美術、応答せよ! 森村泰昌

ネットにあったアラーキーをバッサリやってる文章が面白かったので、ちょっと読んでみたが、相談室形式のせいか割と穏当だった。ギャラリストへの質問返しの回が一番ピリピリしてたかな。
アラーキーに関しては、この本では、フェミも受容できる『センチメンタルな旅』で評価した世間ってズルいという見解だった。

アラーキーからの質問

正気?狂気?本気?色気?どんな「気」持ちか、きかせて(荒木経惟)(略)こんどは、バルティスの<街路>の左端の少女を抱いてる男をヤって下さい。(略)
(略)
 思いきって言います。あのはじめての天才アラーキー目撃からずいぶん時間が経過した一九九〇年。私は篠山紀信さんに拾われた。篠山さんがホスト役となり、新しい写真家を紹介するNHKのテレビ番組「近未来写真術」に私も出演させてもらい、以来なにかと篠山さんには目をかけていただくことになりました。
 ところが「近未来写真術」の最終回に荒木さんが登場して、その後、おふたりは袂を分かつことになりました。ここはそのいきさつを語る場ではないので省略しますが、おふたりの逆鱗に触れることを恐れ、日本の重要なふたりの同時代の写真家が抱える相入れない見解について、誰も本格的には論じなかった。そして今ではもうアノコトはなかったかのように、日本の写真史はどんどん次へと向かいたがっている。
 そんな昔のことどうでもいいじゃないかと、おふたりの写真家から煙たがられるのを覚悟のうえでやっぱり言いたいのですが、私はおふたりに仲直りしてほしい。日本の写真界のために?
いえ、違います。私の好きな写真家同士が目も合わさないなんて、私が困るんです。
(略)
私はアラーキー派ではなくシノヤマ派なんですね。
 ある海外の批評家でフェミニズムの立場に立つ人が、かつて私のところに来たとき、荒木さんの写真に撮られたがる女性がいることに大きな不満をもらしたことがありました。男の視線をおおっぴらに開陳する天才アラーキーは、フェミニズム的観点からは到底容認できないという見解。一九九〇年代の初めだったと思います。そのとき、私もその人の主張に同調し、反アラーキーの立場をとったこと、ここに告白します。
 ところがその後、天才アラーキーは、あれよあれよという間に「世界のアラーキー」になっていきました。そうなると、アラーキーを自分たちの評価対象になんとか組み込もうと、だれもが工夫しはじめました。フェミニズムの観点から見直すための手がかりとなったのは、名作『センチメンタルな旅』でした。陽子夫人への愛の眼差しはフェミニズム的見地からでも、アラーキーをじゅうぶん評価できる視線のあり方なんですね。
 私はこのとき、「アラーキー、スゴイ」と、ひそかに自分を恥じました。そして同時に「世間って、かなりズルイ」と痛感した。荒木さんは昔から今にいたるまでブレがない。ブレているのに、そのことに気づかないのは世間のほうなんです。
(略)
 「本気」度はどうか。これは「君には『狂気』はあるか」という問いより、もっときびしい。「本気」とは「逃げない」という意味ですから。荒木さんは「逃げない」。えらいなあ。叩かれても持ち上げられても、アラーキーは変わらない。男と女の間のカメラという装置が醸す「色気」を追究しつづけている。猫や花や風景には「色気」の寂しさや切なさを滲ませる。ニクイなあ。そんなおとなの「色気」、残念ながら私は持ちあわせておりません。(略)

完全にオリジナルなものってできますか?

