黒人ばかりのアポロ劇場 ジャック・シフマン

1971年出版、アポロ劇場初代経営者の息子による様々なエピソード。

スラング、百二十五丁目のにぎわい

 言葉使いの中にもハーレムの住民たちの特徴がはっきりとあらわれている。たとえば"マザー"といったごく普通の言葉にさえ、信じられないほどの意味と感情がこめられ、泣きたくなるような優しさから侮辱まで含んでいる。言葉は、胸にキュッとくるような微笑かまたは野卑でワイセツな響きとともに語られる。黒人たちの発音の中で実に特徴的で描写的なのは、口の中で音をころがすようにして言う"シイイイット[sheeeit](畜生)"のような短音節だ。これはおそらく黒人たちの辞書の中でも、もっとも豊富な意味をもった単語であり同時に黒人社会のつき合いにおいて欠かすことのできない小道具なのだ。冗談ばなしのときには"シイイイット"が笑いとともにとび出してくるし、いやな話をきいたときの"シイイイット"は悲しい響きをもっている。言葉の意味にもいろんなニュアンスがあり、人や声もさまざまなように"シイイイット”にもいろいろあるのだ。

 黒人の変化に富んだ言葉は、彼らが奴隷だった時代に生れたものであり、仲間うちの内緒ばなしのとき、白人の主人に意味をさとられないよう、暗号としてのなまりを作ったのだ(略)

もちろん、なまりだけが次代に受けつがれてきたのではなく、暗号を作った精神もちゃんと伝えられているのだ。

 アメリカの都市の黒人地区の中で、きわだった独自性をみせているものは、言葉なのだ。黒人たちの口から何気なく飛び出す、生きのいいスラングを、いち早く白人社会がとり込む。例えば次のような言葉である。

“Outa sights(最高にスバラシイ)""Right Ons(よし、やったぞ)""Where it's ats(これなのだ)""Uptights(ヤバイぞ)""Get it togethers(さあ、やろうぜ)"

 白人には判読できない黒人文化の新鮮さこそ黒人の自治を維持するものでもあるのだ。

(略)

 百二十五丁目のにぎわいは昼も夜ものべつ幕なし、ハーレムっ子によるハーレムっ子のための見せ物がひとりでにできあがって行く。

(略)

肝っ玉かあさんは賛美歌をうなりながら、がっちり太い褐色の腕で食料品を引きずり、我が家へ向っているし、やせっぽちの新聞少年はタクシーやトラックの間を通り抜けながらバスケット・ボールのシャドー・プレイをやっている。ちょいと格好のいい秘書のネエちゃんたちも、ランチ・タイムに外出したついでに黒い、アーモンドのような瞳をくりくりさせて、精一杯セクシーな視線をあっちこっちへ放射している。サラリーマンはヒットソングの口笛を吹き、ませた子供たちはスピーカーの前で歌手の物真似をやっている。

(略)

道路のあっちこっちで握手したり、手をたたいたり(略)

あかの他人だってかまうことはない、お互いに気安く「やあ」「やあ」と挨拶すればそれでいいのだ。(略)

劇場の前でこのにぎやかな見せ物を見た私の友人がこう言った。「こいつは、アポロのショーの、まるでリハーサルそっくりだ!」

おれたちの劇場

 アポロ劇場のロビーは細長い廊下のようで、いつも私にボーリング場を連想させる。「こっちの壁からそっちの壁へ、つばをかけることだってできる」と案内人のひとりが言う。「実は、みんなやってるんです」

(略)

 モギリのところでロビーはいくつかにわかれる。まっすぐ行くと一階席、モギリの前を右へ曲ると三階席、うしろを右へ曲ると二階席

(略)

三階席の客は、階段が完全に別になっているので、値段の高い、下の階へは絶対に出入りできない。

(略)

 三階席につけられた呼び名のなかで一番ピッタリなのは"愚連隊屯所"というやつだ。いつもの騒がしい子供たちのほかに、酔っぱらい、麻薬常用者、やくざ、夜の女、落後者、奇人、変人など、とにかく一風変った個性的な連中がたむろして、三階席を自分たちのなわ張りにしているのである。映写室と照明室は三階席の上にある。

(略)

頭のいい芸人は三階席に向けた演技をする。そして三階の愚連隊屯所のうるさ方さえ手に入れてしまえば、もうこっちのもの、成功は疑いなしなのだ。三階席の連中は、露骨で残酷だが、本物を見分ける鋭い嗅覚を持っている。だから本物にはちゃんと反応してみせる。

(略)

 劇場はそれほど大きくはない。座席は千七百だが、通路に補助席を出し、一階と二、三階の後部にある立ち見席まで一杯になると、収容人員は二千三百に増える。平土間の勾配はかなり急なので、二階の張り出し部分がちょっとばかり一階の後方の客の視界をさえぎる。舞台は三階から相当遠いのでまるでチェス盤のように小さく見えるのだ。

(略)

[ハービー・マンがテレサ・ホテルから出てくると]

ブラック・パワーの闘士がホテルの前の群衆に向かって何やらぶっていた。

「白人だ!(略)われわれを窮地に陥れている犯人は。ハーレムから白人を追い出すんだ。(略)誰が白人なんだ?」闘士は迫った。

「誰だか教えてやろう。そいつだ!(略)」彼の右腕がさっとあがり(略)

驚いたミュージシャンの顔から血の気がなくなり

(略)

 だが、幸運にも波乱は起きなかった。群衆の一人がこう言ったからだ。「違う、違うよ、そいつは白人じゃない、ハービー・マンだ」

(略)

 一九四三年のハーレムの暴動や、そのあとに起きた百二十五丁目周辺の騒動や不穏な状態のときなど、大勢の黒人たちが自発的に集まってアポロ劇場を守ってくれた。(略)集まった黒人たちはアポロの従業員ではなかった。彼らは顧客だったのだ。この事実を私は強調したい。街にある他のどんな施設に対しても同様の行動がとられたという事実はないのである。

 一九六八年の夏、アポロ劇場のロビーは改装された。父は黒人の建設業者を雇い、街の北にある新しい(ほとんど黒人が経営している)フリーダム・ナショナル・バンク(父は重役の一人である)の建設ローンを利用した。それは実に見事な出来ばえだった。旧式の柱は、渦巻模様のついたものになり、金箔をはりめぐらせた装飾的な天井は、さっぱりと単純化されたものにかわり、壁画も新しくなった。

(略)

私の兄ボビーが、ロビーに入って行くと、二人の若者が片側に立って、彼らの新しい劇場を眺めているのに気づいた。彼らは最新流行の服を身につけた、このへんの言葉でいえばグルービーな若者だ。「すごいぜ!」一人がため息をついた。「やってくれたじゃないか」「やったぜ」相棒が答えた。「見ろよ、おれたちの劇場なんだ!」

世界で最も"うるさい"観客

アポロの観客は世界で最も"うるさい"観客なのだ。あまりうるさいので、なかには出演をいやがる芸人もいる。リナ・ホーンなどは、いやがるどころか絶対に出演しないというのだ。

 たとえば、偉大なるビリー・エクスタインは、名声をきわめたあと、突如としてアポロには手の出ないスターになってしまった。(略)

名実ともに第一人者となって、われわれから離れてしまった。理由は?彼は恐れていたのだ。アポロのうるさい観客が、スターの彼を容赦なく鼻であしらうかも知れないということが恐かったのだ、と私は思っている。

 これは、後年、彼が再びアポロ劇場に出演した時、結局は自分が間違っていたことに気がついた。彼の出演期間中、劇場は立ち見席まで満員の盛況だったのだ。今日では、ビリーはアポロに年に一度は出演しているし、彼も彼のファンも、それを楽しみにしているのである。

「ありがとう、ほんとにありがとう」最初の一曲を唄い終ると彼は言う。「またアポロに出られて気分は最高……故郷はいいもんだ」これは舞台用のセリフではない。ビリーにとって、アポロ劇場は本当に故郷なのだ。

 最高クラスのスター(略)でさえ、相手がアポロの観客となるとかなり緊張する。舞台袖で出を待っていたエラ・フィッツジェラルド(略)は檻の中の熊のようにそのあたりを行ったり来たりしながら、ハンカチを握りしめ、額の汗をせわし気に拭いていた。

「具合でも悪いの?」と私は彼女に尋ねた。

「医者を呼びましょうか?」

「いらいらしてるのは観客のせいよ」彼女は答えた。

「舞台にあがってみるまでは、一体どんなことが起るか分らないんだから」

(略)

ハーレムほど、どんな社会よりも、音楽意識が高く、またそれが必要とされている社会はないのだ。

(略)

 ほかの舞台に立っても、うけることは出来るだろうが、何かが決定的に失われるのだ。その何かを一言で説明すれば、それは"電撃"である。アポロ劇場の内部空間を支配している熱狂的興奮は言葉に置き換えられない。普通の劇場なら、観客はおとなしくて節度を保っている。たとえロック・コンサートでさえ、興奮した若者が見物人の域からはみ出すことは少ない。いかに強烈なビートが彼らをしびれさせようと、そこに理性が働いて、とことんまで行こうとする情熱を管理してしまうのだ。

 アポロにはそんな抑制力は存在しない。それは理性がないからではなく、出演者と交流する姿勢がほかの劇場とはまるっきり違っているからである。ハーレムの住人たちは、ゴスペル・オリエンテーションによって、どんな活動においてもリーダーとそれにつづくものという形で、個人的に参加することに慣れているのだ。礼拝、市民権運動、あるいはショーにおいても、この形に変りはないのだ。一方には、牧師、リーダー、出演者がいて、もう一方の群衆、大会、観客とお互いに競い合い、それぞれが相手の爆発を求めている。誠実と怒りと熱狂による爆発である。

(略)

 ソニー・ティル(後述するが、彼のオリオールズは、二十年後にビートルズがやったと同じような世紀の音楽革命をやってのけたのだ)がアポロでラブ・ソングを歌ったときのことだ。ソニーは独特のスタイルで身体を曲げ、マイクにおおいかぶさり、肩をなまめかしくゆすり、両手で見えぬ相手をかき抱くようにして歌う。これが女の子たちを完全にしびれさせてしまった。金切り声が劇場中に鳴り響いた(略)

