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2018-03-13 ポール・マッカートニー ザ・ライフ その2 このエントリーを含むブックマーク

前回の続き。


PAUL McCARTNEY THE LIFE

ポール・マッカートニー ザ・ライフ

作者: フィリップ・ノーマン

訳者: 石垣憲一, 竹田純子, 中川泉

メーカー/出版社: KADOKAWA

発売日: 2017/02/25

|本| Amazon.co.jp

スタークラブ

 スタークラブの支配人ホルスト・ファッシャーはザンクト・パウリでも指折りのタフガイのひとりで、ボクシングのフェザー級のチャンピオンだったが、路上の喧嘩で誤って船員を殺して服役したことがあった。彼はロックンロールが大好きで、ビートルズを崇拝していた。そのためメンバー一同が、レーパーバーンの犯罪組織から(略)危害を加えられたことは一度もなかったのである。(略)

 ビートルズは、スタークラブではロイ・ヤングと一緒になることがよくあり、共演も多かった。エネルギッシュな歌手兼ピアニストで、「イギリスのリトル・リチャード」とも言われ、メンバーがかつて見ていたBBCテレビ初のロックンロール・ショー『ドラムビート』に出ていた人物である。(略)

 ヤングのピアノの演奏が大好きだったポールは、彼をビートルズに半永久的に加えてはと、ブライアンに提案した。だが彼はすでに、スタークラブのオーナーのマンフレート・ヴァイスレーダーと三年契約を結んでいたのである。

(略)

 ステュの死の直後であり、お目付け役のブライアンもいなかったので、ジョンの態度はステージ上でもそれ以外でも、ザンクト・パウリでは見られないほど病的になっていた。(略)

 「ある晩、ビートルズの出番がそろそろだったのに、ジョンの姿がどこにもなかった。結局は、ホルスト・ファッシャーがステージ近くのトイレで見つけたんだけど、彼は個室で女の子とセックスしていたんだ。ホルストはバケツに水をくむと、それをドアの上から二人にかけてね。ジョンはその仕返しとばかりにトイレの便座をもぎ取ると、それを自分の首にぶら下げたままステージに出たんだ。ホルストはクビにするとわめきだして、荷物をまとめてさっさと次の便で帰れって言ってたよ」

 「彼らの楽屋をのぞいたら、ポールは部屋の隅にいた――涙を浮かべてね。父親に借金してまで車を買ったのに、スタークラブをクビになったら、金を返せないってこぼしてたよ」

 それでも、レーパーバーンはまたもや彼らを許したのである。それから数日後、(すべての内容が真実ではないものの)重大な電報がブライアンから届いたのだった。

ミンナオメデトウ いーえむあいガれこーでぃんぐヲキボウ

シンキョクノりはーさるヲコウ

ピート解雇

 この騒然とした一週間のキャヴァーンにおけるビートルズを収めた映像はひとつしか存在せず、マンチェスターのグラナダ・テレビが粒子の粗い白黒で撮影している。新しいビートル・カット姿のリンゴがドラムについているが、「ピートを出せ!」と聞き取れる叫び声に、明らかに落ち着きを失っている。抗議の声をかき消そうと、ポールとジョンは懐かしのR&Bのスタンダード・ナンバーを始めた――無意識のうちに、〈サム・アザー・ガイ〉【「別の男」の意】というふさわしい曲が選ばれていた。

リトル・リチャード

 リトル・リチャードは50年代半ばのアナーキーな姿からはやや変化していて(略)きちんと仕立てられたシャークスキンのスーツとニーナ・シモン風の短い髪になっていた。ポールとジョンは最初は畏れ多く感じていて、一緒に写真を撮ってもいいかと頼むことはおろか、思い切って話しかけることさえもできないでいた。

(略)

 そのうちに二人は内気さも忘れて、ピン留めの首輪をした子犬のようにこのスターにまとわりついて、質問攻めにした。

「二人が訊いてくるんだよ。『リチャード、カリフォルニアってどんな感じ?』って」と、リチャードは自伝『ザ・クエーサー・オブ・ロック』に書いている。「『ニューヨークのビルって、ホントにあんなに高いの?エルヴィス・プレスリーに会ったことある?彼ってカッコいい?』とね。

(略)

