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2018-01-30 東京レコ屋ヒストリー 若杉実 このエントリーを含むブックマーク


東京レコ屋ヒストリー

作者: 若杉実

メーカー/出版社: シンコーミュージック

発売日: 2016/03/31

|本| Amazon.co.jp

輸入レコード自由化

[69年]レコードの輸入制限が撤廃された。これが追い風となり国内につぎつぎと輸入会社が設立される。うちサウンド・トレーディングは業界トップの座を固持していく。(略)

創設時に入社したシスコ二代目社長、飯島均さん[談](略)

 「昼休みになるとレコード会社の社員がたくさんお茶を飲みにあつまって来る。最新の情報を入手するのにどこもたいへんな時代だったし、ウチのほうにレコードが先に入ってきてたからね。(略)

ただし東芝さんからは目の敵にされてたなぁ(苦笑)。ビートルズのレコードを日本で発売するまえに輸入してドカンと売ったりしてたから」

 たとえばサウンド・トレーディングと取り引きしていた〈新宿レコード〉では実際にこんなことがあった。レコード会社の人間がお店に現れ入荷したばかりの輸入盤を買って帰る。それをもとに国内盤のレコードジャケットがつくられ、数ヶ月後にはその一枚が新宿レコードの輸入盤コーナーのよこにならぶ。

『マーキー』

『マーキー』が創刊されたのが1980年。その三年後に通販部がスタートしている。(略)

1987年に実店舗となるワールド・ディスクを開店。(略)

[<エジソン>に]先に仕入れられちゃうとお客を持っていかれる。それならウチも実店舗をやろうと決めた。(代表・賀川雅彦)(略)

 雑誌の立ちあげから40年、レコード屋を機に現在はレーベル、音楽出版、公演企画、海外アーティストの招聘と会社規模も膨らんでいる。

宮田レコード

踊りなら課題曲がきまっていて(略)まとめて五、六万買ってくれるひともいる。(略)

カラオケやるひとはもうCDになっちゃったんだけど、踊りのひとはまだラジカセを使ってる。(略)

カセットはお稽古のときとちゅうで止めてもそのままでしょ。(略)

区でやってるような規模の会場だと、たいがい舞台の袖に機材関係がある。だから踊りでダッてやられると、CDだとその振動で飛んじゃう。

テレサバブル

 テレサバブルの引き金に指をかけたのはだれか。中国や香港、そして彼女を生んだ台湾に住む、おもに富裕層が中心だ。(略)

 また、これら経済的な理由とともに見逃せないのがアジアの社会的背景だ。(略)大陸では長らく“黄色歌謡”と称され烙印を押されてきた。むこうでイエローは日本のピンクに相当する。北京語でうたったレコードが百枚ほどあるといわれるが、中国共産党がこれを発売禁止にしたのである。(略)こうした統制への反動が大きな振り子となり、今日のテレサバブルに油を注いでいる。

 祖国台湾にもやっかいな事情がある。レコードやカセットテープ、書籍といった複製品を海外に持ち出すことを禁止し、たとえ旅行者の土産であっても没収されていたのだ。市場にはびこる海賊盤を国外に流出させないためだったが、振り分ける手間を考え正規盤もその対象にされていたとは、あまりにお粗末すぎる。

 もっともテレサバブルの中心となるのはそうした大陸のレコードではない。(略)

日本語でうたわれているものや日本でしか流通していないもの(略)

 その兆候の端緒をつかんだのは二〇〇四、五年ごろ、そう記憶している。日本最大級のオークションサイト、ヤフオク!に出品されていた彼女のレコードの落札価格が軒並み上昇、五桁にせまる勢いだったのである。ほどなくそれは大台にのり、やがておおくのコレクターを巻き込み青天井になる。あとは彼らに共通するパターンを踏襲するだけ。ほしいものがそろってしまえばべつの標的を探す。たとえば大陸で録音されたレコードやカセットなど。近年の例をあげるなら、インドネシア語でうたったカセットに六桁の落札額がついた。

海外からの客

“ここのところすごい増えてますよ。海外からのお客さんは。目立ちはじめたのは三年まえくらいでしょうか”(略)

最初に印象あるのはロシアや中国のひと。

(略)

 近年〈ハルズ〉(西新宿)のオーナー池田晴彦さんはハッとさせられるような光景に直面している。

 「ディスクユニオンのセールにならんでる群れに外国人がたくさんいる。目を凝らして見ると、かつてぼくらがヨーロッパ中をまわって買いつけしていた店のひとなんだよ。わざわざこっちに来てまでして買ってもペイできるってことなんだね。ヨーロッパって保守的だから相場が流行りに左右されることがない、ジワジワってくる。とくにフリージャズはヨーロッパで高騰しているからユニオンがつける値段でも商売できるんだろうね。でもそれって、お客が安く処分しちゃってるってことでもあるんだけど」

(略)

[円安の影響もあるし]

東京は大都市でも治安がいい。大量に買いつけしている背後をねらってホールドアップされたという話などまず聞かれない。観光がてらちょっとレコード掘り、というのにこれほど絶好の都市もないわけだ。

トニー滝谷とトニイ西島

SPレコードを収集するには絶好の環境にいたトニイ西島は40歳になり、念願のレコード屋(トニイレコード)を開く。(略)当時ではめずらしかったオークションリストをアメリカから取り寄せる(略)

日本で見たこともない貴重盤の数々。初代店員だった茂串さんの手腕もここぞとばかり発揮され、低いビッドでもゆうゆうと落札できたという。

 茂串さんの手柄には委託販売を考案したこともある。業界初だったといわれているが、このシステムをトニイレコードに導入すると、まもなく村上春樹が店にやって来る。

 「委託レコードを持ってきてくれたね。ちょうど〈スウィング〉(水道橋のジャズ喫茶)でバイトしていた時期だったから。やがて奥さんになる陽子さんは、そのとき〈響〉(神保町のジャズ喫茶)で働いてた。休憩時間にふたりが待ちあわせ場所に使ってたのがトニイだったんじゃないかなぁ」

ジミー・ペイジ

[新宿レコード藤原さんがマイケル・シェンカーのいい話を披露した後]

“彼はビッグだけど人間的にはどうなのかな……”

(略)

 ボブ・ディランのブートを弁別なく掘りおこすことでも知られるペイジ(略)

もっとも、ペイジが収集する本命は、ほかでもない自身のバンド。来日するたびにツェッペリンのブートを見つけては、ポケットの財布に手を添えることなくそのまま持ち去るという話をよく耳にする。葵のご紋による巡視というのもわからなくはないが、商品の性質上、店側も二の句が継げないらしい。

フジヤマ

トタン板に書かれた文字は300メートル先からでも読める。

“やっぱ自分の踊り方でおどればいいんだよ。江戸アケミ”

(略)

「いまみたく客が来ないから店のまえにラジカセ持ち出してふたりで踊ってたんだよ。じゃがたら売れないから、じゃがたら流しながらね(苦笑)。チンドン屋みたいことをやって、それでも“ダメだ、だれも来ねぇよ”って半泣きしながら汗びっしょりになって踊りつづけてたら、アケミが何気なくいったの、“自分の好きなように踊るのってかっこいいよね”」

(略)

[じゃがたらが伝説となったことに]

生前親交があった者からすれば買いかぶられているきらいもあるのだというのがわかり、さらに興をさかす。

「売れなかったよ、じゃがたらは。(略)なんか腑に落ちないよなぁ。そもそもだって、一般に訴求する音楽じゃないし。(略)高柳(昌行)でもじゃがたらでもいいけど、そういう塊ごとじぶんのものとして取り入れられた時点で勝利だとおもうんだよ。まぁ商業的には負けなんだけどさ(苦笑)」

万引き、窃盗

[レア盤放出日の数時間前にバールで侵入されて目玉商品をごっそりやられた<ソウル・ヴュー・レコード>。不幸にも最初に疑われたのはバイトのワック・ワック・リズム山下洋]

(略)

[ハルズでも]

 “まず身内を疑う”――ソウル・ヴューの例ではないが、店主としてそこから探りを入れるのは薄情ではなく妥当なこと。信頼を寄せているからこそ冷静に対応できる人間から当たってみる。つぎに順を追って常連客。親しき仲にも乱せない拝礼の関係がある。たとえば委託品が盗難にあったときでも、委託をした当人にも池田さんは冷徹だった。

 「(略)委託したひとが最初に発見したことがあって。伝票にも残ってないし、あぁ万引きされたんだということで、とりあえず弁償したの。でもおかしい、そんなことないとふしぎにおもってて。ウチみたいな店ってそんなに客来ないから(苦笑)、いつだれがなにを買ってというのをだいたい把握してる。ひとりひとり顔をおもい浮かべながら整理していくと、どうも委託した本人しか当てはまらない」

 手口が古典的すぎる。だが、常連客に疑いをかけても事実を問いただすのはやはりむずかしい。“だから人間不信になっちゃうよね”と嘆く池田さんを、しかしおなじようなケースがこのあとも襲う。

 「これだと仲良くなったひとは、みんなあやしいとおもっちゃうよね。でも仲良くなるじゃない(苦笑)。(略)

[親しくなった青年に]いろいろ聴かせてあげて、長いときは三時間も店にいる。でも、ひとつだけ気になってて。いつも開いたままの鞄を抱えてる。荷物になるだろうから置いときなよと、それとなくいってあげるんだけど、“いいえ大丈夫です”」(略)

[ある日、ディスクユニオンに一挙に盗品が]

「ユニオンに相談したんだけど、売り手は教えられないって。店側としてはそうなるんだろうね。でもそうこうしてるうちに、こんどはおなじユニオンの神保町広でクラシックの盗品がセールにならんだというのを耳にした。あるクラシック専門店に委託してあったものだったみたいで、そのあとまたユニオンに下取りで来たとき警察呼んでその場で自供させたみたい。どっちも同一犯。だれだったかというと、例の鞄の青年だった」(略)

逮捕後、店にやってきた弁護士いわく“初犯だから告訴を取り下げてほしい”。しかし被害額は30万(略)

青年はそのあと毎月1万円返金することを約束するも、守ったのは初月だけ。

(略)

 「ジャケットの角を一枚一枚折って歩くひとの話知ってる?じぶんが持ってるものより状態がきれいなのを見るとそうしちゃうらしいね。[客としてヴィンテージマインで遭遇](略)

[角折れした10枚ほどを店員が]本人がふたたび来店したタイミングで目のまえにサッと無言で差し出した。

「疑いのあるひとの顔から一瞬にして血の気が引くのがわかったよ。走るように店から出ていったから店員に追いかけようかっていったんだけど、これでもうじゅうぶんだって」

(略)

[フジヤマでは、ハードコアパンク野郎が入店してきたので警戒してたら、突然、サラリーマンをボコボコに。なんと万引きしようとしていたのはサラリーマンの方だった。]

 「そのハードコアがサラリーマンにいったことが忘れられなくてさ――“こんな店で万引きすんじゃねーよ”。こんな店かあ……(苦笑)。もちろんぼくにとって最大のほめ言葉だよ」

(略)

「いちばんヒドかったのはさ、山塚(アイ)くんがボアダムスをやってたときかな。(略)[配達されたカセットが]ものの五分で盗まれた。いちばんあたまにきたよ、まだ店にならべるまえだから。わけがわからない、もうふざけるなって踏ん反りかえってね(苦笑)。ボアダムス関係は今後いっさい売ってやんないって、半月くらいそうしてた。当てこすりもいいところ(苦笑)。“なんで売ってくんないんですか?”ってちゃんとしたお客から訊かれても、“オマエらの友だちにはロクなヤツいないから売らないことにしたんだよ”と反対に怒ってやった」

CSVとナゴム

[常盤響談]

[スタジオルームを]ある時期からナゴムレコードが私物化しはじめるからだ。それも都合のいいことにCSVは楽器も販売していた。(略)

 「ぼくらが店にあるMIDIとかをどんどんつなげていってスタジオで使わせてしまうわけ。筋肉少女帯の“高木ブー伝説”よりちょっとまえくらいからかな。YBO²とかから独占的に使わせてね。(略)九時をまわると主任が帰るから二時間料金で朝までレコーディングし放題。そういう意味では、あの時代のインディーズにすごく貢献してる(苦笑)」

  • 第七章 オンライン時代

ヴィンテージ・レコーズ・店主荻野輝夫

[足利市で早い段階でオンラインをはじめた]

店頭とオンラインであつかうと、先に売れやすいのはオンラインだという。そしてこの状態がつづけば店内の商品が魅力的ではなくなり、お客も減る。負のスパイラルがそこに生じ、やがて閉店に追い込まれることだってある。

(略)

[地方だから]「店舗を構えていないと買いとりのお客さんは来ないんですよ」(略)

ネットで“人気盤高価買いとり”を募ったところで、どこも似たようなことをしている。そこで杖とも柱とも頼むのが実店舗。(略)実店舗がそのまま広告媒体になっていることが、現場の意見からわかった。

(略)

 この世界でよくいわれる“寝かせごろ”というのも廃語になりつつある。株の売買のように高値が見込まれそうな時期まで寝かせる。(略)

[だが]ネット社会が成熟すれば成熟するほど売れるタイミングは一定の期間に集中せず、分散する傾向にあるからだ。

芽瑠璃堂

[オンライン開設は2005年と遅い。業績は悪くなかったが、実兄長野文夫のヴィヴィッド・サウンド・コーポレーションの流通・スタジオ運営のため97年全店閉業。オンラインでの再開を狙い潮目を読み続けた]

店を畳む最後の二年間は[質の高いヴィンテージレコード]が全体の売りあげの90%を占め[ていた](略)

 手はじめにそのときの在庫をオンラインにアップする。するとホームページにどんどんお客が舞い込み、カチカチッとクリック音が鳴りやまない。“なんだ、お客さんは以前と変わってないんだというのがわかったね”――手応えをつかんだ長野さんは、このとき利用者の年齢層から店の方向性をはじき出す。(略)

「若いひとがどうのってみんないってるけどウチはそうじゃない。四〇〜六〇代、この層をいかに逃さないようにするかしか考えてないから。いま四〇歳のひとは五〇になっても音楽ソフトを買うでしょ。でも六〇歳が七〇になると買わなくなる。すなわちあと十年、ここが勝負。ウチの厖犬なデータベースで証明されてることだからね。若いひとなんかCD買ってないから。息子がいい例。ダウンロードばっかりだし、もっといえばユーチューブ止まり」

(略)

 それにつけても長野さんのひと言“あと十年”が引っかかる。ならば十年後の芽瑠璃堂はどうなるのか。ありていにいえばなくなるということか。(略)

「とんでもない!重要なことを忘れてるよ。インターネットビジネスの肝はアクセスだから。なにを売るかじゃない。アクセスする人数がおおければ、とたんに業種を変えたって勝負できる。極端な話、なにが売れて売りあげがいくらかなんてどうでもいいの。どれだけの人数がアクセスして、増えてるか減ってるかだけを気にしていれば。つまりあらたな一手を講じたときアクセス数すら減らさなければ、つぎのビジネスラインにのれる。ぼくはなんでもやりたいわけじゃないから音楽に関係したことしかやらないけど、ネットビジネスってそういうことだからね」

(略)

「ウチがいい例、最初の三年間ほんとに苦労したから。そのころのアクセス数なんて見れたもんじゃない。でも伸びた瞬間、とたんにすごい売りあげになった。なぜか?お客がお客を呼ぶから。それでグーグルの検索順位がどんどんあがる。

(略)

 長野さんのクチからデータベースということばが呪文のようにくり返される。(略)

「いちばん知りたかったのがデータベース。だから会社にサーバーがある。(略)

[一般のサーバーでは意味がない]そこで動く裏のデータベースがないから。

 いまの芽瑠璃堂のオンラインはたった三人でやってるんだよ。あれだけのアイテム数の半分は自動化されてる。独自のサーバーだから分折したとたんに翌日書き換えてくれるしね。能率的にやらなきゃダメだからその方法に行きついた。(略)知りあいにグループウェア(業務効率化の情報共有ソフト)を見せるとすごいおどろかれる。ぜんぶそれが仕事してくれるから、いまは週に二日しか会社に行ってないし。グーグルなんかとっくにそういうのをやってたわけだけど、ウチもそこに注目してたんだよ」

(略)

 「アマゾンはすごいよ。(略)外の業者を受け入れるシステムをどんどん構築してる。アマゾンと契約して出店するとすごいプログラムが動くし、それも完成度がハンパない。商売相手のことを知りたいからお試し期間のときにやったけど、えらい感動させられた。

(略)

[だが]アマゾンヘの卸しも出店もしていない。いわく“なんども連絡きてお願いされてるけど断ってる”。ビジネスにおける生死の分水嶺と見なしたのだろう。これにより生まれるのは、“世界のアマゾンでも買えない”という付加価値。

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2018-01-25 憐れみと縛り首―ヨーロッパ史のなかの貧民 このエントリーを含むブックマーク


憐れみと縛り首―ヨーロッパ史のなかの貧民

作者: ブロニスワフ・ゲレメク

翻訳: 早坂真理

メーカー/出版社: 平凡社

発売日: 1993/04

|本| Amazon.co.jp

脱落したエリート救済

 喜捨や教会施設への献金で特徴的に表現される慈善の行為は、日常生活で犯した罪の償いを実践する形式となった。権力の行使に伴う義務――王宮や封建領主の居館で一定数の貧民を食事に招いたり、あるいは道中施しを行ったりすることがならわしとなった――、また、金銭を扱う職業、たとえば道徳的にアンビヴァレントな刻印が重くのしかかっている高利貸しのような職業に伴う義務についても、高度に儀礼化され、制度化されていった。慈善を施す対象は、とりわけ教会であった。

(略)

 12世紀から13世紀にかけて、西欧のキリスト教諸国では、慈善の額が飛躍的に増大していたことが報告されている。(略)

この一連の動きは、マリー=ドミニク・シュニュが「福音のめざめ」と定義した新しい宗教感情によって鼓吹されたものであった。敬虔な信徒と教会によって――かなりの部分はもちろん教会によってであるが――提供され管理された施療院網が、中世においては巡礼路沿いに整備され、敬虔な巡礼者に一時的であれ貴重な避難の場所として開放されていたのである。この時代、慈善は、教会施設と個々の社会集団との絆を強めるものでもあった。(略)

それぞれの都市に信徒団が現れ、信徒団が自分たちの負担で病院や救護施設をつくり、やがてこれらを自らの管理下に置くようになった。慈善団体は、信徒自身による社会組織である。たとえばヴェネツィアの慈善団体は、エリート的生活を維持する役割ももっており、彼らは、都市エリートの古典的諸施設のなかで自分の居場所を失った仲間のためにエリートにふさわしい空間を設け、地位と名誉を与える役目も果たしていたのである。

(略)

