「些細なことながら、このようなニュアンスの違いの積み重ねによって読者は、少しずつ、しかし確実に原典から遠ざけられて行く。」その一六


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 さて、「現代思想」四月号増刊「総特集=ドストエフスキー」(青土社)のすごいところをちょっとだけ ── しかし、長くなりそうな予感がして嫌なんですが ── 解説しますか。
 目玉はやっぱり最先端=東京外国語大学学長=亀山郁夫大先生による、「チーホンの庵室で」(『悪霊』)の翻訳でしょう。いわゆる「スタヴローギンの告白」のところですね。でも、この翻訳、そんなに長いものじゃないですが、私は全部なんか読んじゃいません。なぜかというと、読めたものじゃないから。こんなものを律儀に全部読んでたら、こちらの頭がおかしくなってしまいます。それほどすごい。何といっても、「あなたの前には、ほとんど越えがたい深い淵が立ちはだかっている」 ── ですから。いったい、他の誰にこんな日本語が書けるでしょうか? これが目に入ったときの私の頭のなかは、佐藤優の「私には人生の転換点で決定的な影響を与えた人が数人いる」を読んだときなんかの比ではなく、何かもう叫びだしたくなるような馬鹿ばかしさでいっぱいになりましたよ。いや、もうすでに私は口にしていましたけれど、あらためて断言します。亀山郁夫こそは真の最先端=馬鹿=低能です。これほどまでの馬鹿=低能がほんとにいるんだなあ、って感心しちゃったくらいにすごいです。いや、参りました。私は、この馬鹿=低能につき合って、そろそろ三年めが視野に入ってきているんですよ。これは何なんですかね? やれやれ、やれやれ、です。念を押しておきますが、好きでやっているんじゃないんですよ。こっちは非常に迷惑しているんです。しかたなく、やっている。やらざるをえないから、やっているんです。

 というわけで、チーホンがスタヴローギンの文書を読み終わったところ。

「この文書にいくつか直しを入れてはまずいでしょうか?」
「どうしてです? ぼくは真剣に書いたつもりなんですがね」とスタヴローギンは答えた。
「文章を少し」
「前もって言っておくべきでしたが、あなたがどう言おうと、それはむだです。この計画を先延ばしする気はありませんから。思いとどまらせようとしてもだめです」
「あなたはさっき、わたしがこれを読む前にそのことを忘れずにちゃんとおっしゃられてましたよ」
「どっちにしても同じことです、くどいようですが、あなたの反論がどんなに有力なものでも、自分のプランをあきらめる気は毛頭ありませんから。いいですか、ぼくは、へたくそか、へたくそじゃないか ── まあ、どうお考えになろうと勝手ですが ── 、この文章であなたにお願いする気なんてぜんぜんないんです。いますぐぼくに反論してくれとか、説得してくれとかね」耐えきれなくなったのか、彼は急にまた一瞬、さっきの口ぶりにもどって言い添えた。がすぐさま悲しげに自分の言った言葉に対してほほ笑んでみせた。
「あなたに反論したり、ご自分のプランをあきらめるよう説得しようにも、できないでしょう。ここに書かれている思想は、偉大な思想です。キリスト教の思想をこれ以上十全に表現することはできません。懺悔をもってしては、あなたがお考えになった、このような驚くべき偉業の先を行くことはできません、ただもしもです……」
「もしも、何です?」
「もしもこれがほんとうに懺悔であり、ほんとうにキリスト教的な思想であったなら、の話ですよ」
「そこは微妙な気がしますね。どうでもいいってわけにはいかないでしょう? ぼくは大まじめに書きました」
「あなたはどうも、ご自分の心が望んでいるところより、わざと露悪的に見せようとなさっている……」チーホンの口ぶりはますます大胆さを帯びていった。明らかに、この「文書」が彼に強烈な印象をもたらしたらしかった。
「『見せる』ですって?  ── くどいようですが、ぼくは、別に何のふりもしていないし、ことさら『気どって』みせた覚えもありませんよ」
 チーホンはすばやく目を伏せた。
「この文書は、致命的に傷ついた心の欲求からじかに生まれてきたものです。 ── わたしはそう理解しているのですがね」 ── 彼は執拗に、異常なほど熱をこめて話をつづけた。「そう、これはまさしく懺悔ですし、ごく自然な懺悔への欲求です、それにあなたは打ち負かされた。そうして、あなたは大きな道、前人未到の道に踏みこまれたのです。それなのに、あなたはもう、今から、ここに書いてあるものを読む人々をことごとく憎んで、戦いを挑む気でおられるようだ。罪を告白することを恥じないあなたが、どうして懺悔を恥じることがあります? 勝手にわたしを見るがいい、とあなたはおっしゃっている。それじゃ、あなたご自身は、どんなふうにその人たちをごらんになるのです? あなたの叙述のなかには、ところどころ強い表現が見られます。あなたはまるで、ご自身の心理にほれぼれとなさって、どんなこまかな点もおろそかにしない、それもひとえに、あなたにはない冷徹さで読む人を驚かしてやりたいからです。いったいこれが、裁き手をへとも思わぬ罪人の挑戦でなくしてなんです?」
「いったいどこに挑戦があります? ぼくは、ぼく個人の判断をいっさい避けたつもりでいますがね」
 チーホンは口をつぐんだ。青ざめた顔に赤みがさしたほどだった。

