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2017-09-30 ザ・ビートルズ史<誕生> 上 その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


ザ・ビートルズ史 上

作者: マーク・ルイソン, 吉野由樹, 山川真理, 松田ようこ

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2016/12/01

|本| Amazon.co.jp

ブライアン・エプスタイン

[1952年召集令状]

物腰が柔らかで、女性的で、華奢で、シャイで、エレガントで(略)

彼は死ぬほど退屈な軍事教練とも、残酷なほどの激しい苦痛とも、弱い者いじめの規律とも、兵営で生活を共にする無礼でがさつで無神経な兵卒たちとも、精神的にも肉体的にも全く相いれなかった。そして何より、いとも簡単に、残忍な連隊先任軍曹たちの格好の標的になってしまった。(略)

ロンドンには同性愛者が就ける任務があるという密やかな情報が耳に入ったのだ。(略)

[首都を散策し]評判を聞いていたバーやクラブには近づかなかったが、「行く先々で、同性愛者がほかにもたくさんいることを知った」。(略)

[除隊後]彼は少しずつ、リバプールの別の夜の世界へと足を踏み入れるようになっていった。必然的にそこは、楽しみごとと危険が隣り合わせの、入り組み、ひた隠しにされた闇の世界だ。(略)ブライアンも仮面を脱ぎ捨てて仲間に加わった。一般的には、彼は自分よりも若い男が好みだったと思われているが、彼の相手の多くは日常的に暴力をふるう男で、そのほとんどが肉体的・性的に彼を暴行するような労働者階級の肉体労働者タイプで、行きずりの男だったこともあったようだ。ブライアンは俗に「ラフ・トレード」といわれる暴力的な関係の虜になっていた。彼にはリスクを冒したいという強い衝動に駆られる傾向があり、酒(スコッチが好物だった)を飲んでいるときは特に抑え難かった。叩きのめされることもしばしばで、恐喝されたことも何度かある。ほとんどが燃えるような情事や一夜限りの関係で、パートナーと呼べる大切な人が存在したことは生涯を通じてほとんどなかった。取り巻きはたくさんいるものの、いつも最後は一人になってしまう運命だったのだ。自分の生き方を嫌悪し、時には、そういう生き方しかできない自分自身をひどく憎んでいた。それでも、悦楽がもたらす罪や痛みのために、欲求を満たそうとなおいっそう貪欲になるのだった。そしていつも(ブライアン自身のプライベートな手紙の言葉を借りれば)「セックスのことに夢中」だった。

 しかし、ブライアンはただそれだけの人物だったのではない。ロイヤル・リバプール・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートには必ず足を運び、あらゆる劇場の常連客となり、アマチュア演劇を支援していた。

(略)

[57年おとり捜査で逮捕]警官たちは彼の腕をねじり上げて背中にまわし、警察署まで無理やり歩かせて、署では「複数の男に執拗に関係を迫った」罪で告発された。(略)

二年間の執行猶予を言い渡され、治療を受けるようにと命じられた(おそらくは精神科で分析を受けるとか、あるいは電気的ショック療法を受けるなど)。(略)

[58年「ラフ・トレード」の相手から暴行・恐喝。顔の傷から両親が気付き警察に通報。ブライアンは今度こそ刑務所送りではないかと恐れた]

原告側は「リバプールの資産家であり、同市の名の通った別の資産家の血縁にあたるため、一貫して『ミスターX』と匿名で呼ぶように」というものだ。裁判所はこれに合意した。結果的に、二つの大見出しがついた。「『ミスターX』セフトン・パークで暴行、と裁判所」「『ミスターX』の事件で保釈を巡って事務弁護士が異議申し立て」。(略)

襲撃者は二年間投獄された。一方ブライアンは告発されることもなく、大いに胸をなでおろした。しかし、この事件で(略)

家族にも自分の性行動についてすっかり知られてしまい、ブライアンは心に深い痛手を負う。

文学にハマるポール

 ジョージが学校を辞めてしまったため、ポールは一人でカレッジの食堂へ潜り込んでジョンに会いに行っていた(略)

 ポールはこの時期も、ダスティ・ダーバンドの影響で文学の世界に深くはまっていた。(略)

自分はソングライターなのだという自己イメージを抱いていたが、それと同じように、今度は「思索する自分」の姿を意識的に表に出すようになった。彼はいまや「八六番のバスに乗る知的な若者」であり、バスの二階で思いにふけりながらパイプをふかし、手には『ミルクの森で』や『ゴドーを待ちながら』の本を、タイトルが見えるようにして持っていた。「ぼくは読書のほとんどを、人生の(この)ほんのわずかの期間にやってしまった……ちょっとガリ勉みたいで、いい子ぶってるなと感じてはいたけどね……まるで大学生になったかのような気分だった」(略)

自分のことを詩人のようだと思い、人々の様子を観察し、ベンチに座って自分が見たものについてちょこっと書きつけたりもした。材料を集めることに、すごく意識的になっていた。ほんとうに自分がアーティストだと思っていたんだ……頭のなかはそれでいっぱいだった」。彼はまた、専門書の書店にも足を運んだ。(略)そこは専ら戯曲や詩や小説を扱っていた。買えるだけのお金があるときは、ポールは知的で重たい本を購入した。お金がなくて、かつ誰も見ていないときは、そのまま持ち去った。

背伸びするポール

[ジョンのつてで]ポールとジョージは生まれて初めてオールナイトで催されるパーティに出席(略)

[ポール談]

「ぼくらはちょっと背伸びして、何とか年上のグループといたいと思ってたから、何でもわかってるふりをしてた」。(略)[20代の素敵な女性にモテようと]ポールはフランスの吟遊詩人を装うことにし、リバプール八地区のジャック・ブレルを目指して、ミステリアスな音楽家に見えるように黒いタートルネックのセーターを着て、ギターをつま弾き、ロマンチックなシャンソンらしき歌を口ずさんだのである。(略)

「神秘のベールに覆われた謎の人物のつもりだった。女の子たちに『あの隅っこにいる魅力的なフランス人はいったい誰?』と思わせたくてね。(略)

努力の甲斐もなく、ポールドは一度たりともフランス人として声をかけられなかった。それでも、ゼニスのギターでつま弾いた曲はまわりの人々の関心を引いた。チェット・アトキンスの〈トランボーネ〉のようなスタイルだが、ポールのオリジナルで覚えやすいメロディだった。歌詞はなく、学校でフランス語を習ったことのなかったポールは、フランス語など全く知らなかったので、曲を続けるためにただ「ルバーブ」という言葉をフランス語風のアクセントでつぶやいていた。この曲はパーティのたびにちょこっと取り上げるレパートリーとなり、その後何年も歌われていた。

ポール、ドラマーになる

[60年7月ノーマン・チャップマンに召集令状、ビートルズはドラマーを失う]

ポールはクオリーメンとジェイペイジ・スリー時代に組み立てた自分のドラム・セットを持っていて(名目上は弟マイクのものだった)(略)

自分の多才なところが披露できて嬉しい反面、気持ちは冴えなかった。嫌な役まわりを押し付けられたような気分だった。マルチ・プレイヤーであることが、かえって自分の首を絞めているように感じられた。ドラマーになんか、誰が注目するもんか。ほんとうならば、ポールの立つべき位置は舞台のフロントなのだ。しかも、新しいギターを持って。(略)

スチュを妬む気持ちがかき立てられた。スチュがあいかわらずフロントに立っているのに(略)ポールは後ろに引っこんでいなければならなかったんだから。それでも、これだけは譲れないというものがポールにはあった。ボーカルをとることだけは絶対に断念しないぞと思っていたのだ。「両手でドラムを叩き、脚でハイハットとバスドラムを鳴らし、先にマイクロフォンをくくりつけたほうきを太もものあいだにはさんで(略)〈ホワッド・アイ・セイ〉なんかを歌うんだ。楽じゃないよ!」

 時々ポールがフロントに進み出て来られるように、ジョンとジョージが代わってドラムを担当することもあったが、約三週間のあいだ、ドラムがポールのメインのポジションとなり、しかも確かにかなりの腕前を見せるようになった。ジョージはこう証言する。「とてもうまかったよ。控え目に言っても、問題なく見えた。おそらくその時点では、ぼくらみんなクズみたいに下手くそだったってことなんだろうけど」。

ハンブルクでのレパートリー

[ハンブルクでの最初の晩]シニアーズのハウイー・ケイシーは、故郷リバプールから新しくやって来た(略)ビートルズをあざ笑うつもりでいたのだが(略)

「とにかくびっくり仰天だった。[ビリー・フューリーの]オーディションで観たのとはまるで違った。彼らにはきらめきというのか、何か特別なもの、ほかとは違う何かがあると感じた。ぼくらもちょっとハーモニーをつけて歌ったりもしていたが、彼らはそれは見事なハーモニーを聴かせてくれた。うっとりするほど魅力的だった。どんどん伸びるグループだということが一目瞭然だった」(略)

しかし、いくら彼らのハーモニーが素晴らしくても、第一にレパートリーが少なすぎた。(略)ここでは長いときは六時間も演奏しなければならないのだ。(略)ビートルズは同じ曲を繰り返し演奏しないことを自分たちの目標に定め、チャレンジした。その結果、レパートリーを小気味よいほどに拡大することになった。「ほかにどうしようもなかったし、それよりほかは知らなかった」と言って。そして、カール・パーキンスの最初のアルバムのすべての曲、ジョニー・バーネットの最初のアルバムのすべての曲、バディ・ホリー&クリケッツの最初のアルバムのすべての曲、エルヴィス・プレスリーの最初のアルバムのすべての曲と《エルヴィスのゴールデン・レコード》のすべての曲、ジーン・ヴィンセントの最初のアルバムのすべての曲[を演奏し、さらにポールは〈ホワッド・アイ・セイ〉を15分引き延ばして歌い、ジョンも同様にエルヴィスの〈ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス〉を]「一曲が10分くらい続くように、主旋律を何度も何度も繰り返して歌った」。ポールは〈サマータイム〉や〈虹の彼方に〉を歌い(両曲ともジーン・ヴィンセントが取り上げていたからだ)、ビートルズはフィル・スペクターの〈トゥ・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー〉を演奏し、自分たちの知っている限りのチャック・ベリーのナンバーすべて、リトル・リチャード、バディ・ホリー、コースターズ、エディ・コクラン、ファツツ・ドミノ、ラリー・ウィリアムズの全曲を演奏した。ジョンは〈ホンキー・トンク・ブルース〉のようなハンク・ウィリアムズのカントリー・ナンバーを歌い、〈ムーングロウ〉〈ハリー・ライムのテーマ〉などのオールディーズや〈マネー〉〈ベサメ・ムーチョ〉〈シェイキン・オール・オーヴァー〉〈アパッチ〉(ただしシャドウズのダンス・ステップはなしで)などの新しい曲も演奏した。

ドイツでは散々なポール

[スチュとアストリットが付き合いだし]

ポールはスチュへの嫉妬心をますます募らせた。アストリットは芸術的センスを持ち、魅力的で、教養があり、知的な女性で、ハンブルグの中産階級の裕福な家庭で育ち、コンパーチブルのフォルクスワーゲン・ビートルという自分専用の車さえ持っていた。(略)

[ポール談]

「ぼくらは狂おしいほど、もどかしかった。彼女はぼくらの誰とも恋に落ちることはなかったからね。あんな恋愛もあるなんて、ぼくらのみんな生まれて初めて知ったんだ。ぼくらの親たちだってああいう恋愛はしていなかったから。ぼくらには刺激的だった」

(略)

いっそう悪いことに、ポールはスチュが「大嫌い」だったため、必然的にスチュの新しい三人の友人たちもポールに対して反感を抱いた(略)

アストリット、クラウス、ユルゲンから見たビートルズのメンバーの優先順について、ポールは悲しい気持ちで敗北を認めている。「ジョンが二番で、これはぼくもよくわかる。ジョージが三番で、これはちょっと腹立たしい。ぼくは悪くても三番目くらいには就けると思ってたからね。それなのにぼくは四番目、ビリのピート・ベストの一つ上だなんてあんまりだ」。ところが、現実はそれ以上に厳しかった。アストリットは次のように語っているのだ。「順番で言えば、スチュアート、ジョン、ジョージ、ピート、そしてポールね。ピートのことはいい人で好きだと思ったけれど、ほんとうにとても内気だから、つい存在を忘れてしまうんです。ほんとうに、彼はいつも一人でした。ポールは『立派』で近づき難かった。社交家で如才なくて。どんなときもお行儀よく波風立てないようなふるまいをするので、気心が知れないところがありました。ポールとは、気取りのないジョンやジョージと同じようには親しくはなれませんでした」(略)

[スチュも友人への手紙で]

「おかしな話だが、ポールは遠征のあいだ正真正銘の厄介者になってしまったんだ。みんなから嫌われて、ぼくはただ気の毒に思ったよ」

下巻に続く。

ザ・ビートルズ史<誕生> 下 マーク・ルイソン - 本と奇妙な煙

2017-09-28 ザ・ビートルズ史<誕生> 上 このエントリーを含むブックマーク

分厚い上下巻でデビューあたりまでしかいかないのである。


ザ・ビートルズ史 上

作者: マーク・ルイソン

訳:吉野由樹, 山川真理, 松田ようこ

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2016/12/01

|本| Amazon.co.jp

[ポール]の目に映るジョンは「遊園地のヒーローで、車をぶつけ合って遊ぶ乗り物に乗ったすごい奴」であり、大人のテディ・ボーイであった。汚い言葉を使い、タバコを吸い、喧嘩をし、性体験があり、酒を飲み、カレッジに通っていた。そしてエルヴィス・プレスリーのようにもみあげを伸ばし、服の襟を立て、背中を丸め、威嚇するような目つきで歩きまわっていた

(略)

ポールが『アリス』を一回か二回しか読んだことがなかったのに対し、ジョンあいかわらずこの作品を数ヶ月ごとに紐解いており、ルイス・キャロルの言語遊戯をすっかり自分のものとして取り込んでいた。

 家で過ごす日曜はいつも楽しかった。メアリーは口笛を吹きながら、限られた配給品で最高の昼食を作ろうと材料を火にかける。ジムはNEMSで購入したアップライトピアノの前に座り、パイプをくわえながらなじみの曲のメロディを手探りで奏でている。そのなかにはジム・マックス・バンドが「狂騒の20年代」に演奏していたレパートリーもあれば、もっと最近の曲もあった。それは年若い息子たち、とりわけポールに、衝撃的かつ永続的な影響を与えた。「じゅうたんの上に寝転んで、父が演奏するのを聴いていた。〈ステアウェイ・トゥ・パラダイス〉とか、ぼくが好きだった〈木の葉の子守唄〉とか、それから父が自分で作った曲とか。ただ即興的に弾いているだけなんだけど、素敵な音だった。(略)

ジムはポールにピアノを教えたがらなかった。自己流の悪い癖を受け継いでほしくないと思っていたからだ。しかし、教えなくても問題はなかった。ポールは音を聴き、動作を見て、すべてを吸収した。あとは指が勝手に動いてくれた。

(略)

ジョン・レノンが最初に楽器を演奏したのも、ほぼ同じ頃だった。(略)

[夫に死なれたミミは生活のために下宿人を置いた。その一人、ハロルド・フィリップス]が所有するハーモニカをジョンはいつも吹かせてもらっていた。ある日フィリップスはそのハーモニカをジョンに差し出し、翌朝までに何か曲を吹けるようになったらこれを君にやるよ、と言った。(略)ジョンは翌日まで二曲もマスターし、フィリップスは約束を守った。楽器は晴れて少年のものとなった(略)

初めてハーモニカを手に入れたとき、それは人生で最高の瞬間の一つだった」

ポールのトランペット

[13歳の誕生日に中古のトランペットを贈られたポール。〈チェリー・ピンク・チャチャ〉が英米両チャートで1位]

トランペットの人気は頂点に達していた。(略)

「もちろん、最初のうちは『俺はルイ・アームストロングだ』なんて想像してみたよ。でも〈聖者の行進〉を演奏するのが精一杯で、『もういいや』となってしまった。それから、唇が腫れるようになり、ノックアウトされたボクサーみたいな顔で外を歩くのも嫌だなあと思ったんだ」(略)

 1955年の後半の数か月(あるいはもしかすると56年の春頃まで)、ポール・マッカートニーの吹くトランペットの音はアードウィック・ロード界隈に響きわたり、それは路地で遊ぶ子どもたちをあおり立てる前衛音楽のようでもあった。ポールはCメジャーの音階をマスターし、〈聖者の行進〉以外にも一、二曲練習してみた。だが最終的に、トランペット・ブームが勢いを失い、もっとエキサイティングな音楽がアメリカからイギリスに上陸し、そしてずっとすぼめていた唇の痛みが増すにつれて、ポールのトランペットヘの愛着は薄れていったのである。

ジュリア

 ジュリアはまさに、ジョンの理想にぴったりの女性だった。常に古いしきたりにとらわれず、生まれてからずっと身を置いてきた世の中の流れに逆らってばかりいた。41歳の彼女は、ジョンがそのまま年を重ねたようでもあり、女装した彼のようでもあった。常に礼を欠いた行動をとり、因習を打ち破ろうとし、何者にも束縛されず、機知に富み、途方もない個性とひねくれたユーモアのセンスを備えていた。(略)

[ピート・ショットン談]

最初に会ったとき、ジュリアは「スリムで魅力的な女性だった。ウールのニッカーボッカー[膝下で裾を絞った女物の下着]を帽子みたいに頭にかぶり、踊りながら玄関先を通り抜けた」という。そして、初対面の握手の代わりに彼の尻を叩き、少女のようにクスクス笑ったという。ピートは仲間内で最初に、ジョンの母親のことを「むちゃくちゃすごい」と思って尊敬するようになった。

(略)

性的な物事への関心がひときわ高かった15歳の少年は、彼女のような女性がすぐそばにいると、時として暴走する感情を制御できなくなった。(略)ジョンは母親だと頭では理解していたものの、彼女のほうはいつも母親らしい行動をとるわけではなかった。ジョンは個人的に録音した回想のなかでこう語っている。

 自分の手が母の乳房に触れたときのことを覚えている。14歳ぐらいの頃の話だ。その日は学校を勝手に休んでいた。(略)あのときは一緒にべッドに寝転びながら、「それ以上のことをしちゃったらどうなるんだろう?」と考えていた。何だか落ち着かなかった。通りの反対側に住んでいたあまり階級の良くない女性とは、現実にそういうことになっていたからだ。今は、やっておけばよかったかも、と思っている。彼女も許してくれたんじゃないか、と。

〈ロング・トール・サリー〉

[友人のマイケル・ヒルが]「エルヴィスよりすごい歌手のレコードを手に入れた」と言うのを聞いたときに、頭のてっぺんから足の先までプレスリーに心酔していたジョンは、そんなことがあるわけないと(略)きっぱり言い放ったのだった。(略)

「あのレコードを聴いて、ジョンはその場で固まっていた」とヒルは言う。(略)

[ジョン談]

最初にあの曲〈ロング・トール・サリー〉を聴いたときは、あまりにすごすぎて言葉が出なかった。言ってみれば、心が引き裂かれてしまったんだ。エルヴィスを裏切りたくはなかった。エルヴィスはぼくの人生において宗教よりも大きな存在だった。(略)ぼくはエルビスを貶めるようなことは言いたくなかった。心のなかでさえもね。あんなにすごいものがこの世に存在していいのか。しかも両方とも。すると誰かが「これ、黒人が歌ってるんだな」と言った。黒人が(ロックンロールを)歌っているとは知らなかった。ということエルヴィスは白人でリトルリチャードは黒人てことか。「神様、サンキュー」とぼくは言った。

(略)

ロックンロールを歌っているのは白人だけではない……ジョンの認識は急カーブを描くように深まっていった。「最初に黒人について知ったのは、彼らが激しく体を動かして踊るということと、ものすごくリズム感がいいということだった。(略)イギリスではただの一人も肌の黒い人間と会ったことがなかった。だからアメリカの黒人に対する強い畏敬の念があったんだ」

徴兵制

[ポール談]

「状況が大きく変わったのは、徴兵制がなくなったときだった。それまでは随分と長いこと、あの『君を立派な男にしてやる』という軍隊の脅し文句が重くのしかかっていた。そこから初めて解放されたのが、ぼくらの世代だったんだ。それ以前の世代のように、あのシステムをかいくぐる必要がなくなった。ぼくらはまるで、鎖を解かれて四方八方へと走り出した子どものようだった」

邂逅

「(ほんとうの)第一印象は『こりゃたまげた、歌詞をその場ででっち上げてるぞ』だった。デル・ヴァイキングスの〈カム・ゴー・ウィズ・ミー〉を歌っていたんだけど、歌詞をただの一語も知らないんだ。歌いながら歌詞を全部作ってる。すごいと思ったよ」

(略)

[15歳になったばかりのポールにとってもうすぐ17歳のジョンは大人で]

「ぼくは境界線からこっちの間違った方にいて、彼らは向こう側の正しい方にいる。そんなふうに感じていた(略)

会う前から、彼の姿は何度か見かけていた。『ああ、あいつか。バスに乗ってたあの不良か』って。イカした奴は目立つんだ……でも(バスの中で)決してじろじろ見たりはしなかった。殴られたら困るからね」

ポール加入

ジョンは音楽的に十分な水準に達していないメンバーに対し、いつも彼なりのやり方でそれを思い知らせていた。ピート・ショットンの場合は、まず一緒に自転車で出かけた際に、激しい口喧嘩をわざと仕掛けた。(略)[さらにパーティーで酔っ払っていた時に]ピートの頭上でウォッシュボードを叩き割ったのである。「じゃ、それで解決だ、ピート」と、グループのリーダーは高らかに言った。[6歳から続いていた二人の友情は大人になるにつれ弱まり、卒業後ピートは警察官に](略)

警官を心底馬鹿にしていたジョンにとって、ピートがそのような道を選んだことは大きなショックだった。そしてピートがグループを去ったあと、[ポール加入]。

ジュリアの死

 何年も経ってから、ジョンがジュリアの死から立ち直るためにどのような手助けをしたのかと尋ねられたとき、ポールはこの時期のことを全く思い出すことができなかった。1958年の夏、ジョンとポールはお互いにほとんど顔を合わせなかった可能性が高い。ジョンは空港でアルバイトをし、ポールはジョージと二人で休暇旅行に出かけていた。この旅は16歳と15歳の少年にとっては大冒険だった。一方、ルイーズ・ハリスンは、ジョンが「一人で考え込んでばかりにならないように」と、ジョージを促してメンディップスを訪問させたことを回想している。仲間が二人とも母親を失ったという恐ろしい事実を知って、ジョージはすっかり怖くなった。あるときふと、自分の母親も近いうちに死んでしまうのではないかと思い始めたのである。「あの子は心配で、私のことをずっと注意深く観察していたんです。馬鹿なことを考えないでちょうだいと私は言いました。死んだりしないわよ、と」

(略)

[ポール談]

「ぼくらに絆があった。二人で話し合ったことは一度もないけれど、相手の身に何があったのかはお互いにわかっていた……ジョンが打ちのめされていたのは知っている。でも、あのくらいの年齢というのは、めそめそしているのが許されないんだ。特に若い男の子、ティーンエージャーの男の子たちは、そんなことは平気だという態度をとるものだった。ぼくらにもそういうところが多分にあった。見えないところでは泣いてたけどね。ぼくらの心が離れていたとか、お互いに冷淡だったとか、そういうんじゃない。二人とも確かに落ち込んだよ。でも、前を向いて進んでいかなければならないとわかっていた。あの時期、ぼくは心に殼を作って閉じこもった。その心の壁は今もずっとある。ジョンも間違いなくそうだったと思う。

(略)

二人は最終的にハーレフという村の、ある農場にたどり着いた。(略)

[当時16歳だった農場主息子談]

「ここにテントを張ってもいいですか?」という感じだった。(略)その夜は雨が降り、彼らのテントは役に立たなくて、二人ともずぶ濡れになってしまった。そこで母が「外にいちゃだめよ、入りなさい」と言った。二人はそのまま我が家に滞在し、一台のダブルベッドに二人で眠り、滞在中は母が食事や飲み物の世話をした。

 忘れられないのは、ポールがぼくの安物のアコースティック・ギターを、左利きなので逆さまにして弾いていたことだ。ジョージもそのギターを弾いた。それから、我々がボトム・ルームと呼んでいた部屋にはピアノがあった。あの頃はちょうどバディ・ホリーの〈シンク・イット・オーヴァー〉が出たばかりで、ポールがあの曲の間奏のピアノ・ソロを、完全にコピーできるまで何度も繰り返し弾いていたのを覚えている。弟のバーナードが、ポールがピアノを叩きながらリトル・リチャードの曲を歌うのをすごく気に入って、もう一度演奏してくれと何度もしつこくせがんでいたが、ポールは喜んでそのリクエストに応えていたよ。

  • 小ネタ

ジョージ・マーティンが副専攻したオーボエの教授マーガレット・エリオットの娘がジェーン・アッシャー。

次回に続く。

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2017-09-26 歌が時代を変えた10年/ボブディランの60年代 このエントリーを含むブックマーク


歌が時代を変えた10年/ボブディランの60年代

作者: アンディギル 五十嵐正

メーカー/出版社: シンコーミュージック

発売日: 2001/02/15

|本| Amazon.co.jp

デビュー・アルバム

ディラン自身のギターとハーモニカ(彼は水を入れたグラスに漬けて、ずっと湿らせていた)だけで伴奏されたので、制作経費は402ドルぽっちしかかからなかった。

ウディ・ガスリー

「自分が生まれながらの負け犬だと考えさせる曲は大嫌いだ」と彼は語った。「君をけなす歌や運の悪さや厳しい旅のために君をからかう歌……肌が何色でも、体のサイズがどれだけでも、姿がどうだろうが関係ないんだよ。僕は人びとに自分自身や自分の仕事に誇りを持ってもらえるような曲を歌うためにやっているんだ」。生涯を通して、彼は自分自身を人びとの代弁者にすぎないと考えていた。物事が実際はどうであったかを書き留めるジャーナリストであると。

(略)

[ディラン]はウディの確固たるお気に入りになっていた。ガスリーを迎えにグリースン夫妻が病院にやってくると、彼が訊く最初の質問は「あの坊やは来るのかい?」だった。(略)

その坊やが彼のために〈ウディに捧げる歌〉を歌うと、ガスリーは喜びで微笑み、彼を安心させた。「すごく良い曲だよ、ボブ!」と。ディランが帰った後、ウディはグリースン夫妻に語った。「あの坊やには声がある。作曲で成功しないかもしれないが、彼は本当に歌えるよ」

 しかしながら、その坊やは成長して、ウディが自分の想像の中で理想化された英雄とは程遠いと悟るようになっていった。天賦の才能に恵まれてはいるが、彼は隣の男と同じくらいに狭量で無責任で自己中心的でもあった。

(略)

数年後、彼は『ニュー・ヨーカー』誌の記事でナット・ヘントフに語った。「彼と知り合いになった後に、僕は幾つかのとても大きな変化を経験した。僕はウディに会いに行った。誰かに懺悔しに行くみたいにね。でも、彼に告白できなかった。ばかげていたね。彼のところに行って、話したんだよ――彼が話せるだけね――話は役立ったよ。でも、基本的に、彼は僕を助けるなんてまったくできない。結局そのことがわかったんだ。そんなわけで、ウディが僕にとって最後のアイドルだ」。