「やって頂戴!私を犯して!」

 たとえテープ・レコーダーが、この雰囲気をある程度は伝えることができたとしても、それはこの場の光景を見せてはくれない。彼女たちの表情をこの目で見なければ駄目だ。悲しいバラード、ハッピーなリズム、それぞれの曲のもつムードによって移り変る感情の動き、生き生きした瞳の輝き、ヒップのゆれ加減、肩のこきざみなゆすり、指を鳴らす音、そして足でリズムをとる音などのすべてを実際にその場で味わってみなければなんにも分りはしないのだ。またそれらをフィルムに収めたにしても、あの動き、あの興奮の中で感じられる刺激的な若者の体臭、ポプコーンとチョコレートをミックスした麝香のような匂いを嗅ぐことはできないのだ。

 このなかには、最低所得層の連中も結構いるのだが、彼らこそ舞台と客席の交流を左右する切札的存在なのである。もし彼らが気に入ればもう大丈夫だ。彼らは喜んで金を払い、あなたをスターにしてくれるだろう。しかし彼らの期待を裏切ったが最後、一巻の終わりだ。三階席に巣くう愚連隊のめんめんは、あなたの死体の骨をしゃぶることだって出来るのだから。

ライオネル・ハンプトン

 ライオネル・ハンプトンは、その強烈な興奮で髪の毛を抜けさせるほど多才な音楽家なのだが、一九五五年に登場してきたときはすごかった。どんなに強力な興奮の壁でもたちまち打ち破ってしまうスタイルを持っていた。もちろんまずは彼自身を血祭りにあげて。彼はショーを最後までうまくコントロールし、自分のソロがくるまで、はれものにでもさわるように注意深く緊張を盛りあげていく。ヴァイブのソロになると彼は二十分以上もたたきっぱなし。その天才的なテクニックは、ハーモニーとリズムをいつの間にかだましこんで、見事な彼独自の世界を創造しているのだ。スロー・ナンバーをやるとき、彼は一度に六本から八本のマレットを使うこともあり、テンポの速いもののときは、軽快な音がめまぐるしく動く彼の両手からまるで滝のように流れ出てくる。

(略)

彼が何かに憑かれたように首を振るたび、汗がにじみ、潤滑油をさしたようにライオネルの手にひろがっていく。彼は意味不明瞭なことをうなりながらコードをたたく。観衆もうなり返す。彼が創造のたかみをいつまでもさまよっていられるように雰囲気を盛りあげているのだ。彼はいまや最高潮をきわめようとしていた。

 クライマックスに達した「ウー!」といううめき声とともに、彼のきまりのフィナーレ、〈フライング・ホーム〉の最初の一小節が鳴りはじめる。観衆の感きわまった叫び声が場内にこだまする。そしてイリノイ・ジャケーのあの有名なテナー・サックス・ソロにはいってゆく。

(略)

またライオネルのソロになった。彼がすばらしいクレッセンドをくり返しているとき、舞台に紗幕がおりてきた。オーケストラもいっせいに演奏しはじめる。ライオネルは、自由奔放にたたきはじめた。低空飛行をつづけるジェット機の映画が紗幕に映され、エンジンの爆音とエキサイトした音楽が混じり合って一大音響となった。

(略)

劇場中の、二千人もの人間ほとんど全員が、気が狂ったように立ちあがり、胸もはりさけんばかりに叫びはじめた

(略)

ライオネル自身は、もうひとつの世界へはいり込んでいた(略)

タムタムを引っぱり出し、ありったけの力でたたきはじめた。それからその上にとび乗り、そこから彼のメンバーたちをもっと高みへ(宇宙かも知れない)導こうとした。次の瞬間、さっと身をひるがえして、うしろのヴァイブにとびつく。と、繊細なアルペジオがさざ波のように劇場の中を伝わっていった。十分、十五分、二十分とこの大混乱は、裏方の一人が父の肩をたたき三階席を指さすまで続いた。(略)

父の目は恐怖でとび出した。三階が揺れているのだ。間違いなく揺れている!

(略)父は、舞台監督のロイ・モンローにサインを出した。ロイはライオネルのヴァイブにつながっている電気のコードをそっとはずし、楽器を舞台袖に引っ込めはじめた。ライオネルは演奏に集中しているので何も気付かず、またミス・ノートひとつしない。彼は楽器と一しょに動き、演奏しつづけた。彼と楽器が舞台袖に消えてゆくのにあわせてゆっくり幕が下りた。だが拍手は鳴りやまなかった。それがやっと鎮まったのは、十分から十五分経って、力尽きた観客がロビーのドアに向って歩きはじめ、虚脱状態のミュージシャンたちが楽屋へ引きあげてからだった。しかし、この大混乱のほんとうのハイライトは、それでもまだライオネルが舞台袖で演奏をつづけ、"もうひとつの世界"に没入していたことにあった。バンド・ボーイは彼のそばに立って、額からあふれ出る汗をなんとかしてふき取ろうとけん命になっていたのである。

奇妙な果実、ナンシー・ウィルソン

 不思議な力の働くもうひとつの世界は、必ずしも喧噪の中にだけ出現するとは限らない。ビリー・ホリデイの歌う〈ストレンジ・フルーツ〉などは、あまりの静けさに心を乱され、思わず叫びたくなるような名唱である。この歌はリンチにあった黒人の身体(奇妙な果実)が木に吊り下げられ、ねじれた唇から血がにじみ出し、顔の傷痕が黒からどす黒く変色するさまを描写したものだ。

 この歌をどこかほかの場所で聴けば、ただホロリとするだけでおしまいになるだろうが、アポロでのこの歌はもっと深い意味を持つのだ。その"果実"を、目のあたりに見るような恐怖を呼び起すだけでなく、ビリー・ホリデイの中に、木に吊られた犠牲者の妻や姉妹そして母の悲しみと怒りにうちひしがれた姿を発見するのである。

 もしもあなたの精神の運動がアポロの観客とおなじ方向にあるとしたら、あなたはもうひとりの、リンチをうけた犠牲者の苦悶を見、そして感じるはずである。それはゴルゴタの丘で木の十字架にかけられた犠牲者なのだ。ビリー・ホリデイが自分の唇から最後のフレーズをもぎり取るように出したとき、観客の中で絶息に近い状態に陥らない者は、黒人白人の別なく、ただの一人もいない。息苦しく重い沈黙の時が流れ、それから聞いたことのないような音がする。それは二千人のため声なのだ。そのうちの一つは私のものだ。私はまるで、首にまきつけられたロープがやっとはずせたばかりのような気がしたのである。

 ナンシー・ウィルソンの舞台には、また違った形のスリルがある。いつのショーでも、四、五十人のファンが催眠術にかかったように席を立ち、舞台のかぶりつきまで歩いてゆく。そしてナンシーの手や衣裳に触わり、芳香のあとを追い、彼女の輝くばかりの美貌を眺め、ただ恍惚の人となるのである。(略)彼女は多彩な照明の中で、きらめき輝いている。それから〈ゲス・フー・アイ・ソウ・トゥデイ〉を歌いはじめる。小味な気のきいた曲で、夫がガールフレンドと一緒のところを私は見た、というような内容の歌だった。だが彼女がたっぷり心をこめて歌ったので、曲はかなりドラマティックなものになり、聴衆をしびれさせた。何回かこの舞台を見たあと、かつては名ダンサーでいまは劇場支配人のホニ・コールズに私はたずねてみた。「ナンシーは、最近旦那とうまく行っていないのかい?」

「ズバリだ」ホニは答えた。「別れたんだ、ふたりは。彼女、だいぶまいってるね」

(略)

彼女は観衆を親友に見立てて、自分のみじめな気持ちを舞台にさらけ出していたのだ。そして不思議なことには、彼女の足もとで共に嘆き悲しんだ人々のやさしい気持ちを通して、彼女は新しい活力を手に入れたのだ。

ハーレムの黄金時代

 「十九世紀から二十世紀になったばかりのころ」と九十四才のリー・ホイッパーは語る。

 このハーレムに黒人はほとんどいなかった。いまのアポロの建物の地下にナイトクラブがあったけれど(略)黒人は立入禁止だった。(略)この頃のハーレムは白人の街、すべて白人のものだった」

 リー・ホイッパー、性格俳優として永いキャリアを持ち、黒人俳優協会の創始者の一人である彼は当時のことを体験的に知っている。彼は一九〇〇年にニューヨークへ出てきたのである。

(略)

百四十五丁目にあったオデオン劇場は、一九一〇年における至宝のような劇場であった。オデオンは銀行家、弁護士、政治家によって創設され、まるで三頭政治のようだったが、珍しいことに彼らには、金儲けの意志はまったくなかったのである。オデオン劇場は、労働者とその家族に、安い入場料で娯楽を提供するためにつくられたのだ。

 ところが、この先進的な意図は、ジョージー・ジェッセルやジミー・デュランテたちを雇ったために失敗してしまった。つまり意図に反して金を儲けたのだ。(略)彼らは劇場にいや気がさし、興味を失なってしまった。そして一九二〇年までには、普通の映画館に衣替えされてしまい、レオ・ブレッチャーと呼ばれるやり手の若者がそこをきりまわしていた。ここで、フランク・シフマンが登場する。

 両親は移民で(略)父は、貧乏とたたかい、大家族の生計を助けながら一九一四年、ニューヨーク・シティ・カレッジの学位をとった。(同級生にエドワード・G・ロビンソンがいた。)それからの父は、レオによって劇場へ誘い込まれるまで、先生から靴屋の店員までなんでもやっていた。(略)

 一九一〇年頃まで、現在のハーレムにあたるこの地域は、上流社会の白人たちの遊び場であり、また居住区でもあったのだ。そこへ二、三組の黒人家族が、ひっそりとダウンタウンのサン・ホアン・ヒルからレノックス街百三十五丁目付近へ引越して来た。これを皮きりに百四十五丁目の新築アパートが黒人家族に部屋を貸すと、あとはあっという間に黒人の大群がアップタウンに移住していった。やがて南部から移ってきた人たちによって、黒人人口は大きくふくれあがり、一九二〇年までには、百三十丁目から百四十五丁目にかけての地域はほとんど黒一色に染められてしまったのだ。

(略)

 一九二二年になって、レオ・ブレッチャーと彼のブレーンたちは、ヴォードヴィル劇場のチェーンのひとつとして(略)ハーレム・オペラハウスを手に入れた。

(略)

