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2010-02-25 「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって

「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六

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しかし、その「引用」──「ある空漠たる恐怖に捕えられ」── の前に佐藤優。彼の最近の発言(二〇〇九年十月刊)から。

亀山郁夫氏の訳は、従来の訳に較べ、格段と正確でかつ読みやすい。実は神を信じていないドストエフスキーの本心が透けて見える。ドストエフスキーの小説が流行するような社会は「病んでいる」と評者は考える。

(「佐藤優選・書斎の本棚から百冊」
立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』 文春新書


 以前にも同じ文春新書(二〇〇八年四月刊)でこういっていました。

 佐藤 そして、今回、実に見事な形で戻ってこられた。『カラマーゾフの兄弟』の新訳(光文社古典新訳文庫)は実にすばらしい。もともと亀山先生の翻訳は、ドストエフスキー以外についても正確で読みやすいという定評があります。ただし、ドストエフスキーの作品、特に『カラマーゾフの兄弟』については、他の翻訳とは違った「重圧感」が訳者にとってあるのです。ロシア文学者やロシア思想史専門家には意地悪な人が多いですから。「新訳をつくるとは、大先輩の翻訳にインネンをつけるのか」という無言の圧力があるのに加え、重箱の隅をつっつくような解釈の違いをあげつらって、「亀山の誤訳を見つけた」と騒ぐような輩がロシア屋には多いですから。陰険な人が多いので、ドストエフスキーの翻訳などすると、意地悪と嫉妬が混ざった攻撃をされる。一般の読者からは見えにくいのですが、こうした古典の改訳は、狭いロシア文学村の掟に照らして見ると、結構勇気がいることなのです。

亀山郁夫+佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』 文春新書


 さらに、

 佐藤 亀山訳は、読書界で、「読みやすい」ということばかりが評価されているようですが、語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している。ぼくは、ロシア文学者の世界は、どうも家父長的体質が強くて好きになれない。
 亀山さんのドストエフスキー読みも面白い。『ドストエフスキー ── 謎と力』(文春新書)も、大胆な解釈に目を奪われがちですが、その底には徹底した実証性が常にある。
ドストエフスキーはこうも読めればこうも読める」と複数の読み方を提示する人はけっこういますが、「亀山ドストエフスキー論」の面白さは「自分はこの読み方を採用する」というインテリ(知識人)としての「命がけの飛躍」をしているところ。「決断」と言ってもいい。この「決断」こそが「物語」をつくるという意味で、今の日本の社会と国家にいちばん欠けているところです。

(同)


 大笑いです。「インテリ(知識人)としての「命がけの飛躍」」がジューチカとペレズヴォンが同一の犬でない、なんてものなんですか?

 それはともかく、右の佐藤発言については、木下豊房がこう書いていました。

「『カラマーゾフの兄弟』の原文は、破壊的な文体で書かれており」などと、亀山氏はわけのわからないことをいっているが、ご本人の「訳文」こそ、原文を破壊しているのではないか。 佐藤優のような、ご追従の人物が現れて、いわく、「亀山訳は、読書界で、「読みやすい」ということばかりが評価されているようですが、語法や文法上も実に丁寧で正確なのです。これまでの有名な先行訳のおかしい部分はきちんと訳し直している」(文春新書『ロシア 闇と魂の国家』38頁)などと、ロシア語を知らない読者を欺くことをいうので、マスコミもたぶらかされているのである。

(「 ─ 亀山問題の現在 ─ 」(http://www.ne.jp/asahi/dost/jds/dost128.htm


 さて、いま、ちょっと計算をしてみたんですが、ここまで私は最先端=亀山郁夫批判として、文庫本の字詰めに換算して約八三〇ページ、四〇〇字詰め原稿用紙にして約一三六〇枚分の文章を書いてきたわけです。一年半かけて。それも懇切丁寧な文章です。これまでのところだけでも、最先端=亀山郁夫の最先端ぶりは明らかだと思います。最先端=亀山郁夫は最先端であるがために、あまりにもひどい仕事をしました。というより、ひどい仕事しかできないんですよ、最先端だから。だから、こんな最先端に仕事をさせたひとたち、それに追随するひとたちを私は罪深いというんです。というわけで、最先端=亀山郁夫のひどさはもはや動かせません。これは事実です。反論のあるひとは、どうぞ指摘してきてください。ただし、そのひとは私の文章の全体を読むこと、また、私の『カラマーゾフの兄弟』読解の誤りを指摘するだけでなく、それがどう最先端=亀山郁夫が最先端でないということになるのか、私の費やしてきた時間と労力に見合うだけの文章ではっきり示してください。手を抜いたものは一切受けつけませんよ。

