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木ノ内博道の[里親家庭支援のつれづれ日記]

2018-04-14

子どもの権利に関するあれこれ

09:31

平成28年に改正された児童福祉法、第1条には「全て児童は、児童の権利に関する条約の精神にのっとり」とある。それまでの条文では「すべて国民は、児童が心身共に健やかに生まれ、且つ、育成されるよう努めなければならない」そして2項では「すべて児童は(略)愛護されなければならない」となっている。

改正後は、まず子どもが主語になっている。そのあとの第2条で「すべて国民は」と国民に先立って子どもがうたわれている。

児童の権利に関する条約の精神にのっとり」とあるから、子どもの権利条約が優先するのだな、と思う。しかし、条約に依存するのでなく、自力で「子どもの権利」を考えてみる必要があるのではないか。

子どもが権利の主体、というのはどういうことか。権利が改めて問われるのは、障害者高齢者、女性、LGBTなど。もちろん子どもも。権利が問われないのはどんな人だろう。大人の男。いかにも良識をもっているような大人の男、ということになるだろうか。それ以外に、多数者が少数者に対しても権利侵害の問題が話題になる。

権利の問題を分かりやすく話すには、左利きの人を思い出すといいのかも知れない。昔は右利きに矯正してきた。矯正は強制である。いまは左利き用の野球のグローブもある。少しずつ権利が認められつつあるのだ。

権利の主体者としての子ども。社会に参画する者として認めること。もちろん、ケアをされる存在でもある。ただケアされる存在が先に来るべきではない。高齢者障害者もそうだが、子どもも社会に参画する者として認めることが大事だろう。

ケアという言葉は、高齢者障害者でも介護の現場で使われるようになってきた。そこで近年言われているのはケアをされる者とする者の立ち位置。どちらかが上、下というわけではない。ケアについてはどちらも平等なのだ。ヤスパースだったか、世界内存在、という言葉がある。等しく世界内に存在する者なのだ。誰だって、子どもの時には養育者にケアされて育ってきたわけだし、全体の営みの一つなのだ。

上野千鶴子が共著『当事者主権』で書いていた、ケアに関することを思い出して、ニンマリする。生まれたての赤ちゃんは自分で何もできない。高齢者で言ったら介護度5、どうして介護度5の手当を出さないのだろう、って。

やや疲れてきた。子どもの権利とパターナリズムについて書こうと思っていたが、またの日にしたい。

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