『フリーホイーリン』

[ミッキ・アイザックスン談]

「彼はらせん綴じの小さなノートを持っていて、一度に4つの違った曲を書いていたに違いない。或る曲の1行を書くと、数ページ戻り、別の曲の1行を書くんだ。ここに単語をひとつ、あそこに1行と、ただ書きとばしていくんだ」。(略)

[トム・パクストン談]

彼が紙の切れ端になぐり書きをしていたのを思い出す。「彼の頭の中は燃えていたよ。クラブからどこへ向かっているにせよ、その間に多いときは5曲を書き始め――そして書き上げてしまうんだから!」

 当時のディランを描写するときに最も頻繁に使われた言葉は「スポンジ」だった――彼は黙って友人たちの会話に耳を傾け、書き留めていた。後で彼らはディランの曲中に自分たちの会話からのフレーズや物語、情報の大切な部分が表われているのを発見するのだった。

「激しい雨が降る」

 「僕があれを書いたときは(略)キューバ問題の最中で、人生に充分な時間が残されているのかわからなかった。あと何曲書くことができるのかもわからなかった。自分が知っていることのほとんどを1曲のなかに入れたかったんだ。(略)

あの曲はそんなふうにして書いた。あの中のそれぞれの行が実際は完全な曲なんだ。

(略)

 しかしながら、この曲の「激しい雨」は核爆発後の放射性降下物ではない。「原爆の雨じゃない(略)ただの激しい雨なんだ。放射能を帯びた雨じゃない。全くそうじゃないんだ。降ってくる激しい雨は最後の節にある。そこで僕は“毒の玉粒が僕ら皆を水浸しにする”と言っている――僕が意味しているのはラジオや新聞で語られ、人びとの頭から考えを奪っていく嘘っぱちのあれこれだ。そういった嘘っぱちを僕は毒だと考えているんだ」。

くよくよするなよ

[ノエル・“ポール”・ストゥーキー談]

ディランがフォークの語法を拡大したことは明らかだった。新しい心的態度の到来さ」

(略)

ディランは徹底した悪意の達人になり、友人たちは彼との付き合い方に用心深くなる。彼の辛辣な舌や毒を含むペンの題材になることを怖れたのだ。

(略)

「ボブはあれを昼メロのドラマみたいに歌っていた」とデイヴ・ヴァン・ロンクは語った。「哀れを誘ったね。あの曲はすごい自己憐憫だろう――でも、素晴らしいけどね」。イタリアから戻ったスーズは、他の人びとが自分について書かれた曲を歌うのを聴いて、最初はうれしがったにせよ、奇妙に感じ、結局この曲は彼女のボブからの別離に貢献した。同年7月の1963年ニューポート・フォーク・フェスティヴァルでジョーン・バエズがその曲を「長く続き過ぎた情事について……」と紹介したときだった。スーズにとって、この発言は新しい「フォークの王と女王」であるボビーとジョーニーについての噂を裏付けるものだった。彼女はフェスティヴァルの会場から走り去った。

(略)

[メロディーは]ポール・クレイトンが発見し、彼自身の作品〈フーズ・ゴナ・バイ・ユア・リボンズ〉に改作したアパラチア伝承の曲〈フーズ・ゴナ・パイ・ユア・チキンズ・ホエン・アイム・ゴーン〉が基になっている。(略)

[友人たちの多くはディランがそれを自分の曲としてクレジットしたことに怒った]

とりわけクレイトンが麻薬の問題でお金に困っていたからだ。「ホビーが彼に著作権を分けて与えてやれば、尊敬できたんだがね」とデイヴ・ヴァン・ロンクは信じていた。「でも、それはホビーのやり方じゃなかったんだ」。その代わりに、ちょっとした法的な闘いの後、ディランは楽曲出版社がクレイトンに「かなりたくさんの金額」を払うことを請け合った。

Paul Clayton - Who's Gonna Buy You Ribbons (When I'm Gone)

D

マイ・バック・ペイジズ

プロテスト・ソング運動に要求された直接的に歌いかけるスタイルヘの不満の程度は、以前の自分自身を見下す悪意に満ちた劇的な比喩的表現に計り知れる、彼が感じた「半ば壊れた偏見」、左翼の「見捨てられた伝道者の死体」、「芸を仕込まれた雑種の犬」(略)

「僕は社会批評家じゃないんだよ」と彼は友人に言った。「あの頃僕は曲をどこに返せばいいかわかっていた。投入口がどこか知っていた。それだけなんだ。僕があれらの曲を書いたとき、仲間うちの狭い世界の中で書かれた。

(略)

僕はあの頃の僕だったけど、今の僕は本当の僕なんだ。あの頃の「僕」ではずっといられないんだ。僕は今日の僕でしかいられない。そして、今日の僕は人びとのもっと広い世界と係わっている」

(略)

ジョン・ハモンドは後にこう言っていた。「初めてこの街にやって来たときから、彼は不公正について考え、話していたよ。社会問題についてね……彼はアメリカの状況全般について怒りを覚えていた。

(略)

「彼はもっと大きなものへ進んでいて、それを否定し始めただけさ。それだけのことだ」。フィル・オクスは正しかった。ディラン自身にとって、〈マイ・バック・ペイジズ〉は死刑の宣告と執行になった。そこから、不死鳥のように復活して、エレクトリック3部作の現代的なアーティストが登場するのだ。「自分が利口だと思っていた」とこの頃に彼は言った。「でも、もうわからないんだ。自分がまともなのかどうかさえわからない」。

ライク・ア・ローリング・ストーン

 ディランはこの曲をアップライト・ピアノで、〈ラ・バンバ〉のリフを出発点としてG#のキーで書き、それからギターでCのキーに転調し、1965年6月15日に録音した。「コーラスの部分が先にできた」とディランは後にローリング・ストーン誌に語った。「何度も何度もハミングしていた。それから後で節の部分を低く始めて、高い方に移っていくと考え付いたんだ」。この曲の拍子はスタジオ入りするまで決まっていなかった。『ブートレグ・シリーズVol.1〜3』に収録されたリハーサルの断片では、ディランとポール・グリフィンがこの曲をワルツのリズムにあてはめて試しに演奏しているのを聴くことができる。その後、セッションの途中でヒット・シングルのヴァージョンが具体化したのだ。

(略)

「トムに言ったんだ。僕にオルガンを弾かせてくれないか。僕にはこれに合ったすごく良いパートがあるんだとね」とアル・クーパーは話を続ける。「彼は笞えたよ。“何だって、おまえはオルガン奏者じゃないだろう!”でも、そのとき彼が駄目だと言う前に電話を受けるように呼ばれたので、その隙にオルガンのところに座ってしまったんだ。実際にね、CD-ROM『ハイウェイ61インタラクティヴ』に、あの曲の別テイクが幾つか入っているんだけど、トムの声が聞こえるよ。“オーケイ、〈ライク・ア・ローリング・ストーン〉のテイク7だ……おい、そこでおまえは何をしてるんだ?”そして僕の笑い声も聞こえるよ。その瞬間に彼は僕を引きずり出せたはずだけど、そうしなかった。その瞬間に僕はオルガン奏者になったんだ」。

雨の日の女

マリファナにぶっとんだ連中がメンバーを務めるマーチング・バンドの発狂したリハーサルのようなサウンドで、ディランの古くからのフォーキー・ファンにそれまでで最大の衝撃をもたらした。

(略)

 この曲はたぶんレイ・チャールズの有名なレコード〈レッツ・ゴー・ゲット・スト−ンド〉に着想をもらったのだろう。ディランはその曲を数ヶ月前にフィル・スペクターとロス・アンジェルズのコーヒーショップを訪れたときに耳にした。しかしながら、その短い期間に、その隠語は少し意味を変え、問題の「ストーン」が酒ではなく、麻薬への言及になっていた。

(略)

「僕は“麻薬の歌”なんて一度も書いたことないし、これからもないだろう。書き方もしらないしね。これは“麻薬の歌”じゃない。ただ下品なだけなんだ」。

(略)

ナット・ヘントフにはこう説明した。「誰にも麻薬を使えなんて助言はしないよ――間違いなく強い麻薬はね。麻薬はクスリだ。でも、アヘンとハシッシュとポット――今ではこれらは麻薬じゃない。それらは人の精神をちょっと曲げる。僕は誰もが時々精神を曲げられるべきだと思う。でも、LSDではだめだ。 LSDはクスリだ――異なった種類のクスリなんだ。あれはいわば宇宙を理解させる。客観がいかに愚かしいかを悟るんだ。でも、LSDはグルーヴィーな連中向きじゃない。復讐を望む狂った憎しみに満ちた連中向けなんだ」。

 もちろん真実はかなり異なっている。彼は幾つかの異なった種類の麻薬を異なった理由で使い続けていた――主にはマリファナを創造力と気晴らしの両方を煽るために、そしてアンフェタミンをツアー日程の消耗させられるペースに耐えるために使っていた。ツアー中の彼は何日も続けて寝ずに、ショウの後にもホテルの部屋で演奏を続け、絶え間なく曲に取り組むのがお決まりだったのだ。「このペースを保つにはたくさんクスリが必要なんだ」と彼は1966年3月にツアーの日程の合間にロバート・シェルトンに話した。

ヒョウ皮のふちなし帽

アル・クーパーが説明する。「あのスタジオには、ハモンド・オルガンの他に、ロウリー・オルガンもあった。あれには幾つかの素晴らしい音響効果が付いていて、“ピンポーン”というドアのベルの音まであった。“ピンポーン”で始まって、バンドが“どなたですか?”と叫び、それから曲に入っていくヴァージョンもあったんだ。最高だったよ!あれを使わなかったのは残念だなあ……」。

地下室(ザ・ベースメント・テープス)

 運良く、ホークスが近所にある大きなピンク色の家に引っ越してきた。(略)

ピーター、ポール&マリーから借りた機材を用いて、彼らは地下室に間に合わせのリハーサル・スタジオを作り、新しい作品にとりかかり始めた。

 「テープの機械はガースの背後に備え付けられた」とロビー・ロバートスンが回想する。「それで、大抵は彼がスイッチを入れたり切ったりした。ステレオ入力があったので、僕らは4本のマイクをステレオの2チャンネルにミックスしてたんじゃないかな――もしかしたら、もっと多かったかもしれない――でも、音の一部は漏れて、他のマイクが拾うんだ。多くの楽器にはマイクすら立ててなくって、ただ他のマイクが漏れた音を拾っただけなんだ」。「ほとんどのものは曲のアイディアをテープに録っておこうとしただけだから、録音の音質とかバランスといったことには全然注意を払わなかった。レコードをどうやって作るかについて学校で習うようなこと全てのまるっきり反対のやり方で録音されたんだ。中でも最悪だったのはセメントの壁さ。どんなスタジオでも壁には吸音材が用いられてるだろう。そのうえに、それら全部の真ん中に大きな暖房炉があって、これが音に悪かったね

(略)

 その地下室で作られた録音のサウンドは暖かく、うちとけた雰囲気を持ち、ディランがホークスと共にコンサートで押し出した大音量の力強いロック・サウンドとは著しく異なっていた。これはある程度までは意図的だが、幾分かは必要に応じて生まれた。「あの地下室で大きな音を出して演奏すると、うるさいという問題があった。だって、セメントの壁の部屋だったからね」とロバートスンが説明する。「だから、僕らはちょっとちぢこまって演奏した。歌が聞こえなかったら、自分の演奏がうるさ過ぎるんだ。僕らがそれ以前に用いていたものとはまったく異なった取り組みになったわけだ」

 その成果はディランがニュー・ヨークでの初期の年月に学んだフォーク音楽にその源の多くを頼ったものだった――彼が熟達し、そして捨て去った独善的な社会プロテスト・ソングではなく、ハリー・スミスの名高い6枚組LP『アンソロジー・オヴ・アメリカン・フォーク・ミュージック』のような編集盤で出会った今世紀初め数十年からの伝統音楽である。これは奇妙で暗い種類の音楽で、奇怪な物語と風変わりな比喩的表現がいっぱいで、死に満たされていた――そして粗野だった。(略)[前年の夏]ディランはフォーク音楽の「権威の持主たち」が彼に「物事を単純に」してほしがっていると批判していた。 「フォーク音楽は単純じゃない唯一の音楽だ」と強く主張した。「単純だったことなんて一度も無い。風変わりだよ。伝説や神話、聖書、幽霊でいっぱいだ。僕は古い歌の一部にあるような理解し難いもの――僕の頭では理解できないんだよ――ぶっとんだものは書いたことない。ああいった歌はとてつもない内容だからね……〈ノッタムン・タウン〉なんて、幽霊の群れがタンジールに向かって通り過ぎていくんだよ」。

 彼は同じ話題をナット・ヘントフにも詳しく語った。「伝統音楽は[ユダヤ教の象徴]六線星形を基にしている。伝説や聖書、疫病から生まれて、野菜と死を中心に展開する。伝統音楽を絶やそうなんて人は誰もいない。こういったすべての曲は人びとの頭から薔薇が育ったり、本当はがちょうの恋人たちとか天使に変身した白鳥とかについての曲だ――死に絶えることはないよ……伝統音楽は死ぬにはあまりに非現実的だ。守られる必要なんてない……その無意味さは神聖なものだと思う」。


ジョン・ウェズリー・ハーディング(紙ジャケット仕様)

アーティスト: ボブ・ディラン

メーカー/出版社: SMJ

発売日: 2014/03/26

|CD| Amazon.co.jp

ジョン・ウェズリー・ハーディング

[サイケなジャケットが全盛の68年]『ジョン・ウェズリー・ハーディング』はかなり印象的な控えめのデザインを差し出した。(略)まるでディラン自身が定義づけるのに非常に多くのことをした時代を生きる世代から、自分をわざと遠ざけようとしているようだった。

 意味を探し求めるファンたちは間もなくそれをジャケット写真の中に見つけた。上下をひっくり返すと、ビートルズの顔が識別できるというのだ。また、木のてっぺんの樹皮から神の手が現われると主張するものもいた。(略)

[ジャケ写は]サリー・グロスマンの庭で撮影した。気温は零下20度だった。それゆえにディランは背中を丸めているのだ。彼と残りの3人――ベンガル派信徒の音楽グループのラクスマンとプルナ・ダス・バウルと、たまたまグロスマン家で働いていた地元の大工兼石屋のチャーリー・ジョイ――は数枚ポーズをとると、急いで家の中に戻り、ブランディ数杯で体を暖め、それから、もう1、2枚のために外へ出た。何杯かひっかける間に急いで撮ったジャケットがポップ音楽の転換点を象徴するものになった。サイケデリアが行き着くところまで達してしまい、カントリー・ロックのもっと心を慰める分野に退却し始めるまさにその瞬間である。

 ジャケット写真は、流れ者、移民、ホーボー、無法者がその中に住むアルバムの持つ開拓時代の荒くれた西部の雰囲気を要約している。ここでは、チャーリー・ジョイは年老いた連邦軍(北軍)の歩兵のように見え、ディランはジャーナリストのカメラによって子孫にまでその姿がとらえられた恥ずかしがり屋のガンマンである。一方、バウル兄弟は東洋と西洋の服装のぼろぼろな混合のおかげで、インディアンのガイドに似ていないことも無い。

(略)

「僕が歌って、レコードに収めるにはある特質がなければならない(略)

何度も繰り返さないこと。フレーズや行や節やブリッジを繰り返す曲は避けたいんだ」。

(略)

乗馬者からホーボーまで、放浪者から使者まで、様々な変装で、ディランはこれらの曲を通して自分自身の怖れと誘惑に立ち向かう。(略)

彼が10年後に言ったように、「『ジョン・ウェズリー・ハーディング』は怖れを表したアルバムだ――怖れを相手にしているだけじゃなく、怖れがいっぱいのやり方で悪魔を相手にしている。ほとんどね」。

見張り台からずっと

[CBSとマネージャーに不信を抱くディラン]

……レコード会社の言う数字だって正しくない。知ってるかい?或る時点までは自分で歌ったものよりもキャロリン・ヘスターとか誰かのアルバムに収められた僕の曲の方が金を稼いでくれたんだ。それが彼らの僕にくれた契約なんだ。ひどい!ひどいもんさ!(略)

[MGMとの契約をちらつかせ、印税率倍増でCBSと再契約]

 泥棒はペテン師に同情し、その状況を馬鹿げていると考えるのは彼一人ではないと付け加えるが、そのような世俗的な問題で自分の心をあまりひどく苦しませるなと警告する。なぜなら、伝えなければならない緊急の問題があまりにたくさんあるからだ。これらの問題が何であるかは最後の節に説明された短いあらましで明確になる。そこはイザヤ書の21:6-9にある預言者イザヤのバビロンが没落するという預言に由来する。「主は私にこう仰せられた。さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。戦車や、二列に並んだ騎兵、ろばに乗った者や、らくだに乗った者を見たなら、よくよく注意を払わせよ。すると獅子が叫んだ。主よ。私は昼間ずっと物見の塔の上に立ち、夜はいつも私の見張り所についています。ああ、今、戦車や兵士、二列に並んだ騎兵がやって来ます。彼らは互いに言っています。倒れた。バビロンは倒れた。その神々のすべての刻んだ像も地に打ち砕かれたと」。そして、その結果、「夜回りよ。今は夜の何時か。夜回りは言った。朝が来、また夜も来る。尋ねたければ尋ねよ。もう一度、来るがよい」(イザヤ書21:11-12)。

 吹きすさぶ黙示録的な風が近づくにもかかわらず、世の中の不正よりも魂の方の治療法を探すことがはるかにずっと重要であると泥棒はほのめかす。

レイ・レディ・レイ

リハーサルしていたとき、この曲にふさわしいドラムのパートを考え付くのに苦労して、ケニー・バットリーはディランとプロデューサーのボブ・ジョンストンに順に意見を求めたところ、彼がいいかげんな提案とみなしたものを与えられた。ジョンストンはボンゴを、ディランはカウベルを薦めたのだ。結構じゃないか、とバットリーは考えた。どれだけそのサウンドがひどいものか教えてやろう――そこで、彼はスタジオの管理人だったクリス・クリストファスンに次のテイクの間ずっとカウベルとボンゴを持たせて、演奏した。そのパーカッションがこの曲にぴったりと合ったとき、誰よりも驚いたのはそのドラマーだった。「ヘーっ、驚いたな!」と彼は感嘆して叫んだ。「これは僕が今までに演奏したなかで一番味のあるドラム・パートだよ!」。

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2017-09-23 政治と歴史 ルイ・アルチュセール このエントリーを含むブックマーク


政治と歴史: エコール・ノルマル講義 1955-1972

作者: ルイ・アルチュセール

訳: 市田良彦, 王寺賢太

メーカー/出版社: 平凡社

発売日: 2015/04/24

|本| Amazon.co.jp

ホッブズ――マキァヴェッリ

 ホッブズとマキァヴェッリの差異を見ること。ホッブズの根本的境位は恐怖である。マキァヴェッリにおける恐怖はさまざまな統治手段のひとつである。恐怖は普遍的ではなく、人間相互の紐帯ではない。マキァヴェッリの逆説のひとつは、彼の概念が個人主義的政治概念ではなく、彼が個人の心理学を作らずに社会集団の心理学を作ることである。彼が「人間」について語るとき、それはつねに集団とみなされた人間たちである。孤立した個人の分子的ふるまいから社会関係が演繹されることはない。あらゆる政治理論にとっての前提である個人が、彼には欠けている。非常に奇妙である。

なぜなのか。

 マキァヴェッリの根本的境位は暴力の政治利用であり、恐怖ではない。暴力を用いるが、暴力に依拠しない。個人主義的社会構成理論とは完全に無縁である。

 ホッブズの境位は恐怖であり、そこには二つの次元がある。競合と政治闘争である。しかしそれらは、すでに経済的個人主義の諸問題の解決として存在している有機体のただなかで展開される。

 マキャヴェッリにおける個人は国家を構成する者である。つまり個人は形相であり、その質料が、彼らの生活、彼らの抗争、等々である。ホッブズにおける君主の特異な位置と比較すること(この君主は一人の個人であっても合議体であってもよい)。この君主は操作のそとにいる。契約の当事者ではない。つまり彼はすでに権力の座にいる。権カヘの彼の到達は問題を構成しない。

 ホッブズの登場により、契約は個々の個人にかかわるようになる。個人はつまり契約における法的地位をもつ(この地位はすでに獲得済みの経済的地位を反映している)。まごうことなき個人である君主が、個人ではない……彼以外のすべての者が個人である。マキァヴェッリにおいて、君主はただ一人の歴史的個人である。他の人間たちは社会集団である。その解消は起こりえない。個人にとっても集団にとっても。

 ホッブズは同意の理論的哲学である。マキァヴェッリは創設の哲学である。創設の権利を問わない創設の哲学である。

 なぜマキァヴェッリは権利問題をまったく立てないのか。あるいは、彼が立てる権利問題(恐怖や不実などの制限)は、なぜ事実としての状況のなかでしか立てられないのか。状況には、緊急性‐明証性以外にはなんの権利もない。

 新しい政治形態が出現する時代の哲学。

絶対権力

 ホッブズはラディカルなテーゼを主張する。すなわち、あらゆる権力の本質は(君主政であれ民主政であれ)絶対的であることにある。権力は絶対であり、取り消すことができない。贈与された権利を取り戻すことは不可能であり、君主はいかなる義務ももたない。権力はその本質と持続において絶対的なのである。

 なぜ、絶対主義なのか。契約が唯一であるからではなく、反転不可能であり、相互性をもたないからである。ことは権利上の問題である。主権者に譲渡されたものを誰も取り戻すことはできず、それは主権者においては譲渡不可能である。このテーゼの深い理由は、絶対権力があらゆる契約に先立ち、あらゆる人間生活の合理的組織の根本要件をなすという点にある。契約はそれを確立する政治権力なしに現実的なものとはならない。自然法の可能性の条件(そして自然法そのものを命ずる条件)は、それに具体的意味を与える権力である。

(略)

 この権力は統一性に基礎を置いて構造化される。人民とは統治される多数者であり、単一の意志も固有の人格ももたない総和にすぎない。唯一の現実的統一は、政治権力が課す統一である。人民が共通の意志をもつとは、人民が人格をもちうるということであり、それは人民に命令する個人の人格においてはじめて成立する。ホッブズは多数者を統一する人格を人民と呼ぶが、この人民は、唯一の人格すなわち君主であってもかまわない。君主自身が人民なのである。主権の本質は一般意志ではない。一般意志とはホッブズにとって抽象的なものにすぎず、君主の意志こそ主権の本質である。君主の意志において、全員の意志が基礎づけられ、実現する。国家全体が君主の人格に含まれるのである。

 絶対権力の理論は、臣下に対して自然状態にある絶対的個人の理論であり、唯一者と全員のあいだで自然状態を再建する。絶対権力とは、唯一者の全員に対する戦争である。しかし、この戦争は起こりえない。主権者だけがすべての権力を握っているからである。主権者は国家に対して、人間が自分の能力に対してもつのと同様の権力をもつ。

 結果:ホッブズは権力の分割(執行・立法・司法)をいっさい退ける。それらの権力は同一の人間のなかで渾然一体となる。ここでは、立法権と執行権の不分割が特に注目に値する。君主が法律を発布し、法権利を実現するのである。国王はすべての権力である。ホッブズは所有権を強調し、悪しき教義に対して戦う権利を強調する(ホッブズは意見の自由を断罪する)。

 しかし以上すべての議論は、主権者の責務を説く教説に集約される巨大な矛盾に逢着する。実際、

  ――主権者は臣下たちに保証を与えねばならない。自分の利害が人民の利害であることを理解した主権者は、自分自身が人民に対して自然状態に置かれていることを反省せざるをえない。その結果、主権者は平和と勤労を保証しなければならない。

  ――主権者が定める法律は最小限でなくてはならない。絶対権力は市民生活において最小限の場所を占め、市民たちに最大限の空間を与えねばならない。出発点にあった空虚な空間がふたたび現れるのが見てとれるだろう。最大の逆説がここにある。主権者の権力の絶対性を最小限の介入と共存させねばならないのである。自由主義的な絶対主義。解決不可能な問題である。絶対主義は自由主義を、すなわち勤労の成果の享受を目標とする。

(略)

 政治と経済のレベルの二重性は、死の二重性(内戦と競合において見られる)を反復している。戦争による死を妨げつつ、競合による死を保証せねばならない。国家は経済的なものを作用させる機能をもつ。絶対主義的理論が、ブルジョワ的観点から素描されている(≠ボシュエ)。しかしこのブルジョワ的観点は、イギリス第一革命の内戦を生きたブルジョワの観点である(これはすでに、移行期における階級独裁の必然性の理論である)。

 ホッブズはこの点で、ロベスピエール/マルクスに先駆けていよう。

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2017-09-21 分配的正義の歴史 道徳的な言葉は非人間的 このエントリーを含むブックマーク

出だしが地味なので、後半にはこんな話もあるよと。

「道徳的な言葉は非人間的である、とマルクスは考えたのである」

「道徳的規範が我々自身から遠く隔たっている場合、それは支配のための簡単な道具にされる」

『「人間らしくする」ことや「社会化する」ことは、「より公平に」することや「公正に」することではない』


分配的正義の歴史

作者: サミュエル・フライシャッカー 中井大介

メーカー/出版社: 晃洋書房

発売日: 2017/04/01

|本| Amazon.co.jp

救貧法

近代の分配的正義という概念が、前近代の救貧法に内在していると見なされる場合がある。

(略)

16世紀中頃までに国家は、少なくとも名目上貧困救済の権限を教会からもぎ取るようになった。

(略)

1601年のイギリス救貧法では(略)貧者への援助の要件として、働くかわりに援助を求める労働可能な人々に対する厳しい罰則が添えられているのは、小さな問題ではない。少なくとも救貧法は、貧者を助けようとするのと同じくらい、貧者を支配しようとする試みであった。それは教会を支配しようとする試みでもあった。これらの処置が宗教改革を取り巻く闘争の最中で発生したのは決して偶然ではなく(略)

貧困救済が宗教的権利から市民権へと移行していくうえでの、重要な一歩だったのである。

(略)

子どもたちや労働可能な人間を働かせるために教区委員に権限が与えられた。イングランドとその他の場所において、そのような法律は「値する」貧者と「値しない」貧者を区別し、働くかわりに物乞いするという罪を犯した人間に厳しい罰則を課すという、初期の教会の政策を引き継いだのであった。さらに国家は、正義よりも慈善という美徳に訴えかけることで、このような政策を正当化し続けた。

(略)

T・H・マーシャルが述べているように、イングランドにおいて「貧民」は、「権利を授けられた人間ではなく権利を剥奪された人間」であると理解されていた。1834年の新救貧法によって、自由の放棄が貧民救済の代償とされたとき、それはあまりに露骨であったが、ようやく1930年の救貧法によって、貧者を救済するという義務は、「貧者自身ではなく公共が負う」ものとして受け止められた。

(略)