彼らが援助を受ける資格をもつということは、いわば彼らの「恥」の証拠なのであり、家柄のよさが本人自らが物乞いに出ることを控えさせ、むしろ物乞いをしないことが彼らの倫理的支えとされていたのである。

(略)

キリスト教的「友愛」を実践するということは、アメリカの中世史家リチャード・トレクスラーが指摘しているように、自分の帰属する身分のために行う扶助であり、エリート社会から脱落した「貧しい部分」を優遇することであった。(略)

援助を受ける貧民を描く図像の場合には、社会的エリートの貧窮化したメンバーが真っ先に描かれる。(略)

 12世紀初頭から、キリスト教の慈善をめぐる教義では、貧困は神学的考察によってふたつの型に区別されていた。(略)

ゲルホーホの理解では「ペテロと共にいる貧民」と「ラザロと共にいる貧民」が区別されていた。前者には、貧民の形姿をとらなければならない聖職者が入る。このドイツの神学者が教会の教義と修道院生活の規範に含めようとした自由意志による貧困は、「教会の権威」を正当化し、「自己完成」のための、神との交流の媒体となる精神的価値とみなされていた。後者の貧民のグループを象徴しているのが、ラザロの乞食姿である。乞食としてのラザロの形姿は、世間一般にある物質的貧困を象徴し(略)保護を与えるべき対象として扱われている。

(略)

しかし、一般的に貧困の賛美を過大評価することは、現実の正しい認識から逸脱することであり、現実には、貧民はまさに社会的な恥辱を体現しており、援助を受ける対象としてのみ扱われていたにすぎなかった。

(略)

ボローニャのルフィヌスが公式化したように、乞食を「誠実な者」と「不誠実な者」に区別したのである。労働する能力がありながら、働くことを拒み、乞食をしたり盗みを働くことを好む者が「不誠実な乞食」であるとされた。自分自身はおろか家族さえも扶養できないと判断された貧民にだけ、援助の手が差しのべられなければならないのであった。この神学論争では、「極度の必要の場合」には窃盗さえ犯罪ではなく、貧民の当然の権利であるという主張さえ現れてきた。飢えている者には(略)どんな境遇にあっても援助が受けられる、未亡人、孤児、囚人、狂人と同様の権利が与えられていた。これらの集団が施しを受ける権利をより一層強くもつにつれ、それに比例して、彼らの実際の法身分や生活条件は弱まっていったのである。

(略)

施療院施設は、障害者、辱めを受けている者、貧民を収容する施設であり、巡礼のための避難所であった。これらの施設で社会保護を受けている者の多くは、社会的に逸脱し、物質的に没落した者とみることができる。もしこのなかに上層身分出身の巡礼がいたとすれば、彼らは自発的に恥辱を求めたのであり、自分の身分を捨てたということである。したがって、施療院患者の大多数を構成していたのは、本当の貧民だったということである。

「貧民」への非難

 13世紀のモラリストと説教者が貧民集団(略)をみる目は、宗教教育を施して厳格に矯正しようとする、一方的なものであった。(略)

彼らの説教に込められた批判的で辛辣な皮肉は、全体として世俗社会に向けられていた(もちろん、司祭、修道士、信徒団の悪行の数々も遠慮なく指摘されている)。しかし、批判の原点となっているのは、世俗社会の罪は貧困とともに富からも発生するという確信であった。(略)

12世紀までの教訓文学においては、貧民階級を非難する内容は、自分の境遇を甘んじて受けようとしない傲慢な乞食に関するものが主であった。(略)

13世紀には早くも、「貧民」を非難する調子が現れてくる。フランスの諷刺詩人ギョーム・ド・クレルクは『神からの金貨』で(略)貧民は「裏切り者で、嫉妬深く、悪口を言い、高慢で、妬みと欲で一杯の輩で、仕事のときは詐欺を働き、仕事をするといってはさぼるだけさぼり、せびれるだけ金をせびり、暴飲暴食に明け暮れているからだ。」

乞食の団体

 14世紀から15世紀にかけて、都市の行政当局は、貧民保護を調整する措置を講じはじめた。この時代の南ドイツ諸都市の自発的なとり組みは、16世紀にはじまる慈善改革のモデルとさえみてよいものであった。すでに14世紀には、ニュルンベルクの市当局は、特殊な金属製の鑑札をもたぬ者には物乞いをさせないとの条例を定めていた。(略)乞食を登録し、半年ごとに彼らの生活状態を検査したのである。(略)

[しかし]本格的な乞食の統制と独自の社会政策へのとり組みは、中世末期を待たなければならず、この規制が文字通り現実に適用されることはなかった。多くの場合、とられた処置は、都市の施療院と施しの施設を効率よく運営することであり、よその町から乞食が流入するのを阻止することであった。伝染病対策として市当局が乞食に対してとった措置も、同じような性格をもっていた。乞食の移動を禁止することは、公衆衛生の古典的な方法のひとつである。

(略)

ともかく、物乞いを正当化する論拠は、何といっても、肉体的な損傷に由来するものであった。だからこそ、あえて外見上の障害や病弱を装い、それを強調することは、物乞いを正当化し、人の憐れみを誘う自明の手段となった。

(略)

 やがて乞食たちを身分団体と認め、社会生活に配所することが是認される方向に進んでゆく。それは、実に様々なかたちをとった。なかでも盲人の団体が有名である。14世紀のバルセロナとバレンシアの盲人の掟では、団体内部を規制する種々の連帯と相互扶助が定められていた。手を引いてくれる案内役には給与が支払われること、病気のときには見舞いをし、得た施しは平等に分配すること、などが定められていた。(略)

シュトラスブルクでも1411年に「盲人貧民」の団体が生まれ、20年後には早くも「シュトラスブルク乞食団」として活動していた。(略)

1443年にクトナ・ホラの乞食たちが在地の教会の近くに設立した職業組織も、同じような団体としての性格をもっていた。このタイプの乞食がもつ信徒団の形式は、乞食どうしの結束を固め、自分たちにふさわしい共同生活や相互扶助の形式の保証、また、中世の職人社会一般に固有の原則である身分団体による独占と競争の禁止、という原則の実現をめざすものであった。

(略)

[乞食身分の専業化が進み貧困(つましさ)が安定した固有の状態を示すようになったが、大量の貧民の発生がその安定を脅かした]

貧民の大群が施しの機会を求めて彷徨い、貧困と労働のあいだの不安定な境界線上を往き来しはじめるのである。

「貧民」の概念

 中世の人々の意識にある「貧民」の概念は様々な意味をもって現れ、それが意味する範囲は、封建社会の特権的エリート層に属さないすべての者を対象としていたのが、徐々に、生活基盤を施しや社会保護に依存している部分へと限定されてゆく傾向がみられる。しかし、この概念の範囲がもっとも広く扱われていた時期においては、その対象は、必ずしも位階制社会の最底辺層を指していたわけではなかった。というのは、この「貧民」の概念は、先に述べた「富者と貧者」という二分法のなかで機能していたのみならず、ある意味で「下から」の者を一般的に指していたためである。たとえば、カロリング朝時代の「貧民」は、自由人との関連で用いられ、不自由民に対置される存在であった。この「貧民」という語が進化してゆくなかで、社会の解体がしだいに大きな意味をもっていったことが観察できるのである。「貧民」の対象となったのは、本人およびその家族がそれまでの生活スタイルを維持できなくなったか、あるいは、自分の所属身分にふさわしい生活状態を確保できなくなった人間である。中世後期になって、物質的貧困やデクラッセすることが貧困の概念上の意味をもつにつれて、貧困化のプロセスもまた顕在化してゆくのである。

相互扶助

 こうした働く者の貧困に対しては、中世のつましさのエートスや、施しや施療院などによる援助システムはまったく無力であり、効果はなかった。効果をあげたのはただ同職組合、家族や隣人関係による相互扶助のみで、それも、貧民の数が限られているあいだだけであった。慣習法により一定の社会扶助の形態がつくり出されていたイングランドでは、自分の土地耕作ができなくなった、子供のいない老人たちには、農場の一部だけを手元に残し、それ以外の農場は他人に委ねさせ、新しい農場経営者が耕作の義務を負うものとされていた。未亡人は(再婚するまでは)用益権を支払わなくとも農場を継承する権利を保持できた。都市の身分団体は、自分の構成メンバーのために、労働や偶発的事故の際に社会保障をする一定の形態をつくり出した。これは、本来、都市の各団体の機能に属すものであった。しかしこれとて、生きてゆく必要最小限の部分を保障するだけの、つつましい援助でしかなかった。

エンクロージャー

 中世後期の都市人口の研究によれば、貧民や乞食とみなされていた者の数は平均して15%と20%のあいだを上下していた。都市でも農村でも、全体の住民数の見積もりが可能となる16世紀や17世紀になると、住民の五分の一が公的もしくは私的な援助を受けるべき貧民のカテゴリーであったと算定される。

(略)

 貧困のもうひとつの尺度となっているのは、14世紀の危機から脱却してゆく近代的モデル、すなわち資本主義的発展への方向転換とわれわれが定義した農業構造の転換である。(略)[土地所有の再編は]農業小生産者のかなりの部分を貧窮化せしめ、自立した経済生活を営む可能性を失わせた。(略)

[生産手段・土地の集中、農産物価格の上昇と実質収入の低下]

 16世紀の農村における本源的蓄積の過程は(略)農民社会の階層分化を際立たせたという理由ばかりでなく、地主貴族が農民を経済的従属下に緊縛することに無関心になったことにより、多様な性格を帯びることになった。

(略)

やがて土地不足が深刻化し、貧窮化した小農民や土地無し農民の数が増大すると、エンクロージャは陰鬱で劇的な光景を示すようになる。土地の囲い込みに狂奔する農場主は、全体の利益を忘れ、穀物畑を羊の放牧地に変えている不逞の輩とみなされるようになった。こうした彼らの行為こそが、穀物価格の高騰、農業における雇役労働の需要減少(放牧の方が農耕よりも手間がかからない)、生活手段をもたない貧民の数の増大の原因だとみられがちであった。しかし、現実はもっと複雑なのであり、イングランドの農業を近代化させ、人口の圧力に対処する処置を講じさせた錯綜した状況が、無用となった大量の人々を農村から追い出した、というのが事実なのである。

都市と農村

 近代の社会変化の全体像を理解するには、都市と農村の条件のちがいにたえず目を向けるべきであろう。本当の意味での貧困は、農村においてこそ発生したからである。都市についていえば、都市の城壁内で群れる貧民の出身地を明らかにできる史料をみると、かなりの部分が農村から移住したばかりの者だったことがわかる。都市それ自体の内部でも、貧困化が進行していった。貧窮化していったのは、従来の手工業職人集団であった。彼らは自立性を失い、商業資本が組織する農村および都市の生産活動とは競争できなくなり、原料を仕入れて製品を販売することができなくなった。手工業職人は雇役労働者の水準に身を落とし、税台帳は、これを貧民の水準への転落の証拠とみなしている。

パリの貧民

 ひとつの場所に貧民がたむろすることを恐れる雰囲気が、パリの議論のなかにはありありと窺えた。(略)ジャン・ブリソネによれば、路上で物乞いをする連中の多くは、本来は生活するために働きたいのであって、仕事がないがゆえに乞食をしているにすぎない。(略)しかし、たとえ公共労働を企画する決議がなされても、「もしも貧民が巨大な群衆となれば、盗賊団に変じるおそれがある。あるいは六百人か七百人が仕事にありつけば、二日もすれば二千名以上に膨れ上がり、その結果、反乱が起こりかねず、都市社会が略奪の危険にさらされるであろう」といった懸念が、つねにつきまとっていた。(略)

興味あるのは、仕事の機会を与えれば、群衆を引き寄せてしまう、という主張が繰り返されていた点である。

(略)

 高等法院とパリ市自治機関による貧民問題をめぐる討論は、なお延々と続いた。「よそから来た貧民」を城壁内に入れない様々な措置、失業者の雇用、この目的実現のための安定した基金の創設などが、徐々に輪郭を整えられた。(略)

とはいえ、高等法院の見方では、状況はほとんど変わらなかった。高等法院には、パリ市の自治機関が「貧民税」という財政上の裏付けをもった公共事業に、自分が必要とする者だけを優先的に雇用している、といった不安に満ちた苦情が寄せられていた。

地方都市

 一般的にいって、社会保護の改革に中央権力が大きくかかわったとか、自発的にとり組んだとか、ということを過大に評価してはならない。これまで扱ってきたすべての例では、改革はせいぜい地方レヴェルでとり組まれたものであった。貧民保護と医療システムの再編は、社会変動の壮大なドラマに反応しつつ、個々の都市で少しずつ実施されていたのである。

イングランド

 1569年以前から早くも若干の都市がロンドンの例に倣い、予防措置ならびに組織的対策に乗り出していた。(略)

リンカンでは1543年、市当局は、すべての貧民に判事の前に出頭することを命じ、貧民の生活状態が援助を受けるに値するかどうかの裁定を下していた。(略)

 1570年代になると、公の場所での物乞いを一掃する一方、「本物の貧民」を組織的に援助し、安定した税によって貧民の面倒をみつつ、教区を守ってゆこうとする志向が強まった。1579年のロンドンの条例は、教区の貧民監督官は貧民および障害者に援助を保証すること、市当局は浮浪者を労働に駆り立てる役目を負うこと、と定めた。教区の役人は自分の地区に住む貧民を厳しく監視し、とくに彼らが何らかの職種をもっているのかどうか、労働能力があるのかどうかを審査した。貧民の家々を日々監視下に置くことが強く打ち出された。

(略)

[ノリッジでは]

 女性と子供を雇用する場合、特別の女性看守が任命され、この女性看守には市から賃金が支給された。彼女たちは、ひとりにつき6名から12名を監視し、また子供たちに読み書きを教える義務も受けもった。もし、自分で用具と原料を確保できるものがいれば、自分の労働による製品を販売し利潤を得てもよいとされた。そのほかの場合は、女性看守が定める賃金で満足しなければならなかった。女性看守は、自分の保護監督下にある者に思いのままに懲罰を加える権限ももっていた。(略)

 この保護システムの導入とともに、市当局は懲罰をもって威嚇しながら、物乞いを完全に禁止する布告を出した。施しをした者には、罰金刑が科せられた。

(略)

社会保護システムを機能させていたのは厳格な強制と弾圧であり(略)矯正のための恐るべき「労働の家」であった。

監獄

監獄というのは、本来地下牢や独房があるだけで十分であり、一時的に収容するところ、あるいは好ましからぬエリートを隔離する場所にすぎなかった。18世紀中葉のあるフランスの法律家は、監獄というのは懲罰の場所ではなく、一時的に囚人を収容する場所であった、と述べている。アンシャン・レジームの崩壊に到るまでフランスの刑法を規定し続けた1670年の王令には、つぎのような順序で刑罰が列挙されている。死刑、拷問、終身漕役刑、終身追放、時限付漕役刑、鞭刑、晒し刑、時限付追放であった。このなかには監獄はなかった。監獄への収容というのは、広い意味で教会裁判が下した罰であり、世俗権力の側からみると、漕役刑送りにできない老人や女性、負債を払えずに逮捕された者、瀆神罪の罰金を払えない者を収容したのが監獄であった。監獄とは、要するに生活維持能力の程度に基づいて設けられた施設だったのである。囚人が物的手段を行使しなければ、食物はもらえなかった。罰は、自由の剥奪ではなく、飢えであった。

(略)

 監獄が大規模に犯罪者を処罰する手段となる以前は、近代ヨーロッパは、乞食に対する社会政策を実施する手段として監獄を利用したのである。中世に行われた強制的な癩病患者の隔離に続いて、ペスト患者の隔離が実施され、そのあと狂人と乞食の隔離へと移行していった。

「矯正の家」

[オランダのユマニストが1587年の論文で]社会政策を懲罰に応用して自由の剥奪と強制労働とを連結しなければならないと述べている。アムステルダムの貴族社会にはこうした思想を広める者や継承者が現れ、まず男性用の労働の家、ついで女性用のそれがつくられた。男性用の労働の家では、主としてブラジルから運ばれた木材の製材が行われ、女性と子供を収容する施設では糸紡ぎと裁縫が行われた。アムステルダムの労働の家に続いて、産業発展の著しいオランダ各地で続々と労働の家が建てられていった。これらの労働の家は、安価な労働力の提供という利潤に基づく形態に変質し、慈善という本来の機能は徐々に薄れていった。労働は、集団生活を営む建物内で行われ、報酬が支払われた。時間割りが厳密に規定され、一日の日課として、祈りと宗教書の音読が義務づけられた。最初からアムステルダムの施設は懲罰的性格をもち、貧民のみならず、若い犯罪者をも収監したのである。(略)

 貧民の「怠惰」を一掃することが、労働の家のひとつの役目であった。これは、徹底したやり方で行われた。アムステルダムの労働の家では、怠業をやめさせるのに、つぎのような方法が用いられた。貧民が労働を拒否したとき、この男を地下牢に閉じ込め、少しずつここに水を流し込む。閉じ込められた貧民は溺死したくないので、そこに備えつけられているポンプで水を汲み出さねばならない。このような方法が怠惰を矯正し、労働癖をつけるために大きな効果を上げる方法と考えられたのである。(略)

オランダのとり組みに続いて、ドイツでも強制労働の家が相次いで誕生した。

総合病院

[フランスでは]貧民を隔離する計画は、17世紀に「総合病院」という形態で実現をみることになった。

(略)

トゥールーズの総合病院の建設プランを示した文書には、「出生のゆえに富者に仕えなければならない貧民」は、若いころから長いあいだ怠惰や浮浪という堕落した悪習に身を委ねてきた者である、とはっきり記されている。「社会的鍛錬」という動機づけが、ここでは明瞭に展開されている。

(略)

総合病院は、貧民すべてを収容したのではなく、その代わり貧民すべてに監獄という恐ろしい生活条件を示すことによって畏怖させたのである。典獄は収容者に対し、労働規律に違反したとか、宗教上の掟を守らなかったという理由で鞭打ちを加えたり、晒し者にしたり、地下牢につなぐ権限を行使できた。総合病院に収容された者は灰色の服をまとい、頭巾をかぶっていた。灰色の服には印が付けられ、個人番号が縫いつけられてあった。

(略)

実際に、作業場における貧民の強制雇用は、総合病院にいかなる純益ももたらさなかったばかりか、その運営費に余計な負担さえかけていた。(略)社会的・宗教的な教育課題の方だけは実現した。(略)

 総合病院における監禁と強制労働は、恐怖と威嚇と暴力をもって労働のエートスとその普遍性を保証したのである。近代の社会保護が確立される過程でとられた弾圧的措置のもつ光景は、それ自体が固有のイデオロギー的機能をもっていたのである。

(略)