 繰り返しますが、最先端=亀山郁夫の仕事のひどいことは事実です。もう、これは絶対に動かせません。そうして、最先端=亀山郁夫の仕事がひどいという事実がある以上、佐藤優のいっていることはでたらめだらけということになります。佐藤優 ── このひとは全然信用ならない。しかし、佐藤優は最先端=亀山郁夫の訳が「従来の訳に較べ、格段と正確でかつ読みやすい」わけがないということを承知しているでしょう。腹のなかでは、「ひどいもんだな、この最先端」と思っていますね。これは沼野充義と同じです。しかし、佐藤優は沼野充義のようにやけくそになったり、びくついたりしないんです。佐藤優は平然と居直ります。それどころか、すすんで最先端=亀山郁夫を悪用しさえします。

 以前に私は最先端=亀山郁夫と佐藤優の対談の一部を「ものすごく読解力のない呆れた二人組による力みかえった傑作対談」として引用しましたね。

亀山 とすると、つまり、フロマートカ的に解釈すると、キリストは、大審問官の前で自己批判するために降り立ったという理屈になりますね。ドストエフスキーの思想上の真意は、イワンにあった、ということになる。ある意味で、革命肯定の思想です。
佐藤 その通りです。フロマートカは、基本的に革命を肯定的にとらえています。
亀山 そういう文脈で、「大審問官」を読み替えることもできるわけか。たとえば、イワンは、最後にわざわざキリストが大審問官にキスする場面を描いている。前日に、「大審問官」は、百人の異端派を火あぶりにしているわけですよ。その「大審問官」にキリストがキスをするというのは、どういう意味でしょうか。ギリシャ語(コイネー)で言われる「祝福」、あれは、神への賛美や信仰の共有をひとつの絶対的な前提、他人、他者に対して神の恵みをとりなすことを意味するわけですよね。大審問官よ、やめなさい、いずれ神の罰が下ります、という警告でないことは確かです。勝手にどうぞ、私は知りませんよ、ともとれないでしょう。むろん、キリストが自分の無力さの自覚を大審問官に告白しているわけでもない。無神論者のイワンからとらえると、その行為はどうなるのか。ほかでもない、現実に対する肯定であり、許しを意味せざるをえなくなるわけです。許す、ということは、仕方ないという認識につながっています。「仕方がない」は、消極的な肯定をおのずから意味することになる。興味深いのは、「大審問官」の物語詩を語り終えたイワンに、アリョーシャが何も言わずにキスすることです。イワンが「いまのキス、さっきの盗作じゃないか!」と叫ぶように、明らかにアリョーシャのキスは、キリストの大審問官へのキスを反復しています。「大審問官」の作者は、イワンです。ですから、キリストのキスは、イワンの世界観の反映としてあるはずです。逆にアリョーシャのイワンへのキスの場面は、おそらくドストエフスキーの……
 このキスについて、以前から自分なりの解釈をもっていて、ドストエフスキーが果たせなかった『カラマーゾフの兄弟』続編でも、このモチーフは何らかの形で反復されただろうと想像しています。つまり、アリョーシャは、皇帝暗殺をほのめかすコーリャ・クラソートキンに対して、同じキスを反復するのではないかと空想しているんですよ。
佐藤 ここでの「キス」は、理論から実践への質的な転換を表すのではないでしょうか。「おしゃべりはいらない」と口を封じ、あとは行動のみあるという。受肉を象徴的に示しているのだと思います。
亀山 つまり、励ましのキスということですよね。

亀山郁夫+佐藤優『ロシア 闇と魂の国家』 文春新書


 一方の最先端=亀山郁夫の発言はというと、最先端ぶりが見事に発揮されていますが、このとき他方、実は、佐藤優は、自身では「大審問官」の本質をきちんと読み解いていたにもかかわらず、わざわざそうでないことをしゃべっていたんじゃないでしょうか? だから、これは「ものすごく読解力のない呆れた二人組による力みかえった傑作対談」なんかではなくて、「ものすごく読解力のない呆れた」相手を利用して ── 力みかえらせまでして ── ドストエフスキーを故意に歪曲して読者に伝えようとした佐藤優の策略だったのじゃありませんか? 最先端=亀山郁夫の方はまったくそんなことには気づきもしていません。最先端だからです。自分がどれほど馬鹿にされ、そそのかされ、いいように利用されているかもわかっていません。最先端だからです。

