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2017-03-28 「自尊心の病に憑かれた」辻原登にアリョーシャは見えない

「自尊心の病に憑かれた」辻原登にアリョーシャは見えない

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 二〇一七年二月、『辻原登の「カラマーゾフ」新論 ドストエフスキー連続講義』が出た。発行は亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』の光文社。本の帯には「小説家だからこそ見抜ける“不朽の名作”の真実! 文学講義の名手が贈る4つのレクチャー」とある。「Lecture 1」と「Lecture 2」が二〇一三年秋の朝日カルチャーセンターでの講義、「Lecture 3」が二〇一五年二月の亀山郁夫との対談、「Lecture 4」はおそらく書き下ろしだろう。

 フョードル・カラマーゾフ殺害の容疑でミーチャが拘束される場面について、辻原はこんなふうに言う。

 突然、建物の外で馬の蹄の音が聞こえます。カーニバルの場面の背景にあった幕が突如開いたかのように、警官隊が銃を構えて待っている。

辻原登辻原登の「カラマーゾフ」新論』 光文社


 実際の『カラマーゾフの兄弟』はそんなふうに書かれていない。

「君が好きだ、君だけを愛してるよ、シベリヤに行っても愛しつづけるよ …… 」
「どうしてシベリヤへ行くの? でも、いいわ、あなたが望むなら、シベリヤへでもどこへでも、どうせ同じですもの …… 二人で働きましょうね …… シベリヤは雪ね …… あたし雪野原に橇をとばすのが大好き …… 鈴を鳴らして …… あら、きこえる、鈴が鳴っているわ …… どこで鈴が鳴ってるのかしら? だれか来たのね …… ほら、鳴りやんだもの」
 彼女はけだるそうに目を閉じ、ふいに一分ほど眠りにおちたようだった。本当にどこか遠くで鈴の音がしていたが、突然鳴りやんだ。ミーチャは彼女の胸に頭をもたせかけた。鈴が鳴りやんだのに彼は気づかなかったが、歌声まで突然とだえ、歌声や酒宴の騒ぎに代ってふいに死のような静寂が家じゅうを支配したことにも気づかなかった。グルーシェニカが目を開けた。


 これが辻原の「突然、建物の外で馬の蹄の音が聞こえます」だ。実際には、聞こえていた鈴の音が鳴りやんだだけだ。そしてこの後にも「警官隊が銃を構えて待っている」などという描写はないし、そもそも銃を構えた警官隊など出てはこない。

 辻原登によれば、アリョーシャが「あなたじゃない」と言った相手はミーチャだということだ。亀山郁夫との対談でそう言っている。辻原は間違っている。

辻原 もう一つ、お聞きしたいことがあります。アリョーシャがドミートリーに「お父さんを殺したのは、あなたではありません」と言うシーンがあります。それは、「あなたではなくて、イワンです」ということを言っているのではないし、スメルジャコフだと特定しているわけでもない。ひょっとしたら、アリョーシャは自分の中にも、「私も殺したんだ」という無意識の思いがあって、バフチン風に言うと、それがポリフォニーになって響き合っているとも考えられる。
亀山 なるほど、面白いですね。そういう問題があることに今、初めて気づきました。これまで、このセリフを何度も考えながら、一度としてそういう問題の設定を立ててみたことはありません。思うに、アリョーシャが、人間の原罪というものを、どのくらい深く自覚しているかということに通じる問題ですが、私の考えでは、「あなたじゃない」と言うことは、「あなたです」と言っているのと同じです。ずっとそう言い続けてきました。
辻原 でも、もう一つひっくり返すと。
亀山 「あなたじゃない」と言っていると同時に、「私もです」とも言っている、そう辻原さんはお考えになるわけですね。そこはすごく大事なことかもしれません。さっきも少し触れましたが、アリョーシャにおける父殺しの共犯性という問題は、なかなかリアルな感覚としてはとらえにくい側面があることは確かです。本当にアリョーシャは難しいです。

辻原登辻原登の「カラマーゾフ」新論』 光文社


 もちろん、右の辻原の発言は「ドミートリー」と「イワン」とが逆になっている。そもそも辻原が間違えているのかもしれないが、そのまま出版してしまう出版社も出版社だ。

「Lecture 1」で、辻原はこう言う。「僕は自分の作品を読むときも他の作品を読むときも一回黙読した上で、声に出して読むことにしています」。そうして亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』から引用する ── ということは、この講義でも音読をしている ── のだが、自分でおかしいと思わなかったのだろうか。