ドストエフスキー「チーホンの庵室で」 亀山郁夫訳)


 ここで、私は江川卓の訳文を持ち出してきて、対照させることもできますが、どうやら、そう簡単なことじゃないようなんです。江川訳が底本としたテキストが「モスクワのロシア中央古文書庫版(一九二二年)とニューヨークの「インター・ランゲイジ・リテラリー・アソシエイツ」版(一九六四年)」であると新潮文庫『悪霊』の解説にあります。対する最先端=亀山郁夫訳の底本としたのが、「リュドミラ・サラスキナ編集による『悪霊』の一部」ということで、両者は違うんです。だから、江川訳にある文が最先端=亀山郁夫訳には存在しない、ということがいくつもあります。この点について、私は、いつものように、ロシア文学に詳しい友人に問い合わせてみましたら、なんと、江川訳が底本としたテキストは、現在の研究の主流ではないらしく、友人がかろうじて当のテキストを(ほとんど偶然のように)所有していたのでなければ、さすがの彼も、原典にありもしない文章を江川卓が捏造していたのかと疑うところだったようです。もっとも、江川卓は、「告白」の部分だけについて、先のテキストを底本としたのであって、それ以外の ── そもそも原作者ドストエフスキーが生前に刊行した ── 本編はべつのもの ── 「ソ連国立文芸出版所収『ドストエフスキー十巻作品集』(一九五七年) ── を扱っています。
 ともあれ、私としては最先端=亀山郁夫の誤訳を問題にするのでなく、「日本語作品」としての表現を問題にするだけの話です。「日本語作品」として最先端=亀山郁夫訳は失格です。あまりにもひどい。こんな馬鹿=低能が高村薫を前に「『カラマーゾフの兄弟』の訳文のモデルに『照柿』のスタイルを採用できないかな、と考えたこともあります」なんていい気になってしゃべっていたのが、はったり、あるいは単なる軽口にすぎないことがいまの私にはわかります。なぜかというと、最先端=亀山郁夫程度には、所詮「あなたの前には、ほとんど越えがたい深い淵が立ちはだかっている」 しか書けないんですから。

 さあ、それじゃ、行きますよ。

「この文書にいくつか直しを入れてはまずいでしょうか?」


「まずいでしょうか?」って何ですか? 江川訳では「この文書にいくつか訂正をほどこすことはできませんかな?」。おそらく、原典は直訳的には「この文書にいくつか直しを入れることができませんか?」なんじゃないですか? なぜ、それをわざわざ「入れてはまずいでしょうか?」にするのか? まずいでしょう。意味が違ってしまう。なぜこんな曖昧ないいかたにして訳すのか? それとも、これが例の「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」(光文社古典新訳文庫)なんですか? こんなものがそれなんですか?

