子どもに指揮をさせることの害悪について

 小学校や中学校の合唱に際しては、クラスの子どもから指揮者を募ることが通例らしい。選ばれた子の親としては、堂々と指揮をする我が子を見て誇らしい気持ちになる機会だろう。しかし、この習慣は止めたほうが良いのではないか、負担になって申し訳ないが、こうした場合の指揮は音楽の教員がした方が良いのではないか、と私は思っている。

 理由をはっきりと言えば、「指揮」の技法や何やらを知らぬ子どもが、指揮者のもつ「皆をリードする」という役割に酔うだけのことにしかならず、害の方が大きいと思うからだ。指揮は歌と似ていて、その困難や要求される知識が理解されておらず、なんとなくできた気分になってしまう代表例ではないか。指揮は、深い音楽的知識と、リズムについての相当の身体的感覚を要求する技法であろう。しかし、打点の明確ではない腕の運動を行い、少々の感情をこめるだけで、自分がうまく指揮できていると勘違いをしてしまうリスクがある。ちょうど、歌が、本当を言えば発声法や発音に関して然るべき訓練をした方がよいのに、多くの人はそうしたことをしないことに似ている。いや、必ずしもそれが悪いわけではない。カラオケボックスで一人、自身のナルシシズムを微かに意識しながら歌っている人や、ステレオでオーケストラを聴きながら、やはり自分に酔っていること(加えて言えば自分の音楽的才能がそれほどないこと)を意識しつつ、指揮者のまねごとをする人は、誰にも迷惑をかけているわけではない。しかし、これを人前で、ナルシシズムに対する自省なしに行うならば話は違ってくる。スナックで、ひそかに称賛を求めながら下手な持ち歌を披露する人々と、同級生の指揮をして悦に入る生徒はどこか似ている、といったら言い過ぎであろうか? (いや、さすがに言い過ぎではあるが、真実に一端はついていると思う)

 さらに言えば、指揮の方がタチが悪いとも思う。歌の場合は、なるほど、賞賛を求める点では迷惑だが、聞いている人を導こうとするわけではない点でましではないか。指揮はといえば、音楽的素養がないにも関わらず、同級生を導き指導することができる、と幻想を子ども(とその親)に生み出す点で、害悪を垂れ流しているように思う。

 こうした中学時代の指揮がきっかけで、未来の大指揮者が生まれることもあるかもしれない。しかし、それはごく稀な事例だろう。功利主義的な観点から言うなら、そうした稀な事例のために、多くの子どもに誤った「権力を用いる喜び」を教え込むような習慣は、廃したほうが良いのではないか。

 

M&M' s

(4月18日記)

年齢を聞かれたら

 年齢を直接に尋ねる/尋ねられることは以前に比べて少なくなっているが、共通の話題で盛り上がる中で世代が近いかもしれない、などと思い、「失礼ですが、おいくつですか?」などと聞く/聞かれることもなくはない。そうした時は、「いくつに見えますか?」などと阿呆な答えは当然せず、淡々と事実を答えるのが普通だろう。
 もっとも干支で答える人もいる。これまでは、単なる癖だろう、くらいに思っていたが、ちょっと狙いの違う人もいるかもしれない。

 

 先日、職場で呑んだ時の話。年度始めということで、初対面の人も多くいらっしゃるやや公的なパーティーがあり、その後、見知った人、これまではZoomでのみお話ししてきた方、初めての方も含めて五人ほどで呑みに行った。この席にいらっしゃった初めてお会いした方(男性)が、独特の色気のある方で、話題豊富にして話し方も若々しく、少しお話しするだけでも、人の気持ちを惹きつける方でいらっしゃる、と思った。流れの中で、ある方がこの方に、「Yさん、そういえばおいくつですか」と尋ねたのだが、Yさんの答えが「〇です」と、干支で答えるものであった。
 干支で答えられると、私としては、「Yさんはおいくつかしら」と、自分の干支と比べながら、あれこれ計算する。そして、計算が終わったときに、はたと思いついたことがあり、初対面であるにもかかわらず、次のようにYさんに申し上げた。

