謎のシンタさん

kirindiary2005-12-30



 昨日、久し振りに会う友人二人と忘年会を楽しんだ。6年程前に英会話スクールで出会ったのが縁の始まりだが、クラスメートだったのもさほど長くはないし、ここ数年は年に1、2度会うのがやっとなのに、何故か集まると話が終わらぬほど盛り上がってしまう。
 一人は去年までアメリカに留学しており、一人はスペイン留学を終えて今はオランダで仕事をしている。二人の聞かせてくれる異国の話は実に興味深く、訪れたこともない国や町の様子を生き生きと思い浮かべることができる。4年ほど外国旅行をしていない私だが、聞いていると「行ったつもり」になれてお得でもある。


 さて、今回は「オランダ話」が中々興味深かった。
 「オランダ」と聞くと、何を思い浮かべるだろうか?私には、表層的かつ断片的イメージしか出て来ない。チューリップ、風車、運河、大麻安楽死フェルメール、「未亡人の一年」。「フランダースの犬」はイギリス人の小説だから違うし、オランダ映画もオランダ文学も鑑賞したことないなあ。もっとアカデミックに脳細胞を絞れば、「ベネルクス三国」とか「オラニエ公ウィレム」とかいう言葉が出ては来るものの、ところでそれって何だっけ?という塩梅である。全然アカデミックじゃないな。


 しかし、住んでいる人の話を聞いていると、オランダと言うのは実にへんちくりんな国である。
 まず、食事はサンドイッチ。とにかくサンドイッチ。「たまには豪華なものでもご馳走するよ」と言われて楽しみに付いて行っても、出て来るのは豪華なサンドイッチ。そして、致命的なことにおいしくない。しかも高い。
 食事のマナーはよろしくない。合理主義がお行儀を大きく凌ぐので、立ち食い・歩き食いは推奨されはしても眉をひそめられることはない。生サーモンはおいしいのだが、その食べ方は指でつまみ、上からべろーんと垂らして「あーん」と口で受けるというものがスタンダードである。
 さらに、これまた合理主義に基づく大雑把さが全てを支配している。必要ならば朝令暮改は大歓迎なので、言行不一致もさほど責められない。実地調査によれば、男性の9割がトイレの後に手を洗わない。理由?「自分の体の一部を触っただけなのに、何故手洗いが必要なんだ?」
 他にも、街灯少ない暗い夜道だの、暴走する無灯火自転車だの、「犬フン?雨で流れるよ」とか、オランダ人は世界一背が高い。それは何故か?乳製品をたくさん食べるから。ふーん、健康的だね。いやいや、その牛に成長ホルモンをバンバン投与してるから……などのダイナミックなオランダエピソードの数々を拝聴した。合う人はとことん気分良く過ごせるだろうが、合わない人間には全くもって耐えられそうもない。いーかげんを自認する私ですら、オランダには潔く負ける。自分が繊細な人間になったような気がしてくる。


 そんな話の中で一番面白かったのが、「シンタクラウス」に関するエピソードである。心太食らうす?なんじゃそりゃ?


 友人が語るには、シンタクラウスはサンタクロースとは別の、オランダ独特の聖人なのだそうな。しかし、伝統というほどのルーツを持つ存在ではなく、20-30年前に「商売道具」として脚光を浴びて以来の存在らしい。あくまでもその友人が言うには、オランダ人は基本的にケチであり、ケチに財布の紐を緩めさせるためにクリスマスセールの回数を倍にしたというのが、シンタさんの発祥理由なのである。じゃあサンタはいないのか?クリスマスは祝わないのか?というとさにあらず。そちらも存在はする。だが、シンタさんの方が規模は大きい。
 シンタさんはサンタさんじゃないので、フィンランドにはいない。12月になると、トルコから馬車に乗ってやって来る。オランダに立ち寄り、この時(12月上旬)オランダでシンタさん行事に参加するが、最終目的地はスペインである。良い子にはプレゼントをくれるが、悪い子は馬車に乗せてスペインに連れて行ってしまう。冬の(冬以外も?)スペインはオランダよりずっと快適そうだから、どうせなら悪行を働いて拉致されたいところだが、馬車で陸路を行くからしんどいとのこと。