 私の議論が正しいとすれば、前近代の慣行や著作のなかにそのような理念が存在していたことを暗示させるものなど、ほとんど存在しないことになる。貧しい人々は貧しいままであるのが相応しいというのが、最も有力な――ほとんど疑いようのない――見解であった。人間は貧困から抜け出す権利を持ち合わせているのだという理念を見出すためには、我々は18世紀に目を向けなければならない。

貧者に対する態度の大変貌

 18世紀が目撃することになったのは、貧者に対する態度の大変貌であった。(略)

イマニュエル・カントは、すべての人間が「能力・勤勉・幸運」によって社会的地位を獲得できるはずだと主張できるようになり、フランスとアメリカ中の人々は、社会の流動性を積極的善として祝福するようになった。同世紀の中頃において、多くのイギリスの著述家たちは、「人間のくずの最たる者ども」が「彼らの属するものよりずっと上の地位」を熱望していることに対して、さらには「異なる階級の人々」が交じり合ってしまう危険性があることに対して、陰気に警鐘を鳴らしていた。だが同世紀の未までに、階級を区別していたこのような痕跡の多くが、事実上消滅することになった。

(略)

18世紀の末までに、アメリカでは家系に誇りをもつ人々を嘲笑することが一般的になった。

(略)

 一連の科学的・政治的発展と並行した、このような態度の変化を通じて、貧困の撲滅が可能だという見通しが立つようになり、近代の分配的正義という概念は、ここから生まれることになった。18世紀末までに、国家こそは人々を貧困から救い出すことができる存在であり、そうすべき存在なのだ。貧困に相応しい者など誰も存在しないし、誰も貧しくなる必要などないのだから、財を分配ないし再分配することは、少なくとも部分的には国家の仕事なのだ、という信条が明瞭に見出されるようになる。

アダム・スミス

その貧しい労働者は、土壌と季節に悪戦苦闘するという不快を担い、常に過酷な天候と最も厳しい労働に晒される。(略)彼は全人類の荷をその肩に背負い、その荷に堪えきれず、その重圧によって埋められ、そしてこの世の最も低い部分へと押しやられる。

貧困によって貧者の私生活に加えられる危害にはじめて幅広い関心を示したのは、ルソーではなくスミスであった。(略)この文章を引用した理由の一つは、スミスを近代的な分配的正義に敵対する人物と見なす人々に反論するためであった。

(略)

我々の目から見た場合に、スミスの積極的な提案が物足りなく感じられるとすれば、次のことを思い起こす必要がある。貧しい者たちは、貧しいままにおかれる必要があり、でなければ働かなくなってしまうだろう。貧しい者たちは、そもそも怠惰な人間であり、必要性だけが飲酒や放蕩によって彼らが無駄な時間を費やすのを防ぐだろう。スミスが著述活動を行っていたのは、このような考え方が一般的な見識であった時代なのである。

(略)

スミスは、「貧困問題」とは何であるのかという我々の考え方を変化させた。彼の先人たちの間で「貧困問題」は、主に低い階級の人々の悪徳と犯罪行為にいかに対処すべきか、という問題であった。スミス以前では、世界は貧民階級なしで済ますべきだとか、それが可能なのだとか考える人は稀であった。18世紀後半に至るまで、大半のキリスト教徒たちは、次のように信じていた。真に美徳に満ちた人々が頂点で富と権力を手にする地位につき、「貧しく下等な群衆」が底辺を占める社会の階層組織は、神によって定められたのだと。

(略)

貧者は暮らし向きのよい人々よりも劣っているという考え方を、スミスは辛辣に批判する。貧者が有する美徳と技能を軽蔑的に描写しようとする虚栄心を、スミスは『国富論』で繰り返し攻撃する。彼は、他の全員と同様に本来的な能力を備えた人間として貧者を描き出しており、「異なる人々の間にある生まれつきの能力の差異は、実際に我々が認識しているよりもはるかに小さい」と述べている。

マルクス

 富者と貧者の区別を非難するうえで、カール・マルクスは間違いなくこれまでに最も影響力のある人物といえる。

(略)

しかし、マルクスは分配的正義を擁護したと見なすのは間違いである。彼は、そのような用語を用いて資本主義への批判を展開したのではない。

(略)

 個人の権利という考え方を批判した『ユダヤ人問題によせて』、権利への請願を「ブルジョア的表明」で「イデオロギー的に馬鹿げたこと」だと述べた『ゴータ綱領批判』、この二つの著作でマルクスは、正義が社会主義の思想に適合しないツールであるということを最も明瞭に打ち出している。マルクスは後者において、財の再分配への社会民主主義的な要求についても拒絶しており、実際のところ「何よりも分配を変更させるものとして社会主義を表明すること」を拒絶したのであった。

(略)

経済的分配を生産から引き離して扱うのは間違いである、とマルクスは考えている。第一に、分配されるべき最も重要な財は生産手段である。彼にいわせれば、分配を純粋に「生産物の分配」として扱うのは、経済活動に関する浅薄な見解の露呈に他ならない。食料、衣服、住居が分配される以前に、まずは、土地、用具、その他の資本財が分配されなければならない。また、社会における勢力均衡の大部分は、消費財の分配でなく、これら生産要素の分配によって決定される。土地や資本財を所有する人々は、労働によって生きる人間において不足する消費財の分配に支配力をもつことになるだろう。だから「分配構造は生産構造によって完全に決定される」、というわけである。

(略)

社会主義の目標は、分配だけでなく生産についても人間らしくすることである――あるいは両者は分離不可能であるため、経済活動を人間らしくすることである。

 「人間らしくする」ことや「社会化する」こと(略)は、「より公平に」することや「公正に」することではない。

(略)

マルクス自身は、いかなる意味でも「正義」の唱導者ではなかった。彼は、伝統的な正義の考え方で焦点となる諸権利を拒否したのであり、共産主義にいっそう適した正義という考え方のために、新たな意味を展開させようとはしなかった。実際のところ、彼は道徳的な用語をほとんど嫌っていた。道徳的な言葉は非人間的である、とマルクスは考えたのである。(略)

技芸、科学、そして最も基本的な日々の活動を我々が実行する方法が、不健全な社会制度によって腐敗させられうるのだとすれば、道徳も同じように腐敗させられうることになる。またマルクスは、このような方法によってすべての道徳は腐敗する、と信じているようである。なぜなら規範というものは、我々の前に立ちはだかる神や同様の超自然的存在ないし原理によって裏書された異質なものとして立ち現れる場合に限って、「道徳的」というラベルを受け取るのだからと。カントが自由のうちに見出した非自然主義的な性質を踏まえれば、カントによる自由を通じた道徳の正当化でさえも、マルクスからすれば道徳的規範を我々から離れた遠くに追いやるものなのである。道徳的規範が我々自身から遠く隔たっている場合、それは支配のための簡単な道具にされる。そして互いを叩きのめすために、他の人々に望むことをするように強要したりおだてたりするために、我々は道徳を用いがちである。適切に人間らしさを付与された一連の社会的規範というものは、外部から我々のもとに現れるのではなく、我々自身の規範として我々が――隣人たちと一緒になって――創造し、我々が日々形成するものとして、我々の前に立ち現れることになるのだろう。

 正義は――道徳において特徴的なように――、疎外された、驚異的な、他律的な様相を呈する。さらに正義は、個人主義のもつ疎外化する力を促進する。だから正義は、理想的社会では存在しえないのであろう。

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2017-09-19 ニュースクール――20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち このエントリーを含むブックマーク


ニュースクール――20世紀アメリカのしなやかな反骨者たち

作者: 紀平英作

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2017/08/26

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「ニュースクール」創設

第一次大戦が休戦状態に入ったばかりで、銃火が随所で続いていた1919年初め(略)マンハッタン島の一角チェルシーに、「ニュースクール」と称する異形の学校が創設された。開学に当たっての広告には、「ジャーナリズム、地方行政、労働団体さらには社会科学研究組織に加わろうとする」市民的意欲のあるものであれば、年齢を問わない。他大学の学生でも自由に参加できると書かれた学校である。

 その学校は後に大学となる。しかしいまは冬芽のようなものなので、単に学校もしくは学院と呼んでおこう。(略)

[31年にグリニッチ・ヴィレッジに移転]

ウィーン生まれの気鋭の建築家ジョセフ・アーバンの設計による七階建ての新校舎ビルは、オフィス、教室、図書室、オーディトリアム(講堂)の他に、ダンス・演劇の実技が可能なスタジオをも備え、ニューヨーク・モダンを代表する機能的建築物の一つとして今日にまで残る。

マーロン・ブランド

 大恐慌の下、中西部の高等学校を放校になるまでの無頼の少年期をへて、ニューヨークに出た19歳のブランドが、演劇を初めて学んだのが、ニュースクールであった。43年秋、彼は、そこでドイツからの亡命者エルヴィン・ピスカートアが主宰する演劇セミナーに登録し、ステラ・アドラーの演技指導をうけて俳優としての道を歩み始めた。大仰な所作を排し、自然で創造的な身体表現を強調したアドラーとの出会いは、ブランドにとり、人生の再出発というより、発見そのものに等しかったという。その四年後、彼はブロードウェイで上演される「欲望という名の電車」において鮮烈なデビューを飾り、スターダムヘと駆け上がっていった。

 じつのところニュースクールでブランドを教えた俳優アドラーも、抗う人であった。自伝の中でブランドは、次のように彼女を素描する。私が出会ったときのステラは41歳、ブロンドの髪が印象的な美人であり並外れた才能の人であったが、他方で常に鬱々とした思いをうちに秘めていた。長きにわたって彼女は、200以上もの舞台に立ったが、同世代の多くのユダヤ人俳優と同様、陰険な仕打ちに晒され続けてきた。理不尽な理由で役柄を奪われる、耐え難い差別であった。ステラはその差別のために自身の夢を叶えられなかったが、われわれにはすばらしい財産を伝えてくれた。彼女はつねにリアルであれと語り、また「自らの感情に基づかない俳優の演技を否定した」。そのリアリズムこそが、20世紀半ば以降のアメリカ演劇の変革を促した、と。

複雑なナショナリズム

世界大戦は、半年たった15年初め頃にはすでに、アメリカ社会に激しい衝撃を与え始めていた。しかも皮肉なことに、大統領ウィルソンが続けた中立の政策は、その戦争の衝撃を結局政治的に制御できないまでに国内に拡大させ、17年初めには危機的な政治社会対立を呼び起こすまでとなっていた。

 とくに注意すべきは、表面化したその国内対立のなかに、世界戦争の危機をきっかけに合衆国内で始まった、従来とは異なるより強固な新しい政治社会秩序を求める、さながら危機をバネとした秩序形成の論理が突出していた点であった。広くみればそれらは、ヨーロッパの大戦が刺激したアメリカン・ナショナリズムの噴出過程とみなしてよかった。ただ合衆国が特殊であったのは、そのナショナリズムが一つに収斂せず、相互に激しくぶつかり合う形の複数の水脈を持った点にあった。

(略)

[1900-14年までの移民は1335万人]

しかも彼らは、それまでのアングロサクソン中心の社会からすれば完全に差異化された、ロシア帝国(ポーランドなどを含む)、オーストリア・ハンガリー帝国内少数民族、バルカン、さらにはイタリアといった、南東欧からの貧しい移民またその家族が多かった

(略)

移民の多くが定住したニューヨーク、シカゴなどの大都市、さらには中規模の工業都市をみれば、そこには、合衆国国民とは何かさえ不分明なまでに多様で分化した、民族集団ごとの社会が展開した。俯瞰的にいえば20世紀初めの合衆国における工業化と都市化とは、大量の移民を海外からよびこみ、国籍を問わず労働力にたえず組み込んでいくという、国民国家の政治論理からみればほとんど考えがたい広域的な労働の移動、国際的経済社会運動を基盤とするものであった。もちろん世紀初頭から、その余りに流動的な構造に修正を加える国民国家論理が拡大し、移民制限論は徐々に力を強めつつあった。しかし、14年の大戦が勃発するまでは、制限の議論はあくまで周辺的運動に留まっていた。

[世界大戦が]そうした曖昧な状況のなかに突然、国民国家的ナショナリズムの論理が暴力的なまでの勢いで割り込み、新たな社会基盤を作ろうとしたことによった。

(略)

[親イギリス的傾向が強まったが]

 なかでも早い時期に戦時熱に近いものを煽ろうとしたのが、かつての大統領であり、「純粋アメリカニズム(One‐hundred Percent Americanism)を説いて協商国側にたっての参戦を主張した、セオドア・ローズヴェルトであった。「純粋アメリカニズム」の論理の赴くところは、当然合衆国内のドイツ的なるものを敵とした。占領地ベルギーでの蛮行などドイツ軍国主義が宣伝され、ドイツ系住民、とくに入国して間もない移民は帝政ドイツのスパイとなる可能性があるかのごとく、あるいは産業活動に対してサボタージュをなすかのごとき、風評が流布した。リンチ事件まで伴うその反ドイツ主義は、16年半ばには一部ドイツ系移民の強制収容さえ主張するまでに尖鋭化した。

 しかし、対立と抗争は単に反ドイツだけでは済まなかった。(略)

アイルランド系住民は、逆に反イギリス色を鮮明にし、アイルランド民族運動への支援を語った。問題をさらに複雑にしたのは、1915年、すでに大都市住民の半ばを占めていた東欧系ユダヤ人、イタリア系、ポーランド系、ボスニア系などの新移民住民もが、そのナショナリズムの磁力に巻き込まれていた事実であった。ロシア系とされたユダヤ人は、帝政ドイツ軍がロシア領土に進軍したとき、密かにドイツに共感を寄せたといわれる。ポーランド糸、またボスニア系においても、それぞれの民族集団指導部からは母国の独立を支援する動きが表面化した。ロンドンにおける亡命民族運動の動きが彼らを刺激した。

 しかし、移民系住民が発するそうした個別の民族的ナショナリズムは、すでに拡大の勢いにある最大の力、親イギリス系の巨大なナショナリズムと随所でぶつからざるをえなかった。

(略)

 アメリカ以外の母国に帰属心を残す住民を、放置してはならない。帰属が怪しい大都市の移民に対しては、アメリカ社会は徹底した英語教育を義務と課し、さらに星条旗への忠誠を誓わせる政治社会教育を行わなければならない。歴史家ジョン・ハイアムが名著『アメリカに移民した異邦人たち』で鮮やかに描いた

(略)

「なんですって。あなたはアメリカ的生活への参加を拒否したいとご希望なの」(略)

[アメリカ化運動を担う貴婦人らは「来週来てください」と応対した貧しいボヘミア系移民街の主婦を]激しくなじった。慌てた女性は次のように応答したという。「そうではありません。私は喜んでアメリカ化教育を受けることを希望しています。……ただ今は、私以外にこの家に誰もいないのです。男の子たちはボランティアで戦争協力の仕事に参加しています。夫は兵器工場で働いている最中なのです。そして娘たちは「自由公債」の販売に協力しています。だからどうか怒らないでほしいのです、来週来てほしいと申し上げているだけなのです」。

 この逸話は、第一次大戦期にアメリカの主要都市に広がったアメリカ化運動の強引さを、少なからず揶揄してもいる。

アメリカ化運動と弾圧の拡大

 [1917年]4月以降、「全国アメリカ化委員会」など簇生する「アメリカ化」運動団体が各地で、忠誠を求める押しつけの教化運動を拡大した。英語教育の強要と、国旗への忠誠を求めることが当面の要点であった。その一方で、国内に向けての反ドイツ戦線は、怪しいドイツ系移民を敵性外国人として収容する動きを司法省に促し、18年末までには6300人が拘束されていくことになる。ドイツ語読みの個人名、食品名また街路名が英語読みに変えられ、各州の大学、高等学校では法の有無に拘わらずドイツ語教育が禁止された。ドイツ語読みであったザウアークラウト(酢漬けキャベツ)を「自由キャベツ」と改称した動きは、後々まで語られる大戦の異常さを示す一事件であった。ドイツ系市民のリンチ事件さえ報じられた。

(略)

戦時の愛国運動が最大の暴力性を発揮したのは、反戦主義者あるいはラディカルな社会運動にターゲットを絞ったときであった。

(略)

最も衝撃的な事件は、かつて三たびアメリカ社会党候補として大統領選挙に出馬し(直近の12年選挙では90万票強を得ていた)、清廉な人柄から党外にも多くの共感者を持つユージン・デブズの逮捕であった。すでに党の一線を退いていたその老政治家への訴追根拠は、18年6月、インディアナ州カントーンで行った言論の自由を弾圧する政府批判の演説のみであった。デブズはその演説によって恩赦までじつに二年半拘束され、大戦の終了を独房で迎えた。社会党指導者を各地で起訴拘束した司法省地方検事の一連の動きは、防諜法がいう戦争妨害を融通無碍に拡大解釈したものとして後年、法曹界からさえ厳しく批判される、文字通りの弾圧であった。

マッカーシズムの構造

今日の研究は、世論に広がるそうした陰謀を恐れる論理を、巧みに利用する(あるいは元々そのような種をまいた)権カエリートたちの政治的思惑が、マッカーシズムの拡大に強い影響を及ぼした事実にも言及している。そこで剔出される権力グループは、拡大するマッカーシズムの中央に位置し、世論の保守化を誘導しようとした。彼らの行動の背後には、共産党批判さらに容共批判の論理を繰り返すことで、じつはニューディール的政治改革や社会改革までをも押し潰すという国内保守の思惑が、深く纏わりついていたというのである。

(略)

ニューディールの進展を阻止し、最終的に政権の奪還を狙う共和党がその最大勢力の一つであった。しかし、それと連携するかたちで台頭したのが、30年代後半からニューディールの労働政策、さらには前章で述べた人種政策に不満を抱き、北部民主党都市派との軋轢を深めていた南部諸州の民主党保守派であった。

(略)

 大戦後に常設化され、その年に辣腕のリチャード・ニクソン(当時、新人共和党下院議員)が加わって活性化した連邦下院非米活動委員会が、ハリウッドの映画制作者数十名を喚問し、噂される共産党員としての経歴の真偽、あるいは他の党員の氏名を明かせと迫る公聴会を開始したのは、47年10月であった。(略)いわゆる「ハリウッド・テン」裁判へと発展する公聴会である。喚問が、ニクソンの出身州から始まったことが、新しい動きの政治的性格を暗示する。

(略)

荒々しい尋問が続く委員会では、現また前共産党員であること、あるいは容共的団体や人物であること、さらには改革的リベラルといった違いまでもほとんど無視する、つるし上げ的議論が展開した。議会側「証人」と称する人物の暴露的発言が、対象の範囲をさらに広げていく役割を果たしてもいた。

 いずれにせよその種の喚問という手法を通して、下院非米活動委員会は以後、映画界からターゲットを移し、赤がかった知識人が多いとされた大学界、公務員、また49年の中華人民共和国成立を機としては、アジア関係学者また出版機関にまで狙いをかえて触手を伸ばした。51年7月から52年末にかけて、著名な東洋学者オーウェン・ラティモアが、ソ連のスパイの廉で繰り返し指弾された事件へと至る、おどろおどろしい過程である。

 世論が急速に萎縮し、変形し始めたのは、49年から50年初めであった。その間に、連邦、州を問わず公務員に対して、さらに民間機関でも、「忠誠審査」と呼ばれる反共の誓約を求める規制が広がっていた。公式には「不忠誠」者をあぶり出すためとされたが、その実、かつての共産党との関係が問われたばかりか、ソ連社会主義を明確に否定し、合衆国に忠誠を誓うことが審査通過の要件とされた。また、議会調査委員会では、喚問状送付の可能性や、身辺へのFBI調査の可能性など、労働運動・社会運動の関係者に恐怖とも呼べる心理的重圧を加える動きが継続した。その重圧の中で他者の密告を恐れ、周囲を気にする重苦しい気運が拡大していったことは、先に引いたゲルダ・ラーナーの回想が語る通りである。

 50年、反共の動きは一つの核心にまで向かった。朝鮮戦争が勃発し戦時体制へと突入するとともに、その年の9月、強権的であることを誇示するマッカラン国内治安法が連邦議会で成立した時点である。「共産党組織」と目されるものに対して、連邦司法省が強制登録義務を課し、また「緊急時」には治安維持目的と称して拘束権限を持つとした法であった。

(略)

 47年以降の冷戦前期に、合衆国のあらかたの高等教育機関が軌を一にしたかのように、国内反共主義になびき、共産党ばかりか社会民主的と疑われる既存の人材さえも排除しかねない動きを強めた理由については、様々な社会要因が指摘されてきた。大戦期から大学が、研究費の一部として政府資金を大規模に利用しはじめた状況、また大戦後、GIプログラムなどを含めて、政府が学生援助に相当額の資金を提供しはじめた高等教育支援などが、間接的影響を持ったとされる。

(略)

あからさまな排除の陰で、騒動を事前に恐れる大学例が、通常であれば更新される任期切れ教員の契約を解除したり、教員採用において政治的傾向を斟酌する事例が、相当数発生したとされる。今日知られるのは、個人名を記載するブラックリストが大学間に横行したという事実である。

 事態の全貌は余りにも裾野が広かったことから、実のところ80年代半ば、大学とマッカーシズムとの関係を主題に被害者への幅広い聞き取り調査を行ったエレン・シュレッカーの研究が発表されるまで、全体の事実はおぼろげのままであった。

(略)

そうしたなかで、ほぼ例外的なまでに思想の自由を死守する立場を維持したのが、コロンビア大学を筆頭とする数校であったという。そしてニュースクールもそこに入る。第一次大戦期、コロンビアでなされたビアードらの闘いは、30年の後、貴重な経験としてその大学でまたニューヨークという地で、生かされたということか。

ハンナ・アーレント

「無形の大衆」を惹きつけたのは、民族共同体を謳う敵意と怨念に満ちた排他主義であり、それに基づく国家再興の論理であった。その限りではナチ運動は、ナショナリスティックであることを装った。

(略)

 しかし、アーレントはそうした追従する大衆の受け止め方に触れたあと、反転するかのように、運動の指導者は、決してナショナリスティックではなかったと断じた。第一次大戦とその後の混乱から台頭するモッブと呼ぶべき冒険的運動家たちが彼方に目指したのは、安定した国家ではなく、また統合された社会でもなかった。むしろ彼らは国家が究極的には無定型となるよう意識的に仕組み、自らのイデオロギー運動をその場で継続することを目的とした。

(略)

ナチ指導者をつき動かした行動の源泉は、ナショナリズムという国家創造の思想ではなく、それから限りなく離れていく、独自の「破壊の思想」であったとアーレントは言う。

 人類を「望ましいもの」と「生きる価値のないもの」とに選別してみる、極端なまでの人種主義思想が、彼らの「破壊」イデオロギーの核心にあった。第二次大戦中のユダヤ人絶滅へと向かう動きは、まさにその「生きる価値のないもの」というフィクションによる選別が生み出した、社会において余計なもの、「価値のない」人間の抹殺という巨大な人間廃棄の一環であった、と。

 アーレントは敷衍する。全体主義が本性をあらわにするのは、体制に反対するたしかな敵がもはやなくなった時であった。ナチスがそうであったように、共産主義権力の場合もそうである。(略)階級なき社会というフィクションを維持するために、クラーク(富農)などの「客観的な敵」を次々に生み出し、粛正し、強制収容所に送った。それも、フィクションとしてのイデオロギーが進める、自己破壊的と呼んでよい人間の廃棄である、と。

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2017-09-17 パティ・ボイド自伝・その2 ジョージがリンゴ嫁に… このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


パティ・ボイド自伝 ワンダフル・トゥディ

作者: パティボイド, ペニージュノー, 前むつみ

メーカー/出版社: シンコーミュージック

発売日: 2008/08/30

|本| Amazon.co.jp

ジョージ、リンゴ嫁に手を出す、そしてギター対決

 後になって思えば、ジョージの女遊びは、私を試すためだったような気がする。私を挑発すれば、彼を取り戻そうとして躍起になるのではないかと見込んでいたのではないだろうか。でも、当時は、自分が拒否されていると感じていた。

(略)

私は見捨てられることに恐怖を感じならが生きてきた。だから、ジョージとの関係がどん底の状態に陥り、結婚生活がもはや救いようがないと分かると、私は彼に捨てられる前に、私のほうから彼を捨ててしまおうと思ったのだ。

 きわめつけは、彼がリンゴ・スターの妻、モーリンと関係を持ったことだった。彼女に限って私を裏切るはずがないと信じていたのだが、裏切られた。(略)

ジョージはモーリンに美しいネックレスをプレゼントし、こともあろうか彼女はそれを私の前で身につけていた。その後、彼ら二人がフライアー・パークのベッド・ルームに鍵をかけて閉じこもっているのを発見した。

(略)

 モーリンは、気持ちを隠そうともしなかった。ある時など真夜中にフライアー・パークに現れたので、私は「いったいここに何しに来たの?」と言ってやった。

(略)

 翌朝、彼女がまだそこに居座っているので、私は言った、「子供たちのことを考えたことがあるの?どういうつもり?私は気に入らないわ」と迫った。すると彼女は言った。

「おあいにくさま」

 この時期に起きた何もかもが、常軌を逸していた。私たちの生活を支えるエネルギー源は、アルコールとコカインだった

(略)

 俳優のジョン・ハートがフライアー・パークに来ていたある晩、エリックも来る予定になっていた。ジョージはいよいよ彼と決着をつけることを決心したのだ。ジョンは、こっそりと逃げ出したそうにしていたが、ジョージが彼を出て行かせなかった。(略)

家に入って来たエリックに、ジョージはすぐさまギターとアンプを手渡した。まるで18世紀の時代の男が、ライバルに剣を手渡すように。そして2時間ものあいだ一言も口をきかずに、ギターでバトルを繰り広げたのだった。ピリピリした雰囲気の中、音楽はスリルに満ちていた。闘いが終わった時、言葉を発する者はいなかったが、勝者はエリックだと誰もが感じたのだった。彼はジョージのように怒りに身を任せることもなかったし、テクニックに走ったりもしなかった。しかし、酔っていても彼のギターの腕前は天下無敵だった。

(略)

ジョージはコカインをあまりにも長期間やりすぎて、それが彼を別人に変えてしまったのだと私は思っている。(略)

[マリファナは]フラワー・パワーの基本で、無垢なものだった。しかしコカインは違う。コカインがジョージの感情を凍らせて、心をかたくなにさせたのではないだろうか。

 ある日、リンゴに電話をして事情を話した。(略)

 「あなたの奥さんが、夜になってもどうして家に帰って来ないか考えたことがある?ここに来ているからよ!」。彼は、烈火のごとく怒り狂った。

 ジョージは何事もなかったように装い続けた。「彼女と寝てなんかいない」と。

 「うそ。そうとしか考えられないわ」。すると彼は、私が被害妄想に陥って、ゆっくりと頭がおかしくなっていくかのような気にさせる。

(略)

リンゴがジョージと私の関係がこじれているのに気づき[自分が出演していたハリー・ニルソン主演『サン・オブ・ドラキュラ』のスティール写真撮影を依頼して気を紛らわせてくれた]

(略)

[そしてついに]ジョージがみんなの前でリンゴに向かって、彼の妻を愛していると言い出した。リンゴは、ひどく取り乱して、「これは現実じゃない、現実なんかじゃないんだ」などと言っていた。私は逆上して、そこを飛び出し、髪を赤く染めたのだった。