オリナリティ(あるいはオリジナル)という言葉は、もう忘れてしまってもいいんじゃないか、あまり気にする必要はないのではと思っています。たとえばですが、ある名作絵画や陶器の名品と寸分違わぬコピーを作ることのできる人がいたら、それはそれでかなりスゴイ、と思いませんか。(略)つまりパーフェクトに本物そっくりを作りあげることができる、こういう技を極めれば、それはそれで他に類例がないスゴ技となる。これ、私にはすばらしくオリジナルな能力に思えます。(略)
オリジナリティって、作り出すものではなく、おもしろいものを作ろうと努力していたら、勝手に向こうからやってくるものなんですね。
 むろんこんなふうにお話ししている私も、昔はなんとか人と違った作品を作りたい、自分ならではの世界を持ちたいと、長年にわたり試行錯誤を繰り返したものでした。しかしながら自分独自の作品=「自分オリジナル」はなかなか生み出せませんでした。なにをやってもいつも他の誰かの作品と似通ってきてしまいます。万策尽きて、もうダメだと諦めるギリギリのところで、なぜかふと思いついたのが、「自分オリジナル」にこだわるのではなく、逆に「自分オリジナル」を放棄することでした。オリジナルでなくてもいい、ともかく自分がドキドキすることをやろう。そう思い立ち、「なにものかに扮した自分を写真に撮る」というセルフポートレイト作品を始めることになりました。
(略)
気がつけば、「まねることとセルフポートレイトの組み合わせ」なんていう、ある意味おおいに馬鹿げたことを生真面目にやり続けている人って、世界でも珍しかった。つまり私は、オリジナル志向とは逆方向に舵を切ることによって、かえって人とは違ったことをやる結果になりました。
(略)
[このように]まずは、自分がおもしろいと思うこと(ドキドキすること)をやる。熱中してやっていると、知らない間にあなたらしさ(オリジナリティ)に到達している可能性だってある。ただし、そのあなたらしさは、あなたが思い描いていたイメージと大きくかけ離れているばあいもあるので、そこは覚悟しておいてください。からっぽの自分がいるかもしれないし、重い鉛のような自分が居座っているかもしれない。自分に独特のものを見出す楽しみを味わいたかったのに、自分の暗部やいやな面に出くわしてうろたえる羽目になるかもしれない。(略)どうなるかは誰にもわかりません。わからないから、芸術表現はスリリングで楽しいのだとも言える。

抽象画ってどうやって描くのでしょうか?

すべての元凶はレオナルド・ダ・ヴィンチにある。私は思い切ってこんなように宣言することから、今回の応答を始めようかと思います。
 レオナルドは天才でした。しかし天才であるがゆえに、それ以降の画家たちの「目と精神」(つまり、どのように世界を絵画によってとらえるのかという方法)に、あまりにも強い影響を与えてしまった。それを私は「レオナルドの呪縛」と呼んでみることにいたします。(略)
五百年が経過して二十世紀となり、抽象画が現れた。二十世紀は解放の時代です。(略)
[しかし]二十世紀的革命は「なにものかからの解放」ではあっても、「なにものかへの解放」ではなかった(略)
解放のための解放であり、革命のための革命でした。(略)
極論すれば、革命はいつもテロだった。そしてテロは決して多くの支持者を持ち得ません。(略)
[抽象画が]一般的には「よくわからない表現」として不評をかうのも、抽象画が美術史における、革命という名のテロだったからではないか、と。
 断っておきますが、私は抽象画に否定的なのではありません。むしろその逆で、私は高校二年の頃から三十代半ばまで、抽象画を描き続けてきた人間です。今でも抽象画が大好きです。でもその好きな抽象画を美化しすぎてはならないと感じています。
(略)
「レオナルドの呪縛」とは、「絵画とは『具象』画のことである」という、わかりきったことのようでいて、じつはずっと隠され気づかれなかった「目と精神=絵画によって世界をとらえる方法」ではなかったのかと言ってみたい。
(略)
抽象画を描く画家ですら、意識するとしないにかかわらず、「絵画とは具象画のことである」と知っており、それゆえにこの「絵画=具象画」の呪縛からの解放を求めて、「なぜ絵画は具象画でなければならないのか」と言わんばかりに抽象画を描くのです。もし抽象画に意味があるとすれば、それは、レオナルドこのかた五百年ばかり、ずっと変らず「絵画=具象画」であったという隠された「目と精神」を可視化しえたことにあります。
(略)
 レオナルドは、なんというか「目に見える世界を摑みとろう」としていますが、他の画家たちはたいていの場合「なぞろう」とする。なぞるから輪郭線ができます。しかし目に見える世界には、本来、輪郭線はありません。ならば人間や動物や樹々などと、それらを取り巻く空間の境界はどうなっているのか。そこはあるようでないようで茫洋としている。この茫洋感をとらえて、世界全体を輪郭線のない一体のものとして摑みとろうとしたのがレオナルドでした。それは空気遠近法や、ブレやボケ味を巧みに使いこなす表現テクニックとなるのですが、しかしこれでは、輪郭線によって目に見える世界を明確に確定させるのとは対極の、いわば「世界の不確定性」へといたることになる。あるようなないようなものを、あるようなないようなものとして描く、これでは絵画は固まりません。いつまでもゲル状のまま硬化しない寒天のようなものとなる。レオナルドに未完の作が多いのも、「不確定性の絵画」にいたった画家の必然であり運命だったのではないでしょうか。
(略)
私は日本に生まれ育ちはしましたが、日本美術史は西洋美術史よりずっと遠かった。そんな私は、まずもって「美術とは西洋美術史」であるという「目と精神」に呪縛され、さらには「絵画とは具象画である」という「目と精神」にも呪縛されていた。(略)
近年あらためて日本美術史というものを概観したとき、それは確かに西洋美術史とは異なる美的感受性であると、今さらながら気づくことになりました。(略)
日本美術とは「図柄の視座」であったと私はとらえてみました。(略)
遠近法のように、視覚世界を法則的な総体として把握する方法ではなく、断片的な細部への注目です。花の細部、鳥の細部、水の波紋の細部への注視です。注視によって得た細部を画面にちりばめることにより「図柄」を構成するのが、いわゆる大和絵における「目と精神」ではなかったか。
(略)
図柄なら、はじめから具象と抽象は地続きです。菊(具象)も唐草(半抽象)も市松(抽象)も、すべては「図柄」のバリエーションです。日本美術の「目と精神」において、「具象画VS.抽象画」という対立概念自体は当初から存在しません。あるのは「図柄」の良し悪しだけです。(略)
人々は、絵の「図柄」を着物の「図柄」のように品定めしたり、着物の「図柄」を絵のようにながめたりすることができる。

