ムッシュ!  ムッシュかまやつ

語り口から人柄の良さがにじみ出てます。C&Wはありで、ロカビリーはなし、ビートルズにガツンとやられたが、ヒッピームーブメントには乗れず、その流れを関西フォークに感じ、そしてフュージョンへ。

ムッシュ!

ムッシュ!

カントリー&ウエスタン大流行

 戦争が終わって一年か二年後くらいに、[父]ティーブ[釜萢]はやっと戦地から帰ってきた。森山久がニュー・パシフィック・オーケストラというバンドを米軍相手にやっていたので、一緒に仕事をするようになった。(略)
渡辺弘とスター・ダスターズでは、ボーカルがティーブと石井好子さん、それにペギー葉山さん、初期には、のちにクラシックの作曲家になった黛敏郎さんがピアノを弾いていた。黛さんはまだ芸大の学生で、アルバイトで演奏していたらしい。そういう時代だった。
 昭和二十年代の終わりか三十年代の初めに、ティーブは「日本ジャズ学校」を開いた。(略)かなりレベルの高い学校だった。ミッキー(・カーチス)や平尾昌章さんもいたし、高校生だったぼくもボーカルを習いに通っていた。
 ぼくは、ティーブにいつも注意されていた。
「かまやつクン、rとl、thの発音が悪いよ」
 息子といえども生徒のひとりなので、ぼくを「かまやつ君」と呼ぶ。やはり父親に習うのは照れくさかった。(略)
[プロが新人を物色に来て]仲間がどんどん拾われていくのを横目で見ながら、ぼくはいつも置いてきぼり。情けなかった。結局、イヤ気がさして、ぼくはティーブの学校を辞めてしまう。
 そのころになると、ジャズ学校でも、通っていた青山学院でも、若い連中のあいだでは、ジャズよりもむしろカントリー&ウエスタンが大流行し始めていた。カントリー&ウエスタンが、当時の少年たちにとっては、いまのロックのようなものだったのである。
 ぼくも十五、六歳くらいまではジャズ一辺倒だったが、カントリー&ウエスタンも好きになっていった。

トミー藤山

 [米軍]キャンプですごいなと思ったのは、ギタリストの寺内タケシさんだった。(略)州歌をすべてメドレーで演奏するのである。(略)自分の故郷の州歌が始まると、そこの出身者のグループが一斉に立ち上がってワーッと盛り上がる。(略)客をどういうふうに乗せればいいかということを、寺内さんはミュージシャンとしてよく知っていたといえるだろう。
 もうひとり、ぜひ語っておきたいのが、トミー藤山さんのことだ。彼女は、ギターを弾きながら歌うのだが、ボーカル・マイクとギターのマイクがワイヤレスになっていた。トランスミッターで音を飛ばしていたのだ。いつも一緒に付いていたお父さんがエンジニアらしく、独自にトランスミッターの装置を開発していた。だから、ギターを弾きながら、客席のなかへ入っていって歌う。いまなら当然かもしれないが、一九五〇年代の話だ。当時としては考えられないことだった。同じ技術で観客をビックリさせたスウェーデンのグループ、スプートニクスより十年近く早かった。しかも、彼女の場合はマイクとギター、2チャンネルあったわけだ。
 もちろん、GIたちはヤンヤの喝采だった。ぼくもビックリして見ていた。ホント、「すげーなー」って感じだった。
 そのトミー藤山さんの当時の曲「テネシー・ワルツ」が(略)アメリカのインディーズ・チャート上位に入ったのだという。どういうことかというと、昔の曲を面白がる小西康陽さんのような人がアメリカにもいて、そういうアメリカの若者たちと、進駐軍として日本の土を踏み、キャンプで彼女の歌を聴いていた、いまではもうかなり年輩になっている人たち、その両方の支持を受けた結果らしい。