彼女(ソフィア ── 編集部注)が死んだとき、アレクセイはまだ数え四歳でしかなかったが、不思議なことに彼はその後、一生、むろん夢をとおして母親の顔を覚えていたという話をわたしは知っている。

カラマーゾフの兄弟』(亀山郁夫訳、光文社古典新訳文庫、二〇〇六年)より
以下の引用はすべて同書

(同)


 辻原はどう音読したのか。音読はしたが、意味を汲まずにしたのか。辻原の音読はそれでいいのか。「小説家辻原登はこういう文章を平気で読めるのか。

 同じ箇所を原卓也訳で引いてみる。

彼女が死んだとき、幼いアレクセイは数えで四つだった。実にふしぎなことではあるが、彼がそのあと一生、もちろん、夢の中のようにぼんやりとにせよ、母親をおぼえていたのを、わたしは知っている。


 亀山訳のこの箇所はすでに二〇〇九年五月に木下豊房によって誤訳を指摘されている。

まず「むろん夢をとおして母親の顔を覚えていた」という表現が文脈を踏まえていない不自然な日本語であり、様態を示す「〜のように」(kak)を訳しきれていない明らかな誤訳。文脈は「数えの四歳ではあったが、母親の顔を覚えていた。むろん夢の中でのように」である。


 また、辻原によれば、アリョーシャが「家庭争議をなんとか解決しようというので、僧院のゾシマ長老に仲裁をしてもらおうとみんなを修道院に集めて、親族会議を行う」らしい。辻原は間違っている。実際は、この会合はフョードルが言い出し、ミウーソフが乗り気になって決まったものだ。アリョーシャはこの会合の開かれることに困惑している。
 さらに、辻原によれば、「ドミートリーは二十八歳、イワンは二十四歳、僧院に入っているアリョーシャは二十歳」なのだが、スメルジャコフはさらに年下らしい。フョードルとスメルジャーシチャヤとのエピソードを彼はこう語る。「ここに、フョードル・カラマーゾフが登場します。彼は先妻が逃げていったでしょう。後妻が入ったけれど、彼女もすぐに死んでしまう。それで、悪い仲間たちと遊び呆けているわけです」。そんなときにスメルジャーシチャヤが妊娠したと辻原は言う。先に辻原が自ら引用した箇所によれば、アリョーシャは母親が死んだときに「数え四つ」だったのだから、スメルジャコフは十六、七歳ということか。辻原は間違っている。実際はこうだ。原卓也訳から引くが、先妻が死んで、「フョードルは四歳になるドミートリイを追い払うと、そのあとすぐ二度目の結婚をした」のだが、スメルジャーシチャヤとのエピソードは「まさに、彼が最初の妻アデライーダの訃報をペテルブルグから受け、帽子に喪章のまま飲んだくれたり、乱行の限りをつくしたりしていた、ちょうどそのころ」のことだ。スメルジャコフは「せいぜい二十四かそこらの、まだ若い男」とあるが、おそらく生まれはイワンよりも早いだろう。辻原がまさかスメルジャコフを十六、七歳と読んでいたとは思わないが、しかし、どうやらイワンよりも年下だと思い込んだまま『カラマーゾフの兄弟』を読み、現在も間違えたままでいるらしい。右の引用箇所ばかりでなく、「Lecture 2」でもこう言っているからだ。

 イワンが聞いたのは、二人が言ったよく似たセリフです。アリョーシャが言った「父を殺したのは、あなたじゃない!」と、もう一人の弟であるスメルジャコフが言った「殺したのは、あなたじゃありません」と。

(同)


「Lecture 2」のタイトルは「『カラマーゾフの兄弟』を深める」だ。
 そこで辻原は「探偵小説という枠組み」から『カラマーゾフの兄弟』を読む、と言う。フョードルが殺され、「ドミートリー、イワン、スメルジャコフという残った三人のうち、犯人がいったい誰なのかということが、この小説を引っ張っていく探偵小説的な大枠の一つになっている。その大枠の中で、ドストエフスキー独特の世界観が語られたり、ドストエフスキー的ないろんな人物が登場して、おかしな対話を繰り広げたり、どんちゃん騒ぎをしたりしながら、物語が進んで行きます」。こうした読みかたをすると、「大審問官」は次のようになる。

 この場面は、ドストエフスキーの世界観の一つを披露しているように見えるのですが、どうもたいした話ではないと僕は思うんです。いろいろな哲学者や批評家たちが、この大審問官の話というのを大袈裟に論じていますが、実はそんなに深い話ではないし、福音書を深く読んだ方がよほどいいと思うのです。これは、イワンという人間を無神論者にしておいて、永遠だとか神が存在しないのであれば、人間は何をしても許されるじゃないかという考えを導くための、仕掛けの一つにすぎないのですから。