 一九二五年、七番街百三十二丁目のラファイエット劇場は、父とブレッチャーのものになり、同年五月、新装オープン。小編成のオーケストラと黒人のショーガールによるバラエティ・ショーを上演した。ところで、そのオーケストラにはすばらしいオルガン奏者がいたのだ。彼の名はトーマス・ウォーラー、のちに"ファッツ"のニックネームで知られた男である。

 短期間のうちにラファイエット劇場の舞台は、ハーレムにおけるブラック・ショー・ビジネス創世期の伝説をつくった無数のスターたちで飾りたてられた。その人たちの名は、ベッシー・スミス、エセル・ウォーターズ、ビル・ロビンソンキャブ・キャロウェイ、ノーブル・シスル、ユービー・ブレイク、メイミー・スミス、ミラー・アンド・ライルス、ルイ・アームストロング、ミルズ・ブラザーズ……。

(略)

 ラファイエット劇場は、かなり永い間ショーをやっていたため、ショー・ビジネスの歴史の中で、いわば中間駅とでもいうべきものになっていた。不況の襲来とハーレムの活動の中心が百二十五丁目に移ったことが、父と彼の仲間たちの行動を決定した。(略)

ハーレム・オペラハウスは、シフマン=ブレッチャー組の活動の新しい本拠となったのである。

(略)

 新しく復活したハーレム・オペラハウスの寿命も比較的短かかった。(略)

元ハーティグ・アンド・シーマンズ・バーレスクだったアポロ劇場は、シフマンやブレッチャーと同じような経営理念を持つシドニー・コーエンによって動かされていた。二つの劇場は、お互いにしのぎを削ったのである。(略)一年後、コーエンが死ぬと、実演の製作はすべてアポロへ移った。その時以来、ハーレム・オペラハウスは不振に陥り、悲しい下り坂をゆっくり、しかも確実に降りはじめ、映画館からボーリング場へ、そして一九六九年にはついにオフィス・ビルへと変身したのである。ちなみに、オデオン劇場、ラファイエット劇場はともに、教会になった。

 父とレオがつんぼ桟敷におかれたまま、シドニー・コーエンとの取引きは、すんでのことでご破算になるところだった。

(略)

[ジョン・ハモンド談]

「私がジャズや黒人ミュージシャンに興味を持っていることを知ると、シドニーは自分と一緒にアポロをやらないかといったんだ。私はびっくりしたが、願ってもない感激だと返事した。そして契約書にサインするため彼の事務所へ向う途中で、コーエンは心臓発作で死んだんだ。それですべてがおしまいなのさ」というわけでジョン・ハモンドは、私の父にかわってハーレム興行界の第一人者になるチャンスをおしくも逃してしまったのだ。

ベッシー・スミス

 ビッグ・バンド・サウンドが伸長しようとしているとき、あのブルースの灯は一時的にではあるが消えかかっていた。というのは、一九三〇年代初期には、例のニューヨーク株式市場大暴落や押し寄せる不況の波をまともに受けて、レコード会社のほとんどがつぶれるか、あるいは深刻な打撃を受けていたからだ。ベッシー・スミスやメイミー・スミス(略)のように、"レイス"レコードからの収入で生計を立てていた歌手は、一夜のうちにがっくりやせてしまった。ベッシーの週給は三千五百ドルあたりから一挙に二百ドルまで下り(略)なんともひどい没落ぶりだった。

 ベッシーは"ブルースの女帝”とうたわれ、多くの人も彼女のことを最高のブルース歌手と信じている。(略)

 彼女のブレーンであり、友人であり、そしてプロデューサーでもあったジョン・ハモンドは、彼女についてこう語った。「ベッシーこそ不世出の歌手だった。彼女が観衆を一人残さず泣かしてしまうのをこの目で見たことがある」

(略)

 何と偉大な才能だったことだろう!彼女はそれまでのブルース歌手の誰よりも、声量豊かに歌うことができた。エレクトリック・サウンド装置が出たばかりの頃、彼女はマイクなしで大ホールのすみずみまで鳴り響かせるほどの声量を持っていた。父はいう。「彼女は自分の声に感情移入することができた。そんなことができたのは、あとにもさきにも彼女だけだった」

(略)

 ベッシー・スミスが一九二三年にはじめてレコーディングした〈ダウン・ハーテッド・ブルース〉というレコードの売上げは、なんと八十万枚を突破し、コロンビア・レコード会社にとって空前の大ヒットとなった。それ以前から彼女は年間二万ドルをコロンビアから貰っていた。そのうえ、週千ドルをTOBAから受けとっていた。

(略)

ベッシーはかなり以前からアルコール中毒だったが、例の大恐慌がそれに輪をかけ、それが一九三七年の自動車事故で悲劇的な死を招く原因となったのであろう。

 ラファイエット劇場で歌っていたベッシーのことを私はよく覚えている。当時、私はまだ六才だったので彼女がとても大きな女性にみえたものだ。髪の毛をうしろできっちりと束ね、目は重いまぶたで半分ほど閉じられ、その表情は、歌っている歌に合わせてナイーブに変化する。あるときはいたずらっぽく、またあるときはいくぶん陽気に、そして突如として私が見たこともないような、とても悲しげな表情に変るのだった。彼女はステージの中央にしっかりと立って、その顔と首だけが、あざやかな白いスポットライトの中で浮き彫りにされるのだ。ロマンティックな恋の歓びや、失恋のメランコリーは、子供の私にはとうてい理解できなかったが、それでも彼女の魂をゆすぶるような表現力によって、私のみぞおちのあたりが、何かこう、きゅっとなったのをいまでも覚えている。

レッドベリー

 沈んでいきつつあったブルースに橋を架けたのは、正確にはブルース歌手ではなく"ワーク・ソング"の元祖として有名だった男である。"レッドベリー"の名で知られたフーディ・レッドベターがラファイエット劇場に姿を見せたとき、ハーレムの住民たちはショックをうけた。有罪の判決をうけた殺人犯レッドベリーは、自分が作曲し歌った歌によって世論を味方につけ、ついに一九三四年、ルイジアナ州知事から赦免を獲得したのだ。

 父は彼のことを次のように語る。「多分、彼が人殺しだということを知っていたからだと思うが、私はいつもあの男が恐かった。見るからに恐かった。彼が大男だったからでない。それどころか彼は中肉中背だった。だがなにか得体の知れない不吉な影が彼のまわりにただよっていたのだ。それでもわれわれは彼を出演させたし、私はいまでも彼がラファイエット劇場に登場したときのことをはっきりと覚えている。われわれは州知事室のセットをつくり、レッドベリーを囚人服で登場させた。知事は囚人の歌に感動し、彼を赦免するのだ(略)彼が歌うのをはじめて聴いたときのことは、決して忘れられない。(略)彼は泣き叫んだ……なんともすさまじいものだった」

カウント・ベイシー

 父とレオ・ブレッチャーがアポロを手に入れ、現在のアポロに作りあげた年、一九三五年までにはジャズは原子反応にでもたとえられるような状態にあった。まるで高速度で動く粒子のように、ファッツ・ウォーラーカウント・ベイシー、ジミー・ラッシング、ライオネル・ハンプトンなど無数のすばらしい新人たちが、ポール・ホワイトマンルイ・アームストロングなどの古くからある原子核とさかんにぶつかり合ったのだ。その結果は、すさまじい光と熱と核爆発が起った。灰が落ちつくとそこには新しいリズム、新しいハーモニー、さらには新しい楽器までもたずさえた新しい超一流のオーケストラが出現していたのである。

(略)

やはり一流のオーケストラのリーダーだったフレッチャー・ヘンダーソンはジョン・ハモンドにこう語った。「おれのバンドをぶっつぶして、そのかわりにベイシーのバンドをそっくりそのまま雇いたいと思ってるんだ」

 カウント・ベイシーサウンドにもひとつ問題があった。それはあまりにも時代を先取りしていたことだ。一九三〇年代の聴衆は、ジャズとともに、相変らずラグタイムやセンチメンタルなものを要求していたのだ。

楽譜を読めなくても

 私がいまもって不思議に思っている一つの事実は、当時のバンド・リーダーの多くが楽譜を読めなかったということだ。もっとも何人かは独学で読めるようになっていた。ルシアス・ラッキー・ミリンダー、タイニー・ブラッドショーそしてキャブ・キャロウェイたちがその仲間であり、あとにはディジー・ガレスピーがいた。

 ディズは彼がキャブ・キャロウェイに雇われ、はじめてのリハーサルをやったときのことをこう話してくれた。「おれにはどの頁にも黒い虫が運動会をやっているとしか思えなかった。だがおれはシャープも、フラットもちゃんと吹いたし、休止符だって正確だった」

 ラッキー・ミリンダーは、譜面上の半音も知らなかったが、それが彼のバンドをハーレム一の人気バンドにすることのさまたげにはまるでならなかった。しかも実に気持のいいリハーサルをやってくれるのである。ラッキーは生れながらの音楽の天才だった。「さあ、ハ調でやろう」と彼がメンバーに言うとき、それは譜面を見ているのではなく、頭の中で覚えているフレーズで言っているのだ。

(略)

アポロに出演した有名な歌手、ダンサー、演奏家たちの多くもまた楽譜が読めなかった。ピアニストのエロール・ガーナーはなかでも傑作だった。(略)

メンバーのひとりが、なにも知らないでエロールに尋ねたことがある。(略)「ねえ、エロール、この歌はどんなキーでやるんだい?」エロールはにっこり笑ってピアノのそばへ行き、コードをたたいた。「これだ」こんなハンデがあるにもかかわらず彼は〈ミスティ〉のような名曲をたくさん作っている。そんな才能があるのなら、楽譜なんぞ読めなくともかまわないのである。

ビ・バップ

チャーリー・パーカー――友人は彼を"ヤード・バード"(俗語で囚人の意)と呼び、のちには単に"バード"と呼んだ(略)

彼は演奏するたびに、まるで種子をまくようにして、陶酔へ誘う音楽の真髄を伝えた。彼のまいた種子からは、何千という芽があらゆる方向に伸び、一九五〇年代には彼の弟子たちが輩出することになった。(略)

〝バード"は三十四才にして悲劇的な最期をとげたが、彼の影響力は今日もなお及んでいる。

 "キャノンボール"アダレイと私は、ある日昼食をともにしたが、話が最近のジャズの歴史に及んだとき、彼は私にこう言った。「チャーリー・パーカーという天才が亡くなって、ジョン・コルトーンという異才が現われるまで、サックス界には目新しい出来事は全然といっていいほどなかったね」

