魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

2003年の本。

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

魂の労働―ネオリベラリズムの権力論

  • 作者:渋谷 望
  • 発売日: 2003/10/01
  • メディア: 単行本

内務省型統治の復活

 日本において「護送船団方式」の解体は、「大きな政府から小さな政府へ」という大きな潮流のもとでの「規制緩和」の帰結として位置づけられることが多い。しかし「護送船団方式」の解体により「政府」は小さくなったのだろうか――少なくとも小さくなりつつあるのだろうか?(略)
現在われわれが目にしているのは、統治のあり方の危機と変容として捉えるべきであるように思われる。(略)
その一つの徴候として大蔵省のヘゲモニーの凋落がある。(略)
大蔵省は財務省金融庁に分割され(略)金融分野における競争が促された。しかしながら、このように経済の分野における規制緩和=自由化の進行の裏側で「旧内務省の復活」といわれる新たな統治パターンが出現しつつあることに気づかざるをえない。この省庁再編では総務庁が省へと格上げされ、これに自治省と郵政省が包含されることになった。警察こそ含まれていないが、この総務省のカバーする行政領域は戦前の内務省の領域とほぼ重なる。
 省庁間ヘゲモニーがここにきて大きく移動してきたのは気まぐれでも偶然でもない。経済のグローバル化のなかで戦後の護送船団方式=企業主義的国民統合は機能不全に陥り、企業はリストラ解雇や雇い止めによって企業主義の中核であった正規社員層を絞り込み、これを代替するものとしてパートや派遣などフレキシブルな労働を活用する戦略を採用した。この結果、現在、低所得の不安定就労層や長期失業者が大量に生み出され、彼らの社会=会社への帰属意識や忠誠――そしてそれを通じた国民統合――の物質的基盤は消滅しつつある。このような条件においては、経済的な取り引きを通じて社会に統合することはできない「よそもの」の増大は不可避である。ここに彼らを経済的に「統合」するというよりは、暴力的に「統治」する必要性が生じる。内務省型の統治の復活はこのことの現われである。(略)
総務省によって進められた住民基本台帳ネットワークの構築は内務省型住民統治とは何かを雄弁に物語っている。
(略)
住民は、市民ではなく、管理の対象としての人口にすぎない。しかも重要なのは、住民は政府にとって潜在的に危険な要因として位置づけなおされ、逆に政府が住民にとって脅威になったり、暴走するという可能性は前提の上で消されているという点である
(略)
この新たな統治パターンは公共性の消去を狙っているというよりは、「公共性」概念の再定義を試みていることに注意したい。日本においては公共性は再び“転換”しつつあると言ったほうがより適切なのではないだろうか。
(略)
 ヨーロッパの中でも立憲君主国であるプロシアをモデルにつくられた明治憲法には、おそらくこのようなポリツァイ的な統治観――〈温情主義〉と〈取締り〉、アメとむち――が強く残響していると考えることができる。旧内務省は、一方で悪名高い特高警察の思想弾圧の機関であると同時に、他方で若き南原繁のように「牧民官」思想に基づく地方行政を理想としていた。しかし両者は表裏一体であり、切り離すことができないということにこの統治の本質がある。
 この統治/公共性の形態の特徴は、政治的なもの――敵対性――は存在しえない点にある。そこでは人間には次の二つのカテゴリーしか用意されないからである。よき統治に従順な者となるか、あるいは統治されることを拒む犯罪者になるか。真の意味での「市民」というカテゴリー――それは定義上、「よき統治」から自律し、それに対抗的な存在である――はもはや不要となり、それにともない市民内部のサブカテゴリーや敵対性も消滅する。
(略)
共謀罪」法案は、このような〈対抗的公共圈の犯罪化〉をさらに推し進めることになろう。(略)
実際には「犯行」が行われなくとも、その会議に参加した者は、「犯行」の実行にその場で批判し、反対した者も含めて、通報を怠ったがゆえに「共謀」したとみなされる。これが「相談罪」と揶揄されるのはこうした理由からである。
(略)
この法案が従来の組織犯罪対策と決定的に異なるのは、何らかの行為をする前の段階で、あらかじめ本気と冗談と妄想を区別することが可能だということが前提とされていることにつきよう。〈対話〉の可能性は前もって完全に封殺される。
 統治技術化された情報テクノロジーが狙っていることはまさにこれである。データベース化された住民=人口から、あらかじめハイ・リスク集団を操作的に予想し、追尾し、社会から実質的に排除することは、現在の技術水準で十分可能である。住民はさほど根拠があるわけでもないこの「予想」をナイーヴに信じることによってのみ自己の安寧を確保するというわけである――自分が「犯罪者」にカテゴライズされないという保証もないままに。

ネオリベラリズムワークフェア言説

 「君たちは働くべきだ」というネオリベラリズムワークフェア言説は、若者にじっさいに勤労意欲を喚起させることを本気で狙っているわけではない。
(略)
これらの冗長な言説は、労働倫理を教え込むというより、〈怠惰〉への道徳的攻撃を可能にするという理由で採用されている
(略)
 次に、取締りの見地からも、怠惰な〈遊び〉による自己価値化は悪=無に低められる。(略)ニューライト――ネオリベラリズム新保守主義の接合――による「怠け者」の取締りは、移民を犯罪者予備軍として位置づけることによって、すなわち「モラル・パニック」を引き起こすことによって達成された。同様の手法は、アメリカにおいても「アンダークラス」の若者を犯罪者化することによって達成されている。また同じことは日本においても、近年の「フリーター」や「無職」の若者層が犯罪者予備軍としてコード化され、無価値なもの、さらには危険なものに低められつつあることとパラレルである。だが、これら価値剥奪戦略としての取締りが発動するのは、彼ら若者こそ「自分のなし得ることの果てまで進んでいく力」すなわち自己価値化のポテンシャルを有しているがゆえであり、そのカヘの恐れゆえの〈反動〉なのである。
 重要なのは、この〈反動〉は資本にとってきわめて好都合だという点である。というのも、それによって真の価値の源泉――それはいまや正規の労働時間の外部で形成される――を低く見積もり、無価値なものとみなすことで搾取することができるからである。それは、ケア労働を家事の延長として無価値なものとみなすことによって搾取することとパラレルである。ネオリベラリズムは〈反動〉なしには作動しない。換言すれば、ネオリベラリズムは〈反動〉の制度化であり、それは、いまや生産的・能動的となった〈サボりの文化〉への反感を原動力にしている。いわばネオリベラリズムは能動的なカヘの寄生体なのである。

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