(同)


 辻原はまたこうも言う。

 僕は高校生の頃に『カラマーゾフの兄弟』を読んだとき、「大審問官」と「ゾシマ長老」のエピソードにほとんど感銘を受けなかった。キリスト教もロシア正教も知らないのですから。ドストエフスキーはこの話を、アリョーシャという人物をいずれテロリスト、革命家にするための伏線として書いているのでしょう。熱心で純真な宗教青年が、宗教者から冷徹なテロリストに変貌していく、彼はその姿を書きたかったのではないでしょうか。
 ゾシマ長老のエピソードですが、若い時に人を殺そうとしていたり、彼のお兄さんがまさに聖人のようで、生きていること自体が人類に申し訳ないことだと思っているような人間です。それはそれで面白いのですが、『カラマーゾフの兄弟』のメインストリームからいくと、やはりこれも、十三年後の物語を書くために置かれた布石の一つのような気がします。

(同)


 ゾシマが「若い時に人を殺そうとしていた」というのは何のことなのか。決闘のことを指しているのか。
 ともあれ、辻原の読みにかかると、あくまでも「メインストリーム」は殺人事件の犯人探しになる。それ以外のことになると、こういう扱いになる。

 そういういくつかの伏線があった上で、それとは別に、本筋とは異なるもう一つの物語、イリューシャという少年をめぐる物語が語られます。イリューシャは周りの子供たちから孤立している子供で、たった一人で六人の子供を相手に石を投げ合って喧嘩したりするんですが、実は、彼の父親は、ドミートリーに町中で髭を摑まれて徹底的にこづきまわされたという、ひどい侮辱を受けたことがあるのです。それを見ていたイリューシャは、「パパを許して、許して」と言って、泣きながらドミートリーに頼むという、そういう経験のある少年なんです。この少年たちと、ドミートリーではなく、その弟のアリョーシャの交流についての物語が、この小説のもう一つのストーリーとしてあります。
 これは『カラマーゾフの兄弟』の中で、アリョーシャをめぐる非常にいい話の一つとされていますが、実はこの小説のメインストリームとはまったく関係がありません。多くの人が今まで、これをアリョーシャという二十歳の誠実な青年の物語として、それなりの読み方をしてきたのですが、みんなアリョーシャを過大評価しすぎているきらいがあると思います。そうではなくこの物語も、実はこの後に展開される物語の伏線なのです。ドストエフスキーはそれを書かないまま死んでしまったわけですが、もし続編が書かれていたら、アリョーシャが成長していって、この少年たちも成長していって、というふうに進んでいたはずです。この小説は「わたし」という人物が、十三年前にこういう事件があったと語るところから始まったわけですが、それでは、その十三年後の語り手の「わたし」にとっての「今」に何が起こっているのか、そのことが語られないまま終わっているわけです。これはその語られなかった物語の伏線だったはずです。

辻原登辻原登の「カラマーゾフ」新論』 光文社


 さらに、

 というわけで、今われわれが実際に読める『カラマーゾフの兄弟』の中で、アリョーシャと子供たちの話はいい話には違いないんですが、この小説のメインではありません。しかし、僕はこの手のいわゆるいい話はあまり信用しない。子供たちの話なら、ディケンズの『デイヴィッド・コパフィールド』をお勧めします。

(同)


 犬のジューチカのエピソードについてはこう言う。

 そこにコーリャ・クラソートキンというちょっと生意気な、この時はまだ十五、六歳ですが、後にアリョーシャと一緒にテロリストの中心人物になっていくはず(?)の人物が現れます。普段の彼はイリューシャをいじめているんです。ところがイリューシャがこういう状況になったときに、コーリャは非常に優しい崇高な面も持っていて、イリューシャの大きな苦しみはこのジューチカだとわかって、必死になってその犬を捜す。みんなは死んだと思っていたのに、捜し当て、誰にも言わずに自分の家で黙って保護して、芸を仕込みます。イリューシャがもう危ないというときになって、彼はジューチカを連れてくる。もう遅い。しかし、イリューシャは狂喜して、「ジューチカだあ!」と、そう言って死んでいきます。

(同)