「どうしてです? ぼくは真剣に書いたつもりなんですがね」とスタヴローギンは答えた。


 ここで考えなくてはいけないことがあります。スタヴローギンは、チーホンの要求をどういうものだと思っていたでしょうか? いくつかの「内容」 ── 文書中のスタヴローギンの行為 ── の削除を求めていると思ったんじゃないでしょうか? それほどまでに過激な「内容」 ── 彼自身の行為 ── の文書であることを彼自身が承知していたからです。ところが、チーホンは文書の「内容」ではなくて「表現」の訂正を求めていた ── 「文章を少し」 ── んです。ここにふたりの思っていることのずれがあります。このことは覚えておいてほしいですね。
 ともあれ、スタヴローギンは訂正の必要がないとチーホンに答えるんです。なぜなら、彼は ── この後の方まで読めばわかりますが ── 事実をそのまま表現したつもりでいるからです。誇張もしていないし、逆に、大事なことをごまかして小さなことだったかのようにも表現していない、というつもりなんです。自分は事実を正確に、間違いなく表現したのだ、事実は、まさにこの通りなのだ、だから、訂正など考えられない。そういうわけで、彼はチーホンに「どうしてです?」と訊くんです。そういって、私が右に書いたような、彼自身のつもりを表明することになるんです。つまり、「事実をそのまま表現した・誇張もその逆もない・正確な・間違いのない表現をした」という意味が単語ひとつで口にされているのが、最先端=亀山郁夫によれば「真剣に」 ── 「ぼくは真剣に書いたつもりなんですがね」 ── なんですね。この「真剣に」ということばが日本語としてどれほど妥当か、を私は問題にします。「真剣に」表現したのなら、「事実をそのまま表現した・誇張もその逆もない・正確な・間違いのない表現をした」ということの説明になりますか? なりません。いくら「真剣に」書いても、不正確な、間違いのある表現はありうるでしょう。同じようなことばに「一所懸命」があるかと思いますが、いくら「私は一所懸命に書いたのに!」といっても、その文書に間違いはいくらでもありうるでしょう。「一所懸命に」書かなくてはなりませんが、「一所懸命に」書けばいいというものではないんです。「一所懸命」に書いたからといって、それがよい文書であることにはならないんです。そうして、「真剣に」も同様。「真剣に」書いたからといって、それが正しいということにはならないんです。だから、スタヴローギンの返したことばには、彼自身の「真剣」さとはべつの視点の入り込んだ、彼自身の思い込みの少ないことば、より利己的な要素のないことば、彼自身よりも彼の文書の表現の方を優先したことば、そうしてチーホンにもそのことがすぐに理解しうることばが必要なんです。江川訳では「誠実に」となっています。こちらの方が「真剣に」より断然優れています。
 で、いましがた少しいいかけたことのつづきをいえば、この後もスタヴローギンは ── 最先端=亀山郁夫訳では ── 「ぼくは大まじめに書きました」、「ぼくは、ぼく個人の判断をいっさい避けたつもりでいますがね」と、弁明するわけです。右で問題にした箇所を含めれば、「ぼくは真剣に書いたつもりなんですがね」、「ぼくは大まじめに書きました」、「ぼくは、ぼく個人の判断をいっさい避けたつもりでいますがね」。江川訳ではそれぞれ「ぼくは誠実に書きました」「ぼくは誠実に書きました」、「ぼくは主観的な判断はいっさい除いたつもりですが」となっています。この三つのうち、前二者における最先端=亀山郁夫の「真剣に」、「大まじめに」は、江川卓訳の「誠実に」、「誠実に」にあるように、原典では同一の単語が用いられていたのじゃないですか? 翻訳者は、もし原典のふたつの台詞に同一の単語が用いられているのであれば、どちらの台詞にもぴったりくるような同じ訳語を探すべきですよね。そうしなかった(かもしれない)最先端=亀山郁夫は、ある台詞には「真剣に」がぴったりくると思い、もうひとつには「大まじめに」がいいと思ったわけです。もちろん、同一だからといって、同一に訳さなければならないということもないですけど。でも、それは、同一に訳したら日本語としておかしい・原典のニュアンスを損なう、という場合じゃないでしょうか? ここがそれに当たるとは思えません。