エリックとのツアー

 私がジョージに抱いていたのは、大きくて深い愛情だった。エリックとのあいだには、熱に浮かされたような、どうしようもなく激しい情熱があった。それがあまりにも強烈で、緊迫していて、濃厚だったので、自分を見失いそうだった。でもジョージとの結婚に終止符を打つことを心に決めたからには、エリックと一緒にどこへでも行き、彼と同じ行動を取り、どこまでも彼についていかなければならないと思っていた。そして1974年の米国ツアーにおいて、それは酒びたりになることを意味していた。

 ジョージのツアーに同行することは一切許されていなかったため、私にとってツアーは未知の世界だった。夜ごとステージ脇に立つ私にとって、アンプのうなる音や、まばゆい照明、頭の中で炸裂して、身体中を振動させる音楽は、とてつもなく感動的で、ひどくセクシーだった。(略)

そこには、エリックを、私のエリックを観るためにやって来て、叫び声をあげて手を振り、陶然とする何千人もの人々がいた。毎回、彼が私のために書いた曲の最初のコードに反応する彼らを見るたび、私はくらくらして恍惚となった。

(略)

ジョージは安定した、愛情あふれる家庭に育ったため、精神的に不安定なところがなかった。自分の家族を愛していたし、私の家族にも優しくて寛大このうえなかった。一方、エリックの母親パットは[16歳で既婚のカナダ人空軍中佐と不倫してエリックを出産、別の男と結婚しドイツへ]

エリックを溺愛していた祖父母は体裁をとりつくろうためにも彼を自分たちの実の子供として育て、産みの親である母のことを姉だと信じこませた。

[9歳の時に姉が実の母であると知った]彼は、腹を立てた。多分その時の怒りを常に内面に抱えていて、それが女性との関係に影響を及ぼしていたように思える。彼は女性を信用しなかったし、女性とのプラトニックな友情を理解できなかった。セックスを伴わない関係など、意味がないと思っていたのだ。私の交友関係にも狭量だった。彼から私の注意をそらせる者なら誰にでも異常なまでに嫉妬した。私の家族も例外ではなかった。エリックはまた、父親を探し出すことに取り憑かれたようになった。[結局は、父は既に亡くなっていたが](略)その捜索は無駄ではなかった。なぜならエリックは自分の音楽的才能の源を発見したのだから。彼の父親はピアノとサキソフォンを奏でる人だった。

(略)

[77年にジョージがオリヴィアと]結婚した時は、傷ついた。なぜならジョージが知らせてくれなかったからだ。私はエリックに何も言わなかったが、彼は私が動揺していることを直感的にわかって、曲を書いてくれた。アルバム『バックレス』に収められている「ゴールデン・リング」という曲だ。

「ワンダフル・トゥナイト」

[着ていく服が決めらない]私を待つあいだギターを爪弾いていた。(略)彼が当時気に入っていたのはドン・ウィリアムスというカントリー・シンガーだった。彼の歌詞はとても美しく、シンプルだとエリックと話し合ったことがある。そしてどの曲にも日常の出来事が描かれていると。常々そういう曲を書きたいと思っていたエリックは、すでにメロディを少し作り始めていたが、その日、私がドレスをひらひらと着たり脱いだりしているのを見て、突然ひらめいたらしい。ようやく私が階段を下りて行き、お決まりの文句「どうかしら?」を言うと、彼は書き上げた曲を私に聴かせてくれた。


夜も更ける頃、彼女は何を着て行こうか迷っている

メイクアップを施して、長いブロンドの髪を梳かす

それから彼女は僕に訊くんだ、「どうかしら?」

僕は答える、「今夜はとっても素敵だよ」

(略)

「ワンダフル・トゥナイト」は、私たちのあいだがうまくいっていた時のことを痛烈に思い出させる曲だ。関係が悪くなった時、この曲を聴くのは拷問に等しかった。

 エリックに出会うまで、自分が誰かに対してあそこまで深い想いを抱くことなど考えられなかった。以前は強い感情や激しさを恐れ、そういう気持ちにならないよう、自分を抑えていた。ある意味で私は正しかったのだと思う。

(略)

ある時ジェニーから、エリックとの情熱的な関係がもっと穏やかな愛情だったらよかったかと尋ねられ、私は「ノー」と答えている。それはまるで流れ星に乗ってヒッチハイクをしているような気分だった。あの目がくらむような体験は途方もない痛みを伴ったが、私は幸せだった。あんなものは二度と味わえないに決まっている。あれほどの経験は人生で、そう何度もあるものではない。そんな情熱を私に与えてくれた彼と一緒にいたいと思うあまり、私は彼のひどい振る舞いを許してしまった。しかし、それは間違いだった。

(略)

気分が良い時の彼は、きわめて楽しい人物だった。面白くてワイルドで予測がつかなくて、いたずらばかりしていて、一緒にいて刺激的だった。フェラーリを次々と買って、すごいスピードで運転したり、競走馬に夢中になって、私にもクリスマスに一頭プレゼントしてくれたり、アルマーニのスーツも集めていた。人生はさながら、膨大な量のアルコールを燃料とした大きなパーティだった。

(略)

[遊びのスイッチがオフになると]自分の殼の奥深くに引きこもって、他人と話をしなくなり、ただ暗い空気を投げかけるのだ。そうすれば周りの人間は、彼が相手をしたくないのだと察知して、そっと立ち去ると思っていた。そこには私も含まれていた。

(略)

エリックは眠りながらでも片足で、もしくは両足のこともあったが、その時に聴いているらしい音楽に合わせてリズムを刻んでいるのを、私は時々目にしている。(略)

エリックはまるで子供のようだった。彼は自分の欲求を最優先し、他人に対する配慮はまったくなかった。

 風変わりな態度に、笑ってしまうこともあった。特に、テレビを観るためのムードを、いちいち盛り上げないと気が済まない様子はおかしかった。テスト・マッチが放送されていると白いクリケット・ウェアに着替えたし、『ゴッドファーザー』のような映画を観ようと思う時は、夕食にパスタをせがむのだった。

(略)

彼は少なくとも200枚はシャツを持っていて、その日に彼がほしいシャツを正確に私が見つけられないと激怒した。

ジョージとの別れを後悔

 エリックの誘惑に負けてジョージのもとを去ったが、私は彼のことをほとんど知らなかった。(略)

実際の彼は、そんな理想的でロマンティックなイメージ通りだったことは一度もなかった。彼を熱烈に愛していたものの、飲酒によって起こる気分のムラや抑鬱、破壊的な態度に対処していくうちに、ひょっとしてジョージと別れたのは間違いだったんじゃないだろうか、二人の関係がうまくいかなくなった時にもっと頑張って、結婚生活を維持する努力をすればよかったのかもしれない、と考え姶めた。結局のところ、ジョージを嫌いになったわけではないのだ。彼の方は私をもう愛していないだろうと思ったけれど、別れた時にあれほど動揺していたということは、それも間違いだったのかもしれない。

(略)

アップル時代からの友人、クリス・オデールと偶然再会(略)

[昔のことを話すうち]私は次第に惨めな気持ちになり、ジョージに会いたいと思うようになっていった。ある日、ひどく酔っていた私たちは彼に電話をかけてみることにした。私の声を聞いたジョージがとても嬉しそうだったので、自分が間違っていたのかもしれない、きっと間違っていたのだ、と言おうとしたが、エリックが部屋に入って来てしまったので、電話を切らざるを得なかった。

(略)

家に戻ると、エリックと双子のジェニーは親密そうにソファに座っている。私がリヴィング・ルームに入ると、ひどく気まずい空気が流れた。私は何も言わずにその場を立ち去った。1時間ほどして戻ってみると、二人ともまったく移動していなかった、私はジェニーに何か言いかけたけれど、エリックに遮られてしまった。「俺たちが今、すごく真剣で個人的な話をしているのがわからないのか?」、彼はひどく酔っていた。

「どうして?」、私は言った。

「この娘に恋してるからさ。出て行けよ。放っといてくれ。消えうせろ」

(略)

2階で座っていると涙が頬を流れてきて、どうしようもなく自分が情けなくなってきた。私は、こんなことのためにジョージを捨てたのだ。

(略)

[家を離れて数日後、電話すると]

「そりゃよかった」、エリックは言った。「俺たちマジでちょっと距離が必要なんだよ」。彼はまだ双子のジェニーがそこにいることを認めた。

(略)

[傷心でLAの友達宅に行くと、エリックから今すぐ結婚したいとの伝言。揺れる心で結婚]

 結婚式の数日後にロジャー・フォレスターから打ち明けられるまで、私は一連の出来事がどのようにして起こったのか知らなかった。(略)泥酔状態のまま延々とビリヤードに興じているあいだに、賭けをしようということになったのだそうだ。ロジャーは翌朝エリックの写真が新聞に載ることに賭け、エリックの方は載らない方に1万ポンド賭けた。そこでロジャーはすかさず電話のところまで走り[クラブトンがパティ・ボイドと結婚とタレコミ](略)翌朝彼らが目を覚ます頃には、その話が写真付きで『デイリー・メール』紙の随所を飾り、二人は完全にパニックに陥る羽目になった。どうしよう?今や何百万もの人々が結婚のことを知っている。知らないのは花嫁だけだ。こうして慌てて私に電話をかける運びとなり、必死の思いで即答を求めることになったのだった。

子供

前菜が目の前に置かれた時だ。話があるのだとエリックが切り出した。私は凍りついた。こういう時には勘が働くもので、直感的によくない話だと悟ったのだ。

 ロリ・デル・サントという女性と、イタリアで出会ったのだと彼は言った。寝たこともあると。私をまだ愛しているが、彼女のことも愛しているのだそうだ。(略)

体だけの関係なら、浮気をされても私は平気だ。例えば相手がコンチータのような女性なら気にしない。エリックの心を奪われる心配などないからだ。(略)セックスは私たちの結婚にとって脅威ではなかった。しかし、そこに感情が伴えば別だ。

[クリスマス前、ロリから妊娠したという電話]

「始末できないの?」、私は思わず聞いた。

 「無理だ。彼女はカソリックだから。それに、そうしたくないらしい」(略)

思考は停止していた。ショック状態だ。(略)だって私は21年間も赤ちゃんを望んで努力してきたのに、この女は夫と一度か二度寝ただけで彼の子供を授かっていた。心が崩壊するかと感じた瞬間だ。

(略)

 エリックはとにかく、ロリに夢中だった。彼女がどんなに美人なのかを語り、しかもすばらしい写真を撮るというので余計にグサリときた。そのうえ、子供が産まれるとは。しかもエリックは奇妙なことに、それを私が喜ぶと本気で思っていたようだ。出会った時には、エリックが何者なのか知らなかったと彼女は言っていたらしい。そこに彼は感激したのだそうだ。そんな使い古された手にまんまと引っかかっていた。

(略)

 赤ん坊は1986年8月に生まれた。私はその時、ジェネシスのベーシスト、マイク・ラザフォード夫婦とともに南仏にいた。奥さんの(略)アンジーも、クリス・オデールも妊娠中だった。私以外はみんな妊娠しているような感じがした。もちろんおめでたいし嬉しかったが、同時に辛くもあった。すでに42歳になっていた私の結婚は危機に瀕していたわけだ。

(略)

 ある晩、庭の塀の上に座ってくつろいでいたら、電話が鳴った。エリックからで、息子コナーの父となった慶びを、ご丁寧に報告してきたのだった。彼はすっかり舞い上がっていた。

(略)

 こういう時に、アンジーとマイクの存在は本当にありがたかった。そのうちビル・ワイマンが、かくまってほしいと言ってやって来た。歩いてすぐのところにある彼の別荘が、パパラッチに包囲されてしまったのだという。恋人マンディ・スミスが来成年なので、問題になっていたのだ。何しろ交際を始めたのが彼が47歳、彼女が14歳の時だった。結局マスコミがビルの空っぽの別荘の外で寝ずの番をしているあいだ、10日間ほど一緒に過ごしてくれた。

(略)

エリックの考えでは、このまま私と夫婦として仲むつまじく暮らし、たまに赤ん坊も泊まらせれば万事OKという流れになっていた。(略)

ロリのことは愛してはいないのだそうだ。したがって彼女とは絶対に寝ないし、コナーに会いにいくだけなのだと約束した。

(略)

ちょうど二度目の体外受精に挑戦しようとしていた時でもあったし、彼の提案に応じることにした。

(略)

 4日するとエリックが帰ってきた。コナーはこんなことができる、あんなこともしたと、あの独特の奇妙な明るさではしゃいでいる。つらくてつらくて、とても向き合ってなどいられなかった私は、常に忙しくして、別のことを考えるようにした。

酔って暴言吐いて追い出しておきながらこの手紙

[離婚を決意して家を出ると]

エリックは早速、手紙や電話を山ほどよこすようになった。たまに攻撃的なものもあったが、たいていは謝罪を込めた詩的な美文調だった。

(略)

かわいい蝶よ――君の姿が目に浮かぶ(しかも、しっかり両目に)。青く豊かな茂みから茂みへと軽やかに飛びながら、より小さな虫たちに、真の純粋さと美しさが何なのか、少し見せつけてやっている。彼らがどんなに喜んでいることか。その飢えた魂に、君は光をふりそそぐ。

だけど、君だって光が必要だ。でないと、羽がもろくも乾き、空を舞う日々は終わりを告げてしまうよ。ゆっくり休んで、おひさまの下で羽を伸ばしてごらん。誰かに(癒す役なら、できれば僕に)照らしてもらってはどうかな。そうすれば心は再び若々しく弾み、羽は強くしなやかになるさ。そして飛ぶんだ。このくだらない世界の遥か上のどこかで、僕と落ち合って、またともに暮らそう。ニ人はそういう運命だから。――マジュヌーン、エル、スローハンド、リック、僕のすべてより!キスを込めて

後悔

 地下鉄だけではない。お店に入れば、エリックの曲が流れていて、また涙が出てきてしまう。ホラーだ。彼から逃れられない。いつまでも付きまとってくる。どこを見ても彼がいる。自分が正気を失ってバラバラになっていくようだった。

(略)

 私の神経は完全に参っていて、悲嘆に暮れる一方だった。エリックとの結婚に失敗したからだけではない。これほどの年月を経て今さらながらに、私はジョージとの離婚を思い返していた。あの時はジョージからエリックに息つく間もなく移ってしまったが、それが正しかったのかとずっと心のどこかで自分に問い続けてきていた。ジョージとの仲がギクシャクして、彼が私に見向きもしなくなった時に、楽な道を選んで、エリックの誘いに乗ってしまったのだ。もっとジョージとの結婚生活を頑張って貫くべきだったのに。

(略)

[70年代の終わりに偶然]ジョージに会えたのは、とても嬉しかった。あの時、得体の知れない不思議な空気を感じて、私たちのあいだは何も変わっていなかったのだと気づくことができた。まだ愛し合っているのだと。そんな気持ちが残っていたと知って、心がほんわかと温まったのを憶えている。エリックと私は遊び仲間だったのだ。それに比べてジョージとは魂がつながっていた。そんな特別な存在を、私はよく考えもせずに手放してしまっていた。

エリックとジョージ

 エリックと私は、離婚後も数回会っていた。プレッシャーをかけてくることはもうなかったが、詩的な手紙は相変わらず、たまに届いた。私に連絡を取ろうとして取れなかった時、エリックは、希望だけが彼を生かし続けていると言い、「でも君が世界のどこかにいて、ほほえんでいると分かっているだけで十分な時もある」と書いてきた。彼が私の“もう一人の元ダンナ”と呼ぶジョージと一緒にアルバムを制作していたニューヨークから届いたある手紙には、私を歌った曲をまた作ったとあった。「このアルバムで一番の曲になると思う」と彼は書いていた。「“オールド・ラヴ”というタイトルだ。怒らないで。『愛する君が歳を取った』という意味ではなく、古びていく愛について書いたものだから、すばらしい曲だよ。まあ、聴けばわかるだろう」

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2017-09-14 パティ・ボイド自伝 クラプトンのヤバイ恋文 このエントリーを含むブックマーク

パティの生い立ちあたりは適当に読み飛ばして、いよいよジョージ登場となっても、それほど面白い話は出て来ない。若干読み進める気力をなくしかけたところに、クラプトンがキモめの恋文を送ってきて急展開。一番ビックリしたのが薬で廃人になったキッカケがパティに振られたせいだったこと。


パティ・ボイド自伝 ワンダフル・トゥディ

作者: パティボイド, ペニージュノー, 前むつみ

メーカー/出版社: シンコーミュージック

発売日: 2008/08/30

|本| Amazon.co.jp

ジョージとの出会い

 [『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』]撮影用の列車は、コーンウォールまで行って帰ってきている。だが、せっかくの風景はあまり記憶にない。ずっと演技を見学したり、休憩時間におしゃべりしながら出番を待っていたからだ。ビートルズのメンバーが揃うと本当に楽しかった。みんな気は利くし、現場を明るくしてくれたものだ。ただ、リヴァプール訛りがキツすぎて、言っていることは半分も分からなかった。あれはカルチャー・ショックだった。(略)

 第一印象としては、一番生意気なのがジョン、一番愛嬌あるのがリンゴ、ポールはキュート、そして、茶色い瞳に栗色の髪のジョージは見たことがないくらいにハンサムだった。昼休み、気がつくと私は彼の隣に座っていた。意図したのか偶然だったのかは、いまだによく分からない。二人ともシャイで、ほとんど何もしゃべらなかったが、彼のそばにいるだけでビビッと来た。

(略)

[撮影が終わりに近づいたところで]

ジョージが、まるで胸のうちを見抜いたかのように「結婚してくれる?」と言っている。ビートルズ・メンバーの冗談に慣れっこになっていた私は、思わず笑った。(略)すると今度は、こう言ったのだ。「じゃあ、結婚してくれないなら、今夜、ディナーでもどう?」と。

 これには驚いた。本気なのだろうか、それともからかっているのか。どう答えていいか分からず、とりあえず、彼氏がいるから無理だと断った上で、その彼氏もジョージに会いたいだろうから、みんなで行くのはどうかと言ってみた。でも、それはジョージが嫌だったようで、私たちは駅で別れを告げて、お互い、バラバラに帰途に着いた。

 後悔しきりでマリー・ビーに事の次第を話すと、案の定、どうかしていると言われた。しかも、「エリックを好きでもないくせに!」とダメ押しされている。

(略)

[10日後の撮影後半]

プレス向けの写真会があり、女子高生役が一人ずつビートルズ・メンバーの後ろに立って、髪を整えてあげるポーズをすることになった。私はすかさずジョージに付いている。ジョージも嬉しそうに、彼氏は元気かと聞いてきた。そして、振ったと言ったら、にやりと笑ってディナーに誘ってくれた。

ヘイト=アシュベリー

 ヘイト=アシュベリーはもっとビューティフルな人々に溢れた、スペシャルで、クリエイティヴで、アーティスティックな場所なのだと思っていた。ところがその実は最悪で、顔色の悪い落ちこぼれや、ホームレスや、おかしな若者たちが、ぶっ飛びっぱなしで日がな一日過ごしていた。みんなラリっていたのだ。母親たちや赤ちゃんまでがである。

(略)

彼らの目は期待に満ちていた。ジョージを救世主か何かだと思っている。

(略)

 とにかく私たちは立ち上がると、リムジンの方へと歩いていった。その瞬間だ。「ねえ、ジョージ、STPやらない?」という小さな声がした。

 ジョージは振り向いて「遠慮しとくよ」と断った。

 すると、そいつが群集に向かって「ジョージ・ハリスンに拒まれちゃったぜ」と言ったのだ。

「そんなあ!」と彼らは一斉に叫んだ。

 妙な敵意がにわかに湧き起こった。それを感じたのだ。あれだけハイになっていると、空気を敏感に察知できてしまう。私たちは徐々に歩調を速めたが、彼らもひたすら付いてきた。

 やっとリムジンが見えたので、私たちは一気に走って道を渡って車に飛び乗った。しかし群衆も走って追いかけてきて、車を揺らし始め、窓を埋め尽くすようにぺったりと顔を付け、中を覗き込んでいた。

 この一件はジョージにとっての転換期になっている。それまで私たちは、ドラッグは面白いものであり、意識を広げてくれる便利な道具だと考えていた。だが、ヘイト=アシュベリーで一気に目が覚めたのだ。あそこにいた人たちは社会から脱落し、路上で寝起きして、ありとあらゆるドラッグをやっていた。LSDの何倍も強いようなものも含めてだ。(略)

単なるアル中と同じ。どこにでもいる依存症患者だ。それを知ったジョージは、ドラッグ・カルチャーそのものに嫌気が差した。それでLSDをやめて瞑想に転じたわけだ。

 そういう意味では、マハリシの教えが絶妙なタイミングで私たちの人生に飛び込んできたと言っていい。少なくともジョージの人生にはだ。しかもドラッグの代わりを提供してくれただけではない。ジョージはもともと、自分の知名度に疑問を持っていた。

不機嫌なジョージ

 ジョージが不機嫌だったのは、こうしたビートルズの状況を反映していたのかもしれない。とにかくブライアン・エプスタインが亡くなって以来、メンバーたちは父を失った孤児同然だった。抑えていた緊張感や憤りが、徐々に露出してきていたのだろう。それに、もともとジョージは疎外された気分でいた。曲を書くのはレノン=マッカートニーと相場が決まっていて、自分の曲をアルバムに入れてもらうのは至難の業だったからだ。(略)

例えばジョージがポールについて何か言いかけても、すぐにやめてしまっていたからだ。どうも私に気持ちを打ち明けるのは、苦手だったようだ。言えなかったのか、言う気がなかったのかは分からない。疎外感だって絶対に味わっていたはずなのだが、それについて話してはくれなかった。心の傷であれ、苛立ちであれ、怒りであれ、彼は人に語ろうとはしなかったのだ。前はあんなに強い絆で結びついていて、何でも正直に話し合えたのに。そんな彼が遠い存在になっていく。手が届かないと感じる時もあった。

クラプトン登場

出会ったのは、ブライアン・エプスタイン主催のパーティでのことだった。それはクリームのコンサートの打ち上げで(略)当時シャーロットというモデルと付き合っていたが、私に気があるのは分かっていた。そんな彼のそぶりを感じて、まんざらでもなかった。ふと彼の方を向くと、じっと私を見つめていたり、わざわざ私の横に座ったり、私が着ている服や作った料理を褒めてくれたり、私を一生懸命に笑わせてくれたり、私と熱心におしゃべりしたりしてくれる。やはりそうされると悪い気はしない。少なくとも、ジョージはそういうことをしなくなっていた。

ラブレター

封筒の上下には「速達」「至急」と書かれている。中には小さな紙が入っていて、小文字のみの、ちまちまとしたきれいな筆跡でこう綴られていた。「多分、君も聞き及んでいることだろうが、僕の私生活は展開の早い茶番劇のようだ。どんどん堕落していく……君と最後に会ったり、話をしたりしてから、気が遠くなるほど時間が経ったように感じる」

 それは、『最愛のl(小文字のエル)』で始まっていて、私の気持ちを確かめさせてほしいと書かれていた。私がまだ夫を愛しているのか?それとも誰か他に恋人がいるのか?でも、何よりも大事なのは、私の心の中にはまだ彼がいるのか?ということだった。彼はどうしても知りたいと記し、安全な方法の手紙で連絡をくれるように迫っていた。「返事がほしい。その手紙になんて書いてあろうとも、僕の心に安らぎをもたらしてくれるだろう……愛をこめて、eより」

 私は手紙にさっと目を通し、てっきりどこかの頭のおかしな奴から来たものだと思った。ジョージのファンからの嫌がらせとは別に時折、私宛のファンレターが来ることがあったからだ。手紙をキッチンにいたジョージや他の人たちに見せながら私は「ちょっと、この人、変態じゃない?」と言って、みんなと大笑いしている。そしてそのまま、すっかり忘れていた。あの電話が鳴るまでは。

 電話はエリックからだった。「僕の手紙受け取ってくれたかい?」

 「手紙ですって?多分、受け取ってないと思うけど。どの手紙のことかしら?」と言った時、謎が解けた。「あれってあなたからだったの?あなたが私のことをあんな風に思ってくれていたなんて、全然知らなかったわ」。それは今までもらったどんな手紙より情熱的で、二人の関係をそれまでとは違う局面に向かわせるものとなった。とてもスリリングで危険な恋の戯れに駆り立てたのだ。とはいうものの、私にとってはまだ、単なる戯れに過ぎなかった。

「いとしのレイラ」

 1970年の春から夏にかけて、エリックと私は折にふれ、二人きりで会った。彼と一緒に『ケス』という映画を観に行った日のこと。映画を観たあとに、オックスフォード・ストリートを歩いていたらエリックがこう訊ねた。「僕のこと、好きかい?それとも僕が有名人だから会ってくれてるの?」と。

 私は「あら、あなたが私に会うのは私が有名人だからだと思っていたわ」と答え、二人で笑った。彼は自分の気持ちをうまく伝えるのが苦手だった。その代わりに音楽や詞に自分の感情を注ぎ込むのだ。

(略)

[ある時は]彼はマイアミから帰国したばかりで、私のためにベルボトムのパンツを買ってきてくれていた。「ベルボトム・ブルース」という曲のアイディアになったパンツだ。彼は日に焼けていて、ハンサムで、ものすごく魅力的だった。しかし私はその魅力に負けまいと抵抗した。

(略)

 それは、またしても、ロンドンで逢い引きを楽しんでいる時だった。エリックは、作った曲を聴いてもらいたいと言って私を家に連れ帰った。(略)

 それが「いとしのレイラ」だった。自分を愛しているが、決して手には入らない女性をどうしようもなく愛する男を歌ったものである。エリックは、私たちの共通の友人でもあるイアン・ダラスからもらった本に書かれていたその物語[『レイラとマジュヌーンの物語』]を読み(略)マジュヌーンに自分を重ね合わせ、自分の心情を私に理解させようと躍起になっていた。(略)

 彼は、その曲を2〜3回聴かせ、その都度、反応を確かめるために私の顔をじっと見つめていた。私の頭に最初に浮かんだことは、「ああなんてこと!これじゃ誰のことを歌っているのかバレバレじゃない」、だった。望んでいるかどうか自分でもわからない方向に、彼が私を追い込もうとしているような気がして不安だったのだ。だが、自分の存在がこのような情熱と創造力を導き出したのだという実感とともに、その曲は私の理性を打ち負かしたのだった。私はもう抗うことができなかった。

衝撃の告白

 夜もかなりふけた頃、ジョージが現れた。彼はただでさえ不機嫌なのに、始まって何時間も経ったパーティは酔っぱらいだらけで、うんざりしていたらしい。そんな連中と話す気もなく、彼はひたすら私を捜していた。でも、「パティはどこだ?」と訊ねても誰も知らないようだった。そしてまさに帰りかけた時、エリックと一緒に庭にいる私を見つけたのだ。空が明るくなりだしていて、濃い霧が立ち込めていた。ジョージは私たちのところにやって来ると、「一体どうなってるんだ?」と言った。

 恐ろしいことに、エリックはこう切り出したのだ。「実は白状するけど、お前の奥さんを愛してしまったんだ」

 私は死んでしまいたかった。

ジョージは怒り狂った。彼は私のほうを向き、言った。「それで、君は彼と一緒に行くのか、それとも僕と一緒に来るのか、どっちだ?」

「あなたと帰るわ、ジョージ」

(略)