 しかし、調べてみるとシンタさんというのはつくづく不思議なお方である。
 まず、一般に「シンタクラウス」と言えば、単純に「サンタクロース」の語源(オランダ語→英語)なのである。オランダからの清教徒の移民が「12月(6日)に聖ニコラスにちなんでプレゼントをする」という習慣をアメリカに持ち込んだ際に、聖ニコラスの逸話とクリスマスが合併された模様。つまり、オランダのシンタさんは本来の「シンタさんの日」に忠実かつ古典的な存在ということになる。
 ここから先は私の想像に過ぎないが、伝統的に細々と祝われてきた「シンタさんの日」は、一時アメリカから逆輸入されたきらびやかなクリスマスに取って代わられたのではないだろうか?だが、シンタさんという最早オランダにしか残らぬ習慣に着目した目端の利く誰かが画策し、シンタさんが商業主義との結婚を果たしたのが「20-30年前」のこと(と想像)。以降、オランダでは12月に2人のプレゼント聖人が現れることになったのではないだろうか?
 さらに不思議なのが、「トルコ発オランダ経由スペイン行き」というルートである。
 聖ニコラスは現在のトルコ在住の司教だったとのことだから、サンタさんにもシンタさんにもトルコとオランダが縁のある地だということは分かる。サンタさん物語に「現住所トルコ」ってのはないけど。
 だが、シンタさんとなると、ここでスペインが出て来るのだ。何故スペイン?しかも、子供たちに「悪いことしてるとスペインに連れてかれちゃうよー」と言うための場所として。聞くところによれば、スペインというのは地上の楽園のような所ではないか。ゴハンはおいしく、風光明媚で、しかも午後は昼寝ができるのだ。うーん、ステキ。拉致されたい。旅費交通費はシンタさん持ちで。
 一説によると、オランダはスペイン王家に支配・弾圧されてきた長い歴史から、「スペインまじむかつく!」という伝統?があるのだという。なるほど、それならば納得。でも、現在はさして関係が悪いわけでもあるまいに、未だに「恐怖の地スペイン」としているのは国際問題とかにならないのだろうか?


 日本語表記は「シンタクラウス」「シンタクラース」「シンタクロウス」と多様だが、元の綴りは「Sinterklaas」。シンタさんについてより深い知識を得たい方は、是非オランダ語サイトをご調査いただきたい。そして、分かったことを私に教えてください。何だかオランダに興味津々です。
 現地にお住みの方の詳細な「シンタ・レポート」も勝手にご紹介させていただく。実に分かりやすいので、正直言って私の想像妄想入り混じった文章を読むよりずっと勉強になる。
http://nedwlt.exblog.jp/3188184/


 ところで、様々な「オランダ情報」に関しては、友人が私を騙している可能性もあるということを付記することで、オランダ関係各位の方にはお許しをいただきたいと思う。

うらねこの一年

kirindiary2005-12-29



 7月、うららは3歳になった。しばしば「猫の○歳は人間に換算すると○○歳」とか聞くが、はて3歳はどの程度になるのだろう?
 探してみた所、こんなページがあった。
猫の年齢の換算法〜斉藤式


 これによると、2歳から5歳の猫の年齢を人間に置き換える式は下記の通りである。
ネコの年齢 × 6 +15 → 3×6+15=33
 うおう、うららさんたらもう33歳なんですか!もう大人のオンナなのに、嫌いなゴハンにハンストして、ネズミのおもちゃにヒートアップして、遊んでほしい時は後ろから足にパンチしてきて、寂しくなると遠くからわおーんて鳴くんですか。気分が乗ると未だにカーテン登りして、足の裏の毛を活かしてドリフト走行して、キャットタワーにテッポウするんですか。大人のオンナなんだから、お姉さん座りして上品に毛繕いして、あとは置物みたいに鎮座してなくっていいんですか?
 こちらのサイトによれば、「生後1年で約15歳、2年で約24歳、その後は猫の1年は人間の約4年分に換算されます」とのことだが、この計算でも28歳である。
 この調査結果で私が得たものは、「猫の年齢を人間のそれに換算することに意味はない」ということだった。三毛猫うらら3歳。それだけのことだ。なんにせよ世界一。


