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kinta.org H

2018-10-03

認知症か統合失調症かなと思った

しかしどちらもくわしく知らない。なにがあるのか知らないしなにもないのかもしれない。たとえば姪とはなしているとき気がつくと。この幼児は姪。ここはわたしたち兄妹の実家。じぶんが幼児と同じ空間にいるが異常ではない。だいじょうぶと確認している。わかりませんけど姪はとても小さいこどもであることもあってどうだかわからないけどおそらくですけど確認は発声せずにしてると思う。母がだれかわからないというかこの人はだれなのか疑問に思ったか思ってないかはっきりしないけど、これは母でもし母でなくても何十年とつきあいがある人物だと確認してそして、あなたはだれですかとたずねたらおかしいと納得するのでたぶん少しの時間ほんのちょっとの短い間、目の前で話してる人をだれかわからなくなってるのかもしれません。だいじょうぶだいじょうぶと思いながら、オシロノクチモチ(御城之口餅)の説明をきいていた。階段をおりていてのこりあと3段だと確認してすぐに。なんで?と思いながら階下に落下した状態になっていて出血はなかったが体の部分に痛みがあって、どうやらのこりの段を意識してすぐ階段をおりるのをやめたようで生きていた父が「あぶないぞ」だったか「きをつけろ」だったか言ったことがあった。目の前の人間がだれだとしても、階段からおちたとしてもかまわないと思うし困っていないのだが、老人や幼児を死なすのがイヤです。いつか死ぬでしょうけど自分が殺害とか殺人をするのはイヤで、階段をおりるのをやめたのはやめたのでいいが、窓にむかって幼児を投げたらどうなるかなとか、裁ちばさみを老人のクチに入れたらどうなるかなと思ったことがあって、次の瞬間そうしてなかったからよかったけどそうしてたらどうしようと思うし、今はやめたことが連続してるけどいつか連続が止まるんじゃないかと思うし、それでもしかしたら危険だからこれは姪だこれは母だとずっと確認してるのかもしれないとも思うけど、ふつうに一般的にだれしもこれくらいの頻度でものごとの確認をしてるのかもしれない。兄が死んだことについて兄が死んだとしょっちゅう思わないと、もともと兄はいなかったのではないかと思って、死んだことが信じられないのではなくて生きてたことが定かでない感じで、ある程度若い年齢で50歳より若くて兄は急死してさわぎになった記憶があるから生きていたと言えるのだろうけど、「ひょっこり帰ってくる気がする」というような家族の発言のときにその人が帰ってくるという名目でここに来たらだれかたぶんわからないし知らない人が来たらこわいと思う。姪もおそらくそれをだれかはわからない。もう死んでるのではないかと思う。これを記してアップしてアップされたか確認するけどそれでなにが証明されるのか。

2018-09-26

いきおいがゆるやかにならないかと思った。半年ごとくらいに人が死ぬ。人はいつも死んでいるのが現実ですが、親族・姻族3親等以内とかの者が半年ごとくらいに死んでいて、兄の死を皮切りに。皮を切らせて肉を断つ、肉を切らせて骨を断つ。肉親・骨肉。共通の遺伝子を持つ可能性が高い人間が死ぬということは自分の未来に役に立つことがらがあるのかもしれず、ヒントをと思うのだけどすっかり疲れていて、半数は大きな、残りの半数は最小か最小限かのセレモニーをして、死んでから。それの大きさに関係なく生きているとただひたすら疲れるだけという感想で、次は自分なのではないかと、それはやっぱり遺伝という面から思うこともあるし、シンプルに疲れていてずっとしばらく疲れている感じがあって休みたいと長いあいだ思っているような気がしてます。100歳を超えた祖母がいて。生きていて。良くないという健康状態があるのだけど疲れているので身近な人、法的な手続きの必要があるような間柄とか、つきあいがやたらと。人生の半分以上とか長くかつ親しい間柄とかの人の死はやすみやすみにしてほしいのだけど実際にはみな。やすみやすみ死んでいて事故や事件や自然災害で家族全員亡くしたとかそういうことではないのだからやすみやすみ死んでいるのです。しかしまことに疲れてしまって次はわたしにしてくれと思っているのかもしれません。ゆっくりやすみたいとはそういうことかもしれず、以前にした約束。しばらく会っていない人としたまた会おうという約束を反故にしないと決めてくらしている。思っていることを限られた場所・人。つまり自宅で家人にしかはなさないでいて半年ごとくらいに人が死んでやすめないのかもしれないと思って、そんなわけない、でも。インターネットで世界中の人にむかって発言したらなにかすこし変化があっていきおいがゆるやかになるのではないかと思って記した。