 次にエリックに会ったのは、彼が突然フライアー・パークに姿を現した時だった。(略)ジョージは留守で私は一人だった。エリックを招き入れ、私たちはワインを一杯飲んだ。すると彼は駆け落ちをしようと言い出した。死ぬほど私を愛していて、私なしでは生きられないそうだ。私は今すぐにジョージを捨てて、彼と一緒になるしかないのだという。

 「エリック、あなた気でもふれたの?」と私は言った。「そんなことできるわけがないじゃない。私、ジョージと結婚しているのよ」

 すると彼はこう言った。「ダメ、ダメ。君を愛しているんだ。僕の人生には君が必要なんだ」

 「そんな」と私。

 その瞬間、彼はポケットから小さな包みを取り出し、私に向かって差し出した。「もし、一緒に来てくれないなら、これをやるまでだ」

 「それは何?」

 「ヘロインだよ」

 「バカもいい加減にして」。私はその包みを取り上げようとしたが、彼は包みをこぶしの中に握りしめてポケットに隠してしまった。

「一緒に来てくれるつもりがないなら」、彼は続けた。「終わりだ。僕は君の前から姿を消す」。そして彼は出て行った。私はその後3年ものあいだ、ほとんど彼を見かけることすらなくなる。

 私に迫ったとおり、エリックはヘロインに手を出し、あっという間に中毒になったのだった。そしてアリス・オームズビー=ゴアを道連れにした。(略)

彼のお抱え密売人が言うには、エリックはコカインを補充してもらうたびに、ヘロインも一緒に買っており(略)恐らく山ほどヘロインを蓄えていた。彼は今やそれを使おうとしていたのだ。アリスとともにハートウッド・エッジに引きこもり、跳ね橋を上げ、家から一歩も外に出せず、友人たちにも会おうとせず、ドアのノックにも電話にも応えず、二人は世捨て人も同然となったのである。

 この頃、ポーラはすでにエリックのもとを去っていた。妹とエリックはマイアミでアルバム『いとしのレイラ』をレコーディングしているあいだ一緒にいたのだが(略)ポーラはその曲を聴いた瞬間、それが私のことだと気づいた。もともと妹は、手に入れることが絶対に不可能な私の代用品として、エリックが自分と付き合っているという疑念を常に抱いていた。(略)ポーラは荷物をまとめ、傷ついた心を抱えて家へ帰った。エリックを本気で愛していたのに(略)自尊心と自信を彼にズタズタにされてしまったのだ。おまけにボイド家でずっと親代わりを務めてきた頼りの長姉は、最大の敵と化してしまっていた。

バングラデシュ難民救済コンサート

 コンサート当日、彼とはほとんど言葉を交わせなかった。彼は人に囲まれていたし、そうこうするいちにステージに上がってしまった。おまけにひどくラリっていたのだ。私がその場にいたことに気づいたかどうかもわからなかった。彼がこんな状態にまで自分自身を追い込んだのは私のせいなのだ、と考えるとショックだった。ただ、最初は罪の意識を感じたが、次に私の気持ちは逆の方向に激しく揺れ動いて、そもそも夫と彼のどちらかを選べと迫った彼の方がおかしいのだ、と腹立たしくなった。

 コンサートが終わると、エリックとアリスはハートウッド・エッジの自ら課した牢獄の恐怖に戻り、以前と同じ生活を続けた。そして再び、友人だちと世間に門戸を閉ざし、電話が鳴っても受話器を取ることはなかった。

 そしてついに、アリスの父親とザ・フーのピート・タウンゼントがエリックと話をすることに成功し、治療を受けるよう説き伏せた。

(略)

[復活のレインボウ・]コンサート最初の曲「いとしのレイラ」のオープニングの物悲しいイントロに続いて、その歌詞を聴いた瞬間、思わず身震いしてしまった。この3年間、ボロボロの状態だったにもかかわらず、彼はギターで人々を感動させる方法を忘れてはいなかったのだ。私の人生から彼が姿を消した時に感じた彼に対する思いが、心の奥底からこみ上げた。

(略)

彼が治療を受けると同意するまでには、さらに1年かかった。

次回に続く。なんとジョージもリンゴの嫁に!……。

2017-09-12 ジャズ・イズ ナット・ヘントフ このエントリーを含むブックマーク


ジャズ・イズ

作者: ナットヘントフ, Nat Hentoff, 志村正雄

メーカー/出版社: 白水社

発売日: 2009/06/01

|本| Amazon.co.jp

個性主義者

 デューク・エリントンがぼくに言う――「このあいだの晩、ラジオで、あるジャズ・マンがしゃべるのを聞いたよ、「モダン」ジャズの話だった。それで彼は自分の論点を例証するためにレコードをかけたんだが、その曲には1920年代にジャズ・メンたちが使った手法が使われてるんだ。「モダン」なんて、でっかいことを言ったって意味ないんだよ。この音楽で何かを言おうとした人はみんな――大昔の人までみんな――個性主義者なんだ。シドニー・ベシェ、ルイ・アームストロング、コールマン・ホーキンスのようなミュージシャンのことだがね。それからつづいて起こることは、その一人の人間によって何百人という他のミュージシャンが作られるってことになる。彼らは、その一人のうしろに並んでいるわけで、みんながカテゴリーと呼ぶやつができあがる。でもおれは「モダン」ジャズなんて術語を信用しない。おれは個性主義者をもとめて聴くんだよ。チャーリー・パーカーのような個性をね。」

エリントンと人種問題

セシル・テイラーが1950年代末に言ったことだが「彼はぼくに、どうやったらあらゆる種類の音楽的な影響やそれ以外の面の影響を、アメリカの黒人であるぼくの人生の一部として、統合することができるのかを教えてくれた。ぼくがぼくとして生きてきたあらゆるものがぼくの音楽の中にある。そしてそれはデュークについてもそうなんだ。」

(略)

[エリントンは人種問題について公式の場であまり発言しなかったので]

ジム・クロウ(黒人差別)とかつて呼ばれたものに対して鈍感であると考えられた向きもある。

 「ぼくをそんなふうに考える人たちは」(略)「ぼくらの音楽を聴いていないんだ。黒人の社会抗議と誇りとは、長いあいだぼくらのやってきたことの中で最も重要なテーマだった。あの音楽においてぼくらは、長いあいだこの国で黒人であるとはどういうことであるのか、それを語ってきた。そして自分たちが無礼な扱いを受けるような立場に身をおいたことはない。(略)

[バス旅行の代わりに]プルマン車を二輛と70の貨物車で旅行したんだ。それをどの駅にも停めてその中で生活した。自分たちの水、食物、電気、トイレがあった。土地の人たちがやって来て「ありゃ何だ」って言う。「そうさな」とぼくたちは言う――「大統領が旅行するときはああやるのさ」。」

 「ぼくたちは主張を通したんだ」とデュークは語りつづける。「当時ほかに何がやれただろう。

(略)

1960年代末にテイラーはアンティオク大学で教えていて、学生オーケストラをつくろうとしていた。(略)

[学生デモで]大学は閉鎖した。テイラーはキャンパスの外の場所でリハーサルをつづけた。そして造反リーダーの黒人学生に、なぜ授業をやめないのかと非難された。

 「あんたの民族のために何かをやりはじめるのは、いつになるんだ?」と学生の一人がテイラーにどなった。

 「ぼくはこれまでの人生でずっとそれをぼくの音楽の中でやっていたんだ」とテイラーは正確な返答をした。

ビリー・ホリデイ

 ジョン・ハモンド回想――「ぼくが最初にビリーを聴いたのは1933年のはじめだ。彼女は17歳だったが、もう人生に傷つけられていた。

(略)

「アップタウンのクラブで丸ぽちゃの女の子がテーブルのあいだをまわり歩いているのさ、歌いながら。自分の耳が信じられなかったね。それまでこんな声を出す女の子は聴いたことがない――まるで楽器みたいなんだ、ルイのトランペットみたいなんだ。それに彼女の即興ぶり。ここの女の子たちは仕事中、二十から三十のテーブルを歩きまわって歌をを歌わなければならないのさ。こりゃ、たいへんな量の音楽のもとでが要ることだから、もとでがなければすぐわかる。彼女にはそれがあった。」

 ほかにハモンドの憶えていることは、テーブルをまわっているほかの女の子たちはチップをもらうのにドレスをもちあげてその陰唇でドル札をはさむものとされていたのに、ビリーはそれをやろうとしなかったということだ。ついでながら、このことから、彼女ははじめてレディと呼ばれるようになった――はじめは彼女の、礼儀知らずの同僚たちが嘲笑的に言ったのだ。のちにレスター・ヤングはその仇名を長くして〈レディ・デイ〉と言った。姓のホリデイのデイを追加したのである。

(略)

「1933年から1944年のあいだに百枚以上のレコードを作ったけれど」と『奇妙な果実』に彼女は書いた――「そのどれについても印税は一セントももらっていない。一面につき25ドル、50ドル、最高は75ドルもらって、それで喜んでいた。

ジョン・コルトレーン

「ほんとうに何かを言おうとしているひとと共演しているとき、たとえほかの点ではそのひととスタイルがずいぶん違っていても、一つだけ変わらないものがある。それは張りつめたような体験、電気を通されるような感じ、その種の高揚するようなフィーリングだ。どこでそれが起こっても、そのフィーリングが訪れてくればわかるし、ハッピーになる。」

ジェリー・マリガン

 ある意味でマリガンはジャズ界のハックルベリー・フィンである――ときに華麗、ときに物思いに沈む、いつも変わることなき放浪者。

 1959年、マリガンがピアノなしのカルテットのリーダーとして国際的に有名になったとき、デイブ・ブルーベックが言った――「ジェリーを聴いていると、まるでジャズの過去、現在、未来をみんないっしょに一つの曲の中に聴いているみたいなんだ。しかも趣味がよくて無茶なことはやらないからイディオムの変化にまるで気がつかないでしまう。マリガンは急進的ジャズのハーモニー意識で古いニューオーリンズのツー・ビートをやるから、伝説が破壊されているという感じではなくて、むしろ伝統が押し進められているという感じなのだ。」

(略)

ポール・デスモンドによるマリガンの分析だ――「おそらく彼以外のどのジャズ器楽奏者の場合にも、彼のようにはっきりとデキシーランドからスイングを経てビバップに、それからビパップを出て行く過程までをぜんぶ、同じソロの中でないにしても、同じレコードの中で示すひとはいないだろう。」

マリガンはニューヨークに惹かれて落ち着いた。彼は主としてクロード・ソーンヒルのビッグ・バンドのために編曲の仕事をして生活し、どんなジャム・セッションでも、見つけ次第「出し抜いて」入ったと言う。(略)マリガンはどんな厳しい審査もパスした。編曲者としても大進歩を遂げたが、その理由の一つはソーンヒル・バンドの筆頭編曲者ギル・エバンスとの交際を深めたことにある。エバンスは当時35歳。頑固な、独学の実用主義者で、複雑な、豪華に織りなされた個性的スタイルを発展させていて、他の若いミュージシャンも影響を受けたが、マリガンに重要な影響を及ぼした。

 1947年にエバンスは西55丁目の中国人の洗濯屋のうしろのアパートの地下の一室に住んでいたが、この部屋がモダン・ジャズの少なくとも一つの主要な展開の発祥の地となった。

(略)

このアパートでの討論が結果的に1949-50年のマイルス・デイビスのキャピトルでのレコーディングに結びついた。このレコードは何年にもわたり世界中に「クール」ジャズの時代を現出させたのである。(略)

 このときマリガンとエバンスが感じていたことは、辺境開拓者の探究心はそのまま維持して、音楽をもっと繊細な、もっと多彩な、もっと組織されたものにしようということであった。ソーンヒル楽団によって成就したハーモニーの幅を表現できる、最少限の数の楽器はどれとどれかということからアパートでの討論がはじまった。

(略)

 初期の、より激しいモダン・ジャズの特性にくらべて、もっと軽い、もっとなめらかなビート、もっと変化のある、微妙なダイナミック・レンジをはやらせることになったほかに、このセッションは集団的な作用反作用の重要性をふたたび強調する点で影響力があり、それは実にさまざまな形で1970年代までつづいた。この音楽の影響力がもっとも実らなかったのは1950年代の、概して不毛な、機械的な、ほとんど完全に白人のものである「ウエスト・コースト・ジャズ」であった。(略)

ウエスト・コーストの演奏家が把握しなかったのは、マイルス・デイビスの表面の「クール」の下には多量に圧縮した力があるということだ。その訓練された核を見るならば、これもまた「ホット・ジャズ」だということ。

 1950年代の後期までに、不毛な「ウエスト・コースト・ジャズ」に対する、また、こうした白人演奏家が正統ジャズを勝手に改変して相当な収入を得ていることに対する、直接的な怒りの反応として、東部の黒人演奏家は「ファンク」あるいは「ソウル・ジャズ」を強調するようになった。この反撃をもっとも強力に示すのは、ホレス・シルバーとアート・ブレーキーをリーダーとするコンボの、ブルース=ゴスペルに根をもつ絶叫である。

(略)

 ニューヨークのあと、マリガンはカリフォルニアヘ行き、西部へまでも身につけて行ったヘロインの習慣と一生けんめい闘い、終局的にはそれに勝ち、一連の、静かにスイングし、対位法的に即興するカルテットをやりはじめて、国際的に有名になった。このカルテット時代に、マリガンはもう一つ、ジャズに対して意義ある貢献をした――私見によれば、違った構造、新しいデザインで再びよみがえりつつあると思われる貢献だ。それは対位法的スイングの自然な発展である。デイブ・ブルーベックもこの方向で仕事をしていた。彼のアルト・サックス奏者ポール・デスモンドは、こうした種類の即興において非常に巧妙で想像力に富んでいたけれども、ブルーベックは単調になることがあまりに多かった。突破口を開いたのはマリガンであった。

(略)

[小学校三年生で]「学校へ行く途中」とマリガンは回想する――「ホテルの前にとまっているレッド・ニコルズのバスを見た。おそらくその瞬間はじめてぼくはバンドのミュージシャンになって旅行したいと思ったのだ。それは小さな古いグレイハウンドのバスで、天蓋のある展望台がついていて、バスには『レッド・ニコルズと彼のファイブ・ペニーズ』と活字体で書いてあった。それはすべての旅と冒険を象徴していた。それ以後のぼくは、以前のぼくではなくなった。」

セロニアス・モンク

『ダウン・ビート』誌のインタビュー記者をにらみつけて、最後に言ったこと――「ジャズはどこへ行く?どこへ行くか知りません。地獄へ行くのかな。何を、どこへ行かせるわけに行きませんよ。ハプニングあるのみです。」

チャールズ・ミンガスは

たいていのひとよりも大きい犠牲を払ってきた。長期にわたり因襲破壊主義に駆られたため、とうとう疲れ果てて、以後彼の人生からどんな音楽が生まれるにしても、それは大胆に、怒りをもって吹き荒れた過去の、断片化し、希簿化した残響ということになるだろうと思われた時期があった。

 最低をきわめたのは1960年代末だった。ミンガスはほとんど公けの場に顔を出さず、顔を出すと彼の音楽はほとんど情熱なしの回顧であった。昼間、ときにイースト・サイドの南寄りをぶらついているのを見たものだが、ひどく沈んだ、放心した様子であった。(略)

 友人を電話に呼び出して、緊急な政治上の新理論、人種偏見の力学、音楽ビジネスの込み入った類廃ぶりなどを語ったミンガス、あるいは自分がだれであるのかも言わず、何も言わずにボリュームをいっぱいに上げて、作曲中の作品のテープを電話に流すミンガス、そういうミンガスも消えてしまった。

 「カム・バックは絶対にしないよ。」長いあいだミンガスと共演していたひとが、ミンガスの忘れられている時期に、ぼくに言った。「自分を使い果たしてしまったとしか言いようがないな。」

 ほんとうかなとぼくは思った。

(略)

 とうとう復活したという知らせが来た――コンサート、新しいレコーディングをやるという。ぼくはコロンビア・レコードの編集室のミンガスに会いに行った。

(略)

 演奏が終わったあとで、ミンガスに、忘れられていた時期のことを訊いた。「三年ばかり」と彼は言った――「ぼくはもうおしまいだと思っていたよ。ときにはベッドから出ることもできないのさ。眠ってたんじゃない、ただ横になっていたんだ。しかしあそこに、東五丁目とA番街のまじわるところに、南に下ったイースト・サイドの奥深く暮らしていて、人間のことを学ぶようになった。それでカム・バックができるようになったのさ。

(略)

ぼくは、その箱にある、ニュー・アルバムの題名が《レット・マイ・チルドレン・ヒア・ミュージック》であるのに気づいた。それはどういう意味かとぼくは訊いた。

 「たくさんの子どもたちが」とミンガスは言った――「ロック・ミュージックなんかがどこへ行っても溢れていて、雑音しか聴けないんだ。ああいうのは表現することが実に限られているし、そのわずかな表現したいことを表現する方法も限られている。しかし子どもたちはもっと、ずっと多くのことを聞くことができるんだ。そんなにまえじゃないが、ぼくは自分のバンドといっしょに〈ジャズモビール〉で演奏した(略)

いっしょに来たやつが言うんだ、「ミンガス、ここの子どもたちには、きみがふだんやるようなのは聴かせられないよ。彼らにはわからないんだから」って。しかしぼくは自分がふだんやるものを演奏した。いや、それ以上に、ぼくにできる限り音楽的展開をやってみたんだが、それでも子どもたちの気に入った。」

 「その子たちがみんな」――ミンガスは微笑していた、その子たちの顔をもう一度見ているようだった――「トラックのあとを追って来て、もっと演奏してくれって言うんだ。もちろん聴きたくなるわけさ。彼らの音楽じゃないか。彼らの人生なんだ。遠い過去とつながっていて、その先も限りないものなんだから。」

(略)

〈ファイブ・スポット〉で、ある夜、バーにいた非常にブラックなミュージシャンが大声で、彼ほど黒くないミンガスを罵倒した。(略)

次期の〈黒人意識〉運動の先駆者ともいうべきこの男はミンガスに向かってわめいた――「おめえはブルースをやれるほどブラックじゃねえよ。」

 バーの男はミンガスのほうへ進んで行った。ミンガスはベースを下において、話を拳でつづけようとした。が、ミンガスは気を変えて、ベースを取りあげると、響き渡るベース・ソロをはじめた。それは実に深くブルースに突入し、喧嘩を売った男は文字通り不意を打たれた。

(略)

 他方、ミンガスは人種差別が多種多様の形であらわれることを鋭敏に意識しながら、同時に、人種を超越して考えることが肝要だと感じている。「もう肌の色だけの問題じゃないんだ」と、数年まえ彼はぼくに語った。「それより深いものになって来ている。ねえ、男も、女も、ただ愛するというだけのことがだんだんむずかしくなって来ているんだ。みんな断片化してしまっていて、その一つのあらわれは、もう、自分たちが正確にどういう人間であるかを知って、それにもとづいてものを作りあげて行こうなんていう努力を、ほんとうには、やっていないということ。たいていの人は、たいていのときに、自分のやりたくないことをやらされている。その結果は、もうどんな大事なことについても、自分がどういう人間であるかも含めて、選択の余地がないんだ、仕方がないんだと感じるようなところまで来てしまっている。みずから奴隷になっているんだな。けれどぼくはやり抜いて行く。そうして自分がどんな種類の人間であるかを自分の音楽を通して見つけるんだ。音楽だけが、ぼくの自由になれる場所だ。」

チャーリー・パーカー

 バードはほんとうに彼なりに、音楽、あらゆる種類の音楽のもつ無数の喜びに驚嘆したのである。あるとき、ミュージシャンたちのバーで、バードはジュークボックスのカントリー・ミュージックのレコードを聴きたいと主張した。そこにいたほかのジャズメンが、そんなのは下らぬサウンドだと嘲けるのが我慢できず、「ちがう」とバードは主張した――「彼らは彼らにとってリアルな話をしているんだ。おれは彼らの言っていることを聞くんだ。」

 あるいは、ジジ・グライスの言い方を借りれば――「バードはおよそ、どんなひとの演奏でも好きになった。」ピアニストのジョージ・ウォリントンの妻、現在ワーナー・ブラザース・レコードの重役をしているビリー・ウォリントンが思い出を語る――「死ぬ二、三週間まえバードはポケットに50セントしかもちあわせないでブロードウェイを歩いていた。アコーディオンを弾いている盲人の乞食に出会ったの。バードは盲人の受け皿に25セント貨を入れて、《オール・ザ・シングズ・ユー・アー》を弾いてくれと頼んだ。数分後にまたこのアコーディオン弾きのそばを通ると、まだ同じ歌を弾いているの。チャーリーは笑って、伴れのひとに、あいつのコードは正しいぞと言って、それから古いズボンのポケットから最後の25セントを出して、みんなその盲人にやっちゃったの。」

(略)

ケネス・レクスロスはバードとディラン・トマスのような「戦後世代の英推たち」は「自分たちの置かれた世界の恐怖に圧倒されたのだ、なぜなら、彼らには結局、もはや純粋に抒情的な芸術という武器では、その世界を圧倒することができなくなっていたから」だったと考える。

モンクとコルトレーン

 モンクは一つの完全な音楽的小宇宙を創造する。そこで彼と共演するミュージシャンにとって問題となるのは、いかに自分のバランスを保つか、モンクの予測不能なほど込み入った想像力がどこへ赴こうと、彼について行く――そして同時に自分自身の演奏をする、自分自身である、ということなのだ。

 「モンクといっしょにいて新しい次元の機敏さを学んだ」とコルトレーンは言った――「なぜかというと、いつも何が起こっているのか気をつけていないと、ふいに底のない穴の中に落ちてしまったような感じになるんだ。」彼はほかのことも学んだ。「モンクはどうしたらテナー・サックスで一度に二つないし三つの音を出せるか、ぼくに教えてくれた最初の一人だった。それは正統的でない指さばきと、唇の調節でやるんだけれど、うまくやると三つの音が出る。また彼の作品で長いソロ〔マイルスとやるときよりも長い〕を演奏する習慣をつけてくれた。同じ作品を長時間演奏してソロに対する新しい考えを見つけるんだ。それで一つのフレーズについてアイデアが尽きてしまうまで、できるだけやってみる。ハーモニーがぼくのオブセッションとなった。ときには望遠鏡を反対側から覗くようにして音楽を作っていたんだ。」

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2017-09-09 エンピツ戦記 - 誰も知らなかったスタジオジブリ このエントリーを含むブックマーク


エンピツ戦記 - 誰も知らなかったスタジオジブリ

作者: 舘野仁美, 平林享子

メーカー/出版社: 中央公論新社

発売日: 2015/11/21

|本| Amazon.co.jp

順番を飛ばしてこれを最初に。

宮崎駿の下で働くこと

[『夢と狂気の王国』で]

鈴木さんが宮崎さんについて「人のエネルギーを自分のエネルギーに変える天才」と言うと、「宮さんにとって、あらゆるスタッフはみんな下駄だからね」と庵野さん。

(略)

 「宮崎監督と一緒に働きたいと思ってジブリに入った人が、途中でやめてしまうのは、どうしてだと思いますか?」[という監督の質問に]

 映画をご覧になった方も多いと思いますが、私はこのように答えました。

 「宮崎さんの要求に応え続けているうちに、くたびれてしまう人はいると思うし、結局、要求に応えきれずに、脱力してしまうっていうか、ダメだったって挫折しちゃう人もいるかな。(略)

うまい人は平気なのかなと思うでしょ。でも(略)うまければうまいほど、要求はやっぱりあるし、あんまりこんなことを言うと不謹慎かもしれないけど、自分を守りたい人はそばにいないほうがいいかもしれない。ある程度、自分を犠牲にしてでも、得たいものがあるとか、一緒に仕事したいっていうことがあるんだったらいいけど、自分のささやかなものを守りたい人は、あまり長くそばにいると、つらいかもね」

 手を休めずに作業しながら話していたので、ちょっと暗いというか、素っ気ない口調になっていたかもしれません。もう少し補足して説明したいと思います。(略)

確かに宮崎さんは、ナチュラル・ボーン・ヴァンパイアのようなところがあると思います。(略)

 宮崎さんは自分の若いころを思い出させるような才能あふれる若者を求めていて、そういう人が近くにいると喜びます。そして無意識に、その才能をどんどん取りこもうとします。そこで若者のほうも負けずに、師匠である宮崎さんの「血」をたくましく吸い返せばいいのですが、宮崎さんと互角に渡り合える若者は、そうそういないのですね。ただ、それを「吸い取られた」と思うのか、「薫陶を受けた」と思うのかは、その人の考え方によります。

 宮崎さん自身、そうやって高畑さんから吸収した人だと思います。宮崎さんにとって高畑さんは、師匠でありライバルでもあり、高畑さんのハイレベルな要求に応えて献身的に働きながら、その一方で、高畑さんの演出術やものの見方、考え方、知識などを貪欲に吸収して、自分を鍛えていったのでした。師弟関係というのはそういうものではないでしょうか。(略)

ですから庵野さんが言うように「自分は宮崎さんの下駄だ」と自覚して「いい下駄になること」に努力しながら、一方で適度な距離感を保って、履きつぶされないように注意しつつ(笑)、自分に必要なものを吸収する、そういうバランスをとることが大事なのでしょうね。


夢と狂気の王国

メーカー/出版社: ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社

発売日: 2014/05/21

[Blu-ray]

Amazon.co.jp

理不尽な怒られ方をした話をしても恨みがましくならないのは著者の人柄だろうかと思ったら、こういう経緯だった。

[舘野仁美の話を平林享子が文章にまとめる形で『熱風』に連載することになり、ネタにされる宮崎に了解を貰いに行くと]

 「舘野さんはずっと下級管理職として耐えてきた人なんです。涙あり、歯ぎしりあり。舘野さんの中には、恨み節が渦巻いているんです。過去の話を聞いても、怖い話しか出てこないんですから、そんな恐ろしい連載はやめたほうがいいです!」

(略)

宮崎さんのNGには2種類あることを、このころまでに、たくさん失敗を重ねてわかってきていました。ひとつは、絶対にほんとうになにがなんでも200%ダメなときのNGです。(略)もうひとつは、少しドアの隙間を開けておいてくれるというか、ダメと言いつつ片目をつぶって黙認してくれるNGです。

[後者だと感じた平林がねばってプッシュすると、宮崎は]

(略)

 恨みがあるからといって、回顧録で人を批判したり傷つけるようなことは書いてはいけない。友人や知り合いをなくして、舘野さんが孤立してしまう。

 でも、そうやってあちらこちらに気を遣っていると、書けないことばかりになってしまう。情念の部分が抜け落ちてしまって、きれいごとばっかり書いてある回顧録なんてつまらない。そんな回顧録だったら、連載する意味がない。

 完全にダブルバインド状態ですが、確かにその通りだと思いました。

〈そんな難しいことが、おまえにできるのか?〉

 宮崎さんから、そう難題をつきつけられた気がしました。

〈その連載を、本気でやる意味があると思うんなら、やってみなさい〉

(略)

[他のスタッフに裏取りし、上層部にチェックしてもらって最終稿を上げると]