 コーリャは犬を連れてきた時点でまだ十三歳だ。辻原は間違っている。そして辻原は、「イリューシャの大きな苦しみはこのジューチカだとわかって」いたにもかかわらず、「捜し当て、誰にも言わずに自分の家で黙って保護して、芸を仕込」み、その間ずっとイリューシャを苦しむまま放置していたコーリャを評して「非常に優しい崇高な面も持ってい」ると言う。そのことを咎めるアリョーシャのことなど辻原にはまるで理解できないのだろう。イリューシャの苦しみも辻原には「メインストリーム」からはずれた、ただの「いい話」でしかなく、それは「どうでもいい話」ということだ。そうでなければ、「イリューシャは狂喜して、「ジューチカだあ!」と、そう言って死んでいきます」などと言わない。

 さて、辻原による「メインストリーム」の読みだが、彼はこんなことを言う。

 それはさておいて、この裁判が進んでいるという前提の下で、イワンとカテリーナの間では、ミーチャをアメリカに逃がそうという逃亡計画が練られます。そのための金も用意する。イワンもカテリーナも、単純に愛し合った男女というわけではなくて、時々ひどい喧嘩をする。しかし、結局、イワンとカテリーナがミーチャの逃亡計画を考えるのは、一つは二人がミーチャを真犯人に仕立てあげたいと思っているからです。カテリーナとイワンは、裁判の時に、一番重要なことを証言しません。

(同)


 単純な疑問だが、なぜイワンとカテリーナがわざわざミーチャを真犯人に仕立てあげようとするのか。すでにミーチャは犯人として捕まっていて、裁判も迫っている。そのままにしておけば有罪になるのではないか。しかも「逃亡計画」はミーチャが有罪になってから実行される予定のものだ。わざわざミーチャを真犯人に仕立てあげるというからには、ミーチャが真犯人ではないと二人が認識しているということか。しかし、二人はミーチャが真犯人でないことはもちろん、別に真犯人がいるということすら知らないでいるのだ。イワンの方については、私はもうすでにかなり詳細に書いているので、ここでは繰り返さない。カテリーナに関して書いておくと、真犯人云々について彼女は何も知らないも同然だ。
 さらに、辻原はイワンの二回目のスメルジャコフ訪問の後についてもこう言う。

 イワンは、その後、カテリーナのところへ行きます。そしてカテリーナとミーチャの父親殺しについて話していても、スメルジャコフに「あなたがぼくをそそのかしたのではないか」と言われているので、カテリーナに対して「真犯人はミーチャじゃない」と言わざるを得ない。そうすると、カテリーナは「そんなことはない、フョードルを殺したのはミーチャだ」とはっきり言います。その時に、先ほどイワンがアリョーシャに言った文書を持ち出すのです。イワンはアリョーシャに、ミーチャが父親を殺した証拠になるものを持っていると言ったのですが、確かにカテリーナが持ち出した手紙があるにはある。しかし、それは実は、ミーチャが酔っぱらってべろんべろんになっているときに「おれが父親を殺してやる!」と言って書きなぐった手紙なんです。つまり、それを持ち出してきて、二人でミーチャを真犯人にしてしまおうと共謀したということです。

(同)


 辻原はそう言うが、実際は次のようなものだ。

イワンはそのとき、自分の家へ寄らずに、まっすぐカテリーナのところへ行き、その姿で彼女をびっくりさせた。まるで狂人のようだったのである。彼はスメルジャコフとの話を、細かい点にいたるまで残らず伝えた。どんなに彼女が説得しても、イワンは気を鎮めることができず、のべつ部屋の中を歩きまわって、きれぎれに異様なことを口走っていた。やっと腰をおろしたものの、テーブルに肘をつき、両手で頭を支えて、奇妙な警句じみた言葉をつぶやいた。
「殺したのがドミートリイではなく、スメルジャコフだとすると、もちろんそのときは僕も共犯だ。なぜって僕はたきつけたんだからね。僕がたきつけたのかどうか、まだわからんな。しかし、殺したのがドミートリイではなく、あいつだとしたら、もちろん僕も人殺しなんだ」
 これをきくと、カテリーナは黙って席を立ち、自分の書き物机のところに行って、その上にあった手文庫を開け、何やら紙片を取りだして、それをイワンの前に置いた。この紙片こそ、のちにイワンがアリョーシャに、父を殺したのは兄のドミートリイだという《数学のようにはっきりした証拠》として語った、ほかならぬあの文書であった。


 辻原の言ったことをもう一度引用する。

そうすると、カテリーナは「そんなことはない、フョードルを殺したのはミーチャだ」とはっきり言います。その時に、先ほどイワンがアリョーシャに言った文書を持ち出すのです。