 9月、うららは血便をした。便を採取した上でかかりつけの動物病院に赴くと、医師の診断は、1歳までに撲滅したはずのジアルジアとキャンピロバクター再発。投薬を続けて様子を見ることとなった。翌月に予定していたワクチン接種も延期である。
 また、その時に「フードは何をやってるの?」と尋ねられた。
 この病院では、猫にドライフードを「与えない」ことを推奨している。ドライフードに含まれる添加物や劣化した油脂が猫の健康に悪影響を与えると判断してこのことだ。胃腸が弱い個体には、消化しにくいこともよろしくない(逆に言えば、「腹持ちがいい」という長所としても挙げられる)。
 代わりに薦めるのが手作りフード(肉や魚)や、国産のウェットフード(缶詰やレトルトのもの)である。総合栄養食とか気にしなくていい。色々な食材を口にしてさえいれば、バランスは取れるものだ。人間だって、毎食完璧なバランスを考えて食事しなくても健康でいられるではないか。
 そんな訳で、通院し始めた当初はその通り国産缶詰フードを与えるようにしていた。しかし、うららはそれまでドライフードしか食べたことのない猫であった。湿っぽいフレーク状のゴハンを嫌がり、ハンストした。根性のない飼主は、いつの間にかドライフードに戻してしまっていた。そのため、この質問には非常に後ろめたい気分で答えることとなった。
「今は、ドライフードを……」
「うーん、ドライはねえ、この子には向かないと思うよ」
「出しても食べないので、ついドライに戻してしまって」
「目の前に食べるものがあるのに餓死するまでガマンするってことは考えにくいから、今度はちょっとおねーさんたちがガマンしてでも切り替えた方がいいよ。この子の腸の弱さは、ドライ向きじゃないから」
 帰途、レトルトパウチの国産キャットフードを数種類買った。使いかけのドライフードは廃棄した。久し振りで物珍しかったのか、病院行きのため断食していたせいか、うららは皿に出したフード(いなばCIAO)をぺろりと食べた。以降、彼女はドライフードを食べていない。何が気に入らぬのか時々ハンストするが、ドライフードはもうないので、人間も根負けしようがない。
 投薬と食事の変化に効果があったのか、便の調子は改善した。そして、フケがなくなり、毛ヅヤが良くなり、目やに・耳やにも消えた。下腹部に付いていた皮下脂肪も、触っても分からぬようになった。医師の見立て通り、うららにはウェットフードの方が向いているようだ。
 12月、延期したままだったワクチン接種をお願いすべく、再度病院を訪れた。便の再検査の結果、原虫も細菌も出なかったが、医師は「ワクチン、やめておきませんか」と言う。
「ワクチンはメリットもあるけど、リスクもある。この子の病歴とか、一頭飼いで外には出してないっていう状況とか、全部合わせたら接種しない方がいいと思う。どうする?」
 私と家人は顔を見合わせて考えた。うららは、「しなくていい、しなくていい」という顔をしていた(よーな気がする)。結局プロのアドバイスを聞き、今年はワクチンをやめておくことにした。うららは安心した顔をしていた(よーな気がする)。(ちなみに、その日の料金は¥0だった。つくづく良心的な病院である。)


 最近、うららは少し変わった。枕元で添い寝してくれるようになるなど、人間の見える範囲にいる時間が増えた。少し甘えん坊になったような気がする。家人が言うには、時々彼の寝ている布団の中に入り、頭だけ出して眠っているのだそうだ。信じないぞ、そんなうらやましいこと。だが、私自身も新たな変化を目撃することとなった。
 先日、うららはリビングのソファで眠っていた。私はNHKの動物番組を見ながら水仕事をしていた。「知床のハクトウワシ」の映像が流れるのを眺めていると、視界の端で何かが動く。見ると、いつの間にか目覚めたうららが、TV画面を見据えて尻尾をパタパタしている。あ、あれは獲物(動くもの・おもちゃ)を狙うポーズ!
 瞬間、うららはTV画面に飛びつき、はばたくハクトウワシパンチ!パンチ!パンチ!フレームアウトした鳥を追ってTVの上に飛び乗り、上から画面をパンチ!パンチ!パンチ!ああ、液晶TVじゃなくて良かった……。
 番組はじきに終了したが、うららは未練がましく続いて始まったニュースのテロップなどを叩いていた。しかし、ヒューザーの社長が映ったら、ぷいとどこかへ去って行った。お好みの獲物ではないらしい。
 今までTVの映像に興味を持ったことなどなかったのに、突然のこの「進化」。やはり、世界一の猫とはスゴイもんである。その内リモコン操作し始めるかもしれん。