[一方、その刑罰的性格に嫌悪と不安を抱く直接の企画者もいた]

ヴァンサンド・ポールは、貧民を監禁することが神の意志にかなうものかどうかに確信がもてず、総合病院の運営を拒否するに到るのである。この政策に関しては、17世紀と18世紀を通じてフランスの宗教界でたえず様々な異論が出されている。そればかりでなく、民衆のあいだでも、監獄への収容に抵抗する乞食を助ける気運が生じ、収監にあからさまな憎悪を示す者が出てきた。(略)

貧民の側に立って喧嘩や騒乱をけしかける人々のなかには職人、奉公人、従僕、労働者がおり(略)

彼らには、社会的帰属の面で共通の感覚があり、救貧院の作業場がもたらす不当な競争に対する怒り、不服従を貫く収容者への共感と当局に対する憎しみがあった。それとともに、貧困に共鳴する伝統的な姿勢、すなわち貧民を聖なるものとして崇めようとする伝統的な態度がなお生きていたことも観察できる。

(略)

1758年に、賃金の支払いを受けるために道ばたにたむろする250人の道路工夫の一団が、警察の手から乞食を奪取しようとして騒ぎに発展したことがあった。あるいはまた、捕まった乞食が、「石工よ、助けてくれ!」「仲間たちよ、助けてくれ!」と叫んでいた例もあった。

(略)

 フランス大革命のさなか、1789年9月はじめに、パリの群衆はいくつかの監獄に侵入し、独自の人民裁判を行い、一部の者を解放している。彼らは、百年来刑罰的性格と暗いイメージでみられていた総合病院の各棟にも侵入したのであった。(略)

[レチフ・ド・ラ・ブルトンヌは救貧院から解放された少女たちについて、こう記述]

学校ではいつも女警吏が鞭をふるい、彼女たちは永遠の独身生活を強いられ、劣等でまずい食事しか与えられていない。

グリフィス『イントレランス』(1916年)は

都市の貧民社会の慈善の光景を皮肉を込めて描いたものであり、博愛家や慈善施設のもつ偽善をあばき、慈善のプログラムと貧民の期待するものとのあいだのすれ違いを浮き彫りにした作品である。グリフィスの描写で特徴的なのは、社会保障には必ず弾圧行動が付随し、貧民集団の生活スタイルや日常生活における道徳性や行為、宗教活動への参加、個人の健康管理に厳しい監視が伴っている、という点を暴露したことである。この点こそ、本書の序文で貧民の集団的イメージとして指摘した、恥辱の刻印を固定化するものにほかならない。(略)

慈善行為は、それを推進する者の意志とはかかわりなく、しばしば貧民集団の不信と憎悪の的となり、また社会主義運動に敵対するものとなった。

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2018-01-23 ブリテン問題とヨーロッパ連邦―フレッチャーと初期啓蒙 このエントリーを含むブックマーク


ブリテン問題とヨーロッパ連邦―フレッチャーと初期啓蒙

作者: 村松茂美

メーカー/出版社: 京都大学学術出版会

発売日: 2013/01

|本| Amazon.co.jp

フレッチャーの危機意識

フレッチャーは、「世界君主制」も「常備軍の形成」もともに「専制と世界の奴隷化」をもたらすものとして深い危機意識をもって眺めていた。このような危機意識こそ1697年から始まるイングランドでの「常備軍論争」のなかで処女作『民兵論』を公刊させたものであった。彼はその論考冒頭で次のように言う。

 人類の大部分の人々は、統治という口実のもとで、侮辱と冷酷さをもってあつかわれ苦しめられているが、その侮辱と冷酷さほど、人間社会の出来事において、説明できないものはおそらくない。というのは、自分たちの野心、貪欲そして奢侈を満足させるうえで、邪悪な統治がもっとも役立つものとして、自分たちに利益をもたらすものだと誤って納得している人々のなかには、最大限の術策と暴力をもって、そういう統治を確立することに着手するものがいるからである。そしてこういう人々によって、全世界は足下に踏みつけられ、そして専制にさらされてきたが、それはどんな手段と方法によって世界が奴隷化されるかということについて理解をかいてきたためである。

 専制と世界の奴隷化。これこそフレッチャーが17世紀後半において、ヨーロッパの情勢のなかにみたものであった。(略)

国内における専制政治の樹立と世界の奴隷化は、かってはスペインが、そして先の戦争においてはフランスがめざしたものであった。スペインの世界支配の試みは、専制政治によってもたらされた本国の人口減少とインダストリの衰退によって失敗した。フランス国王ルイ14世の試みは、イギリス、オランダを中心とするアウグスブルク同盟によってひとまず阻止され、ヨーロッパの勢力均衡はかろうじて維持された。しかし、ルイ14世の野望を阻止するうえで大きな役割をはたしたウィリアムが、戦後ルイの野望にそなえるためとはいえ、常備軍形成へと動き出したのである。(略)

 このようなフレッチャーの危機意識は、彼ひとりのものではなかった。(略)名誉革命以降のブリテンの歴史は、後世からみれば、自由な国制が実現していく過程とみられるかもしれない。しかし、その時代に生きた人々のなかには、「危機の時代」ととらえた人々が存在したのである。

(略)

ウィリアムの対フランス戦争において、スコットランドは兵員の供給源とされたばかりか、スコットランドの経済的危機を克服するためにくわだてられた「ダリエン計画」もイングランドの貿易利害によって挫折を余儀なくされた。

合邦問題「外国人法」

[アトウッドは]スコットランド議会内の反対派を「フランスの手先」とののしる。(略)

こうして1705年2月5日に「外国人法」がイングランド議会を通過する。その法は、同年のクリスマスまでに、スコットランドが、合邦交渉のための委員を任命するか、あるいはハノーヴァー家の王位継承をうけいれなければ、イングランドにおけるスコットランド人は外国人として扱われ、スコットランドの主要な輸出品である家畜、リネン、石炭のイングランドおよびアイルランドヘの輸入が禁止されるというものであった。(略)スコットランド人はイングランドにある土地財産を相続できないことを意味する。

(略)

 外国人法は、スコットランドに激しい反イングランド感情をうみだした。

(略)

[翌年4月合邦交渉開始]

スコットランド側は連合諸州やスイスのような連邦的合邦を考えていたが、イングランド側が包括的合邦を主張すると、その主張をひきさげ(略)[1706年]「グレート・ブリテン」として両王国は統合[基本合意]

(略)

フレッチャーが見たものは、買収によって合邦反対派が少数派へと転落していく事態であり(略)最後の局面では、彼はまさに「孤立した思想家」であった

トランド『民兵改革論』、フレッチャーの構想

 トランド『民兵改革論』によれば、イングランドの民兵を構成するのは、「自由人」でなければならない。ここで「自由人」とは、「財産をもった人々、あるいは自分自身で生活することができる人々」を意味する。他方、「独立して生活できない人々」は「使用人」と呼ばれる。「自由人」は、「自由と財産」のために戦い、「使用人」は、「彼らの生命以外失うものを何ももたない」ために、「パンのために」しか戦わない。さらに「自由人」のもつ「不動産あるいは動産」は、「政府への忠誠の確実な担保」である。この「自由人」の民兵としての訓練は以下のようにしておこなわれる。教区において、週一度、16歳から40歳までの自由人と健康な使用人が訓練をうける。(略)使用人は民兵の一員ではないが(略)外国の突然の侵略をうけたとき、あるいは国内に暴動がおこったとき、彼らは民兵の「付属」として働くことができるからである。

(略)

[対してフレッチャーは現行の制度では]地位と財産をもつ人々は、自分たちのかわりにどんな邪悪な使用人さえも送ることを許されている。そのため、彼ら自身は武器を扱うことに不慣れになることによって、卑しい人間になっている。

(略)

[改革すべき点は]「地位と財産ある人々」に軍事訓練をあたえ、彼らを民兵の中核とすることにある。[と主張]

(略)

そもそもトランドにとっては、専制政治をもたらす危険性は常備軍よりもカトリックのほうがはるかに高かったという点である。カトリックは「祭司の術策の極致」であり、思想・信条の自由を奪うものであった。自由な思考が奪われたところに、思考の停止したところに専制はしのびよる。

(略)

ローマカトリックがあらゆる宗教のなかにある滑稽で、不正な、あるいは不敬なあらゆるものの濃縮物であるということ、それが最高の完成の域に達した祭司の術策であるということ、それが人間の軽信性につけこんだ最も傲慢なペテンであるということ。

(略)

 君主がいかなる宗教を信じようと、商業文明の発展がおのずと専制をうみ出すと考えたフレッチャーとは対照的である。

デフォーの批判

 フレッチャーの民兵についての議論はデフォーの『議会の同意があれば、常備軍は自由な統治に反しないことを示す一論』によって批判される。その論考の特色は、すでに述べたように、ヨーロッパにおいていちはやく市民革命をへて議会の確立をみたイングランドの歴史に依拠して、ゴシック政体論を再構成するところにある。(略)過去と現在では戦闘様式と国際関係が大きく変化し、「現在のイングランド」では常備軍が必要とされるにいたったことを主張する。

 (1)戦闘様式と国際情勢の変化

 「過去のイングランド」は、長年隣国にたいする侵略者であり、自国を侵略されるという危険性をまったくもたなかった。そのような時代にあっては、民兵が十分にその役割を果たすことができた。それにたいして、「現在のイングランド」は、「国内の平和は確実なもの」であるにもかかわらず、「あまりに大きすぎるほどにまで成長したひとりの隣人」、フランスの脅威にさらされている。フランスはたんにイングランドにとってのみでなく、ヨーロッパ諸国の「平和、自由そしてプロテスタントの宗教」にとって脅威でもある。この脅威にそなえるためには、同じくフランスの脅威にさらされているヨーロッパの諸国との「同盟と連合」を欠くことはできない。また、戦争をおこなう場合には、同盟国をイングランドの防壁とし、「敵国において戦争をおこなう」ことが必要である。デフォーは言う。「われわれの仕事はフランダースを保持し、辺境の諸都市を守護することであり、同盟軍と協力して戦場にあることである。これが侵略と急襲をふせぐ方法である」。戦争という事態になってから、軍隊を徴集するのでは手遅れである。「戦争の技術」の高度化によって、兵士の不断の訓練が必要となったからである。

 以上の理由で必要とされる常備軍は、「議会の同意があれば」、平時においても、「自由な統治に矛盾することはない」。そして、「国王、貴族そして庶民の一致・調和」があるかぎり、常備軍が「われわれを奴隷にする」ことはありえない。

封建的土地所有の解体と新たな統治

 [イングランド国教会牧師]スティーブンズによれば、かってのイングランドの君主制は、全土の三分の二以上を所有した国王、貴族そして教会の土地の「不均衡」のうえにおかれていた。

(略)

領主=貴族の気分次第で国王が廃位されてきたのをみた国王ヘンリ七世は、領主たちの権力の基礎が彼らの所有する土地にあることに気づき、土地所有の形態を、借他人が領主にたいして軍役奉仕を負う形態から、地代のみを支払う関係へ変更した。そして貴族の土地を子孫に残すことを阻止する方法が発見された。(略)

これによって、ヘンリ八世の治世の終わりには、イングランドの庶民は全土の三分の二の土地を所有するにいたり、残りの三分の一を国王、貴族、教会が所有するのみとなった。このため「均衡」は庶民の側にうつり、チャールズ一世の治世において明らかなように、庶民は国王、貴族、教会にたいして戦いをしかけることが可能となったのである。

(略)

女王エリザベス一世は庶民の間での「人気」と「愛情」に訴えた。しかしジェームズ一世は、このような「名誉あり適切な手段を追求する気質」をもたず、「彼の深い学識を賞賛し、ほとんど崇拝さえする教会派」のなかに統治の手段を見いだした。その子チャールズ一世も同じ手段を追求した。その結果、「聖職者の国王の寵愛をえたいという気持ちは、国王大権を増大することによって国王を強大」にし、「彼らが神の言葉から導き出したある政治的教義」(王権神授説と受動的服従)のために、「国王大権を王国の法のうえにおく」ことになった。スティーブンズによれば、これこそ「祭司の術策」である。チャールズ二世は、この術策にあまりにたよりすぎたために、人々が「説教壇の戒律が人々の自由の廃墟のうえに国王大権を構築する」ものであることに気づくや、国王にたいする戦いが始まり、国王はその生命を落とした。

(略)

ジェームズ二世は、このふたつの術策のどちらも信用せず、彼の専制を常備軍によってささえようとしたが失敗した。

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2018-01-20 ファンダム・レボリューション:SNS時代の新たな熱狂 このエントリーを含むブックマーク


ファンダム・レボリューション:SNS時代の新たな熱狂

作者: ゾーイフラード=ブラナー, アーロン M・グレイザー

翻訳: 関美和

メーカー/出版社: 早川書房

発売日: 2017/12/06

|本| Amazon.co.jp

巻末の若林恵の解説で大体の内容は補足できる気が。

解説:ファンとはいかなる存在か 若林恵

 言うまでもなく、自分は明菜に「なりたかった」わけではない(略)

ただ、寝ても覚めても「明菜」がアタマのなかにいて、「明菜サイコー!」と心のなかで叫びたい気持ちがあるだけなのだ。

(略)

 たとえば、どうしても好きすぎるアルバムがあったとき(略)「そのアルバムになってしまいたい」と思ってしまったりする。

(略)

 近現代の経済理論は、長らく経済主体である「消費者」というものを「自身の効用を最大化すべく合理的な行動をするもの」と考え、「企業」というものも「自身の利潤を最大化すべく合理的な行動をするもの」と考え、それぞれの行動がクロスするところに「モノの価格」が決定するとしてきたが、その仮説からみたとき、「ファン」という存在は、いかにも非合理で、謎めいたものとして立ち現れてくる。

(略)

 ファンのモチヴェーションは、費用対効果で決して測ることができない。むしろ、ファンは、そこにそうした「経済合理性」を持ち込まれることをすら嫌うだろう。「タダでもやる人がいるんだから、インセンティブを与えればもっとやるだろう」という観点から行われるマーケティングは、ファン心理を決定的に見誤っている。お金をもらってファンアートを描くような人間は、ファンの風上におけない。そんなシンプルな動態さえ、経済学やマーケティング理論はきちんと扱えてこなかった。それではもはやこれからの商売は立ち行かない、ということが、本書のような本が必要となっている理由なのだろう。

(略)

 スティーブン・ブラウンは「ファン」を安易にマーケティングの対象とすることについて、本書のなかでこう厳しく戒めている。「ファンは普通の人たちじゃない。すごく饒舌なのは確かだし、商品を心から愛してくれてもいる。それに積極的に商品を勧めてくれる。でも偏った人たちの集まりだ。みんなを代表しているわけじゃない。というか、まったく代表していない……(略)ファンはブランドにとって要となる存在?答えは、ひとこと言でうと、ノーだ」

 「ファン」というのは、結局のところ、決して満たされることのない心を抱える「たったひとりのカルト=One Man Cult」なのだ。「ファン」は、その人生をかけて何かにコミットしようとするが、一方でその対象は、「ファン」の人生に対して責任を負うことは決してできない。そこには決定的な分断と非対称性がある。

 「企業にとって必要なものと、ファンが望むものの間には常に相反がある」、「ファンとオブジェクトの関係はいつも一方通行だ。ファンは愛する対象に強い感情を感じるが、対象はファンに対して同じ感情を抱くことはない」(略)

ファンの愛は、報われない(略)ファンは哀しい。その哀しみは、実に人間的なもので、であるがゆえに、危険なのだ。

ウォーレン・バフェット

 バフェットは多くの企業経営者とは違い、ファンの熱狂に喜んで応じている。1998年に総会が大荒れしたあと、アナハイムのディズニーパークから離れた場所で株主総会を開くことにしたウォルト・ディズニー社とは対照的だ。バークシャー・ハサウェイの株主にとって、総会は人生最高のバケーションとも言える。バークシャー・ハサウェイの株を一株でも持っていれば株主総会に招待されるし、株を持っていなくてもチケットは簡単に手に入る。値上がりを防ぐために、クレイグスリストやイーベイでは五ドルでチケットを売っている。

(略)

 大手投資銀行でエグゼクティブを務めるルッソのガールフレンドは、株主総会に出席したくてバークシャーの株を買った。「チケットを買ってもよかったんだけど、ちゃんとしたかったの。確定拠出年金でバークシャーに投資して、ウォレン・バフェットに会うんだ、って決めたのよ。ダサいと思われるかもしれないけど、実はすごいことじゃない。本物のウォレン・バフェットに会えるんだから。バフェットと一万七〇〇〇人の友達と一緒に九時間も同じ部屋にいるのよ」

 二〇〇八年の参加者は四万人に近かった。とはいえその全員が一堂に会するわけではない。参加者の層はさまざまだ。バフェットの言葉に儲けのヒントを探そうとやってくる、アメリカのどこにでもいるような中年男女。人脈を作りたい金融マン。自分のビジネスを宣伝したい起業家。

(略)

「アメリカは絶好調だよ」とバフェットが言うと、会場から拍手が沸いた。次の質問への答えは、結局なぜ大学教育が成功に必要ではないのかという説明になっていた。会場は歓声で湧きかえった。

 バフェットの答えはユーモアたっぷりで思慮深く、ひとつの質問に答えるのに三〇分もかかる。

(略)

 フットボール場の二倍の広さがある隣の会議場では、バークシャー・ハサウェイの株主総会のもうひとつのイベントが進行中だった。物品販売だ。バークシャー・ハサウェイ・パンツ。バークシャー・ハサウェイ・カフス。バークシャー・ハサウェイ・紙幣挟み。運動靴。ブラジャー。スカーフ。野球のグローブ。カウボーイブーツ。エプロン。バークシャー・ハサウェイ・ダイヤモンドペンダントは五〇〇ドルを超える値段だ。バフェットの言葉が彫り込まれた銀のトレイもある。「非凡なことをしなくても、非凡な成果は出せる」。

(略)

 六〇メートルもありそうなシーズキャンディのブースにある棚は、どれも空っぽになっていた。熱狂的なファンがピーナッツブリットルを速攻で棚ごと買い占めてしまうのだ。「毎年こんな感じよ」商品補充係のブロンドの中年女性が、新しい箱をビリビリと開封しながら言った。(略)「ウォレン・バフェットの大好物だから、みんな買いたがるのよね」と息を吐いた。

 「バフェットの好物だって?ほんと?」ハゲた中年の男が箱に手を伸ばしながら聞いた。

(略)

 イベントの常連は壁沿いにずらりと並び、コンクリートの床に座り込んでいる。チノパン、ビジネススーツ、ヨガパンツ、ハイヒール、ビーチサンダル。みんなゴムのように固いサンドイッチとプレッツェルを食べながら、通路に溢れかえって戦利品を比べあっている。ティーンエイジャーの女の子が身につけている黒いTシャツのロゴは「次のウォレン・バフェット」。彼女は恥ずかしそうにもごもごとつぶやいた。「去年パパが買ってくれたの、だから今年はどうしても来なくちゃならなくて」

