セロニアス・モンク: モダン・ジャズの高僧

「ああ、これは志ん生だな」って思った 古今亭志ん朝

 ある日、「シャルマン」に行ったら『セロニアス・イン・アクション』がかかってた。それまで、モンクってついぞ聴いたことがなかったんですよ。とっても不思議な音でね。(略)
一、ニ、三と歩いていって、当然この次は右足が出るだろうと思っているのを、急に止められて、左足が出ていっちゃうんで、聴いてる方は「おっとっとっと」となる。普通だったら、当然ここでこういうフレーズがくるんじゃなかろうかと思って、ノッてこうとすると、そこでとてつもない不思議な音がくる。
 ただ、私は音楽でも絵でも、前衛的なものって嫌いなんで、最初は「俺、こういうの嫌いなんだよなあ」と思いながら聴いてた。それが、聴いてるとちっとも不快じゃなくて、楽しくなってきた。で、店のご主人に「これ、何ていう人?」「セロニアス・モンク」「セロニアス?モンク?ヘンな名前!他にもあるの?」「こういうのがあるよ」なんていいながら、いろいろ聴いていた。そうやって聴いてるうちに「ああ、これは志ん生だな」と思ったんですよ。
 私の親父、志ん生の芸というのは、私なりの見方でいいますと、まことにブロークンなんですね。たとえば、ジャズでいうとテーマがあるでしょう。テーマを本当によく分かっていれば、アドリブもとてもうまくできる、というもんじゃないかと思うんです、ジャズというのは。そういうところが、うちの親父にもあって、この話は、こういうことを笑っている話なんで、順序としては、これがこうなって、こうなって、こうなるんだという、ただそれだけを、親父はよーく頭の中に入れておいて、あとはその時によって、アドリブに近いくらいにしゃべっていくんですね。
(略)
 それから、「間」が他の人と違うんです。とてつもない、妙な間があいたり、そうかと思うと、普通の人が間をあけるだろうと思うところを、いきなりバッと出ていく時もある。そういう展開が、モンクの音楽にもあるでしょう。
 私達はなし家の符牒「フラ」というのがあるんです。これは、声音とか、口調とか、顔から受ける印象とかで、同じことをいっても何かおかしい、そういう雰囲気を持ってる人がいるんです。それを私達の方では「あの人にはフラがあるね」という。フラがある方が得だし、うらやましいんです。うちの親父なんてフラのかたまりでね。まともなことをいったって、人が笑っちゃう。
 それが、モンクにはあるんですね。雰囲気が何かこう、おかしいんです。ユーモアというか、おかしみがある。ジャズを聴いていて、おかしい人というのは少ないですね。
(略)
 もう一つ、志ん生とモンクが似てるんじゃないかと思うのは、芸に対する真面目さなんです。うちの親父は、何だかいいかげんな印象を与える人でしたけど、その実、芸に対する姿勢はまことによかった人だと、私は思うんです。「ここをこうやった方が、より効果が上がるんじゃないか」というようなことをいつも考えていた。それから、自分が大変尊敬している人というのがちゃんといて、私と一緒にお酒を飲んでいて、それまでは自分が天下取ったようなこといってても、そういう人の話になると全然違うんですよ。「文楽のここがいいんだ」とか「金馬のここにはかなわない」とか。
 そういうことに対して、非常に真面目なんです。
 モンクというのも、聴いてると、実は真面目な人なんだろうという気がする。ただ間違いなく演奏すればいいというんじゃなくて、この人は、みんながもう弾いちゃってるようなのは弾きたくない。ここで音を出したいんだけれど、普通の和音ではつまらない、誰でもやっているんだから。この音とこの音を混ぜたらどんな音が出るだろう、というような、音の追求をしているようなところがあるような気がしてしようがないんです。
 「そういうところが、とっても素晴らしい」という話を、僕がある所で夢中になってしていたら、たまたまそこに亡くなった林家彦六師匠がいらっしゃって、「その人はもう永いのかい」というんですよ。「何がですか」っていったら「だから、ピアノ弾きになって永いのかい」と。だから「それはもう、永いんです」っていったら、「そんなに永くやってて、どんな音になんのか、まだわかんねえのかい」と(笑)。
 あたしもムキになる方だから「そうなんですよ!」ってワーッといおうと思ったんだけど、みんながワッと笑っちゃったから、それまでになっちゃって、こっちも黙っちゃったんだけれども(笑)。
 モンクのレコードでは、『セロニアス・イン・アクション』を最初に聴いたということもあって、テナー・サックスがジョニー・グリフィン、太鼓がロイ・ヘインズという組合せが、一番私には親しみがありますね。『ミステリオーソ』とかね。
 この二人が、お弟子さんじゃないかと思うくらい、モンクとやってるとものすごくいいんですよ。ジョニー・グリフィンは、ロリンズとかコルトレーンなんかより、はるかにモンクに合うような気がするんです。ジョニー・グリフィンが自分で出したレコードを聴いていても、そんなにピンとこない。モンクとやってる方がいい。
 ロイ・ヘインズの太鼓は、非常にクセがあるでしょう。それがモンクにとってもよく合うんですね。素直な太鼓では面白くないんじゃないかな。アート・ブレイキーとか、マックス・ローチとかともやってるんだけど、あたしはこの組合せが一番好きですね。