作品が完成するとは?

筆の置き時、絵のやめ時こそが最大のテーマではなかったかと思われる画家がいます。セザンヌです。この画家の絵は「なんで途中でやめてしまうの」と思わず突っ込みたくなるくらい、いつも未完成な状態で終わっています。そういえば明治時代の日本の洋画家、青木繁の代表作『海の幸』も、初見で「わっ、下絵状態のままでOKだなんて大胆すぎる」とびっくりしてしまったものでした。
 こうしたセザンヌや青木の絵から教えられるのは、絵には完成形はないという意識の転換です。完成できなかったのではなく、絵は完成させえない、あるいは完成させてはならないという美意識の革命です。(略)
 作品作りとは(略)「旅」だとも言える。旅ですから行き先がある。美しい風景とか、感動的な神話世界とか。でも画家は旅の途上で気づくのです。たどり着くべき目的地よりも、出発地から目的地にいたるまでの道すがらに起こったあれやこれやこそ、旅の醍醐味であると。
(略)
 絵の話に戻りますが、形がきっちりと決まり、色もくまなく塗りこめられた完成度の高い絵から見れば、セザンヌの絵はいかにもスカスカしています。でもこのスカスカした未完成の感じゆえに、ここからまだまだどこにでも行けそうな旅の気配が呼び起こされる。旅行の途上で旅人が感じる未知なる体験への期待感。セザンヌが欲したのも、そういう、現在進行形の時間をいきいきと旅する充実した気分ではなかったかと思うのです。
(略)
 ところで白状してしまいますが、私には、こういう「絵には完成形がない」というとらえ方に耐えられず、写真という表現方法にトラバーユしていったという、いわば「職歴」があります。(略)
写真の場合は一二五分の一秒とかの瞬間にすべてが決定される。「絵には完成形はない」が、「写真には完成形しかない」。一枚のカンバスを何カ月もかかってこねくりまわすのに疲れていた私は、一瞬一瞬が完成形たらざるをえない写真表現のほうに傾き、現在のような写真手法による作品作りに入っていきました。
 しかし最近の私は、なんだか堂々めぐりのようですが、結局写真にも完成形はないのかなと感じ始めています。
(略)
写真のネガは、音楽における楽譜のようなものです。同じネガから、解釈次第でじつに多様な色調、明暗、質感のプリントが制作可能です。ですから私もグールドみたいに、前に引き伸ばした写真作品を、またひと味異なる調子のプリントに焼き直したいと、何年も経てやはり考えてしまうんですね。
 ところで、撮影者がプリントした作品こそが作者の意図をもっともよく伝えるヴィンテージプリントだとして重宝がられる傾向があります。(略)
自作のネガを他の誰かがその人なりの自由な解釈で新たにプリントするという試み、これはほとんど試されていませんが、きっとおもしろいと思いますよ。「ネガは楽譜である」という発想に、絵画とは異なる写真特有の表現の在り方が示されている、そう思います。私のネガを使って、私以外の誰かが私よりもっと素晴らしいプリントに仕上げてくれたら、どれだけ楽しいことでしょう。

