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2018-09-09 60年代ブリティッシュ・ビート デイヴ・マクアリア このエントリーを含むブックマーク


60年代 ブリティッシュ・ビート

作者: デイヴ・マクアリア

訳者: 東郷かおる子

資料制作: 赤岩和美

メーカー/出版社: シンコーミュージック

発売日: 1998/12/10

|本| Amazon.co.jp

ビートルズ以前

 一九五九年、この時代のレコード業界史上初めて、三曲のイギリス産のインストゥルメンタル・ナンバーが同時にアメリカのトッブ20入りを果たした。レグ・オーウェンの「マンハッタン・スピリチュアル」、クリス・バーバー・ジャズ・バンドの「可愛い花」、そしてシリル・ステイプルトン・オーケストラの「サ・チルドレンズ・マーチング・ソング」だ。

(略)

 一九六一年になるとアメリカの音楽業界は、少しずつイギリスのアーティストに門戸を開きはじめた。十四歳の少女映画スター、ヘイリー・ミルズがノベルティ・ソング「レッツ・ゲット・トゥゲザー」でトップ・テン入りし、バラード・シンガー、マット・モンローが「マイ・カインド・オブ・ガール」でトップ20入りを果たした。また、この時期ロニー・ドネガンは、ビートルズ以前のアーティストとしては唯一、アメリカで二曲のトップ・テン・ヒットを放つ記録を作った。

(略)

 さらに、イギリスの「トラッド・ジャズの王様」アッカー・ビルクが、心に残る印象的なナンバー「白い渚のブルース」を、ケニー・ボールが軽快な「モスコーの夜はふけて」を、それぞれ一九六二年にUSトップ3に入れた。

(略)

 一九六三年、イギリス国内がビートブーム初期の熱気に包まれ始めた頃、アメリカはまだ、この年老いた国が提供する新しいグループ達に、まったく無関心だった。

(略)

この年、イギリスの新しいグループのレコードがアメリカでヒットしたのは、唯一女性デュオのザ・カラヴェルズが歌った哀願調の愛らしい曲「ユー・ドント・ハフ・トゥ・ビー・ア・ベイビー・トゥ・クライ」で、この曲がトッブ3まで上がったのは、ビートルズがイギリスでの五枚目のヒッツ・シングル「抱きしめたい」を発売する二、三週間前のことだった。


ザ・コンプリート・レコーディングス1963-1968

キャラベルズ

|CD| Amazon.co.jp

R&B

[ジョージィ・フェイム、ジョン・メイオールらが]本格的なR&Bを追求したが、イギリス産のR&Bが育つためには、もう少しコマーシャルな方向を打ち出すミュージシャンの登場が待たれた。

 モダンでコマーシャルなR&Bが当時、イギリスで全然注目されていなかったわけではなく、時折だがヒット・チャートに顔を出すこともあった。だが、多数の支持を得るほどファンも育っていなかった。それでも、ロックンロールが軟弱化し、スター不在になっていた五〇年代後半になると、少しずつファンを増やしはじめた。レコードに本物の興奮を求め、多くの人々がR&Bに傾倒し、二曲のR&Bの古典ナンバーが彼らの要求を満たすことになる。レイ・チャールズの「ホワッド・アイ・セイ」とアイズレー・ブラザーズの「シャウト」である。一九六〇年代に突入すると、レコード愛好者たちが大挙、アメリカの新しいR&Bを求めるようになっていった。そのなかでボビー・ブランド、ジェイムス・ブラウン、ザ・ミラクルズ、ソロモン・バーク、アイク&ティナ・ターナーなどが注目を集め、ファンの気運を盛り上げた。それは実に華々しい転換期となり、多くのR&Bのレコードが発売されて六〇年代の音楽シーンを磨くことになった。この頃、人気を集めたレコードはバレット・ストロングの「マネー」、コール&レスポンスの古典ナンバー、ジェシー・ヒルの「ウー・プー・パ・ドゥ」、ザ・ファルコンズ(後にソロ・シンガーとなるウィルソン・ピケットが在籍)の「アイ・ファウンド・ア・ラヴ」などで、後にソウル・ミュージックと呼ばれる音楽の出発点となった。

 多くのにわかR&Bファンは、やがて過去聴き逃していたロックンロール初期のレコードを捜し求めるようになり、その結果がドゥ・ワップ・ミュージックの再評価につながり(アメリカでも一九六〇年にドゥ・ワップがリバイバルした)、さらにハンク・バラード&ザ・ミッドナイターズ、リトル・ウィリー・ジョン、ジェイムス・ブラウンなどのバック・カタログも日の目を見た。また、チャック・ベリーやボ・ティドリーなどのR&Bロッカーを飛び越えて、モダンなブルースを基本にしたマディ・ウォーターズ、ジミー・リード、ハウリン・ウルフ、スリム・ハーポなどの伝説的なミュージシャン達の音楽を掘り下げるようになっていった。

ローリング・ストーンズ

当時、最初にストーンズの記事を書いた「レコード・ミラー」紙は、こう記した。「ローリング・ストーンズは、おそらくR&Bシーン最大の存在になるに違いない、そのシーンが続けばの話だが。彼らは他のどのイギリスのバンドより、アメリカ風のサウンドを作り上げているし、他のすべてのイギリスのR&Bバンドと違って、間違いなく視覚的にも魅力がある。彼らは同じ黒人音楽をルーツとしながらトラッドを演奏するジャズ・マンではなく、正真正銘の狂信的R&Bマニアだ。その歌と演奏は、白人のグループというよりも、アメリカの黒人R&Bチームに近い」