 今年は色々あった。難儀だったこと、しんどかったことでは、うららの存在に大いに慰められた。嬉しかったこと、楽しかったことは、うららがいてくれたからその喜びが倍になった。私たちは未熟な家族ではあるけれど、うららがいることである種の結束を得ることができた。それは、来年人間が一人増えても変わらないと思う。
 世界一の三毛猫に、深く感謝する年の暮れ。

ジーヴズの事件簿 P・G・ウッドハウス選集1



 最近読んだ「北村薫のミステリー館」に、北村薫宮部みゆきの対談が収録されていた。
photo
北村薫のミステリー館
北村 薫
新潮社 2005-09
評価

街の灯 紙魚家崩壊 九つの謎 ニッポン硬貨の謎 法月綸太郎の本格ミステリ・アンソロジー ミステリ十二か月

by G-Tools , 2006/10/13



 主に、このアンソロジーに収められた作品に触れる内容だったのだが、会話の中で宮部氏がふと本書の名を挙げた。
「『ジーヴズ』を読んで、自分の中に従僕願望があるのに気付いた。」「ダメなご主人様に一所懸命仕えて何でもやってあげたい―という家令・執事願望。」
 うーむ、私にも同じような傾向がある。宮部氏はこの後「夫婦では意味がない。あくまで職業としての願望(メイドさんもいいな♪)」と続けているが、私は夫婦でもいい。ウォーレン・マーフィ描くところの「トレース」シリーズでのチコとトレースのような関係もいい。相手が「ダメ人間」である必要はないが、自分が「役に立つヤツだ」と思われたいのだ。つくづく褒められたがりの犬型性格である。
 そんな訳で、「完璧な従僕」ジーヴズとお知り合いになるべく本書を手に取った。以前の翻訳では「ジーヴス」となっていたものが選集として新たに翻訳されたもので、まっさらのぴかぴかである。緑色の装丁も気に入ったが、才気煥発で生意気な(センスのいい)ジーヴズ氏も好きになった。うーん、私にもこういう「お供」が欲しい……と、いつの間にか読み初めとは逆のポジションを望んでいる自分に気付いたりもするのであった。


 物語の舞台は、19世紀のイギリス。主人公兼語り手のバーティ・ウースターは、食うに困らぬ生まれと財産で我が世の春を謳歌する「バカぼっちゃん」である。幼時より頭の上がらぬアガサ叔母には「ふにゃふにゃの軟体動物」と罵られるのが常で、派手で悪趣味な服と賭け事全般に目がないという人物である。女性にも弱いのだが、そちらの面では親友のビンゴ(慢性的一目惚れ症候群)が比較にならぬバカをやらかしてくれるので余り目立つことはない。
 そんなバーティにはもったいないほどの従僕がいる。その名はジーヴズ。前出のアガサ叔母に言わせれば、「ジーヴズはバーティの飼い主」である。悪趣味な色の靴下やカマーベルト、目がチラチラするような柄物のシャツや上着を遠ざける努力をするだけでなく、バカぼっちゃんの起こすであろう&既に起こしたトラブルを解決もしてくれる。ただし、ジーヴズの気が向いた時だけ……。
 ご主人盲愛のドレイではない、きちんとワガママでそれなり利己的なジーヴズが、喧騒のロンドンやのどかな英国田園地帯、さらにアメリカはニューヨークでも才気を働かせて問題に対応する。その手段は時にヒキョウですらあるが、いずれもにやにやと笑わずにはいられない。
 英国製コメディがお好きな向きには、訴える力が強いと思う。是非、お試しあれ。

サンキュー



 さて、年明けから「産休」である。しばらくは朝五時半に起きてめざましTVを見る必要もないのね。中野美奈子の、アナウンサーとは思えぬカミカミ具合に茶々を入れることもないのね……と感慨深い思いである。


 「産休」は労働基準法65条で次のように定められている。

(1)使用者は、6週間(多胎妊娠の場合にあっては、14週間)以内に出産する予定の女性が休業を請求した場合においては、その者を就業させてはならない。
(2)使用者は、産後8週間を経過しない女性を就業させてはならない。ただし、産後6週間を経過した女性が請求した場合において、その者について医師が支障がないと認めた業務に就かせることは、差し支えない。