外タレは王様

[59年来日したジーン・ヴィンセントが連れてきたジェリー・メリットというギタリストがストラトチョーキングをやって驚愕]
そんな弾き方、そのころの日本では誰も知らなかったのだ。
 アメリカには、もうライトゲージがあったと思うのだが、日本にはまだ存在していなくて、ギターには普通のヘヴィゲージを張っていた。チョーキングを覚えても、太くて硬い弦なので、これではなかなか難しい。だから二弦を張るべきところにも一弦を(略)[つまり]一、一、二、三、四、五弦と張るわけ。
 それにしても、ライトゲージでチョーキングすることを考え出したヤツはスゴイ。(略)
 カントリーのミュージシャンは、一弦から四弦までライトゲージを張って、五、六弦にウルトラ・ヘヴィゲージを張るらしい。そうやって特徴を出す。(略)アメリカ南部なんていうと無骨者が多いから、小指の力がやたらと強いギタリストなんかがいて、五弦のいちばん高音の部分を小指でチョーキングしているのを見たことがある。
(略)
このメリットというギタリストには後日談がある。日本からの帰りに香港だか台湾に立ち寄り、そこで梅毒かなにかにかかって、現地で死んでしまったのだという。なんだか、はるか昔、マルコ・ポーロ大航海時代の話のようだが、事実らしい。
(略)
ジーン・ヴィンセントが、「日本には電気があるのか」と大まじめに聞いたそうである。
(略)
 五〇年代、六〇年代には、外国のスターが来日すると、どこかの国王か大統領が来たような騒ぎになった。(略)
ララミー牧場』の二枚目役、ロバート・フラーが来たときは、羽田飛行場から都心に向かう沿道にファンと野次馬がずーっと連なって、女の子が感動のあまりウソみたいに泣きじゃくっていた。

ロカビリーはキライ

 日劇エスタンカーニバルには、初年度の十二月公演からぼくも出演するようになった。だが、ロカビリーはどうも好きになれなかった。なにかホテルのショーのような感じがして、エルヴィスみたいなフラッシュな格好はしたくなかった。ロカビリーのシャウトも苦手だった。
 カントリーが自分の本質にいちばん合っているのかもしれないとぼくはいまでも思う。これは個人的な思い込みかもしれないが、U2とか、現代のアイルランド系のバンドを聴くとカントリーの匂いがして、いいなと思う。(略)
 とはいえ、エルヴィス・プレスリーの登場がショッキングな出来事だったことはたしかだ。(略)
 ぼくも、ある種の衝撃は受けた。彼がサン・レコードでレコーディングした「ブルー・ムーン・オブ・ケンタッキー」や「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」とかは、カントリーがベースに色濃くあったから、
「すごいのが出てきたなあ」と感心したものだ。
 だが、RCAからメジャー・デビューして、「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラブ・ユー」のような曲がヒットした時点で、もう引いてしまっていたかもしれない。一度成功したパターンをなぞっていく、ショーケースのような音楽をやるミュージシャンは好きじゃないのだ。
 それで、ロカビリーでも軽い感じのリッキー・ネルソンなんかの曲を歌っていた。フランク・シナトラの真似をしているイタリア系のボビー・ダーリンにも興味を持っていた。(略)
もちろん、ハンク・ウィリアムスもよかったが、なんだか暗い感じがした。だいぶあとになって、ボブ・ディランを聴いたとき、ちょっとハンク・ウィリアムスに似ているような気がした。二人ともブルース・ベースだからだろう。

