも来ていたが]

 「日本でニューオーリンズ・セッションをやりましょう」

 と手紙に書いていた細野さんが、いきなりテクノ・ポップを演奏しているからビックリしただろうことは想像に難くない。

次回に続く。

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2017-08-05 ビートルズ全曲歌詞集・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


完全版 ビートルズ全曲歌詞集

作者: スティーヴ・ターナー, 藤本国彦, 富原まさ江

メーカー/出版社: ヤマハミュージックメディア

発売日: 2016/09/24

|本| Amazon.co.jp

Being for the Benefit of Mr. Kite!

[当初ジョンはアルバムのために機械的に書いた駄作と語っていたが、80年の『プレイボーイ』誌のインタビューでは]

「果てしなく美しいね……あの曲は澄みきっているよ。まるで水彩画のように」

Baby, You're A Rich Man

 ポールのパート「リッチ・マン」はマネージャーのブライアン・エプスタインを指すと言われている。デモ盤でジョンは「おい、ユダヤ人、大金持ちのオカマ野郎」と罵っている。「あのとき考えていたのは」とジョンはのちにこう語った。「愚痴を言うなってことだ。お前も俺たちも、みんな金持ちなんだから」

I Am the Walrus

自分が昔通った学校の授業でビートルズの歌が教材になっていると知って驚いたジョンは、ちぐはぐで支離滅裂な歌詞を書いて生徒たちを困らせてやろうと考えた。(略)

「黄色い膿みたいなカスタードと緑のパイ、それに死んだ犬の目玉を入れて、3メートルのサンドイッチを作れ。それを冷たいゲロで流し込むんだ」

(略)

ジョンは13年後に『プレイボーイ』の取材で、ボブ・ディランが自由にやっているのを見て「こんなくだらない詞なら自分にも書ける」と思ったと答えている。

(略)

「卵男」はアニマルズのヴォーカリスト、エリック・バートンのことだと思われる。彼にはモノにした女性とセックスするときに相手の体で卵を割るという変わった性癖があり、ミュージシャン仲間から「卵男」と呼ばれていた。

Hey Jude

[当初5歳のジュリアンのために作られたが]

最終的にモデルを特定できる歌詞はなくなった。ジョンはこの曲は自分に向けられたもので、バンド活動を休んでヨーコと新しい未来を築くようにというメッセージだと信じていた(「彼女を手に入れるために生まれてきた」)。ポール自身は、もし誰かに向けた曲だとすれば、それは自分自身だと感じていた。ビートルズの古い絆が壊れつつあるなか、いずれけじめをつけるときが来るとわかっていたのだ。

(略)

[ジュリアン談]

「ポールは当時、僕が置かれた状況をずっと心配してくれていた。これからのことや、将来について。よく遊んでくれたよ――父よりもね。今よりもっと子どもに興味があったんじゃないかな。とても仲が良かった。あのころはポールと遊んでいる写真のほうが、父と撮ったものよりはるかに多いと思う」

 ジュリアンが苦労するだろうというポールの予感は正しかった。「父がどんな人だったとか、僕のことをどう思っていたとか、正直あまり知りたくなかった」とジュリアンは語る。「真実なんて知りたくなくて、だから何も話さなかった。僕についてすごく否定的な父のコメントがある――僕が土曜の晩のウイスキーの勢いでできた子どもだと。そういうのはけっこう傷つくよ。愛情のかけらも感じられないだろ?大きな心の傷になって長いあいだ残ったよ。実の息子のことをよくもそんなふうに言えるな、と思っていた」(略)

「《ヘイ・ジュード》を聴くといつもどきっとするんだ」と彼は言う。「誰かが僕のために歌を書いてくれたというのはすごく不思議な気分だ。今でもぐっとくるよ」

Happiness is a Warm Gun

ジョンがデレク・テイラー、ニール・アスピノール、ピート・ショットンらとドラッグにふけりながら思いついた脈絡のないイメージをまとめたのだ。(略)

テイラーは語る。「最初に彼は、とても頭のいい女の子をどう表現するかと聞いた。僕は自分の父親が使う《あの子はあまりミスしない》という表現を思い出した。(略)

[マン島のホテルのバーで男が話しかけてきて]

モールスキンの手袋が好きなんだ。彼女とデートするとき、ふだんとちょっと違う気分になれる》。そして《深くは話せないけどな》とつけ足した。(略)

 「《鋲くぎを打ったブーツに七色の反射鏡をつけた男》は、新聞で見たマンチェスター・シティFCのファンのことだ。こいつは靴のつま先に鏡をつけて女の子のスカートをのぞこうとして捕まったのさ。ちんけなスリルを得るために、そんな面倒で危ない橋を渡るなんて、とみんなで話した。これをもとに、リズムの合う《七色の反射鏡》と《鋲くぎを打ったブーツ》っていうフレーズができたんだ。ちょっと詩的な道具立てだ。《せっせと手を動かしながら、目で嘘をつく》は、やはり僕が何かで読んだ記事がもとになっている。ある店に、プラスチック製の手をつけたコート姿の男がやって来た。カウンターにそのニセの手を置き、その下で本物の手を使って商品を盗んでは腰につけた袋にせっせと放りこんだんだ。そんな記事だったよ」(略)

茂みの影や、戦争中に作られた防空壕の中にはいつも誰かが用を足した跡が残っていたからね。つまり食べたものをナショナル・トラスト(特別な場所を国民のために永遠に管理、保存するイギリスの組織)に寄付すると言えば、《ナショナル・トラストの保有地で大便をする》という意味なんだ。

Sexy Sadie

[マハリシに幻滅して書かれた曲だが]

メロディも歌詞も、スモーキー・ロビンソンが1961年に発表した「アイヴ・ビーン・グッド・トゥー・ユー」とよく似ており、こちらには「自分のしたことを見ろ、人をバカにしやがって」という歌詞がある。