質問返しの巻

[作品の値段が上下するのをどう思いますか?――小山登美夫(ギャラリスト)]
 アーティストの作品(略)の値段は状況によって高くなったり、安くなったりします。(略)当の芸術家はどんな気持ちで見ているのだろうなと思います。(略)アーティストは作品だけでなく作品の価値も手放すからです。森村さんはどのように感じているのですか?
(略)


 さて、小山さんにいただいた質問なのですが、どうなんでしょうか、ずいぶん悩まれた結果、なんとなくあたりさわりのない落としどころに帰着なさったような気がするのですが。(略)
 遠慮なく、ズケズケと質問していただいてもよかったんです。たとえば小山さんは、学部は違いこそすれ、美術家の村上隆さんと同じ頃に同じ大学の学生でしたね。そしてある時期まで、いっしょに仕事をなさっていた。そんな村上さんを、「モリムラは、どのようにとらえていますか。好きですか、嫌いですか」というような下世話な質問でも、なんの問題もなかった。
(略)
[二ページ分ほど、小山からの質問に応答した後]
やっぱり興がのりません。質問内容がつまらないからというのではないのです。(略)
なんだか小山さんからの質問には、ご自身の切実さがかんじられない。(略)
 そこで趣向を変えて、今回は私から逆に小山さんへの質問状をしたためてみたくなりました。(略)
小山さんとそのお仲間のギャラリストたちが八〇年代後半から九〇年代を通してめざして来られた目標というものがありました。なにかというと、それは「美術の自立」です。現代美術と呼ばれるジャンルは、時代の最先端を行く内容でありながら、日本では「わけのわからないもの」として、なかなか世に広く認知されないという現実が長らくありました。こうした「美術の苦節」に風穴をあけるために、当時の若いギャラリストたちは、おおいに奮起したのだと思います。
 コレクターのパイを増やすこと。小さなコレクターが大コレクターヘと成長してゆくためにサポートすること。アートマーケットの拡大と充実を実現する手だてとしてアートフェアを開催すること。美術館や大学での研究対象としての美術だけでなく、しかるべきアートコレクターが存在し、作品が流通し、美術家が自活できるような環境を整備すること。経済の自立をともなわない美術の自立はありえないという視点に立ち、この美術の自立の拠点としてギャラリーを機能させること。
 小山さんたちの登場で、八〇年代後半以降、日本の美術状況は確実に変化しました。アートマーケットを視野に入れつつ美術が自立への道を歩むという目標は、まずまず達成されたのかなと、これは私も実感するところです。
(略)
[しかし美術家の成熟によりギャラリーとの]間に齟齬が生じはじめます。
 端的な話、ビッグネームになるにしたがって、美術家にとっては必ずしもギャラリーが必要ではなくなってくる。(略)
村上隆奈良美智小山登美夫ギャラリーを離れ、独立採算性をとる事業主となっていったのです。
 売れっ子になれば美術家は暴走します。しばらくは勢いが加速し、なんだか自分が世界の中心にいるかのような気分に陥ります。こうなれば作家にとってギャラリーは後手に回っているように感じ出します。
(略)
[美術家は]自らの道を選びます。当初は高い理想を掲げていた「美術の自立」も、結局のところ金銭問題が絡む、せちがらい展開たらざるを得なくなってくる。しかしこれはある意味、自業自得です。芸術の問題を経済に置き換えようとしたときから、すでにこの結末は予想されていたとは言えないでしょうか。
 小山さんは、今なかなか難しい立場に立っておられるのではないかと、これは部外者である私の勝手な言い草なのですが、ちょっと小山さんのこと、心配しています。これからのギャラリーの存在意義って、いったいなんなんでしょうか。若い美術家志望の若者をスカウトして、第二第三の村上や奈良を増産することでしょうか。それとも、顧客のニーズに応えた売れ線の美術品を取りそろえて、ギャラリー経営の安定化をはかることでしょうか。あるいは日本を捨て、海外の大コレクターを相手にした商売で生き残りをはかる作戦に出るべきなのでしょうか。
 次にお会いしたとき、小山さんの今後のビジョン、こっそり教えてくださいね。