 「Yさん、お上手ですね。直接においくつとは言わず、干支でお答えになると、こちらとしてもYさんがおいくつだろうと計算し、その間、Yさんのことを考えることになる。Yさんに惹きこまれる感じになる。Yさん、きっとおもてになるでしょうけれど、会話の中でも年齢の話になったら、干支で答えて、相手の方の関心を自然に惹きつけてきたのではないですか?」

 これを聞いたYさん、ニコニコとしながら、「いや~、見事な分析だな、そんなふうに狙っているつもりはなかったけれど」と大きな度量でおっしゃる。その鷹揚とした応対も、また魅力的であった。

 真実のほどはわからないが、案外私の分析があたっているような気もする。私も、今度、年齢を尋ねられたら、干支で答えてみようかしら? もっともこれは、魅力的なYさんだからこそ効果的な技であって、私などがしたら、「M&M'sよ、いいから、素直に年齢を答えるのだ」と、ブーイングを浴びてしまいそうですが。

 

M&M's


追記:そういえば、未成年でたばこを吸う人は、路上での警官の職務質問で年齢をごまかせるように、20歳以上になるような干支をすぐ答えられるようにしておくとよい、などという話がありましたが、あれは都市伝説ですかね?

 

(久しぶりに期日通り4月5日に書きました)

年度の変わり目に

 言うまでもなく、年度の変わり目となった。通常この時期は、「凪のような穏やかな時間」をすごすのだが、今年は、2月、3月と、やや大きな仕事を入れたため、あたふたとしたままこの時期を迎えてしまった。それもまたよしだろう。何にせよ、仕事があるというのはありがたいことだ。慌ただしい中でも、畏友Hさんのお墓参りに行き、あわせてコロナで久しく会っていなかった友人と久闊を叙することができた。

 

 さて、何の脈絡もないけれど、年度の変わり目にあって、ごく簡単な決意表明をしておきたい。誰のためというわけではなく自分のためなのだが、将来、私自身が自身の生活を振り返るためのよすがとしたい(また、こうした記録が、どなたかに「よし、自分も何かを決意してみよう」という思いへと誘うものとなれば、少々傲慢ではあるけれど、やはり嬉しいものだ)。

1)チェロのレッスンを再開します。実は、娘の吹奏楽部の同級生のお父さまが我が町では著名なチェリストであることがわかり、思い切ってレッスンをお願いした次第です。ミーハー心がくすぐられたことは否めない。
2)運動を再開したいと考えています。コロナもあって、スポーツクラブにも随分と行っていないけれど、復活したいところです。いや、結構筋肉が落ちています。
3)デジタル・デトックスは真剣にしなければ。仕事のあらゆる場面でPCを使うことから、ついそれに向かっている時間ばかりとなってしまっているけれど、相当に意識して、PCに触る時間を減らしたいと思います。具体的な数値目標はこれから考える!
4)3)に付随するけれど、読書の時間を増やさなければ。読書の目標もどうにか立てたいところです。
5)これは4)に関わってくるのでしょうけれど、自宅では禁酒にしようかと思います。最近は呑み会も普通に戻って来たし、どうしても呑みたければ、一人でふらりと少し呑んで帰ってもよし、としましょう。ただし、コロナをきっかけに定着した遠隔呑み会の際は例外といたします(色々意見はあるでしょうか、私、抵抗感が少ないというか、むしろ楽しめるほうです)。
6)例年仕事の都合で受験できないイタリア語検定、今年は受験できるかも。とりあえず受験準備を進めようと思います。

 皆さんも、年度終り、年度はじめでお忙しいところと思います(こけぐまさんも慌ただしい毎日をお送りでは?)。そうした中、皆さまの「決意」はどのようなものでしょうか?
 お元気で、よき日々をおすごしください。


 M&M's
(4月4日記)