Helter Skelter

 「ヘルター・スケルター」のコンセプトは、ザ・フーの新曲を絶賛する音楽雑誌の批評記事から生まれた。ポールはその批評が的外れだと感じ、記事に書いてある通りの曲を作ろうと決めたのだ。

 その新曲とは、1967年10月リリースの「恋のマジック・アイ」だった。『メロディ・メイカー』誌は「凶暴なシンバルと噛みつくようなギターが紡ぐ大長編抒情詩を引っさげて、恐るべきバンド、ザ・フーが帰ってきた」と書いている、また、ライバル雑誌の『NME』には、この曲には「ダイナマイトが搭載」されていて、「突き刺すような、けたたましいギター、圧倒的なドラム、激しく鳴り続けるシンバルが生み出す、爆音の壁」が出現したとある。

 読んだ記事についてのポールの言葉はその時々で違い、彼が読んだのがどの雑誌かはわかっていない。 1968年には、記事に「エコーやシャウトを盛りこんだ、荒々しいサウンド」と書いてあった、と話していた。だが、20年後には「かつてない大音量の耳障りなロックンロール、ザ・フーが贈る最もダーティな曲」というふうに記億がすり替わっているのだ。もっとも、この記事にどんな影響を受けたかという点では、コメントは一貫している。「《悔しいな。僕もこういう曲を作りたいよ》と思った。でも、実際に聴いてみると記事とはまったく違うんだ。ストレートなロックで洗練されていた。だからビートルズがやったのさ。騒々しい曲って大好きなんだ」

(略)

 イギリス人なら、ヘルター・スケルターが公園にある螺旋形のすべり台のことだと知らない者はほとんどいない。だが、1968年に『ホワイト・アルバム』を聴いたチャールズ・マンソンは、人種紛争が「すぐにやってくる」とアメリカに警告を発している曲だと解釈したという。

(略)

1996年出版の『ポール・マッカートニー――メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』で、ポールは著者のバリー・マイルズに、実は真剣なテーマがあったと語っている。「ヘルター・スケルターを、てっぺんから真っ逆さまにすべり落ちることの象徴として使った。ローマ帝国の盛衰のように。テーマは崩壊、時代の終焉、衰退だよ」


ポール・マッカートニー―メニー・イヤーズ・フロム・ナウ

作者: バリーマイルズ, 松村雄策, 竹林正子

メーカー/出版社: ロッキングオン

発売日: 1998/12

|本| Amazon.co.jp

Revolution 1

[「僕を仲間に入れるなよ/入れろよ」の「入れろよ」を削除したことで、左翼陣営から「裏切り」「恐怖におののく哀れな小ブルジョア」と批判された。さらに学生のジョン・ホイランドとキール大学発行の雑誌で往復書簡で論争。「この曲は革命には程遠い」「紳士的な革命など存在しないのです」との批判に]

 ジョンの返信はこうだ。「《レボリューション》が革命の歌だと言った覚えは一度もない。(略)

《世の中を変えるには、まず世の中の悪が何かを知る必要があります。それから――叩きつぶすのです。徹底的に》か。かなりの破壊志向だな。何が悪か教えてやるよ――人間さ。人間を殺したいか?徹底的に?きみ(われわれ)が自分の(われわれの)考え方を変えるまでは――何も変わらない。今まで成功した革命があったか? 共産主義、キリスト教、資本主義、仏教、その他諸々、どんなやつらが立ち上げたと思う? 狂人どもさ、まともな人間なんていない。資本主義者がみんなバッジをつけていて、間違いなく撃てるとでも思ってるのか?それは甘いな、ジョン。学校の戦争ごっこじゃないんだぜ」

 のちに同雑誌の記者から取材を受けたジョン(・レノン)はこう答えた。「僕の言い分は、社会を変えたいなら人々の考え方を変えろということさ。でも、彼らは体制をぶち壊せという。そんな暴力沙汰が延々と続いているんだ。結果、何が起こった?アイルランドでも、ロシアでも、フランスでも――今はどうなってる?何も変わっていない。同じことの繰り返しさ。誰がこの暴力を始める?リーダーになるのは誰だ?きっと最強の破壊者だろうな。(略)とにかく割を食うのは一般の人々なんだ。」

She Came in Through the Bathroom Window

 この曲の構想は、ポールの外出中にロンドン、セント・ジョンズ・ウッドの彼の家に空き巣に入った追っかけファンたち、通称アップル・スクラッフスの事件からきている。そのひとりダイアン・アシュリーによれば、「ポールが出かけちゃってつまらないから、家に入ろうってことになったの。庭に転がっていた梯子を、少しだけ開いていたバスルームの窓に立てかけたわ。忍びこんだのは私よ」とのことだ。

 家の中から玄関を開けて残りの少女たちを招き入れた。追っかけ仲間のマーゴ・バードは言う。「あの子たちは家の中を引っかき回して服を何着か持ち出したの。本当に高価なものは盗らないけど、写真やネガはごっそり盗んだと思う。アップル・スクラッフスにはふたつのグループがあったの。追っかけする子と、出待ちして写真やサインをねだる子。私はポールの愛犬の散歩を買って出て、ポールと仲良くなったのよ。最後はアップルの仕事まで任されたわ。お茶入れに始まって、トニー・キングの販売促進部のメンバーにまでなったのよ」

 ポールはマーゴに、いくらかでも取り戻せないかな、と聞いた。「犯人はわかってたわ。盗品のほとんどはもうアメリカに渡っていたの。でも、ポールは1930年代のフレームに入れた、少し色あせた写真だけでも取り戻したいって言うの。それを今誰が持ってるかは知ってたから、取り返してあげたわ」

(略)

[ポールから事件を曲にしたと言われたダイアンは]

「はじめは信じられなかったわ。だってポールはものすごく怒っていたのよ。でも思ったの。どんなことでも曲のヒントにしちゃうのね、って。

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2017-08-03 ビートルズ全曲歌詞集 曲解説付き このエントリーを含むブックマーク