[ポールが]俺のことをじっと見るんだ。目も動かさない感じでね。それからおもむろに、『ああ、リチャード!あなたは僕のアイドルなんです。ちょっとだけ体を触らせてください』なんて言うのさ。彼が俺の得意とするちょっとした叫び声[いわゆるバンシーの叫び声]を学びたがっていたから、二人してピアノのところに腰掛けて『ウーッ!ウーッ!』ってやったら、彼もコツをつかんだみたいだったよ。俺はあるとき、客席に向かってシャツを放り投げたことがあるんだけど、ポールも自分の一番いいシャツをひとつ持ってきて、『リチャード、これどうぞ』って言うんだ。『受け取れないよ』って言っても、彼も引かなくてね。『お願いだから、受け取ってください。受け取ってもらえないと、悔やむことになるんです。考えてもみてください――リトル・リチャードが僕のシャツを着てるんですよ!そんなこと信じられません!』だとさ」

ジョンによる「駆け引き」説(←ホンマかいな)

ビートルズ初のフルタイムの広報担当(略)トニー・バーロウがブライアンにした最初の助言のひとつは、ジョージ・マーティンの初期の直観の繰り返しになるが、バンド名を「ポール・マッカートニ&ザ・ビートルズ」に改名してはというものだった。

(略)

[三度目の全国ツアー前の休暇で]

ジョンは妻と生まれたばかりの息子のところへは戻らずに、ブライアン・エプスタインと10日間におよぶ二人だけのスペイン旅行へ旅立ったのである。(略)

何年もしてから、ジョンは親しい友人に、ブライアンとはセックスのようなことをしたと明かしたというのだ。一度目はどんなものかと知るためで、ニ度目は気に入らないものであることを確認するためだった」とのことである。(略)

[『マージー・ビート』ビル・ハリー]によればブライアンはバンド名を実際に変えるかどうかはさておき、気持ちのうえではトニー・バーロウのアドバイスに素直に従っていたという。「彼は[ビートルズを]ジョンのグループからポールのグループヘと変えたかったんだ」と、ハリーが言う。「それでジョンをスペインヘと連れて行った。一連のことを彼に説明する間、ある程度のプライバシーが得られるようにね」

 ポールのほうはこの休暇については、ジョンによる「駆け引き」の証拠と常にとらえていた。「ジョンは頭が切れる。ブライアンはゲイだったから、ジョンはグループのボスである彼に印象づける好機を見出した……誰の意見を聞くべきか、ブライアンに知ってもらいたかったんだよ」

アッシャー家

アッシャー家にはアッシャー医師の患者にマーガレットのオーボエの生徒がひっきりなしに出入りしていた。(略)

[ジョンとポールには]曲作りを落ち着いて行える場所がロンドンにはまだなかったことから、マーガレットが地下の指導室とピアノを提供したのだった。

 二人が〈抱きしめたい〉のアイデアを得た――ジョンに言わせると「お互いの鼻にはまった」――のが、その地下の部屋だった。

(略)

[63年末里帰りするための最終便を逃したポールにマーガレットが泊まっていくように勧め、結局その一晩が]数年にまでなったのだった。(略)

 ジェーンの兄のピーターは、家の最上階にあってウィンポール・ストリートを見渡せる、L字形の広い寝室を使っていた。ポールはそこの踊り場を挟んだ、かつてのメイドの部屋を使うことになり(略)

ジェーンはひとつ下の階で寝ていたが、夜這いはしないということになっていた。「ジェーンはいつもその部屋で寝ていたけど、小さい頃に掲げた名札を、ドアのところにまだつけていたんだ」。(略)「ポールにしてみれば、ピーター・パンの世界にいるような感じだっただろうね」

(略)

 当時ピーターは、ポールによる未完成の曲があることを覚えていた(「歌詞は二番まであるけど、つなぐ部分がない」とのことだった)。ビートルズにはソフトすぎるとしてジョンに却下され、ほかの誰も望んでいないような曲だった。この「見捨てられた」ポールの曲〈愛なき世界〉が、レノン=マッカートニーのクレジットでピーター&ゴードンのデビューシングルになった。[〈キャント・バイ・ミー・ラヴ〉を蹴落として、全英・全米で一位に]

(略)

 ジェーンに恋した時間は、ポールの音楽に優しさと独特な雰囲気[を与えた](略)

〈夢の人〉にある自然な息の途切れ、〈ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア〉(略)の中の歌詞「彼女が手を振ると僕の人生は変わる」として登場する名指しされていない人物、そして何よりも絶対的なものがある〈アンド・アイ・ラヴ・ハー〉だ。