日記

北京にきてだいたい一か月がすぎました。
この間にできるようになったこと。

コーヒーを注文する
コーヒーのチェーン店で注文をしようとしても、店員さんはいそがしそうに持ち帰りのコーヒーの用意をしているのみ。困っていたらここにコードがあるよと示されて、それをスマホのアプリでスキャンして、自分で注文し支払いもするスタイルらしい。注文した品ができるとアプリが知らせてくれるので、コードをスキャンしたうえで受け取って終了。そのほかのお店も、お客が机にあるコードをスキャンして、注文から支払いまで済ませるスタイルのレストランはかなり多い様子。

地下鉄に乗る
地下鉄の乗り場には空港のセキュリティチェックポイントと似たスキャナーが置かれていて、そこを通ってから改札。改札のはじめとあとでアリペイのアプリでコードを出してスキャン。娘の幼稚園から20キロほど離れた現在のアパート1へ帰ると、30元強(地下鉄6元、Didi25元)で時間は90~120分。同じ所へDidiだけでいくと60~70元くらいで、時間は30~40分。時間をお金で買う感じ。

自転車に乗る
将来のアパート2から娘の幼稚園へ迎えに行ったり(アパート2と幼稚園の距離は3km)、近くのお店に買い出しにいったり。乗る前後にアリペイでコードを出してスキャン、乗り終わったあとにもスキャン。レンタル代は1回1.5元。北京では直進する車用の本道の横に、次の交差点で曲がる車用の補道があって、そこを自転車と車がシェアして走ります。運転はどちらも強引に道を切り拓く感じなので、他の自転車の群れに入る感じで進みました。歩道をスクーターが走ったり、補道を自転車やバイクが逆走したりと、あんまり安全ではない。でも自転車でいろいろ行けるのは楽しい。

バスに乗る
幼稚園から3㎞ほど離れたアパート2へ行くと2元。これもアリペイでコードを出してスキャン(乗車時と降車時)。バスは運転手の他に、乗務員が乗っていて、お客さんの警備と監視(喫煙とか飲食とか)をしている。私の荷物が多くて道をふさぎそうなとき、適当な場所に運んでくれたりもしました。ちなみに、最初は降車時にスキャンすることを知らずに乗っていたら、無賃乗車扱いになって携帯にメッセージがきました。アプリで降車したバス停を指定したら、解決。

 

感想:スマホアプリ天国、というか、スマホと通信なしには北京では生きていけない感じでちょっと怖いです。ネットサーフィンしていなくても、スマホを見る時間が増えました。

 

こけぐま

偶然の邂逅

 「新宿を歩いていたら偶々〇〇と会ってさー」なんて話、みなさん、聞きたくないですよね。私もそうです。知人がそんなふうに話し始めたら、走って逃げるとまでは言わないが(本当は走って逃げたいけれど)、話題をとっとと変えるタイミングを虎視眈々と狙います。
 しかし、書かせてください。すいません。

 

 2月某日、私は渋谷にいた。フランスからの客人の接待に付き合い、素晴らしい食事を堪能し、その後主催者から示された支払額(客人分を含む)に比喩ではなく目を白黒させつつも、とりあえず「二次会に向かおう」と歩いていた(海外からの客人の接待をした方にはおわかりいただけると思うけれど、ずっと外国語で話していると、その後どうしても、日本語で気楽に話したいという欲求にとらわれてしまう)。
 知人に「これはもう僕の知っている渋谷ではない」などと生意気なことを言いながら、しゃれではなく迷宮のような渋谷の駅ビルの中を歩いていると、記憶に刻み込まれた顔の人物が、知人と話しながらだろうか、前方から歩いてきて、あれ、と思ううちにすれ違った。間違えなく彼だ。大学の時のオーケストラでその見事な技術とカリスマ的な性格で皆を率い、その後、ヨーロッパ某国に渡って修行を重ね、今ではあちらの某オーケストラでヴァイオリンを弾いているKくんである。十年ぶりくらいになろうか? 一瞬「なぜ日本に?」と思ったけれど、「まあとにかく」と思い、一緒にいた知人に「ちょっと待っていて」と話して踵を返して追いかけた。やはりKくんで、一時帰国中とのこと。たまたま来日していた音楽家と寿司を食べに行った帰りとのことで、もうこの方とは十分に話したから、ということで、こちらに加わってくださった。知人と向かった二次会についてもあれこれあるが、それは省く(ユーロ高だから、といって、初対面の私の知人の分まで払ってくれた)。
 しかし、なかなかの偶然ではないだろうか。いや、ヨーロッパ某国に住んでおり一時帰国中の人間と、本州に住んではおらず出張で偶々東京にいた人間が、渋谷に雑踏の中ですれ違うのである。「いや、偶然とはそういうものだし、まあ、レアだろうけれど、だから何? オチは?」と言いたくなる皆さんの気持ちもわからないではないけれど、話したくなる私の気持もわかってほしい。