2018-06-25

身近で暮らす創価学会学会員の人々がなにを考えているのかわからないしなにを考えているとしてもなんということもないはずなのだけどこのたび身近で暮らす創価学会学会員の人々の行動については非難したい気持ちでいるが創価学会に関係なくとても変な言動をとる人々がたまたまみなさん創価学会学会員だということなのかもしれませんけど本当に気持ち悪いしもしかしたら頭がおかしいのではないかととても疑問に思うけど頭がおかしいのでは?などとたずねたらすまいに放火や放尿などの加害をされるのではないかと不安ですし殺害されるのではないかととても不安に思うのでたずねることができないのだがたまたま創価学会学会員である身近で暮らす創価学会学会員の人々がなにも考えていない可能性はある

2018-04-18

かめのえさ

f:id:kintaorgH:20180418100344j:image:left今日からおそらく29つつめ。

テトラレプトミンからテトラレプトミンスティックにしたときがたぶん28つつめで、このたびの記録の空き容器がですのでおそらく28つつめで新しいのが29つつめ。


「きょうだいの配偶者

昨年兄が死んだのですけど、まだ1年経っておらず。兄が死んでから親族とか姻族とかの生死とか転所などがたて続けにあり。生はなかったです。死がいくつかと転院・転所がいくつもありまして、兄が死んでないときから転院はいくらでもあったから兄の死はなにかを思い出すときのマーカーの役割になっているだけで人々のくらし、わたしたちのくらしとしては前後に大きな差はなく年寄りは入退院をくりかえし死にそうな順に人は死ぬ。

兄の急死・急逝が、わたしにとって大きなできごとだったという自覚はあるけどいったいどのようなできごとだったのかは未だわからずしかし、わたしは死ぬことがこわいと思うようになっているのか目が覚めてすぐ、いつ死ぬかわからないのでいま死にたいと今朝は思った。兄の子らと親しくなる前に死にたい、死ななければいけないということをずっと思っている。


先日「弟の夫」というドラマをみて兄の妻の気持ちについてなにか気づいたような気がした。

のこされた兄の妻子については、まず困難な未来があることを想像し、そして。すぐには決断できない重要なことについてはなしたり、くだらないまったくどうでもいいことをはなしたり。そういう相手を失う、もしくはいないということがどういうことかを想像した。わたしや身近な人々や行政はなにができるのかを考えていたのかもしれません。

しかしもっとシンプルに。兄の妻は悲しいのではないかと思った。夫の死を悲しむドラマの場面をみておそらくはじめてちゃんと、兄の妻は悲しいのではないかと思った。

もしかしたらわたしも兄の死が悲しいのかもしれない。

よくわからない。兄に生命保険かけて殺人してたとしたら、できごとや気持ちがはっきりわかったのではないかと思う。


「弟の夫」は録画してたのをまとめてみたのだけど、満島ひかりさんが「荒木さんの写真はぜんぶ、愛感じる」と言ってる「写真家 荒木経惟 77歳の切実」の CM が流れてギョッとした。「その知識、本当に正しいですか?」を思い出して。


参照・参考

2018-03-21

決めなくてはいけないこととかときとかがあって、決められないのは仕方ないのかもしれないのですけど考えるとか調べるとか読むとかはしてほしいと思うことが多く、デート中の食事についてなに食べるなんでもいい中華にしようか中華はちょっとじゃあイタリアン……とか、夕飯なに食べたいなんでもいいよそれが一番こまるんだけど……とかの架空のやりとりはとても良いことのように感じる。電気ケトルの容量やらくらくスマホ4の色は決定しないと購入できないし、婚姻届に記した「婚姻後の夫婦の氏」で夫婦はくらしていくことになる。なぜそうしたかという自他からの問いと、正誤善悪の自問はずっとつづく。医師はおそらくなにかをわかっていたり知っていたりするだろうけど親族がそこにいる場合はドクターはうながすだけでどうするかは親族が決める。身近な人のとき。わたしたちにはドクターからていねいな説明がありそのあいだずっと医療スタッフによる心肺蘇生はつづけられていて、母が「もうやめてもらおうか」と言って兄の妻は「はい」と言った。そのときの母と、兄の妻にわたしはまったく同意したし今もずっとそれはそう。