テイチク時代

六〇年に、テイチクと専属契約を結び、ようやくデビュー・シングルが発売された。「殺し屋のテーマ」と「皆殺しの歌」のカップリングだった。ともに外国映画の主題歌だ。(略)
[「殺し」という言葉が放送コードに触れ放送禁止に、結果、全く売れず]
 その後、二年くらいのあいだに二十枚近いシングルを出した。(略)
[海外のカバーや]テイチクのお抱え作曲家みたいな人が書いたオリジナル曲が半々くらいだが、後期になると、「麻雀必勝法」「裏町上等兵」「結婚してチョ」「ぶらぶら天国」、それから「こんがらがっちゃった」(この曲は小西康陽さんが好きだといっていた)みたいな、いまではギャグになっているほどムチャクチャな、ほとんどコミックソソグのような曲ばかり歌わされた。屈辱の時代である。しかも、どれもまったく売れなかった。よかったね。
 そのころはまだ、若いシンガーの自己主張など許されない時代だったから、「これやれ」っていわれると、「ハーイ」ってな感じでやるしかなかった。
 それでも、「なんでこんなことやんなきゃいけないんだろう」と悩んでいたのは事実だ。ぼくはずーっとカントリーをやっていくつもりでいたから。
 とくに、テイチクという会社は、演歌とド歌謡曲に強い会社だった。そういうところに入れられてしまったのが運のツキだったのかもしれないが[他社からは採用されず](略)テイチクが拾ってくれたようなものなのだから。
 三波春夫さんに田端義夫さん、石原裕次郎さん、ディック・ミネさんが当時のテイチクのドル箱スターだった。たとえば三波春夫さんがやって来ると、社内にアナウンスが流れる。
「ただいま三波先生がお見えになりましたので、みなさん玄関にお集まりください」
 ぼくのような青二才は、レコーディングの途中でも、スタッフと一緒に玄関まで出迎えなくてはならない。大御所の先生方がクルマから降りてくるといっせいに頭を下げ、
「お疲れさまでございまーす!」とあいさつするのだ。
 ぼくの育ってきたジャズやカントリーの世界にはタテ社会みたいなところはなかったから、「エライことになっちゃったなあ」という気持ちだった。

日活、赤木圭一郎

[歌が売れないので、ホリ・プロ社長のコネで日活に脇役出演。そこにもタテ社会があり、石原、小林旭のグループがあり]
ぼくはヨソ者だから、両方のグループと調子よくやっていくのが大変だった。(略)
 そのなかで、無派閥を通していたのが赤木圭一郎さんだった。そのせいもあって、赤木さんとは話しやすかったし、つきあってみると、すごくウマが合った。(略)
[ふたりで何かクラブをつくることにし、サーフィンか?と]いろいろ考えて、結局、ゴーカートのクラブを作ることになった。
(略)
[知り合いの]約束どおり、ゴーカートが届いた。
「どっちが先に乗る?」
「よし、ジャンケンで決めよう」(略)
彼が勝って、撮影所のなかを走り始めた。ところが、運転を誤って壁に激突(略)
[九日後]危篤状態の続いていた赤木圭一郎が帰らぬ人となってしまった。
(略)
 相変わらず、映画の仕事は続いた。(略)小林旭さんの子分役で、河原でギターを持って田端義夫さんのヒット曲「かえり船」を歌ったり……。なにか違うんじゃないかなという気がしていた。“自己矛盾”なんて言葉はまだ知らなかったが、どうも“すわり心地の悪い”日々を、ぼくは送っていた。(略)
ザ・サンダーバードも解散して、ジョージ大塚はパラダイス・キングに復帰した。パラダイス・キングは、ボーカルの坂本九ちゃんがブレイクしてお茶の間の人気者になり、テレビで大活躍し始めた。
 ロカビリーも徐々に下火になっていった(略)
ぼくはいまだに日本のミュージカルというのが嫌いなのだが(略)[当時は]歌謡曲に走ると、「将来はミュージカル」が言い訳のようになっていた。一種の免罪符である。
 時代はもう少しあとのことになるが、ブルー・コメッツも、いいジャズ・バンドだったのに、「ブルー・シャトー」で歌謡曲の世界にいってしまう。というのは、それがビジネスになるからだ。状況は同じである。
 前にもいったように、この時代に売れなかったのはあとから考えればよかったのだが、ビジネスと、日本音楽界の演歌的体質の前で、ぼくは壁に突き当たっていた。