辻原登辻原登の「カラマーゾフ」新論』 光文社


 辻原の頭の中には、ありもしない場面が存在している。
 カテリーナがイワンにこの文書を見せるのは、イワンが「まるで狂人のようだった」からだ。「どんなに彼女が説得しても」、イワンの「気を鎮めることができ」なかったからだ。彼女が裁判でこの文書を持ち出すのも、証言するイワンの症状が悪化したからだ。彼女は何も知らないのだ。彼女はミーチャが犯人であるとは信じられない。彼女はイワンがミーチャを庇おうとしているのだと思っている。真犯人がスメルジャコフなのかもしれないが、イワンからスメルジャコフとの話を伝えられても、彼女には理解できていない。イワンすらこの時点ではスメルジャコフが真犯人であることを知らないのだ。
 彼女が「裁判の時に、一番重要なことを証言しません」と断言する辻原は、いったい何を「一番重要なこと」だと考えるのか。彼女がミーチャを真犯人に仕立てあげようとたくらむことなど一切ない。
 また原作から引用するが、イワンは「公判の十日ほど前にミーチャを訪ね、脱走の計画を、それも明らかにだいぶ前から考えぬいた計画を提案したのだった」。さらに、裁判の前夜のことをカテリーナがアリョーシャにこう話している。

「あの方がもうだいぶ前にこの脱走計画の全貌をあたくしに教えてくださいましたのよ。実は、あの方はもう下工作に入っておられたんです …… あなたにもある程度のことはもうお話ししましたけれど ……(中略)…… もしかしたら明日、イワン・フョードロウィチが何事かあったときの用心に、公判の前夜にあたくしに預けてくださった、詳細にわたる計画の全貌をお目にかけますわ …… あれは、おぼえてらっしゃるかしら、ちょうどあのときですわ、ほら、あたくしたちが喧嘩していたところへ、あなたがいらしたことがあったでしょう。あの方が階段をおりかけていたのに、あたくしがあなたの姿を見てよび戻したことがありましたわね、おぼえてらして? あのときあたくしたち、何が原因で喧嘩したか、おわかりになる?」
「いいえ、わかりません」アリョーシャは言った。
「もちろん、あの方はあのときあなたには隠したんですわ。まさしくこの脱走計画が原因でしたのよ。あの三日前にあの方が要点を全部あたくしに打ち明けてくださったんですけど、その間に喧嘩がはじまって、それ以来三日間ずっと喧嘩しつづけていたんです。喧嘩などしたのも、もし有罪になったらドミートリイ・フョードロウィチをあの売女といっしょに国外へ逃がそうと、あの方が言ったので、あたくしが突然かっとなったからですわ。……(中略)…… その三日後、あなたがいらしたあの晩、あの方は密封した封筒を持ってらして、もし自分の身に何か起ったら、すぐ開封するようにと、おっしゃいました。そう、ご病気を予感してらしたのね! あの方は、封筒の中に詳細な脱走計画が入っているから、もし自分が死ぬとか、重病になるとかした場合には、あたくし一人でミーチャを救出するようにと、打ち明けたんですの」


 カテリーナがこの話をしているのは裁判から五日目で、彼女が「逃亡計画」の要点をイワンから知らされたのは裁判の四日前だ。彼女の言う「もうだいぶ前」がどの時点のことなのかはわからないが、計画はすべてイワンひとりが立てたものだ。

 辻原はこうも言う。

 しかし、これは探偵小説としておかしい。つまり、イワンがこの文書、ミーチャが父親を殺すと書いた手紙を、カテリーナに見せられるのは、二回目のスメルジャコフ訪問の時ですから、事件から十九日目です。ところが、イワンは三回目のスメルジャコフ訪問に向かう直前にアリョーシャに会っているわけでしょう。この日は事件から二カ月たっている。二カ月たってからアリョーシャに「父親を殺したのは間違いなくミーチャだよ。確かな手紙を持っているんだ」とイワンは言う。事件から十九日目にはイワンはもうその手紙のことを知っていたのに、それをアリョーシャに言ったのがその四十一日後になってからだったということです。これはちょっとおかしいですね。一カ月以上もイワンは黙ったままだったということになる。
 これは小説を展開していく上でどうしても必要だからそうしたのでしょうが、ドストエフスキーという作家はそういうことになると、いつもかなり無理なことをやります。『罪と罰』でもそうですが、ストーリーを展開するために、必要なら非常に不自然な状況でも平気で作ってしまう。こういう乱暴なところが、厳密に小説を読む、コンラッドやナボコフチェーホフたちにとっては我慢がならない。