 つまり、産前については、本人が希望しなければ休暇を取る必要はない訳だ。(産後は逆に6週間までは就業してもさせてもいけない。)私とて、今のところ体調に問題はないし、規則正しい生活に助けられる側面もあるので、まだ働こうと思えば可能だろう。しかし、(1)休みたい (2)のんびりしたい (3)無理して何かあったら会社も気まずかろう ということで、しっかり休むこととした。
 出産後は、「出生した日から子が1歳に達する日(誕生日の前日)までの間」育児休暇となる(「育児休業、介護休業等育児又は家族介護を行う労働者の福祉に関する法律」)予定のため、一年以上職場を離れることとなる。不安要素は山盛り(私がいない間にあの人がこんなことしちゃったらどうしよう・会社がこれ以上傾いたらどうしようetc.)だが、まあ産んじゃったらそれどころじゃないし、就業しないからって「バケーション♪」って訳でもないし、何よりもおそらくあっと言う間に過ぎてしまうのだろう。
 ちなみに、産休中は標準報酬日額の60%、育休中は休業した一月について休業前賃金の30%が健康保険から支給される。会社のハラは痛まないんだから、休業前にどーんと賃上げしてほしいもんだが、私のせいで健康保険制度が崩壊すると悪いので今回は遠慮することとする。


 それにしても、(予定通りに行けば)一人でだらーっとする最後の機会である。家に引き篭もっていても太るだけだし、何か有意義に過ごさねばなあ……と思っている。摂取カロリーは家にいる時間に比例するのだ。食欲は怠惰を凌ぐので、例え菓子類を備えていなくても、今の私ならパンだのケーキだのを自作してしまう可能性が非常に高い。てゆーか先日はアップルパイを焼いてしまいました。せめて甘さ控え目に……とレシピを無視して作ったら失敗しました。責任を取ってほとんど全部自分で食べました。台所を封印した方がいいかもしれません。
 そんな訳で、できるだけ外出する予定である。だが、ここは一つ冬山を踏破しよう!とかは無理なので、自然選択肢は限られてくる。許されるのは、おしとやかな動きだけだ。せいぜいがとこ、妊婦体操程度だろう。あーあ、スキーに行きたいなあ。今年の雪は具合よろしいだろうなあ。皆さん、私の代わりに滑ってきてください。
 また、妊娠10ヶ月ともなれば(予定日前であろうが)いつ産まれてもおかしくはない。遠出した先で産気付いては、自分もタイヘンだろうが他所様にもとことんメイワクである。当然、外出しても自宅の近所にとどめねばなるまい。
 しかも、外出するとしたらその目的は「運動&時間つぶし」である。食べ物がある場所には行けないという縛りも発生する。
 そんな時、私はどこに行くべきか。今候補として考えているのは「図書館」である。最寄りの館ではなく、少し遠い方へ歩いて行って、受験生に混じって英語の勉強でもしようかな。飽きそうだけど……。


 図書館は月曜が休館日である。また、天候によっては外出できぬ日もあろう。それに備えるため、家で集中できる暇つぶしも考えている。
 まずは、塗り絵である。知らなかったのだが、流行っているのだそうな。特に、お年寄りの間で、ボケ防止に……まあ、ボケ促進じゃないんだから私がやって害があるというものでもあるまい。




 お蔵入りになったままの水彩色鉛筆を使う絶好のチャンスである。猫が妨害作戦を敢行する恐れはあるが……。
 しかし、私の浅知恵はこの程度のことしか思い付かない。何か有意義なアイデアをお持ちの方がいらしたら、ぜひぜひアドバイスいただきたい。食べ物関係以外でお願いします。

クリスマスにはヴァイオリンを



 私は音痴である。絶対音感がないのは当然として、楽譜を見てメロディーを取り出すことができず、ポーンと一つ鳴らされた音を聞いてもそれがドなのかファなのかの区別もできない。正直、全部「ド」に聞こえる。楽器も何一つ演奏できない。カスタネットとトライアングルですら自信がない。しかし、音楽を聴くのも歌うのも好きだ。家人はやめろと言うが、口笛を吹くのも大好きだ。お気に入りの曲は「ジュラシック・パーク」のテーマと、賛美歌94番(「久しく待ちにし」)。好きな楽器はトランペットとパイプオルガン。つまり、音痴な素人なりに音楽を楽しんでいる。(「音楽」っていい言葉だ。)