キャンティ

[川添夫妻はバリバリの国際人で顔も広く、10代の頃、ロバート・キャパを紹介されたことも]
 川添さんがジャン・コクトーと国際電話で話しているのを見たこともあるし、ジョン・ウェインのマネジャーを紹介してくれたこともある。
 ぼくが初めてヨーロッパに行ったときには、川添夫妻が連絡してくれて、ピエール・カルダンに会えることになった。川添さんの紹介だからというので、食事をごちそうになったのだが、こっちはフランス語ができないし(略)食事のあいだお互いに何もしゃべらず、おみやげだけもらって帰ってきた。
 キャンティの“パパ”と“ママ”である川添夫妻は、とにかく欧米のファッション界、映画界に友だちがいっぱいいて、若い人たちに、
 「何かのたしになるから、訪ねて行ってみなさい」
 と、その分野の一流の人たちを積極的に紹介してくれる。そうやって若い友人たちを応援することに熱心な人たちだった。
(略)
 当時のマスコミは、そういう若い連中のことを“六本木族”と呼んでいたが、それとは別に“野獣会”というグループもあった。ちょっとクリエイティヴなものを目指している、いまでいうチーマーのような集団だった。大原麗子さんとか田辺靖雄さん、ジェリー藤尾さんが属していた。
 ナベプロ渡辺美佐さんが、野獣会のメンバーをスターに育てようと仕掛けた頃があるらしいのだが、チームそのものを売り出すのはうまくいかなかったようだ。
 彼らの集合場所が、前述した「スパイが集まる」という噂のロシア・レストラン「マノス」で、その店では倉本聡さんや、まだクラウン・レコードのディレクターだった五木寛之さんを見かけた。井上順ちゃんも野獣会のメンバーだったという。彼がスパイダースに入ってから知った。

グリニッジ・ヴィレッジ

[ハワイの店に一ヵ月派遣され、そのまま父の兄弟や母がいるロスへ逃避、そしてNYへ。ディランがデビューしたばかり]
長髪に黒いとっくりのセーターを着た、風変わりな黒ずくめの集団が大勢いた。新しいムーブメントが起こりつつあるのが、旅行者であるぼくにも肌で感じられた。
 ニューヨークのコーヒーハウス(略)で、ピーター・ポール&マリーやボブ・ディランホセ・フェリシアーノなどが人気を集めていた。もっとも、ぼくはフォークソングにはあまり興味がなかったので、もっぱらジャズのライブハウスに通って本場のジャズばかり聴いていたのだが、それでもグリニッジ・ヴィレッジの新たな息吹きに驚き、かつインスパイアされていた。
 それから一年後にビートルズを知ったとき、彼らのイメージと、このときのグリニッジ・ヴィレッジ体験とがぴったり重なった。ひと目でビートルズに衝撃を受けたのは、ぼくの無意識のなかで、眠りながら熟成していたグリニッジ・ヴィレッジ仕込みのワイン樽のふたを、ビートルズが解き放ってくれたから……そんな言い方もできるのだろう。
 あとから知ったのだが、ちょうど同じころ、ビートルズもドイツのハンブルクで若い実存主義者のグループと知り合い、芸術に目覚め、リーゼントに革ジャンから長髪のスタイルに変わっていた。
(略)
 新たなコミュニティ、新しい動きが世界的に胎動しつつあったのだ。
 好きでカントリー&ウエスタンを始めたころや、エキサイティングだった米軍キャンプ回りに比べ、意に染まない歌を歌わされているいまの状況が、ニューヨークにいると、ますますつまらないものに思えてきた。(略)
 さすがに半年もたつと事務所の怒りもおさまっていた。もうあきらめに似た心境だったようだ。
(略)
[代わりにハワイに行くことになった清野太郎キャノンボールというバンドを引き継ぐ。加瀬邦彦がおり]
彼とはけっこう気が合ったのだが、バンドは長続きせず、解散してしまった。(略)
加瀬邦彦はギタリストとしてスパイダースに加入し、ぼくはゲスト・シンガーとして参加することになった。
 当時のスパイダースは、エコーを使ったマーティン・デニー、アーサー・ライマンのようなエキゾティック・サウンドや、ローレンス・ウェルクふうのラウンジ・ミュージック、当時流行っていたサーフィン・ミュージック、それにアート・ブレイキーの「モーニン」や「ブルース・マーチ」のようなジャズも演奏していた。そこに時折、ゲストとして斎藤チヤ子さんやぼくがボーカルで入る。そういうときは歌バン(歌の伴奏)になる、という形態のバンドだった。
 歌って踊れるスパイダース専属のコーラス・グループ、スリー・ジェットには井上堯之さんがいた。(略)信じられないだろうけれど、もともとは歌手兼ダンサーで、独学でギターを覚え、いまや偉大なアレンジャーでありギタリストでもある。努力の人なのだ。
 マチャアキは、そのころすでに正式にスパイダースのメンバーになっていた。