(略)

 コンベンションセンターでのイベントが終わりに近づくと、参加者の一群は住宅街にあるバフェットの簡素な家の外に集まって写真を撮っていた。

(略)

 翌朝は五キロ走の日だ。参加者は限定記念版のバークシャー・ランニングシューズを見せびらかすことができる。 

ポラロイド

[2008年ポラロイドはインスタントフィルムの製造中止を発表]

 ファンたちは品切れになる前に最後のフィルムを買いだめしようと店に急いだ。オーストラリアでは、ポラロイドの売上は予想の三・五倍にもなった。ポラロイドは失望の声にこう答えた。

 「これまでポラロイドをご愛顧下さった皆様に、できる限り長くご利用いただけるように努力していくつもりです」(略)それでも、ファンは強硬だった。

 フロリアン・カップスは、インスタント写真の大ファンで、ポラロイドフィルムをオンラインで販売している。インスタントフィルムの保護運動に、早くから参加した。もしポラロイドフィルムがなくなってしまったら、世界中にある二億台のポラロイドカメラが使えなくなってしまうし、カップス自身の商売にももちろん影響する。一歩も引かないカップスにポラロイドの経営陣も気づき、おそらく批判を和らげたい下心もあって、二〇〇八年六月にオランダエ場の閉鎖パーティにカップスを招いた。(略)

 そこにいたのが、アンドレ・ボスマンだ。ポラロイドの製造責任者を二八年間も務めたボスマンが工場を閉鎖することになり、彼自身も遺物になった。パーティの席で、カップスとボスマンはポラロイドの損失を愚痴り合った。工場閉鎖は機会損失だ。当時、ポラロイドはまだ年間二四○○万パックのフィルムを売り上げていた。年間一億パックの生産能力にははるかに及ばないが、それでもかなりの量だった。

 小規模に事業ができないだろうか? 巨大な組織には、巨大な顧客基盤が必要になる。だが、小さな組織なら、管理もはるかに簡単だ。ボスマンとカップスは数人の投資家と一緒に、その閉鎖された工場を借り、ポラロイドが撤退したばかりの市場に戻ることにした。彼らは工場の買収を「インポッシブル・プロジェクト」と名付け、同じくらい不可能な目標を掲げた。それはポラロイドカメラ向けのフィルムを復活させ、その過程でこれまでとまったく違う、新しい世代のインスタント写真ファンを作ることだ。(略)

フィルムカートリッジには一〇〇種類を超える化学原料と数十種類の薬品が使われていた。「気が狂いそうなサプライチェーンだった」(略)

彼らが最初の白黒フィルムの発売にこぎつけるまでに、二年かかった。

 その新しいフィルムは失敗だった。画像は暗くすすけた色で、ぼんやりしていた。薬品がフィルムから漏れ出し、カメラの中がベトベトになることもよくあった。現像に一〇分もかかることもあった

(略)

 そのひどい欠陥フィルムでも売れた。チームは買い手を「パイオニア」と呼んだ。彼らはインスタント写真のスーパーファンで、フィルムの復活に苦労しているインポッシブルチームを支えてくれる存在だった。[現CEOの]スモロコウスキ本人すらほとんど使えないと認めた初期の製品をわざわざ買ってくれた、勇気ある人たちだった。「この美しい媒体を守るために僕たちも努力していることを伝えたかった。今はまだだめだけど。でも買う人がいてくれないと、続けられない。たくさんの人が買ってくれていた。欠陥品だとわかっていても、ファンが復活を支えてくれていたんだ」

 欠陥だらけの商品を発売するのは、リスクが高かった。特に、半世紀もかけて完成された人気商品の代わりとしては、リスクが高かった。伝統的な企業ならこんなやり方でファン層を開拓するなどありえなかった。大企業なら、研究開発に何年どころか何十年もかけて、製品を市場に出す。

(略)

 インポッシブルチームは乱雑なフィルム開発作業を包み隠さず、それを公開した。薄汚いセピア色の写真も、進歩の印だった。ファンはその挑戦を支え、何枚も写真を撮り続け、本社にフィードバックを返した。「フィルムが使いづらかったから、逆に撮影スキルの差がはっきり出た」とスモロコウスキは言う。

 インポッシブル・プロブェクトには三〇〇〇人ほどの「パイオニア」がいた。フィルムの品質が上がると、新しくて懐かしいものを探していた若いファンが買ってくれるようになった。(略)

[三年もしないうちに]新しい種類のインスタントフィルムを開発し、同時に懐かしい体験に近づける商品ができた。写真はより鮮明になり、現像時間は短くなり、色彩はきれいになった。「もうポラロイド写真じゃない」とスモロコウスキは言う。「あり得ない[インポッシブル]写真なんだ」

(略)

二〇〇八年の終わりにポラロイドは倒産した。破産手続きから更生したポラロイドは、以前とは違う会社になっていた。ポラロイドらしい最先端のテクノロジーと専門性は失われていた。工場は閉鎖され、科学者は新しい仕事に移り、販売網は崩れていた。残ったのはポラロイドの名前と熱心なファンだけだった。

 新生ポラロイドは、八○年にわたって開発されてきた知的財産権を管理する持ち株会社だ。ポラロイドの名前、ロゴ、ポラロイドの象徴である白地に紅色の縞模様が、この会社の主力商品だ。サングラス、Tシャツ、カメラ、写真プリントサービスなどにポラロイドのロゴがついている。

 インポッシブル・プロジェクトは、ポラロイドの精神を借りているだけで、ポラロイドの組織とは関係ない。ポラロイドからライセンスを受けているわけではなく、正式な契約関係もない。それでも、インポッシブル・プロジェクトの存在はポラロイドにとってありがたいものだ。インポッシブル・プロジェクトによって、ポラロイドというブランドが若い消費者に注目されたからだ。一般の人の意識にのぼることが戦略として最も重要なのだ。

 「ポラロイドの懐かしさに人は引き寄せられる。あの形、あの名前、あの縞横様にね。それが心に響くんだ。ファンは珍しいものを見かけて嬉しくなる。『あれ、ポラロイドじゃん』みたいな感じで。すぐにわかるし、そこに惹きつけられるんだ」そう言うのは、ポラロイドブランドの商品を開発してきたドブ・クイントだ。

 最近は、さまざまな下請け会社がポラロイドカメラを製造している。下請け会社はおカネを支払って、ポラロイドのブランド名を使わせてもらう。たとえおカネで買った名前でも、ポラロイドというブランド名がカメラに歴史を与えてくれ、伝統の一部のように思わせてくれる。(略)

昔のポラロイドカメラと契約上の関係しかないことを気にするファンはほとんどいない。「ポラロイドを持ったことのない若い人たちが、親やおじいちゃんおばあちゃんから話を聞いて、『すごい欲しい!めっちゃレトロでビンテージじゃん』ってなる」とクイントは言う。

 ポラロイドが二度目の破産を宣言してから三年後の二〇一一年、コアブランドが主催するブランドカ調査で、ポラロイドは八二位に入っていた。サムソン、ベライゾン、マリオット、イーベイよりも上だった。今のポラロイドは世界で最も強力なブランドのひとつで、純粋に名前の力だけでその地位を維持している。

第8章 ファンダムが炎上するとき

[2014年]イケアは、ジュールス・ヤップというブロガーに削除命令を送り付けた。ヤップはイケアハッカーズという大人気サイトを運営していた。このサイトはイケアの家具を、創意工夫で新しい意外なデザインに変えるための手助けをし(略)一〇年以上も続いた長寿サイトになっていた。

(略)

 「イケアが商標を守ることにわたしとしては異論はないけど、もっとうまく対応できたと思う」とヤップはワシントンポストに語った。「わたしはただの一個人で、会社じゃない。明らかにイケアの味方のブロガーだしね」(略)たとえば、イケアのホームページと見まがうような紛らわしい名前のサイトを勝手に運営していたら、削除命令を送りつけるのは理にかなっている。だがファンサイトを運営するブロガーの場合は、たとえそこでおカネを儲けているとしても、丁重な手紙を送って対話を始めた方がいい。ヤップの弁護士はイケアと交渉し、商業利用でなければサイトの運営を続けていくことが許された。この合意が発表されると、サイトのファンたちは歓喜した。(略)

コリイ・ドクトロウは、イケアの対応をこき下ろした。「イケアの削除命令は、法的にはとんだお笑い草だよ。商標違反なんてないんだ。イケアの名前を、純粋な事実として使ってるだけだからね。イケアハッカーズ上でおカネがやり取りされていること(イケアの弁護士はここが一番気になっていたようだ)は、商標の利用と切り離して考えるべきだ。ハッカーズを、イケアのサイトだと勘違いしたり幻想を抱いたりする人はいない。削除命令は単なるいじめだし、検閲みたいなものだ……」

 ヤップが削除命令を公にしてから一週間もたたないうちに、イケアはそれを引っ込めることになった。「イケアハッカーズの状況に関して、非常に申し訳なく思っています」イケアはヤフーの記者にそう語った。ヤップはイケア本部に招かれ、イケアの商標を所有するインターイケアシステムズのCEO――なんとCEO――に会った。最終的にヤップはサイトの継続も、広告とそのほかのすべても許されることになった。

(略)

 ヘーゼルナッツペーストとして人気のブランド、ヌテラの製造元フェレロ社もまた、二〇一三年に同じような状況におちいった。「ファンページの中にヌテラの不適切な使用が見つかったため、商標保護のための慣習的な手続きが取られてしまいました」とフェレロ社は言っていた。(略)

かなり長い間、ヌテラはアメリカではあまり知られていなかった。二〇〇七年にイタリアに在住していたアメリカ人のサラ・ロッソはヌテラの大ファンになり、アメリカでヌテラが知られていないことに驚いた。「こんなにおいしいのに、どうして全世界で人気になってないのかしら?」と思った。ヌテラは英語のサイトがなく、アメリカでは一部の人たちだけが専門食材店に行ってヌテラを探していた。

 ロッソはこのお気に入りのペーストを全世界に広めたいと思った。そこで、世界ヌテラデーを作ろうと思い立ち、ブログを通してそれを拡散した。まもなく食品ブロガーたちが、ヌテラにまつわるレシピや歌や詩や動画などを、ここに投稿するようになった。フェレロ社にとって、その価値は計りしれないほど大きかった。グーグルでのヌテラの検索数は右肩上がりに増え続け、毎年二月五日の祭日の前後で急増した。二〇一二年のはじめ頃には、ロッソと共同運営者のマイケル・ファビオは『ヌテラ非公式ガイド』を出版した。ふたりによると、これがはじめて英語で出版されたヌテラ本だった。

 ロッソのこれほどの努力に対して、フェレロ社の法務部門は削除命令を送りつけ、「ヌテラの名前、ロゴ、それに関連するもの」の利用をただちにやめるよう通告してきた。ロッソはショックを受けた。「ファンとしてやっていたことです」ロッソは当時ハフィントンポストにそう説明していた。「わたしにはフルタイムの仕事があるんです。おカネ儲けのためにブログをやってるわけじゃありません」

 「削除命令だって?そんならフェレロの商品なんてこっちからお断りだ」ファンのデイブはそう書いた。別のファンのアリソンは、買ったばかりのヌテラの箱をスーパーに返品した。「返品の理由を聞かれたから、例の削除命令のせいだって言ったのよ。そしたら、わたしだけじゃなかったわ」アリソンはそう書いていた。もう何年も世界ヌテラデーのイベントを好意的に報道してきたアメリカのマスコミは、このおいしいネタに飛びついた。フェレロ社の代表者が数日後ロッソに電話をかけ、削除命令を取り消すことを伝え、これまで通りサイトは運営を続けられることになった。

2018-01-17 昭和と歌謡曲と日本人 阿久悠 このエントリーを含むブックマーク

第5章以外は、主に音楽に関係ないエッセイ。

上村一夫が上京した和田アキ子に会って「有馬稲子にそっくり」と言ったてな話も。


昭和と歌謡曲と日本人

作者: 阿久悠

メーカー/出版社: 河出書房新社

発売日: 2017/11/14

|本| Amazon.co.jp

無名の意地――「朝まで待てない」

 鈴木ヒロミツさんの訃報は病院で知った。従って、通夜も葬儀も行けなかった。悔いがのこった。

(略)

その昔を知らない人のためにぼくは断言する。鈴木ヒロミツはロック歌手だったのだ。

(略)

既にグループサウンズの大ブームに翳りが見え始めてきた頃に、老舗のレコード会社が重い腰を上げてデビューさせた(略)

 遅れて来たグループサウンズの三つは、ザ・ダイナマイツ、ザ・サニーファイブ、ザ・モップスで、三組の作家が競い合わされた。

 ダイナマイツは橋本淳、鈴木邦彦が「トンネル天国」を、サニーファイブは、岩谷時子、いずみたくが「太陽のジュディー」を書き、この二組は売れっ子だった。そして、モップスを書いた阿久悠、村井邦彦はというと全くの無名で、しょうがない、無名の意地で挑むかと、ぼくらはかなり力んだ。

「ざんげの値打ちもない」

 この年1970年、ぼくはなぜか恐かった。世の中は浮かれの風が吹いているのに、ぼくには、重層的にこの世をこらしめるものが混じっていると、思えてならなかったのである。(略)

[大阪万博で]日本は明るかった。ただし、その二カ月後、戦後文壇の寵児三島由紀夫(略)割腹自害した。

 ぼくは明るさの中の暗さ、はしゃぎの中の恐さはこれかと思った。そして、恐さのシンボルは日本刀だった。

 ぼくは、父の遺品、警官だった父が戦前、剣道大会に優勝して得た一振りの刀を、他人の手に渡るのも恐く、また、自身が手にすることも恐く、油紙に密閉し梱包し、他人の蔵に預けたのである。

(略)

その頃ぼくは、北原ミレイという女性歌手の作詞の注文を受けた。意欲的にどうぞと言われた。(略)歌は抜群だから問題作をという注文だった。

 ぼくは、ぼくの心を捉えている1970年の暗さはこれだと思った。これだと思いながらも、なかなか具体的な暗さにつき当たらなかったが、その頃偶然に写真集を見た。

 冷え冷えとした石畳の坂道に、黒衣の女が蹲っているものだった。キャプションはなかった。倒れたのか祈っているのか、祈りに向かうのか、祈りの帰りのダメ押しかわからなかったが、「ざんげ」という言葉を思いついた。「ざんげ」から「ざんげの値打ちもない」に移るのは、ぼくに劇画原作者のキャリアがあったからかもしれない。

 四十五歳で夭折した劇画家上村一夫と若い頃、デビュー作「パラダ」をはじめ、「セクサス48」「スキャンドール」「俺とお前の春歌考」「男と女の部屋」「ジョンとヨーコ」などを書いていたから、物語性の強いもの、それも一代記ものを歌にしてみたかった。

 十四歳の少女が孤独に耐えかねて男の部屋へ転がり込む。十五歳の雨の日、安物の贈り物で結ばれ、愛を得ようとする。十九歳狂熱の夏、裏切った男をナイフを持って待っている。そして、そして、年月が過ぎて女は石畳の坂道にいる。そして呟く。〽ざんげの値打ちもないけれど、私は話してみたかった……と。

 その後彼女には「棄てるものがあるうちはいい」「何も死ぬことはないだろうに」を書いたが暗いと言われた。

「また逢う日まで」

 その頃、1971年には、作曲家の筒美京平は既に肩で風切る存在だった。ぼくはというと、それと比べるとはるかに地味で、風を待っていた。

 この二人を組み合せた人がいた。当時、音楽出版社日音の社員だった恒川光昭氏で、早稲田のグループ、ザ・リガニーズ(海は恋してる)の弟分の、エ・ビガニーズの曲を、筒美・阿久で書いてくれということになった。

 ザリガニの弟分でエビガニかと笑いながらも、ぼくは「明日では遅すぎる」というのを書いた。この作品がどうなったのか不明だが、それが縁でズー・ニー・ヴーの三作目を、同じコンビで作詞作曲することになる。

 時代は、70年安保に挫折した青年が、明日はどっちだと迷っていた頃で、ぼくは、「ひとりの悲しみ」と「未成年」を書き、どうだと思った。自信があった。だが、売れなかった。全くと言っていいほどに。

 しばらくして、また恒川氏から連絡があり、「ひとりの悲しみ」は捨て難い、新しく歌える歌手もいる、ついては、もう少し明日を感じさせる詞に書き直してくれないか、ということであった。ぼくは珍しく賛同した。予感があったのかもしれない。

 「ひとりの悲しみ」を「また逢う日まで」にした。

(略)

[レコード大賞獲得後]

恒川光昭氏と話した。どうであれ、二度目のオツトメで大賞とは、サクセス・ストーリーだねと言うと、彼は具合悪そうに、実は三度目のオツトメなんだと笑った。

 元々、ルームエアコンのCMソングとして書かれたものらしい。それがうまく行かなくて三度目になった。一度目のサビは、〽サンヨールームエアコン……と歌うようになっていたとバラした。

「京都から博多まで」

 ビクターレコードに磯部健雄さんという名物ディレクターがいた。グループサウンズを境にして時代が大きく変わったので、ぼくらから言わせると一つ前の時代の人だった。だが、巨匠には違いなく、まあ、敬して遠ざけるという感じで、ぼくは別の場所にいた。(略)

雪村いづみ、浜村美智子、青江三奈、森進一を育てたといわれると、静かにしている他はなかった。

 レコード会社のロビーの一隅に巨匠の定席があった。彼はいつもそこにいて、蜘蛛の糸に蝶がかかるのを待つように、気になる作家や歌手を見かけると、手招きするのであった。ぼくはなかなか手招きされなかった。可愛くなかったのであろう。だから、ぼくも近寄らなかった。音楽が違うとひそかに思っていた。

 それがある日呼ばれた。おいでおいでと手招きした。「君は大賞を取って、他にもヒットを出して一番だと思っているかもしれないけど、作曲の猪俣公章の方が二倍も三倍も稼いでいるぞ。やっぱり演歌を書かなきゃ商売成り立たん」と言われたのである。つまり、挑発されたのだ。(略)

森進一や仲雅美の物を数曲書いたが、褒められた割りにはA面に使われなかった。ムッときたが巨匠なら仕方ないかなと思う。

 その後、おそらくは磯部健雄を経て猪俣公章だと思うのだが、藤圭子の発注がきた。(略)