「前もって言っておくべきでしたが、あなたがどう言おうと、それはむだです。この計画を先延ばしする気はありませんから。思いとどまらせようとしてもだめです」


「あなたがどう言おうと、それはむだです」。これ、「あなたがどう言おうと、むだです」じゃ駄目なんですか? 「それは」が無駄じゃないですか? 江川訳では、「あなたが何を言われてもむだなのです」。また、私が疑うのは、原典が「あなたがどう」ではなくて、「あなたが何を」だったのではないか? ということです。原典が「あなたが何を」であるのに、それをわざわざ「あなたがどう」とやるから、どんどん無駄な日本語を使わなくてはならなくなる、ということはないですか?
 それに、「この計画を先延ばしするつもりはありませんから。思いとどまらせようとしてもだめです」は、江川訳では「ぼくは自分のもくろみを延ばすつもりはありません。思いとどまらせようなどとしないでください」。
 私が不思議に思うのは、最先端=亀山郁夫が、普段は登場人物にさんざん幼稚なことばづかいをさせているのに、ときおり、そのなかに「先延ばし」(あるいは「思いとどまらせ」る)などという、ちょっとべつのニュアンスのことば、その幼稚なことばづかいの人物にはそぐわないことばを混ぜる ── だから、それが全体のなかで浮いてしまう ── ことなんですね。最先端=亀山郁夫はどうして「この計画を延ばすつもりはありませんから」とやらなかったんでしょうか? これが最先端=亀山郁夫の言語感覚の珍妙さです。ある人物が幼稚な口のききかたをするのだったら(原典だって、おそらく文脈上、していないんですけどね)、それで統一すべきでしょう。その人物がわざと大人ぶったいいかたをする、という場面でない限り。
 私は、最先端=亀山郁夫によって、登場人物すべての知的レヴェルがぐんと下げられてしまっている、という印象を持ちます。もうひとつ、最先端=亀山郁夫訳での「……むだです」、「……だめです」が江川訳では、「むだなのです」、「……しないでください」になっていることにも注意しておきたいですね。両者の訳、あるいは日本語表現力の差は歴然としています。

「あなたはさっき、わたしがこれを読む前にそのことを忘れずにちゃんとおっしゃられてましたよ」


 「おっしゃられてましたよ」って何だよ? 「おっしゃいましたよ」だろうに。それに、「さっき、わたしがこれを読む前にそのことを忘れずにちゃんと」って、こんなんでいいのか? さあ、みなさん、これをゆっくり読んでみてください。

「あなたはさっき、
わたしが
これを
読む前に
そのことを
忘れずに
ちゃんと
おっしゃられてましたよ」


 どうですか? 何でこんなに間が抜けているのか? たとえば、「忘れずに」と「ちゃんと」は両方なければいけないのか? あのさあ、何でこんなに頭の悪そうな口のききかたをチーホンにさせるの? 江川訳では、「あなたはさっき、読む前にもそのことをちゃんと断られたようだったが」。もちろん、こちらではチーホンによる「私がこれを」が省略されています。でも、これで意味はまったく通ります。これも、ゆっくり読んでみてください。

「あなたはさっき、
読む前にも
そのことを
ちゃんと
断られたようだったが」


 最先端=亀山郁夫の訳文は弛緩しきっています。何のメリハリもない。いや、これ、ドストエフスキーが弛緩しきって、何のメリハリもない文章を書いているんだったら、いいんですよ。でも、そうじゃないでしょう。

「どっちにしても同じことです、くどいようですが、あなたの反論がどんなに有力なものでも、自分のプランをあきらめる気は毛頭ありませんから。いいですか、ぼくは、へたくそか、へたくそじゃないか ── まあ、どうお考えになろうと勝手ですが ── 、この文章であなたにお願いする気なんてぜんぜんないんです。いますぐぼくに反論してくれとか、説得してくれとかね」耐えきれなくなったのか、彼は急にまた一瞬、さっきの口ぶりにもどって言い添えた。がすぐさま悲しげに自分の言った言葉に対してほほ笑んでみせた。