日本語タイトルだけだと判型のせいもあり、写真と英語歌詞だけのように思えてしまうけど、実際は英語副題に"The Stories Behind Every Track"とあるように各曲ごとに詳しい解説あり。


完全版 ビートルズ全曲歌詞集

作者: スティーヴ・ターナー, 藤本国彦, 富原まさ江

メーカー/出版社: ヤマハミュージックメディア

発売日: 2016/09/24

|本| Amazon.co.jp

ビートルズの面々は初期のロックンロールのサウンドを愛してはいたが、1962年にはチャート入りするにはすでに時代遅れだとわかっていた。(略)

BBCラジオに初登場したとき、聴視者の多くが感じたのは「また変なのが出てきたな」というものだった。(略)

「ほかからアイデアを拝借するのは、別に悪いことじゃない」。1966年のポールの発言だ。「みんなやってるよ――あのヘンデルもね。

I Saw Her Standing There

[ジョンが提案した you know what I mean という]言い回しは単なる間投句だが、実は性的なほのめかしとして使われることがあり、ポールもそのことは知っていた。(1969年、モンティ・パイソンは(略)「ちょんちょん」という少し卑猥なコントを披露している。(略)

[ポールは後にベース・リフは]チャック・ベリーの「アイム・トーキング・アバウト・ユー」を使ったと話している。(略)ディクスンとまったく同じリフを弾いたよ。このナンバーにぴったりだったからね(略)そう言っても、いまだになかなか信じてもらえないんだ。だから、ベース・リフは必ずしもオリジナルである必要はない、というのが僕の持論さ」

Misery

はじめてレコードになったポールの曲は「きっと彼女をものにする」と信じて疑わない少年の前向きな気持ちを高らかに歌ったものだが、ジョンは恋人を失い、孤独になることがわかっている男が心の痛みに耐える曲を作った

Please Please Me

暗にセックスのギブ・アンド・テイクを要求している――僕はきみを喜ばせただろう?今度はきみの番だ――[と見るむきもある](略)

[『ヴィレッジ・ヴォイス』誌の]ロバート・クリストガウは、これはオーラル・セックスの曲だと明言している。

Do You Want To Know A Secret

[母ジュリアによく歌ってもらったディズニー映画『白雪姫』の挿入歌がヒントに]

井戸のそばで鳩に歌いかける曲がこれだ。「秘密を知りたい?誰にも言ってはだめよ。この井戸は願いが叶う井戸なの」

There's A Place

年を追うごとにジョンの作品の中核をなしていく「一時的に非日常の世界に入り込むのは良いことだ」「《現実》だと誰もが思っているものを意のままに操る精神力が必要だ」という考えをほのめかす内容にもなっている。

(略)

後年、ジョンはこの曲を一から自分で作ったように話しているが、ポールはもともとアイディアを出したのは自分であり、曲のタイトルは(略)『ウエストサイド物語』のレコードにあった「きっとどこかに」から採ったと話している。

She Loves You

 この曲は1963年6月2日、ニューキャッスルで催されたマジェスティック・ボールルームでの演奏後に生まれた。ポールの話では、彼とジョンはニューキャッスルのホテルでツインのベッドにそれぞれ座って、アコースティック・ギターを弾きながら作ったという。 1988年にそのときのことを聞かれ、ポールは「まったく、立派としか言いようがないね!」と答えた。「こんな働き者がいるかい? 午後になって時間が空いたっていうのに、ジョンと僕はホテルのベッドに座りこんで曲を書いてたんだから。でも、それがすごく楽しかったんだ。仕事って感じじゃなくてね」

It Won't Be Long

 ジョンは1958年7月に母親を亡くし、その1ヵ月後にテルマ・マッゴーと付き合いだした。拒絶をテーマにしたジョンの曲は失恋の経験を元にしているのではない、とテルマは話す。元になっているのは、子どものとき父親が蒸発し、母親は実質的に育児放棄して自分の姉夫婦にジョンを預けたという事実だ。(略)

 「彼の人生は拒絶と裏切りの連続よ」とテルマは言う。「ジョンとはじめて会話らしい会話をしたときも、そのことを話したわ。私の父も蒸発したの。だからお互い同じ境遇なんだって気がして親近感を抱いたの。しかも彼の母親は車にひかれて亡くなったわ。冷静に受け止めているように見えても、内心はとても傷ついていたはずよ。ジョンも私も、裏切られ、見捨てられたように感じていた。

All I've Got To Do

『ウーマン』のヴォーカル収録をしたとき、ヨーコは「ビートルズ時代の歌い方そのものね」と感想を述べた。「いや、本当はスモーキーの真似をしているんだよ」とジョンは答えたという。「だって、ビートルズはいつだってスモーキーになったつもりで歌ってたんだ」

I'm A Loser

 1964年、ジョンの曲作りに重要な影響を及ぼすふたつの出来事が起こる。ひとつは、パリ滞在中にポールが地元のラジオ局の司会者にもらったアルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』を聴いたことだ。ポールはリヴァプールの学生時代の友人に教えてもらいディランを聴いたことがあったが、ジョンはこのときがはじめてだった。(略)メンバーはデビュー・アルバム『ボブ・ディラン』を買い、ジョンによれば「パリでの3週間、ずっとディランをかけっぱなしだった。4人ともディランに夢中になったんだ」

 ジョンに影響を与えたふたつ目の出来事は、『デイリー・メール』紙のジャーナリスト、ケネス・オルソップと出会ったことだ。(略)『絵本ジョン・レノンセンス』についてインタビューを受けたのだ。(略)

オルソップはジョンに曲作りについて尋ね、またポップ音楽という概念の奥にある自分の心情を隠す必要はないと話した。(略)

 数年後、ジョンは親友のエリオット・ミンツに、このオルソップとの出会いは彼がものを書く上で大きな転機となった、と話している。(略)オルソップはジョンに、抽象的なイメージではなく、個人の経験をもとにした自伝的なものを書くように勧めたんだ。ジョンはその言葉がとても強く印象に残ったんだよ」

 5ヵ月後にレコーディングされた「アイム・ア・ルーザー」は、ジョンの変化を感じさせる最初の曲だ。

Baby's In Black

1年前の「抱きしめたい」以来、久々の完全な共作だ。ケンウッドにあるジョンの自宅で、膝を突き合わせて作ったのである。イアン・マクドナルドの記憶では、彼がふたりと『ジョニーは市へいったきり』という童謡をふざけて演奏するうちにセッションが始まったという。その歌には「まあ、どうしましょう!いったいなにがあったのか/ジョニーは市にいったきり」という繰り返しがある。「いつもよりちょっと暗めの、ブルースっぽい曲」を作りたくて書いたのがこの曲だ、とポールは語った。

Help!

