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2018-02-18 抑止力としての憲法・その3 フーコー このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


抑止力としての憲法――再び立憲主義について

作者: 樋口陽一

メーカー/出版社: 岩波書店

発売日: 2017/12/15

|本| Amazon.co.jp

フーコーと新自由主義

 フーコーと言えば〈国家ぎらい〉の典型であり、理性と法に対する異議申立て人、という像を連想するのが一般的であろう。その中で、一九七九年コレージュ・ド・フランスでの講義における新自由主義への言及が、あらためて論議を呼び起こしている。

(略)

[当時は81年の]左派連立政権の成立へと向かう過程にあった。〈国家に統治され過ぎるよりは少しばかり市場に統治される方がまし〉というフーコーの立場は、〈第二の左翼〉に近いものだった。一九八〇年代に入りサッチャー政権とレーガン政権によって新自由主義路線が国策として政策的に強行され、市場による統治は〈少しばかり〉をはるかに越えるものとなるのであるが、八四年に没したフーコー自身は、その状況に正面から立ち合うことなしに終ることができた。

 それでも彼は、新自由主義が各自に対し〈自分自身の企業者〉になることを求め、それゆえに〈社会構成体の内部での「企業」という形態の一般化〉を意味することになろうことを、見通していた。そのフーコーが、新自由主義に言及する脈絡でドイツのOrdoliberalismusに触れていたことを、どう読みとるべきなのだろうか。おそらく、二つの読解が同時に可能であろう。

 第一は、彼からすれば我慢のならぬほどの国家の過剰を意味する福祉国家=社会民主主義からの脱却のために、Ordoliberalが重要だったこと。第二に、そのliberalな空間を維持し続けるために、自由競争を政策的に強制するOrderが必要と目されたこと。

 そのことに着目し、フーコーと、日本で営業の自由論争を主導した岡田与好を、「秩序のなかの自由」=Ordoliberalismusという媒介項でつないでみせたのは、石川健治の卓見である。(略)

「競争秩序の強制」が「仕組まれた「自己決定」」へと道を開く、という石川の指摘は、Ordoliberalismus、そして新自由主義そのものについて的中している。前者は部分的に、後者は全面的に、「経済的自由の局面から、「私法社会」をベースにした国家改造を企てる」ものだからである。最近になって、「フーコーはネオリベラルだったのか?」が論壇のテーマとなり、“反ネオリベラル闘争の聖なるパトロン”というフーコー像の見直しを求める批判も出されている。やがて全面展開してゆく新自由主義体制の行く末をフーコーが読み誤ったと考えてよいのか。あるいは、政策体系として全貌を現わす前の新自由主義を鋭敏にとらえた彼の先見の明を評価すべきなのか。

(略)

 独禁法を経済的自由の制限立法としてではなく、経済的自由=独占からの自由の促進のための立法としてとらえるべきだとして、一九六九年に「営業の自由論争」を提起した岡田与好は、この問題にどう向き合っていたか。

 八○年代はじめから英米で進行中だった民営化・規制緩和について岡田は、「私流に言うと」、「独禁法の路線の延長線上にある」という見方をしていたが、その一方で独禁法制そのものについて、六九年論文ですでに、その性格をこう記述していた。――営業の自由=独占排除の理念がかつては絶対主義的「産業独占」の「革命的廃絶」を意味していたのに対し、現代の独禁法は、「最高度に発達した「産業独占」の体制」を「当然の所与の前提として、取引の独占と制限に一定の規制を加えようとするものにすぎない」、と。その「路線の延長線上」にあった「日米構造協議」から「民活」への方向は、自由競争を政策的に強制して「競争を排除する競争」を促進する。こうして、中小企業や農民、そして「いっそう際立った形態」で労働者階級は、自らに向けられた営業の自由=独占排除の強制に抵抗する立場に立たざるをえなくなる。――「無内容の自由」ではなく「何が誰の」ものとして主張されるのか、誰に対する関係での誰の自由なのかという問題設定を致命的に重要とする岡田は、「国家による自由」をテコとする新自由主義の仕掛ける罠に無感覚ではありえなかった。