山下洋輔、モンクを語る

 いろんなLPを聴くなかで、まずマイルスとミルト・ジャクソンとの共演の『バグス・グルーヴ』が記憶に残りますね。極端に音数の少ない演奏なんで、音数が少ないから覚えやすい、で覚えちゃうわけですが、その通り弾くと全然つまんない。何も面白くないんです。何だこれは不思議だなあーというのが、第一印象ですね。それから段々聴き始めると、すごい和音の作り方なんですよ。
(略)
66年の日本公演は正直言って退屈しましたね。それでも成り立っているジャズという音楽は不思議だなーとも思ったね(笑)。でも一方ではちゃんと没入して聴けば、ドライヴ感は一曲毎に違うんだから、聴けるんだなーといろんな発見がありました。
(略)
和音をガン!と弾いたとき、じぶんで驚いたような仕草、表情になるんですよ(笑)。音にはじき返されたようなアクションしたでしょう。あれがすごく分かる。あれと同じものが自分の中にもありますね。
(略)
僕は正当なハンプトン・ホーズをやってたんですが、モンクにも引かれました。でもモンクを真似していたら、まっとうなピアニストにはなれないと考えるのは本能的に正しいわけで(笑)
(略)
普通のことができないからモンクをやる、という風な存在でしたね。そのままモンクばかりを真似してしまうのは絶対危険なんだということは、分かっていました。八木正生さんのモンクというのは、ビバップをやって自分ができてからのモンク研究ですから立派なものです。
(略)
 モンクの影響は徐々に入ってきていて、それは何かというと、何か変なことをしたいなという時に、象徴的にモンクを思い浮かべるんですね。
 指が太いから隣りの鍵盤も押して面自い音を出してしまったという話もあるし、指使いに添った変な音を出すんですが、鍵盤と指の関係が自然にできるようなことをやるんですよ、モンクは。それはたとえば、ホールトーン・スケールの使い方なんですけど、参考にやってみると、なるほどなと思いました。
(略)
今改めてモンクのソロを聴くとメチャクチャきれいです。今の僕の感性では。若い頃はゴツゴツと引っかかるところがあったんですが。

