ダーウィン・エコノミー 自由、競争、公益

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「見えざる手」とアメリアカシカの枝角

いずれにしても、規制のない市場に対する「見えざる手」理論の楽観的な見方が、反政府主義者の世界観の根本であるといってよいだろう。彼らは、規制は不要であるという。なぜなら、自由な市場は市場自体の力ですべてにうまく対処できると信じているからだ。
 ダーウィンの競争過程の考え方は、根本から異なっている。彼は、さまざまな観察から、個々の動物の利益と、種としてのより大きな利益はしばしば深刻に対立すると考えるようになった。私は「見えざる手」理論がいずれ、ダーウィンのより一般的な理論における特殊な一例とみなされるようになると思っている。リバタリアンにとって大切な信条の多くは、スミスの枠組みのなかでは完全に妥当であるが、ダーウィンの理論のなかではまったく生き残れないのである。
(略)
 それでも「見えざる手」は真に革新的な洞察であり、いま見てもそれは明らかだ。業者はなぜ、消費者が好みそうな新商品をわざわざ作ろうとするのか?(略)スミスやその先人たちがはっきりわかっていたように、その動機は単純に、より多く稼ぐことだった。スミス以外の人たちにはっきり見えなかったのは、そうした行動がライバルのどのような行動を誘発するか、そしてその結果、どのようにして当初の企図と異なる結果が生まれるか、である。
(略)
 スミスは規制のない市場が常に最善の結果を生むわけではないということをよく理解していた。彼が最も注目した市場の失敗は、強い影響力をもつビジネスリーダーたちによる不正な慣行によるものだった。
(略)
 スミスの見方によれば、市場が失敗するのは有効な競争が欠けている場合だ。企業が、商品の質を実際とは違うものと欺くかもしれない。ライバルを市場から追い出すために一時的に商品の価格を下げ、ライバルが消えたあとまた上げるかもしれない。スミスの時代にはそのような不正は日常的にあったし、少なくなったとはいえ、いまでも存在する。
(略)
アメリアカシカの並外れて大きな枝角がいい例だ。大きな枝角は外敵に対する武器ではなく、雌をめぐる雄同士の闘いの武器として機能する。こうした闘いでは、ほかの雄の枝角との相対的な大きさがモノをいう。(略)
枝角が大きいと木々が密集する場所では動きが取りづらく、その結果、例えば狼に捕食されやすくなった。小さな枝角をもつ雄は外敵から逃れることができるが、雄同士の競争においては不利なため、小さな枝角を次の世代に引き継ぐことができない。
 つまり、アメリアカシカは集団行動問題に直面するのである。ある雄が大きな枝角で闘いに強くなると、ほかの雄たちは負けやすくなる。より大きな枝角が個体にもたらす見返りの方が、集団にもたらす見返りよりも明らかに大きい。だが集団として考えるなら、個体の枝角は小さい方がよいのである。
(略)
 「見えざる手」の有効性に関するアダム・スミスの懸念は、強力な経済主体が競争を制限できることにあった。リベラルな懐疑論者はその懸念に飛びつき、市場の失敗は競争が制限されているからだとした。しかしダーウィンは、競争はそれが完全なものであっても、いつも公益を促進する方向に人々の行動を誘導するとは限らないことをはっきりと認識していた。集団の利益と個人の利益とはしばしば乖離する。そして、そのような場合、個人の利益が勝ることをダーウィンは理解していた。
 ダーウィンの説明で重要な特徴は、すべての個人がすべての潜在的な利益機会を完全に活用しても市場の失敗は起こる、という点だ。

「野獣を飢えさせろ」

 反政府活動家がはっきり気づいているように、政府には確かに無駄がある。大切なのは、それにどう対処するかである。多くのリバタリアンは、「野獣を飢えさせろ」戦略が最善だと信じている。(略)
グローバー・ノーキストの下品な表現を借りればこうだ。「私は政府をなくそうとは思っていない。バスルームにもっていき、バスタブに沈めることができるくらい小さくなってほしいだけだ」
(略)
[ピーター・シュラッグは『楽園の喪失』で、提案13号等の政府の活動を制限する法案による、カリフォルニア州の停滞を解明]
 30年前、カリフォルニア州の学校は全国で最も財源が豊かだったが、いまやすべての全米指標で下位4分の1にある。健康状態、助成金、テスト結果、いずれも、ニューヨーク州コネチカット州ニュージャージー州よりミシシッピ州に近くなっている。かつて賞賛された高速道路も、国で最も荒れ果てた交通網となってしまった。公共図書館の多くは開館時間を短くするか完全に閉鎖されてしまった。州の社会保障もかつては財源が豊かだったが、削減に次ぐ削減が行われた。かつては学費が無料だった大学制度は、すばらしい公立教育機関であることに変わりはないが、財源不足に喘ぎ、学費は他州の州立大学と同じかそれ以上に高くなった。
(略)
 「野獣を飢えさせろ」の支持者は、寄生虫症患者に絶食を命じる医師に似ている。患者のとる食事が寄生虫の生命力になっているのだから、それを止めれば寄生虫を除去できる、と医師は説明する。それはそうかもしれない。しかし、その過程で患者の方が先に死んでしまったり深刻なダメージを受けるかもしれない。だから、寄生虫駆除は、よりターゲットをしぼったやり方が通例である。つまり宿主である人体への影響を最小限にし、寄生虫を直接駆除するのである。

インフラ

結局のところ富裕層も、彼らの選好する政策によって状況が悪化していることがわかる。享受する私的な利益は非常に小さく、間接的なコストは予想を超えて大きくなっている。
 基本的な問題は、あるレベルを超えると、個人支出が増えても福利はほとんど改善しないということだ。
(略)
公共支出を増やせば富裕層を含めた全体の福利が改善される。例えば、穴だらけの道路より、よくメンテナンスされた道路で運転する方が、安全でストレスが少ない。
 もちろん、穴を塞ぐために増税すると、富裕層が自動車を購入するための資金が減ることになる。だが、次のような簡単な思考実験をしてほしい。ある社会では、裕福な人は皆が15万ドルのメルセデスのセダンに乗り、よい状態に維持された道路を走行する。別の社会では、ほかの条件は同じで、裕福な人は20万ドルのベントレーのセダンに乗り、足のサイズほどもある穴だらけの道路を走行する。どちらの社会の富裕層が、運転することの満足度が高いだろうか?
 2つ目の社会は現在の私たちの社会である。あなたが多くの人と同じように、最初の社会の方が富裕層の満足度が高いと思うのであれば、挑戦しがいのある質問をしよう。もし価格の低い車で、よい状態に維持された道路を走行する方がいいのであれば、富裕層はなぜ、インフラの改善に必要な増税に熱心に反対するのだろうか?