 この頃のストーンズは、あえて自作曲に取り組もうとはしなかった。彼らは誇らしげに、こう笞えている。「自作曲をやろうなんて考えていない。だってイギリス人の作ったR&Bナンバーなんて想像できるかい?そんなの無理だよ」

デイヴ・クラーク・ファイヴ

[ブリティッシュ・インヴェイジョン]の初期段階では多少の混乱があり、例えばビルボード誌はビートルズを「テムズ・サウンドの波」、つまりロンドンのグループと、デイヴ・クラーク・ファイヴを「リヴァプール・ビートのマージー・サウンド」、つまりリヴァプール出身と紹介して、ロンドンっ子のデイヴ・クラークをがっかりさせた。

(略)

 デイヴ・クラークは自分たちがリヴァプールのバンドと混同されることを嫌い、こう言っている。「何がマージー・サウンドなのか分からないけど、僕らがビートルズやジェリー&ザ・ペースメイカーズなんかのリヴァプール勢と、まったく違うことだけは確かさ。僕らのサウンドはサックスやオルガンを使っている通り、彼らより、ずっとやかましいからね」

 デイヴ・クラーク・ファイヴはアメリカでも大きな成功を収め、彼らの出現は大混乱を巻き起こした。ニューヨークの評論家は、こう評している。「彼らにはビートルズ以上のボリュームがあり、そこがファンを魅き付ける要因だ」

ハーマンズ・ハーミッツ、キンクス

 ハーマンズ・ハーミッツは六〇年代半ば、アメリカの少女達がビートルズに次いで胸を焦がすアイドル・グループだった。とはいえ、彼らは本当の意味でビートルズのライバルとは言えず、オリジナル曲で勝負に出ようとしてマイダスから見放された。彼らの音楽はプロデューサーのミッキー・モストの手腕に依存した部分が大きく、モストはイギリスよりアメリカ人受けする軽いポップス調の曲を多く選曲した。

(略)

アメリカで十四曲、イギリスで十五曲のトップ20シングルを生み、ティーンのアイドルになり、その清潔なイメージで、ファンの両親にも受けが良かった、ピーター・ヌーンは最初から、どうしたらファンに受けるか分かっていたようだ。「ステージでは、できるだけ子供っぽく振る舞うんだ。そうすると女の子達が、ねえ、あの子って可愛いじゃない?って騒ぎ出すってわけ」

 「迷子の少年」のようなピーターのイメージは多くの熱狂的なファンを生み、彼らは全部で四千万枚以上ものレコードを売りまくった。一九六五年には「ミセス・ブラウンのお嬢さん」が熱狂的なハーマニアの予約注文で六〇万枚を記録し、ビートルズでさえ達していない記録、USトップ100に十二位で初登場した。

(略)

[ザ・キンクスのデビュー・シングルは]「のっぽのサリー」で、その宣伝文句には「もしストーンズが好きなら、君はキンクスが気に入るはずだ!」と書かれていた。だが、これはあまり効果がなかったようで、最初の二枚のシングルの売り上げには結びつかなかった。キンクスはその初期、音楽的な評価ではなく、ロング・ヘアでハンサムなリード・ギタリスト、デイヴ・デイヴィスがセックス・シンボルとして人気を集めた面がある。初ヒットは三枚目のシングル「ユー・リアリー・ゴット・ミー」だった。(略)レイ・テイヴィスによると、もともと軽いジャジーなナンバーとして作っていたのを、その後「ルイ・ルイ」(ザ・キングスメンの一九六三年のヒット曲)のような歌い方を取り入れたのだという。

サ・プリティ・シングス

 一九六四年の最後に、本国のトップ20入りを果たした三組のグループは、サ・プリティ・シングス、ウェイン・フォンタナ&ザ・マインドベンダーズ、ザ・ロッキン・ベリーズだった。ローリング・ストーンズの出現でビートルズがお行儀よく見えてしまったのと同じように、ストーンズが実に小ぎれいに見えてしまうほどプリティ・シングスのルックスはだらしなく見えた。その意味で彼らは、ストーンズのはるか上を行っていた。また音楽的にも、ストーンズのサウンドが完璧に聴こえてしまうほど、洗練されていない粗削りなR&Bだった。

(略)

アメリカでは人気音楽番組「シンディグ」に出演したが注目されず、それにもかかわらず「あの娘を地面に押し倒した」という歌詞が問題になって、いくつかのラジオ局で「ドント・ブリング・ミー・ダウン」が放送禁止となり一部ファンの間で大いに話題を呼んだ。

ボブ・ディラン

 一九六五年の夏も終わろうとする頃、アメリカが逆襲に出た。その代表的なアーティストは、この年に大きな話題を呼んだシンガー・ソングライター、ボブ・ディランだった。この頃、誰もがビートルズ・ナンバーをカバーしたように、多くのアーティストが、こぞってディランの曲を取り上げた。フォークとロックをミックスしたスタイルと、社会的な歌詞は一種の流行ともなり、曲作りの才能のない英米のグループやシンガー達が、その作品にドッと群がったのだ。当時、ピーター・ヌーンは冗談半分で、こんなことを言っている。「ボブ・ディランの曲でも歌おうかな。チャートに入る手っ取り早い方法だろ?」

(略)

 この時期、メロディ・メイカー紙は読者に向けてこう語り、さらに続けた。「ビートルズやデイヴ・クラーク・ファイヴですら、最近のアメリカ公演では苦戦を強いられ、サーチャーズやゾンビーズに至っては“大失敗”だった!」

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