(同)


「一カ月以上もイワンは黙ったままだった」というのが、「探偵小説としておかしい」のかどうか私にはわからない。「黙ったまま」でなかった場合、イワンはどうするべきなのか。手紙を届け出るのか。そもそも手紙を持っていたカテリーナはどうなのか。彼女は裁判でのぎりぎりのときまでそれをしなかった。 ── と書いて、わかった。辻原は、《ミーチャを真犯人に仕立てあげようとしている二人》がなぜその有力な証拠としての手紙を届け出ないでいるのか、わからなかったのではないのか。しかも、作者ドストエフスキーが、裁判前日のこの場面になって初めて唐突に手紙の存在を明らかにしたわけで、これに納得がいかないのではないか。実際には、イワンもカテリーナもミーチャを真犯人に仕立てあげようなどとは思ってもいないのだから、「黙ったまま」なのもおかしくない。おかしいのは、二人がミーチャを真犯人に仕立てあげようとしているという辻原の思い込みの方だ。
 しかし、それとは別に問い直すが、辻原はこれが「探偵小説として」でなければおかしくないと考えているのか。もしそうならば、『カラマーゾフの兄弟』を「探偵小説として」読むことが間違いなのではないのか。イワンがそのように黙っていたことにまったく不思議はない。彼がそのような人間だからだ。ここまで彼はそのようなことをする人間だと描かれてきたはずだ。

 辻原がイワンをまったく理解できていないことは、次の引用を読んでもわかる。

 イワンが聞いたのは、二人が言ったよく似たセリフです。アリョーシャが言った「父を殺したのは、あなたじゃない!」と、もう一人の弟であるスメルジャコフが言った「殺したのは、あなたじゃありません」と。しかし、この二つ、言葉面はほとんど同じですが、中身はまったく違うんです。単純に言えば、アリョーシャはイワンのことを思って、しかも殺してないことを祈って、「殺したのは、あなたじゃない!」と言っている。対してスメルジャコフの「殺したのは、あなたじゃありません」は、ここをドストエフスキーはおそらくゴシックか何かで書いていて、翻訳でも傍点をつけているものがありますが、(たとえば中央公論社の世界の文学第17、18、池田健太郎訳『カラマゾフの兄弟』一九六六年では、「あなたが殺したんじゃない」と訳されている ── 編集部注)、この「殺したのは、あなたじゃありません」は実は「あなたが殺したんだ」と、まるで反対のことを言っているのと同じです。手をくだしたのは確かに私だ、しかし本当の犯人はあなただ、と。バフチンが言ったのは、この二つの同じ言葉が、実はまるで違う声を持つ、そういう多声的な物語になっているということです。それがドストエフスキーのすごいところで、それに比べるとトルストイフローベールは単声的だと言うのですが、僕はそんなことはないと思う。僕は同意できません。
 こういうところで、山城むつみさんの『ドストエフスキー』を読むと、納得します。彼は「あなたじゃない」というところについて詳しく論じていて、それが彼のドストエフスキー論の白眉の一つになっています。山城さんはロシア語がよくできますが、彼によると、「ラズノグラーシエ」と「ニーソグラーシエ」とがあって、「ラズノグラーシエ」は日本語で言えば「異和」になるそうですが、アリョーシャがイワンに言う「あなたじゃない」の場合は「ラズノグラーシエ」なんですね。つまり、この言葉は一つのことを言っているわけではなく、「あなたじゃない」とか「あなたかもしれない」とか「でも、あなたじゃないといいな」とか、反発をはじめとするいろんな異なった思いが、複雑微妙にこもっている。それに対して、スメルジャコフの「あなたじゃありません」は「ニーソグラーシエ」、こちらは単純に「不同意」ということで、実は「あなたじゃない」ではなくて「あなただ」とはっきり言っている。こういう言葉の裏に隠れた大きな違いがわかるのが、山城さんの「ドストエフスキー論」の秀れたところだと思います。

(同)