 フーコーが一九七〇年代に進行し始めていた状況の同時的観察から出発したとすれば、岡田の自由論は、近代市民革命の課題として追求された反独占を考察対象とするところから出発した。それゆえに彼は、前述のように一九七〇−八〇年代の状況を独禁法の路線の延長上にあると認めた上でなお、現代の独禁法がかつての反独占の理念とは違ったものになっていることに注意を促すことができた。

 そのようにして岡田は、近代資本主義を生み出した一つ目の自由主義の歴史的な役割と、二つ目の自由主義=ネオリベラルの困難さを、仕分けることができた。かつては「資本主義の強さ」でありえた「強制してでも確保」すべきとされる自由が、こんどは、自分で自分の脚を気づかずして喰い尽す伝説の角馬カトブレパの強さでしかなくなる。歴史上の大きな出来事は、まことに、二度違った仕方で起こったのである。

ボダン

 周知のようにJ・ボダンは主権を、何より、「他人の同意なしにすべての人にあるいは個人に法を与える」権能=立法権として定義した。主権者は法を制定する者として、裁判官はその法を解釈する者として定義されることとなった。これはまさしく「ボダンの革新」だった。なぜなら、中世の思考にあっては法規範は制定されるものではなく、裁判する者の理性によって発見されるものだったからである。こうして、裁判する王に代って、立法する王が登場する。――「真理でなく権威が法をつくる」。

(略)

主権者により与えられた法を解釈するという名のもとに執行者たる裁判官が主権を僣奪する可能性があるからである。主権者の手からこぼれてゆこうとする最後の言葉を取り戻すためにこそ、ボダンは、主権者たる君主自身に解釈権を留保する。「この、法を与えかつ廃する権力そのものの中に、主権のその他の権利・標識が含まれる……」として、その中に、「すべての執行者の判断を最終的に承認すること」をあげるのだから。主権者はここでふたたび、立法者でなく裁判官として立ち現われる。

 主権者=君主はそのような解釈権を自分自身に与えることが可能だとしても、それと同じことを主権者国民はすることができない。主権者国民は一般意思の担い手である以上、憲法改正を以てしても、一般的規範を語ることしかできないからである。その一般的規範の解釈という次元で、ふたたび憲法裁判官が現われ、循環は無限に続くことになるだろう。そのような循環はアメリカ合衆国憲法史の中で一世紀にわたって展開した。(略)

主権者国民が、自分の「最後の言葉」がおのれの手からこぼれてゆく可能性を文字通りに根絶することは、むずかしい。

citoyen

 一七八九年秩序は自己決定秩序の近代版だったはずであるが、国家との対極構造のもとに置かれることとなった個人は、いわば危うい綱渡りを続けなければならないこととなる。個人はhomme=人として国家から自由な空間を獲得するが、その状態を維持するためには、今や自立し自律するcitoyen=市民としてみずからを陶冶しなければならないからである。「ひとはcitoyenであることによって始めてhommeでありうる」というルソーの言はまことに的を射ているのであり、その際citoyenという言葉はルソーの定義通り、一体としてのpeuple=人民を構成する諸個人、公共=res publica(典型的には国家)の運用にかかわる諸個人に他ならない。

(略)

[日本史家・小路田泰直の論稿「ポストモダンに対しモダンを擁護する意味」は]

「人はcitoyenたらねばならぬとする、まさに近代的規範意識」が重荷として課せられたのだということ、そして、そのような「近代的規範意識そのものの解体」による「癒やし」を求める言説がポストモダンの意味なのだということ、を明快に指摘する。(略)

 小路田により「ポストモダンに対してモダンを擁護する」ものとして適切に定式化された私の考え方は、後続世代の憲法研究者たちによって、「強い個人」を前提にした議論として、その「息苦しさ」、抑圧性を指摘する批判が、少なからず寄せられてきた。その一方ではまた、同じ内容を逆むきにとらえて問題をとり出す設定があった。