僕たちのような愛は 決して消えることはない 君が僕のそばにいる限り

〈イエスタデイ〉

ジョージ・マーティンは訓練を受けたクラシックの音楽家だったため、アレンジは自然と彼が行ったが、現代世界とのあらゆる結びつきが失われないように、ポールは七度の音――ジャズの世界でブルーノートと呼ばれる音――を入れるように頼んだ。「バッハならそんなことはしない」とマーティンは異議を唱えたが、これは無駄に終わった。(略)

ジョン、ジョージ、リンゴはパーロフォンからシングルとしてリリースされることを拒否した。ロックバンドとしての信頼性に傷がつくかもしれないと思ったからである。(略)

[米国ではキャピトルがおかまいなしに発売、一位に。仲間内ではバンドキャラに合ってない失敗作とされてたので]

NEMS組にいたビリー・J・クレイマーやクリス・ファーロウにもオファーされたが、どちらも「ソフト過ぎる」として断った。やがて三ヵ月後にマット・モンローというシナトラ風の流行歌手(ジョージ・マーティンの長年の友人でもあった)がカバーしたところ、ついにイギリスでトップ10入りして、最高位八位を記録したのである。

 最高に洒落ていたカバーはイギリスのテレビ番組でマリアンヌ・フェイスフルが歌ったもので、伴奏はポール本人が行った。ポールは彼女の歌声と清らかな美貌を賞賛したが、さらに重要なことには、彼女はピーター・アッシャーの友人でケンブリッジの美術学生だったジョン・ダンバーとの結婚を控えており、彼の子どもを身ごもっていたのである。ポールがアコースティックギターをかき鳴らして曲を始めると、マリアンヌはオーケストラと聖歌隊を引き連れるようにして歌ったが、カメラのアングルは妊娠している彼女の体を映さないように慎重に練られていたのだった。

マリファナ

[64年二度目の米ツアー時に初体験]

 それからは、ひとりはみんなのために、みんなはひとりのためにといういつもの精神で、マリファナが集団生活の中心要素となった。何よりもまず、危険なことはほとんどなかった。(略)

この時代のイギリスの警官の大半は、マリファナの見た目も匂いも識別できなかったため、警官から厄介なことを訊かれても、ただの「ハーブ・シガレット」と答えれば簡単に切り抜けられたのだった。

(略)

「ポールが作った“ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ”をラヴソングだと思っている人は多い」と、バリー・マイルズは語る。「実際は、マリファナについて書かれた曲なんだ。彼がマリファナが好きすぎて書いたんだよ」

 ビートルズは映画『ヘルプ!4人はアイドル』を主にマリファナの影響下で作った――監督のリチャード・レスターも「ハッピー・ハイ」だったと振り返っている。

(略)

 アビー・ロードでレコーディングするときは、ジョンはサリー州ウェイブリッジの新居を出発すると、同じ敷地内にある家でリンゴを拾い、二人でマリファナを吸いながらロンドンまでの30キロ以上の道のりを行くのだった。スタジオに着く頃には、二人は煙と車のオーバーヒートによって乗り物酔いの状態となり、持っているマリファナ並みに顔が緑色になっていた

(略)

 マリファナが――まだ立ち入れなかった領域が、ジョンとポールによる曲作りだった。マリファナは心を曇らせてしまうと判断した二人は、一曲につき最大で三時間かけて、完成した歌詞をそれぞれ清書していくという、以前からの方法を続けたのである。そうして曲がうまく出来上がって初めて、マリファナを分け合うというご褒美にあずかるのだった。〈愛のことば〉の曲が完成してマリファナを吸い始めたときには、歌詞を清書するだけでは終わらず、ジョンの息子のジュリアンのクレヨンを使って色鮮やかな原稿に仕立てあげたのである。

 確かに1965年までの作品には、心が曇っている証拠は見られない。〈恋を抱きしめよう〉にはポールの楽観主義とジョンの厭世主義の絶妙なバランスが、〈イン・マイ・ライフ〉には早過ぎるノスタルジアが見て取れる。後者は典型的なジョンの曲と思われがちだが、実際はメロディーのほとんどを書いたのはポールだ。

(略)

 二人の間には、意見の相違やかなり激しい言い争いもあっただろうが、本当のわだかまりがいつまでも残ることはなかった。(略)「二人で何か口論していて……悪口を言い合ったんだ。それが一瞬落ち着いたところで、彼が眼鏡を外すと、こう言った。『これが俺なんだよ……』。そうして、また眼鏡をかけたんだ。あれこそが、てらいも何もない、彼の真の姿を見た瞬間だった……世間に見せるのを恐れていたジョン・レノンという姿だったんだよ」

