サウンドデモと公共性

http://d.hatena.ne.jp/ziprocker/20060913
またサウンドデモやる、というよりもうやったんですね。
なんかアドレス先の記事を巡って、ちょっとした議論になってるようですが、私が思うにこのデモへの違和感って主に二つの事から出ていると思うのですよ。

一つは、このデモを行う側の態度
もう一つは「公共性」ってやつの問題

まるでナロードニキだね

まず一つ目なんですが、端的に言ってしまえばこのデモを行う側がめちゃくちゃ閉じてるって事です。
「いやいや、閉じてねぇよ」と本人達は思っているかもしれませんが、はたから見ればめっちゃ内輪内輪していて閉じて見えます。良くわからない小難しい業界用語を散りばめて、舶来物の音楽や価値観で武装した集団。
地方に住んでいる田舎者の私にはそう見えます。
そして、ネタのつもりや宣伝とかのつもりで煽ったのかもしれませんが、その言葉の端々に浮き出る選民意識。

# quawabe 『共通のお約束≦「公共圏的」ですね。このコンテクストが分からないと素直になって「端的に論理矛盾」ではないことをみとめたらどうでしょうか。あとさ、Gentrificationやネオリベ/反グロが仲間内に通じない?! 大丈夫21世紀だよ?』

いやいやいや・・・通じない通じない。
ネオリベ」とか「反グロ」なんて言葉知ってるのは、運動圏や思想圏の人間かアカデミックな世界にいる人間位ですって、マジで。
マルチチュード」とか「オルタナティブ」とか「プレカリアート」なんって普通に知らないって皆。「プレカリアート」なんて同じ左翼圏や運動圏の人同士でも通じてなかったりしてますし。
2006-08-05

なんですか、プレカリアートなる珍妙な造語は。首都圏ノンセクト+若手左派アカデミシャン界隈が嬉々として使っているのを見るたびげんなり。なんでも、「不安定な」という意味のイタリア語とプロレタリアートをくっつけた造語だそうですが、著しく語感の悪いカタカナ語を振り回すのが国際連帯ですか? だったら私もプレカリアート。いやん。

マルチチュードとかプレカリアートとか、ただ単に「プロレタリア」の代わりの言葉が欲しいようにしか感じませんが、そんな言葉を嬉々として使っても多くの方には( ゚Д゚)ポカーンですよ。しかも説明するつもりも感じられないし。
まぁだからと言って、啓蒙してオルグっときゃ良いって事でもありませんが、自分達は外に向いているつもりでも、やっている事の方向性が非常に内輪に向いてる事をさして「閉じている」と感じるのです。
そういう事を自覚しているのか、無自覚なのかはわかりませんが、そんな状態でdisったり煽ったりしても自分達の閉鎖性を晒すだけで、気楽に見に行こうとか参加しようとは思いませんよ。
んで、最終的には関心も薄れて「あ〜またイカレ野郎が電波な事言ってるよ、ワロスワロス」で片付けられてしまいます。

公共性

え〜二つ目の問題というか、たぶんこれが一番のキモだと思うのですが

公共性 (思考のフロンティア)

公共性 (思考のフロンティア)

まずはこの本からいくつか抜粋します。
この本では「共同体」「共同性」と公共性をこう区別しています。


1:共同体は閉じた領域を作るが、公共性は誰もがアクセスしうる。
共同体は「外を形象化することによって内を形象化する」(つまり内と外を分かりやすく区別するために単純化する)が、公共性はそれをしない。


2:共同体は同質性を求めるが、公共性は成員の価値観と人間性が異質であることを求める。
その異質な人々の<間>に生まれる議論こそ、「公共性」である。<間>=公共性。


3:共同体はその成員が内面にいだく情念(愛国心・同胞愛・愛社精神などなど)が統合の要素だとしたら、公共性は、人々の間に生起する「出来事への関心」である。*1


4:共同性は、その場のみへの帰属を求めがちだが、公共性は様々な場にコミットしている事を求める。

サウンドデモの問題

以上4つの要素から考えまして、サウンドデモを行う側は本当に「公共性」や「公共空間」って奴を意識しているのでしょうか?
まずそもそもサウンドデモとそれを行う側は1と2が違いますよね。
客観的にみて、非常に内輪内輪していて閉じている印象を感じますし、デモに集っている方々も高円寺界隈の似たような人々。(これは4も絡むかな)ぶっちゃけ「また高円寺か!」と思いましたよ。本当、なんでこう中央線沿線に集中するんでしょ。あ〜あと下北沢とかさ。
以前に秋葉原でもやったそうですが、それでも東京西部のサブカル地帯に集中してますよね。
「中央線マルチチュード」とか自分達で言ってますし・・・。
ゆえに、はっきり言って「公共空間」の確保と言いながらも、やっている事は自分達の共同体や共同性を路上に垂れ流してるだけなのですよ。
「路上の解放」と言いながらも、結果的には路上を自分達の共同体で専有してるように映ってしまうのですよ。
だから、こんな意見だって出てくる。
http://d.hatena.ne.jp/t_yossy/20060916/1158370564

何が不満なのかよく分からないが、何か不満な気がするので、路上で大きな音出して(自分らの)快楽や(周りの)不快感を煽って自己主張するって言うのは、まんま珍走行為なんじゃないの?