今度は、舘野さんからクレームが入りました。

「私はもっと気が強いし毒舌キャラなのに、ヒラバヤシさんは、私のことをいい人に書きすぎている。文章をきれいにまとめすぎていて、おもしろくない!」(略)

[そこで、動画チェック同様]俯瞰的な視点から文章を「調整」する必要があるんです、と。[説明]

 しだいに、舘野さんはこう言ってくれるようになりました。

「これは、私を主人公にして、編集者の視点で書いている回顧録なんですね。ヒラバヤシさんの目で見た私を描いているんだなって思ったら、納得がいきました」

鳥に説教する宮崎

キキが、雁の群れと出くわすシーン。[原画担当の二木真希子に](略)

 「どうしてこんなふうに描いたんだ!!前におれが言っただろう、鳥の飛び方はこうじゃないって!!」

 二木さんは反論しようと試みていましたが、厳しい口調でまくし立てる宮崎さんの勢いに気圧されて、黙り込んでしまいました。

 二木さんは実力があって研究心旺盛なアニメーターで、とくに動物や植物の描写には定評のある方です。鳥の生態にも詳しく、傷ついた野鳥を保護(略)するような人です。(略)この雁の群れのシーンも、二木さんはきちんと研究した上で、その成果を表現していたのだと思います。

 では、なぜ、宮崎さんの気に入らなかったのでしょうか。その謎は数年後にとけました。(略)

空から舞い降りて翼をたたんだ一羽の水鳥に向かって、宮崎さんはこう言ったのです。

 「おまえ、飛び方まちがってるよ」

 〈えええーっ!?〉

 私は心の中で驚きの声を上げました。本物の鳥に向かって、おまえの飛び方はまちがっているとダメ出しする人なのです、宮崎さんは。現実の鳥に、自分の理想の飛び方を要求する人なのです。

(略)

[「写真やビデオを見て、そのまま描くな」とスタッフによく説教する宮崎だが]

ただ現実をそのまま描くのではなく、現実の向こうにある理想の「リアル」を描くことを探求しているのです。

「自分の目で見ること」

 その時間、その場所の空気感、温度や湿度、手触り、光の当たり方で変わる微妙な色の変化など、カメラでは収めきれないことがたくさんあります。表現をする人にとって、そうした体験の記億は、すぐに使う機会がなくても、心の引き出しに蓄えておけば、いつか大きな力になることがあります。

 「人間がふたつの目で見ている世界は、写真で写したようなパース(遠近法)じゃない。道の向こうでお葬式をやってれば大きく見えるし、探してる家が見つかれば、もっと大きく見える」

 見る人の意識によって、世界の見え方はちがってきます。

 宮崎さんは、こんなふうにも言っていました。

 「アニメーターは自分の中にいろんなレンズをもってなきゃいけない。標準だけじゃなくて、広角、望遠、マクロ……ひとつのカットでもいろんなレンズに取り替えていい。映画っていうのは、そうやってレンズを取り替えてつくるもんだ」

保田道世

 宮崎さんはいつだったか、

 「やっちんは、もともとは怖い人ではなかった。草花が好きな優しい女性だった。ぼくらが彼女を変えてしまったんです」

 そう言っていたことがありました。

(略)

 保田さんから教わったことはたくさんありますが、たとえば「波頭と波紋は、色を変えている」ということがあります。波を表現するときに、白い波頭が立ち、その波頭がそのまま同じ白色の波紋に変わるように描いてしまう人が多いのですが、宮崎さんと保田さんの色指定は、同じ白系統の色でも、波のかたちの変化とともに色を微妙に変化させています。

(略)

 宮崎さんが、保田さんの色指定について、「引き算のよさ」と話しているのを聞いたことがあります。

(略)

保田さんから教わった最大のことは、宮崎さんに指示されなくても、宮崎さんならどうするか、宮崎さんはどうしたいのかを先回りして考えて動く、ということです。

(略)

 ちなみに、宮崎さんの若いころ、東映動画時代には、アニメーターは自分たちの動画の作業が終わると、みんなで仕上の作業を手伝いに行ったそうです。当時は、アニメーターは男性が多く、仕上のスタッフは女性が多いので、そこで和気あいあいと作業するうちに、ロマンスがめばえることもよくあったそうです。ところが、分業化が進んだことで、アニメーターと仕上は、一緒に作業することもなくなり、ロマンスどころか、スケジュール上の敵になってしまったのでした。

 「昔はアニメーターと仕上は仲よしだったのに。分業で、結婚の道はなくなってしまった」

 昔のおおらかな時代のことを、懐かしそうに、宮崎さんが語っているのを何度も聞いたことがあります。

フィオのチェック柄のシャツ

 『紅の豚』で私が印象に残っているのは、フィオが着ていたチェック柄のシャツのことです。「柄がある」というのは、アニメーションにおいて、とてもぜいたくなことなのです。服に柄があると、それだけ線が増えますから、作画も仕上も作業量がぐっと増えます。(略)

 思いあまって宮崎さんに、

 「ラストシーンだけでも、フィオのチェック柄のシャツを、無地の服に着替えさせてもらえませんか」

 と泣き言を言ったら、宮崎さんは即座にこう答えました。

 「ダメ!!フィオのシャツは、花嫁衣装なんだから」

 〈花嫁衣装だったの!?〉

 フィオをめぐってポルコとカーチスが決闘するシーンがありますが、宮崎さんの気持ちとしては、フィオのシャツは花嫁衣装のようなものだったのですね。

大塚伸治の目を見張るセル設計

セルを重ねるほど、下のほうのセルの色が暗くなってしまうので、セル重ねには限度がありましたが、デジタル化によってその制約はなくなりました。

 ただ、宮崎さんや大塚伸治さんのような名人は、制限があってもそれをものともせずに、セル設計やタイムシート操作を巧みにおこなっていました。

(略)

 大塚さんの仕事でとくに印象的だったのは、『もののけ姫』の[タタラ場でのサンとエボシの一騎打ちの]モブシーンの原画です。

(略)

 一番手前のセルは、人と人との隙間をなるべくつくらないようにして、真ん中のセルは、手前の人で隠れるところは大胆に省略し、首から上と足しか描いていませんでした。そして一番下のセルは、なんとなくザワザワさせるための円柱のような図形が描かれているだけでした。要するに、モブシーンというのは手間がかかって大変なのですが、動画マンの作業が最小限で済むように効率よく設計されていたのです。こんな大胆な原画はそれまで見たことがなかったので驚きました。と同時にとてもありがたく、一流のアニメーターの仕事には、絵の表現力に加えて、深い思慮と計算があることに感動しました。

(略)

 『天空の城ラピュタ』で大塚さんが担当したシーンに、ムスカがシータを殴り飛ばすシーンがあります。ヒロインだからと手加減することなく、情け容赦のない殴り方で、ムスカの人となりを見事に表現していてすばらしかったと、宮崎さんが大塚さんの仕事を褒めるのを何度も聞いたことがあります。

 ですから『もののけ姫』で、エボシ御前のシーンを大塚さんに任せたのも、エボシ御前の非情さ、いざとなれば残虐なこともいとわない凄みを表現できるのは大塚さんしかいない、ということだったのだと思います。

「消費者になるな」

[千尋の両親が食べ物をむさぼる]姿を「思いきり醜く描きたい」と言っていたことを覚えています。

 また、「この夫婦は、カードがあれば、なんでも買えると思っているんだ」と

(略)

 宮崎さんは私たちスタッフによく言っていました。

 「自分たちはつくり手であって、消費者になるな」

 「消費者視点で作品をつくってはいけない」(略)

いまの大きな問題というのは、生産者がいなくなって、みんなが消費者でいることだ。それが意欲の低下となって、この社会を覆っている。

 ジブリにおいてもしかり。人を楽しませるために精一杯の力を尽くすより、他人がつくったものを消費することに多くの時間を費やしている。それは自分のような年寄りから見ると、ひじょうに不遜なことである。もっとまじめにつくれ!!全力を挙げてつくれ!!自分のもてるすべてのものをそこに注ぎこめ!!

宮崎駿の思考過程

[ドキュメンタリー『ポニョはこうして生まれた。〜宮崎駿の思考過程〜』で]NHKのディレクターの荒川格さんが宮崎さんから叱られているシーンがあります。(略)

 「ぼくは不機嫌でいたい人間なんです、本来。自分の考えに全部浸っていたいんです。だけど、それじゃならないなと思うから、なるべく笑顔を浮かべている人間なんですよ。(略)この部屋にいるときも、ぼくは海がきれいだなと思って見てない。こうやって不機嫌でいるんだよ。映画はそういう時間につくるんだよ。机に向かっているときは作業だよ」

 見ていると、私も一緒に怒られているような気がして緊張しますが、これこそ私たちが仕事中によく見てきた宮崎さんの姿だなと思うのです。創作者としての生みの苦しみが正直に語られています。

(略)

これ以上の取材はあきらめたほうがいいのではないかと悩む荒川さんに、宮崎さんが鈴木プロデューサーを介して伝えたのが、次のようなメッセージでした。

 「一度怒られたくらいでダメになってしまうんじゃ、こっちが困る。怒られたら、次は30センチ近寄るくらいでやれ!と言いたい」

(略)

 私たちスタッフにも、

 「本当にやりたいことがあるなら、一回や二回、ボツになったくらいで、あきらめるんじゃない。何度でもぶつかってみろ」

 と言っていました。宮崎さんは自分のプレッシャーに屈しない「健全なたくましさ」を、まわりの人に求めていました。

(略)

[とはいえ、状況によって逆のアドバイスの時もある]

 「『この企画が通らなかったら、オレは死ぬ!』なんて言う人がいるけど、ダメなときはダメなんだから、それをちょっと横に置いておいて、次の企画を考えたほうがいいんです」

ハウルの動く城

[宮崎の準備メモには]ハウルのキャラクターがこのように説明されています。

「バーチャルリアリティー(つまり魔法)の中にいて、おしゃれと恋のゲームしかできないハウルは、目的とか、動機が持てない若者の典型ともいえるでしょう」

ジブリならではの動画チェック

「こうしたほうが効率がいいのでは」と思うことを提案して、やらせていただいた結果、仕事の範囲が広がっていきました。

 たとえば「カット出し」(動画マンに担当するカットを振り分けること)は、もともとは制作進行の仕事だったのですが、あるときから私がやらせてもらうようになりました(略)カット出しでいちばん大事なことは、手があいている人をつくらないように、効率よく仕事をまわしていくことです。

 とはいえ、ただ機械的に割り振ればいいわけではなくて、動画マンにはそれぞれ技術力の差や得意不得意がありますから、それをわかった上で適任者に振り分けることがすごく大切になってきます。

(略)

なるべくリスクを避けたり(難しいカットは仕上がりを予測できるベテランにお願いして、比較的簡単なカットは若手や外のスタジオにまわすなど)、事故がおこってしまったときにはダメージコントロールをしたり(誰に頼めばリカバーできるのかを迅速に判断して手配するなど)、といったリスクマネージメントが必要になってくるのです。

(略)

似たようなカットばかりまわってきたら描く人も飽きてしまうでしょうから、苦労したカットのあとは少し楽なカットにしたり、人気のあるカットを「ご褒美」としてあいだにはさんだり、という操作をしていました。(略)

新人や若手には、力がついてきたら、少しずつレベルの高いカットを渡していくようにしていました。上がってきた動画を見れば、その動画マンの上達の具合がわかりますから、それを考慮してまた次のカットを渡すことができました。

 もうひとつ、私が提案してやらせていただいていたことに、外注動画のギャラに、プレミア(割増金)をつけることがありました。モブシーンや面倒な作業が必要なカットの場合に、基本の料金に2倍、3倍の料金を上乗せするシステムを、『紅の豚』のときからはじめました。カットの内容によっては、必死に描いても1日に2、3枚しか進まないこともありますから、そんなときは5〜10倍のプレミアをつけることもありました。

(略)

 そういうわけで、「動画のミスや不出来を見つけて手直しする」という動画チェックの基本的な仕事から少しずつ越境して、動画スタッフ全体を取りまとめるリーダー的な役割を任せていただいていました。

吉田健一

[『マーニー』後、スタッフの再就職指導のなかで『ガンダム Gのレコンギスタ』スタッフ募集でやってきた]

やんちゃだった新人のころから知っているので、堂々と落ち着いて作品の説明をする姿を見て、

 「すっかり立派になって……」

 と、親戚のおばさんのようなまなざしになって説明を聞いていました。

(略)

快活な性格の吉田さんはみんなの人気者で、たくさんいる新人の中でも目立つ存在でした。実力もあって、2期生の中では、安藤雅司さんと並んで出世頭でした。(略)

[説明会のあと雑談で、ジブリ時代を振り返り]

吉田さん本人は、宮崎さんの期待に応えられない自分のふがいなさに苛立ち、プレッシャーで押しつぶされそうになっていたそうです。

 しかも、同期には安藤さんという天才がいました。吉田さんと同じく『紅の豚』で原画になり、さらに20代で『もののけ姫』の作画監督に抜擢された安藤さん(略)があまりにも突出していたので、そばにいると輝きが目立たなくなるというか、もがけばもがくほど自信喪失が加速するようなジレンマがあったそうです。

 「どうしても安藤さんに勝てない自分がいた。ずっと安藤さんの背中を追いかけるような気分だったんです」

(略)

[ジブリらしさとはと問うと]

「動画を大事にすること」という答えが返ってきました。(略)

どこの制作会社でも、人件費の安いアジアの国々に外注を出すことは、もはや当たり前になっています。(略)

 動画は、最終的に画面に見えている絵であり、作品の質感を決定するものですから、大事なのは当たり前なのですが、残念ながら最近の制作の現場では、「原画をトレスして動かすだけの作業」のように軽く見られがちで、単なる労働力として扱われてしまうところがあります。

 たとえるなら、役者と演出を一緒にやっているのが原画マンです。そして、動画マンは、役者の動きと演出の意図をきちんと理解して、自分なりの解釈を加えながらさらに動きを展開していくという、とても繊細なスキルが求められます。そのことをわかっていない現場が増えてきたと、吉田さんは感じるそうです。そしてジブリは、動画マンを職人として尊重する意識や体制を維持しようとしていた会社だったと感じるそうです。

 「動画の線こそアニメーションの生命線」とひそかな衿持をもっている私にとっては、古田さんの言葉は、とても心強く感じました。

(略)

 吉田さんは、こんなことも言っていました。

「いまの若い人は、絵は上手だけど、空間をつくれていない人が多い」

「空間をつくる」というのは、言葉で説明するのが難しいのですが、要するに、キャラクターを描いただけでも、その背後にある空間まで感じられるのがいい絵で、それができる画力がある、ということです。

 「どういう空間をつくりたいのかというビジョンがないと、ただ表層的に線を引いているだけで、絵としての奥行きが立ち上がってこない」

(略)

宮崎さんが昔、原画マンにダメ出しするときによく言っていたことを思い出しました。

 「ろくな人生を送ってこなかったから、こんな絵しか描けないんだ!!」

 そう言って、上がってきたばかりの原画の束を、本人の見ている前で、四隅をわざわざホッチキスでとめて、ごみ箱に投げ捨てるのです。

 いまとなっては、「そんなこともあったね」と笑い話にしていますが、当時、そんなふうに宮崎さんからダメ出しされた原画マンたちにとっては、さぞかしキツい体験だったはずです。

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2017-09-07 哲学においてマルクス主義者であること・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


哲学においてマルクス主義者であること (革命のアルケオロジー 6)

作者: ルイ・アルチュセール, 市田良彦

メーカー/出版社: 航思社

発売日: 2016/07/20

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平面秩序、丸い秩序、境界ならざる境界

ヒュームが自問したように、もし明日太陽が昇らないとしたら、あるいはもし妻が私を見捨てたとしたら

(略)

今や私は、不安な自問などなんでもないと言ってもらえると知っている。存在があろうとなかろうと、なにも変わらない。ヘーゲルが私たちに、存在は無意味だとみごとに説明してくれている。(略)

保証されていると知って、なにか変わるのか。かくあるのであって、他のようではないと知って、生活や信念や隷属状態のなにが変わるのか。知ってもなお空虚のなかにいることに変わりがあるのか。生活のなにかを変えようとする試みを前にして、なお空虚のなかにいることに変わりがあるのか。

 したがって、存在とは大文字の秩序であり、ものごとを秩序づけて存在のなかに定員することである。ものごとを存在に規定され、導かれるようにすることである。もちろん、大文字の秩序は存在の全能性に照らして無限に多様でありうる。

 秩序は歩道のように、デカルト的空間のように、ボース地方の平原のように、無限に平らであることもある。ご承知のように、デカルトは森がすでに地上を被わない時代にあっても一貫してこう説いている。森のなかで迷った人間は、どの方向にでもよいからとにかくまっすぐ歩いていけばよい。そうすれば必ず、見晴らしのよい平原に出られる。田園の散歩には、あるいは捕虜の脱走には、なんと好都合な平面秩序か!

 しかし秩序は丸いこともある。カントはそれに気づいていた。しかし彼は、地球の丸さだけからそこに思いいたったわけではない。私有地ゆえである。彼はこう述べた。地球は丸く、隣の土地に接して自分の土地をもつ所有者たちは、いつか必ず地球の反対側の土地所有者たちと隣人になる、それで終わりだ!私有地を無限に拡大していくことはできないのである。アメリカ流「フロンティアの終わり」である。完全に自由な事業はなくなる。物理的な特性と妥協しなければならない。社会契約がそれを思い出させる。とはいえカントがこの丸い秩序以外にも着想源をもっていたことを忘れてはならない。彼は頭上に広がる天と、心のなかにある道徳法則のことも考慮に入れていた。言ってみれば要するに、丸い秩序は上となかに補完されているのである。それら三者の関係をカントは生涯にわたって追求し、『判断力批判』において見つけたと考えた。ハイデッガーも彼なりの仕方でその考えを是認した。しかしカントのまえにはルソーがいた。ルソーのあとにはヘーゲルがいた。彼らもまた、違った意味で興味深い。

 ルソーももちろん、地球が丸いことを知っていた。しかし彼は、起源においては、つまり「最初の自然状態」の時代には、地球はデカルトの意見とは異なり、完全に森に覆われていたと考えた。(略)

「最初の自然状態」の人間は、そこが森だとは知らずに森のなかを彷徨っているのである。木々以外にはなにも目にしたことがなく、そんなことはできず、とりわけ満天下の平原など知りもせず、誰に会うこともない。この人間には森から出るチャンスがまったくないのである。これがルソーの見解である。(略)この種の偶発事(大陸の水没、島の隆起など)により変わったのである。それが人間をみごとで快適な痴呆状態から抜け出させた。そこからは季節も生まれたので、人間は労働に従事し、森を開墾して穀物を作らなくてはいけないようになった。弁証法がはじまったのである。しかしそのとき少なくとも、なぜデカルトが森をまっすぐに横切る人間の話を我々に語ったのかが分かる。森が、開墾地に囲まれるようになったからである。また当然のことながら、ものごとはカントが語ったような運びを、かたちを若干修正されてするようになった。地球は丸い、それは私有地のせいである、土地は私有されている、それは地球が丸いせいである。ここでも互い秩序である。ただし今度は、丸い秩序が血なまぐさい無秩序に基礎を置いているという違いがある。丸い秩序が地球を限定された私有地に分割し、私有地の価値がいくらでも跳ね上がりうるのである。

(略)

秩序のなかのなんたる無秩序!平たくても丸くてもいいが、秩序の肯定とは目眩ましではないのかと問うべきだろう。この秩序が実在すると信じさせ(略)、秩序が支配すべく秩序は実在しているはずだと信じさせるための目眩ましではないのか。(略)

しかし、読者諸氏がこのデカルト的な小道に、それがどこかに通じている(ハイデッガーの杣道とは違う!)からという理由で分け入るときには、バックラッシュに用心なされるがいい。あなた方からは若干、異端の臭いがしすぎている。その道はスワン家のほうにではなく、マルクスのほうに通じているのだ。

 ヘーゲルにおいては、ことはよりラディカルである。秩序は丸い、そこに問題はない。すべては円であり、すべては様々な円からなる円であり、無限にそうである。より正確に言えば、カントやルソーの丸い秩序と、まったくカーブがなく高低をもつ――カント的な垂直的二元論における星空と道徳法則――別次元の秩序とのあいだに、もはや矛盾がないのである。ヘーゲルは一貫している。内部に入るや、円または圈の丸さから外部に出ることはできない。あなたは世界のなかにいる?世界に空を加えたい?よろしい。あなたは屋根の上の天によって丸くなっている丸い世界のなかにいる。この世界はまた、あなたの胎内にある――なにしろあなたのなかにあるのだから――道徳法則によっても丸くなっている。人はつまり絶対的な圈のなかにいるのである。どうやってそこから出るのか。出ることは不可能である。とにかく、そとに出るという問題には意味がない。可能ではないのだから。(略)

人はいるところにいるのであって、よそにいるのではない。格子、壁、境界線、鉄条網、標識により。標識の向こうには平原がある、と、すべての囚人たちは脱走しなくとも知っている。敷石の下には砂浜がある、と、六八年五月の夢見る反乱者たちは言った。違う、とヘーゲルは言う。境界線の向こうにはなにもないのだ。理由は単純である。境界線はないのである。そうでなければ、カントの愚かさにまた陥ってしまう。森のデカルト同様、境界のカテゴリーのなかで考えることをやめなかったカントの愚かさに。(略)

民衆的知恵はあけすけに語っている。「境界線を越えてしまえば、もう標識はない」。国家、教会、政治党派、組合、家族のあらゆるリーダーに見られる口ぶりである。しかしそのどれでもなかったカント、しかし世俗的責任にことのほか敏感であったカントには、聞き逃せない問題であった。彼はよい例を挙げている。血の代償を払うことになった例である。フランスのテロルだ。ヘーゲルがテロルに賛成だったというわけではないが、論理の味方であった彼にはこう指摘する力があった。境界はない。そうでなければ無分別さにも限界がない。境界がないとすれば、それはまず、人はカントが望んだように有限のなかにいるのではなく、無限のなかにいるということである。次に、そとはそとにあるのではなく、内にある、ということである。汝自身のなか、有限−無限の人間のなかに、汝の境界を探し、見つけだせ。境界は汝の内にしかない。内があるゆえにそとがないとすれば、すべては言われている。

 すべてとはいえ、ヘーゲル以来の哲学全体に取り憑いている次の問いだけは別である。そとも境界もないとすれば、なぜいまだに境界の話を続けるのか。円の円について、丸い秩序について、なぜいまだに語っているのか。

 したがって、丸い秩序、カーブを境界とする秩序と、非−外部、カーブと境界の不在の両方を同時に考える容易ならざる方法を見つけねばならない。要するに境界ならざる境界、そとをもたない円としての円である。またしてもルソーのことが思い浮かぶ。海のなかから出現する島々、他の土地には寄りかからない島々のことが。

(略)

 そう、ハイデッガーはこの問いについて彼なりの考えをもっている。(略)

境界は宗教的、形而上学的、精神分析的、マルクス主義的(ぽかっ!)な問いであり、そんな話は聞きたくもない。俺たちは事実に興味をもつ。事実はかくあるのであって、他のようではない(ご存じの言い方である)。(略)

[ハイデッガーは]カードを切り直し、境界を消去し、それを自分の手前と向こうに追いやって、窮地を切り技ける。その結果は、ほとんど解読不可能な言語である。どうか明快に語っていただきたい!要するに、自分でもそれを認めているのだが、彼は内部のぬかるみにはまっている。公平な態度を取らず、根底ではよき唯心論者のまま、存在に存在者に対する優位をもたせている。私には不幸にして、彼の思想について短い言葉でこれ以上明快に語ることができない。この思想は、わけが分からないから深遠だという評判を託っている。私としては、そのすべてを明快に理解した人物の話にすぐに移りたい。彼は問いを暫定的に解いた。それも、分かる言葉で。私の友人、ジャック・デリダのことである。

 デリダは非常に説得的な仕方で、境界ならぬ境界の問いに対する答えは余白に求めなくてはならない、と示した。余白とはなにか、誰でも知っている。この頁にもある。充満した空間の隣にある空虚な空間である。充満は空虚なしにありえず、その逆もなりたつと考えるべきだろう。たしかに二つの空間のあいだに境界が想定されているが、この境界は秩序ならぬ境界であり、いかなる場合も秩序には依存しない。というのも、余白は変化させることができ、それを変えれば境界も変わるからである。(略)

この「遊び」は「遊び」でありながら、すべてを変える。それは自由であり、課されてはおらず、秩序全体から自らと我々を解放する。秩序が平らであろうと丸であろうと、一元論的であろうと二元論的であろうと、あるいは捩れていようと。かくてこの余白は、我々の絶望に耐えたあと、我々の希望を身に帯びはじめる。

唯物論の道、神からはじめるとは

 とはいえカント以前に、悪魔的に巧みな用心をして、一人の男が別の道を進んだ。唯物論の道である。スピノザである。スピノザはまったく単純に神からはじめる。「他の者は思考からはじめたり(デカルト)、存在からはじめたり(聖トマス)する」。彼は神からはじめる。これは歴史のなかにほとんど類例を見ない、前代未聞の大胆なやり方であった。というのも、神からはじめるとは、起源と目的の両方からはじめるということである。続く彼の思考から見たときには、哲学におけるあらゆる観念論を構成するこの対を入念に括弧に入れることであった。神からはじめるとは、同時に、世界には神しか存在しないと述べることでもある。それは、神学者全員の鼻先で、すべてとして存在するとすれば神はどこにも存在しない、ゆえに存在しない、と述べることに帰着する。神学者たちはそれをよく分かっていた。しかしスピノザは神を必要ともしていた。すべての可能な属性(数のうえで無限な)を備えさせるためにである。それらの属性は神に固有の本質を表現し、神に固有の本質と一体化している。神の本質と混じり合って、神の本質と絶対的に見分けがつかない。つまり、石であろうが犬であろうが人間であろうが、あらゆる特個的主体の特異な力能を前もって説明するために、彼は神を必要としていたのである。そこでもまた、ものごとは構造なしではやっていけない。属性が無限であるとすれば(人間はそのうち二つのみ知っている。延長――物質――と思惟である)、神から有限様態である(様態とは、属性の変異、様相である)特個的個体に進むには、媒介が必要である。スピノザにとり、それが無限様態であった(例えば、幾何学の空間、知性)。それらの全体としての結合態が、スピノザが奇妙な語で呼ぶ編成を生みだす。(略)

全体宇宙の形象。一方において物体の全体、他方において精神の全体を統制する、おそらくもっとも一般的な法則である。

 この考え方においては明らかに、主体と対象の区別は飛んでしまう。権利の問い、真理の問い、真理基準の問いも飛んでしまう。つまり認識の理論が原理からして消えてしまう。代わりに座を占めるのは、「三種の認識」をめぐる奇妙な理論である。事実として与えられ、いかなる権利の問いからも切り離された理論である。そこで語られる第一種の認識とは想像力であるが、スピノザの告げるところでは、想像力を捉えるには能力のカテゴリーを捨てねばならない。第一種の認識つまり偽の能力とはむしろ、一つの世界を指している。直接的世界である。スピノザはイデオロギーの世界とは言わないが、『神学政治論』を読むかぎり、そうみなしてもよい。同書において、想像的なものとはあらゆる人々が知覚し、信じているものである。あらゆる人々には、想像的なものの前哨である預言者も含まれる。神の告げることを理解せずに聞く人、理解しなくても真実を聞く人である。想像力の奇妙なところは、真実の一片を含んでいることである。部分的な真実、非十全な真実。それが十全な真実へと進んでいく。まったき姿で現れ、一切隠されない第二種の認識である。そこにおいて真実は共通真理というあり方をし、科学と哲学がそのなかで仕事をする。