『ミート・ザ・ビートルズ

 長い髪で額を覆い、右半分が影になった四人の若者の顔が、黒いバックに浮かぶように並んでいる、そのモノトーンのジャケット写真を見て、ぼくはハッとした。彼らのビジュアル、伝わってくる雰囲気、すべてひっくるめて、あのグリニッジ・ヴィレッジの空気と同じだった。まだ日本では無名だったビートルズだが、ぼくはジャケットを見ただけで、彼らを一瞬にして理解した。
 「これだ!」
 そう直感した。
 迷わずレコードを買い、何度も聴いた。すごく新鮮で、「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」がとくにぼくのお気に入りだった。それまで聴いていたカントリーをはじめとするアメリカの音楽は乾いた響きがするが、ビートルズは全体に紗がかかったような、ファンタジックな音だった。そのとき、ぼくには近未来が見えたと思った。次に来るもののフックを捕まえたという確信があった。震えるくらいの感動だった。
[さっそくメンバーにも聴かせ、全員ビートルズに夢中に。グループを再編]
ぼくも初めてエレクトリック・ギターを手にした。(略)
 加瀬邦彦は、寺内タケシに引き抜かれてブルー・ジーンズに移ってしまっていた。
 当時のブルー・ジーンズの人気と勢いたるや、すさまじいものがあった。ボーカルにも内田裕也さん、桜井五郎さん、堀まさゆきさんなどのスターをそろえていた。
 そのころには、ビートルズは日本でも女の子たちのアイドルになってはいたが、それよりも人気があったのがベンチャーズだった。エレキ・ブームが日本中を席巻していた。もともと日本人は、ボーカル&インストゥルメンタルというよりも、インストゥルメンタル、つまり器楽曲を好む傾向がある。(略)
 ベンチャーズ・スタイルのブルー・ジーンズは、日本を代表するエレキ・バンドとして圧倒的な人気を誇っていた。スパイダースはまだマージービートを始めたばかりで、演奏しながら歌うぼくらのスタイルは、お客さんにはまだなじみがうすかった。インストを聴きたがる客のほうが断然多かったのである。だから、ジャズ喫茶では、メインの夜の部がブルー・ジーンズで、スパイダースは彼らの前座格で昼の部に出演することが多かった。
 あるとき、ぼくたちが昼の部の演奏を終わるころに、楽屋でスタンバイしていた寺内タケシが、ガラガラの客席にわざわざ出てきて、
 「かまやつちゃーん、なかなかうまくなってきたじゃないか」とステージに向かってニヤニヤしながら偉そうに声をかけた。悔しかったね、あれは。加瀬が移籍してしまったのも無理からぬことだった。お客さんの好みが徐々に変わっていったのは、それからまだしばらくのちのことである。ときにはステージに七人いるのに、客席には二、三人しかいないということもあった。なかなか大変でした。
 そんなときは、自分たちだけでグルーヴを作って乗るしかない。(略)そういうときにバンドはうまくなっていく。
(略)
 だが、いくら受けなかったからといって、あの時点でブルー・ジーンズのようなベンチャーズ系のバンドに転向しなかったのは、大正解だった。もちろん意地のようなものもあったが、あの当時、エレクトリック・ギターを持ってバンドを作るとしたら、売れるに越したことはないから誰だって人気絶頂のベンチャーズ・スタイルにする。それが、まあ普通だろう。あえてそうしなかったのは、やはりぼくらはかなり好き嫌いで音楽をやっていたんだな、といまにして思う。ある意味、アマチュア・バンドのようなものだ。
 もうひとつ、ベンチャーズをやらなかったのには、単純明快な理由がある(略)ぼくたちはベンチャーズの曲が演奏できなかったのだ。