ジョンが最も誇りに思う楽曲のひとつで、生涯「お気に入りの曲」と呼んでいた。「真実を歌った」曲として、ほかに「イン・マイ・ライフ」や「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」も挙げている。(略)

当時はこの曲が自分の心情を表しているとは考えていなかったという。「映画のための曲が必要だと言われて書いたんだ。でもあとになって、あのとき自分は切実に助けを求めていたんだと気づいた。だから、あれは僕の《太ったエルヴィス》時代さ。彼の映画を見てごらんよ。エルヴィスは――ってことはつまり僕もだけど――とても太っていて、不安定で、自分を完全に見失っている。そして、《僕は今よりずっと若かった》とか何とか歌ってるんだ。昔は何の苦労もなかったなあ、と思いながら」

Ticket To Ride

[芸能ジャーナリスト:ドン・ショート談]

「1966年6月にビートルズが再びハンブルクに行ったとき(略)ジョンが《Ticket To Ride》は、[病気持ちじゃないことを医者に証明してもらった]娼婦たちの健康証明書のことでもある、と言ったのさ。まあ、ジョークかもしれないけどね。

(略)

《Ticket To Ride》は、黒人霊歌やゴスペル・ソングでよく使われるフレーズだ。有名な黒人霊歌に「 If I Got My Ticket Lord, Can I Ride?」がある。

Yesterday

[64年後半にメロディを思いつき、「スクランブル・エッグ、ミュエンスタ・チーズをかけたオムレツもどうぞ、食べた皿は洗面器にどうぞ、皿についたスクランブル・エッグはあとで洗うよ。一緒に食べよう、卵は十分にある、ハムにチーズ、ベーコンも。だから二人分用意して、一緒に食べよう」といったインチキ歌詞をつけ歌っていた。《ヘルプ!》を撮影していた四週間、ポールはずっと《スクランブル・エッグ》を弾いていたが、ディック・スレーターは]

とうとう我慢できなくなって、こう言った。《これ以上そのくだらない曲を弾いたら、ステージからピアノを撤去するぞ。(略)》

[今の歌詞を完成させたのは65年6月]

(略)

 この曲は暗にポールの母親のことが歌われ、当時きちんと悲しみを表現できなかったことを「後悔」している、という考え方がある。「《なぜ彼女は行ってしまう必要があったのだろう。僕にはわからない。彼女は教えてくれなかったから》とか、《僕は明日を信じている》という歌詞は、無意識のうちに母親の死のことを書いたのかもしれないね」とポールも認めている。

Day Tripper

「デイ・トリッパー」はジョンの造語で(略)彼とは違い、四六時中トリップできる境遇にない人間をを歌ったものだ。(略)この曲は……つまり、週末だけヒッピーになるってことなんだ。わかるかい?」[とジョン]

(略)

歌詞に出てくる「思わせぶりな女(big teaser)」は「prick teaser」の婉曲表現で、「男をその気にさせながら最後までは許さない女」を指す言葉としてイギリスでよく使われる。

We Can Work It Out

[女優を優先しようとしたジェーン・アッシャーと初の大喧嘩をしたポールが作った]

「《きっと解決できる》ってフレーズは、いかにもポールだね」とジョンは言った。「実に楽観的だ。対して僕はまったく我慢強くない。僕が作った部分はこうさ。《人生は短い。ねえ、ケンカしていがみ合ってる時間はないんだよ》

Michelle

 完成した曲をポールがジョンに聞かせたところ、ジョンは中間部に「I love you」というフレーズを入れ[ニーナ・シモンの「アイ・プット・ア・スペル・オン・ユー」風に「love」を強調して歌うことを提案](略)

「僕がポールの曲に手を貸す利点は、ブルースっぽい雰囲気が加わるってことさ」

(略)

「僕とジョージが楽器店にいたとき、ジム・グレッティがギターを弾いたんだ」とポール。「《すごい、その音は何だい?》と聞くと、グレッティはこう教えてくれた。《基本的にはFコードだ。ただ、第4フレットの上の2弦を小指で押さえてるのさ》。僕らは早速やり方を習ったよ。しばらくの間、それが僕らの弾ける唯一のジャズ・コード[F7#9]だった」(略)

「この曲にベースを入れたことはずっと忘れないだろう。だって、そのおかげでビゼー風の曲になったんだからね。本当に、入れる前とがらりと雰囲気が変わったよ」

Girl

[ジョンによると、「苦しみを与えられれば救われる」というキリスト教の教えを意識した曲]

当時はキリスト教の教えに反発していたからね」(略)

[このころ、彼は宗教に関する本を熱心に読んでいた。録音から4ヶ月後、例のキリスト発言が飛び出す]

I'm Looking Through You

 ポールはいまだに、ジェーン・アッシャーがブリストルへ移ったショックから立ち直れないでいた。(略)

労働者階級出身のポールにとって、恋よりも仕事を優先する女性を理解するのは難しかった。

In My Life

最初はさまざまな場所を羅列していた――ペニー・レイン、チャーチ・ロード、時計台、アビー・シネマ、トラムの車庫、ダッチ・カフェ、セント・コロンバス・チャーチ、ドッカーズ・アンブレラ、カルダーストーンズ・パーク。(略)