(略)

 時を経ずしてダウンタウンのミュージシャンたちも大革新の動きに加わったが、彼らの運動はまったく異なるものだった。ジャズ創世期における"生粋"のミュージシャン、いわば"音楽を肌で感じる"ような、"生れついての"ミュージシャンは、バラエティに富んだ大衆芸能のなかで育てられ、ささえられ、そして遂には大衆芸能に吸収され、そのアリバイを喪失しようとしていた。だが、この革新派の連中は、ニューヨークのジュリアード音楽院のような由緒ある養成機関の門を一度はくぐっていた。彼らの信奉の対象はイゴール・ストラヴィンスキー、サージ・プロコフィエフ、ウォルター・ピストンであって、"ジェリー・ロール"モートンビックス・バイダーベックシドニー・ベシェではなかった。(略)

 黒人、白人を問わず、そうしたミュージシャンたちは、自分たちの崇拝者が用いた無調で、フリー・リズムの音楽の上に、伝統に根ざした形式、すなわちジャズ、ブルース、そしてのちにはカントリー=ウエスタンまでをも溶けこませていた。この新しいサウンドは、"ビ・バップ"と呼ばれた。名づけたのは、チャーリー・クリスチャンだという説もある。

 "ビ・バップ"は、ブロードウェイにできた真新しいナイトクラブ"バップ・シティ"から響いてきたり、ダウンタウンの薄汚れたビストロやグリニッチ・ヴィレッジのジャズ・クラブから聞えたりしているうちに、ついに定着する場所を得た。そこはニューヨークのミッドタウンにあって、流行に敏感な"バードランド"であった。

(略)

 一九五〇年代にさしかかるころには、ビッグ・バンドの演奏は衰退し、かわって小編成のコンボが親しまれるようになった。とはいえビッグ・バンドがことごとく消えてしまったわけではない。十五人から二十人で編成するデューク・エリントン楽団やカウント・ベイシー楽団は微動だにせず、依然として人気を保っていた。またアポロ劇場では、五〇年代の初期から半ばにかけても、金管二十人編成というライオネル・ハンプトンと彼の楽団の強力な演奏につめかける客足は衰えをみせなかった。

 新興勢力であるビバップ派にしても、時には普段よりもメンバーをふやす必要が生じた。クールで、クラブ向きのバードランド・サウンドは、アポロ劇場では音がかき消されてしまい、三階席まで届かなかったからである。

 ディジーガレスピーがアポロ劇場で最初の成功を収めたときも、十五人編成のバンドであった。オープニング・ナンバーとして陽気な曲をいくつか並べて観衆を虜にした彼は、得意中の得意とする曲に移るころには、バンドをも完全に融合させてしまった。また、かつてチャーリー・パーカーがアポロ劇場に出演したおり、十五人編成の仲間に、さらに十二人の弦楽器奏者を加えたことも語り草になっている。この時の即興演奏は、私が今まで耳にしたものの中でも、迫力と味わいの点で屈指のものだった。

 スイング全盛時に見られた人びとの熱狂的な騒ぎに比較すると、バップの方は一沫の寂しさを隠せない。けれども、バップ・ミュージシャンたちが意図していたものは、ことごとく熱心に受け継がれていくことになった。この意味でバップもやはりビッグ・バンド時代の立役者といえた。またバップには、独特のスタイルと独自の神秘的な力が備わっていた。山羊ひげ、ベレー帽、黒ぶち眼鏡というディジー・ガレスピーの扮装や寡黙のうちにユーモアを秘めた彼の態度は、それを具象化したものだった。自分のショーで司会を勤めながら、彼がこんなことを言っている場面が想い出さいでたちれる。

「皆さん、次にお聴かせするものは、御紹介するまでもないと思います」

場内に沈黙が続く。ディジーも山羊ひげをしごいて考えこむ。やがて一言「とにかくやってみましょう」

 バップの神秘性について云々するには、もう一度、美男のビリー・エクスタインにふれないわけにはいかない。ヴィブラートをふんだんに使い、新しいスタイルをわかりやすく表現したことによって彼は芸能界の黒人としてはじめて、黒人、白人双方のティーンたちのアイドルとなった。

 彼がアポロ劇場の舞台に立つと、若者たちは黄色い声援をあげ、まるでトランポリンの上で跳ねるように、座席で飛び上がった。

エラ・フィッツジェラルドサラ・ヴォーン

 幾年かの間エラの編曲者を勤め、傑作も残したサイ・オリヴァーとの会話を私は憶えている。「あなたの編曲なら、彼女も文句は言わないでしょう」と私はきいた。

「いや、とんでもない」と彼は憤然として言った。「エラは、自分の意に沿うものを正確に心得ているし、他人があれこれと口を出すことはできないのです。もし私のやった編曲が、彼女の気に入らなければ、あとは彼女が自分で完璧なものに仕上げてしまいますよ!」さらに言葉を添えるなら、私が知る限りでもエラはこの上なく洗練された人だったと言えば十分であろう。ジョン・ハモンドも、こう評している。「ショー・ビジネスの世界の中で、彼女は優等生のひとりなのです」

(略)

サラ・ヴォーンは、永きにわたって"ミュージシャンの鑑"と言われてきた(略)

[絶対音感]がかえって禍いとなる場合もあった。仲間が間違った音を出してしまったり、楽器のチューニングが不正確であったりして、苦虫をかみつぶしたような表情をしていたミュージシャンを、私はこの眼で見たこともあった。

 サラ・ヴォーン(略)も、そういった宿命を背負いこんでいた。(略)彼女があるオープニング・ショーのあとで私のもとへやって来て、不平を言っていたのを憶えている。「ミスター・シフマン、ここのピアノの調律はおかしいわ。何とかして下さい」

 私はこう弁解する。「だけどサラ、あれはショーのはじまる前に調律したばかりだよ」

「それじゃ、その調律師が手を抜いたんだわ。まるで中途半端な音しか出ないんだから」

 二回目のショーまでにピアノを調律し直しておいたのだが、彼女が舞台に立って、こう口ずさむのを耳にした私は、すっかりあわててしまった。"調子はずれのこのピアノ、あたしの歌を狂わせる”

「あなたが正しい調律をして下さらないのなら、私に道具をかして下さい。自分でやりますから」とそのショーが終ってからサッシーは言った。もちろん、そんなことはさせられなかったので、とにかく新しいピアノを手に入れ、各ショーの前に必ず点検を怠らなかった。だが、調律がすむと、きまってサラは道具を持参して、ピアノに向かい、調律師の仕事ぶりを確認してみるのだった。

次回に続く。

ギャングスター・ラップの歴史 スクーリー・Dからケンドリック・ラマーまで

序文 イグジビット 2018年4月

(略)俺がギャングスター・ラップに共感をもったのは、俺の魂に語りかけてきたからだ。辛い目に遭ったり、目撃したこと、興味を持ったことに関して、俺が引き寄せられていたこの音楽にはまるで答えがあるかのようだった。

 いま振り返ってみれば、子どもの俺には何もかもがマジで酷い状況だったから、ギャングスター・ラップは俺の人生のサウンドトラックだったんだ。(略)[信心深い両親]はラップ・ミュージックが大嫌いだったから(略)俺は極秘に聴いていたんだ。この音楽は俺の攻撃性や怒りのはけ口で、友達と一緒に新しい音楽を発見するようになっていった。俺にとってドープなことだったんだ。

 アイス・キューブがN.W.Aと決別したときに、俺は本気で彼に夢中だった。彼のリリックや表現方法に惹きつけられた。度胆を抜かれたよ。1990年に彼のファーストアルバム『AmeriKKKa's Most Wanted』が出たとき、インターネットもなければMTVにもアクセスできなかったから、一部始終はおろか、なんでアイス・キューブがN.W.Aと分かれたか知らなかった。彼はソロ・レコードを出したんだと思ってた。でも実際にそのレコードを聴いてみると、それがニガネットだったんだよ。探していた情報がそこで手に入ったんだ。あのアルバムはクレイジーだと思ったよ。クッソ素晴らしいと思ったね。音作りが超ドープで、擦り切れるまで聴きまくった。俺の大好きな制作チーム、ザ・ボム・スクワッドが関わっていた。彼らはパブリック・エナミーと共に難関を突破してきたんだ。もう、「すげぇ」って感じだったね。キューブの表現、声の抑揚。そのすべてに畏敬の念を抱いていたよ。

 キューブはストーリーテラーだった。アルバムでの彼はキマってた。ほかの人たちもストーリーを語ったけど、キューブとは大違いだった。そのストーリーを思い描くことができるんだ。彼が言っていることを思い浮かべるのに、ビデオなんて観る必要はなかった。彼は聴き手の心に浮かぶような絵を描いていたんだ。共感できる内容だったし、サウス・セントラルに興味はあるけど、共感をもてない人たちも、ギリギリまで近づくことができたんだ。

(略)

 子どもの頃にギャングスターラップを聴いていたときは、自分がアーティストになりたいなんて思いもしなかった。いやむしろ、実を言うと、あの頃の俺は建築家になりたかったんだ。建築製図、コンピューターを使った製図をやっていた。俺はそれが得意だったのさ。橋やボートとかを作りたかったんだ。とは言っても、俺は刑務所に行ったから叶わなかったけどな。

 それからカリフォルニアに行って(俺は17か18だった)、ジェームス・ブロードウェイに会ったとき、彼の周りには(略)マッド・キャップ、キング・ティー、ザ・アルカホリックスといったグループがいた。(略)どんなに長くなっても、俺はただラップした。構造はなかった。小節はなかった。ただラップしていたんだ。

(略)

ギャングスター・ラップ以前

 レーガン大統領は学校のカリキュラムを骨抜きにし、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアにはまだ祝日がなかった(略)

クリップスとブラッズのギャングがサウス・セントラルを支配していた。CDプレーヤーの販売が始まり、ディスコは廃れかけ、ギャングスター・ラップが生まれようとしていた。スヌープ・ドッグは11歳、アイス・キューブは13歳で、彼らはそれぞれロングビーチとサウス・セントラルに住んでいた。17歳のドクター・ドレーは、グランドマスター・フラッシュの"The Adventures of Grandmaster Flash on the Wheels of Steel"を聴いた後に、最初のターンテーブルのセットを手に入れた。24歳のアイス・Tは、犯罪に明けくれる暮らしから、ラジオトロンの名でも知られるLA唯一のラップ・クラブ、ラジオ・クラブにラッパーとして出演するようになっていた