 翻訳の傍点について、辻原はスメルジャコフの台詞だけを問題にしているが、アリョーシャの方にもつけてあるはずだ。おそらく池田訳にもつけてあるだろうし、他の訳でもそうだろう。つけていないのは光文社の亀山訳だけではないのか。編集部注には、自社の翻訳のみ傍点をつけていないことを記すべきだったのではないか。その方が早いし、わかりやすいだろう。
 辻原がアリョーシャの「あなたじゃない」を「「あなたじゃない」とか「あなたかもしれない」とか「でも、あなたじゃないといいな」とか、反発をはじめとするいろんな異なった思いが、複雑微妙にこもっている」と読むのなら、それは間違っている。もし山城むつみが辻原の読み取ったように書いているのなら、それも間違いだ。「あなたかもしれない」とか「でも、あなたじゃないといいな」などの意味がアリョーシャの「あなたじゃない」には一切ない。辻原の「イワンのことを思って、しかも殺していないことを祈って」は間違いだ。
 ここで、もう一度引用しよう。「Lecture 3」にある、アリョーシャの「あなたじゃない」についての辻原・亀山対談だ。

辻原 ひょっとしたら、アリョーシャは自分の中にも、「私も殺したんだ」という無意識の思いがあって、バフチン風に言うと、それがポリフォニーになって響き合っているとも考えられる。
亀山 なるほど、面白いですね。そういう問題があることに今、初めて気づきました。これまで、このセリフを何度も考えながら、一度としてそういう問題の設定を立ててみたことはありません。思うに、アリョーシャが、人間の原罪というものを、どのくらい深く自覚しているかということに通じる問題ですが、私の考えでは、「あなたじゃない」と言うことは、「あなたです」と言っているのと同じです。ずっとそう言い続けてきました。
辻原 でも、もう一つひっくり返すと。
亀山 「あなたじゃない」と言っていると同時に、「私もです」とも言っている、そう辻原さんはお考えになるわけですね。そこはすごく大事なことかもしれません。さっきも少し触れましたが、アリョーシャにおける父殺しの共犯性という問題は、なかなかリアルな感覚としてはとらえにくい側面があることは確かです。本当にアリョーシャは難しいです。

(同)


 アリョーシャの「あなたじゃない」をこれほどまでの見当違いにしか読み取れない読者は、アリョーシャを、そうしてまたイワンをも読み取れていないことを自ら明らかにする。このこともすでに私はかなり詳細に書いてきたから、この場で繰り返しはしない。
 イワン・カラマーゾフのためにひとつだけ書いておく。フョードルが殺されてから、「真犯人」に関して、イワンはひたすらそれが誰なのかを問いつづけた。彼にとっては、それが誰なのかだけが問題なのであって、誰が法的・世間的に有罪になるかではない。辻原は、イワンがスメルジャコフを真犯人だと知っていて、それを隠すためにミーチャを「真犯人に仕立てあげよう」とするのだと読んだのだろうが、イワンはそんな人間ではない。

 辻原は『カラマーゾフの兄弟』の語り手「わたし」を問題にしながら、次のように言う。

 ところが、尋問が終わって陪審員が別室に行き、協議して出てくると「有罪」と言うわけです。しかし、作者はどういう議論を経て有罪になったのかについて、ここでは一切触れていません。これは「わたし」に肉体の限界があることに、作者が忠実だったからでしょうか。おそらくそうではありませんね。たぶん、書くのが大変だからです。ここはただ、読者、あるいは傍聴人に、ドミートリーは無罪になったらいいなと思わせておいて、「有罪」、と不意打ちを食らわせる。これが目的です。「ドミートリーが有罪? 実行犯はスメルジャコフで、そそのかしたのはイワンじゃなかったのか」と思う、その「落差」に期待したというわけでしょう。確かにこの「落差」に、小説を読む面白さの一つがあることは間違いないわけですから。
 この場合、陪審員たちがどういう議論をするのかというのが読者の一番知りたいところですね。ところが作者は、語り手を設定して、どこにでも出入り自由の権限を与えていたはずなのに、別室には行かせないで、ただ「有罪」ということにしている。ドストエフスキーは急いでいます。陪審員の議論が書かれなかったら、この場面は、単に読者を面白がらせ、驚かせるだけの作品にすぎなくなる。多くの登場人物がこれだけ議論をしている小説で、陪審員が議論するところは一切記録されていないなんてことがあるでしょうか。そういう意味で、これは不思議な小説です。
 小説は楽しむために読むものです。楽しむなら、上等な楽しみ方をしたい。たとえ醜い世界を描いたものであっても、上等に作られているものを読みたい。作品としてきちんと地面に立ち、梁や柱もしっかりしていて、エクステリアやインテリアが見事に調和しながら積み重ねられていく、そういう建物のような小説が好きだし、それを外から見たいとも思うし、中に入りたいとも思う。小説も建築ですから、ベースは柱と梁です。そこにさまざまなモチーフ、さまざまなテーマを織り込んで、外観、内観を作り、そこに入っていくのが読者です。小説の作品世界をそうしてぐるぐる回る、すると音楽が流れ始め、時間が流れ始める。『カラマーゾフの兄弟』とはそういう小説です。