 ど素人としてかねてより持っている疑問は、演奏の優劣は作品の質を左右するのだろうか?ということである。つまり、ある曲を聴いて「スバラシイ」と感じたとして、それは曲自体が良いからなのだろうか?それとも、演奏者が優れているからなのだろうか?もしくは、その両方が高レベルでないと達成し得ないものなのだろうか?
 何せ、粗末な耳である。あからさまにヘタなのはともかくとして、一通り「曲になっている」場合には、巧いヘタの判別ができない。デビュー当時の中島美嘉の歌は常に半音ずれているように聞こえたが、そうだよねーと言う人もいれば、それが素人の浅はかさと言う人もいて、やはり自分では自信がない。武田真治のサックス演奏は耳が腐ると言う人もいるが、そうなのか?と思って聞いても私の耳は無事である。とりたててカンドーもしないが。CDショップのポップに「奇跡の新人」とか書かれていても、その演奏家が他の演奏家とどう違うのか分からない。確かに美しい音だけど、それって個人の才能なの?コンディションの良い楽器や、優れた楽曲のおかげではないの?前衛音楽を聴くと時に不快になるが、それらに対する社会的評価は決して低くない。分からん。うーん、誰か私に文明の光をあてておくれ。


 そんな私にはもったいないことではあるが、ひょんなことで友人からコンサートのチケットを頂戴した。「川畠成道&東京交響楽団のメンバーによるクリスマスチャリティーコンサート2005」。
 不勉強な私は知らなかったのだが、この川畠さんという人は、今非常に人気のあるヴァイオリニストなのだそうな。幼い頃にほぼ全ての視力を失い、その後ヴァイオリンを始めたという数奇な人生を送られている方でもある。
 主な演目は、ヴィヴァルディの「四季」。おお、奇しくも私の好きな曲ではないか。「冬」の第一楽章と第二楽章が特に好きなのだ。友人に深く感謝しつつ、クリスマスイブの午後、家人と共に会場へと赴いた。
 場所は、神奈川県川崎市にある「ミューザ川崎シンフォニーホール」。去年の夏JR川崎駅前にできたばかりの、きれいな建物である。入ってまず目に付いたのが、地上階の中央部に形成された長蛇の列。コンサート入場者が並んでいるのか?と仰天したが、幸いにも同ビル内で行われている「福引」に並んでいるだけであった。それにしても、福引であそこまで大勢の人々が並んでいるのは初めて見た。何かとてつもない景品があるのだろうか?
 コンサートホールは「コロッセウム型」とでも言うべきすり鉢状で、中々面白く美しい造りである。ステージは低めで、客席からは目の高さから見るか、見下ろすかのどちらかで楽ちんだ。ステージ後方には高い天井までを覆いつくす巨大なパイプオルガン(残念ながら今回のコンサートでは使われないのだが)。椅子は座りやすく、室温も適度。うーん、快適。よく寝られそうだ(おい)。
 しかし、肝心のコンサートではほとんど眠ることなどできなかった(「夏」と「秋」を聞くといつも眠くなるので、そこではうとうとした)。すばらしかったのだ。前述のように音痴を標榜している私が言っても説得力に欠けること甚だしいが、私の主観ではすばらしかったのだ。二部構成になっており、第一部で競演したアレクサンドル・シトカヴェツキーとの連弾(って言うのか?)では、同じ楽器でも音色の違いを表現できるのか!という驚きを味わうことができた。また、立ったままヴァイオリンを弾き続ける川畠氏の様子はダンスのようで、その体力にも思わず感心してしまった。だって、観客も交響楽団も全員座ってる中、一人だけ一時間以上立ってるんだよ。
 巧いヘタは分からないままだったが、充分すばらしいと感じられる演奏を堪能した。たぶん、そういうことを理解するにはもっと「勉強」が必要なのだろう。しかし、分からなくても楽しめるし、実際のところ理解よりそちらの方が大事なのかもしれない。
 二時間近いコンサートの余韻に浸りつつ会場を出ると、地上階にはまだ福引を待つ長蛇の列が消えぬままだった。こちらの方は、何がそこまで人々を惹き付けるのか理解したいような気がした。