もちろん、合法的にやってるんだろうし、周りに迷惑かけるのが目的でもないだろうし、まったく同じ人種とは言わないが、やってることは同レベルに見えるんだが。

「自分探し」とか言っちゃえばかっこはいいが、明確な目的もなく騒いだって「自分」なんて見つかるわけない。何か明確な目的や意義があるものに触れて、それと相対的に自分を見つめなおすことで、初めて見えてくるものなんじゃないだろうか?

そういう意味で、目的とか意義の定まらないデモなんて何の意味もないと思う。

2006-09-14のコメント欄より

オレは嫌だね、そんなの。うるせーだけだもん
なんであのエントリを書いたかって、そりゃー地元だからだよ。
当日は、地元じゃ大切な秋祭りがある。引用先のエントリにもちらっと出てくるけれど、オレにとっちゃくそったれなサウンドデモより秋祭りのほうが何億倍も大切なわけ。

つまりね、なんでデモが「邪魔」だとか「ウゼー」とかって言われるかというと、現状日本ではこの手のデモでは公共性は確保されないって事であり、そしてその事をサウンドデモ自らが証明しちゃっているっていう事なのですよ。
っていうか、あ〜いうデモで公共空間が確保されるのなら、うちの近所の電車の中とかとっくに公共空間になってますよ。皆電車の中で携帯やったり漫画よんでたり、カップルでいちゃついてたり、中にはおでん食ってたりする奴もいますが議論も何も起きません。皆互いに無視しあって閉じてるから。

日本の問題

そもそも私は日本に「公共性」とか「公共空間」なんてご大層な物があるのか、はなはだ疑問ですわ。
だってさ〜日本は今まで本格的な異民族の支配も大規模な移民の流入も、革命すらも経験していないんですよ。
歴史的にみて、日本で異なる価値観が同列の存在として一つの場や空間を作れた事ってありましたっけ?
大概は強力な共同体に吸収合併されるか、序列化されたり排斥されるかじゃないですか。
古代で言えば仏教なんてまさに、「日本」という共同体に飲み込まれましたし、中世では無数の共同体が乱立し封建制によって序列化されました。近代に入ってからは今まであった幕藩体制という無数の共同体達は明治政府という巨大な共同体に飲み込まれましたよね。*2大政翼賛会も似たようなもんだね。
そして陸軍とか海軍という共同体は公共性を作るどころか、足の引っ張り合い。
戦後は戦後で、全共闘運動などの左翼運動は同じ運動業界なのに、公共性を作れず内ゲバ
そんでバブル迎えて、消費によってもっとたくさんの共同体が生まれ、そしてさらに分裂して閉じていく。*3
本当、日本って「村社会」が好きだよね(苦笑


じゃあ、今まで日本で言ってた「公共性」とか「公共空間」ってなんだよって話になりますが、あれは私が思うに「日本」という共同体内部での「ルール」や「お約束」でしかなく、路上は「国」とか「県」*4という共同体が保有しているインフラでしかないって事なんじゃないのかと。
だからそもそも路上は公共空間ではなく、共同体の成員の為のインフラであり、その共同体に属さない奴には使わせたくないし、その共同体のルールを守らない奴は排除しようとするんですわ。

で、そんな日本でいくら「公共空間の確保!」といった所で、そもそも公共空間という概念がないので無い物ねだりでしかすぎないというオチ。

最後に

だからといって、私は現在のサウンドデモに変われとは言わない。そういうデモがあっても良いと思う。
そしてサウンドデモのようなデモに満足できなかったり違和感を覚えるのなら、他のデモやイベントに行けば良いと思う。デモやイベントはサウンドデモだけじゃないんですから。
そしてそれでも、満足できないんでしたら、じゃあ自分達で作っちまいましょうよ。
重要なのはね、そういう様々な共同体や価値観が同じ空間に共存し、なおかつ閉じず、そして対等に意見しあったり議論したりしてお互いを知り、何かを作っていくことであり、そういうことのできる場所や空間こそが「公共空間」であり、今の日本は一からそれを作る事が必要だって事ですわ。

*1:日本の社会運動は、これを混同しがちかと。

*2:琉球アイヌもこの口だね

*3:オタク・イズ・デッドもこの流れですな

*4:国>県>市って感じに序列化された共同体って感じかな