[名前の印象から]ずっと年長の人だと思っていた。羽織袴で現れるのではないかと思っていたが大違いで、チリチリのパーマに、スケスケのシャツ、縦ジマのパンタロンにブーツ姿で、銀のウイスキー入れを手に登場したのである。「演歌かあ」という思いはそれでなくなり、気安く話してみると一歳年少であることもわかって驚いた。そして、「俺さ、ビクターの廊下の長椅子に腰掛けて、仕事待ちしていたこともあるんだよね」という話などもした。ぼくはなぜか、この人は新しい人なのだと思って、「藤圭子書きましょう」と答えた。

 藤圭子はそれより二年前、「圭子の夢は夜ひらく」で薄倖の美少女の怨歌を歌って、社会現象になっていたが、もはやその世界では売れなくなっていた。

 ぼくは引き受けて帰り、さてどうするかと考えた。立ちつくす女も、うずくまる少女も駄目とすると、主人公を移動させるしかないと「京都から博多まで」を書いた。演歌のA面第一作である。そして、それが売れ、猪俣公章とは「冬の旅」「さらば友よ」ら森進一作品につづくのである。

(略)

 浅間山荘に叩き込まれた巨大な鉄球が、今も目に浮かぶ。

あなたに逢えてよかった――「あの鐘を鳴らすのはあなた」

 和田アキ子に関しては、少々のエピソードがある。大阪から上京して来る、とてつもない大型歌手を迎えに行ってくれと言われたことである。(略)

[のちに社員が]伝説の新人の武勇伝を恐れていただけの話だということがわかる。(略)

 その時ぼくは銀座の喫茶店で、劇画の原作を懸命に書いていた。第一、それを受け取りに来た劇画家上村一夫が、まだかまだかと目の前にいるのである。

(略)

その時、何を思ったのか上村一夫が「ぼく代理で行って来ましょう。その間に原作が上がるでしょう」と出掛け、帰って来るや興奮して「有馬稲子にそっくりだ」と告げたのである。

(略)

 出会いの時のドタバタめいた印象とは別に、ぼくは和田アキ子を、それこそとんでもない歌手と思っていたから毎回、レイ・チャールズにするか、エルビス・プレスリーにするか、いずれにしろ大型歌手をイメージしていた。だが、ぼくのは売れなかった。最初に売れたのは大型とは無縁の「笑って許して」で、何だか世の中に肩透かしを食った気になったものだ。

 その後、若手の都倉俊一と組んで「天使になれない」と「夜明けの夢」を書き、これはかなり売れたので、ぼく自身の信用を回復することにもなった。

 そして、あの仕事の発注が来る。堀威夫氏から「アッコにもそろそろ賞を取らせたい。ついては、それに見合う大きな歌、たとえば『ケ・サラ』のような人生を歌うものを作ってほしい」と言われたのである。

(略)

希望の存在を書きたかった。〽あなたに逢えてよかった……と言いたかったのである。

「どうにもとまらない」

 舌ったらずの歌い方を、叩きつけの発音に徹底的に改造したのは、都倉俊一である。全体のコンセプトとして、アラビアンナイト的シリーズを出したのは、僕の筈である。(略)

タイトルは「恋のカーニバル」とぼくが付け、あまりに平凡なので、詞の中のいちばんインパクトの強い部分の「どうにもとまらない」をタイトルにした。

 そのことによって、時代性をもつのである。(略)株式欄に株価高騰を「どうにもとまらない」と書かれ始めたのである。さらにそれが偶然といいながらつづく。

 「どうにもとまらない」「狂わせたいの」「じんじんさせて」「狙いうち」「きりきり舞い」「燃えつきそう」となるのだから、ぼくは、ユリ・ゲラーかと言われた。

 そして、何年か後、「燃えつきそう」が最後になるのは、第四次中東戦争によるオイルショックである。

 時代と寄り添いながら出来た歌、時には時代を無視しながら作った歌が、時代を摑まえることもあるのだ。

  • 久世光彦

素人を起用するのが趣味の久世から二度の依頼。なかにし礼の刺客に刺し殺されるブランコで遊ぶヤクザ役と、生き別れになっていた小泉今日子の瞼の父親の豆腐屋の役。オクビョウモノでと断った。

「五番街のマリーヘ」

[二週間7万円の会費で女性だけの洋上大学を企画。ニッポン放送社長石田達郎が]一万三千トンのさくら丸を用意してくれたのである。

(略)

 「五番街のマリーヘ」が完成したのが、月の降る新潟沖を航行中で、都倉俊一の弾くピアノに合わせて、数百人の女性が合唱し、なかなか感動的なものであった。

 この気分とはよそに、時代は、「日本沈没」「ノストラダムスの大予言」雑誌「終末から」「破滅学入門」などが大ヒットし、冗談で済まない空気が暗く流れていた。

 そんな時、×年×月×日×時破滅という風評があり、たまたまその日が最大プロダクションの大物たちのスケジュールが入っていないという偶然も重なってパニックになった。あそこなら政府筋からの情報を取れるであろうということである。

 ×日×時、気色が悪いのでぼくらは収録を中断してスタジオの外に出たが何ごとも起きなかった。妙な一日であった。

 「五番街のマリーヘ」へ戻る。さくら丸が横浜港を出港して間もなく、地上では、韓国の次期大統領候補、金大中氏が日本のホテルから拉致されていたのだ。「終末から」よりはるかにリアリティがあった。

 「五番街のマリーヘ」はそんな時代の中の叙情歌である。

「悲しみとの決別」の空気――「恋のダイヤル6700」

フィンガー5はコメディアンの世志凡太氏が連れて来たように思う。(略)初対面で、「企画から二十年の傑作です」と言った。つまり、二十歳をアタマにした五人兄弟、いわば和製ジャクソン5がようやく完成したのですよと、自信満々であったのである。

 ぼくはバラエティ番組などもやっていたことがあるので、世志凡太氏のことは知っていた。世志凡太とモンスターズというコミックバンドで、かなりテレビ出演も多く、彼は歌とウッドベースをやっていた。

(略)

 ぼくと都倉俊一は、話だけではさほど乗り気ではなかったのだが、スタジオでテストを行い、リードボーカルのアキラという少年――幼年か――の声を聴いたとたんに、思わず親指を立てたほどである。(略)とんでもないものが転がり込んで来た気がしたのである。(略)

[前年の返還で]一種の沖縄ブームが起こっていた。ぼくも沖縄海洋博の壮大なテーマソング「珊瑚礁に何を見た」というのを書いていた。

 ぼくの「白いサンゴ礁」を返還を見越した目ハシのきいた作品だと深読みしてくれる人もいたが、実はあれに関しては全く沖縄をイメージしていなかった。むしろ、意外に思われるだろうが、「人間は美しい物を見た時にウソがつけなくなる」がテーマだったのである。とすると、炎熱の沖縄より静寂の京都の龍安寺の方がそぐうのだが、それだと歌に合わない。「白いサンゴ礁」は結局そのどちらに引っ張られることもなく、心地いいカレッジフォークに仕上がり、ぼくのものとしてはまあ売れた部類に入った。

 さて、フィンガー5は、天才少年に感心しようがどうしようが、ジャクソン5のコピイであった。コピイはコピイ、歴史は作れない。何か彼ら独特のキャラクターを作りたかった。(略)

 そこでぼくは、アメリカの何セントかのコミック雑誌のようなロックンロールを作りたいなあと言い、都倉俊一の賛同も得た。

 それが、ローラースケートに乗り、ポップコーンを頬張り、時に、ソフトクリームを舐める学園物になったのである。成功した。彼らには従来の沖縄の歌手と違う、「悲しみとの決別」の空気があったのである。

「さらば友よ」

当時日本テレビと渡辺プロダクションは全面戦争の関係にあり、ぼくは「スター誕生!」も含め日本テレビ側のブレーンと思われているフシがあった。

 だから、沢田研二も、森進一も、小柳ルミ子も、天地真理も、布施明も、アグネス・チャンの作詞も諦めていた。

 ところが、森進一を依頼された。(略)

その時の作品は「冬の旅」といった。おそらくは森進一初の男言葉歌で、そこでもめた。ぼくはどうしても、男が「あたし」と歌うのは生理的にがまんならないものがあったのである。

 不思議な時代であった。ほとんどの男性演歌歌手が「あたし」と歌い、ネオン街文化の形をつくっていたのである。あの現象は何だったのであろうか。

「ひまわり娘」

 東京の夜が真暗になったことがあった。電力制限である。(略)石油ショックの狂騒曲の始まりである。

 1973年から翌年にかけてで、まさに暗い時代を迎えたのである。そして、その社会の空気に反発するように「ひまわり娘」が誕生した。いや、させた。(略)

 伊藤咲子は、予選では「漁火恋唄」といった抒情演歌で合格したので、このままでは森昌子の系列か、小柳ルミ子のラインかと思われていたのだが、企画で全く違う歌手の道を歩むことになった。

 彼女を落札したのが、東芝EMIの渋谷森久氏と、オフィス・トゥー・ワンであった。オフィス・トゥー・ワンにはぼくがいる。普通のことをやるわけにはいかないと、知恵を絞った。そして、中学生のデビュー曲を、外国人の作曲、編曲しかもロンドンでのレコーディングという案を出したのである。「暗いからさあ、派手なことをやって、パッと明るくしなきゃあね」(略)

 怪人とも天才ともいわれた渋谷森久氏はそこから本領を発揮し始める。作曲は、東京音楽祭にイスラエル代表で出場していたシュキ&アビバに、ぼくが「愛情の花咲く樹」を書いた縁で、シュキ・レヴィに作曲を頼んだ。

(略)

 暗い時代は同時にテロの時代で、ぼくらは空港ごとに足止めを喰った。特に、ぼくと伊藤咲子がいけなかった。ぼくは当時如何にもゲリラらしくて仕方がないのだが、伊藤咲子は何を警戒されているのか、それはロンドンヘの労働力の流入を警戒しているのであった。「彼女に何をさせる気だ」とぼくらは笑った。

(略)

[曲はヒットしたが]気になるのは、イスラエル出身のシュキ・レヴィの作曲印税が受け取り手不明で返されて来るという話である。

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2018-01-11 一四一七年、その一冊が・その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


一四一七年、その一冊がすべてを変えた

作者: スティーヴングリーンブラット, Stephen Greenblatt, 河野純治

メーカー/出版社: 柏書房

発売日: 2012/11/01

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コッサ廃位、フスの処刑

[公会議の主要課題は教皇統治の改革と、異端の弾圧]

 チェコ人の聖職者で宗教改革者であった四四歳のヤン・フスは、何年も前から教会の悩みの種だった。説教や文章を通じて、聖職者の悪弊を激しく攻撃し、はびこる強欲、偽善、性的不道徳を非難した。また教会が免罪符の販売を商売にしていることを糾弾した。(略)フスは会衆に対して、聖母、聖人、教会、教皇を信じてはならない、神のみを信じよと説いた。(略)

大胆にも教会の政治にまで口を出した。そして、国には教会を監督する権利と義務があると主張した。一般の人々は宗教指導者を批判できるし、また批判すべきである。(略)

フスは言う。なんといっても教皇制度は人間が作ったものだ――「教皇」などという言葉は聖書のどこにも出てこない。

(略)

有力なボヘミア貴族たちの庇護の下、フスは危険な思想を流布しつづけ、それは広範囲に広まろうとしていた。

(略)

教会の支配層から恐れられ、憎まれていたこのボヘミア人は、根本的な方針として、その教会支配層にいるコッサの敵がしようとしているのと同じことをする、と明言していた。すなわち、堕落を非難されている教皇には服従せず、むしろ退位を迫ろうというのである。おそらく、こうした不安な状況は、コンスタンツでフスに関する奇妙な疑いが広まっていた理由をよく説明している。フスは並外れた力を持つ魔術師で、ある距離以内に近づいた者すべての心を読むことができるというのだ。(略)

自分の見解を述べるよう、コンスタンツに正式に招待された。このチェコの改革者には夢想家らしい明るい確信があった。自分が主張する真理は、もし明言することを許されるなら、きっと無知と不誠実のクモの巣を一掃するだろう、と。

 異端者として告発されていたフスは、当然ながら、慎重でもあった。フスは最近、三人の若者が斬首される光景を目にしており、そのうち二人は自分の教え子だった。ボヘミアの比較的安全な庇護者の下を離れる前、フスはプラハ司教区の宗教裁判所長に正統的信仰の証明書を申請し受けとっていた。また、皇帝ジギスムントからは自由通行の保証を受けていた。(略)

フスに同行したボヘミア貴族たちは、先乗りして教皇と会談し、フスが暴力の危険を伴わずにコンスタンツに滞在できるかどうかを問いただした。ヨハネス二三世は答えた。「たとえ彼が私の兄弟を殺したとしても、コンスタンツにいる間は、髪の毛一本にも手を触れさせないようにする」

(略)

 教皇と公会議と皇帝が発言の機会を保証していたにもかかわらず、フスはほとんどすぐに、あしざまに非難され、公の場で話す機会を否定された。一一月二八日、コンスタンツに到着して三週間もたたないうちに、枢機卿らの命令によってフスは逮捕され、ライン川の畔にあるドミニコ会修道院の監獄に連れていかれた。地下の独居房に放りこまれた

(略)

フスの迫害が、分裂を終わらせる決意から会議の焦点をそらし、あるいは自分の敵を黙らせるのに役立つと、コッサが思っていたとしたら、大間違いだった。

(略)

マインツ大司教が立ちあがり、ヨハネス二三世以外の教皇には絶対に従わない、と述べた。ところが彼が期待していたにちがいない賛同の声はあがらなかった。その代わりにコンスタンティノープル総大司教が叫んだ。「あいつは誰だ?火あぶりにすべきだ!」

(略)

コッサは逃亡した。顔を見られぬよう、灰色のフードがついた灰色のマントにくるまり、馬に乗って静かに門を抜けた。(略)できるだけこっそりと町を出た。しかし噂はたちまち広まった。ヨハネス二三世が逃げた。(略)

「教皇が逃げだすと、ほかの全員も逃げだした。夜中に、追っ手もいないのに」そしてついに、皇帝から大きな圧力を受けたコッサのいちばんの擁護者が、ありがたくない客を引き渡した。

(略)

 コッサに対して正式に七〇もの嫌疑が読みあげられた。世論への影響を恐れた公会議は、最も恥ずべき一六の嫌疑は伏せ――のちに明らかにされることはなかった――教皇を聖職売買、男色、強姦、近親相姦、拷問、殺人に絞って起訴した。またコッサは前任者を毒殺した罪でも、侍医をはじめとする複数の人間とともに起訴された。

(略)

 コッサは廃位後まもなく、ライン河畔のゴットリーベン城にしばらく投獄された。ここはフスがほとんど飢餓状態で二か月以上も鎖につながれていた城である。

(略)

有罪判決を受けた異端者が、コンスタンツの大聖堂で行われた厳粛な儀式において、正式に聖職を剥奪されたのは、一四一五年七月六日のことだった。フスは高さ四五センチほどの紙製の円筒形の冠を頭に載せられ、冠には三匹の悪魔が魂をつかんで引き裂こうとしている図が描かれていた。大聖堂の外に引き出され、彼の本が燃やされている薪の前を通りすぎると、鎖で縛られ、火刑に処せられた。遺物がいっさい残らないように、処刑人たちは黒こげの骨を粉々に砕いて、すべてライン川に投げ捨てた。

ポッジョ、ヒエロニムスを賞賛

彼はフスがその権力に挑戦した教皇庁に仕えていた(略)だが数か月後に、フスの仲間、プラハのヒエロニムスが異端の罪で裁判にかけられると、ポッジョは黙っていられなかった。(略)

[友人への手紙で]ポッジョは書いている。「自己の立場を主張するときに、しかもその主張に自分の命がかかっているときに、あれほど古代人の水準に近い雄弁さで語れる人物を私は見たことがなかった。その雄弁さはまさしくわれわれが賛美するものである」ポッジョは明らかに自分が危険な領域に足を踏みいれていることに気づいていたが、この教皇庁の官僚は、人文主義者としての熱烈な賞賛を完全には抑えることができなかった。

(略)

[手紙の日付は]ヒエロニムスが処刑された日なのである。ポッジョが手紙を書いたのは、とりわけ恐ろしい出来事を目にした後のことだった。(略)

三七歳のヒエロニムスは、町の外に引き出され、フスが火刑に処され、これから自分も死を迎える場所まで連れてこられると、自分の信念をくりかえし述べ、連禱を朗唱した。フスのときと同様に、誰もヒエロニムスの告解(赦しの秘跡)を聴こうとはしなかった。そのような秘跡は異端者には認められていなかった。火がつけられると、フスは叫び声をあげてすぐに死んだが(略)[ヒエロニムスは]「フスよりもはるかに長い時間、火の中で生きていて、恐ろしい悲鳴をあげた。というのも、フスよりもがっしりとした体格の、いかつい男だったからだ。

(略)

 「疑問の余地はない」とポッジョは書いている。「この偉大と呼ぶにふさわしい、道徳心と機知に富んだ、気品のある純粋な男は、汚物にまみれた牢獄の不潔さと看守らの非道な残酷さに、もうそれ以上長くは耐えられなかっただろう」(略)

[これはヒエロニムスについてではなく]

ポッジョがザンクト・ガレンで発見したクインティリアヌスの写本について書いた文章である。

 彼は嘆き悲しみ、喪服姿であった。死ぬ運命にある人がみなそうであるように。彼のあごひげは汚れ、髪の毛は泥で固まっていた。その表情や様子から、彼が不当な罰を受けていることは明白だった。彼は両手を伸ばし、ローマの人々の誠実さを求め、自分が不当な刑から救われることを願っているように見えた。

 五月に目にした光景が、修道院の蔵書を探索する間も、人文主義者の脳裏に生々しく蘇る。ヒエロニムスは抗議した。汚物にまみれ、足かせをはめられ、あらゆる安らぎを奪われたと。そしてクインティリアヌスも、カビやほこりにまみれた状態で発見されたのだった。

(略)

発見するやいなや、ポッジョは腰をおろし、その長大な作品全体を、美しい手書き文字で書き写しはじめた。仕事を終えるのに五四日かかった。「古代ローマの正真正銘の権威者である。彼ほどの権威者はほかにはキケロしかいない。キケロは彼の文章をあちこちで引用している」

(略)

悪名高い堕落した教皇に仕えた皮肉屋の秘書ポッジョは、仲間たちから文化的英雄、ばらばらにされ、ねじ曲げられた古代の遺体をふたたび組み立て生き返らせた祈禱治療師とみなされた。

[かくして再度フルダ修道院にやってきたポッジョが手に取ったのがルクレティウス『物の本質について』]