「《休みの日にここに行きました》っていう、何の変哲もないバス旅行の歌みたいで、どうにもうまくいかなかったんだ……」とジョン。「そこでいったん休憩して、ごろりと横になった。すると、僕の記憶に残るいろんな場所にまつわる歌詞が浮かんできたんだ」

 ジョンは特定の場所の名前をすべて削除し、消え去った子ども時代や若さを嘆く歌詞を考えた。こうして、リヴァプールの街並みの変化を歌った曲は、死や崩壊についての普遍的な曲になったのだ。

(略)

ジョンは自分が行き詰った部分をポールが手伝ったと話しているが

[ポールはジョンの詩に、ミラクルズの「ユーヴ・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」を意識して、自分がメロトロンで全部メロディをつけたと主張]

Paperback Writer

 シングルとしては、愛以外をテーマにしたはじめての曲(略)

 当時、ポールはこう語っている。「何か変わったことがやりたいんだ。新しいアイデアを試したい。数年前にリル叔母さんから《なぜいつもラヴ・ソングなの?馬とかサミットとか、何かおもしろい歌はないの?》と言われた。《わかったよ、叔母さん》――だから最近はラヴ・ソングを書いていない」(略)

トニー・ブラムウェルは歌詞について、アイデアの大半は実際にポールに届いた小説家志望の人物からの手紙だったと考えている。

Yellow Submarine

ポールは子どもでもすぐ覚えて歌えるように、短い単語ばかりを使って詞を書いた。(略)

「僕らは時々お互いの家に立ち寄る仲だった」とドノヴァンは言う。「僕は自分のアルバム『サンシャイン・スーパーマン』の発売前で、お互いの最新の曲を聴かせ合った。(略)

[歌詞が1、2行できてないから手伝ってと言われ]

《青い空、緑の海、黄色い潜水艦に乗った僕ら》というのを考えた。

She Said She Said

[1965年8月、ビートルズはロスに部屋を1週間借り、自らの意志で初LSD体験]

経験豊富なピーター・フォンダがガイド役を買って出た。「[死にそうだというジョージに]何も心配しなくていい、リラックスしていればいいんだと言った。気持ちはわかるよ。僕は10歳のときに事故で自分の腹を銃で撃って、出血が止まらず手術中に心臓が3回も止まったんだ。その話をしているときにジョンが通りかかった。僕が《死ぬのがどんな気持ちか知ってる》というのを聞いて《こっちはまるで生まれてもいないような気になるぜ。いったいどこで、そんなくだらない考えを仕入れてきたんだ?》とかみついてきたよ」(略)

 もともとこの曲(当初は『He Said He Said』というタイトルだった)はもっと過激な内容だった。「いいかい、誰がそんな戯言をきみの頭に詰めこんだんだ?/発狂するのがどんな気分か知ってる/まったく、最低の気分さ(And it’s making me feel like my trousers are torn)」。だが、これでは曲にならないと考えたジョンはこれをボツにした。(略)

数日後に再び曲に取り組み、ミドルエイトを考え始めた。「最初に思いついたやつを入れてみたんだ」とジョン。「《僕が子どものころ(when I was a boy)》の部分さ。前とは違うビートでね。今度はリアルになった。つい最近起こったばかりの、本当の話にね」

And Your Bird Can Sing

 これはジョンが嫌いなタイプについて歌った曲だ。もともとそんなタイプではないのに、流行に敏感な人間のやることを片っ端から真似る人物。ジョンは折に触れ、ポールのことをそう言って非難していた。そう考えると、「世界の7不思議を全部見ただって?」という歌詞は、ビートルズがニューヨークではじめてマリファナを吸ったときのことがもとになっているのかもしれない。このときポールは、人生の重要な問題の答えがすべてわかったと言って、その気持ちを紙に書き留めたのだ。翌朝、ジョンがそのメモを見ると、そこには「7段階ある」とだけ書いてあった。

 『リボルバー』制作中、ポールはさまざまなジャンルのアートに強い関心を示していたが、それを見るとジョンは少し落ち着かない気分になった。そういうことは、アートスクール出身のジョンの担当だったからだ。 1966年4月、ポールは自分が興味を持っている音楽(インド音楽、クラシック、電子音楽)についてコメントし、ゆっくり聴く暇がないと嘆いている。「やるべきことはひとつだけだ。全部聴いて、好きか嫌いか決めるのさ」。このようなポールの発言に刺激され、ジョンはこの歌詞を書いたのではないだろうか?「世の中の音楽を全部聴いたって?」

次回に続く。

2017-08-01 創造元年1968 対談:押井守 笠井潔 このエントリーを含むブックマーク

語らずにおいたせいで意味ありげになっていたものが、語ってしまったら意外にアレだった……という面がないでもない。

特に表記のないものはすべて押井守の発言。


創造元年1968

作者: 押井守, 笠井潔

メーカー/出版社: 作品社

発売日: 2016/09/30

|本| Amazon.co.jp

だって戦争なんだから

渋谷や新宿に着くと、普段の駅と違う。

ホームにヘルメットがダーッと並んでる。(略)反対側から眺めるとヘルメット一色。「これだ!俺たちがやっていたぬるい世界からぜんぜん違う世界に入ったんだ」とものすごく高揚した。すぐ向こうに戦争とか火の海の世界が一瞬見えた気がした。(略)

中央大学のバリケードで封鎖された校舎の屋上で、「来年、東京中が見渡すかぎり火の海になるんだ」と熱く語ってくれた学生がいて、短い期間だったけど本当にそれを信じた。その自分の妄想にクラクラした。受験勉強も将来の人生設計もすべて関係ない。