 この時点では、ラップのレコードのほとんどが、自慢屋で気立ての良いライムに溢れたパーティソングだった。1979年に、このジャンルで最初の大ヒットとなったシュガーヒル・ギャングの"Rapper's Delight"で、ラップは初めて商業的に大きな一歩を踏み出した。(略)

ラッパーのワンダーマイク、マスター・ジー、ビッグ・バンク・ハンクは、ファッションの好みや女性と近づきたいという欲望、友達の家で標準以下の食品を食べることの居心地の悪さについて、シンプルで陽気なリリックをデリヴァリーした。ラップが流行っていて、それ自体が画期的だったときでさえ、シュガーヒル・ギャングや、カーティス・ブロウやファンキー・フォー・プラス・ワンのような同時期の人たちは、時に機知に富んだ辛らつな言葉をライムしていたが、それらはせいぜい会話形式で単純なものに過ぎなかった。

(略)

 1982年になると、先駆的なブロンクスのヒップホップDJ、グランドマスター・フラッシュと彼のラップ・クルー、ザ・フューリアス・ファイヴも共にやってきた。グループの革新的な曲"The Message"と共に、ラッパーのメリー・メルは、多くのラップ・コミュニティの仲間が故郷と呼んだ荒廃した地元を描写した。「そこらじゅうに壊れたガラス(略)人は階段で小便してる、気にしちゃいないのさ」

 "The Message"は、アメリカの多くの黒人が経験していた現実を深く伝えた暗く憂鬱な曲であり、そのときのラッパーのほとんどがリリースしていた陽気な音楽とは、まったく対照的だった。

 多くのラップ・ファンにとって、レコードで冒涜的な言葉を聴いたのは、これが初めてだった。"The Message"の混沌とした結末で(略)ある警察官(または警察官になりすました誰か)が「クソ車ん中に入りやがれ」とうっかり口走ったとき(略)未来のギャングスター・ラッパー、若かりし頃のジェイヨ・フェロニーは圧倒された。それらのリリックは、今日のラッパーが使う言葉に比べれば非常におとなしいが、1982年には衝撃的だった。

(略)

ジェイヨ・フェロニーやラップを買うオーディエンスの心に、新しく強烈なやり方で響いた。アメリカの黒人の激しい怒り、カオス、どうすることもできない感情が、初めてラップ・ソングの中で披露されたのだ。

スクーリー・D

 その後1984年に、ギャングスター・ラップの祖先、スクーリー・Dが状況を覆してしまった。(略)この先駆的なフィラデルフィアのラッパーは、"Gangster Boogie"というレコードを作り、脅すように恐怖を植えつける人物を演じ、メリー・メルが説明した劣悪な環境のゲットーに住む人たちに対する犯罪を聴き手の記憶にとどめた。スクーリー・Dはその曲をレコードにプレスして、当時全米で最も影響力のあるラップラジオ番組のひとつだった、フィラデルフィアのパワー99で放送されていた「Street Beat」という番組のラジオDJ、レディ・Bのところにもち込んだ。

 レディ・Bはスクーリー・Dに率直に言った。彼と契約したり、彼のレコードを流通したがるレコード会社はいない、と。その理由とは?彼はクサと銃についてラップしていたからだ。とはいえ、スクーリー・Dは自身の音楽が不快だとは思っていなかった。

 「俺はアーティスト然としていただけだ(略)俺は土曜日の夜にラジオでコメディの伝説、リチャード・プライヤー(略)を聴いて育ったんだ。土曜日の深夜に、DJが彼のアルバム『That Nigger's Crazy』をかけていた。俺たちは特になんとも思わなかった。アートだったのさ。俺たちにとっちゃ、それはアートだったんだ。あんたたち部外者にとっちゃ、『こういう声は止めなければならない』って感じだった。でも仲間たちは聴いてたのさ。(略)

今なら言ってやるよ、『お前らがどう思おうと知ったこっちゃねぇ』ってな。(略)俺は仲間たちのためにレコードを作っていたんだ、俺の生活を向上させるためにな。(略)俺は自分のやり方で、俺のストーリーを語りたかった。だからこそ俺は、自分のアートを絶対に変えたくなかったのさ」

 ラジオでは絶対にかけてもらえない、レコード契約を結べないかもしれないという、ハッとするような現実を直視して、スクーリー・Dは自分のレコードをプレス制作するために資金を貯め始めた。彼はファンク・オー・マートやサウンド・オブ・マーケットのようなフィリーの有力な家族経営のレコード屋のバイヤーと繋がった。(略)

 1985年にリリースされた"P.S.K. What Does It Mean?"は、ギャングスター・ラップ・ソングとみなされた初めての曲(略)

その雷のような自主制作ビートで音楽界中に衝撃を与えた。ほかの多くのラッパーたちとは異なり、スクーリー・Dは音楽を自分で制作、作曲した。彼はジャズやファンクを聴いて育ち、非常に長いギターソロやカ強いホーン・セクションのある曲を高く評価していた。オハイオ・プレイヤーズやジェームス・ブラウン、シカゴ、ビートルズの曲が彼のお気に入りだった。

(略)

 「この曲の目的は単にラップだけじゃなかった(略)音楽が目的でもあったんだ。俺が音楽を書いて、その音楽が俺をリプレゼントするんだから、あの曲を書くのには相当な時間を費やしたよ」

 「8街区分の大きさの教会の会堂に響き渡るようなサウンドだった」とクエストラヴは"P.S.K. What Does It Mean?"について述べた。「あれほどのエコーをさ。それぞれのフレーズの終わりのトップの部分にドラムをオフビートで入れ続けるやり方には、さらにうっとりしたよ」

 「彼らが使ったドラムは画期的だったよ」と(略)テック・ナインは言った。「あんな曲を聴いたのは初めてだったんだ」

 "P.S.K. What Does It Mean?"の影響は何年も響き渡った。それはラップの歴史上、最もサンプリングされ、参考にされた曲のひとつとなった。音質的には薄っぺらなこの曲は、ゴールドやプラチナを取ることもなければ、それを着服したアーティストに頻繁に引き合いに出されることもないが、何世代ものアーティストたちに影響を与えた、ジャンルを変えた芸術作品なのだ。

(略)

スクーリー・Dが属していたギャング、パーク・サイド・キラーズの頭文字、P.S.K.(略)スクーリー・Dは、曲の中でギャングであることについてラップしたことはなかったが、ギャングのメンバーであることをリプレゼントして誇示しているという評判がラップ界に広まり、この曲にいっそうの神秘や好奇心、脅威をもたらした。

 「俺は『じゃあ、これはちょっとしたギャングのアンセムみたいなもんだな』と思ったね」とアイス・T

(略)

N.W.A『Straight Outta Compton』

 「80年代に育った子どもたちには、父親的存在がいたことがなかったんだ」とケンドック・ラマーは言った。「俺の地元のホームボーイのうち、人生で親父がいたのは俺だけだった。彼は完璧じゃなかった。まだストリートにいたけど、俺が頭をぶつけしたときは、いつもそこにいてすぐに俺を引き戻してくれた。ほかのキッズたちにはそれがなかったから、ストリートに出て行って見つける父親代わりは、ブロックにいるビッグホーミーたちだったのさ」

 こうした"父親のいない"子どもたちは多くの場合、スポーツやギャング、犯罪を通してストリートに頼るか、または新たに出現してくれたヒップホップ・カルチャー、ラップ・ミュージックのおかげで家族を見つけた。

(略)

ギャングスター・ラップは音楽業界で勢いを増していたが、過半数の作品をリリースしていたのも、ロサンゼルス、シカゴ、ヒューストンなどの大都市圏で、アルバムやコンサートのチケットを最も多く売り上げていたのもエンパイア・ステートのアーティストだったため、ラップは依然ニューヨークが中心のムーブメントのままだった。アイスTはこの傾向に逆らい、彼の2枚目のゴールドアルバム『Power』を1988年にリリースした。

 同じ年に、カリフォルニア州オークランドのラッパー、トゥー・ショートはプラチナアルバム『Life Is... Too Short』で、ストリートのピンプと売春の世界を露骨な性的表現で考察し、カリフォルニア州コンプトンのラッパー、キング・ティーはBボーイの感覚とギャングスターの精神を『Act a Fool』で融合

(略)

[しかし音楽史の転換点となったのは]

N.W.A『Straight Outta Compton』

(略)

 ちょうどワールド・クラス・レッキン・クルーが創作上の意見の相違をぶつけていたときに、80年代半ばに9万人未満が住んでいたコンプトンのちっぽけな音楽シーンでドクター・ドレーとイージー・Eは友達になった。グループのリーダー、アロンゾ・ウィリアムズは(略)エレクトロダンス・シーンに忠実であり続けたかった。ウィリアムズはまた、一連の軽犯罪からドクター・ドレーを保釈するのに嫌気がさしていたため、次にドクター・ドレーが獄中から誰かに出してもらう必要が生じたとき、彼はイージー・Eに電話をかけた。常にビジネスマンであったイージー・Eは(略)ドレーに何曲か制作する助けになってもらうことで、彼の気前の良さに報いてほしいと思っていた。

 ウィリアムズが仕事関係において、そして個人的にもドクター・ドレーを追い払ったのと時を同じくして、ストリートでラップの人気が急上昇した。N.W.Aのメンバーと周囲のアクトが共作をし始めると、イージー・Eは(略)音楽業界の熟練マネージャー兼プロモーターのジェリー・ヘラーに会ってほしいと、ウィリアムズにせがみためた。イージー・Eは、自分に欠けていた音楽ビジネスの知識を提供してくれたヘラーと会わせるために、ウィリアムズに750ドル支払った。

映画『スカーフェイス

 『スカーフェイス』は、ほかのどの映画よりもラップに影響を与えてきたかもしれない。アル・パチーノ主演の1983年の同作は、下級のドラッグの売人から親玉の地位へ出世するキューバからの移民トニー・モンタナの軌跡をたどる。モンタナの権力の座への就任、倫理感、世知にたけた印象的な台詞はラッパーたちの心に訴え、彼らは主人公の希望、夢、野心、苦闘に自分を重ね合わせることができた。ザ・ゲトー・ボーイズやスカーフェイスなどのアルバムは、『スカーフェイス』のテーマ曲や映画音楽をふんだんに使い、いくつものモンタナのキャッチフレーズ(「これがご挨拶だ[(略)この台詞と共にモンタナが敵に向かってロケットランチャーを撃ち込む]」や「俺にあるのはタマと約束だけだ。絶対に破りやしないぜ」)を、曲やコーラスに取り入れて有名にした。