ルクレティウス『物の本質について』

ポッジョは、のちに『物の本質について』に共感した何人かの読者と同じように、自分にこう言い聞かせたかもしれない。この才気あふれる古代の詩人はただ、多神教信仰の空虚さと、それゆえに、じつは存在しない神々に生け贄を捧げることの愚かしさを直観しただけにすぎない、と。なにしろルクレティウスは、不幸なことに、救世主の出現する少し前の時代の人だったのだ。あと一〇〇年遅く生まれていれば、真理を知る機会を持てただろうが、じっさいはそうではなかった。

(略)

 しかし、無神論――より正確に言えば神々の無関心――はルクレティウスの詩がもたらした唯一の問題ではなかった。主たる懸念材料はほかのところ、われわれ人間が暮らす物質界にあった。そしてそこで、きわめて不穏な論争が生じた。論争は、その恐るべき力に大いに衝撃を受けた人々――マキャヴェッリ、ブルーノ、ガリレオなど――を魅了し、奇妙な一連の思考へと誘った。

(略)

・万物は目に見えない粒子でできている。(略)

・物質の基本となる粒子――「事物の種子」――は永遠である。時間は限界を持たず(略)無限である。星々から最も下等な昆虫まで、全宇宙は目に見えない粒子でできている。これらの粒子は破壊不可能であり、不滅である。しかし、宇宙に存在する個々の事物は無常である。つまり、われわれが目にする形あるものはすべて、どんなに永続性があると思われるものでも、一時的なものにすぎない。それらを形作っている基本構成要素は遅かれ早かれ再配分されるのだ。しかしこの基本構成要素そのものは永久的なものであり、結合、分解、再配分をたえずくりかえしている。

(略)

・すべての粒子は無限の真空の中で動いている

(略)

・宇宙には創造者も設計者もいない。(略)この世の秩序と無秩序のくりかえしは、いかなる神の計画の産物でもない。神の摂理は幻想である。(略)

 存在には終わりも目的もない。絶え間ない創造と破壊があるのみで、すべては偶然に支配されている。

(略)

・死後の世界は存在しない。

(略)

・組織化された宗教はすべて迷信的な妄想である。その妄想は、深く根づいた願望、恐怖、無知に基づいている。人間は、自分たちが持ちたいと思っている力と美しさと完全なる安心のイメージを作りあげている。そのイメージに従って神々をこしらえ、自分の夢の奴隷となっている。

(略)

・宗教はつねに残酷である。宗教はいつも希望と愛を約束するが、その深層にある基礎構造は残酷さだ。だからこそ報復の幻想に駆りたてられ、だからこそ信者の間に不安をかきたてずにはいられないのである。宗教を典型的に象徴するもの――そして宗教の核心をなす邪悪さの明白なあらわれ――は、親が子を生け贄に捧げることである。

(略)

・天使も、悪魔も、幽霊も存在しない。

(略)

・物の本質を理解することは、深い驚きを生み出す。宇宙は原子と真空だけで構成され、ほかには何もない。世界は天の創造者がわれわれのために創ったものではない。われわれは宇宙の中心ではない。われわれの感情生活も、肉体生活も、他の生き物たちのそれと異ならない。われわれの魂は肉体と同様、物質的なものであり、死すべき運命にある。以上のことを悟ったからといって、これらすべてが絶望の原因になるわけではない。それどころか、物事の真のありようを理解することは、幸福の可能性へ向けての重要なステップである。人間が取るに足りない存在であること(略)は、望ましいことである、とルクレティウスは主張する。

(略)

魂は一時的にこの世にあるだけで、その後どこか別の場所に行く、という有害な信仰に、人は引きこまれてはならない。その信仰は、人々が唯一の生命を生きている環境との間に有害な関係を生じさせるだけである。(略)

この世界を含む万物は、いつか崩壊し、その構成要素である原子に戻る。そしてその原子から、永遠に続く物質のダンスの中で、ふたたび他の事物が形成される。しかし、われわれは、生きている間は、深い喜びに満たされるべきである。

(略)

『物の本質について』はヴィーナスヘの祈りで始まる。

(略)

 言葉をほとばしらせるこの賛歌は、驚異と感謝の念に満ち、光り輝いている。まるで恍惚となった詩人が、本当に愛の女神を見つめ、その燦然たる姿に空が晴れあがり、目覚めた大地が彼女に花の雨を降らせているのを見ているようだ。

(略)

目覚めた春が草地を彩り、

自然の新たな光景が立ちあらわれる。

(略)

喜びあふれる鳥たちがあなたに最初の歓迎の挨拶をし、

素朴な歌で陽気な興奮を打ち明ける。

ついで、あなたの矢に打たれた野獣たちが、

わずかな餌を跳び越えて、流れの急な川をあえて泳ぎわたる。

大地も空気も海も、すべてはあなたの贈り物だ。

息する者たちのありとあらゆる子孫は、

喜びに打たれて、あなたに駆りたてられる。

(略)

 このラテン語詩を筆写し、破壊から守ったドイツの修道士たちが、どのような反応を示したかはわからない。

(略)

この詩の主張のほとんどは、キリスト教の正統的信仰からすれば嫌悪すべきものだった。しかし詩には説得力があり、人を惹きつける美しさがあった。

マキャヴェッリ

 サヴォナローラが聴衆に向かって愚かな原子論者たちを嘲笑せよと主張していたちょうどその頃、フィレンツェの若い役人が、ひそかに自分で『物の本質について』を丸ごと筆写していた。(略)彼はその後に書いたいくつもの有名な著作の中で、ルクレティウスの作品には一度も直接言及していない。それほどまでに狡猾な人物だった。だが一九六一年に、写本の筆跡の主がついに特定された。その写本はニッコロ・マキャヴェッリが筆写したものだった。

(略)

ポッジョは他の発見と同様、ルクレティウスの発見を自慢していたが、けっしてルクレティウスの思想を支持することはなく、自ら読み解くことさえしなかった。ラテン語の文章を書くとき、ポッジョも、ニッコリのような親しい友人たちも、多神教時代の幅広い文書から、優雅な語法や言い回しを拝借していたが、同時にその最も危険な思想にはいっさい触れないようにしていた。それどころか、ポッジョは晩年、仇敵ロレンツォ・ヴァッラを、ルクレティウスの師であったエピクロスに執着する異端者だと非難している。ポッジョはワインを味わうのと、それを賞賛するのは別のことだ、と書いている。ヴァッラはエピクロス主義を賞賛している、というのである。

(略)

一五一六年十二月――ポッジョによる発見からおよそ一世紀後――フィレンツェ教会会議に集った高位聖職者からなる影響力のある集団が、学校でルクレティウスを読むことを禁止した。

(略)

 この禁止によって、イタリアでは流通が制限され、実質的にルクレティウスの作品は出版停止になったかもしれないが、扉を閉じるには遅すぎた。ある版がボローニャで、別の版がパリで[出版された]

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2018-01-09 一四一七年、その一冊がすべてを変えた このエントリーを含むブックマーク

1417年、元教皇秘書のブックハンター・ポッジョが見つけた写本には「万物は目に見えない粒子でできている」「宇宙には創造者も設計者もいない」「神の摂理は幻想である」といった「きわめて危険な思想」が美しい詩によって記されていた。


一四一七年、その一冊がすべてを変えた

作者: スティーヴングリーンブラット, Stephen Greenblatt, 河野純治

メーカー/出版社: 柏書房

発売日: 2012/11/01

|本| Amazon.co.jp

第一章 ブックハンター

 一四一七年冬、馬に乗ったポッジョ・ブラッチョリーニ(略)目的地は、古い写本を所蔵していると評判の修道院である。(略)

 当時の南ドイツは繁栄していた。壊滅的な三十年戦争が田園を荒廃させ、この地域のすべての都市を破壊し尽くすのは、まだずっと先のことである。

(略)

 彼が通りすぎるのを見かけた人々にとって、さぞかしポッジョは不可解な人物に見えたことだろう。当時はほとんどの人々が、自分が何者で、階級社会のどの部分に位置しているかを、はっきり目に見える形で示していた。それは、染料が染みついた染物師の手のように、誰でも読みとれるものだった。ところがポッジョには読みとれるものがなかった。孤立した個人は、家族や職業という組織から外れた者とみなされ、ほとんど意味をなさない存在だった。重要なのはどこに属しているか、さらには誰に属しているかだったのだ。

(略)

 家、血族関係、ギルド、組合――これらは人であることの基本要素であった。独立性、自立性は文化的にはまったく価値がなかった。(略)

[命令と服従の]連鎖を断ち切ろうとするのは愚かな行為だった。(略)罰として鼻を切り裂かれたり、首の骨を折られたりしてもおかしくない暴挙だった。そんなことをして何になるというのか?選択の余地などなかったのである。(略)最善の道は、運命が割り振ったアイデンティティを謙虚に受けいれることだった。

(略)

 では、ポッジョとは何者だったのか?(略)彼はなんの印も身につけず、売り物の品も持っていなかった。上流社会になじんだ者特有の自信に満ちた雰囲気を漂わせていたが、本人は地位の高い人物ではなさそうだった。

(略)

 彼が探し求めていたのは(略)精巧な装飾と見事な装丁によって字の読めない人々にもその価値がわかるような類の本ではなかった。(略)

彼が探していたのは古い写本で、その多くはかびが生え、虫に食われ、どれほど訓練を積んだ読書家でもほとんど判読不能のものばかりだった。

(略)

この男は誰に仕えているのか?

 ポッジョ自身、返答に窮したかもしれない。ごく最近までローマ教皇に仕え、それ以前も、何人もの教皇に仕えていた。ポッジョの職業はスクリプトールという、教皇庁の官僚組織で働く公文書の書記官であった。その如才なさと狡猾さによって、教皇秘書という念願の地位にまでのぼりつめた。そして、教皇の間近にいて、その発言を書きとめ、最高意思の決定を記録し、優雅なラテン語で長文の外交書簡をしたためた。教皇庁の公式の場では、絶対的な支配者のそば近くにいることが大きな強みとなり、ポッジョは重要人物であった。教皇が耳元で何かささやく間、それを謹聴する。それから今度はこちらからささやき返す。(略)「秘書」という言葉が示唆するように、ポッジョは教皇の秘密を知る立場にあった。

(略)

[だが]もはや教皇秘書ではなかった。(略)情勢が一変した。ポッジョが仕えていた(略)畏怖の対象であった教皇はそのとき、すなわち一四一七年の冬、ハイデルベルクの帝国監獄にいた。肩書きも、名前も、権力も、尊厳も奪われたうえに、公の場で恥辱を受け、自身の教会の諸侯からも非難された。「神聖にして絶対的な」コンスタンツ公会議は次のように宣言した。教皇はその「忌まわしく見苦しい生活」によって、教会とキリスト教世界に不名誉をもたらした。よって、教皇という高貴な地位にとどまるのは適当ではない、と。(略)彼を教皇と呼んだり、その命令に従うことは禁じられた。(略)これは空前絶後の大事件であった。

(略)

ヨハネス二三世の政敵たちが勝利し、今やすべてを牛耳っていた。かつてポッジョに開かれていた扉は、固く閉じられた。(略)嘆願者たちは、教皇のご機嫌をとる手段として、その秘書のご機嫌をとっていたものだが、今ではみんなそっぽを向いていた。ポッジョの収入は突然途絶えた。(略)

 それなのに、なんとポッジョは、この苦難の時期に(略)本探しを始めたのである。

ポッジョ自身は修道士でも司祭でもなかったが、ローマ教皇庁に長く仕えていた経験から、教会という組織の内情については熟知していたし、歴代の教皇をはじめとする多数の有力聖職者を個人的に知っていた。

 たとえこのような高貴な人脈でさえ、人里離れた修道院図書館の錠のかかった扉を開けるには不十分だったとしても、ポッジョにはそれを補うほどの大きな人間的魅力があった。

(略)

もう一つ、本を探し求める他の人文主義者たちをはるかにしのぐ優れた才能があった。ポッジョは修練を積んだ優秀な筆写人であり、ひじょうに繊細な文字、驚くべき集中力、高度な正確さで書き写すことができたのだ。時を経た現代のわれわれには、そのような才能の重要性を理解するのは難しい。

(略)

[のちに]考案された活字書体(略)は、ポッジョら人文主義者たちの美しい手書き文字を基に考案されたものだった。ポッジョは手書きで一冊の写本を作っていたが、まもなく、そうした作業は機械に取って代わられ、一度に一〇〇冊もの本が作られるようになる。

(略)

 ポッジョは修道士たちが好きではなかった。道徳的にひじょうにまじめで、学識の高い、立派な修道士を何人か知っていたが、全体としては、迷信深く、無知で、どうしようもない怠け者ばかりだと思っていた。ポッジョの考えでは、修道院というところは、世の中に適応できないとみなされた者たちの掃き溜めだった。貴族は息子が虚弱、不適応者、穀潰しだと判断すると修道院に押しつけ、商人は知的・身体的障害を持つわが子を放りこみ、農民は口減らしのために子供を厄介払いした。

(略)

この厄介者たちは、回廊の分厚い壁の向こうで、ただ祈りの言葉をつぶやくだけで、他の者たちが修道院の広大な土地を耕して得た収入に頼って生活していた。教会は大地主であり、地域の最も有力な貴族よりも裕福だった。

(略)

 教皇庁時代のポッジョは、修道士たちの金への執着、愚かさ、性欲などについて、同僚たちとよく冗談を言い合った。(略)「私には彼らがキリギリスみたいに鳴いているだけとしか思えない」とポッジョは書いている。「どう考えても給料をもらいすぎている。ただ肺を鍛えているだけだというのに」

(略)

 パピルスはもはや手に入らなかったし、紙が広く一般に使われるようになるのは一四世紀に入ってからのことだった。そのため一〇〇〇年以上の間、筆写用の材料は主に獣皮から作られた――牛、羊、山羊、ときに鹿の皮も使われた。獣皮の表面は滑らかに加エする必要があった。そこで修道院の司書はまた別の道具すなわち軽石を用意した。軽石で皮の表面をこすり、残っている毛やでこぼこ、その他の不具合を取り除くのである。質の悪い羊皮紙を渡された筆写人は、ひじょうに不愉快な仕事をすることになる。現存する修道院の写本の余白には、ときどき、激しい嘆きの言葉が書きこまれている。「この羊皮紙は毛だらけだ」……「インクは薄いし、羊皮紙は質が悪いし、文章は難しいし」……「ありがたや、もうじき暗くなる」「もうこんな仕事は終わりにさせてくれ」と、ある疲れ果てた修道士は自分の名前、日付、働いている場所の下にそう書いた。別の修道士はこう書いている。「やっと全部書き終わった。頼むから一杯飲ましてくれ」

 そんな筆写人の仕事をずっと楽にしてくれる、彼らが最も甘美な夢の中で見たであろう最高級の皮紙は、子牛の皮でできたもので、ヴェラムと呼ばれていた。中でもいちばん上質とされていたのが子宮ヴェラムという、流産した子牛の皮でできたものだった。純白で、滑らかで、丈夫なこの皮は、最も貴重な本のために取っておかれた。そしてその本は、宝石のような精巧な彩飾面で飾られ、ときに本物の宝石が表紙にちりばめられることもあった。今でも世界各地の図書館に、かなりの数の逸品が保存されている。

(略)

修道士たちはナイフ、ブラシ、ぼろきれを用いて、古い文書――ウェルギリウス、オウィディウス、キケロ、セネカ、ルクレティウス――を念入りに洗い落とし、筆写するよう指示された別の文章を書きこむこともあった。元の文章を消すのは面倒な作業だったにちがいない。そして、自分が消そうとしている作品に本当は心惹かれていた数少ない筆写人にとっては、やりきれない作業だったことだろう。

 元のインクが残っている場合、前に書かれていた文章の痕跡がまだ見える可能性があった。たとえば、四世紀に作られたキケロの『国家について』のめずらしい写本は、七世紀の聖アウグスティヌスの詩篇に関する黙想録の写本の下に残っていた。

(略)

これらの上書きされた奇妙な写本はパリンプセストと呼ばれる。由来は「再度こすられた」という意味のギリシア語である。このパリンプセストからは古代の重要作品がいくつも見つかっており、どれも、そうでなければ知られることのなかった作品である。

(略)

ポッジョはページをめくっては[蔵書目録に]熱心に目を走らせ、閲覧を希望する本を次々に指さした――図書館における沈黙の規則は厳格に守られた。

(略)

 古代ローマの亡霊たちが次々にあらわれた。ネロの治世に活躍したある文芸批評家は、多くの古典作者たちについて注釈や解説を書いていた。別の批評家は、ホメロスを模倣して書かれた失われた叙事詩から、たくさんの文章を引用していた。

(略)

 ポッジョの発見は、最も小さな発見も含めて、どれもきわめて重要性の高いものだった――何百年という長い歳月を経て出現したのだから、すべてが奇跡的な発見のように思われた――しかし、それらの発見はすべて、(現代のわれわれの観点からするとそうでもないのだが)あっという間に影が薄くなってしまった。それまで見つけた他のどの作品よりも、もっとずっと古い作品が見つかったからである。その写本の一つが、紀元前五〇年頃に書かれた長い作品で、作者は詩人で哲学者のティトゥス・ルクレティウス・カルスという人だった。(略)

ルクレティウスの作品は危険なまでに過激だった。

 ポッジョがルクレティウスの名前を知っていたのはほぼ確実である。オウィディウスやキケロといった、ポッジョが仲間の人文主義者たちとともに丹念に読みこんだ古代の諸作品にたびたび登場していたからだ。しかし、ルクレティウスの作品そのものには、ほんの一つか二つの断片にさえ、誰も出会ったことがなく、永遠に失われたというのが通説となっていた。

 ポッジョにはあまり時間がなかったかもしれない。夕闇迫る修道院の図書館で、修道院長や司書から油断のない視線を向けられていて、書き出しの数行を読むのが精一杯だったかもしれない。それでもポッジョにはすぐにわかっただろう。ルクレティウスのラテン語の詩は、びっくりするほど美しい。(略)

この本はその後、ポッジョの生きる世界をまるごと解体するのに一役買うことになる

教皇ヨハネス二三世とコンスタンツ公会議

人文主義者の筆写人として、学識ある作家として、教皇庁の部内者として、その才能を存分に誇示していた彼は、職業人生の中で最も名誉ある、最も危険な地位を受けいれたのだ。かくしてポッジョは教皇秘書として(略)卑劣で、狡猾で、無慈悲な男、バルダッサレ・コッサに仕えることになった。

(略)

ポッジョより10歳年上のバルダッサレ・コッサは、ナポリに近いプローチダという小さな火山島に生まれた。彼の高貴な一族が個人資産としてその島を所有しており、隠れた入り江と堅固な要塞は、一族の主な稼業には明らかにうってつけだった。一族の稼業は海賊だったのである。それは危険な稼業だった。彼の二人の兄弟は最後には捕らえられ、死刑を宣告された。(略)コッサの政敵たちが主張するところでは、彼は若い頃にこの稼業に手を染めており、そのせいで生涯、夜目覚めている習慣が抜けず、またこの稼業を通じて基本的な世界観を身につけたという。(略)