小山さんから森村さんヘ(略)
 村上さんも奈良さんも「ガゴシアン」や「ペース」というアメリカの巨大ギャラリーが作品を販売しているということでは、ギャラリー自体の意味はあると思います。でも、彼らのようになると日本のギャラリーには意味がなくなってしまいます。(略)
森村さんの言う「日本を捨て、海外の大コレクターを相手にした商売」とまではいきませんが、日本にいながら海外の大コレクターに売っていけるようなことが必要です。アートフェアやシンガポールの支店はその窓口になればと思っていますが、まだ始まったばかりです。(略)
おっしゃる通り、自業自得で、芸術の問題を経済に置き換えたのに、マーケットを未だ獲得できないことが私たちの問題です。もちろん、私たちは芸術家ではないので、もしギャラリーが成立するなら、現実的なシビアな経済の世界でやっていくことをもっと自覚しなければならないのです。
 最近はアート(芸術)作品に対して、麻薬のように、売れるものにみんなが貪欲に群がっていくのが凄く強く感じられて、これは大手ギャラリーやオークションハウスが、マーケットで売れるものを意図的に作り上げることが頻繁になったせいなのかもしれませんが、まったく太刀打ちできない無力感があります。でも、麻薬になったとたん、自分にとっては作品がつまらなくなってくるように思えます。これはそう見えるだけかもしれませんが、でも確実に「売れて行く」ということは興味深いことです。
 とはいうものの、森村さんにはあまり興味がないように見える村上さんは、自身の稼ぎ出したお金で、途方もない実験を繰り返していると思います。映画とか、五年がかりで制作している巨大な彫刻(まだ実現していません)とかがあって、芸術家もマーケットを使いつつ、あらがって生きようとする姿勢があるのは面白いと思います。

「日本で美術をなすこと」に思い戸惑うております(山口晃

[質問](略)「美術」って此のまま使い続けて良いのかしら知らん(略)「日本美術」は何かといえば、旧来の技藝を「美術」によって再編したもので(略)百年以上使い込んで、なかなか便利のよい「美術」ですが、ふとした時に思い知るのは、やっぱり西洋印が押されているという事です。ついついまっさらな「美術」を信じてしまいがちですが、そう云う物は日本の中にしかないと、「美術」とそうでないものを峻別する力に遭遇したとき戸惑いながら思います。結局百年以上も「美術」に間借りしたままだったのか知らん。自分で家を建てないと先達を学ぶことも、自分達を表現しきる事もできないのか知らん。
(略)


[回答](略)この「現代美術」という命名をさらに改名しようとして伊東順二氏が『現在美術』という本を書きました。しかし残念ながら「現在美術」は定着せず、むしろ日本の八〇年代に花開いたのは(略)[「日本グラフィック展」による]「アート」の始まりではなかったか(略)
 前衛美術から現代美術へ。現代美術からアートへ。この命名の変遷という「史実」へのこだわりが私には強くある。アートとARTは違うのだというこだわりですね。
(略)
 一九七〇年代、二十代の私は美術理論や社会思想にさんざん苦しめられました。絵画とはなにかと問うことは、絵画という制度に操られて絵を描いている「私」への自己批判にいたり、結局私には絵が描けなくなりました。ところが八〇年代になると、三十代の私のまわりで、若い人たちが理論や思想に縛られることなく、「カッコいい」とか「オシャレ」とか、そういう表層的な価値をあえて導入することで、表現のフットワークを軽くする術を発見していきました。前者は自己否定に陥り、後者は全面的な自己肯定をエスカレートさせ、いわゆる「ジコチュウ」をひき起こしかねない状況となる。どちらにもなじめない私は、否定にも肯定にも組しない立場とはなんであるかと、思えばずっと模索してきたのかもしれません。
 そして行き着いた結論がある。答えを先に言います。それは「自覚」です。なんと単純至極な応答でしょう!
 「美術」とはなにか、「美術」という語を使って語るとはどういうことかと考え込むと、複雑な思考の迷路にはまり込み、絵を描くどころではなくなってしまう。他方では、「美術」に対しなんら疑いをさしはさむこともなく、絵画の道をまっすぐに歩み続けるという、スゴくもありまたオメデタくもある、そういう「画家」たちも多く目にします。
 そのどちらにも組することのない三番目の進路として、「自覚」を持って生きるというじつに単純な選択を提案したいのです。(略)[デュシャン]が絵を描くことへの懐疑から画家を廃業したからといって、私もデュシャンと同じように絵を放棄すべきかといえば、そんなことはない。(略)
 重要なのは「自覚」です。デュシャンでも雪舟でもなんでもいいのですが、そういった偉大な足跡にひきずられてしまっては、その偉大な足跡の足下にもおよばない。ひきずられる(=心酔する)のではなく、自分自身の人生にひきこみ(=自覚的に吸収し)、咀嚼し、違った栄養素に置きかえるべきである。

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