 ところでこれにもう一つ別の「偶然」が重なった。帰り際、終電近くまで彼と立ち話をしていたのだが、二週間ほど後に、同じオーケストラだったSくんならびにもう一人別のKくんと都内で呑むという(一瞬、「誘われていないよ」と拗ねかけたが、普段東京から〇百キロ離れた場所にいる私を誘わないのは当たり前)。ちょうどこれがまた、私の東京への出張時期と重なっていたのだ。「だったら来なよ」ということで、二週間後、私は、東京某所で企画された呑み会に予告なしで現われ、SくんとKくんを大いに(いや、多少)驚かせることとなったのであった(彼らが喜んだかには、確信はもてない)。

 実は去年の暮も、京都で阪急電車を降りようとしたら、以前一緒に働いていた女性に突然「M&M'sさん?」と声をかけられるなどした。というわけで、偶然の出会いが続いております。コロナが制度的にあけて、人の行き来が盛んになってきたからでしょうか?

 他愛のない話ではありますが、「偶然の出会い」としてはなかなかのものになるのではないかと思い、記した次第。

 今後私に「偶々〇〇と会ってさ」という話をしたい人は、このレベルを超えるもの(   (A) 自分の住居ではない場所で (B) 海外に住む友人と (C) 十年ぶりくらいに 偶然出会う)というものでなければなりません(←エラソー)。

 

M&M's

(3月29日記)

 

日記

北京にきて最初に驚いたことは、刃物が買いにくいことです。到着したのがちょうど全人代の会期中であったため、日用品の買い物に出かけて包丁を買おうとしたところ、北京市のスーパーでは果物ナイフすら扱っていなくて驚きました(聞いたら、許可がないとのこと)。「銃は抜き身で携帯しないでください」とアパートに注意書きがある土地から、スーパーで果物ナイフを売るのに特別な許可がいる土地にきたんだな~としみじみしました。

 

もうひとつ驚いたことは、スクーターやバイクが自転車扱いであることです。なので、歩道も通行しますし(歩行者は警笛を鳴らして追い抜く)、逆走もします。逆走はちょっと危ないかな~と思います。さすがに車が逆走しているのは見たことがないです。

 

新しい土地ではじめてのことがたくさんある時期には、生活に関する予測モデルの更新が頻繁に行われる感じがします。そして、旧モデルがどんなだったかが垣間見えるのが面白いです。

ちなみに、私のアメリカ生活の予測モデルと、日本生活の予測モデルで一番違うのは、安全と清潔さの項目です。アメリカから完全帰国して一週間ほどは、日本の清潔さに驚いたり(京都の四条大宮の交差点で、です)、安全さに自分がほっとしている感じがしました。でも、生まれ育ったのが日本なので、一週間もすれば、シューっと日本モデルを標準とする私になっちゃいました。

また、安全の項目は、北京はアメリカよりも日本に近いです。バスに必ず一人保安警備の人が乗っていたり、地下鉄に乗る前に荷物検査があったり、街中にはセキュリティカメラがあったりするので、北京で犯罪にあうことは少ないそうです(観光地を除く)。監視されているということはさておき、どの程度身の安全に注意を向けておくべきかでいうと、北京は日本に近い感じがします。

 

こけぐま

注意してくれる人のいるありがたさ

 同僚のKさんが職場を離れることとなった。尊敬し、また大切な友と思っているので(向こうもそう感じてくれているかは心もとない)、大変残念なことではあるが、Kさん自身の選択でもあるので、笑って送り出したいと思っていた。