だって戦争なんだから。

だから『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は高校時代の願望そのもの(笑)。ある日、目覚めたら街から人が消えている状態。高校時代は、繰り返し繰り返しその妄想にかられていた。電車に乗っていてもその妄想にふけって山手線を何周もしたりした。ある日突然誰もいなくなった東京で一人で暮らすことをディテールにいたるまで延々考えていた。『ゾンビ日記』という小説にも書きましたが、まず米軍基地へ行って突撃銃と銃弾を手に入れよう、食糧を調達して備蓄しようとか。『ビューティフル・ドリーマー』でも、面堂終太郎がレオパルド戦車でビルを片っ端から壊して回るシーンを描いたけど、当時の妄想のマンマですね。

(略)

高校時代は、「いかにして非日常を引き伸ばすか」をいつも考えていましたね。(略)高校で全学集会が開かれたときには、緊急動議に次ぐ緊急動議を出し、それにさらに修正動議を加える。「いかに全学集会を引き伸ばすか」という戦術で参加しました。全学集会のテーマ自体は、いかにも戦後民主主義的な「制服・制帽の廃止」とか「検閲の禁止」でしたが、それは(略)優等生たちのテーマですね。(略)[ぼくらの目的は]この非日常の状態を延々と続けることが獲得目標だった。

(略)

バリケードの失敗から全学集会になだれ込んだ。高校の日常生活を阻止するということをテーマにした。生徒集会という戦後民主主義の枠内でいかに狡猾に中から食いつぶしていくか。僕らにとってはそれこそが学内闘争の獲得目標になった。(略)「日常こそが打倒するべき対象だ」という明快なテーマをようやく掴んだ。

(略)

「大学生は日常を生きている。同棲生活までしてるじゃないか」というのが僕らの主張だった。(略)

恋愛というのはある意味、革命と二大テーマだったわけです。僕らの仲間には一人もガールフレンドがいなかった。(略)

 恋愛の果てに待っているものは大学生たちのような同棲であり結婚でしかない。そうなった途端に恋愛もただの日常になる、それ以外に恋愛の落としどころはあるのか、というようにね。だから今から思えばバカみたいに禁欲的だった。でも、どこかで渇望していたと思う。女の子を優先的に一生懸命オルグしてたから(笑)。

(略)

高校卒業寸前に赤軍派のオルグが来たとき、みんな結構真剣に考えた。自分たちのやっていることが国家権力と直接対峙するようなルートが本当にあるんだろうか、と。(略)

そのオルグに来た人は党派の人間にしては珍しくいい人柄で(略)「革命が実現して社会主義が成就したら恋愛する必要はなくなるのか?」とか、くだらない質問にもちゃんと答えてくれた。

(略)

ほんのちょっとしたボタンの掛け違い、運命の一瞬というのはありますね。よど号事件があったのは[その数箇月後だった]

光瀬龍

[高校時代]いちばん好きだった光瀬龍さんに会いに行ったんです。当時、あの人は赤羽の団地に住んでいて、しょっちゅう遊びに行っては終電まで喋ってました。(略)

会うと思ったとおりの人でしたが、何度も行っているうちに年長者として馬鹿な若者をたしなめるわけです。「君たちはたんなる欲求不満で暴れたいだけだ。具体的には女の子の問題だろう。性的な不満が根にあるんだ」、「日本や世界のことを考えるのであれば、地に足のついた運動をやるべきだ。ヘルメットかぶって突撃することとは関係ない」と。僕は「改良主義者だ」と思って猛烈に反発しました。最後にすごく分厚い原稿用紙に書かれた手紙を受け取って、今でも持っています。そこに連綿と書かれていたのは、「もっとちゃんと生きなさい」ということ。返信に激烈な言葉でアジを書いて以来、光瀬さんのところには行けなくなった。数年前に再会した未亡人にその手紙を見せられたときは、冷や汗が出ましたね(笑)。当時書いたものはみんな封印していたから。

怖かったデモ

 「反戦高校生」の夢破れて、僕は大学に入っても惰性で二年間くらい活動していたんですが(略)

超党派で最大動員しても、たしか百人〜八十人くらい。一度、小金井市内でデモをしたけど、恐ろしい体験だった。

 日比谷公園のデモに行くよりも怖かった。いつもメシを喰いに行っている食堂とか商店街のオヤジたちが全員、棍棒とかバットなんか持って店先で睨んでる。一触即発で、こんなに怖いデモはやったことがないと思った。

よど号事件の柴田泰弘

笠井 (略)日比谷野音で集会を開いていると、だんだん空が暗くなってきてくる。アジテーションで気分を高め、スクラムを組んで機動隊にぶつかる。警備車のライトがギラギラして、催涙弾が飛んでくる。火炎瓶を投げると街路が燃え上がる。これも一種の総合芸術であって、世界の変容を体感できた。(略)

ディスコでは死なないけれど、デモでは逮捕、投獄、負傷、極限では死ぬ可能性もあるわけだから真剣になる。なんらかの要求を実現するための政治行為という現実の水準にとどまらない、超越的な水準も含んだ運動でしたね。

押井 劇的でしたね。教会とか、カテドラルに入ったときの感じに通じる。(略)

デモももう少し勇壮な景観を目指したわけだけど、今から思うとアジテーションしかなかったから音響は絶対的に不足していた。ナチも同じようなことをやっていたけど、ワーグナーですからね。(略)圧倒的な祝祭にみんな圧倒される。

 何を目指していたかと言えば、つまるところそういうもの。一瞬だけ立ち上がる非日常の空間。今ここから離れるためには、とりあえず非日常にしかとっかかりがなかった。それは本当のリアルなもの、ナマの生みたいなものにつながっている気がした。命のやりとりみたいなものにも直結しているわけだから。でもそれでは現実として完結しないから、収容所の世界に行ってしまう。マルキシズムもナチも落としどころは結局そこしかなかった。そんなことは予感としてある程度は当時の高校生もわかっていた。だから戦争しかない、そのあいだにみんな死んじゃえばいいと思っていた。