 さて、先に触れた『ぼくらの頭脳の鍛え方』ですが、これの第三章というのが「ニセものに騙されないために」というとっても愉快な章題で、次のようなやりとりがあるんですね。

ニセ科学に抗して
立花 今のお話をうかがって、ホロコースト否定論ができあがった経緯を思い出しました。リストに挙げた『なぜ人はニセ科学を信じるのか=歪曲をたくらむ人々』(マイクル・シャーマー著/ハヤカワ文庫NF/立花 164)が、そのあたりを詳しく論じています。
佐藤 いい本ですね。
立花 要するにホロコーストを進めるときの、上司の指示の出し方が「うまくやれ」なんです。それを現場が忖度して、ホロコーストを実行する。そうすると、ホロコーストがいかに行われたのかについて証拠を探そうとしても、きちんとした命令があるわけではないから、あちこちの証拠が抜けている。その抜けている部分の証拠だけをつないで論を立てると、ホロコーストはなかった、という証明が可能になってしまう。
佐藤「うまくやれ」という言葉の中に、ものすごい暴力性があるんですよ。
 立花さんが科学的なテーマでいろんな発言をされていることは非常に重要なことだと思うんです。というのは、ニセ科学の破壊力は現在、かつてないほど大きくなっているからです。私はニセ科学の問題を理解するときに非常に参考になるのは、ユルゲン・ハーバーマスの『晩期資本主義における正統化の諸問題』(岩波現代選書)だと思います。もうタイトルを聞くだけで読みたくなくなるような本ですが(笑)、ここでハーバーマスが言っていることは極めて平易なことなんです。何でこんなに科学技術が進んで識字率が高くなっているのにみんなつまんないことを信じちゃうの? それを一言で言うと、順応の気構えというものがあるからだと。現代人は、ある情報について、一つ一つ検証していけば、全部検証する基礎的な学力、別の言い方をすれば、論理関連を追う能力はある。しかし、検証すべき情報が厖大であると、一つ一つ自分で検証していたのでは疲れてしまうでしょう。そうなると、とりあえず識者が言っていることは事実として受け止める。自分自身はひっかかって理解できなくても、誰かが説得してくれるだろう、という気構えができるんです。この順応の気構えによって受動的になってしまう。だから、テレビを観ると順応の気構えがついてくる(笑)。ワイドショーの有識者のコメンテーターが説明してくれることはとりあえず確かだろうと受け入れる。これが怖いんです。そして、順応の気構えとテクネー(技術)が結びつくと、もっとひどい世の中になる。
 私がこの出版不況の中で、今、一番危惧を抱いているのは血液型占い本の流行です。血液型占いが爆発的ミリオンセラーを記録するなんて、あってはならない話なんです。血液型と性格を結びつける議論がウソであるということは、これはほぼ論証されています。それにもかかわらず、定期的に血液型占いの本が出てくるんですね。しかも今、アメリカ、中国、韓国でも出版されているんです。しかし、ヨーロッパには出てこない。やはりヨーロッパは血液型と性格を結びつけると、すぐナチズムとイコールだと見なされるから。

立花隆・佐藤優『ぼくらの頭脳の鍛え方』 文春新書


 ということは、「識者」が「ニセ科学」を正しいといえば、現代人は「順応の気構え」ができているから、「ニセ科学」を信じてしまうということですよね。だから、その「識者」がどういう「識者」であるかということが問題になるはずですね。

 つまり、これ、もちろん佐藤優は自分のことをしゃべっているんですよね? 先の彼の発言をここでちょっといい換えてみましょうか?

《何でこんなに科学技術が進んで識字率が高くなっているのにみんな、最先端=亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』なんていう、いいかげんででたらめな「ニセ翻訳」が「読みやすい」なんてつまんないことを信じちゃうの? それを一言で言うと、順応の気構えというものがあるからだと。現代人は、ある情報について、一つ一つ検証していけば、全部検証する基礎的な学力、別の言い方をすれば、論理関連を追う能力はある。しかし、検証すべき情報が厖大であると、一つ一つ自分で検証していたのでは疲れてしまうでしょう。そうなると、とりあえずこの私(=佐藤優)や沼野充義村上春樹などの識者が言っていることは事実として受け止める。自分自身はひっかかって理解できなくても、誰かが説得してくれるだろう、という気構えができるんです。この順応の気構えによって受動的になってしまう。これが怖いんです。そして、順応の気構えとテクネー(技術)が結びつくと、もっとひどい世の中になる。というわけで、私(=佐藤優)はいよいよテクネーを磨くことに励んで、もっともっとひどい世のなかをつくっていきますよ。》