 この記事の日付である3月15日、Kさん、並びに職場を離れる他の数人の方のための送別会が開かれた。こうした会が開かれるのは五年ぶりのこととなろうか。職場の方々との膝をつき合わせた呑み会も久しぶりということで、その良さを堪能してきた(恐らくこうした会の良さの一つは、重要な案件について、オフィシャルには言えないが重要なやや「プライヴェートな」意見や感じ方を交換する点にあるるのだが、その点には今日は触れない)。

 楽しい酒席であったので、翌日の仕事を考えて欠席のつもりだった二次会にも、そのまま流れで出席したのだが、その席で、私、失言を発してしまった。向かいにはKさん、右隣に尊敬する十以上年長のYさんがおり、「Kさんがいなくなって残念だ」といった話になったときに、文脈は省くが、私は、「実に不愉快」といった発言をしたのだ。もちろん戯言であり、Kさんも笑って聞いていたのだが、Yさんが、座を白けさせぬ穏やかな言い方ではあるが、「そうした言い方はよくないですね」とおっしゃったのだ。正直、一瞬虚をつかれる思いはしたが、「なるほど、それももっとも」と思い、「失礼しました」と言ったところ、Yさんが、「いや、そんなふうに言える仲なんでしょうが」ととりなす感じでおっしゃり、私が「いえいえ、失礼しました」と、YさんとKさんにお二人に曖昧に向けたような言葉を発し、一段落、話題はすーっと、別の事柄へと移っていった。

 いくつになっても、私はこういう失言をしてしまう。自己嫌悪に陥ることはなかったが、翌日、翌日と、少しこの場面を反芻してみた。そうすると、改めて、あの席で「そうした言い方はよくないですね」とおっしゃってくださったYさんのありがたみが心に染みてくる。もういい年の私に対して、折々私の言動を厳しくジャッジする妻と娘を除いては、私に厳しい意見をしてくださる方は減っている。また一般的な観点から言っても、昨今の風潮において、年少者に厳しい意見を言う人は減っているだろう。今回のことは「厳しい意見」というほどではないが、いずれにせよ、このようにやんわりと年下の非礼をたしなめることのできる「大人」は少なくなっているのではないか。

 こうした一般的な認識を背景とすれば、Yさんの言葉のありがたみが、一段と大きく思えてくる。この夜の酒席は、(この記事では触れていないが)Kさんという友人のありがたみを確認する機会であると同時に、Yさんのありがたみを感じとる機会ともなったのだった。

 

 こうした認識を少し拡大するならば、若い人には、「自分を叱ってくれる年長者のありがたみを知ることは良い」と伝えてよいことになろう。実際私もそう思う部分はあるし、娘にもそのように伝えている。とはいえ、これは、年長者が年少者に伝える言葉としては、やはり危険なものだ。要は「四の五の言わずに、年長者の言うことを聞け」と言っているようにもとられかねないし、実際、そうした底意があって、「叱ってくれる年長者のありがたさ」を説く、底意の卑しい人も山ほどいよう ーしかも、大概そうした人たちは、自分の底意の卑しさに気づいていない。私自身、若い人を叱ることのある立場にあり、かつその面倒はよくわかっているので、一方で「叱るとは、エネルギーを要することであり、相手を思っていなければできないことだ」という認識に賛同しつつも、これまでの人生で、「あなたのために叱っている」と言いながら、どう見ても自分のストレスを発散している(あるいは、自分に反論された腹いせに叱っている)としか見えない人を山ほど見てきたので、この認識をストレートに若い人に伝えることには、大いに抵抗がある。

 そうすると、私自身ができることは、年少者が「年長の〇〇さんに叱られて・・・」と愚痴を言っているのに際して、「○○さんも、君のことを思って言ってくれたのではないかな、そういう人は貴重だよ」と、具体的な場面に即してこの認識を伝えていくしかないのだろう。

 難しいものです。

 

M&M's

(3月22日記)