ドクター・ドレー『The Chronic』

デス・ロウ・レコーズを相手取って申し立てていた訴訟での合意の一端として、イージー・Eはドクター・ドレーの来たるべきレコード販売から支払いを受けることになっており、その事実はドクター・ドレーの離脱によるイージー・Eの痛手をほんの少し和らげた。「俺はドレーと独占的なプロデューサー、独占的なアーティストとして契約を交わしたんだ(略)だからドレーがインタースコープと契約を交わそうとしたとき、俺は次の6年間その中に含まれていたんだ」

 イージー・Eのビジネス感覚が再び発揮され、彼はドクター・ドレーのデビューアルバム『The Chronic』の売上の一部として、たっぷり報酬を受け取った。1992年12月15日にリリースされた『The Chronic』は、1年で300万枚以上も売り上げ、芸術上の画期的な事件、かつ商業面では圧倒的な破壊力となった。それはまた、ラップ全体の、特にギャングスター・ラップのサウンドと方向性を変えてしまった。

 『The Chronic』より前のギャングスター・ラップ(略)は、攻撃性、騒々しさ、怒りの組み合わせが典型的だった。

 『The Chronic』は、ファンクにインスピレーションを受けた音作りでラップのサウンドを変えた。EPMD、イージー・E、N.W.A、アイス・キューブ、MCブリードなども(略)ファンク音楽を使ったが、彼らは力強い拍手の音や、攻撃的なシンセサイザー、ヘヴィーで泥臭いベースを音のパレットの基盤として使用した。一方ドクター・ドレーは(略)耳障りな感じを抑え、平均的消費者がより聴きやすいものに入れ替えた。ゴツゴツしたそのほかのギャングスター・ラップとは異なり、『The Chronic』の重要な何曲かはスムーズで、ほとんど誘いかけているかのようだった。

 同様に、ドクター・ドレーのしわがれ声、N.W.Aの作品の多くで彼が自信たっぷりに見せつけた威嚇的なデリヴァリーを、たくましさと力強さはそのままに、それほど攻撃的ではないデリヴァリーに交換した。『The Chronic』の15曲の半分以上に参加したスヌープ・ドギー・ドッグは、"Deep Cover"で見せた不安が消えた、絹のようなスタイルでラップした。

(略)

ゲットーにおけるストリートの脅威から脱線して(略)夏のバーベキューの幸せな気分にさせる雰囲気と交換した(略)

 新しいサウンドは(略)非常に魅惑的で、すぐさま音の境界線として認識された。

(略)

[チャック・D談]

「ドレーは"'G' Thang"でジャンル全体の速度を落とした。彼はヒップホップをクラックの時代からクサの時代へともっていったんだ」

 強力なクサを意味する『The Chronic』のタイトルから、ドクター・ドレーによるリスナーへの「ジョイントを吹かせ、でもムセんなよ」という要請まで、マリファナへの言及はこのアルバムの重要な部分であった。

(略)

 ドクター・ドレーは"Let Me Ride"でもうひとつ重要な立場を取った。

(略)

ニューヨークで顕著だった、政治に関心のある社会意識の高い 「コンシャス」 ラップに対抗した。

 

 メダリオンドレッドロックも黒い拳もなし/ギャングスタの睨みがあれば十分/ギャングスタ・ラップと一緒にな/そのギャングスタ・シットが大金を稼ぐのさ

 

 その時代のコンシャスラッパーは、アフリカのイメージを特徴としたメダリオンを付けていた。先祖のルーツへの賛同としてドレッドロックを誇示した者もいれば、1968年のオリンピックで黒人スポーツ選手のトミー・スミスとジョン・カルロスが行ったブラックパワーの称賛に敬意を表して、ビデオや写真で拳を掲げた者もいた。 "Let Me Ride" でドクター・ドレーは、 社会的、政治的課題を推進するのではなく、ギャングスタリズムを支持していることをリスナーに知らしめた。(略)

ドクター・ドレーの主眼は、クサや女性、競争相手を打ち負かすことだった。 

ブラッズとクリップス

1988年には映画『カラーズ 天使の消えた街』が、70年代から80年代にかけてロサンゼルスの黒人の都市生活を支配していた地元のふたつのギャング集団、ブラッズとクリップスの出現を紹介した。最初に出現したクリップスは、青いバンダナをつけていた初期メンバーを称える意味も込めて、青を身につけて70年代に名を上げた。数年後に生まれたブラッズは、メンバーがクリップスから身を守る手段として結成された。ブラッズが選んだ象徴的な色は赤だった。

(略)

公の場では、いまだにギャング自身とアーティストのあいだには隔たりがあった。アイス・T、キング・ティー、N.W.Aのメンバー(略)はクリップスの地元の出身だったが、ギャングの特徴となる青の服やバンダナを身につけている者は誰もいなかった。(略)アルバムカバーやビデオ、宣伝用写真で黒を身につけていた。

 実際に、ロサンゼルスのストリートラッパーたちの第一波は、80年代から90年代初期にかけて、外見的には特定のギャングとの関わりを音楽にもち込まないようにしており、大部分はイメージ的に中立の立場に留まった。それは身の安全とビジネスの両方に根ざした意識的な決断だった。

 「もし青を着たら、クリップスだけを惹きつけることになる」と(略)MCエイトは言った。「それじゃブラッズはお前の音楽を買いやしない。年がら年中赤を着てりゃ、クリップスはお前の音楽を買いやしない。(略)黒を着るのは中立的だから、お前がいるところには、ブラッズもクリップスもいられるし、ハスラーズもいられて、彼らにとってお前はどちら側にもついていないことになる」

 「N.W.Aに関しては、イージー・Eがクリップだったことは誰もが知っていた(略)MCレンがクリップだったこともみんなが知っていた。人はドクター・ドレーの出身地を知っていたし、アイス・キューブが出身地に住んでたことを知っていた。黒を着ることで俺たちは中立でいられたんだ。だから俺たちは全域がブラッドの地元でショウをやらきゃいけないときは、マジで大勢のヤツの癇に障らないようにしていたのさ。(略)

俺は絶対にレコードで『俺はクリップだ』って言ったり、ビデオに出て青いバンダナをつけたりはしない。青い帽子とかは被ったかもしれないが、中立的でいようとした。ツアーに行くときはしょっちゅう、黒のTシャツに黒のジーンズ、黒の靴、黒のレイダースの帽子になる。黒、黒、黒。グレー、グレー、グレーだ。中立的でいようとするもんなんだ、どこに行くことになるか分からないからな。(略)」

アバヴ・ザ・ロウ

(略)ルースレス・レコーズの最盛期にイージー・Eは(略)アバヴ・ザ・ロウとの契約を交わした。(略)

作品の多くに政治的な暗示を加え、正真正銘のギャングスターになるより、ハスラー、プレイヤー、ピンプになることに重点を置いた。(略)

多くの同輩たちに比べて、より慎重で安定したデリヴァリーを選んだ。

(略)

「 彼らはまるで聴き手に話しかけているかのようなレベルまで、すっかり速度を落としたんだ」とヤックマウスは言った。「車の中で聴いていると、まるで会話をしているかのようだった。音楽に体を揺らしながら、『このバカ野郎、俺に話しかけてんのか?』ってくらいにな。そんな風に感じたし、胸をグサッと突いたんだよ。理解できたし、コイツが何を言ってるか理解するのに1000回聴かなくちゃいけないってほど巧妙ってわけじゃない。単刀直入だったんだ」

 しかしアバヴ・ザ・ロウが最も絶大な影響を与えたのは、音質面だった。

(略)

 アバヴ・ザ・ロウが1990年に現れたとき、プロデューサーのコールド187umは、クインシー・ジョーンズアイザック・ヘイズのように、その時点ではラップにとって型破りだった音楽ネタからサンプルを取り入れた。翌年コールド187umは、次の数年間のギャングスターラップを形作ることになるサウンドを開発した。(略)

[91年EP『Vocally Pimpin'』]

9曲入りのこのプロジェクトでは(略)"One Nation Under a Groove"から拝借したシングル"4 the Funk of It"が中心となった。(略)

 コールド187umは(略)セカンド・アルバム『Black Mafia Life』で、ファンクの貯蔵庫をより深く掘り下げた。

(略)

ラップでは、革新的なものを創り出したり、インスピレーションを与えた人よりも、商業的に人気を上げるものを作った人の方が崇拝されるため、ドクター・ドレーとスヌープ・ドッグの人気は、アバヴ・ザ・ロウのもたらした革新性の影を薄くしてしまったかもしれない。

 「彼らがGファンクの創始者だ」とヤックマウスはアバヴ・ザ・ロウについて言った。「(略)アバヴ・ザ・ロウが出てきてスピードを落としたんだ。グルーヴィーだったね。ベイエリア出身の俺たちにしてみれば、大勢のピンプに大勢のピンプに大勢のハスラーがいるから、スピードを落とした、モブとかグルーヴィーなヤツが好きで、だからアバヴ・ザ・ロウが好きだったのさ。ファンキーだったね」

 アバヴ・ザ・ロウがGファンクを創った後、それをドクター・ドレーが世に広め、スヌープ・ドッグ命名した。

マスター・Pとノーリミット・レコーズ

1995年2月、当時プライオリティ・レコーズの営業担当だったデイヴ・ウェイナーは、ミュージック・ピープルズ・ワンストップを訪れるために、 カリフォルニア州オークランドへ出張に出掛けた。当時、ワンストップ[訳注:1ヶ所でなんでも買えるサービス]として知られていたミュージック・ピープルズは、レコード会社からアルバムとシングルをレコード、CD、カセットで買い付け(略)各地のインデペンデントのレコード屋に売っていた。

 1991年にプライオリティ・レコーズの郵便仕分け室の仕事から始めて、 販売部で地道に働いていたウェイナーは、プライオリティのプロジェクト、具体的に言うとN.W.Aやアイス・キューブなどの主力商品をミュージック・ピープルズに売るための出張に出掛けていた。

(略)