[井上堯之があの“テケテケ”が嫌い、インスト時には]克夫ちゃんスティール・ギターを縦横無尽に弾いた。(略)
 次にリズム・セクション。ベンチャーズのあのタイトなリズムがスパイダースはダメだった。(略)
田辺昭知はもともとジャズ系のドラマーで、どちらかといえばフィリー・ジョー・ジョーンズのような激しい4ビートをたたく。(略)てのひらを上に向け、スティックをその上に置くようにして持つ伝統的なスタイル。これではベンチャーズには向かない。(略)
ベンチャーズの曲を演奏しても昭ちゃんはつまらないらしく、曲の途中であきてくると、フォー・ビートの強烈なオカズを入れて遊ぶ。だから、全然ベンチャーズにならなかった。
(略)
 初期のころはビートルズを演奏しても「ニセモノ、引っ込め!」なんてヤジがとんだりしたし、「なんだよ、かまやつはまたバンドを衣替えして出てるのかよ」と陰でいう人もいたかもしれないが、当時は何のてらいも恥ずかしさも感じなかった。そのくらい“ブリティッシュ”に同化していたというか、なりきっていたというか、とにかくマージー・ビートをやりたかったのだ。
 イギリスに生まれればよかったと、本気で思っていた。二十歳すぎた男が、イギリス人になりたいなんて、ふつう思うかな。いまにしてみればお笑いぐさかもしれないが、でもスパイダース全員、みんな本当にそう考えていた。
 当時はけっしてうまいバンドとはいえなかったかもしれない。だが、耳に聞こえてくる音を感じ取るという点ではメンバー全員が敏感だった。イギリスのバンド、たとえばキンクスの曲を演奏するにしても、そのサウンドの新しさに反応する感性を全員が持っていたといえるだろう。実はバンドにとって、それがいちばん大切なのだ。(略)
[当時の日本ではロカビリーの流れのひとつと捉えられていたが]ビート・グループというのは、成り立ちからしてそれらとはまったく別物なのである。それに気づかずに、ただメロディをなぞるだけで、その根本のところが見えていないと悲惨なことになる。
 たとえば、ビートルズの「抱きしめたい」のイントロ。あれはビートが裏から入る。ほとんどのバンドは一、二の三、でそのまま演奏に入るが、三拍目の途中でビートをひっくり返して入らないとビートルズと同じようには聞こえない。そういうことを発見するのは克夫ちゃんが得意だった。
(略)
ビートルズは録音したテープを半拍分切り取ったりして、ずいぶんトリッキーな音を作っていた。そういう音を体で感じ取れる感性がスパイダースというグループにはあった。
(略)
[「ジョニー・B・グッド」]を演奏してみると、いやになるくらいかったるい。長い曲なので、二コーラス目あたりからダレてくる。(略)それでも飽きないのは、聞こえにくいが、ビートにもうひとつうねりがあるからだ。
 とても簡単なことだった。ロックンロールはシャッフルなのだ。それを、ほとんどのバンドは(四分音符だけの)エイト・ビートでたたいていた。それでは単調なスリー・コードだからもたないし、気持ち的にだんだん遅くなって白けてしまうのである。そこで、ギターだけエイト・ビートで、ドラムはシャッフル・ビートでたたいてみた。すると、「おお、前に行くぞ!」ということになった。まさしく「目からウロコ」である。
 演奏していても、前へ前へ突っ込める。つまり乗って演奏できる。そんなことを発見して喜んだりしながら学習していった。

次回に続く。

 

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