「どっちにしても」なんて、やめてくれよ。せめて、「どちらにしても」、「いずれにしても」、「どちらにせよ」、「いずれにせよ」とかにしてほしい。これは誰と誰とがしゃべっているのか? しかも、どんなふうに・どんな状況でしゃべっているのか? これは真剣勝負ともいうべき対話なんですよ。それなのに、なぜ最先端=亀山郁夫はこれほどまでに緊張感ゼロの表現を重ねるのか? ここ、江川訳では単に「同じことです」。
 それと、「自分のプラン」。さっきは「計画」ということばを使っていたでしょうに。なぜ、ここでわざわざ「プラン」といい換えをする必要があるのか? 意味があるのか? あるなら、いってみるがいい。また、ここでわざわざ「自分の」ということばを訳す必要があるのか? 同様に、「あなたの反論がどんなに有力なものでも」の「有力なもの」。「有力でも」にならないのか?
 さらに、「この文章であなたにお願いする気なんてぜんぜんないんです。いますぐぼくに反論してくれとか、説得してくれとかね」 ── これだと、「お願い」が唐突すぎて、意味が取りにくいでしょう。読者は「?????」となりますって。せめて「この文章で、いますぐぼくに反論や説得をしてほしいなどとお願いする気なんかないんです」ぐらいにはしてほしい。
 もうひとつ。「がすぐさま悲しげに自分の言った言葉に対してほほ笑んでみせた」というのは何です? 「ほほ笑んでみせた」? 「ほほ笑んで」って何です?「みせた」って何です? そう訳したからには、このときのスタヴローギンの心理を説明してみるがいい。特に、「みせた」に私は強い疑いを持ちます。
 江川訳では、「「あなたがどんなに有力な反論を出されても、ぼくは自分の意図をひるがえすつもりはありません。申しあげておきますが、ぼくはこのまずい文章で、いや、うまい文章かもしれない ── それはどうなりと考えてください ── ぼくはけっしてあなたに早く反駁だの説得だのをはじめてもらおうとしたわけじゃないのです」彼は顔をゆがめて笑いながら、こう結んだ」。もっとも、底本テキストの違いで「顔をゆがめて」は、最先端=亀山郁夫の底本にはないのかもしれません。それにしても、「ほほ笑んでみせた」はないんじゃないですか?

「あなたに反論したり、ご自分のプランをあきらめるよう説得しようにも、できないでしょう。ここに書かれている思想は、偉大な思想です。キリスト教の思想をこれ以上十全に表現することはできません。懺悔をもってしては、あなたがお考えになった、このような驚くべき偉業の先を行くことはできません、ただもしもです……」
「もしも、何です?」
「もしもこれがほんとうに懺悔であり、ほんとうにキリスト教的な思想であったなら、の話ですよ」
「そこは微妙な気がしますね。どうでもいいってわけにはいかないでしょう? ぼくは大まじめに書きました」


「あなたに反論したり、ご自分のプランをあきらめるよう説得しようにも、できないでしょう」 ── これ、せめて「反論したり、計画をあきらめさせようにも、できないでしょう」とかにできなかったんですか? というより、原典は本当にこういう文なんですか? 江川訳では、「あなたに反論したり、あなたの意図を断念なさるようにとことさら説得したりは、私のすべきことではないでしょう」。全然違うじゃないですか?
「懺悔をもってしては」 ── これでいいんですか?  チーホンはスタヴローギンの文書を懺悔だと、それも最上級の懺悔(懺悔の延長上にあるものとして)だといっているんですよね。しかも、最先端=亀山郁夫はこの後「もしもこれがほんとうに懺悔であり」云々と訳しているんですよね。つまり、最先端=亀山郁夫訳の両者をつなげると、「懺悔をもってしては、このような驚くべき偉業の先を行くことはできません。もしもこれがほんとうに懺悔であるのなら」となるわけです。変じゃないですか? とんちんかんでしょう?「もってしては」と訳してしまうと、スタヴローギンの文書が「懺悔」を超えた、「懺悔」ではない、べつの何かみたいじゃないですか? いや、もちろん、べつのものなのではないか、とチーホンは疑っていますよ。でも、それを確かめようとして口にするのが「もしもこれがほんとうに懺悔であり」云々なんですよ。江川訳では、「いかなる悔悟も、あなたの考えられたような驚くべき偉業、〔自分自身に加えようとなさる罰〕以上には達しえないものです、ただもし……」。
 次。「もしこれがほんとうに懺悔であり、ほんとうにキリスト教的な思想であったなら、の話ですよ」。これ、「の話ですよ」がなぜ必要なのか、私にはまったくわかりません。こういう余計なことばが、ただでさえ弛緩している最先端=亀山郁夫の訳文をさらにも失速させるでしょう。意図はわかりますよ。意図はわかるけれど、必要がないんです。ものすごく難しいことを原典がまくしたててでもいるならともかく、こんな簡明な箇所で、なぜ最先端=亀山郁夫は余計な補いをするんでしょうか? それに「キリスト教的な思想」って、どうしてこんなふうに訳すのか? なぜ「キリスト教の思想」としないのか? 江川訳では、「もしこれが真に悔悟であり、真にキリスト教の思想であるならばです」。
 さらに、「そこは微妙な気がしますね。どうでもいいってわけにはいかないでしょう? ぼくは大まじめに書きました」。これもどうなんですか? これでは、スタヴローギンが馬鹿のように思えてきます。