(同)


「多くの登場人物がこれだけ議論をしている小説で、陪審員が議論するところは一切記録されていないなんてことがあるでしょうか」と問う辻原は、自分のその読みかたが間違っているとは思わない。思わないどころか「たぶん、書くのが大変だからです」とドストエフスキーの都合にして平気でいる。ここまで引用してきたように、辻原は「考えを導くための仕掛けの一つ」、「布石の一つ」、「語られなかった物語の伏線」、「本筋とは異なる」、「メインではありません」、「これは探偵小説としておかしい」、「かなり無理なことをやります」などと言って、『カラマーゾフの兄弟』のいくつもの部分を切り捨てている。なぜ辻原はそれらすべて拾い上げることのできる読みかたを探そうとしないのか。読書というのは、ありのままの作品を読むことだ。読者は作品に自分を合わせていかなくてはならない。自分に作品を合わせるのではない。
カラマーゾフの兄弟』のすべては主人公アリョーシャ・カラマーゾフを描くためにあるだろう。すべての登場人物の経験がアリョーシャに結ぶ。イワンの「悪魔」を見ていなくても、アリョーシャはイワンの経験を知る。ミーチャの「童の夢」を見ていなくても、アリョーシャはミーチャの経験を知る。語り手「わたし」が何を語って、何を語らないかの基準は、それがアリョーシャと結ぶかどうかだ。陪審員の議論がないのは、それがアリョーシャに結ばないからだ。『カラマーゾフの兄弟』の全体がアリョーシャの経験だ。しかし、もちろん語り手はやみくもにアリョーシャを語るのではない。

「俺はお前を苦しめているかな、アリョーシャ、なんだか気分が悪いみたいだな。なんなら、やめようか」
「かまいません、僕も苦しみたいんですから」


 アリョーシャはまた、コーリャの「全人類のために死ねれば」という言葉を言い換えて「僕はすべての人々のために苦しみたい」と言う。そのように、すべての人々のために苦しむ人間としてのアリョーシャが『カラマーゾフの兄弟』という作品だ。そのアリョーシャが ── ということはすべての登場人物が、彼らのすべての苦しみが ── 次の言葉に結ぶ。

 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。

(ヨハネによる福音書。第十二章二十四節)


「Lecture 3」での辻原との対談で、亀山郁夫はこんなふうに言っている。

福音書では、この一粒の麦が、ゴルゴタの丘で犠牲となったイエス・キリストを示すわけですが、それは、そのまま、ドストエフスキーが想定していた続編でのアレクセイ・カラマーゾフの運命を暗示しているのかどうか。第一部を読む限り、この「一粒の麦」は、十三年前に死んだイリューシャを暗示すると言えなくもありません。イリューシャの死によって「十二人くらい」の子供たちの間にあらためて心の絆が生まれ、「カラマーゾフ万歳!」へと繋がるわけですし、イリューシャとアリョーシャという名前そのものが、ドストエフスキーの頭のなかで一つの分身関係をなしていた。

辻原登辻原登の「カラマーゾフ」新論』 光文社


 亀山も辻原も自分にわからないところはすぐに、書かれなかった小説の第二部のせいにする。これが間違っている。
カラマーゾフの兄弟』で語られていることのすべては「一粒の麦」が死ぬかどうかだ。その「死」は生物学上の死ではない。その「死」は人間が自分の「自尊心の病」(萩原俊治氏)に気づくことだ。イワンにはついに訪れることのない「死」だ。
 こういうことが辻原にはまったく理解できない。なぜなら、辻原が自尊心に憑かれた人間、自己に淫した人間だからだ。だから、辻原にはアリョーシャが見えない。『カラマーゾフの兄弟』が欠陥だらけの作品にしか読めない。辻原に『カラマーゾフの兄弟』は無理だったのだ。
 アリョーシャが見えない読者のことを私はすでに詳細に書いている。これ以上は繰り返さない。

辻原登の「カラマーゾフ」新論』は読むに値しない。それ以前に出版の価値もない。辻原には、アリョーシャが見えない以前に、そもそも読書するということがわかっていない。ましてそれを人前で話すということもわかっていない。こういう「小説家」が書評などを書いたり、文学賞の選考委員を務めていたりする。辻原に褒められた作家たちはひたすら困惑すべきだろう。
 そして、この本の編集者だ。彼は自分が何をしたのかわかっているだろうか。

(二〇一七年三月八日)

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