 だらりと垂れた小さなマリファナ煙草をみんなで分け合って絶えず吸ったことが助けになったとでもいうように、どんなにプレッシャーが山積みになろうが、これと同じ友好関係がバンド全体に浸透していた。「あれはグレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアがのちに語った、『グループ・マインド』の最たる例だったね」と、バリー・マイルズが語る。「彼らはあまりに長いこと一緒にいたから、誰かひとりが弾き始めただけで、ほかのメンバーは何をすべきかわかるんだ。シェイ・スタジアムで5万5000人を前にした、それまでで最大のコンサートでも、曲順が決まったのは直前に楽屋に入ったときだったんだから」(略)

[トリビア:ミック・ジャガーに初めてマリファナを試させたのはポール]

バリー・マイルズ

 ポールが文化的教育をアッシャー家に大きく負っていたとすると、カウンターカルチャー的な教育のほぼすべてを負っていたのがバリー・マイルズだった(略)穏やかな話し方ながら鋭い知性を持つ22歳で、変わっていることに、現代美術と文学に関する知識をあらゆる音楽――ロックンロールから実験的ジャズやミュジーク・コンクレートといった激しい分野まで――に対する愛情と結びつけていた人物である。(略)ブライアン・ジョーンズと共に)育ち、美術を学んだのちに画期的な作品を集めたロンドンのベター・ブックス(略)に勤めたのだった。ベター・ブックスはアメリカのビート作家がロンドンを訪れる際の第二の故郷(略)

 マイルズは前衛音楽に関する知識も幅広かった。ポールが彼から初めて教わったものに[オーネット・コールマン、アルバート・アイラー、サン・ラ、ジョン・ケージ、シュトックハウゼン、エドガー・ヴァレーズ、フランク・ザッパ、ファッグス]

(略)

最も想像できないような前衛の人物が、ビートルズの歴史で脇役を務めていた。マイルズがベター・ブックスを通じて友人になったウィリアム・S・バロウズその人である。(略)

[リンゴ所有のアパートを]実験的なレコーディング・スタジオを設置するためにポールが勝手に取り上げて、バロウズのボーイフレンドであるイアン・サマーヴィルを臨時のエンジニアとして使っていたのである。

 「ある晩そこにいて、マリファナを吸ったりフリー・フォームの音楽――別名鍋釜叩き――を作ったりしていたときに、ポールがビートルズのアルバム《ラバー・ソウル》のアセテート盤を持って立ち寄ったんだ。彼がそれを最初に聴かせたうちのひとりがバロウズだったんだよ」と、マイルズが明かす。

〈エリナー・リグビー〉

〈イエスタデイ〉のときの「スクランブルド・エッグズ」のように、メロディーのデモではしばらくは、「オラ・ナ・タンジー」という意味のない音節を歌っていたのだった。彼によればエリナーの名は、『ヘルプ!4人はアイドル』に出演してジョンが夢中になったイギリスのコメディ女優エリナー・ブロンが由来だという。[それからブリストルのリグビー&ユアンズというワイン輸入業者]

(略)

最初のバース部分のみ、みずから告白するような寂しさの中で書かれたが、残りはジョンとジョージとリンゴ、それにジョンの旧友であるピート・ショットンによるアイデアで、それがウェイブリッジにあるジョンの家で形になったのである。ポールは寂しげな司祭の名をマッカートニー神父にしようとしたが、ショットンからのアドバイスで、哀れにも「誰もいない夜中に靴下を繕う」というリンゴによる歌詞が自分の父親のことととられないように、「マッケンジー」にしたのだった。ジョージからは「オール・ザ・ロンリー・ピープル」の語句を繰り返すアイデアがもたらされた(略)

 ポールは様々な段階で、この曲を[ドノヴァン、バロウズに聴かせた]

口ヒゲの理由

ウィラルの景色をタラに示した際に、ポールは集中力を欠いてオートバイから転落し、歩道に激しく顔を打ちつけてしまい、歯が上唇を突き破ったのである。ベットの家にたどり着くと、彼女が友人の医者を呼んでくれて、その場で麻酔無しで傷口を縫ってくれたのだった。

 この間に合わせの手術のおかげで、傷はほとんど目立たなかった[が](略)

傷を隠すために口ひげを伸ばすことに決めたのだった。

 当時の若いイギリス人の間では顔にひげを生やすことは珍しく、第一次世界大戦以降で一般に口ひげを生やしていたのは、元軍人とゴルフクラブの役員ぐらいだった。ポールは端の部分を下げることで、普通の水平なものよりもエキゾチックにしていた。のちに彼はそのスタイルを「サンチョ・パンサ」だと言ったが、彼が意図していたのは、おそらく[シスコ・キッドの相棒パンチョだろう](略)