対談・モンクの現在 後藤雅洋 加藤総夫

加藤 (略)今たまたまバド・パウエルの名前が出ましたけれど、パウエルが提示したあらゆる可能性は吸い尽くされた、いわゆる正史として引き継がれたので、そこから発展しうるものは出尽くしたという感じがします。
 モンクが提示したものも、恐らく、当時の言葉の意昧での「ジャズ」の中にはあったんだろうけれど、その中にはその後のジャズが忘れてきたものがまだ残っている。
(略)
メタレベルヘどんどん上がっていくような流動的な運動性をジャズと捉えるのか、という二つの立場がありうる。
 もし後者の立場を取るならば、モンクの開けた綻びから外に出ることそのものがジャズであって、パウエル以降の正史はもはや「ジャズと呼ばれた音楽」というものでしかない、といういい方だってできる。そういう視点の存在に気づかせるところが、モンクの一番の存在意義である、と。
(略)
「ジャズの内部」というものが存在していた時代も確かにあった。ジャズ・ミュージシャンたりうるためには、ジャズの内部で語り継がれている語法を勉強すればよいという時代もあったと思います。
後藤 そういう時代は、実はわりと短いと思うんですよ。せいぜい一九五〇年代の初頭から六〇年代半ばくらいまでの一〇年間くらいじゃないですか。
加藤 でも、面白いのは、モンクが活躍したのが正にその時代なんですよ。だから、五〇年代から六〇年代といった時代に、広く認識されてはいなかったかもしれないし、一部の人は気づいていたのかもしれないけれども、ジャズと呼ばれている音楽に、外側がある、あるいは内部崩壊しうる糸口がその音楽の中にあるということを、モンクは指摘し、実践していた。そういう意味で、モンクは、その時点では、ジャズというものを内部の側から外側へ開く働きを果たしていた。

加藤 (略)E♭7というコードがあって、これは音が低い方からいうと、ミ♭、ソ、シ♭、レ♭、それに加えて、いわゆるテンションと説明されるファの音、ラのナチュラル、ドのナチュラルからなる、と考えられる。そして、それらを全部合わせてみると、サーティーンスと呼ばれるドのナチュラルの音と、一番ブルージーな感じを出すというセブンスのレ♭というのは、ちょうど長七度になっているんです。つまり、一オクターブから半音下がった、という音程になっている。そこで、たとえばビル・エヴァンス的な、あるいはオスカー・ピーターソン的な弾き方だと、その間にソの音を入れるんですよ。左手でレ♭、ソ、ドと弾く。そうすると、これは、調性音楽の中に取り込まれうる響きとして、一九世紀的に安定する。こんなことはワーグナーでもブラームスでもやっていたことです。
 ところが、モンクは、真ん中を取っちゃったんです。つまり、真ん中のソを抜いてしまった。E♭7という和音の中では全然間違いではないにもかかわらず、レ♭とドだけを裸でボンと弾いちゃうと、そのとたんに、それはE♭7という、あるいは変イ長調の属七の和音というコンテクストから外れてしまうんです。ただ不協和な二つの音のぶつかりだけが残ってしまう。不協和な、二つの隣接した音だし、それを一オクターブと半音離して鳴らすというだけのことではあるけれど、それはやっぱり調性的な音楽の中で培われてきた語法から外れたものとして響くわけです。
 このことの具体的な例が『セロニアス・モンク・プレイズ・デューク・エリントン』というアルバムの「ソフィスティケイテッド・レディ」という曲の中にありますから、お聴きになると、よくお分かりいただけると思います。
で、プレイヤー達が一番モンクを評価するのは、それだけであんなすごい響きが生まれるのは驚きだと、いうことなんです。