ミュージック・ピープルズの駐車場で(略)ある新進アーティストが彼に近づいてきた。その人物はパーシー・ロバート・ミラー、 別名マスター・Pだった。 ウェイナーは(略)マスターPのことも(略)駆け出しのノーリミット・レコーズのこともよく知っていた。

 マスター・Pは彼のプロジェクト『99 Ways to Die』 のコピーをウェイナーに渡し、翌週のビルボードチャートでどこにチャートインするかを伝えた。Pの自信とビジネスの知識に関心したウェイナーは、『99 Ways to Die』 のコピーと一緒にそのラッパー/ビジネスマンの情報を持ち帰った。

 翌週、マスター・P の 『99 Ways to Die』はPの予測よりひとつ低い順位でデビューした。「彼がなんの援助もなくそれを成し遂げた事実にぶっ飛んだね」(略)

ウェイナーにあるアイディアが浮かんだ。 そのアイディアはひとたび実行されると、 音楽業界に大改革をもたらし、 プライオリティ・レコーズはラップ業界の大物、 N.W.Aやアイス・キューブで稼いだよりもさらに大金をもたらした。

 ウェイナーのアイディアは、ノーリミット・レコーズを手始めに、CEMA (キャピタル・レコーズ、EMIレコーズ、マンハッタン・レコーズ、エンジェル・レコーズ)と独自の配給契約を結ぶことによって、ほかのレコード会社の作品をプライオリティ・レコーズから配給させるというものだった。 そのときプライオリティ・レコーズは、ラップ・ミュージックで全米唯一の自己所有のインデペンデント配給業者だった。 プライオリティ・レコーズを始める前は、オーナーのブライアン・ターナーとマーク・セラミはふたりともコンピレーションのレーベル、 K-テルで働いていた。 K-テルにいるあいだ、ターナーはA&Rとして働き、アルバムの音楽の部分をまとめていた。 一方のセラミは販売を担当した。

 業界では、レコード会社からアルバム、シングル、またはEPを受け取った配給業者がそれを大量生産して、小売店に発送するというのが慣例だった。小売店は音楽を受け取ると、配給業者に支払いをし、次に配給業者がレーベルに支払いをしていた。

 この仕事を通して、セラミは全国のあらゆる音楽ビジネスの顧客と強固な関係を築いてきたのだが、プライオリティ・レコーズのプロジェクトをチェーン店のレコード屋やワンストップ、ほかのビジネスに直接売りたかった。結果的にセラミがその手はずを整えたことで、プライオリティ・レコーズは作品を製造して小売店に発送し、小売店はその引き換えとしてプライオリティ・レコーズに商品代金を支払ったのだった。レーベルがあらゆるレコード屋の棚スペースの大部分を牛耳っていたことから考えると、これは大きな資産であり、それはつまり、アルバムの在庫を置いておく不動産には限りがあったということでもあった。

 ビジネスの過程を中抜きすることに加え、プライオリティ・レコーズにはまた、もうひとつの明白な利点があった:その売り掛け金は、製造者/配給業者であるCEMAによって保障されていたのだ。これは、もしプライオリティ・レコーズが1作のアルバムを小売店に10万枚売れば、CEMAが小売店にもつ圧倒的な影響力により、その10万枚のアルバム全額の支払いを受け取ることができるということだった。見返りとして、CEMAは小額の配給手数料を受け取った。この関係がなかったら、プライオリティ・レコーズはおそらく、支払いを受け取るために小売店を追い回し、支払い期限からだいぶ送れて受け取るも、商品製造の割増金を支払わねばならないという、ほかの小規模レーベルのような運命に苦しんでいたことだろう。

 それゆえに、プライオリティ・レコーズは事実上、独自の全国配給業者であり、インデペンデント・レコードレーベルでもあったのだ。ほかのどのレコード会社とも異なり、プライオリティは配給ニーズに柔軟に応えることができたため、アーティストやレーベルと配給契約だけを結ぶことができるように手はずが整えられていた。

 ウェイナーが、マスター・Pのノー・リミットと手を組んで配給を任うアイディアをプライオリティ・レコーズに提案できたのは、このお膳立てがあったためだった。ターナーもセラミもラップシーンの実情を正確に把握している熱心なラップファンではなかったため、プライオリティはすでにそういう業界内部の仕組みに最適な取り決めを実施できるよう作られていた。

「プライオリティ・レコーズは、決してヒップホップ・レーベルになるように設計されていなかった」とウェイナーは言った。「彼らはコンピレーションを扱っていて、それがカリフォルニア・レーズンズに繋がって、さらにそれがN.W.Aを世に出すための資金繰りに繋がったんだ」

(略)

 セラミはウェイナーの構想を理解し、マスター・Pとノーリミット・レコーズと画期的な契約を結ぶことに同意した。マスター・Pは25万ドルを手に入れ、彼の作品の原盤権と音楽出版権を100%保持した。プライオリティ・レコーズは、独占的な製造/配給権を手に入れ、ノーリミットの商品を店に置くことを保障する引き換えに、配給手数料を取った。「そうしたチャンスの対価として、所有権の分け前を取ることなく全国的な配給契約を提供していたレコード会社は存在しなかった」と、プライオリティ・レコーズがマスター・Pのノー・リミット・レコーズと契約したときに、プライオリティが流通していたレーベルに新設された重役に就いたウェイナーは言った。「彼は前払い金を手に入れ、俺たちは出版も原盤も所有せず配給手数料だけを取るっていうのは、今までに類を見ない契約だった。単純だろ」

(略)

 今や全国に手が届くプライオリティ・レコーズと投資金が増えたおかげで、ノー・リミットは新たなファンを獲得し、雑誌やテレビ、ラジオでの露出も増え始めた。

(略)

マスター・Pはすでに西海岸と南部にファン層を抱えていた。ひとたびノー・リミット・レコーズの音楽に人気が出始めると、この地理的な恩恵は、彼がスターの座へ駆け上がる助けとなった。

(略)

 のちにノー・リミット・レコーズの慣行となったように、マスター・Pはレコード屋を彼のレーベルの作品で溢れさせた。

(略)

プライオリティ・レコーズのユニークな位置づけが、その持続的成功にとって極めて重要である理由のひとつだった。

 「(小売店の)顧客はラップ・ミュージックをどう扱っていいかよく知らなかったんだ、特にチェーン店はね」とウェイナーは言った。「だから自社の営業社員をそこに派遣して、ウエストサイド・コネクションとはなんなのか説明し、ノーリミットとはなんなのか説明し、なぜシルク・ザ・ショッカーを20万枚発送する必要があるのか説明することが、とても重要だった。俺たちが取り組んでいることを理解していない大手レーベルの営業担当を通していたら、あんな風にはならなかっただろう。ヒップホップの売り方を知っている営業マン、それがパズルの重要な一部だったんだ」

(略)

マスター・Pとノーリミットの面々が使う南部のスラングやアティテュード、大抵はけばけばしいアルバムカバー、そしてアル・イートンやK・ルーなどのサンフランシスコ・ベイエリアのプロデューサーが奏でるキーボード、ファンク、 Gファンクの組み合わせは、 ギャングスター・ラップに新たなひとひねりを加えた。(略)明らかに西海岸っぽいサウンドに南部の感覚を混ぜ合わせていた。 ゲットーで育つこと、ハッスルする[訳注:あらゆる手段を使って必死に金を稼ぐこと]こと、いかなる手段を取ろうともゲットーから抜け出そうとすることについて、暴力的で淫らな言葉に満ちた、しわがれ声のライムの(略)組み合わせには中毒性があることが証明された。

(略)

業界のベテランは彼の勢いに気づき始めた。

「まずストリートを動かすんだ」と(略)MCエイトは言った。「ストリートにお前をリスペクトさせろ。『ああ、俺はドープを売ってたぜ』ってな。だから彼はその方面のヤツらからあんなにリスペクトを得たのさ。 『俺はお前らと一緒に辺から出発したんだ』っていう姿勢でやってきたからな。でも彼はあれだけのカネを手に入れてレコードを売り始めたときに、『単にドープを売ったり、プロジェクトでヤバいハッスルをすることだけがすべてじゃない。観客を動かすことが大事なんだ』って感じで音楽野郎に変わったんだ。だから事態が移行したのさ、スマートだったよ」

 音楽帝国の基盤作りに取り組みながら、マスター・Pはまたほかの分野にも移行していた。1996年の後半に、彼は自分で資金を調達して長編映画デビュー作『I'm bout it』を撮影し始めた。マスター・Pは映画を配給するために、プライオリティ・レコーズに話をもちかけた。

 「彼が映画のコンセプトと一緒に『I'm bout it』の話をもってきたとき、俺たちは誰ひとりとしてどう判断していいか分からなかったんだ」とウェイナーは言った。

 ウェイナーはマスター・Pに、プライオリティはレコード会社だと伝えた。「いや、あんたたちは映画会社になろうとしてるんだよ」とマスター・Pに言われたことをウェイナーは思い起こした。マスター・Pはプライオリティレコーズの営業社員に、彼らからアルバムを買ったタワーレコード、ウェアハウス、ミュージックプラスの同じ担当者たちに働きかけるよう要請した。レコード屋で映画を仕入れる人たちは、アルバムを仕入れる人たちと同じではないと言われても、Pは諦めなかった。

 「彼は全然引き下がらなかった」とウェイナーは言った。「彼は『うーん、それじゃあ、あんたの音楽バイヤーに売ってくれよ』と言ったんだ。いや、それビデオだし。映画だろ。俺たちの音楽バイヤーには売れないよって。でも彼は『やらなきゃだめだ。彼らは俺が誰だか知っている。マスター・Pの価値を知っているんだ』と言ってね。それで俺たちはお互いに顔を見合わせて言ったんだ、『一理あるね。やってみようか』」

 マスター・Pの断固とした主張の結果、プライオリティ・レコーズの営業社員は彼の映画『I'm bout it』を異例な経路(略)を通して売り込んだ。その結果は並外れだった。ウェイナーによると、『I'm bout it』は50万枚以上売り上げたという。(略)

映画『グリンチ』(略)が年末までに140万本売れたということは、マスター・Pの『I'm bout it』は、その何分の一かのコストで、主要ハリウッド俳優たちが作った映画のおよそ3分の1を売り上げたことになる。

(略)