 でも、先にも話したけれど、ちょっとした分岐の違いで生き残った。

 だから、「よど号」のことは今でも気になっていて、アニメでも実写でもいいので映画にしたいと思っているんです。ついこの前死んだけど、柴田泰弘(一人だけ高校生だった当時十六歳の少年)のことがずっと気になっている。一人で死んでいたところを大阪のアパートで発見された、彼です。一度監獄に入って五年の判決で出てきたけれど、おそらく彼は一生を通じて社会生活をしなかった。一人の人間として異様な人生だと思う。彼の人生はどういうものだったんだろう。北朝鮮に降り立ったとき、本当に高揚したんだろうか。北朝鮮の思想教育に最後まで抵抗したのは彼だったとも伝え聞いたことがある。その彼のことが今でも気になっているんです。本当にパラレルワールドですよ。僕ももしかしたらブントに入っていたかもしれないし、四トロに入っていたかもしれない。でも僕の場合、どこかで祝祭的な感覚から冷めてしまった。

 非日常のときは、日常を思い、日常にいると満たされずに非日常を思う。人間というものは基本的に分裂していて満たされないものなんだ。どっちにしても自分でリアルに生きていない。たぶん戦争中もリアルに生きていなかったろうし、戦後の平和な日常もリアルに感じられない。おおむねどんな人間もその思いを抱えたまま、家庭をつくり子供を育てて死んでいく。でも、ものをつくる人間は誰でもそうだけど、それでは満たされない。表現したいという欲求を抱えているから形にしないと収まらない。

『イノセンス』

 『イノセンス』をつくっている頃は、人間としての身体はありえないと思っていたんです。人間の身体とは意識や観念のことだと思っていた。あの頃は、いかに人間を幽霊にできるか、という今とは逆のベクトルでものを考えていたんです。『イノセンス』の世界はいわゆる冥府、あっちの世界とこっちの世界の中間だからみんな亡霊。だから足もとを暗くしたり、真っ白な顔にしたりして、あいつらは全部亡霊なんだ、ということを表現した。人形とか犬のほうがはるかに身体性がある。それは無意識の存在だから。人間は意識があるかぎり生き物として生きられない、というのがテーマだったわけです。(略)

 もっと飛躍した人間が生物学的に変質した世界、人間がサイボーグになった世界も妄想していました。人間は動物であることを捨ててきたんだから、だったら潔くサイボーグになればいいって。

(略)

 でも、『イノセンス』をつくり終わったあとに体調を崩して本当に死にそうになった。二ヶ月くらい寝込んで起き上がれなかった。(略)

[そこで空手を始めて]ある種のどんでん返しが起きたんです。(略)

すごく限られた自分の身体の幅でものを考えはじめ、何が実現可能かを実践しようとしてる。だから今は違った意味で戦闘的になっていて、高校生のときのように目つきの悪いヤツに戻ってるかもしれない(笑)。

セカイ系の限界

押井 (略)僕よりも下の世代のここ十年くらいに出てきた監督たちの作品は、みんな常識の世界で完結する。地方の高校が舞台だったり、イジメの話だったり。(略)宇宙人も拳銃一丁も出てこない。映画を目指していて、拳銃も宇宙人も出てこないってどういうことなんだろう。批判するとかいう以前に理解できない。なぜそういう範躊でしかつくろうとしないんだろう。だって、やってもいいんですから。エンタテインメントだから堂々とできるのに。わけのわからないことを。でも(略)国内でやっている映画のコンクールでは、拳銃を出すだけで予選とかで落ちますから。そういう価値観が今でも映画の世界にはある。(略)文芸映画的なもの、いわゆる保守本流みたいなものしか期待されてない。その他はカルトやB級というようにイロモノ扱いされる。(略)

[ガン・アクション・ムービー]の世界観のほうがすごく近しくて、自分にとって納得できる。でも、若い監督たちはなぜかそういう方向に行かないで日常生活での心理の綾の話ばかり。

笠井 それ、蓮實重彦が元凶ですよ。蓮實が逆張りで小津安二郎を持ちあげすぎたせいで、その亜流か出がらしみたいな映画が日本で主流になった。たとえば是枝裕和ですね。小津の亜流が国際映画祭で少しばかり評価される一方、アクション映画の伝統は絶たれてしまった。(略)

押井 アニメも、最近そうなっています。この前、『君に届け』という作品を観て愕然とした。(略)高校生が延々とぐちゃぐちゃやっているだけ。僕らが演出家になりたての頃はそういうものは一切要求されず、「とにかくアクションをやれ」と。(略)

笠井 『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』というアニメ、いちおうは軍隊ものなんだけど、女の子が兵営でダラダラしてる日常を描いているだけだった。

押井 あの世代の特徴ですね。セカイ系とか言われている、中間が、ばっさりない話。それが若い世代ではベースになっているのは間違いない。片方では、「現実にしか興味がない」、「虚構なんか必要ない」というリア充と言われている層がある。映画も小説も必要ない、漫画すらも読まない。笠井さんも『例外社会』で書いていましたが、僕にはよくわからない。理屈としてはわかるけど、感覚としてわからないし、わかりたくありませんね。

(略)

僕はスタジオにいる若い連中しか知らないけど(略)声優を追いかけたり、漫画に夢中だったり、アニメしか見ませんという特殊な人間の群れ。(略)

 本当に日本がどんどんダメになっていくというリアリティがどこまで実感としてあるんだろう?(略)

――最近のオタクはダメになっていくのがわかっているからこそ、「萌え」などに耽溺し現実を忘れて死んでもいいという覚悟じゃないでしょうか

押井 (略)スタジオの若い連中を見ていても、こういう状況だからますますオタッキーな世界や萌えキャラにのめり込んでいくという 危機感みたいなものはあまり感じないんです。なんとなくプラスマイナス・ゼロという感じ。そこが日本人らしいところなのかもしれないけど、危機感があるとはまったく思えない。

戦争

押井 自分にとって最初の同時代の戦争は、ヴェトナム戦争でした。活動に入る高校生はやはりヴェトナム反戦が契機だったから、まずべ平運から出発する。そこから先の道は分かれてくるけど、僕は自分の日常生活をキープしつつ「戦争反対」と叫ぶのは違うと感じて、市民運動からは早々に去った。