エネルギッシュで抜け目のないバルダッサレは(略)ボローニャ大学で法学を学び(略)卒業後はどうするのかと尋ねられたバルダッサレ・コッサは答えた。「教皇になる」

(略)

 コッサの才能は、巧妙なマーケティング戦略だけに発揮されたわけではない。ボローニャの統治者に任じられたときには、ひじょうに優れた指導者、軍司令官であると同時に、迫力ある雄弁家であることを自ら証明した。多くの点で、鋭い知性、雄弁、大胆な行動、野心、好色、底なしの精力といった資質を体現した人物だった――まさにこれらが一つになるとルネサンス人の理想像ができあがる。しかし、聖職と現実の生活のずれには慣れっこの時代にあってさえ(略)本当なら聖職者の衣をまとうような人物ではないように見えた。(略)ひじょうに才能に恵まれた男だったが、宗教的な使命感などというものは爪の垢ほども持ちあわせていないのは明白だった。

(略)

 要塞化されサンタンジェロ城として生まれ変わっていた多神教時代の霊廟の中で、枢機卿や秘書に囲まれた狡猾な教皇は、公会議を開催するという圧力に応じる理由はないと考えていた。そんな会議は、必然的にローマヘの長年の反感を爆発させ、自分の地位を脅かすだけだ。そこでコッサは、時間稼ぎや先延ばしをくりかえし、同盟関係の構築と解消に奔走し、南の野心的な敵、ナポリ王のラディスラオに対して策略をめぐらしつつ、財源を確保した。

(略)

[だがラディスラオ軍勢が突然侵攻]

教皇と教皇庁はフィレンツェに避難した。(略)

 追い詰められたコッサは、公会議をイタリアで開くことを提案した。イタリアなら主要な同盟者を集めることができるからだ。しかし皇帝は反対した。高齢の司教たちにはアルプス越えの長旅は無理だというのだ。公会議はコンスタンツで開催する、と皇帝ジギスムントは宣言した。

(略)

 イタリアの教会内の競合する派閥だけが相手なら、コッサはおそらくキツネの落とし穴を回避できる自信があっただろう。なんといっても、何年もの間支配してきた実績があり、少なくともローマの教皇の地位をなんとか保ってきたのである。問題はそれ以外の人々、自分の支援も毒も届いていない多数の人々が、キリスト教世界全体からコンスタンツに押し寄せていることだった。

次回に続く。


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宗教を語りなおす―近代的カテゴリーの再考

磯前順一、タラル・アサド編

メーカー/出版社: みすず書房

発売日: 2006/07/25

|本| Amazon.co.jp

ジャマイカの宗教イデオロギーと社会運動 スチュアート・ホール

 19世紀になってキリスト教が奴隷たちに布教されはじめたとき、この「民族宗教的な」基盤と融合することで、特異なアフロ・キリスト教が生み出されるようになる。1840年代以降、ジャマイカにキリスト教のリバイバルが起こるが、それは「アフリカ的な要素」をとおしておこなわれたものだった。没我的な神憑りや、夜の集会、太鼓の音でキャプテンが率いる行進、アフリカの「水崇拝」のような聖なる川でのキリスト教的洗礼

(略)

イスラエルの導き、神の選民、エジプトでの従属、失われた部族民の苦しみ、隷属と暗黒、そしてモーゼによる解放、これらの物語がバビロン捕囚と救済の予言とともに重要な位置を占めた。新世界中の黒人たちは、モーゼと約束の地についてつねに歌い語っていた。ここには、キリスト教の終末論と救世主の観念が、アフリカの宗教と奴隷体験と融けあった姿をみることができる。

(略)

 モラント・ベイの反乱が1865年に失敗(略)結局、ジャマイカは完全に英国に依存した直轄植民地となった。(略)

[反乱は強烈な宗教的リバイバルに裏打ちされており]

神がジャマイカに降臨する日が近づきつつあるという新たな局面へと展開していった。この反乱の二人の指導者はいずれも「宗教的な」人物であった。裕福なカラードの弁護士、ゴードンは熱烈なナショナリストであり、支配階級の植民者たちに対立していた。彼は「福音主義的な宗教的熱狂者」であったが、その努力のあげく、エア総督によって絞首刑に処された。もうひとりのポール・ボウグルは民衆反乱を引き起こした人物だが、旧奴隷で土着バプティストの聖職者であった。彼もまた、大英帝国軍艦の帆柱で絞首刑に処された。

 奴隷解放から1920年代にかけて、ジャマイカは奴隷社会から、英国に依存した「植民地」へと移行していった。

(略)

1930年代に入ると、中流階級上層のジャマイカ人たちは「国家の独立」を夢見るようになるが、それはこの「クレオール文化」が植民地から解放されたあとに取って代わって確立される夢であった。

(略)

夜になると、中流階級上層のジャマイカ人の眠りは、太鼓や歌、埋葬の「通夜」、「九日間の夜」の祝典によって邪魔される。キングストン近郊のバラック居住区では、召使いの男女や、売春婦、膨大な数の黒人失業者たちが、宗教礼拝のおこなわれる「庭」へと引寄せられてくる。(略)

ムーディとサンキーの賛美歌も、タンバリンや手拍子や太鼓をともなったより暗くて深いリズムを帯び、長大なものと化した。その「礼拝」はしばしば忘我状態や高揚感、トランス状態をもたらし、重労働と生き残りに必死な彼らを、つかのまの精神的「彼岸」へと導いた。

ラスタファリアニズ

 ラスタファリアニズム、それは宗教、政治、ナショナリズムの諸要素が新たに融合したものである。この時期の偉大な救世主的人物のひとりにアレクサンダー・ベドワードがいる。彼は、教育を受けていない労働者であり、魅力に富んだ説教師であり、治療者であり洗礼者であった。最後には自分が神の子であり、火の戦車に包まれ神の選民とともに昇天することが約束されており、残された異教徒を滅ぼすだろうと告げた。しかし、その昇天は延引されることになり、予言した1921年の「飛翔」も自分が精神異常者として収容されたキングストン施設までしかとどかなかった。

(略)

福音主義のジャマイカ人の説教者、マーカス・ガーヴィが1914年にユニバーサル黒人改良協会を結成し、北米に移住したことはよく知られている。そこで彼は黒人ナショナリズムと福音主義的なリバイバリズムを混合した教えを説き、1920年代までに二百万人を入信させ、1960年代以前のアメリカではもっとも巨大な黒人集団運動へと発展した。ガーヴィは畏敬にみちた雄弁家であると同時に手管に長けた日和見主義者であり、煽動家であり、詐欺師ではないかとさえ怪しまれた。その教義は極度に混乱しており、反帝国主義であると同時に反共産主義でもあった。そして、ブラック・スター・ラインによるアフリカ本国への送還という彼の実際の計画は挫折に終わった。

(略)

「アフリカへ戻ること」、それが彼のスローガンであった。ガーヴィは、世界中の黒人を保護できるような、強力なアフリカ国家が建設されないかぎり、自分たちは自由になれないと信じていた。しかし、それがアフリカのいったいどこになのか、どのようにしてその「国家」が建設されるのかは、具体的に説明されることはなかった。「黒人の国王が戴冠するアフリカを見よ」とだけ、彼は言った。

 ガーヴィがアメリカからジャマイカに追放されたのは1927年のことであった。ジャマイカではアメリカほど多くの支持者を得ることはなく、成功を収めることはできなかった。しかし、彼のメッセージは「もうひとつのジャマイカなるもの」と共鳴し、そこからひとつの宗教運動が発生した。それが、ラスタファリ兄弟団である。

(略)

 ガーヴィは黒人たちを聖書へと引き戻した。これまで聖書の熱心な探究が多様な解釈を正当化してきたように、そこからラスタファリアニズムの教義と運動が生まれた。『黙示録』は、神の七つの聖霊を解放した「ユダのライオン」について語っているとされた。ガーヴィに感化された人々は、独立アフリカ国家の最初の近代的国王、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世が現実世界に生きる「ユダのライオン」だと思った。かれらはハイレ・セラシエがイエス・キリストの蘇りであり、生き神であり、王のなかの王、黒人のメシアであり、救世主ジャーだと言明した。黒人をバビロンから「解放すること」、それがハイレ・セラシエの任務だと考えられた。

(略)

 ラスタファリアニズムが彼岸志向的なセクトと異なる点は、ガーヴィ的な内面の自己規律を求めたこと、不条理な社会状況を改革する必要を説いたこと、「バビロン」に囚われた自分たちを抑圧する力に対して戦闘的な意思をもつこと、黒人アフリカの系譜に誇りをもつこと、千年王国的な救済願望、「約束の地に戻る」という希望にある。1930年代に起こったムッソリーニによるエチオピア侵略は、『黙示録』のもうひとつの予言、すなわち「キリストの敵と地上の諸王とその軍隊」が「彼に戦争を仕掛けるために」結集するというくだりが、実現したことを示すものとされた。

(略)

 ラスタファリアニズムの教義は、聖書に対する細かな釈義的解読にもとづく[ため](略)各自で「論理的な判断をくだす」ことができ(略)高度に個人化され、脱中心化された運動であり(略)驚くほどヒエラルキーや権威構造が存在しない

(略)

「バビロン」は還ばれた民が今ここで「受難」し「抑圧」され、「無限の圧迫に苦しむ」体験を意味する。(略)ジャマイカの「体制」を支配する褐色の中流階級であったり、英国の白人の権力構造であったりする。バビロンはラスタたちを打ちのめすために極度な抑圧をおこなう一方で、巧妙なやりかたで、ラスタマンのエネルギーや創造力を盗み取ろうとする。

(略)

ラスタたちは簡素で貧しい生活を送らざるをえず、兄弟団のなかで愛と平和をもって暮らさなければならなかった。ラスタファリアニズムでは、ジャーの霊がすべての個人に等しくそなわっていると信じられている。(略)だから、他人に征服され支配されてよい者など、誰一人として存在しない。呼称として三人称を使用しないことも、この根本的平等さという精神の現われである。言語的にみると、ラスタファリアニズムではつねに「君と私」、あるいは「私と私」という表現が用いられている。

(略)

女性たちは男性の従属的な地位におかれ、男性を世話し支える義務を与えられてきた。彼女たちは敬意をもって扱われ、節度と威厳をもってふるまい、慎み深い着物を着るよう諭される。ラスタの男性の「女王」として尊敬される一方で、男性優位社会を当然のものと受け入れるように教育されてきた。この点で、ラスタファリアニズムは伝統的なジャマイカ社会の男性家父長制とほとんど変わらない。

(略)

総じて、かれらは菜食主義者である。雇用される場合にも、小耕作者や人工や職人のような自由業を好む。自由業を職とすることで、社会生活を避けようとするのである。大半は共同生活によって無職のまま辛うじて生計を立てている。「バビロン」に接触し依存することを抑えるために、かれらはお金のいらない生活を送ろうとする。そうすることで、自分たちを抑圧する異様な社会に巻き込まれるのを防ごうとしているのだ。兄弟愛や「平和と愛」の福音を説くものの、一方で白人社会に対して極端に攻撃的な面もある。

(略)

キングストンの「粗野な少年たち」がその文化的象徴としてラスタの記章やスローガンや信念をつかった。かれらストリートの若い「悪党たち」は、既存の権威を無視して、自分たちのスタイルを作った。

(略)

 ジャマイカの下層階級文化におけるラスタファリアニズムの普及は、北米の公民権運動や黒人ナショナリスト運動、あるいはブラック・パワー運動と同時に起こった。

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ラスタファリ、ドン・ドラモンド - 本と奇妙な煙


ベース・カルチャー レゲエ〜ジャマイカン・ミュージック

作者: ロイドブラッドリー 高橋瑞穂

出版社: シンコーミュージック 発売日: 2007/10/31

死とノスタルジア――柳田国男『先祖の話』をめぐって 磯前順一

死者として現れる他者との会話の不能性という眼前の謎を見過ごしてしまうとき、柳田の提起する問題は十五年戦争が引き起した特殊な出来事として、事後的な議論として処理されてしまいかねない。そのような出来事からの超越意識、裏返せば疎外意識があるがゆえに、自分が当事者ではありえないのだという安心感とともに、ネイションなるものを想像したいという渇望もまた生じてくる。自分と遠く隔たった過去を強引に今に結びつける架橋として。わたしたちが遠さに同化するとき、身近さは見えなくなる。身近さを見なくてすむようにするため、遠さに同化するのだから。公的な歴史意識が発生してくる理由もそこにある。公的な歴史を語ることで、それぞれの裡に出没する死を封じ込めてしまうのだ。身近なものでありながらも、同時に私たちの手の届かないところにあるもの、それが死である。

 『先祖の話』に戻ろう。この本は、戦没者を弔うために、家の祭祀を軸とした祖霊信仰を体系化したものである。(略)

柳田の祖霊理解によれば、死者は同時に神であり、先祖ということになり、戦慄させるような性質をいっさい含まない霊的存在ということになる。

 この見解の実証的な妥当性については、すでにたくさんの疑問が出されており、今日そのまま信じることは困難である。(略)

柳田を言表行為に駆り立てるトラウマがどのようなものであったのか、それに対して彼がどのように面していったのかを問う必要があろう。

 『先祖の話』が書きはじめられたのが一九四四年十一月であり(略)敗戦直前の七月に脱稿されている。固有信仰をめぐる柳田の言説は、林淳が指摘するように「日本人の古来からの信仰が、バラバラの断片や外来宗教の残存の集積ではなく、ある種の完結し、まとまりをもったものであることを示すことで、地域をこえてすべての日本国民が自覚せねばならない固有信仰の原像をうかびあがらせ」ようとした点で言遂行的な有効性をもつものであった。それがこの時期『先祖の話』というかたちで収斂したのは、死にゆく者は死を恐れることはない、生き残る者も死者の魂を懸念することはない、なぜなら彼らは私たちとともに国土に留まっているのであり、私たちに日本民族とそれを支える家という魂の帰ってくる場所がある以上は、幾度でもくり返し現世に戻ってくるのだから、ということを国民に、そして柳田自身に説くためにほかならなかった。それと同時に、日本固有の信仰という等質な語りをとおして、家を基体とする日本国民という想像の可能性もまたもたらされるわけである。本書の「六四 死の親しさ」と銘打った節のなかでは、死はけっして恐ろしいものではないこと、われわれの死は孤独ではないこと。その二点が強調されている。

(略)

『先祖の話』では、死者を祭る主体が、政府の掌る靖国神社ではなく、個々の家に求められる。それは当時、政府が喧伝していた、国家のために幾度でも生まれ変わって戦うという「七生報国」の政治スローガンを、民衆の立場に引きつけて、死の親しさという日常的な感情の発露として捉えなおそうとした試みであった。柳田が、死を悲観的なものととらえる仏教だけでなく、国家神道の提示する理念とも相容れなかったことはよく知られている。近代的な政教分離の理念を建前として利用し、神社を西洋的な国民道徳のなかに封じ込め、皇室ゆかりの人格神のみが常住する場に限定する政府のやり方は、神社を家々の祖霊が去来する場として捉える立場の柳田にとっては、国民本来の信仰心を無視するものと映じたのである。

 国家神道とて、実際の内実は政府の思惑に収まりきるようなものではなく、靖国神社や明治神宮にしても、造営に携わった人々、参拝に来る人々の願いはさまざまであり、政府の公的な言説に均質化されてしまうようなものではなかった。ただ、「多数のわが同胞は感覚においてこれを是認しつつも、実はこれを考えまた言葉にする機会だけをもたなかった」と柳田が懸念するように、概念化された言説、とくに制度に結びついた言説によって、そのような多様な動きが実際に存在しながらも、人びとの概念的認識からは遮断されてしまい、みずからの行為を特定の権威的言説のもとに無理やりに押し込めて理解する歪みを生みだしてしまう。私たちが均質な言説を主題化しなければならない理由は、そのような言説と、そこに回収しきれないものの隙間をこじあけてゆくことにある。

(略)

[『先祖の話』の]印刷を準備しているあいだに、ほどなく戦争は終ってしまう。そして、同年一二月には神道指令が出され、肝心の論敵である国家神道がいともたやすく取り潰されてしまい、社会状況は柳田の思いもよらない方向へと変転することになる。

(略)

今や、死者は、家によって慰められるべき戦没者から、家をまもる「先祖」へと、その姿を変えていく。戦中期に書かれた著作が突然に戦後の社会状況のなかに放り込まれたのは、柳田のこの著作だけでなく、石母田正『中世的世界の形成』、丸山眞男『日本政治思想史研究』など、戦後の人文・社会科学の方向性を大きく規定することになる諸作品がおかれた、多かれ少なかれ似た問題状況であった。

 戦中期、絶対的な権力を握っていた政府に抗する一方で、アジアのために西洋諸国と闘うというイデオロギー空間にあった彼らは、みずからの言表行為を人々の信憑性に訴えるものにしようとするかぎり、ナショナリズムの言説の内部に棲みついて、その内部でいかに別の共同性を構想しうるかという戦略に訴えざるをえなかった。それが突如、大日本帝国の公的ナショナリズムの言説が連合軍の力によって外から政治的に消去されたため、かれら自身の共同性の論理が戦中期のナショナリズムの影に包まれたまま、ある種の公的権威として流布しだすことになった。そこに、内側からの文化闘争が共有されないまま、外からの政治的圧力でもたらされた戦後の言説空間の落とし穴がある。

 一九一〇年、まだ民俗学を名乗らない時期に、若手の農政官僚として働きながら著述した『遠野物語』においても、柳田はやはり死と共同体の問題に突き動かされていた。

(略)

『遠野物語』において柳田は、近代的自我と表裏一体をなすような身体的情動ではなく、個人に回収されることのない土着的な風景を求めて、明治末年に農村や山村の人々の生活へと眼を向けていった。それは、これまで見てきた『先祖の話』と同じく、家を基体とする共同体への志向性を示すものともいえるが、その共同性が、死や山人など異質なものの侵入にたえず晒されている場でもある点に決定的な違いがある。

(略)

柳田と花袋は、西洋近代化された合理的な自我の自明性がじつはつねに不安や理解不能なものにさらされていることを想起させようとした点で、共通性をもつ。花袋は近代的都市空間の日常の内部に、恋という、当人の意のままにならない情動を、柳田はその都市空間の外側に死に囲まれた戦慄すべき世界を見出したのである。

(略)