「そこは微妙な気がしますね。どうでもいいってわけにはいかないでしょう? ぼくは大まじめに書きました」

亀山郁夫訳)


「それは微妙なところのようですね、どうでもいいというわけにもいかない。ぼくは誠実に書きました」

江川卓訳)


 江川訳の「どうでもいいというわけにもいかない」がスタヴローギン自身の内面の問いと答え ── 自己完結 ── である(つまり、スタヴローギンはもちろん自分の文書がキリスト教的であるかどうか=懺悔であるかどうかを気にしている)のに対して、最先端=亀山郁夫訳の「どうでもいいってわけにはいかないでしょう?」は、その問いそのものを何か江川訳より軽んじている・あまり重要と思っていないような気がするのと、「いかないでしょう?」ということで、自己完結ではなく、チーホンに答えを投げ出すように思われるということが、引っかかります。しかし、チーホンに問いかけているとして、「どうでもいいというわけにはいきませんよね?」と、もう少し同意を求めるニュアンスが入っていれば、まだ私にはわかるんですよ。ここはやはり、スタヴローギンにとってチーホンの疑問 ── 文書がキリスト教的であるかどうか=懺悔であるか ── がおろそかにできない、重要な観点だということを示しているのじゃないですか? それなのに、最先端=亀山郁夫の「どうでもいいってわけにはいかないでしょう?」は、そのことを全然伝えてきません。というか、最先端=亀山郁夫には、スタヴローギンにとってチーホンの疑問がおろそかにできない、重要な観点だ、ということがまったくわかっていないのではないか? まったくわからないので、いいかげんに訳語を当てたのではないか? しかも、最先端=亀山郁夫が「どうでもいいってわけにはいかないでしょう?」につづけるのが「ぼくは大まじめに書きました」なんですよ。「大まじめに」ねえ? どういう日本語感覚なんですかね? さっきもいいましたが、この「大まじめに」は、原典では、先の「真剣に」と同一の単語なのではないかという疑いがあるわけです。最先端=亀山郁夫にとって、「真剣に」と「大まじめに」は同じなのかもしれません。それにしても、「大まじめに」なんて表現をされると、スタヴローギンがどんどん軽薄になっていくような気がするんです。どうでしょう? 私のいいたいことがわかってもらえたでしょうか?

「あなたはどうも、ご自分の心が望んでいるところより、わざと露悪的に見せようとなさっている……」チーホンの口ぶりはますます大胆さを帯びていった。明らかに、この「文書」が彼に強烈な印象をもたらしたらしかった。
「『見せる』ですって?  ── くどいようですが、ぼくは、別に何のふりもしていないし、ことさら『気どって』みせた覚えもありませんよ」
 チーホンはすばやく目を伏せた。


「あなたはどうも、ご自分の心が望んでいるところより、わざと露悪的に見せようとなさっている……」。この「ところより」って何です? 「わざと露悪的」って、何ですか? わざとじゃない「露悪的」があるんですか? そういう二重の表現をドストエフスキーが原典に書いていたんですか? 江川訳では、「あなたは、ご自分の心が望む以上に、ご自分のことをわざと露骨に見せようとしておられる」。もし最先端=亀山郁夫江川卓の原典が同一なら、前者の「どうも」にも疑問が生じますね。また、「『見せる』ですって?」の「ですって」は不必要でしょう。「『見せる』?」でいいじゃないですか? しかし、江川訳でも「《見せる》ですって?」。もしかすると、ふたりとも引用符=《 》の直後に疑問符=?の来るのを、字面として嫌ったのかもしれません。しかし、私は原卓也訳のこれを思い出しますね ── 「《あなたじゃない》! あなたじゃないとは、どういうことだ?」。それはともかく、「『気どって』」というのは、何です? 括弧をつけているのは、その前に出ているチーホンのことばを引用したんですよね?「『見せる』」同様。だから、「『気どって』」ではなく、「『露悪的に』」じゃないんですか? あまりにも低レヴェルで、さすが最先端=馬鹿=低能=亀山郁夫です。