TITLE「完全無欠のミステリー!全280冊」

kirindiary2005-12-24



 家人が「おみやげ」で買って来てくれた雑誌である。「年末年始に読みたいミステリー大全」という副題が付いている。そうそう、年末年始は大掃除よりもおせち料理よりもミステリだよね。当然、購入者はそれを承知してくれているに違いない。大丈夫!ちゃんと用意してあるから(ミステリだけは)。本人は全く中身を見ていないようではあるが……。


 さて、この雑誌は初めて拝見したのだが、今回の特集に限って言えば、実に「私好み」である。つまり、私って実に標準的なミステリ読者なのだろう。私を基準として、「ミステリ子午線」を作ってもらっても構わないくらいだ。
 まず、特集冒頭の恩田陸の文章(「成熟と回帰」)にある、「『作者の自己表現のため』の小説に振り回されるのはやめて、お客に木戸銭分の価値を約束する、プロの書いた面白いミステリを読もう」という呼びかけに深く頷きつつページをめくる。すると、偶然にも今年(いつもよりは)大目に読んだ東野圭吾と、今年出会えた最大の「収穫」である伊坂幸太郎、そして我が愛するどんでん返し作家ジェフリー・ディーヴァーのインタビューが続いている。この面子なんて、正に私好みではないか!ここに書かれた本人の言葉を見ると、なるほど共感するものが多い。三人に共通するのは、先に上げた恩田陸の言葉と同じ「読者を楽しませようとしている」ということである。彼等は一流のエンターテイナーたろうとしているのだ。これこそ、私の最も求めるものである。
 また、続く「ミステリー通37人が選ぶ『マイ・ベスト』 このミステリーもすごい!」も興味深い。各界の有名人・無名人(私が知らないだけ)が、それぞれのこれぞと思う三冊を挙げるという企画である。出版年やジャンルを問わぬセレクションを許したところが興を増している。
 「修道士カドフェルシリーズ」(エリス・ピーターズ)から三冊全てを選んだ竹内海南江(世界不思議発見)、恐ろしく男っぽいチョイスの児玉清、私も大好きな「時の娘」(ジョセフィン・テイ著・小泉喜美子訳)を選んでいる久世光彦、選択が重なっている光浦靖子鈴木紗理奈……選択や解説に見る個性に、親近感を覚えたり、意外性を発見したり、こうやって集められたものを見るって面白いものだなあ。
 この他にも、書店員が選ぶ今年のベスト10や、ライトノベルの「本格化」についての分析、「松本清張ミステリーツアー」などの企画が続く。うーん、ぎゅうぎゅうである。


 普段は作品そのものしか楽しまないけれども、たまにはこういうのもいいね……と思えた「おみやげ」であった。

優先席



 先日、帰途の電車で(他に席がなく)優先席に座った。JR東日本の優先席には、「妊婦にも席を譲ってやれや」と表示があるので、今だけ特別堂々と座れるはずなのだが、何故か使用するたびに後ろめたさを感じる。おでこに「妊」とか書いておこうか、いや「肉」の方がもっと気の毒そうに見えるだろうか……とか余計なことを考えてそわそわしてしまう。そのため、他に空いている席があれば迷わずそちらを使うようにしている。


 さて、その日の私は車両連結部分に隣接する三人掛け優先席の端に座り、一心不乱に読書していた。ふと気づくと、私の降車駅の一つ手前の駅で停車する所だった。同じシートには、70歳程度の男性と、60代と思しき女性が座っていた。それなりに混雑しており、優先席の前にも三人の中年男性が立っていた。
 ドアが開き、乗降の人々が入れ替わり、乗車率が少し上昇した。すると、その駅から乗り込んだ一人の女性が、私の座る優先席前に立つ男性を押しのけて吊り革を掴んだ。年の頃は24、5歳だろうか。少し目の辺りがきついが、色白で可愛らしい顔立ちである。割り込まれた形になった男性は、無言で連結部まで下がった。彼女のお腹は大きく膨らんでいた。
 ああ、この妊婦さんも座りたいから優先席に来たんだな、と分かったが
(1)私は次で降りる
(2)動いている電車内で立ち上がりたくない
ので、ちょっと待ってね、の気分でいた。どこぞの特急路線と違い、この辺りの一駅区間に要する時間はものの数分である。
 しかし、再度(何かが気になり)顔を上げると、彼女が私を睨んでいる。元の顔立ちがきついのではなく、きつい表情になっているようだ。そりゃもう凄く睨んでいる。足も踏んでいないし、いい具合のくさやを持ち運んでもいないし、今読んでいる本に「バーカ」と書いたカバーをかけてもいない。確認OK。でも、不思議そうな表情を作って彼女とアイコンタクトすると、激しく睨み返してくる。ど、どうしたんだ?記憶にないけど、私はあなたの親の仇ですか?数秒の後、彼女は顎を上げて話しかけてきた。
あの!
「ハイ?」(何だろう、ドキドキ。)
ここ、優先席なんですけど!分かってて座ってるんですかっ!