 憲法学者の中から蟻川恒正と私とを例に引いて、「「自由」、「個人の尊厳」など、バラ色のイメージで語られてきた事柄の、「苦しさ」を描出してきた」と受けとめる民法学者・小粥太郎の指摘がそれである。それは、「漫然と、人権を保障すれば、自由を与えれば、人を幸せにできると考えてきたフシがある」「日本の憲法学」の中で、あえて「苦しさ」を問うことの積極的意味をみとめてのことであった。

(略)

 西洋諸社会で、近年、「個人主義」という言葉が懐疑的、さらには否定的含意で使われることが多くなっている。ここでの文脈に即して言えば、hommeの私的空間へのひきこもりであり、それへの対処として英語の表現でcare(「癒し」!)という言葉も使われている。citoyenについてはどうか。ひと頃は、その公的性格の過剰と独走の危険という側面が論難され、「ルソーこそ二〇世紀の各種独裁の元凶」という議論の仕方が優勢だった。今日ではそれと現象的には反対に、citoyenの衰弱が脱政治と劇場化の漂流をもたらしていることが、強く意識されている。

(略)

「裁判への逃避」という形でのcitoyenの衰弱が指摘されるとすれば、より大きな問題群を提起しているのは、「癒し」のための逃避先を宗教集団への帰属という「自然」、民族に求めるという、無視できないほど拡がってゆく流れである。こうして、一七八九年秩序によって解放された個人が、今や、個人であることからの解放を求める。「二一世紀は宗教の世紀か、それとも無くなるかだ」というアンドレ・マルローの予言が無気味にひびく。

(略)

 かつて、広中俊雄と私との間で、「個人の尊厳」と「人間の尊厳」という二つの表現の理解をめぐってのやりとりがあった。端緒は、広中俊雄の著書『民法綱要 第一巻 総論上』(略)

「人間の尊厳」よりも「個人の尊厳」の方が広中法学にふさわしいのではないのかという感想を私が述べたのは、「人間の尊厳」を「個人の尊厳」までつきつめたところにこそ、近代法の想定する「市民社会」の特徴と、それゆえの困難さがあるのではないか、と考えてのことであった。個人を犠牲にして集団のために尽くすことにこそ「人間らしさ」「人間の尊さ」があるのだ、という考えが、ほかならぬ日本社会で少なからず共感を集めてきたように思えたからである。

(略)

 そのような議論に関心を寄せて「個人」の強調を共有した上で、しかしむしろ「尊厳」に重きを置く思考を展開するのが、蟻川恒正である。蟻川は太宰治『走れメロス』を糸口として、ヨーロッパで描かれ続けてきた物語の中から「身分の尊厳」という論点をとり出し、「高い身分の普遍化」という概念を挺子として、「近代」に潜在する困難にメスを当てる。(略)

もともと尊厳の担い手は、近代が「個人」を析出するために解体した「身分」だったのであり、それを人一般としての個人にまで拡張しようとするのが、「自治統治秩序」の近代ヴァージョンが描く「個人の尊厳」なのだ、ということになる。

 蟻川の出した問題の射程は、大きい。「尊厳」は「果たすべき義務」という観念から離れることができない(Noblesse oblige)。それゆえ、個人の「尊厳」の強調は、とりわけ法解釈論上は「権利一辺倒の日本の憲法論」への批判(蟻川)へと連なってゆくだろう。そのことに対してはすでに(略)

「危うい」とされるような言説が「文脈を切り難されて独り歩きすると」生ずるであろう「困った」事態への警告が述べられている。

 警告には、十分以上に理由がある。「尊厳」の強調は、「個人」の尊厳を一層むずかしくする。その困難は、しかし、あらかじめ織り込みずみのはずであった。一七八九年宣言の「市民」は、自己統治秩序の担い手としての「身分」の近代版に他ならなかったからである。