「この文書は、致命的に傷ついた心の欲求からじかに生まれてきたものです。 ── わたしはそう理解しているのですがね」 ── 彼は執拗に、異常なほど熱をこめて話をつづけた。「そう、これはまさしく懺悔ですし、ごく自然な懺悔への欲求です、それにあなたは打ち負かされた。」


「わたしはそう理解しているのですがね」の「ですがね」に首をかしげます。これもまた何か余計な休止のように思えてなりません。とはいえ、これとはまたべつの点から疑問が生じます。江川訳ではこうなっているんです。「この文書は、致命的な傷を受けた心の真の欲求から発したものです。そう理解してよろしいですかな?」。まあ、それもともかく、江川訳ではつづいて、「さよう、これは悔恨であり、あなたを打ちひしいだ自然な心の欲求なのです」とあるんです。ふたりの違いはどうなっているんですか?

「そう、これはまさしく懺悔ですし、ごく自然な懺悔への欲求です、それにあなたは打ち負かされた」

亀山郁夫訳)


「さよう、これは悔恨であり、あなたを打ちひしいだ自然な心の欲求なのです」

江川卓訳)


 両者のあまりにもの違いには途方に暮れます。ま、ここでも原典が両者で違うのかもしれません。いや、そうかな? 本当にそうなのかな? そうじゃないんじゃないかな? 私は最先端=亀山郁夫に原典の文の構造がまったくわかっていなかったのじゃないか、という強い疑いを持ちます。また、最先端=亀山郁夫がここで二度も用いている ── そうして、これ以前にも訳語に当てている ── 「懺悔」ということば、江川卓は「悔恨」としていて、彼が先に「悔悟」としたのとは異なっています。ここ、原典はどうなっているんでしょう? そう私が最先端=亀山郁夫を疑うのは、もうとっくに彼の翻訳を信用できないからですね。

「それなのに、あなたはもう、今から、ここに書いてあるものを読む人々をことごとく憎んで、戦いを挑む気でおられるようだ。」


 これはどうですか? これもゆっくり読んでいただきましょうか?

「それなのに、
あなたはもう、
今から、
ここに書いてあるものを
読む人々を
ことごとく
憎んで、
戦いを挑む気で
おられるようだ。」


 江川訳を並べてみましょう。

「ところがあなたは、
いまからもう、
ここに書かれたことを
読むであろうすべての人々を
憎悪し、軽蔑されて、
その人たちに向かって
挑戦状を
叩きつけておられる。」


 江川訳にある「軽蔑されて」が最先端=亀山郁夫訳にはありません。それはいいとして、最先端=亀山郁夫訳の「ここに書いてあるもの」はどうして「ここに書かれたこと」にならないんでしょうか? また「書いてあるもの読む人々」の ── 「を」の近接による ── すわりの悪さは、つづいて「ことごとく」とやってしまうせいですね。「書かれたことを読むすべての人々を」とすれば、よかったんじゃないですか? 誰だ、「音楽のようにリズム重視の訳」(http://www.keiomcc.net/sekigaku-blog/2008/08/post_258.html)なんていっていたのは? こんなに間の抜けた訳文もないでしょうに。

 あのね、これでやっと「現代思想」四月号増刊「総特集=ドストエフスキー」の一ページ分についてのコメントが終わったところなんですけれど、私はうんざりです。赤鉛筆を持ちながら、このページを読んだだけで、もう誌面が真っ赤です。ひどすぎる。

 私が編集者なら、こんな稚拙な原稿は突き返しますよ、「ふざけんな、この馬鹿野郎」といって。青土社の編集者って、それができないほど低レヴェルなのか? 彼もまた村上春樹柴田元幸高村薫豊崎由美大森望レヴェルでしかないのか?

(つづく)