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2007-08-05 仲正昌樹「モテない男」論 このエントリーを含むブックマーク


前略 仲正先生、ご相談があります

作者: 仲正昌樹

出版社/メーカー: イプシロン出版企画

発売日: 2006/12

ダ・カーポでやってた時事相談、例えば憲法というお題で

だから、「護憲で憲法を愛する」という話を左翼――左翼と言うか、リベラル左派の人が言うのは、本当はまずい。(略)

そういう話を強調しすぎると、右の人たちが言っているのとは違う意味で、「憲法というものはわれわれが選んだのだから護る義務がある」と、護憲教育に持っていかざるをえなくなる。そういうジレンマが本来あるはずなんです。

(略)

 憲法を愛するとはどういうことか、左翼は、教育問題以外は突きつめて論じていないから表面化してないけど、突きつめるとかえってマズイことになるんです。たとえば「もし日本が天皇を中心とするような神の国ではない国になっても、愛するために立ち上がらないといけないと言うのか?」というような話になってくる。天皇制はなくならないという大前提に立っているし、神道もおそらく力を持ったままだろうから、そういうものは愛せないと言っていられたんだけど、そうじゃなくて本当に共和制になったら、憲法を護るために立ち上がれと言うのか?

元々ゆるい企画なのだが、連載が続くにつれ仲正昌樹でなくてもよいお題が増えて、さらにゆるーくなっていく。するとあとがきでちゃんと説明(言い訳)が。それにしても、仲正さんがこういう大衆的仕事をやれることが意外、月9とか観てるのは更に意外。

「気を抜いたままで仕事をする」というのは、それなりに意味のあることである。

(略)

「明確な意図」をもって文章を書こうとすると(略)面白みのないものになっていることが多い。(略)エクリチュールが「疎外態」になっているのである。

(略)

[かといって文章を難解にして意図をわかりにくくしても、その“分かりにくくするという意図”に縛られることになる。](略)

一連の「時事相談」は、私から発したのではない「質問」に対する私の直感的な「答え」を、私の――あるのかないのか分からない――「意図」とはあまり関係なく繋いでエクリチュール化した質問者・記録者の存在が幸いした。

で、気を抜いたあまり、なんだか凄い発言が。「ハードゲイともてない男の境界線はどこに?」というお題で、

同性同士で生活していたら同性愛者だというふうになるんだろうけど、同性同士で暮らしている人なんていくらでもいるでしょう。それがたまたま一回くらい性関係っぽいことをしたからと言って、それで同性愛者となるのか? そういうことはむしろ曖昧にしたほうがいいと私は思うんだけど

同性と性的関係を持ちたいという欲求がどれだけ切実かは、本人にしか分からない。切実ならHGになるけど、相手がいなくても不便を感じなければモテない男と変わらない。モテない男とハードゲイの区別って、じつははっきりしないと思います。

何故ビョーキ自慢不幸自慢をするのかというお題で

自分のプチ不幸を正当化するためにスティグマを持ち出したくなるんです。

(略)

そういえば小谷野敦の「モテない男」、あれもスティグマだな。モテない苦しみが分かるかとムキになるでしょ、いや、分かってやるほどの苦しみじゃないと思うんだけど。

食べたくないのですよという金“ナカマサ”龍飛に圧倒されたジョーだったが……w。


“法”と“法外なもの”―ベンヤミン、アーレント、デリダをつなぐポスト・モダンの正義論へ

作者: 仲正昌樹

出版社/メーカー: 御茶の水書房

発売日: 2001/04

デリダの言う〈正義〉とは、

計算可能なものではなく、むしろ、現時点での“我々”の視点からでは予測することのできない“無限の彼方”からやって来る(かもしれない)〈他者たち〉に対する〈応答=責任〉としてイメージされている。そうしたデリダの議論に代表されるように、ポスト・モダンの思想家たちの多くは、近代を支配する〈同一性〉の論理の“向こう側”に、〈法〉として固定化されることのない〈正義〉の“有り方”を模索している。それは、別の側面から見れば、〈権力〉へと反転しない〈暴力〉の探求でもある。

廣松渉が、ロールズの

〈公正としての正義〉論を古いと断じている根拠は、極めて明白である。市場を支配する等価交換の原理を認めて、その枠内での〈均衡〉と〈分配〉のための公正なルールを整備することを目指すような議論は、マルクス主義である廣松に言わせれば、政治哲学ではあっても、倫理とは程遠いものなのである。

(略)

〈等価交換=同一性〉によって作り上げられた商品世界の〈物象化〉を暴露し、その仮象性を解体することを目指す廣松に言わせれば、近代市民社会の様々な矛盾が露呈している現代において〈配分的正義〉を実現しようとする試みは、とんでもないアナクロであろう。しかし廣松自身が、〈配分的正義〉に代わるどのような〈正義〉を構想していたかというと、かなり曖昧である。

〈法〉の形式合理性に回収できないもの、〈法外なもの〉を起点として正義論を構築しようとすれば、疑似神学的な倫理学になってしまうリスクが大きい。デリダは、そうしたポスト・モダンのリスクを覚悟のうえで〈決断〉することを迫るが、プラグマティストのリチャード・ローティーは、自らの足場(文化的文脈)の上に踏みとどまるべきことを主張する。

〈法〉の〈否定〉作用によって切り捨てられたものの中に、実現されるべき本来の“法=正義”の理想状態の残余を見ることを通して、現時点で〈妥当〉している〈法〉が“依然として不完全な”状態に留まり続けていることを想起させる役割を、〈正義〉の概念に担わせるわけである。

(略)

〈正義〉と〈法〉の食い違いを露呈することを通して、〈法〉を変動させていく契機を積極的に作り出していく、という考え方だ。

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