 そういうことか!そうかそうか、私があんまりにもスリムなもんで(?)、普通の若い女が図々しくも座りやがってコンチキショーメと睨んでいたのか。(多分、膝の上に置いたバッグが私のハラを隠していたのだろう。)はっはっは、うい奴よのう。彼女の突撃一番槍!みたいな勢いと勘違いに笑ってしまい、私はすっかり心が広くなってしまった。
「あー、私もニンプなんです。」(自分のハラを触りつつ)
「えっ……」
 顔色を失う彼女。しかし、私の隣に座っていた女性は、あからさまに「何じゃこのクソ小生意気な小娘は!」という顔をして、即座に席を立ってしまった。さっきまで睨んでいた彼女は、今やすっかり恥じ入り、しかし私の隣に空いた席に座った。
「すいませんでした……私、ホントウに……申し訳ありません……恥ずかしいです……」
 と、ちょっとオタクっぽい口調で謝り続ける彼女。いいのよ〜、と鷹揚に流しつつ降車する私。気分は何故かお大尽。他人のミスは蜜の味。自分の心が海より広いように思えて、恐ろしく気分がいい。我ながら安上がりである。


 彼女の気持ちの分からぬでもない。きっと、今までに何度も優先席を譲ろうとしないワカモノに遭遇し、腹に据えかねていたのだろう。だからって「この人はただの(スリムで美しい)人じゃなくて、どこか座るべき理由を備えているのかもしれない」と想像するココロを失って、突進しちゃいけませんが。
 最近、こんなこともあった。
 その日は、朝病院に立ち寄ってからの出勤だった。10時前の電車は混んでおり、私は一抹の希望を抱いて優先席の様子を見た。片側のシートには、三人の眠れる老人。もう一方には、一人の眠れる老婦人と、ヘッドホンをつけた二人の眠れるワカモノがいた。おお、ワカモノよ、目が覚めたらゼヒゼヒ私に席を譲っておくれ……と思った私は、彼らの前に期待しながら陣取った。
 ワカモノAは出発後二駅目で目を覚まし、私を見た。そして、ポケットに入れていたipodを少し操作した後、再度目を閉じた。ワカモノBも、その数駅後で同じような動作をしてまた眠った。連動式のワカモノ達なのかもしれない。まあ仕方ない。できたら座りたいだけだ。(楽をしたいというよりむしろ、急ブレーキなどで転びたくないのだ。)
 しかし、ここで予想外の出来事が起こった。端の席ですやすやとお休み中だった老婦人が目を覚まし、私の袖を引くのである。
「あなた、お座りなさいな」
「!いえ、とんでもないことです!」
「まあまあ、私ね、産婦人科なの。プロの言うことは聞かないとね」
 何という説得力。それにすぐ降りるのよ、という彼女の言葉に甘え、私は席を譲っていただいた。ありがたさと形容しがたい恥ずかしさで、何故か涙が出そうになって堪えた。ワカモノ二人は一生懸命寝ていた。


 以前にはこんなこともあった。
 数年前の勤務先に、ちょっとふくよかな同僚がいた。うらやましいことに、ムネも大きい。ある日、彼女が電車で立っていると、前に座っている男性がにこやかに「どうぞ」と席を譲ってくれる。なんで?と戸惑う彼女は、数秒の後に気付いて言った。
私はニンプじゃありません
 その日、彼女の服装はAラインのワンピースだった。


 という訳で、電車の中、優先席の前に立つニンプには、できたら席を譲ってやってください。お願いします。
 優先席から離れて立っている女性は、どのように見えても多分大丈夫です。ちょっと様子を見てください。