グループ・マインドはすぐさま一致した。一九六七年が明けるまでには、ジョン、ジョージ、リンゴも同じメキシコ・スタイル、いわばサパタ風の口ひげを生やしていたのである。

リンダ

 奇妙な偶然の一致だが、リンダの実の姓も、ビートルズのマネージャーと同じだった。父親のリー・イーストマンはレオポルド・エプスタインとして生まれたものの、ブロンクスに住むロシア系ユダヤ人の貧しい移民から地位の高いマンハッタンの弁護士に上り詰める間に、新しい自分を作りだしたのである。(略)

こうして子どもたちは典型的なニューヨークのワスプとして育ち

(略)

 ローリング・ストーンズの独占取材に力を得た彼女は、『タウン&カントリー』誌の仕事を辞めてフリーになった。みずから認めるように、「あまりにずぼら」で、構図をひどく気にかけることも、露出計を使えるようになることもなかったという。それでも彼女には、写真家にとって何よりも欠くことのできない、対象に近づくという才能があり余るほどあった。(略)

 やがてリンダはニューヨークでも一番のロック会場、フィルモア・イーストの専属写真家になると、担当したアーティストはドアーズ、ママス&パパス、サイモン&ガーファンクル、クリーム、フランク・ザッパと増えていった。中傷する人たちは(略)彼女のことを高級タイプのグルーピーと見なしていた。ミック・ジャガーのあとには、被写体の何人かとしばらく付き合ったり、一夜だけの関係を持ったりした(略)。そのなかには[ジム・モリソンや](略)当時はロック界の誰よりも強烈なセックス・シンボルだったハリウッド・スターのウォーレン・ベイティらがいた。

(略)

「自分をアピールする彼女の才能には目を見張ったわ。ミニスカート姿で彼の前に座ったり両足を広く開いたりしながら、エクタクロームのフィルムを最低六巻は使うんだから。ウォーレンは30分もしないうちに私をデルモニコのスイートルームから追い出すと、リンダと丸二日間、一緒にいたのよ」

インド滞在、『指輪物語』

デニス・オデルはマハリシに関するドキュメンタリーというジョンのアイデアについて話し合うために、そして頑固なニール・アスピノールはそれが実現しないようにするために来たのである。

 オデルは次の映画用に[『指輪物語』を提示](略)アメリカの大学ではすでに大人気だったものの、イギリスでは比較的知られていなかった本である。(略)

マハリシのアシュラムにおいて条件付きで了承されたのが、ポールがホビットのフロド・バギンズ、ジョンが人間の形をしたぬるぬるする生物のゴクリ、ジョージが魔法使いのガンダルフ、リンゴがフロドの相棒のサムをそれぞれ演じるということだった。「ジョンはこれに合うダブルアルバムを書けると言っていた」と、オデルは振り返った。(略)

監督候補として、オデルは巨匠のスタンリー・キューブリックに接触した。(略)

ジョンとポールとランチを共にした監督は、完全に魅せられたものの、この映画を作る方法は見出だせなかった。

(略)

[その後にはゴダールからアプローチがあり、オデルは台本をポールに渡したが、ジョージがやりたがらないと、ポールは台本をテムズ川に投げた。それでゴダールはストーンズを使った]

ポールとジェーン

 ポールとジェーン・アッシャーの婚約は、実際には二人の関係の終わりの始まりを示すものだった。インドではとても幸せそうで、一緒にいて安らいでいるように見えたのに、帰国後、その終わりは素早く訪れたのである。(略)

ジェーンのことを自分に合う女性だと感じたことは一度もなかったという。 

「彼女のことはとても好きだったし、僕たちはとてもうまくいっていた。彼女はとても知的で興味深い人だったけど、どうしても噛み合わなかったんだ。(略)

この問題の大部分は(略)二人の経歴にある大きな差だった。(略)

上品な若手女優と付き合う新鮮味が失われると、すべての関心を自分に注がずに、自立した順調なキャリアを精力的に追い求めるジェーンに対し、腹を立てるようになったのだった。

(略)

従順なロイヤルカップルのように、ポールとジェーンは結束と愛情を世間には見せつつ、プライベートでは冷ややかさと疎外感が増していたのだった。表向きは同じ屋根の下にいながらも、二人はほとんど別々に暮らし、一緒になるのはどちらもほかに予定が入っていないときか、休暇の決まり事としてスキーや日光浴をしているときだったのである。

次回に続く。