 でも「革命戦争」という言葉にはすぐにピンときたんです。実は自分は、「戦争反対」ではなく戦争したかったんだ、と気づいた。皮肉なことに反戦闘争から入って、戦争を求めた(笑)。実はみんなそうだったと思う。革命だなんだとほざいても、精神運動としては最終的な原理まで行き着かないと収まらない。社会生活のない高校生は、つきつめていくと観念が簡単に逆転してしまうんです。最終的にはカラシニコフを持って戦いたい。宮崎駿さんもそう。共産党支持者のくせに空中戦大好き。封印してるだけ。で、戦争という状況を演出したらあの人は相当うまいに違いない。まあ、僕も同じようなものだけど、それに早々に気が付いた。だから、「戦争」という言葉には相当幻惑されました。ずっと興味があって今でも戦争を描こうと延々とやってますね。

表現者なら境界線上で生きろ

押井 (略)昔は、インテリだったら映画の教養は必須だった。映画を観たら一時間話せるとか、そういうことが尊重されていた時期があった。今は何の値打ちもなくなってしまった。僕がつくっているような映画は語ってもらえなければ一文の値打ちもない。そういう意味で言えば、境界線上で生きていくのも危うくなりつつある。(略)

全部台詞で丁寧に言ってあげないと理解できないみたい。

(略)

言語能力がすごく落ちている。(略)ロジックを組み立てる力、一から順番にものを考えるとか、伏線を留保しておいて必要なときに自分のなかで組み立てることとかはすべて言語能力。(略)

シチュエーションものはロジックを必要としないから、キャラクターの統一性や一貫性は考えてない。シチュエーションさえ成立していれば、あとはそれが自分の好みかどうかで評価する。基準が自分の好悪以外にない。だから評価ということが行為として成立しない。そういうことを前提としてものをつくっていると結局観てもらえないし、観てもわかってもらえない……と悪い方へ悪い方へ行ってしまう。

(略)

笠井 作品の自己完結性や有機的全体性が尊重されるのは、近代になってから。『平曲』は固定的なテキストが吟じられていたわけでなく、無数の演者がそれぞれのアイデアでテキストを変形していた。また歌舞伎の台本は「世界」という事件、人物、背景などの共通素材を前提として書かれるのが普通でした。このように前近代の文芸には、近代的な意味での自己完結的な作者や作品は存在しません。まったく同じではないけど、かつての時代に戻りつつあるのかもしれないね。

押井 (略)今起こっているシチュエーション以上のものは理解できなくなっていることとは、次元が違うと思う。切ったり貼ったりして自分で自由に組み立てるとか、コラージュするというのは観賞の態度としてありえた。でも今はそういうレベルじゃない。だから問題なんです。

(略)

笠井 イギリスで近代小説が登場してきたとき、「結婚するとかしないとか、瑣末な出来事をぐちゃぐちゃ書いてどうするんだ。芸術は神や民族の運命を描かなければならない」と言う高尚なインテリがたくさんいた。その近代小説が評価を確立すると、今度は「漫画やアニメはくだらない」となる。僕はそういう立場を選びたくない。「よくわからないことをやっているが、これから偉大な達成がなされるのかもしれないし、まあ見ていよう」と思います。

(略)

押井 (略)[仕事柄、萌えアニメを目にしたり]アニメ雑誌をぱらぱらめくる機会が多いわけだけど、社会性と非社会性とか、反社会的なものとかの表現とか、その境界線がさっぱり見えないんですよ。

 もっと突っ込んで言えば、つくっている人間の顔がぜんぜんわからない。つまり不気味なんです。僕としては理解できない。失敗しているのはわかる。失敗作は誰が見てもわかるから。でも、何かがないから失敗したのか、何も考えてないからこうなったのか、区別がつかない。それが最大の問題だと思う。そういうものをつくる監督や演出家と何を話せるのか、共通項がまったく感じられない。(略)

今やっている人たちは、全部が見てきたもののコピー。彼らのぎりぎりの境界線、ここから先は自分じゃないみたいな、そういう境界線がさっぱりわからない。

 シチュエーション自体はよくできている。キャラクターも悪いわけじゃない。ただ印象に残らない、すぐに忘れちゃう。たんに僕が歳をとって、ただの頑固な監督になり下がったのかもしれないけど(笑)。でも境界線上で生きなきゃ意味ないじゃない、表現者なら。

(略)

[『スカイ・クロラ』は]現代の若者の世界とシンクロするはずだと思って、若い子がたくさん観に来るかと思ったけど、それほど来なかった。

 存在感の希薄な若い子たちが、「どうやったら自分を肯定できるのか」ということを考えてつくったんです。批判する気もなければ否定する気もなかった。ある意味で言えば、それが正しいんだ、とも思いました。雲の上の親父、敵の撃墜王である「ティーチャー」には一生勝てない。でもそれを受け入れることで何かが見えてくるかも、という物語です。絶望を語ったつもりはなかったし、否定したつもりもない。(略)

自分の姿がわかっている人は、あの映画を観なくてもすでにわかっている。わかっていない人には、あの映画を観てもわからない。それを確認したにすぎない。

(略)

「台詞で言ってくれないとわかりません」とそこまで明快に言われちゃうと怯みますよ、やっぱり。じゃあ、どうやって演出したらいいのか。台詞で言ってしまえば演出は存在しない。たしかに最近の映画は台詞ですべて言ってしまっている。最後に主人公が絶叫して台詞で全部喋って終わる。でも、そうなると演出家は何のためにつくっているかわからない。見えない部分、読めない部分、予感だったり、不明快な部分が混沌としていて、すべて抱えているものが表現なわけでしょう。そうでないと世界を描いたことにならない。主張を言うだけならビラを撒けばいい。それは表現とは何のかかわりもない。

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