 やれやれ。

 それでも、私は佐藤優の引いたハーバーマスの理屈に刺激されてこういいましょう。

 たぶん、ふつうのひとたちは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』なんかどうでもいいんですよ。翻訳を含めてその実物に当たる気持ちなんか全然ないんです。それよりも、彼らが欲しているのは、「古典名作」というブランドとしての『カラマーゾフの兄弟』であり、「世界の文豪」としての「ドストエフスキー」でしかなく、自分の代わりに読んでくれる「識者」の「解説」だけをありがたがって聞いていれば、それで『カラマーゾフの兄弟』を読んだつもりになれるし、「ドストエフスキー」を知ったつもりになれるんです。それだけで満足なんですよ。その「識者」がどんな最先端でもかまわないんです。「ドストエフスキー研究の権威」なんていうレッテルをNHKなんかの大きいメディアが保証してくれていれば。つまり、ふつうのひとたちは、その実質がどうであろうが、ただもうそう呼ばれているものに対しての「順応の気構え」ができているわけです。佐藤優はそこにつけ込みます。彼の見下すふつうのひとたちには「地上のパン」だけが大切です。だから、ふつうのひとたちは、自分は今後も『カラマーゾフの兄弟』を読まないだろうけれども、「ドストエフスキー研究の権威」の話を聞くことはやぶさかじゃないよ、ということなんですね。何だか高尚なものに触れたなあ、という錯覚だけで十分なんですよ。「ああ、亀山郁夫先生がまたしてもテレヴィでお話しになっている!」なんてふうに感激してしまう。こんなことだから、佐藤優がいいたい放題できるんです。そうして大きいメディア ── 信念や検証能力の欠如した ── がその彼を重用するんですね。やれやれ。騙されるひとたちのどれだけ多いことか。こういうひとたちが増殖し、真面目な読者がついつい彼らに影響を受けてしまうんです。それを私は危惧します。

 しかし、私は佐藤優を買い被りすぎたかもしれません。
 というのも、右の文章を書いた後、私は自分の勤める書店で先月(二〇一〇年一月)刊の朝日文庫『ナショナリズムという迷宮』(佐藤優・魚住昭)をちょっと読んでみたんですね。扉にはこうありました。

本書は二〇〇六年十二月、朝日新聞社より刊行されたものに加筆・修正したものです。
本文中の肩書、名称等は、原則として刊行当時のままです。

(佐藤優・魚住昭『ナショナリズムという迷宮』 朝日文庫


 それから目次となり、いよいよ本文が始まります。まずは、佐藤優による「まえがき」なんですね。その最初の二行(これだけで一段落の全体です。この後、一行開けて次の段落(六行) ── ちょうどこれで最初の一ページになります ── が来るので、この段落は非常に目立ちます)を引用します。私はこれを読んで目が点になりましたよ。

私には人生の転換点で決定的な影響を与えた人が数人いる。そのうちの一人が魚住昭さんだ。

(同)


 ????? これは、本当に書いてあるままに読めばいいんですか? これは私の引用入力ミスなんかじゃありません。本当にそう書かれているんです。いや、佐藤優ほどの人物なら、右に書かれているそのままのことをいうのかもしれない、と真面目に思いましたよ。でも、つづく文章を読んでいると、そうではないことがわかります。たとえば、こういう文章があります。

 私は魚住さんの手法に、かつてロシアで私が深く影響を受けた二人と共通の要素を感じたので、この人と話を続けると私の中にあるナショナリズム、国家に対する混沌とした知識を整理することができると感じ、できるだけ頻繁に飲みに行くようにした。魚住さんとの出会いがなければ、私は書斎に引きこもり、社会に再び出て行くという選択をしなかったと思う。従って、本を書くことも、論考を発表することもなかったと思う。

(同)


「私には人生の転換点で決定的な影響を与えた人が数人いる」じゃなくて、「私には人生の転換点で決定的な影響を与えてくれた人が数人いる」とか「私には人生の転換点で決定的な影響を受けた人が数人いる」というふうに書くべき内容の文章じゃないですか。

 やれやれ、です。

 こんな文章を許した編集者の程度も知れますね。

 私はつまらない揚げ足取りをやっているんでしょうか? それにしても、この本の実質的な最初の一文なんですよ。親本刊行から約三年間、文庫化に至っても、この文章は放置されたままのようです。誰も何もいわなかったんでしょうね。つまり、これを読んで、何もいわないような読者しか、佐藤優にはついていないんです。それはそうでしょう。最初からこんな文を読まされて、「?????」と思ったまともな読者は不愉快になって、もう本を閉じてしまうでしょうから。

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