「ハリウッドを迂回して自分の映画を発売し、製作費を回収し、いくらか金を稼ぎ、次の映画を撮ることができるってことをインデペンデント映画制作者に見せたことが、この作品の功績だと思うよ」とウェイナーは言った。「それは、それまで俺たちが通過した経路では前例のないことだったんだ」

 ほかのラッパーたちはすぐにマスター・Pのビジネス手腕の重要性を理解した。「俺たちのことをあまり熱心に追ってないか、マジで何も知らない人たちに対しては、異なる手段で働きかけなくちゃならないんだ」と(略)マック・10は言った。「『I'm bout it』はマスター・Pにたくさんの扉を開いたのさ。誰かがそれを観て、出演者のひとりに大作映画の役を与えるかもしれないし、俺たちのレコードを買っていなかった人たちに、もっとレコードが売れるかもしれないんだ」

 

映画を見るたびにぼくは少年に戻って行く 武市好古

ストリップティーズとW・アレンのティー

 ティーズ(tease)ということばがある。これは、いじめる、悩ます、からかう、ひやかす、なぶる、などの意味が一般的には知られているが、ぼくはこのことばから、どういうわけかすぐ「じらす」という日本語を想像してしまうのだ。

(略)

ぼくにとってのティーズは、ストリップティーズのティーズなのである。(略)

お客をじらしながら裸になってゆく踊りがストリップティーズなのであって、なるほどいまのようにじらし抜きでズバリ御開帳ではストリップとしかいいようがないのだろう。

(略)

 実は、ティーズこそエンタテインメントのコアとなる技術であり、思想でもあるとぼくはつねづね考えているのである。ティーズこそ芸であり、ティーズ抜きのエンタテインメントなんて、チーズのはいっていないチーズバーガーのようなものなのである。一流の芸人や芸の世界のつくり手の仕事には、かならずティーズがはいっている。ヒチコックの映画はその典型で、ぼくにいわしてもらうとヒチコックはシネマティーズの名人なのだ。ビリー・ワイルダーもかなりのティーザーだ。そしてぼくの大好きなウディ・アレンは、ミスター・ティーズマンとでも名付けたいほどの、ティーズの天才である。

(略)

ウディ・アレンティーズは、ヒチコックやワイルダーのようなシネマツルギーに内包された技術としてのティーズとちがって、ことば遊びの中にとじ込められた思想としてのティーズなので、翻訳のプロセスで洗いおとされてしまうこともあってちょっと判りにくいのである。

 英語、いや米語、それもユダヤ的発想のアメリカン・イングリッシュが判れば、ウディ・アレンは最高におもしろいのだ。この意味では彼の著作は、映画よりも判り易いかも知れない。

(略)

誤訳字幕

(略)

 六八年公開の「ダイヤモンド・ジャック」というジョージ・ハミルトンが宝石泥棒になる映画で傑作誤訳があった。

 ザ・ザ・ガボール扮する有閑マダムが、別れた亭主からの長距離電話を受けて話しているうちに「ところであなたはどうして自分の過去の罪をむかえしてばかりいるの」という。(略)斜体の部分が誤訳で、ここは原語では、Reverse charge といっているので、これはコレクトコールつまり受信人払いのことなのだ。どうして私に料金を払わせてばかりいるの、と金持ちの女がケチなことを言っているのがおもしろいのに(さらにこのとき彼女のダイヤモンドが盗まれるのだ)字幕の訳では、つじつまも合わないしおもしろくもなんともない。

(略)

 「スーパーマンⅡ」の冒頭の部分で、新聞記者クラーク・ケント(実はスーパーマン)が編集長に休日をどう過ごしたと問われ「本を読んでいました」と答えるシーンがあるが、カッコの字幕に対して原語では「ディケンズを読んでいました」といっているのだ。ただ本を読んでいたのと、ディケンズを読んでいたのではまるで人物のおもしろさがちがってくる。宇宙の孤児スーパーマンディケンズの、おそらく「ディヴィッド・コパフィールド」か「オリバー・ツイスト」(ともに孤児が主人公の小説)を読んでいたと想像するだけで、この映画がぐんと楽しくなるのだ。事実、このスーパーマンの人間を愛しすぎる優しさが、ドラマの重要なポイントになっているのだから、ディケンズを省略したのはセンスのない訳といわなければならないだろう。アラさがしが本意ではないので提案をひとつ。どうでしょう、字幕翻訳者をもっと自由に選んでみては。たとえば、スーパーマン小野耕世さんに頼むとか、ハードボイルドものは小鷹信光さん、コメディなら片岡義男さん、だが。文芸ものは村上春樹青山南さん。この顔ぶれならポスターに名前を出しても効果があると思うのだが。

スポンタニティということ

(略)

[「駅STATION」]

 高倉健の主人公は、そのまわりの人物がよく描けているからその人たちの存在感という栄養分を充分に吸収して、魅力的な人物たり得ている。(略)

[高倉健が]デビューした時、三白眼のおもしろいやつが出てきたな、と思ったことがある。たしか、沖縄の空手使いの役だったはずだが、これはよくなるぞという予感がピーンときたのを今でもよく覚えている。(略)

石原裕次郎だって、あの太陽族映画でデビューした時、兄貴の七光りだけじゃないものが、スポンティニアス(自然発生的)に伝わってきた。スポンティニアスな魅力がなければ、俳優なんてデクのぼう同然である。うまい、へた、はそのあとである。とりあえず、そんなにうまくなくともスポンタニティさえ持っていれば俳優稼業は立派につづけられるのだ。

(略)

 スポンタニティこそが俳優の存在理由である、とぼくはつねづね書いているが、ごく最近、それについて蘆原英了さんが書かれた文章を見つけ、それがとてもわかり易いので、ちょっと引用してみたい。

 「モーリス・シェヴァリエは、一つの唄を三ヵ月ぐらい準備し振付師によって振りまでつけてもらう。これはイヴ・モンタンも同じことである。両人とも器用でないので、振付師や演出者の手をかりて、アンコールのお辞儀まで稽古する。しかしそれを舞台で見ると、まるで彼等が今そこで自由にやっているように見える。振付師や演出者の手を借りた芸とは、とても見えない。これをフランスではスポンタネテ(偶然性とか自然に内面から湧きでる性質)といって、非常に重要視する。そしてスポンタネテのないものは、ダメだというのである。

 越路吹雪が何度もピアフの同じ舞台を見たために、たいせつなことを発見したことはいいことだった。毎日毎日新たに見える芸が、実は毎日毎日同じ芸だったというわけである。ついでにおまけをつけ加えておけば、越路吹雪もじゅうぶんにスポンタネテを持っている。」

 この文章は、昭和四六年日生劇場で行われた越路吹雪ロングリサイタルのプログラムに掲載されていたものだ。さすがは見識ある評論家だった蘆原さんの文章である。スポンタニティが、フランス語のスポンタネテであり、しかもエンターテイナーの必要条件であると、ハッキリ書いておられるのに感心した。

 実は、スポンタニティをエンタテインメント論で意識的にとりあげたのは、このぼくが最初ではないかといささか己惚れていたので、偶然にこの蘆原さんの文章を発見したときは正直なところショックだった。

 大体、スポンタニティということばをぼくがはじめて見たのは、植草甚一さんの文章だったと思う。昭和三六年頃だったのではないか。映画雑誌のはずだが誌名も、また何について書いた文章だったかも憶えていない。ただ、スポンタニティというカナ文字がやけに印象的に使われていたことだけが頭に残っているのだ。

 「駅」の中でスポンティニアスな演技をしていたのは、電車の中にほんのちょっと出てくる武田鉄矢ひとりである。あとの俳優たちはみんななんだか計算した芝居をして、それがちょっと気になっているのだが……。

ウディ・アレンの素顔をのぞく

 オーストラリアで手に入れたシネマ・ペイパーズという雑誌のバックナンバーに、ウディ・アレン関係の記事があったので紹介してみよう。

 これは、ウディのマネージャーであり、プロデューサーでもあるチャールズ・H・ジョフェにインタビューした記事である。

Qまずふたりがビジネス仲間になったきっかけは?

A私がマイク・ニコルズとエレイン・メイのマネジャーをやっていた頃ですから、およそ二十年ほど前ですが、シャイで小柄なウディにはじめて会いました。当時彼はジョークやコントの作家でしたから、何か書いてもらおうとして会ったわけです。それ以来、ずっと仕事をともにしているのです。

Qその時、現在の彼が想像できたでしょうか?

A才能のひらめきはたしかにありました。それでもその頃の彼は、一所懸命に自分の道を探しているという感じでした。

Q監督しているときの彼は画面の中の彼と同じでしょうか?

Aいいえ、まるで別人です。マジメな顔つきで笑顔ひとつみせてくれません。

Qセットを出たときは?

Aいずれにせよ彼はシャイを絵に書いたような人ですから、知らない人の中ではまるで居心地が悪いのです。友人となら自然にふるまえるのですが。

Q「アニー・ホール」がアカデミー賞をとった時の彼は?

A彼は映画はコンテストではないと考えています。それに大体「スタ・ウォーズ」と「アニー・ホール」はどう考えても比較のできる作品ではないし……。

Qウディ・アレンは観客を頭において作品をつくっているのでしょうか?

Aいいえ、彼は自分のつくりたいものをつくっているだけで、それが観客の気に入ってくれればうれしい、という考えです。もし、俗受けを狙うのなら、セクシーな女優を五人ばかり使ってたっぷりヌードを見せるようなものをつくるでしょうが。

(略)

Qいままでの作品で一番興行成績の悪かったのは?

A「インテリア」と「バナナ」です。それでも赤字になってはいませんし、「インテリア」はある程度それを予想してつくったようなところもあったので。

(略)

シゴニー・ウィーバー

 ウディ・アレンのことを最近ウッディ・アレンと表記するようになったが(略)とんでもない間違いである。WoodがウッドだからYがついてもウッディだろうとお考えなら短絡すぎます。これはむしろウーディなのだが、ウディでいいのだ。(略)

ある雑誌にウディと書いた原稿を渡したのに全部ウッディに直されていた

(略)

スタンリー・カブリック→キューブリックのときもおもしろくなかったが、これはその後の調査によってクブリックが正しいと確信を得たのでぼくはそのように書くようにしている。そういえば植草甚一さんがクブリックと書いていたような気がする。

(略)

 シガニー・ウィーバーは本人がいっているように、シゴニーが正しいのだから、やはりガをゴにすべきである。