柳田は紆余曲折を経たのち、一九二〇年代半ばにはみずからの学問を西洋の普遍性から切り離して、日本固有のものとしての「民俗学」と称しはじめる。山人に代表される不可解な存在を日本の国土のなかに繰り込む作業を停止させ、閉ざされた国民共同体へと彼の表現は転じていく。このとき柳田のノスタルジアは、家と常民という内に向かって閉じはじめる。内に向かって閉じるとは、その外側を排除するだけではない。その内側をも同質化することで窒息させてしまう危険性も有している。

 このような変化を柳田の学問にもたらした大正期の社会的要因としては、資本主義の進展がもたらした農村と都市などの社会格差の増大、地縁的共同体から乖離してゆく大衆社会のうちに潜む内的不安をあげることができる。そして、同質性への志向性がさらに強まった『先祖の話』では、十五年戦争を通して増大してゆく死者の数、空襲や米軍の沖縄上陸などによって喚起される死への不安、長く続く戦争への疲弊感、それらが考えられる。国家体制はますます強化されていくものの、その内部で増大してゆく国民の不安感。そのような大正期以降の社会状況のもとに、柳田の学問はアイデンティティの危機にさらされた人々に日本人の固有信仰という同質性を賦与し、不安を鎮めようとしたのである。

(略)

『遠野物語』では鎮められることのなかった死者の霊が、『先祖の話』では「一定の年月を過ぎると、祖霊は個性を棄てて融合して一体になる」とされ、死者は個性をいつしか失い、大いなる共同体のなかへ祖霊として吸収されてしまう。それが柳田にとっての、「永く祖霊となって家を護り、またこの国土を護ろうとする」ことの意味であった。この場合の弔うとは、差異の消去であり、共感の共同体への封じ込めの行為となる。そこでは死の不安は共同体にも見えない完全な外部へと追いやられ、そこに属する成員たちの視野に入る地平には何も不協和音をひきおこすものは存在しないとされる。その空間を支配する時間観念もまた、いっさいが個性を失い同質化された時間へ吸収され、あらゆるものが曖昧さのなかへと呑み込まれていく。

(略)

皮肉にも、柳田の確立した民俗学という学問が、彼自身がもっとも恐れていたもの、他者とのつながりをなくし、生きながら死者として葬られるという言説をふたたび産み落としてしまったことになる。それが死者を本当に弔うということなのだろうか。

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2018-01-04 丘の上のバカ 高橋源一郎 このエントリーを含むブックマーク


丘の上のバカ ぼくらの民主主義なんだぜ2 (朝日新書)

作者: 高橋源一郎

メーカー/出版社: 朝日新聞出版

発売日: 2016/11/11

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「歪み」を描くこと

 「シャルリー・エブド」がムハンマドの風刺画を出版して、イスラム原理主義の過激派のテロにあった。それをきっかけにして、フランスで「愛国」と「表現の自由」を守れ、の大合唱が起こった。そのとき、フランスに住んでいた(略)

ロバート・クラムは、襲撃事件があった2日後(もしかしたら、翌日)には、諷刺漫画を描いた。だれよりも速かった。そして、他のだれともちがっていた。

(略)

 「それ」は、「ムハンマドの尻」というタイトルの漫画を抱え(困惑している、あるいは、震えている)クラム自身を描いた漫画だった。そして、その「ムハンマドの尻」の主人公は、実は、あの預言者ムハンマドではなく、彼の友人の映画監督ムハンマドだった。

 クラムは、だれよりも「速く」、それにもかかわらず、とても複雑で、エレガントなやり方で、テロとそれに呼応したフランス社会、いや世界への微妙な反感を表現していた。

(略)

 クラムも、もちろんテロに反対する。けれども、そのことは、ただちに「シャルリー・エブド」を支持することにはならない。その、あるかないかの狭い領域に、クラムは、自分の表現を放りこんだ。(略)

 彼は、おびえる自画像を描いた。

 では、「彼」は、いったいなににおびえていたのだろう。暴力に、だろうか。みんなで同じスローガンを叫ぼうという圧力に、だろうか(それもまた、形を変えた暴力なのだけれど)。

 その、どちらをも含めて、世界が歪んでゆくことを、クラムは敏感に察した。それにもかかわらず、自分がまったく無力であること。クラムは、そのすべてにおびえていたのだと思う。

(略)

 [60年代アメリカ]社会の「歪み」をグロテスクに描きつづけてきたクラムは、長い沈黙の後、『旧約聖書 創世記編』を発表した。そこではきっと、いつものように、キリスト教が「グロテスクに諷刺」されているにちがいないと思っていた読者は、みごとに裏切られた。

 クラムは、『旧約聖書(創世記)』のことばを、一字一句おろそかにせず、なにも変えず、その世界そのままを描いていたのである。

 クラムはこういっている。

 

〈これまでに私が目を通した漫画版聖書はどれも、原典とは全く異なる地の文やセリフをこしらえて、聖書を合理的にわかりやすくし、“現代風”にしようとしています。

 それなのに、これら漫画版聖書はすべて、聖書は“神の言葉”であるとか、“神の啓示によるもの”だという考えを変えていません。いっぽう私は、皮肉なことに、聖書が“神の言葉”であるなどとは、全く考えていないのです。聖書は人間の言葉だと思っています。

(略)

聖書の持つ力は、人々が何世代にもわたって徐々に発展させ練り上げていった集団的努力の賜物であると思っています。

(略)

 私が自分の弁護のために言えることは、ただありのままを絵にしようと思って描いただけであり、馬鹿にしたり茶化したりするつもりは全くなかった、ということだけです。(略)〉(『旧約聖書 創世記編』)

 クラムは、堕落したアメリカ中産階級の生態を冷酷に、グロテスクに、エロチックに描いた。そこには目をそむけたくなるような風景が広がっていた。

 だが、クラムは、あえて「歪めて」描いたのではなかった。もともと、風景は「歪んで」いたのだ。ただ、そのことに誰も気づかなかっただけだ。

 だが、クラムは気づいた。なぜなら、クラムは少数派で、少数派には、いつも、多数派が作る社会の「歪み」が見えるからだ。そのせいで、クラムは、多数派の人々からこてんぱんにされなければならなかった。

 エグい!下品!最低!死ね、この「売国奴」!

 そのクラムが、「旧約聖書」を漫画にしたと聞いたとき、だれもが、きっとグロテスクなものにちがいないと早合点した。実は、その「思いこみ」こそが「多数派」らしい判断なのだった。

 彼ら(多数派)にとって、「諷刺漫画」というものは、要するに「なにかに文句をつけるもの」、単に「なにかに反対するもの」だった(そういう意味では、「シャルリー・エブド」の「諷刺漫画」こそ、「多数派」が期待している「諷刺漫画」そのものなのだ)。

(略)

 クラムにとって、「諷刺漫画」とは、「歪み」を補正するものだった。あるいは、なにかが「歪んで」いるとしたら、その「歪みをそのまま描く」ものだったのだ。

 ここまで書けば、わかってもらえると思う。

 「歪み」を見つけること、そして、その「歪み」を描くこと。それをすることができる力のことを「知性」というのではないだろうか。(略)


旧約聖書 創世記編

作者:ロバート・クラム

訳者:笹野洋子

|本| Amazon.co.jp


フリッツ・ザ・キャット コンプリート

作者: ロバート・クラム

訳者: 小野耕世

メーカー/出版社: 復刊ドットコム

発売日: 2016/09/13

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死者と生きる未来

[著者が20代終盤に売春組織の末端でラブホへの送迎をやっていた時に、女子高生が「あたし、魂を殺しちゃった」と呟いて手首を切った→(詳しい経緯はコチラ「あの戦争」から「この戦争」へ 高橋源一郎 - 本と奇妙な煙)]

「上」の連中がやって来て、わたしの不注意を叱りつけ、そのまま女の子をどこかへ連れていった。その女の子とはそれ以来会っていない。

 そのすべてが愚かしいようにわたしには思えた。なによりわたしが驚いたのは、わたしが少しも、その女の子に同情していなかったことだった。わたしは、その哀れな女の子を痛ましいと思うべきだったのだろう。けれども、わたしには、そんな感情が少しも湧いてはこなかった。「自分には関係のないことだ」というのが正直な気持ちだった。いや、まるで、当てつけのように、目の前で手首を切ったその女の子を、わたしはどちらかというと憎んでいたように思う。

(略)

 それからも、時々、わたしは、その女の子のことを考えた。

 どうして、わたしはなにも感じなかったのだろう。どうして、同情ではなく、腹立たしい思いがしたのだろう。手首を切ったことではなく、「魂を殺しちゃった」といった、その、まるで小説の中のセリフみたいなことばを使ったことに、憎しみを抱いたのかもしれない。(略)

 それは、ちょうど、「あの戦争」の被害者が語る「戦争の悲劇」を前にして、わたしが感じる居心地の悪さにも似ていた。(略)

反論しようのない「正しさ」を前にして、「正しいから従え」といわれたときのような、やる瀬なさにも似ていた。

(略)

[父や母が死んだ時も]

ほとんど、わたしはなにも感じなかった。弟や妻は泣いていたが、わたしは、そんな彼らを不思議そうに眺めるだけだった。彼らは、わたしにとって生物学的な父や母にすぎず、そして、すべての人間がそうであるように、死んでいった。ただそれだけのことのようにわたしには思えた。もちろん、わたしも、そうやっていつか死んでゆくだけのことなのだ。

 わたしは作家を続け、その作品の中で、あるいは、エッセーの中で、「他人」の境遇や悲惨さに心を動かすことばを書きつけたこともあった。けれども、書きながら、「それはほんとうだろうか」と思った。

(略)

 ほんとうに、みんなは、世界の悲惨に憤ったり、この国が犯した恐ろしい罪を憎んでいるのだろうか。本心から、そんなことが思えるのだろうか。わたしには、疑わしいように思えた。というより、そんなことは、どうでもいいことのように思えた。

 そして、わたしは、いろんなことを忘れた。父も母も、あの女の子のことを思い出すこともなくなった。

 8年前のことだった。わたしはバスルームで、3歳の長男に歯を磨かせていた。

[鏡に父の姿が映り一瞬恐怖にかられたが、それは年老いた自分だった](略)

 その瞬間、わたしは、それまで一度も体験したことのない不思議な感覚を味わったのである。鏡に映っているのが父だとするなら、その父に歯を磨いてもらっている長男は、わたしではないか。そう感じたとき、体が裂けるほどの痛みがわたしを襲った。(略)

 長い間忘れていた父の記憶が、不意に甦った。

 会社が倒産し、夜逃げをして、極貧の生活をしていた頃、「おかしが食べたい」といいだした5歳のわたしのために、深夜、何時間もかけてリンゴを鍋で煮ていた姿、あるいは、6歳の頃、やはり突然夜中に発熱したわたしを[小児麻痺で足の悪かった父が]背中にかついで30分以上かかる医者のところに運んでくれた姿が。

(略)

 わたしは21世紀の東京で子どもの歯を磨いていたが、同時に、半世紀前、父親に歯を磨かれている幼児でもあった。わたしは、二つの時間の間で宙吊りになっていた。

 わたしは父を忘れていたが、父はわたしを忘れてはいなかった。そんな気がした。父はわたしの中で、ずっと生きていたのだ。わたしは、父がその幼児に、すなわちわたしに抱いた、溢れるような感情の放射を、半世紀たって再び、浴びせられたように思った。

(略)

 そのときから、わたしと過去の関係は少しだけ変わったように思う。

 わたしは、ずっと、過去というものを、「死んだ」もの、「終わった」ものだ、と思っていた。だから、その「過去」というやつのことを思い出すためには、わざわざ、振り返り、遠い道をたどって、そこまで歩いていかなければならない、やっかいなものだった。

 そうではなかった。「過去」は死んではいなかったのである。

(略)

[70年前に戦死した伯父の慰霊にフィリピンへ]

死んだ仲間の肉をむさぼるほどの飢えに曝されながら(略)

彼らが切望した未来とは、いまわたしたちが生きている「現在」のことなのだ。(略)

 慰霊とは、過去を振り返り、亡くなった人びとを思い浮かべて追悼することではなく、彼らの視線を感じることではないだろうか。(略)

 そう思えたとき、わたしは、70年前ではなく、70年後の未来を思った。彼らが、未来を見つめたように、わたしも未来を見つめたいと思った。もしかしたら、慰霊とは、死者の視線を感じながら、過去ではなく、未来に向かって、その未来を想像すること、死者と共に、その未来を作り出そうとすることなのかもしれない。いま、わたしは、そう考えたいと思うのである。(略)

批判する人たちの「正しさ」は、いったいどこから来るのだろう

[半世紀前、ベトナム戦争反対運動に参加すると]

「小僧め、お前はなにもわかっていない。お前が考えているように世界は単純じゃない。ベトナムの背後には世界の共産主義者がいて、世界を彼らの支配下に置こうとしているのだ」とか、

「デモやビラでなにができる?そんなの自己満足じゃないのか?学生だからできるんだよ。いいご身分だねえ。(略)」

[と言われ戸惑い]

(略)

 「そんな遠くの国の戦争のことばかりに関心を向けて、自分の足もとを見ないのか。そもそも、お前たちの足もとはどうなっている。大学の自由や自治は侵され、研究も社会や資本のいうがままではないか。(略)なぜ、そのことに抗議しないのか」

 確かに、彼らのいう通りのように思えた。だから、若者は、ベトナム戦争反対の運動をするだけではなく、大学の中でさまざまな活動をするようになった。

すると、今度は、また別の人たちが現れて、若者を罵った。

 「お前たちは、大学という温室の中でなにかを変えようとしていると思いこんでいるだけだ。その中でなにをやったって、政府や社会や社会を動かす資本にとっては痛くもかゆくもない。お前たちがやっているのはしょせん、サークル活動のようなものだ」

 それもまた「正しい」ように思えた。だから、若者は、大学の問題を社会へ投げ返す運動を始めた。

[すると次は「沖縄のことを考えろ」と言われ](略)

若者は恥じ、連日、沖縄について勉強をして、そのための集会に参加もした。だが、すぐに、新しくだれかが現れ、若者を痛烈に批判するのだった。

 だから、若者は、

「障害者への差別」に反対し、

「女性を人間として見ない組織のあり方」に反対し、

「被差別部落への差別」に反対し、

「公害被害者との連帯」を目指し、

「労働者と学生の分断」に反対し、

「少数民族の権利を認めること」を訴えた。

 集会に出るたびに、主張するスローガンの数は増えていった。ときには、自分たちがどんな主張をしているか、数え忘れることもあった。その上で、こう批判されるのだ。

 「あれもこれも訴えて、いったい、ほんとうはなにがやりたいのか、わからないじゃないか」と。

(略)

[そんな日々に疲れたひとりが]

 「もう……無理だ……ほんとうに」[と呟き](略)

大学を辞め、故郷に戻り、それからすべての音信を絶ったのである。

 それから、繰り返し、若者は、同じ風景に立ち会うことになった。ある日、突然、ひとりの人間が(青年が)、「なにかをしつづけること」ではなく「なにもしないこと」を選択し、彼を知るすべての者たちの前から姿を消すのである。

 若者にとって、不思議だったのは、彼らをそうさせたのが「正しさ」であるように思えることだった。だとするなら、「正しさ」の意味とは何なのだろうか。

 数年の間、そうやって、若者は、政治運動とも社会運動ともいえるものに参加していた。知識は増えたが、根本的には無知のままだった。あるいは「バカ」のままだったといっていいだろう。

 若者は、もちろん、そのことを知っていた。だから、「バカ」と批判されることに、だまって耐えた。だが、批判する人たちの「正しさ」は、いったいどこから来るのだろう、と思った。正確には、「正しさ」の「正しさ」は、どこから来るのか、と。

(略)

 若者の属していた、小さな組織は、「正しい」批判を受け入れつづけ、気がついたときには、動きを完全に停止していた。なにもしなければ、批判されることもなかったのだ。もちろん、最後には、

 「ほら、あんなふうに、やるだけやって逃げてしまった。どうせ、そうなると思っていた。学生気分の甘い運動だったからな」という、疑いようのないほど「正しい」批判を受けることになったのだが。

 そうではなく、「正しさ」にも、息苦しい「正しさ」や、相手をうちのめす「正しさ」ばかりではなく、そのことによってなにかが生まれる、豊かな「正しさ」があるのではないか。若者は、そう思わずにはいられなかった。

(略)

 「こんなことも気づかないのか、自分たちの無知を棚に上げて、こんなことをしていたのか、どうしようもないな」という、舌打ちのことばから始めるのではなく、

 「そうか。こんなことをしたかったのか。けれども、こんなことをしていては、君たちが望んでいるところとは異なった場所へ行ってしまうよ」という、力づけるためのことばから始まる「正しさ」はないものなのか。

(略)

 「こんな風にやってみるものさ」と、なによりも、まずやってみせてくれることから始まる「正しさ」は、どこかにないのか。

(略)

[「連合赤軍」は]「バカの中のバカ」、「究極のバカ」だった。若者のような、どこにでもいるバカにとっても、「バカ」と簡単にいえるほどの大馬鹿者だった。

 すさまじい罵言雑言が、彼らに浴びせかけられたが、それは、当然すぎるほど当然だった。なぜなら、彼らこそ、「正しさ」の正反対にいたからである。(略)

 だが、若者は、彼らを批判することができなかった。正確にいうなら、批判する気になれなかった。いや、もっと正確にいうなら、自分には彼らを批判する資格がないような気がしていた。

 それは、彼らの中に、ずっと前、自分たちの小さな組織から去っていったものがいたからでもあった。

 あのさびしそうな表情の青年がたどり着いたのは、そこだったのか、と若者は思った。そして、その青年ではなく、もしかしたら、自分があの場所にいて、「バカの中のバカ」といわれていたのかもしれないと思った。

(略)

バカの中のバカである彼らは、丘の上にのぼり、警官隊に囲まれ、盛大に自滅していった。(略)

彼らが見つめていたのは妄想である、と断言できる自信は、わたしにはなかった。(略)

[若者(わたし)は、その後、長く政治・社会活動から離れた。「正しい」ことを論じるのが耐えられなかったせいかもしれない]

 幸いなことに、わたしが所属している「文学」なら、そんな立場をとる必要はなかった。「正しい」文学など、もとより存在しないからだ。

(略)

だが、わたしは、恐れていたのだと思う。間違うことを、である。

文学の世界に閉じこもっているなら、間違える心配はなかった。(略)

 だとするなら、わたしもまた、あの「若者」が嫌った、なによりも自分の「正しさ」を大切にする人たちと同じなのだ。

 しばらくして、わたしは、少しずつ、政治や社会について考え、論じるようになった。どれほど注意しようと、どれほど避けようとしても、やはり、そこには、誤りが生まれるだろう。そして、それに気づかず、あるいは、気づいたとしても、けっきょく、わたしは、わたしの「正しさ」を主張するようになるのかもしれない。だが、それを恐れていては、なにも語ることはできないのだ。(略)

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