後藤 モンクの精神性が、同時代人達にどのように受け継がれているか、ということをここで考えてみたいんですけど。僕は、全く無根拠にいうんだけれども、ソニー・ロリンズには受け継がれていると思うね。で、ジョン・コルトレーンには受け継がれていないと思う。
加藤 そんな感じがしますね。で、隔世遺伝的に、というのは具体的に共演はしていないという意味ですけれど、エリック・ドルフィーに受け継がれている。
後藤 僕もそう思う。ドルフィーは、モンクとは少し違うんだけれども、ある意味でモンク的な試みをやっていたんじゃないかという気がする。コルトレーンというのは、ア・プリオリに真実があると思い込む人だと思う。ロリンズは、そう思ってない。それが、やっぱりジャズの開かれた態度なんじゃないかな。コルトレーンは、確かにモンクと出会ったことによって、技術的にすごく向上してると思う。『セロニアス・モンク・ウィズ・ジョン・コルトレーン』は、その前のアルバムと比べて、圧倒的にうまくなってる。だけどそれは、表面的な、技巧的な部分だけだと思うんだ。音楽に臨む姿勢ということでは、コルトレーンは全然分かってないと思う。モンクはこういう音を使ってもいいんだとか、ここのところはこういうふうに吹いてもいいんだとか、具体的に教えたんじゃないのかな。
加藤 逆にいうと、その辺がコルトレーンの偉大なところともいえて、モンクと一緒にやると、普通の人はヘタになっちゃうと思うんです。おとぎ話みたいな解釈だけど、コルトレーンは、モンクに演奏態度のあり方とでもいったものを教わって「じゃあこれでいいんだ」ということで、自分の出したいものを出せるようになったと。
後藤 そうかもしれない。自分の出したいものを出したら、ああいうふうになった、と。それがいいという人もいるかもしれないけれども、僕は嫌だと、それだけの話だね。結局、コルトレーンって真面目なんだよね。モンクだって真面目だったと思うんだけど、真面目さのあり方が違うのかな。閉じられた真面目さと、開かれた真面目さの違いなんじゃない。加藤 気が楽になったということでしょうね。モンクと共演した他のミュージシャンも、みんな気が楽になっているように感じられる。マイルスも、もうちょっと気楽にやればよかったのに。

加藤 僕は思うんですが、マイルスとモンクのケンカ・セッションというのは、いろいろなことがいわれていますけれども、今九〇年代という時点においてそのエピソードの意味を考えてみると、その時のマイルス側を支持するか、モンク側を支持するかということで、現代のミュージシャンを分けられるんじゃないかという感じがするんですよ。今、力を持ちうるのは、モンク側を支持する方ではないか。
後藤 僕もまさしくその通りだと思う。マイルスも個人的には好きだけれども、今やマイルス的方法論というのは、完全に破綻とはいえないまでも、行き着く所まで行ってしまった。それに対して、モンク的な行き方というのには、まだ未開発の部分があるんじゃないかという気がするね。
 マイルスというのは、どんな場合でも、組織とか構成というのを考えていたと思う。モンクも、もちろんそれは考えていたんだけれども、いかにそれを外しつつ、なおかつそこにぎりぎりのところで何か美しいものが成立するんじゃないかということを考えていたんだと思う。マイルス的な行き方というのはやっぱりすごいし、マイルスじゃなきゃできないんだけれども、その秘密というのは分析可能なんじゃないかという気がするね。間の取り方だとか、音の選び方だとか。だけど、モンクの意外性というのは、なかなかそうはいかないと思う。あの二人は、お互いのことを、すごくよく分かり合っていたんじゃないだろうか。
(略)
 現代において、モンクを読み直すということは意味があるけど、その他にもまだ尽くされていない可能性として、オーネット・コールマンエリック・ドルフィーという鉱脈がある。少なくとも、チャーリー・パーカーバド・パウエルマイルス・デイヴィスジョン・コルトレーンという道筋は、読み尽くされてるわけでしょう。
(略)
加藤 ドルフィーは、モンクと同じように、聴いていて自分の気持ちが解放される人ですね。
後藤 そうですね。僕にとって、解放される音楽と、抑圧される音楽があるわけですよ。オーネットは解放される、ドルフィーも解放される、モンクも解放される、コルトレーンは抑圧される(笑)。
(略)
 ジョニー・グリフィンなんて、モンクとやってる時、すごくいい演奏してるよね。不思議と、グリフィンの音楽性が生かされてる。ロリンズもそんな感じがするね。チャーリー・ラウズは、何だか駒になっているという印象があるけどね。
加藤 理解しすぎている、という感じでしょうか。

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