 しかし、主体はどうなっているのかと問われるだろう。主体は第一種の認識において想像的である。第二種の共通真理においては、主体はおそらく認識されているが、その認識は抽象的である。スピノザは主体の認識にかんして驚きを用意している。第三種の認識である。それは、まさに特個的本質の認識を与えるというのである。

(略)

スピノザにとっては逆風の吹く時代であったことを知らねばならない。彼はすべてを公然と語ることができなかったのである。

 事情はとにかく、この驚くべき理論構成には唯物論を思わせるところがあると主張してよいだろう。とりわけ、批判的かつ否定的なやり方をする唯物論については疑いの余地がない。マルクス以前の哲学者には超えることができなかったやり方である。しかしスピノザの哲学には唯物論的な拒否以上のものがある(略)

例えば、属性の無限性という観念は将来の発見に大きく扉を開いている(当時はまだ、代数学、幾何学、解析学、物理学ぐらいしか真の認識ははじまっていなかった。歴史の理論はまだ彷徨っていた)。既知の二つの属性についての認識(数学と物理学)のかたわらで、『神学政治論』のスピノザは、二つだけ例を挙げれば、すでに歴史の大陸を開拓しているばかりか、形式的には、もう一つ別の大陸の扉を開いている。形式的には、という点を強調しておきたい。歴史の大陸のなかではマルクスがその後決然と前進していった。扉が開かれただけの大陸には、フロイトがその後足を踏み入れることになるだろう。

(略)

最後に例えば、因果性をめぐる強力な観念である。結果において働き、結果のなかにしか実在しない因果性である。マルクスがやがて取り上げ直すことになる観念を、遠くから告げている。関係を関係として構成する諸要素に、その関係が原因として作用する因果性(生産関係を想起せよ)、諸要素に対し構造が原因として作用する因果性(構造的因果性)の観念である。もちろん、スピノザには彼の天才的直観に意味を与えてくれるはずの弁証法の観念が欠けていた。しかしその問いにほんとうの意味で答えることになるのは、ヘーゲルではなかった。スピノザにおいて沈黙したままになっている問いに答えたのは、スピノザをその点で正しく非難したヘーゲル、問いを立てただけのヘーゲルではなく、マルクスであった。

 とはいえヘーゲルはスピノザの最良の部分を受け継いだように見える。あらゆる認識の理論に対する批判、権利に対する批判、法的・道徳的・政治的主体に対する批判、社会契約に対する批判、道徳性に対する批判、道徳の補遺としての宗教に対する批判である。それによりヘーゲルは、スピノザがデカルトを批判したように、カントを批判することができた。二つの批判はほとんど正確に同じ仕方で行われている。おまけに、ヘーゲルは哲学のなかに、スピノザに欠けていた当のもの、弁証法あるいは「否定的なものの労働」を導入した。それによってはじめて、世界に実在するそれぞれの特個的存在は、「この主体であって他の主体ではないもの」として固定されうるようになった。特個的個体性の形式を問わずに、である(知覚された世界の変異であっても、個人的意識の形象であっても、歴史的個体性であっても、その歴史が一人の人間の歴史であっても一つの民族の歴史であっても)。さらに、存在をめぐる観念論的な問い、空虚な問いが、別様に立てられることによってようやく答えを受け取ったように見える。しかしなんたることか、我らが哲学者は観念論を一掃せず、閉じ込めただけであった……弁証法そのもののなかに。

 というのもヘーゲルにおいては、古いアリストテレス的な思考すなわち、終わり、目的による決定、目的論が完全に作用しているのである。満天下にそう告げられている。それぞれの存在は自らのうちに本質をもつのではなく、自らの終わりに本質が成就されるのを目撃する。この終わりは当の存在とは異なる存在である。存在の発展であり、存在の本質をその存在に代わって実現する。存在は、最初は「即自的」にすぎなかったのに「対自的」になる、とされる。このようにして、ヘーゲルは物質的・知的・社会的本性の目的論的秩序を再建する。そこではすべての存在が、世界の目的=終わりによって指定された場所/本質を、占め/所有する。本質は場所に対し割り振られ、存在が目的=終わりに到達するまでのあいだ、存在の真理として過渡的媒介の役目を果たす。世界の目的=終わりは世界の精神であり、ものごとの歩みをそのはじまりから統制している。統制は歴史に「無駄な費用」があっても働いており、その「無駄な費用」もまた統制の一部である。資本主義的生産のよき理論家として、ヘーゲルはためらうことなくそんな費用を承認し、計算しようとした。「雨はなぜ砂地に、街道に、海に降り注ぐのか」とマルブランシュは訝しんだが(略)

ヘーゲルは、そうした歴史のゴミまで引き受け、それらはなにも生産しなくとも生産に必要なのだと語る。悪や戦争とともに、そんな無も肯定的弁証法のなかには入り込む。神学者の目にスキャンダルと映るものすべてが、入り込む。[脚註7]

 しかし会計係は必要である。それが彼、ヘーゲルであり、神ではない。神は哲学の人員名簿から抹消されており、会計を担うのはヘーゲルである。つまり、すべてを知る人、絶対知をもつ人というアリストテレス的哲学者像が復活しているのである。ヘーゲルが誰よりも勇気をもってその名を口にする。哲学者ないし絶対知の所有者は、神ではなく、神の意識である。君主ではなく、君主の意識である。君主とは地上における神の形象にすぎない。そうしたことがフランス革命下において、また復古王政下において生起した。出来事と反省に溢れた時代であり、ヘーゲルはそこから、歴史は終わったという教訓を引き出した。権力を手にしたばかりのブルジョワジーは、自身が永遠であると信じているではないか。歴史が終わると、概念は概念の形式で具体的に実在することになる。言い換えの必要な謎めいた表現であろう。真理がとうとう人間にまじって暮らすようになるのである。あらゆる人間がどこかの国家の自由で、自由かつ平等な市民であり、彼らは真っ正直であり、語るときにはけっして嘘を言わない。そのことは彼らの顔に明らかであり、隠そうとしても、よき警察が彼らに語らせるであろう。ブランシュヴィック以来知られていることだが、警官とは「理性の代表者」なのである。ブランシュヴィックは不幸にして、警官から逃げなくてはならなくなるまえに、そう述べている。

 歴史が終わったという主張は、誤解されてきた。それは時間が停止したという意味ではなく、政治的出来事の時代が過ぎたという意味である。もはやなにも起こらないであろう。あなたは家に帰って自分の仕事をしていればいい。仕事とは「金持ちになる」ことだ。なにごともうまく行くだろう。あなたの所有権が保証されているのだから。保証をめぐる歴史全体、保証を求める長く苦しみに満ちた概念史は、馬鹿馬鹿しくも、私的所有権を保証して終わるわけである。それと同時に、ものごとの特性、諸特性、事物と各人の固有性の保証を求めてきた長い歴史もまた、同じように終わる。主体がつねに清潔な手をしていて、悪しき主体ではない保証を求めてきた歴史である。今や、主体が悪しき主体であるときには、法廷があり、彼らを迎え入れ、再教育する癲狂院がある。誰もが静かに眠っていられる。正直な人は自分の家で、泥棒は刑務所で、狂人は病院で。理性国家が彼らを見張っている。この国家は、グラムシが某人の表現を借りて述べたように「夜警」である。昼間、国家は姿を消す。市民が見張ってくれるので。すばらしきエコノミーだ。ブルジョワジー的搾取エコノミーである。絶世の美女のように、ブルジョワジーは自分がもっているものしか与えない。それだけで十分である。

[脚註]

*7 ヘーゲル『歴史哲学講義』、「悪意を含め、世界に存在する悪一般が認識されねばならないだろう。思惟する精神は否定的なものと和解しなければならない。(略)世界史から引き出せる絶対的教訓は、そうした和解的認識である」。「諸民族の幸福、国家の英知、個人の徳が引き立てられ、犠牲に供される屠殺場が歴史なのだと思えるようなときでも、もっとも恐ろしい犠牲はいったい誰のため、どんな最終目的のためなのか、という問いが思惟には必然的に生まれる」。

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2017-09-05 哲学においてマルクス主義者であること アルチュセール このエントリーを含むブックマーク


哲学においてマルクス主義者であること (革命のアルケオロジー 6)

作者: ルイ・アルチュセール, 市田良彦

メーカー/出版社: 航思社

発売日: 2016/07/20

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哲学者たちの集い

 カントは動揺していた。一座はざわめいた。というのも、レーニンが支持した以上、闘いは最終的にレーニンのものだ。「君は書いてるじゃないか。哲学者はブルジョワジーの下僕だ、と」。これはまた違った意味で深刻な問題だった。というのも、ヴォルフとカントのあいだでは、ことは最終的に道徳問題にとどまっていたけれども、レーニンにとっては政治問題だったからである。おまけに社会階級が記憶か忘却の地平に現れると、様々な情念が解き放たれてしまう。しかし人々が信じるのとは反対に、レーニンは孤立していなかった。大マキァヴェッリの登場である。歴史は彼に、真実を述べた廉で呪いの言葉を浴びせてきた。その彼が下層民を擁護して、その場の誰にというわけではないが、権力が階級闘争以外のものに依拠していると証明してみよ、と挑発したのである。するとホッブズも発言し、自分は誰からも忌み嫌われてきたが、それは『リヴァイアサン』でブルジョワ独裁の理論を作ろうとしたからである、と述べる。次はスピノザの番である。魚は共食いをする。いちばん大きい魚がまずそうする。悲しみの情念に支配された人間もまた、一種の魚であろう。マキァヴェッリとホッブズという先人のおかげでものの分かったスピノザは、単刀直入に言う。「同類を嫌うのはつねに同類であるということに、みなさんはお気づきでないのでしょうか。哲学においても同じでしょう。はじめるのはいつも同類です。憎しみのなかで語っているのは政治です。有力者と金持ちたちに対する憎しみです」。ルソーも発言した。彼もまた好ましからざる人である。社会の起源に言及する。さらに、金持ちが貧乏人にサインさせて、貧乏人を服従させる詐欺的契約の話をする。「哲学者はなにをしているのか。彼らは権力の司祭だ」。ヘーゲルがようやく口を開き、指摘した。当然のことながら『法哲学の原理』を引き合いにだす。ご存じかね、富の膨大な蓄積には、貧困の蓄積がともなうのだよ。

大衆的哲学

カント自身、三批判書においてテーゼを厳密に提示する形式を選んだあと、大衆的哲学というジャンルを試みた。しかし首尾よく行かず、哲学は大衆的叙述に対し特殊な抵抗を示すと結論づけることになるだろう。

(略)

脚註*3 カント『人倫の形而上学の基礎づけ』、「まず純粋理性の原理にまで首尾よく上りつめたなら、その後、大衆的概念に下りてくることも文句なしに称賛に値する。そのように進めるということは、まず教義を打ち立て(略)次に、その打ち固められた教義を通俗化して手が届くようにする、ということだ。(略)

思考の深さをすべて諦めさえすれば、人間にとって共通のものを理解してもらうことになんの困難もない。しかしそのときには、雑然とした観察と半ば筋道だった原理が綯い交ぜになった反発を生む。空っぽの頭の持ち主どもがそれを餌食にする。なぜなら、そこには日々のおしゃべりのたねになるものがあるからだ。洞察力のある人々には混乱しか見いだせないだろうが。

再び、哲学は無からはじまる

 哲学が絶対的はじまりをもつことを要求する伝統に真っ向から対立して、哲学は絶対的はじまりをもたない、したがってなにからはじまってもよいし、なにからでもはじめるべきでさえある、と宣言するもう一つの伝統がある。

 それがヘーゲルの哲学原理である。それは任意のものから出発して哲学しはじめ、究極的には、『大論理学』のはじまりに見て取れるように、もっとも漠然としてもっとも空虚な観念である存在からはじめている。存在はヘーゲルの示すところでは、無媒介に無と一致することを自ら明らかにする。存在はなにものでもない。つまり哲学においては、虚無から、無からはじめることができるし、はじめなくてはならない。ヘーゲルは同じ操作を『精神現象学』において繰り返している。彼はそこで、私に現前するもの、私が知覚するもの、なんでもよいもの、「これ」、私が今ここで見ている「これ」からはじめている。その上でヘーゲルは、そのように今ここで知覚されるものは抽象的一般性にすぎないことを証明していく。それはなんでもよいのだから、なんでもない、というわけだ。再び、哲学は無からはじまる。この考え方を、レーニンは『哲学ノート』で取り上げている。ヘーゲルを注釈しつつ、レーニンは書いている。なんでもよいもの、一粒の砂、一枚の葉、一つの商品、要するに「もっとも単純なもの」が哲学全体と弁証法全体を含んでいる。すなわち全世界の最終的真理を少なくとも潜在的に含んでいる。レーニンはそこから、『資本論』におけるマルクスの叙述様式について、私の考えでは間違った結論を引き出している。

(略)

マルクスに戻って言えば、またより一般的に唯物論哲学について言えば(略)この哲学のもっとも深い要請もまたなんでもよいものからはじめることであるものの、そこにプラスアルファの要請が加わっている点が目を引くからである。なんでもよいものが、動いていなければならないのだ。対比としてこう言ってよいだろう。他の哲学は始発駅で列車に乗る。そこで乗り込み、終点に着くまで乗っている。ところが唯物論哲学はつねに、走っている列車に乗るのである。

 譬え話のようなこの対比は、深い哲学的意味をもっている。というのもそれは、他の哲学にとって哲学のはじまりは実際には見かけだけのはじまりにすぎない、と言っているからである。絶対的とされるはじまり(コギト、感覚的なもの、理念、等々)は、それに先行するカテゴリー体系のなかにあらかじめすでに書き込まれているのである。

デカルトの機械論

哲学は実際、少なくとも観念論哲学の場合、科学について哲学することがこのうえなく好きである。そして、それほど情熱を傾ける理由を、科学の対象は有限ではなく無限であるという幻想に見いだしている。これが具体的に意味するのは、観念論は科学から――科学の理論、概念、結果から――実在する対象全体に例外なく自らを広げる野望を汲みだす、ということである。この野望がはじめて表明されたのが17世紀初頭、物理学者ガリレオによってであったという点を見ておく必要があるだろう。彼は「自然の大いなる書物は数学の記号で書かれている」と書いた。デカルトはこのテーゼを反復し、そこに、あらゆる現実にかんする一般機械論の形式を与えた。すなわち、あらゆるものは部分に分割できるように作られているというのである。(略)

周知のように、デカルトはそこから動物機械の理論を引き出した。当時作られていた自動機械をイメージしながらである。彼はさらに、機械論を一般化させれば医学と道徳にかんする決定的な帰結が生みだせると期待していた。道徳は彼の目には医学の一分野であった。これらのことはこの哲学者の想像力を語って余りあるだろう。ライプニッツはこの想像力を批判して、デカルトの物理学は「小説」であると言ったが、その同じライプニッツもデカルトの機械論に、神々しい形式主義によって尾ヒレをつけた。精神を、デカルトの「考える魂」よりはるかに完成されたなにかに仕立てたのである。ライプニッツの定義によれば、精神が「自動機械」のようなものである。

「すべて」とは

 ではこの「すべて」とはなにでありうるのか。観念論哲学にとっては(略)「すべて」とは存在する現実の総体である。世界、私、神、そして哲学のために付け加えれば、哲学自身である。(略)

「すべて」が無限であれば、このテーゼは観念論哲学に大きな困難を突きつける。我々の「生、言葉、運動」(聖パウロ)の場であるこの世界は、明らかに有限だからである。そこで観念論哲学には、無限〈存在〉と有限存在のあいだの媒介を考えだす必要が生まれる。有限のなかに無限を化肉させる媒介である。これは絶対的な理論的必要性であり、例えばプラトンにおいてはデミウルゴスの理論がそれに応え、デカルトにおいては創造の理論がそれに応える。永遠の真理の創造を含む創造である。一般的には、キリスト教系哲学者においては、化肉の理論がそれに応える。この理論は、無限を有限そのもののなかに(キリストとその後継代理人たちのなかに)実在させるという利点を示す。ヘーゲルの場合は少し違う。彼の認めるところでは、無限とは有限の有限自身に対する反省にほかならず、彼の哲学はこの反省の高次の例である。本質的な点で同じテーゼをハイデッガーに見いだすことができる。〔彼においては〕存在と存在者の差異が無限(あるいは定義不可能、言表不可能)と有限(あるいは定義可能、言表可能)の媒介役を果たすのである。けっして除去できず、つねに連れ戻されてくる同じ困難は、死にかんしても認められる。観念論的思考はそこに根づくのである(プラトンからカントを経てハイデッガーにいたる)。

(略)

いずれにしても次の点を記億にとどめられたい。観念論哲学はすべてにかんする真理を述べると言い張らずには存在しえないのである。すべてが無限であるとき、観念論哲学がいかなる帰結に晒されるのかは見た。すべてが有限であれば(あるいは、無限を統制する無限精神によって思考可能な無限であれば。ライプニッツの神のように。無限精神は無限を統制することにより、無限を実質的に計算可能にする)、また別の出口が目前にある。哲学によって思考されるすべてが有限であれば、そのときすべては数えられるのである。すべての結合関係は証明され、解析され、開陳されることができる。すべては徹底的に部分に分割されることができ、それにより分類されることができる。

 我々はここで、観念論哲学のもう一つの大きな伝統を再発見している。形式主義的ないし分類学的伝統と言っていい伝統である(略)。分類による支配への偏執は長い歴史をもっている。二による分割つまり二分法のプラトン的手続き(略)以来、アリストテレスの分類(略)、デカルトの区別、ライプニッツの普遍記号法、それが開始した形式主義の伝統すべて(略)を経て、レヴィ=ストロース流の構造主義的分類学にいたる歴史である。

(略)

しかしまたしても詐術がある。自己流哲学の歓喜に酔ったレヴィ=ストロースが「秩序の秩序」と呼ぶものを構成しようとする哲学的野心である。そして、副次的秩序すべてを包括して、自分は自分が設定する秩序のなかに包括される秩序。より巧妙な詐術――ライプニッツの普遍記号法の夢に遡る――は、この秩序が独りでに秩序づけられ、独りでに配置され、さらにそれぞれの存在に場所と機能を割り振った結果、秩序が支配を保証される、とするところにある。

 唯物論の見かけ(主体なき過程)をもったこの視座のなかでは、機能主義と構造主義の双子の野心が結合している。

スピノザ、ヘーゲル、マルクス

 歴史的には、認識とその対象の差異を保存しながら無化するために、もう一つ別の驚嘆すべき理論が提出されたことがある。スピノザの平行論である。スピノザにとって、あらゆる現実は唯一の実体により構成されている。神すなわち自然であり(逆説的なことに、神はスピノザにとって、神から発する自然と同じものである。敵である神を自分の陣営に取り込むとはなんという政治的巧妙さ!)、それは無限個の属性をもっている

(略)

 ヘーゲルにも似たものが見いだせるが、ヘーゲルはスピノザをもっとも偉大な哲学者だと考えていた。実際、ヘーゲルには認識の理論がなく、スピノザにおける認識の種類に相当する意識の「形象」があるだけである。また、スピノザにおけるのと同じように、認識(意識)とその対象のあいだの差異の承認と、その差異を無化すべしという要請の両方が見られる。無化はある労働全体、「否定的なものの労働」の結果である。この労働は弁証法に第一の役割を与えており、同時に哲学史においてはじめて、弁証法を形式的にではあれ労働として定義している。

(略)

ヘーゲルにおいては、連続する各段階は先行する段階の「真理」である。それが意味するのは、先行する段階はすでに「即自的に」後続の段階を含んでおり、後続の段階は先行する段階が「即自的に」そうであったものに「対自的」になる、ということである。

 差異を無化するこのやり方は安易であると認識すべきだ。端的に同語反復的であり、あらゆる結果はあらかじめ前提ないし原因のなかに含まれており、つまるところ差異の認知は偽装(またしても!)にすぎない。実はすでに永遠の昔から無化されていたのに、提出するふりをするのである。それゆえ、ヘーゲル哲学のなかではまったくなにも起きないと言える。起きているのは弁証法と呼ばれる形式変化のみである。弁証法とは形式や形象の変化の論理にすぎないのに、ヘーゲルはそれを絶対的論理とみなし、それについての科学を書いた(『大論理学』)。理性の、共通論理の、汝と我の弁証法である。科学は悟性論理のレベルに格下げされ、そこに隔離されて抽象化される。つまり、ヘーゲルにはスピノザより大胆で一貫した試みがあるように見えるものの、実際にはスピノザ以前に後退しているのである。科学の「労働」を捉える仕方、対象とその認識の差異を捉える仕方にかんしてである。この捉え方は世界の宗教的把握へと我々を連れ戻す。すべてを摂理、神の計画と目的に依存させ、これから生起するであろうことの認識をアプリオリに神に委ねる。そんなことができるのは、世界を作ったのが神だからであり、世界においては神がすべてをなしているからである。人間に事物を認識させているのも神である。距離も差異もない適合としての認識、いかなる労働も必要としない認識、労苦もリスクももたらさない認識。

(略)

 差異の捨象(スピノザ)にも弁証法的労働の目的論(ヘーゲル)にも振れない首尾一貫した捉え方に達するには、マルクス主義的唯物論を待たねばならなかった。

(略)

 彼はあらゆる権利問題を(たんなる沈黙により)退けることからはじめる。観念論的な認識の理論を認識の理論へと構成する問題を、である。スピノザがなんの注釈も付さずに「我々は真なる観念をもっている」(数学の観念)と記し、《homo cogita》と断じたように(「人間は考える」。これが彼をデカルトの「我思う、ゆえに我あり」から決定的に分かつ。スピノザは人間が考えるという事実から、存在にかんしてはなにも引き出さない。カントが彼の批判的省察の全体を要約して「理性の行い=事実」を語ったように。彼らと同じように、マルクスは認識が存在するという事実について語る。科学的である認識もそうでない認識も、彼にはまず事実として存在する。事実から出発するとは(スピノザにおいてもマルクスにおいても)、むろん、権利問題(様々な能力が与えられた人間は、なにを認識することができるのか)を拒否することである。

(略)

それを退けることにかんしては、マルクスには曖昧にしてはならない信念がある。事実の優位と権利の派生的性格を承認するのである。事実にかんしてあらかじめ法的問題を立てる可能性を捨てるのだ。事実の真理性についてさえ。

 否定的ではあるが非常に肯定的なこの基礎のうえで、マルクス主義的な唯物論理論は展開される。

ガリレオ、デカルト、カント

デカルト[*14]はガリレオに対し、はっきりした観念をもたずに自然を迎えに行くと非難した。言い換えると、デカルトは〔ガリレオとは〕また別の観念を自然に対し抱いていた。ライプニッツが「小説」だと言って非難した観念である。カント[*15]は反対にガリレオを、自然に対しよき観念をもっていると称えた。その観念から引き出された問いを自然にぶつけ、検証した、と。とにかくそのようにしてあらゆる科学は進む。

(略)

*14 デカルト「(略)ガリレオはたえず脱線し続ける。立ち止まって一つのテーマを完全に説明するということがない。つまり彼はそれらを秩序立てて検証することをまったくしなかったのである。彼は自然の第一原因の数々を考察することなく、ただいくつかの個別の結果についてその理由を探ったにすぎない。かくて彼は基礎工事なしに建築した」。

*15 カント(略)「ガリレオが傾いた平面のうえで彼の天球儀をしだいに早く、彼の意志が決める重力に合わせて回転させたとき(略)それはあらゆる物理学者にとって光明となる啓示であった」。

次回に続く。

2017-09-03 ジョブ理論 イノベーションを予測可能にする消費のメカニズム このエントリーを含むブックマーク


ジョブ理論

イノベーションを予測可能にする消費のメカニズム

作者: クレイトン・M・クリステンセン他

メーカー/出版社: ハーパーコリンズ・ ジャパン

発売日: 2017/08/01

|本| Amazon.co.jp

どうすればミルクシェイクがもっと売れるか

[値段?量?固さ?濃さ?と顧客回答をフィードバックしてみたが売れ行きに変化はない。そこで観点を転換、どんなジョブ(用事、仕事)で客が買っているか調査]

 観察してわかったのは、午前9時まえにひとりでやってきた客に売れるミルクシェイクが驚くほど多かったことだ。購入客のはとんどがミルクシェイクだけを買い、店内では飲まず、車で走り去っていた。(略)

[客を呼び止め、どういう目的(ジョブ)で買ったか訊ねると]

早朝の顧客は誰もが同じジョブを抱えていたということだった――「仕事先まで、長く退屈な運転をしなければならない」。だから、通勤時間に気を紛らわせるものがほしい。しかも、いまはまだ腹はすいていないが、あと1、2時間もすれば、そうなることがわかっている。(略)

ある客は言った。「ときにはバナナを食べますよ。だけどバナナじゃだめなんだなあ。すぐに食べ終えてしまうから。で、結局、また腹が減ることになる」。ドーナツはくずが落ちるし、手が油でべとべとして、運転中に服やハンドルをよごしてしまう。ベーグルはぱさぱさしていて味がないし、チーズやジャムを塗ろうと思ったら膝で運転しなければならなくなる。また別の客はこう言った。「スニッカーズにしたこともあったんだけど、朝食に甘いお菓子なんてなんだかうしろめたくて……一度でやめたわ」。でもミルクシェイクなら?ミルクシェイクはたくさんのライバルを蹴落としトップに輝いた。どろりとしたミルクシェイクを細いストローで飲み終わるまでには長い時間がかかる。朝食と昼食のあいだにふいに感じる空腹をかわすのに充分な量がある。通勤途中のある客は、「そう、ミルクシェイクだ。濃いからさ!ストローだと20分ぐらいかかる。中身がどうとか、知ったことじゃない――おれはね。昼飯まで腹がもてばいいんだ。車のカップホルダーにもぴったりだし」

(略)

彼らに共通するのはただ(略)「朝の通勤のあいだ、ぼくの目を覚まさせていてくれて、時間をつぶさせてほしい」

 答えを見つけた!