生活看護介護があると決めなくてはいけないことやときは多く、看護介護を受ける本人の決定の力が小さい場合は関係者が決めることになってて(想像では育児も)、わたしどもについては被介護者の親族がそれをします。「保証人にだけはなるなと言われて育った」とか「金は出しても口出すなということだ」とか発言することは思考停止の発表だと長いあいだ思っていて、決まり文句のあと、入院・入所の保証人を断られても転院先の病院の選択を丸投げされても、思考停止してるんだなバカになったんだから仕方ないなと思っていて、しかし。同じようなことばをくり返し聞いているうちにもしかすると言い聞かせているのかもしれないと思い、自分自身に言い聞かせているのかもしれないと思い。やらないということを実行するということは勇気がいることで、自分がやらないことをだれかにやらせるのは甘えだとしたら、勇気もないし甘えることもできず先祖の遺言とか一般論とかみたいなことばにすがっているたいへん気の毒な状態なのかもしれず、舛添要一さんが言い続けた「介護はプロに」ということばも、西原理恵子さんがパートナーの介護はしないと公言するということも、それらを支持する人々のことも。決断がゆらがないように、後に続くだれかの気持ちが少しでも楽になるように自分自身にも公にも言い聞かせてがんばってるのかもしれないと思うようになったのだけどわたしがこの人たちのこのようなふるまいを支持しないということは変わりなく。現状「介護はプロに」は「介護は自分以外のだれかに」ととてもそっくりで、外国人技能実習生とか両親と同居している未婚のきょうだいとかナース(マン)とか。それぞれいったいなんなのか、未成年者や障害者高齢者の保護責任者とはいったいなんなのか。


「金は出しても口出すな」に関しては、本人宛の請求書にあるだけが経費じゃないのであるならあるだけ出してからそう言ってほしいし、入所とか転院のときにフィットした情報と意見と本人への説得はしてほしいし、そもそも圧倒的にたりないのは手足で。ベッドから車椅子への移動に手を貸してほしかったし家から病院までの足(車)を出してほしかった。自宅と急性期病院の往復をくりかえす状態を脱し、父はとうとうやっと療養のルートに乗ったので今後の移動は病院と相談ということになった。親族の足はもういらない予定だが、医療療養と呼びつつ中身はほとんど介護療養で今後どんな変更があるかわからない。介護はおむつ交換することばかりではないけどおむつを交換するにもひとりよりふたりがスムーズで、食事介助に3人4人は多いとは思うけど介護者が多すぎるという現実を未だ1日も経験したことがないのでわからない。


西原理恵子さんが言ったらしい「家族が不調なときに1番やっちゃいけないのは、親戚のおばちゃんにアドバイスをもらうこと」という現実はどなたかに。もしかしたら若い人々にあてはまるのかもしれないのだけど、年齢は関係ないのかもしれないのだけど、わたしの身近な「親戚のおばちゃん」たちは自分か家族が介護者か被介護者か病人のどれかで。こちらはアドバイスを、説明や契約のときには立ち会いを、現金の移動のときは付き添いを求められる。子らに相談して「おかあさんのしたいようにしたらいい」「おかあちゃんの決めたことに文句はないよ」などと言われたことをはなすおばさんの背中に手をあてる。母の背にはだれかが手をあてる。どうしたらいいのかわからないのは考える頭がたりないからかもしれないのだけど、考える人間の頭数がたりないのかもしれず、なにをどう決めても必ず後悔することはすでに知っているのに決定しなければならず。

手出しをして足を出して考えたことを口に出してお金はもっと出してほしい。ない人はいいです。


参考(参照?)

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