(略)

[だが他の時間帯の客にはまた別のジョブがあった]

[小さい子どもをもつ]親はわが子に対して、一日じゅう、何度も何度も「ノー」を言いつづけている。(略)[だから]自分を寛大で愛情あふれる父親と思えるような、「イエス」と言える機会を[求めている]。ある日の夕方、私は息子といっしょに列に並んでいる。順番が来ると息子は私を見上げて――小さい男の子にしかできない仕種でこう言う。「パパ、ミルクシェイクもいい?」。その瞬間がやってきた。ここは自宅ではない。食事まえにスナック菓子を食べさせないと約束している妻はいない。息子に「イエス」と言っていい、特別な場所だ。(略)

その瞬間のミルクシェイクにとっては、朝とはちがい、バナナもスニッカーズもドーナツも競合相手ではない。ミルクシェイクのライバルは、玩具店に立ち寄ること、あるいはあとで時間をつくってキャッチボールをすることだ。

(略)

 朝のジョブには、退屈な通勤時間をなるべく長く埋められるように、より濃厚なミルクシェイクが好まれる。フルーツを加えるのもひとつの方法だが、それは健康にいいという理由からではない。ヘルシーさはミルクシェイクが雇用される理由ではない。フルーツや小さなチョコレートを足せば、ストローで吸うたびにちょっとした驚きがあり、通勤時間を退屈させないことに役立つからだ。

(略)

[だが]私という人間は同じでも、夕方には状況がまったく変わる。夕方の“子どもにいい顔をしてやさしい父親の気分を味わう”ジョブは朝とはまるでちがう。夕方のミルクシェイクは、半分のサイズでいいのではないか。さっと飲み終えて、父親のうしろめたい気持ちが短時間ですむように。

埋もれているジョブ

 数十年のあいだ、高校の卒業生を勧誘するSNHU(サザンニューハンプシャー大学)の手法ははとんど変わっていなかった。(略)勉学の内容、学資面の補助、将来の就職の見通しなどについて売り文句を並べたてていた。(略)

キャンパスを見てまわる入学志望者から、教科についての質問はほとんど出ない。彼らの親はその種の質問をするかもしれないが、学生自身の関心[は楽しいキャンパスライフが送れるかにあった]

(略)

つまり彼らは大人としての体験をするためにSNHUを雇用するのだ。だが、そのような体験を期待している入学志望者約3千名をめぐっては、競争相手がひしめき合っている。近隣には[有名校がいくつかある]

(略)

SNHUには通信課程というオンラインの学習プログラム[があったが、重視されていなかった。しかしジョブ理論のレンズを通してみて、大学側は気づいた]

通信課程の学生の平均年齢は30歳、仕事と家庭を両立させようとやりくりしていて、さらに勉学の時間をねじこもうとしている。多くが過去に大学の単位をいくつか取得していたが、さまざまな理由によって、勉学を継続できずにいた。学費のためにそのころ背負ったローンを完済していないこともよくあった。だが、いまこそ学校に戻るときだと人生が告げている。(略)彼らが高等教育に求めるものは、利便性、サポート体制、資格取得、短期終了の4つだった。ルブランのチームは、そこに途方もないチャンスが眠っていることに気づいた。

 SNHUのオンラインプログラムの競争相手は、同じような教育内容をもつ地元の大学ではなかった。全米規模で展開している他のオンラインプログラムだった。(略)

だが競争相手はそれだけではない。もっと重要で手強い競争相手は、「無」すなわち無消費だった――人生のその段階で、さらなる教育を受けないことを選択している人々。これに気づいたとき、有限のパイを奪い合うように見えていた市場が、突如として手つかずの広野に変わった。相手は「無」、競争したくない者がいるだろうか?

(略)

[奨学金の問い合わせに、24時間以内に定型メールを送信していたのを、10分以内に担当者が電話することに]

「電話をすることで、相手の心配事を表に引き出せる。(略)訓練を積んだカウンセラーが必要な情報をすべて手元にそろえたうえでおこなう。通話は1時間になることも、それ以上に及ぶこともある。通話を終えたときには、私たちとの結びつきができている。それまでより入学したい気持ちが高まっていることがわかる」

(略)

キャリアを推し進めるために必要な訓練が受けられるといった機能面だけでなく、ゴールが実現したときに感じる誇りや、愛する者への約束の成就など、感情的および社会的側面も重視する。ある広告では、SNHUの大型バスが全国をまわって、式に参列できなかった卒業生たちに、昔ながらの額入りの卒業証書を手渡す様子を伝えている。自身の家や家族をバックに感きわまる卒業生が映し出され、「この証書は誰のために?」とナレーションが尋ねる。ある女性は証書を抱きしめながら「自分のためです」と言う。(略)「おまえのためだよ、おちびくん」と涙をこらえながら言う父親に、幼い息子が嬉しそうに言う。「おめでとう、パパ!」

家を売る

[デトロイトの中堅建築会社、高級感を重視し細かいカスタマイズにも対応したが売り上げにつながらない]

 やがて、購入者との会話のなかから意外な手がかりが見つかった。ダイニングテーブルだ。(略)

[見学客は]いままで使っていたダイニングテーブルをどうすればいいのか処置に困っていた。「彼らは口々に言うんだ。“いまあるダイニングテーブルをなんとかできれば、いつでも引っ越せるんだが”って」。モエスタらは、ダイニングテーブルがなぜそれほど重要なのかよく理解できなかった。彼らが話題にするダイニングテーブルはだいたい使い古しか流行遅れの品物なので、慈善団体に寄付するか、粗大ゴミとして処分すればすむ話なのに、と感じたのだ。

 ところがその後、クリスマス休暇で家族といっしょにダイニングテーブルについているとき、モエスタは不意に理解した。家族の誕生日はいつもこのテーブルで祝ってきた。毎年のクリスマスも。子どもたちは宿題をここで広げ、テーブルの下に秘密基地をつくった。へこみや引っかき傷にも、ひとつひとつ物語があった。テーブルは家族そのものだった。家族でつくり上げてきた人生そのものだったのだ。「そのときが、“ああそうか!”の瞬間だった」

(略)

 見込み客が転居を決断できないのは、建設会社が魅力的な提案をできていなかったからではなく、人生にとって深い意味をもつ何かを手放すことに不安を感じるからだった。ある女性客はインタビューで、引っ越しの準備のために自宅のクローゼットをたった1箇所片づけるだけでも、何日もの時間と涙を拭くティッシュが何箱もいるのだと語った。新しい家に納まるかどうかを考えてもっていくものを決めなければならないのは感情的につらい作業だった。古い写真。子どもが幼いときに描いた絵。スクラップブック。「彼女は人生を振り返っていた」とモエスタは言う。「選ぶたびに、思い出を捨てているような気持ちになっていたのだと思う」

 この感情的側面に気づいたことで、モエスタとチームは潜在的な住宅購入者の抱える葛藤を理解できるようになった。「新しい家を建てて売るビジネスだと思っていたが」とモエスタは振り返る。「実際には顧客の人生を移動させるビジネスなのだとわかった」

(略)

[そこで]ゲストルームを20%狭めて、かわりにダイニングテーブルを置けるスペースを確保した。転居そのものに伴う不安の軽減も重視し、引っ越しサービスや2年間の家具保管サービスに加え、新居に何を置き、何を処分するかを引っ越し後にゆっくり選別できる仕分け室も用意した。

(略)

 すべては購入客に「あなたのことをわかってますよ」と伝えるためにおこなわれた。

紙おむつ

 プロクター&ギャンブル社(P&G)[の中国市場進出は](略)当初は簡単だと思われていた。P&Gにはおむつ製造の技術と、欧米社会で長年培ってきた販売促進のテクニックがある。そして中国には、紙おむつを使う習慣のない乳幼児が何千万人もいるのだ。売れないわけがない。(略)

開発努力のほとんどすべてが“排泄物を閉じこめる機能をもった器”を10セントのコストでつくることに注がれたという。欧米のおむつより品質は低くても、値段が安ければ中国の親たちは買うだろうと想定してのことだった。

 だがこの目論見は外れた。安売りおむつは飛ぶようには売れなかった。(略)

肌ざわりが悪すぎたか?薄っぺらすぎる?値段が高い?答えはなかなか見つからなかった。(略)

定型的な質問をしていたとき、ある女性の答えを聞いてみなが笑った。彼女はなんと言った?なぜみんな笑ってる?通訳を見ると、通訳も笑っていた。この女性は、1週間でいちばんよかったのは、夫との睦まじい行為が戻ったこと――しかも週に3回も――だとうれしそうに言ったのだった。

 おむつとなんの関係があるのか?夜、赤ん坊が目を覚まさなかったから、彼女もずっと眠ることができた。眠れると、身体も心もゆっくりできる。だから……とつながるのだった。そこで、進行係が彼女の夫はおむつについてどう思っているのかと尋ねた。「これまで使ったなかで最高の10セントだって……」。さらに大きな笑い声があがった。

 その瞬間、グーレイトは自分のアプローチが狭すぎたことに気づいた。おむつの機能面にばかりとらわれていたことに。おむつによって解決される片づけるべきジョブは、もっと複雑で人間味があった。

(略)

 そこでP&Gは、生活のなかで紙おむつがジョブをどんなふうにうまく解決するかを潜在顧客に理解してもらうことにした。首都医科大学附属北京児童医院睡眠研究センターと協力した2年間のプロジェクトを経て、P&Gはパンパースをつけた乳児は寝つきが30%早くなり、毎晩の睡眠時間が30分間長くなったと報告した。さらに、よく眠れることと認知能力の発違とのあいだには関連性のあることを示した。学力をきわめて重んじる精神風土ではこれは大きなポイントとなった。P&Gがのちに中国でおむつを再展開したときの広告は、感情的および社会的な便益を直接訴見かけるものだった――「夜よく眠る子は頭がよくなります」

 2013年には、パンパースは中国で最も売れる紙おむつのブランドとなった。

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2017-09-01 明治のワーグナー・ブーム その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


明治のワーグナー・ブーム 近代日本の音楽移転 (中公叢書)

作者: 竹中亨

メーカー/出版社: 中央公論新社

発売日: 2016/04/19

|本| Amazon.co.jp

洋楽普遍主義

 東京音楽学校での洋楽重視路線への転換の背後にいたのが伊沢であったことに、今や疑問の余地はない。しかし、これは妙である。この理解でいけば、伊沢は国楽ナショナリストから鹿鳴館的欧化主義者に変身したことになる。ほとんど180度の変身である。そのほんの数年前に、伊沢は「お雇い」のメーソンに向かって、欧米音楽のひき写しは御免こうむると大見得を切ったのではなかったか。あの伊沢はどこに行ったのだろう――。

(略)

[だが]伊沢にとって、両者は自分のなかで摩擦なく両立するものであった。(略)

[日本洋楽の父とされる伊沢だが音楽に専心したのは生涯のうちの10年ほどで、理科系的な発想の人間であった。一時在籍した工部省では建築設計に携わり、ハーバード大で理化学を専攻したのも「国富の富強」に肝要と理由]

 こうした経歴と発想は、彼の音楽観に独特のねじれを与えている。第一の特徴は、伊沢が音楽の自然科学上の基礎を重視する点である。

(略)

 われわれが普通、音楽に関して「理論」と言う場合は、和声学や楽典など音楽学の理論を指すに決まっている。しかし、伊沢の場合、それは物理学のことなのである。彼の理解では、音楽とはどんな種類のものであれ、煎じつめれば個々の楽音に帰着する。そして、楽音は必ず周波数云々という物理学的な基礎をもつ。とすれば、どんな音楽でも「之を組成する元素は、毫も異なるに非ず」ということになる。

 つまり、伊沢の発想は、自然科学志向で、しかも徹底して要素還元論的(略)であった。半面、この発想からは、個々の楽音をどのように紡いでどんな楽曲を作り出すかという視角は完全に抜け落ちていた。(略)

平均律には数学的な規則性があり、ピアノは一種の精密機械である。いかにも科学的な基礎があるように見える。(略)つまり、洋楽こそ、客観的な合理性、普遍妥当性をもった音楽なのである。(略)伊沢は筋金入りの洋楽普遍主義者だったわけである。

 もっとも、この見方は決して伊沢特有のものではなかった。

(略)

音楽は単一なのである。そして、その単一の音楽で西洋が最高峰を占めるのだと考えるなら、次には、その最高峰に向かう一本道の発展の道筋を思いつくのは理の当然である。その発展図式では、すべての音楽は西洋音楽との近似度によって優劣が定められ、序列をなす。序列がより高いものは、低いものよりも「進化」していることになる。この見方を「音楽進化論」と名づけておこう。

 容易に想像されることだが、伊沢はこれまた筋金入りの音楽進化論者であった。そして、当時の多くの音楽関係者もまたそうであった。

(略)

 以上のことを考えるとき、伊沢の「国楽」が時とともに洋楽へ傾斜していくのは理の当然だった

(略)

 この点を端的に表しているのが、前章で音楽取調掛の事業として紹介した俗曲改良事業である。(略)この事業ではまず、邦楽曲を五線譜に記譜する。しかしすでにこの時点で、すべての音は西洋音楽の七音階に整理されてしまう。日本の在来音楽に特徴的な音の震えや揺らぎは、雑音として切り捨てられ、平均律にそぐわない音程は修正される。語り物の性格の濃い楽曲にいたっては、音楽にあらずとしてはなから埓外である。

 次に、こうして人為的な加工を施された旋律に和声をつける。和声は日本の音楽には本来存在しない。だから、響きの趣はまるっきり異なったものになる。そして最後に、「改良」の済んだ曲を演奏会の演目に入れ、大きな楽堂で披露する。もともとはお座敷向きの密やかな調べだったものを、ステージの上で多数の聴衆相手に、朗々と歌いあげたらどうなるだろうか。

 つまり、俗曲改良とは、在来音楽を洋楽の異質な座標系にむりやり押しこめるものであった。こうして邦楽は人工的な響きとなり、やがて顧みられなくなる。一方、それでなくとも文明開化の光背を負った洋楽は、欧化時代の華やかな雰囲気に彩られて、ますます輝きを増したことだろう。(略)

 興味深いことに、伊沢個人は自分が唱えた「国楽」がいつのまにか空洞化していたことにまったく気づいていなかったようである。

音楽取調掛の海外広報

 音楽取調掛の年譜をざっと眺めてみると、一つ興味深い事実に気がつく。欧米向けの活動が意外に多いのである。(略)伊沢の執筆による活動報告書『音楽取調成績申報書』は、それが出版された1884年に、すでに抄録の英訳版が出されている。

 さらに、この年から翌年にかけて、取調掛はロンドン、ニューオーリンズなど海外で三度、博覧会に出品している。出展された品目は、この報告書の英訳版と取調掛編纂の唱歌集などの出版物、さらに琵琶や箏、三味線などの和楽器である。(略)

 それだけではない。後年、取調掛で編纂された『箏曲集』では、各自の題や歌詞にローマ字表記が添えられている。これも、欧米に向けて紹介することを含んだ措置と見てよいだろう。

 「国楽」を掲げる機関がなぜ、これほど海外広報に力を入れるのか(略)

[『申報書』では]伊沢が和洋の旋律の同一性を執拗に説いていることである。

 彼が言うには、洋楽の音階と日本の律呂旋法との間にはほとんど差異がない。たとえば日本の旋法はギリシャ音階とほぼ同一である。しかも、これは偶然ではない、というのが伊沢の主張である。というのは、およそ東西両洋の音楽は「印度を以て共同の大源」としており、ここから発展したものだからである。(略)

伊沢は日本が元来、西洋と同等の「文明性」をもつと言いたいのであろう。

(略)

 西洋の眼にどう映っているかという意識が強いのは伊沢だけではなかった。むしろ、同時代の大多数の声であったといって過言ではない。音楽関係者にかぎっても、同様の発言は枚挙に暇がない。(略)

『申報書』が英訳されたことについて、ある新聞記事はこれを報道して高く評価した。その理由は、「欧米の人をして我が音楽改良の手続を知らしむるニハ最好方便と云ふべし」だからであった。

「仙人」ケーベル

 ディトリヒの去った後、東京音楽学校では沈滞した時期が続いた。無理もない。付属校への降格という憂き目にあい、予算削減を余儀なくされ、そして今、指導にあたる外国人教師もいなくなったのである。(略)

 この時期に関してふれておかなければならないのはラファエル・フォン・ケーベルである。ケーベルは1898年から東京音楽学校に出講し、1909年まで長年にわたってピアノの教授を続けた。若き日にモスクワ音楽院に学び、チャイコフスキーなどの指導下で優秀な成績で学業を終えたという経歴の持ち主である。もっとも、彼は専門音楽家ではない。ショーペンハウアーについての学位論文で博士号を得たという哲学者である。彼は、1893年に帝国大学に招聘され、文科大学で哲学を講じていた。やがて、そのピアノの腕前を見こまれて東京音楽学校に嘱託講師として出講するようになったのである。

 ケーベルはドイツ糸ロシア人で、生まれ育ちはロシアである。しかし、実質的にはドイツ人といってよい。母語はドイツ語だったし、若き日にイェーナ大学などに留学して以降、その生活基盤はドイツにあった。著作でもほとんどドイツ語を使った。

 経歴からも明らかなように、演奏技量はプロ級であった。音楽院を出た後、哲学研究に進路変更したわけだが(略)

その腕前が日本の洋楽愛好家を恍惚とさせたのはいうまでもない。野村胡堂は当時を回顧して、ケーベルの弾くショパンは「我々若き者の耳に、神の声のように聴こえた」と記している。

(略)

 しかし、ディトリヒとは異なって、ケーベルが東京音楽学校の活動全体に大きな影響を与えることはなかった。(略)

[嘱託講師、そして「仙人めいた人であった」から]

 ケーベルの生活といえば、学校と自宅を人力車で往復する以外は、部屋にこもって読書とピアノに没頭することに尽きた。世間の動きにまったく関心がなく、新聞雑誌の類はほとんど読まない。風采に頓着せず、同じ服を十数年着ていても気にしない。旅行も嫌いで、日本滞在は結局20年以上におよんだのに、その間、東京を出たことはほとんどない。日本の文化や社会にも、ケーベルはとくに関心を示さなかった。だから、日本語を習おうともしなかったし、また自分から日本人との交友を求めることもなかった。

 半面、ケーベルには人文主義的教養を一種宗教的な次元にまでに高めたような趣があり、それでもって多くの帝大生に絶大な影響を与えた。夏目漱石もその一人である。彼は、ケーベルは当時の文科大学の教員中で「一番人格の高い教授」だったと述懐している。

久野ひさの「意志と情熱」

[ケーベルを気取った滝廉太郎のピアノ演奏の所作は気障と言われた]

[西洋風の]所作の模倣という思考がさらに昂じると、感情をより生の形で出すことが、洋楽の本質により深く迫ることになるという発想が生まれる。(略)ついには、所作が演奏から離れて独走しかねない。しかし興味深いことに、これが当時の聴衆に大いに訴えたのである。

 そのことを如実に示すのが、久野ひさの例である。久野はその全盛期には、文字どおり一世を風靡したピアニストであった。単に演奏家として有名だったというだけではない。彼女は三浦環などと並んで、日本のクラシック界最初の大衆的スターであった。(略)

彼女が開く演奏会はどれも大入りである。なかには1000円もの純益を挙げたものがあったという。(略)しかも、彼女の人気は東京だけではなかった。久野は東京から関西、九州におよぶツァーを行ったこともある。(略)

彼女が登場するやいなや、「久野さんが!久野さんが!と人々はこぞり寄つて迎へた」(略)

新聞雑誌の関心は、彼女が上流階級と軽井沢で交際するさまや[私生活にまで及んだ](略)

 メディアが映しだす久野の像は、一言でいえば、「意志と情熱の芸術家」であった。(略)

[幼少期の怪我による下肢障害]に加え、病弱という困難もあったが、彼女は強い意志でこれを克服し、ついには優秀な成績で卒業した。(略)その矢先、久野は今度は交通事故に巻きこまれ、瀕死の重傷を負った。一時は再起も危ぶまれるなか、しかし久野は懸命の努力で怪我を克服する。つまり、度重なる苦難に見舞われながら、その度ごとに類まれなる意志力を発揮して、不幸から立ち上がり、ついには「第一流のピアニストたるの名声を博」すにいたった芸術家――これがメディアの描いた久野の像であった

(略)

久野の演奏スタイルは情熱的そのものであった。(略)

 なかでも久野のトレードマークは、舞台上の熱情的な身振りであった。久野は演奏が佳境に入るにつれて、音楽にどんどん没入していく。(略)舞台衣裳の和服の裾が乱れても、まるで気がつかないかのごとく、ただただ演奏に熱中する。(略)「聴集の中には啜り泣きする人さへもあつた」。

 そして演奏はクライマックスにいたる。「激しい頭部の震動は遂に曲の途中で彼女の髪は解けて肩にかかり、一輪の花かんざしは飛んでステージに散乱」する。

(略)

[しかし専門家の見解は]芸術的な解釈も何もなく、ただ鍵盤を力まかせに叩いているだけ

(略)

野村光一も、久野の十八番の「『アパショナータ』は無理押しの演奏で、音は汚ないし、ペダリングも滅茶滅茶になって、ただわあわあと鳴っているだけでした」と回想している。

(略)

こうした批判は、ある意味で当然であった。久野は音楽の基礎理論に暗かったからである。(略)久野は長短音階すらよく理解せず、対位法や和声学の基本などはまったく不案内だったらしい。つまり、久野は自前で楽曲を解釈するだけの力に乏しく、結果的に「ピアノを楽譜どおり弾くことだけに全精力を費や」すことにならざるをえなかったのである。

(略)

[久野は]1925年、留学滞在先のウィーンでホテルから投身自殺する(略)

[1923年]留学にあたって、久野はヨーロッパでもリサイタルを開くつもりでいたらしい。日本では東京音楽学校の教授であり、何よりも楽界きっての名手ともてはやされた彼女である。当然の考えである。

 ところが、いざ「本場」に来てみると、落差はあまりに明白であった。彼女の技量ではまったく通用しないことを思い知らされたのである。(略)

[E・フォン・ザウアーに技量不足を理由に入門を断られ]意気消沈し、精神的に極度に不安定になっていた。

活字で音楽に感動する

森鴎外と専門的きわまるワーグナー論議を戦わせた上田敏である。上田は早くから演奏合評なども執筆していた。その批評は、楽曲の解釈から演奏技術の詳細にまで論及する本格的なものである。

 たとえば、彼が1894年、20歳のときに執筆した演奏合評では、安藤幸の演奏について、「グリッサンドオの魂をただよはすあたりエキスプレッシオンは美しく濃かにつきて、とくに断腸の思ありしはカデンザソロの部小指のトリル三十二分音譜の難渋なる拍子なり」と論評している。これを読むかぎり、上田には鋭敏な音楽的感性と深い技術的知識が備わっていたように見える。(略)

[しかし上田は島崎赤太郎のピアノ演奏を絶賛している]

[われわれはライプツィヒ音楽院で]島崎が副専攻のピアノでは初級クラスに配属されたことを知っている。つまり、上田は、欧米でなら初心者に毛の生えた程度の腕前に大いなる感激を催したことになる。

(略)

[さらに上田は]歌であれ、楽器であれ、洋楽の稽古をしたことがない。といって、若いころに留学した経験があるわけでもない。(略)上田の頼りとなったのは、活字から仕入れた音楽知識と、それに加えて、華麗なる修辞力だったと見るべきである。

(略)

 上田以外にも例はある。1903年に日本人として初めて歌劇の上演を行った「ワグネル会」の学生グループも、頼りにしたのはもっぱら書物であった。(略)

 慶應のワグネル・ソサィエティーもかなり理屈先行であった。その創設者の秋葉純一郎の言うには(略)

活字での勉強がむしろ主だった(略)

 こうして見ると、明治のワグネリアンの情熱は大部分、書物によって養われたと結論してよいだろう。

(略)

 しかし、いったいなぜ彼らは、そうまでしてワーグナーに情熱を捧げたのだろうか。(略)

 理由としてまず挙げられるのは、ワーグナーには、書物からの接近という便宜があった(略)その著作は音楽論から芸術、歴史、社会哲学などにわたり[10巻の全集を編めるほど](略)

 西洋の作曲家のなかで、ここまで著作の多い者は他にあまり例がない。(略)

 したがって、明治の西洋型知識人にとっては、その外国語の素養をもってすれば、ワーグナーに関する知識はわりに簡単に得られたはずである。(略)

さらに大きな理由は、当時欧米の音楽界をワーグナー熱が席捲していたことである。

姉崎嘲風、ドイツ贔屓から嫌独家へ

姉崎のドイツ熱に最初に冷水を浴びせたのは、1895年の三国干渉であった。

(略)

 しかし、それより決定的だったのは留学後の体験である。(略)

[帝政ドイツの社会的現実に愕然]

とくに彼を激しく憤らせたのは、排外主義と人種偏見であった。

[アジア蔑視を体験、姉崎自身も路上で石を投げつけられた]

人種偏見に憤激していながら、なぜ、反ユダヤのワーグナー崇拝に行き着いたか

整理してみよう。姉崎は留学して、長年のドイツ憧憬が裏切られたと感じた。彼はその失望と憤懣を合理化し、ドイツ社会批判へと抽象化していく。その際に彼が利用したのが、民族至上主義・生改革の思考モデルであった。(略)

姉崎がワーグナーを激賞するのは論理的必然であった。なぜなら、ワーグナーこそ、民族至上主義・生改革の観念世界に深く根ざしていた人物だったからである。

 まず、ワーグナーは若いころより確信的な反ユダヤ主義者であり、後年は人種論哲学者として有名なゴビノーの著作に親しんだ。(略)彼は、「人類の頽廃の化身たるデーモン」である「ユダヤ人の進出になす術もなく侵害されているドイツ民族の衰退」に激しい危機感を募らせていたのである。(略)

彼は、機械化された文明のなかにあって人類は頽廃の極にあり、文化は不毛をきわめていると見た。人間の生は分断され、全体性を失っている。ワーグナーが菜食主義、動物愛護、節酒を熱心に唱えたのも、それが人間性の回復につながるものと考えていたためにほかならない。また、ワーグナーはキリスト教を激しく攻撃した。教義の原点――彼によれば、キリスト教はユダヤ起源ではなく、アーリア起源であった――に立ちもどるには、キリスト教を浄化する必要がある、と。(略)

[時代が直面する]危機に出口はあるのか。ある、とワーグナーは考える。それは、愛すなわち芸術による救済であった。「芸術作品だけが(略)生の域を越えた至純の充足感と救済がもたらされる(略)

楽劇こそがさまざまな芸術形態を一箇の形に総合したという意味で最高の芸術だと自負するが、そこにはこうした社会哲学的意味合いが含まれていたのである。

 このようにワーグナーは、ヴィルヘルム期ドイツの産業社会的現状への痛烈な告発者であった。(略)

[そして]姉崎のワーグナー崇拝は、ワーグナーに託して語った彼自身の時代批判なのであった。そして、ワーグナーが芸術による救済を思想の核心に置いた以上、姉崎は楽劇に――その音楽に惹かれようと、惹かれまいと――必然的に感動しなければならなかったのである。

(略)

[一方]明治日本の知識人が姉崎のワーグナー論に共鳴したのは、そこに描かれたヴィルヘルム期ドイツ像に明治日本の姿を見てとっていたためであった。社会の閉塞と文化の不毛を嘆く姉崎の危機意識は、彼らにとって他人事ではなかったのである。

(略)

 ただ、ドイツと日本ではある一点で決定的な相違があると、姉崎はいう。すなわち、ドイツでは、ニーチェやワーグナーのごとき預言者がすでに現れた。危機からの脱却を説く彼らの言葉は若い世代の間で熱狂的に迎えられている。しかし翻って日本はどうか。今なお多くの者が惰眠を貪り、危機が存在することすら意識していないではないか。そこで姉崎は、ドイツの預言者の啓示を日本に伝え、それでもって故国の閉塞を打破しようとしたのであった。

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